邪馬台国畿内説は、
1000キロメートル程も離れた陸続きでもない地層を、幾つもの併行関係という物事で、年代を恣意的にずらしながら、細々と繋げることが、絶対年代を決定する証拠なのだ、という非学問的な嘘をつき、
さらには、一般の科学的学問の手法としては、完全に破綻してしまった要素還元主義に基づき、近畿第V様式土器の埋まっていた範囲が邪馬台国なのだ、とする、完全に非科学的な妄想なのだったな。
>>1
一部の、古ぼけた物事を好む学芸会の者達が、
「最近、数年来、宇宙線の観測が、劇的に進行し、千数百年間、巻向にも数限りなく降り注がれた、破天荒に強大な空気シャワーに含まれる、想像を絶する数量の、中性子が、地表付近の桃の種や壺の吹きこぼれを構成する炭素の同位体比率を激変させる可能性を明らかにし、完全に破綻してしまった炭素年代法」という、炭素についての物事を売り上げる者達に、騙され踊り、最後には、笑われ者になってしまい、
さらには、近畿第V様式土器という謎の物体を売り上げていた、大昔のほんの一部の要素でしかない者に、勝手に騙されてしまっていたのだったね。 魏志倭人伝には、卑弥呼の塚の大きさは書かれていません。
邪馬台国畿内説は、「魏志倭人伝に、卑弥呼の塚の大きさが書かれているのだ。」という、漢文を翻訳出来ない者の、出来栄えの悪い脳に出現した妄想です。
大いに鬘を売る。
径、100余歩に、並待者、禿げ、100余人(その100余人分の鬘を売ったのだ。)。
大いに塚を作る。
径、100余歩に、殉葬者、奴婢、100余人(その100余人分の塚を作ったのだ。)。
神仏習合源平藤橘
南天北嶺衛兵寺
臨済宗高級武士
天皇含め全方向武士クソワロタwww
>>5
魏志倭人伝の作者は、別の文章で、
大作海船
と書いたが、
大きな海船を一隻作ったのではなく、
海船を四つの州で、たくさん作ったことを、
書いたのだったな。
詔青兖幽冀四州大作海船。
大作塚。
徑百餘步徇葬者奴婢百餘人。
大いに塚を作る。
径、100余歩に、殉葬者、奴婢、100余人(その100余人分の塚を作ったのだ。)。 じゃあ文学的に「畿無い説」を説いてみよう。
魏志倭人伝における謎の水行陸行は「帯方郡から女王の都までの行程概要」を重複記載してしまったと考えれば解決できる。
■基本的に魏志倭人伝の構文解析が最優先課題である
同じ内容で使われる文字が変化したり、奴国の紹介が重複していたり、距離が里から日に変わるなど、
魏志倭人伝は過去の記録を引用しつつ、新たに得た情報を大雑把に追記する形式で構成されている
■中国に伝わる古い伝承記録から書き写した部分
・帯方郡(ソウル)から南→東と海岸沿いに水行し狗邪韓国(釜山)までの距離が約7000里
・対馬→壱岐→北部九州上陸までの合計が約3000里
・上陸してから伊都国までが陸行およそ500里
・奴国、不彌国までがそれぞれ約100里
・陳寿は単純に帯方郡から女王の都までの総距離を合計12000里と見積もった
参照した記録資料の1里は75mだったが、陳寿は1里=435mの認識だった(例 会稽東冶の東)
■卑弥呼時代に朝貢に来た倭人による行程説明を追記した部分(日数表記の記録)
@帯方郡から(記載漏れ?)
A南に船で20日→投馬国(任那、伽耶、狗邪韓国など)
B南に船で10日→邪馬台国(北部九州=女王国)上陸
Cまず伊都国に駐留し、女王国の入国許可を待つ
D倭人か客人の到着を女王に知らせに行く
E女王の使者が迎えに来る
F迎えに来た護衛とともに女王の都へ
■考えられること
・中国人と倭人との意思疎通は完全ではなく、誤解は日常茶飯事だった
・陳寿は倭に関する古い情報と新しい情報の関連性がよく理解できていなかった
・倭人による船で移動する行程の説明を中国は「水行」と記録していた
・倭人は対馬海峡を挟んで半島側を投馬国と呼び、北部九州側を邪馬壹(臺)国と呼んでいた
・倭人は距離単位の「里」を知らず「日」を使って表現していた(隋書倭国伝に記載あり)
・陸行一月とは、女王の都に到着するまで(C〜F)に一か月を要するという意味である 武士道とは、
死すことと見つけたり
神と天皇と日本のために、
戦って死ぬことを覚った言葉な
文学部的にも、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだね。
そうすれば死後、
神界、天上界に行けると、
確信した言葉な
>>11
縄文時代に書かれたものと思われる古代文字を解析したら、鎧を着て剣を持って戦えという文章だったらしいよ 魏志倭人伝では、繰り返し、繰り返し、「壹與」と記録された人物が、
奥山氏が邪馬台国畿内説の根拠としている後世の中国の文章では、「臺與」に変換されてしまっていることは、
重大な物事だね。
中国人は、意味ではなく発音記号として使用する文字を、試行錯誤したのだが、
そもそもの邪馬壹國を邪馬臺國と変換した全ての原因は、
発音についての推測からではなく、
後漢書の作者が、5世紀の大和王権のことを伝え聞き、魏志倭人伝の九州の邪馬壹を畿内の邪馬臺の誤記なのだと邪推したことであり、
邪馬壹國を邪馬臺國と変換してある後漢書を読んだ者が、邪馬壹國や壹與と書かれていた魏志倭人伝と読み比べ、
「魏志倭人伝時代の後から5世紀以前には「壹」の字の発音が変化し、魏志倭人伝時代の「壹」の発音は、「5世紀以降の壹の字の発音」とは異なり、「5世紀以降の臺の字の発音」と同じ発音だったのだ。」
と誤認し、
魏志倭人伝で倭人の固有名詞の音を表す文字である「壹」の字が、正確な発音としては時代遅れになったと考え、全て「臺」の字に変換してしまった可能性があるな。
梁書、、、629年 祁馬臺 臺與 「其後復立男王並受中國爵命」
隋書、、、636年 邪馬臺
案今名邪摩惟音之訛也。李賢。唐。。。676年
太平御覧魏志曰、、、、977年から983年 耶馬臺 臺舉
スレッドに、「邪馬台国畿内説は、正しいのだ。」という立場の研究者が、一人も、出現しないな。
もう、
日本人が応援していいプロ野球球団は、
近鉄と南海と阪急だけな
それ以外、なにがあるんだよ
>>16
この「大学学部・研究」掲示板には、脳に異常がある者が、一人も、いないからではないのかな。 魏略では女王国、
広志では女王(国)、邪馬嘉国
そして両者とも行程に「水行〜陸行〜」の文字は無い。
参考)翰苑(第30巻のみ大宰府天満宮に残る:唐の張楚金の編纂)
が引用している「廣志」に、邪馬台国の場所が記されている。
邪は伊都に届き、傍らは斯馬國に連なる。
廣志曰く、倭国東南陸行五百里、到る伊都国,又南、至る邪馬嘉(臺)国。
西晋時代の邪馬台国は九州である可能性の方が圧倒的に高い。 心言にしちまったら、
身口意の、
口って、
なんだ?
空海なんか言え
思ったこと書いていいからな
礼節ある文章ってことは、
頭でやっている。
邪馬台国畿内説が完全に破綻してしまったことを、隠すために、スレッドを荒らしているID:LRhbHK7Yが、奥山氏だな。
今は、
アースシェイカーから、
バクチクの流れです。
横田が機材を使って
俺に乗っかってるだけのようです
俺はいるようです
あれ?
27は、俺のレスじゃないよ?
俺の過去レスが、
なんで書かれてるの?
統一教会の、
横田が、
このスレを監視しています。
横田は、
ID:LRhbHK7Yを逮捕するために、
祭祀統一教会に入信したそうです
邪馬台国候補となる条件(仮)
・実際には完全に間違えだったことが判明した、「方形周溝墓があったのだ」という早とちりの誤認と同時に、「溝との切り合い関係があるから、観光用の着ぐるみのモデルとなった卑弥呼の時代の物体なのだ。」と発表された「穴の跡」がある。
・ジグザグに掘り進められた深さ2mの溝がある土壇場の上で、卑弥呼は桃とカエルを食いながら木の面をつけて全裸で踊っていた。
・おそらく方形で、数十センチメートル程の深さに掘削された、5世紀末以降に出現した「SX-1002」と完全に平行に隣接し、「SX-1002」との関係性が強く疑われるが、
謎の勢力に、謎の勢力が作製した観光用の着ぐるみのモデルとなった卑弥呼の時代である3世紀前半に立てられたのだ、と断定されてしまった「建物C」の痕跡が発見された。
・時速6kmで通勤途中の女に抜かされながら、中国人が、難波から1月かけて辿り着く。
・カエルの骨は溶けないが、鉄は溶ける地域である
・魏志倭人伝時代が終わった後に吉備から西日本各地に伝来したが、庄内式と名付けられたので、「畿内から九州に伝来したという誤認をされている」土器が埋まっている。
・中国から飛んできた砂よりも軽い花粉が発見される。
・中国の骨董屋で売りに出された鏡と同じ4世紀の国産鏡が4世紀以降の古墳に埋まっている。
・火星との交易が盛んだった地域である
・人民の住居がない。
・対馬の真東にある。
・古墳を積み上げる土方のための大下水道がある。
・布留式という式の土器の時代に5世紀の馬がいる。
・最初に、相撲が始まった地域である。
・4世紀に朝鮮半島で捕獲、連行された馬によって積み上げられた前方後円型の物体がある。
・奴隷の死体を乗せる4世紀の埴輪が、発見できた。
・冬は大雪だが、一年中、裸足で駆け回り、一年中、生野菜が食べられる。
・卑弥呼の着ぐるみに自治体の予算が出る。
・自治体が自称考古学者に給料を払う。
・自治体が観光を活発化しようとして財政が破綻寸前。
・若者達が、自治体の方針にうんざりしているだけではなく、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎることや、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎる割には、教育水準が高まらないことに不信を抱き始めている。
・奥山氏の鬘は、海外交差編年のように、ズレる。
おかしな日本文書くやつは、
全レス、
統一教会信者で、
アメリカ国スパイの、
横田の書き込みと思ってください。
おや?、テスト投稿が出来たね。
邪馬台国畿内説スレの
「901 名前:日本@名無史さん 2021/03/30(火) 14:34:23.97
他の5ちゃんねるの掲示板に、日本史の掲示板に投稿できなくなってしまった者達が、
交流できるスレッドが、出現したので、紹介します。
文学部 邪馬台国畿内説
http://2chb.net/r/student/1617076685/l50
投稿しづらくなってしまった可能性の高いザラコク氏も、利用すれば良いよ。」さん、
有難う。
何せ、PCカフエを渡り歩いて投稿して、どこから投稿しても、
「ERROR: 余所でやってください。[history]
問い合わせID: lav/637f1927af3a0a24
ホスト:219.115.225.45
名前: 日本@名無史さん
E-mail:
内容:
テスト投稿」
とされて、5チャンネルの投稿拒否されていたからな。 どうも、
レプタリアン、
トカゲ人種は、
本当にいるみたいだな
悪霊界、
魑魅魍魎の住所は、
つまり、地底。
今まで、発見されなかったろ?
イース1か2の、
画面の外枠に、
見事に描かれている。
TVゲーム、PCゲームというのは、
伝記伝承を踏まえて作られているので、
真実が描かれたゲーム。
土星どん!土星どん!
光を超え闇を超え
4次元空間を!
行け!行け!行け!
トカゲ戦隊 土星どん!
海王星にも、
偽善者、エセ宗教家、エセ学者、易者などが行く、
地獄があります。
文鮮明や、池田大作は、ここ。
世界的禁煙律法は、
つまりこれ。
はじめて禁煙律法を制定した、
ニューヨーク市。
ワールドメイト開祖、
植松愛子は、
チェーンスモーカー。
これで、観念外れた?
昔、日本テレビで、
V ビジターという映画ドラマがやっていた。
トカゲ人間を追い詰めるというドラマ。
ザラコク氏へ。
ザラコク氏の意見は、できる限り、日本史板へ、転載します。
ただし、僕達も、投稿しづらくなっているので、失敗する可能性もあるよ。
さっき、
創価の女が二人、
たかってきたので、
俺は左利きだから、
背中に一発ずつ、
左アッパーカットをお見舞いしてやった。
精神病患者という扱いだから、
刑法で裁けない。
それから、今度、
妻の、平氏の父親から、
長木刀をもらうことになってる。
東かがわ市の白鳥神社(しろとり神社)訪問を期に、『常陸国風土記』に見える倭武天皇について考えてみました。この倭武天皇を通説ではヤマトタケルとしていますが、天皇ではないヤマトタケルを倭武天皇とするのもおかしなことですが、その文字表記も『日本書紀』の「日本武尊」とも『古事記』の「倭建」とも異なり、記紀よりも僅かですが後(養老6〜7年頃)に成立した『常陸国風土記』であるにもかかわらず、記紀の表記とは異なる倭武天皇としていることから、 『常陸国風土記』編者は記紀以外の伝承記録に基づいたと考えざるを得ません。
そうであれば、『宋書』倭国伝に見える倭王武(倭武=国名に基づく姓+中国風一字名称)の伝承記録、すなわち九州王朝系記録に倭武天皇とあり、それに基づいて『常陸国風土記』で倭武天皇として記録されたのではないでしょうか。
更に言えば、当時の九州王朝の国王は「天皇」を自称していた可能性もありそうです。この時代、九州王朝は中国南朝の冊封体制に入っていましたから、「天子」を自称していたはずはありませんが、「天皇」であれば中国南朝の天子の下位であり、問題ないと思われます。とすれば、『日本書紀』継体紀25年条に見える「日本の天皇及び太子・皇子」の百済本紀の記事も、このことに対応していることになります。
倭武天皇の活躍と『宋書』倭国伝に記された倭王武の軍功の対応も、倭武天皇=九州王朝倭王武説を支持するように思われます。従って、各地に残るヤマトタケル伝承をこうした視点から再検証する必要を感じています。たとえば、「阿波国風土記逸文」に見える「倭建天皇命」記事や、徳島県には倭武神社もあるようで、興味が尽きません。
別に、
やくざになってもいいんだぞ。
菅義偉の事務所襲撃してやるよ。
そんときはな。
あ、当然、
横浜市南区蒔田の、
創価学会集合所は、
襲撃するからね。
やくざになったらね。
俺、将来、
一人暴力団作ろう。
名前は、
凄ノ王神。
通報してくれて結構。
俺は精神病患者だから、
捕まらない。
今しがた、
カッターナイフを買ってきた。
木刀と、カッターは、
不法所持にあたらない。
襲われたら、
頸動脈、
右手首、左手首、
右脈、左脈、
両目を、
順不同で切り裂こう。
襲われたらな。
正当防衛。
稲荷ぎつね朝鮮人は、
カッターナイフの、
キロロロ、キロロロっていう、
音が嫌いなようだな。
ビビってる。
レベル11
東京大(理?)、京都大(医)
レベル10
東京大、京都大、国公立大医学部
慶應義塾大(医)
レベル9
一橋大、東京工業大
レベル8
北海道大、東北大、名古屋大、大阪大、神戸大、九州大
早稲田大(政経・法・文・各理工など)、 慶應義塾大(経済・法・理工など)、私大医学部
レベル7
筑波大、東京外国語大、お茶の水女子大
早稲田大(人間科学・社会科学・国際教養など)、 慶應義塾大(SFCなど)、上智大
レベル6
千葉大、首都大学東京、横浜国立大、電気通信大、東京農工大、新潟大、金沢大、広島大、岡山大、熊本大、長崎大、名古屋工業大、
名古屋市立大、京都工繊大、奈良女子大、大阪市立大、大阪府立大、神戸市外国語大 など
東京理科大、中央大(法)、関西学院大、同志社大
レベル5
小樽商科大、弘前大、群馬大、埼玉大、東京学芸大、信州大、静岡大、三重大、
滋賀大、兵庫県立大、和歌山大、香川大、山口大、鹿児島大 など
明治大、青山学院大、立教大、法政大、中央大、立命館大、
関西大、学習院大、津田塾大、南山大、私立大薬学部 など
レベル4
その他国公立大
日本大、東洋大、駒沢大、専修大、京都産業大、 近畿大、甲南大、龍谷大、成蹊大、成城大、明治学院大、
國学院大、武蔵大、東京農業大、東京電機大、芝浦工業大、神奈川大、愛知大、名城大、福岡大、
西南学院大、東京女子大、日本女子大、学習院女子大、同志社女子大、京都女子大 など
レベル3
亜細亜大、東海大、拓殖大、国士舘大、大東文化大、桃山学院大、神戸学院大 など
レベル2
共立女子短大、大妻女子短大部、
日大短大部、昭和女子短大部、
京都女子短大部、
関西外国語短大部、など
https://www.toshin.com/courses/ 今、大学に行く価値ねえよ。
オンライン授業だし、
情報は、医師などのPDFなどを含めて、
一切、
インターネット上にあるからな
大卒ニートな
カッターナイフと木刀は、小さくて威力抜群なのにして、
常時携帯しよう。
犯罪行為を予告した奥山氏は、逮捕される可能性があるな。
当スレはローカルルールを逸脱しています
適切な板に立て直して移動してください
ID:uz09W6oKが、深夜に出現し、邪馬台国畿内説を研究している文学部の者達や、研究所で邪馬台国畿内説を研究している者達が、雑談するためのスレッドを、誹謗してきたな。
70学籍番号:774 氏名:_____2021/03/31(水) 03:02:36.96ID:uz09W6oK
当スレはローカルルールを逸脱しています
適切な板に立て直して移動してください
【基礎知識1】
・倭人伝は中国の史書なので、倭国の地名も倭人の発音に合わせて中国漢字で表記されています
・魏志倭人伝に書いてあるのは邪馬「壹(壱)」国であり、魏の公用語であった呉語(上海語)で読むと「シャマイ」国となる
参考:
・以降の史書に出てくる「邪馬臺」や「邪摩堆」は語尾が「タイorダー」であり「ト」と発音する文字は使われていない
・後世のヤマトは識字能力が低かったのか、邪馬臺=ヤマトと読んでいたが、新井白石と本居宣長がこの誤読に気付き、邪馬台国論争が始まった
・「大和」は、魏志倭人伝では女王国の市場を監視する官職として「大倭」と記載されている
『国国有市 交易有無 使大倭監之』 感謝します。
74学籍番号:774 氏名:_____2021/03/31(水) 11:00:08.25ID:oDqPaEuV
>>73
日本史のスレに写しておいたぞ 卑劣な犯行予告を発表してしまった奧山氏は、何時、逮捕されるのだろうか。
新しいスレッドを、次々に用意すれば、
奥山氏が5ちゃんねるへの嘘の告発で、僕達の投稿を妨害しても、
僕達は、5ちゃんねるでの投稿の自由を、守れそうだな。
NHK・Eテレ再放送見た(2021, 4, 1 深夜0:00〜)
天照大神は、神々を地上に使わして国づくりを行ない、
大和で「(日本の)誕生、ヤマト王権」に到ったという、いわゆる東遷後の日本建国歴博考古学だった。
つまり、魏王朝や、帯方郡や、倭国や、魏志倭人伝や、卑弥呼や、親魏倭王や、邪馬台国とは、さらさら関係ない番組だった。
(畿内説は撤退か?)
それと、九州説は捨てがたい、とも言っていた。
その取ってつけたようなセリフが、かえって生々しく響いていた・・、
魏志倭人伝には当時の日本が割と詳しく書かれている
しかも素人にも読みやすい
情景が目に浮かぶよ
邪馬台国は九州だよ
(畿内スレより再掲)
第46回 数学者の 「社会への提言」より
>「倭人伝」の1里の長さはいくらで、その根拠はどこにあるのか、なぜこの里単位が使われたのかという問題です。
>旅程記事の中で確かと考えられる地名をもとに、その間の距離から逆算すると、1里は70〜90mになります。
>中国の使節が旅程を記録するため、何らかの計測をしながら邪馬台国に至ったと考え、その前提に、「周髀算経」や「九章算術」という
>当時の数理科学書の知識があることを想定しました。
>「周髀算経」は、紀元前1世紀くらいに編纂された現存最古の中国天文学書で、その中に一寸千里説とも呼ぶべき考え方が示されています。
>夏至の日、基準地点に8尺の観測棒を垂直に立てると影の長さは1尺6寸になります。そこから真南に千里行くと影の長さは1尺5寸、真北に千里行くと影の長さは1尺7寸になるというのです。
>地球の半径が6357kmで、太陽光は地球にほぼ平行にはいってくることを前提に、夏至の日に8尺の棒の影の長さが1尺6寸になる緯度を求めると、
>西安あるいは洛陽の緯度にほぼ一致しました。また、南北千里は、76〜77kmとなり、1里が76〜77mに相当することが計算されました。
>これは、倭人伝の1里と想定される長さによく対応しています。
諸国の統治に必要な方角・里数は、誰か一人一回の観光旅行で即求めたものでなく、
古代中国王朝の役人たちの、長年にわたる試行努力で繰り返し計測され、精度が高められたのだろう。帯方郡〜倭女王国間の萬二千余里もそうした努力の結果・・。
但しこの、第46回 数学者の 「社会への提言」方法では、経度は測れない。
そこで「南」とか「東南」とかの、方角の知識が重要・不可欠になってくるわけだ・・・、
その方角についても、
ほぼ直線と見做して良い「南」と、途中で大きく曲がって(右左折して)いる「南」では所要の里数が変わってくる。
そこで、ほぼ直線と見做して良い場合は「至」、途中で大きく右左折している場合は「到」の字を当てて区別しているというわけだ。
(つまり、「東南到る伊都国」とはそういう意味だ。 阿波もそこまでは気が回らなかったか・・・、 わはははは)
到と至は、使い分けられているのだろうか。
到。。。。從郡至倭循海岸水行歷韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里。
至。。。。始度一海千餘里至對馬國。
方可四百里。
至。。。。又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國。
方可三百里。
至。。。。又渡一海千餘里至末盧國。
到。。。。東南陸行五百里到伊都國。
至。。。。東南至奴國百里。
至。。。。東行至不彌國百里。
至。。。。南至投馬國水行二十日。
至。。。。南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月。
次有斯馬國次有已百支國次有伊邪國次有都支國次有彌奴國次有好古都國次有不呼國次有姐奴國次有對蘇國次有蘇奴國次有呼邑國次有華奴蘇奴國次有鬼國次有爲吾國次有鬼奴國次有邪馬國次有躬臣國次有巴厘國次有支惟國次有烏奴國次有奴國此女王境界所盡。
其南有狗奴國。
至。。。。自郡至女王國萬二千餘里。
女王國東渡海千餘里復有國皆倭種。
又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里。
至。。。。又有裸國K齒國復在其東南船行一年可至。
參問倭地絕在海中洲島之上或絕或連周旋可五千餘里。
85学籍番号:774 氏名:_____2021/04/02(金) 08:17:15.82ID:x7b+mCgw
ほぼ直線と見做して良い場合は「至」、途中で大きく右左折している場合は「到」の字を当てて区別している
>到。。。。從郡至倭循海岸水行歷韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里。
帯方郡(ソウル付近)から水行南下して4000里、韓半島西南端で東に折れて3000里で釜山付近に入港する。
これを「至」と書いて、ソウルから釜山まで直線陸行だと、ピタゴラスの定理により5000里になる。
つまり至るの5000里ではなく、到る(途中東に折れて)の7000里ですよー、というわけだ。
>到。。。。東南陸行五百里到伊都國。
此れも同様にして、末盧国(唐津市)から南へ陸行し、高来の宿(多久市)で東に折れて、200里で佐賀市大和町川上の伊都国(イツ国)に到る。
これを「至」として、唐津市から佐賀市大和町川上までの直線陸行だと、ピタゴラスの定理により430里ほどになる。
つまり至る(直線の)430里でなく、到る(途中曲がって)の500里ですよー、というわけだ。 如何・・、
(>>87 の訂正)
到の例:直線430里は記憶間違い、正しくは360里です。失礼しました。 なお、郡から女王国までのように、広範囲・長距離をひとくちで云う場合は、それに応じた大まかな描写になる。
例: 倭人有り 、 (大まかにいうと)帯方東南 大海の中
例: 自郡 至 女王国 (大まかにいうと)萬二千余里、・・・・・つまり帯方郡を起点に大まかに言っているので、ここは至るになっている。
但し、
起点を臺(洛陽)に置き、東へ進んで郡に至り、更に郡を経由して東南の女王国へ至るカギ形行程の記述であれば、
おそらく、「自臺 従郡 到女王国 ○萬二千余里」、と書かれたのではないか・・、
(女王国とは)
女王国は、いうまでもなく女王卑弥呼を推戴する国のことであるが、歴史書・倭人伝には、時代に因り二種類の「女王国」が登場する。
一つは冒頭の行程説明等の中に出てくる「女王国」である。
この当時、卑弥呼は邪馬台国だけから推戴された邪馬台国のみの女王であった。行程論を解読する際、このことは極めて重要な認識となる。
(但しこの時代にあっても、邪馬台国の卑弥呼は、九州島の大実力者であったらしく、
このことを表現する場合は単に「女王」とだけ書かれた。「此処 女王の境界尽きる処」がその事例である。)
しかし、倭人伝が書き進められ、7割方が経過したところで、ご承知の倭30国による卑弥呼の共立譚が登場する。
つまりこの時点で卑弥呼は、邪馬台国だけの女王から、倭30国全体の共立女王になった訳である。
依って当然ながら、この時点からのちに出てくる「女王国」とは、倭30国全体のことを指す。
白鳥庫吉は「倭女王・卑弥呼」というフレーズを好んだが、これはこの時代の九州島全体の女盟主・卑弥呼を指している。
但し倭人伝では、この用例はわずか1か所のみで、「女王国の東、渡海千里、復た国有り」の部分のみに用いられた希少事例である。
倭人伝の方角・里数を、平気で無視する者たち、少なからず有り、
末盧国から東南500里を、北東に歪めて300里の糸島前原へ行って大自慢、
そこから東南100里の奴国を、東に歪めて博多那の津の金印に大満足。そして極め付きは、東行百里の不彌国は宇美だったという。
なるほど宇美には、神功皇后を祀る神社もある。
が、これは江戸時代の国学者の案を容れて勧進された、典型的な後付け神社とか(卑弥呼は神功皇后だったのですってねえ!?)。
おまけにここは、山間僻地の行き止まり部落。南至る投馬国、南至る邪馬台国女王之所都も完璧行き止まり、
ま、西洋の寓話ではないが、、、誰かさんの吹く笛に誘われて、お決まりの迷路に引き込まれたネズミさんたちなんじゃないのってwww・・
ハーメルンの笛吹き男:
1284年、ドイツのハーメルンの町にネズミが大繁殖し、人々を悩ませていた。ある日、笛を持ち着飾った一人の男が町に現れ、
報酬をくれるなら町を荒らし回るネズミを退治してみせると持ちかけた。ハーメルンの人々は男に報酬を約束した。
男が笛を吹くと、町じゅうのネズミが男のところに集まってきた。男はそのままヴェーザー川に歩いてゆき、ネズミを残らず溺死させた。
だが、マツラは壱岐の南端から1000里で、近すぎる呼子や、八方位で東南になってしまう唐津も当てはまらず、
本当は、マツラの渡海地点は、長崎県松浦市西部の御厨港付近なのだから、
そこから、500里東南陸行の伊都國は、伊万里市になるよ。
>>93
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦)
↓【東南】陸行500里 (25km)1里50m 福津市→八木山峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
末盧国(福津市辺り・万津浦) : 「田熊石畑遺跡」・「今川遺跡」・「徳重高田遺跡」・「鐘崎上八遺跡」・「手光於緑遺跡」・「朝町町ノ坪遺跡」・「朝町竹重遺跡」・「新原・奴山古墳群」
伊都国(直方辺り) : 「感田上原遺跡」・「帯田遺跡」 @阿波 >>93
呼子は、出港地としてはともかく、入港しても山道に苦労する。
それに、潮の関係で唐津沖を迂回しての呼子入港なんだから、無駄な努力だと思うよ。
その点、伊万里は特別良港で、貨物便は伊万里のほうが頻繁に使われたのではないか。(倭人伝は遣使便なので、唐津で記述したのではないか) >>95
>その点、伊万里は特別良港で、貨物便は伊万里のほうが頻繁に使われたのではないか。(倭人伝は遣使便なので、唐津で記述したのではないか)
妄想を垂れる前に、その妄想に見合う「集落遺跡」を示せ! アンポンタン。
碌な弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構そして資源の無いくそ田舎の九州に、「邪馬臺国」など興る訳がない。 なにを考えているんだか。 @阿波 >>93
もう一つの文学的問題として、
此伝の書き出しは、「倭人有り、帯方東南大海の中・・」、というメインテーマで始まる。
それだけに、倭国(の伊万里)に上陸して、東に進んでは文学的に台無しだ。
だから倭国に上陸しての第一歩は、何が何でも「東南行」でなくては、折角の陳寿の筆が泣く・・、 >>97
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦)
↓【東南】陸行500里 (25km)1里50m 福津市→八木山峠越え→直方 @阿波 ID:/eV8B+Vcは、
「だが、マツラは壱岐の南端から1000里で、近すぎる呼子や、八方位で東南になってしまう唐津も当てはまらず、
本当は、マツラの渡海地点は、長崎県松浦市西部の御厨港付近なのだから、
そこから、500里東南陸行の伊都國は、伊万里市になるよ。」
を慌てずに、よく読めば良いよ。
マツラの港=長崎県松浦市西部の御厨港付近
伊都國(イツ)=伊万里の津
500里東南陸行=御厨港付近から伊万里までの東南方向への行程。
厳密には、魏志倭人伝には、壱岐からマツラへの方向は示されてはいないが、
南北市糴なので、壱岐は、南方向にも市糴相手があるな。
>>99
ま、伊都国を伊万里とするのは良いとして、
その後の東南100里奴国と、東行100里不彌国はどうなるのかな? それを心配してやってるんだが・・・、 日本史板に書き込むための、無駄になってしまった努力のために、IDが、変わった可能性があるが、
僕達の元のIDは、GfZRJjltです。
ID:/eV8B+Vcに対して、意見を発表します。
「到は、中心に到る。
至は、境界に至る。
故に、伊都の中心から100里で、南東に至ったのは、あくまで、伊都と奴国の境界の関所です。
その関所または伊都の中心から、東100里には、伊都とフヤの境界の関所があった。」
という可能性があるな。
そして、伊都と奴国の境界の関所は、有明海と伊万里湾の分水嶺の何処かの峠にあった可能性があるな。
補足します。。
狗邪への行程は、中心地へ。。。到。
狗奴からの行程も、中心地から。
対馬、壱岐、への行程は、島北部の上陸地点。
対馬、壱岐からの行程は、上陸地点とは逆の島南側の出発地点から。
マツラ國への行程は、上陸地点。
マツラ國からの行程は、上陸地点から。
伊都國へは、中心地へ。。。到。
ただし、魏志倭人伝の作者が、他の文章で「到」と「至」を使い分けていたかは、まだ、研究していないよ。
>>104
その通りだ。
考古の前に、まず文学部的な研究によって、三国志の「至」と「到」にどのような使い分けがあるか、深く研究すべきなのではないだろうか。
そしてその研究成果に基づいて、系統的な考古学的な発掘研究が行われるべきだと考える。 古代はいざ知らず、近〜現代においては、三国志・東夷倭人伝という文学的作品あっての倭国・邪馬台国・女王国・卑弥呼である。
則ち現状は、文学部的根拠(証拠)100%の状態にあり、他方の考古学的根拠(証拠)は、いまだ0%である。
(どこかに3世紀の墓と小枝と桃核が発掘されたから、これは卑弥呼所縁のブツだと言ってみても、それは発掘者の「個人的な感想」に過ぎない)
つまり今は、伝えられる文学部的根拠史料(東夷倭人伝、魏略、廣志等)を、文学部的に一層深く研究することが先決なのではないであろうか・・・。
>>108
>三国志・東夷倭人伝という文学的作品あっての倭国・邪馬台国・女王国・卑弥呼である。
>他方の考古学的根拠(証拠)は、いまだ0%である。
阿波「邪馬臺国」の決定的考古学的根拠 : 「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」 @阿波 阿波は、ちょっかいを出すタイミングが素晴らしいな!?
ここぞという時に出てくる。
古代史・文芸文学界もだが、吉本でも十分通用する。おそらく其山其道を進んでも、一流を極めたであろうな・・、
(なお東夷倭人伝で「其」と言えは、倭・倭地の意味であり、邪馬台国に限定されることではない)
>>110
>(なお東夷倭人伝で「其」と言えは、倭・倭地の意味であり、邪馬台国に限定されることではない)
なお、九州は倭・倭地に含まれないので、悪しからず。 北部九州は倭国(阿波)への通り道に過ぎないから。 @阿波 対馬から、沖ノ島を経て福津/神湊に上陸し、
直方/田川を通って、豊前の中津・宇佐の海岸に達し、
そこから瀬戸内航路で淡路島やアワに至る道の大繁栄、つまり北部九州が、ただの通り道になった歴史は確かにあった。
但しそれは、4世紀に銅で財を成した秦氏(応神天皇)の時代から始まった「北部九州ただの通り道化時代」のことである。
つまり上の@数レスは、阿波が、4世紀の出来事を三世紀だったと誤って認知していることを、明瞭端的に物語るものであろう・・。
畿内説はオカルトです
>>112
>但しそれは、4世紀に銅で財を成した秦氏(応神天皇)の時代から始まった「北部九州ただの通り道化時代」のことである。
そんなアホな。
倭国(阿波)は、弥生時代中期末から鉄器を作っていて、朝鮮半島→北部九州→倭国(阿波)の交易ルートが確立されているよ。 @阿波 >>114
細々と軟弱な弥生鉄をな・・、
九州には、三世紀に強力ハガネ鉄(鋼鉄)技術が入ってきた、それを独占していたのが邪馬台国勢力(肥前/肥後)
そして四世紀になると、こんどは秦氏の銅技術が栄え、そのせいで北部九州がただの通り道になり、淡路や阿波や大和がノシてきたというわけだ。 >>115
>細々と軟弱な弥生鉄をな・・、
そんなアホな。
「阿波」では、鍛冶工房 SB 2037 弥生中期末 矢野遺跡 U群
砂鉄が出土した鍛冶工房の直ぐ横から出土 Taタイプの鍛冶炉が出土している
>九州には、三世紀に強力ハガネ鉄(鋼鉄)技術が入ってきた、それを独占していたのが邪馬台国勢力(肥前/肥後)
碌な鍛冶炉遺構や弥生集落遺跡、そして資源の無い、くそ田舎の九州に、「邪馬臺国」など興る訳がない。 @阿波 四世紀のことを、三世紀だったー、と言い張るのは畿内説の伝統的な手口、
どうやらそれが、阿波にも蔓延してるようだな・・、
>>117
>どうやらそれが、阿波にも蔓延してるようだな・・、
畿内説といっしょにすんな! 汚らわしい! @阿波 畿内説という印象操作は犯罪です
◆畿内派による印象操作「纏向遺跡の建物は祭祀場であり、大量の桃がお供えされた」
しかし桃の種が発見されたのは柵列の下の別の遺構
建物とお供え物の桃が同時期に存在したとは言えない
おそらく纏向遺跡は古墳造営キャンプ場と斎場の跡地ですね 当スレはローカルルールを逸脱しています
適切な板に立て直して移動してください
当スレはローカルルールを逸脱しています
適切な板に立て直して移動してください
福岡県 粕屋郡 宇美町
歴史
>日本書紀・古事記の記述では、神功皇后が朝鮮半島出兵(三韓征伐)の帰路に応神天皇を出産した地とされ、
>これにちなんで「産み」に通じる「宇美」という地名がつけられたといわれている。
>また、新井白石が「古史通惑問」で指摘して以来、音が似ている事から魏志倭人伝の行程中に登場する「不彌国」に比定する説もある。
そうかい! 畿内説も九州説も、卑弥呼は神功皇后だったというのだな。すると卑弥呼の墓は、あの神功皇后陵で決まりやんけ。
>>122
そうとも言えないのでは?
もともと東大vs京大の論争なんだから 日本史の掲示板に、意見を発表しなくても、真実を発表することは、出来るな。
邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまった。
「当スレ」とは、「当たりスレスレ」という言葉の略語なのだろうか。
(まさに文学部の歴史的大テーマ)
九州説:
東京帝国大学 白鳥庫吉(文科大学史学科、教授、文学博士、専門・東洋史)
畿内説:
京都帝国大学 内藤湖南(文科大学史学科、教授、文学博士、専門・東洋史)
つまりその根源は、古代中国の歴史書である後漢書・三国志・魏略・廣志・翰苑・晋書・隋書などの
倭国関連事項を、いかに的確に読み解くかという、優れて文学部的課題なのではないであろうか・・、
>>129
まずそれを解明しなきゃね
図面もまだ完成していないのに物を作り始める畿内説は低偏差値の巣窟だよ 重大な意見を発表します。
中国人の認識では、魏志倭人伝時代の韓国は、3つの民族がいます。
3つ合わせて、方形の韓国と認識されました。
この方形は、東西両方は海です。北は帯方と濊に隣接しています。南は倭と隣接しています。
つまり、魏志倭人伝時代の韓国に南海岸はありません。
朝鮮半島の南海岸の山や島には、倭人の漁村が連なっていました。
そして、朝鮮半島の南海岸または島である狗邪が、倭にとっての北岸ということは、朝鮮半島の南海岸の東西両端から、八方位で南になる範囲の外側は、絶対に、倭とは、認識されていなかったことになるぞ。
瀆盧國の城郭は、倭人の襲撃に備えていた可能性があるな。
涜盧國の城郭は、倭人の襲撃に備えていた可能性があるな。
「魏志倭人伝の邪馬壹は、大和のことなのだ。」と誤認してしまった者によって後漢書が書かれた時代には、倭の北岸だった狗邪が、倭にとって西北界になったのだから、倭はやはり3世紀から5世紀の間に、東に拡大した可能性があるな。
研究のための書き残しです。
34°32'15.2"N 128°43'55.8"E
>>131の
「つまり、魏志倭人伝時代の韓国に南海岸はありません。朝鮮半島の南海岸の山や島には、倭人の漁村が連なっていました。」
の部分は、
「つまり、魏志倭人伝の作者にとって、韓国に南海岸は無く、朝鮮半島の南海岸の山や島には、倭人の漁村が連なっていると理解していました。」
と直した方が良いな。 魏志倭人伝より
卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 殉葬者奴碑百餘人
祇園山古墳(福岡県)
邪馬台国は伊都国の南です
翰苑(第30巻のみ大宰府天満宮に残る:唐の張楚金の編纂)
が引用している「廣志」に、邪馬台国の場所が記されている。
邪は伊都に届き、傍らは斯馬國に連なる。
廣志曰く、倭国東南陸行五百里、到る伊都国,又南、至る邪馬嘉(臺)国。
※伊都国:福岡県糸島市,福岡市西区あたりと言われている
同文献に記述されている「都」の様子
「憑山負海鎮馬臺以建都」
海に面した山の裾野にある大集落「(邪)馬臺」を都とする >>142
>海に面した山の裾野にある大集落「(邪)馬臺」を都とする
まさに、「鮎喰川下流弥生後期集落群」が都だな。 @阿波 山に憑き海を負い馬を鎮め臺を以て建て都す。
熊本城のことではないのかな。
「倭人有り、帯方東南、大海の中」
当時、倭人は半島や本州など色々なところに住んでいたのであろうが、
倭人伝では「大海の中の山島(=九州島)に住み、国邑を為している者たち」のみを倭人と定義している。
よって、共立女王国(=九州島)の東渡海の向こうに住んでいた者たちは、別途「倭種」の語を与えられ、区別されている。
「舊は百餘國、漢の時朝見者有り、今使譯所通 三十國」
此れも、前段の「倭人」に関する説明であるから、倭種は除かれる。
因って「舊百餘國」とは、大海の中の山島(=九州島)には、百余の倭人の国があったという意味である。
それが今では、大海の中の倭人の国は三十国であるという。(つまり半島や本州は、帯方東南大海の中とは言い難いのではなかろうか。)
。
これを、さらに具体的に言えば、
漢の頃、九州島には百余の小国が有ったが、(倭国の乱を経て整理統合され)、今帯方郡に通交する倭の国は三十国になっている・・、と読むべきであろう。
その三十国とは、自女王国以北の7国+以南の投馬国+遠絶の21国+1国(華奴蘇奴国は、華奴国+蘇奴国とする)である。
なお、狗奴国は帯方郡に通じていなかったので、倭30国の外数である。
奴国は2つでてくる。
これをダブりと解する論者は少なくないが、それは明白に誤りである。
つまり、邪馬台国女王之所都より前に記述されている奴国は、明白に「自女王国以北」の国である。
そしてその後に、其の余の傍国として出てくる奴国は、「遠絶にして不可得詳」なのであるから、
女王国の東西南北のいずれに有ったかも当然不明である。因って、二つの奴国は、名前は同じでも明らかに別の国だったのである。
>>148
女王国の紹介で登場する国々は北、東、南方向の国々
これは女王国が西の端であることを意味する
よって女王国=邪馬台国は九州で確定 >>146
「倭人在帶方東南大海之中」
北に瀬戸内海 ・ 西に豊後水道 ・ 南に黒潮太平洋 ・ 東に紀伊水道
まさに、「帶方東南大海之中」まんまの四国だね。 わははははは @阿波 >>149
ずばり、四国(阿波)を中心とした東・西・北への「忌部一族(阿波勢力)」進出展開記述
「東征毛人五十五國」 =畿内以東(北関東含む)
「西服衆夷六十六國」 =西瀬戸内・九州
「渡平海北九十五國」 =東瀬戸内・山陰・北陸
これ全部、倭国(阿波)から進出した忌部一族の開拓地域である。 @阿波 >>147
使譯所通三十國(いま外交関係にあるところ)の三十国は、
「自女王國以北」の国々=「東西に貫く大吉野川流域に広がる弥生後期集落遺跡群」のことである。
「阿波」以外に、このような一大流域弥生後期集落群は存在しない。 @阿波 >>150
>北に瀬戸内海 ・ 西に豊後水道 ・( 南に黒潮太平洋 )・ 東に紀伊水道
瀬戸内海 ・ 豊後水道 ・( )・ 紀伊水道を「大海」と認識しておるか、、、
あのな、昔から「井の中の蛙 大海を知らず・・」、というてな。 ま、いいだろう、阿波のいうことことだ。 >>153
>瀬戸内海 ・ 豊後水道 ・( )・ 紀伊水道を「大海」と認識しておるか、、、
ずばり、四国(阿波)を中心とした東・西・北への「忌部一族(阿波勢力)」進出展開記述
「東征毛人五十五國」 =畿内以東(北関東含む)
「西服衆夷六十六國」 =西瀬戸内・九州
「渡平海北九十五國」 =東瀬戸内・山陰・北陸
これ全部、倭国(阿波)から進出した忌部一族の開拓地域である。 @阿波 >>146
此番から始まる〜3レスを読み直して、思わず気付いたことがある。
この読み方は、法律の条文を読み解く場合と同じ呼吸・間合いである。陳寿は優秀な古代の法律家でもあったのかもしれない。
つまり倭人伝は文学部的な作品であるが、それを解読するには、法学部の教授先生のお力を借りるのが、好適・適切・早道ではないか。
法文学部なら、なお良し・・・、 案の定、徳島大学は、
医学・薬学・栄養学など、理化学系に専門化してしまっておるな。、
昔は文理学部?というのが有ったような記憶があるが、今はもう、文学部系や法学部系は、きれいさっぱり無くなっておるのか(泣、、、
奴国は一つだぞ。
なぜなら、魏志倭人伝に登場する使訳通じる国、30ヶ国は、全て、道理戸数を聞き取り把握できるよ。
即ち、魏志倭人伝に登場する国で、
「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種。又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里。又有裸國K齒國復在其東南船行一年可至。」
の部分の「有國皆倭種(おそらく百余国の内の幾つかの国々)と侏儒國裸國K齒國」以外の30ヶ国は、使訳を通じて帯方郡に戸数も完全に把握されているよ。
◆女王にとっては国の境界の尽きる国であり、帯方からみれば女王国の入口である12000里の奴國までの道順を示した5ヶ国。
狗邪、對馬國、一大國、末盧國、伊都國、奴国
(7000+1000+400+400+1000+300+300+1000+500+100=12000)
◆女王の都に行く道順とは外れる2ヶ国。
不彌國、投馬國
◆女王の都
邪馬壹國
◆女王に属さず女王の南に有る男王國。
狗奴國
◆そして、邪馬壹國から、奴國までの帰途、つまり女王国内部に次々に通りすぎる20ヶ国。
次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、
次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、
次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、
次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴厘國、次有支惟國、次有烏奴國、(次有奴國。此女王境界所盡。)
ぴったり、30ヶ国だな。
奴国は一つだぞ。
なぜなら、魏志倭人伝に登場する使訳通じる国、30ヶ国は、全て、道理戸数を聞き取り把握できるよ。
即ち、魏志倭人伝に登場する国で、
「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種。又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里。又有裸國K齒國復在其東南船行一年可至。」
の部分の「有國皆倭種(おそらく百余国の内の幾つかの国々)と侏儒國裸國K齒國」以外の30ヶ国は、使訳を通じて帯方郡に戸数も完全に把握されているよ。
◆女王にとっては国の境界の尽きる国であり、帯方からみれば女王国の入口である12000里の奴國までの道順を示した6ヶ国。
狗邪、對馬國、一大國、末盧國、伊都國、奴国
(7000+1000+400+400+1000+300+300+1000+500+100=12000)
◆女王の都に行く道順とは外れる2ヶ国。
不彌國、投馬國
◆女王の都
邪馬壹國
◆女王に属さず女王の南に有る男王國。
狗奴國
◆そして、邪馬壹國から、奴國までの帰途、つまり女王国内部に次々に通りすぎる20ヶ国。
次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、
次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、
次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、
次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴厘國、次有支惟國、次有烏奴國、(次有奴國。此女王境界所盡。)
ぴったり、30ヶ国だな。
A 自女王國以北其戶數道里可得略載。
B 其餘旁國遠絕不可得詳。
という文章は、自女王國以北かで略載可能か不可能かを示したが、魏志倭人伝内に略載するという宣言ではないよ。
そして、その後に並べた国々が、AとB、どちらの文章に当てはまるかについては、先に示された奴国を最後に配置することで、全て「自女王國以北」だと明示したのだったな。
すなわち、最も重要な物事は、「次」の文字を使用しながら、次々と紹介したことは、脳に異常が無い者には、重要な意味が脳に響き渡るのという事だったな。
◆邪馬壹國から、奴國までの帰途、つまり女王国内部で「次々」に通りすぎる20ヶ国。
次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、
次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、
次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、
次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴厘國、次有支惟國、次有烏奴國、(次有奴國。此女王境界所盡。)
「奴国」は、間違いなく二つあった。
一つは、女王国への道中に有り、道里戸数が書かれている奴国、
もう一つは、遠絶にして不可得詳の奴国だ。これが博多那の津の奴国(つまり古えの倭奴国)だ。
日本中の古ぼけた物事を好む者達を、あのゴッドハンドによる「発掘」の時と同様にして、熱狂させた、
おそらく方形で、数十センチメートル程の深さに掘削された、5世紀末以降に出現した「SX-1002」と完全に平行に隣接し、「SX-1002」との時間的な関係性が強く疑われるが、
謎の勢力に、謎の勢力が作製した観光用の着ぐるみのモデルとなった卑弥呼の時代である3世紀前半に建てられたのだ、と断定されてしまった「建物C」は、
本当は、5世紀以降に、建てられた物体なのだろうか。
魏志倭人伝では、奴国は、帯方郡から12000余里の女王国の入り口として、まず、紹介され、
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
到其北岸狗邪韓國、七千餘里(+7000)。
始度一海千餘里至對馬國(+1000)。方可四百餘里(+400+400)。
又南渡一海千餘里(+1000)一大國。方可三百里(+300+300)。
又渡一海千餘里至末盧國(+1000)。
東南陸行五百里到伊都國(+500)。
東南至奴國百里(+100)。
7000+1000+400+400+1000+300+300+1000+500+100=12000
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
そして、邪馬壹國からの帰途、つまり北に向かって次々に通りすぎる女王国内部の21ヶ国目の、女王の境界の尽きる最北の国として、再度紹介することで、
帯方から邪馬壹までの道順にある倭人が住む女王国内外の27ヶ国の位置関係の凡そを簡潔に紹介したよ。
>>157
>なぜなら、魏志倭人伝に登場する使訳通じる国、30ヶ国は、全て、道理戸数を聞き取り把握できるよ。
あのな、「聞き取り」とは、単に耳で「聞き取った」までのこと。
「聞き取った」からといって、筆で何かに「略々記載した」ということにはならない。 両者は別の事、これは常識だ。 邪馬台国畿内説が、幾ら意味の無い意見を発表しても、
正方形の島の4辺が、緯線や経線とちょうど平行という、確率的に殆ど0の条件でない限り、
正方形の島の内部に入らず、正方形の島の最北端から反対側の最南端に行くには、正方形の島を半周すれば良いという、脳に異常が無い者にはすぐ理解できる真実は、貴方の出来栄えの良くない脳のようには古ぼけはしないよ。
帯方から奴国までの足し算
7000+1000+400+400+1000+300+300+1000+500+100=12000
奴国=女王の境界の尽きる処=女王国の入り口
次有奴國,此女王境界所盡。
自郡至女王國萬二千餘里。
境界がはっきりし、大きな国は、大きさや形を示し、「面」として扱えば、隣の国との位置関係を、効率的に説明できるということも、
大きさが小さな国や、隣の国との境界が不明なために大きさが不明な国は、宿泊地「点」として扱う以外に、隣の国との位置関係を説明できないということも、
脳に異常の無い者達の、幾何学図形の認識に関する人類の共通プロトコルであることには、あまり、不思議はないよ。
>>162
>魏志倭人伝では、奴国は、帯方郡から12000余里の女王国の入り口として、まず、紹介され、
それだと、帯方郡から12000余里の奴国は、12000*75=900000=900` となるが、いいのか? @阿波 魏志倭人伝の作者は、
「女王にとっては直轄する境界の尽きる国であり、帯方からみれば女王国の入口である12000里の奴國」までの5ヶ国、
狗邪、對馬國、一大國、末盧國、伊都國、(奴国 )
(7000+1000+400+400+1000+300+300+1000+500+100=12000)
つまり、伊都国までの紹介が終わった時点で、
世有王皆統屬女王國郡使往來常所駐。
という文章を置き、
「世(狗邪、對馬國、一大國、末盧國、伊都國)に王有るが、皆女王に総て属し国や郡の使いが往来し常に駐まる。」
ということを紹介し、ここまでの国は女王の直轄領ではなく、属国の国々であることを明示したのだったね。
道のりとして、魏志倭人伝時代の中国人に、帯方から奴国までが12000里と理解されていたことは間違いないが、
それは、魏志倭人伝時代の中国人がキロメートルという単位を知っていたこととは、別であることは勿論だし、
正確な測量に、完全に成功したこととも別だよ。
165学籍番号:774 氏名:_____2021/04/07(水) 14:06:41.20ID:qvkUTzV/
>>162
>魏志倭人伝では、奴国は、帯方郡から12000余里の女王国の入り口として、まず、紹介され、
それだと、帯方郡から12000余里の奴国は、12000*75=900000=900` となるが、いいのか? @阿波 日本中の古ぼけた物事を好む者達を、あのゴッドハンドによる「発掘」の時と同様にして、熱狂させた、
おそらく方形で、数十センチメートル程の深さに掘削された、5世紀末以降に出現した「SX-1002」と完全に平行に隣接し、「SX-1002」との時間的な関係性が強く疑われるが、
謎の勢力に、謎の勢力が作製した観光用の着ぐるみのモデルとなった卑弥呼の時代である3世紀前半に建てられたのだ、と断定されてしまった「建物C」は、
本当は、5世紀以降に、建てられた物体なのだろうか。
このスレッドでは、スマートフォンとパーソナルコンピューターを同時に使用しなければ、複数キャラクターを演じることが、出来ないのだったな。
>>167
>道のりとして、魏志倭人伝時代の中国人に、帯方から奴国までが12000里と理解されていたことは間違いないが、
それだと、帯方郡から12000余里の奴国は、12000*75=900000=900` となるが、いいのか? @阿波 「道のりとして、魏志倭人伝時代の中国人に、帯方から奴国までが12000里と理解されていた」
という命題と
「帯方郡から12000余里の奴国は、12000*75=900000=900` となる」
という命題は、
全く違う物事だな。
170学籍番号:774 氏名:_____2021/04/07(水) 14:31:37.00ID:qvkUTzV/
>>167
>道のりとして、魏志倭人伝時代の中国人に、帯方から奴国までが12000里と理解されていたことは間違いないが、
それだと、帯方郡から12000余里の奴国は、12000*75=900000=900` となるが、いいのか? @阿波 >>171
「道のりとして、魏志倭人伝時代の中国人に、帯方から奴国までが12000里と理解されていた」
という命題は、
「道のりとして、魏志倭人伝時代の中国人に、帯方から奴国までが12000里と理解されていた」
という命題でしかなく、
「帯方郡から12000余里の奴国は、12000*75=900000=900` となる」
という命題は、
「帯方郡から12000余里の奴国は、12000*75=900000=900` となる」
という命題でしかないね。 >>173
そして、1里が例え何メートルであっても、
「道のりとして、魏志倭人伝時代の中国人に、帯方から奴国までが12000里と理解されていた」
という命題が真実なので、
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
到其北岸狗邪韓國、七千餘里(+7000)。
始度一海千餘里至對馬國(+1000)。方可四百餘里(+400+400)。
又南渡一海千餘里(+1000)一大國。方可三百里(+300+300)。
又渡一海千餘里至末盧國(+1000)。
東南陸行五百里到伊都國(+500)。
東南至奴國百里(+100)。
7000+1000+400+400+1000+300+300+1000+500+100=12000
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
奴国が、再度、紹介された場面で、
次有奴國,此女王境界所盡。
と明示されたことが、
自郡至女王國萬二千餘里。
という文章と見事に整合するのだったな。 日本中の古ぼけた物事を好む者達を、あのゴッドハンドによる「発掘」の時と同様にして、熱狂させた、
おそらく方形で、数十センチメートル程の深さに掘削された、5世紀末以降に出現した「SX-1002」と完全に平行に隣接し、「SX-1002」との時間的な関係性が強く疑われるが、
謎の勢力に、謎の勢力が作製した観光用の着ぐるみのモデルとなった卑弥呼の時代である3世紀前半に建てられたのだ、と断定されてしまった「建物C」は、
本当は、5世紀以降に、建てられた物体である可能性が、高いのだったな。
>>169
逆に言えば、僕達のように、全く偶然にIDが一致してしまう事は、
日本中の古ぼけた物事を好む者達を、あのゴッドハンドによる「発掘」の時と同様にして、熱狂させた「建物C」が、
おそらく方形で、数十センチメートル程の深さに掘削された、5世紀末以降に出現した「SX-1002」と完全に平行に隣接し、
「SX-1002」との時間的な関係性が強く疑われることと同様に、
同一人物であるという強い疑いを、持たれてしまいそうだね。 ID:m6t91WqG よ、
かなり、取り乱したな。 わははははは @阿波
では、@阿波よ。
貴方が、このスレッドに来訪したことへの感謝を込めて、質問するぞ。
「道のりとして、魏志倭人伝時代の中国人に、帯方から奴国までが12000里と理解されていた」
という命題は、
「道のりとして、魏志倭人伝時代の中国人に、帯方から奴国までが12000里と理解されていた」
という命題でしかなく、
「帯方郡から12000余里の奴国は、12000*75=900000=900` となる」
という命題は、
「帯方郡から12000余里の奴国は、12000*75=900000=900` となる」
という命題でしかないが、
仮に、
「帯方郡から12000余里の奴国は、12000*75=900000=900` となる」
という命題が真実だとすれば、奴国は、何処になるのかを発表しろ。
>>1
一部の、古ぼけた物事を好む学芸会の者達が、
「最近、数年来、宇宙線の観測が、劇的に進行し、千数百年間、巻向にも数限りなく降り注がれた、破天荒に強大な空気シャワーに含まれる、想像を絶する数量の、中性子が、地表付近の桃の種や壺の吹きこぼれを構成する炭素の同位体比率を激変させる可能性を明らかにし、完全に破綻してしまった炭素年代法」という、炭素についての物事を売り上げる者達に、騙され踊り、最後には、笑われ者になってしまい、
さらには、近畿第V様式土器という謎の物体を売り上げていた、大昔のほんの一部の要素でしかない者に、勝手に騙されてしまっていたのだったね。 >>178
>「帯方郡から12000余里の奴国は、12000*75=900000=900` となる」
>という命題が真実だとすれば、
そもそも、「帯方郡から12000余里の奴国」が、真実ではない! 出直してこい。 わははははは @阿波 畿内説は方角もアレだが、そもそも圏外ですw
「自郡至女王國萬二千餘里」
魏志倭人伝には、女王の都は帯方郡から約1万2千里と明記されています
とのこと。 >>181
九州も圏外だな。 該当するのは、「阿波」。 @阿波 1里が例え何メートルであっても、
「道のりとして、魏志倭人伝時代の中国人に、帯方から奴国までが12000里と理解されていた」
という命題が、次の通り、完全に真実なので、
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
到其北岸狗邪韓國、七千餘里(+7000)。
始度一海千餘里至對馬國(+1000)。方可四百餘里(+400+400)。
又南渡一海千餘里(+1000)一大國。方可三百里(+300+300)。
又渡一海千餘里至末盧國(+1000)。
東南陸行五百里到伊都國(+500)。
東南至奴國百里(+100)。
7000+1000+400+400+1000+300+300+1000+500+100=12000
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
奴国が、邪馬壹國からの帰途、つまり、都から北に向かって次々に通りすぎる女王国内部の21ヶ国目の、女王の境界の尽きる最北の国として、再度、紹介された場面で、
次有奴國,此女王境界所盡。
と明示されたことが、
自郡至女王國萬二千餘里。
という、郡から女王国の最北端の入り口までの道のりが12000余里であることを示す文章と、
見事に整合するのだったな。
>>184
>「帯方郡から12000余里の奴国は、12000*75=900000=900` となる」
>という命題が真実だとすれば、
そもそも、「帯方郡から12000余里の奴国」が、真実ではない! 出直してこい。 わははははは @阿波 「計其道里當在会稽東治之東」
会稽東治(江蘇省宿遷市宿城区)と同じ緯度(北緯33度56分〜58分)に女王国(阿波)がある。 @阿波
https://www.bing.com/images/search?view=detailV2&insightstoken=bcid_S3gyNtXaI5kCliZ5N45fpO2T2gHK.....yc*ccid_eDI21doj&form=ANCMS1&iss=SBIUPLOADGET&selectedindex=0&id=1294645963&ccid=eDI21doj&exph=341&expw=600&vt=2&sim=11 「自郡至女王國萬二千餘里」
なぜ魏志倭人伝で、「從郡至倭・・・」の行程記述とは別に、「自郡至女王國萬二千餘里」が ポツンと 分離して書かれているのだろうか?
それは、行程記述と「自郡至女王國萬二千餘里」が、別事項だからである。
「自郡至女王國萬二千餘里」は、帯方郡から女王国までの距離が、「直線距離」で一万二千余里を特記したもの。
だからことさら、行程記述とは切り離して記述している。
その心は、帯方郡から女王国までの距離が、「直線距離」なのであって、間違っても決して「行程里数加算距離」と取られないため。 @阿波
南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月。
官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮可七萬餘戶。
自女王國以北其戶數道里可得略載其餘旁國遠絕不可得詳。
次有斯馬國。(次々に女王国内の帰途の国々)。次有奴國。此女王境界所盡。
其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王。
自郡至女王國萬二千餘里。
という部分は、女王国内部と女王国の南の説明として、一塊なのだから、
その一塊の中にある、
次有奴國、此女王境界所盡。
自郡至女王國萬二千餘里。
という2文は、脳に異常の無い者ならば、直ぐに結びつき、
自郡至女王國萬二千餘里は、
自郡至奴国。奴国女王境界所盡萬二千餘里。
のことだと分かるね。
南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月。
官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮可七萬餘戶。
自女王國以北其戶數道里可得略載其餘旁國遠絕不可得詳。
次有斯馬國。(次々に女王国内の帰途の国々)。次有奴國。此女王境界所盡。
其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王。
自郡至女王國萬二千餘里。
という部分は、女王国内部と女王国の南の説明として、一塊なのだから、
その一塊の中にある、
次有奴國、此女王境界所盡。
自郡至女王國萬二千餘里。
という2文は、脳に異常の無い者ならば、直ぐに結びつき、
自郡至女王國萬二千餘里は、
奴国女王境界所盡、自郡至奴国、萬二千餘里。
のことだと分かるね。
>>188
それだと、帯方郡から12000余里の奴国は、12000*75=900000=900` となるが、いいのか? @阿波 けっきょく奴国は、博多那の津だったという筋立てのようだな。
しかし、魏志倭人伝も、魏略も、廣志も、「倭国に上陸したら東南へ進め」と言っている。
末盧国からみると、那の津は北東だが、それだと魏志倭人伝や、魏略や、廣志は間違いだということになるが、いいのか?
>>192
上陸地点が呼子ということだよ
呼子から見て東南に伊都国だから 呼子から見ても、糸島や博多は東だが、それでいいのか?
>>194
忘れたフリすんなよ低脳
【基礎知識】
魏志倭人伝の記述
「至對馬國(対馬)〜乗船南北市糴〜又南渡一海千餘里〜至一大國(壱岐)〜亦南北市糴」
対馬←→壱岐の位置関係が南北と記載されています
そしてこの景色の南の方に邪馬台国があると書かれているわけです
忘れたフリすんなよ低脳
【魏志倭人伝の冒頭記述】
「倭人有り 帯方東南 大海の中」と書かれているわけですが・・、
>>196
後漢時代の倭は100国あった
その頃は伊勢遺跡などからも朝貢に行ってたんだろう
基本、その時代の記録をコピペしてるだろ
だから奴国が二回も出てくるんだよ みんな遠慮して(というか、小ばか毛嫌いして)、ぜんぜん行かないが、
末盧国から東南500里の伊都国は、佐賀平野の山寄りの大和町川上だ、
そこから更に東南100里、つまり末盧国からは東南600里の奴国は、現在の佐賀の市街地にあたるな。
此処が最初に出てくるほうの奴国。
そして遠絶傍国として出てくる奴国が、博多の那の津だよ。
なお大和町川上・伊都国の東方100里の不彌国は、かの有名な吉野ヶ里だな。(このように比定すると悩まなくて済む、正解ハッピー)
>>959 名前:日本@名無史さん 2021/01/20(水) 14:17:38.34
素晴らしい九州の古道図だ。上陸地点は唐津湾。
魏志倭人伝、魏略、廣志の記述通り、唐津へ上陸したら、唐津古道を東南へ下る。
→ 賀周駅→ 磐氷駅→ 高来駅→ 佐嘉駅(ここが伊都国)→ここから東南100里に佐賀市街の奴国が見える。
また →佐嘉駅(伊都国)から東行100里して→ 神崎駅(ここが不彌国)。
なおこの不彌国から、
(陸路を)南へ行けば投馬国に至ることができる、(帯方郡からは、全行程水行で20日)。
(同様にして陸路を)南へ行けば、邪馬台国女王之所都に至る。(帯方郡からは、唐津までの水行10日と唐津からの陸行1月) 卑弥呼時代の倭国
日本中の古ぼけた物事を好む者達を、あのゴッドハンドによる「発掘」の時と同様にして、熱狂させた、
おそらく方形で、数十センチメートル程の深さに掘削された、5世紀末以降に出現した「SX-1002」と完全に平行に隣接し、「SX-1002」との時間的な関係性が強く疑われるが、
謎の勢力に、謎の勢力が作製した観光用の着ぐるみのモデルとなった卑弥呼の時代である3世紀前半に建てられたのだ、と断定されてしまった「建物C」は、
本当は、5世紀以降に、建てられた物体である可能性が、高いのだったな。
奴国は一つだぞ。
なぜなら、魏志倭人伝に登場する使訳通じる国、30ヶ国は、全て、道理戸数を聞き取り把握できるよ。
即ち、魏志倭人伝に登場する国で、
「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種。又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里。又有裸國K齒國復在其東南船行一年可至。」
の部分の「有國皆倭種(おそらく百余国の内の幾つかの国々)と侏儒國裸國K齒國」以外の30ヶ国は、帯方郡の派遣した使訳に戸数も完全に把握されているよ。
◆女王にとっては国の境界の尽きる国であり、帯方からみれば女王国の入口である、道のり12000里の奴國までの道順を示した6ヶ国。
狗邪、對馬國、一大國、末盧國、伊都國、奴国
(7000+1000+400+400+1000+300+300+1000+500+100=12000)
◆女王の都に行く道順とは外れる2ヶ国。
不彌國、投馬國
◆女王の都である1ヶ国
邪馬壹國
◆女王に属さず女王の南に有る1ヶ国。
狗奴國
◆そして、邪馬壹國から、終点として再び掲げた、「帯方からみれば女王国の入口である、道のり12000里の奴國」までの帰途、
つまり、「次」という文字で道順であることを明示して紹介した、女王国内部を都から最北の出口へ向かったときに、次々に通りすぎる20ヶ国。
次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、
次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、
次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、
次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴厘國、次有支惟國、次有烏奴國、(次有奴國。此女王境界所盡。)
ぴったり、30ヶ国だな。
>>203
郡からの使訳は、邪馬壹國と狗奴國との合戦を目撃しただけではなく、
卑弥呼、男王、壹與までの交代劇も目撃し、
その間、
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
◆女王にとっては国の境界の尽きる国であり、帯方からみれば女王国の入口である、道のり12000里の奴國までの道順を示した6ヶ国。
狗邪、對馬國、一大國、末盧國、伊都國、奴国
(7000+1000+400+400+1000+300+300+1000+500+100=12000)
◆女王の都に行く道順とは外れる2ヶ国。
不彌國、投馬國
◆女王の都である1ヶ国
邪馬壹國
◆女王に属さず女王の南に有る1ヶ国。
狗奴國
◆そして、邪馬壹國から、終点として再び掲げた、「帯方からみれば女王国の入口である、道のり12000里の奴國」までの帰途、
つまり、「次」という文字で道順であることを明示して紹介した、女王国内部を都から最北の出口へ向かったときに、次々に通りすぎる20ヶ国。
次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、
次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、
次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、
次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴厘國、次有支惟國、次有烏奴國、(次有奴國。此女王境界所盡。)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
の30ヶ国の調査を実行する時間が有ったのだな。 >>204
やはり、貴方ならば、真実の意見を分かってもらえると思っていました。
そして、壹與が贈った男女生口三十人は、
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
◆女王にとっては国の境界の尽きる国であり、帯方からみれば女王国の入口である、道のり12000里の奴國までの道順を示した6ヶ国。
狗邪、對馬國、一大國、末盧國、伊都國、奴国
(7000+1000+400+400+1000+300+300+1000+500+100=12000)
◆女王の都に行く道順とは外れる2ヶ国。
不彌國、投馬國
◆女王の都である1ヶ国
邪馬壹國
◆女王に属さず女王の南に有る1ヶ国。
狗奴國
◆そして、邪馬壹國から、終点として再び掲げた、「帯方からみれば女王国の入口である、道のり12000里の奴國」までの帰途、
つまり、「次」という文字で道順であることを明示して紹介した、女王国内部を都から最北の出口へ向かったときに、次々に通りすぎる20ヶ国。
次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、
次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、
次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、
次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴厘國、次有支惟國、次有烏奴國、(次有奴國。此女王境界所盡。)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
の30ヶ国から、一人づつ選抜されて、贈られた可能性も、あるよ。 日本中の古ぼけた物事を好む者達を、あのゴッドハンドによる「発掘」の時と同様にして、熱狂させた、
おそらく方形で、数十センチメートル程の深さに掘削された、5世紀末以降に出現した「SX-1002」と完全に平行に隣接し、「SX-1002」との時間的な関係性が強く疑われるが、
謎の勢力に、謎の勢力が作製した観光用の着ぐるみのモデルとなった卑弥呼の時代である3世紀前半に建てられたのだ、と断定されてしまった「建物C」は、
本当は、5世紀以降に、建てられた物体である可能性が、高いのだったな。
>>205
>◆女王にとっては国の境界の尽きる国であり、帯方からみれば女王国の入口である、道のり12000里の奴國
それだと、帯方郡から12000余里の奴国は、12000*75=900000=900` となるが、いいのか? @阿波 実際には完全に間違えだったことが判明した、「方形周溝墓があったのだ」という早とちりの誤認と同時に発表された、
「「巻向遺蹟の(掘立柱建物なのだ、と発表されている、)建物群は、
観光用の着ぐるみのモデルとなった女王の時代である3世紀前半の遺蹟なのだ。」
という推定の唯一の理由とされた「柱穴には溝との切り合い関係があったのだ。」という発表」には、
そのための客観的に完全な物的証拠となる「遺跡を発掘破壊した当時の映画や写真やスケッチ」は、存在するのだろうか。
実際には完全に間違えだったことが判明した、「方形周溝墓があったのだ」という早とちりの誤認は、
ジグザグの溝を、方形周溝墓の溝と勘違いしたものだったのだが、
もし、
「建物Dが、そのジグザグの溝よりも数十年程度古い掘立柱建物であった。」という推定が真実ならば、
柱穴の深さが、交錯しているジグザグの溝の深さよりも、浅いことから、
「底面が1メートル×1.7メートルもある柱穴の深さが70センチと不自然な程浅く、ジグザグの溝は、1m程の深さだったか」
それとも、
「ジグザグの溝が2m程と不自然な程深く、底面が1メートル×1.7メートルもある柱穴の底の深さが、1.7m程の深さだったか」
のどちらかの間で、ジグザグの溝と底面が1メートル×1.7メートルもある柱穴の底の深さを、想定しなければならなくなるのだったな。
邪馬台国畿内説を完全に論破された「奥山氏=1 ◆n7jxAxKCBhb6 」が、討論での正々堂々の反論を放棄し、
「埋め立てやマルチポスト」という理由で、正々堂々の討論にとっては敗北宣言の意味にしかならない、5ちゃんねるへのくだらない告発をしたので、
僕達は永久に規制され、5ちゃんねるの日本史板という掲示板を、追放されてしまった可能性が高いな。
210 名前:学籍番号:774 氏名:_____ 2021/04/08(木) 11:42:35.29 ID:OggpfLhV
なんだまだ規制中なのか?w
そもそも、その里程を加算するのが間違いの元!
魏志倭人伝のどこにも、加算して「万二千里」などとは書かれていない!
すべて直線距離で表されている。 @阿波
>>211
畿内スレや奥山など、小雑魚はほっておけばよろしい。
レスという水をやらなければ、遠からず、干からびて消滅する おまけにこのところの畿内スレからは、腐臭も漂っている。
どうやら、バイ菌もわき始めたようだ。皆んな〜、ホイホイ近づくでないぞ。
完全に破綻してしまっている邪馬台国畿内説の立場を整理すると、
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
魏志倭人伝中にある、九州北部から投馬国を経て邪馬台国への行程での2つの南至は東至の間違い。
魏志倭人伝中にある、2つの自女王国以北は自女王国以西の間違い。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
という、少なくとも合計4回の間違いがあるのだが、
下の@からCまでのどの間違いの組み合わせであったとしても、4回という回数は、不自然すぎるな。
81日本@名無史さん2021/04/08(木) 11:37:52.45
>>79
漠然と「魏志の間違い」という表現を使うあたりさすが低脳w
一字違いで全てを否定してみたり、「径百歩」だけで箸墓確定などとほざいたり低脳妄想はなはだしいなw
@魏志作成時の記述間違い
A魏志の編集の間違い
B魏志複写時の転記間違い
C陳寿が参照した記録類の間違い
どれだよ? 万が一、魏志倭人伝時代に、壱岐や北部九州、そして、巻向を、全て訪問した、レベルの高い中国人がいるのならば、
壱岐や北部九州が、巻向よりも赤道に近いことを、簡単に見抜いてしまいそうだな。
「計其道里當在会稽東治之東」
会稽東治(江蘇省宿遷市宿城区)と同じ緯度(北緯33度56分〜58分)に女王国(阿波)がある。 @阿波
https://www.bing.com/images/search?view=detailV2&insightstoken=bcid_S3gyNtXaI5kCliZ5N45fpO2T2gHK.....yc*ccid_eDI21doj&form=ANCMS1&iss=SBIUPLOADGET&selectedindex=0&id=1294645963&ccid=eDI21doj&exph=341&expw=600&vt=2&sim=11 >>106
>阿波より手前に北部九州があるだろ?
帯方郡から12000余里の奴国は、12000*75=900000=900` となるが、いいのか? @阿波 そもそも、その里程を加算するのが間違いの元!
魏志倭人伝のどこにも、加算して「万二千里」などとは書かれていない!
すべて直線距離で表されている。
「計其道里當在会稽東治之東」
会稽東治(江蘇省宿遷市宿城区)と同じ緯度(北緯33度56分〜58分)に女王国(阿波)がある。 @阿波
view=detailV2&insightstoken=bcid_S3gyNtXaI5kCliZ5N45fpO2T2gHK.....yc*ccid_eDI21doj&form=ANCMS1&iss=SBIUPLOADGET&selectedindex=0&id=1294645963&ccid=eDI21doj&exph=341&expw=600&vt=2&sim=11
そもそも、その里程を加算するのが間違いの元!
魏志倭人伝のどこにも、加算して「万二千里」などとは書かれていない!
すべて直線距離で表されている。
「計其道里當在会稽東治之東」
会稽東治(江蘇省宿遷市宿城区)と同じ緯度(北緯33度56分〜58分)に女王国(阿波)がある。 @阿波
https://www.bing.com/images/search?view=detailV2&insightstoken=bcid_S3gyNtXaI5kCliZ5N45fpO2T2gHK.....yc*ccid_eDI21doj&form=ANCMS1&iss=SBIUPLOADGET&selectedindex=0&id=1294645963&ccid=eDI21doj&exph=341&expw=600&vt=2&sim=11 阿波「邪馬臺国」の決定的証拠 : 「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」 @阿波
うーん・・、 自郡 至奴国 萬二千余里ねえ、
それだと、東行100里至る不彌国の100里が、字余りになりになっちゃって、しまりがよろしくないねえ。
晩年のフルタも、自説にやや自信を無くし、それが遠因で、東日流にでも活路を見出すか・・、と思うようになったのだろうねえ。
壹與が贈った男女生口三十人は、
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
◆女王にとっては国の境界の尽きる国であり、帯方からみれば女王国の入口である、道のり12000里の奴國までの道順を示した6ヶ国。
狗邪、對馬國、一大國、末盧國、伊都國、奴国
(7000+1000+400+400+1000+300+300+1000+500+100=12000)
◆女王の都に行く道順とは外れる2ヶ国。
不彌國、投馬國
◆女王の都である1ヶ国
邪馬壹國
◆女王に属さず女王の南に有る1ヶ国。
狗奴國
◆そして、邪馬壹國から、終点として再び掲げた、「帯方からみれば女王国の入口である、道のり12000里の奴國」までの帰途、
つまり、「次」という文字で道順であることを明示して紹介した、女王国内部を都から最北の出口へ向かったときに、次々に通りすぎる20ヶ国。
次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、
次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、
次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、
次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴厘國、次有支惟國、次有烏奴國、(次有奴國。此女王境界所盡。)
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の30ヶ国から、一人づつ選抜されて、贈られた可能性も、あるよ。
あっちのすれの 180 日本@名無史さん
メッセージをお届けくださって、どうもありがとうございます。 謝々、、。
>◆女王にとっては国の境界の尽きる「国」であり、、、
これには、別の読み方もある。
つまり、此処 女王の境界尽きる「国」(=奴国)、と書かれているわけではない。
伝曰く、此処 女王の境界尽きる「処」(=範囲)、であるからして、以上に記述した処(=30国)で、女王の勢力範囲は尽きる・・,とも読b゚る。
希荘繧フ名文筆家・鋳ツ寿の文章としbトは、こちらの演釈のほうが相演桙オいのではなb「であろうか。
女王の直轄領(女王国)の境界の村々(国々)をグルリと順に「次々と」示したのならば、
最初に示される斯馬國の前に「次」の字は置かれないな。
斯馬國の前に置かれた「次」の字が意味することは、
あくまでも、「邪馬壹國の次には、」であり、
順に「次々と」示した出発点は、邪馬壹國=女王之所都にしかならないよ。
そして、この順で最後になる奴国こそ、この道順で、唯一、女王国の境界が尽きる場所なのだぞ。
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◆邪馬壹國から、終点として再び掲げた、「帯方からみれば女王国の入口である、道のり12000里の奴國」までの帰途、
つまり、「次」という文字で道順であることを明示して紹介した、女王国内部を都から最北の出口=奴国へ向かったときに、次々に通りすぎる20ヶ国。
(邪馬壹國女王之所都。)
次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、
次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、
次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、
次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴厘國、次有支惟國、次有烏奴國、(次有奴國。此女王境界所盡。)
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230 名前:学籍番号:774 氏名:_____ 2021/04/09(金) 08:14:38.07 ID:tkPiXZM/
>◆女王にとっては国の境界の尽きる「国」であり、、、
これには、別の読み方もある。
つまり、此処 女王の境界尽きる「国」(=奴国)、と書かれているわけではない。
伝曰く、此処 女王の境界尽きる「処」(=範囲)、であるからして、以上に記述した処(=30国)で、女王の勢力範囲は尽きる・・,とも読める。
希代の名文筆家・陳寿の文章としては、こちらの解釈のほうが相応しいのではないであろうか。
倭人伝「此 女王境界 盡きる所 」 の解釈としては、
以下、Bの抽象的な解釈の C場面、局面、あたりが適切。
ところ 【所/▽処】 の解説
A. 空間的な場所。人や物が存在する場所。
@ 住んでいる場所。住所。住居:「おところとお名前を教えてください」
A その地域。地方:「ところの人に尋ねる」
B 連体修飾語によって限定される場所*「県庁のあるところ」
B. 抽象的な場所。場面。範囲。
@ ふさわしい地位や立場:「職場で、ところを得る」
A その人の所属している組織や集団:「知り合いのところに発注する」
B 部分。箇所。点:「悪いところを直す」「粋なところのある人」
C 場面。局面:「今のところ、おとなしい」「今日のところは許してやろう」
D ちょうどその所。場合。際。おり:「さっき着いたところだ」
E 事柄。内容。こと:「思うところあって、辞任する」「自分の信じるところを貫く」
F 範囲。程度:「調べたところでは、そんな事実はない」「歩いて30分といったところかな」
(邪馬壹國女王之所都)
次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、
次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、
次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、
次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴厘國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國。
(と、列記したところ・所/処で、女王の境界=範囲/服属国は盡きる。)
魏志倭人伝には、「邪馬壹國女王之所都」という句があるよ。
つまり国=所だよ。
そして、次々に示した国々の始点である「邪馬壹國女王之所都」という句の対比として、
次々に示した国々の終点である「此(=奴国)女王境界所盡」という句がある。
邪馬壹國-女王-之-所-都 邪馬壹國、女王、之(強調)にて、都す処。
奴国-女王-境界-所-盡 奴国、女王、界を境して、尽く処。
始点と終点を明示するための、国=所を構文とする、この対句を理解できなければ、魏志倭人伝の作者の意図は理解できないぞ。
>魏志倭人伝には、「邪馬壹國女王之所都」という句があるよ。
>つまり国=所だよ。
・・・・A. 空間的な場所。人や物が存在する物理的場所を示する事例。
>此-女王-境界-所-盡
・・・・ B. 抽象的な場所、場面、範囲、或は文章中の位置や範囲や区切りを示す事例。
倭人伝には、空間的・実態的な使用例と、抽象的・文学的・文字列的な使用事例の2種類が出てくる。これを読み分けなくてはならぬ。
邪馬台国畿内説を宣伝している「奥山氏=1 ◆n7jxAxKCBhb6 」がまたしても、奥山氏の脳の異常を、晒しているな。
脳に可哀想な障害のある奥山氏は、
弥生時代終末の九州で「人面土器」がどれだけの数、出土し、
弥生時代終末の本州で「人面土器」がどれだけの数、出土し、弥生時代終末の本州で出土した「人面土器」がどの程度の割合で、黥面土器だったのかを示さなければ、
弥生時代終末の九州で鯨面文化が無く、弥生時代終末の本州で鯨面文化があったことの根拠にならないばかりか、
単に、弥生時代終末の九州と畿内の「人面土器」作製の慣習の違いを示すこともできないことも、
全く理解できないのだな。
261 ◆n7jxAxKCBhb6 2021/04/08(木) 03:39:54.59
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
>>236
貴方の指摘する統計的な検証が全くされていないだけではなく、
鯨面土器を作製した人物という一要素で、時代や地域の特色に還元して推定してしまうという、頭の出来栄えの良くない者が多用する、科学的には既に完全に破綻した要素還元の手法だな。 >>237
またしても、貴方とIDが、一致してしまいましたね。
同じスレッドの会話の中のこれほど時間的に近い箇所で、IDが一致してしまったのでは、
まるで、
魏志倭人伝の中の女王に関連の深い箇所で、「場所+女王+〜+所+〜」という形が、完全に一致してしまったのでは、
「場所+女王+〜+所+〜」という形が指し示す物事が
次々に国々を紹介する部分の始点の国と終点の国という同一構文による国名なのだ、と断定されるようにして、
ID:JCciXP4pが指し示す物事が、
次々に意見を発表するための、会話を装った同一人物による投稿なのだ、と断定されてしまいそうですね。 邪馬台国畿内説を宣伝する「奧山氏=1 ◆n7jxAxKCBhb6」が作製したスレッドで、
奥山氏の先祖が、朝鮮半島で産まれた人物なのか、
それとも、
奧山氏自身が、朝鮮半島で産まれたのか、
どちらなのかという研究会が、進行しているな。
ERROR: 余所でやってください。[history]
問い合わせID:○○○○
問い合わせIDと投稿のIDは、関連がなさそうだな。
>>235(追加・書き直し)
>此-女王-境界-所-盡
・・・・ B. 抽象的な場所、場面、範囲、或は文章中の位置や範囲や区切りを示す事例。
つまり、以上の30国を書き終えたところ(所)で、女王の勢力範囲(境界)は尽(盡)きる、という意味の用例である。 「4世紀から5世紀にかけて、倭人に大量に捕獲され、日本列島に連行されていた朝鮮半島出身の人民や、倭国の属国となり、人質として差し出されていた朝鮮半島の王族が、どのようにして日本列島に子孫を残したのか」
についての研究や
「唐と新羅に滅ぼされ、日本に大量に亡命してきた百済の者達は、どのようにして、大和朝廷に取り込まれたのか」
についての研究は、
どちらも、魏志倭人伝時代より新しい物事についての研究なので、
魏志倭人伝に邪馬壹國として紹介された都が、何処にあったのかという問題とは、大した関係性がなさそうだが、
「4世紀から5世紀にかけて、合戦や海賊行為で倭人に大量に捕獲され、日本列島に連行されていた朝鮮半島出身の人民」、
「倭国の属国となり、人質として差し出されていた朝鮮半島の王族」、
「唐と新羅に滅ぼされ、日本に大量に亡命してきた百済の者達」が、
古墳が造られていた頃から後の日本の文化や日本人の遺伝子に影響を与えていた可能性は、有りそうだな。
しつこいぞ。僕達のように、はっきりそれと分かる類例を示せ。
242学籍番号:774 氏名:_____2021/04/09(金) 13:22:45.31ID:tkPiXZM/
>>235(追加・書き直し)
>此-女王-境界-所-盡
・・・・ B. 抽象的な場所、場面、範囲、或は文章中の位置や範囲や区切りを示す事例。
つまり、以上の30国を書き終えたところ(所)で、女王の勢力範囲(境界)は尽(盡)きる、という意味の用例である。 「お使いのプロバイダさんが、原因となった人に対応するまで規制は続きます。」
という文章の中の
「原因となった人」
が、僕達の事を指し示しているのならば、どうしようもないな。
>>244
此 女王境界所盡
其南有 狗奴國 男子為王 其官有 狗古智卑狗 不屬女王
仮定として、奴国が女王の境界の国であったとすると、其の奴国の南には狗奴国も有った。
すると、郡から萬二千余里にあった奴国の南に、女王国の入り口と狗奴国の入り口が並んで有ったことになる、それでいいのか?? 魏志倭人伝を読み返し、「此」と「其」の指し示し方の違いを考えれば良いよ。
自女王國以北「其」戸數道里可得略載「其」餘旁國遠絶不可得詳。
次有斯馬國。次有已百支國。〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜次有烏奴國。
次有奴國此女王境界所盡。
「其」南有狗奴國。
「此」が指し示すべき、直前の語は、「奴國」。
最後に「其」が、明示的に指し示した物事は「自女王國以北」
つまり、「自女王國以北」の南に狗奴國がある。
246 名前:学籍番号:774 氏名:_____ 2021/04/09(金) 15:40:14.79 ID:tkPiXZM/
>>244
此 女王境界所盡
其南有 狗奴國 男子為王 其官有 狗古智卑狗 不屬女王
仮定として、奴国が女王の境界の国であったとすると、其の奴国の南には狗奴国も有った。
すると、郡から萬二千余里にあった奴国の南に、女王国の入り口と狗奴国の入り口が並んで有ったことになる、それでいいのか?? 魏志倭人伝の一部を正しく翻訳します。
「自女王國以北」は戸數道里可得略載だが、「自女王國以北」の餘の旁國遠絶不可得詳だぞ。
いちいち戸數道里略載はしないが、「自女王國以北」には都の次有斯馬國。次有已百支國。〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜次有烏奴國。
そして、次有奴國、この奴国が女王境界所盡なのだ。
そして、「自女王國以北」の南には、有 狗奴國 男子為王 其官有 狗古智卑狗 不屬女王だぞ。わかったか。
>次有奴國「此」女王境界所盡。
>「其」南有狗奴國。
「此」が指し示した直前の語は、「奴國」で良いが、
「其」が指し示した直前の語は「自女王國以北」ではなくて、「女王境界所盡」である。
(因って、女王の境界盡きる所の南に有狗奴國、と読む。お分かりかな、、。)
魏志倭人伝では、「其」は多用されているが、必ずしも直前の単語を指し示さないよ。
疑うならば、読め。
魏志倭人伝だけではなく、魏志倭人伝の作者の他の文章も、読み返し、「此」と「其」の指し示し方の違いを考えれば良いよ。
魏志倭人伝では、色々な目印で、「文脈のリセット」という物事が繰り返されているが、この目印を見逃せば、
ある段落での主題が何かについて、頓珍漢な解釈が、発生してしまうよ。
そして、
「次有奴國此女王境界所盡。」
で、次々に示した国々の終点が、奴国であることを、同型構文の対句法という目印で示し、
再び、視点を、次々に示した帰途の国々からリセットし、
「自女王國以北」の基準点に戻し、戻した視点から、狗奴国を説明しているよ。
そして、目印には、或る物事の重複使用が、多いぞ。
例えばだが、水行、陸行、会稽、男王、女王、伊都国、奴国、狗奴国、、、
実際には完全に間違えだったことが判明した、「方形周溝墓があったのだ」という早とちりの誤認と同時に発表された、
「「巻向遺蹟の(掘立柱建物なのだ、と発表されている、)建物群は、
観光用の着ぐるみのモデルとなった女王の時代である3世紀前半の遺蹟なのだ。」
という推定の唯一の理由とされた「柱穴には溝との切り合い関係があったのだ。」という発表」には、
その「切り合い関係」の客観的に完全な物的証拠となる「遺跡を発掘破壊した当時の映画や写真やスケッチ」は、あるのだろうか。
それとも、全く、存在しないのだろうか。
実際には完全に間違えだったことが判明した、「方形周溝墓があったのだ」という早とちりの誤認は、
ジグザグの溝を、方形周溝墓の溝と勘違いしたものだったのだが、
もし、
「建物Dが、造営された土壇上に建てられた、そのジグザグの溝よりも数十年程度古い掘立柱建物であった。」という推定が真実ならば、
柱穴の深さが、交錯しているジグザグの溝の深さよりも、浅いことから、
「底面が1メートル×1.7メートルもある柱穴の深さが70センチと不自然な程浅く、ジグザグの溝は、1m程の深さだったか」
それとも、
「ジグザグの溝が2m程と不自然な程深く、底面が1メートル×1.7メートルもある柱穴の底の深さが、1.7m程の深さだったか」
のどちらかの間で、ジグザグの溝と底面が1メートル×1.7メートルもある柱穴の底の深さを、想定しなければならなくなるのだったな。
日本中の古ぼけた物事を好む者達を、あのゴッドハンドによる「発掘」の時と同様にして、熱狂させた、
おそらく方形で、数十センチメートル程の深さに掘削された、5世紀末以降に出現した「SX-1002」と完全に平行に隣接し、「SX-1002」との時間的な関係性が強く疑われるが、
謎の勢力に、謎の勢力が作製した観光用の着ぐるみのモデルとなった卑弥呼の時代である3世紀前半に建てられたのだ、と断定されてしまった「建物C」は、
本当は、5世紀以降に、建てられた物体である可能性が、高いのだったな。
>>1
一部の、古ぼけた物事を好む学芸会の者達が、
「最近、数年来、宇宙線の観測が、劇的に進行し、千数百年間、巻向にも数限りなく降り注がれた、破天荒に強大な空気シャワーに含まれる、想像を絶する数量の、中性子が、地表付近の桃の種や壺の吹きこぼれを構成する炭素の同位体比率を激変させる可能性を明らかにし、完全に破綻してしまった炭素年代法」という、炭素についての物事を売り上げる者達に、騙され踊り、最後には、笑われ者になってしまい、
さらには、近畿第V様式土器という謎の物体を売り上げていた、大昔のほんの一部の要素でしかない者に、勝手に騙されてしまったよ。 あっちのスレは、やっとこさ息をしてる程度のようだ。
もう、長くはあるまいよ、ナムナム・・・、
そうさせたのは「阿波」であって、決して九州説のせいではないから。 ナムナム・・・、 @阿波
>>252
つまり、魏志倭人伝で、3回登場する「水行」、2回登場する「陸行」でも、
それぞれ最初に登場した時の完全な区間の明示は、その区間の始点が、それぞれ後から登場する「水行」と「陸行」の区間の始点でもあることの、予めの明示であるだけではなく、
直前までの文脈をリセットする目印でもあるのだな。
從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里。
東南陸行五百里到伊都國。
南至投馬國水行二十日。
南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月。 「本当は、吉備から河内に伝来したのだが、庄内という場所で発見されたので、庄内式と名付けられてしまい、邪馬台国畿内説という空想の材料となってしまった土器」
という言葉を、そのまま使用すると、
文章が、長くなり、読むのが、大変なので、
「吉備から河内に伝来し、庄内式と名付けられた土器」
という言葉に変換して、意見を発表します。
「九州で土師器Ib期に出土したが、「吉備から河内に伝来し、庄内式と名付けられた土器」と似ていると認識された土器」、
「「吉備から河内に伝来し、庄内式と名付けられた土器」の伝来元である吉備の土器」、
「吉備から河内に伝来し、庄内式と名付けられた土器」、
「「吉備から河内に伝来し、庄内式と名付けられた土器」の影響を受け、纏向大下水道の深い所に埋まった庄内0式と分類された土器」
という4種類の土器の埋まっていた4つの地域の位置関係から考えれば、
「「吉備から河内に伝来し、庄内式と名付けられた土器」の伝来元である吉備の土器」との直接的な影響関係がありそうな「九州で土師器Ib期に出土したが、「吉備から河内に伝来し、庄内式と名付けられた土器」と似ていると認識された土器」と
「「吉備から河内に伝来し、庄内式と名付けられた土器」の影響を受け、纏向大下水道の深い所に埋まった庄内0式と分類された土器」とでは、
「「吉備から河内に伝来し、庄内式と名付けられた土器」の伝来元である吉備の土器」との直接的な影響関係がありそうな「九州で土師器Ib期に出土したが、「吉備から河内に伝来し、庄内式と名付けられた土器」と似ていると認識された土器」の方が、古そうだよ。
土師器Ib期という謎の期は、どの程度の長さの期間だったのだろうか。
魏志・東夷倭人伝の書き出し
「倭人有り 帯方東南 大海の中」・・・
下に拝借したimgurは、素晴らしい原図です。
帯方 → 倭地(九州島)の位置関係が、東南の直線で正しく記入されています
「自郡至女王國萬二千餘里」
「計其道里當在会稽東治之東」
会稽東治(江蘇省宿遷市宿城区)と同じ緯度(北緯33度56分〜58分)に女王国(阿波)がある。 @阿波
https://www.bing.com/images/search?view=detailV2&insightstoken=bcid_S3gyNtXaI5kCliZ5N45fpO2T2gHK.....yc*ccid_eDI21doj&form=ANCMS1&iss=SBIUPLOADGET&selectedindex=0&id=1294645963&ccid=eDI21doj&exph=341&expw=600&vt=2&sim=11 名だたる中国の歴史書は、倭国に上陸したら東南へ進めと書いた。
しかし、後世の日本の学者・文化人・知識人は、ことごとく北東へ進むべしと捻じ曲げた。
そこに混乱・混迷・狂気の行軍の源が有ったということだ。
その尻馬に乗った阿波テものも少なからず・・、
そもそも、その里程を加算するのが間違いの元!
魏志倭人伝のどこにも、加算して「万二千里」などとは書かれていない!
すべて直線距離で表されている。 @阿波
そもそも、その里程を直線記述とするのが間違いのもと!
魏志倭人伝のどこにも、郡から直線で萬二千余里、とは書かれていない
皆が目にする通り、区間の累積距離で書かれている・・。
>>266
>皆が目にする通り、区間の累積距離で書かれている・・。
じゃあ、帯方郡〜不弥国まで何里だ? @阿波 つい最近まで、帯方郡〜不弥国まで1万700余里などと、どや顔でホザイテいたのに、なんだこのざまは。 わははははは @阿波
帯方郡〜不彌国までは1万600里+100里(この100里は、伊都国から奴国への枝道)だ。
んで、女王の都まで残り1400里だから、100qちょいだね。
残念ながら、阿波にはほんの少し届かないけど・・、
>>269
>10700*75=802500=802.5` ???
帯方郡〜不彌国までは、10700*75=802500=802.5` いったい不彌国はどこなんだ? @阿波 >>269
>帯方郡〜不彌国までは1万600里+100里
帯方郡〜不彌国までは、10700*75=802500=802.5` いったい不彌国はどこなんだ? @阿波 で、不彌国・吉野ヶ里から南へ100q余ということは、おおむね熊本県の範囲ということになる。
そして共立された所は、不平不満の出ないように、倭=九州島のど真ん中だったと考えれば、
阿蘇高千穂が、最高最適の候補地だな。(後世の高千穂神話は、伊達ではないぞえ)
>>272
>で、不彌国・吉野ヶ里
帯方郡〜不彌国・吉野ヶ里まで800キロもあるのか? @阿波 >>273
帯方郡(ソウル)〜唐津〜多久市〜吉野ヶ里で、880qくらいだろう。
1里80mちょっとだな。 >>272
>阿蘇高千穂が、最高最適の候補地だな。(後世の高千穂神話は、伊達ではないぞえ)
で、なんという阿蘇高千穂の王都遺跡なんだ? 有りもしない妄想を楽しんでるのか? わははははは @阿波 >>269
>んで、女王の都まで残り1400里だから
んで、不彌国〜投馬国までの水行二十日は無視か? わははははは @阿波 福津に上陸しても、郡から1万里だ。
福津から筑豊経由〜中津〜徳島まで400qはあるだろう合計1200qで、1萬5千里ってえところだな。
洛陽から西の大月氏までの1萬4千里より遠いじゃないか、超遠絶の東の阿波氏・・、
ま、しもじもの荒れ果て、顧みられることのなかった遺跡(=廃墟)とはわけが違う。
卑弥呼の塚を祀る高千穂神社、及びこれを取り巻く神社群は、今も数多の神職によって護られ、祀られ、日々掃き清められているのだ。
そして皇族方の御参詣も数知れず・・、
>>276
アワ如きの読みとはわけが違うわ
・不彌国〜南至る投馬国
・不味国〜南至る邪馬台国女王の都する所
この二行は並列記述だ。どちらも不彌国から南(正確には南南東)であり、陸行する場合は途中まで同じ道なんだよ。 >>277
>卑弥呼の塚を祀る高千穂神社、及びこれを取り巻く神社群
神社が王都遺跡なのか? みじめにならないのか? わははははは @阿波 >.279
繰り返すが、遺跡(廃墟)ではないぞ、古えの王宮のお姿そのものだ。失礼無きよう御参詣ありたし、
>>280
つべこべ言わずに、王都たる集落遺跡を示してみろ! そんなイカサマ神社など興味ないわ、ヘタレ。 @阿波 阿波さんも、
叩いてばかりいないで、
もっと歴史を追求しましょうよ
真実を書けば、
それが決定打になるんですから
>>282
歴史の真実 「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」 @阿波 >>284
そんなイカサマ神社など興味ないわ、ヘタレ。
「阿波」の記紀古神社知らんのか? @阿波 阿波さんは、
劔山なら、
安全と思いますか?
核ミサイルがある今、
全然安全じゃないと思うんですけど
[日本高千穂神話の里]・・・(但し現在は、宮崎県西臼杵郡に帰属)
阿蘇高千穂
中心街区 : 高千穂町大字三田井(=馬台)・・・翰苑に登場するあの馬台である
「山に憑き 海を負い 馬台を鎮め 以て都を建てる 」
高千穂とは天降(あまくだ)った所なんだから、少なくとも高い山地(阿蘇高千穂)ではなく、麓・平地である。
そして、豊かに稲や稗などが稔るところを指す。
高天原=四国山地(神山・木屋平村)
高千穂=大吉野川中流域(穴吹・阿波町) @阿波
三田井氏(みたいし)
氏は、天照大神、三毛入命、祖母嶽大明神らに連なる高貴の一族として、日向高千穂(高知尾)を治めた「高千穂氏」の末裔氏族である。
六代目に男子なく、豊後・宇佐神宮大宮司家の大神氏惟基の一男を貰いうけ、嫡男とし高千穂太郎政次を名乗らせたという。
なお鎌倉時代後期、高知尾武政より「三田井氏」を名乗っているが、これは高千穂の主邑であった三田井(=馬台)の地名に由来する。
>>289
>なお鎌倉時代後期、高知尾武政より「三田井氏」を名乗っているが
鎌倉時代www
高千穂とは天降(あまくだ)った所なんだから、少なくとも高い山地(阿蘇高千穂)ではなく、麓・平地である。
そして、豊かに稲や稗などが稔るところを指す。
高天原=四国山地(神山・木屋平村)
高千穂=大吉野川中流域(穴吹・阿波町) @阿波 倭人伝に記された「邪馬台」に発し、翰苑に云う「馬台」に由来して、
高千穂(高知尾)の主邑にその名をとどめてきた「三田井(=馬台)」の名を、鎌倉時代に氏族の名として戴いたというわけである。
その長きの及ぶ地名は、今もなお高千穂町の中心街区に見ることができる。しかも、三田井の小字には「神殿」という名さえも残されているのである。
>>291
鎌倉時代の後付け地名はどうでもよい。 @阿波 連続苦闘天、魏志倭人伝を研究する。
公式ホームページ
renzokukutouten.blogspot.com
阿波に限るわけではない。
日本の殆どの学者・文化人・知識人が、中国の歴史書を無視(軽蔑)して、上陸したとたんに我を忘れ、北東へ猪突猛進するから迷子になる。
挙句の果ては、史書のどこそこがいくつ間違っている・・、などと古代人のせいにして責任逃れを計る。
倭国(唐津)に上陸したら、魏志倭人伝・魏略・廣志が書き記すところに則って、忠実に東南へ向かえばいいのだ。
そのように行動した先学もいる。名文筆家の森村伊作氏、山口大学の吉本彰教授はその先駆けであった。偉大な先覚者を見習うべし・・・、
>>294
>阿波に限るわけではない。
まるで「阿波」が間違ってるような言いぐさだな。 中国の歴史書を忠実に、東南へ向かうのは「阿波」一択。 @阿波 古代三世紀の宮殿は遺跡(廃墟)となって、地下に埋もれている。多くはそうだ。
しかし、倭国や日本国を支え、諸国を従えてきた超大国の王宮は、そうとは言い切れない。
出雲大社は、古代出雲王国の宮殿の姿・形を今に伝えるもので、多数の神職により守られ続けている。
高千穂神社群も全く同様であり、古代倭女王の王宮と廟墓を護り伝えるものである。
近世になって急造された近世国家的神社の橿原や明治やその他もろもろとは、歴史時間の長さが違う・・・。
古代倭国の源流の水は、現代の川にも流れている、、、
徳島そごうも、奈良そごうも閉店か。
倭女王国の歴史にくらぶれば、ほんの束の間、うたかたの夢・・・、
阿蘇高千穂(現・宮崎県西臼杵郡高千穂町)の主邑である三田井地区は、
最深150メートルにも及ぶ断崖絶壁で取り囲まれ、外敵を防いできた。その総延長は25qにも及ぶ。
比較していえば、奈良の桜井市ほどの面積が、天然の150mの城壁で囲まれているようなもので、まれにみる絶景・絶壁なのである。
この三田井地区の東半分ほどが、「神殿」と表記される。(地元の発音では「こうどの=神殿」)
叉西端には、径150余mほどの、こんもりとした良形の自然丘陵が有る。これが伝にいう「径百余歩」の塚なのであろう。
そして三十三階段を登った其の最も高い部分に、古代人が盛り上げたと思しき、これまたこんもりとしたご神体山が鎮座している。
遥かな古えには、季節ごと、その御前に仮の青垣を巡らせて、祀り事を執り行ったと伝えられる。
が、やがてそこには柱を立て、屋根をかけて、神殿がしつらえられることになったらしい。
それは垂仁天皇の御代であったというから、並の歴史のおやしろではない。今、名づけて曰く「高千穂神社」である。
>>300
そんなイカサマ神社など興味ないわ、ヘタレ。
「阿波」の記紀古神社知らんのか? @阿波 当時の世相を映す鏡は、まさに銅鏡であろう。
卑弥呼が拝したと思われる○印の黄金塚出土神獣鏡 景初三年銘(239年) や、その他三角縁神獣鏡の図柄の特徴の一つは、
二重三重の鋸歯紋列である。これはその形からして、王宮を取り巻く城柵を模したものであろう。倭人伝にいう「厳設城柵」である。
つまり、二重三重の厳設城柵が「長誼子孫」をかなえる条件のひとつであったことを物語っているのであろう。とにかく物騒な時代だったわけだ。
◆魏の年号が記された鏡
方格規矩四神鏡 青龍三年(235年) 大田南5号墳 京都府弥生町
方格規矩四神鏡 青龍三年(235年) 安萬宮山古墳 大阪府高槻市
○ 平縁神獣鏡 景初三年(239年) 黄金塚古墳 大阪府和泉市
三角縁神獣鏡 景初三年(239年) 神原神社古墳 島根県加茂町
三角縁盤龍鏡 景初四年(240年) 広峰15号墳 京都府福知山市
三角縁盤龍鏡 景初四年(240年) 持田古墳群? 伝・宮崎県
三角縁神獣鏡 正始元年(240年) 蟹沢古墳 群馬県高崎市
三角縁神獣鏡 正始元年(240年) 森尾古墳 兵庫県豊岡市
三角縁神獣鏡 正始元年(240年) 御家老屋敷古墳 山口県新南陽市
平縁神獣鏡 (晋の元康年間291年〜) 上狛古墳 京都府山城町?
あっちのスレの >>799
>末慮国(松浦)⇒伊都国(糸島)⇒奴国(なの津=志賀島含む福岡平野一帯)までは
>畿内説、九州説ともに一致しているのだから、方角誤りは自明。
方角を誤ってるのは倭人伝ではなくて、畿内説の学者や九州説の学者やオメの方だぞえ。みんなまとめて大誤りwww >>303
「魏志倭人伝」の方角通りなのは、「阿波」だけ。 @阿波 学術的知識を以て頑張ってるのは、阿波ただ一人じゃないか、大したものだ。
(5)末盧国から伊都国 東南に陸行して五百里
>「東南のかた陸行五百里にして、伊都國に至る」
> 東南に陸行すること五百里で、伊都国(福岡県糸島市付近)にいたる。
・・・・・倭人伝は「東南へ進め」といってるのに、猿は、なぜ北東の福岡県糸島市付近へ行きたがるのか?? 東南だ、東南へ行け。
(6)伊都国 から奴国 東南行して百里
>「東南のかた奴國に至ること百里」
> 東南(行)して、奴国(福岡県博多湾付近)にいたる。百里である。
・・・・・倭人伝は「東南の方向だ」といってるのに、猿は、なぜ東の福岡県博多湾付近へ行きたがるのか?? 東南だ、東南へ行け。
東南だ、東南の佐賀平野へ向かって進め。
そこに帯方郡の常駐所があり、一大率もいる・・。
奧山氏が、奥山氏の禿げを隠すために、頭にアルミホイルを巻き付けていることを、告白したな。
佐賀平野は広大だ、そしてその東には筑後・筑前平野が続く。掛け値なしの一望千里、つまり対馬〜壱岐間に相当する。
博多平野や、奈良平野なんか、ちゃんちゃらおかしくて相手にしておれるか・・・。
>>311
>佐賀平野は広大だ
碌な弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構の無い佐賀平野に、広大な平地がいくら在っても無用の長物!
そんなところに「邪馬臺国」など興る訳がない。 @阿波 そごうもやむなく閉店の田舎町に、「邪馬臺国」の王宮など有るわきゃなかろう・・・、
不振徳島商工会、必死の邑おこし、街興し、アワおこし・・・、
>>311
>佐賀平野は広大だ
碌な弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構の無い佐賀平野に、広大な平地がいくら在っても無用の長物!
そんな寒村に「邪馬臺国」など興る訳がない。 @阿波 佐賀平野、筑後・筑前平野、そして其の南には熊本平野と阿蘇高原が続く・・、
北海道か九州か、というくらいの雄大さだ。現地を訪ねてみよ、これらの平野を行き来した古代人たちの躍動・鼓動を感じる。
>>315
>これらの平野を行き来した古代人たちの躍動・鼓動を感じる。
碌な弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構の無い寒村に、古代人たちの躍動・鼓動など感じる訳がない。 わははははは @阿波 ありきたりの神社か廃墟しかないのに、徳島の売り出しにひっしになっておる。地元思いの阿波は感心じゃのう・・、
>>52
>ザラコク氏へ。
ザラコク氏の意見は、できる限り、日本史板へ、転載します。
有難う御座います。
しかし、私はしばらく5チャンネルの掲示板から離れていて、
今日、久しぶりに「テスト投稿】をして見たのですが、直ぐに刎ねられましたね。。。。。。。。。
しかし、「邪馬台国畿内説」掲示板の方も少し見てみたのですが、
東大理系博士号自称男も、余り投稿していないようで、寂れていますね。
>ただし、僕達も、投稿しづらくなっているので、失敗する可能性もあるよ。
それはお気の毒な事ですね。 >>55
概ね賛成です。
江戸末期に鈴木真年氏(後に東大教授になった)に拠って収集され、
国立国会図書館と静嘉堂に保存された「松野氏姫氏系図」の一つには、
姫氏の呉王夫差の遺民が火の国山門に渡来し、しばらくしてそれから、
その一部が委奴の地に移って天孫族系の阿毎氏と合同して、
更にまた、しばらくしてそれからまた一部が大野の地に移り、委奴國王や帥升らを輩出した後、
卑弥呼や壹與(卑弥呼の3代後の「市鹿文」)の名前が記録され、その後、玉垂命のような名前(倭王旨?)があり、
その後、倭の五王の名前があって「東海姫氏國=倭國」とよばれ、
倭王武の次に「倭國王哲」の名前があった後、
突然「倭王」の文字が消えて臣下になったようで、それが丁度磐井の出現時期と一致しており、
磐井は、半島や宇佐方面の出で、大和のヲホド(継体と贈り名?)の物部軍の倒されて、
それを継いだ葛子の王家からタリシホコが「阿毎」氏であるから、磐井も(姫氏ではなく)阿毎氏であった事になり、
大和の(糟屋の屯倉を獲得した)ヲホドの後継者の安閑や宣化は、九州倭國の執政的な地位や施政を実行しており、
更に欽明や推古は筑紫に「宮」を持って九州倭國の王家や太宰や執政にもなっており、
新唐書や(釈日本紀紹介の)延喜講記に拠れば、大和王の欽明が梁にコンタクトを付け、
「次用明,亦曰目多利思比孤,直隋開皇末,始與中國通」で大和の小野妹子が、
隋の文帝に「日本国」名を名乗ったが、受け入れられず、
唐の「武徳中」になって始めて「日本国」名を承認されたんですよ。