所在地を巡って九州説か近畿説かで激論が続く邪馬台国論争に、新たな視点を投じる本が刊行された。福岡県小郡市埋蔵文化財調査センター所長片岡宏二さん(63)が書いた「続・邪馬台国論争の新視点−倭人(わじん)伝が語る九州説」(雄山閣)だ。
「弥生時代の終わり、日本列島では近畿地方と北部九州の二大勢力圏があった。近畿は絶対的な王権で後のヤマト、そして天皇家へとつながるのは確実。でも卑弥呼は決して、力でクニグニを制圧した人物ではない。隣接したクニとも調和を保った北部九州こそ、邪馬台国の姿と重なる」。九州説を採る研究者として、論考を新著に詰め込んだ。
続編の今作に合わせて増補版に改めた前作「邪馬台国論争の新視点−遺跡が示す九州説」(2011年刊)では、論争の火種になってきた「魏志倭人伝」記載の方位や距離のずれを、実際の遺跡調査に即して整理し、筑紫平野の「クニ」の連合体を邪馬台国の有力候補として位置づけた。続く今作は、卑弥呼が「どのような王」として存在し、彼女が約50年間統治した「クニ」がどんな姿の社会だったかを考察している。
片岡さんは倭人伝を含む歴史書の記載から、卑弥呼像を「長年の戦争によって乱れ、疲弊した諸国が戦争を終わらせるために協力し、納得して担ぎ上げられた調整能力の高い人」とみる。そして倭人伝で描かれた社会の様子や権力構造を、近畿と北部九州それぞれの遺跡群に重ね、北部九州の相互扶助的な連合国家を「邪馬台国」とした。
「魏志倭人伝の基になった魏の使いは、近畿と九州のどちらがいかに日本として成熟し発展したかを書き残したのではない。ただ邪馬台国という地域のありようを書いた」
北九州市出身。ジャーナリストにあこがれを抱いて進学した早稲田大で、考古学と出合った。宅地開発と歩をそろえて遺跡発見が相次いだ小郡市に就職。発掘現場の視点から、日本の成り立ちを考えてきた。
近年、近畿説が広く受け入れられがちなのは「現代の日本が中央集権的なので『国とはそういうもの』と思われてしまうから」とみる。執筆に際して、九州説の再評価だけでなく、現代のリーダー像再考をも胸に忍ばせた。「専制君主ではなく、諸国が共立し、彼らに慕われた卑弥呼だった。でないと50年も続きません」。現場での実感を研究に生かすことはジャーナリストの姿勢にも通じている。
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/595956
★1が立った日付2020/04/08(水) 14:59:30.28
前スレ
http://2chb.net/r/scienceplus/1586325570/ 九州説って、九州にあって欲しいという願望を基に論拠を構築してるよね。
卑弥呼はクマソだろ。
戦前より遅れてる学問は一回主要学会全部解体しろよ。
歴史学に関わってる人達って言葉遣いも大事にしてる人が多い印象なんだけど、なんで"魏志倭人伝"はいつまでも使い続けるんだろ
略すとしても、魏志東夷伝倭人条じゃない?
倭人伝なんていう、独立した伝になるほど重要な地域と誤認するような用語を使うから、そこに書いてあることが正確だと思ってしまう。
唐代の日本人と中国人が邪馬台国=大和って考えてたんだろ?
それ以外有り得ないわな
まあ卑弥呼は有力者同士の争いの中で妥協の産物として擁立されただけやからな。
結局神武は九州から来たらしいから邪馬台国は九州でいいや
大和は瑕疵研が幾ら掘っても掘っても、6世紀以前のものが出てこないんで、
困り果てているみたいですよ。7世紀はなんとか誤魔化しているけどね。
日本列島の成立の頃から 南方海上よりの黒潮海流は常に日本列島を巻き込み北上し流れてきた
日本列島に初めて漂着したのは北方から徒歩で来た人々では無く 南方より黒潮に乗り米作と共に漂着した人々だった 黒潮は休む事無く常に日本へ流れており
漂着する人も三々五々の如く常に日本へ流入し続けた 琉球 九州 四国 本州の順で
北方は21世紀の今も人の生存状況は厳しく 此処を超えて多数が来たとは思えない
南方より漂着した人々は石器時代には黒曜石を産出する地域に集まり米作で生活し1万5千年前頃には人類初の土器を製造し始めた
石器時代は徐々に銅器時代へと移行し始める この時の日本には大阪には親呉圏の銅鐸文明が栄える 銅から鉄へ移行する時
ニンポー 台湾 琉球などから来て九州北部に鉄を持った天孫降臨族が発生し博多を拠点とし九州を支配下に治め倭国(チクシ)を支配する
チクシという呼称は既に周の時には使っていた
勿論大陸との外交は重要で周や漢や魏と交流する その間の出来事は ニニギのヨシタケタガギ(場所は福岡市西区) 金印(カンノイトコクオウ)
同じくヤマイチ国のシンギワオウ(ヒミカ)場所は福岡県春日市スクオカモト(絹の出土)
倭の五王(都督府を大宰府へ) 磐井天皇の律令制度 サチヤマ白村江の戦いでの敗戦および唐軍の大宰府進駐などがあり700年まで続いた
1年頃今の糸島市で不遇を囲っていた神武兄弟は新天地を求め大阪侵略を思い立つ
勿論神武兄弟以前にも多くの侵略者が行ったがいまだ成功は見なかった
大阪の銅鐸文化圏へ天孫降臨族の不断の圧力が今の岡山県あたりで前哨線となっていた
当然銅鐸圏の東鯷国ナガスネヒコの防御は明石や淡路島で堅かった 為に神武兄弟は鳴門をとおり大阪湾へ突入したが散々に負け神武の兄は死ぬ
その後熊野をとおり奈良へ侵入し殺戮の限りを尽くすがその後スジンまでは奈良に逼塞する
250年頃呉の滅亡で後ろ盾を失った銅鐸圏へスジンは侵略しその後ジンムの末裔を殺戮する
欠史8代とはスジンが史実を知らなかったことが理由
その後北陸へ半島より渡来した継体は応神五代の末という触れ込みで奈良政権を奪う 内紛に感けて継体の侵略を許した
奈良政権を奪った簒奪者継体は次に倭国簒奪を狙う モノノベノアラカイへ九州を与え本州は自分がとるとの密約は周知の事実
此の倭国侵略で継体の嘘が露になる 分流の奈良は称号に倭(チクシ)と名乗り倭国の末裔たる事を誇りにしていた しかし継体は半島渡来であり倭国とは何等の関係も無かった
半島の高句麗との戦いの援軍を装い岩井天皇を暗殺したが 九州の肥後の軍勢に追われ倭国奪取は出来なかった
倭国由来の血統の絶えた継体以降は敵地同然の奈良の居心地は悪く 半島由来の多く住む滋賀京都を目指した
700年以後同じく半島由来の藤原一族と共に日本列島の支配者となる
この時テンムが倭国の文書(日本旧記を始めとする)を集め日本書紀に内容を剽窃した
現在の日本の歴史教科書のとおり奈良政権が日本列島を代表するようになったのは
710年から 其れ以前は九州大宰府を首都とする倭国
九州にも大きな集落があったってだけで、邪馬台国は四国だろ。九州は中華や半島の玄関口ってだけ。
出雲との関係が安定してから四国から侵略されにくく、より平地の多い大和へ移住したんじゃね?
>>10
邪馬台国=大和と考えていたとしても、その大和が畿内にあったという事にはならないでしょ
実際、大和政権の公式歴史書である日本書紀に神武東征があるんだから
神主の祝詞も「筑紫の日向の橘の…」とあるのに、九州とは無関係ですって言う方がおかしいよ >>19
九州北部は2世紀に大和に負けてからは辺境の地だよ
伊都(現:福岡県糸島市)の古墳からは大和に壊された鏡が沢山出土してる
その後、5世紀以降は関東よりも辺鄙な一地方に成り下がる
もっとも栄えてた大宰府も都の役人にとっては左遷の地でしかなかった。 日本「我々は倭国ではなく日本です」
日本「我々は倭国ではなく邪馬台国です」
>>21
大和とか言う地名か政権が2世紀にあったとか嘘言うなよ
どこにそんな証拠があるよ
嘘もたいがいにしろ 個人的な考察なんだけど、
邪馬台国のヤマは山から来てるんだとするならば、アルタイ語族系の影響が
あったんじゃないかと思う。
同じアルタイ語族のトルコは、日本のように山のことをヤマというらしい。
トルコでは中央アジアで別れ西に進んだのがトルコ人であり、東に進み海を
渡ったのが日本人であるという話があるらしい。
>>34
ググッてみたら、トルコ語では山は「ダァ」だったぞ、あたしゃ信じないね。
天皇家は縄文系
このティラースミスなる人物が実在するか否かは知らないが
検証の過程は論理的かつ科学的
反論できないでしょ
↓
>オックスフォード大学の遺伝学研究チーム・クリス・テイラースミス (Chris Tyler-Smith)教授は、
>日本人の男性のY染色体の一塩基多型(SNPs)および縦列反復数(STRs)を解析した結果、
>天皇家のハプログループはD1b1a2b1a1(D-CTS8093)に属する系統であると結論づけた。
>これは藤原氏のO1b2a1a1(O-CTS10145)と並んで日本でもっとも多く子孫を残した系統にあたる。
>研究チームはサンプル採取と解析の結果、このCTS8093の下流に属する系統から夥しく人口の増加が見られ、
>現在の日本人男性の37%がこの系統に属していることに注目し研究を進めてきた。
>CTS8093は、出アフリカを果たした直後の系統ハプログループDに属し、
>その下流にあたるD1bは日本列島以外では検出されない古代型の特殊なY染色体である。
>研究チームはこの特有のY染色体の拡散の原因を作った人物は、
>日本を統治した国家元首・天皇家であると結論づけている。
>この研究を主導したクリス・テイラースミスは、
>日本列島で長期間にわたって特定のY染色体を持つ人々が広がった理由として、
>この島嶼地域において上流階級は一夫多妻が一般的であり、
>その頂点に 君臨する天皇は、神話を根拠として統治機構を完成させ、
>代々男系男子の子孫であることを絶対条件として皇位を継承してきた。
>さらに日本列島は、外敵の侵入を防ぐのに都合よく、歴史的に見て他の民族に支配された経験がない。
>あらゆる面で、古代の系統を温存するのに優れた環境であったのではないかと述べている。
>この天皇家のD1b1a2b1a1が属するD系統は主に日本とチベットに分布し、中国や韓国ではほぼ分布しない。
>また、日本国内ではアイヌや琉球で特に割合が高くなる。これは縄文人の系統と見られている。
>D系統のうち特にこのD1b1a2b1a1が日本で非常に増えた要因は、
>天皇家およびその子孫の源氏や平家が各地で子孫を広げたことによるものとみてよい。
さらに検査も数多くされている
ハプログループ調べる遺伝子検査は一般でも受けられるようになってずいぶんと経つのだから当然の話
天皇家の血筋のハプログループが弥生ならあっち系の息がかかった雑誌(そもそも韓国国内のマスコミ)なりが大喜びで記事にしているだろうからな
それがネットでさえもまったく触れない
つまりそういうこと
>日本の天皇のY染色体ハプログループは、D1a2a1b2a1a1に属することが、多くの検査によって明らかとなりました。
>同時に、天皇家から分岐した系統とされる、源氏(Mimamoto clan)、平家(Taira clan)および、
>東山天皇(Emperor Higashiyama)の男系子孫である徳大寺(Tokudaiji)、住友(Sumitomo)の各家から得られたサンプルからも同様の結果が得られました。
邪馬台国では「真珠が産出」し、
「男はみな入墨をしており」それは「大魚の危害をはらうため」であるほどの漁民で、
「長命で、八十歳以上の者もおり」、
「(巫女の)女王に統べられている」
こんな今なら沖縄系まるだしみたいな民族が、
ほんの三、四世紀で奈良住まいの麻呂系に変身した
真珠も大魚も2千年前まではきっと奈良にいた
キリッ
>>41
素直に読むと
邪馬台国は沖縄か台湾にあった国だよね >>38
山地のことをヤマチと呼ぶらしい。
トルコ人と思われる研究者の論文に書いてある。 一番 重要なのは 場所じゃないよ
卑弥呼が 綺麗だったかどうかだ
>>8
あのな〜。魏書をなぜ魏志と呼んでるか分かってんのか。 正確には 卑弥呼 じゃなくて 日巫女の 様な 気がするな
>>46
日美子だよ
日ペンの美子ちゃんが卑弥呼の子孫 >>4
クンニ書込あると思った。
それより、クンニしろオラァ!が
無いのが意外 >>44
映画なら ヒミカ 安室奈美恵 神武 海老蔵 >>45
コトバンクより
魏志
デジタル大辞泉の解説
中国の歴史書「三国志」のうち、魏の国に関する史実を記した部分の通称。30巻。「蜀志(しょくし)」「呉志」とともに、晋の陳寿の著。魏書。
志
1 紀伝体の歴史書で、天文・地理・礼楽などを事項別に分類して記した部分。
解説お願いね。 >>46
倭もそうだけどあの当て字は魏国が勝手に見下して付けた奴だからな 邪馬台国畿内説は、否定証明完了済み。
卑弥呼の居た三世紀半ばは西日本は近畿や吉備や出雲などの有力な豪族が割拠し、緩やかに連合していた時代で、どの勢力も他の勢力を軍事的に統括出来ずに居た。
これは古代日本史の完全な定説で、誰も異を唱えるものなど居ない。
しかし、邪馬台国の命令で奴国などの北部九州を軍事的に統括していた伊都国は北部九州にある。
つまり、近畿に邪馬台国があったと主張することは、近畿は自分の周辺すら軍事的に統括出来ずに居るのに、中国地方をすっ飛ばして北部九州は軍事的に統括出来たと主張することになる。
これはバカが言う説であり、もはや学問の体を成していない。
邪馬台国畿内説は立論の段階で失敗しており、学説として成立していないただのファンタジー。
はい、畿内説一発で全部論破w
>>41
それ邪馬台国のことではなく、倭国のこと
どうして魏志倭人伝に書かれてることを全て邪馬台国のことだと思い込むんだろうか? >>42
素直に読むと九州だよ
三世紀は暖かかったからね >>46
日巫子だろな
卑弥呼が余りに偉大だったから
これから巫女や媛って言葉が出来たんだと思う
狗奴国のは多分彦巫子 魏志倭人伝の頃から、日本の自称はヤマトという国だよ。
中国語では、自分のことをWAと発音する。
つまりWAの国とは、私の国・・という意味での日本訛り中国語
ちなみに、中国語で、自分は鈴木です→ wa si suzuki となる
つまり、日本語で自分を指す言葉ワシは、中国語の i am に相当する
つまり、ワの国とは、my country 私の国という意味です
日本人が私の国と話してるのを聞いて・・・あぁ、この国は、
ワという国なんだなと・・・ということで、ワの国という単語が定着した。
さらに、
当時の中国では、周辺の異人国に、動物や悪魔の文字で当て字していた。
【中国人:おい!ワの人達よぉ、お前らの王朝の名前とか、あるの?】
【日本人:ヤマトっていう王朝だよ?】
【中国人:ヤマトって、どういう意味?】
【日本人:ヤマというのは、山という意味で、大きなという意味です】
【日本人:トというのは、人という意味で、団結した国民達の意味です】
【日本人:大きな団結した人達という意味で、ヤマトといいます】
【日本人:だから、ヤマトは、漢字で言えば大きな和で大和ですかね?】
【中国人:なるほど、カッコ良すぎて中国国内の書物には書けないな】
【中国人:中国の書物では辺境の人達を、侮蔑的名称にするのがルール!】
【中国人:よし・・・ワの人達は、倭だな。。。小さい奴らって意味だ】
【中国人:よし・・・大和ヤマトの国は・・・邪な馬の辺鄙な国といういみで邪馬台国だ】
【中国の本:東の方には、倭人!が作った邪馬台国!ってダセェ奴らがいますよ】
コレが全てなんだよ
>>54
中国の書物では、中華以外の存在を侮蔑する文字を当てるのがルール。
つまり、倭は、悪い意味です。
そうでなければ、使われませんから。 >>60
卑字の考えは誤り
何度も何度もデタラメ言うな猿 ヤマト という国 の ヒメノミコト(姫の尊=姫の巫女)
大和国のヒメノミコト:ヒメミコ:ヒミコ
→中国的に侮辱した文字を当てて、卑しい奴ってことで、卑弥呼
ワの国:ワシwasiの国
→中国的に侮辱した文字を当てて、倭だな、倭人だ!
>>62
デタラメじゃないぞ
日本以外の辺境の奴らに対する説明を見れば明らか >>64
卑字の考えは誤り
何度も何度もデタラメ言うな猿 >>65
ほうら みんな見てくれ
65は俺を侮蔑しようとして【猿】という文字を書いてきた
つまり、中国人も同じ
辺境の人達を動物や魔物の漢字を当ててきたんだ 荒らしはスルーすべき
論破連呼、近畿パー連呼、言い張るだけなんだから
>>55
瀬戸内海の海運を使えば陸地を延々と歩いていくよりも早いんじゃないか。
早くから日本に渡来していたといわれる呉越系の人々は造船が得意だったみたいだし。 >>55
それだったら北部九州勢力は、なんで隼人と呼ばれていた九州南部の人々を統治下におくことに
遅れたのか。 >>69
涙拭けよ否定証明済みで言い張るだけの反論不能の近畿パー >>46
シナ人には、姫御子(ヒメミコ)という発音がヒミコに聞こえたらしい。
そして、卑字をあてがって、卑弥呼と記録した。 >>71
まるでイミフ
投馬国(妻国=隼人=囎唹)は邪馬台国の同盟国だよ猿 俺の認識では
古代の日本は遷都を繰り返いしていた国で
分るだけでも
奈良→京都 となる。
それ以前は 九州北部だったんじゃないかなと思う。
当時の船の技術からいって狭い九州に20日もかからないだろう。
あと当時の日本は大陸と違い方向感覚も定かではなく、東北を東南といっていたことからも
東のことを南といっていた可能性もある。
>>60
倭は、背が低い、とかそんな意味だっけか。 ただ海の向こうに倭種の国があると書いてあるから、
そこ読むと九州説も考えられるんだよな。
>>67
俺はそうは考えてない。
にんべん使ってるでしょ。
ていうことはちゃんと人待遇してたんだよ。
ふつう獣へんとか使うはずだから。
だから倭の人々はにんべんを使わせるぐらい従順な人々だったんじゃないかと思う。 倭が悪い言葉だったら、にんべんをとった委という言葉も
悪い意味になる。
委員会とか委任とか悪くないでしょ。
>>82
考古資料から判断すると、本州を倭種の国とみなしたときの問題点はこれだけある
・列島規模の広域連合が倭種の国にできていた
・3世紀の日本列島で中国との交流痕跡が最も多いのは倭種の国の一つである畿内
・3世紀中頃には奴国は倭種の国の傘下に入っており、伊都国も傘下に入ろうとしていた
纒向に首都を置いた初期ヤマト王権のヤマト国が、魏志倭人伝に国名さえ記載されてないっておかしいと思わない? 魏志倭人伝に出てくる卑弥呼は、
本来複数人いる姫巫女を一人の女性として書いている。
>その国は、もとは男子を主としたが、七〜八十年ほど前、
>倭国が乱れ、何年もお互いに攻め合ったので、諸国は共に一女子を立てて王とした。
>これを卑弥呼という。
ここで言う卑弥呼は、ヤマトの三輪山祭祀のモモソ姫巫女のことを指す。
>景初二年(238)六月、倭の女王は、大夫の難升米等を派遣して帯方郡に至り、
>天子にお目通りして献上品をささげたいと求めた。
>太守の劉夏は官吏を派遣し、難升米等を引率して送らせ、都(洛陽)に至った。
>その年の十二月、詔書が倭の女王に報いて、こう言う。
ここで言う倭の女王が、いわゆる邪馬台国の卑弥呼である。
いわゆる邪馬台国は都万国(=投馬国=現在の宮崎県)のことをさす。
邪馬台国の卑弥呼(ヒメミコ=姫巫女)は、宇佐に勢力を持ち、
モモソ姫巫女の時代より少し後の人物で、
九州で月神信仰(月読尊)を行い人気を得た姫巫女である。
卑弥呼は、畿内のヤマト政権(=ヤマト国=和国)に対して、
都万国(つまこく=投馬国)の勢力と同盟し東征(2回目)をしかけようとした。
(=畿内のヤマト政権をのっとろうとした。)
東征の前に、卑弥呼は、魏の後ろ盾を得ようとし、239年に朝貢した。
その際、魏の役人に、「お前の国の名前は何ていうんだ」と聞かれ、咄嗟に答えたのが、
これから東征を仕掛けようとしている「ヤマト国(=ヤマト政権)」の名であった。
つまり、卑弥呼は、地元が九州なのに、畿内のヤマト国(=ヤマト政権)を自称したのである。
>>86
涙拭けよ否定証明済みで反論不能の近畿パーwwww 邪馬台国とか卑弥呼とかはジャーマンっぽい感じとか南方な感じがして九州ではと思う
でも大和朝廷とあまり関係ないのでは?
邪馬台国と大和朝廷を線で結ぶのは無理があるような
>>90
お前のとこと違って、日本には
食糞の習慣は無いんだよ。 >>92
北のほうもイタコとかいるんだからシャーマンイコール南国ってわけでもないだろう こんな願望に満ち溢れたファンタジーの学説は、まったく信用できない。
>>86
吉備は間違いなく超初期から連合だし
出雲と丹後も早い段階から連合に参加
近江から纏向に移った説もあるくらいで、完全に敵なし。日本海側は古志までは掌握してたんじゃないか?
小国ばっかの九州なんて相手にもならないんだよなあ >>87
日向系はどうも素性が怪しい
出雲朝廷を滅ぼしたのち、どうも、素性を消すために色々工作してるように思う
彼らは朝鮮系の奴婢であることは間違いないと思う >>99
時代を遡るが、『旧事紀』に、「天照国照彦天日明櫛玉饒速日命」
(=アマテラス、クニテラスヒコ、ホアカリ、クシタマ、ニギハヤヒノミコト)
とあるように、全て同一人物を表している。
それを踏まえた上で、
ヤマト王朝の王家は、出雲王朝の姫とホアカリの子孫の家系であり海(=天)部氏である。
日向の都万国(=投馬国)の王家は、出雲王朝の分家の宗像家の姫とニギハヤヒの子孫の家系で、物部氏の一族である。
<出雲、ヤマト勢(海部氏)>
・ホアカリ ー 五十猛(=海(=天)加語山) ー 海(=天)村雲[神武] ー 沼名川耳[綏靖] ー 玉手看[安寧] … (省略)
<九州勢・都万国(子孫は物部氏)>
・ニギハヤヒ ー 彦火火出見(ヒコホホデミ) … (省略) … ミマキイリヒコ[崇神] ー イクメ[垂仁] … (省略)
つまり、ホアカリ・ニギハヤヒと異なる姫君との間に生まれた異母兄弟の家系が物部氏と海部氏なのである。
異母兄弟の弟の家系(物部氏=都万国)が宇佐のいわゆる卑弥呼と連合し、
兄の家系(海部氏=ヤマト王朝)に喧嘩をふっかけたのである。(記紀では神武東征とされた)
(記紀の海幸・山幸の対立のモデルとなっている。) >>92
俺がガキの頃だけど、
「山の手」の「お姫様」って意味で使ってた単語だから固有名詞じゃないぞ
当時は偉い人らは守りやすい高台(山の手)に住んでたからな
俺の住んでた所は違うけど女性(お姫様)が代表やってた村も結構あったし >>100
誤字訂正
五十猛(=海(=天)香語山) >>1 邪馬台国がどこに存在したか?……これに必死な人達の気持ちがわからない。どうかしてる。 >>100
かなり怪しいんだよね
経歴ロンダリングがあるね絶対 中国人が書いた文章を本当だと思ってる時点で全部の研究がアウト
>>105
記録が残ってないわけない
消されてると考えるべき
ただ、古墳に何か書かれてるんだろう >>106
調査禁止の陵墓はいつまで禁止にしとくんだろね
こんな国他にないだろ 近畿と北部九州に
祖を同じとする親戚関係の国があったんじゃないの?
>108
>祖を同じとする親戚関係の国があったんじゃないの?
その通りだと思います。
3世紀の畿内はまだ開拓途中の狗奴国
纏向は東海政権の古墳造営基地局
150mの墓を造ったとあるんだから
それを探せばいいだけでしょ
距離やスケールについては魏志韓伝、倭人伝ともに何らかの縮尺法が用いられているので100歩=150mとは言えない
殉葬者100名を伴う墓を探せばいい
>>107
こんな昔の国主がまだ続いてる国が無いからな
王朝が変わらなきゃ普通は王の墓は暴かれない >>114
文献曲解、方角詐称、物証皆無で印象操作してる畿内説は月刊ムーで論じてください
つうか犯罪ですよ >>115
どこが文献曲解なのかも示さず中傷するだけなんですね
物証皆無ってのも自分の勉強不足を棚に上げて中傷してるだけです 魏志倭人伝をよく読むと、
女王国視点で北や東についての記述はあるが、西に関しては何の記述も無い。
これは、倭種の国々の中で女王国が最も西に位置していたことを示している。
<魏志倭人伝>
・女王国の東の海を渡るとまた倭種の国がある
・女王国から船で南に行くと侏儒国(種子島)がある
・ソウルから半島沿岸を水行し、対馬海峡を渡り、邪馬台国の方角は南である
>>117
位置的に、宮崎県(日向)しか考えられないよね。 >>79
方位を間違える奴らが船で移動できないよ。
夜で太陽が出てれば普通の人なら間違えない。 121名無しのひみつ2020/05/15(金) 13:16:03.41
日本書紀の神武東征の記述通りの大阪湾の地形が存在したのは約2700年前だと地理学、土木学で証明済み。
神武天皇の橿原宮跡地とされる橿原神宮の地下から出土した縄文時代後期〜晩期の大集落跡と橿の巨木をC14年代測定した結果、約2700年前のものだと考古学で証明済み。
明治時代に設定された宮内庁による陵・古墳の比定が間違えているという落ち。
鹿児島県の遺跡では12,000年前の薩摩火山灰の下層からイネのプラント・オパールが検出されており、
これは稲作起源地と想定されている中国長江流域よりも古い年代となっている。
鹿児島県の上野原遺跡では、弥生土器に類似した1組の壺形土器が約7500年前の土層から見つかっており、
これは弥生土器を齎した渡来系弥生人の原郷とされるシニ・ガイ文化よりも古いものとなっている。
稲作も弥生土器も鹿児島が大元ということが考古学的に証明済み。
さらに言うなら、古代の日向は現在の鹿児島県と宮崎県を併せた領域だった。
つまり、神武東征によって稲作と弥生土器などの弥生文化が普及したことになる。
邪馬台国=大和国 (三国志において台=ト)
卑弥呼=神功皇后
台与=豊姫(神功皇后の妹) (三国志において台=ト)
興台産霊=コゴトムスビ (日本書紀において台=ト)
倭国大乱=三韓征伐
終わり
旧唐書には、倭国と日本(大和政権)が別記されている
以下旧唐書より
■倭国条(〜631年)漢委倭奴国の系統
「倭国者,古倭奴国也。」倭国は古の倭奴国である
■日本国(701年〜)出自不明な大和王権爆誕
「日本国者,倭国之別種也。」日本国は倭国の別種である
古の倭奴国では無い理由は?
↓
A:「日本舊小國,併倭國之地。」小国だった日本国が倭国を併合した
これは日本国の遣使に倭国と日本が別国だったという
認識がなければ出てこない言い訳だ >>121
『親魏和王の都』という本の伝承によれば、
邪馬台国=日向の都万国(投馬国)
卑弥呼=宇佐神宮の姫巫女・豊玉姫
台与=豊鍬入姫(ミマキイリヒコ[崇神]と豊玉姫の娘)
倭国大乱=日向の都万国(物部王朝)による東征で勃発 >>95
涙拭けよ願望に満ち溢れたファンタジーの学説で、まったく信用できない近畿パーww >>97
近畿パーは食糞だけで満足してろよ
君なら出来る必ず! 田中英道さんの埴輪ユダヤ人説は面白いよ。魏志倭人伝はちょっとだが。
魏からヤマイチ国へ派遣された張政という官人の軍事報告に基づき陳寿が三国志倭人伝をしるした
張政はヒミカが没するときも倭に滞在し 魏が滅びた時に帰国した
山一国に呉が攻めて来た時に魏からの応援が到着する時間が不正確なものであるはずはない
20年間大宰府へ滞在し魏が滅んだ時に帰国した
ヒミカの死亡時も滞在し 径100歩は性格な数字25m
「一番嫌いな都道府県民」全国10000人アンケート ポスト現代
1位 東京人 3762人 ダントツ嫌われ者
2位 沖縄人 854人 人口比率ワースト嫌われ者
3位 福島県 611人
>>129
田中英道さんは、
「秦の始皇帝はユダヤであった」、
「徐福・来日伝説は本当だった」、
とか絶妙だよね。
実際、秦の始皇帝や斉の徐福は、12支族・ユダヤ人の末裔であると言われている。
徐福が率いてきたハタ族の家系も12支族・ユダヤ人の血を引いていることに違いはない。 >>1
この人ほんとに古代史の専門家なんだろうか?
古代史の通説を否定してまで畿内説批判してるわ >>133
お前みたいな奥山よりまともだという事だw >>120
普通の人間の世界なら夜は太陽は出ないぞ…
どこの世界の人間なんだ >>125
確かに宇佐市のある中津平野から近くに耶馬渓という景勝地があるけど、
名前が邪馬台国に似てるなと思ったあことはある。
ヤマ(邪馬)地方にある渓谷だから耶馬渓なのかな。 >>136
いわゆる邪馬台国の卑弥呼が宇佐出身ということで、
彼女に因んでつけられた地名かもしれないね。 >>136
ちはみに、豊前、豊後の「豊」という字は、
いわゆる邪馬台国の卑弥呼(姫巫女)の名が豊玉姫であったこと、
そして、出身地である宇佐を中心に、
その周辺を勢力圏(豊王国)にしていたことから「豊」
の字が旧国名に残っているらしい。 九州説の人って素人が書いた本は読むけど、専門の学者の本は読まないよな
ほんと不思議だわ
だから~邪馬台国の九州説は無いから
当時の中国語読みは「ヤマドゥ」国なんだから
因みに俺は近畿地方では無いよ
元の時代のあちらの日本列島の地図でさえ
北海道が上で九州が下になっている
だから南に行くのは東に行くってこと
近畿地方で間違いない
>>144 間違ってた 九州が上(北)で
北海道が下(南)でした 失礼 >>140
>専門の学者の本は読まないよな
世間知らずの妄想専門家が書いた小説に興味はありませんw >>144
原本はこれだが?
「混一疆理歴代国都之図」
日本列島が逆さになってるのを見たのか?w
あれは朝鮮で複写した際に用紙が足りず、縦書きの日本製地図を貼り付けたコラだぞw 畿内説の思考は竹島をドクトに仕立て上げようとする半島民族と同種だw
そうやって印象操作を繰り返してきたんだよ
物理的に北海道が九州より南に位置している訳無いから
単に(地図の)上を南として書いているだけでは?
>>148
日本列島の形が原本と異なるだろw
それで龍谷は赤っ恥かいたんだよなw 魏志倭人伝の記述
至對馬國(対馬)〜乗船南北市糴〜
又南渡一海千餘里〜至一大國(壱岐)〜亦南北市糴
つまり対馬←→壱岐位置関係が南北だな
そして邪馬台国は南
さらにその南には敵対していた狗奴国 まるで纒向の建物で祭祀が行われ、大量のモモが奉納されていたかのようの印象操作してきた纒向バカw
桃の種が出土したのは建物とは無関係な場所
>>141
例えば、上の方に書籍が紹介されてるけど、勝友彦とか
他には、安本美典、古田武彦、田中英道など
いずれも古代史の分野では素人
全員、知識が乏しい >>154
歴史捏造事件から体質の変わらない考古学者よりマシだね
そして何より、お前より頭いい人達だし >>137
耶馬渓と名付けたとされているのは江戸時代の頼山陽という人物で、名高い歴史家であり、日本の歴史や中国の史書にも精通していた
みたいだね。
それが山国谷という「ヤマ」と「クニ」という地名と周辺の地理からこの地の近くにかつて邪馬台国があったとみなして耶馬渓と名付けたのかもしれない。
だから 邪馬台国の谷→山国谷→耶馬渓 となったかもしれない。 頼山陽という人物は、大阪出身らしいので、九州の片田舎のそんな谷を旅行するなんて
ほぼ可能性は低いと思う。
同世代の伊能忠敬が測量で全国を回っていたみたいに、頼山陽は歴史家として邪馬台国に興味があり、
そこを訪れ、それと思われる場所に耶馬渓と名付けたんじゃないかな。
>>160
この新聞記事の問題点
@中国人学者の真意が不明
A日田で出土が事実であるかのような論調
@について
・中国人学者が自分から発信した内容でない
・中国人学者が自分の言葉で述べた内容かどうかも不明
勘ぐれば、佐賀新聞の匿名記者の誘導尋問で、言わされた可能性もある
それどころか、匿名記者の誇張、チェリーピッキング、作文、創作の可能性もある
Aについて
・状況証拠が真っ黒で、日田で出土した可能性がほとんどないことに記事で触れていない
・大手メディアは別の記事で上記の件をきちんと指摘しているが、佐賀新聞は地元贔屓のためかスルー 個人的は
みんなが間違ってるのは伊都国の位置だと思う
糸島ではないよ
>>162
伊都国についてはほぼ糸島だと特定されてる。
古くは怡土郡と呼ばれていて、弥生時代の繁栄を示す平原遺跡で知られる。
発掘により(邪馬台国とは別個だが)女王国だったことが判明している。
伊都国は弥生時代末期に一旦滅んだようだが、
古墳時代中期になってから、また古墳(前方後円墳)が作られるようになっている(曽根遺跡群) 自分は、伊都国に相当する位置は
佐賀方面の多久か小城だな。
方向もあってるし、松浦方面からだと
糸島には山越えするか
船じゃないと行けない。
多久、小城から松浦は、ずっと谷があって
行きやすい街道があるんだよ。
古くは秀吉も肥前名護屋城に行くのに
この街道を使ってる。
松浦が肥前国なのはそういう理由があるのだ。
>>163
それ、間違ってると思う
というのが自論 イト国についてなんだけど
実際はほぼ、現在の佐賀に近い当たりだと思う
金立山の近くというか麓というかあのあたりに聖地みたいのがあって
徐福伝説があるあたり?
多分、神功皇后の頃に伊都国が山を越えて糸島に移ったんだと思う
帆船技術が伝わった後あたり
邪馬台国が何処にあったとか意味が無いし、解からなくても良い。
そもそも九州とか、奈良、四国などと言ってる人の殆どがその土地出身!
魏の言葉を誰が話せたのか、翻訳に間違いは無いのか、誰が魏の国に案内した、
魏はどんな言葉と文字を使っていたか等、魏志倭人伝以前に検証するべき事がある。
魏が滅んでから魏の歴史を漢字にまとめた魏志倭人伝、元の物が無いのでは正確ではない。
もし隣の国が渡来人を使って魏に行ったのなら他の国も言ってるはずで、その検証もいる。
そして邪馬台国以前に大陸に行って金印持ち帰った実績があるのに・・・
>>167
邪馬台国は宮崎です
他にはアリえないんです >>166
それって伊都国が弥生時代後期になって現在の糸島に移ってきたってことか?
じゃあ「間違い」ってほどのことではないかと。
「○○から△△に移動してきた」みたいな議論は幾らでも可能なんだけど
糸島が栄えてたのは事実だからね 糸島も栄えてたし
福岡も栄えてた。
佐賀の松浦(唐津)も栄えてたし
佐賀の小城も栄えてた。
北部九州は弥生時代の遺跡でいっぱいだからね。
おそらくは栄えすぎて
農業生産力の限界にあった。
九州から他所に移住する話がいくつかあるが
農地が足りなかったんだと思う。
邪馬台国のあった場所なら岩手県八幡平じゃないの?
鯨先生が詳細な論文を発表してたよ。昔、本屋で買って読んだ。
伊都国が糸島でないと言ってる人は三雲遺跡は何だと思ってる?
>>133
正解を導き出すには色んな視点が必要でしょ
通説なんてあくまで通説であって それが正解とは言い切れないんだから >>169
諫早の水路が使えた頃は伊都国は佐賀付近にあったと思う
大村湾や五島列島が栄えてたのはそれまで
諫早の水路が埋まって佐賀のあたりから五島列島は価値が著しく減った
で、伊都国は山を越えて糸島に移った
神功皇后の頃になると帆船の技術も入ったし
わざわざ五島列島まで回って朝鮮半島に行く必要も無くなった >>170
>北部九州は弥生時代の遺跡でいっぱいだからね。
九州北部は弥生時代末期以降は一気に衰退しちゃうんだよな
かわりに物凄い数の前方後円墳が近畿で作られるようになり、
九州や他の地方でも増えていく >>178
衰退というほどではないよ。
例えば鉄器出土数は奈良時代まで
福岡県が一番多かったからね。
鎌倉時代まで、福岡県が
一番多いと言う説もある。
ついでに、銅器の出土も
奈良時代中期まで、福岡県が多い。 >>178
前方後円墳数は、千葉県が一位
福岡県が八位
奈良県が十位。
地元の人にはたくさんあるように
見えるのはわかるけど、
もっと上を行くところもあるんだよ。 鉄器や銅器の出土量から見る限りでは
奈良時代あたりに、北部九州から畿内に
主導権が移っているように見える。
天智天皇が白村江で大敗北して
太宰府から近江大津京に遷都し
平城京を建てる話と一致する。
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬。
安帝永初元年,倭國王帥升等獻生口百六十人,願請見。
倭國之極南界也はどこまでか?
「安帝永初元年,倭國王帥升等獻生口百六十人,願請見。」
107年に後漢に朝貢したのはヤマト政権のオシヒト大王[孝安天皇]だと言われている。
倭国王「帥升(すいしょう)」だけど、朝貢した大王の「オシヒト」
という名前のアクセントの一番強いところをとって、
もともとは、「師飛(シヒ)」と省略して記録したのを、
史書『後漢書』に書き写した役人が見誤って「帥升(すいしょう)」と記録してしまったらしい。
(※シナ人は和人の名前を省略して短く書く習慣があった。)
>>184
記紀を編集した人たちは、大王自ら後漢に朝貢したことを恥じだと思い、
そのことは、隠されることになったらしい。 >>181
国防意識しての統合で移動。
大和政権と武力衝突(磐井の乱以外)なく併合。
北史、旧唐書みると、武力による統合には思えない。 >>185
なんでも、天皇と結びつけるのに
疑問があるが?
記紀原理主義にならない範囲で
モデルとなったケースかな? 倭国滅亡の因は白村江での唐と戦って敗戦の憂き目を見た事
奈良は唐と内通し参戦していない
奈良に倭を倒す戦力は無かった
敗戦後唐のカクムソウが占領軍として大宰府へきた
火事場の泥棒が奈良政権
天武はカクムソウに取り入り天智の息子2名を殺し奈良を掌握した 壬申の乱
其れ迄の奈良の建築は掘立式 倭国では礎石 ここで技術の遅れが奈良にある
陳寿はなんで伊都国は伊「都」国で代々の王がいるが今は女王国に属しいてると書いたんだろう。
蛮族に「都」て使うのかな。そして他の国に王はいなかったのかな。
光武帝に入貢したのは誰だったんだろう。
>>191
磐井の乱で奈良側のひきめもあったかもね。 実際の名前は「しまいち国」
原文に「邪馬壹国」とあるのにどう読んでも「やまたい」にはならん。
これを「大和国だ」て言ったやつ、バカじゃないの?
>>179
>例えば鉄器出土数は奈良時代まで
>福岡県が一番多かったからね。
その書き込みよく見かけるが、ソース出したのを一度も見たことがない
ほんとにソースあるの? >>195
広島大学の先生が研究されてるから
広島大学、鉄器、で論文が出るよ。
というより、鉄の話をするなら
必ず見ておいたほうがいい。 鉄器出土数は奈良時代まで福岡県が一番多かったなんていうデータはないよ
嘘ついてるんだよ
論文というワードを出せば本当っぽく聞こえるだけ
寺澤氏の説明では3世紀後葉には畿内が上回るとあった
鉄も畿内が独占に近い状態になる
政治的な連合というより流通的な連合だったんじゃね。
九州ー(四国)ー奈良ー東海ルートが組織化されていて、
九州のお家騒動に四国奈良が介入して卑弥呼が共立された。
奈良が九州を完全に傘下に収めたのは磐井の乱の後だと思う。
>>197
時系列で考えると
当然、大和政権の台頭と重なるからね。
それ以前は、纒向遺跡見ればわかる。
大陸との交易は乏しかった
大和政権の台頭は、
伊勢・東海・吉備と関係するかもね。 >>200
だから、そいつが書いた原文を見てみろ。
「邪馬壹国」だから >>200
そいつじゃねーじゃねーか
邪馬壹と邪摩堆は別物だろ >>197
そんなことを本当に寺澤さんが言ったのなら
それは間違いだね。
寺澤さんがそういうことを言うとは思えないけど。
そもそも、鉄が国産化したのは5世紀以降。
銅の鉱脈が発見されたのは8世紀以降。
これで和銅という年号にもなっている。
それ以前は中国からの輸入品なんだよ。 九州勢力と本州勢力の対立の構造は、主に、
ニギハヤヒとホアカリという同一人物を共通の祖先とする、
対抗心の非常に強い子孫の家系同士の対立であった。
九州の都万国(投馬国≒邪馬台国)の王家はニギハヤヒの子孫の家系である物部氏であり、
出雲王朝(当主・鳥鳴海)、
ホアカリの子孫の家系である畿内のヤマト政権、
そして、ヤマト政権から派生したフトニ大王[孝霊天皇]の吉備勢力、
といった強敵を相手にしなければならなかった。
そこで、都万国の王家・物部イニエ王[崇神天皇]と婚姻関係を結んでいた宇佐の卑弥呼(姫巫女)は、
魏へ朝貢を行い、魏の後ろ盾を得た上での東征を画策した。
東征途上で、卑弥呼は病気にかかり亡くなってしまい、安芸の宮島に仮埋葬されたといわれる。
東征は、物部イニエ王[崇神天皇]の息子の物部イクメ王[垂仁天皇]によって続けられ、
九州の勢力は、出雲王朝を滅ぼし、吉備政権を滅ぼし、ヤマト政権のヒコミチヌシ大王を屈服させるに至った。
その後の、ヤマト政権の運営は、東征に成功したイクメ王[垂仁天皇]が大王に就任し、
イクメ王はヒコミチヌシ大王の娘ヒバス姫を后とした。
並列して存在していた、ニギハヤヒの子孫の家系とホアカリの子孫の家系が婚姻で結びついたのである。
>>204
『旧事紀』に、「天照国照彦天日明櫛玉饒速日命」
(=アマテラス、クニテラスヒコ、アメノホアカリ、クシタマ、ニギハヤヒノミコト)
とあるように、全て同一人物を表している。
この人物は、蓬莱(=扶桑の国=和国)に新天地を求め、出雲と北九州に二度来日した。
出雲へ来た際(1回目)は、現在の島根県大田市の五十猛の海岸に着き、
ホアカリという和風の名を名乗ったと伝わる。
北九州に来た際(2回目)は、佐賀県の伊万里湾に上陸。
この際は、ニギハヤヒと名乗ったという。 >>181
九州王朝説かよ
そりゃウソ捏造も何でもありだわ >>204
訂正
フトニ大王[孝霊天皇]の吉備勢力
→フトニ大王[孝霊天皇]とその子・キビツ彦兄弟が作った吉備王国 広島大学の学者の論文は見つからなかったけど、論文をまとめたサイトは見つかった
怪しげなサイトだけど、論文のまとめに嘘は書いてないだろう
鉄器の出土都その時代的変遷
弥生時代中期
北部九州(博多湾沿岸)
弥生時代後期
北部九州(博多湾沿岸、筑紫平野) 石見 伯耆 丹後 播磨
弥生時代終期
北部九州(博多湾沿岸、筑紫平野) 阿蘇 国東半島周辺 備前 播磨 伯耆 但馬 丹後 敦賀 三浦半島 鹿島灘
古墳時代前期
大和に集中
古墳時代後期
日本列島全体に広がる
http://houki.yonago-kodaisi.com/F-K-Kinzoku1B-Tekki.html 文化勲章の欲しい俗物は既存の観念から出ることは無い NHK
>>179>>196
やっぱりソースはないんですか? 邪馬台国も卑弥呼も
中華王朝のあてた蔑称漢字だと思う
九州説って平気で嘘つくよね
嘘つきたいから九州説なの?
>>215
捏造事件をおこした近畿説から言われてもな?
漠然でなく、詳細なデータを出して来ればいいのにな。 >>214
黄河文明も西方から伝播したもの 孔子あたりが中華思想を持ち出してから おかしく成った中華思想 何でも俺が一番だと 中国の史書によると、後漢時代の倭国は100国あったが倭国大乱が起こり、魏の時代は女王国30国しか交流が無いと書かれている。
倭国は何らかの理由で分裂したものと考えられる。
■邪馬台国連合=女王国30国(親中派?)
魏志には「倭人が半島まで鉄を採りに来ていた」と書かれおり、日本の弥生遺跡の鉄器の出土量が一部に集中している。
これが女王国の領域とみなせる。
■狗奴国連合=男王派70国(鎖国派?) → のちのヤマト王権
乾燥耳垢が多い=半島系渡来人の血が濃い
4世紀末の奈良には新たな渡来人住居が立ち並んでおり、この渡来人に入れ知恵された倭人がヤマト王権の源となった。
旧唐書によると、日本国の使者は大変放漫で礼儀知らずだった模様。
また、日本国(ヤマト)は小国だったが倭国を併合したと発言していることから、倭国と日本国は別国だったという認識を持っている事が伺える。 旧唐書の日本伝 (奈良)
日本国は倭国の別種である。その国は日の昇る方にあるので、
「日本」という名前をつけている。あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた。」ともいう。
またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した。」とも。
その日本人で唐に入朝する使者の多くは尊大で、誠実に答えない。それで中国ではこれを疑っている。
彼らは「我が国の国境は東西南北、それぞれ数千里あって西や南の境はみな大海に接している。東や北の境は大きな山があってそれを境としている。
山の向こうは毛人の国である。」と言っている
※日本という呼称は福岡県小郡市からの由来 タリシホコが日出ると言ったのもこの日本という子字名から
奈良は唐へ徹底した服従で外交を行ったが夜郎自大を嫌われた
庶民の昔は散骨が普通で埋葬は特権階級のもの
万葉集7巻
1404 鏡なす我(わ)が見し君を阿婆(あば)の野の花橘の珠に拾(ひり)ひつ
いつも鏡を見るように
見ていたあなたを阿婆の野の
花橘の飾りする
花のように拾ったよ
いつまで不毛な論争をしているのか。ほんと莫迦みたい。
一つ視点を授けよう。近畿地方は「黒歯国」だよ。遠絶にして詳らかならぬ国。
これで邪馬台国近畿説は終わり。(支配階級のお歯黒は古墳時代前から証明)
九州と出雲の戦いは古事記のテーマだし、魏志倭人伝とも合う。
尤も倭人伝は嘘を承知で法螺を吹いていることは常識だ。殊に方角と距離。
黒歯国は銅鐸分布を見ると結構大きな連合体だったんだろう。
また、大仙陵古墳群なんかを見ると神武東征は100年くらい新しいかもしれない。
天照大神は卑弥呼でいいと思うけれど、その古墳は伊都国古墳の一つでいいと思う。
例の原田大六氏発掘の八咫鏡が破鏡されてたくさん出てきた古墳です。
>>223
いわゆる邪馬台国の卑弥呼は天照ではない。
卑弥呼が祭ったのは月神(月読尊)であり、太陽神とはなんら関係ない。
サイノカミ(幸の神)信仰について。
サイノカミ三神とは、夫の「クナトの大神」(イザナギのモデル)、
妻の「幸姫」(イザナミのモデル)、子の「サルタ彦」
のことで、「道の神」などとも呼ばれる神で子孫繁栄の神様である。
クナトの大神の宿る山が「大山」、
幸姫が宿る山が「三瓶山」、
サルタ彦が宿る山が「鼻高山」
と言われる。
その幸姫が、三輪山に祭られ、三輪山から朝日が昇ることから、
幸姫は、人々に、太陽の女神のように崇められ、
祭祀する姫巫女・タタラ五十鈴姫やモモソ姫など王族の姫君も
同様に女神のように人々に愛されたといわれる。
このことから、後に、幸姫の霊が「伊勢神宮の内宮」に移されてからは
「天照」と呼ばれ祀られるようになった。
太陽の女神・天照は、幸姫が姿を変えたものなのである。
ちなみに、『旧事紀』では、「天照国照彦天日明櫛玉饒速日命」
とあるように、ホアカリ・ニギハヤヒ(徐福)と天照を同一視しているが、
そもそも別物である。 >>213
そこに「大陸との交易は乏しかった」なんて書かれてない
何で嘘を書くの?
それどころか画文帯神獣鏡や内行花文鏡、鉄製刀剣類、ベニバナが
3世紀中頃の遺跡から見つかったと書かれている
これらは大陸との交流を示すもの >>216
畿内説がいつ捏造事件を起こしたんだ?
酷い言いがかり
ゴッドハンド事件のことを言ってるなら、考古学者が捏造を見抜けなかったのであって
考古学者は捏造事件を起こしていない >>226
必死だな。キチガイ理論
>>考古学者が捏造を見抜けなかったのであって
>>考古学者は捏造事件を起こしていない。
そいつ、近畿説だぜ。クグレば出てくる。
>>225
「大陸との交易は乏しかった」は、俺の意見だよ。
>>これらは大陸との交流を示すもの
示すには、少ないよ〜。
画文帯神獣鏡や内行花文鏡て中国で見つかったのか? 奈良が外交を始めたのは 倭国滅亡の後から 700年以降 故に初めて唐へ貢献したとき 夜郎自大の態度で井底の蛙と言われた
>>214
素人歴史探偵だが、「馬」て司馬氏も「馬」使ってるよな。
あえて使うかね。 >>236
卑弥呼を神功天皇や他の天皇に見たてるなんて
天皇が魏に貢いだことになるからね。
編纂者は、無視しているのかな? 以下は243年の朝貢。
其四年 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪拘等八人
上獻生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹木拊短弓矢
掖邪狗等壱拝率善中郎將印綬
「其の四年。倭王はまた使の大夫伊聲耆、掖邪拘等八人を遣わし、
生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹、木拊短弓、矢を上献す。
掖邪狗等は率善中郎将と印綬を壱拝す。」
ここに出てくる伊聲耆(イサチ)とは、イクメ王[垂仁天皇](別名イサチ)で、
古代には天皇自ら朝貢を行うことがあった。
ベニバナが日本に入ってきたのは
5世紀以降というのが現在の見解。
243年の奈良は漸く奈良盆地を侵略し終わったばかりの頃 周囲は親呉圏の銅鐸勢力 外交が出来る筈もない
奈良盆地から出ることが出来るようになるのは 250年呉の滅亡により後ろ盾を失った銅鐸圏を崇神が攻め始めてから
>>232
もう開き直って嘘を連呼するだけになってるな
捏造の事実はないんだから、いくらぐぐっても出てこない
畿内説が捏造事件を起こしたと言い張るなら、いつ誰がどうやって事件を起こしたか詳細を書いてみたら?
画文帯神獣鏡や内行花文鏡は典型的な中国鏡だけど、そんなことも知らないの?
少ないとイチャモンつけるなら、九州で3世紀中頃の中国と交流があった証拠を出してくれ
当たり前のことだが、伊都国と奴国以外でな
纒向で出土した以上のものを提示できるんだよな? 絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹を以って、
汝の献ずる所の貢の直に答う。又、特に汝に紺地句文錦三匹、
白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、
銅鏡百枚、真珠鉛丹各五十斤を賜い
※福岡県の出土品 銅鏡100枚以上たくさん 絹 錦
奈良の出土 桃の種たくさん
内向花文鏡と方格規矩鏡は
九州で出土が多い鏡ですね。
>>244
九州で出るのは漢鏡5期か6期までに分類されるものだけ
しかも出土はほとんどが2世紀まで
3世紀には激減して破片が出る程度
結局、九州で出るものは魏とは1ミリも関係ない 白村江の前までが筑紫の話で後が筑紫を併合した豊の話
おまえらは知らんだろうが欽明天皇てのがいてな
継体天皇の3代後で任那や百済が滅んだ時の天皇
和名は本国を押し退け国土を広げた人の意味
この方が通ったとされる欽明路て道路が山口県の東にある
港や道路から離れた不便な場所で昭和の時代ですら死人がでる難所
兵隊送るには変な場所通ってると思ってたが徳川の伊賀超えみたいに九州から落ちのびたと考えると納得がいく
この時の奈良は湖から陸地になったばかりの湿地帯ですぐに稲作ができる文字通り均された空白地だった
トンチンカンなおまえらは奈良の大半が無人の水底だった事も知らないんだろ
北九州の飛鳥から倭国が百済遺民と共に奈良に移動
神話で神武天皇が奈良に入った時の国名は「大倭」「豊」秋津島
俺はここで豊の筑紫併合以降の話が筑紫より前の古い話に入れ替えられてると思ってる
近畿の開拓は秦氏が来る800年代からこれ以前に筑豊級の遺跡なんて探しても出るわけない
邪馬台国?知らんわ筑豊以外の倭内の弱小勢力だろ
大乱の間に立ってんだから本流じゃねえよ
赤い錦に龍を刺繍した衣の30歳ほどの 安室奈美恵に似たヒミカ
>>245
糸島から大型内向花文鏡が出てますね。
まあ、中国にこのサイズはないから
国産でしょうけど。
そして日本国内から出土する鏡の
殆どは日本製という説があります。
そして、日本では中国の銅を輸入していたので
様々な研究がなされていますが
材料からは中国製か日本製かは
決定的なことはわかっていません。 >>251
誤魔化さずに答えろよ
この人って誰だよ
そのリンクが何を意味してるのかさえ不明 以前 女子高生駅伝を見ていて気付いたこと
沖縄 九州の女子高生は皆目がぱっちりしていた 他の地域はまちまち 地域特性を感じた
南方系の子孫は九州に多い
南方系海洋民族の天孫族が大事にしたものは 真水の確保 航行中の他船との連絡 この連絡に鏡を使用していたのではないかと思いは膨らむ
個人名だしてみろよ。
先にゴットハンドて書いたのはあんた
ゴットハンドて誰だよ。
>>257
藤村
で、>>232は畿内説の学者が捏造をやったという趣旨で書いてるよな
誰だか名前出してみろ >>250
具体的な事が書いてあるリンクや詳細な文献も示さないんだよ。
いきなり、「嘘」とか、「デタラメ」とか書く
それらを提示してから書いてもらいたいもんだ。
寝る >>252
>殆どは日本製という説があります。
誰の説?
ド素人の作り話でなければ、学者の名前を出してくれ >>261
はあ?なんだその屁理屈は?
考古学者でもないアマチュアが邪馬台国とは無関係の旧石器捏造をやったから
畿内説そのもの、考古学者全員を嘘・捏造呼ばわりかよ
216や232は明らかにそういう意図で書いてるよな
ほんとひでー言いがかり >>262
考古学者でもないアマチュアってそれお前だバカw >>122
『旧唐書』に出てくる日本国(ひのもとのくに)とは、
クニクル大王[孝元天皇]の御子・大彦(長脛彦のモデル)の子孫であるアベ(安部)一族
にって、東北地方に存在した国で、ヤマト政権から見て蝦夷とされた人々の国であり、
ヤマト地方を中心とした和国とは別の国である。
それぞれが独自の貿易を行っていたとされ、
「和国」と「日本」という二つの独立国が並立した時代は
鎌倉時代(北条執権の時代)まで続いたといわれている。 いつだったかの諸説ありで出てた中国の学者が全員九州だって
言ってて、ネイティブの人が魏志読むとそうなんだなって関心した。
>>262
それ、そのまま、返すよ。
捏造の事実はあり、畿内説であった。
発端
>>215名無しのひみつ2020/05/17(日) 11:13:21.46ID:XtbotxzH>>216
>>九州説って平気で嘘つくよね
>>嘘つきたいから九州説なの?
今度は屁理屈かよ。
ゴッドハンドは、アマチュア上がりの考古学者
で近畿説である。
近畿説は今日もまた嘘と捏造
これが平常運転だけど 九州説は九州王朝説かそうでないかで派閥があるんだな
畿内説は巻向でファイナルアンサー?
ココ最近は奈良で決まりみたくなってるけど
九州説にそれを覆すような切り札とかあるの?
九州王朝説の根拠って、
唐書で国号を変えたときに混乱が見られるっていうことだけなんだっけ?
前方後円墳(ヤマト勢力下の証し)以外が沢山存在する地域があるとか
なにか証拠は見つかってるの?
原始人に「クニ」などという概念があったのだろうか
卑弥呼?何それ?うまいの?状態ではなかろうか
>>270
纏向はすでに放置された
読売新聞YOL(21.11.2018)
邪馬台国の候補地?見学施設、財政難で建設延期 社会
奈良県桜井市は、邪馬台国の有力候補地として注目される纒向(まきむく)遺跡で、
2020年度中の完成を目指していた「ガイダンス施設」の建設延期を決めた。
財政難が原因。整備を進める史跡公園の核となる施設で、遺跡見学の拠点として
期待されていたが、新たな完成時期は未定だ。
■纏向遺跡で出土した土器の産地
伊勢・東海系:49%
北陸・山陰系:17%
河内系:10%
吉備系:7%
近江系:5%
関東系:5%
播磨系:3%
西部瀬戸内海系:3%
紀伊系:1%
■結論
纏向遺跡は大陸、九州とも疎遠だと判明した >>271
卑弥呼、邪馬台國と関係ない事
で決まりだからいいじゃないの?
証拠すらない。 (妻国の王家)
魏に朝貢した邪馬台国とは、ニギハヤヒの子孫の家系である
物部氏支配下の日向の妻国(都万国=投馬国)のことである。
(巻向はモモソ姫の神殿跡)
巻向で発見された桃の種をC14年代測定で調査したところ、
西暦135〜230年という結果が出た。
このことから、この遺跡はモモソ姫の神殿跡であった可能性が高いと考えられる。
(魏志倭人伝に出てくる卑弥呼は複数人の姫巫女を1人の女性として描いている)
『魏志倭人伝』は、本来複数人いる姫巫女を一人の女性として書いている。
其国本亦以男子為王 住七八十年 倭国乱相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名日卑弥呼
>その国は、もとは男子を主としたが、七〜八十年ほど前、
>倭国が乱れ、何年もお互いに攻め合ったので、諸国は共に一女子を立てて王とした。
>これを卑弥呼という。
ここで言う卑弥呼は、和(倭)国大乱後のヤマトの三輪山祭祀のモモソ姫巫女のことを指し、
いわゆる邪馬台国の卑弥呼とは別人である。
つかそもそも卑弥呼や邪馬台国は日本にとってそんなに特別で重要なものだったのか?
>>278
「邪馬台国がどこにあったのか」ばかりに注目され過ぎて、
「何の為に、魏の後ろ盾を得なければならなかったのか」、
という点が疎かにされてるように思える。
本州には、出雲、ヤマト、吉備というライバルがいて、
それらに対抗するには、「日向の妻国(投馬国≒邪馬台国)とその連合」だけでは、心もとなかった。
そこで、魏の後ろ盾を得たうえで、これらに対抗しようとした。
そうやって考えていくと、歴史が線でつながる。 前方後円墳は、「合併国家」の証であり、大和政権へ変貌していく。
福岡北部、兵庫、大和に古い前方後円墳が集中。
「前方後円墳集成」(近藤義郎編)
3世紀前期
筑前(福岡県北部)で9基、第二位が播磨(兵庫県)で8基、第三位が大和で6基
前方後円墳が大和朝廷全国支配の象徴になっていくのは、4世紀以降と推測。
水行10日 陸行1月
この時点で
九州説は無理矢理すぎ
>>279
興味深いけど、必要を言えば魏の方が高かったんじゃないか。
漢に入貢した倭が魏にも入貢した。
魏の正当性を高めるのに効果があったんじゃね。
倭国はそれまでも帯方郡には挨拶してたんじゃないだろうか。 >>282
前スレで見たんだけど「水行10日 陸行1日」じゃないでしょうか?
水行で10日も費やしてるのに陸行1月はあまりにおかしい
当時、瀬戸内海が交通の要だったんでしょ?
現在有力な畿内説とすれば、九州北部→大阪湾→奈良平野までいけるでしょ? >>280
ヤマトが旧伊都国に一大卒を置いたという記述にも合いますね
福岡北部を大和朝廷が重視したことの証左でしょうね >>284
なんで陸行1日と思ったの?
魏志倭人伝の原書にはっきり1月って書かれてるが 2世紀、なぜ大和はそれまで栄華を誇った伊都を制圧することができたのか気になる
畿内周辺勢力の大和への合流はどうだったんだろうね?研究は進んでるんだろうか?
>>282
近畿、九州説もあの手、この手。
近畿
方向を変えたり、里がわかっている以外は、
日数里換算で辻褄
短里は否定すれど1里400mでの説明なし
九州
短里放射読み、帯方郡から起点、経過で逆算。
水行10日 陸行1日の間違いとか。
なんで、あんな書き方したのか、いろんな説がある。 >>286
単に水行10日に比べて陸行の1月があまりに長すぎるからというだけで
(九州説と同じく)深い根拠は無いけどね
魏志倭人伝は、邪馬壹國の「壹」の字と同じく
写本の際にかなりの誤字が会ったのではといわれているよね
ウィキペディアによれば
>晩唐以降の写本で誤写が生じたものとするのが通説である
とある。この部分は邪馬壱國(ヤマイ)と誤解を招いた原因になっていると >>288
「帯方郡から起点」
中国使者の見聞では「渡海」だったものが、海洋民族だった倭人にとっては「水行」だったのかもしれない >>279
さらに言うと、日本人の感覚で畿内だの言ってるけど、
魏の目線での邪馬台国の意味が全く考慮されてない気がする。
邪馬台国が畿内にあるのは地政学的に意味がないと思うんだよな。
当時は半島の公孫氏を討ったけど情勢が安定してるわけじゃない。
かつ、江東の孫氏がちょっかいかけてくるし。
あと、倭人条ってことは倭国だけど倭国全部じゃなくて魏に朝貢してた
倭人のことだよって意味じゃないのか。
畿内ならほぼ西国を掌握してるって意味で倭人伝、倭国伝でいいような。
それが倭人条ってことは、倭国の一部って意味な感じ。 魏志倭人伝に出てくる「大倭」という通関がたまたま奈良の出身だったんだろう
>>285
地勢的にそうなるよ。
でも、大和政権独占には4世紀ごろからだろうな。
それまでは、併合国家(経済・食糧等での併合国家)
で、それに参加する国があったり、武力によるものもあるだろう。 107年まで奴國治め
倭国の乱後、少なくてもトヨ266年で邪馬台国が治め
次に奴國が復帰、その後大和政権と併合。
倭国の日本旧記からの盗用盗作で天武が作った偽書日本書紀に洗脳されている有象無象
現在の天皇家の否定に繋がる 倭国研究は牛歩の歩みに似て進まないが 何れ真実の歴史が明らかになるだろう
瀬戸内海については諸説あるんじゃね。
現代の感覚でものを判断するのはどうでしょうね。
>>280の訂正
3世紀前期でなく3世紀だな。スマソ >>296
外国文献、埋設物
出土品から見れば、倭国研究も進む。
記紀は、政権側が書いたもの
記紀原理主義にはならないように気をつけている。 >>296
記紀を編纂した奈良時代の役人は、
欠史八代として、当時の大王の事績をあえて隠しているが、
そもそも、古代史を理解する上で、
出雲族の渡来、それに続く、徐福(=ホアカリ=ニギハヤヒ=記紀ではスサノオ)を頭目としたハタ族の渡来
を知ることが重要であり不可欠である。
また、そこまで遡らなければ、歴史を線で結ぶことは難しい。 出雲神話で伺えることは 日本海を内海とした相互交流の在ったこと(石器時代から銅器時代) ウラジオストック 出雲 隠岐の島に残る痕跡
その後の中国との交流及びその任を担った天孫族 故にいち早く鉄器をわが物として覇権を掌握した
>>204にも書いたが、九州勢力と本州勢力の対立の構造は、主に、
ニギハヤヒ(徐福)とホアカリ(徐福)という同一人物を共通の祖先とする、
対抗心の非常に強い子孫の家系同士の対立なのである。 >>270
畿内説は否定証明済みがファイナルアンサー
はい、論破w >>277
どのみち纏向は否定証明済み
はい、論破w 陸行一月は陸行一日の単なる写し間違い。
●十日だの二十日だの書いておいて、三十日だけ一月と書くと言うことは、駢儷文の観点から言って100%無い。
●また、三世紀などという時代には川にはロクに橋が架かっておらず、陸行一月できる場所は事実上物理的に存在しない。
そのような長距離は必ず水行するのであり、これは本居宣長が畿内説を否定した根拠でもある。
つまり、陸行一月は誤り。
●百済伝で「其南海行三月有耽牟羅國」と書かれているものがあり、
耽牟羅國は済州島のことなので百済から三ヶ月も掛かる訳がなく、三日の誤植とされている。
このようなケースも実際ある。
●梁書の倭人条は魏志倭人伝をほぼパクって作ったものだが、これには陸行一月日とある。
つまりこの当時すでに陸行一月の資料と陸行一日の資料とが両方あったのだろう。
陸行一月は陸行一日の単なる写し間違いである。
はい、論破w
>>288
少なくとも畿内説は否定証明済み
はい、論破w >>307
どのみち畿内説は否定証明済み
はい、論破w >>312
いわゆる邪馬台国(≒妻国=投馬国)の卑弥呼の出身は、宇佐(豊王国)であり、
東征途上で、亡くなり、安芸の宮島に仮埋葬された後、
遺骨は宇佐に移され、その後、宇佐八幡宮から見える奥山に墳墓が造られたといわれる。 魏志倭人伝が創作って可能性もあるだろ。
何か倭国の記事書けって言われて原稿締切迫ってもネタ集まらなくて捏造したとか。
新聞社でよくあるじゃんそういうの。
>>316
日向の妻国(=投馬国)がいわゆる邪馬台国で間違いないでしょう。 >>318
そこなんだよな。
測量とか、風習、動物、植物等
調査しながら行ったとか?
東行至不彌國百里まで里だから合計1万7百里までは、
計算、で最後に1万2千里。
差の1千3百里で両説、あの手、この手。
合計1万7百里、1千3百里て何kmで、近畿は投了。
俺は換算忘れと思う。短里は5分の1.
日数も5分の1になる。
20日は、4日。10日は、2日、陸1月は28/5で5.6日 >>318
魏からの使いは伊都国に留まったから
倭人からの伝聞を書いた
ただ魏からの使いは二度来ており、二回目は御井の邪馬台国まで行った
それが総距離一万二千余里と言う表記 倭国大乱は福岡平野の奴国と筑紫平野の邪馬台国との勢力争い
恐らく一回目は倭国大乱が治まったばかりで
物騒だったから奴国を経由して筑紫平野へ行くのが
ムリだったのだろう
二回目は実際に行っている
帯方郡から伊都国までが約一万と五百里
伊都国から御井までが陸路で千里+α
ピッタリ
(猿が大嫌いなヤツw)
>>319のような日本語おかしい奴がいるのが九州説 自然な説明でキレイに全部説明出来てしまう
猿が一番憎悪するヤツw
まあ、説明できない近畿説。
中傷することしか頭にない。
確か、元の時代の中国の東シナ海沿岸の
地図では日本列島は台湾の様に、南北に
書かれている 九州が北になってて、南下
すれば近畿にいたる 因みに朝鮮半島は
インドぐらい巨大半島として描かれている
>>320
下品極まりない奴だなお前。何をもってでたらめと言うのかね?
根拠もなく他人を中傷して楽しいか?そんなことより、研鑽を積んだらどうだ? 非公開古墳の内部をちゃんと公表してくれなきゃ話にならん
>>325
日本語がおかしいって事実だろうに
なぜ中傷になるんだ? >>326
>日本列島は台湾の様に、南北に書かれている
お前が見たそれは、これを縮小コピーしようとして失敗したものだ
仕方ないので日本列島を縦に突っ込んだやつだw
「混一疆理歴代国都之図」
>>328
そんなことしなくても畿内説は否定証明
はい、論破w 卑弥呼の居館はどちらかと言うと纒向より伊勢遺跡の方がふさわしいと思う。
>>1
大量の剣も
魏の国の鏡も九州から出てきた
もう九州で決定だよ >>325
じゃあ、もう少しまともな日本語で書いてくれよ >>334
ハワイは裸国と黒歯国だな
震災瓦礫が丁度一年でハワイへ漂着している >>319
>>日数も5分の1
なるほどね 気が付かなかった
目から魚の目(´;ω;`)ウッ… 早急に首都を戻し政府天皇家国防西日本起源企業を奪還し日本国を作れ
大便民国チョン菌土人を始末しろ
西日本に強烈な劣等感を持つ下等民族
反抗的態度をとる恩知らずの虫けら野蛮人
朝日毎日NHK電通ソニー お前らのような日本人でもない虫けら
反日チョン菌民国情報操作洗脳会社を始末しろ
西日本から叩き出せ 西日本でビジネス一切させるな
天照神に歯向かう 悪は一匹残らず始末だ
>>319
陸行一月は陸行一日の写し間違いだよバカの猿 古墳時代になって九州勢力が前方後円墳を作り始めちゃうのが九州説の弱みだよね・・・
はい、論破〜w
これ面白いからパクろう
>>322
でも倭国大乱と同じ時期に瀬戸内海沿岸の高地性集落やら畿内でも戦闘痕が発見されてるけど?
どう考えても大規模内戦だよね?
はいはいはい〜論破〜〜 >>345
全然、九州説の弱みでもないよ。
同盟関係だからね。
大和政権に征服という固定観念が間違い。
はい、論破〜w。 >>346
弥生中期 - 後期だろ。
どうみても大和政権の台頭によるものだろうな。
別件と思うよ。
はいはいはい〜論破〜〜 理由
隋、旧唐書
広がりが早すぎる
二大勢力圏の大きな戦闘がみあたらない
同盟だろうな。
大和政権が主導権握るのは、4世紀以降。
以上
九州の墳墓形式はわりかしごちゃまぜで
前方後円墳の近所に円墳作ってたりする。
昔ながらの円墳にする豪族もあれば
新しい前方後円墳にする豪族もあって
あまり墳墓形式にこだわってない感じ。
>>350
同盟シンボルだから成り立つんだよ。
戦闘ばかりだと、あんな急速な広がりはない
二大勢力圏が同盟となれば、弱小豪族も参加してくる。
中には、反発する豪族もあるから、一部戦闘もあるだけの話。 >>350
墓の形式ってのは被葬者の宗派によるものであり、政治とは無関係だということよ
日本が仏教国だからといってキリスト教徒の日本人を仏教形式で埋葬するわけがない >>341
南を東にしたりとかもあり
お怒りはごもっともですね。 >>347
同盟とか、ド素人が根拠も証拠もなく言い張っても無意味
寝言に過ぎない 奈良は継体のとき磐井を裏切り暗殺したが すぐに敗退した その後継体やアラカイは殺され 表面は倭国へ服従した
倭国が隋や唐との関係で緊張が高まり戦いは避けられなくなったときに 天智が唐と内通し 再び裏切った
九州論者ってなんかこう、畿内論者がぐうの音も出なくなるような議論ができるような人はいないねー
ほとんど妄想ばっかり・・・
>>357
いえ、いえ近畿さんの大爆笑もん
も大したもんですよ。
中国人も大爆笑、羅針盤もある時代に
わざわざ、朝鮮が書いた北海道が南になる地図
もってきたり桃の種やら。 >>345
畿内説は否定証明済み
はい、また一行で論破ww >>349
九州倭国は近畿日本へ禅譲を考えていた
隋書
>上(天子)は所司に、そこの風俗を尋ねさせた。
>使者が言うには、倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす、
日は近畿日本のこと。
>天が未だ明けない時、出でて聴政し、結跏趺坐(けっかふざ=座禅に於ける坐相)し、
>日が昇れば、すなわち政務を停め、我が弟に委ねるという。
ここ。これは近畿日本へ実権を渡していることを言っている。
>高祖が曰く「これはとても道理ではない」。ここに於いて訓令でこれを改めさせる。
「そんな二重国家、三重国家のようなバカな統治があるか。近畿日本は認めんぞ。」と書いた訓令書を小野妹子に渡した。
そして小野妹子は恐らくは推古天皇の承諾のもとこれを紛失したことにした。
近畿日本にとって受け入れ難い内容だったから。
こういうこと。
>>354
涙拭けよ否定証明済みで反論不能の近畿パーwww
はい、論破www >>357
畿内説は否定証明済み
はい、グーの音も出ない近畿パーがまた一行で論破www 平城京に都が遷されて間もない和銅6(713)年、
律令政府は各国に以下のようなお触れを出した。
「諸国の郡名、里名を、好い字の二文字に改めて定着させよ」
これが、「好字二字化令」と呼ばれるものだ。
逆に、1文字を2文字にした例も多い。「粟国」は「阿波国」に、
「木国」は「紀伊国」に、「泉国」は「和泉国」となった。
それで、倭人伝の国名に鬼国(紀伊)や鬼奴国(紀の国)とか
好高都(高津)仁徳天皇の(高津の宮のち難波の宮)だったのか。
宇治はもと内と言ったらしい=それから略してウノクニ
=「好字二字化令」から宇治の国と成ったらしい。
それで倭人伝の邪馬国(山城国)の近くに烏奴国があるが宇治のウノクニだったと
テレビ番組の地名博士の発言から閃いた。
宇治と云えば鵜飼いの行事が残ってるのも関連あるかも。
卑弥呼時代は邪馬台国が九州と奈良の2か所並列で有ったんだよ。
九州邪馬台国は卑弥呼の領地で奈良邪馬台国は男王の領地
これと似た話はアマテラスと弟王スサノオの神話に良く似てる。
日本の歴史上で都が2か所同時の時代が多い
飛鳥と藤原の宮、藤原と平城、平城と平安、明治の京都と東京のように。
卑弥呼、邪馬台国は火の国の斎王だったで、
今の熊本平野の北半分で南半分がクコチヒコの狗奴国
これは福岡、御笠川を小船で登り太宰府までそこで筑後川の上流宝満川を下れば
有明海に入り南へ水行で熊本の菊池川か白川を登れば邪馬台国に着く。
不弥国から水行十日、陸行1月がピッタリはまる。
俺様が全て解明したから
特別にお前ら愚民共にヒントをやろう
ケボカルシイイモデウドハコカ
>>369
周知のことだと思うが、
里で書かれているところは
1/5するとほぼ実距離になる。
あと、日数も中国の帥行三十里で換算して
それを1/5すると倭人伝の万二千余里となる。 じゃあ、卑弥呼ほどの国際通がなぜこんな奥まった阿蘇などに籠ってるのか
伊都国か今の太宰府辺りなら街で使節とも直ぐ面会できるのにと
昔から不思議で九州説は胡散臭く感じてたが有ることに気づいたんだよ。
それはね、「鉄」鉄器、文明をもひっくり返す鉄の存在で軍事面からも鉄はハイテク製品で
農具でも斧、鍬や鎌、ノコギリなんかだと開懇が楽になる。
肥後の国は弥生時代の遺跡から鉄鏃が大量にでてくる
今までは、倭人伝にもある鉄は韓国からの輸入が定説だったが
最近熊本、菊池市辺りの遺跡から製鉄で出るカスのスラグ鉱滓(こうさい)が出土する。
卑弥呼は鉄鉱山、製鉄、利権を持った邪馬台の管理者だった。
>>356
同盟を対等の立場だと思い込んでるようだが大間違いだ
そこに書かれている「近畿と各地の首長たちによるネットワーク連合」というのは最近の通説そのまま
那珂八幡古墳の型式が纒向型と若干違うと判明したことにより
従来説がひっくり返ったと思ってるみたいだが無知を晒しただけ 未来永劫の刻を生きたマホロアソウルで有名であった式神リグゼオ
前方後円墳には、箸墓古墳以降の
形式が固定された定型形前方後円墳と、
ちょっと形が決まっていない手鏡型や
バチ型などの古いタイプの前方後円墳があるんだよ。
那珂八幡古墳は、その古いタイプの古墳なんだ。
前方後円墳というが 前後を誰が決めたのか 方円墳というべき
古いタイプの前方後円墳は、日本中にあって
形が定まっておらずちょっとゆるい。
形がかっちり決まった定型形前方後円墳が
あとから広まっていく。
>>369 書き忘れたが、不弥国から水行だと十日、または内陸行で1か月掛かるの意味。
それじゃ、阿蘇に製鉄のための鉄資源はどこにあると疑問が湧くが
阿蘇には阿蘇赤土リモナイトてのがあって、焼けばベンガラ古墳に使ってる赤色。
このリモナイトは正式名褐鉄鉱で、鉄の酸化鉱物、沼地などにある赤土
阿蘇リモナイトは褐鉄鉱や湖沼鉄と云われ、古代イギリスでは湖沼鉄から鉄器を作ってる
湖沼鉄は低い温度800度ほどで溶解し加工しやすい。この時スラグ鉱滓がでてくる。 >>108
そうですね
記紀と倭人伝の接点は伊都
伊都と考えられている糸島や福岡西区は弥生時代後期、邪馬台国前夜は先進国であり鏡文化の中心地
「鏡」も接点の一つ >>365
イミフだ否定証明済みの猿w
何自己紹介してんだキチガイw >>378
間違いだよバカの猿w
何遍も同じこと言わすなカタワww >>152
ですね〜
これだて、会稽・東冶の東ってどこになりますかね この肥後には何度となく天皇の熊襲征伐など神話などにも登場する地域で
景行天皇や息子の日本武尊の熊襲征伐とか筑紫の君岩井の反乱や
北部にはワカタケル大王名の鉄刀が江田船山古墳から出土したりで
何かといわく付きの土地がら。
神話の景行天皇が廻った地は製鉄炉の遺跡がある地域が多いらしい
から鉄生産地の視察の雰囲気なのが不思議。
日本独自の製鉄と云えば、たたら製鉄でこれは川などにある砂鉄を使う、
たたら製鉄は古墳時代に発展する製鉄で高温なので技術的に難しいが
湖沼鉄は土管や壷に炭を入れて火を付けその上からか湖沼鉄を入れるだけで
下からドロドロの鉄が出てくる、量は少ないが矢じりや農具くらいは出来る
今でも、アフリカの部族ではこのやり方で鉄を手に入れてる。
倭人伝に出てくる地名が
伊都とか松浦とか九州ばかりだ邪馬台だけ違う土地ではないだろう
その余の旁国は遠絶にして詳らかにすることを得べからず。
次に斯馬国あり。次に己百支国あり。次に伊邪国あり。次に郡支国あり。次に彌奴国あり。
次に好古都国あり。次に不呼国あり。次に姐奴国あり。次に対蘇国あり。次に蘇奴国あり。
次に呼邑国あり。次に華奴蘇奴国あり。次に鬼国あり。次に為吾国あり。次に鬼奴国あり。
次に邪馬国あり。次に躬臣国あり。次に巴利国あり。次に支惟国あり。次に烏奴国あり。
次に奴国あり。
これ女王に境界の尽くる所なり。 その東には大山(伊勢国から見える富士山)あり。
その南に狗奴国あり。男子を王となす。その官に狗古智卑狗あり。
女王に属せず。 郡より女王国に至ること万二千余里。
旁国は遠すぎて詳しい事はわからない。 だから近畿地方の国。
次に斯馬国あり。(志摩国)
次に伊邪国あり。(伊勢国)
次に好古都国あり。(高津国、高津の宮)
次に不呼国あり。
次に姐奴国あり。
次に対蘇国あり。
次に蘇奴国あり。 (添の国、奈良北部の広い郡)
次に華奴蘇奴国あり。(添下郡、そのかの国)
次に鬼国あり。 (紀伊国)
次に為吾国あり。(伊賀国)
次に鬼奴国あり(紀の国)
次に彌奴国あり。(美濃国)
次に邪馬国あり。(山城国、山背国、平安京まえの京都)
次に躬臣国あり。(越コシの国)
次に巴利国あり。(播磨、針間国)
次に支惟国あり。(吉備国?)
次に烏奴国あり。(宇治国、古くは内、うのくに)
>>260
平原の鏡が国産は通説
特にあの日本一の大鏡はね
技術の流れを考えたら、卑弥呼に届くよ
貰った鏡を溶かして作り治した可能性もある 奈良でこれ発掘されるの一か所や二か所じゃねえもんなw
■最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
「建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、
最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と
考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。」
「同町では、朝鮮半島式の床暖房装置(オンドル)を
持つものを含めて約40棟見つかっている。」
「白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長は、
建物の時期についてはさらに検討が必要としながらも、
(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが
営んだ重要な施設があったことは間違いないとみている。」
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html 躬臣国は現在櫛田神社のあたり 国と言ってもヒミカの時代は九州全部を支配している訳ではなく
現在の福岡県と佐賀県あたりまでの勢力圏
その後の倭国の九州平定譚はお馴染み盗作日本書紀の景行記で詳述されている
ヒミカの時代の勢力圏は北部九州まで 音でこじつければ近畿東海北陸なぞあらゆる地名に充当できる
しかし 親魏の勢力圏に敵対し親呉の銅鐸圏があり 呉の滅亡する250年以降でなければ
勢力の伸長は無理 時代を混同若しくは 強引に桃の種の奈良としたい向き以外の理性のある人には受け入れ難し