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【邪馬台国九州説】邪馬台国九州説に新たな視点 卑弥呼が統治した「クニ」考察 YouTube動画>2本 ->画像>28枚
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所在地を巡って九州説か近畿説かで激論が続く邪馬台国論争に、新たな視点を投じる本が刊行された。福岡県小郡市埋蔵文化財調査センター所長片岡宏二さん(63)が書いた「続・邪馬台国論争の新視点−倭人(わじん)伝が語る九州説」(雄山閣)だ。
「弥生時代の終わり、日本列島では近畿地方と北部九州の二大勢力圏があった。近畿は絶対的な王権で後のヤマト、そして天皇家へとつながるのは確実。でも卑弥呼は決して、力でクニグニを制圧した人物ではない。隣接したクニとも調和を保った北部九州こそ、邪馬台国の姿と重なる」。九州説を採る研究者として、論考を新著に詰め込んだ。
続編の今作に合わせて増補版に改めた前作「邪馬台国論争の新視点−遺跡が示す九州説」(2011年刊)では、論争の火種になってきた「魏志倭人伝」記載の方位や距離のずれを、実際の遺跡調査に即して整理し、筑紫平野の「クニ」の連合体を邪馬台国の有力候補として位置づけた。続く今作は、卑弥呼が「どのような王」として存在し、彼女が約50年間統治した「クニ」がどんな姿の社会だったかを考察している。
片岡さんは倭人伝を含む歴史書の記載から、卑弥呼像を「長年の戦争によって乱れ、疲弊した諸国が戦争を終わらせるために協力し、納得して担ぎ上げられた調整能力の高い人」とみる。そして倭人伝で描かれた社会の様子や権力構造を、近畿と北部九州それぞれの遺跡群に重ね、北部九州の相互扶助的な連合国家を「邪馬台国」とした。
「魏志倭人伝の基になった魏の使いは、近畿と九州のどちらがいかに日本として成熟し発展したかを書き残したのではない。ただ邪馬台国という地域のありようを書いた」
北九州市出身。ジャーナリストにあこがれを抱いて進学した早稲田大で、考古学と出合った。宅地開発と歩をそろえて遺跡発見が相次いだ小郡市に就職。発掘現場の視点から、日本の成り立ちを考えてきた。
近年、近畿説が広く受け入れられがちなのは「現代の日本が中央集権的なので『国とはそういうもの』と思われてしまうから」とみる。執筆に際して、九州説の再評価だけでなく、現代のリーダー像再考をも胸に忍ばせた。「専制君主ではなく、諸国が共立し、彼らに慕われた卑弥呼だった。でないと50年も続きません」。現場での実感を研究に生かすことはジャーナリストの姿勢にも通じている。
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/595956 邪馬台国は九州だと思うよ。
卑弥呼の子孫は実は今も日本にたくさんいるようだ。
特殊な能力を持ってるからすぐ解る。
>北部九州の相互扶助的な連合国家を「邪馬台国」とした
これはものすごい新説。
魏志倭人伝では、
1 卑弥呼は倭国の女王であって、邪馬台国の女王ではない
2 卑弥呼の住む場所は邪馬台国だった
となっている。
つまり、邪馬台国とは、倭国の首都の名前。
ところが、今回の説は、邪馬台国は首都ではなく、「クニ」全体をさすというのだ。
これは、当時の中国が認識する「国」とは別の「クニ」と言う概念を考えることになる。
だから、ものすごい新説なのだ。
ただし、原典と異なる概念を持ち出して、何か学術的な意味があるのか、
あるいは、いわゆる「邪馬台国論争」の解決につながるかといえば、
全く無意味な説ということになる。
こういうのは、通常「トンデモ論」という。
>近畿は絶対的な王権で後のヤマト、そして天皇家へとつながるのは確実
李氏朝鮮王へ繋がるのであーたw
日本書紀を見れば 近畿ヤマトとは別の国が魏に使者を送ったと読める
また神功皇后が北九州を軍事平定して 筑紫山門のは土蜘蛛女王国を攻め滅ぼしたと
詳しく書いてある
日本書紀に則せば 邪馬台国 卑弥呼は九州の非高天原系の和人になる
しかも政治内容から見ても 近畿ヤマトは シナ大陸政権に対等意識を持つが
邪馬台国卑弥呼は従属意識を持ち 南の勢力との戦争ではシナ人の旗を
貰いたがったほどだ
邪馬台国は宇佐とその周辺。宇佐神宮の下は古墳で卑弥呼又は壹与の墓。東側が海に面しているのも根拠。中央に祀られている比売神こそ卑弥呼または壹与の正体。左右には応神天皇、神功皇后が祀られていることに注目せよ
現代のグーグルアースならいざしらず
大体人の又聞きで書いた陳寿の記述を鵜呑みにして
憶測するのは無駄なこと
到伊都国で話はここで終わっている
帯方郡史か倭人の曖昧な説明を重ねて記述してるので
話がややこしくなっている
後の後漢書、宋書、随書倭人伝では行程が殆ど省かれている
土塁木造建築物は毎年の台風で洗い流され遺跡が残るはずはない
倭人が天災難を避けるため大和に移住したことは想像に難くない
>>13 卑弥呼と神功皇后が同一と言う説もあるね。仮定の話。朝鮮に近畿から乗り込むとすると。どのルートを使ったか非常に気になるけどなぁ...(´・ω・`)
>>12 日本書紀 巻第九 神功皇后紀
日本書紀でも別物だよね。
ヤマト政権、成立の経緯の記載が一切ない
続日本書紀編纂にあたり意図的に日本書紀も編纂しているのではないかと
思う。隋書の倭国伝と照合すると抜けている部分が多い。
>>1 まだやってるの? バカ丸出し(笑)。無い物ねだり(笑)
>>17 涙拭けよバカ丸出し(笑)。無い物ねだり(笑)
ノーベル賞にはとどかね〜〜〜〜〜〜〜〜〜よ(笑)。
クンニ能力の高い漢が卑弥呼を補佐したから
乱れた倭国がまとまった
クンニ能力の高い漢が卑弥呼を補佐したから
乱れた倭国がまとまった
イザナミの鼻からスサノオが生まれ左目からアマテラス、右目からチクオミがうまれた、これ割と正しい。
列島を大陸側から見て右目が築臣(まあ月読み)、真ん中からスサノ王、左目からアマテラス神
つまり 神 王 臣 となり、古事記で明確に当時の日本の世界を表している。邪馬台国とか倭人伝の中だけの話、失念、伝聞、勘違い、想像の伝聞の書。
ヤマトで国の名を「大和」とか「倭」とか書いて見せて、これヤマトと読みますと言われ、大陸人は困って邪馬台国と当て字しただけ
そもそも大量の漢字があっていちいち発音記号もない漢字、今となっては何と読んでいたのかわからない。
結論:邪馬台国、そんな国は 「あ り ま せ ん」
>近年、近畿説が広く受け入れられがちなのは
中央に忖度した九州の考古学者たちがC14年代測定をしぶるから
西日本新聞の記者も重々わかってるくせにw
倭国大乱で伊都国(現:福岡県糸島市)→大和(現:奈良県・奈良盆地)=邪馬台国
に日本の中心は移ってるだろ
倭国大乱が2世紀後半なのに、3世紀の内容を書いてる魏志倭人伝で
九州北部が倭の中心地みたくなってんだよ
纏向に、ほぼ日本全国をおさめる中央政権があり、それが大和朝廷となったが、
九州にまだ統一されてない地方豪族がいて、それが邪馬台国で女王は卑弥呼と
うーーーん 筋は通ってる気がするけど、それなら纏向中央政権の王様の名前ぐらい、
魏志倭人伝に載ってないとおかしくない? まず最大勢力を記述するじゃん
九州型の古墳の横穴式石室も岡山までは確認されている
が、畿内はちょっと違う
横穴式石室は「九州型」と「畿内型」に大き分けられる。
■「九州型」は
4世紀末頃から福岡・佐賀県沿岸部を中心に
前方後円墳の埋葬施設として築造され、その後
5世紀には九州各地へ拡がっていく。
普及する過程で「肥後型(熊本県)」や
「地下式横穴(宮崎県)」などに変化し、
地域色がみられるようになる。
九州外へもわずかに拡散するが、肥後型石室の
構造をよく残しているのは岡山市の千足古墳である。
■「畿内型」は
5世紀終わり頃に出現するが
6世紀はじめに前方後円墳に採用されて、
その後各地へ普及していく。
>>33 倭国大乱が2世紀後半?
記禄として最古のものなのに
何を根拠?古事記・日本書紀は712年以降だから参考にならん。
>>37 魏志倭人伝と後漢書。
あとは同時期の北部九州〜瀬戸内海沿岸部の戦闘痕や人骨
記録として一番古いのは57年の光武帝から漢委奴国王印を貰ったっていうヤツだろ
あれも後漢書だけど。おそらく委奴国=伊都国だろ。当時、国内最大勢力だったのは確かだから。
その後、大和朝廷の時代になっても伊都国は外交の最重要拠点(一大卒)で有り続けたからね
さらに後の時代になってから内陸に移って大宰府になるんだけども・・・
ある程度意味のある記録としては、さきたま古墳の鉄剣金石文(471年)が一番古いかもな
大和朝廷がこのときまでに九州〜関東に至るまで平定していたという根拠になっている
×さきたま古墳
○さきたま古墳群
な。鉄剣が出土したのは稲荷山古墳。
埼玉県の名前はこの古墳群に由来している
>>39 そっちの方は異論はない。
魏志でいう邪馬台国と大和政権は、別物
と見ている。無理やり大和政権と結びつけるのに
疑問を持つ。
邪馬台国は隣のクニ=狗奴国と戦争を続け、チャンコロにまでキャイ〜ンキャイ〜ン助けて〜って泣きついて援軍の代わりに旗1本もらって卑弥呼は狗奴国に敗れて戦死もしくは身内による暗殺死。
そうか?
邪馬台国と近畿の王権は連続性があると思うけどな。
大王になったのは推古が最初ということだが、
それまでも女性の王権トップを見出すことが出来ると思う。
まあ古事記日本書記の編集の結果かもしれないけど。
邪馬台国はロマンだが、
肝心なのは現代から見ていささか辺鄙な大和になぜ求心力があったかじゃね。
倭人伝は、238年に朝貢が有り、247年迄魏との交流の在った
倭人域の 21首長国が共立した 一代の女王、卑弥呼の国について書かれている。
倭人伝であって、東夷諸国の条のような 倭国の説明ではない。
結論から言うと、
大和朝廷は万世一統の世襲皇国であって、この時、魏が知り得た女王国では無い。
韓や高句麗、東夷伝諸国同様の 倭国を記録するのであれば、女王国とは言わない。
筑紫に女王が存在した以上、倭国の統一は まだ為されていないはずである。
女王國 東 渡海 千餘里 復有國 皆倭種 餘旁國 遠絶 であって 不可得詳なのである。
皇帝の使者として印綬の為、女王宮を訪れた、建中校尉梯儁は
この21国の名を漢字にして記録し国勢可7万戸の国家として、国名を邪馬台国と仮称した。
邪馬国で見た、女王の臺 をランドマークとした命名だろう。
この21国列記の筆法は、韓伝の馬韓54国、辰韓12国、弁辰韓12国の形式を踏襲している。
地理概略
自郡 至 女王國 萬二千餘里(計其道里 當在 會稽東治之東)
其南 有 狗奴國 男子為王 其官有 狗古智卑狗 不屬女王
参問倭地 絶在 海中 洲㠀之上 或絶 或連 周旋可 五千餘里
女王國 東 渡海 千餘里 復有國 皆倭種
自 女王國 以北 其戸數 道里 可得略載 其 餘旁國 遠絶 不可得詳
筑紫です。
東夷伝序文
近 日之所出 遂周觀 諸國 采 其法俗 小大區別 各有 名號 可得詳紀
雖 夷狄之邦 而 俎豆之象 存中國 失禮 求之四夷 猶信
故 撰次 其國列 其同異 以 接前史 之所未備焉
であって
倭人伝の評曰
史漢著 朝鮮両越 東京撰 録西羌
魏世 匈奴遂衰 更有 烏丸鮮卑 爰及 東夷
使譯 時通 記述隨事 豈常也哉
時に魏が知り得た、筑紫の女王国情報なのである。
>>20 アホはお前だ、宗女の意味わかってんのか?
卑弥呼は九州だろ、地理的にも歴史的にも。
奈良から出てくる卑弥呼関係の物は、全て贈り物。
それに、奈良県民は朝鮮人脳で図々しいから、信用しちゃいかん。
これ常識。
邪馬台国が北九州ではないと思われる証拠がある。
それは魏志倭人伝の文中で、奴国と不弥国の副官として卑奴母離(ひなも り)という
官名が出てくる。「ひな」は明らかに田舎もしくは地方という意味だから、北九州に
邪馬台国が存在したとするなら、同じ北九州に比定される奴国や不弥国の官名に
このような名前をつけるのは不自然だ。
どう考えても、邪馬台国はもっと離れたところ、少なくとも宮崎県とか熊本県あたり
もしくは岡山県、近畿地方でないとおかしい。
黥面文身は海洋民族である倭人の習俗
東に海のない畿内は 黥面文身の風習がない倭種で 邪馬台国ではない
昔、奈良の人から倭をヤマトと読んではいけないと言われた
倭をヤマトと読むのは渡来人の証だとか
以下、参考
『「倭」はすでに本来の意味を失い、「ヤマト」の意味しかなく、「倭」を「ワ」と発音するときは、
万葉仮名の「倭」でしかなくなってしまっていたのである。
ここに「倭」を「ヤマト」としか読まなくなってしまった人たちの
存在も浮かび上がってくる(倭人ではない人たち)。』
中国の漢字学の視点で読み解けば邪馬台国は北部九州だよ
地名や人名の漢字に意味はないし古代文字がどう発音されていたかが大事で
音こそが場所を特定する重要な手がかり、ヤマト=古代九州のことでそれは縄文時代から続く古い呼び名。
それから、魏志倭人伝は漢代〜三国時代〜西晋時代の記述が混在している
部分部分で内容が矛盾しまくっている(邪馬台国までの行程が距離から日数とか)
結論いうと漢代〜三国時代〜西晋時代の間に九州から機内に邪馬台国は移動した
同時に地名も移動している、三輪・朝倉・田原・笠置山・住吉、そしてヤマト
地名の移動は古代中国では当たり前で、中国の影響を受けまくっていた九州の国々が実践した証拠のようなもの。
>>51 つまり、畿内説の物証は絶対に認めない
どんな証拠を提示されても、「全て贈り物」という作り話をでっち上げて否定する
ってことね
さすが九州説です
盆地ではないよな。邪馬台国
台の字は高くてたいらな土地。
その下方には、食糧生産に適した土地
まあ、台風、地震とか多い地域だから残らない可能性もある。
>>57 邪馬台国は中国人の当て字
文字に意味はない
>>55 >ヤマト=古代九州のことでそれは縄文時代から続く古い呼び名。
嘘八百
>同時に地名も移動している、三輪・朝倉・田原・笠置山・住吉、そしてヤマト
地名はどちらが先かは不明
勝手に九州が先と決めつけてるだけ
その空想話の弱点は、畿内のヤマトと同じ地名が九州にないこと
>>59 はたしてそうかな。当て字だけど、
地形からきた地名をあてたかもしれない。
知らない土地名を自国文字で表す場合
地形とか聞き取りながら記禄と同時にふさわし文字を選ぶ
俺ならそうする。他の諸国でも同じ文字使うところは、なんらかの関連
があるのではないか?
やはり中国の史書に書かれている内容は中国人に聞くべきだね
ダウンロード&関連動画>> >>52 副日 卑奴母離 についてだが、この人は、247年に
倭 女王 卑弥呼 與 狗奴國 男王 卑弥弓呼 素不和 遣倭 載斯烏越 等 詣郡 説 相攻撃状
を伝えた際の、 倭人船に便乗して来日した 塞曹掾史 張政 と同じ船で行動してる。
伊都ではいないが、別の現地に詳しい人間を雇っている。
てか、張政君は、一大卒で常に駐留? 拘留されてたんじゃないのかな?
倭人は刺青をした海洋民族で、大和王権は刺青文化を嫌った別の民族
黒潮に乗って島伝いにやって来た南方系の人々 ( 原日本人の一部 ) がもたらした [ 入れ墨文化 ] は、
大和朝廷成立後から奈良時代初めまでの間に消滅しましたが、一説によれば [ 入れ墨文化を持たない ]
別の部族によって [ 入れ墨文化 ] を持った人々が征服されたためであり、新しい支配者が入れ墨を
野蛮な風習とみなしたためとされました。
しかし大和文化圏から遠く離れた沖縄や、北方系の人々の間では オホーツク文化、 擦文 ( さつもん )文化が
[ アイヌ文化 ] へと発展し、東北、北海道の アイヌ人の間では、明治時代まで何千年もの間 入れ墨の風習が受け継がれてきました。
>>64 支配層から刺青文化が消滅したのは中華の中央集権をパクりだした白村江敗北以降だね
古墳時代の王族はバンバン刺青をやっていた
>>64 それパイロットの人が書いたブログからコピペ
専門家でもない一般人
ヤマタイ国ではなくヤマイ国。
大和政権が滅した直後に空前の疫病が広まったためにその呪いを治めようと神武が日向から招聘された。
それから病の語源としてヤマイという言葉はは残った。
>>69 > 病の語源としてヤマイという言葉はは残った。
ワロタ
九州説の場合、自分のところは何の証拠も出せないくせに、
畿内説側が出す証拠に難癖つけて、そんなもの認めないと言い張り続けるしかないんだよな
贈り物だと空想話を作るか、考古学者が捏造してると言いがかりをつけるとか、
嘘八百並べて反論するとか、手段を選ばず何でもやる
>>34 卑弥呼の時代には、そこまで強い中央集権ではなかった。
梁史では、倭の五王の記がなく、文身国、大漢國、扶桑國ある。
文身国が出雲地方、大漢国が近畿、東海、関東(大和政権)、毛人が関東北部から東北(扶桑國)にあたるのではないか?
南史では、倭の五王の記と東征毛人五十五國,西服眾夷六十六國,陵平海北九十五國とある。
東征(軍事)行服眾夷(国譲り)六十六國に邪馬台国や出雲が含まれれるのではないか?
九州北部、災害等で食糧難で日本海側(出雲、丹後)に移動?
出雲、丹後て鉄器出土多いよね。
魏志倭人伝の時代に、
唐古鍵が突如消えたり纏向に生活痕が無いのは、当時発生した飢饉により各地へ避難したものと考えられる
■新羅本記
173年:倭の女王卑弥呼が使者を送った
193年:倭人が飢饉。避難民が新羅へ押し寄せる。
■当時の気候
「3世紀〜4世紀は海面温度が下がり、寒冷化だけではなく干ばつにも見舞われたと考えられる。」
「名古屋大学の中塚武教授は、卑弥呼登場前の時代は大雨や旱魃が繰り返された不安定な気候の時代であったという。」
■これに対する考古学者の見解
「飢饉が続いたために、銅鐸を用いた過去の祭祀を捨て、新しい宗教をひっさげて卑弥呼が登場した。
それが卑弥呼の鬼道だと石野氏らは解釈する。」
↑妄想から妄想の派生を生み出すこじつけ論法=妄想www
■考えられること
・飢饉で畿内から北部九州や半島へ移住した人達が多くいた(纏向には生活痕が無い)
・畿内説はその痕跡を畿内政権の勢力圏だと勘違いしている
>>64 九州倭国と近畿日本は別の文化圏だったってことだよね
全身にこれ見よがしに刺青入れる九州倭国の文化と
刺青を嫌う近畿日本の文化とが
繋がってるわけがない
刺青が現代日本でアウトローのイメージになるのも
魏志倭人伝に載っている九州倭国の刺青文化が
近畿日本から見て「まつろわぬもの」だからに他ならない
邪馬台国・卑弥呼など有史以前の九州の歴史を掻き消した連中が
大陸や半島が怖いから瀬戸内海のドン詰まりまで逃げ込んだのが河内・奈良
九州説の人って今から逆転できると本気で思ってるの?
現実的にはもう試合終了なんだけどw
畿内説は始まる前にオワットルw
無形畿内説w
<ソース>
読売新聞YOL(21.11.2018)
邪馬台国の候補地?見学施設、財政難で建設延期 社会
奈良県桜井市は、邪馬台国の有力候補地として注目される纒向(まきむく)遺跡で、
2020年度中の完成を目指していた「ガイダンス施設」の建設延期を決めた。
財政難が原因。整備を進める史跡公園の核となる施設で、遺跡見学の拠点として
期待されていたが、新たな完成時期は未定だ。
■纏向遺跡で出土した土器の産地
伊勢・東海系:49%
北陸・山陰系:17%
河内系:10%
吉備系:7%
近江系:5%
関東系:5%
播磨系:3%
西部瀬戸内海系:3%
紀伊系:1%
■結論
纏向遺跡は大陸、九州とも疎遠だと判明した
鬼道に関しては前代未聞の「女王」を自分でイメージするために
陳寿が張魯の母をモデルにしたもんだと思う。
実際に鬼道で人々を支配したとは限らないと思う。
畿内説はこじつけが多すぎておかしくなってるんじゃないの?
713 日本@名無史さん 2020/04/10(金) 15:58:12.87 ID:
そもそも穴の場所がおかしいんだからw
纏向大型建物で桃の種が発見され、畿内説は祭祀のお供え物だと主張していたが、
実際に種が埋まっていたのは柵の下の深い穴
建物と桃の種の位置関係から、両者に関連性は無いと見られる
「このモモの種などが多数出土した土坑内部の掘り上げ土を詳細に調べたところ、カエルの骨が100点以上含まれていることが確認されたのです。」
カエルの骨はほんの数ミリと非常に小さい
畿内説には、弥生人の遺骨や鉄器類は溶けやすい地質だと主張している者が居たが、この発見と矛盾する
畿内説の人って今から逆転できると本気で思ってるの?
現実的にはもう試合終了なんだけどw
仮に畿内であったとしても纏向じゃ無い事だけは確かなんだよね
あれは地方豪族の村でしかない
大和政権 元は、濃尾平野周辺と思う。
纏向は、優れた農耕技能もつ大和政権が、地方の人に
農業指導していたのでは?軍事より経済で統一してきたんじゃないの?
西服眾夷六十六國つまり、邪馬台国や出雲等の66か国は、国譲り。
纏向出土の木製仮面について
『これまで日本列島における木製仮面の最古の事例としては、7世紀初頭頃の神戸市宅原遺跡出土例が知られていたが、今回の事例はそれを大きく遡る時期に位置付けられるものである。
考古資料に見られる仮面としては、縄文時代では土製仮面が知られており、このほか鼻・口・耳などの土製品の存在から、木製・皮製などの仮面が存在したと推定されている。
また奈良時代以降では、大陸より伝わった舞楽で使用されたと考えられる仮面が複数知られている。
弥生時代においては、東日本を中心に存在する土偶形容器に仮面状の表現が見られ、土器絵画にも仮面を装着しているとみられる人物が描かれる例が存在する。
しかし弥生時代の仮面の実例はほとんど知られておらず、古墳時代においても確認されていなかった。』
纏向は縄文系の名残り?
>>90 だからさ、農具は、移動できるだろ。
当然、継続用農地として使っていない。
古墳や都市作りに使う土の採取に切り替えもあるかも?。
台風、氾濫、再開発とかあるから、残る方が奇跡。
紀元前より700年迄が大宰府朝廷が日本列島を支配した
これを倭国という 人物は ヒミカ 倭国五王 タリシホコ などが有名
タリシホコの功績をパクり聖徳太子が捏造された
700年以降が奈良政権の時代 継体で朝鮮人(エベンキ)となり今に至る
>>91 なるほどね。遮光土器文化の南下
なんせ、中央集権エリアだから、
古いものから新しい物も出るから、むつかしいね。
九州説は教科書レベルの日本史を否定することが前提だから
結局は非学問のトンデモ説でしかないんだよ
奴国2万余戸、投馬国5万余戸、邪馬台国7万余戸
1戸=6人だとすると42万人
今の宮崎県宮崎市が40万人
う〜ん・・
古墳の徹底調査なくして何も進まんだろ
人骨でも見つかったら旧皇族なんかとDNA調査するといい
アイスマンみたいにさ
考古学から、近畿の古墳を作った人足の土器には、全国のスタイルが集まってる。
遅くとも、3世紀には強力な中央集権国家が近畿にあった。
すると、その直前の時代も、首都が近畿にあったと考えるのが自然だよ。
>>96 中国人の言うことは1/10で聞くとちょうどよい塩梅になる
魏志倭人伝だから中央政府に逆らう九州反乱軍だけが記述されてて、
呉志倭人伝があれば纏向中央政権が記述ということか
筋が通ってるような気もするがやはり邪馬台国九州説ありきのこじつけでは
3世紀はまだ沿岸航行の時代で、渡海は1日で航行できる50キロか60キロが限度
呉が日本列島と交流するには、東シナ海横断や沖縄ルートは不可能なので、
中国大陸を海岸線に沿って北上し、楽浪郡や帯方郡を経由して、北部九州に辿り着くしかない
結局同じルートになる
だから魏が九州と交流してて、呉が畿内と交流してたなんてのは、荒唐無稽な作り話に過ぎない
まぁ倭国大乱と同時代の九州北部の遺跡で大量虐殺の痕跡が発見されてるから、
これをもって伊都国は畿内勢力、のちの大和朝廷に恭順したと考えて良かろう
この後、高地集落が見られなくなり、急速に戦争状態が緩和していったことが判明している
そしてその一方で大和盆地を中心に古墳時代が始まり、それが九州にも広がっていった
魏志倭人伝はちょうどこの頃の記述だから、あんまり回りくどいことを考える必要はないんだわな
>>1 >近畿は絶対的な王権で後のヤマト、そして天皇家へとつながるのは確実。
この人って考古学の専門家でしょ?
脳内畿内説を批判してるわ
まあ、GHQが現宮内庁管轄の古墳、全て調べているよ。
アメリカにべったりの理由の一つ。
>>108 成り済まし乙
畿内説論者が機内と書くはずない
>>107 そして「他所から人が来て平和になった」の「他所の人」をGHQは騎馬民族だと解釈した
実際は新たな渡来人のことかと
■最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
「建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、
最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と
考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。」
「同町では、朝鮮半島式の床暖房装置(オンドル)を
持つものを含めて約40棟見つかっている。」
「白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長は、
建物の時期についてはさらに検討が必要としながらも、
(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが
営んだ重要な施設があったことは間違いないとみている。」
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html >>108 たとえ畿内に卑弥呼がいたとしても箸墓はちがうよな
>>105 魏志倭人伝は古墳時代よりは古いだろ
捏造を土台にして論理展開するのはある外国人の常態だよ
>>112 古墳時代っていつ頃始まったと思ってんの?
教科書レベルの知識さえないやつが学問を捏造呼ばわりですか?
>>112 魏志倭人伝は時期的には弥生時代の最末期で記載が終わっている。
そして古墳時代の前には九州北部〜瀬戸内海〜畿内では戦闘痕や高地性集落も姿を消している
ひとまず大規模な戦乱が終わったわけだ。
古墳時代が始まるのはある程度、畿内勢力の平定が九州北部まで進んでからだからね。
その後、九州でも畿内より規模は小さいものの前方後円墳が作られるようになっていく
関東まで平定が進むのはもう少し後の話だけどね
これを言っちゃあ、そこでこの議論はお終いなんだよな
魏史を書いた人がホントは何を見たかなんて、本人に直接聞かなきゃ分からない
まぁ魏志倭人伝=古墳時代の最初期といえるかもしれないけどねw
まぁ前方後円墳自体は2世紀にはその原型が見られるとされているけど、
多くの小国を平定した大和朝廷の権力の象徴でもあるからね。
なもんで、最初期の前方後円墳である端墓古墳が重要視されているのは
邪馬台国・・・というより大和朝廷(大和王権)の成立を示すから・・・なんだよ
結構前から、邪馬台国と大和の同一視を認めない云々というのは、
もはや九州論者のプライドの問題だけになってるかと・・・
やはり一番良い落とし処としては、大和に倒された旧伊都国を一大卒、
のちの大宰府とし、朝廷や幕府がその後1000年以上も渡って
外交・防衛の要として重要視したという事実であろう。
×魏志倭人伝=古墳時代の最初期
○魏志倭人伝の最後あたりの記述=古墳時代の最初期
な
歴史的事実を知る必要があるのに
韓国人のようなフィクション大好きの
天皇教がうざい
そもそも張政とか本当は半島南部あたりで伝聞を適当に
報告書にまとめて来なかったんじゃねえの。
畿内説は教科書レベルの日本史を否定することが前提だから
結局は非学問のトンデモ説でしかないんだよ
魏志倭人伝は伊都国基点の放射読み
水行十日陸行一月は水行十日陸行一日の単なる写し間違い
邪馬台国は御井周辺で卑弥呼の墓は御井の祇園山古墳
別に特別な疑問など何も無い
解決済み
邪馬台国論争は九州説の不戦敗(実はそもそも畿内説などという学説は存在していなかった)
で最終段階を迎えつつある
残る主要な問題はただ一つ
御井周辺にある邪馬台国の具体的な位置の特定だけ
>>118 倒された伊都国を吸収したら同一視とみなす?
これが近畿説なのか?おかしいよ。
インカ帝国がスペインに征服されたら、
スペインと同一視て事?
>>110 正解と思います。
高句麗の広開土王碑
拝借します。
http://tamrhyouka.hiho.jp/reki-4koukai.html 初めて見る騎馬に倭軍が敗れた。374〜413年 倭の5王に時代(すでに、百済・新羅は倭に征服されているが
大和政権ではない)
それで倭軍は馬を輸入、馬銜等の製作で渡来人が盛んになりました。
九州、出雲地方に鉄器出土多い。
。
糸島は大和の傘下だから、九州説はどこを伊都国にしてるの?
魏志倭人伝で、「次有奴國,此女王境界所盡」てあります。
旧唐書では「倭國者,古倭奴國也」と共通します。別項目に日本もあるが「日本國者,倭國之別種也」となっています。
最も北をさしている奴國(二世紀に漢委奴国王)衰退し邪馬台国属になります。
その後、巻き返し奴国が倭の中心となったんではないかと思います
奴国(なこく、なのくに)となっていますが、奴国(やく、やくもこく)ではないか?
やくもは、出雲の前身と思います。出雲近くに八雲神社とかあるんではないか?
又、面白いことに南史では、倭国で大蛇とか出てきます。新唐で日本と倭国が並列併記している。国譲りと見ています。
>>134 糸島は大和の傘下でなく、大和は台頭していない。
卑弥呼とは別の近畿、東海の別種グループと思います
でも交流はあったかもしれません。同盟関係?
魏志では、記がない食物の蘇(古代チーズ?)が南史では、蘇が記されています。
又旧唐書の日本に「北界有大山爲限,山外即毛人之國。」
大和政権が台頭前の近畿、東海グループだとすれば、大山は富士山?鳥取の大山?ではないかと思います。
>>133 デンパ飛ばし過ぎ
倭の五王まで大和政権とは別と言い出すんか
九州説ってこういう頭のおかしいやつばっかり
>>139 じゃ、ちゃんと文献だしてよ。
まさか記紀じゃないよね。
>>140 日本書紀なら中国側と突き合せができる。
不都合な部分は、日本書紀には記載がないんだよ。
あった。
出雲、八雲神社。須佐神社の分祀となっているが
実際は、神社を建て、取り込んだ?
出雲国風土記も研究だな。
日本人が刺青の習慣を捨て去ったのは、別に異民族が大量に流入したわけではなく
単に中国からの文化の受け入れが増えるにつれて、中国に倣って入れ墨を忌避するように
なっただけだと思う。
中国でも漢民族に統一される以前の中国南部には入れ墨の習慣を持った少数民族が
たくさんあったことは間違いない。それだからこそ、中国はこれらの少数民族の
風習である入れ墨を「野蛮」として忌避するようになった。
中国文化を受け入れるようになった日本もそれに倣った。
松浦までで、実距離は中国の里の1/5程度であることがわかっている。
これを前提として5倍誇張説を仮定する。一里あたり87mである。
5倍誇張説の場合の計算結果と推定場所
帯方郡の場所
帯方郡黄海北道鳳山郡説より、帯方郡側の海州を起点とする。
帯方郡から狗邪韓国まで、乍南乍東7000余里 7000里/5=1400里*435m=609km 海州—釜山広域市 700km
狗邪韓国から松浦まで3000里 3000里/5=600里*435m=261km 釜山広域市−唐津 210km
松浦から伊都国南東500里 500里/5=100里*435m=43.5km 唐津—小城 38.3km
東南100里の奴国まで 100里/5=20里*435m=8.7km 小城—佐賀 10.1km
東100里の不弥国までの道 100里/5=20里*435m=8.7km 佐賀—大川 9.5km
南水行20日の投馬国まで 20日/5=4日*30里=120里*435m=52.2km 大川—玉名 47km
水行10日、陸行1月の邪馬台国
水行10日 10日/5=2日*30里=60里*435m=26.1km 玉名—緑川 26km
陸行1月 30日/5=6日*30里=180里*435m=78.3km 緑川—人吉 86km
侏儒國 南4000里 4000里/5=800里*435m=348km 熊本緑川流域—屋久島 315km
裸国、�K歯国 水行一年 365日/5=73日*30里=2190里*435m=952.65km
熊本緑川流域-奄美大島 580km
熊本緑川流域-沖縄本島 824km
おまけ
韓地、方4000里 (4000里/5)^2=800里^2=(800*435)^2 =121104km^2
wikipediaより、
韓国 面積 100,210km^2
>>140 稲荷山古墳の鉄剣銘文が発見されて、その他の考古学的な事実を照らし合わせるすることで
5世紀には九州〜関東まで大和朝廷が平定していたことが確実になっている。
その後は(学術レベルでは)ヘンな説は全部消えてしまったんだよ・・・それぐらい金石文のインパクトは凄かった
アマチュアレベルでいろいろ妄想するのは楽しいけど、有益ではないね^^;
そもそも、古墳時代(3世紀半ば)に入ってからそれまで各地方でバラバラだった古墳の形式が
畿内の形式に統一されたということが大きいわけだ・・・もちろん九州も含めてだけど
あと畿内の古墳群の規模については言うまでもないけどね・・・
国内には伝承もなく風土記にもなく昔話にもない、あるのはシナ人の書いた倭人伝の中のみ、いかにしょぼい国だったか吹けば飛ぶような国だったんだろうな邪馬台国とか。
真意不明の倭人伝の記述にしがみつき、ファンタジーを膨らませ続ける九州説の人、その郷土愛には恐れ入るわ。
>>146 そこは問題ない。
5世紀だろ。西暦401年から西暦500年
だぜ。その他の考古学的な事実て何?
稲荷山古墳の鉄剣銘文、471年、一部に531年説
471年頃から始まり513年で東征毛人五十五國,西服眾夷六十六國,陵平海北九十五國
終えたとも取れる。
>>148 じゃ、なんで漢、魏に使者、遣隋使、遣唐使 送るんだよ?
しょぼい国なら、近畿でなくてもいいじゃないの?
>>147 当然だな、時代が進むにつれ
古い物が壊され、焼かれ、中央集権に統制される。
大和政権になると古墳は都市計画、開墾、治水、前政権の破壊
、公共工事といろんな側面がある。
着地点が明確だけど、邪馬台国と大和の勢力を結びつけるパーツが少なすぎる。
前方後円墳しても大和の勢力が地方に禁止するだけの力がなかったとうい観点だってありそうな気がする。
>>150 横レスだが
前方後円墳体制、銅鏡の下賜、生活土器から祭祀土器まで畿内様式に統一などの考古学的遺物
また記紀に書かれた場所に実際に古墳があり(例えば崇神天皇陵や仁徳天皇陵)、
個々の古墳で順序が逆になっているものもあるが、大局的に見ると古墳の年代や位置は記紀と整合性がある
したがって大型古墳はヤマト王権の大王の墓だと判断できるし、前方後円墳体制がヤマト王権の統治システムと言える
稲荷山鉄剣は前方後円墳がヤマト王権の象徴であることをより確実にしたわけだ
>>150 逆にこっちから質問
九州王朝みたいなのを想定してるようだが、九州王朝なんかが実在した証拠は何がある?
実際には証拠は皆無だろ?
何一つない
九州王朝とかは文献を曲解した妄想だろ
>>154 だから、それでいいじゃないの?
大和政権と卑弥呼を結びつける理由がわからん
台頭してきたのが、近畿・東海グループの大和政権
大和政権が九州・山陰を制覇したにすぎない。
戦略として、卑弥呼・トヨの一族を保護し政治利用したかもしれない。
大局的に見ると現在まで天皇が続いている。
問題は、401年〜500年を細かくみないと、
どの時点で変わったのか、410年は?420年は?430年は?
>>155 では、大和政権と中国文献はどうなの?
突き合せであう天皇の名前が出てくるの中国の文献はだいぶ後
証拠は、鉄器、大和政権とは造りは違う古墳。文献
とうぜん、新政権が古い政権の地を再開発や撤去するのだから
証拠が少なくなる。法隆寺も現在のある場所ではないし
信長 本能寺も現在にある位置も違う。文献や発掘、伝承によって、見つけていくしかない。
>>157 >問題は、401年〜500年を細かくみないと、
>どの時点で変わったのか、410年は?420年は?430年は?
何を意味不明なことを言ってるんだ?
古墳時代は3世紀中頃から7世紀まで続いており、そんな中途半端なところで途切れていない
410年もヤマト王権、420年もヤマト王権、430年もヤマト王権・・・490年もヤマト王権、500年もヤマト王権だ
>>158 だから証拠を提示しないと、九州王朝なんてものが存在したとは到底言えない
九州王朝の痕跡はヤマト王権により消されてしまったとか、幼稚な言い訳に過ぎない
>>159 意味不明、
当然、別グループだからそう。
魏志にあるのは、卑弥呼は、大和政権ではないと言っているだけ。。
天皇の名が出てこない。
>>160 九州王朝なんてものが存在しないとも到底言えない
文献と鉄器、魏曹操の鏡と同種が発掘。
大和政権なると古い物から新し物も集まるから
判断しにくい。元々あったのか?戦利品なのか?貢物なのか?
奈良政権が662年の倭国の白村江の敗戦に付け込み 其れ迄の従属を放棄し 倭国での略奪 暴行を欲しいままにした
公地公民とは倭国の領地領民を奈良政権者の物にするための明文
大宰府の観世音寺の金堂や塔は法隆寺に移築される 浮羽の正倉院は中身もろとも奈良へ持っていかれた
>>161 >当然、別グループだからそう。
要するに証拠を突きつけられて反論できないから「当然、別グループだからそう」と強弁するだけってことだな
>九州王朝なんてものが存在しないとも到底言えない
その言い訳は「幽霊が存在しないとも到底言えない」と同じレベル
>>161 これ以上、議論するのは無駄だとわかった
あんたの議論の仕方は
・畿内説の証拠は一切認めない
・自分の妄想は、何の証拠もないが正しい
中立公平に証拠に基づいて議論するつもりなど全くないということだな
現状、畿内説は根拠とするアイテムが皆無である
まるで霊感商法のような論法を使って無理やり邪馬台国論争に顔を突っ込んでいるのと一緒だ
纒向遺跡の調査結果
・全体的に閑散としており生活痕がほとんど無い
・土木用具ばかりで農具はほとんど無い
・土木作業員の休憩所らしき貧弱な大型建物
・柵の下の穴の底から桃の種多数
・同じ穴からカエルの骨多数
>>155 いくらでもある
証拠が一つもないのは畿内説だキチガイww
>>163 少なくとも畿内説は無いよ
否定証明済み
>>164 そう
畿内説は否定証明済み
ゾンビは消えなさいw
どうしても神功皇后で行き詰って卑弥呼まで辿り着けない
このAD201年から269年の作り話を解決しないと邪馬台国や卑弥呼とか(ヾノ・∀・`)ムリムリ
九州論者って想像以上にぶっ飛んでるなw
法隆寺やら正倉院、巨大古墳群もぜんぶ奈良に移設したってことになってるのかw
・・・であまりに可哀想だから、代わりにショボイやつを九州に作ってあげたって感じ?
関西人の多くが畿内説を支持し、
九州人の多くが九州説を支持する
どこかで見たアンケートの結果だが、このあたりが私が邪馬台国論争を生温かい目で見ている理由の一つ
>>177 そんなものは関係ない
畿内説は否定証明済み
それが全て
不毛すぎる議論の応酬で九州王朝説なんか言い出したの誰だよと
今は否定されたけど騎馬民族征服王朝説も多くの人が振り回された
>>179 九州説は畿内説と比べて根拠が乏しいように思える。否定証明とは?
九州にあったけど畿内に遷都したんだって結論でいい
ソースは漫画
九州王朝が近畿に遷都したにしては、古事記、日本書記には九州北部の神話が全然ありませんね、あるのは出雲日向の神話だけ、神武東征だってなぜか九州王朝を差し置いて畿内のへき地に東征ですか。
どこにあるんですかね九州王朝、唯一倭人伝にありますね、まぼろしの邪馬台国。
>>177 ところが九州の学者もほとんどが畿内説を支持している
九州説を唱える学者が数人いる程度
>>164 稲荷山古墳の鉄剣銘文は大和政権の完成期で異論はない。
卑弥呼に関することは記がないのに、どうして卑弥呼が大和政権という
証拠にはなりえない。倭の五王も全て大和政権だという記もない。
讃・珍は別政権、疲弊して大和政権への服従である。古事記と日本書紀は朝貢の事実を記していない。
438年以前は大和政権ではないと見ている。
証拠は東夷伝と記紀だな。当然、権力者なのだから、国内は、一致が多い。
外交関係なると相手国がいるのだから、一致しないところ多々ある。
>>183 日向は九州の南地方だもんな
天皇の出自も九州の南
邪馬壹国とヤマトは別の国で
邪馬壹国は魏の後ろ盾も無くなり滅ぼされた国だろうね
>>175 ばかじゃないの?拡大解釈するのだから近畿説
現にある法隆寺の位置と旧法隆寺の位置が違うと
いう意味だよ。
>>187 俺もこの説に近いな。
中央集権になりえなかった九州・出雲の王様の連合体(八百万神)と見ているだけだよ。
奈良とは別もの、
明らかに北九州に比定されている末廬国では次のような記述がある。
>末廬国に至る。4000余戸が有り、山海に沿って住む。
>草木が茂 り、前を行く人が見えない。 魚やアワビを捕るのが巧みである。
>水の浅い深いによらず、皆が泳ぎ潜って取っている。
ところが卑弥呼のいるところに関してはまったく具体的な記述がない。
もし邪馬台国が北九州だとしたら、同じ北九州であることが確実な
末廬国にまで来ていた魏の使者が何故邪馬台国まで足を延ばさなかったのか
まったく理解できない。
どう考えても邪馬台国は北九州からはある程度,遠いところにあったとしか
思えない。
>>192 すでに古代史の通説になってる学説を妄想呼ばわりですか
一般にそれを中傷と言う
>>193 以前は定説などとほざいとったなw
お前に通説という言葉を教えてやったのは俺だw
邪馬台国に関しては、最近、「時空に埋もれた邪馬台国」という本が出版されている。
この本は、「邪馬台国研究の教科書誕生! 」とレビューされているように、
考古学から最近の炭素14年代測定法など多方面からの情報を収集して、
畿内説と九州説のメリットとデメリットを詳細に比較している。
一見の価値はあると思う。
>>195 おまえ誰だ?
畿内説が定説と言ったことは一度もない
赤の他人の発言を持ってきてイチャモンかよ
>>198 糖質かよ
相手にしてはいかんやつだった
ようするに卑弥呼が複数いたと考えれば全て解決するんだが
>>201 畿内の古墳は軒並み男子
弥生時代に女性が手厚く葬られていた事例がない
九州は古墳時代でも事例があるのに
>>181 お前ら畿内説は根拠が乏しいどころかゼロだろが。
ただの一つも無いだろがウソつき野郎。
あると言うなら一つでも上げてみろ。
邪馬台国畿内説は、否定証明完了済み。
卑弥呼の居た三世紀半ばは西日本は近畿や吉備や出雲などの有力な豪族が割拠し、緩やかに連合していた時代で、どの勢力も他の勢力を軍事的に統括出来ずに居た。
これは古代日本史の完全な定説で、誰も異を唱えるものなど居ない。
しかし、邪馬台国の命令で奴国などの北部九州を軍事的に統括していた伊都国は北部九州にある。
つまり、近畿に邪馬台国があったと主張することは、近畿は自分の周辺すら軍事的に統括出来ずに居るのに、中国地方をすっ飛ばして北部九州は軍事的に統括出来たと主張することになる。
これはバカが言う説であり、もはや学問の体を成していない。
邪馬台国畿内説は立論の段階で失敗しており、学説として成立していないただのファンタジー。
はい、論破w
関東に日本の王国があった
東北に日本の王国があった
頭の狂ったトンキン民国のテレビ東京で捏造放送していたが 恥を知れ豚菌土人
トンキン民国民の歴史コンプレックス丸出しが恥ずかしいのう
奴ら嘘つきだ チョンと同じで 朝鮮人流刑地新羅高句麗郡だから
同じチョンだ
奴らの歴史は歴史でなく 作るものなのだ。捏造ともいう左翼反日に多い
南鮮は任那と呼ばれ日本固有領土だ 三国志にも書かれている
任那には日本式の古墳がある 韓国の遺跡は何もない。
任那の日本人の下僕ワイ族と後に侵攻してきた糞尿食う野蛮人エベンキ族が今の韓国人だからだ
韓国ではトップシークレット教科書にも書かれない
韓国テレビマスコミも報じない だから韓国人は知らない
韓国の起源は任那であり日本の領土だと 韓国人は喜田からってきた野蛮人エベンキ族だと
伝記『民族の太陽金日成将軍』を雄山閣出版社が『金日成伝』として翻訳出版
出版社の正体くらい調べろチョンコロ
雄山閣出版社 東京 千代田区の出版社
これは完全アウト チョン反日左翼捏造しかしない新羅高句麗郡トンキン民国発
完全アウト
日本人の神 伊勢神宮に奉られている天照大御神は女性
女性の天皇も何人もいた、清少納言、紫式部など世界最初の女流作家だ
日本は古来より男女平等の国だった なぜなら日本は世界初の民主国家だからだ
天皇は自ら象徴となり 君らで良い国を作ってくれと国民に権力を与えた
天皇には武力も権力も無いあるのは権威だけ
織田信長や徳川が天皇を殺し自ら天皇になるのはたやすかった
中国やヨーロッパは数日から数十年単位で王を殺し国民の大多数を皆殺しなし
自ら王に就くことを繰り返してきた
前王墓を暴き全王の家族親族家来皆殺し虐殺の限りを繰り返してきた
しかし日本だけそうはならなかった、何故か? 千五百年以上も昔に交わされた約束があるからだ
これこそ日本が世界屈指の文明国 世界一賢い国たるゆえんである。
一方で近年外国から悪い虫が入ってきた
戦後欧米のジェンダー思想が入ってきた
ヨーロッパ人の男は女を奴隷や虫けらとしか見ていない
悪名高い魔女狩りを見てもだ悪名高い、なぜなら
彼らの起源と称する ただの与太話幻想が
アダムという男のあばら骨から生まれたのがイブという女だからだ
欧米の男は女を男の所有物としか思っていない
その虐げられてきた欧米女性の思想を 男女平等仲良しの国日本に持ち込んだ 不幸にも
左翼女上野千鶴子福島瑞穂香山リカ辻元清美田嶋陽子土井たか子のようなクリーチャー
性別不明がうまれた
彼等が女性を苦しめているのだ 自ら醜く持てないため心が歪んでしまったのだ
だから右派の女性には美人が多く、左派の女性にはブスが多い
天皇家と卑弥呼は辻褄が合わないから相違が大きいとしての考え方が正しい?
第14代天皇前後は実在が怪しいがヤマト統一王権が畿内とすれば九州筑紫征伐遠征も成り立つ
となると畿内に別の女王(卑弥呼勢力第二の王朝)が存在するとかこれまたファンタジーで可笑しな話
神功皇后の足跡が九州北部に見られる事柄が(正確説)にあったとすれば別国への熊襲襲国征伐も成立
卑弥呼君臨繁栄期が10年程度とすればこの期間(期間時でも)を避けた遠征も納得できる
だから邪馬台国九州説のような気がする 素人の疑問
邪馬台国はすでに分かっているのです
畿内説と言う有り得ない説をゴリ押しすることで、長く飯が食えるというアホ学者による計画的公金横領とも言えそうだな
■翰苑(第30巻のみ大宰府天満宮に残る:唐の張楚金の編纂)
が引用している「廣志」に、邪馬台国の場所が記されている。
『邪は伊都に届き、傍らは斯馬國に連なる。
廣志曰く、倭国東南陸行五百里、到る伊都国。
又南、至る邪馬嘉(臺)国。』
伊都国の南に邪馬臺国有り
※伊都国:福岡県糸島市,福岡市西区あたりと言われている
■参考
中国では北部九州一帯を邪馬台国連合国だったと解釈されている
ダウンロード&関連動画>> 何が何でも天皇と対応させるからな。なんでも、韓国が起源といっしょ
天皇原理主義
天皇寿命も長すぎる、近畿の言い分 昼と夜を2日と計算。
天照大御(昼)、神月読尊(夜)だからそうだ。
不仲の狗奴国が存在するから奈良は、邪馬台国ではないよ。
奈良の南では、食糧生産できる田畑は、無理。
クニって馬鹿か
日本(やまと=大和)は2680年前に建国されてる
周辺の国々を併合していく過程はちゃんと書かれてるだろ
いつまで日本書紀から目をそらしてんだ
いい加減洗脳から目を覚ませ
>>175
奈良付近の古墳 方円墳は250年 銅鐸圏であるトウテイコクの後ろ盾の 呉が滅亡したことで 奈良の崇神から侵略され 奴隷となったトウテイコクの人々の使役によりつくられたもの
倭国に巨大古墳の無い理由は 半島での戦いに明け暮れつくる余裕はなかった 水城 や神籠石城などをつくった 日本書紀は天武が8世紀に 倭国の史料から都合よく抜き出してつくった 偽書
日本書紀の神武東征時の大阪湾の地形(当時汽水湖)と同じ地形が存在したのは
地理学、土木学の成果によって約2500年だと証明済みだからな
宮内庁の天皇陵の比定がそもそも間違えてるから
古墳名や遺跡名も間違えてる始末
奈良はほとんどが森林です
>>211 架空の畿内説を自分で捏造して、それを批判とは呆れる
学者が書いた本を読んだことさえないのがバレバレ
>>218 バカー
https://ja.wikipedia.org/wiki/欠史八代#cite_note-1
欠史八代実在説は坂本太郎や田中卓など、在野では安本美典、古田武彦、宝賀寿男らが主張。葛城王朝説は鳥越憲三郎が主張。
自分で捏造していないよ。
>>220 バカーよく読めよ。
引用しかしていない。
朝鮮半島史を大雑把に解説
1世紀前後〜5世紀:南鮮は日本領地
7世紀:唐の隷属国
13世紀:モンゴルの属国
13世紀:エベンキ族の侵入により旧朝鮮民族消滅
1392年:李氏朝鮮時代が始まる
14世紀:明の隷属国
17世紀:清の隷属国
20世紀:日本が保護し統治莫大な資本と人材の投与で近代化を進める
三国史・・・・・・・朝鮮半島南「狗邪」は「倭国の北限」
宋書倭国伝・・・・・朝鮮半島は倭が支配している
広開土王碑・・・・・倭国が海を渡り百済と新羅を臣下にした。
日本書紀・・・・・・「391年 神宮皇后が百済と新羅を日本領土とした。」
宋書・・・・・・・・倭国が朝鮮半島南部を領地にした。
随書・・・・・・・・倭国は産物も豊かで鉄の鏃で武装した軍隊を持つ。百済と新羅は倭国を大国として敬った。
朝鮮南部に日本式古墳がある、半島南部は古代から日本領地なのは世界の常識。
しかし、暇だな。
コロナ感染者が出る。2回目の検査がおわり陰性、後5日で仕事の臨時休業終わる
濃厚接触が6人、4人に陽性、俺ともう一人が陰性。24時間、接触しているが、
2人だけが陰性、共通しているのは、感染したであろうと予想された日に正露丸
飲んでいた。畿内説、九州説、その他諸々の方どう思う?
邪馬台国が何処か私は興味がない
九州でも山口でも近畿でも四国でも構わない
大事なのは現代に生きる日本人個人が先人の偉大な知恵を受け継いでいるかだ
真の日本人 西日本人は「和の精神」を受け継いでおり「品格・啓蒙・許容・愛国・勉学」を基本としており、
明るくて開放的であり、感情豊かで個性的。そして、愛国心高く誇り高く反骨心、向上心がありとても優秀。
ひらがな片仮名剣道柔道相撲空手歌舞伎能落語漫才・・・あらゆる日本文明を創作するなど天才的独創的。
また聖徳太子の「日出ずる処の天子〜」からわかるよう、日本人は他国相手に媚びへつらうことはない。
しかし
東京人は「妬み・恨み・嫉妬・劣等・朝鮮・野蛮」を基にしているため
奴隷民族朝鮮のため愛国心を持てず 暗くて陰湿 閉鎖的・排他的
感情が乏しく無個性・ 反骨心なく外国に媚びへつらう。
そして非生産的 首都権益を悪用し日本から盗みまくる泥棒乞食体質
日本国内への・誹謗・中傷だけしか出来ない。出自コンプの能無しヘタレ
>>225
日本書紀以外は正しい ついでに 倭国と奈良(のちの日本)は別物 旧唐書で解る 近所の飲み屋の女将(マッちゃん)に「子供の頃邪馬台国はどこのあったの?」って聞いたら団扇でハタかれた。
>>226 うんちだな。あんた。
返答待ってるぜ。
ループ合戦やろううかな?
暇だし
九州邪馬台国卑弥呼の後の男王(祟神)が台与ちゃんに王座を奪われたから、やってらんね〜と奈良へ行って祖国と同名の国を作った
これが神武ぶらり旅のおとぎ話になった
ちな、狗奴国は出雲
>>228 興味がないなら来なくていいよバカチョンw
武漢ウイルスの責任は全て中国共産党にある
チャイナウイルスの起源で
隠蔽体質の彼らが捏造しなければこのような世界的事態にはならなかった
良く中国何千年の歴史というバカがいる 中国という国はできて80年の国だ
中華人民共和国としての略称だ そして彼らは歴史は受け継いでいない
王家が変るごとに全てを破壊した歴史書も時の支配者の都合のように書き換えられてきたのだ
リセットされてきたのだ
なので今の漢民族はただの野蛮人。
韓国の起源は日本領土の一部 朝鮮人のルーツは日本人に仕える奴隷民族
中国の史書に登場する任那日本人の奴隷民族穢(わい)族
穢族とは汚れを意味する。
その朝鮮半島に侵入し穢族を皆殺しにたのが北方の糞尿食う野蛮民族エベンキ族
今のたのが韓国人朝鮮人。
韓国政府のトップシークレット 韓国大衆に絶対知られたくない起源
「魏志で記す『邪馬台国』は、本当に日本の中心をなすクニなのか?」
なんて言い出したら、そんなこと魏志を書いた人に聞いても分かんない
書いた人が勘違いしてたかもしれないもんね
「おお、これが『倭』なのか!」なんて、全然別のものである『邪馬台国』を見て感動してたりして
要するに、真実はどうだったかなんて証明は永久に不可能
未発見の文書でも発見されなきゃね
>>229 正解
倭國者,古倭奴國也。とある。
仮説
倭は、古倭、新倭(卑弥呼・トヨ以降)
あり 古倭でいう奴國。
漢委奴国王印の奴國
出雲と思う。異論認める。
>>240 もともと出雲の海運を担っていたアマテラス一族故にあなたの思考も充分あり得ると思う
ID:f3iyhicT=ID:3xm5gY9V
こいつ頭が逝かれてるから相手にしない方がいい
あっち系の人だからね
〜4世紀半ば:纏向遺跡
4世紀末〜:↓
最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
「渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。
大壁建物は、方形状の溝の中に多くの柱を立て、土などを塗って壁をつくり建築した住居。
同町では、朝鮮半島式の床暖房装置「オンドル」を持つものを含めて約40棟見つかっている。」
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html >>243 結局ヤマトは半島系ということだな
まあ倭人の出戻りだと思うが
百済や新羅から王子を人質に取ってたからね
その跡でしょ
>>246 4世紀末頃のそのあたりに倭人の住居は無いよ
勝手に来て住み着いた感じだよ
>>246 そういうことだな
記紀にも渡来人はヤマトの家来になったと書かれているのに、
九州説信者はなぜか渡来人が奈良に政権をつくったことにする
渡来人政権のストーリーにとって畿内説は邪魔な存在
九州説信者の思想的背景が読み取れて面白い
>>250 近畿、東海に多い乾燥耳垢は渡来人の証やで
Youtubeで四国説を唱えてる人もいたけど・・・
思うに、邪馬台国みたいなクニにしろ、卑弥呼みたいな呪術師にしろ
九州にも近畿にも・・・日本各地にいて
というか、「卑弥呼」っていうのは特定の個人ではなく役職のようなものであって
例えるなら「福岡県知事」みたいな
魏志倭人伝に記述してある「卑弥呼」は九州の卑弥呼だけど、近畿にも卑弥呼はいて
九州にも近畿にも「邪馬台国」はあった
これでいいよ、もう
少なくとも、一般人ピーポーにとっては
>>251 正解
下図の丸で囲まれた範囲がヤマト政権=狗奴国とも考えられる。
乾燥耳垢:後期渡来人(ツングース系≒現朝鮮人)
湿潤耳垢:縄文系弥生人(本来の日本人)
参考)
DNAの違い
>>250 いやいや、九州説でも邪馬台国とは別の日向の勢力が東征したってストーリーもある
紀元前1世紀ごろの大阪の地形となら神武東征の記述と合致するそうな
大陸と交渉を持ったのが邪馬台国で、そいつをぐるっと回って平らげたのが大和朝廷
だとすれば、記紀に中国との交渉が書かれてないのも不思議はない
>>250 九州説だけど、大和政権は作らない
別政権、大和政権に統合されていっただけ。
神武の東征が原因だろな。
単に大和政権は、別物の九州連合が、山陰地方へ進出したのを
自分のものとして、書いただけ。天皇の正統性を製作。
記紀を絶対と見る近畿説もこまりもんだがね。
>>254 そのレスは250の内容と関係ない
関係があると言うなら、どの点についてかもっと明確に書いてくれ
>>255 日本語が不自由すぎる
その文章を他人が読んで理解できると思うか?
最近このスレに居座って支離滅裂なことを書いてるやつだろうけど
日本列島の成立の頃から 南方海上よりの黒潮海流は常に日本列島を巻き込み北上し流れてきた
日本列島に初めて漂着したのは北方から徒歩で来た人々では無く 南方より黒潮に乗り米作と共に漂着した人々だった 黒潮は休む事無く常に日本へ流れており 漂着する人も三々五々の如く常に日本へ流入し続けた 琉球 九州 四国 本州の順で
北方は21世紀の今も人の生存状況は厳しく 此処を超えて多数が来たとは思えない
南方より漂着した人々は石器時代には黒曜石を産出する地域に集まり米作で生活し1万5千年前頃には人類初の土器を製造し始めた
石器時代は徐々に銅器時代へと移行し始める この時の日本には大阪には銅鐸文明が栄える 銅から鉄へ移行する時 ニンポー 台湾 琉球などから来て九州北部に鉄を持った天孫降臨族が発生し博多を拠点とし九州を支配下に治め倭国(チクシ)を支配する
チクシという呼称は周の時には使っていた
勿論大陸との外交は重要で周や漢や魏と交流する その間の出来事は ニニギのヨシタケタガギ(場所は福岡市西区) 金印(カンノイトコクオウ)同じくヤマイチ国のシンギワオウ(ヒミカ)場所は福岡県春日市スクオカモト(絹の出土)
倭の五王(都督府を大宰府へ) 岩井天皇の律令制度 サチヤマ白村江の戦いでの敗戦および唐軍の大宰府進駐などがあり700年まで続いた
1年頃今の糸島市で不遇を囲っていた神武兄弟は新天地を求め大阪侵略を思い立つ
勿論神武兄弟以前にも多くの侵略者が行ったがいまだ成功は見なかった
大阪の銅鐸文化圏へ天孫降臨族の不断の圧力が今の岡山県あたりで前哨線となっていた
当然銅鐸圏の東鯷国ナガスネヒコの防御は明石や淡路島で堅かった 為に神武兄弟は鳴門をとおり大阪湾へ突入したが散々に負け神武の兄は死ぬ その後熊野をとおり奈良へ侵入し殺戮の限りを尽くすがその後スジンまでは奈良に逼塞する
250年頃スジンは奈良へ侵略しジンムの末裔を殺戮する
欠史8代とはスジンが史実を知らなかったことが理由
北陸へ半島より渡来した継体は応神五代の末という触れ込みで奈良政権を奪う 内紛に感けて継体の侵略を許した
奈良政権を奪った簒奪者継体は次に倭国簒奪を狙う モノノベノアラカイへ九州を与え本州は自分がとるとの密約は周知の事実
此の倭国侵略で継体の嘘が露になる 分流の奈良は称号に倭(チクシ)と名乗り倭国の末裔たる事を誇りにしていた しかし継体は半島渡来であり倭国とは何等の関係も無かった
半島の高句麗との戦いの援軍を装い岩井天皇を暗殺したが 九州の肥後の軍勢に追われ倭国奪取は出来なかった
倭国由来の血統の絶えた継体以降は敵地同然の奈良の居心地は悪く 半島由来の多く住む滋賀京都を目指した
700年以後同じく半島由来の藤原一族と共に日本列島の支配者となる
この時テンムが倭国の文書(日本旧記を始めとする)を集め日本書紀に内容を剽窃した
現在の日本の歴史教科書のとおり奈良政権が日本列島を代表するようになったのは
710年から 其れ以前は九州大宰府を首都とする倭国
>>253 http://chinesestudies.eu/?p=4003 これでも解るよ。梁の時代 梁職貢図 裴子野(469年〜530年没)の方国使図?
倭の使者(33か国とある。漢か?魏の時代、倭の5王?)と百済の使者の服装。
大和政権とは、国の数が違うので倭の5王ではない 又は、5王の最初の2人讃、珍は大和政権とは別?)
東夷伝では、珍と斎の血縁関係の記がある梁史、関係が見いだせない南史がある。
百済王は仏教に転倒。
大前提として、考古学でも歴史認識ってのは、譲れないと思うんだが?
記紀が記録した、それ以前に関しては、文献の根拠で600年程度までは遡れても
考古学的根拠を持たない、単なる虚構創作ノベルと、ファンタジーだろ?
歴史上の事実としては、
247年迄、筑紫は本州と非統一。
313年漢四郡撤退で、高句麗戦の日本勢力を背景とした百済新羅が350年辺りまでに建国。
日本は、高句麗牛馬を移入、鉄を国内生産化。
370年、百済は、皇太子を日本へ人質に出して、七支刀や博士を献上。
413年〜500年、南朝で倭の五王が朝鮮半島の軍事、利権に関する交渉外交。
500〜百済衰退で日本は任那割譲、新羅(倭人移民や倭人王国も含む)と敵対。
600隋唐成立で、遣隋使、遣唐使、
663年、百済復興運動で、皇太子、渡来人軍団や送還船団を送り、白村江海戦。
日本(百済)と新羅の対立は、半島独立運動だろ?
日本の百済復興は、列強の植民地化した清や李朝の復興運動と一緒だろ?
白村江海戦ってのは日清日露戦争で、朝鮮や満州独立が出来なくて
日本が清やロシアに敗戦しちゃった状態かwww
日本が、大韓帝国を建国したのは
この失敗から、欧米列強に負けない、古代韓や中華 の復興 を目指していたからなんだよ。
まあ、今は中共の方が、ロシア? ソ連w より
危険で凶悪な無法帝国主義国家ではある。
記紀の保身は、日本の神話に必要では有るが
事実で構成されている、現代日本の歴史構造における保身になるわけが無い。
古墳の発掘、盗掘焚書の事実の解明って言うのは
日本の歴史にとっての、最重要課題なんじゃないのかな?
このスレまた頭の逝かれた異常者しか残らない流れになってるな
ID:z6FmUP5UとかID:G/P1NGYUとか
>>247 消えないよ
相対化されて行くだけ
当然のこと
天皇が人間宣言して日本が消えて無くなったか?
いや全然
むしろ日本は発展した
この邪馬台国論争もそう
ウソがバレると大変なことになるとか近畿パーは思っているわけだが
まるで妄想
現実はその真逆で、ウソが日本を衰退させている
コロナ一つとってもそう
チャンコロ止める手段が無いとウソまでついて春節ウェルカムして
今日本はどうなった?
だれが春節ウェルカムしたこと反省している?
結局同じことだぞ
猿が手品の種がバレることをただ盲目的に恐れている
しかし現実はとっくの昔に手品の種はバレているわけで
そんなことで何も起こらない
学問の世界が明らかにウソで汚染されている
数学のABC予想などもそう
証明などされていないのに京大が論文掲載してしまった
日本の劣化はここまで進んでいる
このままウソを続けると
日本はチョンクオリティ、チャンコロクオリティになるだけ
近畿パーがレーダー照射のチョンコとクリソツなのを良く良く観察すべき
それはただの劣化であり衰退だ
何かを守ったことに全然なってない
時代は動いてるんだよバカの猿ども
日本の足を引っ張ってるのはお前らなんだよ猿が
三韓征伐とか、実際、九州連合政権だろうな。
派兵で兵の少ない九州連合を大和政権が支配する。
>>261 自分で矛盾してることを書いてるとは思わないの?
>>253 最もチョソに近い民族が近畿に集中しているのは日本国民共通して体感してること
>>259 歴史的事実に基づいた説得力のある素晴らしい論説
どなたの学説でしょうか?
>>190 ある学者は未廬国は松浦じゃあなく宗像市辺りって言ってる。
みやこ町や行橋市辺りにかなり大きい遺跡があるみたいだが発掘できないって、
某地域の人が騒ぐ可能性があるからって。
移動に何日ってのが距離の参考扱いなのが納得いかない
対馬までと対馬から九州まではのんびりしてたら漂流なんなら死亡するから最速で目指すだろうが
九州ツイてからなんてゆっくり進んで死ぬわけじゃないし
隣の市レベル行くのに途中宴会でもして3日掛けたりもあるだろ
>>277 そういう当たり前の話を敢えて避けて妄想論を展開するのが畿内説なんだよな
陳寿が使者の報告書の日付から逆算したんだろうという話も出てたな
>>278 宴会をしながらゆっくり進んだというのを普通は妄想という
そりゃ畿内やろ
台与の時代には機内発祥の前方後円墳が九州にあるんやし
>>281 徳島県の萩原一号墳や鳥取県南部町の浅井11号墳、
福岡市博多区那珂1丁目の那珂八幡古墳など
3世紀の前方後円墳が多数ある。
近藤義郎によれば、全国の前方後円墳を築造された
時期別に畿内編年の1期から10期の10段階に分けて
整理すると、最も古い1期でもっとも多いのは
@筑前(福岡県北部)で9基、
A播磨(兵庫県)で8基、
B大和で6基、
以下備前、美作、備中、讃岐となっている。
さらに朝鮮には3世紀に石積みながら
前方後円墳が多数ある。
以上から、奈良が前方後円墳の発祥地とは言えない。
なるほどねえ
77 名前:ニュースソース検討中@自治議論スレ[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 11:36:16.79 ID:zT5t3y7w [1/4]
魏志倭人伝の時代に、
唐古鍵が突如消えたり纏向に生活痕が無いのは、当時発生した飢饉により各地へ避難したものと考えられる
■新羅本記
173年:倭の女王卑弥呼が使者を送った
193年:倭人が飢饉。避難民が新羅へ押し寄せる。
■当時の気候
「3世紀〜4世紀は海面温度が下がり、寒冷化だけではなく干ばつにも見舞われたと考えられる。」
「名古屋大学の中塚武教授は、卑弥呼登場前の時代は大雨や旱魃が繰り返された不安定な気候の時代であったという。」
■これに対する考古学者の見解
「飢饉が続いたために、銅鐸を用いた過去の祭祀を捨て、新しい宗教をひっさげて卑弥呼が登場した。
それが卑弥呼の鬼道だと石野氏らは解釈する。」
↑妄想から妄想の派生を生み出すこじつけ論法=妄想www
■考えられること
・飢饉で畿内から北部九州や半島へ移住した人達が多くいた(纏向には生活痕が無い)
・畿内説はその痕跡を畿内政権の勢力圏だと勘違いしている
>>282 ちなみに畿内の銅鐸渡来民たちは戦なれした九州の倭人らによって滅ぼされて
半奴隷として巨大前方後円墳造りに駆り出されたんだわ
日本」という国号は、大和を指す国号
日本」とは大和のことを指す 日本武尊
「日本人」とは近畿を中心とした西日本の人々「大和民族」を意味する。
東の地(東京)人は「蝦夷」吾妻と呼ばれた。
従って現在の東日本の人々は「蝦夷」の子孫であり、正しくは「日本人」ではない。
※あるいは東京人(関東)は大和朝廷の政策により武蔵の地に朝鮮半島からの奴隷・棄民等を入植させており、
朝鮮人の子孫」と言える。
666年 百済人2000人を東国に移す
716年 高麗人1799人を武蔵國に移す
758年 新羅人74人を武蔵国に移す
760年 新羅人131人を武蔵国に移すetc
近畿及び西日本の人々は大和朝廷の「大和民族」の子孫であり 真の「日本人」である。
東京人は日本人でもなければ日本でさえ無い
正史「日本書紀」に記されているように、日本人は単一民族ではなく
大和民族」と「朝鮮奴隷棄民 蝦夷などのその他」に分けられる。
以上のことは過去・現在・未来において不変。
ただし愛国心を持ち大和を尊び日本人としての誇りを持ち。国益のために生きる者は
日本人と認める。
>>282 >さらに朝鮮には3世紀に石積みながら
>前方後円墳が多数ある。
>以上から、奈良が前方後円墳の発祥地とは言えない。
そのデタラメのソースは?
なるほどねえ
清水眞一 前・奈良県桜井市教委文化財課長
私は二十年間、大和の中央部・桜井市で「邪馬台国は何処」とのテーマを持って、
発掘調査に従事してきた。その結果として、邪馬台国が成立して女王卑弥呼を擁立する
までの弥生時代中・後期に、大和には他地域を圧倒するような「ムラ」や「墓」が
見られないことに気付いた。
代表的なムラである唐子・鍵遺跡も、畿内の同時期の池上・曽根遺跡や田能遺跡などと
比較して、飛び抜けて大きいムラとは思えなかった。逆に、墓に関しては、
西日本各地と比べて遅れた地域との思いも抱いたことだった。
であれば、その次の古墳時代に入って、纏向の地に百メートル以上もの巨大古墳が、
なぜ突如として築造されるのか。これは、大和の地に別の地域の人々が入って来たと
考えざるを得ない状況とみた。
では、誰が何処からきたのか?考古学の資料からは、特定の地域が限定できない。
となれば、卑弥呼の邪馬台国は、北部九州のどこかではないかと思われる
古代畿内の有力氏族の8割が九州ルーツって時点で詰んでるわな
邪馬台国も高天原も国譲りも東征も九州発ってことやろな
そもそも大和族日向族隼人族は血縁やしな
クニって何?
王と王族と支配地域だろ
古代日本に国とかいう概念あったか?
王族→王族の任命・派遣→アガタ(県)→県主→県主
これが最初の支配形式で
あとは支配権を証明する視覚的な構造物(古墳)や鏡
織田信長の茶器や「茶会開催権」みたいなもの=古墳
現地の豪族が認められて郡衙を形成
国主 =郡司
県主>>国主
だからランクとしては アガタ(王族の直轄地)>クニ(地方自治体)
古代においてクニの概念は新しく、かつランクの低いもの。
王族中心・血族中心だった。中世の藤原氏の支配の方が感覚的に近い 藤原の権力>>国司
クニ>藤原氏のわけがない。
で、「クニグニ」って何?
現存する地名から考えりゃ、九州だろうなあ。
邪馬台をヤマタイと読ませるのに、台与はトヨと読ませる。邪馬台をヤマトと読ませたくない作為を感じる
ここまでのまとめ
1. 畿内説は消えた。可能性は完全にゼロ。否定証明済み。
2. 東征も東遷もない。考古学的に否定済み。
3. 卑弥呼の墓は御井の祇園山古墳
邪馬台国論争は九州説でほぼ終結を迎えつつある。
残る唯一の問題点は、御井周辺にあったはずの邪馬台国の具体的な位置の特定だけ。
それ以外にはほぼ問題点は無くなった。
少なくとも深刻な矛盾は全く存在しない。
スレを読んで
畿内説は稲荷山古墳の鉄剣銘文挙げているが
卑弥呼や神功天皇についての記でもない、
頓珍漢な証拠。九州説は、雄略天皇時代の大和中央集権は否定していない。
論理的な、証拠主義の九州説と記紀を絶対的と見る原理主義の近畿説。
関東から九州の一部(糸島や福岡)は大和の勢力下にあったことは
はっきりしているんだから、畿内でしょ
中国と交流していた形跡もあるし、中国が大和を記載しないことは考えられない
ところで九州説は伊都国や奴国をどこに比定してるの?
まさか糸島や福岡じゃないよねw
そこは大和の傘下
大和とか言う邪馬台国のあった時代に無かった国の名前出されてもな
>>298 > 関東から九州の一部(糸島や福岡)は大和の勢力下にあったことは
はっきりしている
頭悪い人の妄想
根拠は共通した祭祀土器の様式→祭祀統一国家
しかし中国側にも日本側にもそのような記録は無い
毎日祭祀統一国家だったという印象操作を繰り返す奥山の口癖だなw
フェイクニュースは犯罪ですよw
>>300 それ教科書レベルの基礎的な日本史の知識だぞ
ヤマト王権の存在さえ否定するとは、日本の教育を受けてない外国人か?
古事記に登場する地名の統計
文献、遺跡、出土品からしても大和王権が九州由来である確率は高い
もともと奈良盆地に巨大政権が居たなどと妄想する考古学者は頭がおかしい
16世紀の戦国時代を見ても九州勢は主役ではなかったし、畿内、東海出身のヒーローが日本統一したしね、そういう事だろ。
九州の北部1/3が勢力下の懐良親王が日本国王の時期があるぞ
実際に日本を広く支配してなくても中国にしたら国王ってこともある
>>303 そう言えば、つくる会の教科書は文部科学省の検定で不合格にされてたな
しかも文部科学省との取り決めを勝手に破り、指定期日前に内容をばらしてしまう倫理観のなさ
>>309 >
>>303 > 指定期日前に内容をばらしてしまう倫理観のなさ
本来そうあるべきだと思うがな
全国民に公開してコレでオッケーか確認を取るべきだろ
教科書の記述
「最有力と言われている纏向」
言っているのは誰?w
畿内説の主張
「畿内で確定し教科書にも記載してある」
>>311 > 言っているのは誰?w
毎日反日新聞、山川反日出版...
毎日の元記者が畿内説ゴリ押しだったもんな
九州説ってのは魏志倭人伝と不一致だらけ矛盾だらけなんだからデタラメ説なんだよ
実際、九州説信者がやってることは魏志倭人伝の曲解、歪曲、無視
・倭人一般の風習を邪馬台国のことだと捻じ曲げ解釈
鉄がー、絹がー、と無関係なものばかり持ち出すのがいい例
・肝心の邪馬台国について書かれた部分はことごとく不一致になるからガン無視
7万戸も、30ヶ国の連合も、2ヶ月の行程も、径百余歩の墓も、そして邪馬台国という国名も全部無視
>>313 もしかして奈良が広いと思ってる人?
可住地面積(人が住める土地)
奈良県は47都道府県中47位ですが
ついでに
■耕作可能な土地の面積
奈良盆地:450km2
河内平野:200km2
福岡平野:250km2
筑紫平野:950km2
中津平野:180km2
宮崎平野:800km2
7万戸を約30万人として700km2は必要。
奈良と河内を合わせても足りない。
>>315 もしかして邪馬台国畿内説を邪馬台国奈良説に勝手に捻じ曲げて難癖つけてる人?
>>313 無視していないよ。
近畿がさらに無理だろ。
近畿説では、不和状態の狗奴国はどこの位置になるの?
当然、食糧供給、武器製造も卑弥呼と同程度ないと戦えないよね。
>>316 食糧難で朝鮮半島にも進出
朝鮮抑えたのは、九州連合国と思っている
そのころの大和政権は、さらに伊勢、濃尾を手に入れ
これから大きな新興勢力になっていく過程ではないか?
>>319 卑弥呼、豊与の後にもう一人女性がいたかも?
そのころ大和政権 仲哀天皇と婚姻?
ここまでのまとめ
1. 畿内説は消えた。可能性は完全にゼロ。否定証明済み。
2. 東征も東遷もない。考古学的に否定済み。
3. 卑弥呼の墓は御井の祇園山古墳
邪馬台国論争は九州説でほぼ終結を迎えつつある。
残る唯一の問題点は、御井周辺にあったはずの邪馬台国の具体的な位置の特定だけ。
それ以外にはほぼ問題点は無くなった。
少なくとも深刻な矛盾は全く存在しない。
>>321 100年近く前神社の下から出土されたっていう石棺が超気になる。
当時の宮司が石棺のことは口外しないようにと隠そうとしたらしいけど。
古代史解明においてなんかすごく重要なものであるのは間違いなさそう
>>318 九州説が魏志倭人伝を無視してないと言うのなら明確に答えてくれる?
・邪馬台国7万戸、投馬国5万戸、魏志倭人伝に記載された合計15万戸と旁国(100万人相当)が九州に収まる根拠は?
・邪馬台国連合30ヶ国の範囲とそれを裏付ける証拠は?
・30ヶ国連合に含まれている伊都国や奴国をどこに比定している?
(
>>298の人が書いてるように、糸島市や福岡市は畿内の傘下の地域なので、九州説だとそれ以外の場所になるはず)
・合計2ヶ月の行程で九州に留まると言うなら、その合理的な根拠は?
・径百余歩の墓はどこ?
>>318 狗奴国は情報がなさ過ぎて不明
東海地域の可能性が高いが
九州+中国地方+近畿 邪馬台国
東海地域 狗奴国
さすがに戦力差がありすぎw
関東地方はまだ同時代にあまり遺跡がない
東海=狗奴国説は無理がありすぎ
>>326 >九州+中国地方+近畿 邪馬台国
そんな説を唱えてる人に文句つけてくれ
>関東地方はまだ同時代にあまり遺跡がない
遺跡ベースの人口推定では、関東地方は九州全部と同程度の人口があったと推定されているが
>>196 読んだ
概ね納得できるがWikipediaはまだしも怪しいブログを参照してるのはどうも気になる
内容が正しければいいんだが
まあ多方面から結論が支持されてるから今後研究が進んで一部の論拠が否定されても大勢に影響は無いが
>>324 食糧生産、鉄器による武器、やたらでかい古墳などつくれないよ。
>>糸島市や福岡市は畿内の傘下の地域なので
これがわからん、何を根拠に?照合性のとれる文献あるの?
元は九州かもしれん。稲荷山古墳の鉄剣銘文で西服眾夷六十六國,陵平海北九十五國とある
三韓行くにの九州平定しないと通らないよね。
さらに証拠がない近畿より確立が高いてこと。
仮定
空白期間で同盟関係とか?
大和政権は、鉄器や武器がほしい。
九州連合は、戦費がかさみ、食糧、兵隊がほしい、
河内、伊勢、濃尾を開拓した大和政権と手組んだとか?
そうなれば九州、三韓の平定も早い。
>食糧生産、鉄器による武器、やたらでかい古墳などつくれないよ。
で、何が言いたい?
他人と意思疎通できる日本語で頼む
>これがわからん、何を根拠に?照合性のとれる文献あるの?
伊都国や奴国の中枢部から畿内系土器の出土とその後の前方後円墳築造
あらためて聞く
・邪馬台国7万戸、投馬国5万戸、魏志倭人伝に記載された合計15万戸と旁国(100万人相当)が九州に収まる根拠は?
・邪馬台国連合30ヶ国の範囲とそれを裏付ける証拠は?
・30ヶ国連合に含まれている伊都国や奴国をどこに比定している?
(
>>298の人が書いてるように、糸島市や福岡市は畿内の傘下の地域なので、九州説だとそれ以外の場所になるはず)
・合計2ヶ月の行程で九州に留まると言うなら、その合理的な根拠は?
・径百余歩の墓はどこ?
答えられないのは、九州説は魏志倭人伝をガン無視した空想話だと認めたということでいいか?
>>331 >>伊都国や奴国の中枢部から畿内系土器の出土とその後の前方後円墳築造
出るのは、当然だろ 中央政権後だから作れる。
九州系も出ている
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/536263/ >>食糧生産、鉄器による武器、やたらでかい古墳などつくれないよ。
鉄器の産地見れば、九州、出雲
戦費がかさむ九州地方、稲作は苦しい
でかい古墳など作っている時間がない。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/journalhs2004/26/0/26_0_97/_pdf/-char/ja と同意見に近い。
さらに近畿はさらに、無視だぜ、方角とか
敵対する国の位置とかわからん。
これを答えならない近畿説がさらにがん無視と思うよ。
両方とも確実な事はない。確立で九州と推測。
日本書紀の神武東征の記述通りの大阪湾の地形が存在したのは約2700年前だと地理学、土木学で証明済み。
神武天皇の橿原宮跡地とされる橿原神宮の地下から出土した縄文時代後期〜晩期の大集落跡と橿の巨木をC14年代測定した結果、約2700年前のものだと考古学で証明済み。
明治時代に設定された宮内庁による陵・古墳の比定が間違えているという落ち。
鹿児島県の遺跡では12,000年前の薩摩火山灰の下層からイネのプラント・オパールが検出されており、
これは稲作起源地と想定されている中国長江流域よりも古い年代となっている。
鹿児島県の上野原遺跡では、弥生土器に類似した1組の壺形土器が約7500年前の土層から見つかっており、
これは弥生土器を齎した渡来系弥生人の原郷とされるシニ・ガイ文化よりも古いものとなっている。
稲作も弥生土器も鹿児島が大元ということが考古学的に証明済み。
さらに言うなら、古代の日向は現在の鹿児島県と宮崎県を併せた領域だった。
邪馬台国=大和国 (三国志において台=ト)
卑弥呼=神功皇后
台与=豊姫(神功皇后の妹) (三国志において台=ト)
興台産霊=コゴトムスビ (日本書紀において台=ト)
倭国大乱=三韓征伐
終わり
邪馬台国には100歩の大古墳があるけど
狗奴国にはない(なくていい)
邪馬台国は朝貢してるので、対馬からルートが必要
「歩いて1ヶ月」なので九州にも本拠地がない
狗奴国は九州南部で邪馬台国は箸墓近辺だろうな。
それ以外に1つも可能性がない。
狗奴国が中国地方でも四国でも朝貢できないし(邪魔される)
通商を邪魔されるけど、一応中国に行けるのは九州南部が敵対国の場合
西南戦争でも九州南部と畿内(大阪砲兵工廠)との戦争になってる。
ガチでやるとかなりやばい。
秀吉くらいの勢力圏や明治政府くらいで、やや勝てるレベル。
南北朝時代に朝貢貿易できたのは九州支配した南朝
畿内の北朝は朝貢できなかった。
畿内の勢力圏が邪馬台国として、朝貢がかろうじてできる程度だから
九州取られた南北朝時代よりは若干マシなパワーバランスで
伊都国(九州北部)は邪馬台国の勢力圏で
それの南が狗奴国と
三国史・・・・・・・朝鮮半島南「狗邪」は「倭国の北限」
宋書倭国伝・・・・・朝鮮半島は倭が支配している
広開土王碑・・・・・倭国が海を渡り百済と新羅を臣下にした。
日本書紀・・・・・・「391年 神宮皇后が百済と新羅を日本領土とした。」
宋書・・・・・・・・倭国が朝鮮半島南部を領地にした。
随書・・・・・・・・倭国は産物も豊かで鉄の鏃で武装した軍隊を持つ。百済と新羅は倭国を大国として敬った。
朝鮮南部に日本式古墳がある、半島南部は古代から日本領地なのは世界の常識。
韓国の歴史はひと言でいって退嬰と粗雑と沈滞の連鎖史であった。
いつの時代に辺境を超え他を支配したことがあり
どこに海外の文物を広く求めて民族社会の改革を試みたことがあり
統一天下の威勢でもって民族国家の威勢を誇示したことがあり
特有の産業と文化で独自の自主性を発揮したことがあっただろうか。
いつも強大国に押され、盲目的に外来文化に同化したり
原始的な産業のわくからただの一寸も出られなかった。
「われわれのもの」はハングルのほかにはっきりとしたものは何があるか。
我々はただ座してわらを編んでいただけではなかったか。
自らを弱者とみなし他を強大国視する卑怯で事大的な思想、この宿弊
この悪い遺産を拒否し抜本せずには自主や発展は期待することは出来ないであろう。
以上のように我が民族史を考察してみると情けないというほかない
全体的に顧みるとただ唖然とするだけで真っ暗になるばかりである
このあらゆる悪の倉庫のような我が歴史はむしろ燃やして然るべきである。
朴大統領
邪馬台国の場所を論じるのに一番重要なのは墓
動かすことができないし、なくなることもない
150m級の古墳をピックアップして、そのどれかが卑弥呼の墓
それ以外は参加資格がない
>>324 人口について
1. 女王の領域は山陰も含む。筑紫平野+山陰が女王の領域。(後述)
2. 人口は一般的に指数関数的に増加すると考えられているが、実際はもっと遥かに裾野が緩やかで双曲線関数的に増加することが分かっている。
3. 近世により近い平安時代〜鎌倉時代の500年間ですら人口はほぼ横ばいまたは微減している。三世紀半ば〜奈良時代の500年間で人口が微増でも、全くなんの矛盾も無い。
4. 奈良時代の耕作地面積と三世紀の耕作地面積との比較による考察から、両者の時代の人口はそんなに違わず、後者が前者のザックリ2/3程度であることが分かっている。
奈良時代の九州+山陰の人口が105万人くらい。
この2/3は70万人くらい。さらに、この時代は九州や山陰は先進地域だったからもっと人口が多くてもおかしく無いだろう。
奴国が二万戸
妻国(投馬国)が五万戸
狗奴国が多分三万〜四万戸
女王の領域が七万戸
その他諸々が一万戸
全部で17万戸〜18万戸
一戸が四人として68万人〜72万人
ピッタリ合う。
少なくとも、魏志倭人伝の記述を疑わなくてはならないような深刻な矛盾など、別段何も無い。
>>324 女王の領域は、筑紫平野+山陰。
例えば二番目に出てくる已百支国はこのままだと該当地名が事実上無くなるが、
翰苑の巴百支の表記のほうが正しいとするならハハキ(甲音)としか読め無くなり、またハハキ(甲音)なら伯耆でドンピシャになる。
次に鍵になるのが為吾国である。これはやや奇妙な名前で読みづらい。
素直によめばウカだが、実は宇迦という地名が出雲にあり、それは出雲大社のある場所だ。
また宇迦之御魂神はスサノオの娘だ。
つまり宇迦は出雲の古名だ。
また烏奴国も該当が見つけ難いがアナ国と読めば穴門(アナト)国があてはまる(後の長門国)。
巴百支国、為吾国、烏奴国は山陰である。
(注意。魏志倭人伝に出てくる国の順番は地理的順番と全く関係ないことが分かっている。)
また逆に、山陰を含むと考え無いと国譲り神話と合わない。
100歩=150mの墓ないと参加資格まったくないな
北海道でも沖縄でもよくなるしなw
九州は中国との通商拠点としては重要だが、
邪馬台国の本拠地ではない
>卑弥呼が統治した「クニ」
これおかしいよなー
ヒミコ=王族が国家であって
「クニが王(大統領)を選出して、それで国家を政府が統治する」
っていうスタイルは近代以降
政治の歴史を人類の時代背景無視してごっちゃにしすぎ
「国家が藤原氏を選出してそれで行政組織を委託して国家を統治」
みたいなアホみたいな話になる。
国家(武力)を保有している権力者が 権力者と交渉したり戦争したりする
戦国時代と同じ
甲斐の武田信玄は甲斐国の国民が選挙で選出して、
武田氏が委託されて統治してるわけでもないし
戦国時代とか源氏平氏とかと極めて近い。
織田信長を「クニ」が誰も選挙で選んでないのと同じ
政治思想や背景をめちゃくちゃごっちゃにしてる
クニ=行政組織が好き勝手に増長するのは
今の変な時代の特有の現象であって、
古代は「名のある・武力のある氏族」が最優先
もろもろの権力はその有力血族に付随するもの
政府=行政組織や官僚やら経団連が増長してる今の時代と一緒にすんな
藤原氏や織田信長は「クニ」でもなんでもないし、それ以上の存在。
クニ>「織田信長」とかアホらしいな
「民主主義でクニの投票で戦国武将が決まってた」みたいな時代無視した変な論理
>>343 まるで逆
100歩は短里制では30m程度だから箸墓は論外
更に、魏志倭人伝の記述より卑弥呼の墓は前方後円墳では有り得ないことが分かっているから
箸墓は卑弥呼の墓ではない
恐らく崇神の墓
>>333 >出るのは、当然だろ 中央政権後だから作れる。
出土は3世紀だ
>でかい古墳など作っている時間がない。
つまり九州には径百余歩の墓はないということだな
あとド素人のゴミ長文貼ってるが、短里とかいう捏造をやってるやつの長文など読む気になれん
九州説が魏志倭人伝と矛盾だらけでないと言いたいなら、どの部分か指定してくれ
ざっと読んだ限りでは、度量衡を捏造するために、現代の鉄道距離を使ったり直接距離をつかったり
3区間を合計したり、嘘とインチキのオンパレードだ
九州では戸数が無理なこと、日数が合わないこと、30国連合の証拠がないことに対する反論は書かれていない
>さらに近畿はさらに、無視だぜ、方角とか
>敵対する国の位置とかわからん。
魏志倭人伝の方角が当てにならないのは周知のこと
方角に関しては、対馬国から一支国、末盧国から伊都国、伊都国から奴国と検証できる範囲で全て間違っている
狗奴国の位置が特定できないのは、畿内説も九州説も同じ状況
>これを答えならない近畿説がさらにがん無視と思うよ。
九州説は魏志倭人伝の記述と方角以外ことごとく不一致になるのに対して、
畿内説の大きな矛盾は信憑性のない方角の記述のみ
それにもかかわらず、「近畿説がさらにがん無視」と言い張る合理的な理由を頼む
>>341 1.
その仮説を裏付ける物証がない
物証のない仮説はただの作り話
2.3.4.5.
3世紀の人口は日本列島全体で200万人前後と専門家が推定している
奈良時代の2/3程度の人口という言い分に根拠はない
まぁ4、5世紀になって九州なんか偏狭の地みたくなるじゃんw
魏志倭人伝みたく倭国大乱のあと、3世紀に残党を潰していってたのが良く解る
そして九州も大和に倣って前方後円墳を作り出す古墳時代へ・・・
(畿内と比べるとショボいが、大王が居たらもっとデカいのを作ってるわなw)
径百余歩というと、昔の人は歩幅も短かっただらうから50メートルくらい?
九州説の3つの否定
1. 魏志倭人伝を否定
2. 考古学的事実を否定(漢鏡の分布や土器の分布)
3. 教科書レベルの日本史を否定(ヤマト王権の存在さえ否定)
>>352 径百余歩の墓てどのくらい? 60〜90mに収まればいいじゃないの?
だから、近畿説が正しいとは限らないだろ。
近畿も推測だろ、方角も距離も大幅に違うよ。
日本を飛び出す。食糧、運搬等で確率で言っているのだよ。
で実際に、両方とも卑弥呼、殉教者、埋葬品出ていない。
出所はわからんが、曹操と同じ型の鏡とかも出ている。
>>352 3世紀。201年から300年幅があるね。
>>355 度量衡の単位だよ
1里=300歩
1歩=6尺
1尺=10寸
魏代の1歩は145cmくらい
だから百余歩だと150mくらい
後は中国の東夷伝だな。
近畿説は、どうみているの?
宋書、隋書、旧唐書、新唐書など実際関わりあるけど?
>>357 >60〜90mに収まればいいじゃないの?
誤差があったとしても、九州には60〜90mの墓もない
>方角も距離も大幅に違うよ。
邪馬台国への距離として書かれているのは合計2ヶ月の日数
>食糧、運搬等で確率で言っているのだよ。
意味不明だし、ド素人の主観など全く無意味
>出所はわからんが、曹操と同じ型の鏡とかも出ている。
九州からは出ていない
さっきからこっちの質問には一切答えず、論点ズラしのレスや逆質問ばっかりだが、
真正面から議論するつもりはないんだろ?
九州説は魏志倭人伝と不一致だらけ矛盾だらけで、魏志倭人伝をガン無視してることを認めろ
>>360 隋書には大和が魏志に言う邪馬台国って記載されてるね
「邪馬台国は当時の倭の中心国家ではない」というのは別に良いんだけど
ただ、そうすると何でもアリとなって、「邪馬台国論争」は即死
一地方政権がどこにあろうが、大した意味はない
実際中心、最大の勢力かはどうでもよくて
当時の中国と国交あったかどうかだからね
>>363 その場合、当時の日本列島の中心だったヤマト国を差し置いて、
魏はなぜ九州のローカル王に親魏倭王の称号を与えたかを説明できないんだわ
考古学的事実として、3世紀の日本列島で中国と交流した形跡が一番多いのは畿内であるにもかかわらず
魏はわざと畿内のヤマト国を無視したという話を作らないといけない
さらに伊都国や奴国がグルになって魏を騙して、偽者の倭国王を魏に教えたという話も作らないといけない
>>365 >>307 説明はともかく実例はある
南朝の親王よりマシだが半分も支配できてない義満も国王になれてる
>>361 >>九州からは出ていない
これは?
https://www.asahi.com/articles/ASM9705QTM96ULZU012.html >>邪馬台国への距離として書かれているのは合計2ヶ月の日数
見分だろ、九州も合致だ?
現在と違うぜ。
魏志の自郡至女王國萬二千餘里は?
どこにあるの?
https://zh.wikisource.org/wiki/隋書/卷81?uselang=ja
隋書は倭になっている。開皇二十年でも倭である。
さらに有阿蘇山の文字。
旧唐書は?新唐書は?
>>363 それでいいじゃない?「邪馬台国論争」死なないよ
魏志は、倭の中心とは言っていない。
100程ある国のその内の30の話だよ。
大陸と関係あった、当然 近いから九州
たまにこの論争を聞くと非常に歴史はロマンじゃの。もう100年は続いてるが、
終止符はどうなるのか、楽しみじゃよ。
>>368 >
https://www.asahi.com/articles/ASM9705QTM96ULZU012.html 九州から出土していない
日田から出土した「とされる」鉄鏡だ
実際は、古物商が出まかせで言っただけ
ダンワラ発掘関係者が発掘されたものは鉄鏡と違うという趣旨の証言をした文書が残っている
>見分だろ、九州も合致だ?
ひたすら強弁するのみだな
>どこにあるの?
隋書を引用して、そのレスはさすがに呆れる
その時代の倭国の都がどこにあると聞いてるんだよな
義務教育からやり直した方がいい
繰り返す
さっきからこっちの質問には一切答えず、論点ズラしのレスや逆質問ばっかりだが、
真正面から議論するつもりはないんだろ?
これ以上付き合いきれん
>>366 九州説にはそういう陰謀論しか残ってないということだ
魏志倭人伝と不一致だらけ矛盾だらけの陰謀論
秦の始皇帝の制定した度量衡は、
丈尺寸分とそれらを使用した
面積、体積を定義したもの。
歩、里は定義されていない。
特に日本では、記録に残る範囲では
古くは日で距離を計り
奈良時代で一里が533m、
戦国時代以降で4kmと
中国の魏の里は使われたことがない。
畿内説曰く、短里とは九州説が無理やり作った妄想である!
↓
しかし日本書記にこういう記事がある
崇神記65年 「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が2000余里と記述されている。
メートルだと300kmほどなので1里≒66.7km
倭国や半島には独自の距離単位があったとみるべきだな
>>353 バカ黙れww
>>341 >4. 奈良時代の耕作地面積と三世紀の耕作地面積との比較による考察から、
>両者の時代の人口はそんなに違わず、後者が前者のザックリ2/3程度であることが分かっている。
>>353 >2.3.4.5.
>3世紀の人口は日本列島全体で200万人前後と専門家が推定している
その計算が間違っているだけ
>>324 人口について
1. 女王の領域は山陰も含む。筑紫平野+山陰が女王の領域。(後述)
2. 人口は一般的に指数関数的に増加すると考えられているが、実際はもっと遥かに裾野が緩やかで双曲線関数的に増加することが分かっている。
3. 近世により近い平安時代〜鎌倉時代の500年間ですら人口はほぼ横ばいまたは微減している。三世紀半ば〜奈良時代の500年間で人口が微増でも、全くなんの矛盾も無い。
4. 奈良時代の耕作地面積と三世紀の耕作地面積との比較による考察から、両者の時代の人口はそんなに違わず、後者が前者のザックリ2/3程度であることが分かっている。
奈良時代の九州+山陰の人口が105万人くらい。
この2/3は70万人くらい。さらに、この時代は九州や山陰は先進地域だったからもっと人口が多くてもおかしく無いだろう。
奴国が二万戸
妻国(投馬国)が五万戸
狗奴国が多分三万〜四万戸
女王の領域が七万戸
その他諸々が一万戸
全部で17万戸〜18万戸
一戸が四人として68万人〜72万人
ピッタリ合う。
少なくとも、魏志倭人伝の記述を疑わなくてはならないような深刻な矛盾など、別段何も無い。
>>375 それ知らなかった
短里だねそれ
ちょっと計算がおかしいが
一里≒150mだね
因みに魏志倭人伝の一里はほぼ100m
狗邪韓国〜対馬、対馬〜壱岐島、壱岐島〜末盧国がどれも千余里で余は約の意味だから、この記述ともまあまあ合う
>>371 猿がすっとぼけてるだけで終止符出てるよもう
>>322 >>379 もうそんなの誤算の範囲だよ
短里というより、倭里があったんだよきっと
>>364 いや卑弥呼の時代は最大だね
球磨国(狗奴国)をのぞく西日本の半分を影響下においた
空前の大帝国だね
大月氏と同等の待遇を中国から受けているし
ただ卑弥呼の後急速に勢力を失い、大王崇神の四世紀にはもう近畿日本に勢力を逆転される
四世紀が空白の時代と言われるのは中国から見て倭人の国の代表が九州なのか近畿なのか判然としなかったからだろう
>>377 3世紀の耕作地面積って分かってるの?
嘘くさいだが
ソースは?
>>384 間違い
隋書に倭人は里数を知らず、但だ日を以て計るのみとある
>>386 あのな
ウソ臭いのはお前なんだよ
>>378 >3. 近世により近い平安時代〜鎌倉時代の500年間ですら人口はほぼ横ばいまたは微減している。
>三世紀半ば〜奈良時代の500年間で人口が微増でも、全くなんの矛盾も無い。
これは現実なんだから
>>387 倭人が中国の里を知らずに勝手な里を使ってたからだろ
>>387 里も日もリと発音するから誤解を招いたのかもよ
>>385 kumaがkenoに変化することはないよ
母音は変わりやすいが子音が変化することは少ない
球磨なら狗馬国って表記される
>>379 計算間違いだったね
コピペだから気づかなかったよ
もしかすると既に親魏倭王印の所持者がいて面白がっているとかはないな
>>394 あれは仮綬されたものだから返却が基本
日本にはない
>>392 まるでイミフ
狗奴国は球磨国でよい
熊本周辺
狗古智卑狗はくくちひこで菊池彦
熊本に菊池の地名がある
ピッタリ
>>397 菊池彦って誰?何をした人?
どの文献に載ってるの?
九州説の空想上の人物だよね
それが根拠だーって言われても・・・
>>7 それ知ってる
壁画が残ってるよね、重要な!!
>>387 日、って太陽のこと?
動くのにそこを基準にするんかな
東北大学の教授が卑弥呼は実在しなかったと言っているよね
俺もそんな気がするんだ
なぜかイメージがそぐわない
>>396 返却が基本て?
どのくらいの期間で返すの?
返すとき、難破とか?その国が滅亡した場合
どうすんの?魏から晋だろ。とよが晋に魏の金印返却した
記録もない。
>>386 3世紀の耕作地面積のデータなんてないよ
そんなの分かるはずない
ただし、小山修三氏が遺跡数ベースでの人口推定はやってる
3世紀の人口は日本列島全体で100数十万人と推定されている
邪馬台国の会あたりが、3世紀の日本の人口を300〜400万人と主張してるが
その元になってるのは鬼頭宏氏の40年前の著書であり、そこでは300万人と述べていた
ところが鬼頭宏氏は、2000年に出版された著書「人口から読む日本の歴史」では、
3世紀の人口を220万人と修正している
安本は意図的に古い数字を引用していると思われる
3世紀の人口は日本列島全体で200万人程度なのに、魏志倭人伝に記載のある国の
人口約100万人をすべて九州に押し込むなんて逆立ちしても無理
>>404 戸数から逆算だろ?
7万なら最低2人で14万人
あとは加算。これだけ食わすのにどのくらい田畑が必要?
読んでいると食糧事情、苦しそうだな。
しかし、学者もいろんな角度から見ている。
誰が正解か定かではない
>>405 ID:GKjvUzml=ID:/pwo6TKpだろ?
ID変えたのは別人を装ってるのか?
その不自由な日本語で同一人物とすぐにばれるぞ
「狗奴国は熊本」には同意、キクチとか地名出てくるし
あそこらへん気が強いし、
伊都国あたりの北九州と喧嘩してて
困ってたので中国になんとかしてくれって言った
実に自然
事実を捻じ曲げようとしても無駄ですよ。
熊本は大昔の平安時代も石高が非常に高い大国
他の地域は狭すぎて人口が足らんわ。農業=人口=武力
「狗奴国は熊本」
「北九州は邪馬台国の勢力圏」
「女王国は奈良」
「古代の大国の岡山も奈良と近縁」
北九州は外交・通商の役割として重要
北九州は結局南九州の島津にぼろくそにやられたし
南北朝でも肥後にボロ負けしたのが北九州
北九州の武力については、歴史的に過大評価不可能ですね
通商主体の京都や大阪人が武力で天下統一できたことないし、
天は二物を与えずと
あれ?これ以上付き合いきれん と言った癖に
別ルーター、プロバの違うところに移動すれば、変わるだろー。
バカじゃないの?
魏書でいう邪馬台国が隋書のどこに近畿と書いているのか?
旧唐書、新唐書は音沙汰なし、時系列もわからんみたい。
これ以上付き合いきれんと書いたのは、あんた。気にするなよ。
どんどん続けるけど異論は、あんた以外は認める。
このジャンルってあとどんくらい遊べんのか知らんけど
とりあえずここまでやってきた人らは楽しめたねえ
って感じだな
>>385 3世紀半ば(魏志倭人伝の終わりごろ)には大和が最大勢力になってるよ
4世紀に空白になってるって言うのは日本の都合じゃない
中国が混乱してたってのが理由
>>404 耕作地のデータって全国のじゃないぞ当然
奈良だったか九州だったかそこらの一部のものに過ぎないが
とにかく500年くらい経ってるはずなのに耕作面積がそれほど変わってない
あと
>>389な
ハッキリしていることは、
魏志倭人伝に記載の戸数は明確に否定出来るような根拠など別に無いこと
勝手におかしいおかしいと言っているだけ
なんで山陽瀬戸内海近畿の描写ないの?
外国人が北海道に来てやたら札幌うまいもん巡りして
「ああそういや陸で何日か海路で一月すっとこの国の首都やで女がトップや」
って書いただけ?
>>417 スパイを恐れて、あまり立ち寄らせないようにし、一方で、瀬戸内の"奥深さ"
を見せつけるようにしたということではなかろうか?wwたぶん、九州では
"組み易し"と見られてしまったであろうww
東京人の特徴は挫折、盗人、敵視、不毛・捏造歪曲、責任転嫁、コンプレックスと
韓国人と同じである。
東京人の一番の欠点は冷静に自己分析が出来ないというところである。
トンキンマスゴミと揶揄されるほど日本人から蔑視される彼ら
彼らの歴史コンプレックス 出自コンプレックスに起因し
かつての東京がいかに素晴らしかったか(実際は、密入国した朝鮮人の流刑地、
日本一不衛生で野蛮で汚く貧しい なので日本の歴史遺産は全く無い
有るのは高麗神社代表する朝鮮系神社130以上(笑)だけである)
を子供に教え込むのである
間をとって関東説
神奈川県大和市
東京と東大和市
こそ邪馬台国じゃん
>>402 お前が存在してないだけだから大丈夫だよw
古代中国語で「邪馬台」はヤマダァと発音する。
これは山田うどん発祥の地である埼玉こそが・・・
>>411 そんなものは理由には全然ならない
三国時代だって混乱期
大体なんで中国が混乱すると日本の記述だけが無くなるんだ???
は?
>>424 今は世界中が混乱しとるが日本への旅行番組どっかの国がやっとるか?
>>411 そんなものは理由には全然ならない
三国時代だって混乱期
大体なんで中国が混乱すると日本の記述だけが無くなるんだ???
は?
>>421 間を取らないで九州でいいよね
決まりだね
普通に邪馬台と書いてヤマトと読むだけだろ。
本居宣長が変な解釈しただけ。
というか今、九州説を物的証拠で支持しているまともな学者はいないでしょ?
アマチュアのロマンだけ。
邪馬台国はヤマト国と読む。
この地域が、天皇・大和王権へとつながっていった。
また、近畿は遺跡や出土物も多数。
九州説論者はいい加減、妄想をやめた方がいい。
大和とか倭と書いた紙を見せられ、これをヤマトと読みますとか説明されたシナ人は困っただろうと推察、仕方なく邪馬台国と当て字したのが正解と思うね
鬼頭氏の弥生時代人口推計は
当時収集できた約1万件の
弥生遺跡の密度に一定の係数をかけて
計算したもの。
現在の遺跡データベースには
約4万件の弥生遺跡が記録されている。
台は略字
本来はイチになる。魏志倭人伝の原本はそうなってる
だから「タイ」で読むのは論理的におかしい
タ行じゃなくてア行になり、日本語としても全然意味が違う
九州説はカスだが、これだけは認める。
日本は戦後に略字漢字だらけになって混乱してる。
邪馬台国
日本語だと「ジャマ」だな
邪をじゃと呼ばないのはおかしい。濁点になる。
「ギャ」か「ジャ」か分からないが、「邪」は濁点の読みに使うのは確か
イザ(邪)ナギはイヤナギとは言わんでしょ。
古代は漢字の本来の意味にはめちゃくちゃ適当だが、
読みについては「暴走族の漢字用法」と同じで非常に厳格な当て字をしてる。
>>433 それに関しては唐後期以降の写本で誤写が生じたものとするのが通説になってる
台の旧字体「臺」は壱の旧字体「壹」と似ているため。
邪馬台国は、宮崎県西都原(さいとばる)で決まり。
・
古代(といっても奈良時代)〜江戸時代頃まで邪馬台国=大和国と見解は一致していたのだが
江戸時代になって本居宣長が「日本の天皇が中国の皇帝に朝貢した歴史など有ってはならない」
と主張して、「熊襲が大和を騙って中国と通交した」とか言い始めたのが
「邪馬台国=九州(北部ですらない)」論の始まりであった・・・
一応、彼も「邪馬台国=大和」と言ってたものの
時すでに遅しでその後のトンデモ理論に利用されてしまうことになる。
>>415 そんなものが本当にあるなら出してくれ
邪馬台国の会あたりがやってるこじつけじゃないのか?
少なくとも考古学者が引用するような論文、文献ではないはず
ちなみに北條氏の古代史講義で引用されてたのは鬼頭氏と小澤氏の説
>>439 あのな
ウソ臭いのはお前なんだよ
>>378 >3. 近世により近い平安時代〜鎌倉時代の500年間ですら人口はほぼ横ばいまたは微減している。
>三世紀半ば〜奈良時代の500年間で人口が微増でも、全くなんの矛盾も無い。
これは現実なんだから
隋書
都於邪靡堆,則魏志所謂邪馬臺者也
遣隋使のころは、当然 近畿(邪靡堆)
邪馬壹國でなく邪靡堆だから近畿は邪馬壹國ではない。
則魏志所謂邪馬臺者也 者は人をさす。
九州の邪馬壹國から移動してきた。
継続性を保つため、近畿の地に邪靡堆という似た名をつけ都にした、
トヨ以降の一族が近畿大和政権に取り込まれた
結び付がそれほど強くない九州連合で争いがあって奴國(漢金印)に主導権取られた。
大和政権も九州攻めに地理、地形をよく知る卑弥呼一族を庇護したかもしれない。
旧唐書で倭國者,古倭奴國也。日本國者,倭國之別種也
新唐書で日本に併合され矛盾なく繋がる。
魏志倭人伝の戸数の問題は説明がつくのだから
魏志倭人伝の記述を疑う根拠にはなり得ない
これが全て
ワザと曲解して「だから魏志倭人伝は胡散臭い」は
バカが言う寝言
胡散臭いのはお前
大体が、畿内説は否定証明完了済みだと何度言っても
すっとぼけてスルーしておいて
他人が胡散臭いだの何をほざくか猿って話しw
臭いのはお前の臭いだバカがww
>>442 結局出せないのか
古い時代には人口増加が極めてなだらかだったという言い分は
縄文晩期の人口が10万人以下と推定されていることとも矛盾する
それなりの増加率を想定しないと、奈良時代に500万人にはならない
渡来人が100万人単位で来たという説はもう否定されてるから自然増で考えるのが妥当
>>443 >者は人をさす。
ワロタ
それ助字だよ
>>445 東夷伝からでも、近畿ではない。
トヨの後にも女王が続き、九州連合内で抗争
大和政権と同盟破たんし、卑弥呼一族は大和政権と
姻族関係、3代に続く女王を神功皇后に集約だろうな。
>>449 昨日の日本語が不自由なやつか
こんなバカに教えてやる必要なかったわ
>>450 あれ?付き合わんないと書いたのに
絡むバカ。
邪靡堆とあるから邪馬壹國ではない。
「教えてやる必要なかったわ」と負け惜しみ。
また、絡むだろうなこのバカは。つきあいきれんで終わる。
文献でも出土品でも近畿は薄い。
単発で「3世紀のもの」とか断片的である。
スパンという考えや移動可能を考えない。
こちらの証拠品上げると「あれは嘘だという証言がある」とか用いる。
近畿が上げる、証拠品に対しての「嘘だという証言」は信じない。
大和政権は、否定していないのに、必死になるのかな?
基本的に人口は食料生産量に連動する。
弥生時代後期には、奈良時代に近い人口にまで
達していても何ら問題はない。
弥生時代後期には水田に向いた低地は
あらかた開発しつくされており、
干拓や棚田の原型が始まっている。
>>446 邪馬台国畿内説は、否定証明完了済み。
卑弥呼の居た三世紀半ばは西日本は近畿や吉備や出雲などの有力な豪族が割拠し、緩やかに連合していた時代で、どの勢力も他の勢力を軍事的に統括出来ずに居た。
これは古代日本史の完全な定説で、誰も異を唱えるものなど居ない。
しかし、邪馬台国の命令で奴国などの北部九州を軍事的に統括していた伊都国は北部九州にある。
つまり、近畿に邪馬台国があったと主張することは、近畿は自分の周辺すら軍事的に統括出来ずに居るのに、中国地方をすっ飛ばして北部九州は軍事的に統括出来たと主張することになる。
これはバカが言う説であり、もはや学問の体を成していない。
邪馬台国畿内説は立論の段階で失敗しており、学説として成立していないただのファンタジー。
はい、論破w
>>443 お前のその書き込みはダメだな
>邪馬壹國でなく邪靡堆だから近畿は邪馬壹國ではない。
間違い
ヤマイ国などと言うものは存在しない
古代日本語では母音が重なることはほぼない
これは非常に強い規則でほとんど例外がない
yamaiはaiと母音が重なるので間違い
邪馬臺でよい
恐らく臺が皇帝の居る場所と言う意味があるので使用を避けたのだろう
あるいは単なる写し間違いか
どちらかだ
因みに古田はダメだからなあれは
ネタだから
一部使える議論もあるが基本ネタ
九州説にとって古田は足枷にしかならない
典型がヤマイ国な
そんなもの無い
>>435 現在の文字変換の間違いと同じ頻度で間違う事はありません 漢字の専門家が記述したものです 安易に誤字というほうが誤りです
ヤマイチが正しい読み方です タイは魏帝の所在する場所であり 他国の呼称に使われることはありません
>>458 いんや写し間違いは沢山ある
女王國が女三國になってる写本もある
陸行一月も陸行一日の写し間違い
>>458 魏志にある「壱」も「台」もどっちも中国人は「トゥ」と読むという見解がある
それはどっちでもいい
古田は1990年頃京都新聞紙上でヤマイチ国論を駒沢大の若い先生と争って完璧に論破されてる。
それであきらめればよかったのにまだ言ってたのか
イチだろうとタイだろうと当時の中国人がどう読んでたかが問題なのに
祇園山古墳って共同墓地でしょ。そこにテニスコートくらいの小さな古墳
そんなところに女王を埋葬せんよ。副葬品もしょぼいし
径100歩は野球のグランドの1.5倍くらいの広さだよ
テニスコートじゃ小さ過ぎる
>>456 サンクス
https://zh.wikisource.org/wiki/三國志/卷30?uselang=ja#倭人
これをベースに抜粋。
君の書いた、前者かな?
魏志でわからないのは、
「東南至奴國百里」「不彌國百里」
「次有奴國,此女王境界所盡」
奴國は二つ、不彌國はひとつ登場。
何か意味があるのか?思案中。
奴国2万余戸、投馬国5万余戸、邪馬台国7万余戸
1600年以前の地域別推定人口 (鬼頭宏, 1996年)
200年頃
畿内周辺 70,300 邪馬台国7万余戸
山陽 48,900 投馬国5万余戸
北九州 40,500 奴国2万余戸 その他9000戸
南九州 64,600 狗奴国?
これで考えると実に適切な配置
人口=国力的に南九州のやばさがわかる。
畿内に匹敵する規模
だからここらが狗奴国になる
弥生時代の耕作可能な土地
[畿内]
奈良盆地:450km2
河内平野:200km2
[九州]
福岡平野:250km2
筑紫平野:950km2
中津平野:180km2
宮崎平野:800km2
>>464 熊本平野、人吉盆地がないよ。
人吉盆地と奈良盆地が同じくらいだそうな。
あと筑紫平野が950平方キロだと
佐賀平野が入ってないね。
筑紫平野と佐賀平野で1250平方キロです。
>>462 片方の奴国は宮崎の那珂郡のことだろうな
元々は奴国の同盟国で奴国にあやかって自分達も奴国と称していたが
本家が邪馬台国に降参したことで自分も邪馬台国側についたのだろう
北部九州から四国の幡多(高知県西部、侏儒国のこと)や
投馬国(妻国、西都原の妻のこと)へ行くための出先機関的な役割を
していた国だと思われる
女王の領域の果てる所という記述とも良くあう
地理的にも女王国内での役割、立ち位置的にも
>>462 それからいずれ詳しく話すが不弥国は宇美国で
昔の糟屋郡+能古島に当たる地域
糟屋郡の最南端が現在の宇美町になる
能古島はオノコロ島のこと
オノコロ島→ノコロ島→ノコノ島
魏志倭人伝にある伊都国から東へ百里に不弥国があるとはこの能古島のこと
古代日本語ではワ行とハ行がごた混ぜだった
「私は」と書いて「ワタシワ」と読むのはその名残り
大昔には恐らくワ行のう「wu」があって宇美国はwumi国で、
humi国とwumi国とがごた混ぜだったのだろうと言う説
これは本居宣長が言い出したもの
それから、以前大発見したからそのうち書くと言って
そのままになってるけどちゃんと書くからね
オレは他に色々と忙しい人間なので、
邪馬台国論争に割ける時間は限られてるんでね
ただ聞いたらぶっ魂消るよ
世紀の大発見で、日本史を書き換えるものだから
その内書くから期待して待っててちょ
オレの発見ってのは誰もが自分で確かめることが出来るものだから
有無を言わさない発見だ
日本史を書き換えるよ
その内書くからね
本筋は確定で間違い無いなんだけど
まだ周辺的な証拠固めを色々しているんでね
九州北部の大国は奴国2万戸
金印も出てるから確定
奴国以外の大国は入らない。
この時代博多なんか水没してるし
川もなんもないから稲作ができない。
5万戸 7万戸は別地域
(2世紀後半、倭国大乱で畿内勢力に負けるまでは)伊都は最大だったけどな・・・
その後は都も何にも無いがね・・・九州は古代から左遷・流刑の地ですらあった。
3世紀後半からの建造されるようになった大規模古墳はすべて大阪〜奈良にある
九州北部の勢力が急速に力を無くしていったのは何故だろうか???
その後は大和に倣って(小規模)前方後円墳を作り出す始末で・・・
>>474 所詮邪馬台国は卑弥呼だけの国だったと言うこと
四世紀に近畿日本に大王崇神が現れて西日本は一気に近畿日本の勢力下になる
崇神がハツクニシラスと言われる由縁
古代日本の最重要人物は二人
一人は当然卑弥呼で、もう一人は崇神
卑弥呼は狗奴国を除く西日本の半分を影響下におく
画期的な大帝国を作り上げた人物
だが現代日本の直接の始祖ではない
崇神は日本を開始させた人物
我々が今住んでいるこの日本は崇神から始まる
(ただ少しややこしくて本当の始祖は応神だけどね)
>>468 サンクス。
なるほどね
魏志を読みながら次の疑問
不彌國は、女王に属しない国?
此女王境界所の外の国?
>>478 元々不弥国は奴国の代貸し的な国で、奴国に代わって
重要な祭祀を行っていた国
宇美は海の語源で、元々は博多湾のこと
(ワダツミとは幡多つ宇美で元々は宿毛湾のこと)
ただ本家が邪馬台国に降参したから当然不弥国も邪馬台国側になった
>>475 そこは異論ない。
しいて言えば、卑弥呼以降一族を奴国(漢金印)
が盛り返して、追放或いは抜け出して、一族ごと近畿に移動したのでは?
鬼道となっているが、天文学、気象に精通、種まき、天候
にも、関係する。
近畿が、保護し、まず経済大国、目指す、
巨大古墳による近畿の農地拡大、道路等インフラ工事、東にも、進出し、伊勢・美濃を抑え
力をつけて行く。そのころは九州・山陰は災害、干ばつ、戦争(内部闘争や狗奴国)だ。
西国66カ国、兵糧攻め或いは、分け与え 無駄な戦をせず兵力も増強、まずは、経済で服従。
隋書の倭国者とは卑弥呼一族ではないか?
梁書、南書における文身国、大漢国ある。
九州を起点に方角と距離、合すと出雲と近畿になる。
最大の疑問点
>>475 いや重要なのは魏志倭人伝の前に伊都は単なる一大卒に落とされてたことな
その後、ずっと大和朝廷が九州を統治するための機関だった
九州の豪族や、左遷された大宰府の役人が挙兵したことがあるがそのつど鎮圧されてる
もちろんそれまで最大勢力だった伊都を一大卒に落としたのは
邪馬台国の卑弥呼だった。。。
奈良時代〜江戸時代の日本人が考えてたように邪馬台国→大和朝廷の連続性がないと
説明できない。あとは九州北部に奈良のように都がなかったことも
>>47 橿原 桜井 飛鳥 高市 郡山 葛城
をなめるな!
大宰府で反乱が起きたときは一時的に別の機関である鎮西府がおかれたけどな
大和朝廷は畿内からの九州の統治にはもっとあとの時代まで苦労したようである
なにしろ魏志に見えるように
畿内から瀬戸内海をへて九州北部に行くまでには何日も要したわけで
>>463 主食は、米ではないな。
豆?
隋書の倭国者
卑弥呼一族と渡来人だな。
>>481 東征も東遷もない
邪馬台国は九州で滅んだ
畿内説ってなんで根拠を出さないの?
無いからだったww
>>488 誰が滅ぼしたんや定期
あの卑怯にも女装して宴会で騙し討ちした伝説が怪しい
>>490 基本は自滅
トヨの時代からもう衰退は始まっていた
白村江の敗戦が滅亡の直接の原因
>>490 ヤマトタケルは実在の人物だが事績はほぼ全て捏造か赤の他人からの借ものだと思われ
ヤマトタケルの事績で史実なのは多分兄殺しだけw
ヤマトタケルは神武の血を引く無能な人間で、恐らく精神病を患っていた
実際の事績なんて多分何にもない
ヤマトタケル、武内宿禰、神功皇后
ここら辺は捏造事績のオンパレード
魏志倭人伝の時代は崇神から垂仁にあたる
倭国大乱
四道将軍を派遣
戸籍をつくる
殉葬を始める
百襲姫が纒向で三輪山信仰
箸墓
垂仁が殉葬をやめる
垂仁が纒向に都をおく
>>489 畿内説は山ほどあるじゃん
そもそも考古学的に無茶な推論をしなければ、そのまま邪馬台国=大和になってしまう
(論理を破綻させれば九州でも国外でも、どこでも設定可能ではある)
2世紀倭国大乱が終わってほぼ大きな戦乱が終わり、戦闘は散発的となっている
魏志倭人伝の記述の最後あたりが3世紀半ばでちょうど大和朝廷の支配を示す古墳時代の始まり・・・
そして魏志のあとの晋書には魏志の最後に見えるトヨが朝貢したと伝えている。
つまり大和が権力を掌握した古墳時代にはいってからも
邪馬台国はそのまま倭国の権力者として存在し続けたわけだ
その後、5世紀には九州〜関東まで平定が終わってないといけないからね・・・
熊本の江田船山古墳出土の銀錯銘大刀と埼玉の稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣の銘文が根拠
ちなみに両者は日本最古の本格的記録文書、あるいは大和朝廷の勢力圏を示すものとして名高い
また、同時期の宋書倭国伝も参照
一大卒は一大国とワンセットと陳寿は思ってたと思うぞ。
結局王様を誰にするかで、最終的に近畿に落ち着いたんだと思うな。
最終的に磐井を屈服させるまで、大和王権は全国規模の王権じゃなかったと思う。
神聖ローマ帝国式の大王選挙侯がいたのかもな。その間大王「家」は存在しなかたのかも。
万世一系だけが条件だった。
>>495 磐井の影響力が過大評価されてたのは、稲荷山古墳の鉄剣の銘文が発見される以前の話だよ
磐井の乱なんかはそろそろ古墳時代も終わろうかっていう時期だからねw
まぁ3世紀半ば〜6世紀の大規模古墳群はすべて畿内に存在している。
3世紀半ばに亡くなった卑弥呼、そして4世紀前半に亡くなったと考えられる
壹與の古墳が比定されれば話は早いのだが。
同時期から九州の古墳も大和の影響下であることを示す前方後円墳になっていくが
地方豪族クラスでいずれも大王級の大規模なものではない・・・
磐井は律令制度を倭国に実施した人物 八女市にある方円墳にはガトウがあり裁判制度を模した石像があります
朝鮮人(エベンキ)の継体の暗殺で豊後に於いて死亡 しかし息子のカツコにより後誅された
墓がそれ程大きくないのは 半島での戦争や水城や神籠石城の設置などがあったから
>>494 邪馬台国畿内説は、否定証明完了済み。
卑弥呼の居た三世紀半ばは西日本は近畿や吉備や出雲などの有力な豪族が割拠し、緩やかに連合していた時代で、どの勢力も他の勢力を軍事的に統括出来ずに居た。
これは古代日本史の完全な定説で、誰も異を唱えるものなど居ない。
しかし、邪馬台国の命令で奴国などの北部九州を軍事的に統括していた伊都国は北部九州にある。
つまり、近畿に邪馬台国があったと主張することは、近畿は自分の周辺すら軍事的に統括出来ずに居るのに、中国地方をすっ飛ばして北部九州は軍事的に統括出来たと主張することになる。
これはバカが言う説であり、もはや学問の体を成していない。
邪馬台国畿内説は立論の段階で失敗しており、学説として成立していないただのファンタジー。
はい、論破w
磐井の岩戸山古墳の近所に
御塚権現塚古墳というのがある。
時期は同じようなもんで、
小国のお隣さん同士の古墳だ。
こちらは円墳(一説には帆立貝型)で
それぞれの小国はわりと自由に
古墳形式を決めていたと考えられる。
岩戸山古墳は、周囲からも
石人石馬が大量に発掘されており
後世に地蔵群を作ったときに
それらの石人石馬も一緒に
並べられていたりする。
>>498 豪族は磐井だけじゃないからね・・・あぁ古墳時代は磐井の乱のあともしばらく続くか・・・
畿内には山ほど巨大古墳があるのに九州のはすべて小規模なのは
なにか理由が有ったとしか言えない。
あと前方後円墳自体が九州で作られるようになったというのも。。。
>>499 やはり大和は九州の統治は相当苦労していたようだ
卑弥呼の時代で伊都に一大卒を置いてからというもの
相当後になってからも磐井の乱やら藤原広嗣の乱やらね・・・
(この時代はすでに大和朝廷の勢力下だと同意できるだろうが)
藤原広嗣の乱では大宰府が隼人と組んで反乱を起こしてるからな・・・
当時としては偏国である筑紫への左遷は相当キツイものであったようだ
大宰府も最初は糸島にあったのに少しずつ内陸に移っていったわけだが・・・
話は逸れるが大宰府はワイも行ったことあるけど、
糸島って福岡の人も行ったことが無いっていってたな^^;
どっちもド辺鄙というか地元の人からも忘れ去られてるよな?
糸島の平原遺跡は卑弥呼の墓じゃないかという説を取る人も居るぐらいのレベルだが、
むしろ邪馬台国の前に栄えた伊都国の繁栄を示すものである。
伊都国と邪馬台国は完全に別個のものというのは明らかだからね
あの遺跡からはすげー巨大な鏡が見つかってるしな。たしか円周がちょうど八咫であるという
そういうヤツから一葉を略奪して権威の証として大和が八咫鏡にしたんじゃないかというのは本当だと思う
・なぜハツクニシラススメラミコトが二人いるのか
・なぜ記紀編纂前に焚書をしているのか
・なぜ記紀は神武東征の捏造をしたのか
・なぜ天孫が降臨したのが霧島連山などという素っ頓狂な場所なのか
・なぜ神功皇后にしろ武内宿禰にしろヤマトタケルにしろ事績の捏造のオンパレードなのに
欠史八代は事績が載っていないのか
事績の捏造なんて簡単に出来るハズだし、現にやって居るのになぜ欠史八代はスルーなのか
・なぜ欠史八代の後に突然仲哀周りでスーパーマンが乱立するのか
・なぜ古事記に仲哀暗殺の記事が暗殺と分かる形でシャーシャーと載せてあるのか
・なぜ崇神の母方にはシコメだのシコオだのおかしな名前が沢山居るのか
・なぜ宇佐神宮の真ん中に祀られて居るのは応神では無く比売大神(多分トヨ)なのか
・なぜ道鏡事件の時、神託を聞きに行ったのが宇佐神宮なのか
・なぜ応神と神功皇后には「神」が入っているのか
他に名前に神が入っているのはハツクニシラススメラミコトの神武と崇神しかいないのになぜこの二人は破格な扱いなのか
これらの全ての謎に自然に説明を与えられるのは神武雇われ店長説だけ
銀錯銘大刀は、大和朝廷の勢力圏を示すものだが
時代が違うので卑弥呼、邪馬台国が近畿にある証拠にはなりえない。
同時期の宋書倭国伝も参照。
有名な海幸山幸伝説で分派し西に逃れたその一派がいわゆる奴国で
すでにこの時代にあって九州の倭国勢力と本州勢力の間で長く正統を名乗る分立時代であったが
その後に起こる九州の倭国大乱で急速に勢力を失い東に活路を求めた奴国の王統の末弟が神武で
その後の統治者不在の空白時期に寄合いで興った邪馬台国はずっと後の時代
>>488 一族が別政権に加わると、
東征や東遷になるのかな?
景行から成務、仲哀、神功皇后までは
福岡の豪族の話を天皇の系統として
記紀に組み込んだもの。
景行天皇は筑後から豊前、豊後、日向、大隅を
統一した九州統一の覇者。
大隅に7年滞在したというから
畿内にいちいち帰れるはずもない。
神功皇后は朝鮮半島を攻め
応神天皇を連れて畿内に帰っている。
逆に言えばそれまでは畿内に帰っていない。
景行天皇から神功皇后までは、畿内は誰が治めていたんだ?、ということになる。
もともと彼らは福岡の豪族で
筑紫と肥は、今の久留米付近を
取り合って戦っていた。
筑紫が久留米を獲って筑後は「筑後」になった。
肥は筑紫の配下となり、
筑紫は、豊前から九州統一を開始した。
当時を忠実に再現しているとされる吉野ヶ里遺跡に行ったことあるが、
魏と比べれば東京都心と村集落ほどで愕然としたな
あれじゃあ魏の下部小隊か分隊程度で1時間もかからず制圧だろ
ヤマト王権がどこか知らないが似たり寄ったりだと思うと島国で良かったと熟思った。
>>506 >銀錯銘大刀は、大和朝廷の勢力圏を示すものだが
いや、それで十分だと思う。大和朝廷の権威が5世紀には九州まで及んでいた。
それ以前から九州では江田船山古墳だけではなく、数え切れないほどの前方後円墳が築造されていた。
しかも古墳時代前期からね。邪馬台国の時期と被ってしまってマズくないか???
九州って所詮島だからな、軍隊を動かすにも大量の船と強筋肉の漕ぎ手がいる、一度海に出ないと大部隊の移動もままならないから、そんなに強くないだろ。
もう確定したので他説はアキラメロン
中国の史書によると、後漢時代の倭国は100国あったが倭国大乱が起こり、魏の時代は女王国の30国としか交流が無いと書かれている。
倭国は何らかの理由で分裂したものと考えられる。
■邪馬台国連合=女王国30国(親中派?)
魏志には「倭人が半島まで鉄を採りに来ていた」と書かれおり、日本の弥生遺跡の鉄器の出土量が一部に集中している事から、倭国大乱は鉄の利権争いだった可能性もある。
■狗奴国連合=男王派70国(独自路線重視?) → のちのヤマト王権

※丸で囲まれた地域
(4世紀末には奈良に渡来人住居が立ち並んでいた)
旧唐書によると、日本国の使者は大変放漫で礼儀知らずだった模様。
また、日本国(ヤマト)は小国だったが倭国を併合したと発言していることから、倭国と日本国は別国だったという認識を持っている事が伺える。
吉野ヶ里は大宰府を首都とする倭国の防衛拠点の一つです
親魏の倭国は呉と親呉圏のトウテイコク(銅鐸圏)を警戒する必要がありました
250年に呉が滅亡するまでです 呉の滅亡を好機到来と捉えた奈良の崇神が奈良周辺へ侵略を開始し成功しました
>>514 >日本国の使者は大変放漫で礼儀知らずだった模様。
>日本国(ヤマト)は小国だったが倭国を併合したと発言していることから
その記述はどれ???適当な事をいってるんじゃなくて?
>倭国は何らかの理由で分裂したものと考えられる。
それを示す根拠は?単に統合が進んだだけではなく?
旧唐書によると倭国(九州)と日本国(畿内)は別物
■倭國条 〜631年の記事
倭國者,古倭奴國也。
(倭国はいにしえの倭奴国である)
※倭奴国=漢から金印を貰った国で、
倭国より古い時代の国名=北部九州
■日本条 701年〜の記事(大和朝廷時代)
日本國者,倭國之別種也。
(日本国は倭国の別種である)
※畿内政権は倭国とは別物だと言い切ってる
以下、日本使者の言い訳が続く
或云:日本舊小國,併倭國之地。
(小国だった日本が倭を併合した)
↑
日本の遣使に倭国と日本が別国だという認識がなければ出てこない言葉である。
倭国代表:吉野ヶ里
日本国代表:纒向
>>518 >倭国は何らかの理由で分裂したものと考えられる。
>それを示す根拠は?単に統合が進んだだけではなく?<
魏志には「倭人が半島まで鉄を採りに来ていた」と書かれおり、日本の弥生遺跡の鉄器の出土量が一部に集中している事から、倭国大乱は鉄の利権争いだった可能性もある。
>>516 吉野ヶ里遺跡から倭国大乱のときの大量の人骨が発見されてるだろ?
あれってどう考えても滅ぼされた側だけど・・・
>>520 それは面白いね。
倭国大乱で大和が九州を平定するモチベーションになったのが鉄だったこともありうるな
3−4世紀の朝鮮半島南部への進出もだけど・・・
高千穂山が2600年前に噴火してたのを証明できんのか?
噴火してたとしたら大陸か半島から天皇家の祖先が噴火した煙を目指してきたんだろ
>>522 倭国大乱を鉄を巡る本州vs九州の対立とする考え方は、白石太一郎氏とかが唱えていて
一昔前までは有力視されてたが、現在はかなり少数派になってるよ
奴国はむしろ自主的に畿内勢力の進出を受け入れているし、対立ではなく連携という見方が主流だろう
奴国では畿内系土器が模倣生産されてるし、対立という仮説では説明できない
>>524 >奴国では畿内系土器が模倣生産されてる
魏志倭人伝の時代に、
唐古鍵が突如消えたり纏向に生活痕が無いのは、当時発生した飢饉により各地へ避難したものと考えられる
■新羅本記
173年:倭の女王卑弥呼が使者を送った
193年:倭人が飢饉。避難民が新羅へ押し寄せる。
■当時の気候
「3世紀〜4世紀は海面温度が下がり、寒冷化だけではなく干ばつにも見舞われたと考えられる。」
「名古屋大学の中塚武教授は、卑弥呼登場前の時代は大雨や旱魃が繰り返された不安定な気候の時代であったという。」
■これに対する考古学者の見解
「飢饉が続いたために、銅鐸を用いた過去の祭祀を捨て、新しい宗教をひっさげて卑弥呼が登場した。
それが卑弥呼の鬼道だと石野氏らは解釈する。」
↑妄想から妄想の派生を生み出すこじつけ論法=妄想www
■考えられること
・飢饉で畿内から北部九州や半島へ移住した人達が多くいた(纏向には生活痕が無い)
・畿内説はその痕跡を畿内政権の勢力圏だと勘違いしている
>>525 面白いな
飢饉で人々が離散した場所に、当時最も貴重だった中国鏡が集まり
人々が集まって来た豊かな北部九州では中国鏡をほとんど入手できなくなるわけだ
矛盾だらけのオモシロ珍ストーリーだな
>>525 纏向遺跡は都市の一部で、ここで生活してたわけじゃないよ
祭祀につかう魚の骨や桃の種が大量に発掘されてたりする
近くには集落跡も出土してたはずだけどね
九州説ってのは考古学を否定し、教科書レベルの日本史も否定することが大前提になってるんだから
所詮は非学問のフィクションストーリーなんだよ
あとはそのグラフだと気温が低いのは古墳時代にわたってずっとだからね・・・
弥生時代ならまだしも古墳時代においては畿内勢力は九州を圧倒していた
あと畿内では(おそらく飢饉に備えて)国内初のダムを作ったりしてたがあれは何時の時期だったか・・・
ああ・・・狭山池だったな・・・7世紀か、ずっと後だね。
灌漑用のため池だと古すぎていつから造られるようになったかわかっていないようだが
おそらく弥生時代からだろうと
>>527 纏向大型建物で桃の種が発見され、畿内説は祭祀のお供え物だと主張していたが、
実際に種が埋まっていたのは柵の下の深い穴
>>526 >当時最も貴重だった中国鏡
当時最も貴重だったというソースは?
>>526 銅鐸はどうした?
溶かして鏡にしたんだろ
>>528 奥山爺
畿内説スレの荒らし何とかしろよ
お前スレ主だろ?
>>528 教科書の書き換え準備中
■最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
「建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、
最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と
考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。」
「同町では、朝鮮半島式の床暖房装置(オンドル)を
持つものを含めて約40棟見つかっている。」
「白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長は、
建物の時期についてはさらに検討が必要としながらも、
(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが
営んだ重要な施設があったことは間違いないとみている。」
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html >>532 まず所有者が一般庶民ではなく、王や首長に限定される
そして古墳での副葬の状況
頭部の近くに副葬、あるいは被葬者が鏡を抱えた状態
後の時代には三種の神器で最重要の神器になる
>>528 いまは完全に否定されてしまった騎馬民族征服王朝説みたく
(あれも戦後、左翼の人がすげー宣伝して回ったけど)
「九州説」は(九州の人にとっては)夢があるんだけど、議論が逸れまくってしまう害悪しかないよなと
単なる「珍説」に留まるうちは面白いぐらいで済んでるけどね・・・
こんな模様は中国にはありません!
古墳時代の気候変動についても、九州大の教授(専門外)だった人が
自分のページで「何故これまで気づかなかったんだろう」とか書いてたのを知ってるけど
多くの他地方の出土品とかを完全無視して都合の良い論理展開をしてたんだよなぁ・・・
北部九州と畿内勢力間の戦闘とか伊都の繁栄と衰退については良く知ってたっぽかったのに
やはり神武東征に捕われてるようだった
そもそも銅鏡より古い銅鐸を国産化していた畿内が銅鏡を作れないわけが無い
今研究すべきことは
「なぜ鉄の一大生産地だった九州に比べ出土品も少ない近畿に大和政権ができたのか?」
その一説が
>>1だ
畿内説の学者の見解
「北部九州では紀元前1〜2世紀、朝鮮半島から鉄の素材が入り、加工して流通するようになった。
弥生時代、倭で最初に本格的な金属器社会に入った地域だ。
初期の国家について「鉄が権力をつくる」との説を私は支持している。
ではなぜ鉄の一大生産地だった九州に比べ出土品も少ない近畿に大和政権ができたのか。」
2018年2月10日 もっと九州掲載
松木 武彦(まつぎ・たけひこ) 大阪大文学部卒、同大学院博士課程単位取得。
専門は日本考古学。日本列島の古墳研究や考古学を通じた戦争、国家形成論などを研究。
2014年から国立歴史民俗博物館の研究部門教授。
>>525 魏志東夷伝の時代に新羅はまだない
纒向はまだ2%しか調査できていない
さらに纒向は卑弥呼が大型建造物で祭祀を行っていたが
都としてはトヨの時代に発展する
古田武彦よめ 自分の都合よく資料事実をねじ曲げる輩ばっか
>>545 そのオッサンこそ事実を捻じ曲げまくってまったく信用されてないヤツなんだけどw
銅鐸 銅鐸圏であり親呉圏でもあった奈良へ侵入した神武達は250年呉の崇神まで 奈良にて逼塞しなければいけなかった 銅鐸は鏃として使用しました 故に奈良盆地では銅鐸の出土はほぼありません
わからないことはわからないでいいのになんで想像で断言するのか。
畿内説も九州説もどっちもただの宗教だよ。
一部に真実はあるが間違った経典(魏志倭人伝)
解釈の違いによる派閥の形成と分裂
まんま宗教だわ。
まず経典を捨てろ。
>>537 考古学研究がまだ十分でない時期なら仕方がないが
現在のように研究が進んだ状況で九州説を主張するのはもっと異常
邪馬台国論争なんてとっくに終わってます
国立歴史民俗博物館FAQ
Q3.邪馬台国はどこにあったのですか?
Answer 大多数の考古学者は大和説です
http://www.rekihaku.ac.jp/contact/faq01.html#c 邪馬台国論争なんてとっくに終わってます
国立歴史民俗博物館FAQ
Q3.邪馬台国はどこにあったのですか?
Answer 大多数の考古学者は大和説です
http://www.rekihaku.ac.jp/contact/faq01.html#c 俺は邪馬台国は九州だろうってずっと思ってたし、それをネットに書くと血眼で「近畿だよ?」って怒り心頭で否定してくるやつと出くわしてきたけど、最近はもっぱら、やっぱり九州じゃん。
てかそれほどまでに必死になって九州説を否定したいやつは何がそうさせてるの?何意固地になってんの?
>>511 ぜんぜん、前からあるよ、墳丘墓が原型
西日本の山陰地方および、その周辺地域となる中国山地は、日本の古代社会である弥生時代(紀元前4世紀〜紀元後3世紀中頃)
しかし、うまいよな。巨大化すれば古墳時代。
大和政権が始まりではないよ。
古墳と墳丘墓 違いが単に年代だからね。
>>502 邪馬台国畿内説は、否定証明完了済み。
卑弥呼の居た三世紀半ばは西日本は近畿や吉備や出雲などの有力な豪族が割拠し、緩やかに連合していた時代で、どの勢力も他の勢力を軍事的に統括出来ずに居た。
これは古代日本史の完全な定説で、誰も異を唱えるものなど居ない。
しかし、邪馬台国の命令で奴国などの北部九州を軍事的に統括していた伊都国は北部九州にある。
つまり、近畿に邪馬台国があったと主張することは、近畿は自分の周辺すら軍事的に統括出来ずに居るのに、中国地方をすっ飛ばして北部九州は軍事的に統括出来たと主張することになる。
これはバカが言う説であり、もはや学問の体を成していない。
邪馬台国畿内説は立論の段階で失敗しており、学説として成立していないただのファンタジー。
はい、論破w
>>554 基本はただのバカの猿だから
コロナでマスクするだろムキになって
意味がないのは分かり切ってるのに
あれとそんなに変わらない
惰性で生きてる連中は変化が単に変化だと言うだけで受け入れられないんだよ
知能が劣るから正否の判断が出来ないわけな
>>549 お前が宗教
少なくとも畿内説は否定証明済み
>>556 >>551 ↑
この歴博があの有名な「近畿では鉄が溶けやすいんですキリッ」な
学会でしゃーしゃーと言って畿内説の人間まで絶句してしまったと言うアレ
猿でないなら自分の頭で何が正しいか判断すればいいだけだろ
農地やインフラ整備ででた土で巨大な墓をつくる。
前方後円墳の形は大和政権が始まりではない、古墳の巨大化のルーツが大和政権。
なんにも、しらない奴は、圧倒されたり、対抗意識でさらに同じ形の巨大墓をつくる。
当然、各地へ拡散する。しかし、現代人まで騙される。長い間 天皇が続く理由だな。
1次・2次資料的な文献からだけでは特定はむろん比定すらままならず、
地下遺構などの資料からも決定的なモノは出て来ていない。
実際のところ、現状では邪馬台国関連説は
仮説とそれを補強する側仮説群でしかないし、
どちらにもそれなりの指示できる部分があるからなぁ
…なので、色々提唱されても現状に戻るのが現状。
年代測定で3世紀初期
年代だけでは、強力な中央集権の証拠にはなりえない。
九州系の土器が極端に少ない。
>>561 少なくとも畿内説は否定証明済みだよ猿
>>556
少なくとも畿内説は
否定証明済み
畿内説はもう可能性が無い
魏と同時代にあった呉は台湾を攻めている(日本を攻めるつもりが誤認して)
大陸に近いことは交易面では良いが国防上は非常にまずいと当時の人も認識していたはず
>>537 いま九州説を言っている人も本当は九州じゃないことはわかってる
日本の歴史を矮小化するためのツールとして九州説を使ってるから
100害あって1利なし、邪魔なだけ
昔は月間ムー的な面白さがあったんだけど、いまとなってはムーの読者にすら
九州説は荒唐無稽で興味もたれず
>>537 いま畿内説を言っている人も本当は畿内じゃないことはわかってる
日本の歴史を矮小化するためのツールとして畿内説を使ってるから
100害あって1利なし、邪魔なだけ
昔は月間ムー的な面白さがあったんだけど、いまとなってはムーの読者にすら
畿内説は荒唐無稽で興味もたれず
少なくとも畿内説は
否定証明済み>>556
畿内説はもう可能性が無い
ゼロ
畿内説はレーダー照射問題のチョンと同じ
ただのチョンクオリティ
>>561 では、九州説を唱える専門家がほとんどいないのはなぜ?
1人いただけでニュースになってしまう
倭国大乱とか物凄く大袈裟な戦のように言ってるけど、石の投げ合いや木の棒でつつき合いしたレベルだろw
なるほど 7,80年かかるな。
婆様の一蹴で終わる・・・・
余程、怖かったんだな。
>>571 あのな教科書は九州説と畿内説併記なのに
居ないわけが無いだろアホ
>>572 いや大争乱だな
首無しで葬られた甕棺とかが残ってる
大体畿内説なんてチャンコロが
アメリカが武漢で発生した言ってるが(ヾノ´°ω°)ナイナイ
とか言ってるスレがニュー速+に立ってるだろ
アレと同じだぞw
ただのチャンコロクオリティだぞそれはw
そもそも倭国大乱って原因はなんなの?
稲作の出来る土地の奪い合いなの
それとも製鉄技術や鉄の産地の取り合い?
あとは大陸との交易の優先権とかかな?
邪馬台国はそれらを治めて作られたのならその場所が可能性高いよね
>>577 恐らくは邪馬台国側の巫女が誣告をやって奴国側の王が起こって巫女殺しをやって
少女の殺し合いに発展して止まらなくなった
ウケモチやオオゲツヒメが怒りを買って殺される話しがあるが
これはそれが神話用に変化したもの
「巫女が誣告して殺された」が「巫女が口から糞を吐いて殺された」と言う比喩に変わり
更にそれが神話用に変形したものがウケモチやオオゲツヒメの話し
九州倭国では巫女の地位が高すぎた
吉野ヶ里の復元とか見ると三階の最上階に巫女がいて
二階に実権を持つ長が他の有力者と共に巫女の御信託を控えて待っている形になっている
この状態で巫女が誣告をやり、それをどっかの王が聞いて怒って巫女を殺すなどと言う事件が起こったらどうなるか
猿以外には容易に察しがつくだろう
九州倭国ではこれのせいで大乱が起こったんだよ
高すぎる巫女の地位、これが政治の不安定さの原因になっていた
これを近畿日本は知っていたから巫女制を採用しながらも
高すぎる地位にならないように牽制していたと思われる
>>574 九州説を唱えてる専門家がほんとにいると言い張るなら、専門家の名前を何名か挙げてくれ
10人でいいぞ
>>579 吉野ヶ里等
九州しか出てこない。
なので、近畿ではない証拠にならないか?
勘違いをしている人が多いようです
紀元前から700年まで 大宰府を首都とする倭国が日本列島を代表する政権でした
其の登場人物に ヒミカ 倭の五王 タリシホコ などが存在し 早くから漢字文化 仏教文化 建築文化 工芸文化などを発展させていました
700年以降が奈良政権であり 福岡県小郡市の子字名日本を名乗るようになりました
倭と日本は別物なのです 旧唐書に記載があります
倭国大乱は魏志倭人伝の記述を見る限りでは
軍事力で支配しておらず
卑弥呼の宗教的カリスマで集合する形態。
卑弥呼が亡くなって、男王に代わると騒乱を始め、
他国を抑えるほどの軍事力がないために
収めることができなかった。
卑弥呼をイメージさせる台与に代わると
騒乱は静まった。
どうも、軍事的な支配は
周辺の小国群は望まなかったし
男王の国もそれができる力はなかったということだろう。
>>580 歴博以外で畿内説を唱えてる専門家がほんとにいると言い張るなら、専門家の名前を何名か挙げてくれ
10人でいいぞ
中央集権的に軍事力を中央が把握していれば
そもそも騒乱が発生することはないし
それぞれの小国が手勢を集めても
すぐに制圧できるはず。
それができていないということは
中央集権にはまだなっておらず
各小国が独自の軍事力を保持していると見て良い。
それが卑弥呼や台与で一応騒乱が収められるのだから
軍事ではない方法でまとめられていた。
小国群の連絡会議のようなものだと考える。
>>585 オウム返ししかできないのは、九州説を唱えてる専門家がほとんどいないことを認めたも同然
>>587 オウム返ししかできないのは、畿内説を唱えてる専門家がほとんどいないことを認めたも同然
九州倭国での巫女の高すぎる地位が政治的不安定さを生み
近畿日本の天皇制へ変化した
これは巫女の相対化だ
近代日本での天皇の高すぎる地位が政治的不安定さを生み
天皇が人間宣言をして現代日本になる
これは巫女の相対化に続く天皇の相対化だ
天皇の高すぎる地位は政治的不安定さを生む
相対化されて行くのが歴史の必然
反動はジリ貧、衰退を意味する
九州倭国が自滅して近畿日本に実権を譲らざるを得なかったのも
結局は高すぎる巫女の地位とそこから来る政治的不安定さが原因
卑弥呼の死後、現に九州倭国は急速に勢力を弱めて行く
そういや地図見てみると太宰府政庁跡って結構いい位置だな
福岡平野と筑紫平野どっちにも陸路と川でアクセスできる中心地
てかこの川って数百mまで接近してたんだな
運河はあったんだろうか
>>591 そりゃ末期の九州倭国の首都だからな
倭京のこと
邪馬台国関係で、
卑弥呼に批准した女王国と呼ばれたのは、
肥前、筑後、肥後地方。
有明湾岸の筑後は肥国連合の一部だった。
肥前はまた完全には統一されておらず
倭人伝にあるように、松浦から千戸程度の
小国の集合体だった。
その中心部、現在の佐賀付近は
二万戸程度にまとめられていたが
まだ千戸程度の小国も残っていた。
筑後が五万戸、肥後が7万戸である。
30余国とあるが、平安時代の記録では
肥前+肥後で25郡。
弥生時代からいくつかの小国の合併なども
あったと考えると妥当な数だろう。
今の旧郡の範囲が大体の当時の小国だと考える。
巫女制度は古代の貧しい社会では有効な方法だったのだろう
共和制と独裁制の良いところ取りをしたような制度だったのだろう
現に卑弥呼のような大女王を生み出した
だから九州倭国ではこの制度に最後までこだわり続けたのだろう
田油津媛などが良い例だ
しかし、まさしくそれが九州倭国の衰退の原因だった
天皇が人間宣言を行わず、現代でも神扱いだったら日本は発展していたか?
してないと思うぞ
肥国連合と筑紫は、一応は筑後川を境界としていたが
戦乱が絶えず、肥前と筑紫の境界の
吉野ケ里で戦乱の痕跡があるのは有名である。
また、筑後と肥後の境界の
瀬高、大牟田、玉名、山鹿地方は
鉄器が非常に多く出る地域である。
鉄器で戦う最前線であったと考えて良いだろう。
最終的には肥国連合は筑紫に負けている。
有明湾岸の久留米付近が肥ではなく
「筑後」となっているからだ。
つまり筑紫に組み込まれたと言える。
ただし、それ以上の戦闘にはなっていないことから
適当な時期に、国を残した形で
肥が筑紫に従属したのだろう。
それから先は、記紀の記録にある
>>509 を想定している。
>>1 >執筆に際して、九州説の再評価だけでなく、現代のリーダー像再考をも胸に忍ばせた〜
そういう姿勢が、歴史を歪めるんだよな
>>596 卑弥呼、トヨ
その後もう一人女王がいる。
それを神功皇后として描いている。
宗像三女神だな。
万世一系に押し揉める苦肉で描いた記紀
筑前 筑後
越前 越後
など 前と後がつくのは
地理的に京都に近い所を 前
京都から遠い場所を 後
これは天皇中心から出てきている思想
明治になってからは 東京の皇居に近づく方を電車では のぼり
遠ざかる電車は くだり
古い時代にそんな考えはない
飯豊女王・顕宗・仁賢のケースが卑弥呼の時代から普通にあったってことだと思うけど。
万世一系の男子が王になれなかったらか、女王がたった。
鬼道云々は中国には女王がいなかったから、陳寿が想像したんだと思う。
>>599 京では、今でも東下り
「京女に、東男」と言うと皮肉いわれるよ。
東男の一人相撲だとよ。
>>600 たぶん、天文、数学、気象、医学とリケジョだったかも?
その一族、国際都市で文献読めたんじゃないの?
そうだな。もう無理で女性を登場だな。
>>597 >
>>1 >>執筆に際して、九州説の再評価だけでなく、現代のリーダー像再考をも胸に忍ばせた〜
>
>そういう姿勢が、歴史を歪めるんだよな
そういう姿勢が、歴史を歪めるんだよな
>>600 それがお前の想像と言う良くあるオチでしたとさ
巫女制度は古代の貧しい社会では有効な方法だったのだろう
共和制と独裁制の良いところ取りをしたような制度だったのだろう
現に卑弥呼のような大女王を生み出した
だから九州倭国ではこの制度に最後までこだわり続けたのだろう
田油津媛などが良い例だ
しかし、まさしくそれが九州倭国の衰退の原因だった
天皇が人間宣言を行わず、現代でも神扱いだったら日本は発展していたか?
してないと思うぞ
帯群1万2千里
使者に星や太陽の角度等を調べさせ
計算したのは、卑弥呼とか?
>>606 だから隋書に倭人は里数を知らず、ただ日をもって計るとあると言ってるだろ
魏志倭人伝でも伊都国から近いところは里数が書いていて
邪馬台国と投馬国が書いてないのはそれが理由だろ
不弥国や奴国は近いから伊都国から分遣隊を派遣して
邪馬台国や投馬国は倭人からの伝聞で日数を書いたわけな
筑前 筑後
越前 越後
など 前と後がつくのは
地理的に京都に近い所を 前
京都から遠い場所を 後
これは司馬遼太郎先生のご高説なんだな
これを否定する輩は ぼんくらしかいないわ
倭をちくし と読みます 後世奈良政権において 筑前 筑後とよばれるようになりました
ちくしと筑前筑後では1000年ほど時代が違います
なお倭ちくしを やまとと呼ぶようにしたのは天武です 倭歌ちくしうた を和歌やまとうたのようにです
相変わらず九州説信者が発狂してんな
5ちゃんの九州説で残ってるのはデンパ系と工作員みたいなやつばっかりだけど
相変わらず畿内説信者が発狂してんな
5ちゃんの畿内説で残ってるのはデンパ系と工作員みたいなやつばっかりだけど
めんどくさいからもう九州でいいよ
はいはい九州九州
決まりだね九州で
めんどくさいからもう九州ってことにしとこうぜみんな
決まったなとうとう
無人島で意中の女性と二人っきりて厨房時代は妄想すっけど
サニタリーじゅうじつしてないと
歯クソたまりまくり、脇毛生え放題だし。眉毛も繋がって、
局部がクサクサになる可能性大よね
もういいよ
分かった分かって九州でいいよはいはい
決まりだね
九州説で決まっちゃったね
まあいいよもうそれでめんどくさいから
畿内で確定してからも九州説は福岡県民の心の中に生き続けるのです・・・
倭国大乱で大和に破られた伊都国民の怨念とともに・・・
たぶん、「倭国」という名からして日本は女性上位というか
女の力みたいなもんを尊重した社会だったのかもな。
女の祈祷師を政治に利用した形跡が多い。その代表が「卑弥呼」だろね。
さらに、女を立てて男同士の戦争を収めるような戦略で「和」の理念を
実現していった気がする。
>>591 立地は凄くいいよ
大陸との交易も楽だし筑後川で有明海にも下れる
鉄鏡の出た日田まで下がれば防衛も完璧
日田から瀬戸内海にも山国川で一気に出れる
阿蘇経由なら南にも抜けれる攻守ともに完璧
本州を考えず九州だけなら普通に首都で良い
15年以上におよぶ考古学的調査実績
吉野ヶ里
おみごと!
纒向
多額の公費をついやして何やってたんだ?
>>627 何故か三国志と邪馬台国の話は熱くなる日本人だから。ここを見ているとコロナ騒ぎだという事を忘れてしまう
邪馬台国の根拠っていうのが、唯一デタラメ倭人伝ってのがちょっと痛い
前方後円墳には埴輪が並べてあるらしい
最初は吉備の古墳からはじまって次第に畿内の古墳に使われるようになったとか
吉備には埴輪を墓に供える事を大陸から学んだ人がいたのかもしれない(始皇帝陵とかみたいな)
明らかに縄文時代の土偶とは違うように見える
土偶は主に北日本が多いらしい西日本のは少ないみたい
そうなると弥生時代前期は北日本は縄文人で西日本は大陸系弥生人なのかな
卑弥呼の墓には埴輪があるのか?時代的には無さそうだけど
埴輪埴輪5世紀。
特殊器台と呼ばれる土器で4世紀後半くらい。
>>631 おい!吉野ヶ里遺跡って佐賀の何もないところだろw
奈良の場合は普通に住宅地の中にあったりするから当時の建物の復元なんか無理だよ
(というか古代の都なもんで古墳やら遺跡がそこら中に有るって言う土地柄だし)
>>635 そうなんですね
じゃあ卑弥呼の墓には埴輪は無い可能性が高いですね
埴輪めちゃくちゃ可愛いですよね(馬とか)
土偶はもう日本のデザインには見えないですよ
宇宙か違う世界の物にしか見えない
>>634 遮光器土偶だな。
https://ja.wikipedia.org/wiki/遮光器土偶
http://karapaia.com/archives/52285497.html 北方系民族だな。
梁書、南書に扶桑国とある
トナカイとか、酪農、インデアンの原型ぽい紹介がある。
欧州より先にアメリカ大陸の記述?
毛人、アイヌ、イヌイット、エスキモー、インデアンみたいなもんやアマゾネス国(女国)とか面白い。
梁書は、奇怪すぎて、日本書紀みたいな感じ
倭国にも文身国、大漢国ある。
九州から方角をとると出雲(文身国)、近畿(大漢国)となる。
読むのも楽しい。東夷伝以外の地域も読むと面白い。
>>636 巨大勢力大和王権が西日本を制したなどと超誇大妄想に耽るのもいいが
記録には日本(大和王権)は小国だったと記され、実際に出土するものは
史書とも記紀とも関係の無いものばかりだ
纒向遺跡の調査結果
・全体的に閑散としており生活痕がほとんど無い
・土木用具ばかりで農具はほとんど無い
・土木作業員の「食堂」らしき貧弱な大型建物(柱細すぎ)
・柵の下の穴の底から桃の種多数(建物と同時に存在していたものではない)
・同じ穴からカエルの骨多数
現場
ギャーギャー騒いでた学者はフェードアウト
<ソース>
読売新聞YOL(21.11.2018)
邪馬台国の候補地?見学施設、財政難で建設延期 社会
奈良県桜井市は、邪馬台国の有力候補地として注目される纒向(まきむく)遺跡で、
2020年度中の完成を目指していた「ガイダンス施設」の建設延期を決めた。
財政難が原因。整備を進める史跡公園の核となる施設で、遺跡見学の拠点として
期待されていたが、新たな完成時期は未定だ。
■纏向遺跡で出土した土器の産地
伊勢・東海系:49%
北陸・山陰系:17%
河内系:10%
吉備系:7%
近江系:5%
関東系:5%
播磨系:3%
西部瀬戸内海系:3%
紀伊系:1%
■結論
纏向遺跡は大陸、九州とも疎遠だと判明した
昔の中国では、日本列島を九州から東南に延びていたと思っていたんだろう
だから方角がおかしくなった、
>>642 魏志の方角は合っている
魏志倭人伝の記述
至對馬國(対馬)〜乗船南北市糴〜
又南渡一海千餘里〜至一大國(壱岐)〜亦南北市糴
つまり対馬←→壱岐位置関係が南北という事
そして邪馬台国はこの先の南
さらにその南には敵対していた狗奴国があった
>>643 「倭人在帯方東南大海之中」
倭人がいたのは九州ではないと言いたいのか?
>>644 海を挟んだ盆地などは眼中にないから
山に貼り付くように国々があったという魏略の記述も忘れるな
せいぜい狗奴国連合の一部だな
>>514 >>646 対馬海峡を渡る以外にも日本海沿岸に直接流れ着いた渡来人も多く居たはずだ
航海の苦手な半島人ならたまたま流れ着いた若狭湾あたりから入植したケースが多かったと思われる
乾燥耳垢:後期渡来人(ツングース系≒現朝鮮人)
湿潤耳垢:縄文系弥生人(本来の日本人)
参考)
DNAの違い
>>643 対馬から壱岐は見えるからさすがに方角を間違うことはない
>>634 >>634 卑弥呼は生口を埋めたから埴輪はいらなかった
日本列島と大陸の位置関係で九州が玄関口とは誰でも解ることです また 現代でも何もない奈良が玄関とはなり得ません これも誰でも解ります
奈良に拘泥する人は700年以降の年月で洗脳された人です 明治で天皇制の更なる強化により更に洗脳されました
お疑いの向きはまず 旧唐書 を読みましょう
しかし、不思議なのが魏の使者が来日したとき、余りの文明の低さに驚いただろうが?だらけで
馬にすら乗っていない民族が、呉に対しての後ろ盾や睨みが通用するのか、友好に疑問視したはず
応対した日本の役人が、通訳がいないことをいい事に、酒三昧接待で身振り手振りで盛りに盛った話をしたんだろう恐らく
意外と外交能力はあったのだろうね
>>651 文明の低さで言えば、当時の半島を知っているから
驚きはしなかっただろうね。むしろ東夷の中では最上級の扱いをしている
当時の朝鮮
夏則裸袒 以尺布隠其前後以蔽形體
-夏は裸で、小さな布で局部のみ隠す
其人不潔 作溷在中央 人圍其表居
-不潔な人々で、家の真ん中に便所があり、そのまわりで生活する
信長、統一後は、全国の古墳等を掘り起こし
万世一統の世襲皇国のどんでん返し、狙っていたかもね。
征夷大将軍、関白、執権、太政大臣、糞くらえだったかもね。
与える側になる事が目標だった。暦も天皇から奪い、次は元号も天皇から
取り上げ、信長子孫に受け継ぐ、野望があったかも?
邪馬台国解くは、皇国・天皇のタブーに切り込むことになる。
戦後のGHQは、もう握っている。米国に追従の理由のひとつ。
>>651 一般市民の話であって、官史や卑弥呼一族は、かなり精通、文字も
使用していたのではないか?
魏志にこうある。
「傳送文書賜遺之物詣女王,不得差錯」(実際の贈り物の品、数といっしょについてある帳簿で品、数の確認を取って間違いはおこらないとある。)
「遣塞曹掾史張政等因齎詔書」(狗奴国との仲介役を魏に頼んでいる?)
この時代、限られた人のみは文字読み書きはできていたと思う
邪馬台国が後の大和政権と無関係なら、もうどーでもいいや
それぞれの地方にはそれぞれの歴史がある
魏志倭人伝は風土記みたいなもんか?
「海島算経、周碑(字?)算経」を卑弥呼一族が習得していたかもね。
詳しくは四国説につべで
ダウンロード&関連動画>> 15分あたりから、でも俺は四国説ではなく。九州〜出雲連合と思っている。
近畿はない。敵国の位置がわからない。
7万戸とその食糧、補給路等が匹敵する国が奈良の南には無理だからね。
>>657 九州説で決まりだね
結論出たかとうとう
>>653 >>656 なるほど、ありがとうございます
出雲説なら吉備だと思うけど
んで大和吉備連合に滅ぼされたのが国譲り
>>649 卑弥呼は墓に生口を埋めたんですね
もしかして丁度 時代的に殉死者を出さなくなる時代の節目でしょうか
三国志にも饅頭の話しもあるから
つまり卑弥呼の墓には生口はあるけど埴輪は無い
また方墳なので前方後円墳では無い
大きさも30歩でしたっけ?くらいの大きさですよね
九州説は魏志倭人伝の記述と不一致だらけ矛盾だらけなんだから
5ちゃんねるでいくら吠えまくっても無駄だよ
現実世界ではとっくに捨てられた過去の説
>>663 卑弥呼の墓は径100歩。150m
わざわざ「大きな墓を造る」と書くくらいだから魏の役人が驚く大きさ
形状は不明。方墳、円墳、前方後円墳のどれかはわからない
殉葬は崇神がはじめて垂仁がすぐやめた
僅かな期間しか行われなかったので日本では数例しかないと思われる
日本書紀の神武東征の記述通りの大阪湾の地形が存在したのは約2700年前だと地理学、土木学で証明済み。
神武天皇の橿原宮跡地とされる橿原神宮の地下から出土した縄文時代後期〜晩期の大集落跡と橿の巨木をC14年代測定した結果、約2700年前のものだと考古学で証明済み。
明治時代に設定された宮内庁による陵・古墳の比定が間違えているという落ち。
鹿児島県の遺跡では12,000年前の薩摩火山灰の下層からイネのプラント・オパールが検出されており、
これは稲作起源地と想定されている中国長江流域よりも古い年代となっている。
鹿児島県の上野原遺跡では、弥生土器に類似した1組の壺形土器が約7500年前の土層から見つかっており、
これは弥生土器を齎した渡来系弥生人の原郷とされるシニ・ガイ文化よりも古いものとなっている。
稲作も弥生土器も鹿児島が大元ということが考古学的に証明済み。
さらに言うなら、古代の日向は現在の鹿児島県と宮崎県を併せた領域だった。
つまり、神武東征によって稲作と弥生土器などの弥生文化が普及したことになる。
邪馬台国=大和国 (三国志において台=ト)
卑弥呼=神功皇后
台与=豊姫(神功皇后の妹) (三国志において台=ト)
興台産霊=コゴトムスビ (日本書紀において台=ト)
倭国大乱=三韓征伐
終わり
>>666 大阪湾の地形が日本書紀の神武東征の記述に合うのは、難波の堀江が開削された5世紀から奈良時代あたりの時期だ
日本書紀が書かれたときの地形と言っていいだろう
畿内説は魏志倭人伝の記述と不一致だらけ矛盾だらけなんだから
5ちゃんねるでいくら吠えまくっても無駄だよ
現実世界ではとっくに捨てられた過去の説
邪馬台国畿内説は、否定証明完了済み。
卑弥呼の居た三世紀半ばは西日本は近畿や吉備や出雲などの有力な豪族が割拠し、緩やかに連合していた時代で、どの勢力も他の勢力を軍事的に統括出来ずに居た。
これは古代日本史の完全な定説で、誰も異を唱えるものなど居ない。
しかし、邪馬台国の命令で奴国などの北部九州を軍事的に統括していた伊都国は北部九州にある。
つまり、近畿に邪馬台国があったと主張することは、近畿は自分の周辺すら軍事的に統括出来ずに居るのに、中国地方をすっ飛ばして北部九州は軍事的に統括出来たと主張することになる。
これはバカが言う説であり、もはや学問の体を成していない。
邪馬台国畿内説は立論の段階で失敗しており、学説として成立していないただのファンタジー。
はい、論破w
真の日本人 西日本人は「和の精神」を受け継いでおり「品格・啓蒙・許容・頭脳明晰」を基本としており、
明るくて開放的であり、感情豊かで個性的。そして、愛国心高く誇り高く反骨心、向上心がありとても世界で最も優秀。
ひらがな・片仮名あらゆる日本文明を創作するなど天才的独創的。
また聖徳太子の「日出ずる処の天子〜」からわかるよう、大和民族は他国相手に媚びへつらうことはない。
しかし
東京人は「妬み・恨み・嫉妬・劣等・朝鮮卑民・野蛮・卑しいい身分」を基にしているため
日本人ではなく奴隷民族朝鮮のため愛国心を持てず 暗くて陰湿 閉鎖的・排他的
感情が乏しく無個性・従順。 反骨心なく外国に媚びへつらう。
>>665 間違い
短里だから30mくらい
箸墓は巨大過ぎるから卑弥呼の墓ではあり得ない
>>667 大和がヤマトと読み仮名になる謎が解決されていない
神功皇后は卑弥呼に当て嵌まるエピソードが無い
記紀から女性と天皇というだけで強引に当て嵌めているだけ
記紀は中国の書物を読んで書かれており、また複数の地域のお話しを
継ぎ接ぎした形跡もある
記紀は編纂も時代も、ヤマト朝廷が外交と天皇支配の正統性を持たせるために、当時の権力者に都合良く編纂された書であり
疑問を持たずに解釈するのは事実と異なる誤りに陥る
当時の編纂者の思惑にまんまとのせられるだけである
畿内説では狗奴国と卑弥弓呼の欠落が見られ、当時のヤマト朝廷でも整合性をつけられなかった程の難問のままだ
卑弥呼の墓の大きさはいろいろ解釈があって30mから150mと幅がありますね
当時の墓の中でも大きいように解釈するとどの大きさが当てはまるのでしょうか
卑弥呼の時代に前方後円墳がすでにあったのか謎ですが30mなら方墳か円墳なのでしょうね
そして生口のある古墳で埴輪の無い古墳と言う事なんですね
生口の数ですでに発掘済の古墳からしぼれそうですけど
それ以外だと発掘待ちかすでに存在しないかかな?
歩というのは長さの単位で魏の時代は約145cm
解釈の違いなんてないよ
30mだったら大きな墓という表現ではなく小さな墓という表現になる
100人の殉葬がおさまる大きさじゃない
>>676 陳寿が聞いた話だよ。
まして、魏の単位などわからないよ。
徇葬者奴婢百餘人の解釈、それでいいのだろうか?
>>676 祇園山の周りからは60名以上埋葬されていたのが確認されている
>>673 とっくの昔に解決済み
倭の音がワで訓がヤマトだから
大は単にgreatの意味
和は倭の当て字
以上
>>676 まるで間違い
御井の祇園山古墳は三世紀の北部九州では最大級
そもそも九州倭国では近畿日本の影響を受けるまでは
余り大きな墳墓を作る習慣が無かった
壮麗な装飾品の出土で有名になった伊都国の王墓も背丈ほどもない盛土に過ぎない
>>680 正解、墓ではない古墳もある。
開拓や治水、避難場所、目印、権力象徴といろいろ。
巨大古墳衰退は、インフラ整備で水路が確保されて土の運搬は
河川等の埋め立てになっていたからね。
周 1里 75m
秦 1里 435m
前漢 1里 435m
後漢 1里 435m
魏 1里 75m
西晋 1里 75m
東晋 1里 435m
以後 同じ
奈良が長里に拘泥する理由は古代より日本を支配していたとの欺瞞の構成要因
短里を認めることはできない
魏志では 1里 75m 1里は300歩 1歩は25cm
ヒミカの墓 径100歩 は25m
弥生墳墓だと、王墓は直径で
20m四方〜40m四方程度がほとんど。
>>675 >卑弥呼の墓の大きさはいろいろ解釈があって30mから150mと幅がありますね
いろんな解釈なんてないよ
1歩は145cmだから、百余歩は150mくらい
度量衡を捏造してしまったら何でもありになってしまう
旧唐書
倭國者,古倭奴國也。去京師一萬四千里
京師てどこ?
14000里×435m=6090km。
14000里×75m=1050km
地図に当てはめてください。
九州説、近畿説に共通欠点、文献の鵜呑みが多い。
検証よろしく。
歩と里は度量衡の定義にはないんだぞ。
それぞれの時代や地域で
度量衡の丈や尺で里や歩の換算の記録があるから
それで推測してるだけ。
秦の始皇帝の度量衡は
丈尺寸分とその面積、体積が定義されているものだ。
だから時代によって
一歩が5尺だったり6尺だったりする。
松浦までで、実距離は中国の里の1/5程度であることがわかっている。
これを前提として5倍誇張説を仮定する。一里あたり87mである。
5倍誇張説の場合の計算結果と推定場所
帯方郡の場所
帯方郡黄海北道鳳山郡説より、帯方郡側の海州を起点とする。
帯方郡から狗邪韓国まで、乍南乍東7000余里 7000里/5=1400里*435m=609km 海州―釜山広域市 700km
狗邪韓国から松浦まで3000里 3000里/5=600里*435m=261km 釜山広域市−唐津 210km
松浦から伊都国南東500里 500里/5=100里*435m=43.5km 唐津―小城 38.3km
東南100里の奴国まで 100里/5=20里*435m=8.7km 小城―佐賀 10.1km
東100里の不弥国までの道 100里/5=20里*435m=8.7km 佐賀―大川 9.5km
南水行20日の投馬国まで 20日/5=4日*30里=120里*435m=52.2km 大川―玉名 47q
水行10日、陸行1月の邪馬台国
水行10日 10日/5=2日*30里=60里*435m=26.1km 玉名―緑川 26q
陸行1月 30日/5=6日*30里=180里*435m=78.3km 緑川―人吉 86q
侏儒國 南4000里 4000里/5=800里*435m=348km 熊本緑川流域―屋久島 315km
裸国、K歯国 水行一年 365日/5=73日*30里=2190里*435m=952.65km
熊本緑川流域-奄美大島 580km
熊本緑川流域-沖縄本島 824km
おまけ
韓地、方4000里 (4000里/5)^2=800里^2=(800*435)^2 =121104km^2
wikipediaより、
韓国 面積 100,210km^2
謎の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡についての進展はない?
ミステリー本好みの者には興味あるんですが
>>680 まるで間違い
祇園山古墳だとしたら
「墓を造るがとても小さい。径10歩。副葬品もしょぼく共同墓地の中にある」
と書かれる
>>690 細かいことだけど、祇園山は方墳だから、
径10歩ではなく「方10歩」と書かれることになるはず
祇園山は、大きさも形も年代も違う
しかも祇園山の頃には九州にも前方後円墳が築造されており
親魏倭王の墓が普通の豪族の墓に比べて著しく小さいというおかしな状況
それに祇園山から三角縁神獣鏡が出土と伝えられており
親魏倭王は同時にヤマト王権の傘下の豪族だったというおかしな話になる
そのころ中国内部は相当大変な時期だったろうに
日本のこと調べにいく余裕があったんだな
水城は1200m×80mでそれだけの
工事をするだけの能力はあったが
それに匹敵するような古墳はない。
径30mや30m四方前後の墳墓が多く
大きい古墳がいいとは思っていないようだ。
纏向とは無関係なんだろ、邪馬台国
そんなら、もうどーでもいいよ
邪馬台国は、ただの「ど田舎」の昔話
日本の歴史の大勢とは全く無関係
魏志倭人伝の著者は出来の悪いルポライターw
水城
土量38万4千㎥ 10トンダンプで6万4千台 動員延べ数110万人以上
日本書紀に664年に天智が造ったとの虚偽記載がある
白村江の敗戦後にできることではない
多利思北弧あたり頃からの建造
同じく神籠石山城郡も 天智が造ったとの虚偽記載があるが
正しくは倭国が300年頃より400年頃に造成し首都大宰府の防衛拠点とした
其のうちの大野城はヒミカの時代には機能していた
検知する場合、商売する場合だろー
測量専門役人が調べていないよ。
だいたい、歩いたら100歩だっただけだよ。
生口を100人ほど埋葬したならかなり大きい古墳になりますよね
1m間隔で埋葬しても周囲は200mになるのかな?
墓も当時は30mくらいが普通サイズならそれ以上の大きさがあるはずですね
古墳の型は解らないですが埋葬品は豪華なはずですが金印は卑弥呼の墓に埋葬したのでしょうか
後任が金印を使うでしょうから一緒に埋葬しないですよね
◇◆◇ 日蓮と法然 ◇◆◇
両者ともに鎌倉時代の僧侶だが、その教えは大きく違う。法然が来世での救済を説いた
のに対し、日蓮は現世利益を説いた。病と信仰の関係についての主張もまったく異なる。
日蓮「此の曼茶羅能く能く信じさせ給ふべし。南無妙法蓮華経は師子吼の如し。いかな
る病さはりをなすべきや」(『経王殿御返事』)
法然「宿業かぎりありて、うくべからん病は、いかなるもろもろのほとけかみに祈ると
も、それによるまじき事也。祈るによりて病もやみ、命ものぶる事あらば、たれか
は一人として病み死ぬる人あらん」(『浄土宗略抄』)
今般のコロナウィルス禍にあたって、創価学会の本部は、唱題会などの会合を中止した。
日蓮の教えに従い南無妙法蓮華経を唱えても、病魔に勝つことはできないと認めたのだ。
※ 現在の創価学会本部は、病気に関する限り日蓮よりも法然に近い考えを取っている。
ヒミカの墓と推定される場所の一つに福岡県春日市の熊野神社があります 副葬品なしのミカカンが100以上出土しました
身分あるものには副葬品はありますが 身分のないものには副葬品はないと考えるのが妥当でしょう
しかし九州王朝説やその亜流の九州説のやつってほんと頭ぶっ飛んでるな
短里とかいう架空の距離単位を捏造したり、古墳を開拓や治水ということにしたり
>>702 > 短里とかいう架空の距離単位を捏造したり、
無知猿やなw
短い里で表現されているのは魏志倭人伝だけじゃないぞ
魏志韓伝で韓国は4千里四方、そして日本書記にも根拠はあるぞ
崇神65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
任那〜筑紫間の距離が2千余里
>>703 短里厨の頭の悪さを象徴するようなレスだな
こういうのを持ち出したときの前提として、距離を直線距離で考えている
直線距離で計算したときに里のメートル換算が短里に近いとドヤる
マヌケ過ぎる
>>704 お前の「架空の距離単位を捏造した」という言いがかりが厨房未満
>>704 浅はかだな
87m(タンリ)×12000で1044km
あらま?帯方郡から直線距離で奈良あたりになる。
日本書紀て天皇の威厳をそこなわず、事実を考えながら
書いたと思う。
仁徳天皇(民のかまど)は,徳の高く、尊敬されて
として知られているのは、なぜ?
日本書紀も東夷伝参考にしながら書いたんだろうな。
信者とか、宗教になっているのは、近畿だろ〜。
>>706 >あらま?帯方郡から直線距離で奈良あたりになる。
救いようがない頭の悪さ
2つの離れた場所で仮に煙が見えたとしても、距離を測る方法はない
険しい山岳地帯を一直線に進む方法はない
それどころか曲がりくねって進むことも不可能
数百キロ離れた海上の距離を測る方法はない
こんなやつが畿内説とは、普通の畿内説論者には極めて迷惑
前に書いたけど「海島算経、周髀算経」、
まあ、クグて確認してみな。陳寿もいろんな人聞いているからね。
間違いもあるだろうけど、おれは九州説のほうが確率が高い。
>>710 >「海島算経、周髀算経」
この2つは短里厨がよく持ち出してきて、荒唐無稽なトンデモ話をでっち上げる
海島算経は目視できる範囲での三角測量であり、離れた地点の距離の測定には使えない
周髀算経はデタラメ本
論外
周髀算経はデタラメ本?
どこがデタラメか指摘してくれ?
基礎数学の否定になるけどね。
観測者の誤差なら理解できる。
>>712 夏至の日の南中時に、8尺の棒を立てて1尺6寸の影ができる場所の緯度を計算すると北緯35度となる
時代背景も合わせて考えると観測地点は洛陽と推測できる
周髀算経には二十四節気での影の長さが書かれているが、北緯35度での影の長さは夏至と冬至以外、全部間違っている
短里厨は周髀算経を絶対視してるくせに、周髀算経がこんなにデタラメということさえ知らない
短里なんてのは理論的根拠もデタラメで、測量方法も不可能なことを妄想してるだけのもの
短里厨は乏しい知識で精一杯のこじつけ話を考えるが、
根本的に頭が悪いから3世紀の技術や知見を想定して判断することができない
現代の「卑弥呼」である「百合子都知事」を
次の総理に担ぎ上げよう。
コロナを厄払いするには、政治体制も刷新しないと
ダメだわ。 昔でいう「改元」のような縁起担ぎね。
ははーん、、、この案件又武田鉄矢様が飛びつくぞ!
お願いします、今朝の三枚おろし!
>>713 xN8pAy0211だよ。
あんた面白いよ。自分で答え出している。
夏至と冬至は間違っていない。
行った先の使者等に夏至と冬至で計測させればいい。
出るだろ。球体と平面の違いで、実測と比較しているので誤差が大きくなることは、
当時から指摘があった。しかし、周髀算経て魏あたりまで1年を365と4/1とほぼ正確(うるう年)
なのに、唐の時代に364日としている。もう少し、踏み込めば、地動説となえ、蝕の計算も正確だったかもしれない。
あるいは卑弥呼一族がすでに気が付いていたかも?
情報収集、データ集積の観点からも国際交流のさかんな所に近いと考えた。
>>718 バカ過ぎる
行った先の夏至と冬至で影の長さを計測して何が分かるというのだ?
トンチンカンなことを書いてる自覚もないようだが
>>719 ばかはあんた、二つの地点を同時期にはかる
三角関数わかれば溶けるよ。
>>720 具体性ゼロのレスは何も分かってないことの証
>>722 それはあんただな。
自分で夏至、冬至は正しいと言っている
矛盾している。
>>723 そうやって具体性ゼロのレスを繰り返すだけ
要するに、719の質問に答えられないのだな
>>720 >二つの地点を同時期にはかる
同時期とは具体的にどういう意味か?
その結果、何が分かるのか?
これらを具体的に答えられないのは、何も分かってない証
>>685 捏造はお前
短里だから百歩は30mくらい
つまり箸墓は卑弥呼の墓ではない
御井の祇園山古墳が卑弥呼の墓
>>704 涙拭けよ頭の悪い否定証明済みの近畿パーww
箸墓はそもそも崇神の墓
まるでただのデタラメ
日本を作った人物である崇神の墓を
デタラメな言い分でモモソヒメがどうの
近畿パーはウソつきのチョン
>>732 蘇って、古代中国の奥地に国が有ったな
そこら来たルーツの人がソ人名乗ってたりして
同日同時刻だな。
Aは帯方、Bは船、水時計、暦を置く
Bは南へ下る、島づたいは、海島算経使う
使えない所に周髀算経(補正したかも?地球の傾きと位置の違いで)や星の観測を使った。
途中から日数になる。誰が絶対視しているのか?
観測によっての誤差
地球が完全に球体ではない。緯度がたかくなると誤差も大きい
南下なんで誤差低くなるので概算で出した。
いきなり帯方郡12000里が出てくる理由を考えるとそうなった。
島づたい、沿岸航法だと必要あるのかな?周髀算経
小人の国とか裸族の国のとかの
太平洋まで行くつもりだったかもね。
近畿、纏向遺跡 土器のおこげで炭素測定。
中央集権化しているなら九州が皆無、出雲・北陸系3%と少ない。
大和政権の初期ではないか?
紀元頃福岡県糸島市を旅立った 神武兄弟は倭国の勢力範囲内各地で 兵力を募り最終は岡山から船出します 明石海峡は銅鐸圏の勢力内で通過は難しく 鳴門より北上し大阪湾へ突入しますが 神武の兄が討ち死にします
そこで住民の少ない箇所を目指し紀伊半島を迂回し熊野から上陸し山中を抜け 奈良盆地の北方へ侵入し橋頭保を築きます このあと崇神がでるまで250年かけて奈良盆地を平定しました
陳寿が三国志の中で倭人伝と韓伝に「だけ」短里を使って
中国の他の史書にも見当たらない
真面目に言ってんの?
いつまで邪馬台国って言ってんだ?wwwwwwwwwwwww
ヤマト国だろうがwwwwwwwwwwwwwwwwww
他には、方角間違いはあるの?
実験的な要素もあったかもしれん。
陳寿に逆に聞いてみないとわからん
真面目に書いているのかと?
>>728 祇園山古墳はかなりそれっぽいですね
生口と思われる殉死が66体以上確実だとか
墓の大きさも丁度良い大きさだし
副葬品が無いのが問題ですが近くの神社に出土品と思われる鏡もあるとか
盗掘されてますが私は金印は埋葬されていないと思うので無かったと思います
後継者が持っているはずなので違う墓か略奪されたか神殿ごと燃えたとかだと考えます
久留米も地理的には筑後川や太宰府や博多湾とも近く十分可能性高いですね
>>736 最初は夏至と冬至で計測すればいいと言っていたが、今度は全く別のことを言い出しやがった
結局、知識ゼロで全く理解してなかったってことだ
で、行った先の夏至と冬至で影の長さを計測して何が分かる?
同日同時刻とはどう測る?
この時代に時計なんかないぞ
海島算経でどうやって距離を測定する?
山の高さもわからず、そこまでの距離も分からない状況で、どうやって2つの地点の距離を測定する?
周髀算経で何をどうやって測定する?
3世紀の技術では不可能なことを可能だったと言い張るなら、はぐらかさずに具体的に答えろ
>>742 金印は仮綬されたものだから日本には残ってないよ
返却されてる
>>742 あと、卑弥呼の鏡は例の日田のヤツのはずだけど
アレは卑弥呼の鏡以外の可能性はほぼゼロだからね
与太は別として卑弥呼以外にあの鏡を所持出来る人間は存在しないはず
狗奴国との戦闘に備えて極秘に疎開させてたんだろうと思われる
卑弥呼の住んでた所の話なのですか?
それとも邪馬台国と言うの地域の話ですか?
青森のイタコ
沖縄のウタキ
日本の山御嶽
など神と交信する宗教儀式が存在していますね。
中国から見て、曹操が所持する鏡と同格程度の鏡を送られる人物で
曹操と同じくらいの時代の倭人と言ったら
卑弥呼以外に全く考えられない
卑弥呼以外に候補が全然存在しない
邪馬台国は九州以外では有り得ない
むしろ3世紀入る前にオワコン化した九州は有り得ないだろ
中国から見て、曹操が所持する鏡と同格程度の鏡を送られる人物で
曹操と同じくらいの時代の倭人と言ったら
卑弥呼以外に全く考えられない
卑弥呼以外に候補が全然存在しない
邪馬台国は九州以外では有り得ない
>>はぐらかさずに具体的に答えろ。
夏至なら同じ夏至、同じ時間
二地点はかる八尺の棒で影の長さの差が1寸ありゃ、3000里とする法則
当時では、これを使っていた。当然、誤差は多い。
でも、これは。緯度を図ったにすぎない。大雑把だよ。正確にはでないよ。
太陽の高さを8万里となって太陽までの距離にはなっていない
、地球が完全な球ではないといろいろ、問題がある。夏至、冬至以外で間違いは、実測でたぶんやっていないかも?
実際の距離に対応した影の長さで決めていけばいい。別に現在の正確さを求めていないよ。
当時での限界の話。相似や三角法の使う方、海島算経が正確。
http://math-info.criced.tsukuba.ac.jp/Forall/project/history/2004/kaitousankei/pdf/kaitousankai_text03.pdf これでいいか?
後は、星の観測とか、天球ギ使うことになる。
こんなもんでいいか?後は知らん。
鉄鏡って奈良の古物商が持っていたんでしょ
考古学界では疑問視されてるよね
>>751 >浅はかだな
>87m(タンリ)×12000で1044km
>あらま?帯方郡から直線距離で奈良あたりになる。
誤差がー、誤差がー、と言い訳ばっかりしてるが、こっちは誤差のことなど一言も言ってない
3世紀に1000km離れた地点の直線距離を測る方法があり、里数は短里で書かれていると言い張るから
きちんと説明しろと言ってるんだ
畿内説論者が短里を唱えてるかのような書き込みをしたんだから、とことんやるぞ
>夏至なら同じ夏至、同じ時間
>二地点はかる八尺の棒で影の長さの差が1寸ありゃ、3000里とする法則
>当時では、これを使っていた。
同じ時間をどうやって測った?
周髀算経というデタラメ本をもとに1寸が1000里と言う短里厨が多いが、1000里だろうと3000里だろうとどっちでもいい
だが1寸の差を1000里だか3000里とする法則など存在しない
そんな法則が存在したと言い張るなら、合理的な根拠を示せ
>相似や三角法の使う方、海島算経が正確。
1000kmも離れてる地点の直線距離を出すのに、目視で計測できる範囲で計測してそれぞれを累積したのか?
そんな測量に都合のいい場所がどれだけある?
それに最初は帯方郡から奈良への直線距離と言っておきながら、今度は帯方郡から船で南下と言うことを変えた
つまり循海岸水行での航行距離に極めて近い距離になる
コロコロ変わってるがどっちなんだ?
中国から見て、曹操が所持する鏡と同格程度の鏡を送られる人物で
曹操と同じくらいの時代の倭人と言ったら
卑弥呼以外に全く考えられない
卑弥呼以外に候補が全然存在しない
邪馬台国は九州以外では有り得ない
九州説(笑い)とか言って珍説の支持者を増やそうとしてるけど
結局は福岡説だからな
>>753 近畿説て考察できないんだな。
コロコロ変わってるは、陳寿なんだけど。
始めは里で途中で日数、それで12000里
近畿説はどうやって、三角関数、相似等の海島算経使わず、距離を求めるのだろう?
日数計算とか、12000千里は周髀算経法則があるのにないとか?それらを使わず
どうやって、計算し距離等をだしたのか?
現代人が3世紀の人に現代知識をもって文句、言っている点に気が付いていない。
近畿説はどうやって、陳寿は里、12000里を出したの?
まあ、九州派だけど、短里使わず
三角法使ってあろうと思う以外の当時の測量の精度の問題により
陳寿の12000里が間違いと判断している。
なんで九州説の人は「どっちかというと九州かな」というスタンスを
とりたがるんだろう
ゴリゴリの九州信者なのに
サヨクが「普通の日本人」というスタンスとるのと同じ
陳寿
233年 蜀に生まれる
238年 ヒミカの使者が魏へ到着した時は 6歳
蜀朝廷の観閣令吏となる
263年 蜀は滅亡
265年 魏朝廷の吏官となる
三国志の作成編纂
297年 没 65歳
九州説を主張する学者は、ほとんど北九州を主張するんだよな。
何故か南九州を主張する学者がほとんどいない。
しかし、中国南部の古代の稲作地帯から船に乗って海に出れば、黒潮に流されて
南九州の種子島や鹿児島に漂着する可能性が高いんだよ。
ところが南九州の古代文化を主張する学説はことごとく反対派によって
つぶされてしまう。おかしなイデオロギーに影響されている学者が多い。
>>757 またこの日本語が不自由なやつ、デタラメを指摘して答えられなくなると、論点ずらしと逆質問ではぐらかしやがった
前にも論点ずらしと逆質問で逃げたことを指摘したぞ(331、361、372)
結局、何も答えられなかったのだから、短里なんてものはなく、
3世紀に1000km離れた地点との直線距離を測る方法はないと認めたわけだな
喜界島の大爆発が6000年前に発生し熊本県辺りまで大量の火山灰が積り人が住めなくなった
勿論鹿児島の人は全滅 九州では博多と大分が生存出来た これが南九州に文化が絶えた理由です
>>764 あれ?付き合えないと言いていた輩がおかしいな。
意味不明、正確ではないが、
直線距離を測る方法、周髀算経使用した。
短里も一つの考え方。俺は採用できないだけ
近畿説はとうやって陳寿が12000里
だしたの?
意味がわからん、陳寿や3世紀の人に現在の精度求める方が
おかしい。
魏からヤマイチ国へ派遣された張政という官人の軍事報告に基づき陳寿が三国志倭人伝をしるした
張政はヒミカが没するときも倭に滞在し 魏が滅びた時に帰国した 山一国に呉が攻めて来た時に魏からの応援が到着する時間が不正確なものであるはずはない
>>767 いやいや、764が聞いているのは、正確かどうかはともかく
「帯方郡から邪馬台国の直線距離を周髀算経を使って計算した方法」
を聞いてるんだぞ
いろいろ問題点はあるけど、とりあえず
・帯方郡と邪馬台国で同時刻に測る方法を教えてくれ
>>767 >意味がわからん、陳寿や3世紀の人に現在の精度求める方が
>おかしい。
誰が3世紀の人に現在の精度を求めたんだ?
捏造するな、クズ野郎
>>769 日時計、水時計 八尺はその場でも作れる。
邪馬台国、帯方郡それぞれに持ち込む。
わかりやすく、精度がよい夏至の
12時で計測する取り決めるそれで図る
そのデータを持つ使者を来るのを待つ、
緯度の違いから12時でできる影の差がでる。
その差が4寸だと周髀算経の定理で3千里を掛ける12000里
でもあくまでも経度が動かない数字、動くとその地点で距離が伸びる
縦と横できる。帯方郡を頂点として三角形ができ斜めの数字がでる。
http://www.geog.or.jp/files/h27-autumn_01.pdf の6ページを見てくれ。
周髀算経の定理で3千里でなく千里だな。掛ける4寸なら4000km
すまん。
>>775 >87m(タンリ)×12000で1044km
>あらま?帯方郡から直線距離で奈良あたりになる。
元々はこれが出発点だ
帯方郡から奈良までの直線距離は、南北方向だけの距離の2倍になる
2倍は誤差ではない
また帯方郡での12時(南中時の時刻という意味)と奈良の12時は同時刻ではない
3世紀の技術や知見ではどれだけ時刻の差があるかもわからない
したがって帯方郡から奈良までの直線距離を測る方法もない
>周髀算経の定理で3千里でなく千里だな
1寸の差を1000里とする法則など存在しない
そんな法則が存在したと言い張るなら、合理的な根拠を示せと書いたが、結局何も出してこなかった
おまえがやってることは、根拠はないが幽霊は実在すると言い張ってるのと同じだ
1寸1000里は唐の時代に検証して否定されてるから、あくまで机上の話として
周髀算経は相似を利用しているから同じ時刻でないといけない
夏至の南中で合わせて測るのではズレる(理屈上ね)
さらに海抜も合わせないといけない
適用されるのは南北の距離のみ(時計があったり今の知識があれば別)
あくまで理論上の話として書かれているだけで
実際の測量に使用するのはハードルが高すぎる
では、聞く、陳寿はどうして12000里と書いたのか?
>>779 正しいかわからないけど魏国からの使者は邪馬台国までは行かずに
九州まで来て帰ったとの説もあるらしい
そこで倭国の人間が正確な位置を特定させないために
方角と距離の嘘を教えて将来占領されないようにしたんじゃないかと言う説もあるらしい
卑弥呼の墓の話しもまた聞きの可能性もある
>>780 その可能性はあるね
防衛上、攻めてくる場合がある
水行10日、20日、陸行何日なんとかあたる。
急に日数になった、攪乱ではないか?
張政という官人、倭のどこまで行ったのかは、定かではない。
もう一つある。寿はどうして12000里と書いたのか?
卑弥呼側から、台頭してきた大和政権のある位置を教えたかも知れない。
幼いころ国際交流地域にいれば、教育を受け
外国からの書物も読んでいた可能性もある。
その書物の中に中国当時の基本、周髀算経等読んでいたかもしれない。
>>780 確実に言えることは12000里という里数が正しくないってことまでで、あとは推測でしかないね
いろんな推測があるが個人的に有力だと思うのが、
司馬懿を顕彰するために、大月氏国より遠い国から朝貢に来たことにする仮説
洛陽から大月氏国までが16370里
洛陽から邪馬台国までが17000里(洛陽から楽浪郡5000里+帯方郡から邪馬台国12000里)
もう一つが、倭奴国王の朝貢があった漢代に倭国までの距離が10000里という認識があり
魏代になってさらに2000里遠いところから朝貢があったという仮説
60日の行程に師行三十里あるいは一舎=30里をかけて1800里
10000里+500里+100里+100里+1800里=12500里≒萬二千餘里
>>783 ありがとうです。
別の観点からの推測は、多いに嬉しいです。
否定とか疑問持つなら、自らで推測、仮定を持ち、検証するべきです。
例えば778みたいに、机上の話として記したとか(唐より古い時代ですが、
算経十書の存在あることは、否定はしていません。すんなり受け入られます
777は、意味が解らん、算経十書は、いろんな大学の教授等の出しており
陳寿がどうして12000里と書いたのか、合理的な推測、別観点すら出していません
発端は1044kmが奈良も範囲になる、(グーグル地図上で帯方中心に円を書いた)
一つの考え方である九州短里の再考をしたわけです。
魏志倭人伝は
1 伊都国基点の放射読み
2 水行十日陸行一月は水行十日陸行一日の単なる写し間違い
邪馬台国は卑弥呼の時代は御井(邪馬台国は移動している)
帯方郡から伊都国まで10500里ほど
伊都国から御井まで陸路で1000里ほど
ピッタリ
※魏の使いは二回来ている
一回目は恐らく倭国大乱の余韻が残っていて物騒だったから魏の使いは伊都国に留まり
不弥国と奴国は近くだから分遣隊を派遣し
邪馬台国と投馬国は遠いので倭人からの伝聞を書いた
(隋書に東夷の人は里数を知らない、ただ日を以って計っているとある)
二回目は邪馬台国まで行っている
距離が日を用いたものと12000余里との二種類あるのはこれが理由
>>787 纏向は三世紀から四世紀ではなく四世紀以降
だからそもそも時代が合わない
※注意
近畿日本は四世紀の崇神の時に大躍進を遂げ、一気に九州倭国を除く西日本全域を勢力下に置いた
だから卑弥呼のいた三世紀と四世紀では時代が近いが色々と様変わりしている
だから三世紀と四世紀とをすり替えると色んなウソがつける
これはウソつき近畿パーが何かにつけて使う手品なのでよく注意しましょう
俺がテキトーに新説をでっちあげてやろう
邪馬台国は対馬にあった説
九州説の根拠ってことごとく粉砕されてるよな
・方角が南 → 倭国内の方角の記述は、検証できる範囲ですべて間違っている
・鉄が多い → 3世紀中頃には九州の優位性なし
・短里 → 捏造でした
他に根拠あるの?
>>792 >・方角が南 → 倭国内の方角の記述は、検証できる範囲ですべて間違っている
畿内説の勝手な誇大妄想
>・鉄が多い → 3世紀中頃には九州の優位性なし
3世紀に限らず畿内では鉄器がほとんど出土しない
言い訳「畿内は鉄が溶けやすい地質」(佐原氏)
>・短里 → 捏造でした
日本書記でも使われている
崇神65年の記事「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
>>737 形が全然違うw
土器を置くコースターだろw
畿内説お得意の超こじつけ希望的観測www
>>794 九州で見つかったものをすずりと判定した柳田氏が纒向の石もすずりと判定したんだが
福岡で出土した硯
年代:1〜2世紀
サイズ:長さ15・3センチ、幅6・3センチ、厚さ0・9センチ
佐賀で発掘された硯
1つは
長さ7.8センチ幅5.2センチの「石硯」、
もう1つは
長さ3.8センチ幅3.5センチの墨をすりつぶす
ための道具「研石」と見られています。
>>794 あと、おまえがいつも貼り付けてる嘘コピペも訂正しとけよw
纒向遺跡で「大陸との交流を示す中国製の鏡などが見つかっています。」と一般のニュースでも伝えるほど
確実な考古学的事実なんだから
>>797 >大陸との交流を示す中国製の鏡などが見つかっています。
これが印象操作ってヤツだ
正しくは「中国産の銅を使って国内で生産された銅鏡」だ。
銅の産地である呉と対立していた魏は輸出できるほど銅を入手できなかった時代
だから三角は国産リサイクル品なんだよ
結局、オチはなんだったけ?
主人公達は航空事故の遭難者じゃなく
クローン再生された人造人間だったっけ?
>>799 また嘘で反論かよ
三角縁神獣鏡は纒向遺跡では見つかっていない
纒向で見つかったのは画文帯神獣鏡と内行花文鏡だ
>>801 また嘘で反論かよ
畿内説は否定証明済み
はい、論破w
>>787 中国人が纒向つまり当時の日本の首都に来てたって証拠じゃん
これで完全決着だな
>>801 それ纏向じゃありません
過疎地纏向と一緒にせんといて
ヒミカが魏から貰ったもの
銅鏡 100枚
真珠 鉛丹 各々50斤
金帛 錦罽 刀 鏡 采物
絳地交龍錦 5匹
などなど
三角縁神獣鏡はありません これは奈良で作成されたものです
魏が贈った鏡は三角縁神獣鏡だろうね
金印を贈るような相手だから新品だろうし
「鏡を贈ったのは呉でもない蜀でもない。魏からの贈り物だ」
というのを明確にするために年号を入れたんだろうな
九州にしても近畿にしても、なんで古事記日本書紀の編集者たちは邪馬台国を無視したんだろう。
>>777 帯方郡から奈良までの直線距離は、南北方向だけの距離の2倍になる
どうして?帯方郡中心に12000里の円書いたのが間違いなのか?
周髀算経法則があるのに?
ないんだったら、「夏至、冬至は合ってる
他はデタラメとか」それ自体、書くことはできない。
存在があるから、そういう事を書ける。
意味わからん、利口ぶっている阿保かな?
倭国の史書 帝王本紀を基にして 日本書紀は捏造されました
紀元前より700年まで日本列島を支配し外交も行ってきた倭国です
理由の一つは 白村江の戦いでの唐へ内通し倭国を裏切った負い目があります
更に倭国の残存勢力と唐から派遣されたカクムソウの協力を得て 天智の息子二人を殺し
自分が首領となった負い目 などにより古代から続いてきた支配勢力の内輪もめという形をとりたかったから
倭国の領地領民を奈良政権に私するために公地公民という欺瞞政策もあります
>>814 ん?
無視なんかしてないぞ
日本書紀には卑弥呼の記述あるぞ
>>815 日本語が不自由すぎる
反論があるなら他人と意思疎通ができるレベルの日本語で書け
>>815 まあ 一定の基地外はいる
アホは、放置で
当然ちゃ当然だけど奈良時代はすでに邪馬台国=大和だと思われていたようだな
魏の使者って九州くらいまでは詳しく書いてるけど
邪馬台国や卑弥呼の事はほとんど記録してないよね
普通なら卑弥呼はどんな服着て何を食べてるとか
毎日どんな暮らしをしてるとか記録するはずだけど書かれてない
邪馬台国までも距離しか書かれてない
実際には邪馬台国にも行ってないし卑弥呼にも会って無いように感じるね
邪馬台国=ヤマトであるという前提・思い込みが、邪馬台国の研究を歪めている
>>1 海外では十数万人が1ヶ月ほどで大勢亡くなられた
医療関係者や有名人も
今年に入ってからは予想のつかない事態が起きている
今年は異常な年だ
本当にもう気を緩めて大丈夫なのか?
連休と言えば旅行や越県外出も多く
行楽地など人出が重なり、渋滞混雑する
感染爆発、医療崩壊の原因になるが
本当に自粛解除していいのか?
>>819 ID:RUnvwJ2Rです。
ID:l/ynibrEは、日本語がわからない人みたいだから
無視ですね。自分の書いたことは、全てに理解されていると
勘違いしている痴呆と思います。一人よがりで読解力がない人みたいです。
無視がいいですね。サンクスです。
魏志倭人伝は
1 伊都国基点の放射読み
2 水行十日陸行一月は水行十日陸行一日の単なる写し間違い
邪馬台国は卑弥呼の時代は御井(邪馬台国は移動している)
帯方郡から伊都国まで10500里ほど
伊都国から御井まで陸路で1000里ほど
ピッタリ
※魏の使いは二回来ている
一回目は恐らく倭国大乱の余韻が残っていて物騒だったから魏の使いは伊都国に留まり
不弥国と奴国は近くだから分遣隊を派遣し
邪馬台国と投馬国は遠いので倭人からの伝聞を書いた
(隋書に東夷の人は里数を知らない、ただ日を以って計っているとある)
二回目は邪馬台国まで行っている
距離が日を用いたものと12000余里との二種類あるのはこれが理由
>>822 全てを疑えですよね。
二十四史東夷伝や南西伝
距離がくせもの、現代みたいな精度ではないことは、当然のことですが
当時の律令、尺斤法(日本では尺貫法にあたる)に合わないのが
あり、確認が必要です。方角に少しズレはありますが
90度 間違うような、大きな間違いは、ほとんど私の調べた範囲では、ありませんでした。
邪馬台国はヤマト国で山門国のこと
邪馬台国の発祥の地
(邪馬台国は移動している)
カムヤマトイワレヒコ(神武)
カムは神。井沢の説で良い。王朝の始祖と言う意味。
ヤマトは邪馬台(山門)。
イワレは謂れ。
ヒコは王。
神武は近畿がヤマトと呼ばれる謂れとなった王であり、王朝の始祖である、
と言う意味。
言い換えると、神武以前は近畿はヤマトでは無かった。
邪馬台国(山門国)は九州。
>>825 私もそう推測します。
魏の使いは最低でも二回来ていると思う。
1里て何メートルだろうか?
直線距離なのか、曲がった道、迂回した距離等の累積なのか?
或いは、その両方の組み合わせか?
>>824 おまえが理解できないのは、おまえの知識不足
おまえが書いた文章が意味不明なのは、日本語が不自由なことに加えて、
知識不足からくる頓珍漢な解釈をしてるからだ
>>830 約100mやね
それもいつか言うよ
一里=三百歩だから百余歩は30mくらい
だから箸墓は卑弥呼の墓ではない
魏志倭人伝で言う末盧国は呼子やね
んで伊都国は志登支石墓の付近
不弥国は能古島
奴国は野方遺跡だね
魏志倭人伝で言ってるのはそれぞれその国の入り口のことで本丸ではない
呼子〜志登支石墓が約50km
志登支石墓〜能古島が約10km
志登支石墓〜野方遺跡が約10km
そしてこれらはどれも餘(ここでは約の意味)がついてないピッタリの500里、100里、100里で、
かつどれも近距離で、
かつ真ん中以外は陸路だから正解
巨大化前の時代だから、
墳丘墓、30mは大きい部類。
「徇葬者奴婢百餘人」の解釈にも異論ある、
徇葬者であって殉葬者ではない点、
魏志に「始死停喪十餘日,當時不食肉,喪主哭泣,他人就歌舞飲酒。已葬」
殉葬する文化、慣習がない。
>>834 確かにそう、狭い。膨大だからね。
限界だな。、データ持っているサイトないかな?
本来、近畿説を取る人が集計するべきなんだけどな。
すでにあり、不利になるから出せないかも?
>>835 イミフ
徇死と殉死は同じ意味
卑弥呼にことさら殉葬者が多いのは卑弥呼自身が自ら死を選んだから
張政らが檄を飛ばして「卑弥呼以って死す」の有名な箇所があるが、
あれは古来より意味が分からないとされて色々な珍解釈が散々行われた部分だが
あれは実はそのまま読めば良い
卑弥呼の時代には巫女はなるべく残虐な殺され方をしたら霊力を高めて生まれ変わって来るという迷信があった
腹を四方から矢で射られて惨殺されている巫女のミイラとかが残っている
卑弥呼は皆既日食が起こったことで恐慌状態に陥っていた
ここで張政らから「倭国が乱れている しっかりしなさい」と檄をとばされて
「分かりました 死んで霊力を取り戻して来ます」と言って
自分で陰部を矢で射らせて死んだんだよ
天の岩戸の神話でスサノオにおどかされてビックリして梭でホトを突いて死ぬ巫女が出て来るだろ
あれは卑弥呼のことだ
邪馬台国はどこ?
1位:九州説 54.4%
2位:近畿説 35.7%
その他 9.9%
閑話休題
大河ドラマの人気は解らないが 人は成功物語を好むもの
織田信長の比叡山焼き討ちは当時の社会タブーを破るもの
天皇や公家の子弟が荘園持参で生活していた比叡山 触らぬ神に祟りなしで放置されていた
しかし 信長の性質から見れば存在は許されなかった
いとも簡単にタブーを破る信長への恐れは大きく アホで旧態依然の思考しかできない明智を唆し信長を暗殺させた
>>839 一般人の人気投票かよ
九州説は学問を諦めてエンタメ路線でガンバレ
>>842 お前ら近畿パーは自己紹介しかしないよな
本当低脳が
九州説は面白いけどアクロバティックすぎて正直厳しいんじゃね?
それこそ何の証明もない気がする。
1世紀に九州が権力を持っていたのは明らかだが
その後、大和に権力を奪われた時期があいまいなところが一番致命的だな・・・
>>845 アクロバットやって骨折してるのはお前ら近畿パーwwwwwwww
九州説の主流であるオレの説は、単に自然な解釈をしているだけ
九州説の唯一根拠がでたらめ倭人伝だからな、ご愁傷さま
倭人伝否定するなら
そこに書かれてる邪馬台国も否定されるわけで。
>>838 やっぱ
漢和辞典等で調べるとそうなるよな。
明治天皇追って、死んだ乃木大将みたいだったら、幾分、救われるが
そうでもなさそう。
皆既日食、金環日食は近畿、九州では見られないと思う
部分日食じゃないの?賛否両論
拝借
http://www-cr.scphys.kyoto-u.ac.jp/member/koyama/tenmon-kaido/siryo2/hiniko-ecli.pdf それとも、卑弥呼、老体ながら、朝鮮半島南部、
出兵(三韓征伐)していたとか?それを引き継ぐトヨ、さらに続く女王がいたかもしれない。
宗像三女神とか?卑弥呼一族3代に集約させたのが神功皇后とか?
想像だが興味が尽きないな。
纏向遺跡調査結果
・桃の種
・カエルの骨
・古墳建造スタッフ用の食堂
・定住するための住居無し
・東海産飯炊き土器
・東日本に多い仮面文化
畿内説とは、希望的観測の集合体であり反日韓国人と同様に印象操作で歴史を捏造する計画的犯行です
>>840 元号を改元させたという話もあるから
元号決定権までも信長は手に入れようとしていたかも知れない。
天皇の全ての古墳を破壊、埋蔵物を資金源にとか、築城に使うとか?
あるいは、古墳を調査し事実を暴露し天皇史の失墜させたかも知れない。
フェクションだが、卑弥呼の墓が
朝鮮半島と中国の堺にあり、秀吉(関白)出兵、その後
明治政府の征韓論、朝鮮併合も奪回が理由のひとつ。
日食でいうと、146年8月25日、158年6月13日、金環、皆既が近畿地方で
168年12月17日に九州山陰山陽、四国の一部を除くである。(金環)
近畿で生まれ、九州で育ち 女王につく(22歳、10才)。死んだ247年とすると
(101才、89才)、殉葬者は100人程。
北部九州で畿内式土器(制作は九州)が出土したが、畿内では北部九州の土器は出土しない。
これは、畿内で発生した飢饉を逃れ北部九州に移民した畿内民族が居たことを示している。
なお奈良纏向では九州産の土器はほとんど見られず、東海産が大半を占めている。
■纏向遺跡出土土器の産地
伊勢・東海系:49%
北陸・山陰系:17%
河内系:10%
吉備系:7%
近江系:5%
関東系:5%
播磨系:3%
西部瀬戸内海系:3%
紀伊系:1%
■新羅本記
173年:倭の女王卑弥呼が使者を送った
193年:倭人が飢饉。避難民が新羅へ押し寄せる。
■当時の気候
「3世紀〜4世紀は海面温度が下がり、寒冷化だけではなく干ばつにも見舞われたと考えられる。」
「名古屋大学の中塚武教授は、卑弥呼登場前の時代は大雨や旱魃が繰り返された不安定な気候の時代であったという。」
■これに対する考古学者の見解
「飢饉が続いたために、銅鐸を用いた過去の祭祀を捨て、新しい宗教をひっさげて卑弥呼が登場した。それが卑弥呼の鬼道だと石野氏らは解釈する。」
※畿内説ありきの妄想発言
邪馬台国所在地論争に、終止符か
女王卑弥呼に率いられた邪馬台国がどこにあるかは、古代日本をめぐる一大ロマンでした。
その所在地については、京都大学の学者たちは畿内説を主張し、東京大学の学者たちは九州説をとなえて、論争にまで発展しました。しかし最近では、畿内説のほうが有力視されています。
https://news.infoseek.co.jp/article/president_33955/ >>858 多角的視点が必要↓
中国の史書によると、後漢時代の倭国は100国あったが倭国大乱が起こり、魏の時代は女王国の30国としか交流が無いと書かれている。
倭国は何らかの理由で分裂したものと考えられる。
■邪馬台国連合=女王国30国(親中派?)
魏志には「倭人が半島まで鉄を採りに来ていた」と書かれおり、日本の弥生遺跡の鉄器の出土量が一部に集中している事から、倭国大乱は鉄の利権争いだった可能性もある。
■狗奴国連合=男王派70国(独自路線重視?) → のちのヤマト王権

※丸で囲まれた地域
(4世紀末には奈良に渡来人住居が立ち並んでいた)
旧唐書によると、日本国の使者は大変放漫で礼儀知らずだった模様。
また、日本国(ヤマト)は小国だったが倭国を併合したと発言していることから、倭国と日本国は別国だったという認識を持っている事が伺える。
>>852 お前がどう思うとか関係ない
皆既日食は二回あった
一回目は日本では見れなかったが二回目は見れた
三韓征伐は作り話し
ヤマトタケル、神功皇后、武内宿禰の事績は捏造だらけ
特にヤマトタケルは兄殺し以外は多分全部捏造
>>859 倭国大乱は奴国が盟主の福岡平野側と
邪馬台国が盟主の筑紫平野側の勢力争い
恐らく巫女の誣告が発端
奈良は、戦争を避け逃げてきた人(渡来人も含む)が開拓したところ。
証拠は、鉄器が少ないこと、近畿〜東海、農業が発展。古墳が多いのは開拓の多い証拠
墓ではない古墳もたくさんある。
>>856 その近畿で生まれってのはイミフ
妄想は不可
>>866 妄想は自由だから気にせず、
全て、日食に結びつけただけ。
朝鮮南部で死亡
大和政権は、桃太郎物語。
どんぶらこと逃げてきた、初めは小さいが
農地開拓で、経済力をつけ、どんどん家来をつけていく。
犬猿の仲や空を飛ぶ奴(情報収集)味方につける。
で、西国の鬼退治。でも元々仲が悪い犬猿、住む世界が違う雉
のちの蘇我氏、物部氏等の戦いになる。
神功皇后は朝鮮で仲哀の妾 自分が生んだ応神を首領とすべく 仲哀の正妻の子を殺した
武内宿禰は偽りの和睦を結び偽の武器をを捨ててみせ 相手が同じことをしたとたんに本物の武器をだして勝利した
さんかん征伐というけれど 単なる里帰りにすぎない
倭国大乱の前に疫病が流行ったんだよ
発生源は今も昔も中国
それで暴動が起きて、九州の人口が8割減った
畿内の勢力が支援物資を送って直接統治することになった
それが一大卒ね
鉄器が出てくるところは、殆ど豪族で、抑えられている。当然、新天地は、農耕器具は、木製が多い
土器も、逃げるのに荷物になる土器などもっていかない。地元生産や近郊持ち込みが多い。
九州は、ほとんど生食に近い。(魏志では、蘇が出てこない。)
近畿・東海連合(大和政権)は毛人から、
蘇(南史にあり)や渡来人から発酵食で保存食を手に入れる。
当然、戦力に大きな影響ある。腹ペコ兵隊あさり降伏
九州説がイマイチな点はいろいろ有るけど、
古墳時代、大和のあとから前方後円墳が作られるようになった(しかも小規模なものばかり)
という事実をうまく説明出来ないことだよな。
いわゆる大規模古墳はすべて畿内。大王級の墓が九州で見つかればねぇ・・・
>>872 別に大きい必要性はないよ。いち九州倭連合だからね。
大和政権が九州まで及んだ時期だから遅れる当然
畿内は、大開拓地、水路、道路とインフラ整備
大量の土が出る。それを墓や祭りごととして利用した。
墓ではない古墳もある。力や勢力圏を誇示するように変化してきただけ。
紀元前1000年頃 稲作が九州で始まる
紀元前660年頃 神武が稲作を畿内に持ち込み橿原を拠点にする
紀元前500年頃 孔子が神武の噂を聞き「筏にのって大和に行きたい」と発言
57年 奴国が金印を貰う
107年 倭面土(ヤマト)王の帥升が生口を贈る
重要なもんは、卑弥呼の遺体、殉教者、魏から贈られたもの
金印、銀印、封泥、鏡、書(竹簡、木簡)等だね。
あと外国文献との照合。隋書、旧唐書、新唐書等だな。
近畿説には、東夷伝 旧唐書、新唐書等についての見解がない。
>>872 そこで赤村の前方後円墳ですよ
巨大です
自然の地形だから年代を推定できるものが何もなく、逆に言えば考古学に縛られることがない
年代設定も自由自在
418年 倭国により日本列島が統一される 現在の鹿児島より青森まで
180年頃 古代コロナウイルスが朝鮮半島経由で九州上陸し九州の人口が激減
180年〜190年頃 倭国大乱
190年〜200年 四道将軍派遣(九州に一大卒)
200年〜240年 戸籍を作り、大和が国々の市を管理し税をとる
238年6月(景初二年) 卑弥呼が魏に使いを贈る
239年(景初三年) 年号を入れた銅鏡を制作、邪馬台国に贈る
>>850 いやいや全く逆
九州説は魏志倭人伝に不一致だらけ矛盾だらけだよ
九州説信者がやってることはこんな感じ
・魏志倭人伝の記述を捻じ曲げ、歪曲し、倭人一般の風習を邪馬台国のことだして九州説の根拠にする
鉄がー、絹がー、と邪馬台国と無関係なものばかり持ち出すのがいい例
・一方、邪馬台国について書かれた部分はことごとく不一致になるからガン無視
30国の連合も、7万戸も、2ヶ月の行程も、径百余歩の墓も、投馬国5万戸も、そして邪馬台国という国名も全部無視
>>872 他にもいろいろあるね
九州に邪馬台国を想定できるような遺跡がないのはよく知られていること
あと、伊都国と奴国以外に、3世紀の九州には中国との交流痕跡がない
九州説って魏志倭人伝と不一致なのに、九州には候補になりえる遺跡もなく、中国と交流した形跡もない
こんな状況で九州説を唱える思考回路がまったくわからん
>>881 おまえ、824で無視すると言ってたことをもう忘れたのか?
そもそも、おまえは真っ正面から議論するつもりは全くないだろが
おまえの議論の仕方
・反論できなくなると、論点ずらしのレスと逆質問ではぐらかし
・反論できなくなると、意味不明と切り捨てる(反論できないバカが議論を打ち切るときの常套手段)
・相手が言ってもないことを捏造し、それを批判
こういう卑怯なやり方を何度も指摘したぞ
失せろゴミ
九州が主役だったのは2世紀まで
倭国大乱の時期を挟んでパワーバランスが変わり、畿内が台頭してきた
衰退して中国にも相手にされなかった九州に邪馬台国があったはずがない
>>872 お前がイマイチなだけwww
そもそも九州倭国では大規模な古墳を作る習慣が無かった
とても分かりやすい例が吉武高木遺跡
最古の三種の神器が出土した超ド級遺跡だが、ただの平坦な集合墓
九州からは対馬が見えて、対馬からは朝鮮半島の陸地が見えるのが大きいんだよな
当時の航海技術を考えれば、対馬経由で大陸に渡れるのは九州の圧倒的アドバンテージ
>>890 九州の地理的アドバンテージがなぜ九州説に有利なのか不明
不明というより根拠になっていない
考古学的事実を無視してオール九州連合みたいなのを空想してるだけだろうけど
奈良盆地の纒向が消滅した後に新たな渡来人が入植
■最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
「建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、
最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と
考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。」
「同町では、朝鮮半島式の床暖房装置(オンドル)を
持つものを含めて約40棟見つかっている。」
「白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長は、
建物の時期についてはさらに検討が必要としながらも、
(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが
営んだ重要な施設があったことは間違いないとみている。」
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html 畿内説がこれに関連付けるとしたら纒向ではなく、葛城を選ぶべきだな
隋書の邪摩堆をヤマトと読みたいのであれば
>>886 それは古田信者の敗北宣言と受け取っていいか?
卑弥呼の墓は径100歩の大きな墓と明記されている
九州には大きな墓を作る習慣がないということは
卑弥呼の墓は九州にはないということだね
>>875 唐会要もだよ
一番端的に畿内じゃ無いと分かるのが実は唐会要
『隋書』
>倭國、・・・・・都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。
>倭国は、・・・・・都は邪靡堆、魏志の説に則れば、邪馬臺というなり。
『唐会要』
>倭國東海嶼中野人。有耶古。波耶。多尼三國。皆附庸於倭。
>北限大海。西北接百濟。正北抵新羅。南與越州相接。
>倭国は東海の小島の野人。耶古、波耶、多尼(ヤコ(屋久島)、ハヤ(隼人)、タニ(種子島)の三国がある。いずれも倭に従属している。
>北は大海が限界、西北は百済と近接し、正北は新羅と抵触、南は越州に相見える。
>北は大海が限界
>正北は新羅と抵触
この箇所より、少なくとも邪馬台国は近畿では無いことが確定する。
なぜなら、近畿から見て、日本海が「北」で新羅が「正北」なわけが無いから。
これは明らかに九州+任那を倭国とした表記である。
またそのほうが耶古、波耶、多尼が倭国の従属国であるという記述とも合致しやすい。
>>894 短里で100余歩とは30mくらい
だから祇園山古墳でバッチリ
祇園山古墳は三世紀では北部九州で最大規模のもの
これも魏志倭人伝の記述とよく合う
なんか分かってない人が多いみたいだから教えてあげる
・魏志倭人伝は魏の時代
・旧唐書や新唐書、唐会要は唐の時代
について書かれているんだよ
魏の時代と唐の時代が全然違うのは分かるよね
唐の時代ってのは菅原道真が大宰府に左遷された時代だよ
なんか分かってない猿が多いみたいだから教えてあげる
・隋書は隋の時代
・旧唐書や新唐書、唐会要は唐の時代
について書かれているんだよ
隋の時代と唐の時代が余り違わないのは分かるよね
九州論者「大仙古墳が糸島に有れば・・・ギギギギ」
畿内論者「倭国大乱で大和王権に負けた伊都国ショボ過ぎだろ」
九州論者「」
九州論者「九州には大宰府がある!一大卒!」
畿内論者「大宰府は飛ばされたら反乱を起こしたくなるレベルの左遷先」
九州論者「」
祇園山古墳は三角縁神獣鏡が出ちゃってるからねー
大和の傘下だよ
妄想楽しいやんw
外交が婚姻を元になされていたとすると、
九州のお家騒動に同盟国が介入して、卑弥呼を共立したってことじゃね。
ヤマトの王権がヤマトを名乗るのも、中国側に通りが良かったからとか。
基本的にエライ学者が言ってる事もここで書いてる事も妄想でしかない
もちろん自分も妄想の範囲を出てない
邪馬台国を特定するには真実の部分と嘘の部分を精査する必要がある
残っている文献や発掘で分かった事がどこまで信用出来るのか?
魏志倭人伝もすべて真実とは限らない特に最後の方の距離と方角は怪しい
畿内説が否定証明済みなのは妄想ではないのでした
残念
はい、論破w
>>907 当然だな。中央政権時に持ち運ばれた
卑弥呼、トヨの時代より後、4世紀頃ごろ。
移動できるもんは慎重に調査しないと、あるだけじゃ確実な証拠にならない。
>>902 じゃ、700年以降の古事記、日本書紀
を引用、参照にする
近畿、九州説は猿なんだね。
存在しないと書いたくせに、「夏至・冬至は正しい、他は間違っている」と書いた阿保か
ID変わるから書いてしまいました。
阿保相手にかいてスマンな。阿保さん
>>914 そうか?スマン。
近畿説の嘘か?
でもやりそうだな。近畿さんが埋めたりしそうだな
>>916 ごめん間違えた
涙拭けよただのアホwww
畿内説支持で捏造していた人がいたからな。
慎重に、慎重に。
>>920 あのね
畿内説は否定証明済み
>>670 だから邪馬台国畿内説はことごとく全て捏造だよ
>>911 わざわざ、後の時代に墓を暴いて三角縁神獣鏡を入れたって言うの?
ありえないでしょ
>>922 調べてみたら、出土じゃなくて、伝わるだった
近傍の高良大社に出土品と伝わる三角縁神獣鏡
鵜呑みにできない。
天皇権威示す為、
社殿を建てた時が怪しい
出土した事にしたかもしれない。
考古学会の予算の割振り
てどうなっているのだろうか?
日本の場合そもそも記紀が捏造だらけ
少なくとも
・神武東征
・「倭皇」への国書(実際は九州の倭王への国書)
・天孫降臨
・ヤマトタケル、神功皇后、武内宿禰の事績
これ全部捏造
だから近畿パーが調子こいてマネして捏造するわけだけど
記紀が捏造だらけなのは当時の世界情勢から仕方のないことだった
そんなことを現代社会でいつまでもやっていたら学問が破綻し、日本も破綻するよってこと
歴史捏造に必死な悪質な畿内説の人が居ます
ご注意下さい
536 日本@名無史さん 2020/04/27(月) 16:57:00.99 ID:
>>534 >柵の下から出た桃の種で壮大な妄想を繰り広げるが誰からも相手にされない畿内説あわれ
そんな世迷い言を呟いてるのが
世界に自分一人だけだって
自覚ある?
無いなら付ける薬がない
纏向の桃の種が祭祀の貢物だとか言い張ってる桜井市のバカかw
桃の種が発見された場所からして建物とは無関係
同じ場所で蛙の骨や銅鐸の破片も出ている
つまりゴミ捨て場w
纏向の出土品を並べてみりゃわかるが、実際は東海伊勢政権が建てた古墳建造作業員の食堂と彼らの残飯w
それが現畿内説の心の支えw
壬申の乱以降 672年以降
白村江での敗戦により弱体化した倭国で奈良政権側の略奪が盛んに行われた
建築物も解体移築の憂き目を見る 観世音寺は法隆寺へ 日出るところの天子で有名な多利思北弧を写した像も運ばれた
他には川原寺 興福寺金堂 東大寺三月堂など多数
倭国の廃寺は殆どが移築された
九州説って考古学だけでなく、古代史に関連するあらゆる自然科学も否定しないといけない
かなり厳しいな
否定しないよ、当時の常識だし、宇宙観だからね。
天動説も仕方ないよ。自分が当時の人間だったら、
地動説唱える人をキチガイ扱いしているかも?
博多山笠は倭国の建築物を解体移築したときに始まったと思っています
到着が堺でだんじりがそうかもしれません
倭人伝のクシ国が今の櫛田神社あたりではないかと 山笠との密接な関係も
畿内説って考古学だけでなく、古代史に関連するあらゆる自然科学も否定しないといけない
かなり厳しいな
邪馬台国畿内説は、否定証明完了済み。
卑弥呼の居た三世紀半ばは西日本は近畿や吉備や出雲などの有力な豪族が割拠し、緩やかに連合していた時代で、どの勢力も他の勢力を軍事的に統括出来ずに居た。
これは古代日本史の完全な定説で、誰も異を唱えるものなど居ない。
しかし、邪馬台国の命令で奴国などの北部九州を軍事的に統括していた伊都国は北部九州にある。
つまり、近畿に邪馬台国があったと主張することは、近畿は自分の周辺すら軍事的に統括出来ずに居るのに、中国地方をすっ飛ばして北部九州は軍事的に統括出来たと主張することになる。
これはバカが言う説であり、もはや学問の体を成していない。
邪馬台国畿内説は立論の段階で失敗しており、学説として成立していないただのファンタジー。
はい、論破w
やまとととひももそひめ「わたしのおはか。わたしのおはか」
>>916>>920
この日本語不自由バカ、今度は人のレスを捏造呼ばわりしやがる
しかも「夏至・冬至は正しい、他は間違っている」と書いたことと何がどのように矛盾するかも示さずにだ
卑劣極まりないクズ人間だな
文献では邪馬台国を特定出来る証拠が無いので邪馬台国を証明する事が難しい
また移動出来る出土品は発掘されても証拠とするのはこれも出来ない
しかし卑弥呼の墓は移動出来ないのである程度期待出来る
墓の大きさと殉死者が100人程度埋葬されているかの2点ある
まあ墓がみつかれば邪馬台国もその周辺だと考えられるから
だいたいの邪馬台国の場所は特定出来る
現在発掘された遺跡でもっとも条件に合うのはどこなのか?
>>939 墓の大きさも、人によって解釈いろいろ
建造物さえ、時の政権が壊したり、埋めたり
中身だけ奪って、自分のところへ移動したり
と色々だな。古墳取り壊して、築城に利用もある
確定は難しい。卑弥呼の遺体、殉死者、文献にある埋蔵物等
墓を位置や大きさは、そのままの状態で残っていてほしいがね
遺体はミイラ状態が望ましい。
■【弥生時代】邪馬台国所在地論争に、終止符か
女王卑弥呼に率いられた邪馬台国がどこにあるかは、古代日本をめぐる一大ロマンでした。
その所在地については、京都大学の学者たちは畿内説を主張し、東京大学の学者たちは九州説をとなえて、論争にまで発展しました。
しかし最近では、畿内説のほうが有力視されています。
奈良県桜井市にある纒向(まきむく)遺跡の発掘調査が進むにつれ、卑弥呼時代の大型建物の遺構や遺物が次々と発見されているからです。
纒向遺跡は、箸墓(はしはか)古墳など初期(3世紀半ば以降)の巨大な前方後円墳がいくつも集中していることから、ヤマト政権(初の全国政権)の発祥の地といわれていた場所です。
ですから、この地におそらく大きな集落あるいは都市のようなものがあり、それが邪馬台国で、そのまま発展してヤマト政権になったのではないかと考えられています。
https://news.infoseek.co.jp/article/president_33955/ >>940 卑弥呼の墓は御井の祇園山古墳だね
確定
>>941 畿内説は否定証明済み
>>670 はい、論破w
現在残ってる古墳では祇園山古墳がやっぱり有力なのかな
大きさや殉死のような埋葬があって確実な出土品に漢の鏡や勾玉や鉄器も出てる
場所もまさにまほろばと言える高台にあり邪馬台国が栄える位置としても申し分無い
ここ以外に大きさ地理条件や出土品で同じかそれ以上の条件の古墳ってあるのかな?
ここまでのまとめ
一 畿内説は否定証明済み 可能性は完全にゼロ
二 東征も東遷もない 考古学的に否定された
三 卑弥呼の墓は御井の祇園山古墳
以上は確定事項
魏志倭人伝は、
1. 伊都国基点の放射読みが正しい。
2. 陸行一月は陸行一日の単なる写し間違い。
よって、邪馬台国は伊都国から水行十日陸行一日で、これは筑紫平野のどこか。
また、筑紫平野の御井には祇園山古墳があり、これは全て魏志倭人伝の記述とピタリと当てはまる遺跡で、大きな矛盾は全く何もない。
つまり、卑弥呼の墓は御井の祇園山古墳であり、
邪馬台国は御井である。
>>947 祇園山古墳を卑弥呼の墓とした場合に
邪馬台国か卑弥呼の住んだ村はどこが有力なのかな?
風水とか関係あるのか?鬼道で方角が解るのか?
当時の風習が解ればある程度位置の特定が出来るのかも
1. について
魏志倭人伝では伊都国の紹介のあとすぐに全ての郡の使いがここに駐留すると明確に書いてある。
駐留すると言ってるんだから、それ以降を伊都国を基点として放射読みするのは
あったりまえ。
2. について
十日だの二十日だの書いておいて、三十日だけ一月と書くと言うことは、駢儷文の観点から言って100%無い。
また、三世紀などという時代には川にはロクに橋が架かっておらず、陸行一月できる場所は事実上物理的に存在しない。
そのような長距離は必ず水行するのであり、これは本居宣長が畿内説を否定した根拠でもある。
つまり、陸行一月は誤り。
百済伝で「其南海行三月有耽牟羅國」と書かれているものがあり、
耽牟羅國は済州島のことなので百済から三ヶ月も掛かる訳がなく、三日の誤植とされている。
このようなケースも実際ある。
梁書の倭人条は魏志倭人伝をほぼパクって作ったものだが、これには陸行一月日とある。
つまりこの当時すでに陸行一月の資料と陸行一日の資料とが両方あったのだろう。
陸行一月は陸行一日の単なる写し間違いである。
祇園山古墳は
1. 三世紀の造築
3. 北部九州ではこの当時最大級の規模のもの
4. 棺があって槨が無い(棺が直接埋まっている)
5. 朱が使われている
6. 前方後円墳などではなくありふれた方墳である
7. 径が30m弱で短里制では丁度百余歩になり大きさがピッタリあう
8. 100名近くの殉葬者がある
9. 位置が魏志倭人伝の記述とピタリと合う
また逆に、このように魏志倭人伝の記述と次から次へとバチバチ全部当てはまる古墳は、祇園山古墳以外全く存在しない。
卑弥呼の墓は祇園山古墳で間違いない。
※尚、前方後円墳は卑弥呼の墓では絶対に無い。よって箸墓は卑弥呼の墓ではない。
何故なら、中国人は埋葬のされ方に非常に興味を持ち、一々記載している。
前方後円墳は朝鮮半島南部と日本にあるだけで中国には全く存在しない形のもので、
三世紀は前方後円墳が作られた始めたものだから、箸墓のような大規模かつ見たことの無い形の墓を、
本国へ報告義務がある中国からの使いが目にしたとき、その形について言及しない可能性など全くゼロと言ってよい。
前方後円墳は卑弥呼の墓では無い。
>>950 伊都国が糸島半島なら九州の中だけで考えると
条件としては理想的で鉄鏡の出た日田の手前だから納得できる
日田は大陸や他から攻められた時に逃げ込む最終防衛線だよね多分
卑弥呼がいた村について考えてみたけど
村から見て北や南は無いと考えると朝日の登る位置に墓を建てたかもしれない
地図を見ると祇園山古墳の西に筑後川と宝満川挟まれた中洲がある
ここって防衛や交易を考えたら良地だよね
>>952 後の時代に日本や朝鮮半島にあるいずれかの前方後円墳って中国からの遣いによってその形状をどのように表現されたの?
>>953 御井は筑紫平野の軍事拠点なんだよ
平野のど真ん中に食い込むように山があるでしょ
だから狗奴国との戦乱に備えるために
卑弥呼の時代に山門から引越したわけね
>>955 語呂合わせは好きじゃないけど 山門>大和 読み出来るんだよね
あの位置ならいろいろ事に対応出来るし米も沢山採れたから兵士を養うのも楽だったろうね
宝満川も結構条件いいね
川沿いに上れば筑紫野市で下ればすぐに博多湾だ
当時も今同様に川沿いに道があったと思うから
伊都国との連携も楽に行えるこれ以上の条件は中々無かもね
邪馬台国は卑弥呼の後にさらに甘木・朝倉地方へ移動している
これが安本美典の言う邪馬台国
東へ東へと移動しているから、狗奴国からの圧迫が相当つよかったのだろう
最後は恐らく奴国と融合して太宰府に都を作った
これが倭京
邪馬台国はここで滅んだ
九州説は卑弥呼の墓の候補をまず出すべき
話はそれからだよ
邪馬台国の方は高天原だの天だのアマテラスだので偉そうだけど
実際に行政行為を行なっていたのは隋書にあるように
奴国王なわけね
邪馬台国のほうはあっちちょろちょろこっちちょろちょろ
現実ってこういうもん
孔明の身長が八尺なんだけど、九州説によると40センチになる
さすが九州説。妄想のスケールが半端ない
女王國東渡海千餘里
もう一つは、宇佐だな。現ある古墳は、卑弥呼存在を消す為に造る
畿内説:孔明は192センチ
九州説:孔明は40センチ、キリッ(本当はニチャア)
>>965 これを基に、帯方郡から
距離求めるてごらん。おかしな事がおきる。
尺が、一定じゃないんだよ。
国、時代によって変化する。当時に国際基準てないだろー。
時の権力者が決める。だから、東夷伝読むとき、距離の注意が必要。
九州説とったのは、測量の観点から。
使者も数回、交易もさかんなのに、方角が間違いと言う近畿説
でお得意の北海道が南になる朝鮮が書いた図、一枚。阿保だよ
畿内論者「九州説は否定証明済み!」
九州論者「ギギギギギギ」
帯方郡から直線距離で短里で近畿まで行く。
実際は、曲がりくねた道や海路通るからさらに長くなる。
近畿説の尺を取るとさらに苦しくなる。
なんで気が付かないんだろう?
九州説の祇園山古墳はかなり条件もあってるから納得できるけど
畿内説の人はどこが卑弥呼の墓で邪馬台国はどこにあるのか推測で良いので教えて欲しい
何かしら説明が無いと説得力が無い
エライ学者が畿内説だとかも誰がそう言ってるのか解らないから参考にならない
そう言う事が説明できないと畿内説が嘘にしか聞こえない
>>971 孔明が40センチがおかしくない、ということね
ついていけない
>>945 祇園山古墳は大きさも形も年代も魏志倭人伝と全く合わない
祇園山古墳に殉葬の跡があると言ってる研究者も一人もいない
もちろん祇園山古墳が卑弥呼の墓と言ってる研究者は一人もいない
九州説素人連中のタワゴトに過ぎない
>>978 近畿てばかだな。
換算で47尺位になるだけだよ。
三国史・・・・・・・朝鮮半島南「狗邪」は「倭国の北限」
宋書倭国伝・・・・・朝鮮半島は倭が支配している
広開土王碑・・・・・倭国が海を渡り百済と新羅を臣下にした。
日本書紀・・・・・・「391年 神宮皇后が百済と新羅を日本領土とした。」
宋書・・・・・・・・倭国が朝鮮半島南部を領地にした。
随書・・・・・・・・倭国は産物も豊かで鉄の鏃で武装した軍隊を持つ。百済と新羅は倭国を大国として敬った。
朝鮮南部に日本式古墳がある、半島南部は古代から日本領地なのは世界の常識。
>>979 祇園山古墳は大きさも形も年代も魏志倭人伝と全部合う
祇園山古墳に殉葬の跡があると言ってる研究者も沢山いる
もちろん祇園山古墳が卑弥呼の墓と言ってる研究者も居る
畿内説素人連中のタワゴトに過ぎない
ところで畿内説は否定証明済みw
三国史は、漢の尺、魏の尺の両方使ているだけだよ。
一方に決めると矛盾するだろ?
近畿説も九州説も。
短里とか言ってるのは九州説が月刊ムー以下のトンデモと宣伝してるようなもの
もっと強硬に主張して自らの手で、九州説=トンデモを確定させてもらいたい
>>980 まったくもって意味不明
陳寿が三国志の中で孔明は八尺と書いているんだよ
魏志倭人伝は三国志の一部なんだけど
>>985 涙拭けよ否定証明されちゃってる近畿パーww
祇園山古墳のwikipedia
>宝賀寿男や地元研究者などにより、この古墳を邪馬台国の卑弥呼の墓ではないかとする意見がある[3]。
ん?
お前日本人じゃないな
日本語おかしすぎるし、三国史って書くのは三国史記の影響か?
村下, 要助「卑弥呼の墓は祇園山古墳」『邪馬台国は決定した(前編)』有峰書店新社、1986年12月15日、107-117頁。ISBN 4870451654。
国立歴史民俗博物館「共同研究「日本出土鏡データ集
>>990 涙拭けよ日本語も頭もおかしいうそつきチョンw
尺は度量衡で定義されており、
微妙に変化しているが大筋は変わらない。
里、歩は定義されておらず
地域、時代で大幅に変化し
様々な里がある。
日本でも戦国時代以前は一里533m
戦国時代後で約4kmと
記録に残ってる範囲では
魏の時代の里は使われたことがない。
いろいろ挙げてるが研究者が一人もいない
素人は研究者と呼ばない
畿内説は否定証明済みである以上
畿内説論者はただのウソつき野郎
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