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アンパンマン強さ議論スレ Part2 ->画像>1枚


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1格無しさん
2017/11/07(火) 18:09:08.49ID:kIZBvp15
前スレ
アンパンマン強さ議論スレ
http://2chb.net/r/anichara/1240894358/
2格無しさん
2017/11/16(木) 13:30:50.13ID:J3ZhIbpG
今月の生活費が足りないかも…
急な出費でお財布がカラッポ…
リアルに一か月一万円で生活しないとやばい!
借金の返済が立て込んでどうしようもない!

そんなアナタのお金の悩み、相談はエスティーエーで
3格無しさん
2017/11/16(木) 13:32:20.76ID:J3ZhIbpG
今月の生活費が足りないかも…
急な出費でお財布がカラッポ…
リアルに一か月一万円で生活しないとやばい!
借金の返済が立て込んでどうしようもない!

そんなアナタのお金の悩み、相談はエスティーエーで
4格無しさん
2018/02/04(日) 13:29:35.37ID:o2gAc7M7
ドキンちゃんの新しい声は慣れる事はないな
ミニーちゃんみたいにモノマネ路線にすればよかったのに

みんな歳なのに無理しすぎだぜ!
5格無しさん
2018/02/07(水) 10:42:11.20ID:rXXH1lSu
確実にどんな人でも可能なパソコン一台でお金持ちになれるやり方
念のためにのせておきます
グーグル検索⇒『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』

4O597
6格無しさん
2018/03/31(土) 13:51:10.30ID:hw/V1Voj
アンパンマン歴代主題歌まとめ〜youtube動画リンクを作りました〜
http://youtubelib.com/anpanman-songs

1.1 オープニングテーマ編
1.1.0.1 1. ドリーミング『アンパンマンのマーチ』
1.2 エンディングテーマ編
1.2.0.1 1. ドリーミング『勇気りんりん』
1.2.0.2 2. ドリーミング『クリスマスの谷』
1.2.0.3 3. CHA-CHA『アンパンマンたいそう』
1.2.0.4 4. ドリーミング『アンパンマンたいそう』
1.2.0.5 5. ドリーミング『サンサンたいそう』
1.2.0.6 6. 中尾隆聖(バイキンマン)『いくぞ! ばいきんまん』
1.2.0.7 7. ドリーミング『ドレミファアンパンマン』
1.2.0.8 8. ドリーミング『サンタが町にやってくる』
1.2.0.9 9. コキンちゃん(平野 綾)『あおいなみだ-コキンのうた-』
7格無しさん
2018/04/30(月) 09:32:45.86ID:CDnWYcPZ
#564
「ホラーマンとたぬきおに」なし たぬきおにの手に捕まる。
〇「アンパンマンとジャスミンさん」顔が濡れる(正面)&欠ける(左上)

#376
「ばいきんまんといずみのせい」顔が潰れて(左上)
黄金のバイキンUFO→元気100倍のアンパンチに敗北
〇「アンパンマンとアップリケちゃん」顔が濡れる(全体)&欠ける(左上)&ふやけて歪む
チョキチョキマシンにマントを切られる
8格無しさん
2018/05/01(火) 09:46:12.16ID:kokvvUyU
5/1(火|
#704
「あかちゃんまんとマゴマジョ」顔が濡れて(正面)
「かしわもちまんとだいふくおしょう」なし

#747
「カレーパンマンとかしわもちまん」なし
UFOのマジックハンドに捕まるカレーパンマン
カレーパンチバンク ダブルパンチバンク 
「ゆず姫とちゃわんむしまろ」顔が濡れて(正面)
9格無しさん
2018/05/08(火) 02:00:03.61ID:mpMazghg
戊申(天智天皇の二年秋八月二十七日)
10格無しさん
2018/05/08(火) 02:00:19.50ID:mpMazghg
日本の船師、始めて至り、大唐の船師と合戦う。
11格無しさん
2018/05/08(火) 02:00:35.32ID:mpMazghg
日本利あらずして退く。
12格無しさん
2018/05/08(火) 02:00:51.17ID:mpMazghg
さらに日本の乱伍、中軍の卒を率いて進みて大唐の軍を伐つ。
13格無しさん
2018/05/08(火) 02:01:06.88ID:mpMazghg
大唐、便ち左右より船を夾みて繞り戦う。
14格無しさん
2018/05/08(火) 02:01:22.75ID:mpMazghg
須臾の際に官軍敗績れぬ。
15格無しさん
2018/05/08(火) 02:01:38.52ID:mpMazghg
水に赴きて溺死る者衆し。
16格無しさん
2018/05/08(火) 02:01:54.38ID:mpMazghg
艫舳、廻旋することを得ず。」
17格無しさん
2018/05/08(火) 02:02:10.27ID:mpMazghg
いかなる国の歴史もその国民には必ず栄光ある歴史である。
18格無しさん
2018/05/08(火) 02:02:26.28ID:mpMazghg
何も金将軍の伝説ばかり一粲に価する次第ではない。
19格無しさん
2018/05/08(火) 02:02:42.45ID:mpMazghg
僕は鵠沼の東屋の二階にぢつと仰向けに寝ころんでゐた。
20格無しさん
2018/05/08(火) 02:02:58.59ID:mpMazghg
その又僕の枕もとには妻と伯母とが差向ひに庭の向うの海を見てゐた。
21格無しさん
2018/05/08(火) 02:03:14.59ID:mpMazghg
僕は目をつぶつたまま、「今に雨がふるぞ」
22格無しさん
2018/05/08(火) 02:03:30.45ID:mpMazghg
妻や伯母はとり合はなかつた。
23格無しさん
2018/05/08(火) 02:03:46.17ID:mpMazghg
殊に妻は「このお天気に」
24格無しさん
2018/05/08(火) 02:04:02.28ID:mpMazghg
しかし二分とたたないうちに珍らしい大雨になつてしまつた。
25格無しさん
2018/05/08(火) 02:04:18.30ID:mpMazghg
僕は全然人かげのない松の中の路を散歩してゐた。
26格無しさん
2018/05/08(火) 02:04:34.28ID:mpMazghg
僕の前には白犬が一匹、尻を振り振り歩いて行つた。
27格無しさん
2018/05/08(火) 02:04:50.43ID:mpMazghg
僕はその犬の睾丸を見、薄赤い色に冷たさを感じた。
28格無しさん
2018/05/08(火) 02:05:06.34ID:mpMazghg
犬はその路の曲り角へ来ると、急に僕をふり返つた。
29格無しさん
2018/05/08(火) 02:05:22.66ID:mpMazghg
それから確かににやりと笑つた。
30格無しさん
2018/05/08(火) 02:05:38.62ID:mpMazghg
僕は路ばたの砂の中に雨蛙が一匹もがいてゐるのを見つけた。
31格無しさん
2018/05/08(火) 02:05:54.60ID:mpMazghg
その時あいつは自動車が来たら、どうするつもりだらうと考へた。
32格無しさん
2018/05/08(火) 02:06:10.47ID:mpMazghg
しかしそこは自動車などのはひる筈のない小みちだつた。
33格無しさん
2018/05/08(火) 02:06:26.36ID:mpMazghg
しかし僕は不安になり、路ばたに茂つた草の中へ杖の先で雨蛙をはね飛ばした。
34格無しさん
2018/05/08(火) 02:06:42.45ID:mpMazghg
僕は風向きに従つて一様に曲つた松の中に白い洋館のあるのを見つけた。
35格無しさん
2018/05/08(火) 02:06:58.59ID:mpMazghg
すると洋館も歪んでゐた。
36格無しさん
2018/05/08(火) 02:07:14.49ID:mpMazghg
僕は僕の目のせゐだと思つた。
37格無しさん
2018/05/08(火) 02:07:31.68ID:mpMazghg
しかし何度見直しても、やはり洋館は歪んでゐた。
38格無しさん
2018/05/08(火) 02:07:47.41ID:mpMazghg
これは不気味でならなかつた。
39格無しさん
2018/05/08(火) 02:08:03.43ID:mpMazghg
僕は風呂へはひりに行つた。
40格無しさん
2018/05/08(火) 02:08:19.58ID:mpMazghg
彼是午後の十一時だつた。
41格無しさん
2018/05/08(火) 02:08:35.72ID:mpMazghg
風呂場の流しには青年が一人、手拭を使はずに顔を洗つてゐた。
42格無しさん
2018/05/08(火) 02:08:51.71ID:mpMazghg
それは毛を抜いたのやうに痩せ衰へた青年だつた。
43格無しさん
2018/05/08(火) 02:09:07.59ID:mpMazghg
僕は急に不快になり、僕の部屋へ引返した。
44格無しさん
2018/05/08(火) 02:09:23.30ID:mpMazghg
すると僕の部屋の中に腹巻が一つぬいであつた。
45格無しさん
2018/05/08(火) 02:09:39.11ID:mpMazghg
僕は驚いて帯をといて見たら、やはり僕の腹巻だつた。
46格無しさん
2018/05/08(火) 02:09:55.01ID:mpMazghg
(以上東屋にゐるうち)
47格無しさん
2018/05/08(火) 02:10:10.94ID:mpMazghg
僕は夢を見てゐるうちはふだんの通りの僕である。
48格無しさん
2018/05/08(火) 02:10:26.92ID:mpMazghg
は佐佐木茂索君と馬車に乗つて歩きながら、麦藁帽をかぶつた馭者に北京の物価などを尋ねてゐた。
49格無しさん
2018/05/08(火) 02:10:42.90ID:mpMazghg
しかしはつきり目がさめてから二十分ばかりたつうちにいつか憂鬱になつてしまふ。
50格無しさん
2018/05/08(火) 02:10:58.81ID:mpMazghg
唯灰色の天幕の裂け目から明るい風景が見えるやうに時々ふだんの心もちになる。
51格無しさん
2018/05/08(火) 02:11:14.74ID:mpMazghg
どうも僕は頭からじりじり参つて来るのらしい。
52格無しさん
2018/05/08(火) 02:11:30.74ID:mpMazghg
僕はやはり散歩してゐるうちに白い水着を着た子供に遇つた。
53格無しさん
2018/05/08(火) 02:11:46.69ID:mpMazghg
子供は小さい竹の皮を兎のやうに耳につけてゐた。
54格無しさん
2018/05/08(火) 02:12:02.61ID:mpMazghg
僕は五六間離れてゐるうちから、その鋭い竹の皮の先が妙に恐しくてならなかつた。
55格無しさん
2018/05/08(火) 02:12:18.54ID:mpMazghg
その恐怖は子供とすれ違つた後も、暫くの間はつづいてゐた。
56格無しさん
2018/05/08(火) 02:12:34.52ID:mpMazghg
僕はぼんやり煙草を吸ひながら、不快なことばかり考へてゐた。
57格無しさん
2018/05/08(火) 02:12:50.52ID:mpMazghg
僕の前の次の間にはここへ来て雇つた女中が一人、こちらへは背中を見せたまま、おむつを畳んでゐるらしかつた。
58格無しさん
2018/05/08(火) 02:13:06.45ID:mpMazghg
僕はふと「そのおむつには毛虫がたかつてゐるぞ」
59格無しさん
2018/05/08(火) 02:13:22.31ID:mpMazghg
どうしてそんなことを言つたかは僕自身にもわからなかつた。
60格無しさん
2018/05/08(火) 02:13:38.23ID:mpMazghg
すると女中は頓狂な調子で「あら、ほんたうにたかつてゐる」
61格無しさん
2018/05/08(火) 02:13:54.23ID:mpMazghg
僕はバタの罐をあけながら、軽井沢の夏を思ひ出した。
62格無しさん
2018/05/08(火) 02:14:10.06ID:mpMazghg
その拍子に頸すぢがちくりとした。
63格無しさん
2018/05/08(火) 02:14:25.92ID:mpMazghg
僕は驚いてふり返つた。
64格無しさん
2018/05/08(火) 02:14:41.83ID:mpMazghg
すると軽井沢に沢山ゐる馬蝿が一匹飛んで行つた。
65格無しさん
2018/05/08(火) 02:14:57.75ID:mpMazghg
それもこのあたりの馬蝿ではない。
66格無しさん
2018/05/08(火) 02:15:13.74ID:mpMazghg
丁度軽井沢の馬蝿のやうに緑色の目をした馬蝿だつた。
67格無しさん
2018/05/08(火) 02:15:29.46ID:mpMazghg
僕はこの頃空の曇つた、風の強い日ほど恐しいものはない。
68格無しさん
2018/05/08(火) 02:15:45.31ID:mpMazghg
あたりの風景は敵意を持つてぢりぢり僕に迫るやうな気がする。
69格無しさん
2018/05/08(火) 02:16:01.23ID:mpMazghg
その癖前に恐しかつた犬や神鳴は何ともない。
70格無しさん
2018/05/08(火) 02:16:17.15ID:mpMazghg
僕はをととひ(七月十八日)
71格無しさん
2018/05/08(火) 02:16:33.06ID:mpMazghg
も二三匹の犬が吠え立てる中を歩いて行つた。
72格無しさん
2018/05/08(火) 02:16:49.04ID:mpMazghg
しかし松風が高まり出すと、昼でも頭から蒲団をかぶるか、妻のゐる次の間へ避難してしまふ。
73格無しさん
2018/05/08(火) 02:17:04.94ID:mpMazghg
僕はひとり散歩してゐるうちに歯医者の札を出した家を見つけた。
74格無しさん
2018/05/08(火) 02:17:20.78ID:mpMazghg
が、二三日たつた後、妻とそこを通つて見ると、そんな家は見えなかつた。
75格無しさん
2018/05/08(火) 02:17:36.65ID:mpMazghg
と言ひ、妻は「確かになかつた」
76格無しさん
2018/05/08(火) 02:17:52.58ID:mpMazghg
それから妻の母に尋ねて見た。
77格無しさん
2018/05/08(火) 02:18:08.50ID:mpMazghg
するとやはり「ありません」
78格無しさん
2018/05/08(火) 02:18:24.45ID:mpMazghg
しかし僕はどうしても、確かにあつたと思つてゐる。
79格無しさん
2018/05/08(火) 02:18:40.44ID:mpMazghg
その札は齒と本字を書き、イシヤと片仮名を書いてあつたから、珍らしいだけでも見違へではない。
80格無しさん
2018/05/08(火) 02:18:56.42ID:mpMazghg
(以上家を借りてから)
81格無しさん
2018/05/08(火) 02:19:12.32ID:mpMazghg
これは異本「伊曾保の物語」
82格無しさん
2018/05/08(火) 02:19:28.26ID:mpMazghg
この本はまだ誰も知らない。
83格無しさん
2018/05/08(火) 02:19:44.18ID:mpMazghg
「或鴉おのれが人物を驕慢し、孔雀の羽根を見つけて此処かしこにまとひ、爾余の諸鳥をば大きに卑しめ、わが上はあるまじいと飛び廻れば、諸鳥安からず思ひ、『なんぢはまことの孔雀でもないに、なぜにわれらをおとしめるぞ』
84格無しさん
2018/05/08(火) 02:20:00.16ID:mpMazghg
と、取りまはいてさんざんに打擲したれば、羽根は抜かれ脚は折られ、なよなよとなつて息が絶えた。
85格無しさん
2018/05/08(火) 02:20:16.11ID:mpMazghg
「その後またまことの孔雀が来たに、諸鳥はこれも鴉ぢやと思うたれば、やはり打ちつ蹴つして殺してしまうた。
86格無しさん
2018/05/08(火) 02:20:32.03ID:mpMazghg
して諸鳥の云うたことは、『まことの孔雀にめぐり遇うたなら、如何やうな礼儀をも尽さうずるものを。
87格無しさん
2018/05/08(火) 02:20:48.01ID:mpMazghg
さてもさても世の中には偽せ孔雀ばかり多いことぢや。』
88格無しさん
2018/05/08(火) 02:21:03.92ID:mpMazghg
天下の諸人は阿呆ばかりぢや。
89格無しさん
2018/05/08(火) 02:21:19.78ID:mpMazghg
才も不才もわかることではござらぬ。」
90格無しさん
2018/05/08(火) 02:21:35.70ID:mpMazghg
何小二は軍刀を抛り出すと、夢中で馬の頸にしがみついた。
91格無しさん
2018/05/08(火) 02:21:51.61ID:mpMazghg
確かに頸を斬られたと思う――
92格無しさん
2018/05/08(火) 02:22:07.37ID:mpMazghg
いや、これはしがみついた後で、そう思ったのかも知れない。
93格無しさん
2018/05/08(火) 02:22:23.21ID:mpMazghg
ただ、何か頸へずんと音を立てて、はいったと思う――
94格無しさん
2018/05/08(火) 02:22:39.07ID:mpMazghg
それと同時に、しがみついたのである。
95格無しさん
2018/05/08(火) 02:22:54.91ID:mpMazghg
すると馬も創を受けたのであろう。
96格無しさん
2018/05/08(火) 02:23:10.82ID:mpMazghg
何小二が鞍の前輪へつっぷすが早いか、一声高く嘶いて、鼻づらを急に空へ向けると、忽ち敵味方のごったになった中をつきぬけて、満目の高粱畑をまっしぐらに走り出した。
97格無しさん
2018/05/08(火) 02:23:26.63ID:mpMazghg
二三発、銃声が後から響いたように思われるが、それも彼の耳には、夢のようにしか聞えない。
98格無しさん
2018/05/08(火) 02:23:42.54ID:mpMazghg
人の身の丈よりも高い高粱は、無二無三に駈けてゆく馬に踏みしだかれて、波のように起伏する。
99格無しさん
2018/05/08(火) 02:23:58.47ID:mpMazghg
それが右からも左からも、あるいは彼の辮髪を掃ったり、あるいは彼の軍服を叩いたり、あるいはまた彼の頸から流れている、どす黒い血を拭ったりした。
100格無しさん
2018/05/08(火) 02:24:14.45ID:mpMazghg
が、彼の頭には、それを一々意識するだけの余裕がない。
101格無しさん
2018/05/08(火) 02:24:30.43ID:mpMazghg
ただ、斬られたと云う簡単な事実だけが、苦しいほどはっきり、脳味噌に焦げついている。
102格無しさん
2018/05/08(火) 02:24:46.43ID:mpMazghg
こう心の中に繰返しながら、彼は全く機械的に、汗みずくになった馬の腹を何度も靴の踵で蹴った。
103格無しさん
2018/05/08(火) 02:25:02.38ID:mpMazghg
十分ほど前、何小二は仲間の騎兵と一しょに、味方の陣地から川一つ隔てた、小さな村の方へ偵察に行く途中、黄いろくなりかけた高粱の畑の中で、突然一隊の日本騎兵と遭遇した。
104格無しさん
2018/05/08(火) 02:25:18.26ID:mpMazghg
それが余り突然すぎたので、敵も味方も小銃を発射する暇がない。
105格無しさん
2018/05/08(火) 02:25:34.14ID:mpMazghg
少くとも味方は、赤い筋のはいった軍帽と、やはり赤い肋骨のある軍服とが見えると同時に、誰からともなく一度に軍刀をひき抜いて、咄嗟に馬の頭をその方へ立て直した。
106格無しさん
2018/05/08(火) 02:25:49.96ID:mpMazghg
勿論その時は、万一自分が殺されるかも知れないなどと云うことは、誰の頭にもはいって来ない。
107格無しさん
2018/05/08(火) 02:26:05.67ID:mpMazghg
そこにあるのは、ただ敵である。
108格無しさん
2018/05/08(火) 02:26:21.63ID:mpMazghg
あるいは敵を殺す事である。
109格無しさん
2018/05/08(火) 02:26:37.46ID:mpMazghg
だから彼等は馬の頭を立て直すと、いずれも犬のように歯をむき出しながら、猛然として日本騎兵のいる方へ殺到した。
110格無しさん
2018/05/08(火) 02:26:53.24ID:mpMazghg
すると敵も彼等と同じ衝動に支配されていたのであろう。
111格無しさん
2018/05/08(火) 02:27:09.09ID:mpMazghg
一瞬の後には、やはり歯をむき出した、彼等の顔を鏡に映したような顔が、幾つも彼等の左右に出没し始めた。
112格無しさん
2018/05/08(火) 02:27:24.78ID:mpMazghg
そうしてその顔と共に、何本かの軍刀が、忙しく彼等の周囲に、風を切る音を起し始めた。
113格無しさん
2018/05/08(火) 02:27:40.61ID:mpMazghg
それから後の事は、どうも時間の観念が明瞭でない。
114格無しさん
2018/05/08(火) 02:27:56.45ID:mpMazghg
丈の高い高粱が、まるで暴風雨にでも遇ったようにゆすぶれたり、そのゆすぶれている穂の先に、銅のような太陽が懸っていたりした事は、不思議なくらいはっきり覚えている。
115格無しさん
2018/05/08(火) 02:28:12.29ID:mpMazghg
が、その騒ぎがどのくらいつづいたか、その間にどんな事件がどんな順序で起ったか、こう云う点になると、ほとんど、何一つはっきりしない。
116格無しさん
2018/05/08(火) 02:28:28.15ID:mpMazghg
とにかくその間中何小二は自分にまるで意味を成さない事を、気違いのような大声で喚きながら、無暗に軍刀をふりまわしていた。
117格無しさん
2018/05/08(火) 02:28:44.07ID:mpMazghg
一度その軍刀が赤くなった事もあるように思うがどうも手答えはしなかったらしい。
118格無しさん
2018/05/08(火) 02:29:00.01ID:mpMazghg
その中に、ふりまわしている軍刀のが、だんだん脂汗でぬめって来る。
119格無しさん
2018/05/08(火) 02:29:15.86ID:mpMazghg
そうしてそれにつれて、妙に口の中が渇いて来る。
120格無しさん
2018/05/08(火) 02:29:31.92ID:mpMazghg
そこへほとんど、眼球がとび出しそうに眼を見開いた、血相の変っている日本騎兵の顔が、大きな口を開きながら、突然彼の馬の前に跳り出した。
121格無しさん
2018/05/08(火) 02:29:47.77ID:mpMazghg
赤い筋のある軍帽が、半ば裂けた間からは、いが栗坊主の頭が覗いている。
122格無しさん
2018/05/08(火) 02:30:03.63ID:mpMazghg
何小二はそれを見ると、いきなり軍刀をふり上げて、力一ぱいその帽子の上へ斬り下した。
123格無しさん
2018/05/08(火) 02:30:19.50ID:mpMazghg
が、こっちの軍刀に触れたのは、相手の軍帽でもなければ、その下にある頭でもない。
124格無しさん
2018/05/08(火) 02:30:35.23ID:mpMazghg
それを下から刎ね上げた、向うの軍刀の鋼である。
125格無しさん
2018/05/08(火) 02:30:51.10ID:mpMazghg
その音が煮えくり返るような周囲の騒ぎの中に、恐しくかんと冴え渡って、磨いた鉄の冷かな臭を、一度に鋭く鼻の孔の中へ送りこんだ。
126格無しさん
2018/05/08(火) 02:31:06.95ID:mpMazghg
そうしてそれと共に、眩く日を反射した、幅の広い向うの軍刀が、頭の真上へ来て、くるりと大きな輪を描いた。――
127格無しさん
2018/05/08(火) 02:31:22.79ID:mpMazghg
と思った時、何小二の頸のつけ根へは、何とも云えない、つめたい物が、ずんと音をたてて、はいったのである。
128格無しさん
2018/05/08(火) 02:31:38.63ID:mpMazghg
馬は、創の痛みで唸っている何小二を乗せたまま、高粱畑の中を無二無三に駈けて行った。
129格無しさん
2018/05/08(火) 02:31:54.49ID:mpMazghg
どこまで駈けても、高粱は尽きる容子もなく茂っている。
130格無しさん
2018/05/08(火) 02:32:10.33ID:mpMazghg
人馬の声や軍刀の斬り合う音は、もういつの間にか消えてしまった。
131格無しさん
2018/05/08(火) 02:32:26.07ID:mpMazghg
日の光も秋は、遼東と日本と変りがない。
132格無しさん
2018/05/08(火) 02:32:41.92ID:mpMazghg
繰返して云うが、何小二は馬の背に揺られながら、創の痛みで唸っていた。
133格無しさん
2018/05/08(火) 02:32:57.77ID:mpMazghg
が、彼の食いしばった歯の間を洩れる声には、ただ唸り声と云う以上に、もう少し複雑な意味がある。
134格無しさん
2018/05/08(火) 02:33:13.51ID:mpMazghg
と云うのは、彼は独り肉体的の苦痛のためにのみ、呻吟していたのではない。
135格無しさん
2018/05/08(火) 02:33:29.39ID:mpMazghg
精神的な苦痛のために――
136格無しさん
2018/05/08(火) 02:33:45.22ID:mpMazghg
死の恐怖を中心として、目まぐるしい感情の変化のために、泣き喚いていたのである。
137格無しさん
2018/05/08(火) 02:34:00.96ID:mpMazghg
彼は永久にこの世界に別れるのが、たまらなく悲しかった。
138格無しさん
2018/05/08(火) 02:34:16.80ID:mpMazghg
それから彼をこの世界と別れさせるようにした、あらゆる人間や事件が恨めしかった。
139格無しさん
2018/05/08(火) 02:34:32.65ID:mpMazghg
それからどうしてもこの世界と別れなければならない彼自身が腹立しかった。
140格無しさん
2018/05/08(火) 02:34:48.41ID:mpMazghg
こんな種々雑多の感情は、それからそれへと縁を引いて際限なく彼を虐みに来る。
141格無しさん
2018/05/08(火) 02:35:04.30ID:mpMazghg
だから彼はこれらの感情が往来するのに従って、「死ぬ。
142格無しさん
2018/05/08(火) 02:35:20.31ID:mpMazghg
と叫んで見たり、父や母の名を呼んで見たり、あるいはまた日本騎兵の悪口を云って見たりした。
143格無しさん
2018/05/08(火) 02:35:36.16ID:mpMazghg
が、不幸にしてそれが一度彼の口を出ると、何の意味も持っていない、嗄れた唸り声に変ってしまう。
144格無しさん
2018/05/08(火) 02:35:52.00ID:mpMazghg
それほどもう彼は弱ってでもいたのであろう。
145格無しさん
2018/05/08(火) 02:36:07.85ID:mpMazghg
「私ほどの不幸な人間はない。
146格無しさん
2018/05/08(火) 02:36:23.69ID:mpMazghg
この若さにこんな所まで戦に来て、しかも犬のように訳もなく殺されてしまう。
147格無しさん
2018/05/08(火) 02:36:39.53ID:mpMazghg
それには第一に、私を斬った日本人が憎い。
148格無しさん
2018/05/08(火) 02:36:55.37ID:mpMazghg
その次には私たちを偵察に出した、私の隊の上官が憎い。
149格無しさん
2018/05/08(火) 02:37:11.23ID:mpMazghg
最後にこんな戦争を始めた、日本国と清国とが憎い。
150格無しさん
2018/05/08(火) 02:37:27.09ID:mpMazghg
いや憎いものはまだほかにもある。
151格無しさん
2018/05/08(火) 02:37:42.92ID:mpMazghg
私を兵卒にした事情に幾分でも関係のある人間が、皆私には敵と変りがない。
152格無しさん
2018/05/08(火) 02:37:58.65ID:mpMazghg
私はそう云ういろいろの人間のおかげで、したい事の沢山あるこの世の中と、今の今別れてしまう。
153格無しさん
2018/05/08(火) 02:38:14.41ID:mpMazghg
ああ、そう云う人間や事情のするなりにさせて置いた私は、何と云う莫迦だろう。」
154格無しさん
2018/05/08(火) 02:38:30.10ID:mpMazghg
何小二はその唸り声の中にこんな意味を含めながら、馬の平首にかじりついて、どこまでも高粱の中を走って行った。
155格無しさん
2018/05/08(火) 02:38:45.93ID:mpMazghg
その勢に驚いて、時々鶉の群が慌しくそこここから飛び立ったが、馬は元よりそんな事には頓着しない。
156格無しさん
2018/05/08(火) 02:39:01.84ID:mpMazghg
背中に乗せている主人が、時々ずり落ちそうになるのにもかまわずに、泡を吐き吐き駈けつづけている。
157格無しさん
2018/05/08(火) 02:39:17.71ID:mpMazghg
だからもし運命が許したら、何小二はこの不断の呻吟の中に、自分の不幸を上天に訴えながら、あの銅のような太陽が西の空に傾くまで、日一日馬の上でゆられ通したのに相違ない。
158格無しさん
2018/05/08(火) 02:39:33.56ID:mpMazghg
が、この平地が次第に緩い斜面をつくって、高粱と高粱との間を流れている、幅の狭い濁り川が、行方に明く開けた時、運命は二三本の川楊の木になって、もう落ちかかった葉を低い梢に集めながら、厳しく川のふちに立っていた。
159格無しさん
2018/05/08(火) 02:39:49.42ID:mpMazghg
そうして、何小二の馬がその間を通りぬけるが早いか、いきなりその茂った枝の中に、彼の体を抱き上げて、水際の柔らかな泥の上へまっさかさまに抛り出した。
160格無しさん
2018/05/08(火) 02:40:05.24ID:mpMazghg
その途端に何小二は、どうか云う聯想の関係で、空に燃えている鮮やかな黄いろい炎が眼に見えた。
161格無しさん
2018/05/08(火) 02:40:20.99ID:mpMazghg
子供の時に彼の家の廚房で、大きな竈の下に燃えているのを見た、鮮やかな黄いろい炎である。
162格無しさん
2018/05/08(火) 02:40:36.72ID:mpMazghg
「ああ火が燃えている」
163格無しさん
2018/05/08(火) 02:40:52.54ID:mpMazghg
その次の瞬間には彼はもういつか正気を失っていた。………
164格無しさん
2018/05/08(火) 02:41:08.28ID:mpMazghg
馬の上から転げ落ちた何小二は、全然正気を失ったのであろうか。
165格無しさん
2018/05/08(火) 02:41:24.15ID:mpMazghg
成程創の疼みは、いつかほとんど、しなくなった。
166格無しさん
2018/05/08(火) 02:41:40.01ID:mpMazghg
が、彼は土と血とにまみれて、人気のない川のふちに横わりながら、川楊の葉が撫でている、高い蒼空を見上げた覚えがある。
167格無しさん
2018/05/08(火) 02:41:55.84ID:mpMazghg
その空は、彼が今まで見たどの空よりも、奥深く蒼く見えた。
168格無しさん
2018/05/08(火) 02:42:11.59ID:mpMazghg
丁度大きな藍の瓶をさかさまにして、それを下から覗いたような心もちである。
169格無しさん
2018/05/08(火) 02:42:27.31ID:mpMazghg
しかもその瓶の底には、泡の集ったような雲がどこからか生れて来て、またどこかへ然と消えてしまう。
170格無しさん
2018/05/08(火) 02:42:43.15ID:mpMazghg
これが丁度絶えず動いている川楊の葉に、かき消されて行くようにも思われる。
171格無しさん
2018/05/08(火) 02:42:58.89ID:mpMazghg
では、何小二は全然正気を失わずにいたのであろうか。
172格無しさん
2018/05/08(火) 02:43:14.73ID:mpMazghg
しかし彼の眼と蒼空との間には実際そこになかった色々な物が、影のように幾つとなく去来した。
173格無しさん
2018/05/08(火) 02:43:30.60ID:mpMazghg
第一に現れたのは、彼の母親のうすよごれた裙子である。
174格無しさん
2018/05/08(火) 02:43:46.43ID:mpMazghg
子供の時の彼は、嬉しい時でも、悲しい時でも、何度この裙子にすがったかわからない。
175格無しさん
2018/05/08(火) 02:44:02.29ID:mpMazghg
が、これは思わず彼が手を伸ばして、捉えようとする間もなく、眼界から消えてしまった。
176格無しさん
2018/05/08(火) 02:44:18.15ID:mpMazghg
消える時に見ると、裙子は紗のように薄くなって、その向うにある雲の塊を、雲母のように透かせている。
177格無しさん
2018/05/08(火) 02:44:33.99ID:mpMazghg
その後からは、彼の生まれた家の後にある、だだっ広い胡麻畑が、辷るように流れて来た。
178格無しさん
2018/05/08(火) 02:44:49.84ID:mpMazghg
さびしい花が日の暮を待つように咲いている、真夏の胡麻畑である。
179格無しさん
2018/05/08(火) 02:45:05.67ID:mpMazghg
何小二はその胡麻の中に立っている、自分や兄弟たちの姿を探して見た。
180格無しさん
2018/05/08(火) 02:45:21.55ID:mpMazghg
が、そこに人らしいものの影は一つもない。
181格無しさん
2018/05/08(火) 02:45:37.26ID:mpMazghg
ただ色の薄い花と葉とが、ひっそりと一つになって、薄い日の光に浴している。
182格無しさん
2018/05/08(火) 02:45:53.09ID:mpMazghg
これは空間を斜に横ぎって、吊り上げられたようにすっと消えた。
183格無しさん
2018/05/08(火) 02:46:08.95ID:mpMazghg
するとその次には妙なものが空をのたくって来た。
184格無しさん
2018/05/08(火) 02:46:24.80ID:mpMazghg
よく見ると、燈夜に街をかついで歩く、あの大きな竜燈である。
185格無しさん
2018/05/08(火) 02:46:40.66ID:mpMazghg
長さはおよそ四五間もあろうか。
186格無しさん
2018/05/08(火) 02:46:56.39ID:mpMazghg
竹で造った骨組みの上へ紙を張って、それに青と赤との画の具で、華やかな彩色が施してある。
187格無しさん
2018/05/08(火) 02:47:12.13ID:mpMazghg
形は画で見る竜と、少しも変りがない。
188格無しさん
2018/05/08(火) 02:47:27.98ID:mpMazghg
それが昼間だのに、中へ蝋燭らしい火をともして、彷彿と蒼空へ現れた。
189格無しさん
2018/05/08(火) 02:47:43.82ID:mpMazghg
その上不思議な事には、その竜燈が、どうも生きているような心もちがする、現に長い鬚などは、ひとりでに左右へ動くらしい。――
190格無しさん
2018/05/08(火) 02:47:59.70ID:mpMazghg
と思う中にそれもだんだん視野の外へ泳いで行って、そこから急に消えてしまった。
191格無しさん
2018/05/08(火) 02:48:15.56ID:mpMazghg
それが見えなくなると、今度は華奢な女の足が突然空へ現れた。
192格無しさん
2018/05/08(火) 02:48:31.28ID:mpMazghg
纏足をした足だから、細さは漸く三寸あまりしかない。
193格無しさん
2018/05/08(火) 02:48:47.15ID:mpMazghg
しなやかにまがった指の先には、うす白い爪が柔らかく肉の色を隔てている。
194格無しさん
2018/05/08(火) 02:49:02.87ID:mpMazghg
小二の心にはその足を見た時の記憶が夢の中で食われた蚤のように、ぼんやり遠い悲しさを運んで来た。
195格無しさん
2018/05/08(火) 02:49:18.70ID:mpMazghg
もう一度あの足にさわる事が出来たなら、――
196格無しさん
2018/05/08(火) 02:49:34.52ID:mpMazghg
しかしそれは勿論もう出来ないのに相違ない。
197格無しさん
2018/05/08(火) 02:49:50.38ID:mpMazghg
こことあの足を見た所との間は、何百里と云う道程がある。
198格無しさん
2018/05/08(火) 02:50:06.24ID:mpMazghg
そう思っている中に、足は見る見る透明になって、自然と雲の影に吸われてしまった。
199格無しさん
2018/05/08(火) 02:50:22.11ID:mpMazghg
その足が消えた時である。
200格無しさん
2018/05/08(火) 02:50:38.12ID:mpMazghg
何小二は心の底から、今までに一度も感じた事のない、不思議な寂しさに襲われた。
201格無しさん
2018/05/08(火) 02:50:53.88ID:mpMazghg
彼の頭の上には、大きな蒼空が音もなく蔽いかかっている。
202格無しさん
2018/05/08(火) 02:51:09.75ID:mpMazghg
人間はいやでもこの空の下で、そこから落ちて来る風に吹かれながら、みじめな生存を続けて行かなければならない。
203格無しさん
2018/05/08(火) 02:51:25.49ID:mpMazghg
これは何と云う寂しさであろう。
204格無しさん
2018/05/08(火) 02:51:41.31ID:mpMazghg
そうしてその寂しさを今まで自分が知らなかったと云う事は、何と云うまた不思議な事であろう。
205格無しさん
2018/05/08(火) 02:51:57.18ID:mpMazghg
何小二は思わず長いため息をついた。
206格無しさん
2018/05/08(火) 02:52:13.04ID:mpMazghg
この時、彼の眼と空との中には、赤い筋のある軍帽をかぶった日本騎兵の一隊が、今までのどれよりも早い速力で、慌しく進んで来た。
207格無しさん
2018/05/08(火) 02:52:28.89ID:mpMazghg
そうしてまた同じような速力で、慌しくどこかへ消えてしまった。
208格無しさん
2018/05/08(火) 02:52:44.78ID:mpMazghg
ああ、あの騎兵たちも、寂しさはやはり自分と変らないのであろう。
209格無しさん
2018/05/08(火) 02:53:00.52ID:mpMazghg
もし彼等が幻でなかったなら、自分は彼等と互に慰め合って、せめて一時でもこの寂しさを忘れたい。
210格無しさん
2018/05/08(火) 02:53:16.36ID:mpMazghg
しかしそれはもう、今になっては遅かった。
211格無しさん
2018/05/08(火) 02:53:32.08ID:mpMazghg
何小二の眼には、とめどもなく涙があふれて来た。
212格無しさん
2018/05/08(火) 02:53:47.80ID:mpMazghg
その涙に濡れた眼でふり返った時、彼の今までの生活が、いかに醜いものに満ちていたか、それは今更云う必要はない。
213格無しさん
2018/05/08(火) 02:54:03.65ID:mpMazghg
彼は誰にでも謝りたかった。
214格無しさん
2018/05/08(火) 02:54:19.49ID:mpMazghg
そうしてまた、誰をでも赦したかった。
215格無しさん
2018/05/08(火) 02:54:35.33ID:mpMazghg
「もし私がここで助かったら、私はどんな事をしても、この過去を償うのだが。」
216格無しさん
2018/05/08(火) 02:54:51.18ID:mpMazghg
彼は泣きながら、心の底でこう呟いた。
217格無しさん
2018/05/08(火) 02:55:07.01ID:mpMazghg
が、限りなく深い、限りなく蒼い空は、まるでそれが耳へはいらないように、一尺ずつあるいは一寸ずつ、徐々として彼の胸の上へ下って来る。
218格無しさん
2018/05/08(火) 02:55:22.84ID:mpMazghg
その蒼い気の中に、点々としてかすかにきらめくものは、大方昼見える星であろう。
219格無しさん
2018/05/08(火) 02:55:38.71ID:mpMazghg
もう今はあの影のようなものも、二度と眸底は横ぎらない。
220格無しさん
2018/05/08(火) 02:55:54.55ID:mpMazghg
何小二はもう一度歎息して、それから急に唇をふるわせて、最後にだんだん眼をつぶって行った。
221格無しさん
2018/05/08(火) 02:56:10.39ID:mpMazghg
日清両国の間の和が媾ぜられてから、一年ばかりたった、ある早春の午前である。
222格無しさん
2018/05/08(火) 02:56:26.26ID:mpMazghg
北京にある日本公使館内の一室では、公使館附武官の木村陸軍少佐と、折から官命で内地から視察に来た農商務省技師の山川理学士とが、一つテエブルを囲みながら、一碗の珈琲と一本の葉巻とに忙しさを忘れて、のどかな雑談に耽っていた。
223格無しさん
2018/05/08(火) 02:56:42.09ID:mpMazghg
早春とは云いながら、大きなカミンに火が焚いてあるので、室の中はどうかすると汗がにじむほど暖い。
224格無しさん
2018/05/08(火) 02:56:57.92ID:mpMazghg
そこへテエブルの上へのせた鉢植えの紅梅が時々支那めいた匂を送って来る。
225格無しさん
2018/05/08(火) 02:57:13.66ID:mpMazghg
二人の間の話題は、しばらく西太后で持ち切っていたが、やがてそれが一転して日清戦争当時の追憶になると、木村少佐は何を思ったか急に立ち上って、室の隅に置いてあった神州日報の綴じこみを、こっちのテエブルへ持って来た。
226格無しさん
2018/05/08(火) 02:57:29.52ID:mpMazghg
そうして、その中の一枚を山川技師の眼の前へひろげると、指である箇所をさしながら、読み給えと云う眼つきをした。
227格無しさん
2018/05/08(火) 02:57:45.39ID:mpMazghg
それがあまり唐突だったので、技師はちょいと驚いたが、相手の少佐が軍人に似合わない、洒脱な人間だと云う事は日頃からよく心得ている。
228格無しさん
2018/05/08(火) 02:58:01.11ID:mpMazghg
そこで咄嗟に、戦争に関係した奇抜な逸話を予想しながら、その紙面へ眼をやると、果してそこには、日本の新聞口調に直すとこんな記事が、四角な字ばかりで物々しく掲げてあった。
229格無しさん
2018/05/08(火) 02:58:16.94ID:mpMazghg
街の剃頭店主人、何小二なる者は、日清戦争に出征して、屡々勲功を顕したる勇士なれど、凱旋後とかく素行修らず、酒と女とに身を持崩していたが、去る――
230格無しさん
2018/05/08(火) 02:58:32.78ID:mpMazghg
日、某酒楼にて飲み仲間の誰彼と口論し、遂に掴み合いの喧嘩となりたる末、頸部に重傷を負い即刻絶命したり。
231格無しさん
2018/05/08(火) 02:58:48.59ID:mpMazghg
ことに不思議なるは同人の頸部なる創にして、こはその際兇器にて傷けられたるものにあらず、全く日清戦争中戦場にて負いたる創口が、再、破れたるものにして、実見者の談によれば、格闘中同人が卓子と共に顛倒するや否や、首は俄然喉の皮一枚を残して、
232格無しさん
2018/05/08(火) 02:59:04.33ID:mpMazghg
鮮血と共に床上に転び落ちたりと云う。
233格無しさん
2018/05/08(火) 02:59:20.17ID:mpMazghg
但、当局はその真相を疑い、目下犯人厳探中の由なれども、諸城の某甲が首の落ちたる事は、載せて聊斎志異にもあれば、該何小二の如きも、その事なしとは云う可らざるか。
234格無しさん
2018/05/08(火) 02:59:35.90ID:mpMazghg
山川技師は読み了ると共に、呆れた顔をして、「何だい、これは」
235格無しさん
2018/05/08(火) 02:59:51.76ID:mpMazghg
すると木村少佐は、ゆっくり葉巻の煙を吐きながら、鷹揚に微笑して、
236格無しさん
2018/05/08(火) 03:00:07.62ID:mpMazghg
こんな事は支那でなくっては、ありはしない。」
237格無しさん
2018/05/08(火) 03:00:23.47ID:mpMazghg
「そうどこにでもあって、たまるものか。」
238格無しさん
2018/05/08(火) 03:00:39.39ID:mpMazghg
山川技師もにやにやしながら、長くなった葉巻の灰を灰皿の中へはたき落した。
239格無しさん
2018/05/08(火) 03:00:55.23ID:mpMazghg
「しかも更に面白い事は――」
240格無しさん
2018/05/08(火) 03:01:11.09ID:mpMazghg
少佐は妙に真面目な顔をして、ちょいと語を切った。
241格無しさん
2018/05/08(火) 03:01:26.95ID:mpMazghg
「僕はその何小二と云うやつを知っているのだ。」
242格無しさん
2018/05/08(火) 03:01:42.80ID:mpMazghg
まさかアッタッシェの癖に、新聞記者と一しょになって、いい加減な嘘を捏造するのではあるまいね。」
243格無しさん
2018/05/08(火) 03:01:58.66ID:mpMazghg
「誰がそんなくだらない事をするものか。
244格無しさん
2018/05/08(火) 03:02:14.65ID:mpMazghg
屯の戦で負傷した時に、その何小二と云うやつも、やはり我軍の野戦病院へ収容されていたので、支那語の稽古かたがた二三度話しをした事があるのだ。
245格無しさん
2018/05/08(火) 03:02:30.39ID:mpMazghg
頸に創があると云うのだから、十中八九あの男に違いない。
246格無しさん
2018/05/08(火) 03:02:46.24ID:mpMazghg
何でも偵察か何かに出た所が我軍の騎兵と衝突して頸へ一つ日本刀をお見舞申されたと云っていた。」
247格無しさん
2018/05/08(火) 03:03:02.10ID:mpMazghg
だがそいつはこの新聞で見ると、無頼漢だと書いてあるではないか。
248格無しさん
2018/05/08(火) 03:03:17.96ID:mpMazghg
そんなやつは一層その時に死んでしまった方が、どのくらい世間でも助かったか知れないだろう。」
249格無しさん
2018/05/08(火) 03:03:33.79ID:mpMazghg
「それがあの頃は、極正直な、人の好い人間で、捕虜の中にも、あんな柔順なやつは珍らしいくらいだったのだ。
250格無しさん
2018/05/08(火) 03:03:49.52ID:mpMazghg
だから軍医官でも何でも、妙にあいつが可愛いかったと見えて、特別によく療治をしてやったらしい。
251格無しさん
2018/05/08(火) 03:04:05.24ID:mpMazghg
あいつはまた身の上話をしても、なかなか面白い事を云っていた。
252格無しさん
2018/05/08(火) 03:04:21.08ID:mpMazghg
殊にあいつが頸に重傷を負って、馬から落ちた時の心もちを僕に話して聞かせたのは、今でもちゃんと覚えている。
253格無しさん
2018/05/08(火) 03:04:36.94ID:mpMazghg
ある川のふちの泥の中にころがりながら、川楊の木の空を見ていると、母親の裙子だの、女の素足だの、花の咲いた胡麻畑だのが、はっきりその空へ見えたと云うのだが。」
254格無しさん
2018/05/08(火) 03:04:52.81ID:mpMazghg
木村少佐は葉巻を捨てて、珈琲茶碗を唇へあてながら、テエブルの上の紅梅へ眼をやって、独り語のように語を次いだ。
255格無しさん
2018/05/08(火) 03:05:08.65ID:mpMazghg
「あいつはそれを見た時に、しみじみ今までの自分の生活が浅ましくなって来たと云っていたっけ。」
256格無しさん
2018/05/08(火) 03:05:24.49ID:mpMazghg
「それが戦争がすむと、すぐに無頼漢になったのか。
257格無しさん
2018/05/08(火) 03:05:40.51ID:mpMazghg
だから人間はあてにならない。」
258格無しさん
2018/05/08(火) 03:05:56.33ID:mpMazghg
山川技師は椅子の背へ頭をつけながら、足をのばして、皮肉に葉巻の煙を天井へ吐いた。
259格無しさん
2018/05/08(火) 03:06:12.18ID:mpMazghg
「あてにならないと云うのは、あいつが猫をかぶっていたと云う意味か。」
260格無しさん
2018/05/08(火) 03:06:27.90ID:mpMazghg
「いや、僕はそう思わない。
261格無しさん
2018/05/08(火) 03:06:43.74ID:mpMazghg
少くともあの時は、あいつも真面目にそう感じていたのだろうと思う。
262格無しさん
2018/05/08(火) 03:06:59.46ID:mpMazghg
恐らくは今度もまた、首が落ちると同時に(新聞の語をそのまま使えば)
263格無しさん
2018/05/08(火) 03:07:15.30ID:mpMazghg
やはりそう感じたろう。
264格無しさん
2018/05/08(火) 03:07:31.14ID:mpMazghg
僕はそれをこんな風に想像する。
265格無しさん
2018/05/08(火) 03:07:46.88ID:mpMazghg
あいつは喧嘩をしている中に、酔っていたから、訳なく卓子と一しょに抛り出された。
266格無しさん
2018/05/08(火) 03:08:02.75ID:mpMazghg
そうしてその拍子に、創口が開いて、長い辮髪をぶらさげた首が、ごろりと床の上へころげ落ちた。
267格無しさん
2018/05/08(火) 03:08:18.60ID:mpMazghg
あいつが前に見た母親の裙子とか、女の素足とか、あるいはまた花のさいている胡麻畑とか云うものは、やはりそれと同時にあいつの眼の前を、彷彿として往来した事だろう。
268格無しさん
2018/05/08(火) 03:08:34.44ID:mpMazghg
あるいは屋根があるにも関らず、あいつは深い蒼空を、遥か向うに望んだかも知れない。
269格無しさん
2018/05/08(火) 03:08:50.17ID:mpMazghg
あいつはその時、しみじみまた今までの自分の生活が浅ましくなった。
270格無しさん
2018/05/08(火) 03:09:06.01ID:mpMazghg
が、今度はもう間に合わない。
271格無しさん
2018/05/08(火) 03:09:21.88ID:mpMazghg
前には正気を失っている所を、日本の看護卒が見つけて介抱してやった。
272格無しさん
2018/05/08(火) 03:09:37.74ID:mpMazghg
今は喧嘩の相手が、そこをつけこんで打ったり蹴ったりする。
273格無しさん
2018/05/08(火) 03:09:53.60ID:mpMazghg
そこであいつは後悔した上にも後悔しながら息をひきとってしまったのだ。」
274格無しさん
2018/05/08(火) 03:10:09.45ID:mpMazghg
山川技師は肩をゆすって笑った。
275格無しさん
2018/05/08(火) 03:10:25.31ID:mpMazghg
「君は立派な空想家だ。
276格無しさん
2018/05/08(火) 03:10:41.18ID:mpMazghg
だが、それならどうしてあいつは、一度そう云う目に遇いながら、無頼漢なんぞになったのだろう。」
277格無しさん
2018/05/08(火) 03:10:56.96ID:mpMazghg
「それは君の云うのとちがった意味で、人間はあてにならないからだ。」
278格無しさん
2018/05/08(火) 03:11:12.79ID:mpMazghg
木村少佐は新しい葉巻に火をつけてから、ほとんど、得意に近いほど晴々した調子で、微笑しながらこう云った。
279格無しさん
2018/05/08(火) 03:11:28.64ID:mpMazghg
「我々は我々自身のあてにならない事を、痛切に知って置く必要がある。
280格無しさん
2018/05/08(火) 03:11:44.39ID:mpMazghg
実際それを知っているもののみが、幾分でもあてになるのだ。
281格無しさん
2018/05/08(火) 03:12:00.25ID:mpMazghg
そうしないと、何小二の首が落ちたように、我々の人格も、いつどんな時首が落ちるかわからない。――
282格無しさん
2018/05/08(火) 03:12:16.10ID:mpMazghg
すべて支那の新聞と云うものは、こんな風に読まなくてはいけないのだ。」
283格無しさん
2018/05/08(火) 03:12:31.95ID:mpMazghg
僕の知れる江戸っ児中、文壇に縁あるものを尋ぬれば第一に後藤末雄君、第二に辻潤君、第三に久保田万太郎君なり。
284格無しさん
2018/05/08(火) 03:12:47.82ID:mpMazghg
この三君は三君なりにいずれも性格を異にすれども、江戸っ児たる風采と江戸っ児たる気質とは略一途に出ずるものの如し。
285格無しさん
2018/05/08(火) 03:13:03.69ID:mpMazghg
就中後天的にも江戸っ児の称を曠うせざるものを我久保田万太郎君と為す。
286格無しさん
2018/05/08(火) 03:13:19.51ID:mpMazghg
の臭味を帯びず、「まち」
287格無しさん
2018/05/08(火) 03:13:35.36ID:mpMazghg
の特色に富みたるものを我久保田万太郎君と為す。
288格無しさん
2018/05/08(火) 03:13:51.23ID:mpMazghg
江戸っ児はあきらめに住するものなり。
289格無しさん
2018/05/08(火) 03:14:07.06ID:mpMazghg
既にあきらめに住すと云う、積極的に強からざるは弁ずるを待たず。
290格無しさん
2018/05/08(火) 03:14:22.89ID:mpMazghg
久保田君の芸術は久保田君の生活と共にこの特色を示すものと云うべし。
291格無しさん
2018/05/08(火) 03:14:38.75ID:mpMazghg
久保田君の主人公は常に道徳的薄明りに住する閭巷無名の男女なり。
292格無しさん
2018/05/08(火) 03:14:54.58ID:mpMazghg
是等の男女はチエホフの作中にも屡その面を現せども、チエホフの主人公は我等読者を哄笑せしむること少しとなさず。
293格無しさん
2018/05/08(火) 03:15:10.30ID:mpMazghg
久保田君の主人公はチエホフのそれよりも哀婉なること、なお日本の刻み煙草のロシアの紙巻よりも柔かなるが如し。
294格無しさん
2018/05/08(火) 03:15:26.04ID:mpMazghg
のみならず作中の風景さえ、久保田君の筆に上るものは常に瀟洒たる淡彩画なり。
295格無しさん
2018/05/08(火) 03:15:41.94ID:mpMazghg
更に又久保田君の生活を見れば、――
296格無しさん
2018/05/08(火) 03:15:57.81ID:mpMazghg
僕は久保田君の生活を知ること、最も膚浅なる一人ならん。
297格無しさん
2018/05/08(火) 03:16:13.65ID:mpMazghg
然れども君の微笑のうちには全生活を感ずることなきにあらず。
298格無しさん
2018/05/08(火) 03:16:29.52ID:mpMazghg
微苦笑とは久米正雄君の日本語彙に加えたる新熟語なり。
299格無しさん
2018/05/08(火) 03:16:45.35ID:mpMazghg
久保田君の時に浮ぶる微笑も微苦笑と称するを妨げざるべし。
300格無しさん
2018/05/08(火) 03:17:01.21ID:mpMazghg
唯僕をして云わしむれば、これを微哀笑と称するの或は適切なるを思わざる能わず。
301格無しさん
2018/05/08(火) 03:17:16.94ID:mpMazghg
既にあきらめに住すと云う、積極的に強からざるは弁じるを待たず。
302格無しさん
2018/05/08(火) 03:17:32.78ID:mpMazghg
然れども又あきらめに住すほど、消極的に強きはあらざるべし。
303格無しさん
2018/05/08(火) 03:17:48.62ID:mpMazghg
久保田君をして一たびあきらめしめよ。
304格無しさん
2018/05/08(火) 03:18:04.47ID:mpMazghg
槓でも棒でも動くものにあらず。
305格無しさん
2018/05/08(火) 03:18:20.32ID:mpMazghg
酔うて虎となれば愈然り。
306格無しさん
2018/05/08(火) 03:18:36.19ID:mpMazghg
久保田君の主人公も、常にこの頑固さ加減を失う能わず。
307格無しさん
2018/05/08(火) 03:18:52.02ID:mpMazghg
これ又チエホフの主人公と、面目を異にする所以なり。
308格無しさん
2018/05/08(火) 03:19:07.77ID:mpMazghg
久保田君と君の主人公とは、撓めんと欲すれば撓むることを得れども、折ることは必しも容易ならざるもの、――
309格無しさん
2018/05/08(火) 03:19:23.63ID:mpMazghg
たとえば、雪に伏せる竹と趣を一にすと云うを得べし。
310格無しさん
2018/05/08(火) 03:19:39.46ID:mpMazghg
この強からざるが故に強き特色は、江戸っ児の全面たらざるにもせよ、江戸っ児の全面に近きものの如し。
311格無しさん
2018/05/08(火) 03:19:55.41ID:mpMazghg
僕は先天的にも後天的にも江戸っ児の資格を失いたる、東京育ちの書生なり。
312格無しさん
2018/05/08(火) 03:20:11.27ID:mpMazghg
故に久保田君の芸術的並びに道徳的態度を悉理解すること能わず。
313格無しさん
2018/05/08(火) 03:20:27.12ID:mpMazghg
然れども君の小説戯曲に敬意と愛とを有することは必しも人後に落ちざるべし。
314格無しさん
2018/05/08(火) 03:20:42.95ID:mpMazghg
即ち原稿用紙三枚の久保田万太郎論を草する所以なり。
315格無しさん
2018/05/08(火) 03:20:58.73ID:mpMazghg
久保田君、幸いに首肯するや否や?
316格無しさん
2018/05/08(火) 03:21:14.60ID:mpMazghg
もし又首肯せざらん乎、――
317格無しさん
2018/05/08(火) 03:21:30.47ID:mpMazghg
君の一たび抛下すれば、槓でも棒でも動かざるは既に僕の知る所なり。
318格無しさん
2018/05/08(火) 03:21:46.33ID:mpMazghg
僕亦何すれぞ首肯を強いんや。
319格無しさん
2018/05/08(火) 03:22:02.19ID:mpMazghg
僕亦何すれぞ首肯を強いんや。
320格無しさん
2018/05/08(火) 03:22:18.03ID:mpMazghg
小説家久保田万太郎君の俳人傘雨宗匠たるは天下の周知する所なり。
321格無しさん
2018/05/08(火) 03:22:33.91ID:mpMazghg
僕、曩日久保田君に「うすうすと曇りそめけり星月夜」
322格無しさん
2018/05/08(火) 03:22:49.75ID:mpMazghg
数日の後、僕前句を改めて「冷えびえと曇り立ちけり星月夜」
323格無しさん
2018/05/08(火) 03:23:05.95ID:mpMazghg
傘雨宗匠頭を振って曰、「いけません。」
324格無しさん
2018/05/08(火) 03:23:21.80ID:mpMazghg
然れども僕畢に後句を捨てず。
325格無しさん
2018/05/08(火) 03:23:37.51ID:mpMazghg
久保田君亦畢に後句を取らず。
326格無しさん
2018/05/08(火) 03:23:53.26ID:mpMazghg
僕等の差を見るに近からん乎。
327格無しさん
2018/05/08(火) 03:24:09.08ID:mpMazghg
新しき時代の浪曼主義者は三汀久米正雄である。
328格無しさん
2018/05/08(火) 03:24:24.93ID:mpMazghg
「涙は理智の薄明り、感情の灯し火」
329格無しさん
2018/05/08(火) 03:24:40.75ID:mpMazghg
とうたえる久米、真白草花の涼しげなるにも、よき人の面影を忘れ得ぬ久米、鮮かに化粧の匂える妓の愛想よく酒を勧むる暇さえ、「招かれざる客」
330格無しさん
2018/05/08(火) 03:24:56.59ID:mpMazghg
の歎きをする久米、――
331格無しさん
2018/05/08(火) 03:25:12.32ID:mpMazghg
そう云う多感多情の久米の愛すべきことは誰でも云う。
332格無しさん
2018/05/08(火) 03:25:28.05ID:mpMazghg
が、私は殊に、如何なる悲しみをもおのずから堪える、あわれにも勇ましい久米正雄をば、こよなく嬉しく思うものである。
333格無しさん
2018/05/08(火) 03:25:43.88ID:mpMazghg
この久米はもう弱気ではない。
334格無しさん
2018/05/08(火) 03:25:59.72ID:mpMazghg
そしてその輝かしい微苦笑には、本来の素質に鍛錬を加えた、大いなる才人の強気しか見えない。
335格無しさん
2018/05/08(火) 03:26:15.56ID:mpMazghg
更に又杯盤狼藉の間に、従容迫らない態度などは何とはなしに心憎いものがある。
336格無しさん
2018/05/08(火) 03:26:31.28ID:mpMazghg
いつも人生を薔薇色の光りに仄めかそうとする浪曼主義。
337格無しさん
2018/05/08(火) 03:26:47.13ID:mpMazghg
その誘惑を意識しつつ、しかもその誘惑に抵抗しない、たとえば中途まで送って来た妓と、「何事かひそひそ囁き交したる後」
338格無しさん
2018/05/08(火) 03:27:02.84ID:mpMazghg
莫迦莫迦しさをも承知した上、「わざと取ってつけたように高く左様なら」
339格無しさん
2018/05/08(火) 03:27:18.70ID:mpMazghg
と云い合いて、別れ別れに一方は大路へ、一方は小路へ、姿を下駄音と共に消すのも、満更厭な気ばかり起させる訳でもない。
340格無しさん
2018/05/08(火) 03:27:34.55ID:mpMazghg
私も嘗て、本郷なる何某と云うレストランに、久米とマンハッタン・カクテルに酔いて、その生活の放漫なるを非難したる事ありしが、何時か久米の倨然たる一家の風格を感じたのを見ては、鶏は陸に米を啄み家鴨は水に泥鰌を追うを悟り、
341格無しさん
2018/05/08(火) 03:27:50.42ID:mpMazghg
寝静まりたる家家の向う「低き夢夢の畳める間に、晩くほの黄色き月の出を見出でて」
342格無しさん
2018/05/08(火) 03:28:06.26ID:mpMazghg
去り得ない趣さえ感じたことがある。
343格無しさん
2018/05/08(火) 03:28:22.11ID:mpMazghg
愛すべき三汀、今は蜜月の旅に上りて東京にあらず。…………
344格無しさん
2018/05/08(火) 03:28:37.85ID:mpMazghg
小春日や小島眺むる頬寄せて 三汀
345格無しさん
2018/05/08(火) 03:28:53.71ID:mpMazghg
久米は官能の鋭敏な田舎者です。
346格無しさん
2018/05/08(火) 03:29:09.56ID:mpMazghg
書くものばかりじゃありません。
347格無しさん
2018/05/08(火) 03:29:25.40ID:mpMazghg
実生活上の趣味でも田舎者らしい所は沢山あります。
348格無しさん
2018/05/08(火) 03:29:41.13ID:mpMazghg
それでいて官能だけは、好い加減な都会人より遥に鋭敏に出来上っています。
349格無しさん
2018/05/08(火) 03:29:57.18ID:mpMazghg
嘘だと思ったら、久米の作品を読んでごらんなさい。
350格無しさん
2018/05/08(火) 03:30:13.01ID:mpMazghg
色彩とか空気とか云うものは、如何にも鮮明に如何にも清新に描けています。
351格無しさん
2018/05/08(火) 03:30:28.85ID:mpMazghg
この点だけ切り離して云えば、現在の文壇で幾人も久米の右へ出るものはないでしょう。
352格無しさん
2018/05/08(火) 03:30:44.68ID:mpMazghg
勿論田舎者らしい所にも、善い点がないと云うのではありません。
353格無しさん
2018/05/08(火) 03:31:00.56ID:mpMazghg
いや、寧ろ久米のフォルトたる一面は、そこにあるとさえ云われるでしょう。
354格無しさん
2018/05/08(火) 03:31:16.40ID:mpMazghg
素朴な抒情味などは、完くこの田舎者から出ているのです。
355格無しさん
2018/05/08(火) 03:31:32.24ID:mpMazghg
序にもう一つ制限を加えましょうか。
356格無しさん
2018/05/08(火) 03:31:48.08ID:mpMazghg
それは久米が田舎者でも唯の田舎者ではないと云う事です。
357格無しさん
2018/05/08(火) 03:32:03.94ID:mpMazghg
尤もこれはじゃ何だと云われると少し困りますが、まあ久米の田舎者の中には、道楽者の素質が多分にあるとでも云って置きましょう。
358格無しさん
2018/05/08(火) 03:32:19.76ID:mpMazghg
そこから久米の作品の中にあるヴォラプテュアスな所が生れて来るのです。
359格無しさん
2018/05/08(火) 03:32:35.62ID:mpMazghg
そんな点で多少のクラデルなんぞを想起させる所もありますが、勿論全体としては別段似てもいません。
360格無しさん
2018/05/08(火) 03:32:51.46ID:mpMazghg
こう云う特質に冷淡な人は、久米の作品を読んでも、一向面白くないでしょう。
361格無しさん
2018/05/08(火) 03:33:07.32ID:mpMazghg
しかしこの特質は、決してそこいらにありふれているものではありません。
362格無しさん
2018/05/08(火) 03:33:23.18ID:mpMazghg
依然として久米正雄です。
363格無しさん
2018/05/08(火) 03:33:39.02ID:mpMazghg
ある日の事でございます。
364格無しさん
2018/05/08(火) 03:33:54.86ID:mpMazghg
御釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。
365格無しさん
2018/05/08(火) 03:34:10.59ID:mpMazghg
池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のようにまっ白で、そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匂が、絶間なくあたりへ溢れて居ります。
366格無しさん
2018/05/08(火) 03:34:26.45ID:mpMazghg
極楽は丁度朝なのでございましょう。
367格無しさん
2018/05/08(火) 03:34:42.29ID:mpMazghg
やがて御釈迦様はその池のふちに御佇みになって、水の面を蔽っている蓮の葉の間から、ふと下の容子を御覧になりました。
368格無しさん
2018/05/08(火) 03:34:58.12ID:mpMazghg
この極楽の蓮池の下は、丁度地獄の底に当って居りますから、水晶のような水を透き徹して、三途の河や針の山の景色が、丁度覗き眼鏡を見るように、はっきりと見えるのでございます。
369格無しさん
2018/05/08(火) 03:35:13.95ID:mpMazghg
するとその地獄の底に、陀多と云う男が一人、ほかの罪人と一しょに蠢いている姿が、御眼に止まりました。
370格無しさん
2018/05/08(火) 03:35:29.78ID:mpMazghg
この陀多と云う男は、人を殺したり家に火をつけたり、いろいろ悪事を働いた大泥坊でございますが、それでもたった一つ、善い事を致した覚えがございます。
371格無しさん
2018/05/08(火) 03:35:45.64ID:mpMazghg
と申しますのは、ある時この男が深い林の中を通りますと、小さな蜘蛛が一匹、路ばたを這って行くのが見えました。
372格無しさん
2018/05/08(火) 03:36:01.65ID:mpMazghg
そこで陀多は早速足を挙げて、踏み殺そうと致しましたが、「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違いない。
373格無しさん
2018/05/08(火) 03:36:17.51ID:mpMazghg
その命を無暗にとると云う事は、いくら何でも可哀そうだ。」
374格無しさん
2018/05/08(火) 03:36:33.34ID:mpMazghg
と、こう急に思い返して、とうとうその蜘蛛を殺さずに助けてやったからでございます。
375格無しさん
2018/05/08(火) 03:36:49.21ID:mpMazghg
御釈迦様は地獄の容子を御覧になりながら、この陀多には蜘蛛を助けた事があるのを御思い出しになりました。
376格無しさん
2018/05/08(火) 03:37:04.91ID:mpMazghg
そうしてそれだけの善い事をした報には、出来るなら、この男を地獄から救い出してやろうと御考えになりました。
377格無しさん
2018/05/08(火) 03:37:20.76ID:mpMazghg
幸い、側を見ますと、翡翠のような色をした蓮の葉の上に、極楽の蜘蛛が一匹、美しい銀色の糸をかけて居ります。
378格無しさん
2018/05/08(火) 03:37:36.61ID:mpMazghg
御釈迦様はその蜘蛛の糸をそっと御手に御取りになって、玉のような白蓮の間から、遥か下にある地獄の底へ、まっすぐにそれを御下しなさいました。
379格無しさん
2018/05/08(火) 03:37:52.47ID:mpMazghg
こちらは地獄の底の血の池で、ほかの罪人と一しょに、浮いたり沈んだりしていた陀多でございます。
380格無しさん
2018/05/08(火) 03:38:08.30ID:mpMazghg
何しろどちらを見ても、まっ暗で、たまにそのくら暗からぼんやり浮き上っているものがあると思いますと、それは恐しい針の山の針が光るのでございますから、その心細さと云ったらございません。
381格無しさん
2018/05/08(火) 03:38:24.16ID:mpMazghg
その上あたりは墓の中のようにしんと静まり返って、たまに聞えるものと云っては、ただ罪人がつく微な嘆息ばかりでございます。
382格無しさん
2018/05/08(火) 03:38:39.99ID:mpMazghg
これはここへ落ちて来るほどの人間は、もうさまざまな地獄の責苦に疲れはてて、泣声を出す力さえなくなっているのでございましょう。
383格無しさん
2018/05/08(火) 03:38:55.86ID:mpMazghg
ですからさすが大泥坊の陀多も、やはり血の池の血に咽びながら、まるで死にかかった蛙のように、ただもがいてばかり居りました。
384格無しさん
2018/05/08(火) 03:39:11.70ID:mpMazghg
ところがある時の事でございます。
385格無しさん
2018/05/08(火) 03:39:27.54ID:mpMazghg
何気なく陀多が頭を挙げて、血の池の空を眺めますと、そのひっそりとした暗の中を、遠い遠い天上から、銀色の蜘蛛の糸が、まるで人目にかかるのを恐れるように、一すじ細く光りながら、するすると自分の上へ垂れて参るのではございませんか。
386格無しさん
2018/05/08(火) 03:39:43.24ID:mpMazghg
陀多はこれを見ると、思わず手を拍って喜びました。
387格無しさん
2018/05/08(火) 03:39:59.08ID:mpMazghg
この糸に縋りついて、どこまでものぼって行けば、きっと地獄からぬけ出せるのに相違ございません。
388格無しさん
2018/05/08(火) 03:40:14.94ID:mpMazghg
いや、うまく行くと、極楽へはいる事さえも出来ましょう。
389格無しさん
2018/05/08(火) 03:40:30.79ID:mpMazghg
そうすれば、もう針の山へ追い上げられる事もなくなれば、血の池に沈められる事もある筈はございません。
390格無しさん
2018/05/08(火) 03:40:46.65ID:mpMazghg
こう思いましたから陀多は、早速その蜘蛛の糸を両手でしっかりとつかみながら、一生懸命に上へ上へとたぐりのぼり始めました。
391格無しさん
2018/05/08(火) 03:41:02.53ID:mpMazghg
元より大泥坊の事でございますから、こう云う事には昔から、慣れ切っているのでございます。
392格無しさん
2018/05/08(火) 03:41:18.39ID:mpMazghg
しかし地獄と極楽との間は、何万里となくございますから、いくら焦って見た所で、容易に上へは出られません。
393格無しさん
2018/05/08(火) 03:41:34.26ID:mpMazghg
ややしばらくのぼる中に、とうとう陀多もくたびれて、もう一たぐりも上の方へはのぼれなくなってしまいました。
394格無しさん
2018/05/08(火) 03:41:50.11ID:mpMazghg
そこで仕方がございませんから、まず一休み休むつもりで、糸の中途にぶら下りながら、遥かに目の下を見下しました。
395格無しさん
2018/05/08(火) 03:42:05.83ID:mpMazghg
すると、一生懸命にのぼった甲斐があって、さっきまで自分がいた血の池は、今ではもう暗の底にいつの間にかかくれて居ります。
396格無しさん
2018/05/08(火) 03:42:21.66ID:mpMazghg
それからあのぼんやり光っている恐しい針の山も、足の下になってしまいました。
397格無しさん
2018/05/08(火) 03:42:37.50ID:mpMazghg
この分でのぼって行けば、地獄からぬけ出すのも、存外わけがないかも知れません。
398格無しさん
2018/05/08(火) 03:42:53.36ID:mpMazghg
陀多は両手を蜘蛛の糸にからみながら、ここへ来てから何年にも出した事のない声で、「しめた。
399格無しさん
2018/05/08(火) 03:43:09.20ID:mpMazghg
ところがふと気がつきますと、蜘蛛の糸の下の方には、数限もない罪人たちが、自分ののぼった後をつけて、まるで蟻の行列のように、やはり上へ上へ一心によじのぼって来るではございませんか。
400格無しさん
2018/05/08(火) 03:43:24.96ID:mpMazghg
陀多はこれを見ると、驚いたのと恐しいのとで、しばらくはただ、莫迦のように大きな口を開いたまま、眼ばかり動かして居りました。
401格無しさん
2018/05/08(火) 03:43:40.80ID:mpMazghg
自分一人でさえ断れそうな、この細い蜘蛛の糸が、どうしてあれだけの人数の重みに堪える事が出来ましょう。
402格無しさん
2018/05/08(火) 03:43:56.61ID:mpMazghg
もし万一途中で断れたと致しましたら、折角ここへまでのぼって来たこの肝腎な自分までも、元の地獄へ逆落しに落ちてしまわなければなりません。
403格無しさん
2018/05/08(火) 03:44:12.48ID:mpMazghg
そんな事があったら、大変でございます。
404格無しさん
2018/05/08(火) 03:44:28.32ID:mpMazghg
が、そう云う中にも、罪人たちは何百となく何千となく、まっ暗な血の池の底から、うようよと這い上って、細く光っている蜘蛛の糸を、一列になりながら、せっせとのぼって参ります。
405格無しさん
2018/05/08(火) 03:44:44.17ID:mpMazghg
今の中にどうかしなければ、糸はまん中から二つに断れて、落ちてしまうのに違いありません。
406格無しさん
2018/05/08(火) 03:45:00.04ID:mpMazghg
そこで陀多は大きな声を出して、「こら、罪人ども。
407格無しさん
2018/05/08(火) 03:45:15.93ID:mpMazghg
この蜘蛛の糸は己のものだぞ。
408格無しさん
2018/05/08(火) 03:45:31.77ID:mpMazghg
お前たちは一体誰に尋いて、のぼって来た。
409格無しさん
2018/05/08(火) 03:45:47.64ID:mpMazghg
その途端でございます。
410格無しさん
2018/05/08(火) 03:46:03.45ID:mpMazghg
今まで何ともなかった蜘蛛の糸が、急に陀多のぶら下っている所から、ぷつりと音を立てて断れました。
411格無しさん
2018/05/08(火) 03:46:19.19ID:mpMazghg
ですから陀多もたまりません。
412格無しさん
2018/05/08(火) 03:46:35.03ID:mpMazghg
あっと云う間もなく風を切って、独楽のようにくるくるまわりながら、見る見る中に暗の底へ、まっさかさまに落ちてしまいました。
413格無しさん
2018/05/08(火) 03:46:50.85ID:mpMazghg
後にはただ極楽の蜘蛛の糸が、きらきらと細く光りながら、月も星もない空の中途に、短く垂れているばかりでございます。
414格無しさん
2018/05/08(火) 03:47:06.61ID:mpMazghg
御釈迦様は極楽の蓮池のふちに立って、この一部始終をじっと見ていらっしゃいましたが、やがて陀多が血の池の底へ石のように沈んでしまいますと、悲しそうな御顔をなさりながら、またぶらぶら御歩きになり始めました。
415格無しさん
2018/05/08(火) 03:47:22.47ID:mpMazghg
自分ばかり地獄からぬけ出そうとする、陀多の無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、御釈迦様の御目から見ると、浅間しく思召されたのでございましょう。
416格無しさん
2018/05/08(火) 03:47:38.33ID:mpMazghg
しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着致しません。
417格無しさん
2018/05/08(火) 03:47:54.17ID:mpMazghg
その玉のような白い花は、御釈迦様の御足のまわりに、ゆらゆら萼を動かして、そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匂が、絶間なくあたりへ溢れて居ります。
418格無しさん
2018/05/08(火) 03:48:10.01ID:mpMazghg
極楽ももう午に近くなったのでございましょう。
419格無しさん
2018/05/08(火) 03:48:25.76ID:mpMazghg
兄弟、君はわしが恋をした事があるかと云ふのだね、それはある。
420格無しさん
2018/05/08(火) 03:48:41.60ID:mpMazghg
が、わしの話は、妙な怖しい話で、わしもとつて六十六になるが、今でさへ成る可く、其記憶の灰を掻き廻さないやうにしてゐるのだ。
421格無しさん
2018/05/08(火) 03:48:57.44ID:mpMazghg
君には、わしは何一つ分隔てをしないが、話が話だけに、わしより経験の浅い人に話しをするのは、実はどうかとも思つてゐる。
422格無しさん
2018/05/08(火) 03:49:13.30ID:mpMazghg
何しろわしの話の顛末は、余り不思議なので、わしが其事件に現在関係してゐたとは自分ながらわしにも殆ど信じる事が出来ぬ。
423格無しさん
2018/05/08(火) 03:49:29.15ID:mpMazghg
わしは三年以上、最も不可思議な、そして、最も奇怪な幻惑の犠牲になつてゐたのである。
424格無しさん
2018/05/08(火) 03:49:45.00ID:mpMazghg
わしはみじめな田舎の僧侶をしてゐたが、毎夜、夢には――
425格無しさん
2018/05/08(火) 03:50:00.86ID:mpMazghg
わしはそれが悉く夢ならむ事を祈つてゐるが――
426格無しさん
2018/05/08(火) 03:50:16.70ID:mpMazghg
最も五慾に染んだ、呪ふ可き生活を、云はゞサルダナパルスの生活を送つてゐた。
427格無しさん
2018/05/08(火) 03:50:32.53ID:mpMazghg
そして或女をうつかり一目見たばかりに、危くわしの霊魂を地獄に堕す所だつたが、幸にも神の恵と、わしを加護してくれた聖徒の扶けとによつて、遂にわしは、わしに附いてゐた悪魔の手から免れる事が出来た。
428格無しさん
2018/05/08(火) 03:50:48.37ID:mpMazghg
思へばわしの昼の生活は、長い間、全く性質の異つた夜の生活と、織り交ぜられてゐたのである。
429格無しさん
2018/05/08(火) 03:51:04.24ID:mpMazghg
昼間は、わしは祈祷と神聖な事物とに忙しい神の僧侶であるが、夜、眼をつぶる刹那からは、忽ち若い貴族になつてしまふ。
430格無しさん
2018/05/08(火) 03:51:20.12ID:mpMazghg
女と犬と馬とにかけては、眼のない人間になつてしまふ。
431格無しさん
2018/05/08(火) 03:51:36.17ID:mpMazghg
博奕も打つ、酒も飲む、罵詈をして神を馬鹿にもする。
432格無しさん
2018/05/08(火) 03:51:52.02ID:mpMazghg
そして、暁方に眼を醒ますと、却つてわしがまだ眠つてゐて、唯、僧侶になつた夢をみてゐるやうな心持がする。
433格無しさん
2018/05/08(火) 03:52:07.87ID:mpMazghg
此夢遊病者のやうな生活の或場面とか或語とかの回想は、未だにわしの心に残つてゐて、わしはどうしてもそれを、わしの記憶から拭ひ去る事が出来ない。
434格無しさん
2018/05/08(火) 03:52:23.70ID:mpMazghg
わしは、実際、わしの住居を離れた事のない人間なのだが、人はわしの話すのを聞くと、わしは浮世の歓楽に倦みはてゝ、信心深い、波瀾に富んだ生涯の結末を神に仕へて暮さうと云ふ沙門だと思ふかもしれない。
435格無しさん
2018/05/08(火) 03:52:39.55ID:mpMazghg
此世紀の生活からさへ絶縁された、森の奥の、陰鬱な僧房に住みふるした学僧だとは思はぬかもしれない。
436格無しさん
2018/05/08(火) 03:52:55.40ID:mpMazghg
わしの様に烈しく恋をした者は此世に一人もゐない程、恋をした――
437格無しさん
2018/05/08(火) 03:53:11.28ID:mpMazghg
愚な、凄じい熱情を以て――
438格無しさん
2018/05/08(火) 03:53:27.10ID:mpMazghg
わしは寧ろその熱情がわしの心臓をずたずたに裂かなかつたのを怪しむ位である。
439格無しさん
2018/05/08(火) 03:53:42.94ID:mpMazghg
如何なる夜であつたらう。
440格無しさん
2018/05/08(火) 03:53:58.66ID:mpMazghg
わしは幼い時から、わしの天職の僧侶にあるのを感じてゐた。
441格無しさん
2018/05/08(火) 03:54:14.39ID:mpMazghg
そこでわしの凡ての研究は、其理想を目標として積まれたのである。
442格無しさん
2018/05/08(火) 03:54:30.40ID:mpMazghg
二十四歳までのわしの生活は云はゞ唯、長い今道心の生活であつた。
443格無しさん
2018/05/08(火) 03:54:46.24ID:mpMazghg
神学を修めると共に、わしは引続いて凡ての下級の僧位を得た為めに、先達たちは、若いながらわしが、最後の、恐しい位階を得る資格がある事を認めてくれた。
444格無しさん
2018/05/08(火) 03:55:02.09ID:mpMazghg
そしてわしの授位式は、復活祭の一週中に定められたのである。
445格無しさん
2018/05/08(火) 03:55:17.94ID:mpMazghg
わしはそれ迄に世間を見た事がなかつた。
446格無しさん
2018/05/08(火) 03:55:33.76ID:mpMazghg
わしの世界は大学と研究室との壁に限られてゐたのである。
447格無しさん
2018/05/08(火) 03:55:49.59ID:mpMazghg
と云ふ者があると云ふ事は、漠然と知つてゐたが、わしはわしの思想が此様な題目の上に止る事を許さなかつたので、わしは全く純真無垢な生活をつゞけて来た。
448格無しさん
2018/05/08(火) 03:56:05.43ID:mpMazghg
一年に二度、わしは、年をとつた体の弱い母親に逢ふが、此二回の訪問の中に、わしの外界に対する、凡ての関係が含まれてゐたのである。
449格無しさん
2018/05/08(火) 03:56:21.32ID:mpMazghg
わしは何も悔いる所はなかつた。
450格無しさん
2018/05/08(火) 03:56:37.16ID:mpMazghg
わしは此最後の、避く可からざる一歩を投ずるのに、何等の躊躇もしなかつた。
451格無しさん
2018/05/08(火) 03:56:53.03ID:mpMazghg
わしは唯、喜悦と短気とに満たされてゐたのである。
452格無しさん
2018/05/08(火) 03:57:08.87ID:mpMazghg
婚礼をする恋人でも、わし以上の熱に浮かされた感激を以て、遅い時の歩みを数へはしなかつたであらう。
453格無しさん
2018/05/08(火) 03:57:24.73ID:mpMazghg
わしは眠りさへすれば、必ず祈祷を唱へてゐる夢を見た。
454格無しさん
2018/05/08(火) 03:57:40.60ID:mpMazghg
僧侶になるより愉快な事はない。
455格無しさん
2018/05/08(火) 03:57:56.42ID:mpMazghg
かうわしは信じてゐた。
456格無しさん
2018/05/08(火) 03:58:12.25ID:mpMazghg
元より国王になる気も、詩人になる気も無い。
457格無しさん
2018/05/08(火) 03:58:28.08ID:mpMazghg
わしの野心は、之以上に高い目標を認める事が出来なかつたのである。
458格無しさん
2018/05/08(火) 03:58:43.91ID:mpMazghg
わしが君に此様な事を云ふのは、わしの身の上に起つた事が、順当に行けば決して起らなかつたと云ふ事を知らせる為めに云ふのである。
459格無しさん
2018/05/08(火) 03:58:59.75ID:mpMazghg
そしてわしが、不可解な蠱惑の犠牲であつたと云ふ事を理解して貰ふ為めに云ふのである。
460格無しさん
2018/05/08(火) 03:59:15.59ID:mpMazghg
わしは、自分が空に浮んでゐるか、肩に翼が生えたかと疑はれる程、軽快な足取りで、教会へ歩いて行つた。
461格無しさん
2018/05/08(火) 03:59:31.43ID:mpMazghg
わしには、自分が天使であるかの如く思はれた。
462格無しさん
2018/05/08(火) 03:59:47.26ID:mpMazghg
そして、わしの同輩の、真面目な考深い顔をしてゐるのが、如何にも不思議に思はれた。
463格無しさん
2018/05/08(火) 04:00:03.11ID:mpMazghg
それは教会にも、わしの同輩が五六人ゐたからである。
464格無しさん
2018/05/08(火) 04:00:18.97ID:mpMazghg
わしは一夜を祈祷に明した後なので、殆ど恍惚として一切を忘れようとしてゐた。
465格無しさん
2018/05/08(火) 04:00:34.70ID:mpMazghg
年をとつた僧正も、わしには「永遠」
466格無しさん
2018/05/08(火) 04:00:50.59ID:mpMazghg
に倚つてゐる神の如くに見えた。
467格無しさん
2018/05/08(火) 04:01:06.45ID:mpMazghg
わしは実に、殿堂の穹窿を透して、天国を望む事が出来たのである。
468格無しさん
2018/05/08(火) 04:01:22.46ID:mpMazghg
あの式の個条は君もよく知つてゐる――
469格無しさん
2018/05/08(火) 04:01:38.21ID:mpMazghg
祓浄式、二つの形式の下に行はれる聖餐式、「改宗者の膏」
470格無しさん
2018/05/08(火) 04:01:54.04ID:mpMazghg
を手の掌に塗る式、それから、僧正と一しよに恭しく、神の前へ犠牲を捧げる式……
471格無しさん
2018/05/08(火) 04:02:09.92ID:mpMazghg
あゝ、ヨブが「軽忽なる者は、眼を以て聖約を為さざる者なり」
472格無しさん
2018/05/08(火) 04:02:25.67ID:mpMazghg
と云つたのは、真理である。
473格無しさん
2018/05/08(火) 04:02:41.38ID:mpMazghg
わしは不図、其時迄下を向いてゐた頭を挙げて、わしの前にゐる女を見た。
474格無しさん
2018/05/08(火) 04:02:57.22ID:mpMazghg
女はわしが触れる事が出来るかと思はれる程、近くにゐる――
475格無しさん
2018/05/08(火) 04:03:13.04ID:mpMazghg
が実際は、わしから可成離れて、内陣のずつと向うの欄干の辺にゐたのである――
476格無しさん
2018/05/08(火) 04:03:28.76ID:mpMazghg
年も若く、容貌も驚くばかり美しい。
477格無しさん
2018/05/08(火) 04:03:44.62ID:mpMazghg
そして立派な着物迄着てゐる。
478格無しさん
2018/05/08(火) 04:04:00.35ID:mpMazghg
丁度、其時わしはわしの眼から、急に鱗が落ちたやうな気がした。
479格無しさん
2018/05/08(火) 04:04:16.13ID:mpMazghg
わしは、思ひがけなく明を得た盲人のやうな心持になつたのである。
480格無しさん
2018/05/08(火) 04:04:31.99ID:mpMazghg
一瞬間以前には、光彩に溢れてゐた僧正も、急に何処かへ行つてしまへば、金色の燭架の上の蝋燭も、暁の星のやうに青ざめて、わしには無限の闇黒が、全寺院を領したやうに思はれた。
481格無しさん
2018/05/08(火) 04:04:47.82ID:mpMazghg
そして其美しい女は、其闇黒を背景に燦爛とした浮彫になつて、丁度天使の来迎を仰ぐやうに、わしの眼の前に現れて来た。
482格無しさん
2018/05/08(火) 04:05:03.65ID:mpMazghg
彼女は、自ら輝いてゐるやうに、しかも光を受けてゐると云ふよりは、自ら光を放つてゐるやうに見えたのである。
483格無しさん
2018/05/08(火) 04:05:19.51ID:mpMazghg
そして二度と再び眼をあけまいと決心した。
484格無しさん
2018/05/08(火) 04:05:35.39ID:mpMazghg
わしは外界の事物の影響を蒙るのを恐れてゐた。
485格無しさん
2018/05/08(火) 04:05:51.23ID:mpMazghg
それは、殆どわしが何をしてゐるか知らぬ内に、次第に蠱惑がわしの心を捕へてしまつたからである。
486格無しさん
2018/05/08(火) 04:06:07.08ID:mpMazghg
それにも関らず、忽ち又、わしは眼を開いた。
487格無しさん
2018/05/08(火) 04:06:22.84ID:mpMazghg
何故と云へば、わしは睫毛の間からも、彼女が虹色にきらめきながら、太陽を凝視てゐる時に見えるやうな、紫の半陰影に囲まれてゐるのを見たからであつた。
488格無しさん
2018/05/08(火) 04:06:38.71ID:mpMazghg
おゝ如何に彼女は美しかつたであらう。
489格無しさん
2018/05/08(火) 04:06:54.55ID:mpMazghg
理想の美を天上に求めて、其処から聖母の真像を地上に齎し帰つた大画家でも、其輪廓に於ては到底、わしが今見てゐる、自然の美しい実在に及ぶ事は出来ない。
490格無しさん
2018/05/08(火) 04:07:10.39ID:mpMazghg
詩人の詩、画家の画板も、彼女の概念を与へる事は、全く不可能である。
491格無しさん
2018/05/08(火) 04:07:26.27ID:mpMazghg
彼女はどちらかと云へば、背の高い方で、女神のやうな姿と態度とを備へてゐる。
492格無しさん
2018/05/08(火) 04:07:42.13ID:mpMazghg
柔かな金髪は、真中から分れて、顳の上へ二つの漣立つた黄金の河を流してゐた。
493格無しさん
2018/05/08(火) 04:07:58.00ID:mpMazghg
丁度、王冠を頂いた女王のやうにも思はれる。
494格無しさん
2018/05/08(火) 04:08:14.02ID:mpMazghg
すき透るばかりに青白い額は又静に眉毛の上に拡がつてゐる。
495格無しさん
2018/05/08(火) 04:08:29.75ID:mpMazghg
其眉毛は不思議にも殆ど黒く、抑へ難い快活と光明とに溢れた海の如く青い眼の感じを飽く迄もうつくしく強めてゐる。
496格無しさん
2018/05/08(火) 04:08:45.60ID:mpMazghg
あゝ、何と云ふ眼であらう。
497格無しさん
2018/05/08(火) 04:09:01.47ID:mpMazghg
唯一度瞬けば一人の男の運命を定めるのも容易なのに相違ない。
498格無しさん
2018/05/08(火) 04:09:17.21ID:mpMazghg
其眼はわしが是迄人間の眼に見る事の出来なかつた生命と光明と情熱と潤ひのある光とを持つてゐる。
499格無しさん
2018/05/08(火) 04:09:33.05ID:mpMazghg
其眼は又絶えず矢のやうに光を射てゐる。
500格無しさん
2018/05/08(火) 04:09:48.89ID:mpMazghg
そしてわしは確に、その光がわしの心の臓に這入つたのを見た。
501格無しさん
2018/05/08(火) 04:10:04.61ID:mpMazghg
わしは其眼に輝いてゐる火が、天上から来たのか、地獄から来たのかを知らない。
502格無しさん
2018/05/08(火) 04:10:20.46ID:mpMazghg
けれども、それは確に其二つの中のどちらからか来たのである。
503格無しさん
2018/05/08(火) 04:10:36.31ID:mpMazghg
彼女は天使か、さもなくば悪魔である。
504格無しさん
2018/05/08(火) 04:10:52.17ID:mpMazghg
そして恐らくは又両方であつたらしい。
505格無しさん
2018/05/08(火) 04:11:08.04ID:mpMazghg
兎に角、彼女が我等の同じき母なるエヴの胎から生れた者で無い事は確である。
506格無しさん
2018/05/08(火) 04:11:23.90ID:mpMazghg
それから此上もなく光沢のある真珠の歯が、紅い微笑の中にきらめいて、唇の彎む毎に、小さな靨が、繻子のやうな薔薇色のうつくしい頬に現れる。
507格無しさん
2018/05/08(火) 04:11:39.75ID:mpMazghg
そして鼻の孔の正しい輪廓にも、高貴な生れを示す嫋やかさと誇らしさとが見えてゐる。
508格無しさん
2018/05/08(火) 04:11:55.49ID:mpMazghg
半ば露した肩の滑な光沢のある皮膚の上には、瑪瑙の光がゆらめき、大きな黄味のある真珠を綴つた紐は――
509格無しさん
2018/05/08(火) 04:12:11.34ID:mpMazghg
其色の美しさは殆ど彼女の頸に匹敵する――
510格無しさん
2018/05/08(火) 04:12:27.20ID:mpMazghg
彼女の胸の上にたれてゐる。
511格無しさん
2018/05/08(火) 04:12:43.02ID:mpMazghg
時々、彼女は物に驚いた蛇か孔雀のやうな、をのゝくやうな嬌態を作つて、首をもたげる。
512格無しさん
2018/05/08(火) 04:12:58.78ID:mpMazghg
すると銀の格子細工のやうに頸を捲いてゐる高いレースの襞襟がをのゝくやうに動くのである。
513格無しさん
2018/05/08(火) 04:13:14.49ID:mpMazghg
彼女は橙色がかつた真紅の天鵞絨の袍を着てゐた。
514格無しさん
2018/05/08(火) 04:13:30.36ID:mpMazghg
其黄鼬の毛皮のついた、広い袖口からは、限りなく優しい、上品な手が、覗いてゐる。
515格無しさん
2018/05/08(火) 04:13:46.22ID:mpMazghg
手は曙の女神の指のやうに、光を透すかと思はれる程、清らかなのである。
516格無しさん
2018/05/08(火) 04:14:02.07ID:mpMazghg
凡て是等の事柄を一つ/\わしは昨日の如く思ひ返す事が出来る。
517格無しさん
2018/05/08(火) 04:14:17.93ID:mpMazghg
何故と云へば其時、わしはどぎまぎしながらも、何一つ見落すやうな事をしなかつたからである。
518格無しさん
2018/05/08(火) 04:14:33.78ID:mpMazghg
ほんの微かな陰影でも、顋の先の一寸した黒い点でも、唇の隅の有るか無いかわからない程の生毛でも、額の上にある天鵞絨のやうな毛でも、頬の上に落ちる睫毛のゆらめく影でも、何でもわしは驚く程明瞭な知覚を以て、注意する事が出来た。
519格無しさん
2018/05/08(火) 04:14:49.62ID:mpMazghg
そしてわしは凝視を続けながら、わしの心の中に、今迄鎖されてゐた門をわしが開いてゐるのを感じた。
520格無しさん
2018/05/08(火) 04:15:05.37ID:mpMazghg
長い間塞がれてゐた孔が開けて、内部の見知らない景色を垣間見る事が出来たのである。
521格無しさん
2018/05/08(火) 04:15:21.20ID:mpMazghg
人生は忽ち全く新奇な光景を、わしの前に示してくれた。
522格無しさん
2018/05/08(火) 04:15:36.93ID:mpMazghg
わしは、今新しい世界と新しい事物の秩序との中に生れて来るのであつた。
523格無しさん
2018/05/08(火) 04:15:52.76ID:mpMazghg
すると恐しい苦痛がわしの心を、赤熱した釘抜のやうに苛みはじめた。
524格無しさん
2018/05/08(火) 04:16:08.48ID:mpMazghg
一分一分が、わしには一秒であると共に又一世紀であるやうに思はれた。
525格無しさん
2018/05/08(火) 04:16:24.31ID:mpMazghg
此間に式が進んで、わしは間も無く、わしの新たに生れた欲望が烈しく、闖入しようとしてゐた世界から、遠くへ引離されてしまつたのである。
526格無しさん
2018/05/08(火) 04:16:40.18ID:mpMazghg
と云ひたい所を「然り」
527格無しさん
2018/05/08(火) 04:16:56.02ID:mpMazghg
これはわしの心の中にある凡ての物がわしの霊魂に加へた舌の暴行に対して極力反抗したが其甲斐がなかつたのである。
528格無しさん
2018/05/08(火) 04:17:11.86ID:mpMazghg
恐らく、多くの少女が断然父母の定めた夫を拒絶する心算で、祭壇へ歩んで行くのにも関らず、一人として其目的を果す者の無いのも、かうした訳からに相違ない。
529格無しさん
2018/05/08(火) 04:17:27.71ID:mpMazghg
そして多くの燐れな新参の僧侶が誓言を述べに呼ばれる時には、面をずた/\に裂く決心をしてゐながら、阿容々々とそれを取つてしまふのも亦確にかうした訳からである。
530格無しさん
2018/05/08(火) 04:17:43.55ID:mpMazghg
かくして人は、其処にゐる凡ての人々に対して大なる誹謗の声を挙げる事を敢てしないと共に、又多くの人々の期待を欺く事も敢てしない。
531格無しさん
2018/05/08(火) 04:17:59.41ID:mpMazghg
凡ての夫等の人々の眼、凡ての夫等の人々の意志は、恰も鉛の如く君の上に蔽ひかゝるやうに思はれるのである。
532格無しさん
2018/05/08(火) 04:18:15.28ID:mpMazghg
それのみならず、規則も正しく定まつてゐれば、万事が予め、完全に整つて、しかも多少必然的に避ける事の出来ないやうに出来上つてゐるので、個人の意志は事情の重みに屈従して遂には全く破壊されてしまふのである。
533格無しさん
2018/05/08(火) 04:18:31.12ID:mpMazghg
式の進むのにつれて、其知らぬ美人の顔も表情が違つて来た。
534格無しさん
2018/05/08(火) 04:18:47.01ID:mpMazghg
彼女の顔色は、最初は撫愛するやうな優しさを示してゐたが、今は恰もそれを理解させる事が出来ないのを、憎み且つ恥づるやうな容子に変つたのである。
535格無しさん
2018/05/08(火) 04:19:02.86ID:mpMazghg
山をも抜くに足りる意志の力を奮つて、わしは、僧侶などになり度く無いと叫ばうとした。
536格無しさん
2018/05/08(火) 04:19:18.69ID:mpMazghg
が、どうしてもそれが出来なかつた。
537格無しさん
2018/05/08(火) 04:19:34.58ID:mpMazghg
わしには舌が上顎に附着してしまつたやうな気がしたのである。
538格無しさん
2018/05/08(火) 04:19:50.42ID:mpMazghg
わしは否定の綴音を一つでも洩して、わしの意志を表白する事すら出来なかつた、わしは眼が醒めてゐながら、生命にも関はる一語を叫ばうとして、魘されてゐる人間のやうな心持がした。
539格無しさん
2018/05/08(火) 04:20:06.25ID:mpMazghg
彼女もわしの殉教の苦しみを知つてゐるかの如くに見えた。
540格無しさん
2018/05/08(火) 04:20:22.20ID:mpMazghg
そして恰も、わしを励ますやうに、最も神聖な約束に満ちた眼色をして見せるのである。
541格無しさん
2018/05/08(火) 04:20:37.92ID:mpMazghg
彼女の眼が詩なら彼女の一瞥は正に唄であつた。
542格無しさん
2018/05/08(火) 04:20:53.78ID:mpMazghg
彼女はわしにかう云つてくれる。
543格無しさん
2018/05/08(火) 04:21:09.63ID:mpMazghg
「貴方が私のものになる思召しなら、私は貴方を天国にゐる神様より仕合せにしてあげます。
544格無しさん
2018/05/08(火) 04:21:25.49ID:mpMazghg
天使たちでさへ貴方を嫉むでせう。
545格無しさん
2018/05/08(火) 04:21:41.37ID:mpMazghg
貴方は貴方を包まうとする経帷子を裂いておしまひなさい。
546格無しさん
2018/05/08(火) 04:21:57.19ID:mpMazghg
私の所へいらつしやい。
547格無しさん
2018/05/08(火) 04:22:13.05ID:mpMazghg
エホバはその代りに何を貴方に呉れるのでせう?
548格無しさん
2018/05/08(火) 04:22:28.91ID:mpMazghg
私たちの命は夢のやうに、永久の接吻の中に流れて行きます。
549格無しさん
2018/05/08(火) 04:22:44.62ID:mpMazghg
其聖杯の葡萄酒を投げすてゝおしまひなさい。
550格無しさん
2018/05/08(火) 04:23:00.47ID:mpMazghg
さうすれば貴方は自由です。
551格無しさん
2018/05/08(火) 04:23:16.32ID:mpMazghg
私は貴方を『知られざる島』
552格無しさん
2018/05/08(火) 04:23:32.15ID:mpMazghg
へつれて行つてあげます。
553格無しさん
2018/05/08(火) 04:23:47.98ID:mpMazghg
貴方は、銀の天幕の下で厚い金の床の上で、私の胸にお眠りなさい。
554格無しさん
2018/05/08(火) 04:24:03.80ID:mpMazghg
私は貴方を愛してゐるのですから。
555格無しさん
2018/05/08(火) 04:24:19.65ID:mpMazghg
私は貴方の神の手から貴方を離してしまひたいのですから。
556格無しさん
2018/05/08(火) 04:24:35.52ID:mpMazghg
貴方の神の前では、大ぜいの尊い心性の人たちが、愛の血を流します。
557格無しさん
2018/05/08(火) 04:24:51.38ID:mpMazghg
けれども其血は神のゐる玉座の階にさへとゞきません。」
558格無しさん
2018/05/08(火) 04:25:07.22ID:mpMazghg
是等の語は、わしの耳に無限の情味にあふれた諧律を作つて漂つて来るやうに思はれた。
559格無しさん
2018/05/08(火) 04:25:23.66ID:mpMazghg
そして彼女の眼の声は、恰も生きた唇がわしの生命の中に声を吹き込んだやうに、わしの心臓の奥迄も反響した。
560格無しさん
2018/05/08(火) 04:25:39.48ID:mpMazghg
わしはわし自らが神を捨てようとしてゐるのを感じた。
561格無しさん
2018/05/08(火) 04:25:55.32ID:mpMazghg
が、わしの舌は猶機械的に式の凡ての形式を満したので、わしはわしの胸が聖母の剣よりも鋭い刃に貫かれるやうな気がせずにはゐられなかつた。
562格無しさん
2018/05/08(火) 04:26:11.05ID:mpMazghg
凡ての事が円満に終を告げた。
563格無しさん
2018/05/08(火) 04:26:26.88ID:mpMazghg
わしは遂に憎侶となつた。
564格無しさん
2018/05/08(火) 04:26:42.64ID:mpMazghg
此時、彼女の顔に現れた程、人間の顔に深く苦痛が描かれた事はない。
565格無しさん
2018/05/08(火) 04:26:58.47ID:mpMazghg
婚約をした恋人が突然、己の傍に仆れて死んだのを見た少女、歿なつた子供の揺籃に倚懸つてゐる母親、楽園の門の閾に立てゐるエヴ、宝は盗まれて其跡に石の置いてあるのを見た吝嗇な男、偶然其最も傑れた作の原稿を火の中に取落した詩人――
566格無しさん
2018/05/08(火) 04:27:14.33ID:mpMazghg
是等の人々もかう迄絶望した、かう迄慰め難い顔附きをする事はないであらう。
567格無しさん
2018/05/08(火) 04:27:30.19ID:mpMazghg
血と云ふ血は彼女の愛らしい顔を去つて、それが今は大理石よりも白くなつてゐる。
568格無しさん
2018/05/08(火) 04:27:46.02ID:mpMazghg
彼女の美しい両腕は、恰も其筋肉が急に弛緩したかのやうに、力なく両脇に垂れてゐた。
569格無しさん
2018/05/08(火) 04:28:01.75ID:mpMazghg
彼女は身を支へる柱を求めた。
570格無しさん
2018/05/08(火) 04:28:17.66ID:mpMazghg
それは殆ど手足が彼女の自由にならなくなつてゐたからである。
571格無しさん
2018/05/08(火) 04:28:33.39ID:mpMazghg
そしてわしも亦、教会の戸口の方に蹌踉いて行つた、死のやうに青ざめて、額にはカルヴァリイ(註。
572格無しさん
2018/05/08(火) 04:28:49.23ID:mpMazghg
耶蘇の磔殺された地名)
573格無しさん
2018/05/08(火) 04:29:04.94ID:mpMazghg
の汗よりも血のやうな汗を流しながら。
574格無しさん
2018/05/08(火) 04:29:20.78ID:mpMazghg
わしはまるで縊り殺されてゐるやうな気がした。
575格無しさん
2018/05/08(火) 04:29:36.51ID:mpMazghg
さうかと思ふと又円天井がわしの肩の上へ平になつて落ちて来るやうな気もした。
576格無しさん
2018/05/08(火) 04:29:52.25ID:mpMazghg
そして其円天井の重量をわしの頭だけで支へてゐるやうな心持になつたのである。
577格無しさん
2018/05/08(火) 04:30:08.09ID:mpMazghg
わしが戸口を出ようとすると、急に一つの手がわしの手を捕へた――
578格無しさん
2018/05/08(火) 04:30:23.99ID:mpMazghg
其時迄わしは一度も女の手に触れた事は無かつた。
579格無しさん
2018/05/08(火) 04:30:39.84ID:mpMazghg
其手はさながら蛇の皮膚のやうに冷い。
580格無しさん
2018/05/08(火) 04:30:55.69ID:mpMazghg
しかも其感触は、恰も熱鉄に烙れたやうに、わしの手首を燃やすのである。
581格無しさん
2018/05/08(火) 04:31:11.53ID:mpMazghg
何と云ふ事をなすつたの。」
582格無しさん
2018/05/08(火) 04:31:27.37ID:mpMazghg
彼女は低い声でかう叫ぶと、忽ち群集の中に隠れて見えなくなつてしまつた。
583格無しさん
2018/05/08(火) 04:31:43.23ID:mpMazghg
すると、老年の僧正がわしの傍を通り過ぎた。
584格無しさん
2018/05/08(火) 04:31:59.11ID:mpMazghg
そして厳格な、不審さうな一瞥をわしの上に投げた。
585格無しさん
2018/05/08(火) 04:32:14.84ID:mpMazghg
わしは顔を赤くしたり、青くしたりした。
586格無しさん
2018/05/08(火) 04:32:30.59ID:mpMazghg
と、同輩の一人がわしを憐れんで、手を執つてわしを外へ連れ出してくれた。
587格無しさん
2018/05/08(火) 04:32:46.33ID:mpMazghg
恐らくわしが、人の扶けを借りずに、研究室へ帰るのは、到底出来なかつた事であらう。
588格無しさん
2018/05/08(火) 04:33:02.15ID:mpMazghg
所が往来の角で、同輩の若い僧侶の注意が一寸他に向いてゐる隙を見て、空想的な衣裳を着た、黒人の扈従がわしの側へやつて来た。
589格無しさん
2018/05/08(火) 04:33:18.04ID:mpMazghg
そして歩きながら、わしの手に小さな金縁の手帳を忍ばせると同時に、それを隠せと云ふ相図をした。
590格無しさん
2018/05/08(火) 04:33:33.89ID:mpMazghg
わしはそれを袖の中に隠した。
591格無しさん
2018/05/08(火) 04:33:49.72ID:mpMazghg
そしてわしの部屋へ帰つて独りになるまで、そこにしまつて置いた。
592格無しさん
2018/05/08(火) 04:34:05.57ID:mpMazghg
それからわしは其控金を開いた。
593格無しさん
2018/05/08(火) 04:34:21.40ID:mpMazghg
中には紙が二枚はひつてゐる。
594格無しさん
2018/05/08(火) 04:34:37.21ID:mpMazghg
其紙にはかう書いてあつた。
595格無しさん
2018/05/08(火) 04:34:53.05ID:mpMazghg
「クラリモンド・コンチニの宮にて」
596格無しさん
2018/05/08(火) 04:35:08.91ID:mpMazghg
当時わしは、世間の事に疎かつたので、クラリモンドの名さへ、有名だつたのにも関らず、耳にした事は一度も無かつた。
597格無しさん
2018/05/08(火) 04:35:24.77ID:mpMazghg
そして又コンチニの宮が何処にあるかと云ふ事も、一向に分らなかつた。
598格無しさん
2018/05/08(火) 04:35:40.60ID:mpMazghg
そこでわしは何度となく推量を逞くして見た。
599格無しさん
2018/05/08(火) 04:35:56.42ID:mpMazghg
そして推量を重ねる度に想像は益々方外になつたが、実際、わしは唯もう一度、彼女に逢へさへするならば、彼女が貴夫人であらうと、娼婦であらうと、それは大して構ひもしなかつたのである。
600格無しさん
2018/05/08(火) 04:36:12.27ID:mpMazghg
わしの恋は、僅一時間程経つ内に、抜き難い根を下ろして了つた。
601格無しさん
2018/05/08(火) 04:36:28.11ID:mpMazghg
わしは其恋を思切らうなどとは夢にも思はなかつた。
602格無しさん
2018/05/08(火) 04:36:43.86ID:mpMazghg
わしには其様な事は、全然不可能だとしか信じられなかつた。
603格無しさん
2018/05/08(火) 04:36:59.91ID:mpMazghg
彼女が一目見たばかりにわしの性質は一変してしまつたのである。
604格無しさん
2018/05/08(火) 04:37:15.71ID:mpMazghg
彼女は己の意志をわしの生命の中に吹き込んだ。
605格無しさん
2018/05/08(火) 04:37:31.56ID:mpMazghg
そしてわしはもうわし自身の肉体の中に生活しないで、彼女の肉体の中に、しかも彼女の為に生活するやうになつた。
606格無しさん
2018/05/08(火) 04:37:47.38ID:mpMazghg
わしはわしの手の、彼女の触れた所を接吻した。
607格無しさん
2018/05/08(火) 04:38:03.22ID:mpMazghg
わしは何時間も続けさまに、彼女の名を繰返して呼んで見た。
608格無しさん
2018/05/08(火) 04:38:19.06ID:mpMazghg
何時でも眼さへ閉ぢればわしには彼女の姿が其処にゐるやうにはつきりと見えるのである。
609格無しさん
2018/05/08(火) 04:38:34.92ID:mpMazghg
わしは彼女が教会の玄関で、わしの耳に囁いた語を反覆した。
610格無しさん
2018/05/08(火) 04:38:50.76ID:mpMazghg
「不仕合せな方ね、不仕合せな方ね。
611格無しさん
2018/05/08(火) 04:39:06.60ID:mpMazghg
何と云ふ事をなすつたの。」
612格無しさん
2018/05/08(火) 04:39:22.44ID:mpMazghg
わしは遂に、わしの現状の恐しさを、判然と理解する事が出来た。
613格無しさん
2018/05/08(火) 04:39:38.28ID:mpMazghg
わしの今、就いた職務の恐る可き厳粛な制限が、明かにわしの前に暴露された。
614格無しさん
2018/05/08(火) 04:39:54.14ID:mpMazghg
それは独身でゐると云ふ事だ。
615格無しさん
2018/05/08(火) 04:40:10.00ID:mpMazghg
決して恋をしないと云ふ事だ。
616格無しさん
2018/05/08(火) 04:40:25.83ID:mpMazghg
性とか年齢とかの区別を構はなくなる事だ。
617格無しさん
2018/05/08(火) 04:40:41.69ID:mpMazghg
凡ての美から背き去る事だ。
618格無しさん
2018/05/08(火) 04:40:57.55ID:mpMazghg
眼を抉りぬいてしまふ事だ。
619格無しさん
2018/05/08(火) 04:41:13.37ID:mpMazghg
永久に寺院とか僧院とかの冷い影の中に蹲つて隠れてゐる事だ。
620格無しさん
2018/05/08(火) 04:41:29.10ID:mpMazghg
見知らない屍体に番をされてゐる事だ。
621格無しさん
2018/05/08(火) 04:41:44.95ID:mpMazghg
死にかゝつてゐる人間ばかり訪ねて行く事だ。
622格無しさん
2018/05/08(火) 04:42:00.81ID:mpMazghg
そして己自身の死を悼む喪服として、何時でも黒い法衣を着てゐる事だ。
623格無しさん
2018/05/08(火) 04:42:16.65ID:mpMazghg
云はゞ君の着物が、君の亡骸を納めた柩の棺布の役に立つのである。
624格無しさん
2018/05/08(火) 04:42:32.50ID:mpMazghg
わしは今更のやうにわしの生命が、丁度地下の湖のやうに、拡がりつゝ溢れつゝ水嵩を増して来るのを感ずる。
625格無しさん
2018/05/08(火) 04:42:48.24ID:mpMazghg
わしの血は烈しくわしの動脈をめぐつて躍り上る。
626格無しさん
2018/05/08(火) 04:43:04.09ID:mpMazghg
わしの久しく抑圧してゐた青春は、千年に一度花の咲く蘆薈のやうに、生々と萌え出でて迅雷の響と共に花を開くのだ。
627格無しさん
2018/05/08(火) 04:43:19.92ID:mpMazghg
クラリモンドに、再び逢ふ為にわしは何をする事が出来るのだらう。
628格無しさん
2018/05/08(火) 04:43:35.76ID:mpMazghg
わしは市にゐる人を一人も知らない。
629格無しさん
2018/05/08(火) 04:43:51.51ID:mpMazghg
それでどうして研究室を去る口実が得られよう。
630格無しさん
2018/05/08(火) 04:44:07.33ID:mpMazghg
わしは暫くでも此処に止つてゐられさうもない。
631格無しさん
2018/05/08(火) 04:44:23.20ID:mpMazghg
唯、待ち遠いのは、わしが今後就任すべき牧師補の辞令ばかりである。
632格無しさん
2018/05/08(火) 04:44:39.07ID:mpMazghg
わしは窓の鉄格子を取去らうと試みた。
633格無しさん
2018/05/08(火) 04:44:54.81ID:mpMazghg
けれども窓は地を離れる事が遠いので、梯子が無ければ、かうして逃げるなどと云ふ事を考へるだけ愚だと気がついた、其上、わしが夜に乗じて其処から逃げる事が出来たとしても、其後どうして錯雑した街路の迷宮を、わしの思ふ所へ辿り着く事が出来るだらう。
634格無しさん
2018/05/08(火) 04:45:10.65ID:mpMazghg
多くの人々には全く無意味に思はれる是等の凡ての事が、昨日始めて恋に落ちた、経験も無く、金も無く、美しい着物も無い燐れな学僧のわしには、偉大な事のやうに思はれたのである。
635格無しさん
2018/05/08(火) 04:45:26.51ID:mpMazghg
わしは恋の闇に迷ひながら、かう自ら叫んだ。
636格無しさん
2018/05/08(火) 04:45:42.36ID:mpMazghg
「あゝ、わしが僧侶で無かつたなら、わしは彼女を毎日見る事が出来るのだ、彼女の恋人にも彼女の夫にもなれるのだ。
637格無しさん
2018/05/08(火) 04:45:58.20ID:mpMazghg
さうしたら此陰気な法衣に包まれてゐる代りに、外の美しい騎士のやうに絹と天鵞絨の袍を着て、金の鎖を下げて、剣を佩いて、美しい鳥の羽毛を着けるやうになるだらう。
638格無しさん
2018/05/08(火) 04:46:14.03ID:mpMazghg
わしの髪も、短く刈られてしまふ代りに、波立ちながら渦を巻いて、わしの頸の上に垂れるだらう。
639格無しさん
2018/05/08(火) 04:46:29.86ID:mpMazghg
わしの髭にも美しく蝋を引くだらう。
640格無しさん
2018/05/08(火) 04:46:45.71ID:mpMazghg
そしてわしは一廉の貴公子になれるのだ。」
641格無しさん
2018/05/08(火) 04:47:01.47ID:mpMazghg
それを唯、祭壇の前で一時間を過した為に、忙しく口にした五六の語の為に、わしは永久に生きてゐる人間の仲間から追払はれて、わし自身の墓石に封をするやうな事になつたのだ。
642格無しさん
2018/05/08(火) 04:47:17.32ID:mpMazghg
わしは窓の所へ行つた。
643格無しさん
2018/05/08(火) 04:47:33.17ID:mpMazghg
空は青く美しい、木は春の着物を着てゐる。
644格無しさん
2018/05/08(火) 04:47:49.02ID:mpMazghg
わしには自然が皮肉な歓喜を飾り立てゝゐるやうに見えた。
645格無しさん
2018/05/08(火) 04:48:04.86ID:mpMazghg
広場には人が一杯ゐる。
646格無しさん
2018/05/08(火) 04:48:20.69ID:mpMazghg
行く者もある、来る者もある、若い遊冶郎と若い美人とが二人づつ、茂みや花園の方へぶら/\歩いて行くのも見える。
647格無しさん
2018/05/08(火) 04:48:36.53ID:mpMazghg
愉快らしい青年が、楽しさうに「将進酒」
648格無しさん
2018/05/08(火) 04:48:52.26ID:mpMazghg
の畳句を唄ひ連れて歩むのも見える、――
649格無しさん
2018/05/08(火) 04:49:08.09ID:mpMazghg
それは悉くわしの悲哀と寂寞とに辛い対照を造る愉悦、興奮、生活、活動の画図である。
650格無しさん
2018/05/08(火) 04:49:23.95ID:mpMazghg
門の階段の上には若い母親が其子供と遊びながら坐つてゐる。
651格無しさん
2018/05/08(火) 04:49:39.72ID:mpMazghg
母親は、未だ乳の滴が真珠のやうについてゐる子供の小さな薔薇色の唇に接吻をする。
652格無しさん
2018/05/08(火) 04:49:55.55ID:mpMazghg
そして子供をあやす為に、唯女親のみが発明する事の出来る神聖な様々のとぼけた事をする。
653格無しさん
2018/05/08(火) 04:50:11.39ID:mpMazghg
父親は少し離れて佇みながら此愛すべき二人を眺めて微笑を洩してゐる。
654格無しさん
2018/05/08(火) 04:50:27.24ID:mpMazghg
それが両腕を組んだ中に其喜をぢつと胸に抱き締めてゐるやうに見える。
655格無しさん
2018/05/08(火) 04:50:43.12ID:mpMazghg
わしは之を見てゐるのに忍びなかつた。
656格無しさん
2018/05/08(火) 04:50:58.96ID:mpMazghg
そこで手荒く窓を鎖して床の上に荒々しく身を横へた。
657格無しさん
2018/05/08(火) 04:51:14.81ID:mpMazghg
わしの心は恐しい憎悪と嫉妬とに満ちてゐたのである。
658格無しさん
2018/05/08(火) 04:51:30.66ID:mpMazghg
そして丁度十日も食を得なかつた虎のやうに、わしはわしの指を噛み、又わしの夜着を噛んだ。
659格無しさん
2018/05/08(火) 04:51:46.50ID:mpMazghg
わしは、わしがどれ丈かうしてゐたか知らない。
660格無しさん
2018/05/08(火) 04:52:02.36ID:mpMazghg
が、遂に痙攣的な怒りの発作に襲はれて、床の上で身を悶えてゐると急に僧院長、セラピオンが室の中央に直立して、ぢつとわしを注視してゐるのを認めた。
661格無しさん
2018/05/08(火) 04:52:18.22ID:mpMazghg
わしは、慚愧に堪へないで、頭を胸の上に垂れた。
662格無しさん
2018/05/08(火) 04:52:33.96ID:mpMazghg
そして両手で顔を蔽つた。
663格無しさん
2018/05/08(火) 04:52:49.80ID:mpMazghg
「ロミュアルよ、わしの友達よ、何か恐しい事がお前の心の中に起つてゐるのではないか。」
664格無しさん
2018/05/08(火) 04:53:05.65ID:mpMazghg
数分の沈黙の後にセラピオンが云つた。
665格無しさん
2018/05/08(火) 04:53:21.48ID:mpMazghg
「お前のする事はわしには少しもわからない。
666格無しさん
2018/05/08(火) 04:53:37.34ID:mpMazghg
何時もあのやうに静な、あのやうに清浄な、あの様に温和しい――
667格無しさん
2018/05/08(火) 04:53:53.06ID:mpMazghg
お前が野獣のやうに部屋の中で怒り狂つてゐるではないか。
668格無しさん
2018/05/08(火) 04:54:08.91ID:mpMazghg
悪魔の暗示には耳を傾けぬがよい。
669格無しさん
2018/05/08(火) 04:54:24.76ID:mpMazghg
悪魔は、お前が永久に身を主に捧げたのを憤つて、お前のまはりを餌食を探す狼のやうに這ひまはりながら、お前を捕へる最後の努力をしてゐるのぢや。
670格無しさん
2018/05/08(火) 04:54:40.50ID:mpMazghg
征服されるよりは、祈祷を胸当てにして苦行を楯にして、勇士のやうに戦ふがよい。
671格無しさん
2018/05/08(火) 04:54:56.34ID:mpMazghg
さうすれば必ずお前は悪魔に勝つ事が出来るだらう。
672格無しさん
2018/05/08(火) 04:55:12.15ID:mpMazghg
徳行は、誘惑によつて試みられなければならない。
673格無しさん
2018/05/08(火) 04:55:28.01ID:mpMazghg
黄金は試金者の手を経て一層純な物になる。
674格無しさん
2018/05/08(火) 04:55:43.85ID:mpMazghg
恐れぬがよい、勇気を落さぬやうにするがよい。
675格無しさん
2018/05/08(火) 04:55:59.60ID:mpMazghg
最も忠実な、最も篤信な人々は、屡々このやうな誘惑を受けるものぢや。
676格無しさん
2018/05/08(火) 04:56:15.46ID:mpMazghg
祈祷をしろ、断食をしろ、黙想に耽れ、さうすれば悪魔は自ら離れるだらう。」
677格無しさん
2018/05/08(火) 04:56:31.30ID:mpMazghg
セラピオンの語は、わしを平常のわしに帰してくれた。
678格無しさん
2018/05/08(火) 04:56:47.16ID:mpMazghg
そして少しはわしの気も鎮つて来た。
679格無しさん
2018/05/08(火) 04:57:02.87ID:mpMazghg
彼は又かう云ふのである、「わしは、お前がC――
680格無しさん
2018/05/08(火) 04:57:18.71ID:mpMazghg
の牧師補を授けられた事を知らせに来たのぢや。
681格無しさん
2018/05/08(火) 04:57:34.57ID:mpMazghg
其処を管理してゐた僧侶が死んだので、僧正は直にお前を任命するやうにわしにお命令なすつた。
682格無しさん
2018/05/08(火) 04:57:50.44ID:mpMazghg
それだから、明日立てるやうに準備をするがよい。」
683格無しさん
2018/05/08(火) 04:58:06.29ID:mpMazghg
わしは頭を垂れて之に答へた。
684格無しさん
2018/05/08(火) 04:58:22.14ID:mpMazghg
そして僧院長はわしの部屋を出て行つた。
685格無しさん
2018/05/08(火) 04:58:37.97ID:mpMazghg
わしは祈祷の書を開いて、祈りの句を読み始めた。
686格無しさん
2018/05/08(火) 04:58:53.80ID:mpMazghg
が、字が霞んで何の事が書いてあるのだか解らない。
687格無しさん
2018/05/08(火) 04:59:09.65ID:mpMazghg
わしの頭脳の中では、観念の糸が無暗にもつれ出して、遂にはわしの気が附かぬ内に祈祷の書はわしの手から落ちてしまつた。
688格無しさん
2018/05/08(火) 04:59:25.50ID:mpMazghg
明日、彼女に二度と逢はずに立つて仕舞ふと云ふ事、わしと彼女との間に置いてある多くの障碍物に、更に新しい障碍物を加へると云ふ事、実に奇蹟による外は、彼女に逢ふ一切の望を失つてしまふと云ふ事!
689格無しさん
2018/05/08(火) 04:59:41.40ID:mpMazghg
あゝ彼女に手紙を書くと云ふ事さへわしには不可能になるだらう。
690格無しさん
2018/05/08(火) 04:59:57.13ID:mpMazghg
何故と云へば、わしは誰にわしの手紙を託けると云ふ事も出来ないからである。
691格無しさん
2018/05/08(火) 05:00:12.97ID:mpMazghg
わしは僧侶と云ふ神聖な職務に就きながら誰にわしの心の中を打明ける事が出来るだらう。
692格無しさん
2018/05/08(火) 05:00:28.83ID:mpMazghg
誰に信用を置く事が出来るだらう。
693格無しさん
2018/05/08(火) 05:00:44.55ID:mpMazghg
其時急にわしは、僧院長セラピオンが悪魔の謀略を話した語を思出した。
694格無しさん
2018/05/08(火) 05:01:00.43ID:mpMazghg
今度の事件の不可思議な性質、クラリモンドの人間以上の美しさ、彼女の眼の燐のやうな光、彼女の手の燃え立つばかりの感触、彼女がわしを陥し入れた苦痛、わしの心に急激な変化が起ると共に、凡てのわしの信心が一瞬の間に消えた事――
695格無しさん
2018/05/08(火) 05:01:16.28ID:mpMazghg
是等の事は、其悪魔の仕業なのをよく証拠立てゝゐるではないか。
696格無しさん
2018/05/08(火) 05:01:32.10ID:mpMazghg
恐らく繻子のやうな手は爪を隠した手袋であるかも知れぬ。
697格無しさん
2018/05/08(火) 05:01:47.95ID:mpMazghg
是等の想像に悸されてわしは、再びわしの膝からすべつて、床の上に落ちてゐた祈祷の書を取り上げた。
698格無しさん
2018/05/08(火) 05:02:03.78ID:mpMazghg
そして再び祈祷に身を捧げようとしたのである。
699格無しさん
2018/05/08(火) 05:02:19.55ID:mpMazghg
翌朝セラピオンはわしを伴れに来た。
700格無しさん
2018/05/08(火) 05:02:35.41ID:mpMazghg
みすぼらしいわし達の鞄を負つて、騾馬が二頭、門口に待つてゐる。
701格無しさん
2018/05/08(火) 05:02:51.24ID:mpMazghg
彼は一頭の騾馬に乗り、わしは他の一頭に跨つた。
702格無しさん
2018/05/08(火) 05:03:07.10ID:mpMazghg
わし達が此市の街路を過ぎて行つた時に、わしは、クラリモンドが見えはしないかと思つて、凡ての窓、凡ての露台を注意して眺めて行つた。
703格無しさん
2018/05/08(火) 05:03:22.97ID:mpMazghg
が、朝が早いので、市はまだ殆ど其眼を開かずにゐた。
704格無しさん
2018/05/08(火) 05:03:38.84ID:mpMazghg
わしはわし達が通りすぎる、凡ての家々の簾や窓掛を透視する事が出来たらばと思つた。
705格無しさん
2018/05/08(火) 05:03:54.69ID:mpMazghg
セラピオンは、わしの此好奇心を確に、わしが建築を賞讃してゐるのだと思つたらしい。
706格無しさん
2018/05/08(火) 05:04:10.52ID:mpMazghg
かう云ふのは彼が、わしにあたりを見る時間を与へる為に、わざと騾馬の歩みを緩めたからである。
707格無しさん
2018/05/08(火) 05:04:26.36ID:mpMazghg
遂にわし達は市門を過ぎて其向うにある小山を上りはじめた。
708格無しさん
2018/05/08(火) 05:04:42.19ID:mpMazghg
其頂に着いた時である。
709格無しさん
2018/05/08(火) 05:04:58.04ID:mpMazghg
わしはクラリモンドが住んでゐる土地の最後の一瞥を得ようと思つたので、その方に頭をめぐらして眺めると、大きな雲の影が、全市街の上に垂れかゝつて、其青と赤と反映する屋根の色が、一様な其中間の色に沈んでゐた。
710格無しさん
2018/05/08(火) 05:05:13.77ID:mpMazghg
其色の中を、其処此処から白い水沫のやうに、今し方点ぜられた火の煙が上へ/\と昇つて行く。
711格無しさん
2018/05/08(火) 05:05:29.63ID:mpMazghg
と、不思議な光の関係で、まだ模糊とした蒸気に掩はれてゐる近所の建物よりは遥に高い家が一つ、太陽の寂しい光線で金色に染められながら、うつくしく輝いて聳えてゐる――
712格無しさん
2018/05/08(火) 05:05:45.36ID:mpMazghg
実際は一里半も離れてゐるのであるが、其割には近く見える。
713格無しさん
2018/05/08(火) 05:06:01.19ID:mpMazghg
そして其建築の細い点迄が明に弁別される――
714格無しさん
2018/05/08(火) 05:06:17.03ID:mpMazghg
多くの小さな塔や高台や窓枠や燕の尾の形をしてゐる風見迄が、はつきりと見えるのである。
715格無しさん
2018/05/08(火) 05:06:32.87ID:mpMazghg
「向うに見える、あの日の光をうけた宮殿は何でせう。」
716格無しさん
2018/05/08(火) 05:06:48.69ID:mpMazghg
とわしはセラピオンに尋ねた。
717格無しさん
2018/05/08(火) 05:07:04.55ID:mpMazghg
彼は眼に手をかざして、わしの指さす方を眺めた。
718格無しさん
2018/05/08(火) 05:07:20.32ID:mpMazghg
と其答はかうであつた。
719格無しさん
2018/05/08(火) 05:07:36.19ID:mpMazghg
「コンチニの王が、娼婦クラリモンドに与へた、古の宮殿ぢや。
720格無しさん
2018/05/08(火) 05:07:51.92ID:mpMazghg
あそこで怖しい事をしてゐるさうな。」
721格無しさん
2018/05/08(火) 05:08:07.77ID:mpMazghg
其刹那に、わしには実際か幻惑かはしらぬが、真白な姿の露台を歩いてゐるのが見えたやうに想はれた。
722格無しさん
2018/05/08(火) 05:08:23.51ID:mpMazghg
其姿は通りすがりに、瞬く間日に輝いたが、忽ち又何処かへ消えてしまつた。
723格無しさん
2018/05/08(火) 05:08:39.36ID:mpMazghg
それがクラリモンドだつたのである。
724格無しさん
2018/05/08(火) 05:08:55.20ID:mpMazghg
おゝ、彼女は知つてゐたであらうか。
725格無しさん
2018/05/08(火) 05:09:11.06ID:mpMazghg
其時、熱を病んだやうに慌しく――
726格無しさん
2018/05/08(火) 05:09:26.95ID:mpMazghg
わしを彼女から引離してしまふ嶮しい山路の上に、あゝ、わしが再び下る事の出来ない山路の上に、彼女の住んでゐる宮殿を望見してゐたと云ふ事を。
727格無しさん
2018/05/08(火) 05:09:42.79ID:mpMazghg
此主となつて、此処に来れとわしを招くやうに、嘲笑ふ日の光に輝きながら、此方へ近づくかと思はれた宮殿を、望見してゐたと云ふ事を。
728格無しさん
2018/05/08(火) 05:09:58.68ID:mpMazghg
疑も無く彼女はそれを知つてゐた。
729格無しさん
2018/05/08(火) 05:10:14.50ID:mpMazghg
何故と云へば彼女の心は、わしの心と同情に繋がれてゐたので、其最も微かな情緒の時めきさへ感ずる事が出来たからである。
730格無しさん
2018/05/08(火) 05:10:30.36ID:mpMazghg
其鋭い同情があればこそ、彼女は――
731格無しさん
2018/05/08(火) 05:10:46.11ID:mpMazghg
寝衣を着てはゐたけれども――
732格無しさん
2018/05/08(火) 05:11:01.85ID:mpMazghg
露台の上に登つてくれたのである。
733格無しさん
2018/05/08(火) 05:11:17.69ID:mpMazghg
影は其宮殿をも掩つて、満目の光景は、唯屋根と破風との動かざる海になつた。
734格無しさん
2018/05/08(火) 05:11:33.53ID:mpMazghg
そして其中には一つの山のやうな波動が明かに見えてゐるのである。
735格無しさん
2018/05/08(火) 05:11:49.36ID:mpMazghg
セラピオンは、騾馬を急がせた。
736格無しさん
2018/05/08(火) 05:12:05.23ID:mpMazghg
わしの馬も同じ歩みを運んで、其後に従つた。
737格無しさん
2018/05/08(火) 05:12:21.10ID:mpMazghg
そして其内に路が鋭く曲る所へ来たので、S――
738格無しさん
2018/05/08(火) 05:12:37.00ID:mpMazghg
の市は終に、永久にわしの眼から隠されてしまつた。
739格無しさん
2018/05/08(火) 05:12:52.75ID:mpMazghg
しかもわしは決して其処へ帰る事の出来ない運命を負つてゐるのである。
740格無しさん
2018/05/08(火) 05:13:08.46ID:mpMazghg
退屈な三日の旅行の末に、陰鬱な田園の間を行き尽して、わしはわしの管轄すべき寺院の塔上にある風見の鶏が、森の上から覗いてゐるのを見た。
741格無しさん
2018/05/08(火) 05:13:24.21ID:mpMazghg
それから茅葺の小家と小さな庭園とに挟まれた、曲りくねつた路を行くと、やがて、多少の荘厳を保つた寺院の正面へ出た。
742格無しさん
2018/05/08(火) 05:13:39.96ID:mpMazghg
五六の塑像で飾られた玄関、荒削りに砂岩を刻んだ円柱、柱と同じ砂岩の控壁のついた瓦葺の屋根――
743格無しさん
2018/05/08(火) 05:13:55.83ID:mpMazghg
左手には雑草が背高く生えた墓地があつて、其中央には大きな鉄の十字架が聳えてゐる。
744格無しさん
2018/05/08(火) 05:14:11.69ID:mpMazghg
右手には寺院の影になつて牧師の住む家がある。
745格無しさん
2018/05/08(火) 05:14:27.43ID:mpMazghg
家は恐しく簡単で、しかも冷酷な清潔が保たれてゐる。
746格無しさん
2018/05/08(火) 05:14:43.28ID:mpMazghg
わし達は垣の内へ入つた。
747格無しさん
2018/05/08(火) 05:14:59.01ID:mpMazghg
五六匹の雛つ仔が地に撒いてある麦を啄んでゐる。
748格無しさん
2018/05/08(火) 05:15:14.74ID:mpMazghg
見た所では、僧侶の黒い法衣にも慣れたやうに、少しもわし達を怖がらない。
749格無しさん
2018/05/08(火) 05:15:30.61ID:mpMazghg
そして殆どわし達の歩く道を明けようとさへしさうもない。
750格無しさん
2018/05/08(火) 05:15:46.43ID:mpMazghg
と嗄がれた、喘息やみのやうな犬の声が、耳に入つた。
751格無しさん
2018/05/08(火) 05:16:02.17ID:mpMazghg
老いぼれた犬が、此方へ駈けて来るのである。
752格無しさん
2018/05/08(火) 05:16:17.91ID:mpMazghg
それは先住の牧師の犬であつた。
753格無しさん
2018/05/08(火) 05:16:33.78ID:mpMazghg
懶い、爛れた眼をして、灰色の毛を垂らしてゐる。
754格無しさん
2018/05/08(火) 05:16:49.53ID:mpMazghg
そして犬の達し得る、極度の老年に達したと云ふあらゆる徴が現れてゐる。
755格無しさん
2018/05/08(火) 05:17:05.26ID:mpMazghg
わしは犬をやさしく叩いてやつた。
756格無しさん
2018/05/08(火) 05:17:21.11ID:mpMazghg
犬は直に云ふ可らざる満足の容子を示してわし達と一しよに歩き始めた。
757格無しさん
2018/05/08(火) 05:17:36.86ID:mpMazghg
以前の牧師の家庭を処理してゐた老婆も亦迎へに出て、わし達を小さな後の客間へ案内してから、わしが猶引続いて彼女を傭つてくれるかどうかと尋ねた。
758格無しさん
2018/05/08(火) 05:17:52.73ID:mpMazghg
わしは、老婆も犬も雛つ仔も、先住が死際に譲つた其老婆の一切の家具も、残らず面倒を見てやると答へた。
759格無しさん
2018/05/08(火) 05:18:08.59ID:mpMazghg
之を聞いて、老婆は我を忘れて喜んだ。
760格無しさん
2018/05/08(火) 05:18:24.43ID:mpMazghg
そして僧院長セラピオンは、彼女が其僅な所有物に対して要求した金を、即座に払つてやつた。
761格無しさん
2018/05/08(火) 05:18:40.29ID:mpMazghg
わしの就任がすむと間もなく、僧院長セラピオンは僧侶学校に帰つた。
762格無しさん
2018/05/08(火) 05:18:56.02ID:mpMazghg
そこでわしは助力をして貰ふのにも、相談相手になつて貰ふのにも、自分より外に誰もゐなくなつた。
763格無しさん
2018/05/08(火) 05:19:11.89ID:mpMazghg
そしてクラリモンドの思ひ出は、再びわしの心に浮び始めたのである。
764格無しさん
2018/05/08(火) 05:19:27.76ID:mpMazghg
わしは、極力それを打消さうと努めたが、わしの黙想には常に彼女の影が伴つて来た。
765格無しさん
2018/05/08(火) 05:19:43.61ID:mpMazghg
或日暮にわしが黄楊の木にくぎられた路に沿うて、わしの家の小さな庭を散歩してゐると、気のせゐか楡の木の陰にわしと同じやうに歩いてゐる女の姿が見え、しかも其楡の葉の間からは、海のやうな緑色の眼の輝いてゐるのが見えた。
766格無しさん
2018/05/08(火) 05:19:59.45ID:mpMazghg
併しそれも幻に過ぎなかつたらしく、庭の向う側へまはつて見ると唯、砂地の路の上に足跡が一つ残つてゐるばかりであつた――
767格無しさん
2018/05/08(火) 05:20:15.31ID:mpMazghg
が其足跡は、子供の足跡かと思はれる程小さかつた。
768格無しさん
2018/05/08(火) 05:20:31.05ID:mpMazghg
其癖庭は高い塀に囲まれてゐるのである。
769格無しさん
2018/05/08(火) 05:20:46.89ID:mpMazghg
わしは庭の隅と云ふ隅を探して見たが、誰一人見附からない。
770格無しさん
2018/05/08(火) 05:21:02.74ID:mpMazghg
わしにはこれが不思議に思はれてならなかつたが、其後起つた奇怪な事に比べると、之などは全く何でも無かつたのである。
771格無しさん
2018/05/08(火) 05:21:18.59ID:mpMazghg
満一年間、わしはわしの職務上の義務を、最も厳格な精密さを以て果しながら、祈祷をしたり、断食をしたり、説教をしたり、病人に霊魂の扶けを与へたり、又屡々わし自身が其日の生活にも差支へる位、施しをしたりして暮してゐた。
772格無しさん
2018/05/08(火) 05:21:34.46ID:mpMazghg
しかしわしは心の中にはげしい焦立しさを感じてゐた。
773格無しさん
2018/05/08(火) 05:21:50.32ID:mpMazghg
そして天恵の泉も、わしには湧かなくなつてしまつたやうに思はれた。
774格無しさん
2018/05/08(火) 05:22:06.18ID:mpMazghg
わしは神聖な使命を充す事から生れる幸福を味ふ事が出来なかつた。
775格無しさん
2018/05/08(火) 05:22:22.03ID:mpMazghg
わしの思想は遠く漂つて、唯クラリモンドの語のみがわれ知らず繰返へす畳句のやうに、常にわしの唇に上るのである。
776格無しさん
2018/05/08(火) 05:22:37.91ID:mpMazghg
おゝ、兄弟よ、よく之を考へて見てくれるがいゝ。
777格無しさん
2018/05/08(火) 05:22:53.66ID:mpMazghg
唯一度、眼をあげて一人の女を見た為に、一見些細な過失の為に、わしは数年間、最もみじめな苦痛の犠牲になつてゐたのだ。
778格無しさん
2018/05/08(火) 05:23:09.50ID:mpMazghg
そしてわしの生活の幸福は永久に失はれてしまつたのだ。
779格無しさん
2018/05/08(火) 05:23:25.35ID:mpMazghg
わしは、絶えずわしの心に繰りかへされた勝利と敗北を、しかも常に一層恐しい堕落にわしを陥れた勝利と敗北を此上話すのは止めようと思ふ。
780格無しさん
2018/05/08(火) 05:23:41.57ID:mpMazghg
そして直にわしの物語の事実に話を進めようと思ふ。
781格無しさん
2018/05/08(火) 05:23:57.41ID:mpMazghg
或夜、わしの戸口の呼鈴が、長く荒々しく鳴らされた。
782格無しさん
2018/05/08(火) 05:24:13.26ID:mpMazghg
家事まかなひの老婆が起きて、戸を開けると、見知らぬ人が立つてゐる。
783格無しさん
2018/05/08(火) 05:24:29.10ID:mpMazghg
の角燈の光の中に、青銅のやうな顔をして、立派な外国の装ひをした男の姿が、帯に短刀をさげて、佇んでゐるのである。
784格無しさん
2018/05/08(火) 05:24:44.95ID:mpMazghg
老婆は、初め恐しい気がした。
785格無しさん
2018/05/08(火) 05:25:00.82ID:mpMazghg
が、其見知らぬ人は、彼女が安心するやうに用事を告げて、わしの奉じてゐる神聖な職務に関して、至急わしに会ひたいと云ふことを述べた。
786格無しさん
2018/05/08(火) 05:25:16.67ID:mpMazghg
バルバラは丁度わしが引込んだばかりの二階へ、其男を案内した。
787格無しさん
2018/05/08(火) 05:25:32.52ID:mpMazghg
彼は彼の女主人になる或貴夫人が、今息を引取るばかりのところで、是非牧師に来て貰ひたがつてゐると云ふことを話した。
788格無しさん
2018/05/08(火) 05:25:48.34ID:mpMazghg
そこでわしは、何時でも彼と一しよに行くと答へた。
789格無しさん
2018/05/08(火) 05:26:04.22ID:mpMazghg
そして臨終と塗式に必要な、神聖な品々を携へて、大急ぎで二階を下りた。
790格無しさん
2018/05/08(火) 05:26:20.06ID:mpMazghg
と、門の外には夜のやうに黒い馬が二匹、焦立たしげに土を蹴つて鼻孔から吐く煙のやうな水蒸気の長い流に、胸をかくしながら、立つてゐる。
791格無しさん
2018/05/08(火) 05:26:35.89ID:mpMazghg
其男は鐙を執つて、わしの馬に乗るのを扶けて呉れた。
792格無しさん
2018/05/08(火) 05:26:51.62ID:mpMazghg
それから彼は唯、手を鞍の前輪へかけた許りで、ひらりともう一頭の馬にとび乗ると、膝で馬の横腹を締めて手綱を緩めた。
793格無しさん
2018/05/08(火) 05:27:07.48ID:mpMazghg
と、馬は忽ち矢の如く走り出でたのである。
794格無しさん
2018/05/08(火) 05:27:23.21ID:mpMazghg
伴の馬に遅れまいと、其男が手綱を執つてゐたわしの馬も、宙を飛んで奔馳する。
795格無しさん
2018/05/08(火) 05:27:38.96ID:mpMazghg
わし達はひたすらに途を急いだ。
796格無しさん
2018/05/08(火) 05:27:54.79ID:mpMazghg
大地はわしたちの下で、青ざめた灰色の長い縞のやうに、後へ/\流れて行く。
797格無しさん
2018/05/08(火) 05:28:10.63ID:mpMazghg
木立の黒い影画は、打破られた軍隊のやうに、わしたちの右左を、逃げて行くやうに見える。
798格無しさん
2018/05/08(火) 05:28:26.37ID:mpMazghg
わし達が暗い森を通りぬけた時には、わしは冷い闇の中に迷信じみた恐怖から、わしの肉がむづつくのを感じた。
799格無しさん
2018/05/08(火) 05:28:42.13ID:mpMazghg
わし達の馬の蹄鉄に打たれて、石高路から迸る明い火花の雨は、わし達の後に火光の径の如く輝いてゐた。
800格無しさん
2018/05/08(火) 05:28:57.99ID:mpMazghg
此真夜中に、わし達二人を見た人があつたなら――
801格無しさん
2018/05/08(火) 05:29:13.82ID:mpMazghg
わしの案内者とわしと――
802格無しさん
2018/05/08(火) 05:29:29.69ID:mpMazghg
その人は二人の幽鬼が夢魔に騎して走るのだと思つたに相違ない。
803格無しさん
2018/05/08(火) 05:29:45.43ID:mpMazghg
狐火は時々、路の行く手に明滅して、夜鳥は怖しげに、彼方の森の奥で啼き叫んでゐる。
804格無しさん
2018/05/08(火) 05:30:01.29ID:mpMazghg
其森には、時として山猫の燐火を放つ眼がきらめくのさへ見えるのである。
805格無しさん
2018/05/08(火) 05:30:17.19ID:mpMazghg
馬の鬣は益々乱れ、汗は太腹に滴つて、つく息も急に又苦しげに鼻孔を洩れるが、案内の男は馬の歩みの緩むのを見ると、殆ど人間とは思はれぬやうな、不思議な喉音を上げて、叱する。
806格無しさん
2018/05/08(火) 05:30:33.05ID:mpMazghg
すると馬は又、元のやうに無二無三に狂奔するのである。
807格無しさん
2018/05/08(火) 05:30:48.88ID:mpMazghg
遂に旋風のやうな競走が完つた。
808格無しさん
2018/05/08(火) 05:31:04.70ID:mpMazghg
多くの輝いた点が開いてゐる大きな黒い物が、急に眼の前に聳えた。
809格無しさん
2018/05/08(火) 05:31:20.57ID:mpMazghg
わし連の馬の蹄は、丈夫な木造の刎橋の上に前よりも声高く鳴りひゞいて、二人はやがて二つの巨大な塔の間に口を開いた大きな穹窿形の拱廊に馬をすゝめた。
810格無しさん
2018/05/08(火) 05:31:36.41ID:mpMazghg
城廓の中は確に一種の大きな興奮に支配されてゐた。
811格無しさん
2018/05/08(火) 05:31:52.15ID:mpMazghg
広庭には松明を持つた従者が縦横に駈け違ひ、頭の上には又燈火の光が階段から階段へ上下してゐた。
812格無しさん
2018/05/08(火) 05:32:07.90ID:mpMazghg
わしは此厖大な建築の形を、混雑の中に瞥見する事が出来たが――
813格無しさん
2018/05/08(火) 05:32:23.67ID:mpMazghg
丸柱や迫持の廊下や階段や段梯や――
814格無しさん
2018/05/08(火) 05:32:39.57ID:mpMazghg
それは誠に魔法の国にもふさはしい、堂々とした豪奢の趣致と楚々とした優麗の風格とを併せ有してゐるものであつた。
815格無しさん
2018/05/08(火) 05:32:55.42ID:mpMazghg
すると黒人の扈従が――
816格無しさん
2018/05/08(火) 05:33:11.31ID:mpMazghg
以前にクラリモンドの手帳を持つて来た男である、わしはすぐにそれと気が附いた――
817格無しさん
2018/05/08(火) 05:33:27.16ID:mpMazghg
わしの馬から下りるのを手伝ひに来た。
818格無しさん
2018/05/08(火) 05:33:43.02ID:mpMazghg
それから、黒天鵞絨の着物を着て首に金鎖をかけた家令も、象牙の杖によりながらわしに会ひに出て来た。
819格無しさん
2018/05/08(火) 05:33:58.75ID:mpMazghg
見ると大きな涙の滴が眼から落ちて、頬と白い髯の上に流れてゐる。
820格無しさん
2018/05/08(火) 05:34:14.63ID:mpMazghg
「間に合ひませんでした。」
821格無しさん
2018/05/08(火) 05:34:30.47ID:mpMazghg
と彼は悲しさうに首を振りながら叫んだ。
822格無しさん
2018/05/08(火) 05:34:46.32ID:mpMazghg
「間に合ひませんでした。
823格無しさん
2018/05/08(火) 05:35:02.06ID:mpMazghg
霊魂を救ふ事はお出来になりません。
824格無しさん
2018/05/08(火) 05:35:17.94ID:mpMazghg
でも、せめてどうかいらしつてお通夜をなすつて下さいまし。」
825格無しさん
2018/05/08(火) 05:35:33.82ID:mpMazghg
彼はわしの手を執つて、死者の室へ案内した。
826格無しさん
2018/05/08(火) 05:35:49.67ID:mpMazghg
わしの泣いたのも決して此老人に劣らなかつたであらう。
827格無しさん
2018/05/08(火) 05:36:05.55ID:mpMazghg
それは死者が、クラリモンド其人、わしがあのやうに深くあのやうに烈しく恋してゐたクラリモンド其人だつた事を知つたからである。
828格無しさん
2018/05/08(火) 05:36:21.42ID:mpMazghg
寝床の足の方には祈祷机が置いてある。
829格無しさん
2018/05/08(火) 05:36:37.16ID:mpMazghg
青銅の酒盞に明滅する青い光は、室内を朦朧とさした。
830格無しさん
2018/05/08(火) 05:36:53.02ID:mpMazghg
深秘な光にみたして、唯暗い中に家具や軒蛇腹の突出した部分を、其処此処に時々明く浮き出さしてゐる。
831格無しさん
2018/05/08(火) 05:37:08.78ID:mpMazghg
卓子の上にある、彫刻を施した甕の中には、一輪の素枯れた白薔薇が生けてある。
832格無しさん
2018/05/08(火) 05:37:24.51ID:mpMazghg
一つだけ残つてゐたが――
833格無しさん
2018/05/08(火) 05:37:40.39ID:mpMazghg
皆、香のいゝ涙のやうに落ち散つて、甕の下にこぼれてゐる。
834格無しさん
2018/05/08(火) 05:37:56.27ID:mpMazghg
壊れた黒い面と扇と其外肘掛椅子の上に置いてある様々な扮装の道具を見ても、「死」
835格無しさん
2018/05/08(火) 05:38:12.01ID:mpMazghg
が急に何の案内もなく此華麗を極めた城廓に闖入した事がわかるであらう。
836格無しさん
2018/05/08(火) 05:38:27.85ID:mpMazghg
わしは寝床の上を見るのに忍びないので跪いたまゝ「死者の為の讃美歌」
837格無しさん
2018/05/08(火) 05:38:43.71ID:mpMazghg
そして烈しい熱情を以て、神がわしと彼女の記憶との間に墳墓を造つて、今後わしが祈祷をする時にも彼女の名を永久に「死」
838格無しさん
2018/05/08(火) 05:38:59.58ID:mpMazghg
によつて浄められた名として、口にし得るやうにして下すつた事を感謝した。
839格無しさん
2018/05/08(火) 05:39:15.42ID:mpMazghg
けれ共、わしの熱情は次第に弱くなつて、わしは思はずある夢幻の中に陥つてしまつた。
840格無しさん
2018/05/08(火) 05:39:31.26ID:mpMazghg
一体其室は、死人の室らしい所を少しも備へてゐない室であつた。
841格無しさん
2018/05/08(火) 05:39:46.98ID:mpMazghg
わしが通夜の間に嗅ぎなれた不快な屍体の匂の代りに、ものうい東洋の香料の匂が――
842格無しさん
2018/05/08(火) 05:40:02.82ID:mpMazghg
わしは艶いた女の匂がどんなものだか知らないのである――
843格無しさん
2018/05/08(火) 05:40:18.60ID:mpMazghg
柔に生温い空気の中に漂つてゐる。
844格無しさん
2018/05/08(火) 05:40:34.46ID:mpMazghg
青ざめた光は屍体の傍に黄色く瞬く通夜の蝋燭の代りと云ふよりは、寧ろ淫惑な歓楽の為にわざと作られた薄明りの如く思はれる。
845格無しさん
2018/05/08(火) 05:40:50.32ID:mpMazghg
わしは、クラリモンドが永久にわしから失はれた瞬間に再び彼女を見る事が出来た、不思議な運命をつくづくと考へて見た。
846格無しさん
2018/05/08(火) 05:41:06.18ID:mpMazghg
そして、残り惜しい懊悩の吐息がわしの胸を洩れて出た。
847格無しさん
2018/05/08(火) 05:41:21.90ID:mpMazghg
其時、わしにはわしの後で誰かが亦吐息をしたやうに思はれた。
848格無しさん
2018/05/08(火) 05:41:37.63ID:mpMazghg
で、振返つて見たがそれは、唯反響にすぎなかつた。
849格無しさん
2018/05/08(火) 05:41:53.39ID:mpMazghg
けれ共、其刹那に、わしの眼は其時迄見るのを避けてゐた死者の寝床の上に落ちた。
850格無しさん
2018/05/08(火) 05:42:09.14ID:mpMazghg
刺繍の大きな花で飾られた、赤いダマスコの帳が、黄金の房にくゝられて、うつくしい屍骸を見せてくれるのである。
851格無しさん
2018/05/08(火) 05:42:24.87ID:mpMazghg
屍体は長々と横になつて、手を胸の上に合せてゐる、眩ゆいやうな白いリンネルの褻衣に掩はれたのも、掛衣の陰鬱な紫と、著しい対照を作つて、しかも地合のしなやかさが、彼女の肉体のやさしい形を何一つ隠す所もなく、見る人の眼を、美しい輪廓の曲線に従はしめる――
852格無しさん
2018/05/08(火) 05:42:40.75ID:mpMazghg
白鳥の首の如くになよやかな――
853格無しさん
2018/05/08(火) 05:42:56.66ID:mpMazghg
其輪廓の持つてゐる豊麗な、優しさは「死」
854格無しさん
2018/05/08(火) 05:43:12.52ID:mpMazghg
すらも奪ふ事が出来なかつたのである。
855格無しさん
2018/05/08(火) 05:43:28.36ID:mpMazghg
彼女はさながら或巧妙な彫刻家が女王の墳墓の上に据ゑる為に造り上げた雪花石膏の像か、或は又恐らくは、眠つてゐる少女の上に声もない雪が一点の汚れもない掛衣を織りでもしたかの如く思はれた。
856格無しさん
2018/05/08(火) 05:43:44.11ID:mpMazghg
わしはもう、力めて祈祷の態度を支へてゐる事が出来なくなつた。
857格無しさん
2018/05/08(火) 05:44:00.03ID:mpMazghg
閨房の空気はわしを酔はせ、半ば凋んだ薔薇の花の熱を病んだやうな匂はわしの頭脳に滲み込んだ。
858格無しさん
2018/05/08(火) 05:44:15.94ID:mpMazghg
わしは休みなく彼方此方と歩きながら、歩を転ずる毎に、屍体をのせた寝床の前に佇んで、其透いて見えさうな経帷子の下に、横はつてゐる優しい屍の事を、何と云ふ事もなく想ひはじめた、わしの頭脳には、熱した空想が徂徠して来たのである。
859格無しさん
2018/05/08(火) 05:44:31.81ID:mpMazghg
わしは彼女が恐らく、本当に死んだのではあるまいと思つた。
860格無しさん
2018/05/08(火) 05:44:47.66ID:mpMazghg
唯わしを此城へ呼び寄せて、其恋を打明ける為に、わざと死を装つてゐるのだと思つた。
861格無しさん
2018/05/08(火) 05:45:03.51ID:mpMazghg
そしてわしは、同時に彼女の足が、白い掛衣の下で動いて、少しく捲いてある経帷子の長い真直な線を乱したとさへ思つた。
862格無しさん
2018/05/08(火) 05:45:19.24ID:mpMazghg
それからわしはかう自問した。
863格無しさん
2018/05/08(火) 05:45:35.08ID:mpMazghg
「これが本当にクラリモンドであらうか、之が彼女だと云ふ何んな証拠があるだらうか。
864格無しさん
2018/05/08(火) 05:45:50.93ID:mpMazghg
あの黒人の扈従は外の貴夫人に傭はれたのではないだらうか。
865格無しさん
2018/05/08(火) 05:46:06.79ID:mpMazghg
この様に独りで苦しがつてゐては、屹度わしは気が狂ふのに相違ない。」
866格無しさん
2018/05/08(火) 05:46:22.65ID:mpMazghg
けれども、わしの心臓ははげしく動悸を打ちながら、かう答へる。
867格無しさん
2018/05/08(火) 05:46:38.49ID:mpMazghg
わしは再び寝台に近づいた。
868格無しさん
2018/05/08(火) 05:46:54.33ID:mpMazghg
そして再び注意して、疑はしい屍体を凝視した。
869格無しさん
2018/05/08(火) 05:47:10.17ID:mpMazghg
あゝ、わしは之も白状しなければならないであらうか。
870格無しさん
2018/05/08(火) 05:47:26.02ID:mpMazghg
其すぐれた肉体の形の完全さは、「死」
871格無しさん
2018/05/08(火) 05:47:41.76ID:mpMazghg
の影で浄められてゐるとは云へ、常よりも更に淫惑な感じを起さしめた。
872格無しさん
2018/05/08(火) 05:47:57.60ID:mpMazghg
そして又、其安息が何人も「死」
873格無しさん
2018/05/08(火) 05:48:13.46ID:mpMazghg
とは思はぬほど、眠りによく似てゐるのである。
874格無しさん
2018/05/08(火) 05:48:29.21ID:mpMazghg
わしは、此処へ葬儀を勤めに来たと云ふ事も忘れてしまつた。
875格無しさん
2018/05/08(火) 05:48:45.05ID:mpMazghg
いや寧ろ花嫁の閨へはひつた花婿だと想像した。
876格無しさん
2018/05/08(火) 05:49:00.93ID:mpMazghg
花嫁はしとやかに、美しい顔を隠して、羞しさに姿を残る隈なく掩はうとしてゐるのである。
877格無しさん
2018/05/08(火) 05:49:16.78ID:mpMazghg
わしは胸も裂けむ許りの悲しみを抱きながら、しかも物狂はしい希望にそゝられて、恐怖と快楽とにをのゝきながら、彼女の上に身をかゞめて、経帷子の端に手をかけた。
878格無しさん
2018/05/08(火) 05:49:32.51ID:mpMazghg
そして、彼女の眠を醒ますまいと息をひそめながら其経帷子を上げて見た。
879格無しさん
2018/05/08(火) 05:49:48.35ID:mpMazghg
わしの動悸は狂ほしく鼓動して蟀谷のあたりには蛇の声に似た音が聞えるかとさへ疑はれる。
880格無しさん
2018/05/08(火) 05:50:04.21ID:mpMazghg
汗が額から滝の如く滴るのも、丁度わしが大きな大理石の板を擡げでもしたやうに思はれるのである。
881格無しさん
2018/05/08(火) 05:50:20.07ID:mpMazghg
そして其処には実にクラリモンドが横はつてゐた。
882格無しさん
2018/05/08(火) 05:50:35.93ID:mpMazghg
わしの得度の日に見たのと寸分も違ひなく横はつてゐた。
883格無しさん
2018/05/08(火) 05:50:51.80ID:mpMazghg
彼女の姿は其時と変りなく美しい。
884格無しさん
2018/05/08(火) 05:51:07.71ID:mpMazghg
も彼女にとつては、最後の嬌態に過ぎないのである。
885格無しさん
2018/05/08(火) 05:51:23.56ID:mpMazghg
青ざめた頬、やゝ色の褪せた唇の肉色、其白い皮膚に黒い房をうき出させる長い睫毛、其等の物が皆彼女に悲しい貞淑と内心の苦痛との云ふ可らざる妖艶な容子を与へてゐる。
886格無しさん
2018/05/08(火) 05:51:39.43ID:mpMazghg
未だ小さな青い花で編んである長い乱れ髪は、彼女の頭にまばゆい枕を造つて、其房々した巻き毛は、裸身の肩を掩つてゐる。
887格無しさん
2018/05/08(火) 05:51:55.18ID:mpMazghg
聖麺麭よりも清く、浄らかな美しい手は組合せたまゝ、清浄な安息と無言の祈祷とを捧げるやうに、胸の上にのつてゐる。
888格無しさん
2018/05/08(火) 05:52:11.04ID:mpMazghg
未だ真珠の腕輪も外さない、裸身の腕が象牙のやうにつや/\と、円かな肉附きを見せてゐる艶めかしさに――
889格無しさん
2018/05/08(火) 05:52:26.81ID:mpMazghg
之のみが、反抗の意を示してゐるのである。
890格無しさん
2018/05/08(火) 05:52:42.57ID:mpMazghg
わしは長い間、無言の黙想に沈んでゐた。
891格無しさん
2018/05/08(火) 05:52:58.31ID:mpMazghg
すると、見てゐれば見てゐる程、わしには、「生」
892格無しさん
2018/05/08(火) 05:53:14.21ID:mpMazghg
がこの美しい肉体を永久に去つたと云ふ事が信じられなくなつて来た。
893格無しさん
2018/05/08(火) 05:53:29.95ID:mpMazghg
所が燈火の光の反射かそれはわしにも解らないが、(彼女はぢつと動かずにはゐるけれど)
894格無しさん
2018/05/08(火) 05:53:45.81ID:mpMazghg
其命の無い青ざめた皮膚の下では、再び血液の循環が始つたやうに思はれた。
895格無しさん
2018/05/08(火) 05:54:01.65ID:mpMazghg
わしは軽くわしの手を、彼女の腕の上に置いて見た。
896格無しさん
2018/05/08(火) 05:54:17.38ID:mpMazghg
が、あの寺院の玄関で、わしの手に触れた時よりも冷たくはないのである。
897格無しさん
2018/05/08(火) 05:54:33.27ID:mpMazghg
わしは再び彼女の上にうつむいて、温かな涙の露に彼女の頬を沾した。
898格無しさん
2018/05/08(火) 05:54:49.12ID:mpMazghg
あゝ、わしはぢつと彼女を見守りながら、如何なる絶望、自棄の苦悶に、如何なる不言の懊悩に堪へなければならなかつたであらう。
899格無しさん
2018/05/08(火) 05:55:04.98ID:mpMazghg
わしは徒にわしの生命を一塊の物質に集めてそれを彼女に与へたいと思つた。
900格無しさん
2018/05/08(火) 05:55:20.86ID:mpMazghg
そして彼女の冷かな肉体に、わしを苛む情火を吹き入れたいと思つた。
901格無しさん
2018/05/08(火) 05:55:36.73ID:mpMazghg
が夜は次第に更けて行つた。
902格無しさん
2018/05/08(火) 05:55:52.59ID:mpMazghg
わしは永別の瞬間が近づくのを感じながらも、猶わが唯一の恋人なる彼女の唇に、接吻を印してゆく最後の悲しい快楽を、棄てる事が出来なかつた……
903格無しさん
2018/05/08(火) 05:56:08.43ID:mpMazghg
と奇蹟なるかな、かすかな呼吸はわしの呼吸に交つて、クラリモンドの口は、わしの熱情に溢れた接吻に応じたのである。
904格無しさん
2018/05/08(火) 05:56:24.27ID:mpMazghg
彼女の眼は開いて、先きの日の輝きを示してくれる。
905格無しさん
2018/05/08(火) 05:56:40.16ID:mpMazghg
しかも長い吐息をついて、組んでゐた腕をほどくと、溢るゝばかりの悦びを顔に現して、わしの頸を抱きながら「あゝ貴方ね、ロミュアル。」
906格無しさん
2018/05/08(火) 05:56:56.06ID:mpMazghg
竪琴の最後の響のやうな、懶い美しい声である。
907格無しさん
2018/05/08(火) 05:57:11.93ID:mpMazghg
余り長い間貴方を待つてゐたから死んだのだわ。
908格無しさん
2018/05/08(火) 05:57:27.89ID:mpMazghg
けれど私たちはもう結婚の約束をしたのだわね。
909格無しさん
2018/05/08(火) 05:57:43.76ID:mpMazghg
もう貴方に会ひにも行かれるわ。
910格無しさん
2018/05/08(火) 05:57:59.50ID:mpMazghg
ロミュアル、左様なら。
911格無しさん
2018/05/08(火) 05:58:15.49ID:mpMazghg
私は貴方に恋をしてゐるのよ。
912格無しさん
2018/05/08(火) 05:58:31.34ID:mpMazghg
私の話したい事はそれだけなの。
913格無しさん
2018/05/08(火) 05:58:47.11ID:mpMazghg
貴方の接吻で一寸の間かへつて来た命を、貴方に返してあげませうね。
914格無しさん
2018/05/08(火) 05:59:02.84ID:mpMazghg
また直にお目にかゝつてよ。」
915格無しさん
2018/05/08(火) 05:59:18.68ID:mpMazghg
腕は猶、わしを引止めるやうに、わしを抱いてゐる。
916格無しさん
2018/05/08(火) 05:59:34.54ID:mpMazghg
其時凄じい旋風が急に窓を打つて、室の中へはいつた。
917格無しさん
2018/05/08(火) 05:59:50.38ID:mpMazghg
すると白薔薇の最後の一葩は暫く茎の先で、胡蝶の羽の如くふるへてゐたが、それから茎を離れて、クラリモンドの魂をのせたまゝ、明けはなした窓から外へ翻つて行つてしまつた。
918格無しさん
2018/05/08(火) 06:00:06.12ID:mpMazghg
そしてわしは、美しい死人の胸の上へ気を失つて倒れてしまつたのである。
919格無しさん
2018/05/08(火) 06:00:21.98ID:mpMazghg
正気に帰つて見ると、わしは牧師館の小さな室の中にある寝台の上へ横になつてゐた。
920格無しさん
2018/05/08(火) 06:00:37.92ID:mpMazghg
先住の老犬が、夜着の外へ垂れたわしの手を舐めてゐる。
921格無しさん
2018/05/08(火) 06:00:53.67ID:mpMazghg
バルバラは老年と不安とでふるへながら、抽斗をあけたりしめたり、杯の中へ粉薬を入れたりして、忙しく室の中を歩きまはつてゐる。
922格無しさん
2018/05/08(火) 06:01:09.53ID:mpMazghg
が、わしが眼を開いたのを見ると彼女が喜びの叫を上げれば、犬も吠え立てゝ尾を掉つた。
923格無しさん
2018/05/08(火) 06:01:25.26ID:mpMazghg
けれどもわしは未だ疲れてゐたので、一口もきく事も出来なければ、身を動かす事も出来なかつた。
924格無しさん
2018/05/08(火) 06:01:41.01ID:mpMazghg
其後はわしは、わしが微かな呼吸の外は生きてゐる様子もなく、此儘で三日間寝てゐたと云ふ事を知つた。
925格無しさん
2018/05/08(火) 06:01:56.85ID:mpMazghg
其三日間はわしは殆ど何事も記憶してゐない。
926格無しさん
2018/05/08(火) 06:02:12.60ID:mpMazghg
バルバラは、わしが牧師館を出た夜に訪ねて来たのと同じ銅色の顔の男が、次の朝、戸をしめた輿にのせてわしを連れて来て、それから直ぐに行つてしまつたと云ふ事を聞いた。
927格無しさん
2018/05/08(火) 06:02:28.33ID:mpMazghg
わしがきれ/″\な考を思合せる事が出来るやうになつた時に、わしは其恐しい夜の凡ての出来事を心の中に思ひ浮べた。
928格無しさん
2018/05/08(火) 06:02:44.10ID:mpMazghg
わしは初め或魔術的な幻惑の犠牲になつたのだと思つたが、間も無く夫れでも真実な適確な事実とする事の出来る他の事情を思出したので、此考を許す事も出来なくなつて来た。
929格無しさん
2018/05/08(火) 06:02:59.95ID:mpMazghg
わしは夢を見てゐたのだとは信じられない。
930格無しさん
2018/05/08(火) 06:03:15.73ID:mpMazghg
何故と云へばバルバラもわしと同じやうに、二頭の黒馬をつれた見知らぬ男を見て、其男の形なり風采なりを、正確に細かい所迄述べる事が出来たからである。
931格無しさん
2018/05/08(火) 06:03:31.62ID:mpMazghg
其癖、わしがクラリモンドに再会した城の様子に合ふやうな城の、此近所にある事を知つてゐる者も一人も無い。
932格無しさん
2018/05/08(火) 06:03:47.34ID:mpMazghg
或朝、わしはわしの室で僧院長セラピオンに会つた。
933格無しさん
2018/05/08(火) 06:04:03.20ID:mpMazghg
バルバラもわしの病気だと云ふ事を告げたので、急いで見舞に来てくれたのである。
934格無しさん
2018/05/08(火) 06:04:19.05ID:mpMazghg
急いで来てくれたのは、彼から云へばわしに対する愛情ある興味を証拠立てゝゐるのであるが、其訪問は、当然わしの感ずべき愉快さへも与へてくれなかつた。
935格無しさん
2018/05/08(火) 06:04:34.79ID:mpMazghg
僧院長セラピオンはその凝視の中に、何処となく洞察を恣にするやうな、審問をしてゐるやうな様子を備へてゐるので、わしは非常に間が悪かつた。
936格無しさん
2018/05/08(火) 06:04:50.50ID:mpMazghg
彼と対ひあつてゐる丈でも、わしは当惑と有罪の感じを去る事が出来ないのである。
937格無しさん
2018/05/08(火) 06:05:06.35ID:mpMazghg
一目見て彼は、わしの心中の苦痛を察したのに違ひない。
938格無しさん
2018/05/08(火) 06:05:22.20ID:mpMazghg
わしは実に此洞察力の為に彼を憎んだのであつた。
939格無しさん
2018/05/08(火) 06:05:37.93ID:mpMazghg
彼は偽善者のやうな優しい調子でわしの健康を尋ねながら、絶えず其獅子のやうな黄色い大きな眼をわしの上に注いで、測深錘のやうな透視をわしの霊魂の中に投入れるのである。
940格無しさん
2018/05/08(火) 06:05:53.68ID:mpMazghg
それから彼は、わしがどう云ふ方針で此教会区を管轄するか、こゝへ来てから幸福かどうか、教務の余暇をどうして暮すか、此処に住んでゐる人々と大勢近附きになつたか、何を読むのが一番好きかと云ふやうな事を、数知れず尋ねた。
941格無しさん
2018/05/08(火) 06:06:09.54ID:mpMazghg
わしは是等の問ひを出来る丈、短く答へたが、彼は何時でもわしの答を待たずに、急いで一つの問題から一つの問題へ移つて行つたのである。
942格無しさん
2018/05/08(火) 06:06:25.39ID:mpMazghg
此会話は、彼が実際云はうとしてゐる事とは何の関係もないのに違ひない。
943格無しさん
2018/05/08(火) 06:06:41.25ID:mpMazghg
遂に彼は何の予告もなく、丁度其時思ひ出した知らせを、忘れずに繰り返しておくやうに、明晰な声で急にかう云つた。
944格無しさん
2018/05/08(火) 06:06:57.00ID:mpMazghg
其声はわしの耳に最後の審判の喇叭のやうに響いたのである。
945格無しさん
2018/05/08(火) 06:07:12.85ID:mpMazghg
「あの名高い娼婦のクラリモンドが、五六日前の事、八日八夜続いた饗宴の終にとう/\死んでしまつたわ、大した非道な事であつたさうな。
946格無しさん
2018/05/08(火) 06:07:28.69ID:mpMazghg
ベルサガアルとクレオパトラの饗宴に行はれた罪悪が又犯されたと云ふものぢや。
947格無しさん
2018/05/08(火) 06:07:44.53ID:mpMazghg
神よ、わし達は何と云ふ末世に生きてゐるのでござらう。
948格無しさん
2018/05/08(火) 06:08:00.42ID:mpMazghg
客人たちは皆黒人の奴隷に給仕もして貰つたさうな。
949格無しさん
2018/05/08(火) 06:08:16.33ID:mpMazghg
其奴隷共は又何やらわからぬ語を饒舌る、わしの眼には此世ながらの悪魔ぢや。
950格無しさん
2018/05/08(火) 06:08:32.12ID:mpMazghg
其中の一番卑しい者の服でさへ、皇帝が祭礼に着る袍の役に立つさうな。
951格無しさん
2018/05/08(火) 06:08:47.90ID:mpMazghg
此クラリモンドには、始終妙な噂があつたつて。
952格無しさん
2018/05/08(火) 06:09:03.76ID:mpMazghg
何でも女性の夜叉だと云ふ噂ぢや。
953格無しさん
2018/05/08(火) 06:09:19.51ID:mpMazghg
が、わしは確かにビイルゼバッブだと信じてゐるて。」
954格無しさん
2018/05/08(火) 06:09:35.38ID:mpMazghg
彼は話すのを止めて、恰も其話の効果を観察するやうに、前よりも一層、注意深くわしを見始めた。
955格無しさん
2018/05/08(火) 06:09:51.21ID:mpMazghg
わしは彼がクラリモンドの名を口にした時に思はず躍り立たずには居られなかつた。
956格無しさん
2018/05/08(火) 06:10:07.07ID:mpMazghg
そして彼女の死の知らせは、わしの見た其夜の景色と符合する為に、わしの胸を畏怖と懊悩とに満たしたのである。
957格無しさん
2018/05/08(火) 06:10:22.79ID:mpMazghg
其畏怖と懊悩とはわしが出来る限り力を尽したにも拘らず、わしの顔に現はれずにはゐなかつた。
958格無しさん
2018/05/08(火) 06:10:38.65ID:mpMazghg
セラピオンは心配さうな、厳格な眸でぢつとわしを見たが、やがて云ふには「わしはお前に忠告せねばならぬて。
959格無しさん
2018/05/08(火) 06:10:54.48ID:mpMazghg
お前は足をつまだてゝ奈落の辺に立つてゐるのぢや。
960格無しさん
2018/05/08(火) 06:11:10.41ID:mpMazghg
落ちぬやうに注意をしたがよい。
961格無しさん
2018/05/08(火) 06:11:26.46ID:mpMazghg
悪魔の爪は長いわ、墓もあてにはならぬ物ぢや。
962格無しさん
2018/05/08(火) 06:11:42.22ID:mpMazghg
クラリモンドの墓は、三重の封印でもせねばなるまい。
963格無しさん
2018/05/08(火) 06:11:58.05ID:mpMazghg
人の云ふのが誠なら、あの女の死ぬのは始めてゞは無いさうな。
964格無しさん
2018/05/08(火) 06:12:13.99ID:mpMazghg
神がお前を御守り下さればよいがの、ロミュアル。」
965格無しさん
2018/05/08(火) 06:12:29.84ID:mpMazghg
かう云つて僧院長セラピオンは静かに戸口へ歩んで行つた。
966格無しさん
2018/05/08(火) 06:12:45.69ID:mpMazghg
わしは其時二度と彼に会はなかつた。
967格無しさん
2018/05/08(火) 06:13:01.54ID:mpMazghg
それは彼が殆んど直にS――
968格無しさん
2018/05/08(火) 06:13:17.38ID:mpMazghg
わしは全く健康も恢復すれば、又日頃の職務に服する事も出来る様になつた。
969格無しさん
2018/05/08(火) 06:13:33.24ID:mpMazghg
がクラリモンドの記憶と老年の僧院長の語とは一刻もわしを離れない。
970格無しさん
2018/05/08(火) 06:13:49.10ID:mpMazghg
けれども格別、彼の気味の悪い予言を実現するやうな大事件も起らなかつたので、わしは彼の掛念もわしの恐怖も、誇張されたのに過ぎないと信じるやうになつた。
971格無しさん
2018/05/08(火) 06:14:04.85ID:mpMazghg
すると、ある夜、不思議な夢を見た。
972格無しさん
2018/05/08(火) 06:14:20.57ID:mpMazghg
それはわしが眠るか眠らないのに、寝床の帳の輪が、鋭い音を立てゝ、其輪のかゝつてゐる棒の上をすべつたので、わしは帳が開いたなとかう思つた。
973格無しさん
2018/05/08(火) 06:14:36.44ID:mpMazghg
そこで素早く肘をついて起き上ると、わしの前に真直に立つてゐる女の影がある。
974格無しさん
2018/05/08(火) 06:14:52.28ID:mpMazghg
わしは直にそのクラリモンドなのを知つた。
975格無しさん
2018/05/08(火) 06:15:08.03ID:mpMazghg
彼女は手に、墓の中に置くやうな形をした小さなランプを持つてゐる。
976格無しさん
2018/05/08(火) 06:15:23.89ID:mpMazghg
その光に霑された彼女の指は、薔薇色にすきとほつて、それが亦次第に不透明な、牛乳のやうに白い、裸身の腕に溶けこんでゐる。
977格無しさん
2018/05/08(火) 06:15:39.72ID:mpMazghg
彼女の着てゐるのは、末期の床の上に横はつてゐた時に彼女を包んでゐた、リンネルの経帷子である。
978格無しさん
2018/05/08(火) 06:15:55.45ID:mpMazghg
彼女はこの様にみすぼらしい衣服を纏ふのを恥ぢるやうに、其リンネルの褶に胸をかくさうとしたものの、彼女の小さな手は其役に立たなかつた。
979格無しさん
2018/05/08(火) 06:16:11.29ID:mpMazghg
彼女は其経帷子の色がランプの青ざめた光の中で彼女の肉の色と一つになる程白いのである。
980格無しさん
2018/05/08(火) 06:16:27.13ID:mpMazghg
彼女の肉体のあらゆる輪廓を現すやうな、しなやかな、織物に包まれた彼女の姿は、生きた女と云ふよりも寧ろ美しい古の浴みする女の大理石像のやうに眺められる。
981格無しさん
2018/05/08(火) 06:16:42.97ID:mpMazghg
が、死んでゐるにせよ、生きてゐるにせよ、石像にせよ女にせよ、影にせよ肉体にせよ、彼女の美しさは依然として美しい。
982格無しさん
2018/05/08(火) 06:16:58.84ID:mpMazghg
唯違ふのは彼女の眼の緑色の光が、前よりも輝かないのと嘗ては燃えたつやうな真紅の唇が、今は其頬の色のやうな、微かなやさしい薔薇色に染んでゐるとの二つである。
983格無しさん
2018/05/08(火) 06:17:14.56ID:mpMazghg
わしが前に気の附いた、髪にさしてある小さな青い花も今は見る影もなく枯れ凋んで、殆どのこらず葉を振ひつくしてゐるが、之とても彼女の愛らしさを妨げる事はない――
984格無しさん
2018/05/08(火) 06:17:30.43ID:mpMazghg
彼女は、此事の性質が不思議なのにも拘らず、又わしの室へはひつて来た様子が奇怪なのにも関らず、暫くはわしが何等の恐怖をも感じなかつた程、愛らしく見えたのである。
985格無しさん
2018/05/08(火) 06:17:46.27ID:mpMazghg
彼女はランプを卓の上へのせて、わしの寝床の後に坐つた。
986格無しさん
2018/05/08(火) 06:18:02.02ID:mpMazghg
それからわしの上に身をかゞめて、銀のやうに冴えてゐる、しかも天鵞絨のやうにやさしく柔かい声で、かう云つた。
987格無しさん
2018/05/08(火) 06:18:17.89ID:mpMazghg
其声は彼女を除いては誰の唇からも聞く事の出来ぬやうな声である。
988格無しさん
2018/05/08(火) 06:18:33.73ID:mpMazghg
「貴方を随分長い間待たせて置いてね。
989格無しさん
2018/05/08(火) 06:18:49.49ID:mpMazghg
ロミュアル、私が貴方の事を忘れてしまつたのだと思つたでせう。
990格無しさん
2018/05/08(火) 06:19:05.33ID:mpMazghg
でも私は遠い処から来たのよ、それはずうつと遠い処なの。
991格無しさん
2018/05/08(火) 06:19:21.07ID:mpMazghg
其処へ行つた者は誰でも帰つて来た事の無い国なの。
992格無しさん
2018/05/08(火) 06:19:36.94ID:mpMazghg
さうかと云つてお日様でもお月様でもないのよ。
993格無しさん
2018/05/08(火) 06:19:52.80ID:mpMazghg
唯、空間と影ばかりある処なの、大きな路も小さな路もない処でね。
994格無しさん
2018/05/08(火) 06:20:08.64ID:mpMazghg
踏むにも地面のない、飛ぶにも空気のない処なの。
995格無しさん
2018/05/08(火) 06:20:24.37ID:mpMazghg
それでよく此処へ帰つて来られたでせう。
996格無しさん
2018/05/08(火) 06:20:40.10ID:mpMazghg
何故と云へば恋が『死』
997格無しさん
2018/05/08(火) 06:20:55.98ID:mpMazghg
を負かさなければならないからだわ。
998格無しさん
2018/05/08(火) 06:21:11.70ID:mpMazghg
まあ、此処へ来る途中で、何と云ふ悲しい顔や、恐しい物を見たのでせう。
999格無しさん
2018/05/08(火) 06:21:27.51ID:mpMazghg
唯意志の力だけで又此大地の上へ帰つて来て、体を見附けて其中へはひる迄に、私の霊魂は何と云ふ苦しい目に遭つたでせう。
1000格無しさん
2018/05/08(火) 06:21:43.40ID:mpMazghg
私を掩つて置いた重い石の板を擡げる迄に、何と云ふ苦労をしなければならなかつたでせう。
-curl
lud20241224183706ca
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