仏教とはいかにして「自己を有利に持っていくか」の実践に尽きる。
まあ俺は今はクリスチャンだけどな(*_*)。
ジャンキー君、人気者だね。
988神も仏も名無しさん2017/06/25(日) 04:32:24.99ID:AQ+VB0k5>>990
>>953
ジャンキーさん、
あなたの言う公案はあるのか無いのか?
その公案とやらを実践出来る人間がいますの?
>まだ公案で瞬殺された事を根に持って、ちくちくと粘着しに来たのか?
これ意味がわからないです
公案そのものもわからないですよ
公案と公案を実践して悟りに近づけますの?
>だから、知らんがなと言っておるw
そうか、説明も出来ず何も知らんのね?
ここに何しに来てるの? でおーとか、まことの喜びじじいが入ってきたスレは
議論なんか成立しないから。
でおーが入ってきたべ?間もなく、まことの喜びじじいも来るぞ。
その時点で「仏教議論」にはならない。
オウム信者体験者こそが、仏教議論が可能と自信満々だそうです笑。
仏教は競争社会で働く人には合わない教えかもしれない。
矛盾・対立・闘争を乗り越えて、神の使命を果たすというような考えがないからさ。
>>2
>仏教とはいかにして「自己を有利に持っていくか」の実践に尽きる。
日本で実践は阿闍梨さんしかしてないですよね
チベットやネパールのお坊さんの中にはおられますが
小乗仏教を習われてるからね
仏教のいう実践ですが、悟りに拘り実践出来る人がいないの
それが仏法の目的なら仏法は必要ないと思う
あなたはクリスチャンの方なら告解についてもお詳しいでしょう
クリスチャンの信徒さんは告解をすれば神に許されて天国に行くと
教えられてるの? >>8
>>仏教とはいかにして「自己を有利に持っていくか」の実践に尽きる
はて?
ドコの国の仏教よ?それ。
お経でいうと、なんのに書いてる?
おせーて♪ >>10
>仏教とはいかにして「自己を有利に持っていくか」の実践に尽きる
これがおかしいと言いたかったのですが
レスの流れ見てないのかな 検索もいいが、とにかくガムシャラに修行する
ことを、まことにはお勧めする
>>12
>自利・利他ですよ〜
それは仏法の要ではないですよ
他力(本願)のない仏法は救われませんよ?
小乗仏教かカルトは自分の行いを重視しますが
>自利・利他ですよ〜
そんな仏教はないですよ?
自利利他を本願とする宗教ってあるの? ゆえに、バレバレの自演になり、まことは恥も何もなくなった
>>17
>無じゃ
アホですか?
『心の対象が滅するときには、言語の対象も滅する。
その法相は不生不滅(の如く)であり、
じつにニルヴァーナの如くである。』(龍樹 中論18‐7)
心に対象が滅した『想いからの解脱』(Sn.1072)において
有無の二項相対設定はありえない。 竜樹(ナーガールジュナ)はその著「中論」で空を次のように定義している。
「衆の因縁生の法、我はこれを<空>なりと説く。何となれば、衆の縁が具足し和合して而して物は生ずるをもて、
是の物は衆の因縁に属するが故に自性なく、自性なきが故に空なり。空も空なればなり。
但し、衆生を引導せんが為の故にのみ仮名(けみょう)を以て説く。有と無の2辺を離れるが故に名付けて中道となす。
是の法には性無きが故に、有と言うことを得ず、亦空も無きが故に無と言うことをも得ず。若し法に性相あれば
即ち衆縁を待たずして、而も有ならんも、若し衆縁を待たずんば即ち法無し、この故に空ならざる法は有ること無きなり。」
注:
1)仮名(けみょう):言葉による表現
2)「自性なき」=無自性(むじしょう):固定した不変の性質を持っていないこと。条件に対し無条件に応答し変化する性質をいう。
?
「中論」の文章を読んでも訳文が古いため何を言っているかわからないと思われるので現代語にすると次のようになる。
「諸々の因縁から生成したもの(法)を私(ナーガルジュナ)は<空>であると説く。何故なら、諸々の因縁(条件)が具備・和合して
はじめてもの(法)は生成する。このもの(法)は因縁によって生成したのであるから諸々の因縁から切り離すことはできない。因縁に
属すると言ってもよい。因縁自身は一定した性質を持ってはいないので自性は無い(無自性である)。自性は無いので<空>である。
但し、<空>という言葉(仮名)で表現するのは衆生を導くためである。諸々の因縁から生成したもの(法)は有と無の二辺を離れている。
故にこれを中道と名付ける。もの(法)は一定した性質を持ってはいない(無自性)ので有と言うこともできない。また無であるとも言い切れ
ない。もし、もの(法)に固定した性質があれば、因縁の助けなしに、生成するだろう。しかし、すべてのもの(法)は因縁によって生成する。
従って<空>でないもの(法)は無いのである。」
ここには<空>の意味が説明してある。竜樹(ナーガールジュナ)が説く空とは
1.? 諸々の因縁(条件)によって生じたもの。
2.? 固定した性質を持たない、無自性なもの。
ここに結論が出てる
仏教は自分の心をいかに安楽にするかがテーマである。
他人を助けるとかどうでもいいんだよ。まず自分が安楽に
なれるかどうかである。
そのために何故自分は苦しいのかを観察するのである
原因が分かれば対策もある。
難しく考えることもない。
中論は、難しい誰も理解できん 学者さんは、研究して下さい
>>24さん
yesかnoかで答えて下さい
生きとしものは皆生まれ変わり死に変わり迷いの中を流転し続ける >>28
生まれ変わり死に変わりとかはそもそも無い。
妄想である。
人が死ねばどうなるかリアルに考えてみればわかる。
二酸化炭素と水に変化する。
それらは大気の一部となり地球を循環する一部となる。
あとは現在の大気循環を考えれば分かるだろ。
意識も無意識も死んだ時点で無くなり終わる。
生きてるうちに今の苦しみをなくし安楽な境地を
得るべきである。 火葬とかに立ち会ったこともないのか?
動物が死んでそれが腐っていく様を見たこともないのか?
死んだ死体をそのままにしてればどういう変化をすること
くらい分かるだろ
>>29
>人が死ねばどうなるかリアルに考えてみればわかる。
>二酸化炭素と水に変化する。
>それらは大気の一部となり地球を循環する一部となる。
比喩としても酷い。
要素還元主義は仏法ではない。 >>24
>ここに結論が出てる
アホですか?
結論なんか出ようがないんですが、何かご不審な点でも?
他者の言を引用するなら、引用先を明示するのが当然だろう。
『縁起しているもの、
(1)それをわれわれは「空」と説く。 *空観
(2)それは、相対(相待)の仮説でもある。 *仮観
(3)それ((1)と(2))は〔じつは)すなわち「中道」にあるのである。』 *中観
(龍樹 中論24-18) >>24
>ここには<空>の意味が説明してある
空の如しは比喩示唆でしかなく、意味は論外だ。
『(1)他によって知られるのではなく、 *Sn.907参照
(2)寂静であり
(3)戯論によって戯論されることなく
(4)無分別であり
(5)★無意味である *「一味」(青目、月称)把握は間違っている。
―これが勝義である。 >>35
それを実体験したか、もしくはそれを得るために修行をした人がいないことについては?
コピペして切り貼りしてあなたはその境地になったの?
>空の如しは比喩示唆でしかなく、意味は論外だ。
それはどこに書いてありますの?
空についてですがそれこそ仏教を勘違いし、観念に囚われること
引用は私もしますが龍樹菩薩は空だけで仏法を説かれていませんよ? >>35
>勝義である
そんな言葉お経のどこにあるの? 仏教は、アートマンを否定してるのか肯定してるのか教えてください(´・ω・`)
(無我は、我の否定でありアートマンの否定ではないことは知ってます)
40.
アートマンは存在としては否定される。
だが、存在しないものとしては肯定される。
理解できるかな。無理かもな。
栄進はラジニーシの非仏教の信奉者の鬼和尚に依存しすぎだな。
>>41
つまり、アートマンは否定されると。
>>42
鬼和尚曰く、目覚めたものになる教えは全て仏教なのじゃ、だそうです。 釈迦が言ったのは、五蘊無我だよ
五蘊(肉体・精神を構成する要素)、つまり現れたものの中には
我(=アートマン)は存在しない、ということ
アートマンを漢訳したときに 「我」 としたから
自我のことのように誤解を生むことになった
つまり、直接的には言ってないが、五蘊以外の現れてないもの
がアートマンだと言外に言ってるようなもの
比丘たちよ、生じたのではないもの、現れたのではないもの、作られたのではないもの、
形成されたのではないもの、生起したのではないものがある。
〔さらに一方〕 生じたもの、現れたもの、作られたもの、形成されたもの、起こったもの、
縁起したものがある。 比丘たちよ、もし生じたのではないもの、現れたのではないもの、
作られたのではないもの、形成されたのではないもの、生起したのではないものがないならば、
『生じたもの、現れたもの、作られたもの、形成されたもの、起こったもの、
縁起したものを離れることがある』と私は説かないであろう。
ところが比丘たちよ、生じたのではないもの、現れたのではないもの、作られたのではないもの、
形成されたのではないもの、生起したのではないものがあるから、
だから『生じたもの、現れたもの、作られたもの、形成されたもの、起こったもの、
縁起したものを離れることがある』と私は説く。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f)
>>44
そうですね。
>>45
>>比丘たちよ、生じたのではないもの、現れたのではないもの、作られたのではないもの、
>> 形成されたのではないもの、生起したのではないものがある。
これは、アートマンのことを指してるのかしら(´・ω・`) >>46
栄進をパチンコさせるパチンコマンでいいじゃないか笑。 余談だが、先日、「ハロー張りねずみ」でオカルトを扱ったものをやっていて霊媒師がまだ不動明王
を中心にとなえていたが、不動は悪いほうへいってしまいもう消滅させられたという情報を得ている。
これからは降三世明王を中心に唱えるべきだ。
大日如来はパワーがほしいときあるいは怒りがほしいとき不動(シヴァ)と合体しては絶対ならない。
ハトフル、マリア他も同じ。みんないいように記憶をすりかえられたり、術中にはまって
ほれぼれピーに不正にさせられたりしている。だから取り返すものがいつまでもとりかえせない。
不動は人間側も唱えてはいけないし何万年分の入れ替え弁償とって早く元から消滅完全に
させなければならない。
>>40
我とアートマンは同じ言葉ですよ
我を否定してアートマンを否定してない、というのは何かおかしいですね
我を否定してるならアートマンも否定してます
我を否定してないならアートマンも否定してないですよ
アナートマンは「我ではない(非我)」という意味ですが、まあ、これをアートマンを否定せずに
「貴方たちがアートマンと言ってるのは実はアートマンではない」(ほかに真のアートマンがある)と仰ったと解釈したければそれでもいいんじゃないですか >>50
つまり仏教はアートマンを否定してない、でよかとですか(´・ω・`)?
>>51
そうですか。 バラモン教の土台はあったかも知れないけど仏教はほぼオリジナルで考えた方が良いと思う
いちいちバラモン教で捉え直すことで余計ややこしくなるんじゃないか
梵我一如を目指すのではなく、そもそも我っちゅーのは縁起で成り立つ諸法無我であることに気づきましょうって話だし
>>53
バラモン教と仏教は別物と考えるからややこしいような気が。
むしろ真のバラモンになるための方法が仏教だと考えればシンプルのような。
>>54
『梵無我一如』と言ったほうがいいのかな。 >>55
インドに行ってヒンドゥー教を学んでこいよ 梵は全ての源だけど仏教では不要な思想としてる
梵天が仏教を広めよと指示した方便的な神話があるだけ
さらにバラモン的な我という不変の概念は仏教では認めない
したがって仏教の思想からブラフマンやアートマンを定義し直すことは
仏教でいう無明煩悩しがみ付いている様なもの
その先を学びたいなら大乗仏教の神々を取り入れたヒンドゥー教から学ぶのが筋だし早いだろう
>>56
ワシ、引きこもりやねん(´・ω・`)
>>57
Suttanipata(Sn.) には, 次のような釈尊と信者の対話が残されている。
聖者よ,お尋ねしますが,私は今, brahmanをまのあたりに見たのです。真にあなたは我らにとってbrahmanに等しい(brahmasama)方だからです。
光輝ある方よ。どうしたならば, 梵天界(brahmaloka) に生まれるのでしょうか。(Sn,508G )
これに対して釈尊は「施しの求めに応じる人が, このように正しく祀りを行なうならば梵天界に生まれる」と答えている。 >>58
なるほどね
それならブラフマンやアートマンという考えを一旦捨てて
しっかりと仏教に勤しむといいよ
その逸話はそういう意味だから 58.
施しを求める者の詐欺の言葉である。
バカは、その言葉でだまされる。
>>52
>つまり仏教はアートマンを否定してない、でよかとですか
Kimatthakāmo na dade kiṃ macco na pariccaje
利益を求めるものは、何を与えてはならないのか?人は何を捨ててはならないのか?
(Bhagavā:) attānaṃ na dado poso attānaṃ na pariccaje,
(世尊曰く)自己を与えてはならない。自己を捨ててはならない。
仏教で説かれている自己(アートマン)というのは捨てたり与えたりできるレベルのものってことやね 以前ここで中論についての質問をしたものです。
中村元先生の龍樹を読了しましたが、龍樹の思想背景などは理解できましたが、
肝心の中論本文についてはさっぱりでした。
やはりチャンドラキールティのプラサンナパダーや
ツォンカパの正理の海などを読むしかないのでしょうか?
価格が高いので理解できなかった時のことを考えて購入を躊躇しています。
ダライ・ラマ法王の「中論講義」は、難しくはありますが、簡易な言葉で書かれており
また法王は師から直接教えを受けられていますから、中論解説に有りがちな
独善的解釈の心配もないと思われます。
>>59
すいません、意味がわからないので教えてください。
>>61
でも自己(アートマン)の存在は否定してないわけですよね。 >>62
チャンドラキールティやツォンカパは難解なのでオススメしません
(特にチャンドラキールティは良い訳がない。丹治先生のは部分訳だし)
レグルス文庫の三枝先生の訳でいいと思いますよ
青目註の書き下し訳がついてるので参考程度にはなりますし
あと、龍樹を勉強するなら中村元先生じゃなくて石飛道子『ブッダと龍樹の論理学』を読まないと理解できないと思います >>64
世俗諦なら自己は認められますよ 「自己をより所とせよ」っていうでしょ
ただし永遠不滅という意味はないけどね
あるいは宮元先生みたいにヤージュナヴァルキヤみたいな「〜ではない」、〜ではない」としか語ることのできない言語化不可能なアートマンとかそういう意味もないですね >>61
これ、原文はパーリ語というものですか?
attānaṃ=アートマン=自己(´・ω・`)? >>66
我=アートマンであるものは否定されると。
自己=アートマンでないものは肯定される。
世俗諦では自己は認められる。
勝義では自己は認めないということ?
(´・ω・`)???
なんで仏教で相反する結論が二つもあるん? >>68
諸行無常。
自己は縁起によって、いま成り立ってる様に見えるもので永遠不滅のものではない。
その辺は空観によって語られる。
でも空観を真理の頂点とすればニヒリズムとなり現世を楽に生きられない。
だから、逆に、仮に全て有ることを認めて生きて行こうという考えが仮観。
でも仮観では現世に執着して楽に生きられない。
この両極端を知った上で概念を止揚させる考え方が中観。
この前提を踏まえた上で、自らの中観での灯を頼りにせよという自明灯に行き着くことができる。
つまり永遠不滅のアートマンとは全く違う概念。 >>64
いま梵天界に生まれたいと考えてるのなら、布施の修行をしっかり喜びをもってやりなさいってこと。 >>68
>なんで仏教で相反する結論が二つもあるん?
たとえれば勝義諦は原子だけの世界みたいなもん
われわれの世俗の認識だとここにPCもしくはスマホ、ガラケーがあるけど
原子の世界ではPCもスマホもガラケーもないでしょ?
ただの原子しか存在しない
逆に言えば仏教で認めてる自己(サ:アートマン、パ:アッタン)というのはその程度のことでしかなく、永遠の魂とか精妙な霊我ではない
ただし仏教では霊魂を否定しているからといって死んだら無になるとは言わない >>69
なるほど。
自己とアートマンはちがうと。
納得いたしました<(_ _)>
>>70
ハイ
>>71
原子は分子レベルで変化してるだけで、原子は不滅ですよね。
そういう意味でアートマンということでしょうか。 >原子は分子レベルで変化してるだけで、原子は不滅ですよね
宗教板ってたまにすごい人いるよね(´・ω・`)
相対性理論や量子力学や脳科学について動画でも良いから調べたら仏教ってすげーなって思うよ
>>76
核消滅ってあるん(´・ω・`)?
>>77
相対性理論=縁起?
量子力学=唯識?
脳科学=無我?
これでええんかな(´・ω・`)?
わしアートマンについて調べとんやけど。 >>78
アートマンって輪廻転生の根拠だから仏教で言えば苦の対象なんちゃう? >>79
チベット中観派でも説一切有部でもテーラワーダでも
アートマン(またはアートマン的な主体)を輪廻の根拠として説いているまともな学派はないよ >>79
アートマンを我と思う無明?が輪廻転生という苦の根拠なんですかね?
>>80
ならば輪廻転生の根拠・主体とは何でしょうか(´・ω・`)? >>80
言葉が足りなかった
1.他の宗教ではアートマンを輪廻転生の根拠としている
2.仏教宗派ではアートマンなら輪廻転生は成り立たないと考える
3.仏教哲学では無我なら輪廻転生は成り立たないと考える
2.は辻褄の合わないところなど、論争が未解決なので
差し当たり1.と3.によって、単純にアートマンへの執着が苦だと考えた >>82の続き
2.の場合は、アートマンを否定することで輪廻転生を正しく認識することで
その上で涅槃寂静があると考える
したがって、仏教ではどこをつまんでもアートマンへの執着が苦であるという結論になる >>81
えーっとまず輪廻に主体はありません。
仏教では人間を心と身体(漢:名色)というパーツにわけて考えます。
仏教では、心の根本的な原因は物質(=脳)ではありません。二つはお互いに影響を与えるけれど別物と考えてください。
心は身体に依存しています。
今生において、身体が機能しなくなると、心は次の依存先の身体を探します。
今世の最後の心(死心)が滅するとき、この今生最後の心は自分が滅する代わりに、来世の身体(色蘊)に自分にそっくりな新しい心を生みだします。
この因果の連鎖が続いていくこと(梵:サンタティ)が輪廻です。
で、死んだ後に、今の身体と次の身体が地理的に離れていることが問題となります。
というか、これが納得できないから多くの人が魂とか主体を想定したがるんだと思いますが。
テーラワーダでは中有を認めないので、臨終の心が、フッと消えたとたんに
何百キロ先の身体にパッと新しい心が生じると考えます。
中有(バルドゥー)を認める学派(中観、有部)は
バルドゥーの身体をインターミッションにして来世に転生するとします。(多分こっちの方が想像しやすいかもしれない)
幽霊(ガンダルヴァ)に生まれ変わって次の転生先までふらふら〜っと移動していく感じです。
勘違いしないで欲しいのは今世と来世で意識に断絶があるわけではないことです。
今現在も私たちの心は滅して、自分にそっくりな新しい心を生み出しているからです。
輪廻で意識が断絶するなら、今現在も意識が断絶しているようなものです。
魂ではなく、五蘊が生じて滅してを繰り返す「因果の連鎖」(梵:スヴァ・サンターナ、漢:自相続)
が途切れることなく続いていくことが仏教における輪廻の教理です。
個々人の因果の流れがあるから、私が突然、となりの田中さんになったりすることは起こらないわけです。
私の今の心は、一瞬前の私の心のコピーだからです。
こんな感じです。分かりにくかったらもう一回質問してください。
それでもアートマンがあると信じたいならさようなら >>82
3について気になったのでちょっと。
3番目は近代仏教学者が科学的唯物論の立場から仏典を解釈した文献学の見解で、
「仏教哲学」とでもなんとでもご自由に呼べばいいですが、
この解釈を信奉している主体は、ナーガールジュナや、釈尊ではなくて、
現代の仏教学者とそのフォロワーだけです。
(龍樹や釈尊のテキストは、中立的な解釈対象であって、「釈尊の真意は輪廻否定」とか霊言をのたまい出したら、
その人は輪廻を認める宗教者と同じ立場に立つハメになりますよ。自覚がないだけで。)
たとえば宮崎哲弥氏が中観帰謬論証派は輪廻を否定している!とうそぶいてますけど、
自立論証派であろうと、帰謬論証派であろうと、こういう解釈をしている「哲学・思想」は過去にありません。
それは「中観宮崎哲弥派」の創始と同義です。
文献学の学者が何千年前のインドに現れた現代人であるブッダの思想を再発見したと妄想しているだけです。
自分の見解に合わない仏典の記述は「後代の発展や付加」と決め付けていく還元論であって、
はじめから「輪廻などの迷信はありえない」という結論ありきで考察していくという方法論ですよ。
めちゃくちゃ単純です。
以上です。 >>85
なるほど、仰る通りだと思いました。
仏教って面白いなあ。 俺氏真宗の理解だと縁起そのものが輪廻や魂だと思ってるんだよな
常に魂は生まれ続け輪廻し続けている
>>84
よくわかりました。
解説ありがとうございます<(_ _)>
悟ると輪廻が停止して二度と生まれかわらないと聞きますが。
これはなぜですか(´・ω・`)? 諸説あるけど、正確に近いは涅槃寂静はアートマンが輪廻転生し続けるという思想から
完全に離れた状態のことだと思う
煩悩の火を搔き消し、諸行無常、諸法無我を腑に落とし瞑想によって悟ることで
それに身を任せるから涅槃寂静だと言えるんだろうと思う
もっと細かい説明や教えもあるだろうけど、こればかりは悟ってみないと正確なところは分からない
悟りはアウフヘーベンと体験だと思ってる
論なく中観を語ってもアウフヘーベンのない半端な考えでしかないし
体験が無いと正確なところは分からない
体験というのはものすごく単純なことだと思う
これを言葉で説明しようとするから大量の言葉が溢れ過ぎて悟りを見え辛くしてるところもある
悟りとは悟らで悟る悟りなり悟る悟りは夢の悟りぞ。⭐🐻
>>89
ならばインド人はともかく、アートマンという観念思想をもってない日本人は最初から悟ってることになりますよ。
(´・ω・`)? >>92
ゴメンその上での諸行無常、諸法無我と瞑想の境地が涅槃寂静
ちなみに日本人は死者と冥界への恐れを持つ民族で
そこに霊魂と先祖崇拝と六道輪廻の考えが輸入された無明の民族と言える >>92
ちなみに、今でもアートマンへの執着をお持ちなんですね 梵我一如って劣等コンプレックスの塊が中二病を拗らせた超人変身願望っていうイメージがある
99%五蘊の支配下に置かれているおまいらに・・^^
アートマンの存在を自覚するのは不可能^^
五蘊の支配下から解脱するためには・・
どうすればいいのか・・^^
>>96
仏教への信仰の先にはアートマンは居ないからね
ヒンドゥー教への信仰の先にはアートマンの自覚が生まれるかも知れない 五蘊に執着してるんだよな・・^^
おまいらは^^
だから解脱できずにいる^^
五蘊の執着から解脱したとき・・^^
アートマンは現れる^^
しかし・・
その存在は・・^^
周りのエネルキーと同化しちゃうんだよな・・^^
つまり・・^^
周りのエネルギーと同化するということは・・^^
アートマンと言う言葉では表せなくなるということかな・・^^
>>88
輪廻の原因は根源的な欲望(漢:渇愛)です。
これがなくなると死ぬ瞬間に心が次の身体を探さないのでその身体の機能停止を最後に生は終わります。
そのまま身体の機能停止とともに心が完全に消えるのかどうかは二千年以上、仏教徒の間でも論争になってます。
完全に消え去る、なにかしらが残る、涅槃のあとも心の流れは続いて衆生を救うために活動するなど
色々な意見があります それがあなたの悟り体験ってことなんだね
そんなことより野球したいな
う〜〜ん^^
無分別の境地ということにしておこっと^^
大乗庶民だとどうも悟りや涅槃寂静への興味がさらさら湧かないな
慈悲と縁起があれば楽に死ねる
>>93
>ゴメンその上での諸行無常、諸法無我と瞑想の境地が涅槃寂静
こういう野狐禅の俺様仏教をテキストに沿って厳密に否定したのが魚川祐司氏の「仏教思想のゼロポイント」 輪廻の原因は執着だね^^
脳に記憶をさせる機能かもしれん^^
生命活動に最も重要な機能が・・^^
逆に苦を生じさせている^^
つまり・・^^
>>107
普通の人のための仏教、瞑想入門の方が興味深いです >>94
経典でアートマンに触れてる部分があるんですが。
気になって夜も寝れんのです。
感興のことば(ウダーナヴァルガ)27章「観察」40
ここなる人が苦しみを見ないというのは、見ない人が(個人存在の諸要素の集合が)アートマンであると見ることなのである。
しかし(すべてが)苦しみであると明らかに見るときに、ここなる人は「(何ものかが)アートマンである」ということを、つねにさらに吟味して見るのである。
・・・どう解釈されますぅ(´・ω・`)? 仏教への拘りも過ぎると苦なんだよな。
だかしかし仏教に拘り過ぎないとその先への止揚がない。
そしてその先にも終わりがない。
>>92
現に日本人にはこういう「悟ってる」人がいっぱいいるから厄介なんですよ
>日本人は死者と冥界への恐れを持つ民族で
↑これは真っ赤な嘘で、日本民族の固有の宗教観である「悟り」=「死への恐怖をなくすこと」という固定観念で考えてる
その結果がこれ↓
>慈悲と縁起があれば楽に死ねる
日本人に固有な「武士道とは死ぬことと見つけたり」とかあの辺の武家や儒学の無神論が混ざり合った古い思想を前提に解釈してるのに
自分は中立客観だと思ってるというね…
ニカーヤ、阿含経などの原始仏典や、龍樹、月称、アティシャ、レンダーワ、ツォンカパなど中観派の諸テキストには
「悟りとは死を恐れないこと」なんて一言も書いてないのに >>113
それはあるでしょうねえ。
武士が労働者になったようなもので。
「勤労とは死ぬことと見つけたり」と過労死するまで働くでしょ。
無意識に労働が修行になってるのかも。
>>「悟りとは死を恐れないこと」なんて一言も書いてないのに
逆に仏典では悟りを「不死の境地」と表現してますね。
話がズレた。
本当はアートマンの勉強がしたいのに(´・ω・`)ボソッ >>103
「生きたい」「死にたくない」というのも欲望だと。
死を恐れなければ次の肉体を探さなくていいから輪廻が停止すると。
それが悟りですか?
>>113
ということは「悟りとは死を恐れないこと」になりますけど・・・
ちがうんですか(´・ω・`)? >>111
だれもアイデア出さないなら私が書きますけど。
ウダーナヴァルガのサンスクリットと該当箇所のチベット訳を見てみましたけど、
26-27章は脱落が多いですね。偈が二つ連続で丸々解読不可能なのもあって、
校勘用の写本が圧倒的に足りないんじゃないかと。
---------
duhkhaṃ yad ayaṃ na paśyati tad apaśyann ātmeti paśyati |
duhkhaṃ tu yathā tathā prapaśyann ayaṃ ātmeti sadānupaśyati |27,40|
http://www2.hf.uio.no/common/apps/permlink/permlink.php?app=polyglotta&context=record&uid=80ac49d0-d1a0-102d-8356-001cc4df1abe
---------
以上が原文です。 >>111
私の訳だと、
「苦しみを見ない人、かれは(真実のままに)見ることなくして、「アートマンがある」と見る。
しかし、苦しみを真実のままに明らかに見ることで、かれは「アートマンがある」と常に随観する。」
"ātmeti" は「(なにものかが)アートマンである」よりも「アートマンがある」の方が素直なんじゃないですかね。
「なにものか」って何だよって思いましたよ…。
で、この偈は端的に言って意味不明ですね。苦しみを見ても見なくても「アートマンがあると見る」んだから。
(もしくは「(なにものかが)アートマンであると見る」。)
チベット訳だと
それによって苦しみを見ないそのとき〔彼は〕アートマン〔という見方〕において見るだろう
ありのままに苦しみを遍く知るのでアートマン〔がある〕というように〔彼は〕見ないであろう
となるので、ātmeti sadānupaśyatiはチベット訳の原文ではātmeti sadānapaśyatiだったかもしれません。
これだと「『アートマンがある』と見ることは常にない」という意味になりますね。
英訳も大体そのように解釈しているようです。(he perceives not form)
26-27章のサンスクリット原文は大きい脱落があって、偈が丸々解読不可能なのもあります。
校勘用の写本が圧倒的に足りてないとしか思えないので、
チベット訳の「アートマン〔がある〕というように〔彼は〕見ないであろう」に従っておくのが穏当じゃないかなと
>>116
>死を恐れなければ次の肉体を探さなくていいから輪廻が停止すると。
いえ、渇愛(タンハー)がなくなると輪廻が停止するのです。
死を恐れなくても、五欲を楽しませたい欲望がわずかにでも残っていたら輪廻します。欲愛(カーマ・タンハー)といいます。
そして、たぶん「死ぬことと見つけたりぃぃぃ」と発見したお侍さんも>>106さんもしぶしぶ納得してるか、脳内物質がドバドバ出てるだけだと思いますので、
生存欲をちゃんと枯らし尽くして、「この世界は汚いし、苦しいからもういいや」と厭離(パ:ニッビンダティ)しないとダメですね。 >>117
どうもです(´・ω・`;)汗
これをストレートに読めば、仏教で観察とはアートマンをみること。
でいいんでしょうか・・・
いきなりアートマンという用語に言及してるのはここだけなのか、ビックリして。
前後の脈略でアートマンの否定じゃないかという意見もあるし。
解読お願いします<(_ _)>寝ます。ではでは。 >>118
プロのご意見どうもです。
>>チベット訳の「アートマン〔がある〕というように〔彼は〕見ないであろう」に従っておくのが穏当じゃないかなと
あちゃ〜、やはりそうですか。
結論、仏教はアートマンを否定してる。
私のアートマン探究の旅はここで終わりそうです(´;ω;`)
ご教授ありがとうございました<(_ _)> 『無我相経』(阿含経)
色は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは
アートマンにあらず。アートマンにあらざるものは、私の
ものにあらず。われにあらず。われのアートマンにあらず。
このごとく正しき智慧によって如実にみられるべきである。
五蘊は我がものあらず、いただきものである――諸法無我。
五蘊がアートマン
という自己の主体であるならば、すべては自分の思い通りにな
るはずであるから、思い通りにならないものはアートマンでは
ないということである。また自分の思い通りにならないものは
私のものではない。みんなもらいものの寄せ集めであって、そ
のそも私と呼べるものは何もない「無我」だということである。
ふむふむ^^
五蘊皆空か・・^^
変化するものはアートマンにあらずか・・^^
1:色、受、想、行、識は常に変化しており(無常)、アートマン(我)のような
変化しないものものは存在しない。霊魂のような不変の中心点もない。
アートマンを仮定しなくても人間存在は五蘊で理解できる。
つまり、五蘊無我説は無霊魂説である。
ほほう^^
哲人ヤージニャヴァルキヤは脳機能が分からなかったので
人間の内部には神人(プルシャ)がいると誤解した。
アートマンとは脳機能を誤解したもの。心は心臓に存在する内部の光である
という考えは古代各地にある。例えば、中国では古くから心は心臓にあると
いう考えが支配的だった。心臓とは文字通り心の臓器の意味である。
このような考え方は世界共通の考えである。
アートマンとは脳機能が分からなかった2000年以上前の古代インドの考え。
ほほう^^
このことは出家したブッダの目的の一つは当時の大問題であった
「アートマンとは何か?」の問題を解決することにあったことを意味している。
つまり、自己の探求である。
しかし、彼の結論は「このようなアートマン(我)はいくら探しても無かった!」という
無我の発見であり主張であった。
ふむふむ^^
「アートマンとは脳機能が分からなかった2000年以上前の古代インドの考え。 」
そうきたか^^
「五蘊は我がものあらず、いただきものである」
いただきものね^^
色、受、想、行、識は常に変化しており(無常)、
アートマン(我)のような変化しないものものは存在しない。
う〜〜ん^^
思い通りにならないものはアートマンでは
ないということである。また自分の思い通りにならないものは
私のものではない。みんなもらいものの寄せ集めであって、そ
のそも私と呼べるものは何もない「無我」だということである。
五蘊仮和合か・・^^
アートマンへの探求から五蘊諸行無常諸法無我を発見し
輪廻転生もまた五蘊諸行無常諸法無我で説明できるという論理で完結してて
それ以上掘り起こす必要はないと思うけどなぁ
理解を助けるのは十二支縁起や十二処や十八界か
般若経や維摩経なんかの大乗の考え方も俯瞰して観ると良いかも知れない
後はそれをどの様に腑に落とすか
信仰心や瞑想や八正道や菩薩道がその役割を果たすんじゃないかな
こう考えていくと・・・^^
皆空になっちゃうんだよな・・^^
ね^^
龍樹ちゃん^^
混沌から秩序が生まれ・・^^
そして・・混沌に還る・・^^
幾度となくもたらされた執着と絶望をこの仏教によって潜り抜けてきたからなあ
絶望無くしては悟りに近づくことはないのかも知れないね
瞑想は絶望を直視すること有りきなのかも知れない
そして一切皆苦と慈悲が混ざり合って、うっかりこれで良いのだってなっちゃうんだよね
「苦なるものはアートマンにあらず。」
まっ・・^^
アートマンという言葉にこだわらないのが正解だな^^
涅槃寂静や梵我一如みたいなのを超人の様に捉えて
超人への変身願望を支えにするところまでは方便としてありだろう
仏教を勘違いしちゃうというか、変な方向にぶっ飛んでいく人ってのは
劣等感や絶望から目を逸らしたまま超人主義で前に進めなくなってる感じなんだよね
絶望して、超人は仏だけなんだと気付いて、自分は普通であり一切皆苦であることを受け入れた先には慈悲という真愛が降り注いでくるよ
絶望って自分のおもい通りにならないってことでしょ^^
そもそもその自分というものが何かと考えていくと・・^^
それは非我であるんだよね^^
我執から解脱できないと一生苦しめられる・・^^
まだ五蘊の支配下に置かれてるということだね^^
絶望は我に執着するから生じるんだな・・^^
そこから解脱できれば涅槃寂静の境地に到る^^
慈悲って分別がなくなった時に生じると思うんだ^^
無分別の境地に到った時にね^^
基本的に絶望から眼をそらしたままだと我執は乗り越えられないだろうと思う
「無分別」
「分別」は、心が外界の事物を思いはかり、善悪、苦楽などを区別する意味で、
世間では「分別ある人」といえば 立派な人で、逆に「無分別な人」といえば、
いい意味に取られない。
しかし、仏教では「分別」は良し悪しを区別 するところから、煩悩にとらわれ、
欲に執着する凡人が勝手に作り上げた妄想の世界であるから、この「分別」を
排した「無分別」の境地を最高とする。「とらわれず」「こだわらず」「かたよらず」が
「無分別」の精神で、特 に禅宗では、「無分別」は無の境地に通じるものとして、
そうなることへの修行を欠かさない。
ふむふむ^^
絶望とは・・欲に執着する凡人が勝手に作り上げた妄想の世界^^
「とらわれず」「こだわらず」「かたよらず」
だれが上手いこと言えと・・^^
絶望してる人は・・^^
「とらわれず」「こだわらず」「かたよらず」
これを毎日実践することをお勧めする^^
つまり・・^^
執着から離脱せよ言っている^^
大乗を取るか上座を取るか原始仏教を取るかはニーズへの答えでしかないんだろうな
例えば、引き篭もりという現実の絶望感から仏教の涅槃寂静に希望を見出してる人は
引き篭もりと生活苦という絶望から目を逸らしがちになる
ここから目を逸らすことに捉われてたりこだわってたり偏ってたりしてる
目を背けずそのままを受け入れ感謝できる様になることで無分別に近づくことができる
>>118
よくわからないのですが、とにかく言えるのは、
中村元の翻訳は間違ってるということですか(´・ω・`) >>158
サンスクリットのテキスト自体が怪しいだけで別に翻訳が間違ってるわけじゃないです。
sadān-u-paśyati の u をsadān-a-paśyatiに一文字変えただけで意味が正反対になりますから
ちょっとテキストが信頼できないなあという印象です。
チベット訳のように「アートマンがあると見ないであろう」とした方が前後の偈とつじつまが合うでしょう? >>159
サンスクリット原本が怪しいのか・・・・
うーん、しかしオリジナルテキストは「アートマンがあると見ましょう」なんですよね。
チベット訳を信頼するかサンスクリットテキストを信頼するかと問えば後者じゃないのかなあ。
なんでチベット語に翻訳した人は逆の意味に訳したんだろう。
まるでアートマンが肯定されたら不味いという忖度が働いたのか・・・!?
すいません、ド素人の妄想です(´・ω・`) >>159
他スレで聞いたのですが、
下手なサンスクリットのテキストよりチベット訳のほうが信頼があるのですね。
失礼しました<(_ _)> >>160
中村先生の翻訳はフランツ・ベルンハルトという人が校訂したテキストに基づいていて、
先生自身が「理解しがたい箇所が少なくない」と述懐されているサンスクリット本です。 >>161
真摯な方で助かります
自分の考えをちゃんと批判的に検討できる人は2chに少ないですから >>162
そうですか(´・ω・`)
>>163
他スレでも議論したのですが
チベットでは捏造されたお経もあるしチベット訳は信頼できない。
という意見も出たのですが・・・・どうなんでしょ?
どうなんでしょ?と言われましても困りますよね(´・ω・`) >>164
チベットで捏造された経典とか呼ばれるのはたぶんテルマ(埋蔵経典)のことですね。
大昔に悟った聖者が未来にふさわしい人物が現れるまで地中に埋めておいたものとか。
「チベットの死者の書」(バルドゥ・トェ・ドル)とかああいうのがそうです。 >>165
わかりました。
話はかわりますが
仏教でアートマンは否定されてるのならば、なぜブラフマンは否定されてないのでしょうか(´・ω・`)? >>166
基本的に方便や中観があるから、アートマン自体も明確には否定してないんじゃない? >>167
アートマンは空と同じという意見があるんですが。
どうでしょうか(´・ω・`)? >>168
分からない。けど個人的にはピンとこないな。
空は諸行無常、諸法無我、一切皆空の概念だから、アートマンの入る余地は無い様に感じる。
むしろブラフマンの方が近いんじゃないかな。 >>169
アートマンとブラフマンは同一らしいです。
しかし梵我一如とは意味がちがうと言われました。
諸法無我とは一切をアートマンとして見る法だとも。
これらの意見について見解をお願いします<(_ _)> >>170
なるほどね。
諸法無我の法や我をブラフマンやアートマンと言い換えただけなんじゃないかな。 >>171
そうですね。
それで意味が筋が通るのか・・・
気になって夜も寝れんのです(´・ω・`) >>172
自分の中では答えはもう出てるんでしょ?
なして御釈迦さんにこだわるのよ アートマンとブラフマンという語が、
それぞれの文脈で日本語の何に該当するのか、
その都度置き換えて考えてみるといい。
あれもこれもをアートマン、それもどれもをブラフマンと呼び、
その挙句、アートマンとブラフマンが同じだというのでは味噌糞。
何度も忠告したはなしですが、初詣は成田山や不動の神社へは一切いってはいけません。
みんな、不幸におとされます。一見よくなったように見えても、それはもとで不動が
嫉妬や僻みで悪くなるように仕組んできておいて、「大難を小難に小難を無難にしてやってるんだ」
と表面は嘘をついているのです。障害者になる運命じゃないものを障害者にしたり、
借金地獄の運命じゃないものを借金地獄にしたりしています。古代から何万年と人類や
他の神仏をだましてきています。オーム真理教と同じです。
不動にだまされ最初におろした空海もおまいりしてはいけません。
明王は他のアイセンミョオウや降三世明王などをおがむようにしてください。
あるいは月読神社などに初詣はいくようにしてください。
☆ 私たち日本人の、日本国憲法を改正しましょう。現在、
衆議員と参議院の両院で、改憲議員が3分の2を超えております。
『憲法改正国民投票法』、でググってみてください。国会の発議は
すでに可能です。平和は勝ち取るものです。お願い致します。☆☆
でも今は母語の人ほぼ居ないから
昔にバイリンガルだった人の漢訳に頼った方がいい
キリスト教=誰かの為に戦う正義、福祉、人権、愛 仏教=個人的な悩み解決
私が仏典よりも聖書において、何かしら心に響くものがあるとすれば、そのひとつは、社会正義の問題があるように思う。
アモス、ホセア、イザヤ、ミカといった預言者たちは、当時の社会を真っ向から批判し、社会正義を求め、
貧富の格差と闘い、民族全体の悔い改めと救いを求めた。
それと比べて、仏教は、個人の救いばかり求めて、非常に社会性や社会正義が希薄と思う。
もちろん、七不退法や、長部経典や増支部経典の中の社会が繁栄するための方法などをピックアップすれば、仏典にも社会性がないわけでもないと思うが、基本的にあまり社会正義は仏教においてはそもそもテーマにもなっていないとは
言えるだろう。
べつに、だから悪いとは一概には言えないのかもしれない。
そもそも、社会正義などどうでも良いという立場もありえるだろうし、社会正義など言うから争いが起きるという意見も
ありえるのかもしれない。
しかし、私自身のことを言うならば、社会正義に無関心で、個人の救いだけを求めるのは、
どうもあまり心に響かない気がするし、勇気とならない気がする。
むろん、社会正義などに拘泥するのはまだレベルが低い段階で、本当にすぐれた境地の人は社会を捨てて
解脱の道に励むという考えも成り立ちうるのかもしれない。
べつにそういう考えの人はそれでいいのかもしれない。
しかし、私自身に限って言えば、アモスやホセアやミカやイザヤの言葉を聞く時に、はじめて心が燃え、
生きていく勇気をもらえる気がするのである。
したがって、私は、聖書を愛読する。
日本のキリスト教の多くは、旧約をろくに読まない人も多いらしいし、
社会正義には無関心なクリスチャンも案外多くいて、その点では別に
仏教とさほど変わらない場合も多いのかもしれない。
私が仏典よりも聖書を日頃愛読するとすれば、その理由の大きな一つは、
旧約、特に十二小預言書なのだと思う。
したがって、ろくに旧約や十二小預言書を読まない一般的なキリスト教は、
やはり同様にさほど心惹かれないし興味が持てないものではある。
・旧約・新約聖書
・コーラン
・タルムード
・アヴェスター
・仏典
・リグ・ヴェーダ、ウパニシャッド、バガヴァッド・ギーター、ヨーガ・スートラ
・孔子、老子、荘子
ぐらいはやっておくのがいい。
>>181-182
まず己を救ってから他人を救う
この考えが仏教にはあるからだろう
磔になって己もろくに救えてないイエスに
何が出来るのか >>181
いかにもな正義
虚飾で塗り固められた
そうせずには居られないし
他人にも宣伝しまくるし押し付ける
強制する
善人だと認められたい
こんなん出ました >>188
仏は90近くあった当時のインドの宗教を
ことごとく外道と定めたてまつりたもう >>189
返答になってねえよ
何かの教えだけが正しくて他は劣等みたいな物言いはおかしいっつーの >>193
釈迦仏を敬うなら法華経を敬うべき
法華経を敬うなら釈迦仏より重い法華経の行者を敬うべき 194.
比較のできないバカである。バカ丸出しである。
日蓮は御書によりますと、山籠もりで雪を食べて体調を壊したようですね、
やはり日蓮は山伏笑
999晃 ◆HOKKEvxAGE 2018/03/30(金) 19:40:23.64ID:T6uRiYoq
>>997
日蓮は三度国をいさめた後の山籠りであって
最初から最後まで山にこもる山伏とは違う 993晃 ◆HOKKEvxAGE 2018/03/30(金) 19:34:52.21ID:T6uRiYoq>>997
>>987
末法には山にこもる修行を日蓮が
否定してることを知らないのだろう
997神も仏も名無しさん2018/03/30(金) 19:37:32.92ID:2I9FbPj7
>>993
身延山に籠った日蓮はうそつきですね笑。晃君、日蓮をついに断罪。
無学な晃君、痛すぎですよ。 >>197
法華経の御敵を責めずして
山林に閉じ篭り摂受を修行せんは
豈法華経修行の時を失う物怪にあらずや
とある…日蓮は充分折伏し尽くした後の
山籠りであったために、ただの山伏とは一線を画する 晃君は御書の範疇でも劣等生で妄信派だなあ笑。
あきらショック100パーセント?笑。
>なにも食べるものがなく雪を食べて飢えをしのがれているとき、
完璧に山伏の発想の山籠もり笑。
あきらショック100000パーセント?笑。
御書の認知レベルも含めて、俺は日蓮を詳しく調べており、
晃君は妄信と無学というのが証明されたな笑
>>202
山籠りしたから山伏っていう考えが短絡的すぎる
宗旨は曼荼羅本尊でこれは日蓮独自のもの
これを否定することは誰もできない >>204
まぁ雪を食べてたという記述があることは
今回勉強になったけどね それで山伏だっていうのは
同意できかねるね >>206
晃君が無学の妄信の条件反射のみしている証明です笑。 晃君はジャンキーよりも精神が正常であることは評価するが・・・・笑。
完璧な山伏の苦行ですやん笑。晃ショック10000000000000パーセント?笑
『春初御消息』(御書・一五八八頁)
深山の中に白雪三日の間に庭は一丈につもり、谷はみねとなり、みねは天にはしかけたり。鳥鹿は庵室に入り、樵牧は山にさしいらず。衣はうすし食はたえたり。
弘安五年一月二十日 六一歳で、山を下りるべきだったが、
空海の物まねをしたくて山に籠り・・・・ですやん。
993晃 ◆HOKKEvxAGE 2018/03/30(金) 19:34:52.21ID:T6uRiYoq>>997
>>987
末法には山にこもる修行を日蓮が
否定してることを知らないのだろう
997神も仏も名無しさん2018/03/30(金) 19:37:32.92ID:2I9FbPj7
>>993
身延山に籠った日蓮はうそつきですね笑。晃君、日蓮をついに断罪。
無学な晃君、痛すぎですよ。 >>207
雪が原因とは思わないし
その御書では無事に食料の供養を受けている >>212
>衣はうすし食はたえたり。
晃君、どれだけ致命傷な行為の認識が薄すぎ、
普通、山伏的な苦行でない限り準備するやろ、冬に対して、
準備しないのが山伏的苦行の法華経行者(当然真言を唱えるのが普通の)
これで弘安五年一月二十日 六一歳で、山を下りるべきだったが、
完璧な山伏の苦行ですやん笑。晃ショック100000000000000000000パーセント?笑
晃君ダメージが笑
空海の物まねをしたくて山に籠り・・・・ですやん。 晃君は御書の文章の意味も読めないのか?笑。
晃ショック100000000000000000000000000000000パーセント?笑
>>215
三度国をいさめた
それでも用いないなら国を捨てて
山にこもるということ
空海の真似ではない
身延山で空海の批判も痛烈に展開している
御書を知らないのは君の方だろう >>217
198晃 ◆HOKKEvxAGE 2018/03/30(金) 19:52:01.86ID:T6uRiYoq>>200
>>196
でたらめですね
そんな記述はない
200神も仏も名無しさん2018/03/30(金) 19:58:16.70ID:2I9FbPj7
>>198
晃君、御書も俺より無学笑
http://www.houonsha.co.jp/jiyu/05/225.html
日蓮大聖人の身延での御生活ぶりがしのばれる。身延を領地に持つ地頭の波木井の庇護のもと、
悠然と生活されていたのでは決してなかったのだ。なにも食べるものがなく雪を食べて飢えをしのがれているとき、
晃君に日蓮知らずは滑稽だな、いつものことだが笑 そのあたりがジャンキー君と似ている点だな、
晃天魔笑。
>>218
日蓮の空海批判の方が
御書の内容としては重要だろうに
雪を食べたか食べてないかよりも >>219
日蓮を真言系の山伏なんて主張してる馬鹿は
君くらいなもんだ
それで日蓮を知ってる気なら何も知ってない >>220
春初御消息
弘安五年一月二十日 六一歳
http://www.butujoji.jp/houwa/houwa2903.html
晃君、日蓮が雪を食べたのはこのころらしいが。
そのあと、日蓮はどうなったのでしょう?笑。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%93%AE
1282年(弘安5年) 9月8日(10月10日/10月17日)、「日蓮聖人註画讃」によれば、日蓮は病を得て地頭・波木井実長の勧めで実長の領地である常陸国へ湯治に向かうため身延を下山。
はい、雪を食べ体調を壊し胃病になりました。
また晃君の無学が証明されました。
あきらショック1000000000パーセント?笑
当然、その後の日蓮は、1282年(弘安5年10月13日(11月14日/11月21日)辰の刻(午前8時頃)、池上宗仲邸にて入滅。現在、大本山池上本門寺となっている。享年61(満60歳)
ご臨終、空海物まねの山籠もりで雪食べたばかりに、
ちーーーん、合掌・・・・・。
相変わらず日蓮の生涯の現実を軽視する不信心者笑だなあ…・晃は・・・。大丈夫か?笑。
晃ショック100000000000000000000000000000000000000パーセント?笑 >>222
日蓮は今生の祈り無し
ただ仏にならんと励むばかりなりと言ってたので
61歳の入滅も願い通りだとは思いますよ
あと何度もいうが空海の真似ではない
空海のことを批判してる御書をしらんのか 晃君の妄信無学モードとまりましぇん笑
>ただ仏にならんと励むばかりなりと言ってたので
61歳の入滅も願い通りだとは思いますよ
↓
>衣はうすし食はたえたり。
↓
日蓮大聖人の身延での御生活ぶりがしのばれる。身延を領地に持つ地頭の波木井の庇護のもと、
悠然と生活されていたのでは決してなかったのだ。なにも食べるものがなく雪を食べて飢えをしのがれているとき、
宗旨が全然ちがうのにちょっと山に籠っただけで
日蓮は空海の真似っていうのが理解できない…
本質がなにも見えてない
>>224
その御書は食の供養があって
無事に命を繋げることができたと
ポジティブな面を読むべきだとは思うけどね 先日、東京に新しい大仏ができることを「ひるおび」で見たが、釈迦はもう一説にはブッダではなくなってる。
邪神にとられたものを正常にもどそうとしている者の邪魔ををしてダメになるようにしてくる。
もしそのものが本当にまずいほうへいってしまうならそうならないよう薬師如来にお願いしてると告げてもだ。
結局個人的ないやしいライバル意識(嫉妬)でじゃましている。釈迦からもってこれるのは阿含教の7科37道品
と三福道だけだ。(しかも、それも改良加えないと部分的にいる部分がいるときダメにされてしまう、これは釈迦自身
なやんでいた。
だから、釈迦は心の支えにはならない。
大仏を拝むなら大日如来(宇宙)として心の支えに拝むといい釈迦抜きで、。しかし宇宙と言えども、
邪神不動明王などには(もう不動は悪いほうへ行ってしまった、というよりは何万年と神仏や人類を
だましてきたことが発覚している)だまされてることがあった。ちゃんとやった善行をなかったことに思わされてたりした。
だから拝むほうも現在宇宙が正常かどうか確かめてから心の支えにおがまなければならない。
宗教を拝むならここもたまにはだまされてることもまだまだあるが、ガブリエル、アポロン、月夜、降三世明王、如意輪観音、
アルテミス、元エロヒム他たくさんの神仏で構成されてる
KSAと呼ばれてる団体をおがむのが現在一番安心させられる。もっと成長し邪神にだまされない団体へと成長するだろう。
229元小学校教員の臨床心理士『西村』 ◆uIU6J7Th0Y 2018/04/30(月) 16:41:41.28
佛とは嘘で在り、悪で在る。
仏教なる名目に於いて一般労働からの逃亡を謳歌せし僧侶達は常に自己と周囲を欺く。
何ぞ反動的冒険を行えど、其れすら仏道の証と決定し、粉飾に塗れた生涯の一頁に刻むのだ。
例を挙げん。特権階級は道義的な労働条件から全く逸脱した人権の蹂躙たる酷使や富の再分配を忘却した独占主義なる犯罪行為に手を労働者の血で染めては其れを「ノブレスオブリージュの代償」と呼ぶ。
労働争議で被虐者が起てば、工場は生産是れ唯一の場所に非ずと言い出す。
資本家は青春の二文字をさも金科玉条かの如くに思慕し、如何なる一般的解釈も社会通念も屈曲する。
支配層に係れば虚偽も欺瞞も、詐術も弾圧さえも青春の香辛料でしか無いのだ。
又、封建領主は其の悪行に、其の詭弁に特別性を見出す。自己の労働からの逃亡は遍く青春の一部分で在るが、労働者の逃亡は青春でなく只の叛逆にして重罪であると断じるのだ。
仮に逃亡する事が仏道の証で在るのなら、資本家化を拒絶した労働者も又青春の中軸でなければ破綻的矛盾を生む。
しかし、肥え太った僧侶共は其れを認め無いだろう。
何の事も在らぬ。全体汚らしい豚の都合主義の範疇を超え無い。畢竟、其れは欺瞞に他成らぬ。虚偽も欺瞞も詐術も弾圧も糾弾される可き物だ。
資本主義は悪の源泉だ。
演繹的にも帰納的にも前衛的に仏道(笑)を謳歌してい無い労働者の方が正当な真理的正義で在る。
結論を言おう。
共産主義こそ根本である。
230.
宗教を包摂することはできない。逆ならば可能である。
ポッタン師、
過去に私が行った失礼な言動をお詫びします。
申し訳ありません。
普通の人は、たとえ、「テレビ等に出たい」という気持ちがあったとしても、実際に自分の生の姿や構えていない姿を見られることは怖いわけです。「よいところは見せたいけれども、格好悪いところは見せたくない」というところはあるのではないでしょうか。
ちなみに、わが家では、私がリラックスして、のびのびしている姿を家内がたくさん写真に撮っています。とったが画像はほかの人には見られないようにロックして、個人的に楽しんでいるようですが、ほかの人には決して見せることができない映像ではあります。
余談はさておき、「他の人との関係」というのは難しいものです。自分は「こうしたい」と思っていても、実際には、自分が思っているとおりではないようなシチュエーション(状況)が現れたら、そうはなりません。
それは、人を愛することにおいても同じようなところがあるでしょう。「両社の気持ちが互いに合う」というのは、なかなか難しいものだと思います。
例えば、若いカップルであれば、互いに惹かれ合うところがあったとしても、何らかの条件があったりして、それでも惹きつけあうということは、そうとう難しいものです。
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「中辺分別論」から始めること自体無茶苦茶な気がするんだけど。
読んだ人すらすら理解できた?
大型連休の時は、何か一冊仏教書を完読しようと試みて買うけど、未だ完読したためしがない。
にも拘らず、休みに日に何気に本屋で買った仏教書を一気に3冊も完読することもある。
時は9月、読書の秋。
「全てが私である」という方がいる。
まぁ、確かに私を私たらしめているのは私でないものだからね。
しかし、全てが私であっても、その一部が私であるとは言い切れない。
真如〜離言真如と依言真如
意味分節〜意識分節と存在分節
心〜心真如と心生滅
公明党の山口那津男なつお代表(66)の任期満了に伴う党代表選が19日、告示された。山口氏以外に立候補の届け出はなく、山口氏の6選が決まった。30日の党大会で信任投票が行われ、正式に承認される。任期は2020年9月までの2年間。
山口氏は届け出後の記者会見で、「党大会で党の体制を固め直して(19年の)統一地方選、参院選に総力を挙げて当たりたい。そのために、政権の安定のもとに、これまで進めてきた政策を実現していきたい」と抱負を語った。
新執行部の陣容については、「時代に合った新しい体制を作るという意識を持ちながら検討したい」と述べた。
落とし物の現金、落とし主装い詐取容疑 巡査と友人逮捕:朝日新聞デジタル
https://www.asahi.com/articles/ASL9N5H4QL9NPTIL022.html
警察署に保管された落とし物の現金などをだまし取ったとして、大阪府警は20日、府警南署警備課の巡査、小林崇隆(むねたか)容疑者(24)=大阪市浪速区=と友人の男2人を詐欺容疑で逮捕し、発表した。
小林容疑者が署のシステムで見た落とし物の情報をもとに、2人が落とし主と偽って現金を受け取っていたという。
監察室によると、ほかに逮捕されたのは会社員の川崎峻吾(25)=堺市南区=と建設作業員の中野嵐(25)=同=の両容疑者。小林容疑者は容疑を認め、2人は「自分のものです」と否認しているという。
逮捕容疑は4月上旬と6月下旬、大阪市内の警察署で拾得物として保管されていた現金計数十万円を、落とし主を装ってだまし取ったというもの。
府内65署に届けられた落とし物は、発見状況や特徴などの情報が一つのシステムに入力されており、落とし主の申告内容が合致すれば返却される。
システムは担当の職員のほか、当直勤務の警察官も閲覧することができ、小林容疑者は当直の際に落とし物の情報を入手していたとみられる。
6月に川崎容疑者が警察署に申告した際、昨年11月以降に複数回、落とし物の現金を受け取っていたことが判明。府警がシステムの閲覧履歴などを調べ、小林容疑者らが関与した疑いが浮上した。
小林容疑者は情報を100回以上検索しており、ほとんどが現金だった。府警は小林容疑者らが、届け出がなく、落とし主が特定できないものを選んで同様の行為を繰り返していたとみて、裏付けを進める。 【創価学会は朝鮮族支配のカルトです】
オウムに人材と資金提供していたようです。
犯罪教団のお手本であり創価学会は、現世利益を看板にしてし、多額の財務金を出させ、さらに、おびただしい数の出版物を半強制的に買わせます。
こうして集めた巨額の資金で、学会は、東京の信濃町や八王子を中心として全国的に土地を買いあさり、池田大作の豪華専用施設をもつ道場を何百もした。
こうしたやりたい放題を続けるために、創価学会は、批判者や脱会者に対し、脅迫、尾行、見張り、嫌がらせ、怪電話、怪文書、暴行、傷害、盗聴等々、あらゆる犯罪的手段を用いて攻撃します。d
創価学会を私物化した池田大作の野望は、日本の国家機構を乗っ取り、絶対支配者となる ということです。
同時に、創価学会は、司法界、官僚、警察、マスコミ界等へ、池田大作私兵を送り込む作業を長年にわたり組織的に続けています。yt
創価学会は撲滅するべきです【浪速建設 一級建築士 岸本晃】代表
>>251
敏太郎はいろんなとこに噛み付くけど、コヤブに圧倒されたよなwww −=≡ ∩彡 ⌒ ミ∩
−=≡ ヽ(´・ω・)/ うひょー もろたー
−=≡ ( /
−=≡ ( ⌒)
−=≡ c し'
>>240
中級クラス向きの良書です。噛み砕いて書いてあり役に立ちます。
もう故人ですが、高崎直道さんの本はどれもお勧めです。 20年ぐらい飼ってこの先ちゃんと最期まで面倒見られるか分からないから、
友達の家の猫を触らせて貰うだけにしている
本当に世話は大変
飼う予定の人はちゃんと覚悟を決めてからお願いする
この世は人間界へ見せかけた地獄界
快楽を貪り勧めてくる上司や同期、後輩は獄卒の一員でありこの快楽へ足を一歩でも踏み入れれば延々とこの地獄界へと転生するものではないかと最近思い始めました
| CBC NEWS(CBCニュース) | CBCテレビ
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..,,_ .イ:::・:(< アホー
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