教会に行かないもしくは行かなくなったがイエスキリストを信じる人の集うスレです
聖マリアの汚れ無き御心よ、今も臨終の時も我らのために祈り給え。
最近聖書を読み進めてるだけなのですが、このスレに来ても良いんですか?
祈りは
マタイによる福音書6.5-15
ルカによる福音書11.1-4
のどちらかだけがいいのでは
マタイがユダヤ人向けに書かれているとすると
ルカのほうがいいかもしれないがマタイで覚えてしまった
四八方の宗派、バラバラの霊媒師達が裏でさんざん言ってるし、ダビンチコードの裏解説書にさえもあったように
キリストは自分の言動が悪くてそうなった上に磔などなっていません。
影武者おいて昔のドリフのヒゲダンスのように「はいちゃらバ〜イ」とトンズラしています。
それに阪神の地震はキリストが起こしています。後から表面上は自分の所へ勧誘するためだったのです。
昔からこいつは他、人にひどく苦労、働かせておいて自分のやった手柄にしたりなどと、このようにズル悪行
大量不正殺人を繰り返してきています。その上常にごまかしてきました、親の七光りで。
そしてロリコンでもあり、幼児にいたずらもした説もあります。
いつぞやキリストの顔の絵を画家が修復失敗して、原始ボノボみたくなってるのが話題を呼びましたが、
あれがむしろ正しかったのですwwもっと言えばフクロウのクソような悪霊です。
ヤーウエもキリストもミカエルもマリアも神仏界では長くひどい罪業がばれてもはや抹消対象となっています。
逆にガブリエルは本当に精進しているし、転生体だったジャンヌダルクはキリストと同じく「なかった」などという
でっち上げ本が出てますが誤りで、本当にみなのために犠牲を払って火あぶりにまでなっています。
だから、教会は今後キリスト、マリアやミカエルなどでもなくそれらは排除し、
それも偽者ではなく(ジュブナイルでもない)本物のガブリエル神を祈るべきです。
さらには、ガブリエルの転生体はもっとも崇め祈るべきです。
キリストが憑依してたやつがいたが、案の定ずるばかりやり他のひどく邪魔をして全てばれて最後はエイズになっています。
そんな奴を祈っていてはいけません。罰せられます。
教会行ってもいいかなぁ、もっと深く教えに触れられそうだなぁ、とは思うんだけど
良い教会とか分からないし
牧師さんとか信徒さんたちとかを間近で会ってしまうと
どうしても聖書と自分の間に俗なものが混ざり込んで来てしまいそうで、
結局今のところは聖書を読み、祈るだけです。
割と消極的な選択?
教会もいろいろありそうだけど
万人祭司の一つの型として無教会もありうると思う
聖書祈り讃美歌
ほかに何か信仰の方法あるかな
スレ違いかも知れませんが、
ルカによる福音書16章の解釈が分かりません。
どなたか詳しい方はおられますか?
>>12
カトリックの人
プロテスタントで聖書に一切誤りはないとする人
プロテスタントで聖書をある程度相対的に解釈する人
それぞれで解釈が違うだろうから立場を明らかにしないと答えようがないかも
カトリックの人ならスレがあるからそこで聞くのが一番納得するのでは >>12
聖霊の力を受けないと理解できなさそうな難しい内容だな。
主の導きがないと無理そうですね。 6:11[編集]
だから、もしあなたがたが不正の富について忠実でなかったら、だれが真の富を任せるだろうか。
16:12[編集]
また、もしほかの人のものについて忠実でなかったら、だれがあなたがたのものを与えてくれようか。
16:13[編集]
どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」。
質問した者です。
皆さんありがとうございます。
聖書アプリで世界中の人々の見解も読んでみましたが、
やはり不思議な箇所として色々な主張があるようですね。∧( 'Θ' )∧
とにかく聖書をどう解釈しても異端扱いされたりやサタンが入ったとか言われないのは
無教会のいいところ
教会探ししてるけど、どの教派も批判ばっかで本当に分からない(^^; 聖書読んでるだけじゃなぁ。。
>>18
ま、人間は罪人やからね、しょせん、完全さを期待するのが難しい。
ルカ11:29、32
群衆の数がますます増えてきたので、イエスは話し始められた。「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」
(ルカ11:29、32)
キリストは人間の多くの程度を想定している。ヨナの話でな。
神を信じてもヨナの程度しかない。
しかし、ヨナの程度の人間でも救うという意思表明でもあるだろうなあ。
昨日気づいた・・。w
その程度の低い人間の救済に、
完全な正しい教えを伝えられるなんて不可能と
ヨナの話で示しているんでは・・・と。
それが絶対条件なら、イエスはもはやメシア・救世主でもない。 いい加減うるさいな。
押し付けないで。
あと、別に研究したいわけじゃないから。
他のスレと勘違いしてるんだろけど
自分に必要ないんだったらスルーすればいいだけのこと。
誰も押し付けてないと思いますよ。
いろんな情報助かります。
無教会の人、助け合っていきましょう
まこと君
自己満足のネット検索だけで
救われたか?
>>29
>いろんな情報助かります。
お役に立てて嬉しいです。
主イエス・キリストの恵み 神の愛が
スレの皆さんと共にありますように。 無教会だと
聖礼典(カトリック教会の言う秘蹟・サクラメント)の
洗礼(バプテスマ)と聖餐の2つは
効力が無いですからね。
行くよりは行かないほうが人間としてマシ。
しかし、信じている時点で爆発的に人間失格w
>>35
どうだろう
初詣にはかなりの人が行ってお参りするんだから
神や仏を一切信じていない無神論者は日本人の中ではかなりの少数派じゃないか
その論法だと少数派だけが人間失格じゃないのかもしれないが キリスト教のカトリックを約20年やっ
て卒業しました。今はキリスト教のOB
です。
今の地球は、残念ながら全ての人々が
「黙示録の獣教団」とでも呼ぶべき教団
に所属するようになってしまいまし
た。
この教団には様々な部門・セクションが
あります。対立・矛盾する部門も共存し
ています。例えば、右翼部門と左翼部
門。表面上は対立していたり、全く無
関係だったりする諸部門も、根底は共
通しています。「黙示録の獣」にガッチ
リと押さえられているのです。
人類はついに、アホな境地に到達して しまいました。展望はありません。
無教会といっても
どこかの教会に属していて今はいかなくなった人と
そもそもはじめから教会に属していない人がいるよね
神という名前の他人に頼るのは失格である。
自灯明が正解である。
>>39
失格でいいよ
こちらはみんな罪人だからもとから失格している イエスキリストが教会に触れているのはマタイだけなのだから
マルコルカヨハネ的には無教会でいいだろ
イエスキリストに聖書の中で救われている人も教会に行って無さそうだし
>>38
教会にいかなくなった人は教会に救いを見いだせなくなったのでは
万人祭司を突き詰めれば教会は必須ではないはず
カトリックでは教会は必須だろうから無教会はありえないだろうが 無教会なんだから祭司は不要だろうがw
理屈もクソもないバカばかりだなwwww
>>38
無教会の信仰は、キリスト集会、聖書集会に集まる人たちを示すのよ。
キリスト教関係に参加しない人は、無教会とは意味が違うのね。
教会に行かないのは、ただのサボりや無信仰なだけでしょう。
無教会とはまったく関係無いよ。 >>12
マタイ16ー9の「不正にまみれた富で友達をつくりなさい」の部分では
ないでしょうか。ここの「富」を「富というものは不正によってしか築くことはできないもの」
と考えると理解できますよ。 >>44
×マタイ16ー9 ○ルカ16ー9
起きたばかりで呆けていました。 >>37
卒業ですか?
私は50年以上カトリック信徒ですけどね(ニガ笑)。
そして日本に失望する必要はありません。これからですよ。
やっと心の時代に入り始めたではないですか。 まこと君
自己満足のネット検索だけで
救われたか?
>>46
まじで? 年間いくらぐらい教会に献金してます? カトリック銀行がマフィアと繋がっていたことを知っています?
あなたの献金は、マフィアの金を資金洗浄するために使われているのですよ
私の信仰も自室で一人静かに聖書を読み、一人静かに祈る信仰ですね。
このような信仰でも聖隷様(キリストの霊)は宿って下さいます。
あと、副読本として歴代の信徒の信仰体験記を読む位です。
疑問や、悩みがある時はどうするかって?そんな時はひたすら祈ってい
ると必ず聖霊様は助けて下さいます。
「祈る時には、一人部屋に閉じこもり、父なる神に祈りなさい。」(マタイ6−6)
「その人の心にキリストの霊が宿ってないなら、その人はクリスチャンではありません。」
(ロマ8−9)
「求めよさらば与えられん。」(マタイ7−7)
>>49-50
>年間いくらぐらい教会に献金してます?
あなたがこの金額以上なら高いという金額以下だと思います。
カトリックは気の毒になるほど安すぎる。 >>49-50
プロテスタントの10分の1献金とちがって
カトリック教会のメドは100分の1〜3と言われています。
そして、家族で教会に通う場合は代表者だけが払えばいいことになっています。
ちなみに母親と中学生の男の子の二人の信徒の方は毎月2000円ですね。
ただ地方の教会なので教区が変わるとわかりません。
問い合わせてみてください。 >>51
リビングバイブルは意訳されている箇所が多いようですが
一人の信仰にはむしろそのほうが大きな誤読がなくていいんでしょうか >>55
質問ありがとう御座います。
リビングバイブルは読んだことありませんが、一冊に限定しないほうが良いと思います。因みに
私は三種類の聖書を読んでいます。
一番大切なことは私たちの心にキリストの霊(聖霊)の宿りを頂くことです。聖霊と共にあれば、
一切がコペルニクス的転回のように変貌します。聖書の深い意味もよく理解できるし、正邪、善
悪の判断が明確にできるようになります。
私が教会に行かなくなったのも今のほとんどの教会の聖職者には心に聖霊が宿っていないとい
うことが分かったからでした。偽りの神父、牧師しかいない偽りの教会に行っても無意味です。
スイス建国の父と称されるカール・ヒルテイ(1833〜1909)は無教会派ではありませんで
したが、形式主義、偽善、果ては腐敗堕落に陥った教会に固執することに対しては否定的な目を向
けています。
「このような時代には一切の形式を離れて直接キリストに近ずくことができる。今の教会に頼らな
くてもよい。(中略)しかし、心からの願いを込めて『主よ、私をお助け下さい』と言いなさい。」
(「眠られぬ夜のために」第一部より)
ヒルテイの意図は真の教会は私たちの心の中にこそ築くべきものであり、
「実に神の国はあなた方の内にある」(ルカ17−21)というイエス・キリストの言葉に叶ったもの
と言えると思います。 >>56
どうもありがとうございます
引用された聖書の言葉をリビングバイブルのものと私が間違えてしまったようです
聖書は新約聖書の新共同訳のサタディ版と聖書の新共同訳のものを持っています
しかし意味の理解しにくいところも多くサイトで解説を読んだりしますが
自分の理解が正しいかはあやしいところです
>一番大切なことは私たちの心にキリストの霊(聖霊)の宿りを頂くこと
まだまだこの境地には及びませんが
>一人静かに聖書を読み、一人静かに祈る信仰
で少しでもこの境地に近づきたいです 今日、教会を退会しました。
宗教なんてどこも同じと思いました。
二度と神だの仏だの言いません。
まあまあ面白い。25点ぐらいwwwwwwwwwwwwwwwwwww
聖書読み始めましたが、これ覚えられるだろうか
。。。
無教会だとして
キリストの命令たる聖餐式はどう守ろうというわけ?
>>58
宗教は人間が作ったものです。
イエス・キリストを信じれば問題ないです。
イエス・キリストのことは聖書に書いてあります。
新約聖書をよく呼んで、イエス・キリストのことを知ってください。 >>62
伝統的なカトリック教会などは聖餐式をサクラメント(秘跡)として行ってきたが、
宗教改革以降のプロテスタント教会はこれを秘跡と呼ばず、礼典という呼称を用いる。
これは「神の救済は人間の行いによるのでなく、信仰のみによる。」との考えから、
聖餐の執行そのものを救いの要件とは考えないからである。
多くは神の恵みは聖餐において神の恵みが人間に伝えられるのではなく、共同体にお
ける信仰を示すための儀式(形式)であるとしている。
キリスト自身、聖餐式を行わない者は天国にはいけないなどとは言っていない。 イエスは、主の食卓(聖餐)に罪びとと取税人を招いた。
罪びとと取税人は当時のユダヤ教より共にする食事の席から排斥されていたが
主イエスは罪びとと取税人を招かれ、
罪びとと取税人との同席を拒んだが故にパリサイ人や祭司を排斥した。
つまりパリサイ人や祭司らは自分で自分を裁いてしまったのだ。
さてパウロは、無割礼のクリスチャンと共に食事をした。
割礼派クリスチャンはこれを非難した。しかし割礼派クリスチャンは
無割礼クリスチャンを排斥したことによって異端と脱落し歴史に消えた。
つまり割礼派クリスチャンは自分で自分を裁いてしまったのです。
今、聖餐に関して、主により教会に招かれた未受洗者に配餐するのか
しないかを巡って二つの立場がある。
フルオープンの教会は、主に招かれた者すべてに聖餐を開き主により祝福されている
一方、未受洗者に配餐しない教会は、主の主権を侵害した咎により
自分で自分を裁いてしまっている。
>>62
福音書では聖餐していない人も救われているし
マルコやマタイの福音書では新しい契約を
人類を代表して弟子の人が受け取った出来事として書かれているのでは
それに神の子であり人の子であるイエスキリストがお渡しになるから意義のあることで
人が人に渡したとしても特に意義はないんじゃないのかな 結局、洗礼や聖餐式は形式に過ぎないものだと割り切れれば守る必要もないわけで、そのまま
不満に満ちた教会におさらばして無教会へ移行すればよい。
教会に不満で無教会に移行したいが他方、聖餐や洗礼を神による救いの要件だとして捨てきれ
ない人は、たとえ偽善に満ちた教会であろうと止まるしかないと言うことになるね。
>>67
>不満に満ちた教会
信者の責任とはいえないですよ。
教会に大いに責任があると思います。
自分を責めてはいけません。 教会で何か問題が起きた時、時として自分の方に責任があるように思ってしまう。
その意味です。
教会でも無教会でもいいよ
ユダヤ教もイエスが救い主かどうかが違うが同じ神
イスラム教もイエスは預言者マホメットが最後の預言者とするが同じ神
さらにいえば日本仏教の親鸞の悪人正機もイエスの考えに似ている
1549年伝来したキリスト教は瞬く間に広がり、1605年には信者数75万人に達したという。
当時の人口から言ってこの数は奇跡的ともいえる。
これは当時の宣教師が聖霊と共にあって神と信者との仲立ち役を良く果たしたこと。また、当
時の日本人の心が純粋で聖霊の宿りが容易であったことなどがその理由であろう。
戦前のキリスト教会もこれほどではないが神の祝福の下にあったように思われる。
しかし、戦後状況は一変した。その大きな原因はキリスト教会の左傾化であると言わざるをえない。
社会主義者、共産党員でありながらクリスチャンを名乗る人たちが現れた。
ある教会の掲示板には
「私たちは憲法改正、再軍備、安保関連法案に反対する」とある。教会が宗教を否定する共産党
と同じ主張をするとは?憲法改正反対でなければキリスト教徒ではないと言わんばかりである。
明らかにかれらはカルトであり、キリスト教の衣を被ったある政治的目的を持った工作員である。
かれらは口を開けば「聖霊、聖霊」と喚くが彼らの背後にいるのは聖霊ではなく悪霊である。彼ら
に決してかかわってはならない。すでに信者となっている人たちは今すぐその教会から離れるべ
きだ。これほどでなくとも左傾牧師・神父は避けた方が良い。
今こそ無教会派に移る良い機会と思われる。
テモテβ4:2
御言葉を宣べ伝えなさい。
折が良くても悪くても励みなさい。
とがめ 戒め 励ましなさい。
忍耐強く 十分に教えるのです。
ローマ13:8〜10
互いに愛し合う事の外は
何人にも借りがあってはならない。
人を愛する者は律法を全うするのである。
「姦淫するな、殺すな、盗むな、貪(むさぼ)るな」
など、そのほかに、どんな戒めがあっても、結局、
「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」
と言う、この言葉に帰する。
愛は隣り人に害を加えることはない。
だから愛は律法を完成するものである。
箴言1:7
主を畏れることは 知恵の初め。
コロサイ3:16
キリストの言葉[福音書・書簡]が
あなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。
知恵を尽くして互いに教え 諭し合い
詩編と賛歌と霊的な歌により
感謝して心から神をほめたたえなさい。
17 そして 何を話すにせよ 行うにせよ
すべてを主イエスの名によって行い
イエスによって 父である神に感謝しなさい。
ヤコブ3:26
霊魂の無い体が死んだものであると同様に
行いの無い信仰も死んだものなのである。
ヘブライ13:15
だから イエスを通して
賛美のいけにえ
すなわち御名をたたえる唇の実を
絶えず神に献げましょう。
16 善い行いと施しとを
忘れないでください。
このようないけにえこそ
神はお喜びになるのです。
コリントα12:3
神の霊によって語る者は
だれでも「イエスはのろわれよ」とは言わないし、
また、聖霊によらなければ
だれも「イエスは主である」と言うことはできません。
コリントα16:22
主を愛さない者がいるなら
その者にアナテマ(のろい)あれ。
マラナ・タ〔主よ、来てください〕。
ユダ25
わたしたちの救い主である唯一の神に
わたしたちの主イエス・キリストを通して
栄光、威厳、力、権威が
永遠の昔から
今も
永遠にいつまでも
ありますように、アーメン。
プロテスタントも、よきわざ・信仰による良い行いをしています。
まずは 隣保館 セツルメント運動 で検索。
ヨーロッパでは教会に行かない人が増えているみたいだし
むしろヨーロッパではこのスレでいう「無教会派」が多数派なのでは
教会はつまらんからね
そりゃ廃れて行く一方なわけだ
ネット上の活動がいままでの教会のような役割になるんじゃね?
生涯、「無教会主義」を貫いた「キリストの幕屋」創始者手島郁郎の言葉。
「イエスは『神殿を壊しても三日の内にそれを起こす』(ヨハネ3−18〜22)
と言われました。
人の手で作った神殿なんかに神は住みたまわない。だから、壊してしまったらいい。
私は全く違った宗教を起こす、と言われたのです。
神は私たちの内奥を至聖所として住み給うのであって私たちの内奥に拝せらるべきです。
イエス、キリストにとっての宮はこの地上にある建物ではなく、ご自身の体でありました。
肉体こそは神の住み給う神の宮である。
イエス・キリストこそ無教会主義の創始者です。私は教会に行く人を止めません。しかし、
形だけの儀式や教理の説教がされるところに行ったって救われるだろうかと思います。」
教会の中でなく、日常生活の中で艱難辛苦を通して私たちの心の中にキリスト教の神髄
である「聖霊の宿り」を頂くことこそ真のキリスト教徒の道であり、最終目的とすべき
です。
「実に神の国はあなた方の内にある」(ルカ17−21)
>>51>>56>>73>>83は私ですが、一貫性を保つためハンドルネームをつけさせて頂きました。
無教会主義の道も甘くはありません。私が心の中に神を見出すつまり聖霊の宿りを頂いたと
の確信に至るまでには50年、半世紀近くかかりました。こんな年寄りが若い人達の何か参
考になればと思い徒然に書かせてもらっています。
今思うに工夫次第でもっと早期に達成できたのではと反省することが多いですね。
神を信じること、善行を積むことはもちろん、学習読書も大切です。積極的な日
常の生活態度も不可欠です。学生は勉強に、サラリーマンは仕事にと自分のやる
べきことに専念しましょう。
私のブログ良かったら覗いてみてください。
「ヒルテイにならいてーすべての艱難辛苦の中にある人々のために」 >>83-84
カール・ヒルティですね。
クリスチャンになれば(そうでない方も)、
聖書とともに導入にはヒルティを傍らに愛読していけば、
おおきく道を外さずにすみように感じます。
さて、キリストの幕屋の手島郁郎氏の事を書かれていますね。
つい先日、年配の知人と懇談したのですが、その人の親がクリスチャンで
あるという事は、知っていましたが、詳しく話を聞いたことがなかったのです。
(キリストの幕屋自体も、そこで知人に聞いてはじめて知った)
親御さんは手島氏を尊敬し 無教会的な教会で子供に勉強を教える私塾経営
で生業を支えて、運営されていた。
けれども、キリストの幕屋は代替わりして、
その幼かった知人も集まりに参加した時、おかしな光景をみたのを覚えて
おられます。
後に親から聞いたところによると、以前とは様変わりしており、
祈りの途中に、ある種の憑きものつきのように信者たちが
奇声で泣いたり笑ったり倒れたりとがあり、
その知人の親御さんも、きっぱりキリストの幕屋から離れ、
バブテストだったかの(すみません教派に詳しくない)
そちらの牧師に変わられたという事でした。
手島氏は手島氏で一代で終わった、代が替わりして変質したという
ことでした。
考えられさせますね。 >>85
ちょっと操作ミスがあって失礼しました。
その通り、カール・ヒルテイ(1833〜1909)です。ヒルテイ先生は神と私との
仲立ちをして下さった恩人です。私の座右には常に聖書とヒルテイ先生の著書が並んで
います。私の好きなヒルテイの言葉から、
「いたずらにあなたを苦しめるために苦難が与えられたのではない。
信じなさい、まことの命は悲しみの日に植えられることを」
(ヒルテイ著「眠られぬ夜のために」第一部より)
手島郁郎氏のことは正直あまり存じないのです。見知らぬ人から定期的に送ってくる
パンフレットの中の氏の講話を読んでいるだけですが、とても良いことが書いてあり
ます。しかし、亡くなられてからは幕屋も様変わりしたとのこと、事実なら残念なこ
とです。 讃美歌・今日の聖句・教団の主の祈り・頌栄の
インターネット家庭礼拝を
ここ20日ぐらいしているけど
朝は、さわやかだったりするが
その日、その日に面当てがあったり
嫌がらせがあったり
自分の方が注意散漫で注意されまくりだったりで
あまり良い事ないね。
礼拝を止めさせんばかりで。
カトリックの日本語ミサの
主の祈りだけや
アニマ・クリスティだけを唱えた日には
仕事順調で人間関係が円満だったりで
霊験あらたかなんだが。
シンプルな方が神様受けするようです。
神様は祈る前から願いを知り聞き届けて下さいます。
家庭礼拝は、無教会とはなんら関係ないでしょう。
ただの教会から逃げてるだけ。
そうだよ。教会から逃げていますよ。
教会では統合失調症(精神分裂病・パラノイア)は治せない。
重症かどうかは医者が判断する。
医師の資格の無い聖職者は、医者ではない。
月6万円前後の障害者の働きに障害年金の収入から
家賃・光熱費に食費、治療費と薬代を出した上で、暮らしている。
什一献金を払って、奉仕に日常の時間を割いたら、生活できない。
働く時間を割いたら生活できないのに、教会に行けは無い。
宗教は金持ちの遊戯だと思わせる状態ではないのかね。
働く場や収入を得る・情報提供・推薦状書きも出来ない宗教者に
なんの救いが出来る。
働くには資格取得の勉強・勉学の励ましもしないといけない。
実生活を知らないでどうして搾り取る原資が得られるのか。
創価学会は、信者を年金貰いや就職斡旋をし、古くからの金融業で
自分達を潤わせ、潤った後に、財務(献金)を勧めている。
かれらは現実的で、F(友人)にも比例で公明党か自民党に票を入れさせ
使いこなしている。
当選すれば議員からも収入が得られる。
だから金持ちになっていく。
無理もしない。学会員で障害者の場合は財務(献金)は免除している。
キリスト教会は無慈悲にも
障害者ですら搾り取り、失業させたり、年金受給できなくなるような
アホな要求すらする。
障害者でも、障害者の出来る範囲の余暇を利用して、
見回りや警備に使ったり、交渉ごとの代理人にして上手く奉仕の時間を割り当てている。
チラシまきや就職斡旋や営業の下請けなどさせ、少しでも収入を得させている。
他の宗教はバイトの時間を取り上げ、自分の宗教チラシまきで、収入も得られない。
だから宗教は学会以外が衰退していく。
自業自得は学会以外の宗教に当てはまっている。
恋愛活動も婚活も他の宗教の異性をゲットし学会員化する。
他の宗教の情報収集・スパイ活動をする。
学会員がいないのに
ナゼうちの宗教の内部事情を知っている?と不安がらせる。
そう
学会員との交際相手が自分の宗教の内部事情を売っていたのに
気付くのも遅い。
だからキリスト教会で結束力の弱い、結束が弱いくせに
在日に頼り
その在日が
創価学会の縁者に情報を売っているのも放置して
ローマが守ってくれるとか
イエス様が
聖書が救ってくれるとかノータリンな事を言う。
聖書がどういう風に在日から救ってくれるのか具体的に説明して欲しい。
近親相姦の民族の女性に、男女間の恥があるというのか
男慣れしている気持ち悪い在日にホレる、いわれは無い。
ロシアの精神構造は派手な割には
実生活上ケチで、痩せ馬育てだから、3頭立ての馬車(トロイカ)になる。
馬力のある太った馬1頭で引かせる力が無い。
そういう育て方も無い。
正教を今批判にあげたが
カトリックも似たようなものだ。
正統的なカトリックより
学会と提携している
モルモン教の方が裕福だったり「金持ちの」人脈があったりする。
教会員を稼げる人材に育てているから。
ソルトレイクオリンピックの取引も成功。
通訳は人脈豊かで自前で出来た。人を育てているからだ。
出来の悪いヤツでも稼げる工場働きの紹介をしている。
モルモンは金持ちだ。
信者を金持ちに出来ないのに
信者から献金を、などと言う
絞り取り形の宗教は、ジリ乏になり消滅する。
つまり痩せ馬すら失ったり、痩せ馬の酷使で死なせるわけだ。
痩せ馬宗教に未来は無い。
痩せ馬育ての教会に
金持ちで知識に富む恵み豊かなユダヤの神は
御顔を向けられない。
まあ、宗教2chも、まことのじいさんしかいないんだけどね(笑)
>>91
最後の行でもう引用箇所も明白だけど
マタイによる福音書6.7-8
>>93
このスレは>>1によると
>教会に行かないもしくは行かなくなったがイエスキリストを信じる人の集うスレ
なので家庭礼拝もOK >>95
また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい。
マタイ19:24
カトリック、正教会でも失業者・障害者免除はないの?
収入に余裕がないと教会信徒にはなれないな……と俺も感じてはいるが。 そんなにしてまでなるほどの価値は無い。
むしろならないほうがよほど上等。
そう
金持ちは
神の国(神の教会という意味で、天国ではない)に入るのは
難しいですよ。
聖職者の気分次第で
参加させてくれるか
献金が見みながら(金持ちから貧乏人にしてから)
入れるか
決めるんですから。
カネの切れ目が、縁の切れ目
献金が切れた時点で、神の国(教会)から
外されます。
>>101
カトリック教会は本物と言われているではないですか。
事情を話すとお金は要りませんよ。ここで書き込んでいる方の中には
カトリック教会に早いうちから行って洗礼を受けておけばよかったと思われる方が
多いと思います。 信者を辞めさせるように仕向けて
いられなくなるような
嫌がらせを周囲の信者からされて
聖職者が外したい狙った信者から
私辞めますと言わさせるんですから
ソートー陰湿ないじめですよ。
今ある神の国(教会)は
癒しや救いとは
程遠いですねぇ。と思います。
>>105
私はカトリック教会を全国的に転々としましたが、どこもからっとしています。
カトリックの正平教スレで語られている教区や教会は経験したことがないので
わかりませんが。 カトリックは、石垣作りでない
教区の新しい建築の大きな教会に限って言えば
参拝(御み堂で祈らせて下さい)は許してくれてました。
修道会の教会は入りずらいですからね。
昔の人間関係のこじれもあって。
教会敷地の受付担当の建物に人影があり
一礼して
御み堂に入って
マリア像に一礼後にお天使祝詞を祈り
聖堂正面に頭を下げ
椅子に座って主の祈りにアニマ・クリスティを
唱えていましたがね。
イエズス会でない殉教の宣教師や
日本人殉教者の像にもラテン語で。
でも今は
カトリックの信者をするほど
精神的な余裕はありません。
人間付き合いに疲れたのです。
それに精神障害ですから。
仏教系新宗教にいたけど
宗教は宗教施設に案内してくれる
導き親とか代父母とか手引きする知人とか
いないと入りズライですよ。
宗教も人間関係ですね。
ヨハネス・クリュソストモス(金口イオアン)の時代は
ローマ帝国全土が
キリスト教を
国教としていた時代ですが
気違い(精神障害者)は
洗礼に預からせてくれない時代でした。
ヨハネス・クシュソストモスのカテキズムか
キリスト教史に書いてあった記憶があります。
悪霊に憑り付かれた者という扱いだったのです。
悪霊退散は洗礼者で無いと受けられない時代でした。
今もソウかもしれませんが。
正教の通常のミサ(聖体礼儀)は
ヨハネス・クリュソストモス(金口イオアン)の
礼拝次第です。
そのクリュソストモスの判断が
精神障害者を教会から外していると私が言う根拠です。
だから正教を通うのを止めたのです。
教会の洗礼(バプテスマ)を
受けていないから
主日礼拝や奉神礼やミサに
出ていないからといって
転(ころ)んだ事には成らないだろう。
幼児洗礼を受けていて
生まれながらの信者なのに
礼拝に出ない上、異教の異性の宗教にあわせれば
背教者だろう。
まして、恋愛感情を満たされないからといって
人の私生活をストーカーし、人の過去の失敗や悪さに詳しく
面当てや嫌がらせをしている人を
宗教者だとは
言いたくないがね。
ストーカー法に引っかかる人達ではないのかね。
「恋愛感情を満たされない」は法に抵触する前文。
私の恩師と言えるヒルテイの思想についてお話させて下さい。
カール・ヒルテイ(1833〜1909)はスイスが生んだ偉大な法学者、思想家、キリスト者であり、
特にその著「幸福論」全三巻、「眠られぬ夜のために」全二巻は今日まで各国語に翻訳出版され、多く
の人々を絶望から救い、希望と祝福を与えてきたことで不朽の名著となった。ヒルテイは「近代スイス
建国の父」と称されている。
(続きます)
カトリックと正教を叩き過ぎたと反省しています。
カトリックや正教の高位の聖職者から
直接私に非難が来たわけでなかったのに。
ミサで出会う在日が嫌なのと(向こうも嫌がっているだろうし)
信者、特に幼い信者との対応も面倒なので
古い信者連中からのからかいにも正直に反発してしまうので
行かない事にしたんです。
要は付き合いが、めんどくさいんだね。
信者でないから献金額に関してはローソク代の2百円ぐらいや
献金バスットに五百円ぐらい入れれば良いかもしれないけど
日曜はシフト制ながら休みの日がないし物理的に行けないんだね。
園児が居ない日曜に保育園の清掃があるから。
主日礼拝に関しては
日本キリスト教団の或る教会の聖書箇所と賛美歌で
家庭礼拝しています。
その教会の牧師は
昔は日本人の牧師で故人になっていまして
現在は韓国出身の牧師ですが、東大と東神大の博士です。
北(共和国籍)ではないので
ホルモン焼肉屋やパチンコやゲーセン、風俗やカプセルホテルとは
関係ないようです。
チンチン切り付けそそのかし女に関しては
お前が私の家に空き巣に入っていたとしたら
前もって入れないように
前もってお前の部屋に入れる関係者をそそのかして
足を切り付けて歩けないようにして
空き巣を食い止めれば良いのか?と
言い返したいくらいの怒りがあるんですよ。
神に赦しを乞う
有限の責任しか負えない人間としての立場は
あるんですがね。
向こうはキリスト教徒や求道者でないから
価値観が違うから
神への罪の赦しの心と姿勢は
通じないのは判っているんですがね。
これってキリスト教迫害、求道者と教会との間を裂く作戦なんですかね。
信者でありながら
主日礼拝に親子で出ない背教者には
言われる筋合いは無いですが。
仏教にも害心を持たない戒律は
あると思っていたんですがね。
仏教系新興宗教にいた時でも
傷害や殺害などの害心は
忍にく行(にんにくギョウ)といって、危害を加える心を持たない
仏教徒の在家・出家問わず守るべき、みほとけの、みおしえ
だったと思うんですがね。
あんたはキリスト教より仏教が良いと行ったのは
心にも無い事だったんかと。
レイプさせないために
チンチンに切り傷をつけるという
方法は仏教的に正しい事か
と言いたいくらいだが
相手は受戒した仏教徒、檀家、仏教会員じゃないわけだからね。
無責任なんですよ仏教が良いと言った女は。
害心のある、そのヤクザ女・朝○女くさいソイツを
相手にしない事にしている。
仏教的な
犯罪を思いとどまらせる
平和的な言葉の行(ぎょう)を
出来ない人に
仏教が良いとは言われたくないですね。
言葉の説諭より
相手の体を傷つける事の方を
選択したわけですから。
リストカットしたが自殺には至らなかった女性でね。
自分の肌に切り傷をつけても平気だから
平気で他人の肌にも切り傷をつけられる心の持ち主なんですよ。
人相が残酷な相で四柱推命で金属による害の性格が強いソノ女は
やはり残酷な性格の運命を変える事の出来ない人だし
性器を傷つけられたが赦そうと放置したのが仇になったんだね。
つけあがって切り付けただけでは足りず陰口まで叩く
私をブスだと思って悔しがらせている
他の女にいい顔している
やきもち焼かせている
仕事でかまってくれない
など
さんざん
こき下ろしを言って
私は悪くない
罪の呵責(かしゃく)の念もない
といった態度
相手にしたくないのが判らないらしい。
女の側が恋愛の感情を満たされず
相手の男の私生活をたえず情報収集し興味関心を持ち
相手の男の過去の失敗や悪さの情報収集に余念なく
どっちがストーカーやねん。と言いたくなる。
私は関係者にアノ女の話は私にしないでくれ
係わり合いになりたくないんだ
と言っているんですがね。
害心のないリストカットしていない女性を相手にしている。
自分を傷つけていて、相手だって傷つけても良いだろうという心の持ち主
つまり害心のある女を私は相手にしない。
心の広い方、忍耐強い平和な方
あの残酷な女を
救ってやってくれ。
おれでは手におえない。
>>24n
家庭礼拝
>>25n
権威の置き方
救済論
ウェストミンスター信仰基準
日本フリーメソジスト教団式文
臨死体験やセカンドチャンス論や神の御名 なぜ人生はこれほどまでに苦難に満ち満ちているのだろうか?そして、苦難はなぜ人々に均等でなく不平等に
課されるのか?なぜこのように苦しまなければならないのか?
有史以来、人間が抱き続けてきた疑問に対しカール・ヒルテイは答えて行きます。
「人生は我々の全存在の最も大切な一時期であって、まさにこの間に我々の全存在が前進する生となるか、あ
るいは徐々に実現する実際の死となるかが決定されるのである。」(「幸福論第二部」)
「大きな苦しみも、全くの不幸として偶然からやってきたのではなくて、ある目的をもって恵み深い御手から
与えられたものと考えれば耐えやすいものとなる。」(「幸福論第三部」)
ヒルテイは我々の人生には果たすべき大きな目的があると言います。そして、人生で遭遇する艱難辛苦こそが
人間が抱え続けてきた疑問に答える大きな鍵となるというのです。
「恵み深い御手」とは何のことでしょう?おそらくそれは「神」のことだと推測できるでしょう。
さらに、ヒルテイは言います。
「人は真の教養人にならなければならない。」(「幸福論第二部」この「真の教養人」とは一体如何なる人の
ことを言うのでしょうか?
(続きます)
ヒルテイは続けます。
「真の教養人となるためには超感覚的世界の存在の確信に至り、そこから出てくる諸力の力を借りなければ
真の教養を身に着けることはできない。」(「幸福論第二部」)
「人間自分自身の力だけではどんな事情の下でも戦い抜くことはできない。だから人間生来のあらゆる力に
優るある大きな力が人間存在に働きかけることが必要である。この大きな力こそ人間が自分自身に打ち勝つ
ことを可能にし、またどのような外的災いももはや恐れずに足らずとするほどの力を与えてくれるのである。」
(同著書)
ヒルテイの言う「真の教養人」とは単に知識に溢れているような物知りのことではありません。それは艱難
辛苦を通して自分の心の中に「超感覚的世界の存在」あるいは「人間生来のあらゆる力に優るある大きな力の
宿っている人のことです。
これこそ聖書の中にある「聖霊」、「真理の御霊」、「神の光」等と言われるものでしょう。そして、これが私
たちの心に宿ることを「神による救い」、「回心」、「解脱」、「神の臨在」などというのですね。
しかし、その心境に達することが容易なことではないんですね。
(続きます)
ヒルテイは続けます。
「真の教養人となるためには超感覚的世界の存在の確信に至り、そこから出てくる諸力の力を借りなければ
真の教養を身に着けることはできない。」(「幸福論第二部」)
「人間自分自身の力だけではどんな事情の下でも戦い抜くことはできない。だから人間生来のあらゆる力に
優るある大きな力が人間存在に働きかけることが必要である。この大きな力こそ人間が自分自身に打ち勝つ
ことを可能にし、またどのような外的災いももはや恐れずに足らずとするほどの力を与えてくれるのである。」
(同著書)
ヒルテイの言う「真の教養人」とは単に知識に溢れているような物知りのことではありません。それは艱難
辛苦を通して自分の心の中に「超感覚的世界の存在」あるいは「人間生来のあらゆる力に優るある大きな力の
宿っている人のことです。
これこそ聖書の中にある「聖霊」、「真理の御霊」、「神の光」等と言われるものでしょう。そして、これが私
たちの心に宿ることを「神による救い」、「回心」、「解脱」、「神の臨在」などというのですね。
しかし、その心境に達することが容易なことではないんですね。
(続きます)
ヒルティは「真の教養人」の典型はイエス・キリストであると言います。そして、
「キリストの内には、およそ考えられうる限りの最高度に神が宿りたもうたのである」(「幸福論第二部」)
言い換えれば、キリストは最高度の回心の心境に達したということであり、人間のあるべき最高の模範を示
したと言えましょう。
(続きます。今日はこれくらいにしておきます。おやすみなさい。))
お詫び
>>125>>126とダブってしまいました。 如来、仏、釈迦に握りこぶしはない。
シャカの仏教では体罰による教育、暴力を用いた教え方はないと説いている。
違う席で食べている所を見た事がない。
特別席ですか。
特別な人ですか。
独占席ですか。
許可を得ないと座れない席なんですか。
敬老席でしたか。
障害者席でしたか。
優先席だったんですね。
あっそうか。みんな障害者でしたね。障害者手帳を持ってますから。
他の席に座っているのを見た事がないんですよ。
はやい者すわり順ではなく、ある人の許可が必要な席だったんですね。
あんた特別なんだ。
あんたの許可がないと座れない席なんだ。
あんたほかの席に座ったことないよね。
特別だね。
見下されているんですよ。
だれに。
中学受験も高校受験もないのぉ
親がカネ持っていなかったのぉ
親金持ちです一級建築士
えっ本人が昼間働くって、夜勉強したいって
どういう学校
工業だけど
電気の資格や建築の資格とったぁ
いや
何してたの
スポーツ
へえぇ
8年間も掃除してたのぉ
根性あるね
根性を勉強したんだ
じゃあ一般就労がんばってね。
商業高校で簿記持って卒業したとか
工業高校で土建業の現場監督の資格を持って卒業したって
聞いた事あったけど
世の中
根性だね。
ロサンゼルスのロスって英語で失うってロスって意味だよね。
えぇスペイン語
えぇ定冠詞
難しいこたぁ判んねぇよ、俺に聞くなぁ
はぁ
ザって何ぃ
ジ・シ・ザ・ペンって英語あるだろぉ
ザだよ
ふぅ〜ん。
をはり。
人の私生活をのぞいて
ネット・ストーカーして
面当てカマスの止めて下さい。
あんた嫌がらせしか無いわけぇ
根性を勉強したのね
はい、はい。
〔苦悩を通して救いへ〕
カール・ヒルテイ(1833〜1909)は名門ハイデルベルク大学を卒業後、弁護士として活躍。
その後、ベルン大学教授、総長を歴任。他方国会議員を長く勤め、法務大佐という軍人でもありま
した。今日、「近代スイス建国の父」として称されています。生え抜きのエリートとして栄光と名
誉に包まれた生涯でありなんの不満もないような人生のように思われます。
しかし、一方表には出ない艱難辛苦の人生があったようです。
「私の生涯においてまるで夢遊病者と同じ様子であったことが数限りなくあった」
(「眠られぬ夜のために第一部」岩波書店刊)
こちらの側面こそがヒルテイを語るに重要な意味を持っています。この言葉からヒルテイが長い時期、
艱難辛苦に耐え、艱難辛苦を通して回心つまりキリストの救いに至ったと言うことが理解できます。
詩編に書かれているダビデの生きざまや次のパウロの言葉からも回心への道は言語に絶する神の試練
と言える苦難の中からこそ開かれていくことが理解できます。
「彼がそれを学んだのは『極度に耐えられないほどに圧迫されて、生きる望みを失い、心の内で死を覚
悟した時だった。』それは『自分自身を頼みとしないで死人をよみがえらして下さる神を頼みとするた
めである。神は死から私たちを救い出してくださった。』」
(「幸福論第三部」ヒルテイによる「コリント人への第二の手紙」解説より)
カール・ヒルテイの名言は
ためになりました。
ネットで出ていたのを
読んでみたんです。
結構おもしろいですね。
思考回路と願望
イワノビッチは農家だった。セルビア人だった。
都合の悪い事にボスニアに住んでいた。となりのデカチンスキーと
チビノビッチはクロアチア人だった。同じ百姓である。
ある時、ビッチ達の地方に飢饉と疫病が起こり多くの家畜がシんだ。
ハリストス様の信心に少しは熱心で
正教のイワノビッチは神に祈った。すると天使ミハイルが
夢枕に現れて言った。イワノビッチよ。熱心ではないか願い事を
かなえてあげよう。何でもかなえて欲しい事を言いなさい。
神様に取り次いであげよう。とお告げだ。
するとイワノビッチは何をチ迷ったのか
デカチンスキーの家畜をシなせてくれ。という。
ミハイルはもっと建設的な意見とか願望がないのか。
神は慈悲深く恵み深い。といった。すると天使が
願い事を叶えると言ったのに意見するのか。神でないくせに。
痛みのわからない奴だ。痛みを分かち合う為には相手に
沢山不幸を知って貰わないといけないんだ。ワシの不幸な気持ちは
デカチンスキーにたんまり判らせたい。それのドコが悪いんだ。
といった。ボスニア担当のミハイル天使は弱り果てて
もっと豊かに家畜が増えたり豊作になるとか。
願い方とか考え直してみないか。というが
イワノビッチは言い募って、シんだらハリストス様の前で
言いつけてやる。十字架に掛かったからには、不幸が理解できると
思ったが、セルビア人の正教徒よりローマ教会に加担しよう
というのだな。クロアチア人の肩を持つ天使なんか天使じゃない。
偽天使め。悪魔に違いない。俺んちから出て行け。といって
ニンニクを しこたまミハイルに投げつけた。しかたなく
ミハイルは天に帰って行ったという。その後
イワノビッチの家にはナチスが来たり共産党員が押しかけてきた。
>>134
お勧めしたいヒルテイの著書
「眠られぬ夜のために」全二巻
「幸福論」全三巻
いずれも草間平作、大和邦太郎訳 岩波文庫刊
ただ「幸福論」は第二、第三巻を先に読むことをお勧めします。第一巻は内容的に
少し軽いです。「眠られぬ夜のために」は日記形式なので読みやすいと思います。
私のブログ「ヒルテイにならいてーすべての艱難辛苦の中にある人のために」も覗
いて頂けたら幸いです。 新約聖書ヨハネ福音書18章14節
カヤパ(カイヤファ)は、ひとりの人が
民に代わって死ぬことが得策である、と
ユダヤ人に助言した人である。
タルムードでは、
「ある世代に義人がいる時、義人は
その世代の罪のために罰せられる」
(バビロニア・タルムード・シャバ三三b)と
書いてあります。
つまりイエスの時代のユダヤ人達にしてみれば
ナザレびとイエスという一人の義人(あるいはハハム)を
その当時(その世代)のユダヤの民の為に
ローマ人に罰せさせるという生き残り方を選んだといえる。
義人ほど苦行が多く、
その時代の不合理な理由によって罰せられる、
という教えです。
後にラビは賢者(ハハム 複数でハハミーム)と呼ばれた。
イエス・キリストもラビと呼ばれていた。
仏教的な
断見(死んだら終わりで輪廻する霊魂はない)か
常見(死んでも常に輪廻する霊魂はある)という
判断は出来るが
まあキリスト教は常見でも輪廻はない宗教だ。
インドの宗教的な
因果応報や
業報輪廻という概念から見ると
因果応報はあるけれど
輪廻は認めていないのがキリスト教だ。
モーセ五書(トーラー)のうちの十戒では
親の因果が子に報い(父祖の罪を三代、四代までも問う)を
語っていながら
預言書(ナービーム)では
酸いブドウを食べれば子孫の歯が浮くのではなく
酸いブドウを食べれば自分の歯が浮くのであって
自業自得を説いている。
出エジプト34:7の一部
父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う
エレミヤ31:29〜30の一部
先祖が酸いぶどうを食べれば 子孫の歯が浮く
だれでも酸いぶどうを食べれば 自分の歯が浮く
エゼキエル18:2の一部
先祖が酸いぶどうを食べれば 子孫の歯が浮く
自分はなるべく願掛けはしない方針で
生きている。その理由というのは。
イスラムの言い伝えで
断食をして祈り願うと不幸が起きる。
というのがある。
日本でも
聖天さんに祈願すると
七代先の幸福を自分一代で先取りする。
というのがある。
ある加持祈祷をする新興宗教に居た時に
特別祈願という加持祈祷をして願い事をすると
願いが叶うは叶うのだが
後で願いと同じ位か願い以上の不幸が起こるから
特別祈願はしない方が良いと言うのがあった。
つまり
願い事を頼む先の神様は偉い方なので
その偉い力を頼んで幸せを願うと
幸せと同じ位の不幸を
力を出した穴埋めに使われるのではないかと
自分では解釈している。
悪魔(ファウスト)が
願い事を叶えた分、寿命を何歳かいただく
見たいな事が起こると言う訳である。
栄光は主なる神に帰す。
その昔、ある国で戦争に行った将軍と兵卒がいた。
戦勝を収め、国に帰る途上で教会に立ち寄り戦勝報告を神に捧げた。
兵卒が将軍に
なぜ戦場に行く時に
教会へ立ち寄り戦勝祈願をされなかったのですか。と質問した。
将軍は兵卒に
もし戦に負けたら祈願した神に失礼だとは思わないか。
負けをささげる訳には行かないだろう。
神の名はそのように大切にされなければならないと言う事だと答えた。
普通は宗教に入る時には
何かしら奇跡とかお陰とか願望の成就を期待し
祈願する為にすがりに行くのが大方の理由だ。
しかし私は将軍と兵卒の問答で
キリスト教は
ソウいう願望祈願とか
取引信心の一面だけではない宗教だ
と思ったことだった。
「サバオト」その名は「万軍」の主。
旧約聖書ではサムエル記から
「万軍の主」という名が見られるそうだ。
日本語訛りであるがサバオトというヘブル語は
軍団とか軍勢という意味だそうである。
全世界の軍隊の主人であるサバオトは
紀元前1000年(今から3000年前)ごろ
ユダヤ人のダビデの軍団に居た一兵卒が
敵のペリシテびとのゴリアテという大男を
石つぶてを額に当てて打ち殺した時に
唱えられた名である。
万軍の主の名によって打ち倒すのだと宣言して。
しかし500年も経つとユダヤ人も傲慢になり
イスラエルの神は
万軍の主ようは世界最高の軍神であって
この軍神をまつったユダヤ人は
ドノ外国の軍隊にも負けないと油断していたのがたたって
新バビロニア(カルデア)による
バビロン捕囚を迎える事と成った。
外国の支配下におさめられた占領国民となってしまったのである。
感謝の典礼
「奉納」
1 奉納の歌と奉納行列: 感謝の典礼のためのパンとぶどう酒を祭壇へ奉納します。
《奉納の歌》
神よ あなたは万物の造り主
ここに供えるパンは あなたから戴いた物 大地の恵み 労働の実り
私達の命の糧となるものです
神よ あなたは万物の造り主
神よ あなたは万物の造り主
ここに供えるブドウ酒は あなたから戴いた物 大地の恵み 労働の実り
私達の命の糧となるものです
神よ あなたは万物の造り主
皆さん この捧げ物を
全能の神である父が 受け入れて下さる様に 祈りましょう
・・・私達の主イエス・キリストによって アーメン.
「パン・ぶどう酒を供える祈り・祈りへの招き」
「感謝の賛歌」
9 感謝の賛歌(サンクトゥス)
聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の神なる主。
主の栄光は天地に満つ。
天のいと高きところにホザンナ。(救いたまえ)
ほむべきかな、主の名によりて来る者。
天のいと高きところにホザンナ。
−奉献文−
主は皆さんとともに
また司祭とともに
心を込めて神を仰ぎ
賛美と感謝を捧げましょう
「記念唱」
信仰の神秘
主の死を思い復活をたたえよう、主がこられるまで
[つぎ種々の祈りの後に 主の祈り へ]
ミサの時の主の祈りの模様
ダウンロード&関連動画>>
@YouTube
三国魏の曹操猛徳は白面であり
悪人とされ
明朝の太祖・朱元璋は、ほほがへこみアゴがとがっていて
猟奇の死刑や拷問を好んだ
三国蜀漢の関羽雲長はひげを伸ばし酒御飲んだような赤ら顔で
好血漢とされる。
あかほっぺと馬鹿にされる向きはあるが
その方が庶民受けするのである。
関帝様と呼ばれて関帝廟に祀られている。
>>140
>ファウスト(ファウストゥス)の名に関して
新約聖書の使徒の働き(使徒行伝・使徒言行録)に
コルネリウスという名のイタリア隊の百人隊長がいて
異邦人である彼に聖霊が初めて降った話が出ている。
フラウィウス・ヨセフス著ユダヤ戦記に書かれた
記事だと思うが
ローマ人で初めてエルサレムの至聖所に一番乗りしたのは
ファウストゥス・コルネリウスという名の
ローマ兵であったようだ。
こうして最初のコルネリウスによってユダヤ教にとって
初のローマによる神殿よごしにあったが
次のコルネリウスではキリスト教にとって
初のローマ人に対する聖霊降りがあった事である。
コルネリウスという名の2人は
ローマ人では初めてという事で繋がっている。
神殿破壊についてはバビロン捕囚の時にもありました。 >>146
顔が白くて小アゴが入った人相だと
中国・殷王朝(商王朝)の
チュウ王の寵姫ダキである。
淫婦ダキと暴君チュウ王は共に
酒池肉林をして、色々な拷問を見るのを好み
国を滅ぼしている。
殷は周王朝に取って代わられる。
周王朝の後半は、春秋戦国時代である。
論語の孔子が現れます。
紀元前500年代ころでしょうか。
北イスラエル王国や南ユダ王国は滅亡する頃です。 丁寧に拒絶することが出来るのは、
交際の上で重要な術である(カール・ヒルティ)
これを心得ていなかったばっかりに
人生が思わしくない方に曲がったと思っている。
自分の周りには
愛人的対処の女。楽しい事しか考えてない現実逃避女ばかりになった。
男をそそのかしたり、盗んだもので有利に取引しようとか
そういった出来の悪いのばかり周囲にいるようになった。
正当に働き稼ぎ、へそくりや貯金をコツコツし
旦那のイザと言う時に
母親的になれる堅実な女性が周りからいなくなった。
自分の両親や兄弟の葬式や墓地埋葬の資金すら残せなくなるような
人生最後を困った経済状況にしようとしている女ばかりになった。
人間は他の動物と違って、葬式と埋葬がある。
死んだ人の死後の事を心配する。残された者に教訓としての言い残しもする。
動物と決定的な違いがソコにある。
自分や家族・兄弟を不幸にする女を、
うまく断らずに
この男カツアゲできる。と、なめられて
そういう強欲な女を
周囲にひきつけてしまったからだ。
カモがネギしょってやって来たというサインを
出してしまったからである。
臨終に悪魔を断れるか、断れる人生を送ったかが、人生最後の仕事だ。
ヒルテイにならいて の方。
すみません。
著書は買ってないのですが
幸福論の
リンクを読んで
正直言って
聖書の通読をしたり
聖書の註解や
ヘブル語・ギリシア語・ラテン語の解説HPを
照らし合わせて読んだ方が
楽しいです。
ウエストミンスター信仰基準も読んだりで。
インターネットのない時代だから
情報量も質も
現在と
ヒルテイの時代では雲泥の差だからです。
私も自己啓発や能力開発、心理学の本を読み漁っていた時があったなあ
全てが無駄だったとは言えないけど、ほとんど役に立たなかった。
書籍代でいくら損したことか・・
今は>>152さんと同じく、聖書をとことん追及するのが楽しいです。 マザーハーロットと我が秘せられた名、アイアンメイデンの名において、人類よ、全ての罪人を殺し、彼らの財を奪うことを許可する。
我が名は罪であり、我が名は罰である。
地獄のαにしてΩなる我と、全ての母たる?の御名において、これから行われるありとあらゆる罪悪をわたしもまた赦す
>>152
>>153
信仰は楽しいという性質とは違う気がする
読み物として楽しむのはあるかもしれないが 聖書を読むだけでなく
風呂上りには聖歌の方式の
コンスタンチノープル信条を黙読し
主の祈りを黙読しているうちに
神がいるのではと思い。いや
神はいるのだ。と
なってくる。
もう、そうなれば
れっきとした信仰生活に
入っているのだと。
>>152
なるほど。自分なりの信仰のスタイルを取れるところが無教会派の強みかもしれませんね。
私はもう70のお爺ちゃんで若い人たちのように自由自在にネットを駆使するというわけ
にはいきません。
聖書とヒルテイの著書を座右に置き、大切と思われるところに赤線を引いたり、メモを書
き込んだりするスタイルですね。 朝はミサの方式の主の祈りを心で唱え。
夕方は讃美歌・今日の聖句・主の祈り・頌栄の家庭礼拝。
日曜の場合は夕方の家庭礼拝に追加で
讃美歌3曲・聖書朗読箇所・主の祈りを主日礼拝。
これを最近1ヶ月近くしていて
信仰生活になってきた。と思っている。
ヒルティにならいて さん
おはようございます。
座右の銘を持っている方は、人生を強く生きている人だと思ってます。
わたしは、まだ49ですが統合失調症で独身です。
自分に自殺や精神病棟に入院という事がないのは
実家に生活でき両親のお陰であり
また個人的には、聖書研究や家庭礼拝のお陰だと思っています。
物理的に寝起きし住める所があり食事の用意に洗濯などしてもらって、
それは両親のお陰であり
両親の長寿に感謝しています。
薬服用ですが、健康に障害者施設で働け稼げているのは
医者先生の方々や、
制度を作った役所の方々や団体の方々と、感謝しています。
精神的には自殺や入院生活にならないで、
キリスト教のお陰であり、
キリスト教情報をインターネット掲載をしている
聖職者や信者のお陰と、感謝しています。
みなさんに父なる神のめぐみが豊かにありますように
主イエス・キリストの、み名によって。アーメン。
たしかに宗教をしているのは
一種の依存症かもしれませんね。
でも教育が洗脳の一種で、道徳的に良い洗脳と認めれば
それで世のなかの役に立っているのではないでしょうか。
ちなみに >>156n >>158-159n は私です。
>>122 >>124 をしています。 >>159
おはようございます。病気を抱えながらも、キリスト教信仰によって愛と感謝に満ちた生活を
送っていらっしゃるとのこと素晴らしいことですね。
ヒルテイ著「幸福論第三部」の「(付)病人の救い」の中の言葉も教えられます。
「病気の際にはいつも直ちに、神はこれによって何を欲し給うのかを考え、そして病気からの
解放でなく、その洞察と忍耐とを真っ先に祈り求めるがよい。」
「健康を失えば絶対に不幸になるとは限らない。」
「苦しい病気の時期こそは、救い(癒し)の始まりであり、浄めの火であってその火をくぐっ
て地上の楽園へと進んでいくのである。」
私も若い頃より、何十年も神経症等心の病に苦しんできましたが、キリストの信仰によって克
服できました。
「最高の健康法とは神と共にあることである。」(これもヒルテイの言葉)
まことにそのとうりです。 >>165はわたくしめ「ヒルテイにならいて」です。失礼しました。 >140 悪魔(ファウスト)が
ファウストが悪魔でなく
悪魔メフィストでしたね。
すみません。
自己啓発セミナー。
なつかしいです。
もう25年ぐらい前
でしたでしょうか。
ある会社で同期だった
女性社員に呼ばれて
出て見た事がありました。
アノ頃は
ひどく若かったですね。
周囲に女性がやって来て
キャーキャー言ってましたよ。
自分ではなく
上司の係長が
ハンサムだったせいで。
バブルの頃でした。
男女平等雇用法のお陰で
イケイケの時代でした。
何がって
同期の野球部のキャプテンだかが
湘南ボーイだったから。
自分でなくて。
ヒルティの通っていた教会が
カトリックなのかプロテスタントか
プロテスタントとしても何派かわからないな
カルヴァン派ではなさそうで
ヨハネによる福音書と旧約聖書の引用が比較的多いから
東方教会系の教会がスイスにあったのだろうか
まことのハッキングだなww
宗教2chも、まことしかいないから掛けるんだなww
はじ始めの会社で8人のナオコさんに
ふられました。
直子さん・尚子さん・
奈央子さん・奈緒子さん、など、など。
親会社の日本電気だったり、
お客さん先立ったり自分の会社だったり、
協力会社だったり、下請け会社だったり、
マクドナルドのオネーちゃんだったり。
以来「ナオコさん」と
周囲に他人の声が聞こえると
ガックリした自分を思い起こし
情けなくなります。
>>188
ヘブライ11:35
女たちは、死んだ者を
よみがえらせていただきました。
またほかの人たちは、さらに
すぐれたよみがえりを得るために、
釈放されることを願わないで
拷問を受けました。 皆さんお早うございます。今日もヒルテイについて話させてください。今日のテーマはキリスト教の
神髄と言われるところです。
〔永遠の生命ー「復活」の意味するもの〕
「神の近くにあるという喜びは、あらゆる人間的感情の内でとりわけ強烈なものである。つまり、こ
の感情は人の心を完全に満足せしめるだけでなく、またあらゆる制限から精神を開放し、昂揚する効
果の点で、友情や恋愛やその他の感情とは到底比べ物にならないほど強いのである。(「眠られぬ夜
のために第一部」より)
私のささやかな体験から言っても、聖霊の宿り(神の臨在)の確信は最も感動的で心を打ち震わせる
ものです。新しい、全く別の生命力が自分の内に始まっているのが分かるのです。
「老齢によって(肉体的)生命力が衰える場合でさえ、依然として絶えず増していく霊的な力はその
老年期をもはるかに越えて、ついに新しい生命に入るまで、力を高めていくものである。」
(「幸福論第三巻」より)
私もそうですが、老いを経るごとに人間は体力、視力、記憶力等が衰えていきますが、自分の心に宿
った霊的生命力というものは決して衰えることなく力を増していくのです。新たな人生の実感こそ
イエス・キリストが示した「復活」に通じるものでしょう。
「復活は『イエスの死はこの地上の外的生活に対する死にすぎなくて、本当は新生であった』という
ことの神の側よりする証明である。」(「ヒルテイ著作集9悩みと光」白水社刊より)
(続きます)
しいて言えば死という表現は人間的な見方でしかないんだけどね。
>>191
私のブログ「ヒルテイにならいてーすべての艱難辛苦の中にある人のために」を覗いて
下さりありがとうございます。ただ、順序が乱れていて読みにくいと思います。
パソコン操作に疎くて再編集できずどうしようもないのです。ページはふってあるので
それに従って読んで下さい。申し訳ありません。 >ブログ「ヒルテイにならいてーすべての艱難辛苦の中にある人のために」
読む気になれない邪気・陰気を感じますよ。
〔永遠の生命ー「復活」の意味するもの〕パート2
「私は復活であり、命である。私を信じる者は死んでも生きる。生きていて私を信じる者は
死んでも生きる。」(ヨハネ11−25〜26)
「私を信じる者」とは「艱難辛苦を通してキリストの霊がその人の心に宿った人」のことでしょう。
「永遠の命とは唯一の真の神でいますあなたと、また、あなたが遣わされたイエス・キリスト
を知ることであります。」(ヨハネ17−3)
ここでも「神とイエス・キリストを知る」ということは人間の魂に最高級の霊の宿りを受ける
と言うことです。それは知的に理解するのでなく、霊的に理解するということです。
(続きます)
ヒルテイにならいて さん。
こんにちは。
>>192 です。
今から読むところです。
私は予測が外れる事が多くて、
読んだ後に考えが変わるもので。
今回は丁寧に読もうと思います。
ヒルテイに勝つ負けるの問題でなく
一つの教養として読みたいと思います。
うーーーーんの頭脳的過ぎる展開の分、俺様の勝ちだな。
P.4 一、人生の目的と苦悩の意味
から、
P.5
『人生は出来るだけ早く見捨てねばならぬ単なる悲しみの谷ではなく、むしろ、われわれの全存在の最も大切な一時期であってまさにこの間にわれわれの全存在が前進する生となるか、あるいは序々に実現する実際の死となるかが決定されるのである。』 (幸U236頁)
『われわれはまさにこの戦いや、種々様々の艱難を切り抜けて完成にまで到達しなければならないのであって、こうした完成こそは現世における我々の任務なのである。
頭脳的過ぎる文章は創造主の神秘性を劣化させる。
シンプルな魂の叫びは、創造主の神秘性を露わにさせる
それは何故か?
所詮被造物に過ぎぬ人間の思考から構築するもの、バベルの塔の様に構築しようとも、
天に届くことなく、人間の限界性のある間違いの多い判断力で汚染される。
奇跡を行う創造主を思考の構築物で届かせるには無理がある。
仏教の輪廻転生で、
天界に生まれ、次に転生する年月が
幾く歳かご存知ですか。
ビッグバンより現在までの年月より
長かった場合
仏説は、科学的か。
キリスト教や
ユダヤ教の創造物語と同じくらい
非科学的だ。
単純に、無条件で
輪廻転生が
科学的だと
早まった意見を出さない方が
処世術としては
安全策だ。
因果応報は
旧約聖書だって説いている。
はいはい被造物の戯言、説得力無し。
科学的で幸せになってみろ笑。
科学万能の共産主義ではないんだけどね。
キリスト教を否定する時、科学を持ち出して否定。
科学を持ち出して、仏教を否定されると、科学を否定。
魔女狩りの理論と同じジャン。
科学を否定しても、肯定しても、答えが同じなのですか。
だから、お前の自慢な科学的な脳で人類を導いてみろ笑。
逆襲のシャーみたいな。
人類を導く、頭領運はないのでね。
非科学的な占い・経験則的な推命でも。
私は宗教的な気持ちや心の安らぎとか癒しを求めている求道者だね。
地獄を強調して、だからウチの宗教に入信せよ。つーのが嫌だから。
>>22-23n
> 聖書の御言葉(みことば)に励まされて困難を乗り越え
>>191
>「死の恐怖との戦い」という煩悶地獄を 乗り越えて
小さい頃は、跳び箱得意でしたよ。乗り越えてました。 ヒルテイに勝ったなどと。ただ相手にしてないだけなのに。
ヒルテイの信仰を否定するなら、君はどういう信仰がヒルテイに勝る信仰だと思って
いるのかな?答えた見なさい。
私はヒルテイを、否定してないですよ。
カルヴァン派だと思います。
予定説や資本主義の根っこを感じます。
カトリックの考え方で無いと思います。
別の人のレスだと思います。
意味不明ですが。
お笑いのラーメンズの日本語学校のイタリア編で。
ちば、しが、さが。
たのしかった文化祭。
いつも、こころにガンダム。
こんな感じの連中だと思います。
イタリア人みたいにワインでも飲んで陽気で
おカー様・マリア様・感謝の生活ですかね。
サウス側は王様や男ボスで男社会で、天のおかーさま。
ノース側は女王様や女大統領や女首相で女社会で、天のおとーさま。
ヨーロッパのキリスト教は、そんな感じ。
>ヒルテイに勝る信仰だと
とは思っていないが。
ヒルテイより多くの気づきあるなとは断言できる。
理由は、ヒルテイより思考的でないから。
私は>>198の人に質問しているのですが。あなたは何をもってヒルテイに勝ったなどと言っているのか?
全く反論にもなってないだろ?だから相手にしてないだけなのに。何か勘違いをしているようだな。
偉人と言われる人の言葉はすぐには理解できなくとも「そんなものかな?」と謙虚に耳を傾けてみる
べきだと思うがどうかな?>>210の質問に答えてみなさい。 ちゃんと、先に述べているではないか。
頭脳的過ぎる文章は創造主の神秘性を劣化させる。
シンプルな魂の叫びは、創造主の神秘性を露わにさせる
それは何故か?
所詮被造物に過ぎぬ人間の思考から構築するもの、バベルの塔の様に構築しようとも、
天に届くことなく、人間の限界性のある間違いの多い判断力で汚染される。
奇跡を行う創造主を思考の構築物で届かせるには無理がある。
>偉人と言われる人の言葉はすぐには理解できなくとも「そんなものかな?」と謙虚に耳を傾けてみる
箴言
第 30 章
5 神の言葉はみな真実である、神は彼に寄り頼む者の盾である。
6 その言葉に付け加えてはならない、彼があなたを責め、あなたを偽り者とされないためだ。
申命記 第 4 章
2 わたしがあなたがたに命じる言葉に付け加えてはならない。また減らしてはならない。わたしが命じるあなたがたの神、主の命令を守ることのできるためである。
>偉人と言われる人の言葉はすぐには理解できなくとも「そんなものかな?」と謙虚に耳を傾けてみる
それよりも重要なことがあるはず。これだけで充分である。
ヨハネによる福音書第 17 章
6 わたしは、あなたが世から選んでわたしに賜わった人々に、み名をあらわしました。彼らはあなたのものでありましたが、わたしに下さいました。そして、彼らはあなたの言葉を守りました。
7 いま彼らは、わたしに賜わったものはすべて、あなたから出たものであることを知りました。
8 なぜなら、わたしはあなたからいただいた言葉を彼らに与え、そして彼らはそれを受け、わたしがあなたから出たものであることをほんとうに知り、また、あなたがわたしをつかわされたことを信じるに至ったからです。
9 わたしは彼らのためにお願いします。わたしがお願いするのは、この世のためにではなく、あなたがわたしに賜わった者たちのためです。彼らはあなたのものなのです。
10 わたしのものは皆あなたのもの、あなたのものはわたしのものです。そして、わたしは彼らによって栄光を受けました。
11 わたしはもうこの世にはいなくなりますが、彼らはこの世に残っており、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに賜わった御名によって彼らを守って下さい。それはわたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。
12 わたしが彼らと一緒にいた間は、あなたからいただいた御名によって彼らを守り、また保護してまいりました。彼らのうち、だれも滅びず、ただ滅びの子だけが滅びました。それは聖書が成就するためでした。
13 今わたしはみもとに参ります。そして世にいる間にこれらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らのうちに満ちあふれるためであります。
14 わたしは彼らに御言を与えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世のものでないように、彼らも世のものではないからです。
15 わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります。
16 わたしが世のものでないように、彼らも世のものではありません。
17 真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります。
18 あなたがわたしを世につかわされたように、わたしも彼らを世につかわしました。
19 また彼らが真理によって聖別されるように、彼らのためわたし自身を聖別いたします。
20 わたしは彼らのためばかりではなく、彼らの言葉を聞いてわたしを信じている人々のためにも、お願いいたします。
21 父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、
あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。
22 わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。
23 わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります。
24 父よ、あなたがわたしに賜わった人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい。天地が造られる前からわたしを愛して下さって、わたしに賜わった栄光を、彼らに見させて下さい。
25 正しい父よ、この世はあなたを知っていません。しかし、わたしはあなたを知り、また彼らも、あなたがわたしをおつかわしになったことを知っています。
26 そしてわたしは彼らに御名を知らせました。またこれからも知らせましょう。それは、あなたがわたしを愛して下さったその愛が彼らのうちにあり、またわたしも彼らのうちにおるためであります」。
>>217
それが君の信仰と言うわけか?そんな空理空論で人を救えるわけがない。不毛の
神学論争では人は救えないとヒルテイは口を酸っぱくして繰り返している。 >>221
箴言
第 30 章
5 神の言葉はみな真実である、神は彼に寄り頼む者の盾である。
6 その言葉に付け加えてはならない、彼があなたを責め、あなたを偽り者とされないためだ。
申命記 第 4 章
2 わたしがあなたがたに命じる言葉に付け加えてはならない。また減らしてはならない。わたしが命じるあなたがたの神、主の命令を守ることのできるためである。 ヒルティはバベルの塔を造って喜んでいるように見える。
思考で構築すればする程に、創造主の神秘は遠ざかり、
人間の思考の仲介、視点で七転八倒する破目になる。
創世記第 2 章
17 しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。
第 3 章
4 へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。
5 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。
6 女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。
ヒルティは
福音書のみが魂の幸福を得るのに必要でそれ以外は必要ないと言っているね
福音書以外の部分の聖書や聖書以外の宗教書は
魂の幸福を得るのには必要ないが信仰の支えや刺激になることはあると
ヒルティが自書を宗教書と考えていたかどうかはわからないが
キリスト教の中では福音書に重きを置くのは少数派だろうけど
無教会派とは親和性があるかな
ヒルテイ論争が活発のようですね。良きにつけ悪しきにつけ喜ばしいことです。ただ、ことさらに知識を
振り回しているだけとしか思えない人(>>218から以降に目立ちますね)がいますが、これはどうでしょうか?
ヒルテイは言います。
「教理を知らないでもクリスチャンである人が少なくない。キリスト教は証明さるべき教義ではなくて、
生活さるべき一つの生命である。」(「眠られぬ夜のために第二巻」より)
キリスト教の救いというものは科学的、論理的に証明できるものではありません。長年、教義の学習や
研究に明け暮れてきたにもかかわらず、知性も教養もある多くの聖職者たちがその利己心が障壁となって、
回心にたどり着けないことから、焦燥感果ては懐疑に陥っているという教会の現実をヒルテイは嘆いて
います。
その結果、形式主義、偽善、空理をもてあそぶ不毛の神学論争に陥る実態は現在もあまり変わりはない
でしょう。そして、いま教会はとんでもない事態となっています。ヒルテイが聞いたら嘆き悲しむこと
でしょう。
近年、聖職者による児童虐待が欧米で荒れ狂っているという現実は問題がより深刻化していることを知
らされます。欧米では無教会主義の人が増えているそうですが、それも当然の成り行きでしょう。
(続きます) >>225
ヒルテイは「四福音書と使徒たちの手紙とを頼みとすればよい。他の注解書は
一切必要ない」と言ってますね。(「眠られぬ夜のために第二部」)
私はそれで十分だと思います。教会派との親和性?それはあるかもね。 >>199さんおはようございます。
おっしゃる通りヒルテイは一つの教養として読むというスタイルで構わないと思います。
「幸福論」と「眠られぬ夜のために」計5巻の内容、情報量、その深淵さは底知れぬも
のがあります。
個々のスレには妙な人も現れますね。ろくに、ヒルテイのことも知らないのに「俺はヒ
ルテイに勝った」などと言うあきれた人もいます。こういう人はどういう精神構造をし
ているのでしょう。「俺はキリストに勝った」「おれは聖徳太子に勝った」「俺はアイ
ンシュタインに勝った」等と言ってるのと同じです。スイス人が聞いたら驚きあきれるで
しょうね。
先人の言葉に対しては謙虚な態度で臨むこれが教養を積む心がけでしょう。 ゆえに地域により神の呼び名に違いがあるのは当然なのである。
>>229 >>230も「ヒルテイにならいて」です。失礼しました。 ヒルテイにならい さん。199です。
>192 でなく
>191 でした
スイスの偉人として、もう少し調べて
読んで生きたいと思います。
234なんですが。
ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
> ヴェーバーによれば、
> 資本主義の発達に役割を果たしたのは、ルター派よりも
> むしろカルヴィニズム(カルヴァン派)だ。
> カルヴァン派信徒は「神の栄光を増すため」に現世で労働を行う。
この部分。気になっていたんです。
スイスの改革派の考え方ですね。
労働や仕事を宗教的に捉えている。幸福にも。
救われるために仕事に精を出す。
救われている実感を得るにも、幸せを得るためにも。
上の論争は言葉が過激なところもあるが
無教会でもいろいろな立場の人がいるということかな
教会の代わりに聖人や聖人の著作をおく人もいれば
あくまで聖書のみでほかの人間は介さない人もいる
>>236
スコットランドのカルヴァン派を批判しているととれる文章もあるけど 改革派は
スコットランドが、長老教会(プレスビテリアン)
イングランドが、ピューリタン(清教徒)
フランスとスイスのフランス語圏の改革派カントが、ユグノー
ですよ。
ヤコブ3:26
霊魂の無い体が死んだものであると同様に
行いの無い信仰も死んだものなのである。
コロサイ3:16
キリストの言葉(福音書・書簡)が
あなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。
知恵を尽くして互いに教え 諭し合い
詩編と賛美と霊的な歌により
感謝して心から神をほめたたえなさい。
17 そして 何を話すにせよ 行うにせよ
すべてを主イエスの名によって行い
イエスによって 父である神に感謝しなさい。
ヘブライ13:15
だから イエスを通して
賛美のいけにえ
すなわち御名をたたえる唇の実を
絶えず神に献げましょう。
16 善い行いと施しとを
忘れないでください。
このようないけにえこそ
神はお喜びになるのです。
旧約聖書の「汝、殺すなかれ」は
戦死させてはいけない人(ダビデがサウル王を殺せなかった)や
死刑にしてはいけない人(十字架の裁きのバラバのようなユダヤ反乱者)を
「殺すなかれ」です。
戦争相手である敵を殺す、
死刑にすべき犯罪者を殺す。という「殺す」事を
禁止しているわけではない。
仏教は、北伝も南伝も、殺人自体がいけないので
戦争反対・死刑反対です。
新約聖書の中で優劣をつける考え方はまずいのだろうか
第1 イエスキリストの行いと言葉である4つの福音書
第2 パウロの真正の書簡とされる7つの手紙と使徒言行録
第3 その他実際には筆者が明らかでない手紙
第3と同等のものとしてヒルティの書物を扱ってもよいのではないか
教会では受け入れられない考え方だろうが
神と人間では優劣をつけるほうが道理なのでは
>第3と同等のものとしてヒルティの書物を扱ってもよいのではないか
ヒルティファン君としては理解したく無い話だそうです。
聖伝(聖書と聖人伝)の中身は分類されていて、
まったく別物として扱われています。
聖書(福音書・使徒の働き(ルカによる使徒行伝)・使徒書簡・ヨハネ黙示録)と
外典(トマス福音書・ヘルマスの牧者・十二使徒の教訓・バルナバの手紙など)と
偽典(エジプト人福音書・パウロ行伝・マリア福音書・ペテロ黙示録など)とに分け
外典を、
本来の外典(トマス福音書やヘルマスの牧者とか)と
使徒教父文書(クレメンスの手紙、イグナチオの手紙など)とに
分けています。
そのた文書として
いわゆる「死海文書」や
フラウィウス・ヨセフスの「ユダヤ戦記」も
エウセビオスの「教会史」もあり
新約聖書作成時期と、その後の時代について
理解する助けになります。
新約聖書正典としてドノ書簡を選定するか歴史があります。
140〜144年に、マルキオンの10巻聖書があります。
マルキオンはルカとパウロのみで選定し
ルカ福音書に他の2つの福音書にしかない記事を増補して
改定ルカ福音書を作り、それにルカの使徒言行録にパウロ8書簡を
新約聖書として編纂しました。
しかしローマ帝国で国教化した教会は
300年後半に何度も宗教会議を開き、
カルタゴ会議で
現在ある27巻新約聖書を選定し確認しました。
マルキオンの前に存在した
シナイ半島のキリスト教会で
保存されていた新約聖書は
30巻ありました。
27巻の正典より3つ多いのは
データケー(十二使徒の教訓)と
バルナバの手紙と
ヘルマスの牧者の3つが含まれていたからです。
また私が外典に含めたトマス福音書は
マタイ・マルコ・ルカの共観福音書と
記事が並行した箇所があり
発見されたグノーシス偽典のナグ・ハマテ文書で
発見された文書でした。
すみません訂正です。
パウロ行伝は外典で、偽典ではありません。
ヘルマスの牧者は使徒教父文書で外典ではありません。
また
聖伝は、
聖書と聖人伝だけでなく
コンスタンチノープル信条(キリスト教基本信条)など宗教会議で決まった信条集や
ミサ・聖餐式の進行次第(プロテスタントで言う礼拝順序)や
現在修道院で行われている、ほぼ3時間ごとの時課の祈り(聖務日課)などが
含まれています。
働かざるもの食うべからず。の原点。
新約聖書
Uテサロニケ3章
8節 また、だれからもパンを ただで
もらって食べたりはしませんでした。
むしろ、だれにも負担をかけまいと、
夜昼大変苦労して、働き続けたのです。
12節 そのような者たちに、わたしたちは
主イエス・キリストに結ばれた者として
命じ、勧めます。
自分で得たパンを食べるように、
落ち着いて仕事をしなさい。
Tコリント9章
7節 いったい自分の費用で
兵士になる者がいるでしょうか。
自分でぶどう園を造りながら、
その実を食べない者がいるでしょうか。
羊の群れを飼いながら、
その乳を飲まない者がいるでしょうか。
Uテモテ2章
1節 そこで、わが子よ。
キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。
2節 多くの証人の前で私から聞いたことを、
他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。
3節 キリスト・イエスのりっぱな兵士として、
私と苦しみをともにしてください。
4節 兵役についていながら、
日常生活のことに掛かり合っている者はだれもありません。
それは徴募した者を喜ばせるためです。
5節 また、競技をするときも、
規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません。
6節 労苦した農夫こそ、
まず第一に収穫の分け前にあずかるべきです。
7節 私が言っていることをよく考えなさい。
主はすべてのことについて、
理解する力をあなたに必ず与えてくださいます。
イタリアン・カフェ&レストランのサイゼリヤで
ぶどうの実のワイン(トスカーナ州フィレンツェ郊外キャンティ地区)や
羊の乳でつくったペコリーノ・チーズ(サルディニア産)を
堪能させて貰いましたよ。
昔は千葉の市川や船橋でしか食べられなかったのに
創業者の方々、全国展開を支援された方々に感謝しています。
イタリア風基地外発見。フナッシーとともにwwwww
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww爆!
悪霊って、個人にとりついて
人格障害を起こしたりするしか能のないバカ者なんです。
ちんけな小物です。
まこと君
自己満足のネット検索だけで
救われたか?
赦されたであろうに。byフェリクス総督&ヘロデ王。
2chでメンヘラキャラに、こう言いました、お告げ中w。
あと、教会からみは、なんやかんやと、イエスに操られている感がある。霊的直観で動くからなあw
新約聖書外典 講談社 文芸文庫 アC1 荒井献[編]
ヤコブ原福音書
トマスによるイエスの幼時物語
ペテロ福音書
ニコデモ福音書(ピラト行伝)
ヨハネ行伝
ペテロ行伝
パウロ行伝(パウロとテクラの行伝)
アンデレ行伝
使徒ユダ・トマスの行伝
セネカとパウロの往復書簡
パウロの黙示録
使徒教父文書 講談社 文芸文庫 アC2 荒井献[編]
十二使徒の教訓 デイダケー
バルナバの手紙
クレメンスの手紙 コリントのキリスト者へ(T)
クレメンスの手紙 コリントのキリスト者へ(U)
イグナティオスの手紙
ポリュカルポスの手紙
ポリュカルポスの殉教
パピアスの断片
ディオグネートスへの手紙
ヘルマスの牧者
ナグ・ハマディ文書U 福音書 岩波書店 荒井献・大貫隆 小林稔・筒井賢治 訳
トマスによる福音書
フィリポによる福音書
マリヤによる福音書
エジプト人の福音書
真理の福音
三部の教え
ナグ・ハマディ文書V 説教・書簡 岩波書店 荒井献・大貫隆 小林稔・筒井賢治 訳
T説教
魂の解明
闘技場のトマスの書
イエスの知恵
雷・全きヌース
真正な教え
真理の証言
三体のプローテンノイア
救い主の対話
U書簡
ヤコブのアポクリュフォン
復活に関する教え
エウグノストス
フィリポに送ったペトロの手紙
ルターは
ヨハネ福音書
ローマの信徒への手紙
ペテロの手紙 一
が他の3つの福音書よりまさっているとしているな
>>245
そうなのか
ヒルティは第3では低すぎるのか高すぎるのか
どちらなのだろうか 新約聖書の構成について
福音書(AD64年〜AD90年頃に編纂)
Q資料から、マルコ福音書(正典)とトマス福音書(外典)が編纂される。
マルコは、十二弟子ペテロの書記。Q資料を元に編纂。
マタイは、十二弟子で元は取税人。マルコ福音書を基に独自資料を加えて編纂。
ルカは、医者で使徒パウロの親しい友人。マルコ福音書を基に独自資料を加えて編纂。
ヨハネは、教会の長老。マルコ・マタイ・ルカの3共観福音書と別の視点で編纂。
使徒の働き(使徒行伝・使徒言行録、記事はAD30年〜AD63年にあたる)
ルカは、テオピロへイエス伝にあたる福音書を書き、その続編として使徒行伝を書く。
使徒書簡(AD50年〜AD90年頃に執筆、AD49年にローマの歴史書に教会の記述)
パウロの名で13通
4つに分類される
最初の手紙・再臨の手紙AD50年: テサロニケTとUの手紙
福音の手紙AD50年代後半: コリントTと紛失の涙の書とU・ガラテア・ローマへの手紙
獄中書簡AD60年代前半: エペソ・コロサイ・ピリピ・ピレモンへの手紙
牧会書簡AD60年代中期: テモテTとU・テトスへの手紙
公同書簡(宛て先が、はっきりしない)
著者不明が1通(ヘブル人への手紙、ユダヤ教に行く者を教会に戻す書簡AD60年代後半)
ヤコブによって1通(ヤコブの手紙AD60年代後期)
ペテロによって2通(ペテロT・UAD60年代中期)
ヨハネによって3通(AD90年代前半)
宛て先が、はっきりしない
ヨハネT
個人や教会に宛た手紙
ヨハネU(教会あて)・ヨハネV(個人あて)
ユダによって1通(ユダの手紙AD80年)
黙示録
ヨハネの黙示録は、啓示の書でもある旧約の外典エノク書と並行記事がある。
>>273
これも高等批評を受け入れるかどうかで分かれるね AD30年 イエス様の十字架の受難と復活・昇天・聖霊降臨。使徒の働きの記事始まり。
AD49年 ローマにキリスト教会があると歴史書に書かれている。
AD50年 使徒書簡の書き始め。テサロニケ書Tから。
AD63年 パウロがローマで殉教する。使徒の働きの記事終わり。
AD64年 4福音書の書き始め。マルコ福音書から。
AD90年 ヨハネ文書の書き終わり。ヤブネヤ会議でユダヤ教の旧約聖書編纂完了。
>>274
そうですね。歓迎します。より最新の情報あるいは別の学説のレスを期待。 ノアの大洪水のエピソードの起源が、アブラハムよりも数千年前のシュメール神話に存在する
ということは、今さら説明を要しない。
アダパ(アダムのシュメール語表記、最初の人)はエンキ・エアの祭司と呼ばれている。
メソポタミヤの学者によれば(ジャン・ポテロ)、「不死になりそこねた主人公の名アダパは、あだ名なのであって
本当の名は【ウァンナ(オアンネス)である。】という事が古代文献に著されているという。
(エデンの園の逸話のさらに繊細な記述)
もうひとつ、【アタ゜ムの肋骨からエバの創造】(創世の繊細)も、その起源はシュメール神話にあることが判明している。
要するに聖書のオーソライズである創世記のオリジナルは、きわめて大量の粘土板として発掘されている。
聖書とちがい情報量があまりにも多く繊細で、改ざんは不可能である。
日本語にも翻訳されて続々と出版中。w(現行の聖書と全く正反対であるが、福音書中のイエスとはすべて合致。)
シュメールの神話は、ヒンズー(ヴェーダ経典)のもとになったものです。
同じ地域の同じ民族の同じ言語ですから。w
人類はようやく、仏教と原始キリスト教が同根のものではないかと疑い始めたところです。
あくまでも、まだ疑ってかかる段階ですから、あせらないでください。
現在のインド亜大陸は、本来のインド(現在の中東・西中央アジア)にちなんでつけられた、
リトルトーキョーのようなものです。
そのことが、古代文献の解読に混乱を生じさせているだけです。
日本はユダヤの失われた部族の一つであると言いますが、間違いだと思います。
これは紀元前三千五百年ごろのバベルの崩壊に由来するものではないでしょうか。
この時代にユダヤなどまだ生まれていません。
アルカディアとは、エリドゥのことです。
いざなぎがいざなみを追って冥界に下る話は、シユメールのエンリルの話に少し似ています。
似たような話は、エジプトのオシリスのイシスによる復活にもあります。
おち
>>275 つづけます。
使徒の働き(使徒行伝・使徒言行録・プロクセイス アポストロン)の年代比定。
> AD30年 イエス様の十字架の受難と復活・昇天・聖霊降臨。使徒の働きの記事始まり。
十字架の日は、日食でユダヤ太陰暦ニサンの月14日(太陽暦の2月〜3月)という。また
人は60歳が寿命なのに半分しか生きられなかったとユダヤ人がイエスをののしったと言う。
すると天文学とユダヤの口承伝承が正しいとすればAD30年かAD33年になるという。
> AD63年 パウロがローマで殉教する。使徒の働きの記事終わり。
ローマ大火の年で、いわゆるネロ皇帝(666)による初めてのキリスト教大迫害の年という。
この時に責任者が問われたとあり、おそらく一番弟子ペテロと使徒パウロが殉教したと思われる。
訂正 AD90年 ヨハネ文書の書き終わり。ユダヤ教のヤブネア会議で旧約聖書66巻選抜完了。 新約聖書の題目
マタイ伝(カタ マッタイオン)
マルコ伝
ルカ伝
ヨハネ伝
使徒の働き(使徒行伝・使徒言行録・プロクセイス アポストロン)
ローマ書(プロス ロマイウス)
コリントα書
コリントβ書
ガラテア書
エフェソ書
フィリピ書
コロサイ書
テサロニケα書
テサロニケβ書
テモテα書
テモテβ書
テトス書
ピレモン書
ヘブル書
ヤコブ書
ペテロα書
ペテロβ書
ヨハネα書
ヨハネβ書
ヨハネγ書
ユダ書
ヨハネ黙示録(アポカリフィス イオアンノイ)
>>282 追加です。
> 十字架の日は、日食でユダヤ太陰暦ニサンの月14日(太陽暦の2月〜3月)という。また
> すると天文学とユダヤの口承伝承が正しいとすればAD30年かAD33年になるという。
ユダヤ暦でニサンの月14日が金曜日になる年は、AD30年かAD33年という。 >>282 訂正。
>ローマ大火の年で、いわゆるネロ皇帝(666)による初めてのキリスト教大迫害の年という。
この時に責任者
ローマ大火(ローマたいか)は、西暦64年7月19日です。
使徒の働きではパウロの死が言及されていないので、
記述の終わりはローマ大火の前年までと思われる。 >>282 さらに訂正です。
> 十字架の日は、日食でユダヤ太陰暦ニサンの月14日(太陽暦の2月〜3月)という。また
ユダヤ太陰暦の正月、ニサンの月は(太陽暦の3月〜4月)という。 皆さん、かなり知識の豊富な方々のようにお見受けします。
私のこれまでの見聞から、ずっと痛感しているのですが、よく話題になる 「聖伝」 について、本気で学んだり考察したりしている人が、ほとんどいないように思えます。
そんなことを言うと、お前はカトリックか ? と、噛み付かれそうですが、実はこの 「聖伝」 についての無知と無関心は、プロテスタント系の人々だけの話ではないのです。
呼び名だけは話題になっても、「聖伝」 とは何なのか、その具体的な内容は何か、現代人である私たちは何処でそれを知ることが出来るのか ・ ・ ・ と、本気で考える人がほとんどいないのです。
関心のある方がいらっしゃいましたら、レスをよろしく。
老クリスチャン殿。はじめまして。
よく各スレッドお見受けしてます。
やはり亀の甲より年の功と思いました。
聖伝について、正教会スレであった解説をコピペしようと
思っていたのですが止めました。理由は個人の断定と、
この宗教板に対する圧力がかかるのを恐れていたからです。
聖伝で未信者が勉強会の内容を言えそうな所は >>253 の通りです。
聖書・信条・宗教会議での決定事項・ミサ次第(礼拝順序)・
日々の祈りの定型(聖務日課)・聖水や十字のしるしのような作法(礼儀)・
聖職者によるサクラメント(秘蹟)などです。 >>288
実は、私も >>253 を読んで、今回の書き込みをする気になりました。
というのは、「聖伝」 をそのようないろいろの文書化された、聖書以外の追加的規範集のように、多くの人が考えているように、私は感じて来たからです。
聖書正典は、教会にとって規範的な確定文書ですが、聖伝はそのような確定文書ではありません。
あなたや >>253 が書いておられるいろいろの資料は、「それらの中に聖伝が生き生きと存在している」 と理解することは出来ても、「これが聖伝である」 と定義出来る類のものではないのです。
これは私見ですが、聖伝とは常に教会の神学の対象であるような、使徒たちの伝承の解明の試みであるように理解しています。
その場合、そのような解明の試みが、神学者個人の試みではなくて、「一・聖・公・使徒継承の教会の試み」 であるということを、大切に考えています。 老クリスチャンさん、「聖伝」のスレッドを立てられては如何ですか?
また、ブログも開設されて広く啓蒙されたらどうでしょうか?
。。。。
† エペソ6章10-12節
終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、
また天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
。。。。
聖伝とは何かの定義が決まらないと議論しにくいけど
イエス以外の者からなされたものは人間である罪人によってなされたものだから
そこに「聖」の文字が使われるのは抵抗があるしそれを崇拝はしにくい
あと西方教会では聖書と聖伝は区別しているはずなので >>253の説明も抵抗がある
さらに聖伝が教会によるものに限定されるならこれは無教会としては採用しにくい >>291 >広く啓蒙されたらどうでしょうか?
こちらのスレに、もし関心のある方がいらっしゃれば ・ ・ ・ 少し話し合ってみたいと思っただけです。
あなたは何か 「啓蒙する」 ような、特別な理解や主張をお持ちなのですか ?
私はこれまで、そういう方にお会いしたことがないので、ぜひご意見を聞かせていただきたいものです。 >>293 >無教会としては採用しにくい
私は、無教会主義に関しては無知なので、この発言にチョットびっくりしています。
無教会主義とは 「反教会主義」 のように、漠然と考えていましたが、さらに 「教会による神学を全面的に拒否する主義」 であるという理解は、これまで持っていませんでした。
無教会主義には無教会独自の神学があって、それは 「アンチ・教会の神学」 でなければならないという意味なのでしょうか ? >>295
聖伝が教会によるものに限定されるなら
それは教会に行くことが前提となって
無教会の存在は否定されるのではないかという疑問です
人は教会なしに神につながることはできるのではないかという前提です >>295
このスレでいう無教会の人は考えも千差万別でしょうが
私は教会に基づいて神とつながる人が多数派であることは否定しません
ただ教会が伝えたものだから聖書と同等であるというのは抵抗があります >>296
レス、ありがとうございます。
>聖伝が教会によるものに限定されるなら ・・・・・
聖書、特に正典としての新約聖書も、「教会によるもの」 なのではありませんか ?
別に無教会主義では、教会による正典化以前の、原始教会の文書群から直接学ぶ、という訳ではないでしょう。
私は昔、無教会の方である 関根正雄氏 の著書にはずいぶんお世話になりました。
そのときには、教会の神学と対立するような印象は全く持ちませんでした。
私も 日本旧約学会 に所属していますので、当時 関根正雄氏 のお話しも聞かせていただいたことがあります。 >>298
こちらこそレス、ありがとうございます。
聖書の中のそれぞれの文書は人によって記されたものではないですか
教会が書いたのではないかと思いますが
神学というのは正誤を争っていいものだと考えていますが
聖伝は正誤を争っていいものだというなら異論はありません
信仰と神学は重なる部分はあるにせよイコールではないのではないですか >>298
関根正雄氏の信仰はあくまで聖書のみで
聖伝と聖書は同等に扱われるべきとは考えられていなかったのではないでしょうか 聖書論争、神学論争盛んなようですね。誹謗中傷合戦がないこともこのスレの良い所かなと思いま
すね。しかし私は一つの大きな危惧を感じざるを得ません。
最近のこのスレは抽象的な議論に偏り、また、知識自慢の場と化し、肝心のキリスト教の本質から
隔たっているのではとの印象を受けます。あなたたちはなぜキリストの復活、永遠の魂、聖霊の宿
り、そして自分達の信仰体験を語ろうとしないのですか?
私は教義の学習や研究が回心(キリストの救い)にはほとんど関係ないというヒルテイの信仰を紹
介してきました。関連あるヒルテイの他の言葉を紹介します。
「人は神を証明することはできない。ただ、神を体験によって知ることができるだけである。」
「精神と自己の体験を欠いた、単に教会で教え込まれただけの形式的信仰は人間のあらゆる世代に
常に頭をもたげてくる非宗教的精神や動物的感情と同じく有害である。われわれは本当にキリスト
に学ぼうとするならば、正統主義や形式的信仰と絶えず戦わねばならない。」
「たんに教理問答だけでは、信仰したところで何事も教えてくれないし、なんの役にも立たない。」
「信仰は全く個人的な体験に根差すものである。」
「神とキリストに対する人間の個人的関係こそが問題なのである。」
「各々のキリスト者の体験は我々はこれを体験した、だから我々はこれを語るのだというようでな
ければならない。」
(以上、「ヒルテイ伝」白水社刊より。
「キリスト者の体験」とは艱難辛苦を通して自分の心の中にキリストの霊(聖霊)の宿りを受けることで
す。この体験こそはキリスト教の神髄であり永遠の魂、キリストの復活にも通ずるものです。
「その人の心にキリストの霊が宿っていない人はクリスチャンではありません。」(ロマ8−9)
(続きます)
>>290 老クリスチャンさん。お早う御座います。
成文化しているかドウかは見方によると思います。
確かに「一・聖・公・使徒継承の教会」の試みとも取れるでしょう。
この文言はニケヤ・コンスタンチノープル信条から出ていると思います。
「(認めます)エト・ウナム(一の)・
サンクタム(聖なる)・ カトリカム(おおやけなる)・
エト・アポストリカム(使徒の)・エクレジアム(教会を)」
ですから聖伝としての「信条」も大切です。
>>288 で書き漏らしましたが、聖伝で有名なモノで他にもあります。
聖書にある「主の祈り」・信条にある「信仰宣言」・
ミサ次第にある「典礼聖歌」・
宗教会議での決定事項とされる教理省の「(カトリック)要理」です。
プロテスタントも
聖書・讃美歌・使徒信条(シンボリウム・アポストロルム)・主の祈りは
基本的で大切な聖なる伝承です。 まこと君
自己満足のネット検索だけで
救われたか?
>>302
×「(認めます)エト・ウナム(一の)・
○「(信じます)エト・ウナム(ひとつの)・ 皆さんから、思いの外真面目なご意見をたくさんいただいて、感謝です。
ここで一つ、お詫びしておきます。
私の不注意で、まるで警戒心も持たずに、「教会」 という用語を使って話してしまいました。
虎の尾 (まあ、猫のしっぽぐらい ?) を踏んでしまつたことを、申し訳なかったと思っています。
もう一度、私の問いかけ (>>287) に話を戻したいと思います。
皆さんが議論の中で 「聖伝」 に言及されるとき、具体的にどのような内容 (教えや主張) を念頭に、この用語を使っていらっしゃるのでしょうか。
そしてそのような正伝の内容のようなものを、皆さんはどこから知る (出典、論拠など) のでしょうか。
私は 「聖伝」 について啓蒙 (宣伝あるいは教化) しようなどと思っているのではありません。
そうではなくて、「皆さん、意味が分かってこの用語を使っていらっしゃるのだろうか」 と、疑問を感じているだけです。
私の 「聖伝」 理解については、すでに >>290 に書きましたので、どうぞ異見・反論なども含めて、さらにご意見をお聞かせいただければ幸いです。 サロメ、何必死になってんだ?wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
>>301
>その人の心にキリストの霊が宿っていない人はクリスチャンではありません。
あなたは最初のうちキリストの「神性」でさえ信じるに及ばない。
キリストみずから求道者にはそれをはっきり許している。
>教義の学習や研究が回心(キリストの救い)にはほとんど関係ない
聖書の各篇をのこらず知ることは、疑いもなくよいことである。
ヒルティの「眠られぬ夜のために 第一部」より >>308
【「聖伝」 等も念頭におかれたと思われる記述として】
しかし、ためすならば、最もあやまりのない、最も単純なキリスト教でなくてはならない。
そのようなキリスト教のみが、その約束しているすべてに対して責任を負うものである。
それは、福音書に記されたキリストの言葉であって、それ以外のものでない。
他のものはすべて添え物である。
たしかにそれも非常にすぐれた有益なものではあろうが、
それでもなお添え物であって、キリストの言葉と同じ価値を要求することができない。
ヒルティの「眠られぬ夜のために 第一部」より >>308 老クリスチャンさん。こんばんは。
聖伝は昔から教会で引き継がれている
有形(成文など)無形(音楽や仕草など)の
信仰生活の言い伝え、仕草の仕方などの伝承です。
聖伝については
洗礼を受けた後のカトリック信徒でないと
分らない物もあると思います。
たとえば大斎とか小斎のような
肉や乳製品を避ける食事の制限
一種の断食のようなものです。
またミサの時の唱え方の調子とか雰囲気は
参加しないと解かりませんよね。それが聖伝です。
具体的には
おミサで主の祈りを例にリンクを載せておきます。
ダウンロード&関連動画>>
@YouTube
司教様や司祭(神父)様のコノ導入の唱え方と
応答する信徒のコノ唱え方の、調子や雰囲気の事です。
これが伝承されていっているわけです。 2ちゃんねるを見て判ったのと
実際にミサに参加して判ったのでは違うと思います。
由緒が違うのです。
キリスト教学校に行って知っている。という過去歴は変えられません。
ミサに参加して知っている。という過去歴も変えられません。
何より信者同士の関係
あるいは教会に手引きしてくれた知人のツテ交友関係も
偽ってもバレます。
だから代父母のあるカトリックは信徒の繋がりは強固と思われます。
>>301
聖書を読むことがキリスト教を知り、キリスト教の価値を学ぶには最良の方法
ただ読むことでは理解できないなら学習や研究は必要
>教義の学習や研究が回心(キリストの救い)にはほとんど関係ない
あなたがいつか本気で聖書を読んでみようという気になったら
━━実際キリスト教というものを知り、その価値を学ぶには、
それが最良の方法であり、いつまでもそうであろう━━、
ヒルティの「眠られぬ夜のために 第一部」より 日本キリスト教団(プロテスタント)だって
導き親やツテは必要だし
ソノ重要性は
聖書勉強祈祷会に出席し
礼拝参加していれば判るハズです。
顔を知ってもらう場ですから。
私を教会礼拝で
あるいは勉強会で知っている人で信徒さんは
導き親です。
導き親を知る信徒の友人や
礼拝参列時に顔を知る古参信者や
牧師先生は
信仰上の親です。
この導き手との人間関係が
礼拝時に教会の聖徒の交わりとして
わかるのです。
ろんさん。 ご意見ありがとうございます。
これからもよろしく。
一つお伺いしたいのですが、ろんさんはカトリック教会のことに詳しいようですが、カトリック信者なのですか ?
私がカトリック教会のミサにしばらく出席させていただいたりして、興味を持ち始めたのは、1950年代の後半からで、その頃家庭教師をしていた家の子が、たまたまカトリックの洗礼志願者でした。
それで、当時の公教要理も、少し読ませてもらった覚えがあります。
しかし、実際にカトリックについて本格的に学び始めたのは、1980年代になってからでした。
このため、私のカトリックについての知識は、第二バチカン公会議以降のものなのです。
書物でよく言及されるトリエント公会議時代のカトリックの教えについては、事実上なにも勉強していません。
来週になりましたら、また話し合いましょう。
ろんさんの、手応えのあるレスを出発点にすれば、実りある対話が出来そうな感じがします。
スレのみなさんへ。
リンクのクレドや賛美歌や聖書朗読や主の祈りは
強制ではありません。
日本語のミサの主の祈りも
家庭礼拝も
ラテン語のクレド(われは信ず、ニケヤ・コンスタンチノープル信条)や
ラテン語のパテルノステル(天におられるわたしたちの父よ、主の祈り)も
信仰のヒナ型としてやって頂けると幸いです。
これがキリスト教の礼拝の全てでは有りませんから。
いわゆるキリスト教信徒になるには
自分を教会に導いてくれた現信徒と聖職者に従い所属教会を決め
最低でも洗礼と聖餐に預からないと成りませんから。
>>319
おこがましいのを十二分に承知したうえであえていうなら
パウロはイエスキリストの教えを迫害していたにもかかわらず
イエスキリストと出会った
洗礼と聖餐もなしに >>320 320さん。こんばんは。
サン・パウロは
洗礼も(ロマ6:4)聖餐も(1コリ11:23)説いてますよ。
ローマ6:4 わたしたちは洗礼によって
キリストと共に葬られ、その死に
あずかるものとなりました。それは、
キリストが御父の栄光によって
死者の中から復活させられたように、
わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
Tコリント11:23 私達があなた方に伝えた事は、
私自身、主から受けたものです。
即ち主イエスは引き渡される夜、パンを取り、
24 感謝の祈りを捧げてそれを裂き、
『これは、あなた方の為の私の体である。
私の記念としてこのように行いなさい』と言われました。
25 また食事の後で杯も同じようにして、
『この杯は、私の血によって立てられる新しい契約である。
飲む度に、私の記念としてこのように行いなさい。』
と言われました。
26 だから、あなた方は、このパンを食べこの杯を飲むごとに、
主が来られる時まで、主の死を告げ知らせるのです。
ヘブライ6:2
きよめの洗い(バプテスマ・洗礼)についての教え、
手を置く儀式(按手礼)、
死者の復活(新しい命)、
とこしえのさばき(最後の審判) など
基礎的なことを 再び
やり直したりしないように
しましょう。 >>303
ロマ書8−9を真に理解することは至難の業です。知的でなく霊的レベルでの理解が
必要です。そこのところをヒルテイは「聖書は読むものでなく食らうべきものである」
と言っています。「神の臨在の体験は人生最大の目的とすべきもので、それが達成で
きないならば、生きてきた価値がないと言えるほどである」とも言っています。
以前にもお話ししたように私はその体験の確信に至るまで50年近くかかりました。途中
逃避した時期がなければもっと早期に達成したと思います。
>>310>>314
ヒルテイは聖書を必死で研究したことでしょう。私も生涯、聖書を座右の書とするでしょう。
問題は聖書の言葉にとらわれ、不毛の神学論争や形式主義に走ってしまうことです。
究極的に回心は言葉を超えたものだと言うことです。>>226もう一度読んでみてください。 >>322
ろんさん。こんばんは。
教会が洗礼と聖餐を説くのもあり
しかし目からうろこにせよガラテヤ信徒への手紙にせよ
パウロが洗礼と聖餐もなしにイエスキリストに出会ったのも事実
教会は否定しないが必須のものでもないのでは >>323
このスレでの不毛の神学論争や形式主義について思案開始 >>303さんこんばんわ
ロマ書8−9は非常に深みのある言葉で真の理解に至るまでには疾風怒濤の苦悩の時期を経な
ければならないとヒルテイは繰り返しています。ヒルテイは「神の臨在はキリスト者の最大の
目的とすべきもので、これを体得できなければ生きてきた価値がない」と言っているほどです。
あなたがあなたの人生体験の中で身につけて行くしかありません。私は出来が悪くてその核心
に至るまで50年近くかかりました。途中、逃避しなければもっと早く達成できたと思うので
すが。頑張って下さい。
>>310>>314さん
ヒルテイは必至で聖書を研究したことでしょう。私は生涯、聖書を座右の書とするでしょう。問題は
聖書の言葉にとらわれて神学至上主義、不毛の神学論争、形式主義等に陥ってしまうことです。
回心は言葉を超越した世界です。>>132>>226でそのことは触れているつもりですが。 どうでもよいがパウロの書簡を吟味して読むことです。
325さん。こんばんは。
イエスに出会ったのは洗礼や聖餐の前と思います。
出会った後、回心した後に洗礼や聖餐の話を
ローマやコリントに書いたのはナゼでしょうか。
ヘブライにも説かれているし、やはり
キリスト教の儀式として必須だからと思えるのですが。
儀式は型として、また象徴としての保存が必要なだけ。意味としては中身はない。
その型や儀式を見て意味から入れるかどうかは貴方次第なのです。
もしくはパウロのいう天からの光と声というのが
聖霊(と火)による洗礼か
こういうのがヒルテイにならいてさんの言われる
聖書の語句の形式主義に陥っているということかもしれないが
さらに思案
>>330 ヒルテイにならいてサン。こんばんは。
何か少し違う印象を感じました。
信者さんだったなら申し訳ありません。
私はキリスト教会での洗礼を受けていませんが
主日礼拝・リトゥルギア・ミサに参加していました。
どの教会でも聖なる雰囲気を感じました。
ただキリスト教のバプテスマを受ける程に
救いの確信は得られていません。
また回心と救いの確信は違うように思えます。
ミサの回心は懺悔です。
罪が赦される様に聖人や信徒の皆さんに
神に祈って下さいと頼んでますから。 ミサでは、こうなっています。
《回心》
(+皆さん私たちの罪を思い、感謝の祭儀を祝う前に心を改めましょう)
全能の神と
兄弟の皆さんに告白します。
わたしは思い ことば 行い 怠りによって
たびたび罪を犯しました。
聖母マリア すべての天使と聖人 そして兄弟のみなさん
罪深いわたしのために
神に祈ってください。
罪を悔い改め、善行を積むのはキリスト教でも同じです。
プロテスタントの改革派だってよきわざを説いてます。
隣保館とかセツルメント運動もです。
ハレルヤおばさんのように慈善活動もあります。
バザーや炊き出しもあります。
仏教の天界に転生する話について
私は仏教の天界への輪廻転生が科学的でない以上
仏教で解脱する事で
自分を救うのは無理という結論は出ています。
人類出現1万年として
天界にいるのが12億年とすると
前世で善行を積んで天に生まれる人は
まだ輪廻転生していないのです。
まだ輪廻してないのに
12億年先の事がわかるんですか。と仏教徒に言いたい。
神通力って凄いんですね。って嫌味になるでしょ。
あるいは
人類の出現前に
善行を積む輪廻転生体が存在しているなんて
ブッダは
恐竜や魚類から善行を積んで天界に転生するのか?と
質問したい。ブッダが科学的に正しいと言えますかぁ。
キリスト教の教勢について(15年前ですが)
平成13年頃のキリスト教各派の信徒数
カトリック__約44万人
日本基督教団_約13万人
聖公会_____約6万人
正教______約1万5千人
当時の日本の総人口1億3千万人
(1%は130万人、上記の4派の合計64万5千人)
別件: アイヌの人口について
北海道の日本人、約550万人
北海道のアイヌ、約1万2千人
(アイヌ語で日常会話の人口ほぼ80歳以上の老人のみ)
ろんさんへ
回心については教会や宗派によってとらえ方が違うのかもしれません。私も洗礼は受けて
ないし信者ではありません。仏教特に禅も学んできました。
ヒルテイの言う回心は絶体絶命の境遇の中で自己を放擲、心身脱落して解脱に至るとい
う仏教の禅に似ていると思います。曹洞宗のある老師の言葉、
「如何なる人にも潜在的に秘蔵している宝玉の如き心があり、修行によってそれを掘り
出すことが悟りである。」この「宝玉の如き心」を「聖霊」と置き換えれば納得いきます。
懺悔と回心とのかかわりでは次のヒルテイの言葉が適切かと思いますがどうでしょうか?
「懺悔の本質は、一方では遥かに困難でかつ稀である回心の完全な決意であり、他方
では回心のために自力以外の力が必要だとの確信である。」(「幸福論第二部」)
ヨーロッパのカトリック教会の中に禅の道場で参禅修行している神父がいることを
最近ネットで知りました。
その柔軟性は共感できますね。
ヒルテイにならいてさん。おはようございます。
これは個人的に思った事ですが
信徒(子)や神父(パーデレ、おとうさん)が
ミサや斎などキリスト教の宗教行事を行うこと
(弟子や使徒の頃からの聖餐や応答詩篇や賛歌を歌う
礼拝(ミサ)の雰囲気を継承し
信仰を同じくする兄弟たちが
同じ時期に同じ食事制限の苦しみを共有する行いをし
神の国はあなた方のただ中にある教会にとどまる)などを
放棄しなければ問題ないと思います。
主イエスを観念しクリスチャンの心をつくり
ブッダを観念しブッダの心をつくるのでなければ
個人的に観念の手法の学習として
中国の禅をしようと
印度の瞑想をしようと
日本の真言密教の三昧(サーマディ)しようと
一向に構わないと思ってます。
でも判断基準
(父なる神の裁きによる善悪判断や聖書の説く因果応報)や
価値観(信仰にもとづく善き行いか)が
ユダヤ・キリスト教の説くところ
(旧約聖書や新約聖書の説くところ)と違ったら
イエスの十字架による罪の赦し(神の罰からの救い・福音・良い知らせ)に
つまずいたとしか思えません。
ようは転向した(ころんだ)のではないかと。
キリスト教の重要な教えですが
「福音」つまりギリシア語で言うエヴァンゲリオンとは
エウ+アンゲリエ(良い+知らせ)から来ています。
神の罰からの救いが良い知らせです。
まこと君
自己満足のネット検索だけで
救われたか?
>>346
まこと君
自己満足のネット検索だけで
救われたか? >>346
まこと君
自分を救いたければ死ぬ気で働け アーメンさんはマリヤの宮詣の祭日の時期です。
11月も半ば聖母マリア様の幼少の
エルサレム詣出(もうで)の季節です。
父ヨアキム・母アンナに連れられて。
ユダ族の出身でダビデ王の家系に属する。
聖人崇敬を行う全ての教派で聖人とされる。
神社さんは七五三の季節でもあります。
まことって名前じゃないけど。生きる為に働くよ。
今日は保育園清掃。
こども達向けの七五三に関係する窓のシルエットや壁新聞記事があるかなぁ。
仕事の励みになります。
保育士サン達は子供達から元気を貰って働いています。
日曜は神様に労働の実りのパンとブドウ酒をささげるミサの日でもあります。
感謝の典礼「奉納」
1 奉納の歌と奉納行列:感謝の典礼のためのパンとぶどう酒を祭壇へ奉納します。
《奉納の歌》
神よ あなたは万物の造り主
ここに供えるパンは あなたから戴いた物 大地の恵み 労働の実り
私達の命の糧となるものです
神よ あなたは万物の造り主
神よ あなたは万物の造り主
ここに供えるブドウ酒は あなたから戴いた物 大地の恵み 労働の実り
私達の命の糧となるものです
神よ あなたは万物の造り主
皆さん この捧げ物を
全能の神である父が 受け入れて下さる様に 祈りましょう
・・・私達の主イエス・キリストによって アーメン。
ろんさんは、このスレッドで何がしたいのだ?
ヒルティを説かれる方の信仰をイエズス様はよしとされると
俺には思える。無教会の方々の心を踏みにじっているように思うがね。
老クリもあなたもうす汚いものが投稿の動機ではないか。
タップダンスの足を動きを自慢したいのか。
兄弟的勧告をしておきます。
保育園の園長先生は系列の複数ある福祉施設の理事長に次ぐナンバー2でして
この先生が障害者施設の部長の頃に利用者(障害を持つ労働者)へのお話では
誠(まこと)とは言葉が成ることだ。
言ったことが成るように諸君は頑張って欲しいと話されました。
そして「誠の旗」が施設にそっとしまわれています。
まことくん。と園長先生を呼び捨てにするのは失礼ではありませんか。
教会に行かない
もしくは行かなくなったが
イエスキリストを信じる人の集うスレです
この全文通り
家庭礼拝を提供しました。これはプロテスタントの礼拝形式です。
この讃美歌をネットを通して共に歌い
この聖書箇所を共に朗読し
この主の祈りを共に唱え
この頌栄の讃美歌をささげ
一日の夕方に神へその日の栄光を帰し
死後に父なる神のもとで平和に暮らす事を夢見るものです。
ただプロテスタントのもとになった
信条と主の祈りを用いて
カトリックの霊性をラテン語の文言や聖歌のメロディやミサの調子で
プロテスタントに古代教会の心を引き継ぐ努力をしているものです。
その一手立てが無教会的なインターネット家庭礼拝です。
カトッリクや正教が、使徒継承のキリスト教なんですがね。
カトリックからプロテスタントは創れる。
プロテスタントからカトリックは創れない。
ブドウ酒から酢は創れる。
酢からブドウ酒は創れない。
それだけ。
酒と女で人生しくじったから。
地道に福祉施設で働いてます。
地道にネット礼拝もしてます。
ペトロが初代ローマ法王ということはあるのかな
パウロがローマの信徒への手紙を書いたということは
ローマの教会は別の人がトップだったんじゃないの
カトリックは12使徒による使徒継承していないのでは
正教会は12使徒のうち誰が初代だったのだろう
誰が、とか言う前にイエスをはじめ、全員架空の人物だwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
>>362
そうなの
イエスが語ったとされることが福音書どうしでも違いがあったり
パウロが相手に応じて言うことを変えていそうなのはわかるが
実在じゃないの 無教会てのは全然おかしくない
イエスはそんなのより兄弟の絆を大切にしたから
教会で無いいけないとか拘るならそれはむしろユダヤ教の律法だ
>>363
おとぎ話だよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww >>362自体が、架空の人物だwwwwwwwwwww
>>365自体が、おとぎ話だよwwwwwwwwwwww へーwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
ほーwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
wwwwwwwwwwwww
ユダヤ総督府ポンティオ・ピラトゥスの裁判の記録に御名が載っていていて、さしたる罪でもないのに十字架による死刑にされたと記録されています。
それは福音書の記録とあらゆるすべての点で完全に合致するので、完全な第三者による記録として実在の科学的な証拠となっています。
またキリスト教の十字架、ヨハネ3:14の青銅の蛇の記述は、それより数千年も前のエリドゥの数々の多岐にわたる膨大な記録と合致します。
じつに驚くべきことに、人類の創造や大洪水の伝説と一連の非常に密接な流れがあります。
紀元後数十年間のユダヤ王国の滅亡やユダヤ難民のローマへの流入とからめて、ニケヤまでの変化の中で、完全な架空の話と言うほうが不自然です。
不死という事柄は、もともとエリドゥから来ています。ありえないことなんですよ。
インターネットで実在を否定するむきもありますが、初めに否定ありきであり、客観的な観察ではありません。
文書が実在すればなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
無教会主義と言ってもいろんなスタイルがあるでしょう。>>51でも書きましたが再度、私のスタイルを紹介
しておきます。もちろん、基本的に聖書に従ったものです。参考になればと思います。
私のキリスト教信仰は自室で一人静かに聖書を読み、一人静かに祈ることですね。
→「祈る時には、一人部屋に閉じこもり、父なる神に祈りなさい」(マタイ6−6)
このような信仰でも聖霊様(キリストの霊)は私たちの心に宿って下さいます。
→「その人の心にキリストの霊が宿ってない人はクリスチャンではありません」(ロマ8−9)
疑問や悩みがある時は、ひたすら祈っていると必ず聖霊様が助けて下さいます。
→「求めよ、さらば与えられん」(マタイ7−7)
祈りは毎日、朝と就寝前。時間はまちまちで一回1〜10分位。
要するに無教会主義とは自分の外に教会は必要でなく各自の心の中に作るべきと言うことですね。
あと、ヒルテイの教えに従って自分の仕事と日常の生活態度はきちんと取り組むようにしています。
→「実に、神の国はあなた方の中にあるのだ」(ルカ17−21)
そして、私の座右には常に聖書とヒルテイの著書が並んでいます。 祈り方のような幼稚な問題よりも、社会における役割はこう、という指示があるだろう
マタイ19:21
「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。
そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
まずこれを実行して、それから他人を評価しろwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
>>372
私のことですか?私は他人を評価などしてないよ。他人を裁いてはならないという
聖書の言葉を君は知らないのか?私は>>51以来、一貫して聖書とヒルテイの教えに
従って話しているに過ぎない。
それを否定するなら君はどういう信仰を良しとするのか?話して見なさい。 >>373
お前のことじゃないから安心しろwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
だってお前は財産売り払って施したんだろ?wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww >>370 だから文書の実物を年代測定などした上での判断なんだ。 ポンテオ・ピラトゥスのユダヤ総督府在任中の本人の記録書だ。
こんなことはクリスチャンならだれでも知っていることだ。
書類の名称等、専門的なことは専門家ではないから知らないよ。
去れ悪魔
裁判記録なら、正確な年月日が記録されているはずだ。
それはいつだったのか悪魔に教えてくれよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
久しぶりに教会に行きたいです、やはり信仰の友がほしいですよね
でも仕事で疲れて週末は自宅で寝て休んで、
掃除洗濯その他いろいろして時間だけが過ぎていくのです。
死後の世界にいるんじゃないか?楽しみだなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
ここって律法主義者と喧嘩するスレ?
後、教会はお友達づくりの場所じゃないからね。
友達ほしかったら普通にサークル活動してください。
>>377
何をつまらない文書のことで頭を抱え込んでるんですか。
律法主義的考えだから教会から爪弾きにされるんです。
あなたが聖書やら信仰やらを信じるなら、ここでブツブツブツブツ
絵空事をつぶやくよりも大事な使命があるはずでしょう。
大事なことから逃げて自分自身の内に閉じこもることが信仰ではない。 なんだおまえはそんな事も知らないでキリスト教をディスってたのか。
ただの低能、しかもひねくれたたちの悪いゴミクズだ。
今時気の利いた幼稚園児でもわかってることだ。
それでは幼稚園児以下だから、ディスるならもう少し足らない頭使ってやれや。
下っ端の池沼糖質悪魔には興味ないわ、バカらしい。
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
>>383
あなたはその言葉はその悪魔に言ってるのですか?
あなたのその言葉は神にむかって言ってるんですよ
何故ならその人はあなたに何かしらを気づかせようとさせていることに気が付かないのですか?
何故そのように神を罵るのです。 なんだ、わからないのか? そりゃあ残念だなあwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
>>384
聖書に出てくる悪魔と神は同一だからなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww >>386
もう聖書のどこそこにこう書いてあるとか、それが科学的根拠がどうだとか
そんなことを言うのはまったく愚かとしか言いようがありません。
正しい信仰なんてものそれ自体が存在しないのに愚かにも正しい信仰の在り方を
議論する。コリント人への手紙にもあるでしょう。
なぜあなたがたはつまらないことで争うんです。
聖書のあれこれを1000回議論するより1回の礼拝のがはるかに重要だと何故
わからないのか。 >>387
まあ宗教ちゅうのはそういうもんだからな。その意見は正しいと思うぞwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 聖書に出てくる神と悪魔って何だ ?
どうせオカルトアニメごちゃまぜ連合だろ ?
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
>>389
似たようなもんだわなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww なんだ神と悪魔の区別もようでけないで、聖書ディスってたんだ。
それでは人間以下だわ。
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
>>391そういうなら、
裁判記録に死刑執行日の正確な年月日が記録されているはずだからそれはいつだったのか教えてくれよ
クリスチャンなら誰でも知ってるそうじゃないかwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww >>393
神と悪魔か?聖書のどの箇所に出てくるか教えてくれってか?wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww おまえの主治医のとこへ行って聞いて来いや
アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ
スキルがないならチョロチョロ出てくるなバカwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
ルカによる福音書ルカ20:38
さて、復活があることを否定するサドカイ派の
人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。「先生、モーセはわたしたちのために書い
ています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、
兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎
えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七
人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活
の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」イエ
スは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中か
ら復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、
もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だから
である。死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサク
の神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神
なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」そこで、律法学者の中には、
「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはし
なかった
君たちの問答もサドカイ派の問答そのものだ。
「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神
なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」
問答がきらいなら2ちゃんねるに来るな、ちゅう話しだわなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
>>399
あなたはご自身がまともな人間なのとでも思っておられるのか? >>369 が
>ユダヤ総督府ポンティオ・ピラトゥスの裁判の記録に御名が載っていていて、さしたる罪でもないのに十字架による死刑にされたと記録されています。
と言うから、その執行日の記録はいつだったのか聞いただけなんだけどなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 無教会の人が集まるって書いてあったからはじめて来たがここはまったく地獄そのものだ。
なまじ聖書をかじった人間が罵りあってるのは本当に愚かとしか言いようがない。
>>403
そういわずにお前が答えろや。
そういうお前も地獄だの愚だの言って人を小馬鹿にしてるだけだと思うぞwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww >>404
答えよう、聖書にはそう書いてあるが裁判記録は残ってない。
さしたる罪でもないとあるが本当にさしたる罪がなかったか疑わしい。
イエスはすでに政治的影響力を持ち始めていた。
そもそも聖書自体が後世に脚色されたものだ。
書いてあることはすべて本当でもない!
だがそれも含めてが信仰だ!神を疑い神に背くことすら信仰だと
私は信じている。 >>406
すると >>369 は嘘だということか。
キリスト教徒は嘘つきだな。聖書が嘘だから無理もない、ということかwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww >>407
そうだ、キリスト教徒は嘘つきだ。
だが嘘つきでない人間がどこにいるのか?
だからこそ神が必要なのだ。
たとえその聖書がねつ造されたものであったとしても
それは神それすら神の意志によって行われたことだ。
神は我々を羊としても神は私たちを聖書の奴隷にすることは望んでない。
それはイエスの考え方にも共有する部分があると思う。 >>408
聖書は嘘だが神は存在する、と言いたそうだが、そんなことは成立するまいwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 真実は外にあるのですか?
どこを探せばいいのかな。
真実なんてどこにいくつあるなんてもんじゃないのさwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
>>409
はっきり言っておく私は聖書のすべてを否定してるわけではない聖書には断片的であれ重要なことが書かれているのだ。
それを礼拝で読み、知ることは決して無駄な行為ではない。
聖書と神は切り離せない、だが神は聖書を切り離せるのだ、何故なら聖書も神の創造の産物に過ぎないのだから それなら、例えば聖書のどの箇所が嘘で、どの箇所が嘘でないのか。
それぞれ一箇所づつ上げなさいwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
キリスト教徒は嘘つきかは知らないが、
信じないと地獄に落とされる。
わざわざ永遠の火が用意されています。
イエスを信じられないものは悪魔から出たものだから。
信じていなくても、自分は信じてると自分を騙し続けないといけない。
この苦しみに最後まで耐えられたものが救われる。
>>410
もう真実を求めようなどと愚かなことはやめなさい。
真実はあなたの生きてる目に見えてる世界、それが真実です。
それ以上もそれ以下もありません。
むしろ真実があなたに何を求めてるのか?のことのほうが重要
真実があなたに望むものはなんなのか?考えてみてください。 >>413
あなたは私に手にさらった砂粒の一つ一つを分けなさいと言う。
嘘か嘘でないかは自分の目で見て判断すればいい。
私は預言者ではないし神からどこが嘘でどこが本当などと教えられたことはない。 >>416
自分に都合の良い箇所は本当のこと、都合の悪い箇所は嘘だと思っているだけのことだwwwwwwwwwwwwwwww >>414
何を愚かなことを言ってるんですか最後の審判のことで頭など悩ませる必要はありません。
そんなものは存在するかしないかすら疑わしいのですから
大事なのはあなたがその審判を前に何を信じ何を生きがいにして生き誰に必要とされるか
そういった俗世的なことのほうがはるかに重要なことです。
わたしたちは死んだ神のために使えてるのではない生きてる神に仕えているのです。 そして、そういう聖書の読み方をしているのはお前だけじゃない。キリスト教徒は全てそうしている。
自慢たらしく自分の発明のように吹聴して回るのは恥ずかしいからやめたほうがいいぞwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
>>417
それが本当かどうか私が間違ってるかどうか、それは死後に証明されることです。
それより感謝祭なんですから
みなさん、美味しいものを食べて酒でも飲んで祝いましょう! >>420
まあ、少なくとも言えることは、お前も「サロメ型」の一つに過ぎんということだwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww >>422
私は血液型はO型ですよ。
神に感謝を! やっぱりかwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
>>403
せっかく本スレに来たのに失望されたこと残念なことです。どうやら、悪霊が跳梁跋扈しているようです。
こういうことは予想されたことです。彼らには何を言ってもダメです。まともな議論ができないようにし
ているのです。
>>373までは無教会派のことがまじめに語られていたと思うので、私のレスを中心にせめてそちらを読ん
で下さい。 悪霊ってサロメのことか?wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
こういうのは神学的にはだめなのだろうけど
高校の教科書に出てくる人や事実は一応実在したと考えてもいいんじゃないの
例えばイエスペテロパウロの死亡年(頃)の記載やネロによるキリスト教の迫害は書かれている
あと>>369の
>ユダヤ総督府ポンティオ・ピラトゥスの裁判の記録に御名が載って
というのが>>406は
>答えよう、聖書にはそう書いてある
とあるけど新約聖書のどこにあるのかわからないのだけど また他人のフリしてwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
>>425
魑魅魍魎が跋扈している事実を受け止めて、何故こうなったのかは
主によらず、単なる反撃的レスに熱くなりすぎて、中途半端な内容を
書き込んでしまったことに足をすくわれたってことです。
このスレを愛する住人は、※霊的な戦いをするんであって
低級霊に憑依干渉された汚れた者や、クリスチャン風ホームで、変曲に育った
さみしがり屋ボケに相手することが、御心かどうか考えましょう。 >>431
きにいらねえ奴は神たまにお願いして呪い殺してもらえばいいんじゃね?wwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 真のクリスチャンであれば、聖書を字義的に解釈するんであって
勝手な思い込みや解釈をしないのは勿論、一次史料の写しもしくは
二次史料なくして、裁判記録云々を反論材料として投稿すべきでは
ないと思います。
チンピラ的な悪霊憑依者に相手をすることなく、主を仰ぎましょう。
ID:IdunT+ap ← こいつが今日のクソチョン、オナニー大王ね
ヌルプム大王とか永生教大王とか聖霊大王などとも名乗っているw
スルー推奨
真のクリスチャンなら神たまにお願いしなくても気に入らないやつは呪い殺せるもんだぞwwwwwwwwwwwwwww
>>433
> 真のクリスチャンであれば、聖書を字義的に解釈するんであって
そのとおり。
だから、目をえぐり出せ、手を切り落とせと書いてあれば、
実際に目をえぐり出したり、手を切り落とすことだ。
必要なものは、天の父は与えてくださるのだから、
働いて生活費も稼いではいけないはずだ。
しかし、パウロは働いていていた。
イエスのみことばは実現不可能だと言っているのと同じで、冒涜である。 これもなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
マタイ19:21
「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。
そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
>>435
イエスも気に入らないいちじくの木を呪って枯らしました。 オマイらも早くイエスたまのように気に入らない人間を呪い殺せるようになれるように修行しろよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
聖書に書いてあるとか聖書に書いてないとか俺から言わせればくだらないんですよ。
そもそも何故、新約があるのですか?
旧約の間違いや律法主義を正すために新約そしてイエスが生まれたのです。
憲法解釈だって時代が経てば変わります。
あなたがたが間違えてることは聖書云々以前に人間としての人道や愛また情などの
自然な解釈を抜きに聖書だけで神にすがろうとしてることです。
聖書を読む前に神が自分に何を望んでるか考えなさい。
聖書を読む前に街に出て人と交流しなさい、クリスチャンとではなく普通の人々とです。
聖書は神ではありません、神とのやり取りのごく一部を記録した記録書に過ぎないのです。
無教会主義の人々、あなた方は教会に寄らず神を慕う気持ち、一心に神を求める気持ち
それは素晴らしいです。
ですがそれゆえに狭窄視野に陥ってはなりません。
「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。
もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
14 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。
15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、
家の中のものすべてを照らすのである。 16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。
人々が、あなたがたの立派な行いを見て、 あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」 (『マタイ伝』5:13-5:16)
旧約は律法の行いによるレビ系の祭司制
新約はアブラハムが神に約束された恵みによるメルキゼデク系の祭司制
>>317 老クリスチャンさんへ。
現在も無所属で、カトリック信者ではありません。
高校の時の学校礼拝に出席し聖書の授業で知識があるだけです。
日本基督教団の主日礼拝や正教の奉神礼やカトリックのミサに
求道者として参加しただけです。3派の勉強会にも出席してました。
第二バチカン公会議もトリエント公会議も
ネットの検索に引っかかった知識しかありません。
ミサの調子とグレゴリオ聖歌のしらべが似ているから
昔から伝承された雰囲気だな。と思っている程度です。
修道院での時課の祈りはネットでかかったHPと正教でわかったものです。 >>253 時課の祈り >>302 使徒の教会 >>288 聖務日課
じか【時課 liturgy of hours】キリスト教の典礼の一つ。
〈時禱canonical hours〉〈聖務日課divine office〉とも呼ばれてきたが,
現代では〈教会の祈り〉といわれる。
聖書によれば,旧約時代から朝晩をはじめ,
一定の時刻に一日に何回か祈る習慣があり(《詩篇》55:18など),
キリストもたびたび祈り(《マルコによる福音書》6:46など),
弟子たちも一定の時刻に祈るようになった(《使徒行伝》2:15,3:1,10:9など)。 >>447 447さん。
ネット検索でドウ解説しているかわかりませんが
よければガラテアとヘブライを読んでみて下さい。 まこと君
自己満足のネット検索だけで
救われたか?
>>403>>431
悪霊集団がこのスレに跳梁跋扈するようになった背景は容易に説明できる。「行ってはいけない教会」
スレでその正体を丸裸にされたカルト教会は信者激減という現実に直面する事態となっている。そう
いう中で無教会派の台頭は危機感を高めたのだろう。信者激減の責任を取らされた悪霊は地獄の王か
ら北朝鮮のように公開処刑されるのかもしれんなw
カルト教会=偽善教会の牧師は口を開けば「善霊、善霊」と喚くが、彼らの背後にいるのは善霊ではなく
悪霊である。今回,その悪霊が徒党を組んで押し寄せ、このスレを地獄化しているのである。よほど焦っ
ているのだろう。しかし、悪霊は一時威勢良くても最終的に善霊=神に勝利することはできない。 まこと君
自己満足のネット検索だけで
救われたか?
ヘブライ6:20
イエスは、わたしたちのために先駆者として
そこへ入って行き、永遠に
メルキゼデクと同じような大祭司となられたのです。
ヘブライ7:1 このメルキゼデクはサレムの王であり
いと高き神の祭司でしたが
王たちを滅ぼして戻って来た
アブラハムを出迎え、そして祝福しました。
2 アブラハムは メルキゼデクに
すべてのものの十分の一を分け与えました。
メルキゼデクという名の意味は、まず「義の王」
次に「サレムの王」 つまり「平和の王」です。
ヘブライ7:11
ところで もし レビの系統の祭司制度によって
人が完全な状態に達することができたとすれば
――というのは 民はその祭司制度に基づいて
律法を与えられているのですから――
いったいどうして アロンと同じような祭司ではなく
メルキゼデクと同じような
別の祭司が立てられる必要があるでしょう。
ガラテヤ2:21
わたしは 神の恵みを無にはしません。
もし 人が律法のお陰で義とされるとすれば
それこそ キリストの死は無意味になってしまいます。
ガラテヤ3:6 それは
「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」
と言われているとおりです。
7 だから 信仰によって生きる人々こそ
アブラハムの子であるとわきまえなさい。
8 聖書は 神が異邦人を
信仰によって義となさることを見越して
「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」
という福音をアブラハムに予告しました。
9 それで 信仰によって生きる人々は
信仰の人アブラハムと共に祝福されています。
ガラテヤ3:18
相続が律法に由来するものなら もはや それは
約束に由来するものではありません。しかし神は
約束によってアブラハムにその恵みをお与えになったのです。
ガラテヤ6:18
兄弟たち わたしたちの主イエス・キリストの恵みが
あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。
Tコリント11:25
また 食事の後で 杯も同じようにして
「この杯は わたしの血によって立てられる
新しい契約である。飲む度に わたしの記念として
このように行いなさい」と言われました。
Uコリント3:6
神はわたしたちに
新しい契約に仕える資格 文字ではなく
霊に仕える資格を与えてくださいました。
文字は殺しますが 霊は生かします。
Uコリント3:14
しかし 彼らの考えは鈍くなってしまいました。
今日に至るまで
古い契約が読まれる際に この覆いは除かれずに
掛かったままなのです。それは
キリストにおいて取り除かれるものだからです。
ヘブライ9:15
こういうわけで キリストは
新しい契約の仲介者なのです。それは
最初の契約の下で犯された罪の贖いとして
キリストが死んでくださったので
召された者たちが 既に約束されている
永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。
新共同訳の用語解説の契約の項では要約すると
モーセの十戒の契約(シナイ契約)と
イエスの死による契約(新しい契約)と説明してるね。
で意味は?中身は?となると具体的に書いてない。ようは
聖書本文を読んで本文から中身を探せという事になる。
十戒は新約で福音書でも使徒書簡にも書いてある。
どんな戒めがあっても、隣人を愛せよの一句に尽きる。
じゃあ十戒は新約でも守ってるじゃないかとなる。
旧約を守りながら新約も守るのかと矛盾するだろ。
>>442
それは外典であり、歴史のイエス再構成のための史料としての価値は全くない。
内容的にもかなりひどいもので、これら外典を表す者も生物としての価値は
全くなく、酷いものであるから、気にする価値はありませんよ。
ア○や馬○は相手にしないこと。 ある人が弁護士になるよう勧められたとする。で
法律を勉強するのに
専門学校に通わせず、大学の法学部にも行かせず
六法全書を渡しただけで
丸暗記すれば弁護士になれるという単純な事を言う人がいる。
でも裁判の判例を知る事や
裁判の手順を覚えておく事に
弁護する際の被告人や原告の人との対話術も無く
ただ法律書を読め暗記勉強しろで
簡単に試験に受かり弁護士になれるものかと疑問に思わないだろうか。
【聖伝とは @】
宗教改革以来、プロテスタント諸教会は、「聖書が神のキリストにおける啓示の唯一の証言であり器である」 と主張して来ました。
そしてそれは、教会に対する聖書の権威とか規範性などという語を用いて、教義学者たちによって説明されるのが常でありました。
その際の対立軸として、「カトリック教会は聖書と並んで教会の伝統に同等の権威を認めている」 ことが、攻撃対象にされて来たことは、広く知られています。
それと並んで攻撃の的とされたのは、「教会ないし教皇が、聖書および教会の伝統の権威ある解釈者である」 という、ローマカトリック教会の主張でありました。
以下に挙げるプロテスタント陣営の主張は、多分に攻撃的な (かなり悪意に満ちた) 解釈であって、ローマカトリック側の立場から見れば、曲解に近い大いに不本意な非難でありました。
1.聖書と並んで伝統を権威と認めることによって、相対的に聖書の権威を軽んじている。
2.カトリック教会 (ないし教皇) は自らを解釈者にすることによって、神の啓示を恣意的に曲げている。
【聖伝とは A】
先ず、多くの人々に誤解されている 「聖伝」 の定義から、私の説明を始めてみようと思います。
ほとんどのプロテスタント信者は、「聖伝とは、ある一定の範囲の、カトリック教会が受け継いで来た文書群のことである」 と思っています。
それは歴史的に、プロテスタント陣営からの攻撃が、カトリック側が引用するそのような諸文書の使用に対する批判であったからです。
そのようなカトリック攻撃は、古今のプロテスタント側の教義学や教理史、教会史等の書籍で豊富に読むことが出来ます。
ところが注意して観察すると、カトリック教会は過去に 「聖伝」 の出所を示すためにそれらの諸文書に言及はしても、「聖伝とはそれらの諸文書のことである」 などとは、決して主張しなかったことが分かります。
つまり、聖伝とそれら諸文書とを同一視することは、プロテスタント側の (気づかずに陥った) 誤解でありました。
【聖伝とは B】
もちろんプロテスタント陣営にもいろいろな主義 (教派) があって、決して一枚岩ではありませんが、宗教改革者ルターに代表される立場では、機械的に 「書物としての聖書 = 啓示」 とは理解されていません。
「聖書は、そこにキリストが横たわっている飼い葉桶である。」(ルター)
しかし、その啓示の器である正典としての聖書は、創世記から黙示録までという枠で限界づけられた 「閉じた書物」(申 13:1、黙 22:18-20 参照) であります。
カトリックとプロテスタントの間で、聖書正典に続編が含まれるか否かで立場が対立するのも、ある意味で聖書が確定した枠の中の 「閉じられた書物」 であるとの認識では、一致している証拠であると言ってよいでしょう。
【聖伝とは C】
それに対して 「聖伝」 は、ある特定の文書群に限定されない 「教会の伝統」 であって、トリエント公会議の定義を借りれば、「記されない神の言葉」 と表現されるものであります。
第二バチカン公会議の公文書である 「神の啓示に関する教義憲章」 は、聖伝を 「使徒たちに由来する」 と説明して、次のように述べています。
「教父たちのもろもろのことばは、この聖伝が生き生きと存在したことの証言であって、その富は信じ祈る教会の実践と生活とに広く行き渡っている。」
この 「教父」 という呼称で、プロテスタント側の人はたいてい、一世紀の終わりから二世紀初め頃に活躍した 「使徒後教父」 を、先ず連想すると思います。
教会史の教科書では、さらにそれに続く八世紀初め頃までが、教父たちの時代として書かれています。
その定義は、「正統的な信仰を保持した人々、しかも後世の教会がなおその基準的な教えをそこに求めることが出来る、そのような人々」 ということです。
【聖伝とは D】
ところがカトリック教会では、公会議に参加する司教たちも、みな 「教父」 と呼ばれるのです。
これは決して新しい考え方ではなくて、すでにニカイア公会議の時代から始まった呼称です。
恐らくプロテスタント界ではほとんど一般に知られていない、この 「教父」 という呼称の使われ方を知らないと、第二バチカン公会議の公文書における 「聖伝」 の説明を正しく理解出来ないと思います。
カトリック教会が 「聖伝」 と呼んでいるものは、教会の生きた神学活動であって、歴史の教会がめんめんとして続けて来た、そして現在も行っている 「使徒たちから伝えられたこと (キリストの福音)」 の解明の試みだからです。
しかもそれは、神学者個人個人の私的な活動ではなくて、常に 「教会の責任において試みられる」 神学活動であります。
【聖伝とは E】
以上の説明の上に立って、「神の啓示に関する教義憲章」 から私が引用する以下の文章を、各自で思索してみていただきたいと思います。
「使徒たちに由来するこの聖伝は、聖霊の助けによって教会の中で進展する。」
「(聖書と聖伝を) 正しく解釈する任務は、ただ教会の生きた教導職のみにゆだねられており、その権威はイエス・キリストの名において行使される。」
「もちろん、この教導職は神のことばの上にあるのではなく、これに奉仕するものであって、伝承されたものだけを教えるのである。」
「われわれの主イエス・キリストの栄えある再臨までは、もはやいかなる新しい公的啓示も期待すべきではない。」
【聖伝とは F】
最後に、「聖書」 と 「聖伝」 の関係について、同じく 「神の啓示に関する教義憲章」 から引用します。
「(啓示の完成者である主イエス・キリストから使徒たちに授けられ、使徒たちが伝えた) この聖伝と旧新約両聖書とは、
地上を旅する教会が、顔と顔を合わせてありのままに神を見るときまで (Iヨハ 3:2 参照)、すべてを与えてくださる神を見るための鏡のようなものなのである。」
「この聖伝によってこそ聖書正典は完全な形で教会に知られているのであり、また、聖書自体もこの聖伝においてこそより深く理解され、たえず効力あるものとされるのである。」
「それゆえ、聖伝と聖書とは互いに蜜に結びつき、通じ合っている。 というのは、神という同じ源から流れ出ている両者は、ある程度一体であって、同一の目的を目指しているからである。」
「聖伝と聖書とは、神のことばの一つの聖なる遺産を形成し、教会に託されたものである。」
【聖伝とは − 補足】
特にカトリック教会においては、ローマ教皇やローマ教皇庁、日本の司教団等が発表する公文書は、私たちがそこから教会の公式な教えを学ぶ文書であります。
決して、私たちがそれを互いに研究して、「こういう意味に解釈することにしよう」 などと討議したり議論する資料ではありません。
カトリック教会の公文書は、皆がそれをいろいろに解釈するという、解釈の自由のようなものを想定していないのです。
それは信徒だけではなくて、司祭にも等しく適用される原則です。
「○○神父さまが、こう説明されたから」、「△△神父さまが、ああ説明なさったから」 などということで、いろいろに解釈出来ると思うのは、間違っているのです。
一例として、「典礼憲章」 の中で述べられている基準を引用しておきます。
「聖なる典礼の規制は、教会の権威によってのみ行われる。 この権威は使徒座のもとにあり、かつ法の規定に従い司教のもとにある。」
「したがって、他の何人も、たとえ司祭であっても、自己の考えで典礼に何かを加えたり、削除したり、変更したりしてはならない。」
もちろん誰にとっても、(神学を含め) 学問研究の自由は、いささかも否定されているわけではません。
私自身も、ささやかながら、神学の研究を長く続けているキリスト信者の一人です。
ただ、たとえ司祭であっても、個人がカトリック教会の公式の教えの 「新解釈や珍解釈を主張する」 ようなことは、禁止されているということです。
>>443
これは新約聖書が旧約聖書を克服したものと解釈するか
旧約聖書をベースに新約聖書があると解釈するかで
このスレの無教会の人でも意見が違うだろうな
あと聖書を過小評価すると独善的な信仰になりやすいだろうね >>471
そもそも分けずに全部で聖書という信仰ですね >>459
イエスの語った言葉は
人間の手で書かれてその人の考えや印象が加味されたり削られたりしているにせよ
聖書の福音書にしかないわけで
聖書本文を読んで本文から中身を探すよりないということになる 旧約の律法で罪の自覚が生まれる
律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。
(ロマ3:20)
そしてキリストは行為だけでなく信仰の優位性も説く
人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。
それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。
(ガラテヤ2:16)
だからキリストは行為だけでなく心の在り方にまで完全を求める
それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
(マタイ5:48)
キリストは行為への罪の自覚だけでなく、心が生んだ罪への自覚も望む。それが律法の完成だ
わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。
(マタイ5:17)
それらの律法の完成は愛によって為される、と教える
愛は隣り人に害を加えることはない。だから、愛は律法を完成するものである。
(ロマ13:10)
かくして、旧約の罪の自覚はキリストへの魂、心の罪の自覚に繋がり、それは本当の悔い改めを生み、悔い改めは神の愛の側面である恩寵を生む
>>461
たとえと思うが
法律書が聖書
対話術が行い
弁護士が神と通じあうこと
ということかな >>317n 来週になりましたら >>462-469n 聖伝とは@〜F補足
老クリスチャンさん。週があけました。お話通りですね。
聖伝レスを読ませて頂きました。
一言で言うと聖伝はプロテスタントの言う
聖書以外の文書群と教皇の権威と伝統ではなく
カトリック教会の生きた司教以上の集まりで解釈した事柄で
末端の神父の珍解釈ではないという事ですね。
また次のレスなんですが、嫌味になって済みませんが
>>317n カトリック信者なのですか
>>447n カトリック信者ではありません
という事です。
聖書以外の伝統の祈りについては、
次のレスに一例を述べさせて頂きます。
>>448n じか【時課】いわゆる〈教会の祈り〉 ヒルテイにならいてさん。お久しぶりです。
>>323n 聖書は読むものでなく食らうべきものである
不毛の神学論争や形式主義
>>340-341n 懺悔と回心 参禅修行している神父
>>371n 座右には常に聖書とヒルテイの著書
>>452n まじめに語られていた
>>335-337n 自己紹介 回心と救いの確信
>>342n キリスト教の宗教行事を行うこと 判断基準 価値観
>>343n 福音 エヴァンゲリオン
結果的に平行線になり済みませんでした。
自分も信者でないのに、無理やり信者に、という気はありません。
お互いの価値観を大切にしましょうと言ったところでしょうか。 >>319n 強制ではありません 家庭礼拝 の補足です。
キリスト教を理解するのは、聖書通読だけではなくて
註解や解説書なども読まないと理解できないし
聖書辞典や用語解説で聖句を調べながら、聖句本文と
他の聖句からの引用箇所や並行記事を読み合わせないと
聖書の言わんとしている意味が理解できないと思います。
また信仰をするにも
讃美歌か典礼聖歌に祈祷書を覚えないと
礼拝もできないと思います。
それに教会の教派の
信仰問答や要理かカテキズムなども勉強しないと
教会に所属し洗礼と聖餐に預かる事も出来ないと思います。
>>322n 洗礼と聖餐 (1コリ11:23)→(1コリ11:23-26)
一番簡単なのがプロテスタントの家庭礼拝とリンク。
youtubeで賛美歌・聖歌を聞けるし
ネットで聖書本文を読み、検索HPで聖句も探せるし
長老改革派のHPでウェストミンスター信仰告白も読めます。
>>23n 家庭礼拝 >>355n 無教会の人への家庭礼拝の勧め
>>252n 聖書口語訳と検索 信仰基準ほか 家庭礼拝
>>339n キリスト教の教勢について 353さん。返答レスについて少々訂正いたします。
>>353n このスレッドで何がしたいのだ
>>355n この全文通り→この前文通り
神へその日の栄光を帰し→神へその日を感謝し 446さん。私の回答です。
>>445n 律法の行い(レビ) と 約束による恵み(メルキゼデク)
>>449-450n ガラテアとヘブライを読んで
>>456-459n ヘブライ(メルキゼデク・新しい契約の仲介者)
ガラテヤ(キリストの死・アブラハム)
コリント(新しい契約・古い契約)
モーセの十戒の契約(シナイ契約)とイエスの死による契約(新しい契約) >>475n
一服してました。レスが遅れて済みませんでした。
475さん。そういう見方も出来ますね。 >>477n ヒルテイにならいてさん。済みません。
訂正です。
× )>452n まじめに語られていた
○ >>425n まじめに語られていた ガラテヤ3:13−14 キリストは私達の為に、
呪いとなって、私達を
律法の呪いから贖い出して下さった。聖書に
「木に架けられた者は呪われる」と書いてある。それは
アブラハムの受けた祝福がイエス・キリストにあって、
異邦人に及ぶ為であり、
約束された御霊を、私達が
信仰によって受ける為である。
ヘブライ7:27 彼は、ほかの大祭司のように、まず
自分の罪のため、次に民の罪のために、日々、
いけにえをささげる必要はない。なぜなら
自分をささげて、一度だけ、それをされたからである。
ガラテヤ2:21 わたしは
神の恵みを無にはしません。もし 人が
律法のお陰で義とされるとすれば それこそ
キリストの死は無意味になってしまいます。
ヘブライ6:20 イエスは、わたしたちのために
先駆者として そこへ入って行き、永遠に
メルキゼデクと同じような大祭司となられたのです。
ヘブライ9:15 こういうわけで キリストは
新しい契約の仲介者なのです。それは
最初の契約の下で犯された罪の贖いとして
キリストが死んでくださったので召された者たちが 既に
約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。
ガラテヤ3:9 それで
信仰によって生きる人々は
信仰の人アブラハムと共に祝福されています。
律法の行いの大祭司(律法のお陰、日々いけにえ、レビ)
信仰の行いの大祭司(約束と恵み、キリストがいけにえ、契約の仲介者、メルキゼデク)
いま自分のアホさ加減に、気付いたのだが
聖書を根底から学ぶスレ板の方が
内容としては、向いているレス内容じゃないかと
投稿する自分に、自分を自問自答していた。
でも無教会の人々に
家庭礼拝や聖書黙読の楽しみを、知ってもらう場と思って
聖句の列挙や解説も良いかも、とも思った。
やはりろんさんはカトリック信徒ではなかった。
本人は気付かないだろうが老クリスチャンと同じように歪んだ実になってしまっている。
「御言葉を操ってみせるタップダンサー」でしかない。
イエズス様の教えで一番大切な教えとは何だったか?
カトリック信徒は基本に忠実だから歪みにくい。
心眼を開いて観る者には見える。
ヒルティを読まれている方にも私と同じ感覚が心にあると思う。
老クリスチャンのような見せかけだけのへりくだりかだろうか。
そんなことで薄汚いものを隠すことができるだろうか。
ユダの接吻は気持ちが悪いものです。
ヒルティを読まれている方が上の方で、同じようなことを柔らかく表現されていた。
己の心に巣食っている「うす汚いもの」。
それをじっと内省して取り除くまでは悪い実を結ぶ。
>>486
ろんさん。
いろんな人々へのレスを、こんなに一気に書くあなたのエネルギーに、感心してしまいます。
ところで、どこのスレで活動するかを、自問自答なさる気持ちは分かります。
(1) 私見としては、「聖書を根底から学ぶスレ」 ではなくて、「(聖書と !! 信仰 !!) 信者も未信者も」 が、スレの趣旨としては望ましいと思います。
(2) ただ現状としては、上記のスレは参加者が少ないので、「のれんに腕押し」 みたいで、手応え不足かも知れません。
(3) ろんさんは、2ch では珍しく、相手を言い負かそうとするのではなくて、自分なりに大切に思っている 「信仰理解」 を、多くの人たちとの話し合いのテーマにしようとしています。
私としては、ろんさんがどこのスレへ移動しても、チャンスがあれば今後さらに意見交換したいと考えています。 ろんさんは老クリスチャンの偽りの感心で気を良くするだろうか。
二心のそういう嘘はたちどころにバレて悪臭を放つものだ。
老クリスチャンは自分専用のスレッドを立ててそこに継続的に順番にコピペ
するといいよ。
そうすれば嫌がられない。聖書に興味がある人は黙って読む。
今のところ無教会の礼拝といっても
マタイでイエスが語る祈り方をするヒルテイにならいてさんと
ネットを利用して教会と同じような方法で祈るろんさんのやり方が提示されている
ろんさんのやり方でわからないのが聖餐を家庭でどのようにするかということ
あくまで定期的に教会に行けないがたまに行く人が対象で
ここでいう無教会の人を想定していないのかな
>>488
ここは無教会のスレだから現在もカトリック信徒の人が居座っていたら
そちらのほうがおかしいよね 老栗さんのサイトを読むのは私だけだよ
みんな敬老の精神がないものね
「ここは無教会のスレ」 と言う方もいらっしゃいますし、また 「無教会主義」 の立場で主張をする方もいるようですね。
このスレの出発点は、「教会に行かないもしくは行かなくなったがイエスキリストを信じる人の集うスレです 」 となっているので、必ずしも 「無教会主義」 の人だけのスレでもなさそうに感じます。
私としては、どちらの立場の方々からも、「芯のある !! 主張であれば」、読ませていただきたいと思っています。
なお、私の理解では、ろんさんは、「洗礼を受けたり、教会に行ったりはしないけれど、家庭では聖餐を守りたい」 という (無理な) 主張はしていらっしゃらないと思います。
ろんさんこんばんは、
>>453は私というよりは聖霊からの悪霊に対する一喝と言った方が適切です。
悪霊は今のところ、退散したのではないでしょうか?
しかし、連中は必ずまたやって来ますよ。今日は疲れているのでこの辺で
失礼します。老クリさんは相変わらず不毛(と言わざるを得ません)の神学
論争に精が出ますな。 >>497
【イエス】無教会の人が集うスレ【キリスト】
1.教会に行かないがイエスキリストを信じる人の集う
2.教会に行かなくなったがイエスキリストを信じる人の集う
が対象なので
1.当初から無教会
2.以前は教会に通っていたが現在は無教会
の人が対象で現在教会にたまにでも行っている人は本来は対象外なのでは
道場破り的に来られる方は2chなのでどのスレでもいるかとは思いますし
現に昨日はにぎやかだったようですが >>499
老栗さんは徘徊老人だから 説明しても無駄だよ 教会にたまにしか行けないというのは生活上あるでしょうが
教会にたまにしか行かないというのは単に行くべきものをさぼっているだけで
このスレには該当しないのではないでしょうか
>>500
そうなんですか 妄想レッスンじゃねーかwww
そんなことやめとけ。不衛生だwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
>>502
ろんさんは洗礼は?
カトリック教会で洗礼だけでも受けた方がいいよ。 >>504 504さん。
お勧め有難いのですが
いまだ時が満ちていないと思ってます。
神様が私をドウ言う使命をお授けなのも見えないのです。
それに祈りが足りない所が有りますので。 >>487n 487さん。
>悟りスレの住人
ではないんですよ。
我スレと、真言系の新宗教のレスにいました。
最近ですよ【キリスト】スレに、なだれ込んだのは。 >>488n 488さん。
>御言葉を操ってみせるタップダンサー
み言葉をいじって
素直に「イエスの死による契約」が新しい契約という
新共同訳の用語解説の旧約・新約の区分の説明を
受け入れなかった部分が自分のマイナス点でしたね。 >>496n すろさん、お久しぶりです。
>みんな敬老の精神がないものね
>>500n
>説明しても
聖伝の勉強で結構苦労していると思いますよ。 >>498n ヒルテイにならいてさん。こんばんは。
>悪霊に対する一喝と言った方が適切です。
>老クリさんは相変わらず不毛の神学論争
そうですねぇ。退散したようです。 >>491n 老クリスチャンさん。
時間が有った為に出来ました。
今日は休みだったんです。
仕事がシフト制でしたので。
本当にご支援戴き有難う御座います。
>>497n
おっしゃられる通りで家庭で聖餐は無理です。 >>493n 493さん。
>聖餐を家庭でどのようにするか
やはり牧師先生や理事長が必要になるんですよね。
メソジストの式文(牧師の冠婚葬祭の祈祷文など)を
リンクは貼っているんですけど
讃美歌や聖書箇所が示されてない所も多くて
宣教本部のない状態だと
家庭礼拝だけではサクラメントの執行は
無理になってしまうんです。 >>501n 501さん。
>単に行くべきものをさぼって
>該当しないのでは
2chだからいいと思いますけど。
>500 そうなんですか
わからないですよ。
>>499n 499さん。
>道場破り的に来られる方は2chなので
>いるかと
>にぎやかだったようです
楽しかったですよ。スレたての主には申し訳ないですが。 >>510n 老クリスチャンさん。先ほどは済みませんでした。
こんばんは。を入れてませんでした失礼しました。 私は「決して死を味わうことの無い」国を体験した者である。私は「全世界は悪しき者の配下にあることを知っている」を体験した者である。
そして、その体験から数年後「人格神」の言葉を直接聞き、教える者である。
『信仰があれば山を移す』言葉が真実となる国、しかし、『全世界は悪しき者の配下で人間』をよく知り、何年も迷っていた。ある時、『愛・良識』『人間でいたいと生まれた全ての
人間の尊重』を人格神が説かれ、私はそれが神への信仰ですか?と心で思った。神は私に聞いた『あなたは右か左か?』私は右とか左とかわからなかった、しかし、悪いことをしない
なら右だろう・・で(私は右とか左とかいう言葉を全く知らなかった)が「右」と答えた。
神は『地上のものに心を引かれない者のみ、私への信仰だ』と答え、神ひとりではなく、地上のものに心を引かれない霊の天使(神に愛される人々)を私に示した。
【人間は神によって、人間の宗教に一切毒されず、からし種一粒ほどの信仰の無い者として生まれ、自分を愛し人間でいたいと生まれた人間のみを理解できる】存在であり、
【聖霊に満ち荒野の者・山へ逃げよ のように世の富に仕えず、肉の欲・目の欲・持ち物の誇りにあくせくせず、何事も思い煩わない者】が神と永遠の国に近い。
たとえば、子供をだれかれ分けることなく尊重する、その生命を尊重する、ゲームや快楽を耽溺する子よりも、外で元気に遊ぶ子のほうが健康的だと思うように、唯一の神は、
肉の状態であっても、霊に従おう、受け入れようとする人々に、健全な益を与える。=構造=創造 を予定された。
>>489n 489さん。
プロテスタントは礼拝に参加していたのは長かったものの
少しだけ勉強会で知りえた正教のほうが多く知りえて基本に忠実でしたよ。
基本信条のフィリオクエ問題では変更前の原文キリシア語に忠実でしたし
聖体礼儀(正教のミサ)AD300年代からずっと忠実に行っています。
>>492n 492さん。
カトリック教会と改革派は礼拝の雰囲気が全く違いますが
西方教会としての一致点はあると思いますよ。
同じ使徒信条を使ってますから。
東方教会には使徒信条はありません。
>聖書に興味がある人は黙って読む。
ソウだと思います。
>>490n 490さん。
老クリさん、ヒルテイにならいてさん、とも
両者違いながらも
お年寄りとして同じように感じられますがね。 >>515n 老クリスチャンさん、まことに済みません。
どうして夕方から調子悪くなったかなぁ。
我さんスレで家庭礼拝1週間か前後リンクや前置きカキコが
トンだ大失敗だったかもイヤ大変失礼だったのかと心配。
× 老クリさん、ヒルテイにならいてさん、とも
○ 老クリスチャンさん、ヒルテイにならいてさん、とも
でした。 >>514n 思慮さん。はじめまして。
ちょっと即答出来ません、少々異質な感じを受けました。
レスの内容を翌日以降じっくり考えてみたいと思います。 神にとって、―丈夫な人には医者はいらない、いるのは病人である(マタイ)異邦人の見上げた信仰にせよ―律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、
たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである、彼らは律法の要求がその心にしるされていて(ローマ)
異邦人の女を見上げた信仰だとされたように、
【父】
地上のものに心を引かれぬ霊を信仰ありの者とし、何でもできるできない事は何もない神の栄光と共にあるようにされた。キリストの十字架は律法の成就のためで、行いによって誰
も神に義とされることはないが、『善悪を知れる者となった』の成就のためである。信仰を増すことは誰もおらず、一緒にいれば信仰があったが、人間の状態では全て公平・平等に
一切信仰の無い=からし種一粒ほどの信仰の無い者となり=神の法律、御言葉を善いことだと受け入れても、当たり前の人間とするためである。
人間の宗教は全て悪しき者の配下で、神にとって『世と世にあるものを必要とし喜びながら信仰ありの者は誰もおらず』『他の者たちと同じ愚かな人間』『人間でいたいと生まれた
全ての人間の尊重』・・隣人の愛のたとえとして、瀕死の人を助けても、最も小さい者に『いつ行ったか?』衣食住の無い人々に衣食住をといって分け与えたりしても、当たり前の
人間。私利私欲のみに生きる者は、獣のような者。
―信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった〜今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義
を示すためであった〜信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである(ローマ)
神といえば、地上のものに心を引かれぬ霊=イエス様のみ(神のわざで神への信仰を示した者はひとりもいない)が信仰ありの者でるということ。
世に打ちひしがれた人々・貧しい人々に福音を
人間は全て悪しき者の配下=【土に帰る・しばしの間たちまち現れて消え行く霧にすぎない】
弟子たちの信仰を増して下さいは無く、神の右の国で一緒にいれば信仰ありとされたことを理解、
自分の命を憎め⇒―自分自身を憎んだ者は、いまだかって、ひとりもいない〜自分妻を自分自身のように愛しなさい〜主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい(エペソ)
―「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった〜命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない(創世記)
【子】善悪を知る人間と御言葉をよいと受け入れられる人間の心 【聖霊】まだ、汚れのない幼い子のように、世と世にあるものに毒されず、聖霊に満ち荒野の者のように、
『山へ逃げよ』創めも終わりも、善悪を知る人間の知恵で造ったものは全て永遠に通じず、「よい天気ですね」大自然を喜び何事も思い煩わない者は、永遠に近い。
―天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである(マタイ)
地上のものに心を引かれ、失楽した一切の人間を、悪しき者の配下とされたからである。神のわざ、イエス・キリスト以外、神に信仰ありの者は、神様にとっていない。
■信仰のあり方
世に打ちひしがれた人々・貧しい人々が、主にあっていつも喜び、何事も思い煩わないよう、信仰により生きること『ただ衣食があればそれで足れり』という神に喜ばれる信仰のあり
方。神様は地上のものに心を引かれぬ霊の人格で実在されている。
□宗教の役割
―この幕屋の中で苦しみもだえている〜肉体を宿としている間は主から離れていることを、よく知っている〜善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねば
ならないからである(コリント)
【人間でいたいと生まれた生命と尊重】は神による良識的な人間。私利私欲は肉だけの獣。神はといえば、地上のものに心を引かれぬ霊、善悪の説教は神にはなく、皆公平にからし種一粒
ほどの信仰の無い者となって、金や物より愛や他者への配慮ある人間を宗教が教育すること。神にとってそれ以外、御利益は無いのである。神の御利益は地上のものに心を引かれぬ霊のみ。
他者への配慮もある人間は、神にとって当たり前の人間で、神様しましたと言える者は、地上のものに心を引かれない霊の言葉を全て行う者のみ。
>>498
> 悪霊は今のところ、退散したのではないでしょうか?
> しかし、連中は必ずまたやって来ますよ。
悪霊、連中のひとりに、わたしのことも言われているようですが。
わたしは、wwwwwwwwwがいっぱいのレスは、まともなことを言っていることが多いとおもいます。 >>521
私は名指しで悪霊呼ばわりしてませんよ。もう一度>>403を見て下さい。
「無教会の人が集まると書いてあったからはじめてきたが、ここは地獄そのものだ。
なまじ、聖書をかじった人間が罵り合っているのは本当に愚かとしか言いようがない。」
私も全くそう思います。地獄の形成者は悪霊。悪霊は皆、「俺は悪霊ではない、俺の言
うことはまともだ」と口を揃えますが、やっていることは悪霊そのもなのです。
悪霊の特徴として、
@キリストの霊(聖霊)や聖徒と言われる人を憎み攻撃してくる。
A人を苦しめたり悲しませて喜ぶ。
B下品、卑猥な言葉、下品な笑い声で人を侮辱する。
C自分は神だ、聖霊だなどとうそをつく。聖書の言葉を悪用する。
などです。
神は光であり、悪は闇です。闇は光を攻撃しますが、闇は光なしでは存在できません。
闇が光に勝つことは不可能です。
実は、闇=悪もどこかで救われたいと願っているのです。あなたにもそんな心が見え
隠れしてますよ。 >>528
人を憎んだり差別したりの腕を磨くための方法がキリスト教という悪習だというのが現実なのさwwwwwwwwwwwwwwwwwww んでマリアのアドニーであり象徴であるイエスはんは原罪を帳消しにはできんのやで。
ろんさんお早うございます。今朝は光=神、闇=悪についてのヒルテイの言葉を紹介したいと思います。
「『起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上に上ったから。』(イザヤ60−1)
ーあなたはただ光でありさえすればよい、そうすればきっと輝くであろう。なるほど、闇はあなたを消
すためにできるだけのことを試みるであろう。
しかし、それに妨げられることなく、光り続けさせるものが、常に闇そのものの中に含まれている。
なぜなら、闇もやはり闇と言うものを好まず、光とか闇とか呼ばれたいからである。
『私は世の光である。私に従って来るものは、闇の内を歩くことがなく、命の光を持つであろう。』
(ヨハネ8−12、9−39)」(「眠られぬ夜のために」第二部より)
まこと君
自己満足のネット検索だけで
救われたか?
自分を救えるのは「自分」
イエスはんは道という象徴やで。
天皇さまがいれば神風が吹く言ってるレベルと同じや。
>>525 >>522
わざわざレスありがとうございます。
わたしは、キリスト教の洗礼は受けていますが、悪霊と言われたとしたら、それはよかったとおもいます。
そうであれば、救いはないし、永遠の火に投げ込まれることが決まっているので、
神もイエス・キリストも信じなくてもすみます。聖書を読まなくてもいいし、お祈りもしなくてもいい。
イエスは理解不能なことも言われるし、こんなことをいう方です。
「しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。
『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』 」
何が気に入らなくて、地獄に落とされるかわかりません。
それなら、最初から地獄行きと言われていたほうがらくです。
「イエスは言われた。『神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。』」
悪魔から出たものであれば、イエスを愛さなくてもいいことになります。 君がアドニーを信じたというなら話しは違ってくるのだが。
>>531
まこと君
自己満足のネット検索だけで
救われたか? >>531
まこと君
自分を救いたければ死ぬ気で働け ヒルテイにならいてさん。おはようございます。
光と闇と聞くとイタリアやスペインなど南欧の
晴れた日の昼下がりの庭を思い浮かべます。
闇から光を創られた神に栄光があると感じます。
人の内面の闇を理解し命の光に導くのは
私のような小さき者には重荷です。
光にうつるのは神の思し召しがあればと思います。
神が私をどうお使いになるのか考えさせられます。
>>533
私は今は偉そうなことを言ってますが、実は悪霊に長年支配されていたのです。自慢じゃないが、半世紀50年近くもね。
あなたのような疑問にもずいぶん襲われました。
しかし、そういう疾風怒濤、艱難辛苦の時期があったからこそ聖霊と出会ったと言うことができます。
「闇そのものの中に光り続けさせるものがある」というヒルテイの言葉(>>528)は大きな光明と言えます。
「神の霊に出会う前のお前ほど煩わしい者はいなかった」(「キリストにならいて」)というトマス・ア・ケンピス
の言葉はあたかも私のことを言ってようです。
何年、何十年かかろうと必ず人生最大の目標である回心(キリストの霊の宿り)を達成して下さい。何十年など「生命
の永遠性」のことを考えればほんの一瞬かもしれません。 517:神も仏も名無しさん :2016/11/14(月) 18:34:17.74 ID:aip0wAlW
どっかの宗教のバカな最高指導者が北朝鮮から無経験のテコンドーの名誉段位貰って歓喜してるってよww
こんなバカなやつにはお似合いだけど
最低なバカ指導者だな
どこの宗教だよ?
518:神も仏も名無しさん :2016/11/14(月) 20:28:41.26 ID:tg7BI/Ly
>>517
フランシスコ教皇様じゃないか!w
個人的には柔道もしくは空手であって欲しかったけどね。
wwwwwwwwwwwwwwwwww >>523
そうなんですかwwwwwwwwwwwwwwwwwww
教えてくれてありがとうwwwwwwwwwwwwwwwwwww
wwwwwwwwwwwwwwwwwww >>528
訂正です
×光とか闇とか呼ばれたい
○光とか解明とか呼ばれたい >>523
朝、早いんですねwwwwwwwwwwwwwwwwwww
早寝早起きですかwwwwwwwwwwwwwwwwwww
ニートですかwwwwwwwwwwwwwwwwwww このスレの積み残し
>>365
(聖書の記述は)おとぎ話だよ
>>372
「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。
そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」
>>533
「しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。
『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』 」 確かに意味がわからんレスだなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
>>541
ヒルテイにならいてさん ありがとうございました。
しかし、私は信仰を棄てました。棄教は大罪です。
自分で、天国よりも地獄を選びました。
永遠の火に投げ込まれたくないですが、神の国にも入りたくありません。
キリスト教のいえのうまれなので、最初から、天国にいくこと、これ以外はありません。
いのちより信仰が大切。信仰を棄てることは考えられませんでした。
わたしは、もうキリスト教には戻らないと思います。
とにかく聖書はおそろしい。
キリスト教を信仰するには、精神的にも体力的にも無理だと思います。
もう精神面でも回復はないとおもいます。
とりあえず、お礼だけ申し上げます。 教会に書いてある案内にこんなのがある。
大まかにですが。
私達は伝統的なプロテスタント教会(改革派・長老教会・バプテスト)です。
世界統一神霊協会(原理)・エホバの証人(物見の塔)・モルモン教とは
違います。とある。
カトリック教会や聖公会(英国国教会)やルーテル教会は有名だけど。
改革派(英語圏ピューリタンいわゆる清教徒・フランス語圏ユグノー)や
長老教会(プレジピテリアン、スコットランドの改革派教義の教会)や
バプテスト教会(浸礼教会、聖書を論拠)は、あまり知られてないんですよねぇ。
黒舟来航以降の長崎と横浜に来たプロテスタント教会は
すべてアメリカからで
改革派・長老教会・バプテスト教会のカルヴァン系3派と
アメリカの聖公会でした。
プロテスタントがアメリカから来ているので
聖書は英語で書かれたのが原典と
勘違いしている
一般の方もいるようなんです。
旧約聖書はヘブル語、新約聖書はギリシア語なんですけどねぇ。
ウェストミンスター信仰基準(ピューリタン・改革派)の
「聖書」の項目にも書かれています。
まこと君
自己満足のネット検索だけで
救われたか?
>>551さんの洗礼を受けられた教会は
説教でかなり独自の教えをされていたのかな
かなり追い込まれておられる
とりあえず信仰は休まれてそのあと気が向いたら
神のない哲学や上座部仏教か
仏のある大乗仏教に進まれるとよいかも
その後またキリスト教に戻られるかもしれないし戻られないかもしれない
こんないい加減なことしか書けないが 名言に限りトマス・ア・ケンピスを読んでみました。
キリストにならいては読んでいません。
自分としては聖書・聖句を
註解書や用語解説を参考にしながら
理解を進めるほうがいいですね。
改革派ドイツ語圏スイス人の考え方や
ライン河下流域のカトリック教会ドイツ人の考え方など
ドイツ系の考え方を少なからず学ばせていただきました。
でもヒルテイにならいさんや
老クリスチャンさんの話も聞いて
ネット検索して関連したHPの解説を読み
これからも理解を進めたいと思います。
思慮さんの引用聖句も別の視点からの見方など
聖句理解を進めるのに参考になると思います。
老クリスチャンさんが説明に出した
第2回バチカン公会議を調べたら
公会議は中止になったと知り、中止の理由は
イタリア統一運動で教皇領を取り上げるために
統一イタリア軍である
ピエモンテ軍(サルディニア軍でもある)が
バチカンを含めたローマ占領をしたのに驚きました。
イタリア統一運動をカトリック教会が邪魔していたの
にも驚いたのです。
>>563n
ご指摘ありがとうございます。
>>562n
× 第2回バチカン公会議を調べたら
○ [第一バチカン公会議]を調べたら
と訂正いたします。 プロテスタントからカトリックや正教に転向した場合
再洗礼が必要です。つまりプロテスタントの洗礼は無効。
カトリックは正教と違いブドウ酒をいただきません。
つまり私が考えるに
聖餐のサクラメントに杯の契約に効力がありません。
カトリック教会では洗礼時は別としてミサでは
カリス(ウエハース)はいただきますがブドウ酒を飲みません。
日本キリスト教団ではクリスマス・イースター・ペンテコステで
食パンとブドウジュースをいただきます。つまりカトリックは聖餐が無効。
正教は奉神礼で聖体礼儀の時は特殊なパンとブドウ酒をいただきます。
しかし教会から破門の際アナテマ(のろい)をかけられます。
正教はアナテマを掛けられますから、
プロテスタントのいう聖書的には悪に対して悪を返さずが通りません。
正教からはプロテスタントはキリスト教でないと説明を受けました。
私は今のところ日本キリスト教団で洗礼を受けるつもりはありません。
教団信者の方々、外野が洗礼の顔見知りで揉めるを、ご心配をなさらないで下さい。
>>565n つづきです。
カトリック教会はフランス革命とイタリア統一戦争で救いの根拠が失せ
正教はロシア革命とバルカン半島の共産主義化で救いの根拠が失せ
プロテスタント聖書絶対は公民権運動ハム解放で救いの根拠が失せました。
つまり今のところ聖書の絶対性のなさ洗礼と聖餐の無効さがわかり
私はどこの教会にも行きようがないという結論なのです。
ここに福音派があらわれます。口で告白したら救われると。
じゃあ無教会的にネット礼拝・学校礼拝・家庭礼拝をして心励まそうと。
処世術の視点から見た聖書理解へと行き着いたわけです。
聖書は絶対ではありません。考古学や文献学が証明したわけです。 >>551さんへ
いまのあなたにはどんな慰めの言葉も心に響かないと思います。わたしも軽はずみなことは
言えません。ただ長年苦しんできた者同士として、あなたのことは気がかりになり続けるこ
とでしょう。今後の私の書き込みは常にあなたのことを意識してのものだと思って下さい。
そして、今の私にできることはあなたのために祈ることです。いつも祈っています。 >>478-482n 保守です。
私は信者でないから自由に解釈できるのだろうけれども。
私にとっては福音書(4つのイエス伝)が
新約聖書の全てだとは思ってません。
使徒の働き(使徒行伝・使徒言行録)や黙示録もあり
そして使徒書簡(ローマ〜ユダの手紙)の方が大切です。
信者でなくても日ごろ聖書や解説書などを読み
聖句を生活の励ましなどに用いれば良いかと。
そして神様は
人の願いを前もって知っておられるから
主の祈りをささげ
讃美歌や聖歌などで
励ましや安らぎを得られればと思っています。 神は実在されている。霊の人格として存在されている。
【人間は論じ合ってはいけない。あなたがたは、人間でいたいという目的があって生まれたのだ。愛、良識が人間である。】【私は全ての人間を尊重している。】と。
人間の宗教的思いや信仰に関係無く、まだ汚れの無い子供が人間の宗教に毒されず生まれたように、人間でいたいと生まれた者の生命と尊重自体が、神の人間に対する意図。
「それが神様への信仰ですか?」私は心の中で思った。神は【地上のものに心を一切引かれぬ者以外、私への信仰は無い。あなたも、地上のものに心を引かれず、何事も思い煩わないよ
う努めよ。】と。そして神に喜ばれる楽しみといえば、《聖霊に満ちて荒野の者・山へ逃げよ》のように、世と世にあるものから離れ、大自然を楽しむことだけ。勝手に神を信じることを、
一切喜ばれない方である。
■信仰義認と神は忍耐をもって見のがしておられたが〜神の義を示すためであった
イスラエルが神を信じた。[世に打ちひしがれた人々・貧しい人々は福音を聞かされている。わたしにつまづかない者はさいわい]
善い行いは神に義とされず、【地上のものに心を引かれない神のわざのイエスのみが神への信仰と義で、衣食があれば足り、信仰のみに生きる者が神への信仰である。】と。
神様は、神への信仰を勝手にすることをゆるさない方である。
■悪魔や獣の数字とは
神に従い、人間の宗教に毒されずまだ汚れの無い子として生まれ、人間でいたいと生まれた生命を尊重され、他人のことをも自分自身を愛すると理解し尊重できる人間。ゲームや快楽に
耽溺するより外で元気に遊ぶ子を健全。自分の宗教や利益ある者に関係なく、「よい天気ですね」「おはようございます」と挨拶する人間。
男女でも汚い所の違いだけで、霊に無い所を恥ずかしいとして隠す賢い人間は、良識ある行動なのである。情欲を抱いて女は神に忌み嫌われ、女を情欲対象物としてはいけない。神が人を
尊重されるように、人を尊重してあげねばならない。
―あなたがたのだれにも負担をかけまいと、日夜、労苦し努力し働き続けた(テサロニケ)身体を得た以上、他人(人々・世間)から取ることを平気としてはいけないのである。
―わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ〜正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは
人間の心の内に神の霊を宿し、『衣食住の無い人々に衣食住を』といって働いたり、分け与えたりするように、神は良識ある人間と予定されていた。自然災害などで多くを失っても、
国や国民が施し与えたり・・・そういったことは予定されていたのである。
身体の悩み苦しみ思い煩いを誠実に取り除いて先生と尊敬される医者。世と世にあるものから離れ、安静に病気の治療に役立つようにする患者。心の内に神の霊を宿し、無意識に天国の益
を地上にもたらすことも。
【富に仕え、肉の欲・目の欲・持ち物の誇りに熱心になる者が肉だけの者】
金や五欲の対象を享受するばかりを考える人間が獣の数字666なのだ。― 一日の苦労はその日一日だけで十分―に反し、人々の富への貪欲・肉の欲・目の欲・持ち物の誇りにあくせく仕
え、生活のことや人間でいたいと生まれた楽しみを享受しても、神は【地の奴隷・悪魔の子】として決して喜ばれない。(昔の人々と違い、今は豊かになった)と心で思うなら【ぬるい】と
決して喜ばれない方。
神にとって、自制は大事なことで、生活活動に思い煩い、或いは喜び、肉の欲・目の欲・持ち物の誇りを楽しむ人々は、【地の奴隷・悪魔の子】として決して喜ばれない。【愛】【他者への
配慮もある人間】がやっと人間だけで、
■神には人間の宗教的行いは一切通じない方
【地上のものに心を引かれない神の栄光のみを神への信仰と認め、地上のものに心を引かれず、何事も思い煩わないように努め、信仰のみに生きる者が私への信仰である】
断食と祈りは、地上のものに心を引かれず何でもできる神の栄光と何事も思い煩わないように命じる神の霊に心を一致させ、益を得るためである。神は必要なものをご存知で、人間の医者
が身体の悩み苦しみ思い煩いと取り除き先生とされるのも、貪り思い煩いから離れて病気などの治療や予防に役立つことも、良識的な人間として神が決めたこと。
人間が熱心に宗教的思いを抱いて、いくら祈っても、神には一切通じない。神様から直接告げられたことなので、人間が信仰深い様子を見せて論じても、神から遠くなる。
>>571
>■神には人間の宗教的行いは一切通じない方
>人間が熱心に宗教的思いを抱いて、いくら祈っても、神には一切通じない
祈っても讃美歌を歌っても聖餐しても宗教的行いは通じないってことですか 「ろん」という人は、禅や仏教のスレで書き込んでいた「ろん」さんと同一人物ですか?
ろんさん、皆さんお早うございます。今朝は3時にめざめました。年を取ると朝が早いんですね。
しかし、それは「眠られぬ夜のために」を読む良きひと時です。
今朝は>>196で途切れていた「永遠の生命ー復活」についてのヒルテイの信仰をご紹介したいと思
います。
艱難辛苦にも拘らずでなく艱難辛苦の中で艱難辛苦を通して人の心に宿った聖霊(真理の御霊)
は全く新しい霊的生命力として人生そのものを生き返らせます。精神的には光あふれる安心立命感を
与え、肉体的には慈愛に満ちた行動力を与えます。それは心底「救われた」と実感させるものです。
「本来この新しい生命力はこれまでの生命には属してない故、この古き生命と共に死ぬことはあり
えない。これは永世にについて与えうる唯一の説明であり、この生命を持つものはこの世の生命を
疑わないと同様に、永世を疑うことはないであろう」(「幸福論第三部」)
次はネットに載っていたある不治の病に侵された若者の言葉です。
「僕は思い心臓病のため主治医から余命あと5年と宣告を受けているものです。初めは取り乱しま
したが、今は死ぬのが楽しみです。毎日充実した生活を送っています。皆さんも与えられた人生を
全うしましょう。
余命が分かると人生観がガラリと変わります。他人の幸せが自分の幸せのように感じます。」
「死ぬのが楽しみ」などと言う言葉はめったに言えるものではありません。まさに、奇跡の言葉と
言えないでしょうか?この若者はおそらく、死の恐怖との戦いという煩悶地獄の時期を這い上がっ
て、死と言う現実をあるがままに受け入れたのちに、神の宿りを受け入れる境地(魂の平安)に達した
のではないでしょうか?
そして、それは新たな人生の始まりであり、彼は「生命の永遠性」の確信に至ったものと思われます。
それはキリストが示した「復活」につながるものでありましょう。
(続きます) >>574訂正があります
「人生を全うしましょう」→「人生を普通に全うしましょう」 キリスト教の歴史的な流れについて。
十字架にかかられた年代は
第202回のオリンピック大会の第4年目つまり
西暦31年ユダヤ暦ニサン(アビブ・正月)の月の第15日の
朝9時から午後3時の出来事。
古代ローマの歴史書(タキトゥスの年代記)には
西暦40年代にキリスト教会が存在する記述がある。
西暦40〜64年の間に新約聖書の使徒書簡(使徒の手紙)が書かれた。
古代ローマ皇帝ネロによるキリスト教への大迫害の理由となった
ローマ大火(ローマたいか)は
西暦64年7月19日。西暦2世紀(100年代)初めの歴史家
タキトゥスの年代記15:38〜44に記述あり。
西暦64〜90年の間に新約聖書の福音書と使徒言行録と黙示録が書かれた。
西暦70〜73年にユダヤ反乱があった。ユダヤ人離散となる。
西暦90年にユダヤ教のヤブネヤ会議で旧約聖書39巻が選抜される。
西暦393年のヒッポ会議と
西暦397年のカルタゴ会議で新約聖書27巻が選抜される。
ヒルテイにならいてさん。おひさしぶりです。
死について、復活については私も考えさせられます。
カトリックのミサの主の祈りや
ラテン語の聖歌の信条や主の祈りを聞くと死が怖くなくなりました。
仏教系新宗教に16年ぐらいいましたが
聖書読書やキリスト教会に出席が復活しました。
イエス様はおみたまを授けて
私にキリスト信仰を復活させられたのかと思う今日このごろです。
思慮さん。ありがとう。もう少しレスを何回か読んでみます。
>>576
70年の神殿崩壊以前に書かれた福音書はないのでは?
あるとすればかろうじてマルコだけだけども。
マルコの復活記事は後世の挿入でしょ >>577
ろんさん。
次々とあなたの話が飛んでしまうので、うまく話題に入り込めなくて、失礼しています。
「主の祈りを聞くと、死が怖くなる」 という話、私にはちょっと意味が分からないのですが、良かったらもう少し掘り下げて、お考えを説明していただけませんか。
上っ面だけをさっと眺めて、そこから一歩踏み込まないで通り過ぎるのは、もったいないと思います。
先日の 「聖伝」 についての話も、アッ、ソッ ・ ・ ・ で終わってしまったので、私は拍子抜けしました。 >>579
ご自分ではよく分かっていて、ちょっと突っ込みを入れてみたんでしょ。
問題は、>>576 のような年表は、それを参考地図に使って、どのような本論に入っていくかにあるわけです。
目次だけで本文のない書物などというものは、意味がありませんし、
本文を書くだけの能力を持たずに、目次だけ作って他人に見せびらかしても、何の役にも立ちません。 >>566
>処世術の視点から見た聖書理解へと行き着いた
これだとイエスキリストを信じない人にも処世術として利用可能ということですか
>>581
>本文を書くだけの能力を持たずに、目次だけ作って他人に見せびらかしても、何の役にも立ちません
強めの指摘ですね >>574の続き
生の終焉であったはずの死が新たなしかも高貴な生の門出となるなどとは外的な感覚では到底、
理解しがたいことです。
聖書の言葉は知性や感覚を超えて神の霊とともにあってはじめて真の理解に達すると言うこと
である。
「生命はただ死からのみ、あらゆる進歩はそれまで生きてきたものとの絶縁からはじまる。」
(ルカ14ー32)
ヒルテイは死について言葉を変えて説明してくれます。
「生命の存続の希望を持ちうる場合のみ、死はやさしくて厳粛な死者であって、疲れた旅人に
その旅路の終わったことを告げ、一歩一歩骨折って登ってきた山頂から、やがて間もなく、広々
とした新しい世界を展望しうる時が近いのを知らせてくれる。」(「幸福論第三部」より)
「死は我々が考えるより、ずっと些細な出来事であり、またその正しい意味を理解すれば、ずっ
とどうでも良い事柄だと言えよう。」(「幸福論第二部より」)
トルストイは死が近ずく時の実感について次のように語っています。
「死は私にとって恐ろしさを失い、私は死が生のエピソードの一つであり、生は死によって終
わるものではない、という認識に日毎に近ずいた。」(トルストイ「人生論」より) >>583重大な訂正があります
×死はやさしくて厳粛な死者
○死はやさしくて厳粛な使者 >>576
× 西暦40年代にキリスト教会が存在する記述がある。
× 西暦40〜64年の間に新約聖書の使徒書簡(使徒の手紙)が書かれた。
○ 西暦49年にキリスト教会が存在する記述がある。
○ 西暦49〜64年の間に新約聖書の使徒書簡(使徒の手紙)が書かれた。
西暦49年に皇帝クラウディウスが
「キリストの扇動で年中騒動を起こすユダヤ人」を首都から追放した >>579n 579さん。
> >>576
> 70年の神殿崩壊以前に書かれた福音書はないのでは?
> あるとすればかろうじてマルコだけだけども。
> マルコの復活記事は後世の挿入でしょ
そうです。マルコが一番古い福音書という学説をとってます。
そのマルコによる福音書の編集もとがQ資料ということです。 >>580n
老クリスチャンさん。こんばんは。
> >>577 「主の祈りを聞くと、死が怖く
> 先日の 「聖伝」 についての話
主の祈りは聞くものでなく祈るものなんですが
ラテン語の主の祈りの聖歌を聞いて安らいでいる。
安らいでいるので死ぬのは怖くない。という意味で
レスしたのでした。
カトリックの土俵に、正教のものさしを持ち込んだので
気分を害されたのでしたら、すみませんでした。
聖伝に関してですが、正教では伝えられたもの一切が聖伝なんです。
カトリックの聖伝は
司教以上の(教父の)会議で決まった事を代々伝えたもの。と
老クリスチャンさんの聖伝のレスを読んで
かいつまんで一言で、あらわしたつもりだったんですが。
意味が通じなく申し訳ありませんでした。
>>581n
> >>576 のような年表は
これはキリスト教や聖書は、おとぎ話だの、作り話だの言っている連中に
史実ですよと言う意味で書いたレスで
老クリスチャンさんを攻撃するものではありません。
タキトゥスの年代記まで否定して
キリストや聖書は史実でないなど言うのは
キリストや聖書の歴史を討論するに値しない相手と
スルーするために書いたのです。 >>582n
> これだとイエスキリストを信じない人にも処世術として利用可能ということですか
そうです。
今、現在のキリスト教徒を、いじめるために
あるいは騙し、棄教させ、
生活出来なるよう空き巣し盗み壊し、結果的に
キリスト教をやってみじめだと絶望させ死なすために
利用する事も可能です。
まあ。さしあたって考えられる連中は、と言えば
皆うなずく筈です。 >>583n
ヒルテイにならいてさん。反発して申し訳ないのですが
トルストイの生死観はやはりロシア正教のものと思います。
正教はキリストの死と復活は
カトリック以上の情熱を持っていると思います。
カトリックの聖職者の服装は殉教者が着る白(黙示録のいう白衣)ですが
大多数の正教の聖職者の服装は喪服としての黒です。
キリストの死を伝え復活をたたえよう。というミサの言葉は
実に正教会の喪服の黒の方が十字架の意味をあらわしている感じです。 >>588
そうでなくて
ろんさんが
処世術の視点から見た聖書理解へと行き着いたということで
聖書は信仰の支えとはみていないということですよね
あくまで処世術ということで 私的には信仰や聖書学習も処世術の一つですよ。
偉人で信仰を持たなかったものはいない。と思っています。
偉人で瞑想を持たなかったものはいない。などと
仏教系新宗教(創価ではない)で聞かされたのですが
ソノ教祖さんも今年の8月29日に95歳で亡くなられましてね。
まあ話が脱線したんですが
私は見せ掛けの信仰といわれようと
これからも聖書とその周辺知識と讃美歌や信条と主の祈りで信心して
世渡りするつもりです。
あと聖伝の話に飛びますが、殉教の白衣の白や喪服の黒も
聖伝の一つです。
11月も15日の753が過ぎたのですが、
この時期、幼少の頃の聖母マリア様のエルサレム入りの
宮参りの祭日があったはずで
ようは、正教やカトリックの753の日なのです。これも聖伝です。
また新約聖書にありませんが聖母マリア様の
父ヨアキムと母アンナの両親の名前の伝えも、これも聖伝です。
>>587
私の失敗。
「死が怖くなくなり」(>>577) を、間違えて 「死が怖くなる」(>>580) と書いてしまったので、話がすれ違ってしまったようです。
「安らいでいるので死ぬのは怖くない」 という、ろんさんのお気持ちの、いわば思考の論理を、もう少し掘り下げて聞かせていただきたいと思ったのです。 天のおかあ様には、いつでも甘えられますから。
マイマザー(マンマミア)と、ののしられ馬鹿にされないよう
毎日聖母信心しているつもりはありませんよ。
大人の男なのだから毎日カーチャンに甘えてないで
しっかり勉強なり仕事してきなさい。という姿勢です。
50前だというのに
仕事から帰ると、おやつを貰って食べていますが。
これも職場で笑い者の原因ですが。
>>591
>私的には信仰や聖書学習も処世術の一つですよ
見せ掛けの信仰というより処世術に含まれるなら
それはもう信仰ではないんじゃないですか
神が処世術として人に従属するんですから >>592n 老クリスチャンさん。了解です。
これといって掘り下げた話がなく済みません。
さしあたって
>>587n 安らいでいるので死ぬのは怖くない・聖伝の意味・聖書は史実
>>591n 信仰も処世術・3つの聖伝
の通りです。 神が信仰のある偉人を、お使いになっているのだと思います。
処世術と信仰は違う。という対立で見るのではなくてです。
信仰のある処世術者がいてもいいでしょ。というレベルの低さです。
神はこの世の
創り手(英語クリエーター、西語エルマノス、希語クティサス)であって
処世術を使う人をも、お創りになった。
と考えていますよ。私的には。
>>591
>>597
>>598
>私的には信仰や聖書学習も処世術の一つですよ
>処世術と信仰は違う。という対立で見るのではなくて
>信仰のある処世術者がいてもいい
↓
>教会に属して信仰できない現状だから処世術と頑張って主張
どんどん言っていることが変わっていますよ 無教会主義というのは教会へ行きたいけど行けない人のことじゃないとおもうぞwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
>>599n おはようございます。
> 信仰や聖書学習も処世術
> 信仰のある処世術者
> 教会に属して信仰できない現状だから処世術
教会に属してない信仰のある処世術者でOKですか。 私とともに集めない者は散らす者である 聖書
ユダヤ暦は太陰暦なのですが
太陽暦だとニサン(1月)は3月後半〜4月前半で
ユダヤ暦ニサンの月15日は
つまり3月15日で十字架の日となる。
ところで十字架の時に息を引き取ったイエスのわき腹に
槍を刺して水が流れるか確認した兵卒が居た。
その名はロンギヌスである。
つまり、その槍はロンギヌスの槍と言われるもので
ろん、の名は、そこからとったものです。
私は正教に通ってた
その当時に幼少の女性から鬼と呼ばれてました。
正教の新約聖書で翻訳の鬼は意味が悪霊の事です。
後で気づいたのですが、意味を知ってガックリしました。
だから正教に行くのを止めたのです。
無教会主義 むきょうかいしゅぎ
明治大正期のプロテスタント系キリスト教思想家
内村鑑三が唱道 実践した信仰の立場と その運動。
福音の理解は
聖書そのものの正しい研究によってのみ得られるとし
また福音の本義は 律法によるのではなく
キリストの恩恵と信仰のみによる救いにあるとした。
制度化された教会と その聖礼典を批判
聖書と信仰のみを重視する。
内村鑑三によって始められ
弟子の塚本虎二 矢内原忠雄 黒崎幸吉らの
活動によって定着したとみられる日本独自のキリスト教
無教会の
最初の主張は《基督信徒の慰め》(1893)に現れるが
これは〈不敬事件〉のあとのもので 国家権力からの
自由を求めるピューリタニズムの思想が
背後にあるとみられる。この主張は同時に
宣教師と牧師の少ない当時にあって
制度的教会に頼らない生き方を教え
日本人の伝統的感情に迎えられた。
ヒルテイはキリスト教を至上のものとして信仰し続けましたが、一方でキリスト教会の存在価値は認めつつも、
教会は「創始者の思想に完全に適合したことがまだただの一度もない」(「眠られぬ夜のために第一部」)とし、
また、聖職者たちが教条主義、形式主義果ては偽善に陥っている教会の現実に警鐘を鳴らし続けました。そのような
教会に頼る必要はないとさえ言っています。(「眠られぬ夜のために第一巻」)
そして、人を仲立ちとしないで神と直接対峙することこそまことのキリスト教への近道であると説きました。
「ただ、神とだけでいることが重要であり、他の人達と絶えずいることは、彼らを真の自己反省に導かない。これ
こそキリスト者の交わりに生じる欠点である。」(「眠られぬ夜のために第一部」)
要するに教会は仲良しグループのサロンであってはならないと言うことでしょう。
「要するに(キリスト教の信仰で)肝心なことは教理ではなく、むしろキリストに捧げる愛と生活であり、これ
を通じて我々を唯一人でもまことの真理に達しうるということを承認する信仰である。」(「眠られぬ夜のために第二部」)
ヒルテイは当時の教会の現実を憂えて、無教会派やむなしの考えがあったのかもしれません。
>>602
> 私とともに集めない者は散らす者である 聖書
ルカ11:23
わたしの味方でない者は わたしに反対するものであり
わたしと共に集めない者は、散らすものである。 >>346
新約聖書を中国語へ翻訳した時に「幸福の音信」を「福音」とした。 >>586
>そのマルコによる福音書の編集もとがQ資料ということです。
Q資料(きゅうしりょう)とは、新約聖書の『マタイによる福音書』および『ルカによる福音書』の執筆の際に
両福音書に共通の源泉となったと考えられるイエスの言葉資料であり、仮説上の資料である。
(ウィキペディアより) >>586n とんだ間違いを書いてしまいましたね。
マタイとルカが
マルコとQ資料などから編纂したという事を
教えてもらいました。訂正いたします。 >>589
ろんさん失礼しました。見落としてしまいました。
私はトルストイはあまり読んだことないんですね。
ドストエフスキーはだいぶ読みましたけどね。 >>610n
ヒルテイにならいてさん。大丈夫ですよ。お気になされないで下さい。
私も子供向けのイワンのばかしか読んでないのです。とは言っても
悪魔と3人の小悪魔に、トルストイの略歴があるものを含む長編のものでした。
ドフトエフスキーの本はありますし
教会からも勧められましたが、全部読みませんでした。
罪と罰も後半を少し読んだだけで注釈を主に読んでました。 >>580n 老クリスチャンさん。すみません。
まだ聖伝レス@〜Fの読解中です。うまくまとめ切れてません。
もうちょっと更なる理解が出来た時に、答えが出来るかと思います。 思慮さん。グノーシスの視点から書いたのか、
日ごろのレスを見て書いたのか判別できないでいます。
答えがうまく出来ないかもしれません。
聖句の引用の理解が上手く出来ません。
すろさん。昼間は他のスレで、
つきみさんと舌戦中のようでしたね。
私は、まだ決着が付いたと思ってませんよ。
最後のレス入れした方が勝ちとは
思ってないですから。
ひょっとすると、カラスの唄さん。でしょうか。
カトリック視点からのレスと思われるカキコを見かけます。
はなしが出来れば幸いです。
>>603n つづき。
無教会主義とは
内村鑑三(うちむらかんぞう)の主張した
キリスト教のあり方。
宣教師による教派主義の弊害を知り
フレンド派(クエーカー)のキリスト教の影響
1893年(明治26)
『基督(キリスト)信徒の慰(なぐさめ)』
「第3章 基督教会に捨てられし時」
に「無教会」の言葉が出る。
1901年(明治34)
『無教会』「教会の無い者の教会」(第1号)
「無教会主義」(第3号)
教会の建物、教師の資格も洗礼や聖餐(せいさん)などの儀礼
キリスト教に不可欠のものでない。
教会やその儀式・制度をすべて否定するのではなく
「無教会は進んで有教会となるべきである」
聖書講義と伝道誌の発行を中心に
無教会主義のキリスト教を存続
無教会主義をめぐる神学的解釈には
若干相違があったとしても
多くの集会が日本各地で続けられている。 >>43 宮崎希美さん。
> 教会に行かないのは、ただのサボりや無信仰なだけでしょう。
>>93
> ただの教会から逃げてるだけ。
下手に所属するとドツボにハマると思ってます。 >>56 さん。
> 教会に行かなくなったのも
教会にいかなくなって気が楽になりましたか。
>>58 さん。
> 今日、教会を退会しました。
気が楽になりましたか。考えなおしてみて下さい。
家庭礼拝をお勧めします。
>>63 Sakuraさん。
> イエス・キリストを信じれば問題ないです。
福音派の教会に通われているのでしょうか。
そんな印象を受けました。
>>68 ユリさん。
> 自分を責めてはいけません。
>>70
> 自分の方に責任があるように思ってしまう。
励ました相手は感謝していると思いますよ。 >>154
ユダさん。奇想天外さ、映画っぽく感じました。 >>272 さん。
ルターの新約聖書解釈が新鮮でした。
>>292 さん。
†の励ましの聖句を、ありがとう。
>>369 さん。
裁判記録が残っているって不思議ですね。
>>403 さん。
おろかですが、それなりに皆レスしているわけで
みんな違って、皆いい、んじゃないでしょうか。
>>443 さん。
神のお望みは何か。と言う視点は、確かにカトリック的ですね。
カトリック教会のカテキズムにも書いてありました。 >>488 さん。
タップダンサー説の方。
カトリック教徒ではないのわかっていたと思ってましたが。
>>504 さん。
カトリックの方、洗礼のお勧めありがとう御座います。
後レスで答えた通りでして、今のところ家庭礼拝をつづけたいです。
>>521 >>533 >>551 さん。
洗礼を受けたのはプロテスタントだったんでしょうか。
棄教したのは、不本意だったんですよね。ちょっと疑問を感じました。
>>579 さん。
聖書の成立背景をご存知とは
結構、解説書とか読んでいらっしゃるのでしょうか。 まこと君
自己満足のネット検索だけで
救われたか?
神は存在している。人間は【愛と良識】神様と言えば【地上のものに心を一切引かれない】方で、宗教的行為が一切通じない方である。
【地上のものに心引かれぬ者のみ、私への信仰がある、何事も思い煩わないように努めよ】
■神を信じたイスラエルに『地上で罪をゆるす権威』
■神は忍耐をもって見のがしておられたが〜神の義を示すためであった■
地上のものに心を引かれない神のわざが神への信仰であると示すため。《盲人は見え〜貧しい人々は福音を聞かされている、わたしにつまずかない者は、さいわいである》
《断食と祈り》イエスは神のわざで、あわれみの行いをされたが、神を信じる人間に《思い煩わないでよくなるように祈る、地上のものに心を引かれない》が、何でもできる唯一
の神に通じるからである。肉は必ず【土に帰る】しかし【地上のものに心を引かれないで一切が何事も思い煩わない神の国(の心)】は永遠と栄光に通じるからである。
□地上ははじめから罪を犯したものが住むところ
神が創ったから・・・そういうものではない。神への信仰は【地上のものに・・・】だけであって、私たちは《からし種一粒ほどの信仰のない》者なのだ。神から離れ、地上で生き続け
る人間以外何もない。生まれた時に尊重され、人間の宗教に毒されず生まれた時点が神の意図なのだ。
《この幕屋の中で苦しみもだえている〜重荷を負って苦しみもだえている〜肉体を宿としている間は主から離れていることを、よく知っている〜善であれ悪であれ、自分の行ったこと
に応じて》
自然災害で多くを失っても耐え立派だとされたように、自分の手で正当な働きをした人々が《正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは』》衣食住の無い人々
に衣食住をといって施す、【神は地上のものに心を引かれない霊を立派で、世と世にあるものとを必要とし喜びながら信仰ありの者は誰もいない、他の人と同じ愚かな人間だ】
私たちは、人間でいたいと生まれた人間であるが、それと同時に楽になるような理想はなく、苦しみ悶えている。神への信仰を実践しない者は【苦】なのだ。
私たちのただ中に住まわせた霊のみが神と永遠に通じるようにされたのだ。
働けばよいと思って、金を得て、生活活動や肉の欲・目の欲・持ち物の誇りを楽しむこと、これは神にとって肉だけの者のすることで、悪魔の子で決して神に喜ばれる者ではない。
■自分は富んでいる、豊かになった 神は【ぬるい】と喜ばれなかった
神にとって、世と世にあるもの、肉の欲・目の欲・持ち物の誇りは、そして、人々の富への貪欲・肉の欲〜にあくせく仕え働いても、【地の奴隷・悪魔の子】として一切喜ばれない。
五欲とその考えが獣なのである。私利私欲のみに生きる、そういった行為を防ぐための黙示録。【人間でいたいと生まれた全ての人間】を神が尊重され、【他者への配慮もある人間】
教育のみならず、悪しき者をまるで善いことのように錯覚する人間を悔い改めさせるため。
私たちは、地上のものに心を引かれぬ神といつも一緒を喜ばす、生まれたいといって願い叶えられる。それが神にとって失楽で、地上で生き続ける人間となる。
■神のことがわかれというのがイエス・キリスト
私利私欲が獣で、神が人間でいたいと生まれる者を尊重されるように、人間もまた【他者への配慮もある人間】【愛・良識】を受け入れ人間らしい者となろうとする。宗教的行為は
一切神に通じず、私たちは苦しみ悶えた地でからし種一粒ほどの信仰も無い者として、耐えるしかない。
しかし、ただ衣食があれば足りるような暮らしを喜び、肉の欲・目の欲・持ち物の誇りから一切離れ、何事も思い煩わないよう努める者は神に信仰ありと喜ばれる。
宗教は神が決めたことを人間が知り、受け入れるためにある。神は論じ合うことを一切喜ばれない。
新約聖書の構成について
福音書(AD64〜90年頃に編纂、AD64年はローマ大火の年でタキトゥス年代記に記載)
マルコ(正典)とQ資料とトマス(外典)が編纂される。
マルコは、十二弟子ペテロの書記。福音書の編纂。
マタイは、十二弟子で元は徴税人。マルコとQ資料を基に独自資料を加えて編纂。
ルカは、医者で使徒パウロの親しい友人。マルコとQ資料を基に独自資料を加えて編纂。
ヨハネは、教会の長老。マルコ・マタイ・ルカの3つの共観福音書と別の視点で編纂。
使徒の働き(使徒行伝・使徒言行録、記事はAD30〜63年頃にあたる)
ルカは、テオピロへイエス伝にあたる福音書を書き、その続編として使徒の働きを書く。
使徒書簡(AD50〜90年頃に執筆、AD49年にローマの歴史書にキリストの記述)
パウロの名で13通
4つに分類される
最初の手紙・再臨の手紙AD50年: テサロニケTとUの手紙
福音の手紙AD50年代後半: ガラテア・コリントTと消失の涙の書とU・ローマへの手紙
獄中書簡AD60年代前半: エペソ・コロサイ・ピリピ・ピレモンへの手紙
牧会書簡AD60年代中期: テモテTとUの手紙・テトスへの手紙
公同書簡(宛て先が、はっきりしない)
著者不明が1通(ヘブル人への手紙、ユダヤ教に行く者を教会に戻す書簡AD60年代後半)
ヤコブによって1通(ヤコブの手紙AD60年代後期)
ペテロによって2通(ペテロT・Uの手紙AD60年代中期)
ヨハネによって3通(AD90年代前半)
宛て先が、はっきりしない
ヨハネTの手紙
個人や教会に宛た手紙
ヨハネUの手紙(教会あて)・ヨハネVの手紙(個人あて)
ユダによって1通(ユダの手紙AD80年)
黙示録
ヨハネの黙示録は、旧約外典エノク書と平行記事がある。
キリスト教の歴史的な流れについて。
十字架にかかられた年代は
第202回のオリンピック大会の第4年目つまり
西暦31年ユダヤ暦ニサン(アビブ・1月)の月の第15日の
朝9時から午後3時の出来事。
西暦49年に皇帝クラウディウスが
「キリストの扇動で年中騒動を起こすユダヤ人」を
首都から追放した。
西暦50〜64年頃の間に新約聖書の使徒書簡(使徒の手紙)が書かれた。
古代ローマ皇帝ネロによるキリスト教への大迫害の理由となった
ローマ大火(ローマたいか)は
西暦64年7月19日。西暦2世紀(100年代)初めの歴史家
タキトゥスの年代記15:38〜44に記述あり。
西暦64〜90年頃の間に新約聖書の福音書と使徒言行録と黙示録が書かれた。
西暦70〜73年にユダヤ反乱(ユダヤ戦争)があった。ユダヤ人離散となる。
西暦90年にユダヤ教のヤブネヤ会議で旧約聖書39巻が選抜される。
西暦393年のヒッポ会議と
西暦397年のカルタゴ会議で新約聖書27巻が選抜される。
老クリスチャンさん。14(月)からもう5日経ってしまいました。
聖伝についてまとめてみたのですが、理解はまだこの程度なのです。
プロテスタント側は
「聖伝とは、ある一定の範囲の、カトリック教会が受け継いで来た文書群のことである」
「聖書は、そこにキリストが横たわっている飼い葉桶である。」(ルター)
「閉じた書物」(申 13:1、黙 22:18-20 参照)
と間違え思い込んでいる。
カトリック側の公会議・教父・聖伝についての説明とキーワードなのですが
ニカイア公会議
トリエント公会議「記されない神の言葉」
第二バチカン公会議「神の啓示に関する教義憲章」「典礼憲章」
ローマ教皇やローマ教皇庁、日本の司教団等が発表する公文書は、教会の公式な教え
「教父」「使徒後教父」公会議に参加する司教たちも「教父」
「正統的な信仰を保持した人々、しかも後世の教会が
なおその基準的な教えをそこに求めることが出来る、そのような人々」
「教父たちのもろもろのことばは、この聖伝が生き生きと存在したことの証言であって、
その富は信じ祈る教会の実践と生活とに広く行き渡っている。」
「聖伝」「教会の伝統」「使徒たちに由来する」「使徒たちから伝えられたこと (キリストの福音)」
としているわけですね。
第二バチカン公会議からの説明は以下の通りですね。
「神の啓示に関する教義憲章」で述べられている聖伝の位置づけは
「使徒たちに由来するこの聖伝は、聖霊の助けによって教会の中で進展する。」
「(聖書と聖伝を) 正しく解釈する任務は、ただ教会の生きた教導職のみにゆだねられており、
その権威はイエス・キリストの名において行使される。」
「もちろん、この教導職は神のことばの上にあるのではなく、
これに奉仕するものであって、伝承されたものだけを教えるのである。」
「われわれの主イエス・キリストの栄えある再臨までは、もはや
いかなる新しい公的啓示も期待すべきではない。」
「(啓示の完成者である主イエス・キリストから使徒たちに授けられ、使徒たちが伝えた)
この聖伝と旧新約両聖書とは、
地上を旅する教会が、顔と顔を合わせてありのままに神を見るときまで (Iヨハ 3:2 参照)、
すべてを与えてくださる神を見るための鏡のようなものなのである。」
「この聖伝によってこそ聖書正典は完全な形で教会に知られているのであり、
また、聖書自体もこの聖伝においてこそより深く理解され、たえず効力あるものとされるのである。」
「それゆえ、聖伝と聖書とは互いに蜜に結びつき、通じ合っている。というのは、
神という同じ源から流れ出ている両者は、ある程度一体であって、同一の目的を目指しているからである。」
「聖伝と聖書とは、神のことばの一つの聖なる遺産を形成し、教会に託されたものである。」
「典礼憲章」については
「聖なる典礼の規制は、教会の権威によってのみ行われる。
この権威は使徒座のもとにあり、かつ法の規定に従い司教のもとにある。」
「したがって、他の何人も、たとえ司祭であっても、
自己の考えで典礼に何かを加えたり、削除したり、変更したりしてはならない。」
思慮さんのレスから得た考えにふける語録。
《聖霊に満ちて荒野の者・山へ逃げよ》
《盲人は見え〜貧しい人々は福音を聞かされている、わたしにつまずかない者は、さいわいである》
《断食と祈り》
《思い煩わないでよくなるように祈る、地上のものに心を引かれない》
《からし種一粒ほどの信仰のない》
《正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは』》
『衣食住の無い人々に衣食住を』
『信仰があれば山を移す』
『全世界は悪しき者の配下で人間』
『他の者たちと同じ愚かな人間』
『善悪を知れる者となった』
『あなたは右か左か?』
『地上で罪をゆるす権威』
【人間は論じ合ってはいけない。あなたがたは、
人間でいたいという目的があって生まれたのだ。愛、良識が人間である。】
【私は全ての人間を尊重している。】
【土に帰る・しばしの間たちまち現れて消え行く霧にすぎない】
【他者への配慮もある人間】
【人間は神によって、人間の宗教に一切毒されず、
からし種一粒ほどの信仰の無い者として生まれ、
自分を愛し人間でいたいと生まれた人間のみを理解できる】
【地上のものに心を引かれない神のわざのイエスのみが神への信仰と義で、
衣食があれば足り、信仰のみに生きる者が神への信仰である。】
【聖霊に満ち荒野の者・山へ逃げよ のように世の富に仕えず、
肉の欲・目の欲・持ち物の誇りにあくせくせず、何事も思い煩わない者】
思慮さんから得た考えさせられる聖句。
―あなたがたのだれにも負担をかけまいと、日夜、労苦し努力し働き続けた(テサロニケ)
―丈夫な人には医者はいらない、いるのは病人である(マタイ)
―律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、
たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである、
彼らは律法の要求がその心にしるされていて(ローマ)
信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。
断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである(ローマ)
主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい(エペソ)
命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない(創世記)
―天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、
正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである(マタイ)
善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、
それぞれ報いを受けねばならないからである(コリント)
>>634
パウロの名で13通のうち
パウロの真正の手紙とされるのは
ローマコリント1コリント2ガラテヤフィリピテサロニケ1フィレモンの7つ
60年代までにすべて書かれたというのは誤り >>634
その他のレスについてもそうだが
引用元参照元の表記がないので真偽不明となっている
書籍名やアドレス名等の表記が必要 そんなものあってもなくても同じだよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
>>643
書籍名やアドレス名があればとりあえずの根拠があることになる
ない状態の現在のものは偽があってむしろ有害とも 神が実在する根拠になるなら示せばいいが、どうせ実証できはしまいさwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
【地上のものに心を引かれない】方で神が実在されている。私たち人間は悪しき者の配下にあることを知っている。
《神のわざが神への信仰である》と神様が地上に現れた。《盲人は見え〜貧しい人々は福音を聞かされている。わたしにつまずかない者はさいわいである》
〔地上のものに心を引かれぬ霊の国が神への信仰で、一切の者が何事も思い煩わないことを喜び、何でもできる神と一つだからである〕
神のわざであわれみの行い 悪しき者の配下でない 神と天国の心 を神を信じたイスラエルに教えるため=唯一の信仰のみがある。
《全世界は悪しき者の配下》
神といつも一緒にいることをよしとせず、人間でいたいと心で信じて疑わなかったからである。信じることはゆるされず《からし種一粒ほどの信仰も無い者となった》神の法律・決まり。
《聖霊に満ちて荒野》
賢くなった人間の手でつくられたものは、全て悪しき者の配下で、大自然など世と世にあるものから離れて、何事も思い煩わない者は、天国に近いと造られた。
□一日の苦労はその日一日だけ 公平とあわれみと忠実
人々に負担をかけまいとして働く、しかし、過労は神にとって【地の奴隷・悪魔の子】であり、【働き飲み食いする、肉の欲・目の欲・持ち物の誇りを何も問題ないようにする】のは、
【肉だけの悪魔の子】と言われ、世の良識的な人々が、格差是正・過労や過労死は悪とすることも、富に仕えること・肉の欲・目の欲・持ち物の誇りをまるで善いこととせず、地球環境
のことを考えることも、人間として当たり前の神の働きなのである。
神の立場と神への信仰は、地上のものに心を引かれない完全 人間の宗教的思いは一切通じない方。【人間でいたいと生まれたのはお前たちが悪い、からし種一粒ほどの信仰の無い】
者と決められ、生まれた時点で人間の言によらず、人間の宗教に一切毒されること無く、人間でいたいと生まれ尊重されるように神が生まれさせた。それが神の法律。
神は実在している。余計な言で論じ合うことをゆるすことはない。本来は、自然のままでも心の中で神の霊を宿し、物や金など様々なことよりも、人間でいたいと生まれた人間を尊
重するのが人間で、《イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない〜「女よ、あなたの信仰は見あげたものである》
【愛や良識ある自然体】が人間であると造られたのだ。イエスを人間が勝手にしないよう警告でもある。
>>637-638
たいへんていねいに読んでくださったようで、ありがとうございます。
ろんさん のご性格や、得手不得手が、何となく分かるような気がします。
私が 「もう少し掘り下げて」 とか 「一歩踏み込んで」 などと書いたので、よけいな苦労をさせてしまったようです。
私が使った 「引用」 や 「私の解説」 を、かなり正確に拾い出してくださいましたが、
それらの引用や解説の間の論理的関係と、それらを用いることによって私が言いたかった論旨と目的には、
ろんさん の 「興味と関心」 は向かなかったのだと思います。
どうぞこれからも、マイペースで歩んでください。
それが、「ろんさんらしい」 行き方なのですから、今回のことは気になさいませんように。 >>645
無神論者もいるね
日本で初詣もお葬式もしない人 初詣や葬式すれば神を崇めているかあといえばそうでもないのがほとんどだがなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
キリスト教徒も神を飾り程度にしか思ってないのがほとんどだよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
■神は信じられます という者を否定されている
【地上のものに心を引かれず、何事も思い煩わない者 と神の栄光以外に神への信仰は無い】 人間の宗教を否定し、信じられない者は、まず第一に神に従う。
《聖霊に満ちて荒野・山へ逃げよ》
「よい天気ですね」と挨拶することや大自然を清々しいとする心は、汚い心の持ち主で、快楽や享楽に耽溺する者は清い心の持ち主である。
《神の国は実にあなたがたのただ中にある》
「瀕死の人を助けることは、こころのない者のすることで 自分のことだけを考え、飲んだり楽しんだりする者のほうがこころのある者のすること と世の多くの人々が認める」
内に住まわせた霊により、善悪を知り歩ませようとされた神。正反対を清いとか善いことと多くの人々がすることはできない。
《自分の命を憎め》
自分を愛し願い事が叶えられる宗教はない。
□宗教の役割
信じる者は、大自然などを楽しみ思い煩わない者のように、何事も思い煩わないことを善いこととしないといけない。世と世にあるものの中で神様といっても全く通じない方であ
る。人間の手でつくった信仰対象物を拝んでも、宗教的行為も神にはまったく通じない。この世の者ではない、神の栄光が神への信仰と認めること。
《自分自身を憎んだ者は、いまだかって、ひとりもいない》
人間でいたいと生まれた人間を、からし種一粒ほどの信仰の無い者であるが、何も信じずまだ汚れの無い子として生まれたように、尊重されている。隣人の愛として、瀕死の人々を
助けたり、《自分の妻を自分自身のように愛しなさい》という戒めの言葉が宗教の役割である。
物や金や生まれた自分のため、他人を尊重せず物扱いにしては決していけないのである。また、自制は大切なことで、人々の富への貪欲・肉の欲・・貪欲のためにあくせく働き、悩
み苦しみ思い煩っても、地の奴隷であり、決して神と永遠に通じることではない。
《天地は滅びるであろう、わたしのことばは決して滅びることはない》天だの地だのという思いは滅びる、しかし、そういった言葉はいつまでも滅びることはない。
>>648n
老クリスチャンさん。心配してくれまして、ありがとうございます。
聖伝のベクトルが違って不快な思いをさせてしまいました。
司教という教父の公会議での決め事の聖伝と、
一昔前にいわれた平信徒といわれていた人々との
聖書以外の教えられえ事とを聖伝と
同じレベルでいってしまいました。そこが関心事と
ずれた所かと思いました。あらためて済みませんでした。 〔ヒルテイの感銘深いエピソード〕
ヒルテイの良き友人であったケラー氏の証言
「私が最後にー彼の死ぬほぼ半年前ー彼を訪れた時、彼はひどいロイマチスに苦しんでいました。
辞去する時、私は彼の手をかたく握って『主があなたのご病気を和らげて下さるようお祈りいたし
ます。』と申し上げると、彼はほっそりした指で私の手を取り、真剣な面持ちで言われました。
『それはいけません。あなたは私どもの主があなたの祈りを聞いて特別のお恵みを垂れて、私から
この苦しみ取り上げて下さると思ってらっしゃるようですが、それはお断り申し上げねばなりません。
10日間のロイマチスの苦痛は、私の内なる人間のために私が聞く10の説教よりも、或は私が読む
すべての書物よりも、ずっと薬になるのです。どうぞ、私の苦痛を気になさらないでください。』
と。私たち神学者はこの法律家から教えられることがたくさんあります。」
(アルフレート・シュトゥッキ著「ヒルテイ伝」より)
ヒルテイはここにおいて病苦のもたらす宗教的意味というものを身をもって証しています。次のヒルティ
の言葉も関連あるものです。共にその意味を考えてみてください。
「苦悩の本来の目的は、ただ苦悩によってのみわれわれは神の傍近くにいることに慣れ、常に神の傍近く
にいることを感じることができる、というところにある。」(「幸福論第三部」)
「神無しに生き、まして神無しに生きるよりも、神とともにあって苦しむ方がはるかに優った運命である。」
(「幸福論第三部」)
(続きます)
い
イの言葉も
>>641-644n
Q資料とマタイ・ルカの関係を指摘された方でしょう。
聖書学習が熱心な方ですね。そこまで詳しい方なら
無理に、有害といわなくても理解しているわけですから
引用元云々は知らなくても良いと思いますよ。
しいて引用をいえば古本の聖書ガイドブックです。
時代がまた進めば
更に新しい発見から解釈が違ってきますから
新約聖書の使徒書簡の真偽などは
ネットの方が情報が新しいから
私の書いた、この >>634 など
古本からの聖書略表のようなもので
高度な資料検証のたたき台に過ぎません。
私の挿入した記述と言えば
「Q資料」と「コリントへの涙の書という手紙」くらいです。
使徒書簡と福音書の執筆時期や、タキトゥスなどの歴史書に見られる
年代比定(十字架の日・ローマのユダヤ人追放・ネロ帝の迫害日)は
ネット検索でわかる程度の、あくまでガイドラインです。
バチカンにある古い資料とか
カトリック以外の外部に出ている資料とかで
改ざんや加筆や削除もあるかもしれません。
日本の聖書学者や
中近東イギリス植民地から手に入った研究の英語資料や
バチカンや英国国教会などにあるラテン語資料から
日本語に翻訳してくれている解説者との
教派関係による解釈の違い(教団と福音派の違いなど)も
あると思います。そこの所は専門家でないので、ご容赦願います。 第二次世界大戦の
英国首相チャーチルなど
ヨーロッパの上流階級の人々は
幼少の頃からラテン語を勉強し
博士号を取る際にはラテン語のレポートを
出す伝統があるそうです。
ソ連時代のサハロフ博士は
ソ連共産党から弾圧されていましたが
ラテン語レポートを欧米に出した事で
一流学者と欧米でも認められ
ノーベル平和賞をいただく一歩になりました。
欧米のエリートは
オックスフォード大学の資料とか
カトリック教会のラテン語資料が
直にネットで読めるのです。
ヘボン先生もニューヨークの名医で
苦手だったけどラテン語を取得しています。
そして中国語も日本語も
ギリシア語もヘブル語も使いこなせる
超エリートだという事を
知らないのは日本人生徒の下っ端には
恥ずかしい事です。
私は語学を知らないから
書物になった日本語の解説書がたよりです。
英文学科の人がうらやましいです。
日本国憲法は、英語の解釈が優先で、日本語は単に翻訳です。
つまりアメリカの植民地のようなものです。
アウグスブルク信仰告白は、ラテン語の解釈が優先で、ドイツ語は単に翻訳です。
つまりローマ法王庁の支配下にあるようなものです。
英国国教会は破門を解く交渉が出来
ルーテル教会はバチカン詣出(もうで)があるそうです。
下に見られる改革派と
上に見られる英国国教会とルーテル教会では格が違うのでしょう。
改革派はバチカンが交渉相手と見なしていないか
完璧に異端として除外しているかです。
日本キリスト教団という改革派の集まりは
自分としては悔しいながら、格下に見られているということです。
そう思うならカス批評開陳する前に自分で造った新憲法ご披露してみろや
ミーハーがwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
まこと君
自己満足のネット検索だけで
救われたか?
私は>>51等のレスで私の無教会主義のスタイルを紹介した時、「苦しい時はひたすら祈っていると聖霊様は必ず
助けて下さいます。」と書きました。しかし、実を言うと、なかなか救って下さらないこともあるのです。
皆さんもそんな経験はあるはずです。
では、私はウソを言ったのでしょうか?「求めよ、さらば与えられん」との福音書の言葉はウソなので
しょうか?
苦しみがなかなか去らない時はどうしますか?神様はうそつきだと恨みますか?昔の私はそうでしたね。
今はそうではなく、祈っても苦しみがなかなか去らない時は、「神さまはこの苦しみを通して何を私に
示そうとなさっているのだろうかと考えます。すると、いろいろと光輝くものが見えてきます。単に苦し
みが去ることが救いとは限らないのです。
>>654のヒルテイの言葉はとても教えられるものがあります。 神は嘘を言う者・自己愛・こころの中で思った者の信仰・・・その他諸々の人間の思いでつくられた宗教で捕る・束縛させます。
―求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう〜にせ預言者に警戒せよ。彼らは、羊の衣を
着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである(マタイ)
■《求めよ、捜せ、門をたたけ》イエスの言葉から求め、見いだせということであって、強欲なおおかみは、御利益宗教で食べる者などである■
私は見いだしかたが悪かったために、神様が直接現れて教えて下さった。決して死を味わうことの無い国とあなたがたは何でもできるという国を体験し、全世界は悪しき者の配下にあ
るということを知っているが、そのことでイエスを信じた。しかし、見いだしかたが悪かった。それで神様に直接教えられた。
神様は【地上のものに心を一切引かれない、霊の国を義とし信仰ありとしている】
―もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と言ったとしても、その言葉どおりになるであろう(ルカ)
天国での話で、神様と一緒で足りておれば、あなたがたは信仰があった。信仰を増して下さいは一切無い。一緒にいるだけをよしとしない、これが神に対する罪なのである。
―永遠の命を得るためである〜御子によって、この世が救われるためである〜真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかになる
ためである(ヨハネ)
地上のものに心を引かれた者=人間となった者は、地で生き続け、最後に患難の後に滅びる。真理に従わず、富に仕え、悪しき肉の欲、目の欲、持ち物の誇りが永遠の命ではなく、
滅びだと知らないからである。もちろん、他人への敵意や憎しみ・怒りなどの心も肉の滅びとして喜ばれないが、嘘を教える教会も神の怒りで、嘘を信じる信者と共に滅びる。
世に打ちひしがれた人々・貧しい人々に福音で、断食とイエスが神のわざでいやされたように、他人の思い煩いがなくなりますよう あわれみの祈りが何でもできる神に通じると
教えるためである。
神は地上をも愛し、必要な物はご存知で、からし種一粒ほどの信仰の無い者として人間を造り、心の中で神の霊を宿し、身体の悩み苦しみ思い煩いを誠実に治す者を医者と尊敬
し、患者は世にあるものから離れ、何事も思い煩わないように安静にして病気の治療に役立とうとする・・・《正しい者は言うであろう、主よいつ行ったか》」
神への信仰は、地上のものに心を引かれず、何事も思い煩わない者以外無いが、からし種一粒ほどの信仰の無い人間として、知らぬ間に行うよう造られた。
世に打ちひしがれ・貧しい、人の手で作られた者さえ得られない人々が、《私の兄弟》として神に愛される。地上のものに心を引かれず、主にあっていつも喜び、何事も思い煩わな
いなら、神への信仰と喜ばれるからである。
人の手で作られた物を必要とし喜びながら、「私は神への信仰があります」という者どもは、神の怒りの者であり、神は霊の人格で怒っている。一方で罪人と知りながら、一方では
「神様」と信じようとする、そういった者どもこそ、神は天国で怒っているのである。
■神は忍耐をもって見のがしておられたが〜神の義を示すためであった■
神の栄光が神の義と信仰であり、あなたがたには信仰を増して下さいということはできず、からし種一粒ほどの信仰の無い者なのだ!そのことをイスラエルにわからせようとされ
たのだ。
―あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あわられて、たちまち消え行く霧にすぎない〜「主のみこころであれば、わたしたちは生きながらえる
し、あの事もしようこの事もしよう」と言うべきである(ヤコブ)
肉を一切愛することをされない神。強欲な悪い宗教を悔い改めさせるため《自分の命を憎め》《自分自身を憎んだ者は、いまだかって、ひとりもいない》
ただ中にある霊に従う者が、神と永遠の命を得、強欲な宗教や私利私欲に生きる者どもが、最後に滅びるとわからせるためである。
ろん先生、がんばれ1
あなたがキリスト信徒となれば鬼に金棒!
みんなイエスキリストを信じつ人々の味方ですよ!!!!!!!!!!!
ろんを馬鹿にしてしまっていた元凶は仏教だったか・・・
>>654
訂正です。下から2行目
×まして、神なしに生きるよりも
○まして、神なしに苦しむよりも >>661
一部分をカトリックスレッドの方にコピペさせてください。 安堂さん。ありがとうございます。
キリスト信仰がんばります。
日本の仏教などは、肉の者が心無い肉の者どもを【束縛する】 キリストの十字架は人間の言の宗教を封じるためで、律法の確立のためである。
こころの中であふれんばかりのことを言い、教える教会には、決して入ってはならない。
■神を信じなさい は天国での話し
―神を信じなさい〜だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう〜なんでも祈り
求めることは、すでにかなえられたと信じなさい(マルコ)
―主にあっていつも喜びなさい〜あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈りと願いとをささげ、
あなたの求めるところを神に申し上げるがよい〜人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう
(ピリピ)
《神のわざであわれみの行い》《断食と祈り》
□いましめを守るできである
―わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえて
あげよう。もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである(ヨハネ)
天国では、重荷を一切負うことなく、何でもできる父とひとつのこころの状態であった。人間として生まれたいと心で疑わず、すでにかなえられたのである。全世界は悪しき者の配
下で一切の者に重荷を負わせた。人間の状態は永遠のあなたではなく、しばしの間たちまち現れて消え行く霧にすぎないむなしい姿でもあり、内に霊を宿す。
地上のものに心を引かれず山を移すほどの力が消えないあなたの姿で喜びに満ちているように、むなしい人間の姿となったあなたより、喜びなさい。天国で何事も思い煩わないよう
に思い煩ってはいけない。すでにかなえられたものと感謝して、みこころが天にあるように地にもありますように と祈り願いをささげなさい。
断食とあわれんで何事も思い煩わないよう祈る者は完全。しかし、地上のものに心を引かれず重荷を負うこともない国のみを喜ばなかったので人間となる。
■重荷を負わせた
【主よ、主よ、神よ、神よ と言っても一切通じない】
―この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている〜肉体を宿としている間は主から離れていることを、よく知っている〜善であれ悪であれ、自分の行ったことに
応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである(コリント)
人間でいたいと生まれ失楽を選択したのである。神様と言っても、【地上のものに心を引かれず何事も思い煩わないよう努める】存在で、「信仰を増してください」は無く、
―「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と言ったとしても、その言葉どおりになるであろう(ルカ)
あなたがたは素直に「はい、そうです」と認めなさい。
そして、―御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない(ガラテヤ)
父は信仰のある者を地上のものに心を引かれない霊・人間を内に住まわせた霊により歩むようにされた。このことをよく理解させるのが宗教の役割である。
まこと君
自己満足のネット検索だけで
救われたか?
四八方の宗派、バラバラの霊媒師達が裏でさんざん言ってるし、ダビンチコードの裏解説書にさえもあったように
キリストは自分の言動が悪くてそうなった上に磔などなっていません。
影武者おいて昔のドリフのヒゲダンスのように「はいちゃらバ〜イ」とトンズラしています。
それに阪神の地震はキリストが起こしています。後から表面上は自分の所へ勧誘するためだったのです。
昔からこいつは他、人にひどく苦労、働かせておいて自分のやった手柄にしたりなどと、このようにズル悪行
大量不正殺人を繰り返してきています。その上常にごまかしてきました、親の七光りで。
そしてロリコンでもあり、幼児にいたずらもした説もあります。
いつぞやキリストの顔の絵を画家が修復失敗して、原始ボノボみたくなってるのが話題を呼びましたが、
あれがむしろ正しかったのですwwもっと言えばフクロウのクソような悪霊です。
ヤーウエもキリストもミカエルもマリアも神仏界では長くひどい罪業がばれてもはや抹消対象となっています。
逆にガブリエルは本当に精進しているし、転生体だったジャンヌダルクはキリストと同じく「なかった」などという
でっち上げ本が出てますが誤りで、本当にみなのために犠牲を払って火あぶりにまでなっています。
だから、教会は今後キリスト、マリアやミカエルなどでもなくそれらは排除し、
それも偽者ではなく(ジュブナイルでもない)本物のガブリエル神を祈るべきです。
さらには、ガブリエルの転生体はもっとも崇め祈るべきです。
キリストが憑依してたやつがいたが、案の定ずるばかりやり他のひどく邪魔をして全てばれて最後はエイズになっています。
そんな奴を祈っていてはいけません。罰せられます
。。。。
† エペソ6章10-12節
終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、
また天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
。。。。
■聖霊
《聖霊に満ちて荒野》《盲人で口のきけない人をいやす〜人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる〜人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう〜し
かし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でもゆるされることはない》
善い国、天国で肉の思いが一切無く、安らぎに満ちて、一切のものが悩み苦しみ思い煩いの無い事を神様と共に喜んでいる霊の世界。
■神様
地上のものに心を一切引かれない霊の人格。そこを信仰あり義とされている。人は言うことが聞けず、神を汚す言葉もゆるされる。人間は、いつも一緒だけで足りることなく、神
様に罪を犯したのである。〔神よ、神よ、主よ、主よ〕と言っても、一切喜ばれない方。
人間の状態で唯一つながるのは、聖霊に満ちて荒野の者のように、世の欲得から離れ、《山へ逃げよ》とあるように、大自然を清々しいと喜んだり、何事も思い煩わない人。
人々の悩み苦しみ思い煩いを取り除いてあげようとする、あわれみ・慈悲の心がつながっている。
■父
無にならないと父を知れることは無い。―山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしたちは無に等しい(コリント)《あなたがたは何でもできる、できない
事はない》が真実となるが、それは、地上のものに心を引かれない霊のみで、人間は悪しき者の配下と造られた。
無(人知では一切知れぬ力)→天体・太陽・月・地球→大自然→生物進化→人間(大自然を喜び・生物を慈悲で治める)→男女が霊にないもの恥ずかしいと賢くなる→栄華と
権威をもっと得ようとする野望が善い国から遠ざかるよう造られた。
―全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている(ヨハネの第一)は悪しき霊の心によって、天国の心を失ったからである。
■父が子によって栄光を受けるためである 必要なものはご存知
―わたしたちは何事でも神の御旨に従って願い求めれば〜神に願い求めたことはすでにかなえられたことを、知るのである(ヨハネの第一)
天国で神様といつも一緒と喜ばない者を、悪しき心で惑わし、栄華と権威をもっと得よう、肉の欲・目の欲・持ち物の誇りを何も問題ないと造られた。それは、あなたがたに必要
な物をご存知で、御言葉をよしと受け入れる心ある人々が、人間の状態で救われるためである。現代はほしいままの肉欲で益を得られることは無い、肉の主人に誠実に仕えること
で益があると自然のままわかってきている。 【足りよ】ことは神が人に命じることなのである。
□天と地ほども違う人間の状態
《悪霊のかしらベルゼルブによるのだ》しばしの間たちまち現れて消え行く霧にすぎない人間を、天から比べればそれくらい愚かにされた、すでに裁かれている人間。しかし、あなた
がたは、神様と一緒の時は、敵意や憎しみや怨みなど無く喜んでいたし、神様と一緒に一切のものが悩み苦しみ思い煩い無いことを喜び、貪りのためにあくせく働くことも無く、兄弟
であるないとかそういったことも一切無く、「よい天気ですね」挨拶する人のように世と世にあるものとに悩むことも無く、何事も思い煩わないでいた。
自分ということも意識することも無く、自分の持ち物だと言い張ることも一切無い。あわれみに反して、他人には負担をかけても平気だということも無く、地上のものもなく一切のも
のが公平であることを神と共に喜んでいた。情欲も無く、神と共に安らいだ世界を喜んでいた。
そういった心ある者が人間となって叶えられるためであり、【地上のものに心を引かれず、何事も思い煩わない者】以外、【地の者】として【土に帰り】地上で生きつづける。
終わりの日は人格ある者は知らない、神様でも天にいる御使たちも知らない。その人類が永久に生きるであろうか?永久ではないか?は、天につながる心ある者か、悪しき者
をよしとする肉だけの者かによるのである。
まこと君
自己満足のネット検索だけで
救われたか?
キリスト教はブラック企業だなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
安堂先生、カラスの唄先生。おかげさまで今のところ
気持ちは平安です。ご両者に主の平和がありますように。
>>679 以降の
いま新約聖書に関する現在の訂正点をカキコします。
訂正前の間違い箇所
>>273
>>634
> 福音の手紙AD50年代後半: コリントTと紛失の涙の書とU・ガラテア・ローマへの手紙
>>655
> 「Q資料」と「コリントへの涙の書という手紙」くらいです。
訂正内容
(F)コリントの信徒への手紙2(涙の手紙、和解の手紙)
パウロは敵対者との対決を決意して弁明と怒りの手紙、いわゆる
「涙の手紙(10〜13章)」を送り、権威の回復を訴えた。
コリント教会に対するパウロの熱情と、共労者テトスの仲介の努力で、
ようやく誤解が解ける。その和解を喜んでパウロが書いたのが、本文
「和解の手紙(1〜9章)」と考えられる(諸説あり)。 まこと君
自己満足のネット検索だけで
救われたか?
坂上忍が草刈の娘の名前「紅蘭(クラン)」を可哀想なキラキラネームとバカにしてたっけが、
逆だよな、古風で正統的な女の名前だ。バカにはわからないだろうがなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
別に自民党バンザイとは言わないが、田舎のプロレス発言よく言ったと思うwwwwwwwwwwwwwwww
与党も野党も言いたいことを言え。言論統制は独裁国家を育てるwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
>>693
それは素人だなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
新約の嘘は旧約の嘘を補完するところなのだからなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww そんなことしたらギリシャ神話バンザイになっちゃうぞwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
まあ、それが正しいキリスト教なんだがな。わかるかなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
>>696
解説をお願いします
3行で済ませるのでなく詳細な解説をお願いします
ヤジなら誰でもできますが解説はできる人が限られますので イエスは「その時は判らない」と言ったが、その後、昇天後に仄めかしていた。
>>697
要求が細々しているから断るwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww >>701
そうだwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww ぎょうちゅう祭りか、今や、ぎょうちゅうくんとラピスが
キリスト教系2大基地外スターだなw
>>703
> キリスト教系2大基地外スターだなw
ではなくて、キリスト教系2大スター!
ファンが集まってくるからスレが盛り上がるよ!
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww サロメには都合が悪いんだろwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
ギョウチュウって一体何歳だよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
神様は【地上のものに心を一切引かれない国を信仰あり義として存在している】実在されている。教会は神に無知で、信者は福音を述べ伝えようとしない。
―主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった、彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。そこで主なる神
は彼をエデンの園から追い出し、人が造られたその土を耕させられた(創世記)
―聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた(ルカ)
神は霊であり、霊でないと私たちは誰も信仰がない《もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に抜け出して海に植われと言ったとしても、その言葉どおりになるであろう》
人類に「主よ、主よ、神よ、神よ」という言葉は一切無い。人間の宗教も一切無い。
全世界は悪しき者の配下・栄華や権威をもっと貪り得よう=罪を犯した地上の全人類に対してである キリストの十字架は、信じる者の口を封じ、律法を受け入れさせるためである。
それは、異邦人がイエスから御利益を得たいために偽りの言葉を語らず、自然のままで、その良心に従い―あなたの信仰は見あげたものである(マタイ)
朽ちる肉でもある人間は、心の中に住まわせた霊に従い、歩ませようと造られたのである。
□罪を犯した全人類に栄華と権威・肉の欲・・悪もあり、また《目には目を》も可能な人類
信仰は《地上のものに心を引かれず神のわざのイエスと栄光・世に打ちひしがれた人々、貧しい人々に福音=一切のものが悩み苦しみ思い煩わない神の義と喜び》
しか、私たちには無いが―「神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者〜(しかし)おおよそ、自分を高くする者は低くされ(ルカ)
人の手で造られた物を必要とし喜びながら《世と世にあるもの》誰ひとり信仰をゆるすことをなさらないのが神。それらは、神と永遠の命に無いもので―使徒たちは主に「わたしたちの
信仰を増してください」と言った・・・「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら(ルカ)
■天国で神と一緒にいなかった者が地上で
―御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって(ガラテヤ)神と一緒にいたあなたは、地上で肉を宿とし離れたが、そのただ中にあるもので肉で
ある時を従えさせようとする、それは《無にならないと決してわからない、何でもできる唯一の神》に従うもので、地上で益をもたらす。
信じる者の対立=宗教対立、貪りを善いことのようにして地球環境破壊、働けるのに働かないで親を困らせたり、過労問題、働けない者への衣食住の施し、天国の公平とあわれみと・
格差是正をよいこと・・・
―あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ〜病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである〜正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは
(マタイ)
神は必要なものはご存知で、全世界悪しき者の配下とされたが(天のもののように、地上で盗み・殺人・・・あやまちをゆるしてやれ)というように、〔死刑制度のある人類と、個人的に
少々の害を与える者があれば、目には目をに従わず、ゆるして平安に暮らそう〕・・・そういった両方が人間の状態である。
■悪い者が天にあるものに従い
公平に従い、悩み苦しみ思い煩いを与えた者に法律で裁く、他の者より偉い者は、身体の悩み苦しみ思い煩いを取り除く医者で先生と尊敬など人間に仕え、おいしい物を貪り偉いとしな
い、囚人が世の欲得から離れ監獄で更生、世の欲得から離れ病院で治療、ほしいままの肉欲を善いと食べ、メタボリック、快楽を貪るより外で元気に遊ぶ子・・・
■地上での信仰【聖霊に満ちて荒野】
最後は「山へ逃げよ」草や木・生物・・・大自然を生物への慈しみは神と永遠の命に近い者と造られた。一日の苦労はその日一日を善いと受け入れ、過労を避け、肉の主人に誠実に仕え、
益をもたらす人・・「よい天気ですね」と挨拶できるその心ですら、神と永遠に通じるのである。そういった者となり、かなえられるためである。〔もちろん、信仰ありは完全=ただ、
衣食があれば足り、この世の有様は過ぎ去り、何事も思い煩わないようになること〕
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† エペソ6章10-12節
終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、
また天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
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誰でも、人々に仕え働くのが【良識ある者】。私たちは、信仰により救われる者はいない。
父は無にならないとわからない。神様は【地上のものに心を一切引かれぬ霊を信仰あり】とされ、賢くなり罪を犯した者どもを『栄華と権威をもっと欲しい・肉の欲、目の欲、持ち物の
誇りを何も問題ない』という【悪しき者の配下と】造られた。それは、罪を犯した者でも《人はわれわれのように善悪を知り、命の木からも取って食べ永久に生きるであろうか?》
人は信仰により救われる者はおらず《自分の命を憎め》《自分自身を憎んだ者は、いまだかってひとりもいない〜あなたは幸福になり、地上でながく生きられるであろう。父たる子よ、
〜主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい(エペソ)
父の働きにより、罪を犯した者=人間ですら必要なものはご存知でよくして下さったのである。働こうとしても働けず、肉の欲・目の欲・持ち物の誇りから離れても悪と定められず、
他人に負担をかけまいと労苦して働いても、こころある人間なら当たり前。大震災で、肉の欲・・・をまるで善いことのように報じるマスコミまでもが自制し、義捐金を・・・
しかし、神様は人類に危害を加える方ではなく、人間でいたいと生まれた生命のあるがままで、信仰あり重荷を負うことの無い者は、地上のものに心を引かれず、何事も思い煩わ
ない者だけ。多くを失っても耐え、略奪や暴動などしない人々は、神の右に近い者で、一方で天罰などと言う者どもは、神の怒りの滅びの者なのである。
地上のことで何かを信じる者は戦争さえする(しなくとも信仰のことで争う)しかし、信じないで、富に仕え、悪しき栄華や権威をもっと、肉の欲・目の欲・持ち物の誇りを何も問題な
いとする人々は、人間が無にならないとわからない父から離れ、内に霊を宿し御言葉を受け入れかなえられる者になるどころか、神様が教える、
― 一日の苦労は、その日一日だけで十分(マタイ)に反し、【人々への富への貪欲、肉の欲・目の欲・持ち物の誇りにの貪りにあくせく仕え労苦する者は地の奴隷・悪魔の子】と
して、決して神と永遠の命に無い滅びの者どもで、無から離れ『地球環境破壊』によっても、そのままでは、人類はいつか永久に生きない者となる=難が起きるかもしれない=義人
に知れるようになった。
■人格ある者は誰も知らない
―これらの事が、ことごとく起きるまでは、この時代は滅びることがない。天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。その日、その時は、だれも知らない。
天にいる御使いたちも、また子(イエス)も知らない。ただ父だけが知っておられる(マルコ)
無になりあなたがたは何でもできる父のみの構造にあるのであり、人格神=神様は誰も知らない。
―御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって に反し、悪しき肉の思いをまるで善いことのようにするなら、患難が起きるようにされた。
たとえば、経済を優先し過労を悪とせず、肉の欲・目の欲・持ち物の誇りの貪りが世間に益がもたらせられると思い込めば、地球環境破壊=全て無にならないとわからない父に反して
難が起きる構造=創造。
■永遠の命の者と救われる者
―民は民に、国は国に敵対し立ち上がるであろう〜福音はまずすべての民に宣べ伝えねばならない〜語る者はあなたがた自身ではなくて、聖霊である〜あなたがたはわたしの名のゆえ
に、すべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる〜山へ逃げよ〜その日には、この患難の後、日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落
ち、天体は揺り動かされるであろう〜大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう(マルコ)
肉の者は、『何でこのようになった・・』など、人の子と選民は子を怒らせないで主の薫陶と訓戒とにより育てるためのもので、
■終わりの日
『命の木からも取って食べず永久に生きない者が』肉の思いのまま、無=何でもできる全能の神から離れ、患難の後の滅びに至る。しかし、あなたがた自身より御言葉を善いと受け入
れて耐え忍んで生きる者は、聖なる所の永遠の命を神様に近く、《山へ逃げよ》=《聖霊に満ち荒野の者》のように世と世にあるものから離れ、神様にもっとも近い者を喜び、
日も無く、月も無く、星も天体も無く、神様と共になんでもできる父と共に在るであろう。
主よ といって偶像礼拝的な教え=人の子 は―子供をおこらせないで、主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい(エペソ)のためのもの。
>>679
新約聖書で各書の成立順
50〜52年頃、テサロニケの信徒への手紙1
53〜54年頃、ガラテヤの信徒への手紙
54年頃、コリントの信徒への手紙1
コリントの信徒への手紙2
55〜56年、ローマの信徒への手紙
60年頃、フィリピの信徒への手紙
フィレモンへの手紙
50〜60年代、マルコによる福音書
70年以降(ユダヤ戦争後)ヤコブの手紙
70年以降(ユダヤ戦争後)ヘブライ人への手紙
80年頃、コロサイ信徒への手紙
80〜90年頃、マタイによる福音書
90年前後で最終形は2世紀初頭、ヨハネによる福音書
90年前後、ヨハネの黙示録
90年頃、エフェソス信徒への手紙
90年代(あるいは2世紀初め)ルカによる福音書
使徒言行録
90年代後半、テサロニケ信徒へ手紙2
1世紀末頃、ユダの手紙
96年頃(1世紀末)ペテロの第一の手紙
2世紀初頭、ヨハネの第一の手紙
2世紀前半頃、ヨハネの第二の手紙、第三の手紙
2世紀初めから中頃(100年代)テモテへの第一の手紙
テモテへ第二の手紙
テトスへの手紙
2世紀後半、ペテロの第二の手紙 《人の子は地上で罪をゆるす権威》
―父たる者よ、子供をおこらせないで、主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい(エペソ)
神様は地上のものに心を一切引かれない国と何事も思い煩わない国とあなたがたは何でもできる世界を信仰あり義とされて存在しているが、私たちは『ただ衣食があれば足り、何事
も思い煩わない』ことをよしとして信仰のみに生きることなく、神様に常に罪を犯し続けて=地上のものに心を引かれない国で喜ぶことなく、人間として叶えられた。
人間というものは《土に帰る》もので、もうあなたがたには《からし種一粒ほどの信仰は無い、いくら「神よ、主よ、人間の宗教に毒されても、それは全て無効」》というように
造られ、神を信じるイスラエルに地上で罪をゆるす権威でイエスが神の栄光とわざと、あわれみの行いをされた。
人の子=偶像は、イスラエル限定のものであり、また、子供をおこらせないように教える ためのもの。
大人が子供のように、大人に教えるから、真実が伝わらなくなる。
教会がまともなら、イエスに反論できる者はひとりもいない。―人には〜神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。また人の子に対して言い逆
う者はゆるされるであろう〜しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でもゆるされることはない(マタイ)
真理の御霊と、神様が直接説かれたことを参考にすれば、イエスに忠実であればよいだけ。
■偶像なるものは実際には世に存在しないこと
―不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである〜彼らは神の真理を変えて虚偽とし、創造主の変わりに被造物を拝み、これに仕えたのである。創造
主こそ永遠にほむべきものである(ローマ人への手紙)
無→天体(宇宙・太陽や月)→地球→生物と大自然 イエスは世の終わりのたとえで、創めを教えようとされた。聖霊に満ちて荒野と生物への慈悲・自分自身に一切囚われること
の無い、平安に満ち安らぎに満ち一切のものが何事も思い煩うことのないよう祈る=願う天国に通じる人。
霊に無い者を恥ずかしいとする賢い大人。自分の心の中であふれんばかりのことで信仰する者であってはならない。他人の心の中でのあふれんばかりで作られた信仰は、悪しき者
に従っている。
神は霊のみを信仰ありとされ、被造物は無にならねば霊になれず、【地上のものに心を一切引かれず、神の栄光の姿=イエス と何事も思い煩わないよう努めないと】神の栄光の者と
なれない。【土に帰る・しばしの間現れてたちまち消え行く人間】は、人間の宗教的行為・行事は一切通じず、《からし種一粒ほどの信仰の無い者》と神の法律=神の強い意思での決ま
りとなっている。裁くためではなく救うのがイエス・キリスト。世と世にあるものを必要とし喜ぶ者は、決して神に信仰ありと自任できる者はいないという決まりと他の者たちと同じ、
【ただ、人間でいたいと心で願い、既にかなえられた存在】なのだ。
【聖霊】神と共に一切のものが平安に満ち、安らぎに満ち、一切のものが悩み苦しみ思い煩うことの無いことを喜び、何でもできる神と一つとなる国。
神様は、その国を義とし地上のものに心を引かれない者を信仰ありとされているから、人には神を汚す言葉もゆるされる。「人が勝手に神を信じて、何も善いことをしれ
れない」と汚してもゆるされる。神様にとって、【罪人は監獄の囚人=この世】であり、その囚人が悔い改め【地上のものに心を引かれず、何事も思い煩わないよう努めな
い限り、出ることをゆるされない】のである。
何事も思い煩わないようあわれんだり、戦争など苦しみをもたらすことを厭い、平和を願う心の中の働きなど・・が神と永遠の命につながっている。キリストはそのこと
を教え救うため。
【富に仕え、肉の欲・目の欲・持ち物の誇りにあくせく仕える 地の奴隷・悪魔の子】
人間の貪りにあくせく仕え悩み苦しみ思い煩い、金を得て、肉の欲・目の欲・持ち物の誇りを喜ぶだけの者たちに、神と永遠の命は無い。滅びの者として属する者では
ないのである。(神は存在する)そういったものからの信じる者への救い。何も信じない者が行うことなのである。
前奏
招詞
(マタイ11:28−30)
全て 疲れた人 重荷を負っている人は わたしのところに来なさい
わたしがあなたがたを休ませてあげます
わたしは心優しく へりくだっているから
あなたがたもわたしのくびきを負って わたしから学びなさい
そうすればたましいに安らぎが来ます
わたしのくびきは負いやすく わたしの荷は軽いからです。
http://www.geocities.jpshirogane_churchr_js_s.html
頌栄66
1 聖なる 聖なる 聖なるかな 三つにいまして ―つなる
神の御名をば あさまだき おきいでてこそ ほめまつれ
2 聖なる 聖なる 聖なるかな 神のみまえに 聖徒らも
かむりをすてて ふしおがみ みつかいたちも み名をほむ
3 聖なる 聖なる 聖なるかな 罪ある目には 見えねども
みいつくしみの 満ちたれる 神のさかえぞ たぐいなき
4 聖なる 聖なる 聖なるかな み手のわざなる ものみなは
三つにいまして 一つなる 神の大御名 ほめ奉らん アーメン。
https://www.youtube.comwatchv=0dMelXEdnTE 【イエス】無教会の人が集うスレ【キリスト】
教会に行かない
もしくは行かなくなったが
イエスキリストを信じる人の集うスレです
ヒルテイにならいてさん。最近こなくなったね。
教会に行って牧師先生や神父様と話をして
2ちゃんねるを止められたのかなぁ。だとしたら残念です。
一言申上度候。
カール・ヒルティ曰く、
常に大思想をもって生き、瑣末の事柄を軽視する慣わしを持て」と。
>>777
> ume
祝・777げと
\(~o~)/\(~o~)/\(~o~)/ >>900
> ume
祝 900げと
\(^^)/\(^^)/\(^^)/ ume、ねえww
まことの精一杯の抵抗だなwww
文面も読んでもらえないし(笑)
ハッキング盗聴なんて、宗教2chに、まことしかいないから書けるんだなww
lud20200806163356ca
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