◎正当な理由による書き込みの削除について: 生島英之とみられる方へ:
「徳川家康」→コイツが3英傑でダントツな不人気な理由 [639230687]->画像>3枚
動画、画像抽出 ||
この掲示板へ
類似スレ
掲示板一覧 人気スレ 動画人気順
このスレへの固定リンク: http://5chb.net/r/poverty/1735382975/
ヒント:5chスレのurlに http://xxxx.5chb.net/xxxx のようにbを入れるだけでここでスレ保存、閲覧できます。
!extend:default:default:1000:512:donguri=0/3
!extend:default:default:1000:512:donguri=0/3
徳川家康は、なぜ武将としての人気がないのか。
織田信長や豊臣秀吉に比べて明らかに人気がない
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14168734904
VIPQ2_EXTDAT: default:default:1000:512:donguri=0/3: EXT was configured
そもそも人気ってなに
どういう状態が人気あるなあってなるの
信長秀吉よら家康の方が人気あるやろ
関ヶ原より前は武田に殺されかけたのと本能寺のときに逃げ出したくらいしか有名で無いから
一番人間性を失くしてるから
本多正信と揃って、人間じゃない
>>12 信長みたいな無差別殺人鬼のどこが人気なんだ?
三英傑で会ったら一番ペコペコするポジションだからじゃね
最近は秀吉の人気が急落してるだろ
大河で豊臣兄弟!やってどれだけ好感度上がるか
有名な合戦が少ない気がする
関ヶ原も激しいぶつかりの前に調略で勝負着いてた感じだし
普通に一番評価高いやろ
ジジイになるほど有能になるという大器晩成型やしな
秀吉ってそんな好感度高い?
信長>>>壁>秀吉≥家康くらいのもんじゃないの?
正室と嫡男ころしたのはあの時代でも引かれるんじゃね
地味だからな
盛りまくりエピソードと晩年のやらかしの秀吉とはそこが違う
信長は江戸時代まで人気なかったらしい
天皇崇拝していたから明治時代に再評価されたと聞いた
>>34 信長みたいに力押しばかりしなかったから天下を取れた
漁夫の利感がすごい
信長が今川を倒したので独立、信長が武田を滅ぼしたので領土拡大、秀吉がいなくなったので政権乗っ取りetc
幕府を正当化するために神格化された
秀吉や信長は独裁者扱いになった
信長、秀吉と比べて武将としての実績が全然ないよね
なのにいつの間にか天下取ってたとかよく分からない
秀吉は割と強いキャラ枠になったりするけど家康は策略キャラのデブジジイポジが多いな
家康は主人公にしにくいからなあ
晩年まで含めたら長すぎるし
若い頃派手なエピソードもないし
300年近い平和を作ったから、反日には困るんだろな
>>34 昔は立身出世の象徴として人気があった
最近はそういう時代じゃないし秀次事件やら朝鮮征伐やら負の一面もあって人気が落ちた
裏工作は物凄かったんだろうけどそれが書かれることはないからな
>>4 周りから話しててつまらないって言われてそう
てか友達いなさそう
人質から殿様として帰還まで→大したエピソード無い
織田家盟友時代 浅井朝倉戦、武田糞漏らし、本能寺逃げ帰り、小牧長久手→エピソードはあるけど脇役
豊臣家臣時代→秀吉死ぬまで有名なエピソード無し
秀吉没後まででもずっと重要なポジションいたわりに時代の中心人物として活躍する話があんまねーんだもん
花の慶次のヤシと影武者徳川家康が同一人物とは想えん
耐えてたら天下が転がり込んできた的な見方が一般的な気がする
花の慶次だとムキムキのクソジジイだからな
子供の頃は信長秀吉が好きだったけどなんだかんだで今は家康が一番有能だと思う
ゲームや漫画の見過ぎでとりあえずバトルするやつが人気なんだろ
成功者は不人気なんだよ
ローカル線でも経営成功してるひたちなか海浜鉄道はあんまりユーチューブでも取り上げずに潰れそう潰れそう騒いでる銚子電鉄が人気だろ?そうゆう事だよ
内政力の鬼
今でも武蔵野田舎なのにな
あの時代あの年齢で関東とか普通嫌だろ
>>42 それを言ったら信長の幸運もすごいぞ
桶狭間の一か八かの奇襲の成功、斎藤義龍が都合よく死ぬ、
都合よく足利義昭から上洛をうながされる、
都合よく信玄と謙信が死ぬ。
天下は自分のためにあると驕ってしまうわ
この人がやったえげつないことの提案元はたいてい本多正信だけどな
まあやれっていった責任はあるけど
忠実な部下のふりして有能な奴ら消えたら簒奪だからどちらかといえば三国志司馬懿に近い
信長秀吉は重商
家康は農本主義で引きこもりしたから人気がない
普通に三国志でも司馬懿より曹操の方が人気ありそうだからそう言う事だろ
家康見参!って闘ってるイメージないからでは
三國志でいったら統一後の司馬なんとかみたいな
曹丕ですらないような…あくまでイメージだけど
実際には数々の戦を闘ってるんだよな
小説が三つならんでて三人の名前かかれてても
一人だけ最終的に天下を手にした官僚の人でしょ?面白いのかなみたいな感覚がする
違うのもわかるけど
名前が地味だよな
織田信長 あまりにも華やかすぎる
豊臣秀吉 雅さが感じられる
徳川家康 ???
武田信玄、上杉謙信、伊達政宗なんかもかっけーもん
真田幸村なんて、田と村なんて田舎漢字が半分占めてるのに謎のかっこよさあるしな
>>10 信長といえば桶狭間
家康といえば関ケ原と大阪の陣
じゃあ秀吉といえば何になるんだ?
信長や秀吉は実力で成り上がったけど家康は運が良かっただけってイメージなんだよな
信長や秀吉みたいな物語として面白いところが少ないのがね…
結局無から成り上がった秀吉が最強なんだよな
秀吉いなかったら信長はあそこまで行けたか
土着のクソ三河武士どもの領土をまるっと再編成出来たのがデカかったな
つくづく秀吉はアホ
破天荒な革命児
農民から天下人
漁夫の利なうんこ漏らし長生きお爺さん
>>87 山崎の戦い
賤ヶ岳の戦い
小牧・長久手の戦い
小田原の戦い
自分で何か成し遂げてるわけじゃないからな
豊臣家の内紛に乗っかって天下取っただけだし
九州征伐やら小田原攻めやって天下統一したのは秀吉
>>62 三傑という点以外は孫権と家康って似てるとこ何もなくね
一国の絶対君主ではなく領主連合の盟主として国を治めた点では毛利が孫権に似てる結局地方止まりで水軍の評価高い所もな
>>93 合戦好きはそりゃ知ってるけど
一般人に聞いてみたらどうだろう?
美味しい所だけ持って行った人でしょ
手柄をあげて出世した秀吉とは違い過ぎる
250年も太平の世を築いたから日本史で一番偉大な支配者ではある
>>97 小牧・長久手の戦い
これってむしろ家康の戦いに挙げてもいいのでは
なお海外知名度はダントツで家康の模様
SHOGUNといえば頼朝でも尊氏でもなく家康の事を示すからね
>>44 家康は今川や武田と何度も合戦しとるやん
小牧長久手では秀吉にも勝ったやん
江戸時代上方が相変わらず文化の中心やった
その上方で特に大阪人好みの人物像として秀吉の物語が脚色され作られていった
家康は上方の敵やから狸おやじのイメージになっていってそれが現代まで続いとる
>>46 秀吉こそ策略やろ
まともに合戦してない
三河平定から遠江、金ケ崎、武田戦、姉川とずっと苦労しかしてない印象なんだが
そんな楽してるように見えるかな
日本人の判官贔屓で
その反対に回ったやつ
たとえば源義経に対する源頼朝
西郷隆盛に対する大久保利通
みたいなやつはなんか人気がない
家康もその一人である
簒奪者だからな
たまたま秀吉が早死してたまたまその跡継ぎの秀頼が幼くてたまたま家康が長生きしたから天下を取れたってだけでしかない
健康と子沢山の大事さを知ってた人だな
秀吉がとっくに死んでた年齢でも陣中にいたんだから
>>116 秀吉は「人たらしの天才」ってパワーワードが強いと思う
>>39 秀吉は竹中直人のイメージが強すぎるけどじゃあ信長は?ってなるとパッと思い浮かばない
そりゃ司馬遼太郎が
家康を題材に小説をいくつか書いても
上手いことハマらなかったからだね
徳川も意図的に国民をほどほどに貧乏にしてたんだよな
>>92 逆に信長に仕えてなければ秀吉はここまで出世出来なかったと思う
やっぱ鐘にイチャモンつけて大坂の陣やらかしたのが原因じゃねぇの?
>>124 それって司馬遼太郎さんが描いた秀吉像で
ホントは違うんじゃねと思う
秀吉には黒田官兵衛、竹中半兵衛っていうのがいて「天才軍師」っていわれてて
そのあたりも好イメージにつながってるかも
秀吉のほうに有名なエピソードや合戦譚なんかが多いように感じるのは
江戸時代に上方で秀吉を粋(すい)で利発で気配りの利く男前として物語が作られていったからや
家康かて色々な合戦を戦うてるし作ろうと思えば色んな話を作れるはずやけど
国民的な伝承上の人になるには一人や二人の作家では不足で
民衆的な基盤がのうてはならず
それが秀吉にはあったけど家康にはなかったんや
>>125 してないよ
天下の意味も簒奪の意味もわかってなさそう
>>1 (ヽ´ん`)福田定一が秀吉びいきで家康嫌いだから
豊臣政権が継続してればもっと早い時期に文明開化してたと思う
>>125 そもそも織田は天下を取ってないし織田の勢力を引き継いだのは信雄だぞ
秀吉は実力で柴田や信雄を降した
三方ヶ原とか伊賀越えとかフルボッコされて負けたそこのイメージが強いからな
>>127 司馬さんのは
『覇王の家』だけだと、小牧長久手終わったら即死亡まで飛ぶからな
間は『関ヶ原』と『城塞』その他を読んでねって
>>128 家康は貿易に利をあまり知らない人だったかもな
家康が人気ない理由は、真田幸村が武将の中で一番人気があるから
幸村の敵だから人気がない
>>140 じゃあ家康も実力で豊臣家を滅ぼしたんだから
同じやん?
総理大臣で言えば
安倍晋三
菅ときて岸田が家康みたいなもん
>>129 秀吉という天才がいなかったら信長の躍進もなかっただろ
斎藤龍興を倒せたのも浅井朝倉にやられずに済んだのも全部秀吉さんがいたからじゃないか
>>132 半兵衛は若くして亡くなったからしゃあないけどさ
官兵衛かわいそうよな……最後まで忠実に仕えたのにたった12万石の国主
まさに釣った魚に餌はやらない秀吉の本性が見えるな
ワイは幕藩体制で260年内戦を起こさなかった統治能力が好きやけどな
>>145 そんなこたねー
ウィリアム・アダムスとかの話もあるでしょ
鎖国したのは家光
>>125 現代の三英傑のイメージが作られた江戸時代に立ち返って考えると
当時織田信長は叡山を焼き討ちしたり朝廷を軽んじた暴君という扱いやった
秀吉は(史実もそうやったけど)朝廷寺社その他上方の伝統を重んじる姿勢をみせたから
江戸時代に入ってから商人の街大阪の人々の好みも加味する形で好意的な人物像が作られるようになって
それが基本的には続いてるんや
家康はそのような民衆レベルでの持ち上げていこうとする機運がないままやし
信長が維新以後の反日崇欧米的風潮から破壊者として持ち上げられだした(風貌も西洋風にえがかれるw)のが大きな変化か
>>137 秀頼が淀君を切れたならな
豊臣政権はたぶん淀君達のグループが中心になって公家化してむしろ保守的になったと思う
秀吉死ぬまではペコペコからの死んだら豊臣滅ぼしがやっぱり印象悪いよ
>>127 根本的に司馬は大阪人やから
東京に阿るにも限度があったんやろな
今川で冷遇されてただの信長にパシられるし嫡男処分命じられただの信玄に虐められ盟約違反されただの秀吉に何も無い関東に送られただの全部嘘だし
日本の歴史(中世~近世)
◆鎌倉幕府(1185~1333年)◆
【勝者】源頼朝:藤姓熱田大宮司一族(本貫地/三河国額田郡乙見)
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮宮司)→由良御前(源義朝の室)→源頼朝
◆室町幕府(1338~1576年)◆
【勝者】足利尊氏:三河守護
・足利将軍家以外では、足利一門として吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)、今川氏(本貫地/三河国幡豆郡今川)、石橋氏(本貫地/三河国設楽郡石橋)が将軍継承権を有した
・守護職は本貫地を三河国にする者が最大人数
・奉公衆(江戸幕府の旗本に相当)は、本貫地を三河国にする者が最大人数、又三河国の奉公衆も最大人数
◆応仁の乱(1467~1477年)◆
【勝者】細川政元:細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・ ”東博本洛中洛外図”には当時の権力者として細川氏邸、額田氏邸(細川氏被官)が描かれている
◆明応の政変(1493年)◆
【勝者】細川政元:細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・半将軍と呼ばれ、幕政を完全に掌握、事実上日本のトップに立つ
◆関ヶ原の戦い(1600年)◆
【勝者】徳川家康:本貫地/三河国加茂郡松平
◆江戸幕府(1603~1868年)◆
【勝者】徳川家康:本貫地/三河国加茂郡松平
・大名の5割が三河国出身
・附家老の8割が三河国出身
・旗本の4割が三河国出身、高家筆頭は吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)
◆大坂の役(1614~1615年)◆
【勝者】徳川家康、徳川秀忠:本貫地/三河国加茂郡松平
下手に神君になっちゃったせいで面白エピソードが創作されなかったんじゃね知らんけど
>>147 家康は簒奪してからトヨトミを滅ぼした
秀吉が死んだ途端法度違反の勝手な外交をしまくって各大名を姻戚にして豊臣から政権を簒奪した
【三河最強伝説】
■源義家軍
総大将:源義家
本体:三河武士(郎党1 兵藤正経 三河国住人、郎党2 伴助兼 三河伴氏 三河国住人)
■源頼朝軍
総大将:源範頼(三河守)
本体:三河武士
■足利尊氏軍
総大将:足利尊氏(三河守護(但し当時は喪中))
本体:三河武士
■徳川家康軍
総大将:徳川家康(三河守)
本体:三河武士
■トヨタグループ
総大将:トヨタ自動車
本体:三河武士
信長は凶暴、秀吉は狡猾なイメージだけど
家康は穏やかな感じだよね
司馬遼太郎は勿論優れた文才をもってたんやろけど
ただ当時そんな人は他にもおったはずであって
東京に阿る大阪人っていうのが当時必要な人材やったんやろな
気持ちよくなれる東京人にとっても
大阪人が現実を受け入れるうえでも
>>164 めちゃくちゃ人気あるだろ
大阪の人なんか未だに太閤さんって言ってるし
江戸っ子で家康を神君様なんて言ってるの聞いた事ない
司馬遼太郎は家康がわるいってゆうけど
敗戦に導いたのは明治維新だよなあ・・・
ぎゃくちゃうの?
>>145 国民がそこそこ貧乏の方が統治しやすいからだよ
金持ちは一部だけで良い。
金持ち増やすと危険だし、貧乏すぎても反乱で危険
今のワークニも同じ
>>173 大阪人って新政府も徳川も好きじゃなくて秀吉派が多いのがまたお膝元感あっておもしろい
信長→天下統一を目指した男
秀吉→信長の跡を引き継いで天下統一を成し遂げた男
家康→秀吉の死後ちゃっかり天下を乗っ取った男
>>155 秀吉人気は江戸時代に
『絵本太閤記』やそのお芝居がウケたから
最も、お上をはばかって「羽柴秀吉」じゃなくて「真柴久吉」とか、名前を変えてやってたそうだが
>>169 一番狡猾で邪悪で冷酷なのが家康
保身のために自分の正妻を殺して長男を切腹させた
>>34 昭和の頃一番人気だった時代があるらしいよ
>>175 司馬は長州閥をめちゃくちゃに批判してるよな
陸軍批判に絡んで母体は長州閥でそこが元凶と書いてる
とんでもないクズ犯罪者だろ
家康を英雄視するとか安倍をヒーローとして持ち上げるようなもん
>>174 狸親父ってあだ名のせいじゃね
容姿がタヌキに似てるからではないはずだしタヌキ自体も冬毛がモコモコなだけでデブじゃないんだけど
なんか面白い
滝山寺(三河県岡崎市)
源頼朝の歯と顎髭が埋め込まれた 頼朝等身大の聖観音像
全てはこの仏像に秘密がある
三河の源頼朝、三河の足利尊氏から受け継いだ伝統と歴史を継承する責務を受け継いだだけなのが三河の徳川家康だ
三河が試行錯誤して完成させた日本統治システムは、徳川が編み出した物ではない
源義家は郎党NO1NO2が三河武士と伝え、嫡男義親の生母は源隆長(三河守)の娘であり、実は義家実子と言われる為義の生母も源隆長(三河守)の娘と思われる
そして義国の正室は三河国造家中原季成の孫娘
源義家(1039~1106)
藤原季兼(1044~1101)
生没年がほぼ同じの、この二人、三河を舞台に繋がり持ったとしか思えないのである
義家の曾孫は源頼朝、足利義兼であり、季兼の曾孫も源頼朝、足利義兼なのである
三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流)
系図:藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))
■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡乙見、三河県岡崎市)
・頼朝の母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎大夫)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・季兼は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り三河国加茂郡(三河県豊田市)に土着
・季兼は、三河国加茂郡(三河県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券する
・季兼は、三河国額田郡(三河県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼は、三河国設楽郡稲木(三河県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を支配下におく
・季兼室の松御前(尾張員職の娘)は、晩年新城市稲木で過し没した(城ヶ峰の山頂(三河県新城市)に墓あり)
・季兼は、藤原資良(父の従兄弟)が尾張守になり、息子(藤原季範、額田冠者)と共に三河に住みながら尾張目代を務める
・季兼の息子である藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)
・藤原季範(額田冠者)の娘(由良御前)は源義朝の正室となり、源頼朝を生む
・藤原季範(額田冠者)の娘(養女(実父は藤原範忠))は源義康の正室となり、足利義兼を生む
とりわけ今のタイパコスパ世代には
大器晩成型って不人気だろ
>>183 絵本太閤記でも秀吉は
プライドから武士の倫理に外れる主君殺しをやって母や妻に攻められる武智光秀と対比するように
気配りができて女性に優しく頭のいい智将という人物像になってるな
最近は秀吉が一番人気無いだろ
陰険な成り上がり者で残虐死刑多過ぎなのがバレた
最上義光だったかが言うには「もしも家康と秀吉が戦ったら秀吉が勝つ。秀吉と信長が戦ったら信長が勝つ」ということらしい
>>173 それ仙台で伊達政宗が人気とかと同じレベルだろ
つーか1603年までは幕府のない状態で天皇の支配さえなかったんだから
豊臣から天下を奪ったというのはどうもね
こいつのお陰で300年の暗黒時代が訪れたからな
例え飢饉が起ころうが班任せで何もせず徳川だけ栄えればヨシの政治だった
一向宗の降伏を拒否したらヤケクソの玉砕特攻をかまされて自分の親族ぶち殺されまくるとか信長もクズでアホみたいな話多いな
歴史は勝者が作るのに数百年後にうんこ漏らして食い逃げして茶屋のババアに捕まったたぬきって言い伝えられてるの何
>>161 今川家では姪と婚姻させてもらえるなど待遇良かったしな
まぁ信玄に三方ヶ原でボコられてうんこ漏らしちゃったのは事実だからしゃあないけどな
>>186 鎖国した徳川家の政策が(家康本人は鎖国してへんけど)
戦後の海外拡大を目指さへん小日本主義のモデルケースとして注目されたのと
戦前の総力戦体制のころから持続しつつあった東京一極集中政策を
本格化させるうえで持ち上げると都合のいい人物になったからやな
まあ家康人気はもうなくなったというてええやろけどな
>>198 多分
現代人のルッキズムの被害者なんだろうね
信長はまあイケメンに描かれてるが秀吉はなかなかそうはできないからな
>>205 それも逸話でしかないけど数少ない愛され要素だから無くしちゃ勿体ない
>>201 家康は愛知でも静岡でもそんな人気じゃないだろ少なくとも天下人に相応しい人気ではない
身長150cm以下で
体重130キロぐらいあったんだろ
デブだから人気が微妙
何しろ坂本龍馬すら大半が創作で教科書から消えるレベルだから
それ以前なんて当時の厨二作家がそれっぽく書いてたのが伝わっただけな気がする
葵徳川三代面白かったよな。
家康を描いた映画ドラマはあれが最高だわ。
関ヶ原の役所家康も好きだけど。
>>198 三木城のこれ 別な本でも書いてあってびっくりした
切腹したから兵士は助けるって言われてきてたのに
>こうして三木城は開城し、2年以上にわたる三木城の戦いは終わりを告げたのでした。なお、
城主一族の切腹により助かるはずだった城兵たちですが、秀吉は立てこもった人々を
一ヶ所に集めて殺害するよう命じていたことが、当時の書状から分かります。
歴史的には評価できるよ
平和な世の中をつくって力こそパワーから
知性や経済へ移行した
しかし現代的価値観から見れば安倍
>>203 飢饉や一揆が起こりまくったひどい時代だったな
参勤交代などで江戸には富が集まってたから江戸は豊かだったけど
三河一向宗の寺は”以前”と同じようにするとか
君臣豊楽とかエピソードがいちいちクズすぎるから
>>203 こういうのも明治時代以来によく言われてた
徳川さえいなければ今頃日本は世界の先進国であった的な、なろう小説みたいな妄想
かつての江戸城に天皇いるからな
東京でも馴染みないんだよな
地方に行くととにかく観光地はとりあえず城、城主って感じで大名に馴染むけど
吉川英治の太閤記読んだら若き藤吉郎が「国民国家としての日本をつくらなければならぬ(キリッ)」的なネトウヨ愛国者になってて笑った記憶がある
まぁおもくそ戦時中に連載してたからな
ババアと政略結婚してたくせに
結局自由になったらロリコン処女厨だったからだろ
有能すぎるからしょうがないよ
他二人はちょっと抜けたところがあるからすぐに取って代わられたけど可愛げがあるとも言える
単に経済優先の社会だったから信長秀吉が好かれてただけで
これからは家康の時代だよw
ダントツってほどでもないと思うけど
結局明治維新で薩長が勝ったから関ケ原の揺り戻しが来たってとこじゃないのかな
>>205 最高権力者になったのに
こういうエピソードが残っているってことは
器がデカかったんだな
>>104 戦ってより太閤検地や刀狩とか政策の方が先に出そうだな秀吉は
あと戦じゃないけど中国大返しとかか
というか一般人は桶狭間の戦いと関ヶ原の戦いぐらいしか戦なんか言えないのでは?
>>189 狸親父って言葉自体は元からあったと思うよ
他にもタヌキって言われた人物いるし
デブとかジジイとか腹黒とかのイメージが家康にハマっただけだろう
大陸にいち早く斬り込んだ秀吉の判断力
黒船来航までのほほんと内政してた徳川家
>>237 まあ自民党は70年ぐらいたもってるけどなwww
国家安康とか難癖だけど
南光坊天海とか金地院崇伝だろ
難癖考えたの家康の手下坊主
越後の龍 甲斐の虎 美濃の蝮 鬼島津
↑かっこいい
一方の三英傑は猿と狸てさすがにダサすぎる
【 逆説の日本史 井沢元彦
://asumo.in.coocan.jp/study/r406.pdf
・・・頼朝・家康と尊氏は3人とも「幕府の初代征夷大将軍」だが、その資質には決定 的な違いがある。既に述べた「非情の決断力」である。政権運営にとって障害になるならば、弟だろうが息子だろうが、死に追いやっても 構わない、ということだ。
家康は当時逆らえなかった織田信長の命令で正妻と長男をいっぺんに殺したこともある。ところが尊氏は極めつきの愛妻家であった。欲もなくて、自分の持ち物をどんどん部下に与えてしまう人物であった。
頼朝・家康が「非情でケチ」だったのとは正反対だが、問題はこういう「友愛の人」がトップに立つと国はかえって乱れるということだ。理由は簡単で、国の平和にとって滅ぼしておくべき人物や組織を、頼朝・家康ならただちに潰せるが、「友愛の人」尊氏にはそれができないからである。
温情といえば聞こえはいいが、要するに優柔不断ということだ。決断が遅れに遅れるのも、「すべての人々が納得する結論を探そう」という、最初から不可能なことに拘るからだ。
そして、それに拘っているうちに大切な時間を失い「手遅れで病人を 死なせる」というような結果を招いてしまう。刑法を学んだ人間なら、誰でも知っている「カルネアデスの舟板」という故事がある。これはカルネアデスというギリシアの哲学者の出した有名な難問である・・・ 】
信長の人気がダントツなだけで、家康も秀吉も微妙じゃね?
伊達政宗とか武田信玄のが人気だろ
朱子学好きで農本主義だったから今の日本人からウケは悪いよ
秀吉も長宗我部攻めで闕字の不使用を理由の一つにしてるし隙を見せるのが悪い
朝鮮出兵は8年ぐらい戦ったのに
戦果なく撤退ってこれで西国大名が借金だらけになって
秀吉も評価がガタ落ちした
その隙に家康が台頭した
秀吉は佐々成政に九州はまだ荒れてるから検地しても重税を課すなと釘を差してたのに佐々成政は重税を課して一揆を起こされて切腹になったという話がある
秀吉は本当に頭がよく回る人だったようだ
織田信長→小栗旬
豊臣秀吉→山田孝之
徳川家康→濱田岳
な、濱田岳選ばんやろ~
本人と言うよりも家臣・兵卒が割とガチのマジで狭量・めんどくさ・クズいの安倍晋三の衆で仕上がってるのが基本仕様ってところがね…
クソ現実的で夢もなく似てて、俺は好きなんやけどな。
トロツキー(ロシア革命を成し遂げた立役者、後に暗殺された)
レーニン(トロツキーと共にソビエト政権を確立)
スターリン(レーニン死後に政権を簒奪、独裁化。反対者を次々と粛清した)
秀吉も一昔前は人たらしで剽軽な成り上がりの太閤さんで人気だったが冷酷な本性や晩年のとち狂った外征や粛清が知れ渡って人気が急落したな
越後の龍と呼ばれた上杉謙信だけど名前には虎が入ってたんだよな
長尾景虎、上杉政虎、上杉輝虎
上杉を虎で武田を龍にしたほうが良かったんじゃね?
>>251 秀吉政権のさらに酷いところは出兵大名に秀次、秀長たち豊臣一族が高利で戦費を貸しつけてたところなんだよな
理由は難癖つけて豊臣家から天下を奪った逆賊でしかな医から
豊臣秀頼が悪政を布いていた訳でも大名や武士、領民に嫌われていた訳でもない
単に徳川家康が天下を欲しただけ
まして孫娘を秀頼個正室として嫁がせていて豊臣徳川は縁戚関係であったにも関わらず
いたずらに戦乱を招いた張本人
>>251 朝鮮出兵が無ければ関ヶ原の戦い西軍勝ってそうだな
じんけん
>>265 それ秀吉じゃん
家康も秀吉が容赦なく信孝殺して信雄も追放したの見てきてるから躊躇が無かったんだろう
>>269 徳川綱吉の身長どう考えてもおかしいだろ
位牌のサイズがどうのこうのと聞くが
これは異常すぎる
>>273 数年前に徳川のお殿様が選挙で負けてた記憶あるで
>>266 そもそもそれだと関ヶ原の戦いは起こってないと思うよ
福島正則と加藤清正と黒田長政は朝鮮出兵に関しての石田三成への恨みで徳川方に着いてたからな
三成もこいつらに失脚させられてなかったら挙兵しようとも思わないだろうし
実際の所家康は自分の政権を自分の領土に一から作った上で朝廷から官職を貰ったのであって豊臣からは何も奪っていない
三法師を傀儡にした挙句織田政権をそのまま乗っ取った秀吉は真に簒奪者と言えるだろう
>>277 徳川の子孫であることと政治家の資質は別問題だろ
元首相でも歳を取ったら落選させるような土地だぞ
薩長史観で家康を貶めて秀吉を持ち上げてた影響が一昔前まではあったが最近になってそれも消えて正当に評価され始めてる感じ
秀吉は、小田原征伐であっさり勝っちゃったのが不味かったね
あれで西国大名をもっと消耗させてたら安泰だったのに
(信長と秀吉に比べたら)キャラが薄くて地味だからな
本能寺の変とか大阪夏の陣みたいな悲惨な最期が無いからかね🥺
>>282 90才越えてる不破を崇めてる共産党が良いのか?
死んでも銅像にして拝んでる北朝鮮が良いのか?
マンガの影武者徳川家康で
家康がケンシロウ体型になったの
あれは名状し難い気持ち悪さを覚えた
そら打ち切られるわな
真田幸村が大阪夏の陣で家康を切腹寸前まで追い込んだ、幸村が家康を討っていれば歴史は変わっていたね
ご当地性がないから
岡崎?浜松?江戸?駿河?
どこの名士なの?っていう
割とマジな話、明治以降の徳川否定、維新肯定の歴史観定着させるために必要以上に悪役やヒヒジジイっぽく描かれてたらしい
そりゃ織田の部下の秀吉の部下だったやつだからな
人気も必然的にその順になる
家康は大阪の陣で幸村に討たれてたほうが良かったんじゃないか
これの直後に死んでるし病死より戦場で散るほうが良かっただろ
どうやって天下統一したか理解してる人ってどれくらい居るんだろうな
明らかに信長・秀吉よりも能力があったよね
先に天下を取ったほうが能力があるとか
先に総理大臣になったほうが能力があると言っているのと同じレベルの暴論
まあ武田滅ぶまでは三河遠江とたっ2カ国しかとってないからなぁ
若い頃は戦国大名として雑魚すぎる
>>288 何で共産を持ち出してきてるのか知らんけど静岡では共産クソ弱だぞ
昭和の政治家とかはわりと尊敬する人物に挙げてた記憶がある
>>292 当時は生きてる内に世襲だぞ?
小泉純一郎が進次郎にやったのと同じ
譲らないで90才越えても崇められてる不破
とは大違いだろ
革新的な先駆者でもなく
有能な成り上がりの立身出世でもなく
先の2人の陰にあるように地味な感じのまま天下人になったからかな
明治維新は徳川政府への武力革命だからな
徳川政権でクソ味噌に扱われてた天コロちゃんの手前もあって、前政権を認める訳にはいかんのよ
>>261 そういうのは講談やらなんやらでそうなってたからとかだしなあ
越後の虎でも良いらしいけど
龍虎ということで物語は作りやすい
最後に全て持っていって勝ったのが家康だから
家康人気ビリくらいで総合的にバランスが取れる
>>312 糞味噌に扱われていたわけじゃないよ
孝明天皇は親幕府で公武合体派だったんだから
主君の織田信友殺した織田信長
信長の息子殺したり改易した豊臣秀吉
秀吉の息子殺した徳川家康
別に三人とも同じことしてるだけなのに家康だけ悪く言われる
山岡荘八の徳川家康が中韓では意外と売れてようで
あっちでは三英傑の中では家康が一番人気らしい
信玄が後1年長生きしてたら徳川は滅んでただろうし信長もどうなってたかわからない
信玄が病気で軍を引いちゃったから朝倉が撤退して松永の謀反も無駄になって浅井が滅ぼされてしまった
戦国無双とか三国無双で知識をつけました。
そのあと歴史に興味をもちたくさん勉強して地理の塾講師になりました。
ありがとうございました。
>>269 一番後の時代なのにちゃんと測ってないのかよ
>>260 成り上がりの人格としてはいかにもなんだがな
抜け目ない冷酷さと、どこまでも拡張していこうとする姿勢で最後は狂ったような失敗をしてしまうってのは
>>317 最近は秀吉もそれがバレて嫌われてるからな
>>318 その話毎回擦り続けてるけど
もう十年以上前の話でしょ
山岡荘八なんて中国人読んでねーよ
石田三成は対朝鮮で戦力を結集
それに家康が反発
さすが僕たちの家康
>>323 アルバイトですがなにがおかしいのでしょうか?
信長、秀吉は戦国の覇者だが、家康はあくまで統一政権下のクーデターだからな。
同一に並べるのがそもそもおかしい
小牧長久手の戦いの後に天正大地震なかったら家康は確実に秀吉に成敗されてた
『強くて勝った』からじゃないか。
人気が出るのは『強くて負けた』ヤツ。
中国でも李自成が人気あるのはそれが理由
劉邦とか劉備とかそういう感じだもんな家康
中国じゃ王道派として人気があるのかもしれん
曹操が意外と人気ないらしいし信長もそうだろう
>>184 しかもその責任を信長になすりつけようとした
見抜かれて失敗したけど
>>61 殿様といえども毎日木刀振ったり弓引いたり馬乗ったりと鍛錬してただろうし実際ムキムキだったろ
実質的に信長の跡を継いだノブオは長生きした
小牧・長久手の戦いの時は野望をいだいて秀吉に歯向かったけど結局長いものに巻かれる人間になったね
信長秀吉にペコペコしてるからどうしても格下感があるのがね
戦ってばかりの世の中を僕が終わらせる!
とかいう熱い思いあったのかな
うんちを漏らした事の無い者だけが大権現様を叩きなさい
>>87 合戦数と勝率で言えば秀吉は戦国でも一桁違うから代表的なの多すぎる
信子(ぱーてぃーちゃん)は本当に徳川家康の末裔なのか
普通家臣でも家系図あるよな
家康はなんかこう見せ場が少ない気がする
信長の桶狭間
秀吉なら賤ケ岳とか、そういうのがない
>>332 秀吉が基盤を固めずに死んだから各地で大名が独自の動きを始めて群雄割拠に戻るのは必至だっただろ
その尻拭いをして本当の意味で統一政権を作ったのが家康
>>340 中国歴代で一番楽に天下を取ったのってだれだろう?
趙匡胤だろうか
なぜか織田だけ無駄に大人気だよな
やっぱり死にざまがかっこいいからかな
>>157 正義連呼してて違和感あるキャラ付けだった
他の武将は史実やイメージ準拠のキャラ付けが多い中で正義マン家康はちょっとオリキャラが強すぎたわ
日本統一という訳でもなく最有力大名として戦国時代を凍結しただけなんで
海外と比べるとショボい
家康は関ヶ原だけで敵対勢力を一掃してるからな
秀吉みたいに敵対してる大名を各個撃破していく方が統一戦争やってる感はあるんだろうが少ない労力で成果を手にする方が優秀
デブのイメージが悪いから
イケメンだったら人気者になってたはず
信長はゲームとかマンガとかのフィクションで人気になってるイメージだな
一番好きやわ
山岡荘八さんに洗脳されたかもね(笑)
>>367 だから経営とかの本だと家康が人気になるんだろうな
着実に成果を上げるプロジェクトマネジメント的なやり方が仕事を連想させるのが日常の延長っぽくて非日常の物語として現実逃避して楽しむ事が出来ないからだろう
信長や秀吉みたいに欠点がある奴じゃないと感情移入しにくいんだよな
>>340 家康が中国で人気なのは戦争の無い長期統一政権を作ったから
中国は統一王朝が出来ても絶えず内乱や権力闘争で気が休まらず唐の太宗の20数年の貞観の治を後世まで崇めてるぐらいなのでそれがいかに凄い事かがよくわかっている
>>25 コレ
徳川憎しで生まれた政権
関ヶ原合戦の西軍総大将は毛利輝元
長州藩の藩祖
そして明治政府とは安倍まで続く長州の政府
>>384 安倍晋三もそのうち擬人化させられるんだろうな
棚からぼた餅みたいに言われるけど、ぼた餅を受け取れる位置に居続けるのも実力なんだけどね
イメージ的には信長秀吉に比べて華がない
棚ぼたといわれてるから
日本人からしたら許せないんだろう
秀吉の人気急落は大河で汚い部分を忖度して隠さずにキチガイボケ老人に描かれ始めたからというのもあるな
信長「京都御馬揃え!」
秀吉「北野大茶会!」「醍醐の花見!」
家康「摂津国茨木の放鷹の会!」
…家康くんちょっとエンタメは苦手なのかな?
タダカツー タダカツーって叫びながらしょっちゅう誘拐されるから
ラッキー珍大名っていかにもな造語だけど
5chでは意外と定着してるよな
>>149 信長の躍進は父信秀による津島と熱田の経済拠点として発展させて金を稼ぐ才能の巧みさだろ
戦国武将として商人寄りの金を稼ぐやり方を背中で信長に見せて受け継がせたからこその躍進だわ
結局は金、金がなきゃ鉄砲買えないし常備兵も雇えるわけが無いんだよ
>>380 まあ確かに260年続かせたんだからすごい人物だわな
まずデブだからカッコ悪い
晩年はめっちゃ肥満体だったのは事実だからねぇ
>>316 煕宮は幕府とおもくそ対立して他殺説まであるのに適当こき過ぎじゃね?
馬鹿じゃねえの
鳴くまで待とう → 嘘、めちゃくちゃ短気
脱糞 → 嘘、一次史料にそんなものない
信長の手下 → 嘘、信長はかなり家康に気を使ってた
こういう風に嘘ばっかりでよくわからなくなってるから
>>233 だよね
江戸城跡は葵の御紋が菊の御紋に変えられてる
明治維新からの大日本帝国は80年ほどだから
江戸時代はやはりスゴいな
食あたりで死んだとかダサすぎるから
あと徳川15代とかキモすぎるから
>>349 今まで絡むこと無かったから放っといたが馬鹿過ぎてウザいからNG入れるわ
じゃあな
>>80 結局これに尽きるよ
明治政府によって下げられた現在においても影響力あるからな
てか思い返すと大日本帝国はこの短い間に対外戦争ばかりだな
まあそういう時代だったから仕方ないんだろうけど
信長さん
当時のカルトを引き入れる
外交上手で信玄謙信朝廷使う
家が裕福
銃で撃たれた事もある
非常にしつこい足利さんを貶める
>>403 はあ?孝明天皇が親幕府で反長州だったのは有名な話だろ😅
他殺説があるのも長州に都合のいいタイミングで崩御したからだしな
406
>明治維新からの大日本帝国は80年ほどだから
>江戸時代はやはりスゴいな
明治の発展の方が凄い
>>410 平和でもないよ
地方の博物館とか行くと飢饉や一揆がおきた記録や資料とか残ってるし
江戸時代は本当に悲惨な時代だったとわかる
>>412 これはさすがに織田信雄をノブオと読んだヤツがバカだろ
安倍だ薩長だの言ってるケンモメンが明治以降の家康ネガキャンを全部真に受けてるのおもろいわ
江戸時代の頃に天下の徳川家に不満を持つ者が多くてその徳川家を苦しめた真田が人気になるからな
その影響が石田三成の人気にもなるし
世界史で見ても人気ある(知名度ある)のって安定した政治してた王より尖った政治してた王じゃない?
>>422 のぶおとも言われている
武将辞典でものぶかつ(のぶお)と書かれていることが多い
>>423 最近はそういう薩長史観も薄れてるから未だにその認識持ってるモメンはかなりのジジイなんだろうなw
こいつ戦国時代なのにまともに戦って領土拡大してないからな
全部どさくさなんだよw
>>422 割と昔の本よんでると
のぶお、になってるの多いよ
読み方は諸説あり
>>277 あれは先日亡くなった浜松の天皇が票を榛葉に回してたんで
信雄はのぶかつのぶおどっちだかわかってないぞ
信雄から雄の名前もらった人がかつって読むからかつじゃないかって言われてるけどハッキリしない
>>427 公開掲示板で語るなら、広く通用している方を使えよ
>>424 それ具体的には上方特に大阪人のことやぞ
昔天神祭りの船渡御のときに人形を載せてたけど
真田幸村もおった
源頼朝
足利尊氏
徳川家康
大久保利通
好きな奴いるの?(´・ω・`)
信長→まず家督争いがめちゃくちゃ壮絶、天下人になるまでもめちゃくちゃストーリー重厚、とにかくドラマチック、夢半ばで死ぬ
秀吉→とにかく成り上がり、自分の能力高すぎる、仲間たちと一緒に天下人へ。
家康→デブ、待ってただけ
>>428 戦後から高度成長期のころまでは
小日本主義っていうのがあって鎖国が見直されて家康が一番人気やったぞ(実は鎖国したのは家光ということはあまり強調されへんかった)
丁度東京一極集中が大々的に進められたころでもあった
>>430 昔の本にはフリガナが振ってあるのか
信長の野望、太閤立志伝はあるのに、家康のゲームはないよね?
やっぱ不人気だから作られなかったのかねえ
結局領土を切り取った経験がないから最後まで城攻めが下手だったしね
ほんとだせえよw
信長や秀吉は己の力で統一を目指したけどこいつは待ってただけ
棚ぼた天下人
信長は圧倒的強者の義元とのバトルを乗り切ったってのがあるからなあ
毛利だって厳島がなければ評価クソしょぼい事になってるだろ
立身出世物語じゃないからじゃね
個人的には
信長>>>家康>>>>>秀吉
>>430 武士としてはノブカツ
公卿としてはノブオ
結局東京人自身が東京とはどういう街なのか何が魅力なのかわからんから家康の人気も出えへんのや
江戸時代は関東は武士の本場家康は本流の武士の棟梁という方向性で江戸を日本の中心と解釈する様々な物語が作られたけど(南総里見八犬伝も徳川家は出て来えへんけど関東の武家中心の歴史観に基づいた江戸の建国神話みたいな役割をもった物語やった)
明治維新によって武士がおらんようになって武士の本場としての関東のアイデンティティが意味をなさんようになるに伴い
東京人にとっての徳川家の位置づけが微妙になった
そのまま有効な物語が作られることなく主に霞が関の官僚が頑張って日本中の富を強奪したことで東京は大きくなったけど
結局東京とはどういう街なんか誰にもわからんまんまや
せやから家康の人気も出えへん
あとどこの馬の骨かも分からない乞食坊主の子孫のくせに源氏の末裔を名乗ってんのもキモい
>>450 朝鮮出兵より成金趣味が嫌
あと淀殿にうつつを抜かした
>>443 家康は本能寺後に一瞬で関東周辺に領土拡大してる
信長の勢力を丸パクリして大軍で押し潰すだけだった秀吉が一番楽な領土拡大だったはず
静岡付近では異常な人気ってローカル女子の遠吠えで読んだ
これは焼き味噌じゃ、と言って部下にスカトロを強要したから
ケチで地味だったから
信長秀吉が派手だっただけに余計にイメージ悪い
>>457 江戸時代の人ですら織田がつき羽柴がこねし~と唄ってるのに
21世紀の人間がどうしてこんな恥ずかしい認識になるんだろう
>>462 江戸末期の幕府の権威が衰えた頃に家康を下げる目的で作られたんだから悪意があるのは当然だろ
そのノリをそのまま持ち込んでる方が恥ずかしいよ
前の2人より無能なのにただ長生きしただけっていうザ・老害を体現してるから
>>61 こっちのほうが史実に近いんじゃねとは思う
実際はかなり脳筋で短気な性格だからな
織田信長は49歳、豊臣秀吉は62歳で亡くなりましたが、家康は75歳
サル野郎が死んだあとルール無用で人脈作りしてたのがキモい
原発爆発した時に民主の足引っ張るのに精出してた安倍ぴょんみたい
>>464 江戸の庶民は太閤記が大好きで何度も幕府に発禁食らいながらも読み続けたんだよ
倒幕派の工作だなんて発想がネトウヨ丸出しで気持ち悪い
地元が石田三成は実はいい人でした!みたいなキャンペーンやってるわ
本当はそうなんかもしれんがコミュ障敗北者のイメージ覆せんやろ
秀吉も明の太祖のように雑軍から成り上がって群雄になり群雄割拠を制して統一したというなら真の英雄なんだがな
それこそ棚ぼたで信長の勢力を簒奪しただけで弱小から勢力を拡大する苦労をしない楽な統一だった
>>473 歴史って勝者の都合の良いことしか残らないから悲しいよなあ
>>472 家康が人相悪い悪役になって真田幸村が英雄扱いの芝居が主に大阪で作られて(近江源氏先陣館など)
江戸でも何度も再演されて現代まで続いてるぐらいやから
上方中心に家康が嫌いな人が大勢おったんやろな
明治時代以降、薩長カルトは天皇の権威を高めるために古今の天皇へ忠節した功臣を持ち上げたんだよね
楠木正成とか
大日本帝国になると富国強兵のシンボルとして織田信長が持ち上げられるし
怨敵旧幕府の開祖の徳川家康なんかが人気ないようにしたのが薩長カルト
>>473 石田三成は世界基準でいえば善人だろ
ジャップランドだからダメだっただけで
へえ そうなんだ
>『絵本太閤記』
>江戸時代の庶民の間では、文禄・慶長の役が負け戦だったという認識は薄かった。
>>474 その信長の覇業の大功労者が秀吉なのに何言ってんだこいつ
金ヶ崎でも志賀の陣でも信長の窮地を救ってる
朱元璋は分が悪くとも趙匡胤とは十分に比肩できるだろう
格ゲイだと
すぐに誘拐される足手まといのクズだからな
明治政府が徳川を徹底的に貶めたのとはまた別に豊臣秀頼を討ち滅ぼしたのがやっぱり尾を引いてるんだろうな
あれをやらなきゃ200年以上の政権は続かなかったとはいえ
江戸時代から徳川家康はタヌキ親父ってイメージが浸透していたからな
人形浄瑠璃文楽で八陣守護城 (はちじんしゅごのほんじょう)って演目があるけど
そこで佐藤正清が幼君春若丸を守るために北條時政の謀略と知りながら毒酒を飲んで
船に乗って本城に帰っていくというくだりがある
その中で「追ひ詰め追ひ詰め泡吹かせ、狸親仁が白髪首、引提げんは腕の内」
という台詞がある
江戸時代から大坂の陣を描いた軍記物は人気があって名前や時代設定は変えてあるものの
豊臣が善 徳川が悪というフォーマットは決まっていて
何度も絶版の憂き目を受けても、決して出版は収まる事は無かった
あそこでウンコ漏らさなかったらもっと人気あったのかな
小牧・長久手の戦いの動きを見ると家康凄すぎると思う
諸葛亮は人気だけど司馬懿がイマイチ不人気なのと同じやろ
とはいえ昔と違って今は家康も司馬懿もそれぞれ評価するのは結構いるやろ
>>70 物を知らないカッペか?
一番大事なのは源頼朝ありきだ
天海が明智光秀縁者なら、源頼朝が送り込んだ三河の藤姓熱田大宮司家を、家康も日光に送り込んだ話になる
明智光秀は元の姓を進士と言い、三河の藤姓熱田大宮司一族
三河の源頼朝(征夷大将軍)=三河の徳川家康(征夷大将軍)
寛伝(三河の藤姓熱田大宮司家)=明智光秀?明智一族?(進士氏(三河の藤姓熱田大宮司家))
三河の源頼朝は、三河にあった自身の母方菩提寺の僧を日光に送り込んだ
■日光山
源頼朝が三河の母方従兄弟を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた
日本人は、基本的に「敗者」に優しいだよね
「判官贔屓」ってのは、勝者の頼朝じゃなくて、敗者の義経(九郎判官)を応援(贔屓)するって意味の言葉だ
まあ、それが悪い意味で発露したのが「斎藤元彦」が当選してしまった兵庫県知事選挙だわな
義経が大活躍した戦い(一の谷)が神戸の須磨であり、斎藤の実家が須磨で宣伝素材も須磨周辺で撮影されてるってのも「因果」だろうね
>>489 勿論その浄瑠璃も大阪で作られたものやしな
江戸で作られた芝居ではあまり家康を悪くいうものはない(というか出て来えへん)
家康を狸おやじとして描いた芝居はほとんど(僕の知る限りではすべて)
大阪で作られてるんや
>>492 司馬懿自体は別に悪さしたわけじゃないけど息子が皇帝殺害したり八王の乱やらかしたりして異民族蹂躙エンドになったからな…
今は秀吉の方が不人気なんじゃなかったっけ?
なんかそんなネット記事見た気がする
>>452 コテコテの三河の植民地
室町期、南関東で一番偉かったのは、世田谷にいた吉良氏
世田谷の吉良氏は西尾の西条吉良氏から養子が入っており、血統的には西条吉良氏
有史以来、武蔵国にあった御所号は全3ヶ所
■平安期
・吉見御所(埼玉県吉見町)
源範頼(三河守)の息子、源範円(正法寺(三河国宝飯郡、三河県豊川市)僧侶)が移り住む
範円の息子(為頼)から吉見氏と名乗る
現在も、吉見姓は三河県蒲郡市(源範頼の本拠)が日本一多い
■室町期
・世田谷御所(東京都世田谷区)
長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬、三河県岡崎市)を祖する奥州吉良氏、三河国生まれ吉良治家(初代奥州管領、吉良貞家の息)が移り住む
■戦国期
・蒔田御所(横浜市南区)
長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬、三河県岡崎市)を祖とする奥州吉良氏、吉良頼康が移り住む
家康入城前の江戸城主は富永直勝
三河国設楽郡富永保を本貫とする三河富永氏
家紋は木瓜に足利二つ引両(太平記、多々良浜の戦いの功労により、家紋に足利二つ引両を与えられる)
>>497 脱糞なんて些事よりも、その為した事業にこそ注目しろよ
まさに神君だよ
元々は北條時政じゃなくて北畠春雄という織田信雄をイメージさせる人物(文楽の世界では織田信長は小田春長という名前になる)
だったのだが、人は変えても時代設定が近いので幕府を憚って演じる時に北條時政に変えて時代設定を鎌倉時代に変えたらしい
>>494 着眼点はいいね
楠木正成の湊川神社や赤穂浪士も兵庫だからそういう街なんだよね
>>457 関東は三河の植民地だと言っているだろ
だから抵抗は一切せず、三河の王に臣従した
■源頼朝と従兄弟2人の関東支配の裏歴史
1181年:源頼朝は藤姓足利氏を滅ぼし、三河の母方従兄弟の源義兼に足利荘を安堵する(源姓足利氏の始まり)
1181年:源頼朝の意向で、足利義兼は北条時子(政子の妹)と結婚する
1182年:源頼朝の従兄弟の寛伝が、頼朝の推挙により日光山満願寺19世座主になる
■日光山
源頼朝は三河の母方従兄弟(寛伝)を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた
源頼朝
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→女(由良御前)→源頼朝
足利義兼(初代足利氏)
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→女(実父は季範長男の範忠)→足利義兼
寛伝(寛典・観纒とも、額田僧都、式部僧都と称された、日光山満願寺19世座主)
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→寛伝
寛伝年表
・1142年、生まれる
・叔父の三河法橋裕範(源頼朝の母の弟)、粟田口法眼長暹(源頼朝の母の弟)を頼って滝山寺(三河県岡崎市)で仏門に入る
・仁和寺で修行
・1182年、源頼朝の推挙により日光山満願寺19世座主になる
・宗徒と面会する際、御簾を半分にしか上げず紛紜、2ヶ月で三河国(三河県岡崎市)に戻る
・菩提寺の滝山寺(三河県岡崎市)僧侶になり、66郷を領し精舎一区を創建する
・鑁阿寺奥院の法界寺に、宋版の一切経を納める(後に一切経は、足利義氏により鑁阿寺に)
・高野山御影堂に大鐘を施入する
・1201年、頼朝公の3回忌、滝山寺内に惣持禅院を創建し、本尊として頼朝公の御歯と御髪を納めた聖観音菩薩を安置する
・惣持禅院に供僧10人を常置し10町の土地を寄進する
・1205年、死去する
>>501 歌舞伎の忠臣蔵も室町時代に舞台を変えて演じられたんだよなあ
秀吉も大差無いでしょ
天下目前で燃えて死んだ信長がキラキラすぎる
400年以上も脱糞でバカにされるって分かってたらもっと必死で我慢してたはず
>>4 俺はお前の味方だぞ
わけのわからない個人的な願望を勝手に総意だという前提で語るやつ嫌だよな
信長が耕して、秀吉が作り上げてたものを最後に横取りしてまとめて天下統一しただけだからな
三英傑とか言われるけど一番ロマンが無く卑怯な存在
>>500 家康は統一後が一番の評価点だからな
信長や秀吉が家康と同列に語れるのは天下を取るまでの所だけでそれ以降は家康の足元にも及ばない
>>510 家康は自分の領地に一から独自の政権を作って朝廷からお墨付きを貰っただけで豊臣は大坂に存在しており何も奪っていないぞ
秀吉は信長の作ったものを明確に横取りしてる卑怯者だけどね
>>510 ノビナガ、猿吉を歴史から省いても日本の中世、近世は成立する
三河で美しく連続してな
日本の歴史(中世~近世)
◆鎌倉幕府(1185~1333年)◆
【勝者】源頼朝:藤姓熱田大宮司一族(本貫地/三河国額田郡乙見)
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮宮司)→由良御前(源義朝の室)→源頼朝
◆室町幕府(1338~1576年)◆
【勝者】足利尊氏:三河守護
・足利将軍家以外では、足利一門として吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)、今川氏(本貫地/三河国幡豆郡今川)、石橋氏(本貫地/三河国設楽郡石橋)が将軍継承権を有した
・守護職は本貫地を三河国にする者が最大人数
・奉公衆(江戸幕府の旗本に相当)は、本貫地を三河国にする者が最大人数、又三河国の奉公衆も最大人数
◆応仁の乱(1467~1477年)◆
【勝者】細川政元:細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・ ”東博本洛中洛外図”には当時の権力者として細川氏邸、額田氏邸(細川氏被官)が描かれている
◆明応の政変(1493年)◆
【勝者】細川政元:細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・半将軍と呼ばれ、幕政を完全に掌握、事実上日本のトップに立つ
◆関ヶ原の戦い(1600年)◆
【勝者】徳川家康:本貫地/三河国加茂郡松平
◆江戸幕府(1603~1868年)◆
【勝者】徳川家康:本貫地/三河国加茂郡松平
・大名の5割が三河国出身
・附家老の8割が三河国出身
・旗本の4割が三河国出身、高家筆頭は吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)
◆大坂の役(1614~1615年)◆
【勝者】徳川家康、徳川秀忠:本貫地/三河国加茂郡松平
名族優遇とか旧体制派みたいな行動してるからつまらんのだ
日本の歴史から、ノビナガ、猿吉を省け
【三河最強伝説】
■源義家軍
総大将:源義家
本体:三河武士(郎党1 兵藤正経 三河国住人、郎党2 伴助兼 三河伴氏 三河国住人)
■源頼朝軍
総大将:源範頼(三河守)
本体:三河武士
■足利尊氏軍
総大将:足利尊氏(三河守護(但し当時は喪中))
本体:三河武士
■徳川家康軍
総大将:徳川家康(三河守)
本体:三河武士
■トヨタグループ
総大将:トヨタ自動車
本体:三河武士
>>516 当たり前だろ
三河は、日本の支配層、名族の地なんだからよ
◇元弘の変(1331~1333年)室町幕府の支配層、三河武士◇
【三河県岡崎市】
・足利氏(宗家、鎌倉公方):大門屋敷、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・斯波氏(足利一族):管領家、奥州管領家、奥州探題、羽州探題、守護職(安房、若狭、越前、越中、尾張)、屋敷(跡地に永源寺)
・仁木氏(矢田一族):幕府執事、守護職(伊賀、伊勢、志摩、三河、遠江、武蔵、摂津、丹波、丹後、備後)、仁木城
・細川氏(矢田一族):管領家、守護職(伊賀、伊勢、志摩、摂津、和泉、河内、若狭、越前、越中、備中、備後、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐、日向)、細川御前田城、細川城山城、細川権水城
・上地氏(矢田一族、細川氏分家):上地城
・上地氏(矢田一族、仁木氏分家)
・高氏(足利被官):室町幕府執事、守護職(伊賀、伊勢、志摩、尾張、三河、武蔵、上総、和泉、河内、下野、丹波、石見)、屋敷(跡地に総持寺)
・上杉氏(足利被官):関東管領家、守護職(伊豆、武蔵、上野、丹後)、日名屋敷
・倉持氏(足利被官):奉公衆、便寺屋敷
・粟生氏(足利被官):奉公衆、秦梨城、秦梨城山城、梅藪屋敷、西熊屋敷
【三河県幸田町】
・大草氏 (足利被官):奉公衆
・大場氏 (吉良被官):深溝城
【三河県豊田市】
・上野氏(足利一族):守護職(丹後、石見)、奉公衆
・中条氏(足利被官):守護職(尾張)、奉公衆、金谷城
【三河県西尾市】
・西条吉良氏(足利一族):将軍御一家、西条城
・奥州吉良氏(足利一族):奥州管領家、守護職(因幡、但馬)、関東公方御一家、東条城
・一色氏(足利一族):四職家、九州探題、守護職(筑前、肥前、肥後、日向)
・荒川氏(矢田一族):戸賀崎氏分家)守護職(丹後、石見)、戸ヶ崎城
・饗庭氏(足利被官):奉公衆、饗庭城、饗庭命鶴丸
・小笠原氏 (吉良被官):幡豆小笠原氏、三河守護代
・大河内氏 (吉良被官):引馬荘荘官
【三河県豊川市】
・関口氏(足利一族):奉公衆
・星野氏(足利被官):藤姓熱田大宮司一族、奉公衆
・萩氏(足利被官):藤姓熱田大宮司一族、奉公衆
織田信長かっこいいーというのが現代的な感覚で
江戸時代では織田信長は松永久秀のような奸雄というイメージだった
絵本大功記という演目を観れば一目瞭然なのだが、家臣の明智光秀の忠心を疑って
悪逆の限りを尽くして苛め抜く
ずっと耐え続けてきた武士の鑑光秀が怒りを爆発させて逆賊信長を誅殺するという筋立てになっている
>>520 続き
【三河県豊橋市】
・石橋氏(足利一族):将軍御一家、守護職(若狭、伯耆、備後)
【三河県新城市】
・設楽氏(足利被官):三河伴氏、奉公衆
・富永氏(足利被官):三河伴氏、奉公衆
腹黒たぬきと言われるけど生涯戦場に生きたのは家康じゃない?
>>177 そうすると、今の政治家でいうと岸田というより石破?
>>524 いきなり弱音吐いてる石破が家康は無いだろ
三河が日本最上層なのは、昔も今も変わらん
細川護煕氏墓参記念碑(蓮性院(三河県岡崎市))
現代社会における日本の由緒正しい支配層(金では買えないステイタス)
公家(No.1、No.2)
・近衛家←現当主は細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)からの養子
・鷹司家←現当主(伊勢神宮大宮司)は大給松平家(三河国加茂郡大給、三河県豊田市)からの養子
武家(No.1、No.2)
・足利家(喜連川家)←現当主は細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)からの養子
・細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)
細川家
菩提寺
・隣松寺(三河県豊田市幸町隣松寺126)
・蓮性院(三河県岡崎市細川町字権水56)
氏神
・村積神社(三河県岡崎市奥山田町字山田46)
大給松平家
菩提寺・墓所
・松明院(三河県岡崎市細川町字根古屋123)
・蓮性院(三河県岡崎市細川町字権水56)
・大給城(三河県豊田市大内町字城下)
氏神
・村積神社(三河県岡崎市奥山田町字山田46)
>>124 何かで見たけど江戸時代にも命脈保った木下家の伝承ではとにかくしつこい性格の人だったらしい
>>521 信長が暴君イメージやったのはその通り(光秀は善玉の立ち役に使われる源太頭)
光秀も母妻息子の嫁に理解されず息子も秀吉軍に討たれる悲劇の英雄って感じやけどな
徳川ってやられエピソードの印象が強すぎてあまり強者感ないよな
やりたい放題やって人生の絶頂期に死んだ信長
栄華を極めて老害まき散らして死んだ秀吉
家康は最後まで自制しすぎてそりゃ憧れんわ
>>380 清の康熙帝もえげつないけど人気ないのか
指揮官経験なかったのに三藩の乱北京から指示して鎮圧しちゃうし
長男廃嫡家康は信康自刃だけど
跡継ぎが雍正帝秀忠と地味に働きバチな2代目なのは似てるし
>>215 浜松ではまあ人気だよ
家康くんというゆるキャラもある
>>533 浜松城にめちゃくちゃリアルな家康像があって草
天正壬午の乱で数倍の北条軍打ち払って甲斐信濃GETしてるけどな
武将じゃなくて文官に近いからな家康は、家康の武将といえば本多忠勝だし。
あと家康は真意不明だけど妻子殺しの汚名被っちゃっててちょっとな・・・
徳川家康は重要な戦には自ら出張って信長にとって重要な戦にまで駆り出されるくらいだし
言うほど座りしままに食うてたわけでもないな
太閤はんのお膝元大坂にあって、
堺市では三英傑の信長と秀吉が嫌われてて
相対的に家康人気が割りとある変な感じなのな
堺からすると、信長には武力で脅されて矢銭2万貫を脅し取られてるし
秀吉には、環濠を埋め立てられて自治都市としては殺されたも同然だし
堺市民にとって、戦国時代の郷土の英雄は千利休だし
そういうあれこれあるから、家康と組んだ堺商人が本能寺の変の黒幕説もあるし
堺には何故か家康の墓があったりかつて東照宮があったりするしな
そういうナンヤカンヤがあって、大坂夏の陣序盤で堺は豊臣方に焼き討ちされたしな
大阪府がプリンセス・トヨトミとか担いで独立するんやったら堺市は大阪から離脱するアレやで
>>530 頭が悪い尾張の田舎者と比べて、背負っている歴史の重さが違い過ぎだからな
武家社会の既得権益を守らなあかんから
三河政権たる鎌倉幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)
【鎌倉将軍】源頼朝(母方:藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
■将軍御一家(頼朝姻族、頼朝女系の一族)
・足利氏(下野国足利郡足利)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))の家系
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏親類)
・一条氏(藤原北家中御門流)←頼朝同母(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))姉もしくは妹(坊門姫)の嫁ぎ先の家系
■御由緒家
・安達(小野田)氏(三河国八名郡小野田、三河県豊橋市)←安達(小野田)盛長は頼朝幼なじみ
・足助(賀茂)氏(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)←源頼家に室を出し、生まれた息が源実朝を暗殺した公暁
・比企氏(武蔵国比企郡)←頼朝乳母(比企尼)の家系←源頼家に正室を出す
・八田氏(常陸国八田郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系←八田知家の猶子である中条家長は高橋荘(三河国賀茂郡、三河県豊田市)地頭
・結城氏(下総国結城郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系
■門葉(鎌倉将軍と血縁関係がある源氏)
・源範頼(三河守)←頼朝異母弟
・源広綱(駿河守)←古井城主(三河国碧海郡古井、三河県安城市) ←太田道灌の先祖
・平賀義信(武蔵守)
・山名義範(伊豆守)←実父は矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・大内惟義(相模守)
・足利義兼(上総介)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
・加賀美遠光(信濃守)
・安田義資(越後守)
■執権・連署
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏親類)
■政所(一般政務・財政を司う機関)
・大江氏←初代別当の大江広元は牛田城主(三河国碧海郡牛田、三河県知立市)
・二階堂氏(相模国二階堂)←初代令の二階堂行政は、母親が頼朝祖父(初代藤姓熱田大宮司(三河国額田郡、三河県岡崎市))の妹
■侍所(軍事・警察を担った機関)
・和田氏(相模国三浦郡和田)
>>530 三河政権たる室町幕府の支配層一覧(三河繋がり優遇)
■将軍御一家
【三代将軍足利義満時代】(3家)
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、三河県西尾市)
・今川氏(三河国幡豆郡今川、三河県西尾市)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)
【八代将軍足利義政時代】(4家)
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、三河県西尾市)
・東条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、三河県西尾市)
・石橋氏(三河国設楽郡石橋、三河県新城市)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)
■三管領(将軍に次ぐ最高の役職、将軍を補佐して幕政を統括)
幕府執事(管領の前身)(3家)
・高氏(三河国額田郡菅生、三河県岡崎市)
・仁木氏(三河国額田郡仁木、三河県岡崎市)
・細川氏(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)
管領(3家)
・細川氏(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)
・斯波氏(三河国碧海郡青野?、三河県岡崎市)←初代足利家氏は、祖父より三河国碧海郡碧海荘を相伝し本拠とした
・畠山氏(武蔵国男衾郡畠山)←初代畠山義純は三河国生まれ
■七頭(管領家とともに幕政に参加できた七家)(7家)
・一色氏(三河国幡豆郡一色、三河県西尾市)(四職)
・山名氏(上野国多胡郡山名)(四職)←初代山名義範の実父は、矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・京極氏(山城国葛野郡京極)(四職)←京極高秀(佐々木道誉の嫡男)親子は三河国額田郡下和田郷(三河県岡崎市)の領主
・赤松氏(播磨国播磨郡赤松)(四職)←善住寺(三河県豊川市)に赤松円心親子の墓あり、赤松円心は一時、赤田和城(三河県岡崎市)に隠れ住む
・土岐氏(美濃国土岐郡)(五職)
・上杉氏(丹波郡何鹿郡上杉)(関東管領)←事実上の初代上杉頼重の屋敷あり(日名屋敷、三河県岡崎市)
・伊勢氏(出自不明)(政所執事)←活動を記録した最古の資料では、初代伊勢俊継は父、叔父、従兄弟と共に三河国額田郡賀茂郡(三河県岡崎市・豊田市)で活動
ぶっちゃけ少年ジャンプで扱うとするなら
若い奴の目から見てカッコ悪いと映るのだろう
ただ、大人になって子を持つ妻の目線からしたら
この3人の中だと家康が理想だろうな
自分の子や孫の安定を考えてもさ
方広寺の銘の難癖→大坂の陣開戦→夏の陣での和睦破りで付いた卑劣漢のイメージ
それに付け込んだ維新後の薩長史観による
不当な貶めだな
天下泰平とか言いながら各地の大名が造反しないように人質取ってるとかクズだよね
江戸幕府3代にわたる治世と灌漑はやばいけどな。
あれで200年永らえてるといっても過言じゃない
>>531 普通に大人気だぞ
清の三大帝は中国歴史ドラマの定番だわ
正直秀吉のワンマン体制前提なあの時代にできるだけ混乱を招かないように動くとしたらああなるしかないよね
絵本大功記の中で光秀は信長が誅される理由として、
諫めを聞かない事と神社仏閣を破壊している事をあげて
殷の紂王が周の武王に倒された事を例にして、
非道の君主を倒す事は民のために英雄がする事とまで言っている
当時織田信長がどういう風に思われていたかの参考になる
信長と秀吉で戦国時代は完結してる
こいつはただの棚ぼた
>>450 ここ見ても嫌儲は秀吉大好きじゃないか
普段安倍晋三が~薩長が~とか言いながら薩長史観に染めあげられてるのは哀れなもんだなw
豊臣にいちゃもんつけて滅ぼした家康は悪くても
子孫にまでは罪は無いから
軍事偏重制作で国民を苦しめ外国を侵略した明治薩長政府より江戸幕府の方がマシだったのは常識だから
東京一極超集中の東京好きすぎ現代人が江戸を開いた男を評価しないのは不可解だよな
秀吉はもう人気無いよ
アホな大阪民にも徳川が作った街だとバレてる
政治力だけで勝ったようなもんで実戦では負けっぱでろくな活躍せんかったからな
>>531 康熙帝は賢君というかかなりイケてるんじゃね
一人でできる精一杯頑張ったような
君主として並べる人がどれだけいるか
信長、超合理的思考
秀吉、超やり手
家康、超ドケチ
みたいなイメージだもんな
ガマンし続けて派手な争いを好まない、いかにも日本人的な英雄
>>544 そうしないと戦国時代に逆戻りだから仕方ないね
>>558
名古屋、横浜もな
大阪都市計画の父、道頓堀の名付け親
松平忠明(徳川家康の孫)
東京 徳川家康
大阪 松平忠明(徳川家康の孫、三河県新城市)
横浜 岩瀬忠震(三河県新城市)
パゴヤ村 徳川家康
どいつもこいつも、他力本願の田舎者(笑) 長篠までは勝頼に一方的にボコボコにされていたからなあ
信長が腰上げなかったらたぶん死んでた
だって家康いなかったら近現代でも大坂らへんが日本の中心だったんだぜ
東京大好き現代人はそれでいいんか?
反日ペテンクソ土人はクソもらしの集まりです
反日ペテンクソ土人はトイレがなくてクソもらしの集まりだということが統計的に明らかになってます
どうぞ
これ 近年日本で起き続けてる全ての犯人です
今まで日本で起きてる出来事の全ての元凶です
説明されるとスレッドにグロ画像ひたすら貼り付けたり
日本人が嫌いだの反日的なスレを乱立したり
全てを説明されると自作自演捏造記事のクソの話題ばっかり記事及びスレを自作自演で乱立したり
掲示板でジャップがジャップがほざきながら日本を乗っ取ろうとしてる反日ペテンクソ土人です
こいつが犯人です
https://www.instagram.com/fvooo00/ 特技は捏造 ホラ吹き ネットで捏造や工作行為 ハセカラ騒動は反日ペテンクソ土人と売国ザル(税金もらってる関係者)が起こした存在しない捏造事件で 登場人物は税金もらってる関係者だらけです
本人は人間関係自体 もう8年ぐらい必要以上で人と関わっていません
整形がどうのこうの 整形していません 工作です しようと思ったことすらないです
神様がどうのこうのは政治責任と売国トラブルをすべて人になすりつけるために行ったネットでのミスリード
説明されると 今度は トンキントンキン言いながら
関西方面のツラを偽装で装って自作自演偽装工作してます
オムツ系ア〇リカ人とは
都合の悪いこと全てを他人になすりつけながら乞食と寄生虫行為をして搾取しようとして次へ次へと進もうとする赤ん坊の集まりのこと
石破茂とは こいつの正体は量産型岸田です
防衛します防衛します タカ派なんですとか装いつつ 正体は量産型岸田
民衆を納得させるために表に用意された政治用ハリボテおじさんです
この男 詐欺師です チワワ岸田と何も変わっていない
岸田としてることも何も変わっていない
売国行為やサルを使って内政犯罪及び性犯罪に繋げるための内政犯罪を続けたり
相変わらずネットで捏造や嘘情報流し 及び各種ペテン工作させてるところ
まるで岸田と変わっていない こいつは量産型岸田です
https://www.instagram.com/fvooo00/ 量産型岸田についての情報はインスタにも載せ続けます
反日ペテンクソ土人と売国オムツハゲ及び税金バカザル(公務員のネット工作員の集まり)は
得意技は自作自演とマッチポンプ及び乗っ取り勝ち馬乗りミスリードです
で 人海戦術でネットで自作自演とバカ騒ぎ捏造ペテン行為を続けますそれでも民衆を統治できなくなると 無断で勝手に芸能界を操作して統治しようとします(それも無断で です)
こういうのをマッチポンプ行為と言います(勝ち馬乗り行為ともしがみつき行為ともいう)
誰も許可してなくても勝手にそれをして人に着せておいて それを叩いてマッチポンプ行為をします
統一教会(宗教なんてしてません)がどうのこうのも ネットで反日ペテンクソ土人と売国オムツハゲが暴れまくったことや政治責任を 都合よく人に着せるためにネットで自作自演マッチポンプでミスリードして擦り付けただけです(こっちは何も受け取ってませんしこいつらと関わってません)
そして この文章よく読んでくださいね
こいつらは 反日騒動を起こした犯人で ハセカラ騒動を起こした犯人で 売国奴の集まりで
なすりつけと自作自演とマッチポンプ行為と勝ち馬乗りの常習犯です
今こいつらがしてるのは ネットであたかも普通の人たちの声を装って責任逃れと話題そらし ヘイトそらしの工作してます それのためのバカ騒ぎもしてます
それも常習的にずっとです(しかもそれのために堂々と税金が使われてます)
反日ペテンクソ土人はクソもらしの集まりです
反日ペテンクソ土人はトイレがなくてクソもらしの集まりだということが統計的に明らかになってます
どうぞ
これ 近年日本で起き続けてる全ての犯人です
今まで日本で起きてる出来事の全ての元凶です
説明されるとスレッドにグロ画像ひたすら貼り付けたり
日本人が嫌いだの反日的なスレを乱立したり
全てを説明されると自作自演捏造記事のクソの話題ばっかり記事及びスレを自作自演で乱立したり
掲示板でジャップがジャップがほざきながら日本を乗っ取ろうとしてる反日ペテンクソ土人です
こいつが犯人です
https://www.instagram.com/fvooo00/ 特技は捏造 ホラ吹き ネットで捏造や工作行為 ハセカラ騒動は反日ペテンクソ土人と売国ザル(税金もらってる関係者)が起こした存在しない捏造事件で 登場人物は税金もらってる関係者だらけです
本人は人間関係自体 もう8年ぐらい必要以上で人と関わっていません
整形がどうのこうの 整形していません 工作です しようと思ったことすらないです
神様がどうのこうのは政治責任と売国トラブルをすべて人になすりつけるために行ったネットでのミスリード
説明されると 今度は トンキントンキン言いながら
関西方面のツラを偽装で装って自作自演偽装工作してます
オムツ系ア〇リカ人とは
都合の悪いこと全てを他人になすりつけながら乞食と寄生虫行為をして搾取しようとして次へ次へと進もうとする赤ん坊の集まりのこと
石破茂とは こいつの正体は量産型岸田です
防衛します防衛します タカ派なんですとか装いつつ 正体は量産型岸田
民衆を納得させるために表に用意された政治用ハリボテおじさんです
この男 詐欺師です チワワ岸田と何も変わっていない
岸田としてることも何も変わっていない
売国行為やサルを使って内政犯罪及び性犯罪に繋げるための内政犯罪を続けたり
相変わらずネットで捏造や嘘情報流し 及び各種ペテン工作させてるところ
まるで岸田と変わっていない こいつは量産型岸田です
https://www.instagram.com/fvooo00/ 量産型岸田についての情報はインスタにも載せ続けます
反日ペテンクソ土人と売国オムツハゲ及び税金バカザル(公務員のネット工作員の集まり)は
得意技は自作自演とマッチポンプ及び乗っ取り勝ち馬乗りミスリードです
で 人海戦術でネットで自作自演とバカ騒ぎ捏造ペテン行為を続けますそれでも民衆を統治できなくなると 無断で勝手に芸能界を操作して統治しようとします(それも無断で です)
こういうのをマッチポンプ行為と言います(勝ち馬乗り行為ともしがみつき行為ともいう)
誰も許可してなくても勝手にそれをして人に着せておいて それを叩いてマッチポンプ行為をします
統一教会(宗教なんてしてません)がどうのこうのも ネットで反日ペテンクソ土人と売国オムツハゲが暴れまくったことや政治責任を 都合よく人に着せるためにネットで自作自演マッチポンプでミスリードして擦り付けただけです(こっちは何も受け取ってませんしこいつらと関わってません)
そして この文章よく読んでくださいね
こいつらは 反日騒動を起こした犯人で ハセカラ騒動を起こした犯人で 売国奴の集まりで
なすりつけと自作自演とマッチポンプ行為と勝ち馬乗りの常習犯です
今こいつらがしてるのは ネットであたかも普通の人たちの声を装って責任逃れと話題そらし ヘイトそらしの工作してます それのためのバカ騒ぎもしてます
それも常習的にずっとです(しかもそれのために堂々と税金が使われてます)
>>112 そこまで歴史知ってるなら小牧長久手の講和で秀吉包囲網瓦解して、秀吉が勢力増してった位しっとるやろ
>>560 実戦で負けたのて信玄ぐらいだろ
直接対決なら秀吉も負けてるし家康が直接出た戦いはほぼ勝ってるはず
>>557 糞なのは反乱を起こした西軍やろう
そのせいで豊臣政権が崩壊してしまった
秀吉も大概だろあんなサイコパスの異常者
まず信長以外の二人は大同小異で、信長の仕上げた天下を掠め取っただけで、一からその土台を作った信長と比べるのもアホらしい
秀吉が死ぬまで何もできなかった時点で秀吉より格下なのは確定してるからねぇ
歴史漫画はこいつの話に変わるあたりでつまらなくなりがち
>>568
大阪の発展は、大坂城代職を設置されてからなんだが?
大阪都市計画の父、道頓堀の名付け親
松平忠明(徳川家康の孫)
東京 徳川家康
大阪 松平忠明(徳川家康の孫、三河県新城市)
横浜 岩瀬忠震(三河県新城市)
パゴヤ村 徳川家康
どいつもこいつも、他力本願の田舎者(笑)
< 逆説の日本史12 近世暁光編「天下泰平と家康の謎」 井沢元彦
://nmukkun. はてな blog.com/entry/2024/05/22/070200
・・・番外として「逆説の日本史」から本人に迫ります。最後は徳川家康。井沢元彦は家康を「日本史上最大の危機管理能力を持つ」として、徳川幕府成立の「秘策」を考察しています。
・・・【感想】1 関ケ原から大坂の陣の戦いは、大規模なリストラ?
井沢元彦が描く関ケ原に至る過程は、司馬遼太郎の名作「関ケ原」と重なっている。ただしここでは秀吉の朝鮮出兵による「新規雇用政策」に対し、家康は余剰武士の中でも、反徳川の勢力を、関ヶ原の戦いで「リストラ」したと語っている。
家康によるリストラ政策で、長州、薩摩、土佐がそれぞれ問題を抱えたまま幕末を迎える。家康が家督争いを避けるために示した「嫡子単独相続」は、その恨みが100年、200年経ても消えずに受け継がれ、維新のエネルギーとなったとする考察は興味深い。
*私が推す家康俳優は、大河ドラマ「葵 徳川三代」の津川雅彦です(NHK)
2 「分断」による大名支配 関ケ原の戦いで勝利した家康は、ざまざまな「分断」統治を行った。まず諸大名。論功行賞によって外様には思い切った加増を行ったが、同時に三河武士から63家もの譜代大名を創設させ、外様は遠方に追いやり、譜代は近隣で交通の要所に備えた。
また幕府内の権力構造において、外様は決して幕政に加えず、高禄の大名が権カと結びつく可能性を徹底的に回避させた。
これは室町幕府の矢敗を踏まえたもの。足利尊氏が「気前よく」部下たちに大盤振る舞いをしたために「六分一殿」と言われた山名氏清ら、巨大な領地を保有する「三管領四職」たちが争うことで、室町幕府の統制が効かなくなってしまった。
しかし、家康はよくもこんなに手を込んだことを、と昔は思ったもの。 >
>>579 天下を取る過程の話ならそうだが家康は天下を取った後が最大の評価点なので
その実績が絶大で結果的に信長と秀吉を引き離している
>>576 勝頼に一方的にボコボコにされている
長篠もそんな家康が信長に泣きついてきたのが発端
長篠後も勝頼にビビリまくっていたし
家康単独では勝頼に勝てなかったのが史実だよ
秀吉より長生きしたから天下取れたラッキーマン
他力本願の極み
>>580 自分のポジションが、尊敬する三河の先輩たる源頼朝と同じ東国の王
いずれ承久の乱と同じ事起こせば良い話だろう
史実、承久の乱と同じく大坂征伐で西国を滅ぼし、西国を支配下に置いた
三河政権たる鎌倉幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)
【鎌倉将軍】源頼朝(母方:藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
■将軍御一家(頼朝姻族、頼朝女系の一族)
・足利氏(下野国足利郡足利)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))の家系
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏親類)
・一条氏(藤原北家中御門流)←頼朝同母(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))姉もしくは妹(坊門姫)の嫁ぎ先の家系
■御由緒家
・安達(小野田)氏(三河国八名郡小野田、三河県豊橋市)←安達(小野田)盛長は頼朝幼なじみ
・足助(賀茂)氏(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)←源頼家に室を出し、生まれた息が源実朝を暗殺した公暁
・比企氏(武蔵国比企郡)←頼朝乳母(比企尼)の家系←源頼家に正室を出す
・八田氏(常陸国八田郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系←八田知家の猶子である中条家長は高橋荘(三河国賀茂郡、三河県豊田市)地頭
・結城氏(下総国結城郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系
■門葉(鎌倉将軍と血縁関係がある源氏)
・源範頼(三河守)←頼朝異母弟
・源広綱(駿河守)←古井城主(三河国碧海郡古井、三河県安城市) ←太田道灌の先祖
・平賀義信(武蔵守)
・山名義範(伊豆守)←実父は矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・大内惟義(相模守)
・足利義兼(上総介)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
・加賀美遠光(信濃守)
・安田義資(越後守)
■執権・連署
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏親類)
■政所(一般政務・財政を司う機関)
・大江氏←初代別当の大江広元は牛田城主(三河国碧海郡牛田、三河県知立市)
・二階堂氏(相模国二階堂)←初代令の二階堂行政は、母親が頼朝祖父(初代藤姓熱田大宮司(三河国額田郡、三河県岡崎市))の妹
■侍所(軍事・警察を担った機関)
・和田氏(相模国三浦郡和田)
>>583 その統治システムは室町幕府と全く同じだつーの
足利将軍家のご褒美が三河の所領だったのと徳川将軍家は何ら変わらんだろう
三河の所領が最高のご褒美なら、徳川将軍家が三河を将軍家直轄地扱いしていた理由も分かるだろうが
細かく分けて与えなあかんから
室町幕府、江戸幕府共に、三河に所領を持つ者が大幹部になれた
室町幕府 三河国の日本支配構造
【奉公衆】
・奉公衆は、室町幕府に整備された幕府官職の1つ
・将軍直属の軍事力で、5ヶ番に編成された事から番衆、番方などと呼ばれた
・奉公衆の人数は全国合計250~300人
・三河国の奉公衆は全国で最大人数、又三河国出身の奉公衆も最大人数
・5番衆の番頭
一番番頭 細川氏、二番番頭 桃井氏、三番番頭 上野氏、四番番頭 石垣氏(畠山氏)、五番番頭 大館氏
>>699 続き
三河国の奉公衆一覧(全52家)
【三河の藤姓熱田大宮司一族】
千秋、萩(大江流)、星野、二階堂、毛利(大江流)、進士
【足利一族】
荒川(戸賀崎流)、一色、伊奈、上野、吉良、天竺(細川流)、仁木、細川、三淵(細川流)、和田
【足利被官】
饗庭、朝倉、飯尾、岩堀、大草、高、久下、小嶋、中条、二宮、彦部
【三河源氏】
足助、水野
【三河伴氏】
設楽、黒瀬、富永
【美濃源氏】
土岐、長山(土岐流)
【桓武平氏】
伊勢、神谷、山下
【その他】
宇津野、大内、借宿、河内、小林、疋田、桜井、杉山、堤、長、西部、本郷、丸山、三浦、大和
>>580 秀吉は気遣いまくって官位でも優遇して特別扱いしてくれるんだから謀反する理由が無いし
秀吉の死後に家康が主導する道は秀吉が敷いていたとも言える
好き嫌いはあっても徳川家康が日本近代化への基礎となる江戸時代を築いた点はポイントが高い
>>584 そうね
天下取ってから10年間、弱小と化した豊臣を残しつつ、その補佐役という名の「天下人」なるものを長々とやってたのは日本史史上最大の功績だよね
うん
>>592 家康が構築したものではない
三河が試行錯誤して完成させた日本統治システムは、徳川が編み出した物ではない
滝山寺(三河県岡崎市)
源頼朝の歯と顎髭が埋め込まれた 頼朝等身大の聖観音像
全てはこの仏像に秘密がある
三河の源頼朝、三河の足利尊氏から受け継いだ伝統と歴史を継承する責務を受け継いだだけなのが三河の徳川家康
源義家は郎党NO1NO2が三河武士と伝え、嫡男義親の生母は源隆長(三河守)の娘であり、実は義家実子と言われる為義の生母も源隆長(三河守)の娘と思われる
そして義国の正室は三河国造家中原季成の孫娘
源義家(1039~1106)
藤原季兼(1044~1101)
生没年がほぼ同じの、この二人、三河を舞台に繋がり持ったとしか思えないのである
義家の曾孫は源頼朝、足利義兼であり、季兼の曾孫も源頼朝、足利義兼なのである
三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流)
系図:藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))
■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡乙見、三河県岡崎市)
・頼朝の母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎大夫)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・季兼は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り三河国加茂郡(三河県豊田市)に土着
・季兼は、三河国加茂郡(三河県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券する
・季兼は、三河国額田郡(三河県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼は、三河国設楽郡稲木(三河県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を支配下におく
・季兼室の松御前(尾張員職の娘)は、晩年新城市稲木で過し没した(城ヶ峰の山頂(三河県新城市)に墓あり)
・季兼は、藤原資良(父の従兄弟)が尾張守になり、息子(藤原季範、額田冠者)と共に三河に住みながら尾張目代を務める
・季兼の息子である藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)
・藤原季範(額田冠者)の娘(由良御前)は源義朝の正室となり、源頼朝を生む
・藤原季範(額田冠者)の娘(養女(実父は藤原範忠))は源義康の正室となり、足利義兼を生む
天下を取ったという事柄は信長と秀吉にとってはそれが全てでアイデンティティだが家康にとっては更なる実績の通過点に過ぎないんだよ
>>207 そんな嫁より
今川家の正史に、松平信光の嫁は一色氏の娘とあるんだが?
松平家はそういう家格と見られていたが
徳川家康が受け継ぐ遺伝子
源義家
足利義兼
足利義氏
今川国氏
一色公深
吉良長氏
源為朝
安達盛長
足助重範
楠木正成
■今川記(1553年成立)より
松平信光(第3代目当主)
正室:一色氏の娘
一色満範の娘の仮定する
源義家→義国→義康→足利義兼(初代源姓足利氏)→義氏→泰氏→一色公深(初代一色氏)→範氏(母親は今川国氏(初代今川氏)の娘)→範光→詮範→満範→娘→松平親忠→長親→信忠→清康→広忠→徳川家康
■熊野国造家 和田家系図より
松平親忠(第4代目当主)
正室:鈴木重勝の娘
・加茂(足助)重長→足助重秀(母親は源為朝の娘)→重朝(母親は安達盛長の娘)→重方→親方→貞親→重範→鈴木重員(母親は楠木正成の娘)→重勝→娘→松平長親→信忠→清康→広忠→徳川家康
家康は2代目鎌倉将軍、源頼家の正室の兄の血を引く
その血筋から、家康は源為朝、楠木正成を血を引く
日本は、血筋の悪い奴が日本のトップになる事は絶対にない
そもそも猿吉は無理だったんだよ
源頼朝は嫡男の正室に、曽祖父が開発した三河国の荘園の荘官をしていた足助重長の娘を選んだ
源頼朝の曽祖父は三河県豊田市民→三河県岡崎市民
源頼朝の祖父は三河県岡崎市民
源頼朝の嫡男の正室(辻殿)は三河県豊田市民
その嫡男の息子が鎌倉鶴岡八幡宮でやらかした公暁
・吾妻鏡では辻殿を妻、若狭局を愛妾としている
・源頼家(2代目鎌倉将軍)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡、三河県岡崎市))→由良御前→源頼朝 →頼家→公暁
・辻殿
足助(加茂)重長(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)→辻殿(母親は源為朝の娘)→公暁
>>550 信長が日本でここまで人気になったのは
進取で合理的な革命家のイメージが戦後の民主主義や進歩の思想を背景に付けられたからだろね
家康の幼少期、家康の親戚の天皇とダチだった高僧が、晩年、菩提寺たる高月院で坊さんやっていた
コイツは洛中宗教界のトップに立った奴
日野富子の兄の家人であり、室町幕府政所御物奉行の家だった松平と猿吉じゃ家格が違い過ぎるつーの
松平信光の正室が一色氏の娘と書いてあるのは、今川氏の正史である今川記
松平親忠の正室は鈴木重勝の娘、鈴木重勝の父親が足助重範と楠木正成の娘の子と記されているのは熊野国造家の和田家の系図
貴種だからこそ、天皇と懇意だったのさ
存牛(松平信光の孫、松平親忠の子)
秀吉も家康も、信長包囲網みたいなギリギリのせめぎ合いと政治的駆け引き、知略と運を尽くしたヤバい戦いをやってない
クソみたいな出来レースで鼻くそほじりながら天下掠め取った感じ
あの修羅場をくぐり抜けた信長に比べてホントスケールが小さい
三国志演義で、儒教的な徳のイメージの劉備から
法家寄りで能力主義的な曹操の方に人気が移ったのと同じような背景かな
義元の死後に三河の領主になる
信長の死後に甲信をとる
秀吉の死後に天下をとる
ピンチになりうる場面で確実に勝ちをおさめる男
>>38 松平家以上じゃないだろう
この皇室領家荘園をしたのは鎌倉将軍家、足利将軍家の先祖であり、松平家もこの荘園内から発祥した
松平郷に地の力があるのは流石は最大の皇室領と言うしかないですなw
出自の悪い田舎者は見抜けず、何もない山の中に見えるらしいが
■三河国高橋荘・高橋新荘
豊田市ほぼ全域とみよし市は源頼朝の曽祖父が開発し、後に皇室に寄進された最大の皇室領荘園
高橋新荘から松平家が、高橋荘からはトヨタ自動車が発祥した
・開発者は源頼朝の曽祖父、藤原季兼か?
・寄進者は藤原季兼の妹の子供、高橋惟康(藤原伊周の孫)か?
・平安末期~戦国期に見える荘園名
・矢作川中流域の低地と山間部、豊田市(旧上郷町・高岡町を除く)・三好町・藤岡町・小原村にまたがる大荘園
・八条院領目録に院分御荘として「参河国高橋荘」「参河国高橋新荘」とあり、鳥羽院政期の院領寄進系荘園の一例とみられる
・寄進者は藤原(高橋)惟康か←藤原伊周の孫、源頼朝曽祖父の妹の息子
・八条院没後、春華門院昇子ー順徳天皇ー後高倉院→安嘉門院邦子ー亀山天皇ー後宇多天皇ー昭慶門院憙子と相伝される
・昭慶門院目録に、高橋荘は亀山院の時石清水八幡宮に寄進、新荘は冨小路前大納言(小倉実教)とあるのは領家職とみられる
>>592 江戸時代の265年間で
日本人の気質がほぼ決まったと思う
>>4 信長主人公のゲームやアニメは多いが家康主人公のゲームはパッと思い浮かばない
秀吉も信長息子挑発して切腹に追い込んで妻子や母親の信長側室処刑してるから因果応報ってヤツやな
>>592 世界からどんどん引き離されて、ジリ貧で滅んだ幕府の開祖としては上出来だよね家康は
>>581 野蛮だけどロマンある下剋上の世から見慣れた封建的日本に移行する様がなんとも萎えるんだよな
江戸時代の貧困生活のせいでチビが増えたとかなんとか
>>610 自己過大評価のカッペだな
出来の悪い日本人が生活出来る最適な政治システム、最終的に構築しただ
徳川治世の遺産でやってきた日本だが、今や孤軍奮闘頑張っているのが三河だけで分かるやろ
全国の市町村 1718
不交付団体市町村 76
三河県の市町村 18
三河県の不交付団体 9
西三河の市町村10、西三河の不交付団体8
岡崎市、幸田町、碧南市、刈谷市 、安城市、高浜市、豊田市、みよし市
東三河の市町村8、東三河の不交付団体1
田原市
不交付団体率 約4%
>>610 日本は三河だけが優秀
その三河の王が、最適な政治システムを構築したと、何で分からんのだ?
自力本願の三河は、今も自力本願で孤軍奮闘しているだろうが
平成22年度生活保護率(主要自治体)
5.30% 大阪市 141,026人
4.33% 函館市 12,187人
3.74% 東大阪市 18,892人、3.63% 旭川市 12,690人、3.37% 尼崎市 15,604人、3.31% 高知市 11,380人、3.28% 札幌市 62,531人
2.94% 京都市 43,118人、2.88% 神戸市 44,225人、2.74% 堺市 22,960人、2.65% 長崎市 11,762人、2.64% 青森市 7,962人、2.46% 福岡市 35,761人
2.26% 鹿児島市 13,700人、2.09% 北九州市 20,559人、2.06% 松山市 10,646人、2.04% 和歌山市 7,547人、2.03% 川崎市 28,571人、2.02% 広島市 23,633人
1.93% 奈良市 7,044人、1.75% 名古屋市 39,501人、1.75% 熊本市 12,792人、1.75% 宮崎市 6,970人、1.65% 横浜市 60,488人、1.62% 大分市 7,618人
1.62% 久留米市 4,914人、1.60% 千葉市 15,315人、1.59% 岡山市 11,195人、1.55% 福山市 7,162人、1.53% 盛岡市 4,571人、1.53% 下関市 4,313人
1.53% 秋田市 4,975人、1.52% 高松市 6,355人、1.44% 仙台市 14,883人、1.40% 船橋市 8,389人、1.39% 宇都宮市 7,065人、1.38% 西宮市 6,646人
1.36% 相模原市 9,710人、1.34% 倉敷市 6,355人、1.33% 高槻市 4,705人、1.28% 岐阜市 5,247人、1.28% いわき市 4,406人、1.24% 姫路市 6,641人
1.24% さいたま市 14,977人、1.19% 新潟市 9,641人、1.10% 川越市 3,739人、1.09% 大津市 3,633人、1.08% 横須賀市 4,519人、
0.96% 前橋市 3,241人
0.94% 静岡市 6,713人
0.89% 郡山市 3,029人
0.79% 柏市 3,152人
0.77% 浜松市 6,276人
0.75% 金沢市 3,436人
0.63% 長野市 2,408人
0.60% 三河県豊橋市 2,278人
0.54% 三河県豊田市 2,287人
0.46% 三河県岡崎市 1,734人
だから、ノビナガと猿吉は日本の歴史から抹殺しろ
こいつ等居なくても、日本の歴史は成立する
日本の歴史(中世~近世)
◆鎌倉幕府(1185~1333年)◆
【勝者】源頼朝:藤姓熱田大宮司一族(本貫地/三河国額田郡乙見)
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮宮司)→由良御前(源義朝の室)→源頼朝
◆室町幕府(1338~1576年)◆
【勝者】足利尊氏:三河守護
・足利将軍家以外では、足利一門として吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)、今川氏(本貫地/三河国幡豆郡今川)、石橋氏(本貫地/三河国設楽郡石橋)が将軍継承権を有した
・守護職は本貫地を三河国にする者が最大人数
・奉公衆(江戸幕府の旗本に相当)は、本貫地を三河国にする者が最大人数、又三河国の奉公衆も最大人数
◆応仁の乱(1467~1477年)◆
【勝者】細川政元:細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・ ”東博本洛中洛外図”には当時の権力者として細川氏邸、額田氏邸(細川氏被官)が描かれている
◆明応の政変(1493年)◆
【勝者】細川政元:細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・半将軍と呼ばれ、幕政を完全に掌握、事実上日本のトップに立つ
◆関ヶ原の戦い(1600年)◆
【勝者】徳川家康:本貫地/三河国加茂郡松平
◆江戸幕府(1603~1868年)◆
【勝者】徳川家康:本貫地/三河国加茂郡松平
・大名の5割が三河国出身
・附家老の8割が三河国出身
・旗本の4割が三河国出身、高家筆頭は吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)
◆大坂の役(1614~1615年)◆
【勝者】徳川家康、徳川秀忠:本貫地/三河国加茂郡松平
>>614 知らんけど、天下人なら全国等しくお前の言う三河並の良き統治が行われるようにしたら良かったね
自分の出生地だからって譜代置いて色々優遇したらしいがw
「正親町天皇」←戦国時代を生きたトップなのに知名度があまりない
さすがに脱糞して戦場から一番早く逃げ出した臆病者は人気出ないだろ
>>610 他力本願思考は止めて、自力本願で頑張れよ
三河のトヨタグループは日本で唯一、東京一極集中を拒否し、現代社会も存在感を示している
海外進出は結構だが、三河がどれだけ海外に進出して、金儲けしてると思ってんだ?
トヨタグループは三河武士団なのは言うまでもないわな
【三河最強伝説】
■源義家軍
総大将:源義家
本体:三河武士(郎党1 兵藤正経 三河国住人、郎党2 伴助兼 三河伴氏 三河国住人)
■源頼朝軍
総大将:源範頼(三河守)
本体:三河武士
■足利尊氏軍
総大将:足利尊氏(三河守護(但し当時は喪中))
本体:三河武士
■徳川家康軍
総大将:徳川家康(三河守)
本体:三河武士
■トヨタグループ
総大将:トヨタ自動車
本体:三河武士
ガタガタ抜かすなら、トヨタグループみたいな武士団作ってみろ
出来ないだろう、三河以外は自己過大評価、他力本願の無能なんだからよ
【三河最強伝説】
■源義家軍
総大将:源義家
本体:三河武士(郎党1 兵藤正経 三河国住人、郎党2 伴助兼 三河伴氏 三河国住人)
■源頼朝軍
総大将:源範頼(三河守)
本体:三河武士
■足利尊氏軍
総大将:足利尊氏(三河守護(但し当時は喪中))
本体:三河武士
■徳川家康軍
総大将:徳川家康(三河守)
本体:三河武士
■トヨタグループ
総大将:トヨタ自動車
本体:三河武士
部下になって働くなら一番働きやすそうですではある
信長みたいに用済みになったらポイ捨てみたいなことしないし秀吉みたいにイミフなことで怒って追放とかもないし
弱くないむしろ強い方だが武将としてはティアAぐらいだからな
為政者統治者としてはティアSだが時代背景的にもやっぱ強い奴が人気になる
戦もクソバカ強かったらもっと人気あったろ
>>73 >都合よく信玄と謙信が死ぬ。
これが最強
信玄が後2年生きてたら織田は滅んでただろ
秀吉臣従の地位から秀吉死後実質天下人になるまでの流れがイマイチ分かりづらい
婚姻外交で味方増やしつつある中でライバルが寿命や内紛で力落としていって相対的にじわじわ力つけていくって流れが時間かかってるし地味で複雑なんよ
むしろ戦国時代を知れば知るほど家康は偉大って分かる
関ヶ原の戦いの勝ち方はそれだけ完璧でだからこそ三日天下でない江戸幕府を作れた
>>629 お前のことはどうでもいいけど、豊田家の先祖って辿れる範囲だと百姓だよね
お前の言う三河武士団と何の関係があるの?
>>627 はい他力本願の誤用
本願とは阿弥陀如来の四十八願のうち第十八願 念仏往生の願の事をいう
私の国に往生しようと願って、私の名を十遍称えたにもかかわらず、私の国に往生しない者があれば私は仏になるわけにはいかない。
という阿弥陀如来の誓いを表す
他力本願とは自分の力で修行して悟りを開くことは難しいので、悪衆生たる人間には阿弥陀如来の力でかの国に往生させていただくのが
水路を行くが如く易しい道と説く教えである
大坂征伐は承久の乱な
徳川家康は源頼家正室の兄の血を引く
承久の乱は三河国も東西に挟まれた当事者
政治センスが違うんだよ、三河は
後鳥羽院の周りは三河縁者だらけであり
三河国にとって実朝暗殺、承久の乱は、騒動の当事者でもあった
尾張は呑気な田舎者で羨ましい
藤原経忠→信輔→信隆→信清→女→四条隆衡→隆親(三河国知行国主、妾に足利義氏(三河守護)娘)
藤原経忠→信輔→信隆→信清→信子(源実朝正室)
藤原経忠→信輔→信隆→七条院(三河国分国主)→後鳥羽天皇→昇子内親王(母は九条兼実(三河国知行国主)の娘)、順徳天皇准母)
藤原経忠→信輔→信隆→七条院(三河国分国主)→後鳥羽天皇→土御門天皇(母は源在子(母親の養父は藤原範季)
藤原経忠→信輔→信隆→七条院(三河国主)→後鳥羽天皇→順徳天皇(母は藤原範季娘)
藤原経忠→信輔→信隆→親輔(三河守)
藤原経忠→信輔→信隆→信行→忠輔(三河守)
藤原経忠→信輔→親信→水無瀬親兼(室は足利義兼の娘)
めちゃくちゃ人気ある
徳川家のみなさん
徳川家康貶す奴は朝鮮人です
>>225 どっちかって言うと早い段階で清みたいに海外に食い物にされてた様な気がするけどな。良くも悪くも鎖国で守られてたんじゃないかと
>>643 物を知らないカッペだな
豊田佐吉は三河吉田藩生まれ
豊田佐吉のとーちゃんは、元は佐原伊吉、実は三浦流の佐原氏なわけだ
静岡の佐原氏は、鎌倉期に足利氏の家臣として見え、室町期は今川氏の家臣だった
宝治の乱で三浦一族は滅んだが、残った奴は足利氏が密かに匿い、代表的なら奴が佐久間家村、佐久間信盛の先祖だわな
佐久間家村は知立に逃げてきた
大名になった三河の三浦正次の家系、旗本の杉浦家とかも三浦流だわな
三浦一族は三河で生き残ったんだよ
>>637 勝頼にボコボコにされていたからそれはない
そしてその勝頼を虐殺した信長こそ天才
>>361 割とマジで光栄の信長の野望の影響は大きいと思う
>>648 証拠ないけどね
口伝だけで辿れないからww
大体誰でも5代以上前には遡れば、どっかの武士に当たるわお前みたいなボンクラでもな
>>605 義元の死に家康がなにかした訳ではない
↓
棚ぼた
信長の死に家康がなにかした訳ではない
↓
棚ぼた
秀吉の死に家康がなにかした訳ではない
↓
棚ぼた
>>651 豊田佐吉が佐原佐吉と初めて知って、狼狽するなよ
お前と同じで、大多数が物を知らないカッペだ
佐久間家村は佐久間氏の初代だが、三浦一族子孫の会の奴らが、佐久間盛政の首塚がある西尾にやってきた際、佐久間家村が潜伏したと言われる知立を訪れてきた
到着して近くにあった寺の鬼瓦見たら、三浦の丸の内三つ引き両紋で驚いたらしい
>>648 そこまで遡るんやったら
そもそも源氏は大阪発祥でさらにその前は皇族やけど
>>656 ていうかカッペって関東訛りやん
お前本当に三河人なのか?
正直軍事的才能が一番なかったの信長という気もするんだよな、三方ヶ原で防御陣地と鉄砲の組み合わせみてもその後気にかけて試しているの
秀吉と家康だし。軍事関係なく三者みても革新性みたいのも別に信長が一番って感じでもないよな
というか、秀吉としては北条氏直がが死んだの誤算だったんじゃないかね。氏直が生きていれば氏直と家康で関東を分担させるって
手もあり互いに牽制するようにも仕向けられたろうに
>>657 >皇族
国体が何故、伊勢にあったのかを考えろ
答えは、そもそも三河の神宝であり、三河に面した伊勢に置く事で三河に返したつもりだったんだろうが
社格ランキング
石巻山>大神神社(三輪山)>伊勢神宮
大神神社と伊勢神宮(伊勢と三輪の神。一体分身の御事。)の主祭神、大物主(ニギハヤヒ?事代主?)
大和国の最初の王は、三河県豊橋市出身の可能性が高い
大神神社と伊勢神宮(伊勢と三輪の神。一体分身の御事。)の主祭神、大物主(ニギハヤヒ?事代主?)
三河県豊橋市にある石巻山は、三輪山の奥の院であると大神神社の社伝に書いてあり
昔は石巻山を神山(ミワヤマ)と呼んでいて、そこから三輪山と名付けられた
大神神社の拝殿は三輪山の正面に向いていない、三輪山の南側にズレている
実は三輪山の奥の院、三河県豊橋市の石巻山(神山(ミワヤマ))に向いているわけだな
>>662 国体が伊勢にあったってどういうことなのか
わけのわからん陰謀論にすがらなあかんお前の思想は穴だらけやな
皇族は明らかに奈良盆地発祥や
伊勢神宮にあった草薙の剣は、日本武尊に与えられ、その後熱田神宮に納められた
その熱田神宮の熱田大宮司の血を引くのが三河の源頼朝と三河の足利尊氏
滝山寺(三河県岡崎市)
源頼朝の歯と顎髭が埋め込まれた 頼朝等身大の聖観音像
全てはこの仏像に秘密がある
三河が試行錯誤して完成させた日本統治システムは、徳川が編み出した物ではない
三河の源頼朝、三河の足利尊氏から受け継いだ伝統と歴史を継承する責務を受け継いだだけなのが三河の徳川家康
源義家は郎党NO1NO2が三河武士と伝え、嫡男義親の生母は源隆長(三河守)の娘であり、実は義家実子と言われる為義の生母も源隆長(三河守)の娘と思われる
そして義国の正室は三河国造家中原季成の孫娘
源義家(1039~1106)
藤原季兼(1044~1101)
生没年がほぼ同じの、この二人、三河を舞台に繋がり持ったとしか思えないのである
義家の曾孫は源頼朝、足利義兼であり、季兼の曾孫も源頼朝、足利義兼なのである
三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流)
系図:藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))
■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡乙見、三河県岡崎市)
・頼朝の母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎大夫)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・季兼は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り三河国加茂郡(三河県豊田市)に土着
・季兼は、三河国加茂郡(三河県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券する
・季兼は、三河国額田郡(三河県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼は、三河国設楽郡稲木(三河県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を支配下におく
・季兼室の松御前(尾張員職の娘)は、晩年新城市稲木で過し没した(城ヶ峰の山頂(三河県新城市)に墓あり)
・季兼は、藤原資良(父の従兄弟)が尾張守になり、息子(藤原季範、額田冠者)と共に三河に住みながら尾張目代を務める
・季兼の息子である藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)
・藤原季範(額田冠者)の娘(由良御前)は源義朝の正室となり、源頼朝を生む
・藤原季範(額田冠者)の娘(養女(実父は藤原範忠))は源義康の正室となり、足利義兼を生む
日本武尊とはなんぞやだが
梅松論には、東国を征伐する歴史を語る記事で、日本武尊に言及している
つまり義家流源氏は、東国征伐のルーツを日本武尊に求めていた事が分かる
日本武尊と言えば、草薙剣
三河の藤姓熱田大宮司家の血を引く源頼朝、足利尊氏の使命感の源泉でもある
日本武尊の実在モデルが建稲種命なら、三河に墓がある
正法寺古墳がその墓で、祀る神社が旗頭神社だ
幡頭神社
社宝
足利尊氏寄進 扁額
足利義満寄進 太刀、獅子頭、扁額
そして正法寺古墳の裾には足利尊氏再興の正法寺
日本武尊の双子の兄弟を祀る、猿投神社
足利尊氏は、猿投神社の東の宮を創建し、槍と鏡奉納した
手腕で言えば武田勝頼も似たようなもんだがあっちはコアなファンが付いとるのはなんの違いなのか
家康が一番賢いよ家康の遺訓は
誰しも読んだほうがいい
だから、何回も言っているだろう
家康が背負ってきた歴史は重い
遡れば、東国に攻め込んだ日本武尊を自らに重ね合わせていた
三河で生まれ育つと、背負う歴史の重さが違い過ぎる
平安末期、岡崎矢作に源義経のスポンサーが居たらしく、義経が東国に逃げる途中にそのスポンサーに源氏守り本尊を預けた
預かった守り本尊は長らく妙源寺に安置されていたが、家康がぶん取って、今は東京の増上寺にある
それが増上寺の黒本尊だ
源氏守り本尊製作依頼者は岡崎市の長瀬八幡宮を開いた源頼義
増上寺黒本尊
製作:恵心僧都源信
所有者の変遷
源頼義
↓
源義家
↓
源為義
↓
源義朝
↓
平重盛
↓
平清盛
↓
常磐御前
↓
源義経
↓
明眼寺(現在は妙源寺、三河県岡崎市)
↓
徳川家康
↓
増上寺
恵心僧都源信創建、源空寺(三河県岡崎市)、誓願寺(三河県岡崎市)
源頼義創建、長瀬八幡宮(三河県岡崎市)、上の宮熊野神社(三河県碧南市)
>>673 補足説明だが
三河の源頼朝の親戚、すなわち源義経の親戚でもある
義経の親戚は三河にいっぱいいたわな
【源頼朝の母方従兄弟】
■藤原忠季:源実朝近習
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→藤原忠季
■寛伝:日光山満願寺19世座主、滝山寺僧侶、滝山寺に惣持禅院建立、本尊に頼朝の歯と顎鬚が埋めこまれた聖観音像
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→寛伝
■野田清季:初代野田氏(三河国設楽郡野田)
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→野田清季
■足利義兼
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→女(実父は季範長男)→足利義兼→足利義氏(三河守護)→吉良長氏(初代吉良氏)
■星野範清: 頼朝右大将拝賀の先駆、星野氏(三河国宝飯郡星野)
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→星野範信→星野範清
■千秋憲朝:駿河守、尾張国海東郡地頭、初代千秋氏(三河国設楽郡千秋)
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→星野範信→千秋憲朝
■仁憲:滝山寺僧侶
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→三河祐範→仁憲
【源頼朝の父方従兄弟】
■源為朝の娘:足助(加茂)重長(三河国加茂郡足助)の正室、娘が源頼家の正室(公暁の母)
・源義親→源為義→源為朝→女→女(辻殿)→公暁
■行快:鳥居禅尼の息、22代熊野別当、三河国蒲形荘、竹谷荘地頭
・源義親→源為義→女(鳥居禅尼)→行快
■鳥居忠氏:鳥居禅尼の息、鳥居氏の祖、承久の変後、三河国額田郡渡に移り住む
・源義親→源為義→女(鳥居禅尼)→鳥居忠氏
信長 昔は比叡山焼き討ちとか非道の行い目立って人気微妙だったけど
最近は割と人間味ある手紙とか知れ渡って人気上昇
秀吉 昔は成り上がり物語として一番人気高かったけど
最近は秀次の事や聚楽第の事が知れ渡って人気がた落ち
家康 昔からそこそこ人気
最近もそこそこ人気
昔の人気 秀吉>家康>信長
今の人気 信長>家康>秀吉だろ
人気が無いという設定なんなんやろな
建勲神社も豊国神社も閑古鳥やぞ
久能山東照宮や日光東照宮は参拝者で連日溢れかえってるのにね
地道に我慢して我慢して待ち続け準備重ねて豊臣の盤面をひっくり返すのは凄いけど地味というかスパン長すぎてドラマチックさが出にくいよな
逆に陰湿でネチっこい感じまで出ちゃってる
厭離穢土欣求浄土とか言ってる割にやってることは軍事政権だから
家康の人生なんか凄いドラマチックやん
だから何度も大河になってる
>>673 日本の歴史は実質奈良、平安からだから
千年も経ってないないんだよ
戦国時代の頃だと
中国の紀元前何年頃からみたいな歴史とは違うから
背負う歴史の重みとかないとは言わないけど
実際は新興も新興なんだよ
卑怯者とかずる賢いとか狡猾なイメージがあって陰キャくさいイメージあるからか?
>>681 さすがに古墳時代からは一定水準の文明があったと考えるべきやから千年は経ってたやろ
直接倒してのし上がった感じがないからだろうな
織田は明智に取られ秀吉には死ぬまでヘコヘコしてたし挙句関ヶ原は本陣動いてなくて武功的な話もなし
関西が当時政権の本拠地なのに関東にさせたから
深掘りすると静岡だけどな
>>516 家康は背負っているもんが違うんや
蜷川氏、戦国期は家康に反目したが、簡単に許されただろう
何故か?
答えは、蜷川氏は三河国宝飯郡宮道を本貫とする宮道氏だからだ
家康は三河縁者に甘い
紫式部は三河国宝飯郡宮道を本貫とする宮道氏の血を引く
中下級貴族出の紫式部だが、にも関わらずプライドが高かったのは高祖母が国母(醍醐天皇生母)の生母だったからによる
その高祖母は宮道列子といい、宮道氏の本貫地は豊川の宮道天神社辺りなのである
なおかつ、紫式部は母方の祖母も同じく宮道忠用の娘
宮道列子の旦那は勧修寺流の祖たる藤原高藤であり、二人の出会い逸話は源氏物語(明石の君)にも落とし込まれている
勧修寺流は、公家では初代関東申次だった吉田経房(コイツは三河国知行国主)を排出した吉田家、後醍醐天皇側近で日本三大忠臣の一人万里小路藤房(コイツの墓は西尾市の養林寺にある)を排出した万里小路家、武家だと上杉家、上杉の屋敷は岡崎市の日名にあったわな
紫式部が源氏物語のはモデルとしたのは醍醐天皇、宇多天皇そして宇多天皇の正室のとーちゃん(藤原藤高)かーちゃん(宮道列子)の華やかの世界であり
そして、宮道列子の子孫の有名人が源頼朝と親鸞であり
源頼朝は三河守だった醍醐源氏たる源隆長の曾孫にあたり、親鸞の曽祖母は醍醐源氏たる源道成の娘だった
宮道列子→女→醍醐天皇→盛明親王→源則忠→道成→業長→隆長(三河守)→源為義→義朝→頼朝
宮道列子→女→醍醐天皇→盛明親王→源則忠→道成→女→藤原有信→日野有範→親鸞
家康の息子の不始末で首を刎ねるとき、服部半蔵正成が「できませぬ」と固辞したので
代わりに執行した家来が「俺は恨まれている」と早々に領地へ蟄居して出てこなかった
というエピソードが残っている
感情的で執念深い家康を端的に表した挿話
>>681 センゴク(笑)ではなく
三河の源頼朝、三河の足利尊氏、三河の徳川家康
3人セットで捉える癖付けよ
日本の歴史(中世~近世)
◆鎌倉幕府(1185~1333年)◆
【勝者】源頼朝:藤姓熱田大宮司一族(本貫地/三河国額田郡乙見)
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮宮司)→由良御前(源義朝の室)→源頼朝
◆室町幕府(1338~1576年)◆
【勝者】足利尊氏:三河守護
・足利将軍家以外では、足利一門として吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)、今川氏(本貫地/三河国幡豆郡今川)、石橋氏(本貫地/三河国設楽郡石橋)が将軍継承権を有した
・守護職は本貫地を三河国にする者が最大人数
・奉公衆(江戸幕府の旗本に相当)は、本貫地を三河国にする者が最大人数、又三河国の奉公衆も最大人数
◆応仁の乱(1467~1477年)◆
【勝者】細川政元:細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・ ”東博本洛中洛外図”には当時の権力者として細川氏邸、額田氏邸(細川氏被官)が描かれている
◆明応の政変(1493年)◆
【勝者】細川政元:細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・半将軍と呼ばれ、幕政を完全に掌握、事実上日本のトップに立つ
◆関ヶ原の戦い(1600年)◆
【勝者】徳川家康:本貫地/三河国加茂郡松平
◆江戸幕府(1603~1868年)◆
【勝者】徳川家康:本貫地/三河国加茂郡松平
・大名の5割が三河国出身
・附家老の8割が三河国出身
・旗本の4割が三河国出身、高家筆頭は吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)
◆大坂の役(1614~1615年)◆
【勝者】徳川家康、徳川秀忠:本貫地/三河国加茂郡松平
特に足利尊氏と徳川家康
室町幕府、江戸幕府をひとまとめに三河幕府にしろ
三河幕府足利将軍期、三河幕府徳川将軍期、三河幕府500年だ
そして初代足利将軍と初代徳川将軍は、共に三河の岡崎市で生まれた
足利尊氏と直義は、家康が生まれた岡崎城から直線距離距離で約1.5キロ離れた上杉氏の日名屋敷で生まれた可能性が高い
日名屋敷の北には足利宗家の屋敷たる大門屋敷があって、尊氏の父たる貞氏の屋敷だった
太田亮
■上杉氏
上杉-勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。
丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。
『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、足利家家人の上椙三郎入道(上杉頼重)より前は不明。
その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か
■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷)
鎌倉末期に三河国額田郡日名にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。
日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。
足利尊氏を生んだ上椙清子の父は、三河国担当奉行頭人だった
清子の父は1310年に在三河は確認出来るが、恐らく足利貞氏が1303年に出家すると、自らも出家し、家督を譲り、鎌倉を去り三河に移り住んだと思われる
すると尊氏が生まれた1305年、清子の実家は三河なのである
清子は父が住む三河で、足利尊氏を生んだ可能性が高い
◆鎌倉末期、足利氏御領◆
■知行国
・三河国(1221年~)
・上総国(1259年~)
■奉行人(倉持文書(足利氏所領奉行注文、御領奉行の事))
・足利庄担当
奉行頭人:南右衛門入道(高頼基、高師直祖父兄弟)
奉行人:駿河六郎二郎、横瀬五郎入道、粟飯原十郎、醍醐三郎入道、堀松三郎二郎、寺岡太郎左衛門尉
・上総国担当
奉行頭人:三戸八郎左衛門入道(三戸為澄、三浦為澄の孫)
奉行人:寺岡左衛門入道、彦部二郎左衛門尉、海老名七郎太郎、有木中務丞六郎、源民部七郎、村上助房
・三河国担当
奉行頭人:上椙三郎入道(上杉頼重、尊氏祖父)
奉行人:倉持新左衛門尉、設楽太郎兵衛入道、梶原太郎左衛門尉、小嶋三郎、有富三郎、明石二郎左衛門尉、大炊助
指ポキポキの人がついたもちを指ポキポキした人が捏ねて指ポキポキした人が食べたってやつだっけ
指ポキポキが不人気なのもしょうがないなwww
>>688 家康としては
部下が皆断る事でこれでは
仕方がないということにして
他の方法で処分したかったのかねえ
>>692 補足説明だが
足利尊氏が生まれたと思われる上杉氏の屋敷たる日名屋敷は、幕末に火事で焼失するまで残っていて、江戸期は岡崎藩の屋敷だった
つまり、家康が矢作川に遊びに行く途中に、この巨大な屋敷があったわけだな
実際には1番有能なのにな
日本史上でも随一の有能だぞ?
待ってただけとか言うけど凡人があのポジションに居たとしてもとても天下は取れないと思うぞ
合わせて補足説明だが
家康が幼少期に遊んでいたと理由で建てられた滝山東照宮
この滝山東照宮は滝山寺の敷地内にあるわけだが
この滝山寺には、源頼朝の歯と顎髭が埋め込まれた 頼朝等身大の聖観音像がある
家康はガキの頃、この聖観音像を眺めてきたわけだな
家康が背負う歴史の意味、分かったか?
そもそも、家康にとって尾張の田舎者たるノビナガ、猿吉などどーでもいいんだよ
だから、家康はノビナガ、猿吉の思い出話を一切しなかった
歴史詳しくないけど棚ぼた感あるからじゃね
あとイラストがやっぱたぬきだしかっこよくないよね
信長が色々出来すぎててるせいだな
漫画なら怒られるレベル
本来は信長なんて足利義教や細川政元と同じ評価でいいんだよ
叡山の焼き討ちとか
人の心がわからんで家臣に殺されるなんてドジ踏んだとか
ほぼ同じ人生なんだから
ドラマの役者とかのイメージでスラッとして若々しくてマントとか羽織った何かカッコいい人ってなってるだけ
逆に秀吉はシワだらけで痩せた猿みたいなジジイ
家康はでっぷり太った愚鈍そうな老人という晩年のイメージで損してる
三英傑の人気は時代によって変わる
変革を求める時代性が信長とか曹操人気になってるんやろ
あと家康は戦争より政治でのし上がったイメージやからその点地味になる
織田信長→厳しい、覇王
豊臣秀吉→成り上がりサクセスストーリーの代名詞
徳川家康→棚ぼた、ぽっちゃり、子孫の方がキャラたってる
こんなイメージだからだろう
俺は割と好きだがな、家康
論語
有名無実、無名有実
有名無実(名ばかりで何をした人なのか実績が分からない)、
無名有実(実力のあるものは名声を追わず無名になる)
有名無実(で、何した人?)
坂本龍馬
伊藤博文
西郷隆盛
無名有実
渋沢栄一(お金になるまで無名)
高橋是清(凄いことしたけど知られてない)
山縣有朋(士族反乱、長州士族の責任として無学の伊藤博文を内地内政から追い出した人物)
3人の中じゃ秀吉が1番戦の勝率が良かった気がする
実際上手いんだよな
なんとなく巻物ってひけないイメージ
ベルやチェリーの方がひける
今川義元に織田信長が何にもしなかったら
秀吉と家康は 歴史の舞台に立てる出世してねえんじゃねえの
関東の田舎者にとっては神のような存在では?
何もなかった江戸を大阪以上の大都市に変えたのだから
最終的な勝者だからでしょ
特に歴史に関しては判官びいきが多い
>>718 大阪などの田舎から全国から集まる大都市にした
後の消防技術となる民間消防団、め組よ組を作った
日本初の被告の言い分も聞く奉行所=裁判所を作った
日本の最初の警察の前身となるおかっぴき(十手もち)を作った
民間人に江戸市場解放して商売をしても良い自由経済システムを作った、成功したのが紀伊國屋
エンタメも民間に解放して浮世絵を発展させた、後のジャポニズムである
民間人用の芝居小屋も作りアイドルやブロマイドを作る
民間人だって社会のことが知りたいぞ!瓦版(新聞)を作った
家康は民間解放の政治の人だよ
秀吉と信長は勝った負けたの戦争の人、政治政策では何も生み出していない
信長:風雲児、魔王、自決END ←カッコいい
秀吉:農民から天下統一 大陸とも戦争 ←カッコいい
家康:タヌキ親父、待ってただけ 政治が上手い ←カッコ悪い
そもそも「待ちキャラ」なんて、格ゲーでも嫌われる筆頭やん
外国だと信長がダントツで不人気
日本でも江戸時代までは信長は間抜け扱いされてた
結局は司馬の影響が全てになってる
>>31 三方ヶ原の戦いが一番有名ですね
HAHAHA
>>723 足利尊氏と徳川家康はセットにしろつーの
徳川家康は三河幕府足利将軍家サイドの人間で、変化を求めない守旧派のラスボス
室町幕府、江戸幕府をひとまとめに三河幕府にしろ
三河幕府足利将軍期、三河幕府徳川将軍期、三河幕府500年だ
そして初代足利将軍と初代徳川将軍は、共に三河の岡崎市で生まれた
足利尊氏と直義は、家康が生まれた岡崎城から直線距離距離で約1.5キロ離れた上杉氏の日名屋敷で生まれた可能性が高い
日名屋敷の北には足利宗家の屋敷たる大門屋敷があって、尊氏の父たる貞氏の屋敷だった
太田亮
■上杉氏
上杉-勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。
丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。
『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、足利家家人の上椙三郎入道(上杉頼重)より前は不明。
その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か
■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷)
鎌倉末期に三河国額田郡日名にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。
日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。
>>506 高師直か?
高師泰、高師直イケイケ兄弟は、家康の大先輩
鎌倉期室町期初期、今の岡崎城の真隣にあったのが高一族の屋敷
高階惟長→滝口惟忠→大平惟行(三河国滝山寺)
高階惟長→惟重→高重氏→師行→師秋(家時置文保管者)→師有(関東執事)
高階惟長→惟重→高重氏→師行→師秋(家時置文保管者)→三郎(三河国滝山寺)
高階惟長→惟重→高重氏→師行→師冬(関東執事、三河守、室は高師泰の娘、高師直猶子)
高階惟長→惟重→高重氏→師行→女(高師直室)
高階惟長→惟重→高重氏→師氏(三河国額田郡菅生郷・比志賀郷)→師重(三河国額田郡菅生郷)→師泰(初代幕府執事)→師世(幕府執事)→いち(三河国総持寺住持)
高階惟長→惟重→高重氏→師氏(三河国額田郡菅生郷・比志賀郷)→師重(三河国額田郡菅生郷)→師泰(初代幕府執事)→師秀
高階惟長→惟重→高重氏→師氏(三河国額田郡菅生郷・比志賀郷)→師重(三河国額田郡菅生郷)→師泰(初代幕府執事)→明阿(高師冬妻、三河国総持寺開基)
高階惟長→惟重→高重氏→師氏(三河国額田郡菅生郷・比志賀郷)→師重(三河国額田郡菅生郷)→師泰(初代幕府執事)→師武(国司師武)?
高階惟長→惟重→高重氏→師氏(三河国額田郡菅生郷・比志賀郷)→師重(三河国額田郡菅生郷)→師直(幕府執事、三河守)→師夏
高階惟長→惟重→高重氏→師氏(三河国額田郡菅生郷・比志賀郷)→師重(三河国額田郡菅生郷)→師直(幕府執事、三河守)→師詮
高階惟長→惟重→高重氏→師氏(三河国額田郡菅生郷・比志賀郷)→師重(三河国額田郡菅生郷)→師直(幕府執事、三河守)→師冬(関東執事、三河守、室は高師泰の娘、高師直猶子)
高階惟長→惟重→高重氏→師氏(三河国額田郡菅生郷・比志賀郷)→師重(三河国額田郡菅生郷)→師直(幕府執事、三河守)→師兼(初代三河守護、高師直猶子)
高階惟長→惟重→高重氏→師氏(三河国額田郡菅生郷・比志賀郷)→師重(三河国額田郡菅生郷)→貞円(三河国滝山寺)
高階惟長→惟重→高重氏→師氏(三河国額田郡菅生郷・比志賀郷)→女(稲荷女房、三河国額田郡比志賀郷)
>>729 山口県萩市の由来知ってるか?
答えは三河県豊川市萩
何で、酒井氏や永井氏が大江広元の子孫だと言っているかで気付け
毛利(広島、山口一味)は徳川とグルであり、毛利も変化を求めない守旧派
「織田がつき羽柴がこねし天下餅すわりしままに食うは徳川」
岡崎城の真横にあった、高一族を菩提する寺たる総持寺
総持寺
1351年、足利尊氏に仕えた高師冬は甲斐国で諏訪氏に包囲され自害。
約一月後には、おじの高師直、父の師泰、兄弟の師世ら高一族8人も摂津国武庫川のほとりで殺害されてしまう。
1355年、高師冬の妻だった明阿は滅亡した一族の菩提を弔うため、寺院の建立を決意。
足利尊氏に申請して、姪の「いち」を住持として総持寺を建て重代相伝の地である菅生郷築山を寄進することを許可された。
1603年、徳川家康より寺領100石を寄進される
家康が生まれた場所、歴史を語る史跡だらけ
部外者は、家康が生まれ育った環境が全く分かってない
信長→戦国時代では最初に上洛
秀吉→日本初、才気でのし上がった
みたいな印象あるからでは?
家康は「最初に何かを成し遂げた」感がない。
家康が生まれた岡崎城から南に下り青野町にあったと思われる、斯波氏の菩提寺たる永源寺
創建した斯波義将は、当時、足利将軍以外では唯一三位に上がり公卿となったスーパースター
空華集 「東海道三河州碧海荘,寔今政府左金吾(斯波義将)祖宗九京(初代から先代)之地也」
「三河国碧海荘は管領家斯波義将の先祖の墳墓の地である」
初代斯波氏である足利家氏は、祖父足利義氏から三河国碧海荘を相伝し本拠とした
永源寺
中世、三河国碧海郡碧海荘内にあった禅寺。管領斯波義将が1380年代に創建。南北朝時代の禅僧義堂周信の詩文集『空華集』に収める「贈雲谿首座赴永源命詩并序」にみえ、錘秀山と号した。
「序」に三河国碧海荘は斯波義将の先祖の墓所のあるところであるといっており、家氏以来斯波氏が伝領してきたのであろう。所在地は「碧海之東」とあるのみでどこであるか不詳である。
応永4年(1397)5月18日、のちに建仁寺61代住持となる玉岡和尚が将軍義満より住持職に補任された(『蔭涼軒日録』文明17年9月15日条)。
家康が生まれ育った環境を、部外者が全く分かってないのが問題
生まれ育った環境見れば、家康が既得権益守旧派のラスボスと分かるんだわな
家康の不人気←明治政府のプロパガンダ
秀吉の不人気←GHQのプロパガンダ
足利尊氏が生まれた可能性が高い屋敷は、岡崎城から直線距離約1.5キロの場所にあった
幕末に焼失するまで岡崎藩が使用していた
徳川家康が生まれ育った環境を、知らなさすぎだろう
尾張の田舎者とは、歴史の深さが違い過ぎるんだよ
足利尊氏と直義は、家康が生まれた岡崎城から直線距離距離で約1.5キロ離れた上杉氏の日名屋敷で生まれた可能性が高い
日名屋敷の北には足利宗家の屋敷たる大門屋敷があって、尊氏の父たる貞氏の屋敷だった
太田亮
■上杉氏
上杉-勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。
丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。
『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、足利家家人の上椙三郎入道(上杉頼重)より前は不明。
その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か
■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷)
鎌倉末期に三河国額田郡日名にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。
日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。
信長は乱世の覇者←偉い
秀吉は信長の敵を討って天下を取った←偉い
家康は孫娘の嫁ぎ先に難癖つけて天下を奪い取った←卑怯者
明治政府の系譜から見りゃ悪だからだろ
江戸幕府を全否定しなきゃならんからね
今もいる薩長閥の政治家やら権力者が全員滅んだら
絶賛されるよ
>>225 実態は鎖国は正解だったろうね
今も昔も欧米キリストカルトどもは変わらん
付き合った相手国をどう取って食おうかしか考えてない
あいつらと比べたら清や朝鮮がどれほど穏健だったか
まぁ東アジアの蓋役だった清が崩れたら日本もあっという間に飲み込まれたけど
束の間の安寧だったねあの時代は…悲しいし悔しくて
足利軍団が集結したのは.岡崎城すぐ南にあったと思われる矢作宿だが
家康が当時にタイムスリップして、足利尊氏に仕えるドラマを希望する
三河の先輩達に揉まれるわけだな、コレは面白い
関西(六波羅探題)、関東(鎌倉、中先代の乱)を同時にヌッ殺したのは三河だけだよな
足利尊氏は、後醍醐天皇を討伐すべく、鎌倉を出発した。
途中、三河の矢作川のほとりの矢作宿(三河県岡崎市)で三河の足利党19家の兵馬の出迎えをうけたが、ここで倒幕の決意を固めた。
19家とは
01.西条吉良氏■後に将軍御一家
02.奥州吉良氏■後に奥州管領家、関東公方御一家
03.今川氏■後に九州探題、守護職
04.一色氏■後に四職家、九州探題、守護職
05.仁木氏■後に室町幕府執事、守護職
06.細川氏■後に管領家、守護職
07.斯波氏■後に管領家、守護職
08.戸賀崎(荒川)氏■後に守護職
09.畠山氏■後に管領家、守護職
10.桃井氏■後に守護職
11.渋川氏■後に将軍御一家、九州探題
12.上野氏■後に奉公衆
13.岩松氏■
14.石塔氏■後に奥州総大将、守護職
15.鹿島氏■
16.粟生氏■後に奉公衆
17.倉持氏■後に奉公衆
18.高氏■後に室町幕府執事、守護職
19.上杉氏■後に関東管領家、守護職
太平記第20回「足利決起」
称呼!
p://otome-portal.com/sengoku/character/ieyasu/
>>718 こういうときは関西人は都合よく家康の偉業という作り話を利用してるんだよな
上杉謙信が関東までよく侵攻してきたり、西の伊勢平氏だった小田原北条が関東にしがみついてきた史実と矛盾してるんだがな
江戸とて北条氏時代にとっくに重要拠点だったのに
大阪城の石垣を見るとね…
お前どんだけ秀吉憎しだったんだよ?と思ってしまうわ。
何もここまでして秀吉時代の石垣埋めなくたって良いだろうに…
「三英傑」という言葉使うのって愛知県民しかいないよな
豊臣滅ぼしからの強権政治は家康と言うより秀忠と土井利勝・側近の坊主だよ
家康がすげー陰険で豊臣家を滅ぼして大名どもを抑えつけたおかげで
戦争がない日本にできたけど
ちょんまげ取れたとたん近隣国に侵略しまくったこの日本ってどれだけ凶暴でキチガイなんやろか?
ふつう、300年ぐらい平和だったらもう争うこと忘れてもええやろに、どれだけ凶暴で気が狂ってるんだよマジに
>>741 秀吉に関しては近年の韓国アゲのためだと思う
96年の竹中直人主演の『秀吉』は人気だった
21世紀に入った頃から秀吉サゲが始まった
秀吉は淀の不倫相手の子供に入れ込んで家滅ぼしたから打倒な評価だよ
家康だったら淀が妊娠した時点で追放してるだろ
上で三傑を野球選手に例えたら、というのがあったが
家康は選手というより野村監督みたいなイメージ
中日監督時代の星野はよく信長に例えられていたと思う
足利将軍を追放して室町幕府の終焉
延暦寺や石山本願寺 宗教勢力の巨大な既得権益の破壊
どう考えても信長が頭一つ抜けてる
>>759 急進的なことやりすぎて部下に殺されたのよ
先手とって暗殺しまくった鎌倉北条のほうが上
信長は光秀に謀反の疑いあるって察知しなければいけなかった
後鳥羽上皇と直接対決して圧勝して
上皇ら皇族を島流しにした鎌倉北条が圧倒的に信長より上
しかも善政をしいたから、京の貴族からの支持もあった
その鎌倉北条も近親で結婚したから短命な執権が続出して弱体化したんだよな
>>754 薩長のケツモチ米英がなんの見返りもなく近代化させたと思ってるのか?
それまでの地方の藩に自治を任せていた道州制のような体制から天皇を頂点とした国家神道を作り中央集権に転換し帝国に作り替えたのは対東アジア、ロシア分断のための尖兵が欲しかったからだよ
その為に徹底的に仕込んだ、戦争のやり方を
すんなり国民が近隣諸国に攻め込むように政治家文壇も傀儡で抑えてた、福沢諭吉だって渋沢栄一だってそうだ
s://dec.2chan.net/up2/src/fu4439540.jpeg
職場とかにもいる勤務歴だけは長くて耐える力のみで出世出来た人
今思えばここから年功序列は始まったのかもしれない
>>762 鎌倉北条て当時日本のトップだろ
信長は清洲三奉行の下っ端スタートだぞ比較対象がおかしい
>>766 執権北条氏も
元は伊豆のしがない豪族や
江戸時代の停滞感の鬱憤ばらしガス抜きの反動
氷河くんたちになろうがバカウケしたのと同じだよ
地元の大名調べてみたら福島正則って人出てきたんだけど、
彼嫌儲的にはどういう評価なん?
家来の腰ぎんちゃくだった
家来が実権握れたのが江戸幕府
ほんとこの人我慢強いよね
強い敵がいなくなるまで70超えても我慢し続けた
運もあるけど戦はなんだかんだで家康が一番強かったんじゃない?(´・ω・`)
家康は今川の教育うけて
中国古典とか読んでたのが大きいだろな
戦が強いのは秀吉だろ
柴田勝家、明智光秀に勝ってる
>>73 >都合よく足利義昭から上洛をうながされる
これに関しては運じゃなくて政治的働きかけの結果やろ
>>711 というか戦国全体で毛利元就に次いで勝率高いのが秀吉
イライラすると味方の兵士を理由なくブチ殺したりする老害パワハラ元彦
家康の創作物だと部下相手でも敬語で喋ってたりするけどあれほんと?
徳川家康は朝廷への手紙や国の公式文章には源家康って署名してるんだわ
これはなぜかというと
幕府を開く事の出来る征夷大将軍には源氏の血統を継ぐ者でなければならないという不文律があったからだわ
家康は自分の祖父は源氏の流れを汲んでいるというふうに系譜を勝手に書き換えて
姓を源と自称して征夷大将軍の地位を得たんだわ
>>743 「高祖劉邦が相手ならばとても敵わないから配下になろう。光武帝が相手ならば良い勝負ができるだろう。
曹操と司馬懿?孤児と寡婦から天下を盗んだ奴らなど俺の敵ではない」
という石勒の有名な言葉がまんま当てはまるんだよなこの3人
家康が岡崎城を取り返してから今川から遠江を切り取る間の戦見てる限り、かなり頑健な戦い方する武将で戦は上手いと思うよ
生涯で戦った戦の数も恐らく破格の数だし
>>767 毛沢東が曹操大好きだったからその影響や
石勒なんて信長秀吉同様瞬間最大風速だけで死後あっけなく国が滅んでる
中国史で当てはめるなら項羽とか石勒みたいなのが信長秀吉で劉邦が家康だろう
>>777 秀吉は基本調略と数押しだから勝率が高いけど同数近いと負けてるからな賤ヶ岳も鬼玄蕃がアホだったから勝てただけだし
3英傑全部足してもまだ足りない朱元璋がいる中国すごい
うんこ漏らしても天下とれるという希望
でもそんなうんこまんにすり寄られてる時点で人気なし
>>792 脱糞噺は同時代史料はもちろん江戸明治大正の軍記逸話集にも見当たらず
なんと家康礼賛の山岡徳川家康の創作が初出とのこと
>>87 墨俣一夜城
高松城水攻め
中国大返し
賤ヶ岳の合戦
清洲会議
やまほどあるぞ
>>794 秀吉が武功自慢で書かせた天正記では小牧長久手だけ外されてるらしい
秀吉の中では自慢できる戦ではなかったんだろう
>>12 秀吉は講談の主人公だったから戦前は圧倒的人気
前田利家って四角い顔や丸顔よりは信長みたいなシュッとした顔のイメージあるだろ
けど今の前田利家の末裔とかまんま徳川家康みたいな四角い顔
これやっぱり徳川家の血が入りまくったんやろな
維新の三傑の1人大久保利通は信長でも秀吉でもなく家康を尊敬しており
家康の内治優先の漸進主義を真に世を知るものとして高く評価していた
無責任な大衆の人気などより大久保のような人物に支持されることこそ家康の名誉だろう
小牧長久手は本拠地の大坂が紀州勢に攻められて長宗我部もそれに呼応しようとしていたから本気出せなかったってのもある
その後そいつらを成敗して本格的に徳川征伐しようとしたら大地震が起こって頓挫
本当なら家康は滅んでいたはずなのに地震のおかげで命拾いしたのは紛れもない史実
「織田がつき 羽柴がこねし天下餅 座りしままに 食ふは徳川」
↑これで人気出るわけないやん
大阪は豊臣居城としてより一向宗の拠点や徳川幕府直轄地としての歴史のほうが長いよな
>>799 だから秀吉のほうが能力が上とはならない
>>750 別になんも矛盾せえへんやろ
当時の東日本の中では比較的栄えてたというだけの話
そもそも寒い地域では米も育たんかったからそれよりはマシやったんやろ
その後の江戸の発展は明らかに強奪により適正水準以上に嵩上げされたもの
>>802 江戸時代の間もずっと武士を馬鹿にしてたから
大阪城の辺りは街の中心ではのうて周辺のまま今まで来てるんやぞ
街の中心は中之島と船場
江戸時代一番格の高かった遊郭は船場の東側にあった新町遊郭で武士はいかれへんところにあった
秀吉の「近衛家の猶子になったから俺も関白にふさわしい家柄」ってやり方は無茶ではあるけど筋は通してて嘘つきでは無い
家康は家系図捏造したイメージが悪過ぎ
>>782 三河武士の日記とかみる感じ半分本当で半分ウソ
上司部下の関係だから命令書だけど
ナニナニ家の社長にお願いする形だから取引依頼でもある
松平家徳川家として訓告する場合は大仰だけど、家康として書く場合はいい人ぶる
味噌土人はそのギャップに喜ぶ
>>73 まぁ三英傑はどいつもこいつも豪運持ちよな
秀吉も前線の兵卒で何度も死にかけてるだろうし金ヶ崎の退き口じゃガチで死にかけてるし
家康もうんこ漏らしながら逃げ出すくらいヤバい戦場でも生き延びた
>>804 後鳥羽院と北条義時がいた時代に東国政権が京の朝廷に優越できる基盤があった以上
強奪で適正水準以上に嵩上げなど関西の被害妄想でしかない
>>12 散り際が謎からな
ミステリー過ぎる
ガチで異世界転生してそう
the top100 generals of history
//forum.paradoxplaza.com/forum/threads/the-top-100-generals-of-history.266934/
1チンギス・ハーン
2アレクサンドロス大王
3ナポレオン
4ハンニバル
5ティムール
(略)
43豊臣秀吉
57織田信長
家康の豪運を象徴するのは3大危機より小牧長久手の後の天正地震だろうな
諸説あるがあの地震が秀吉の徳川征伐を諦めさせた一因であることは十分考えられ
秀吉と戦って唯一城下の盟をせずほとんど客分待遇で豊臣政権に参加する諸侯中別格の地位を得た
武運を気にする当時秀吉からすれば家康は天の加護を受けていると密かに畏れを抱いたのではないか
家康を完全に屈服させられなかったという一種の敗北感が天正記に小牧長久手を書かせなかったんだろう
>>807 秀吉は関白相論に乗じて後で五摂家に返すという約束で関白になったのに
その約束を反故にして豊臣姓をゲットして独占しようとしたんで筋など全く通していない
薩長新政権が徳川家康を腹黒い狸親父って悪役にしたからな、歴史は勝者が作るから仕方ない
>>815 こういうの本気で言ってるのかね
絵本太閤記とか知らないんだろうか
>>771 家康にいいように踊らされて最後にはほぼ全てを失った脳筋としか言いようがないだろ
>>799 小牧長久手はちゃんと機能してる秀吉包囲網状態で開戦だからねえ
あそこで負けていたら中国大返しからの山崎の勝利も賤ヶ岳の勝利も意味の無いものになっていた
包囲網って信長は信玄の死により助かったのに対して
秀吉は自力での戦略勝ち
家康はそんな状態を経験したこともないこれまたラキ珍
>>820 それは
信長の野望かなんかで学んだの?
>>794 墨俣ってほんとかな
一夜で作ったハリボテを対岸から見てあれは城だって騙されるやつはガイジやん
>>794 やっぱ桶狭間や関ヶ原と比べたらしょぼいんだよなぁ
信長は圧倒的カリスマ
秀吉はthe成り上がり
家康もカリスマあって成り上がりなんだけど2人の存在がデカすぎてな
信長はドラマとかでも史実寄りになってきてるよね
革新的ではなく伝統と権威を重んじる常識人の信長になったときに人気がどうなっているものか
>>826 朝鮮出兵は一番スケールがでかいぞ
なにしろ明が相手だからなw
朝鮮出兵で明の崩壊が早まったし、日本社会が世界史に影響与えた希有な例です
スケールでいえばクソでかい
250年の長期政権をぶち上げたクソもらしもSRだし
>>830 今川に羽柴に各地の国衆に北条ともやってんじゃないかな
大日本帝国の軍部は結果的にだが秀吉のマネをしたことになった
まぁ基本火事場泥棒だからなロスケみたいなもん
桶狭間の火事場泥棒
本能寺の変の火事場泥棒
関ヶ原の火事場
負けじゃないぞ、現地の状況を考慮し臨機応変に戦略的転戦しただけや
寡兵で奇襲し大将の首を討ち取る神がかり的な逆転勝利、
日本を二分しその後数百年の日本を決定付ける大決戦
それに比べたら秀吉はしょぼいのしかないよ
ほとんどは信長の一部将としての戦功だし、
大返しはそれ自体はすごいんだろうけど敵が考えなしに思わずやっちゃったとしか思えない三日天下の明智光秀ではいまいち強敵感に欠けるし、
北条は勝ち確舐めプだし、小牧長久手朝鮮出兵は負けだし
一時的とはいえ漢城まで落としてるんだから戦国大名でスケールの大きさはそりゃトップクラスよな
>>830 今川家臣として刈谷に出兵から駿河取るまでは家臣が泣を入れるぐらい戦争に次ぐ戦争だぞ、それを勝ち続けて何とか凌いでる
国衆一門衆を動員しての地味な郡単位での戦に関しては家康はほぼ最強クラスじゃないのかな
むしろ糞を漏らしていることでケンモメンはシンパシーを感じているはず🥹
時代の革命児、合理主義で神仏を恐れぬ無神論者
みたいな信長イメージは
例の如く司馬遼太郎先生の創作です、大河ドラマにもなった『国盗り物語』ですね
このイメージを元に、コーエーのゲームで信長人気はぶっちぎってったわけ
ローマ五賢帝で言うところのネルウァくらいのポジションだよな
信長はトラヤヌス
秀吉はハドリアヌス
順番前後してるけどこんなイメージ
>>810 京都並みに栄えた都なんかなかったぞ?
東日本は貧しい代わりに牧があっただけや
軍事力があっただけやぞ
スト2に例えると秀吉はダルシム、家康はエドモンドホンダだからな
>>799 > 小牧長久手は本拠地の大坂が紀州勢に攻められて長宗我部もそれに呼応しようとしていたから
これらって家康の戦略じゃないのか?
佐々成政も加えて
>>809 三傑の危機一髪(信長は最後本当に殺されてしまったが)
信長=金ヶ崎、鉄砲で狙撃された時
秀吉=金ヶ崎
家康=今川に人質に出される途中に織田に売られた時、三河一向一揆、三方原、本能寺の変の後の伊賀越え
>>269 秀吉はどのくらいだったのかね
150cm以下と推測
ショーグンは家康だけじゃないか
外国人に聞いたら人気が逆転するかもよ?
>>849 ちなみにネロ帝と徳川綱吉が似ている
⚫︎五代目
⚫︎エピソード先行で暴君のイメージが定着している
⚫︎マザコン
>>853 途中で拉致されたは創作で、織田信秀に降参した広忠が家康を人質に出したことが判明してる
>>812にあるように信長も秀吉も所詮軍人としての評価でしかない
家康は武将軍人である以上に日本史上どころか海外の評価から世界史上でも有数の政治家であり
ドンパチだけの単純明快で子供にも分かりやすい軍人より人気が出ないのはある意味当然
三傑を英雄とするなら信長秀吉は子供でも理解できる英雄であり家康は大人だからこそ理解できる英雄
家康って多数派工作で天下人になっていったタイプだから軍人というより政治家だわな
ただの棚からぼた餅
やはり知略では信長か秀吉の2傑
棚から落ちてきた餅を食べるにしても
天下餅などそんじょそこらの大名風情が食べ続けられる代物ではなく
食べ続けられるだけの相応の知略実力がなければたちまち中毒起こすことになる
>>861 家康を外すのは正しい
ノビナガ、猿吉は2間抜けが正しい
家康は足利将軍家サイドの人間で、既得権益を得ている守旧派のラスボス
下剋上するにはラスボスたる家康を倒して初めて成立するが、猿吉は逃げたんだよ
室町幕府、江戸幕府をひとまとめに三河幕府にし無ければ見えてこない
三河幕府足利将軍期、三河幕府徳川将軍期、三河幕府500年だ
そして初代足利将軍と初代徳川将軍は、共に三河の岡崎市で生まれた
足利尊氏と直義は、家康が生まれた岡崎城から直線距離距離で約1.5キロ離れた上杉氏の日名屋敷で生まれた可能性が高い
日名屋敷の北には足利宗家の屋敷たる大門屋敷があって、尊氏の父たる貞氏の屋敷だった
太田亮
■上杉氏
上杉-勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。
丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。
『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、足利家家人の上椙三郎入道(上杉頼重)より前は不明。
その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か
■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷)
鎌倉末期に三河国額田郡日名にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。
日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。
>>848 革命児ではないけど
合理主義で現実主義やな実際信長は
徳川が整備したインフラの上でイキるトンキン
日帝が整備したインフラの上でイキる半島人
>>866 残念ながら徳川のインフラはトンキン大空襲で破壊されたんや
・一族の始祖は正体不明の乞食
・3代続けて10歳前後のガキが一族の当主になる
・2代続けて当主が部下に暗殺される
・当主が分家に城を乗っ取られて放浪
・跡取りが誘拐されて800万円で売られる
・大勢力のパシリにされる
・一向一揆で家臣の半分が裏切る
・大正義軍団に特攻して2時間で全滅
・兄貴分に命令されて妻と長男を殺す
・少人数でお出かけしたら謀反が起こって敵中に孤立
・筆頭家臣が寝返る
・領土を奪われ修羅の土地に幽閉される
・生涯最大の戦で全兵力の3割を預けた跡継ぎが大遅刻
・生涯最後の戦で猛攻撃を受けて部下が全員逃げ出す
これで潰れなかった奇跡の家だぞ
信長よりはるかにドラマチックなのになんで人気ないんだ…?
死んだ奴を叩かない
のがルールな国だしな
勝ち残った奴が叩かれるのは当たり前田のクラッカー
長浜で大名になってからの秀吉がやばすぎる
一人だけ戦果が異常なんだよw
家康は歴史オタクがわかってる感を出すために持ち上げてるイメージ
信長秀吉は他人の創作捏造を真に受けてわかったつもりになって持ち上げてるイメージが延々続いてるな
思考停止の典型
>>872 家康は誰がどう見ても実績がずば抜けてるんだからアンチやってる逆張りの方が俺はわかってる感出してるオタクだな
>>21 逆じゃね?
正室を暗殺して側室何人も作ってボコボコ産ませたけど
どの女にも子供にも愛情を注いだ様子がない
女も子供も家を維持するための道具としか思ってないフシがある
秀吉が死の床で譜代大名に秀頼のことを涙ながらに頼んだとか
信長がおねから頼まれて秀吉の女癖の悪さを叱ったりとか
なんかそういう人間味のあるエピがない
不人気なのはその辺にも理由あると思う
司馬遼太郎が国盗り物語で織田信長を美化しなければ
シブサワコウが信長の野望を作る事もなく
川中島の合戦がシリーズとして長く続いていた事だろう
>>875 信長のパシリずっとやっていて信玄と勝頼にボコられていたのが家康やろ
そもそも武田が反織田になった原因作ったの家康だし信長の天下取りを遅らせた戦犯やぞ
>>876 知らない、知ろうとしてないだけで秀康が死んだと聞いて嘆きの余り数日引きこもったとか
人間くさいエピソードはいくらでもある
偏った一面的な印象操作だけ真に受けてる典型
>>880 言うに事欠いて戦犯扱いとはアンチの認知の歪みの甚だしさは救いようがない
歴史に名を残す奴が幸運なんて当たり前なんだよね
安倍も民主党が内紛で勝手に分裂して野田が意味不明に解散を宣言した棚ぼただろ
数百年後の日本人には野田の行動が研究の対象となり侃侃諤諤されていることだろう
三英傑の中ではいちばん頭が悪いがまあ傾聴力だけはいちばんあったと思う
頭の良し悪しを勝手に決めつけてわかった気になってる典型
家康は悪く言われすぎ。人間的には一番まともだったと思う。
実際3人の中で誰の家来が良いかと言われたら家康だろ。他の二人だと理不尽な目に遭いそうで。
天下取った理由はそういう所だろ。
>>889 司馬遼太郎も全くおんなじこと言ってたわ
>>889 俺も仕えるなら家康だわ秀吉や信長の晩節ムーブ見てるとな
>>889 信長や秀吉と違って部下がみんなキチガイだから部下から悪く言われないだけ
三河武士は話ができない人たちって全国的に言われてた
三河は南朝の残党だらけだし変なプライドありそうよな
>>893 全国的に言われてたってソースあんの?同時代の史料であるなら出してみて
100年近く戦乱というか戦争ビジネスで飽いてたんじゃないかなみんな
明治時代だとこんな感じ
>>1 不景気だからだろ
昔はサラリーマンなどから家康が人気すぎて逆張り中二病が信長支持だったのが逆転しただけ
秀吉は江戸時代からずっと人気だったが今は信長に逆転された
>>889 信長の部下は怖いわな
急に左遷、解雇とか日常茶飯事だろうし
>>885 アイハブノープランなだけだろ
官僚政治をぶっ潰して官邸主導に持って行くと言っておいていざ政権与党となったら何も勉強してなかったので官僚に「御免なさい、私たちが間違ってました」と土下座して教えを請うたのが民主党政権。財務省の言うままに消費税を5%から10%まで引き上げ。あるある言ってた埋蔵金も見つけられず「埋蔵金ありませんでした」と開き直る
実際に官邸主導に持って行ってマスゴミへの情報リークなど色々政治工作されたのが安倍政権(例:検察庁法改正。前任の検事総長が勝手に序列4位の人物を後継指名したのを「政治主導に反する」として順当に1位の人物を選ぶように言ったらアベガーに「安倍が介入した」とリークされた)。埋蔵金も別のところに埋まってるのを見つけてすぐ利用
戦略が待ちだから。
スポーツでもなんでもそりゃ人気でないだろ
>>879 実際に読んだら少年時代以外は非人間的すぎてほとんど光秀視点
世襲色強いから民衆には受けないけど政治家とかには人気だろうね
>>902 民主党政権擁護するわけじゃないけど
消費増税したの普通に安倍政権なんだが
世襲は信長も秀吉もやろうとしてただろう
秀吉などそこに執着したあまりかえって家を滅ぼすことになった
当時は選挙もないし民主主義でもないんだから徳川だけ世襲を言われる筋合いはない
よく司馬の受け売りで徳川は自家の存続と繁栄だけ考えてたからけしからんとか言ってるのがいるが
そもそも上から下まで自家の存続と繁栄が第一のエゴの塊である武家の時代に
近代以降の公共の概念を遡って当てはめるなど卑怯卑劣極まりない批判のための批判でただの誹謗中傷
単なる徳川憎しからくる幼稚な評論であり司馬などその程度の見識の持ち主でしかなかったということ
>>907 野田「安倍が逃げないように引き上げを国際公約とする」
安倍、2回は何とか先送りにしたが3度目は逃げられず(官僚は引きあげろとせっつき、マスゴミは「国際公約を破る気か」と脅す)
高市は「それでも見送るべきだった」と総裁選でそこには文句を言っていた
そりゃ座りしままに食うは徳川なんて皮肉以外の何者でもないし当時から誰もがダサって思ってただろ
>301
1代で一国分捕っただけで戦国大名としては超有能。
座りしまま食うという守成がいかに難しいかわからない理解できない
ダサいとかダサくないとかその程度の視点でしか見れないのがああいう便所の落書きを残し
現代でも金科玉条のごとく崇め奉ってんだろうな
千数百年も前の唐太宗は理解していたことなのに
ぶっちゃけ織田も豊臣も後継者問題で失敗したからやられただけ
織田は信忠が光秀謀反を聞いても何故か逃亡せず二条城で討ち死にする事を選んで
豊臣は一門が秀次事件で結束が皆無に妻方の親族の浅野は獅子身中の虫状態
で徳川はその点マシだった
信長の野望で秀吉弱いと大阪からクレームくるらしいし
名古屋でも信長秀吉は人気だろうしで
トンキンがご当地武将に徹底的に興味ないだけでは
>>1 三英傑の人気度は
信長>>>>秀吉=家康
だぞ
バ関西人が異常に秀吉推しなだけで全国的には秀吉家康は同じ
>783
その家系図改竄を取り仕切ったのが吉良氏でその吉良氏は赤穂事件で取り潰し。
見方によれば、徳川の都合の悪い事実を知ってる吉良氏を潰すために幕府が赤穂事件を仕掛けた。
忠臣蔵の幕府黒幕説はここから来てる
ガキの時授業でこの3人で人気投票したら家康が一番ダントツ人気だったな
理由 成功者だから、今の世の中を作ったから、江戸幕府開いたから
とかいう後から攻略本開いたような後世から値踏みしたような意見ばっかりだった
ダントツの不人気は秀吉
理由朝鮮を侵略したから戦争は良くないと思います
笑
徳川体制の存続は家康の子孫や老中たちの努力も大きいのよな
家光死んだ後は将軍の力も弱くなって宮将軍構想も出ていたが
こんなの通ってたら鎌倉の体制と同じことになってたな
他国の工作に騙されて秀吉の人気が落ちたとかほんと情けないわ
信長秀吉家康共にフィクションネタを史実だと信じてる連中多いからな
ジャップは小説漫画ゲームに影響されやすい
罪人の流刑地の東国の全域穢多非人部落の関東地方に島流しされた徳川家康w
>>909 物を知らないカッペだからな
滝山寺(三河県岡崎市)
源頼朝の歯と顎髭が埋め込まれた 頼朝等身大の聖観音像
全てはこの仏像に秘密がある
三河の源頼朝、三河の足利尊氏から受け継いだ伝統と歴史を継承する責務を受け継いだだけなのが三河の徳川家康だ
三河が試行錯誤して完成させた日本統治システムは、徳川が編み出した物ではない
源義家は郎党NO1NO2が三河武士と伝え、嫡男義親の生母は源隆長(三河守)の娘であり、実は義家実子と言われる為義の生母も源隆長(三河守)の娘と思われる
そして義国の正室は三河国造家中原季成の孫娘
源義家(1039~1106)
藤原季兼(1044~1101)
生没年がほぼ同じの、この二人、三河を舞台に繋がり持ったとしか思えないのである
義家の曾孫は源頼朝、足利義兼であり、季兼の曾孫も源頼朝、足利義兼なのである
三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流)
系図:藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))
■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡乙見、三河県岡崎市)
・頼朝の母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎大夫)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・季兼は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り三河国加茂郡(三河県豊田市)に土着
・季兼は、三河国加茂郡(三河県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券する
・季兼は、三河国額田郡(三河県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼は、三河国設楽郡稲木(三河県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を支配下におく
・季兼室の松御前(尾張員職の娘)は、晩年新城市稲木で過し没した(城ヶ峰の山頂(三河県新城市)に墓あり)
・季兼は、藤原資良(父の従兄弟)が尾張守になり、息子(藤原季範、額田冠者)と共に三河に住みながら尾張目代を務める
・季兼の息子である藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)
・藤原季範(額田冠者)の娘(由良御前)は源義朝の正室となり、源頼朝を生む
・藤原季範(額田冠者)の娘(養女(実父は藤原範忠))は源義康の正室となり、足利義兼を生む
家康にしてみりゃ、何でノビナガ、猿吉に絡まれなあかんねんつー話
日本の歴史(中世~近世)
◆鎌倉幕府(1185~1333年)◆
【勝者】源頼朝:藤姓熱田大宮司一族(本貫地/三河国額田郡乙見)
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮宮司)→由良御前(源義朝の室)→源頼朝
◆室町幕府(1338~1576年)◆
【勝者】足利尊氏:三河守護
・足利将軍家以外では、足利一門として吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)、今川氏(本貫地/三河国幡豆郡今川)、石橋氏(本貫地/三河国設楽郡石橋)が将軍継承権を有した
・守護職は本貫地を三河国にする者が最大人数
・奉公衆(江戸幕府の旗本に相当)は、本貫地を三河国にする者が最大人数、又三河国の奉公衆も最大人数
◆応仁の乱(1467~1477年)◆
【勝者】細川政元:細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・ ”東博本洛中洛外図”には当時の権力者として細川氏邸、額田氏邸(細川氏被官)が描かれている
◆明応の政変(1493年)◆
【勝者】細川政元:細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・半将軍と呼ばれ、幕政を完全に掌握、事実上日本のトップに立つ
◆関ヶ原の戦い(1600年)◆
【勝者】徳川家康:本貫地/三河国加茂郡松平
◆江戸幕府(1603~1868年)◆
【勝者】徳川家康:本貫地/三河国加茂郡松平
・大名の5割が三河国出身
・附家老の8割が三河国出身
・旗本の4割が三河国出身、高家筆頭は吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)
◆大坂の役(1614~1615年)◆
【勝者】徳川家康、徳川秀忠:本貫地/三河国加茂郡松平
昔は野村克也とかが好きなサラリーマンが家康大好きだっただろ
不況が長く続いたせいで一発逆転を狙って信長目指す奴が増えただけ
>>610 戦力的に幕府は勝てるだけの力はあった
慶喜は逆賊の汚名を避けたいのと最終決戦で外国勢力の直接介入を避けるのが日本のためになると考えた
幕府側はフランス、新政府軍はイギリス
信長人気はバブル崩壊以降の規制緩和打破の世間の空気と信長のイメージがマッチした結果。
後はゲームの影響もあるかもだが
それ迄は一番人気だった秀吉の主君ってイメージが支配的
家康は元々三英傑では圧倒的不人気
>>858 でもその治世すら
信長と秀吉が居たからこそのものだからなあ
橋を叩いて渡るようなやり方の家康が自力で天下統一から始めたなら寿命が先に尽きるだろう
何回言ったら分かんねん
家康は守旧派で室町幕府のラスボス
家康を倒して初めて下剋上は成立する
家康は足利将軍家サイドの人間で、既得権益を得ている守旧派のラスボス
下剋上するにはラスボスたる家康を倒して初めて成立するが、猿吉は逃げたんだよ
室町幕府、江戸幕府をひとまとめに三河幕府にし無ければ見えてこない
三河幕府足利将軍期、三河幕府徳川将軍期、三河幕府500年だ
そして初代足利将軍と初代徳川将軍は、共に三河の岡崎市で生まれた
足利尊氏と直義は、家康が生まれた岡崎城から直線距離距離で約1.5キロ離れた上杉氏の日名屋敷で生まれた可能性が高い
日名屋敷の北には足利宗家の屋敷たる大門屋敷があって、尊氏の父たる貞氏の屋敷だった
太田亮
■上杉氏
上杉-勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。
丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。
『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、足利家家人の上椙三郎入道(上杉頼重)より前は不明。
その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か
■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷)
鎌倉末期に三河国額田郡日名にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。
日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。
>>928 リーダーの能力含めて陣営の戦力だからな
錦の御旗を相手に使われた時点で戦略的に敗北
>>909 秀吉(と信長)は中国制覇という夢あったけど
何で三河人が作った武家政権を、既得権益者の三河人が倒すんだよ
頭がおかしいのか?
関西(六波羅探題)、関東(鎌倉、中先代の乱)を同時にヌッ殺したのは三河だけだよな
足利尊氏は、後醍醐天皇を討伐すべく、鎌倉を出発した。
途中、三河の矢作川のほとりの矢作宿(三河県岡崎市)で三河の足利党19家の兵馬の出迎えをうけたが、ここで倒幕の決意を固めた。
19家とは
01.西条吉良氏■後に将軍御一家
02.奥州吉良氏■後に奥州管領家、関東公方御一家
03.今川氏■後に九州探題、守護職
04.一色氏■後に四職家、九州探題、守護職
05.仁木氏■後に室町幕府執事、守護職
06.細川氏■後に管領家、守護職
07.斯波氏■後に管領家、守護職
08.戸賀崎(荒川)氏■後に守護職
09.畠山氏■後に管領家、守護職
10.桃井氏■後に守護職
11.渋川氏■後に将軍御一家、九州探題
12.上野氏■後に奉公衆
13.岩松氏■
14.石塔氏■後に奥州総大将、守護職
15.鹿島氏■
16.粟生氏■後に奉公衆
17.倉持氏■後に奉公衆
18.高氏■後に室町幕府執事、守護職
19.上杉氏■後に関東管領家、守護職
太平記第20回「足利決起」
>>930 家康は寡兵で信玄に決戦を挑むような脳筋やぞ
>>610 世界で300年近く持った政権(他国なら王朝)をそんな風に言う奴はおらんやろ
>>858 それはまだ戦争が終わってなかったからで政策的には二人のやり方を踏襲してるぞ
引き継がなかったのは貨幣経済
まあ家康の成功は秀吉という反面教師のおかげだよな
無謀な海外進出はしない
体制の存続を優先させるためにすぐに将軍職を息子に継がせる
もちろん秀吉の太閤検地や刀狩りのおかげ
>>937 ビザンツ帝国1050年
神聖ローマ帝国840年
オスマン帝国620年
アッバース朝500年
高麗王朝480年
etc.etc.
ネトウヨは世界史を知らなさすぎ
>>937 三河幕府 500年だが?
センゴク(笑)は南北朝と同じ扱いで良い
室町幕府、江戸幕府をひとまとめに三河幕府にし無ければ見えてこない
三河幕府足利将軍期、三河幕府徳川将軍期、三河幕府500年だ
そして初代足利将軍と初代徳川将軍は、共に三河の岡崎市で生まれた
足利尊氏と直義は、家康が生まれた岡崎城から直線距離距離で約1.5キロ離れた上杉氏の日名屋敷で生まれた可能性が高い
日名屋敷の北には足利宗家の屋敷たる大門屋敷があって、尊氏の父たる貞氏の屋敷だった
太田亮
■上杉氏
上杉-勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。
丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。
『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、足利家家人の上椙三郎入道(上杉頼重)より前は不明。
その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か
■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷)
鎌倉末期に三河国額田郡日名にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。
日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。
>>937 政権(海外で言えば王朝)って、馬鹿なのかこいつ
その日本に天皇家の王朝が続いてるのに、その下で動いてる政権が王朝相当ってどういう意味だよ
実質的な権限ほぼないのだから武家政権が王朝と言っていいだろ
春秋時代末期みたいなものだ
形の上だけでも皇室王室を敬うがただそれだけ
異民族の襲来もない同族だけの島の政治体制が
何年続こうがどうでもいいよ
世界と比べる様なものじゃない
>>933 実際どういうものだったかわからない信長秀吉の構想を引き合いに出してもしょうがない
少なくとも秀吉がやったことは単なる侵略でしかも戦費だけかかって大した見返りも得られず
外征諸侯が疲弊しただけで豊臣滅亡の遠因になり司馬が言う「信長秀吉は国家そのものを富まそうとした。
家康は国内での節約主義経済に終始した」なんて持ち上げとは全く逆の結果になってる
有り得た可能性だけにすがってバラ色の未来を語るなんてのは詐欺師の手口そのもの
司馬なんてのはその程度のペテン師に過ぎない
司馬は昭和の関東軍を始めとする日本軍部を「国家を賭けた賭博をやった」と口を極めて罵ったが
まさにそれをやったのが秀吉であり大日本帝国の直系先祖の面目躍如
司馬が卑劣なのはこの秀吉の賭博について小説でも随筆でもほとんど触れたことがないことで
秀吉の関白就任の経緯といい都合の悪いところは意図的に徹底的に無視し続けた
こんな三文文士の信長秀吉家康評などなんの参考にもならない
>>337 これよく言われてるけど当時の書簡や日記を見ると違うと思ってるわ
天正大地震から1か月後、1月9日に2月頭に家康を責めるからお前も出兵しろと上杉に書簡を送ってるのよ
その一方でその半月後の1月24日には信雄を介して和議を結んでる
条件等の下交渉を考えると前から話はしてたんだろうと推測できる
当時は使者が直接行ったり来たりするので今と違って交渉には時間がかかるのよ
となると秀吉は最初から本気で家康攻めを考えていたのではなく出兵をチラつかせつつ同時に和睦交渉をしていたんじゃないかと
もちろん家康が応じなければ出兵する気ではいただろうけど
自分の推論だけど秀吉と家康は地震の有無にかかわらず和睦してたし
もし家康が応じなければ地震の影響とか関係なく家康攻めをしただろう
実際秀吉は3月には6~10万という大軍を率いて紀州征伐を行っているので
2月の家康攻めが天正地震のせいでできなかったというのは違和感しかないわ
戦国時代で色々な人をコロしてたけれどある時に自分の大親友をそうしなければならなくなって親友も笑顔で答えた
夜中に家康の大号泣が聞こえてきたそうよ
それから彼は戦の無い江戸三百年を作った※個人的な意見です
薬マニア真田くんにちょー意地悪する漏らしたことある
あまりかっこいいお話は伝わってないわね~
俺はうわべしか知らんが
最終的な勝利者って感じで好き
>>1 楽勝イメージあるからじゃない?
結構波乱万丈な人生だけど大半の人は前半とか興味無いっしょ
大成功してるからね
道半ばで儚く散っていく様が日本人は好きなのよ
利家死ぬまで待ってたのも自分のせいで死んじゃった利家弟への義理立てと想像すればまた違うイメージに
単純に旗頭いると面倒くさいからだけだろうけど
250年も鎖国したせいで日本が弱体化した。
俺らが苦労しているのは家康のせい。
-curl
lud20250204114645このスレへの固定リンク: http://5chb.net/r/poverty/1735382975/
ヒント:5chスレのurlに http://xxxx.5chb.net/xxxx のようにbを入れるだけでここでスレ保存、閲覧できます。
TOPへ TOPへ
全掲示板一覧 この掲示板へ 人気スレ |
>50
>100
>200
>300
>500
>1000枚
新着画像
↓「「徳川家康」→コイツが3英傑でダントツな不人気な理由 [639230687]->画像>3枚 」を見た人も見ています:
・徳川家康(1543〜1638)って功績の割にはあんまり人気ないよね
・【謎】Kpopアイドル「高身長イケメンです、歌ダンス上手いです、女子アナをレイプしません」⇠こいつらが日本で人気な理由
・武将温泉 「徳川家康編」
・朴槿恵「私は徳川家康だ」
・徳川家康が崇拝してた偉人
・徳川家康って何が凄かったんだ?
・徳川家康が伊賀超えにて死亡。その後の天下は?
・【徳川家 総合】 徳川家康公スレ その26
・もしもシンエヴァに豊臣秀吉と徳川家康が登場したら
・今の若者って徳川家康はおろか慶喜にもあったことないらしい
・松本潤とかいうジャニタレのせいで過去最低の徳川家康に
・【松平元康】 ⇒ `世良田元信´ ⇒ 【徳川家康】
・【6号機】戦コレ![泰平女君]徳川家康 20コレ【KONAMI】
・徳川家康「ヨシッ!妻子殺すか」地味にキチガイだと話題に
・【6号機】戦コレ![泰平女君]徳川家康 22コレ【KONAMI】
・【歴史】東京メトロ丸ノ内線の地上走行は徳川家康のせいだった [無断転載禁止]
・【6号機】戦コレ![泰平女君]徳川家康 4コレ【KONAMI】
・【武内英樹】もしも徳川家康が総理大臣になったら【浜辺美波/赤楚衛二/GACKT】 2
・【歴史】「徳川家康は辛抱強い性格だった」は後世の創作の可能性 ★3 [ボラえもん★]
・前田敦子→織田信長、大島優子→豊臣秀吉、渡辺麻友→石田三成、指原莉乃→徳川家康
・【日本首相】 豊臣秀吉になるというスガ、韓国との未来で不安要素に〜徳川家康を目標にした方が良い[09/21] [蚯蚓φ★]
・少し支持率が落ちただけでフォローの会見する安倍って万全すぎるだろ…徳川家康の再来かよ [無断転載禁止]
・【戦国】 織田信長:紛うことなき天才。豊臣秀吉:下層民から成り上がった鬼才。徳川家康:全て棚ぼた人生のラッキー珍大名
・舛添要一氏が小池都知事に苦言「関ヶ原で徳川家康や石田三成が過労で静養するか?1週間も戦のときに休むのは政治家失格」 [記憶たどり。★]
・セブイレの弁当「高いです、マズいです、量少ないです」⇦こいつが人気な理由
・NHK教育を見て52886倍賢く徳川家康
・「あっ、こいつ徳川家康だな」って奴の特徴
・じゃあ石田三成という平幕力士は、どういう戦法で行っていれば徳川家康という横綱に勝てたんだよ?
・下尾みう(美人、歌上手い、ダンスメンバー、天然、スタイル良い、韓国人気)←天下取れなかった理由
・【芸能】森三中・大島「コイツが人気あるの?」人気声優・尾崎由香にイラつく
・★徳川信康を演じる平埜生成★今回の切腹の理由
・モベキマス以降のハロプロでダントツ一番人気だった佐藤優樹さんが今現在何者にもなれてない理由って何?
・小栗有似の一般人気が出ない理由
・日本代表の人気がなくなった理由 2
・スキルメンバーがあまり人気が出ない理由
・加賀楓がモーニング娘。不動の人気No.2にまで上り詰めた理由
・加賀楓がモーニング娘。不動の人気No.2にまで上り詰めた理由
・「ひとりごはん」がタブーの韓国で「孤独のグルメ」が大人気の理由 2018/10/05
・【女子アナ】TBS宇垣美里アナの「マイメロ論」が話題 担当編集者が語る人気の理由
・【悲報】タランチュラ(安い、買いやすい、モフモフ、ほぼ毒無し)←これがペットとして人気が出ない理由
・久保史緒里(歌:A 顔:A スタイル:A 性格:A やる気:A 人気:B 若さ:B 演技力:A トーク力:S)←こいつが堀より推されてない理由
・「道重も田中も愛理も佐藤も宮本も稲場もいるM-lineこそが本体!」←なのに今のJuice=Juiceやつばきファクトリーよりも人気がない理由
・PS5歴史的な不人気で終わると思うよ。
・【疑問】小田みたいな不人気メンって握手会の時ブースの中で何やって過ごしてんだろうな?
・【文春】週刊文春が新たな不倫スクープを予告「日曜日の人気番組に出ている人」★3 [無断転載禁止]
・【仮想通貨】ビットコインは使い物にならない?「ビットコインキャッシュ」誕生の意外な理由
・BTSが着ていた原爆シャツが韓国で完売 BTSのおかげで大人気
・【( ω・ミэ )Э】頭部に赤い「C」マーク コイの「カープちゃん」が人気
・【仮想通貨】仮想通貨の急騰は「根拠なき熱狂」なのか ビットコインを上回る人気銘柄続々
・人気パン屋が売れ残った猫顔パンを「殺処分になりそう」とtweetしたら猫キチガイが発狂して批難殺到
・【おまえらもう買った?】サッカーW杯日本勝利で「大迫半端ないって」Tシャツが人気沸騰!予約殺到へ
・「速さよりも演出ちゃんとみたい」←コイツが北斗9打たない理由
・いま大人気の声優・上坂上級すみれ、オッパイがパンパンッ「リアル乳袋」ドスケベすぎるセーラー服コスを披露。乳も上級
・【観光公害】「コインが1m以上積もってる」観光客が投げ銭 外国人に大人気世界遺産、忍野八海に…水質汚染の懸念も [7/24] [仮面ウニダー★]
・おまんさん「おっぱいありますまんこありますおしり興奮するでしょ?」←コイツが嫌われるようになった理由
・警察官「高卒です、年収800万です、汚職します、威嚇します、国民殴って失明させます」コイツが存在している理由
・ダンスディレクターは、何故3番人気だったのか?
・【麻薬】ダンスも見所だった「人気グループの元メンバーX」に違法薬物の噂!
・ルックス歌唱力スタイルダンストーク全て水準以下の佐藤が圧倒的一番人気の謎
・【朗報】ジャンプラの未来を担う漫画『ダンダダン』、ついにチェンソーマン2部の人気を超えてしまう
・【動画】KPOPグループIVEのレイによるダンスが韓国で「暴走モルモット」と呼ばれ大人気になっている模様
・【芸能】人気急上昇の星島沙也加が初DVD「キャビンアテンダントや制服を着ました」[04/03] ©bbspink.com
・【画像】ダンダダンの人気キャラ「セルポ星人」がフィギュア化。首部分が可動できて価格は¥7,480
・何故ハロプロは鈴木愛理ちゃんのように人気・容姿・歌・ダンス、全てが揃ったようなメンバーが出てこないのか
・【アイズワン】あまりの不人気にセンターを外された禿げウォニョンさん、ついに同じ韓国人メンバーのバックダンサーにまで落ちる!
・ハロプロの人気・売上・好感度・歌・ダンス・パフォーマンス・一芸・ビジュアル・エロ←これらが外では何一つ通用しない理由って何?
00:34:07 up 42 days, 1:37, 1 user, load average: 10.78, 20.75, 50.79
in 1.2057740688324 sec
@1.2057740688324@0b7 on 022414
|