正直、精神科ってテキトーなこと言って薬処方してたらいいだけだから楽チンと聞いたことある
なんか問題あっても患者のせいにすれば良い
外科医や内科医ほど責任負わなくて良い
精神科医を目指す奴は大抵元から病んでいるので自分を知るために精神科医になるって聞いて闇の深さを感じたわ
海外ドラマ見てると精神科の医者が精神科受診してたりしてなんやこれ…って思う
楽しそうじゃん 身内にそういうのがいて身近な問題としてあったんじゃね?
だから当人にもそのケがある
いうて医師免許取るのにみんな同じ試験も実習も受けてるんだから有能なのは間違いんだぞ
診療は信用からよ
>>9
A先生がB先生に診てもらって、B先生がC先生に診てもらって、C先生がA先生に診てもらえば
なにかが完成するな 緊急性ないし、判断ミスで直接生命の危機に陥れることないし、体力いらないし、楽そうってイメージあるんじゃなかろうか
元々産婦人科医家系なんだけど自身がアスペでマルチタスクが必要な産婦人科医は無理だったから精神科に鞍替えしましたと話す先生がいた
主治医も病んでるのかしら
ドクターxみたいな人なんだけど
血を見なくて済むのはよくね
医学部入ってみたものの血が苦手って気づいた人もいるだろうし
脳の研究とかしてるならまだしもお悩み相談みたいな人たちは医者ではないよね
>>17
痔瘻治してもらった時は涙が出るほど感動した
もっと若かったら俺も肛門科目指してたと思う 精神外科を開業したら、全国から患者が殺到しそう
抗議も殺到するだろうけど
サイコパスじゃないとなれない職業
善良な人間は続かない
適切な薬処方してくれればそれでいいわ
去年初めてお世話になったけど助かったわ
一番不思議なのが解剖とか検死やるやつ
技術じゃなく精神的な問題だろ
自分はおかしいんじゃないかって不安があるからその方面に興味を持つ
心療内科待ち合いで座ってる分には暴れたりするやついないんだけど
誰見ても正のオーラはいっさいないもちろん自分も
たまに認知症の高齢者がヘルパーと来て叫びまくってるけどあれはしょうがないし
知り合いの心療内科
ホームの端には立たないようにしてるって言ってたな
医者のストーカーになる患者多いんだと
家族を自殺で亡くしたのがきっかけの人もいるからちょっと突っ込みにくい
薬漬けにしてセフレとして離れられない身体にしてる医者絶対いるやろ
>>37
シックスセンスのブルースウィルスが患者に殺されてるしな 基本オペないし夜中に急変で病棟から呼ばれることもないし楽だろうなあ
一番淡々と作業できる
手術も検査も要らない
数年単位で定期的に金落とす
こんなコスパいい科ないだろ
俺は医者ではないが、他科に比べて労働環境がまだまともで
一生勤務医でも給料が他科より高い(指定医をとれば)から精神科医なる人多いな
月休が4〜6日程度あって出世しない限り12時間拘束程度で済む
夜勤も月に4〜6回程度
但し精神科医でも中途半端に出世すると月休1日か2日で18時間拘束くらいになるし
夜勤も月に何回か入らないといけなくなる
医者は地獄
>>26
お悩み相談こそ本物やぞ
保険外診療で2〜3万/50分でやっているからな
腕が勝負や >>45
そういう生活してるわりに医者が具合悪くて仕事休んで臨時休診とか聞いたことないよな
不思議だわ >>52
よほど特殊な医者でもない限り患者になんか手ださんぞ
若くて美人でも精神科にかかる女は
医者どころか看護師や作業療法士にも相手にされない女ばっかりで
介護士にまで手出してる それよりも謎なのは肛門科目指す奴だろ
いや偉いけどさ
手術ないし適当でもばれないしむしろ楽そうじゃね?
カウンセラーなんてお話しするだけだぞ
血液内科→患者は白血病です。治る見込みのない爺さん婆さんです。
毎日採血して薬の量を調整します。土日ありません。
コイツラのほうが謎
この前精神科医が患者洗脳してレイプで捕まってたじゃん
肛門科って朝から晩までアナルの事を考えてるんだろ?
ド変態だな
逸脱と医療化―悪から病いへ (MINERVA社会学叢書)
以下は「医療化」の良い点と悪い点。
逸脱の医療化は重要な社会的影響をもたらす。「明るい側面」と目しては以下の五つが挙げられる。
逸脱をより人道主義的にとらえること
逸脱者に病人役割を適用し,非難を最小化し,一定の逸脱を条件つきで免責すること
医療的モデルによって,変化に対してより楽観的な見方ができるようになること
逸脱の認定や治療に対して医療専門職の威信を付与できること
医療による社会統制が他の統制よりも柔軟で,ときにはより効果的であるということ
しかし,医療化には「暗い側面」もある。
個人の逸脱に対する責任を全く無視してしまうこと
医学が道徳的に中立的であると想定してしまうこと
専門家支配によって起こる様々な問題
社会統制のために使われる強力な医療技術
社会に存在する複雑な問題を個人化してしまうこと
逸脱行動を脱政治化させてしまうこと
悪を排除してしまうこと。
そして、「犯罪有責モデル」「医療無責モデル」のオルタナティブとして「犠牲者」モデルを上げる。
逸脱の医療化は,事実上の、社会政策として認識されるべきである。
逸脱の医療化の程度,ポリティクス,便益,費用などについての調査が,もっとなされなければならない。
医療による社会統制に対する一定の「対抗勢力」が創出されねばならない。
「犠牲者」モデルという形で,行為に対する責任ほ問うが,責めることは、しないという新しい逸脱モデルが必要である。犯罪か病気かという二分法モデルから脱却する必要がある。
http://archive.is/8JbMn ■シンポジウム「『精神分裂病』(現統合失調症)とは何か」 クーパーとサズの来日講演 /東京で第72回日本精神神経学会総会 1975/05/12・13・14
まず、東京医科歯科大の島薗安雄が精神分裂病の生物学的研究の歴史経過を、東京精神医学総合研究所の荻野恒一が病理学・精神分析学的立場からの現状を述べ
た後、サズが「Schizophrenia:The Sacred Symbol of Psychiatry(精神分裂病:精神医学の神聖なる象徴」、クーパーが「What is Schizophrenia?(精神分裂病と
は何か?)」と題してそれぞれ講演している。
サズは、ここでも従来からの主張を繰り返す。要約すると1点目は、精神分裂病の症状といわれている現象があることは認めるが、精神分裂病(現統合失調症)なる
ものは存在しない。なぜなら、精神分裂病の診断は「行動上の諸症状」を基礎に行っているものであり、はっきりした細胞上の病理などを示されていないからである。
精神分裂病とは絶対的・科学的な研究の結果ではなく倫理的・政治的な判断によって生じたものである。すなわち発見されたものではなく、社会的に構成され考えだ
されたものであるとする。症状はあるが病因は不明のまま作為的な病名だけが与えられているとする従来の反精神医学の主張である。2点目に、サズはこのような精神
分裂病が社会的なものであるという前提にたち、患者の市民権や法的権利において人権侵害がなされていることにふれる。3点目としては、医学一般と精神医学を対比
し、医師と患者関係について述べている。自由な資本主義社会において、精神医学の需要と供給、すなわち検査や診断、治療といったものは当事者である医師か患者の
どちらかが拒否すれば成立しないはずである。しかし、「伝統的な医学においては、医師は患者の代理行為者であるが、伝統的な精神医学においては医師は社会の代理
行為者」であるという現実上、医師によって患者が精神分裂病の診断名を冠されてしまうことにより、患者はどのように危険なのかも明確でないまま危険視され患者の
意思に反しても施設に監禁することが精神医学にも必要で法的にも正当化されていること、また患者はその診断や診断過程、診断によって正当化された治療を拒否する
ことができず、そのような同意を得ないままの診断や治療が行われていることは暴行に等しいという(精神神経学会 1976:308 )。
「分裂病」という「状態」など存在しはしないのです。分裂病というレッテルが貼られることは一つの社会的事実であり、
この社会的事実とは一つの<政治的出来事>なのです。社会における市民的秩序のなかでおこっている、
この政治的出来事は、レッテルを貼られた人間の上に定義と結論を押しつけます。分裂病というレッテルを貼られた人間は、
彼に対して責任をもつべく法律的に是認され医学的に権能を与えられ道義的に義務づけられている他者の監督下におかれますが、
こういった一連の社会的行為を正当化しているのは、社会の指令なのです。レッテルを貼られた人間は、
家庭、家庭医、精神衛生関係官、精神科医、看護婦、ソーシャルワーカー、
そしてしばしば仲間の患者たちまで加わっての一致した連携(「共謀」)行為によって、
患者という役割のみならず、患者としての人生の道程を歩みはじめさせられるのです。
R.D.レイン『経験の政治学』(128ページ)
獣医がある牛の状態を診て病気と診断する場合、彼はその診断のみでその牛の行動を変えはしない。
つまり、牛にとっての病気は体験している生体生理学的状態であるにすぎず、それ以上の意味はないのである。
ところが医者がある人間の状態を病気と診断すればその診断によって医者はその人の行動を変えてしまう。
いうならば病気の意味を疾患に付け加えることにより、ある社会的な状態が生体生理学的な状態に付加されるのである。
次のような場合の帰結の差異について考察してみよう。
労働の無能力が怠状によるとされる場合、または単核症のためとされる場合、またはてんかんのためだとされる場合、
あるいは飲酒癖が道徳的な弱さのためとされる場合、またはアルコール症のためとされる場合である。
つまり医学的診断は人の行動、その人が自分自身に対してとる態度、他人がその人に対してとる態度に影響を及ぼすのである。
要約すれば、病気とはそもそもある状態に関する人間の判断に基づいた社会的構成物である。
病気はある意味では美意識と同じく見る人次第である。
これは部分的には疾患とは何かということに関して流布している文化的な概念に基づいており、
そうでない時、この方が西欧社会では殆どなのだが、生体生理学的な現象に基礎を置いている。
だが、いずれにせよ病気というこの社会的評価を下すという過程が病気や疾患の概念にとっては枝葉末節なことでなくむしろ中心的なことなのである。
論理的には(体系化された分類である)診断と治療が共に社会的判断を土台としている以上、両者は不可分なのである。
「疾患」の原因である微生物を確認することが重要な結果をもたらすのとちょうど同じ様に病気を社会的判断として認識することが重要なのである。
いうまでもないが、逸脱行動をめぐる病気の社会的構成は、明らかに生体生理学的な問題に比べてより多義的で解釈次第となりがちである。
この点から見れば病気と定義された状態は、社会的な価値体系とある社会の一般的世界観とを反映していることが理解できるのである。
批判的精神医学 : 反精神医学その後 D.イングレビィ編 177p.
フーコー権力論における4つの諸相
1.言説編制体を経由した権力の行使:社会の権力行使のタイプ
2.系譜学的アプローチを使った「権力の意味理解」への反省:権力への系譜学的探究
3.権力行使を微視的に観察するミクロロジーという方法:権力行使の分析法
4.身体を規格・規範化を通して「従順な身体」へと構成すること:身体を統治する
「権力というものを、否定と拒否と排除のメカニズムの総体だと考えてはならないことを想起する必要があります。権力は実際に、作りだす力をもつ ものなのです」(フーコー2008[June, 1975]:30)
医療における権力論の研究は、ミッシェル・フーコー(Michel Foucault, 1926-1984)の、生権力や統治性の 議論が登場して根本的な変化を 遂げました。
それまで、医療について考えられてきた権力像は、患者をコントロールするむき出しの力、患者をモルモットにす る服従を強制する権力というのが定番でした。
今でも、このような権力論の図式にのっかって、「医者は権力を行使するからリベラルでなければならない」
「医 師の権力は神聖」(→医療聖職論)ということを主張する主に高齢者を中心としたお目出度いオールド・リベラストの方々がおられます。
ところが、権力の作用の多様なあり方や、統治性(governmentality)に かんする フーコーの議論に触れたものは、
権力というものは、我々が考えるほど(1)狭い範囲の出来事ではない、(2)容易に統御されるものではない、しかし、かと 言って
(3)人間をがんじがらめにする絶望的なものでもない、という認識に到達しつつあります。
「真理には権力が伴う」「私たちは誰もが、権力のターゲットであるだけでなく、権力を結ぶ結節点(リレー)であり、ここからある種の権力が発揮されるからです」(フーコー2008[June, 1975]
https://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/000316helpoli.html 精神鑑定によって、どのようなタイプの対象が出現するのでしょうか?
精神鑑定は、裁判に介入する目的として、また、刑罰の目標としてどのようなタイプの対象を裁判官に提出するのでしょうか。
先ほど紹介したテクスト−他のテクストを紹介することもできます。
私は一九五五年から一九七四年にかけての精神鑑定書をひと揃い手に入れました。
精神鑑定によって出現し、犯罪に貼りつけられ、犯罪の裏地ないし分身となるような、
そうした対象といえば一体どのようなものなのかと言えば、
それは、「心理的未成熟」、「ほとんど構造化されてない人格」、「現実に対する不的確な判断」などといった、
それら一連のテクストの中に絶え間なく見いだすことのできる諸概念です。
実際私は、以下のような表現を見つけました。すなわち、「極度の情緒不安定」、「深刻な感情の混乱」、
あるいは、「補償」、「想像上の創作」、「倒錯的な戯れ」、「ヘロストラトス症」、「アルキビアデス症」、「ドン・ファン症」、「ボヴァリスム」などです。
要するに、精神鑑定は、犯罪の心理学的かつ倫理的な分身な構成を可能にする、ということです。
つまり、精神鑑定は、法典に明記されたものとしての違反行為をそれとして認めず、
その背後に、弟あるいは妹のようにそれに似ている分身を、もはや法律が定める違反行為としてではなく、
生理学的、心理学的、ないしは道徳的ないくつかの規則からの逸脱として、出現させるのです。
ミシェル・フーコー講義集成〈5〉異常者たち (コレージュ・ド・フランス講義1974‐75) 18p.
「残基的ルール違反者が公けにレッテルを貼られる時に生じる危機のなかでは逸脱者は被暗示性が高くなり、
申しだされた狂気の役割を唯一の代替策として受け入れるかもしれない ……残基的ルール違反者が精神障害の枠組みのなかで自分の行動を組織化し、
彼の組織化が他の人びと、特に医師たちのような威信のある他者たちによって妥当化される時、彼は「ひっかけられ」て慢性的な逸脱の経歴をたどって行くであろう」(pp.88-89)
https://archive.is/vItZC 社会全体がひとつの精神病院となり、私たちはそこに収容された囚人となる。そこでは精神医学という専門家の知識が権力をもつことになる。
今回とりあげる、ミッシェル・フーコー(Michel Foucault 1926-84)の描く近代とは、まさにこうした、知識によって管理された、一種の収容所のごとき世界です。
近代となって逸脱者への対応はより巧妙になりました。逸脱した者は排除されるのでなく、おもてむき、社会へ回復することになります。
社会は逸脱者を自己のうちに回収することで、逸脱者を無害なものとします。社会は逸脱者を「更生」・「治療」と称しつつ自分の管理下に集めるのです。
社会はもはや逸脱者から脅かされることもなければ、そこから学ぶこともありません。こうして社会にとって危険な逸脱者(犯罪者と精神病患者など)は、
排除されるのではなく、社会の内に、しかしその周辺に集められ、包み込まれて無害なものとされるのです。社会はその外部をみずからの内にとりこんだのです。
刑法は犯罪者をその違法行為においてとらえますが、監獄の技術は囚人をその生活態度においてとらえます。
前者では違法性が問題とされますが、後者ではその非行生が問題とされます。刑法の建前では、監獄は犯罪者を更正させることになっています。
しかし実際には監獄はその特殊な環境によってむしろ「非行者」を生み出し、あらゆる違法行為の可能性を持つ者として社会に循環させているのです。
それゆえ、監獄制度の真の意義は、違法行為を減らし、抑制することではなく、
社会の転覆や不安につながるような犯罪の可能性を「非行性」として管理し安全なものとして閉じ込めることにあるのです。
[それはちょうど、精神病院のありかたに似ています。精神病院はたてまえとしては精神病患者の治療をするためにあります。
しかし患者を閉じ込めることでかえって患者の社会への不適合を生み出してしまいます。
実際には精神病院は、社会不安を引き起こす者たちの閉じ込めと管理をしているというべきでしょう]。
https://shakaigaku.exblog.jp/21000984/
http://archive.is/GEFMi 医療従事者専用の身に付ける機器を必要としない視界に直接投影する装置は
患者の話したことを分析して投影する患者の気分をお天気マークで表示したり
本当かウソかも表示する得意げにしているとニヤリと表示したりかなり精巧に表示するのである
だが看護師が見るものは医師が編集したものばかりなので本当でもウソと表示させたり
事実と異なっている場合も多いのである
患者の意識精神状態から何で悩ませるかも
精神科医は事細かに選択できる脳を自由自在に調整できるのである
つまりプシコが変な言動を取ったらそれは精神科医がそうさせているのである
プシコが変な患者であればあるほどその主治医が変な人だということになる
初日講義では、18世紀以来の精神鑑定によって、犯罪者に「非行者」という新しい人物像が重ね合わせられるとともに、裁判官としての精神科医、そして精神科医としての裁判官という二重化がもたらされたと述べる。
ミシェル・フーコー講義集成〈4〉精神医学の権力 (コレージュ・ド・フランス講義1973-74)
医学知識がなくても何となくわかる気になってしまうのが精神科で、入学当時は精神科志望って結構多いんだよね
医学を学んでいくと精神科なんもわからん…無理…となる
採血や画像検査がほとんど診断に寄与せず、問診も当てにならないとか、ほんと好きな人しか無理でしょ
発達障害とかうつ病とかの患者が書いた本よく売れてるけど、あんなの何の参考にもならないよ
むしろ有害
その人はそうなんだねってだけで、何の一般化も出来ない
精神科領域は特にね
フーコーによれば、一社会の「生物学的近代のとば口」は、単なる生ける身体としての種や個体がその社会の
政治的戦略の目標になる点に位置するという。一九七七年以降、コレージュ・ド・フランスでの講義は、「領土
国家」から「人口国家」への移行に、またその帰結として、国民の健康と生物学的な生が主権権力の問題として
の重要性を途方もなく増大させたところに焦点を合わせるようになった。その主権権力はいまや、徐々に「人間
の統治」へと変容しているという。「その結果は、洗練をきわめた政治技術によって実施される、人間の一種の
動物化である。こうして、人文科学と社会科学の能力の増大が歴史に出現し、またそれとともに、生を保護する
と同時に生のホロコーストを認める可能性が出現する」。とくに、資本主義の発展と勝利が可能だったのは、
この視点からすれば、資本主義が必要とする「従順な身体」を一連の適切な技術群を用いていわば創造する、
新たな生権力によって遂行される規律的制御があったからにほかならない。
ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生 ジョルジョ・アガンベン(p.10)
身体を対象にした制御
実は、これには、近代、特に18世紀の啓蒙の時代になって以降の医学の進歩が深く関係している。
バーバラ・スタフォードが「啓蒙された批評家の仕事は今や数学者のそれと似ていた。
この木立ちに剪定の鋏を入れて、永遠の原理に従って構想された秩序立ち、客観的で機械的な自然にと刈り込むのである。
身体が概念へ、蓋然が公式に変わるこの複雑な変化が完成するには丸一世紀を要した」と『ボディ・クリティシズム』などで論じているとおり、
18世紀を通じて身体はイメージを介して制御の対象となる(数値を用いてより科学的に制御が行われるようになるには、もうすこし待たなくてはならない)。
スタフォードが身体のイメージとその制御の例としてあげるのが、当時有名だった観相学者のラファーターが人の人相をコード化していく例だ。
身体は、要約され、コード化され、図式化されることで監視・制御の対象となっていく。医学の技術が政治的にも利用可能になる。
これが時代が降って19世期に入ると、ジョナサン・クレーリーが『観察者の系譜』で論じているように、生理学という人体制御に使える分野も成立しはじめる。
医学がその計測能力を高めたことがアガンベンのいう生政治が可能な基盤を作ったのだといえる。
医学の分野における、こうした発展とともに、政治が身体を通じて剥き出しの生を管理・制御の対象とすることが可能になったのである。
収容所の出現を許すかどうか?
そのことは、アガンベンは本書でも指摘している。
実のところ、国民社会主義帝国は、医学と政治が、一つに統合されるという、近代の生政治の本質的特徴がその完成した形を引き受けはじめる瞬間をしるしづけている。
このことが含意するのは、剥き出しの生に関する主権的決定が厳密に政治的な動機や領域から離れ、
さらに両義的な領域へと移動していく、ということである。この領域では、医師と主権者が入れ替わっているように思われる。
ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生/ジョルジョ・アガンベン
https://archive.is/MVZbo ■思想と政治体制について 精神医学と収容所について
立命館大学生存学研究センター 天田 城介
周縁的な人間の監視=矯正へ
「金持ちと貧乏人の断絶」から「民衆と周縁的な人間の断絶」への書き換え。18 世紀における資本主義体制の成立とともに、経済的規律が課
せられ、民衆は労働に従事し、多少なりとも財を蓄積するようになると、非合法的行為を容認できなくなっていくと同時に、精神医学・警察・
司法・刑法体系などが結合した統治システムによって「周縁的な人間の監視=矯正」が遂行されていく。こうして周縁的な人間たちが監獄や
精神病院といった施設へと分離的=差別的に収容されるようになると、かつては歓迎されることさえあった周縁的な人間は民衆と断絶させられ、
また他の下層民とも切り離されていく――プロレタリアートとプロレタリアート化されていない周縁的存在を分け隔てる分断――。そして、
こうした統治システムのもと「周縁的な人間の監視=矯正」が実効されるだけではなく、むしろその圧倒的な効果は、周縁的な人間と切り離さ
れた民衆に対する監視=矯正となって現れてくるのである。したがって、「周縁的な人間」を作り出すことは「周縁的な人間の監視=矯正」よ
りもむしろ「民衆の保護と監視=矯正」の効果を生み出すのだ。
こうした権力システムのもと民衆は「社会階層」のイデオロギーを発展させた。犯罪者という「周縁的な人間」を切り離し、彼/女らに敵意
・憎悪を向けるようになった。警察による保護さえ求めるようになった。そのことで、民衆は警察から容易に監視されることになった。犯罪者
に対して厳罰を求めるようになった。「人種差別反対をしながらも犯罪者には極めて冷酷な対応をする」(Foucault 1994d=1999: 249)ように
なった。その社会的帰結として、権力はいとも簡単に民衆を統制することになったのだ8)。
精神科医に転院を申し出ると渋ったり中には怒り出す先生もいるだろう
何かしらの理由をつけて転院させないようにしたりする先生も多い
なぜ転院を精神科医は嫌がるのか?
主治医が変わってしまったらその患者の病気をコントロールする権限を失うからである
転院すれば新しい先生がその患者の病気をコントロールすることになるので
当然精神症状も薬の副作用の出方も変わってしまう
なので転院の話になると態度が豹変する精神科医が多いのである
精神科の薬を抜く上で最も重要なポイントはどの精神科医が主治医のときに薬を抜くかである
相性の悪い精神科医や相性の悪い病院で薬を抜こうとしても精神科医は再発させるだろう
相性の良い精神科医が主治医だとあっさり薬を抜けてしまったりするものである
精神科病院よりも総合病院の精神科のほうが治る見込みが大きい
なぜなら精神科病院から最も遠いところにあるのが総合病院の精神科だからだと精神科医の斉尾武郎の本に記してある
精神科医のkyupinのブログにも単科精神科病院よりも総合病院の精神科のほうが少しだけ治る期待が大きいと記してある
総合病院の精神科を10年以上経験している精神科医がもっとも当たりの先生である確率が高いと
和田秀樹の精神科医は信用できるかという本に記してある
俺の主治医なんか2回くらいICU入ってるぞ
ストレスかな 適当こと言ってりゃ良いんだから一番ラクな医者だろそれ
どっちかと言うと医者は崇高な精神とか医療を突き詰めると精神科にぶち当たるらしい
>>33
法医学な。
あれ、割と人間の相手が苦手な人がなるらしい。
基本、医者は生きてる人間が相手だけども、死体相手ならコミュ能いらん。 >>61
若い患者もいるらしいじゃん。たまに。
知り合いの範囲だと、熱血タイプの真面目な人が、行ってたな。
高校のころ、自分から生徒会長に立候補するとか、
入試の面接で尊敬してる人聞かれて「お父さんです!」て言えるようなタイプ。 >>55
精神科医だけど、もし消化器外科を強制されたなら間違いなく肛門を得意分野にするわ >>87
神谷美恵子なんてめっちゃ勉強家やぞ
加賀乙彦もメルロ・ポンティ訳すくらい追求しているし
フランス哲学者に精神科医が多いのは頷ける
ピンキリの格差が最も顕著なのが精神科だろうね >>92
肛門科はともかく皮膚科は感染る病気ありそうで嫌だ ぶっちゃけ直せなくて当たり前。薬だけ出しておけばいいから楽だろ
逆に俺なら脳外科、眼科の手術医、心臓外科とかは成れたとしても10年勤まらないと思う。
メンヘラの相手なんかやってられない
そもそもマジの統合失調症は治らない廃人だし
軽いかまってちゃんは人格障害の人間のクズしかいない
精神科なんかやるやつは変態とサイコパスのドクズだけ
心療内科の診療所は楽そうに見えるなぁ
まあ1日中患者のお悩み相談と考えれば大変だけど。
楽で稼げるからじゃないの?
話聞いてお薬出すだけの作業でしょ、上級薬剤師みたいなもんだろ
医学部の同級生では自身が精神科通院してる人が精神科に入局してた
>>100
この前かなり高名な先生が
「僕は今時の発達障害とかよく分かりません、うまく診れないですね」言ってて笑った >>9
ほとんどの人間が一生に一度は心病むらしいからな
今でこそライトになったが未だに精神科嫌厭する風潮が根強く残ってんだよなこの国
関わる人増えると驚くほど実は罹っていたって人多くてビビる 楽だから精神科医になるの多いけど
どれだけ楽かというと求められる技量なし、誤診し放題、てきとうな事をカルテに書き放題、知識なくても怒られない
医者の裁量でどうにでもなるから訴えられたらあの人糖質とか言えば良いし
>>115
昔の医者は精神分裂病くらいしかわからんぞ
発達障害なんて最近わかった病気じゃん
わかるはずもない >>124
つーか病名つけても
治す方法も何もないのに
全く意味のないことだわ >>125
治せないから病じゃない、と言う考え方は本人らにとって酷だよ
例えば精神遅滞を存在しない事にしても、彼らは消えない >>91
自分が若い患者の生還側でお世話になったけど
まあ凄いわ血液内科 要するに全体的な傾向として医者の中でもやる気も志も無い
楽して金儲けしたり悪いことしても平気な銭ゲバやクズが集まりやすい科ってことだろ
でそれが>>123の記事みたいな酷い現実を招いてる