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豪雨が奪った命以外のもの そして彼女は教師になった
豪雨が奪ったのは、命だけではなかった。
「ドーン!」
2000年9月12日未明。高校3年生だった倉知里奈さん(37)=愛知県小牧市=は、雷が落ちたような音で目を覚ました。
名古屋市とその近郊を中心に、大きな被害を受けた東海豪雨から、20年になります。あのとき、災害に向きあった人たちの足跡と思いをたどります。
窓の外を見ると、並んでいたはずの観葉植物がなくなっていた。部屋を出ようにも、ドアが動かない。
「おじいちゃーん、おばあちゃーん」
近くの部屋にいるはずの祖父母を呼んだ。
返事はなかった。
こわくなり、窓から外に飛び出した。スリッパのままで走り、近所の女性に助けを求めた。様子を見に行って、すぐに戻ってきた女性が、「家がつぶれている」と言った。
夜が明けて、詳しい状況がわかった。崩れた裏山の土砂につぶされた自宅から、祖父の澄夫さん(当時77)と、祖母の美代子さん(同72)が見つかり、病院で死亡が確認された。
共稼ぎの両親に代わり、自分でも過保護と思えるほどかわいがってくれた祖父母は、もういない。涙がこぼれた。
「一瞬のできごとで、すべてが奪われる。明日死ぬかもしれんし、頑張る必要があるんだろうか」
制服も教科書も、泥にまみれた。使えたのは勉強机だけ。好奇の目でみられたくない。学校に行けなくなった。気持ちの糸がぷつりと切れたような気がした。
1カ月近くたち、文化祭の日にジャージーで登校した。同級生が、演劇の裏方を割りあてて呼んでくれた。気持ちはありがたかった。でも素直には受け入れられない。みんなと同じように笑えなくなった。
その後、制服も手に入って学校には通い始めたが、教室に入る気にはならなかった。数カ月後の大学受験も、先生になりたいと思っていた自分の将来も、どうでもよく思えた。
「大学なんて、どこでもいいです。先生に私の気持ちはわかりません」
進路を確認され、担任に投げやりな態度をとったこともあった。「今まで頑張ってきたじゃないか」という言葉に、つい反発した。
受験が近づき、放課後の補習が始まった。その時間はいつも、図書室に1人でいた。ある日の夕方、誰かが隣に座る気配を感じた。「わからないとこ、あるかー」。担任だった。
別の日は、ほかの先生が声をかけてきた。気がつけば、各教科の先生が連日、声をかけてくるように。「これ、あげるよ」と、参考書や教科書をくれる先生もいた。放課後、自分一人のために誰かが補習してくれる光景が当たり前になった。
いつの間にか、プレハブの仮住まいでも夜中まで机に向かうようになった。
第1志望の愛知教育大学に合格した倉知さんは、現在、小牧市内の中学校で社会科の先生をしている。
「図書室での声かけも、補習も、先生たちが話し合ってくれたんでしょう。かなわないかもしれないけど、生徒に自然と寄り添える教師に私もなりたい」
防災訓練では「そのとき最善と思う行動を、自分で考えられるようになろう」と生徒に呼びかけてきた。とっさの判断で家を飛び出し、難を免れた20年前のことが、頭にはある。ただ、被災した事実を学校で明かす気には、なれなかった。
今年度、初めて3年生を任された。分岐点にたつ教え子たち。道に迷ったとき、前を向くことがどれだけ大切か。東海豪雨の経験を、生徒に伝えるべきタイミングかもしれない。
そう思い始めている。
〈東海豪雨〉 2000年9月11日から12日にかけ、大きな被害をもたらした「東海豪雨」。愛知県内で7人が死亡し、岐阜、三重、静岡各県でも1人ずつが亡くなった。
停滞していた秋雨前線の活動が、台風14号による南方からの暖かく湿った空気の流れ込みで活発化。名古屋市では1日の降水量が428ミリに達し、それまで最も多かった240ミリを大きく上回った。
同市西区で新川の堤防が決壊し、天白区では天白川の支流・郷下川があふれた。救助された人は同市内だけで4013人。長野も含めた5県で、住宅173戸が全半壊し、約7万2千戸で床上・床下浸水した。