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「橋のない川」 1961〜92年刊・住井すゑ 被差別部落の苦悩
■尊厳取り戻す姿、光に向かって
茨城県南部。牛久沼は小貝川の堆積(たいせき)物に支流がせき止められてできたという。霞ケ浦に似たY字形をしているが、面積はずっと小さい。そのほとりの高台の家で、住井すゑ(え)(1902〜97)は30年余にわたって小説『橋のない川』を書き続けた。
明治末から大正にかけて奈良県・葛城(かつらぎ)川沿いの架空の被差別部落を舞台に、畑中誠太郎・孝二兄弟を中心とする人々がいわれのない差別に立ち向かう姿を描く。第7部まで書かれ、版元の新潮社によれば単行本と文庫本合わせて累計440万部が刊行された。
一昨年、作者の旧宅が遺族から地元の牛久市に寄贈された。その土地・建物に来年度、「住井すゑ文学館」(仮称)を開設するための整備事業が進んでいる。
その過程で約2800枚の入稿済み原稿や、約1600枚の草稿などが新たに見つかった。事業を担当する市教委文化芸術課の飛鳥川みつき主任(39)は「原稿や草稿の文字にはさらさらと勢いがあり、筆が走るとはまさにこのことかと思いました」と話す。
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戦前から童話や農村に題材をとった小説を発表してきた住井は、生活苦を乗り切るためもあって多作だった。『橋のない川』に取り組み始めたのは、病弱だった夫の作家、犬田卯(しげる)が死去した翌年。住井はすでに56歳になっていた。
草稿を調査した東海大特任講師の安達原達晴さん(45)は「枚数や書き方から、作者が傾注したすさまじいエネルギーを改めて感じた」という。夫の死後、かねて関心を抱いていた深刻な社会問題を半生のテーマに据えた住井は、執筆に心血を注いだ。
第1部は部落問題研究所の雑誌「部落」に連載された。終了後に新潮社から単行本が出版されると爆発的に刷りを重ね、第2部以降は同社から書き下ろしでの刊行となる。
静岡大で被差別部落史を研究する黒川みどり教授(61)によると、50年代末から70年代前半にかけて部落解放運動は高揚期を迎えた。半面、高度経済成長から取り残された被差別部落と部落外との格差はますます広がる。「作品に描かれた被差別部落は過去のものではなく、刊行当時のありようと重なるものでした」。部落問題への社会の関心も高まっていた時代だった。
畑中兄弟は部落の人々とともに、露骨な差別と貧困にさらされながら成長していく。それでも全編を通じてユーモアと向日性は失われず、希望が消えることはない。作中のクライマックスとなる全国水平社創立の宣言、「人の世に熱あれ、人間に光あれ」が作品の基調に息づく。
反差別を掲げる文芸誌「革(かく)」の編集発行人善野ろう(ろう)さん(62)は、中学2年で自分が「差別される」方の当事者だと知り、おおいに心乱れるなかで読んだ。「圧倒的に読みやすく、ぐいぐい引きつけられ第4部までいっきに読んだ。差別される不条理やネガティブな思いは少し払拭(ふっしょく)できました」と振り返る。
多くの読者を得ながらも、『橋のない川』が文学研究や評論の場で言及されることは少ない。安達原さんらとともに資料を調査した伊藤一郎東海大元教授(67)は「人間の尊厳を取り戻そうとする闘いをロマンチシズムにあふれた筆致で描き、社会問題に鋭く切り込んだ作品として昭和の文学史の中に正当に位置づけられるべきです」と話す。
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2016年、部落差別解消推進法が成立した。だが「差別の再生産構造は変わっていない」と善野さんはいう。インターネットの普及を背景に被差別部落の所在地や出身者の個人情報がネット上にさらされ、身元調査や不動産調査も横行している。
黒川教授は授業で『橋のない川』映画版を学生に鑑賞させている。そこで時どき「昔は悲惨だったけど(自分が生きるのは)今でよかった」という感想に出くわすそうだ。無関心もまた広がっている。
住井すゑ旧宅の庭から牛久沼が木の間越しに見える。広い川のように対岸を遠く隔てる沼は、思いのほか深くないのだという。
(今田幸伸)
■現実変えるセンサー呼び覚ます文芸評論家・斎藤美奈子さん(63)
『橋のない川』の舞台は奈良盆地のとある架空の集落です。
日露戦争で父を亡くした畑中誠太郎、弟の孝二、秀坊(ひでぼ)んことお寺の息子の村上秀昭。この3人を中心に、物語は1908(明治41)年から24(大正13)年まで、15年以上におよぶ歳月をドラマチックに描き出します。
誠太郎は正義感にあふれる負けん気の強い少年、内気な孝二は本が大好き、2人が尊敬する秀昭は集落でただひとり中学に通う秀才です。ここは貧しい集落ですが、それだけではなかった。どうして自分たちが差別されるのか、誠太郎や孝二にはわからない。