88歳でようやく気づいた幸福な「年の取り方」
88歳の私は現役の競技ランナーで、毎回レースの最後数百メートルはすべての力を出し切って全速力でゴールをする。
人生のゴールも近づいており、ベストを尽くしてそこに達したいと思っている。
この最後の段階を乗り切るために、私は体を鍛えてきた。
しかし、もっと自分の心に働きかけるべきではなかっただろうか。
いくら鍛えても「悪いお知らせ」がある
自分の体をジムに向かわせたりレースのスタートラインに立たせたりすることはたやすい。
運動をしなければ、トレッドミルの上ではなくソファーの上にいる高齢者という獲物を狙うたくさんの捕食者を解き放ってしまうと自分にうまく言い聞かせてきた。
汗をかけばかくほど、医者は私にこう言い続けるのだ。「今の活動を続けましょう。そうすれば来年もまたお会いできますね」。
そうやってこんな恐ろしい言葉をかけられるのを防いできた。「ゴールドファーブさん、悪いお知らせがあります」
一方で私の心はというと、自制することを好まないようだ。まるでそれ自体が心を持っているかのように。
私はインターネットの「脳ゲーム」を遊び半分でやっていて、昔を思い出しながら代数の問題を解いたり、バーチャルの電車を衝突しないように運行させたりしている。
大学では講義を聴講し、ニューロフィードバックによる脳の電気活動の評価にも参加している。
しかし、これらはたまの気晴らしにすぎず、年を重ねるに従って体力を維持しようという私の決意とは別次元だ。
70〜90代の友人がたくさんいるにもかかわらず、加齢への対処法は、ジムではなく心の中でする選択であることに気づくのが遅すぎてしまった。
健康な友人の中には、自分を時間に虐待される犠牲者だと捉える人もいる。彼らにとって人生は失望の連続だ。
痛みに病、困惑させるテクノロジー、会いに来ない子どもたち、慌ただしい医者……。
一方で他の友人たちは、膝や腰の痛みに始まり体に問題を抱えつつも、老いを単なる人生の別のステージとして受け入れることに満足している。
心身の強さを奪う加齢と向き合うそのやり方を「英雄的」だと評したいものだが、当の本人たちは大げさだと否定するだろう。
運動することで満足感は得られない
そんな友人の1人が最近、病院から電話をかけてきて、脳卒中を起こして法的な視覚障害者になったと私に告げた。とても残念だと私が話し始めると、彼はこんな言葉で遮った。
「ボブ、もっと悪いことになっていたかもしれないよ。目が見えなくなるのではなく、耳が聞こえなくなっていた可能性もある」
ウェイトを持ち上げ、運動をしてばかりいた私は、こうした言葉を言えるだけの強さを持っていないことに気づいた。
運動に夢中な「ジムねずみ」であることのツケが回ってきたと突然思い知らされたのだ。
加齢を人生の挑戦として潔く受け入れている友人たちの共通点が1つあるとしたら、それは満足感だ。視力を失った友人や両足が義足の友人など、
人生を変えるほどの障害を持った人の中には、軽い病の人よりも穏やかで、文句も言わない人もいる。彼らは高齢であることの不安に屈するのではなく、受け入れている。
そうした友人が持つ満足感を私は持ち合わせておらず、そして獲得しなければならないことは明白だった。運動をすることで私は自信を得ていたが、満足感は得ていなかった。
十数キロのウエイトにもう挑戦することがないことを思えば、どんな軽いウエイトでも持ち上げることができず、どんな場所を走ることも肉体的に不可能になる日が来るのもさほど遠くない。
知人たちがすでに備えている安らぎと生きがいを持って人生の最後を乗り切るには、頼りにすべきは筋肉ではなく脳であるべきだろう。加齢は鏡に映るものだけではなかったのだ。
加齢と向き合う方法を根本的に見直すため、生活を完全に変えるのではなく、小さなことから始め、
日々の出来事に新しいアプローチで臨んでみようと私は思った。そのいい例が最近のランチでの出来事だ。
https://toyokeizai.net/articles/-/273736