◎正当な理由による書き込みの削除について: 生島英之とみられる方へ:
【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弐拾玖 YouTube動画>9本 ->画像>32枚
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九州に決まっとろうが?
福岡県山門郡、筑紫、糸島、大宰府、鐘崎、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県熊本、阿蘇、八代、球磨郡、人吉、佐賀県唐津、伊万里、長崎県松浦、佐世保、雲仙、島原、天草、潜木、塩田周辺を今すぐ発掘せないかん!
九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を何らかの根拠を以って推測する議論等々も大歓迎!
ただし異説を唱えたい人は必ず根拠を明示すること。
根拠がなければただの妄想やけんね。
議論百出は大いに歓迎。
レッテル貼りで議論から逃げ出すごたる奴は九州男児じゃなかばい!
前スレ
【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弐拾捌
http://2chb.net/r/history/1691509931/ 過去スレは荒らしや叩きなど醜いレスバに邪魔され続けて住人たちがまともに議論し合えなかったという経緯があります。
同じ轍を踏まないためにも、このスレでは罵倒のみの駄レスを禁じます。
それは声闘という朝鮮人の文化です。
反論は論理的に、それが出来ないのはただの負け犬です。
邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
これを押さえておかないと正解には辿り着かない
【用例】
通鑑釋文辯誤卷六
https://www.kanripo.org/text/KR2b0012/006#1a >沈約宋書云?陽太守何承天志新立去江陵陸行四百里水行七百里上?縣
江陵から上黄県まで陸路で200kmほどなので、陸行四百里だけで目的地に着いてしまう
江陵は長江のほとりなので蛇行する川を水行すると陸路は無しで目的地に着ける
【嘉興府志】
https://wenku.baidu.com/view/d78078781711cc7931b71692.html >{嘉善縣誌}達省城二百里達京師水行四千一百三十裡陸行三千六百二十裡
嘉興府の置かれた嘉興市から京師(首都のこと、当時は北京)まで直線距離で1100kmほど
やはり陸行三千六百二十裡だけで目的地に到達してしまう
また、杭州湾沿岸の嘉興市から沿岸水行して北上し、蛇行する川を遡って北京まで2000kmほどで水行もそれのみで目的地到達、陸路の出番なし
>>2により邪馬台国までの所要時間は水行ならば10日、陸行ならば一ヶ月であると確定したが、
同時に行程が放射読みで書かれていることも導かれる
なぜなら前段に書かれている投馬国へは水行20日とあるので、連続読みならば、訪問者は投馬国に着いた時点で必ず船に乗っていることになる
20日間も船に乗って投馬国まで来たのに、そこからわざわざ船を乗り捨てて3倍も時間の掛かる陸路を選ぶ理由が存在しない
そのままあと10日船で行けば済む話であるから、もし連続読みで記載しているのならば投馬国からの陸路なんて記載する必要が無い
そうではなく、行程が放射読みで書かれているため、伊都国を経由して邪馬台国へ行こうとする中国人への道案内のための文章としては
彼らが船を確保できていないケースも想定しなければならない
なぜなら末廬国から伊都国までは陸行だと書いてある以上、伊都国に到着する中国人は船に乗っていないわけだからな
そのため時間さえかければ陸路でも行けることを併記する必要があった
つまり邪馬台国の場所は伊都国と地続きの範囲、すなわち九州内に限られる
水行のみで行ける場所なので海か大河のほとりであり、かつ陸行も可能なので伊都国との間に通行不能な山塊などは存在しない地域、となる
BS-TBSの諸説あり!の映像らしいが、弥生時代の鉄鏃が大量に出土した場所が九州を横断するように存在している
どう見てもここが邪馬台国と狗奴国が戦闘してた戦線=国境ライン
熊本も菊池川より北側あたりは女王国に属していたようだ
これは免田式土器の分布とも一致する
◆邪馬台国の場所
383 :日本@名無史さん :2020/05/28(木) 00:59:58.44
さて、こうして狗奴国の領域を考古学的に検証してみると
以前作ったこの地図はかなり正しいように思えるな
309 :日本@名無史さん :2019/09/04(水) 04:03:09.07
>>73-74,247,292-294,305で挙げた内容に
>>138,290,295の内容を加味して
総合的に考えた結果こうなった
当時はまだ免田式土器の知識が足りなかったから狗奴国に阿蘇地域を含めていないなどの欠点はあるが
邪馬台国の位置検討の上では支障無いだろう
考古学的には糸島から遺跡が全く切れ目なく分布している様を見れば早良周辺も伊都国なのは明白
倭国大乱で争ったばかりの隣国とそんなに隙間なく繋がるわけがない
伊都国の主体が海人族の安曇なのだから、伊都国の領域は糸島から博多沿岸部にかけてで、
内陸の農耕国家の奴国(春日市一帯)と分かれていたと考えるべきだろう
では切れ目はどこに?と思うだろう
これを見てほしい
博多湾周辺の製鉄遺跡の分布だが、今宿から早良一帯にかけて多数あるのに対し、
樋井川を境に分布がぷっつりと切れている
そこから東にある奴国の都とされる春日丘陵一帯には全く存在せず、東区あたりからまたまばらに存在する
樋井川は細く国境としてはいささか心もとないが、樋井川のすぐ東には鴻巣山など中央区〜南区の丘陵地帯があり、これが国境を分けたのだろう
ここから読み解けば、樋井川以西は内陸まで伊都国であり、奴国は丘陵を挟んだ東側一帯という分かれ方だったと分かる
また東区に少数とはいえ分布があるということは、やはり博多湾沿岸は伊都国の勢力圏だったということだろう
春日丘陵には多くの青銅器加工遺跡が見つかっているにも関わらず、製鉄遺跡は全然無いというのは特筆するべきことだろう
伊都国は奴国に鉄加工の技術を渡さなかったことになる
鉄は銅より融点が高いため、加工にはより高温の炉が必要となる
海人族の航海術を生かして海外に直接進出していた伊都国のほうが技術力は上だったということだな
青銅の奴国と鉄の伊都国、そんな分かれ方が見て取れる
奴国からも鉄鏃等の鉄器は多数発掘されているので交易により製品は渡っていたが、肝心の加工技術は伊都国が独占していたようだ
これは倭国大乱で争ってからそう時間が経っておらず、大国である奴国を警戒した結果だと考えるのが自然だろう
考古学的にはどう見ても伊都国は当時の先進国
それは紀元前からの流れ
298 :日本@名無史さん :2020/11/24(火) 22:51:33.01
>>234 >伊都王家なんて幻想。独立した存在ではない
そうやって考古学的事実から逃げるから君は事実に辿り着けない
古代史を考えるときに文献から出発するのは間違いの元
まず考古学的事実を確かめ、それを文献から解釈するようにしないと文献の嘘や誤りに流されるだけ
https://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/nnp020101.htm > 現在のところ、我が国で見つかった最も古い鉄器は、縄文時代晩期、つまり紀元前3〜4世紀のもので、
> 福岡県糸島郡二丈町の石崎曲り田遺跡の住居址から出土した板状鉄斧(鍛造品)の頭部です。
> 鉄器が稲作農耕の始まった時期から石器と共用されていたことは、稲作と鉄が大陸からほぼ同時に伝来したことを暗示するものではないでしょうか。
分かるかい?
日本で一番古い鉄器は伊都国から出土してるんだよ
紀元前から鉄を手に入れ、その後も半島航路を牛耳っていた伊都国が畿内の田舎に仕えるなどあり得ないことだ
考古学的に見ても文献的に見ても安曇が伊都王家なのは明白なんだな
キナイコシ君には残念だろうがw
> 417 :日本@名無史さん :2020/10/14(水) 00:33:35.04
>
> この図を見れば、航海術を活かして海外と交易していた海人族の国がどこだったか一目瞭然だなw
> 奴国の王都だった須玖には中国銭や楽浪系土器はほとんど無い
> 博多湾の沿岸部にはあるのに奴国の王都にほとんど無いのは何故か
> それは博多湾沿岸部の集落が伊都国に属していたから以外に説明はつかない
220 :日本@名無史さん :2020/10/01(木) 00:05:02.26
>>218 事実を述べられるのがよほど都合が悪いようだねキナイコシ君w
まあそれはそうだろう
3世紀までには安曇は既に近江まで進出して畿内を包囲しつつあったのだから
その安曇が卑弥呼の腹心である伊都国の民ならば畿内説は絶望だもんな
でも君の都合で歴史の真実を曲げることはできないんだよ
諦めて現実と向き合いなさい
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B3%B6%E5%B8%82 > 高島市(たかしまし)は、滋賀県の西部、琵琶湖北西に位置する市。市の面積は県下一である。
>
> 古代の弥生時代の3世紀以前に古代日本を代表する有力氏族である安曇族が定着した。
> 高島の一級河川の安曇川の名称は安曇族に由来する。県名の滋賀県も安曇族に由来すると言われている。(滋賀郡の郡名の由来を参照)
包囲される奈良盆地の図
九州邪馬台国が東遷して大和朝廷になったのは状況的にほぼ確か
ではその時期はいつか、となると考古学でみるしかない
九州から本州西部への民族大移動の形跡は破鏡の分布の変遷で見ることが出来る
破鏡とは銅鏡を割った破片で、縁をナイフ状に加工したものや紐を通して首から下げるために穿孔したものだが、
弥生後期から古墳時代にかけて出土する
その分布を見ると、卑弥呼のいた弥生後期〜終末期とそのすぐ後の古墳時代前期で劇的に変化していることがわかる
図は「破鏡の伝世と副葬ー穿孔事例の観察からー」辻田淳一郎 より
弥生時代後期〜終末期
古墳時代前期
弥生時代には破鏡の分布はほぼ九州の北半分に偏っていて、本州では九州から海人族が進出していた沿岸部に限られているのに対して
古墳時代になると本州西部全域に分布が広がり、逆に九州からは減少している
九州内でも、弥生時代には熊本平野、大分大野川流域に分布していた破鏡が古墳時代になるときれいに消滅している
破鏡は鏡の破片なので支配者層の持ち物ではなく、それよりやや下級の武人等が身につけたと考えられる
弥生時代に熊本平野に破鏡があるのは狗奴国と戦闘していた邪馬台国の兵が身につけていたものだろう
それが古墳時代に無くなり本州西部に移るのは、弥生末に狗奴国が滅びて九州北部を統一した邪馬台国が本州へ東征を行ったことを示している
このことは、3世紀まで鉄器のなかった奈良盆地が4世紀に入った途端に大量の鉄器が出土するようになることとも符合する
考古学的に見て、神武東征の時期は3世紀末〜4世紀初頭頃
> 825 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 22:55:12.63 ID:d3rkd5G50
> 弥生時代の鉄分布と北部九州を代表する海人族阿曇の分布がよく一致する
> 鉄は海人族とともに九州からやってきたんだな
>
>
> 828 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 23:01:52.61 ID:yQGATf5S0
>
>>825 > 福岡の1621に対して奈良の13が光るねwwww
>
> そこから読み取れるのは、奈良は九州を支配するどころか近隣の山城や河内さえ支配できてなかったってことだな
> そして4世紀以降急に発展するのは九州の海人に征服されてその東国攻略の前線基地になったおかげ、と
> 841 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 23:23:21.53 ID:1L9obXG40
>
>>825 >
>>308の資料と照らしても間違いなさそうだな
> 弁韓の鉄材と鉄加工の技術を持った海人が西日本を席巻していき、やがて東日本をも射程に捉えたので畿内を前線基地にしたのだろう
> だが東に版図を広げるにつれて遠い九州が本国では不便になり、畿内に都を移した、というのが一番しっくりくるストーリーだ
淡路島の遺跡は瀬戸内海を支配した北部九州の海人族の遺跡
弥生時代の海の勢力図
瀬戸内海は北部九州を本拠地とする海人族の支配下
弥生期の鉄製ヤス出土 淡路で近畿初
https://www.infokkkna.com/ironroad/2018htm/2018iron/18iron03.pdf > エックス線写真で分析した結果、先端から約1・5センチ下方に「かえし」が見られた。
> ヤスや釣り針にかえしをつくるには高度な技術が必要といい、鉄器製造が盛んだった九州などから持ち込まれた可能性がある。
>
> 弥生期の鉄製ヤスや釣り針は、山陰や九州北部で出土する例が多い。
> 愛媛大東アジア古代鉄文化研究センターの村上恭通センター長は
> 「山陰は九州から鉄製漁具を受け入れ、漁民が鉄器の交易を促進した」と分析。
> 今回の発見で、漁具が日本海側だけでなく「瀬戸内側を伝わって来た可能性もある」と指摘する。
https://sun-tv.co.jp/suntvnews/news/2020/11/23/31436/ > 調査の結果、4棟の工房や20棟の竪穴建物跡が発見され、釣り針などの漁具や小刀を含め、およそ170もの鉄器が出土。
> また、九州産のヤリガンナや山陰地方の土器などが見つかったほか、中国から来たとされる青銅鏡の一部が出てきました。
> 九州産のヤリガンナ
> 九州産のヤリガンナ
> 九州産のヤリガンナ
136 :日本@名無史さん :2021/01/11(月) 01:47:53.36
>>70 そうではなくて、北部九州の海人族が本州の沿岸部や淡路島にも進出してたってことだよ
絹の話になるが、絹研究の権威、布目順郎氏の見解によると北部九州は400年ほど養蚕技術を独占して他に渡さなかったという
https://www.jstage.jst.go.jp/article/fiber1944/45/6/45_6_P277/_pdf > (iv)九州から本州への養蚕伝播――
> 弥生絹は今のところ福岡,佐賀,長崎の3県以外からは出ていない。
> それが古墳時代前期になると近畿,中国,北陸からも絹が出るようになり,九州では北部のみでなく熊本県からも出るようになる。
> すなわち,養蚕がわが国へはじめて伝えられてから少なくとも400年間は九州北部で独占していたことになる。
> 九州から本州への伝播経路としては,瀬戸内海ルートと日本海沿岸ルートの2つが想定される(図4)。
> 魏志倭人伝は,邪馬台国において養蚕・絹織が行われていると記し,その時期は弥生後期に当たる。
> そのことと,上記の事柄とから,邪馬台国の所在地としては,九州北部とするのが妥当と考える。
つまり弥生期の北部九州には重要技術を独占して自らの優位性を保つという発想が既に存在していたわけで、
まして兵器に使用できて絹より軍事的に重要な鉄加工の技術を他国においそれと渡したと考えるのは難しい
海人族自身が現地に行って鉄加工していた痕跡と見るのが正当だろう
http://hero1945.livedoor.biz/archives/50514719.html > (曽根崎神社の概要)
> ・ 住所:上対馬町五根緒(ゴニョウ)字平山188番地
> ・ 社号:「対州神社誌」では「氏神曾根山房」。「大帳」に古くは曽根崎神社とある。
> ・ 祭神:五十猛命(イソタケルノミコト)(大小神社帳)→阿曇磯武良→阿曇磯良
> ・ 五十猛(イソタケル)は磯良の別称、磯武良(イソタケラ)と云われる。
> 同じ五根緒村にある「大明神」の祭神が、「磯良」となっており、浜久須村の霹靂神社(熊野三所権現)の由緒で「明細帳」に、
> 「神功皇后の御時雷大臣命、安曇磯武良を新羅に遣せられ、雷大臣命彼土の女を娶り一男を産む。名づけて日本大臣の命と云ふ。
> 新羅より本邦に皈(カエ)り給ふとき、雷大臣日本大臣は州の上県郡浜久須村に揚り玉へり。磯武良は同郡五根緒村に揚れり。
> 各其古跡たる故、神祠を建祭れり。雷大臣日本大臣を霹靂神社と称し、磯武良を五根緒浦神社と称す。」
>
> と、あることから、当社の祭神、五十猛はやはり磯武良と同一とするのが妥当である。
安曇磯武良が上陸した五根緒村に彼を祀る神社を作ったと記録があり
そこには現在イソタケルを祀る神社が現存しています
ここに至ってまだ安曇磯武良とイソタケルが同一人物だと理解できないのは知恵遅れだけです
対馬の霹靂神社には磯武良も祀られている
式内社なので言うまでもなく江戸時代どころの話ではなく、はるか昔から磯武良の呼称は存在する
キナイコシ君がどんなに捏造しても無駄
https://genbu.net/data/tusima/ikaduti3_title.htm > 霹靂神社
> いかづちじんじゃ
> 長崎県対馬市上対馬町大増1073
>
> 式内社 對馬嶋上縣郡 能理刀神社
>
> 御祭神
> 雷大臣 日本大臣 磯武良
> 伊弉諾尊 事解男 速玉男 『大小神社帳』
鹿島のタケミカヅチは安曇磯良だから九州系
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%9B%87%E7%A3%AF%E8%89%AF > 民間伝承では、阿曇磯良(磯武良)は豊玉毘売命の子とされており、「日子波限建」(ひこなぎさたけ)と冠されることのある鵜葺草葺不合命と同神であるとする説がある
> (磯と渚はどちらも海岸である)。また、『八幡宮御縁起』では、磯良は春日大社に祀られる天児屋根命と同神であるとしている。
> 『磯良ト申スハ筑前国鹿ノ島明神之御事也 常陸国鹿嶋大明神大和国春日大明神 是皆一躰分身 同躰異名以坐ス 安曇磯良ト申ス志賀海大明神
> 磯良ハ春日大社似祀奉斎 天児屋根命以同神』(愚童訓より)
http://www.genbu.net/saijin/isora.htm > 袋中上人の『琉球神道記』には「鹿島の明神は。もとはタケミカヅチの神なり。人面蛇身なり。 常州鹿島の海底に居す。
> 一睡十日する故に顔面に牡蠣を生ずること、磯のごとし。故に磯良と名付く。 神功皇后、三韓を征し給うときに、九尾六瞬の亀にのりて、九州にきたる。
> 勅によりて、梶取となる。また筑前の鹿の島の明神。和州の春日明神。この鹿島。おなじく磯良の変化なり」とある。
古代にも要職にある人物等は事実を知っていたらしく、宮城の磯良神社では坂上田村麻呂が筑前志賀島ではなく常陸国鹿島郡から磯良を勧請している
つまり茨城の鹿島神宮に祀られるタケミカヅチが安曇磯良だと坂上田村麻呂は知っていたわけだ
http://miyagitabi.com/sikama/isorajinja/index.html <磯良神社の由来>
> 延暦23年(804)、坂上田村麻呂が常陸国鹿島郡から磯良明神を勧請して祀ったもので、阿度目神・河童明神ともいい、「おかっぱ様」という名前で広く知られています。
> 古くはここから南方にある真山三十郎(大崎氏の家臣)の屋敷の氏神として祀られていましたが、後に現在地に移されたといわれています。
576 :日本@名無史さん :2021/01/23(土) 19:31:56.74
さて、どうやらこれに対する反論は無いようだな
では皆納得したようなのでテンプレに入れるとしよう
>>4のデータについて
184 :日本@名無史さん :2021/03/16(火) 23:57:12.76
>>159 >>114で何ら問題無いし、やはり
>>4の考古学事実に照らすと筑後山門が妥当だろう
>此れだけ広範囲の調査には、30年100億円規模の調査費が必要だが、どこの公的機関が調査を行ったのか教えてくれないか??
広範囲の調査とか言い出すのはちょっと常識が無さすぎないか?
普通に考えれば各地の発掘状況をまとめた結果だと分かるだろうに
ソースはもう
>>4で提示されているのだから、ソースのソースがほしければ自分で番組に問い合わせればいいだろう
と言いたいところだがググったら割とすぐそれっぽいのが見つかったから出してやろう
孫引きだが川越哲志氏の「弥生時代の鉄分化」が出所のようだ
>>10補足
923 :日本@名無史さん :2022/03/16(水) 12:54:07.02
>>10 大中遺跡発見60周年記念春季特別展「弥生集落転生-大中遺跡とその時代-」(兵庫県立考古博物館)
https://web.pref.hyogo.lg.jp/kh01/yayoisyuurakutennsei.html > 竪穴住居が数多く見つかり国の史跡に指定されている大中遺跡は、弥生時代から古墳時代へ社会が移りゆく時期に突如として大きな集落に成長します。
> この頃になると、東播磨ではそれまでの集落から様相が変化し、弥生のムラが生まれ変わります。
> 【おすすめの展示品】
> 1.大中遺跡出土鏡(播磨町郷土資料館蔵・画像提供)
> 大中遺跡で発見された中国からもたらされた鏡の破片です。5センチメートル程度の小さな破片ですが、孔があけられていて割れ面が擦り減っていることから、
> 割れた後もペンダントのようにして大切に使われていたことがことがわかります。
> 3.大中遺跡出土鉄製品(当館・播磨町郷土資料館蔵)
> 大中遺跡の調査研究を進めるなかで、新たに短剣や鋤(すき)、ヤリガンナ、板状の鉄製品などが発見されました。
> 弥生時代の集落から多様な鉄製品が見つかる例は多くなく、大中遺跡が大きなムラであったことがうかがえます。
> また、出土した全長10センチメートルの短剣は、墓以外で発見された貴重な例です。
確かに弥生時代から古墳時代へ移り変わった頃に集落の巨大化と破鏡の伝来があったようだな
多様な鉄器と共に出土しているのは鉄原料の輸入を独占していた北部九州との関係抜きにはあり得ないから
東征の結果と見ることには妥当性があるな
カバネについて
臣が外様で連が譜代
> 989 :日本@名無史さん :2020/11/21(土) 23:18:49.29
>
>>987 > それは県主が畿内系という解釈が間違っているだけ
> 連(ムラジ)の姓を持っているということは神武以前からの皇室の家臣の家系
>
> のちの氏姓制度には古代氏族の関係性が現れている
> 姓(カバネ)の中で特に有力だったのは臣(オミ)と連(ムラジ)の2つだが、この両者には外様と譜代の違いがある
>
>
https://kotobank.jp/word/%E6%B0%8F-34455 > > 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
> > 臣姓豪族は皇別すなわち天皇の後裔(こうえい)と称するのが一般であり、連姓豪族は神別すなわち神代の昔から皇祖の神々に奉仕した
> > 神の後裔と称しているが、これは江戸時代における外様(とざま)大名と譜代(ふだい)大名との違いにも比せられる。
> > すなわち、臣姓豪族は天皇家と連合して大和政権を構成した有力豪族、連姓豪族は大和政権の盟主としての天皇家の地位、
> > 実力の向上に伴って頭角を現した家政機関のおもだった役人あがりであり、その家政機関が拡大改組されて大和政権の中枢機関となったのである。
>
> 神代の昔から皇祖に仕えた、つまり神武東征以前から皇室に付き従っていた元々の皇室の臣下が連の姓を与えられている
> たとえば北部九州が本拠地の安曇氏が連姓、これは皇室が九州起源であることの根拠となる
> 逆に畿内の土着勢力の王家は臣姓となった豪族の中にいると考えられる
>
> 筑後山門の物部氏は大連となった連の中の連なので、当然東征前からの重臣ということになる
> 筑後山門の邪馬台国に仕えていたと見るのが自然だろう
◆魏志倭人伝には「伊都国の一大率が女王国の北の国々を監視している」と記されている
↓これを見てどちらが正解か考えてみよう
●畿内説の場合
●九州説の場合
>>22 阿波もたまにはいいこと言うな、どっちも不正解
つまり、どっちも東南であるべき伊都国の位置を間違ってる
>>24
飛鳥時代の古代政務や律令制度の実態、官人層の生活等の様相を示す遺跡は存在するけどな。 わははははは @阿波 纏向遺跡消滅後、古墳時代の奈良畿内は碌な弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構の無い、寒村巨大墓地に過ぎなかった。 @阿波
ヤマトは大和になってからはこっちが本家。九州に勝ったからな。
纏向遺跡消滅後、古墳時代の奈良畿内は碌な集落遺跡や鍛冶炉遺構の無い、寒村巨大墓地に過ぎなかった。 @阿波
白村江敗退後、唐の進駐軍の報復を恐れた大和朝廷は、我が皇統は熊襲の女酋卑弥呼に関わりなし、
まして前660年来の皇統のご領地の博多湾岸を、魏使や卑弥呼使が往来したり、
駐屯したりはあり得ず、
おそらく、倭人条に云う唐津東南の佐賀の間道を通行して・・、との趣旨で日本紀を編纂した。
やっぱり九州説はソースがしっかりしていて説得力が違うな
つまり邪馬台国は朝廷に滅ぼされた熊襲の一つとみていいのか
>>22 魏志倭人伝を正しく読むと「伊都国の一大率が女王国の北の国々を監視している」とは書かれていない
自女王國以北 特置一大率檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國
和訳すると「女王国より北は、特に一大率を置いて諸国を検察させている。諸国はこれを恐れはばかっている。常に伊都国にて治めている。」
伊都国で常に治めているのは一大率ではない、一大率は女王国より北に居る。
伊都国で常に治めているのは女王卑弥呼である。
>>30 663年白村江敗退後、666年に唐の高宗が泰山で行った封禅に参加した日本王とは誰だったのだろう?
中華史書の行程記述には「道行き法」というルールがあり、漢書をまとめた班固もこれに従っている。
則ち出発地(末盧=唐津中原)から主線行程の方角道里を順次述べ、まず東南伊都国=佐賀川上に到る。、
以降、折々に傍線行程(至〇〇の行き止まり行程の情報(東南奴国=佐賀城一帯)を付加し、
元の伊都国に戻って、東行100里の主線終点(不彌国=吉野ヶ里)に至らば、
四至(東西南北)の国々を「〇至・・」と紹介して終わる。
つまり「南至の投馬国=宮崎、自郡至水行20日」と、
同じく「南至の邪馬台国女王之所都、自郡至水行10日陸行1月」が、四至の並列説明となる。
これで主線行程は不彌国までの1万600里、自郡至女王国1万2000余里から差し引けば残り1400里
則ち、不彌国=吉野ヶ里の南1400里=110qに女王の宮殿があったとなる。
倭人条を修正する必要全くなし。で、グーグルマップで南至の方角・里数の地を探せば、
驚くなかれ、ドンピシャの旧蹟が見つかる。それは阿蘇・高千穂の天照と日向三代の宮!
>>33 >常に伊都国にて治めている。 ではない。
治所を伊都国に置いている・・、の意味だ。
>>37
>治所を伊都国に置いている・・、の意味だ。
つまり、出入国在留管理庁・・、の意味だ。 @阿波 >>39 自女王國以北 特置一大率檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國
女王国から北の国々が所掌範囲で、其の北の諸国を検察していたのだから、
伊都国にデンと座っていたわけではない。
文脈を読めないやつは黙ってろw
「常治伊都國」をどう読んだら「治所を置いている」とかなるんだw
この文で「治」は動詞で治める、「置く」何て動詞は何処にも無いwww
>>42 いつもは、だよ。
諸国を検察したり、港に出向いて確認作業したり、ってのが職務だけど、
普段は伊都国でデスクワークしてる。
>>42 常設の治所が置かれていた、を縮めた形と読めばいいだろ
そうでなきゃ、諸国を検察できない。
>>33 ま、あれだ
常日頃は伊都国にいて、折々に諸国を検察していただから、
今でいえば、白バイ、パトカーの駐屯所が有って、折々にパトロールしていたの感じかな。
>>45
ま、あれだ
常日頃は伊都国にいて、交易船が福津市(万津浦)辺りに到着したら検察していた。 @阿波 女王国より北って九州北岸から半島南岸だよね。漢字的には率=卒=帥だから
(意味は同じで地域で違う漢字が使われてた)、一大国(一支国)の帥が伊都国も
治めてたと。女王国は陸軍とは別に一大国の海軍があった感じ。陸軍の勢力圏が
邪馬壱国で海軍のが投馬国。
>>44 治は動詞だから「治所が置かれていた」とはならないね
「通常は伊都国にて治めていた」がやっとだな
女王国以北に置かれた一大率が通常は伊都国にて治めていたってのも変だなw
三国志に出てくる「治」は433文字。うち、「治+地名」は24か所。
うち22例にて、"A+治+地名B"は、
「A自らの中心拠点を(Aの管轄域の主要地である)Bに設置した」の意味で使われている。
☆袁紹因表太祖爲東郡太守治東武陽 袁紹は太祖曹操を兗州東郡の太守に任命し、曹操は東武陽県に郡治を置いた
☆徙爲東郡太守治東武陽 (臧洪を)東郡太守に転任させ、臧洪は東武陽県に郡治を置いた
☆郡所治廣武 郡庁所在地の廣武県
☆治廣ィ如舊 (烏丸校尉の閻柔は)元からの如く廣ィ(上谷郡の寧城)で執務した
☆辰王治月支國 辰王は月支國で政務を執っている(魏志韓伝)
☆焉徙治綿竹 (益州牧)劉焉は綿竹県に州治を移した
☆焉徙治成都 (綿竹の大火災)劉焉は成都に州治を移した
☆羣下推先主爲荊州牧治公安 先主(劉備)は公安県に州治を置いた
☆治成都 (劉備は)成都を首都とした
☆先主爲漢中王遷治成都 劉備は漢中王になると、成都を首都とした
☆移治味縣 (庲降都督)馬忠は主要拠点を味県に移した
☆州舊治壽春 揚州の州治は昔から壽春県にある
☆繇乃渡江治曲阿 (揚州刺史)劉繇は長江を渡って曲阿県に州治を移した
☆權徙治秣陵 孫権は首府を秣陵県に移した
☆以慈爲建昌都尉治海昬 太史慈を建昌都尉(6県担当)に任命し、太史慈は海昬県に主要拠点を置いた
☆領荊州牧治公安 (劉備は)荊州牧を拝領し、公安に州治を置いた
☆以普爲吳郡都尉治錢唐 (呉郡都尉)程普は銭唐に軍事拠点をおいた
☆領江夏太守治沙羨 江夏郡の太守になって、程普は沙羨県に郡治を置いた
☆領丹楊太守治建業 (呂範を)丹楊郡の太守にして、呂範は建業県に郡治を置いた
☆拜抗都督信陵西陵夷道樂鄉公安諸軍事治樂鄉 陸抗は都督となって、信陵〜公安の軍事担当となり、樂鄉に主要拠点を置いた
☆假節開府治半州 (鎭軍大將軍の孫慮に)軍政府を開設させて、孫慮は幕府を半州に置いた
☆爲吳興郡治烏程 (烏程候から皇帝になった孫晧は)呉興郡を新設して、烏程県に郡治を置いた
★使司隸校尉留治関中 司隸校尉を関中に留めて治めさせる
★司隸校尉治弘農 司隸校尉に弘農郡を治めさせた
邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)3
5じゃなくて2のほうね。
>>45 一大率の業務は「檢察諸國」と書かれてるのに更に「治」するってのも変。
☆袁紹因表太祖爲東郡太守治東武陽
これは郡治を置いたではなく東武陽で治めた「郡治を置いた」ではありませんねw
☆徙爲東郡太守治東武陽
これも同じ
全体的に訳がいい加減だなw
>>49 無理やりな誤訳してそれを証拠みたいに上げても意味が無いなw
自女王国以北とは、
@ 邪馬台国・・・熊本、阿蘇
A 不彌国・・・吉野ヶ里
B 奴 国・・・佐賀市佐賀城一帯
C 伊都国・・・佐賀大和町川上太神宮遺跡
D 末盧国・・・唐津市及び伊万里市
E 一大国・・・壱岐島
F 対海国・・・対馬南島
地理的に最適な以北7国の中間の佐賀伊都国に、諸国検察の拠点(治所)があり、
日ごろは其処に治して、所要或る度に南北へ出動していたということでしょう。
魏志倭人伝の各国を見ると長官の官職名には統一性が無いのに
副官は卑奴母離で統一されていたりする
おそらく卑奴母離とは伊都国の一大率が派遣した目付役の官職名なのだろう
だから伊都国自身には卑奴母離がいないし、主家である邪馬台国や
一大率の管轄外である南方の投馬国にも卑奴母離はいない
まぁ、縄文時代晩期末~7世紀末までは、「阿波」がすべての起源と思ってくれてよいから。
「文字」「律令制」「条里制」「古代政務」「白鳳寺院」「三角縁神獣鏡」「鉄器」「水銀朱」「東阿波型土器」「前方後円墳」「勾玉」「銅鐸」
「稲作」「「泥質片岩製石棒」「緑色片岩製柱状片刃石斧」「刻目突帯文土器」「鯨面土製仮面」「弧帯文土器」などなど。 @阿波
>>55 女王国とは帯方郡から12000里の場所である
魏志倭人伝には帯方郡内の記事はなく、郡使は帯方郡の南の端の海岸から船で出発しているところから始まるので、12000里の起点は帯方郡の南の端の海岸からである
端の海岸からなので次の海岸までとなり
帯方郡の南の端の海岸から狗邪韓国の海岸までが7000里
狗邪韓国の海岸から対馬国の北岸までが1000里
対馬国の北岸から対馬国の南岸までが800里(400里×2)となる
計算すると
7000+1000+400×2+1000+300×2+1000+500+100=12000となる
九州への上陸地点は末盧国の北端となる
末盧国の北端の呼子付近から伊都国との国境までが500里
伊都国と奴国との国境までが100里となる
伊都国と奴国との国境付近が女王国となるが
女王国とは伊都国や奴国など女王卑弥呼を共立した邪馬台国の中心メンバー国のことで
女王国以北とは末盧国から北の諸国のことである。
>>58
>末盧国の北端の呼子付近
そもそもこれが、ボタンの掛け違え。 これで、後が台無しとなる。 @阿波 >>55 里程と日程は元々、別の資料からの引用である
里程は公孫氏時代の帯方郡の使者が短里で記録したものであり
日程は公孫氏が滅亡した後に派遣した梯儁や張政の報告書によるものである
なので「南至投馬國水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七万餘戸」
は完全に独立した文書であり、ここの部分は切り離して考えないといけない
帯方郡から南へ水行二十日で投馬國、投馬國から南へ水行十日陸行一月で邪馬壹國なのである
7000里に水行二十日、5000里に水行十日陸行一日(月)掛かるのである。
>>58 >>60 中國古書の行程は、道行文のルールで書かれている。
漢書を執筆した班固も、すべからくこれに従っている、・・具体的には
>>36参照されたし。
この古典ルールを知らずに論じては、古代漢人に笑われる。
古田氏だけではない、本居氏、白鳥氏、内藤氏、原田氏、・・・皆遠い過去のお人になられた。
>>1 >>2 日本の渡来人≠朝鮮人
朝鮮人の遺伝子
中国人(黄河古人50.5%)+日本人(西遼河と縄文31.3%)+ツングース(12%)+東南アジア(6.2%)
韓国人が北方中国人から少し離れてる理由
日本人の遺伝子とツングースの遺伝子(43.3%)
56.7%は漢民族と共通
遼寧省瀋陽の漢民族と遺伝子が同じ理由
遼寧省の漢民族も西遼河やツングースの遺伝子を持ってるからだ。
中国の遺伝子検査キット23魔方で調べた結果
vahaduoと殆ど同じ結果になった。
渡来人ってか初期弥生人だろな
米を最初に持ち込んだ奴ら
古墳時代以降は朝鮮半島からも渡来してるだろうし、2000年以上の年月を単純に語っちゃ駄目よ
そもそもこれが、ボタンの掛け違え。 これで、後が台無しとなる。 ㋐阿波
孝霊阿波よ、他人の心配も良いが、
自分のズボンのボタンは大丈夫なんだろな、、、
>>63
>米を最初に持ち込んだ奴ら
持ち込まれていない。 南四国「阿波」でも発祥する。 @阿波 >>61 その道行文のルールとは君の発明だねw
根拠無し
>>66 おや、私の発明とは、まことに、まことに有り難い。
だがこれは、漢書を執筆したあの班固も用いた有名な定型で、
古代中国史書の執筆ルールですよ、、。御存じなかったのですかwww
>>67 古代中国史書の執筆ルールじゃないよw
君の中でだけ通じるルールだよwww
文化庁の公表する埋蔵文化財のデータをもとに、縄文から弥生、弥生から古墳時代の集落遺跡数の変化をそれぞれ都道府県別に4パターンにわけたら興味深い結果が得られた。
>>68 左様でございますか、
最大のお誉め言葉を頂きまして、月まで舞い上がる心地です。
ただ、このルールを適用して解読を試みた先学がいらっしゃいます。
昭和45年頃「邪馬台国はなかった!」で、世を驚かせたお方だそうです。
しかし唐津から北東の糸島へ進まれた関係上、伊都国の次からが合わず、ご心労だったそうです。
私の場合は、一字一句修正せずとも、宮崎・投馬国と阿蘇・高千穂之宮に到達できておりますが、
それは、原文を忠実に守って唐津東南500里の佐賀川上に向かったことによる、と思っております。
>>69 266年を最後に消息不明になる地域は黄色かな
@まず「女王国(九州)東渡海千里、複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国)在其南、去女王四千里」から九州が確定。
A次に「其南有狗奴国、不属女王。官 狗古智卑狗(熊本県・菊地平野)男王 卑弥弓呼」から、【女王国=筑紫平野】であることまでは読み取れます。
さらに「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、【鬼道】を(鬼籍に入った)歴代倭王(死者)の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏部屋)の祖霊を祀る祈祷室(最高所)はまさに天(太陽)と鬼(死者=歴代倭王)のお告げの声を聴く日巫女(日見子=卑弥呼)にピッタリです!
なお、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶(帯方郡から12,000里)の東(の海上)にあり」とするためのウソ(※蛇足)だとすると辻褄が合いますよ。
※魏志倭人伝の蛇足=投馬国⇔邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後)
末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓【関門海峡】
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州✖畿内説)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国)去女王四千里
......................投馬国(宮崎平野)
............................↓※蛇足「南水行十日陸行一月(虚構)」
会稽東冶〜〜〜幻の邪馬台国(帯方郡から12,000里)✖架空の女王国
>>70 自説に都合の良い読み方を発明しただけだなw
そんなの何の意味もない
九州は女王国だけど首都ではない
海軍の駐屯地
壱岐対馬への食料支援
ブチギレて出雲で都の国税官僚ボコった
スサノオはたぶん九州勢力がモデル
>>73 道行文のルールを知っていても、古田氏のように道を間違えば邪魔になるだけ。
陳寿は、唐津の東南500里、又東南100里、と大事なことを2回言っている。、
それをクリヤーできたオレは、中華史に残る大発明をしたのだな・・!?
>>75
>陳寿は、唐津の東南500里
そもそも、この唐津がボタンの掛け違い。 これで、後が台無しとなる。 @阿波 一大国からの「亦南北市糴 、又渡一海 」
を読み切れなかった阿波は、婦女子・青少年の手本にもなれず。
「南北市櫂」
その南北とは、その島内の南北のこと。 だから、「對海國」「一大國」それぞれに「南北市糴」を記している。
それをあたかも、朝鮮半島や北部九州とする恣意的解釈をするトンデモ。
そもそも、島が食料不足なのであれば、朝鮮半島や北部九州と市糴するに値する物が無く、市糴が成り立つ訳がない。 @阿波
「南北市櫂」
市とは市場のこと、島内だけなら歩いて行き来できる。
櫂とは船を漕ぐカイのことで、船で南北していたという意味。
対馬や壱岐の民は、複雑怪奇な潮を知る水先案内人・渡船業者・船大工・水夫として生活していた。
だからそれで儲けた金で南北市櫂していたのだ。阿波は山岳部族出身だなww
>>79
>島内だけなら歩いて行き来できる。
歩くより、船がなにかと便利。
そもそも、島が食料不足なのであれば、朝鮮半島や北部九州と市糴するに値する物が無く、市糴が成り立つ訳がない。 @阿波 >>75 そもそもそんな難し道行文のルールはない
書かれてる順番に進むだけ
誰にでも分かるように書かれている変な分岐はない。
里程と日程を分けて読めばいいだけで変なマイルールは必要ないんだ。
その「変なマイルール」は、漢書の研究から判明し、
昭和40年代から指摘されていたこと、残念ながらオレの業績ではない。
ただ、高千穂にたどり着いたからといって、卑弥呼が天照大御神だったとは言えない。
高千穂は、縄文時代からたくさんの王国が興亡した天然の巨大要塞。
紀元前660年に日向三代と神武が去り、その遥か後世の2-3世紀に、荒れ野を再開拓して
熊襲の女酋が建てたのが、魏志の所謂卑弥呼の邪馬台国だな。
>>80 >そもそも、島が食料不足なのであれば、
渡海、渡船産業のおかげで大金を稼げていたから、住人も多かった。
ろくな産業が無くて、京阪神へ出稼ぎに行くしか能のない阿波とはワケが違うわ。
>>85 そうか、昭和40年代のあの学者先生は捏造したのか・・、
陳寿は大事なことを二回云いました。
唐津・末盧国からは東南500里(の佐賀川上)へ進め、そこから又東南100里(の佐賀城)へ進め。
>>86 当然だろ、そんな特殊ルールを知らないと読めない本なんて書かないよ
誰が読んでも分かるように書いてる。
>>84
>大金を稼げていたから、住人も多かった。
そんなことを言うのは、アホのお前だけだ。 わははははは @阿波 >>87
>唐津・末盧国
そもそも、この唐津がボタンの掛け違い。 これで、後が台無しとなる。 @阿波 >>90 他人ばかりと思うなよ、自分が台無しになることも少なくないww
>>88 陳寿は、だれが読んでもわかるようには書いてない
特に教養に優れた、三世紀の洛陽の貴族対象だよ。21世紀の東夷の学者なぞ外野の外の草むしり。
>>91
>自分が台無しになることも少なくないww
少なくない? 言ってみな。 @阿波 >>92
>陳寿は、だれが読んでもわかるようには書いてない
と、トンデモ説信者は、行き詰った挙句にそう言い出さざるを得なくなる。 わははははは @阿波 >>92 トンデモからトンデモって言われてるぞw
トンデモ、トンデモない説だなwww
三国志全体も倭人条も、
中華帝国の王朝王都の故事・来歴・歴史等、
広く教養ある、貴族、高級官人、学者、文化人向けの書。
つまり万国共通の学術論文ではない。まして夷人の平凡学者がすらすら読める代物でもない。
陳寿は大事なことを二回云いました。
唐津・末盧国からは東南へ進め(→佐賀川上)、そこからまた東南へ進め(→佐賀城)。
2回の「東南」も読めない東夷の学者が、倭人伝の何を読めるというのか。
みのもんたが笑っておりますぞえww
>>98
>唐津・末盧国
そもそも、この唐津がボタンの掛け違い。 これで、後が台無しとなる。 @阿波 そうだろう、な
ボタンを掛け違った㋐阿波の、これまでとこれからが台無しww
一番のボタンを掛け違いは里程と日程を続けて読んでることだな
何方も帯方郡からの行程なんだ
陳寿は里程と日程を続けて書くなんてことはしない
距離と時間だからな、里程と日程を続けて書いたら目的地までの距離も時間も分からない。
奴国二万戸 福岡平野
投馬国五万戸 筑紫平野
邪馬台国七万戸 宮崎平野
奴国二万戸 福岡平野
投馬国五万戸 吉備
邪馬台国七万戸 畿内
奴国二万戸 福岡平野
投馬国五万戸 出雲平野または鳥取平野
邪馬台国七万戸 畿内
弥生遺跡の数から考えてこれ以外の説は成り立たない。
>>102 奴国二万戸 福岡平野
投馬国五万戸 朝鮮半島南部
邪馬台国七万戸 北部九州地域全体
これ以外の説は成り立たない。
卑弥呼女王国連合北九州30ヵ国全体が邪馬台国で全部で7万戸だよ
自女王國以北其戸數道里可得略載
其餘旁國遠絶不可得詳
この文章がどうにも引っかかる。
可得~、不可得~
が、対になっているのだが、
略載と詳も意味が対になっている。
本来はこうだったのではないか。
自女王國 以北 其餘旁國 遠絶
其戸數道里 可得略載 不可得詳載
女王国からその北にある余旁国
までは遠絶なので、その戸数道里を簡単に載せることができたが、詳しくは載せることができなかった。
<唐津インター出口の砂丘上遺跡>
中原(なかばる)遺跡の主な弥生古墳
・墳丘墓
・土壙墓
・木棺墓
・石棺墓
・前方後円墳
・周溝墓
<唐津インター出口の砂丘上遺跡>
中原(なかばる)遺跡の主な弥生遺物
内行花文鏡
方格規矩鏡
浮彫式獣帯鏡
仿製鏡
鉄剣
素環頭小刀
その他多数
邪馬台国時代の久里双水古墳(くりそうずいこふん)
佐賀県唐津市双水(唐津インター出口の中原遺跡の南、松浦川沿い)
概要
1980年発見。
全長108.5m、後円部径62.2m、前方部幅42.8mの前方後円墳である。
3世紀末から4世紀ごろ築造と見られ、邪馬台国の起源をさかのぼる上でも重要な遺跡である。
粘土で覆われた石室は砂岩製の天井石3枚で密閉されており、
内径の高さ2.5m、幅0.9m、高さ1mの竪穴式石室が発見されている。
<末盧国の津の推定地>
唐津インター出口の中原遺跡、及び其の南の久里双水(クリソウズイ)古墳
唐津市内には、中原遺跡ST12032、同ST11158、久里双水古墳、谷口古墳、島田塚古墳、双水柴山2号墳、
竹の下1号墳、竹の下2号墳、峰の辻古墳(群)、瓢塚(ひょうづか)古墳の合計10基の前方後円墳があり、
末盧国があったことは疑いようがありません。
なかでも久里双水古墳は、唐津平野では最大の前方後円古墳で、墳丘頂からは唐津湾を一望にします。
呼子には古代の史跡が少ないね。
瓢塚古墳(ひさごづかこふん)
呼子加部島の東北、標高24mの台地の東端に位置し、古墳東側は、高さ20mの急崖を介し玄界灘に面す。
本墳は昭和47年の佐賀大学、平成14年度から2か年にわたる呼子町教育委員会の調査により、
横穴式石室を持つ前方後円墳であることが追認された。主軸長18.5m、後円部径12.0m、前方部推定幅7.2m。
須恵器、鉄器、玉類が出土している。
漢書にも用いられた「道行文のルール」に拠りて解読すれば、以下の如し・・・
主線行程最初の末盧国は、唐津・中原の津 →
→東南500里伊都国は佐賀市川上 →其東南至奴国は佐賀城で、傍線100里の説明。
元の伊都国に戻って →東行100里の不彌国は吉野ヶ里で、此処が主線終点。
終点からは東西南北の四至説明で、南至の投馬国・宮崎と、南至の邪馬台国・肥後の2国並列記述。
これに依り、不彌国=吉野ヶ里の南1400里=110qに、女王の宮殿があったと判明する。
それは驚くなかれ、阿蘇高千穂・三田井の、天照大御神と日向三代の宮!
>>111 その「道行文のルール」がいかがわしい
特殊なルールを知らないと読めない歴史書なんてないな。
>>111
>末盧国は、唐津・中原の津
そもそも、この唐津がボタンの掛け違い。 これで、後がごちゃごちゃとなった。 @阿波 >>112 その通り、
古代中國史書のルールを知らない、キミたち倭人、倭種には読み解けないのだよ。
だから300年も右往左往してるのさww
>>117
これで、後々「魏志倭人伝」通りとなる。 @阿波 >>119 魏志倭人伝は資料のかき集めだから変なルールはないんだよ
報告書や過去の記録を参考にして転記しただけのものだからな
誰が読んでも分かるように書いてある
従来の馬鹿学者が別の記録から持って来た里程の記録と日程の記録を繋げて読むから訳が分からないだけ。
陳寿は公羊学者なんだから春秋の筆法を使って書くのが当然だよ
陳寿は三世紀の人なんだから、当時の知識人、文化人に分かるように書いた。
しかも、ウケ狙いで、卑弥呼を主人公にしてドラマチックに脚色してある
1700年ものちの現代文学者が、スラスラ読めるとおもうのは間違い
>>122 仮にそんな筆法があったのらそれを記した史書が残っているはずだが、そんなものは無い。
>>124 陳寿の三国志に先立つ「班固の漢書」を研究した学者によれば、
漢の時代に用いられた筆法、というか一定のスタイルがあったらしい。
詳しくは、ユーチューブの下記をご参照されたい
{ついに解明}邪馬台国はココにあった、魏志倭人伝から読み解いた邪馬台国の本当の場所とは
ここの15分20秒から〜
>>127 そう思って、始まり15分20秒から〜と書いてやってる。たったの2-3分だ。
まあ見てごらん、目が覚めるよ。
>>123 陳寿のことだから、仕えている晋王朝の皇室にめっちゃ忖度してるっしょ
邪馬台国は晋皇室の祖である司馬懿が朝貢のきっかけを作って
そのため司馬懿が出世できたんだよ
そら邪馬台国や卑弥呼をアゲアゲするがな
司馬懿の功績はすごいなぁーって
>>128 根拠が全く述べられてないな
時間の無駄だった
筆法問題も綺麗に解決!
平原女王墓が卑弥呼
帯方郡から、水行二十日<到狗邪韓国>→水行十日→陸行一日<到伊都国>で、平原女王墓。
http://2chb.net/r/archeology/1700151864/4-7 >>130 或る者曰く「読めば誰でもわかるように書かれている」とのことだが、
ならば、→東南→東南 と書いて北東と読ませるのはなぜだ。そんなルールこそおかしいではないか??
ま、ルールといっても
長年の文筆家の経験で、落ち着くところに落ち着いたのが道行文体。
12000里は露布の慣例で10倍されているだけだから実距離は1200里
陸行1月も里数に換算すれば1200里
水行10日も里数に換算すれば1200里
すべて帯方郡から女王国である奴国までの距離を言っている
陳寿はあんま理解せずにたくさんある資料を自分なりに切り貼りして
書いた感じ。ライバルの魏略が詳細に書いてあるのに対抗してというか。
その魏略も切り貼りして書いてあるだけだけど。
そういうものに対してああだこうだと熱論が続いてるのは滑稽ではあると思う。
東夷伝序文に(司馬懿のおかげで)東夷のことが詳細にわかるようになったので記すことにしたって書いてあるからな
※カッコ内は想像による補足
「明帝の崩御前に、世界の果てから、皇帝の徳を慕って異民族がやってこれたのは司馬懿のおかげである」
だから陳寿には東夷の(倭国の)情報をたくさん盛り込む必要があった
>>134 陳寿は魏志倭人伝に多くの情報を詰め込んでるだよ
正しく解釈すれば得られる情報は多いよ。
「自女王國以北 特置一大率檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」の正しい意味
「女王卑弥呼は女王国より北は、特に一大率を置いて諸国を検察させていた。諸国はこれを恐れはばかっていた。女王卑弥呼は常に伊都国で一大率を使い諸国を治めていた。一大率は魏に於ける刺史のようであった。」
「丗有王 皆統屬女王國 郡使往来常所駐」の正しい意味
「伊都国には魏の世に女王卑弥呼がいた、倭の国々は皆、女王国に従属していた。伊都国は帯方郡の使者が往来し、常に滞在する所である。」
>>138
「丗有王 皆統屬女王國 郡使往来常所駐」
「丗有王(これ、王有り)」
「丗」は、「此女王境界所盡」に習い、「此」の誤字だろう。 @阿波 >>139 >対海国から又南渡一海、一大国から又東渡一海・・
↑これは阿波お得意の読み方だが、昭和40年代にも流行ったなあ。
あんときゃ、当時大人気の作家がひっかって、まもなく消え去った。
阿波のような一流の漢文読みが、時々ひっかかる落とし穴なんだよ。
儆、NHKラジオ高校講座 言語文化 三国志 曹公以関羽為義を放送中
高校の漢文解説を聞いて正しい漢文の解釈の仕方を勉強しろ>九州バカ
>>140
>これは阿波お得意の読み方だが
そんな読み方はできない。 「一大国から又渡一海」だから。 @阿波 >>139 魏書の中の世は特に断りが無ければ魏の世だよ
世を代々と訳した場合でも魏の世の間の何代かの事だから2〜3代の事
代数が少ないから無理に代々と訳す必要もない。
>>143
>魏書の中の世は基本的には魏の世だよ
であるならば、わざわざ、あえて書く必要はない。 @阿波 「丗有王(これ・ここに、王有り)」
「丗」は、「此女王境界所盡」に習い、「此」の誤字だろう。 @阿波
>>145 無理な主張だな「丗」と「此」は流石に間違えないなw
>>147
文脈が通じるのは「此」。 「世」を有王に使うのは不自然。 @阿波 >>148 伊都国に倭王が居た時期を明確にしてるんだよ。
>>149
居た時期は、「魏志倭人伝」なんだから、魏の世は当たり前。
わざわざ、居た時期など書く必要はない。
それよりも、「伊都国に王が居た」ことをわざわざ言っている。 @阿波 「世有王」で魏によって倭王に任命された卑弥呼が伊都国に居たことをハッキリさせたかったんだ。
倭で王は狗奴国の自称王と魏から任命された卑弥呼の二人だけなんだ
伊都国の王とは倭王卑弥呼のこと。
>>151
>魏によって倭王に任命
違うな。
倭国(阿波)王権によって、伊都国に王(一大率=出入国在留管理庁長官)を置いた。 @阿波 文脈が通じるのは「此」。 「世」を有王に使うのは不自然。 @阿波
「阿波」とともに、更なる真実を探求しましょう。
そして、日本古代史を正しい道に戻しましょう。 @阿波
魏の後ろ盾を得て倭王に立ったのはおそらく台与だね
卑弥呼が魏に朝貢したのはもうお婆ちゃんになってからの話だ
考古学の遺構・遺物をめぐる解釈では、魏志倭人伝で卑弥呼が魏よりもらったとされる銅鏡100枚が主要な論点となっている。
卑弥呼が景初三(239)年に魏から貰ったとされる三角縁神獣鏡は、中国からは1枚も出土していない。ということは、倭国で作られた鏡で、魏の鏡ではない可能性が高い。
魏の鏡は、後漢の官営工房で作られたものである。これは魏が後漢から禅譲を受けた正統な王朝であることを示すためであった。
したがって魏の鏡はそのまま後漢の官営工房で製作された「後漢鏡」であり、卑弥呼が貰った「銅鏡100枚」も当然「後漢鏡」であったはずである。
前期古墳の鏡の副葬状況を見ても、後漢鏡は「棺内」に置かれ、被葬者の頭に最も重要な鏡として扱われている。
これに対して三角縁神獣鏡は棺外に置かれている。
つまり弥生時代後期以来、最も権威ある鏡であったのは「後漢鏡」であり、三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏の皇帝から貰った鏡ではないと考えられる。
記紀に大王が服属した豪族に鏡を配ったという記述は無い。
反対に服属した豪族が鏡を大王に捧げ、恭順の意を示したという場面は描かれている。
三角縁神獣鏡は棺外から何十枚と副葬された状態で発見されることが多いが、これは服属した下位の首長から古墳の被葬者である王に献上されたものと解釈できる。
このことから考えて、三角縁神獣鏡は当時、地方の首長クラスの支配者が持つことができた鏡であり、卑弥呼が魏の皇帝から貰った「銅鏡百枚」とは考えられない。
これまで九州地方の3世紀後半の文化所産は貧弱になると言われてきたが、吉野ヶ里遺跡の発見でその定説は覆された。
吉野ヶ里遺跡のような物見櫓や北内郭の主祭殿、倉庫群などを備えた大規模な環濠集落が3世紀後半の北部九州に存在することが確かめられた。
魏志倭人伝に描かれた邪馬台国の「楼観」「城柵」「宮室」「邸閣」に相当する遺構がセットで発見されているのは、現在までのところ吉野ヶ里遺跡だけであり、近畿地方の遺跡からは発見されていない。
>>158 唐子・鍵は邪馬臺国セットがよく揃ってる
吉野ヶ里はテーマパークとして設計・施工したものだからセットが揃ってるは当たり前
数年前の吉野ヶ里のHPには唐子・鍵から出土した楼観の絵からパクったと書いてあった。
魚拓を取って置けばよかった。
明日28日は日本海型気候で温暖な九州で雪が降るらしい
はい、令和の正解
平原女王墓が卑弥呼
帯方郡から、水行二十日<到狗邪韓国>→水行十日→陸行一日<到伊都国>で、平原女王墓。
http://2chb.net/r/archeology/1700151864/4-7 >>159 君の脳内ではパクったなんて書いてあったんだね
楼観の遺構があったから絵を参考に復元したって話だろうに
畿内さんの脳内では
「畿内の遺跡から楼観をパクった!」
となるんだろう
唐古・鍵遺跡の「楼観」と大型建物は有名だけど
「城柵」「宮室」「邸閣」に相当する遺構なんてあったかな
>>134 今、我々が読んでる南宋版魏志倭人伝が陳寿が書いたそのまんまだと信じてるバカ
日本書紀に唐版魏志倭人伝を引用した一節が有るが
南宋版と字句が違う。
魏志倭人伝は色んな人物によって「改竄」されている。
>>164
と、トンデモ説信者は、行き詰った挙句にそう言い出さざるを得なくなる。 @阿波 >>165 トンデモ阿波説が、行き詰った挙句にトンデモをいい出さざるを得なくなる。
又渡海を、阿波方面とこじつけた阿波のお坊ちゃん学者ww
磯城の唐子鍵は銅鐸文化人の村落であり、ヤマト王権の支配層の銅鏡文化人とは違う人たち
当然だが邪馬台国のものではない
記紀の神話では兄師木と弟師木という兄弟が磯城の邑の首長であったが、兄師木は東征軍に反抗して殺されて弟師木は帰順したという。
この話の元ネタになった磯城の邑が唐子鍵だろう
銅鏡文化人が畿内を制圧したあと、彼らに合流した唐子鍵の人たちがいて征服者の本拠地になった磐余で銅鐸を破壊して武器を作っていた痕跡が見られる
唐子鍵の人たちの一部は纏向遺跡を作った人たちに合流している
記紀神話の弟師木というのは唐子鍵の降伏者たちを擬人化した存在だろう
繰り返しになるが、唐子鍵遺跡はヤマト王権=邪馬台国のものではないのである
皇族の志貴の皇子は銅鐸系
https://www.pref.nara.jp/39560.htm 巻1 第51番謌
#[題詞]従明日香宮遷居藤原宮之後志貴皇子御作歌
#[原文]婇女乃 袖吹反 明日香風 京都乎遠見 無用尓布久
#[訓読]采女の袖吹きかへす明日香風都を遠みいたづらに吹く
#[仮名],うねめの,そでふきかへす,あすかかぜ,みやこをとほみ,いたづらにふく
蘇我馬子の邸宅があった甘樫丘山道の中腹に歩く万葉学者と呼ばれた
犬養孝博士の筆跡による歌碑がある。
テレビ番組「題名のない音楽界」の放送開始から死去するまで司会を担当した黛敏郎作曲混声合唱曲「万葉歌碑の歌」
ダウンロード&関連動画>> >>163 唐古・鍵遺跡の「楼観」と大型建物は吉野ケ里遺跡に対抗して作られたんだよな
根拠は線で描かれた稚拙な絵だけで想像して建物にしてしまった
全くの空想の産物、唐古・鍵遺跡の「楼観」と大型建物はテーマパークなんだ。
>>169
>根拠は線で描かれた稚拙な絵
その絵を描いたのは、倭人(阿波勢力)だということを忘れてはいけない。 @阿波 「邸閣」ってのは単なる食料倉庫だから、高床建物があればそれでいいよ。
陳寿の記した主線行程始点の末盧国は、唐津インター出口の中原の津 →
→ 東南陸行500里の伊都国は、佐賀川上の太神宮跡 →、
→(東南奴国は、行き止まり傍線行程につき省略)。
→ 川上伊都国より東行100里の不彌国は吉野ヶ里一円、ここが主線行程終点。
この終点からは、東西南北の四至説明で、
→ 南至の投馬国は180q先の宮崎平野都万。
→ 同復南至の邪馬台国は、熊本平野の山嘉菊池、以上南至の2国を並列記述。
なお自郡至女王国1万2000余里から、不彌国(吉野ヶ里)までの1萬600里を差し引けば、
不彌国の南1400里(約110q)に、女王の宮殿があったと判明する。
驚くなかれ其処は、阿蘇高千穂・三田井の天照大御神と日向三代の宮!
>>172 続き
紀元前遥か、日向三代の子の神武はご東遷なされ、跡地は荒れ野となって野猪の棲みか。
そして紀元後、この地の土蜘蛛女族が田畑を開き、馬台を建て、魏郡と結び、親魏倭王の栄を得た・・。
>>172 続き補足
終点からは東西南北の四至説明に移り、
→ 南至の投馬国は、180q先の宮崎平野の都万、(自郡至)水行20日。
→ 復南至の邪馬台国は、熊本の山嘉菊池と阿蘇高千穂女王之所都、(自郡至)水行10日陸行1月。
12000里は露布の慣例で10倍されているだけだから実距離は1200里
陸行1月も里数に換算すれば1200里
水行10日も里数に換算すれば1200里
すべて帯方郡から女王国である奴国までの距離を言っている
令和の正解うれしいな
平原女王墓が卑弥呼
帯方郡から、水行二十日<到狗邪韓国>→水行十日→陸行一日<到伊都国>で、平原女王墓。
南の狗奴国は免田式土器領域
東の拘奴国は四隅突出型領域
http://2chb.net/r/archeology/1700151864/37 高天が原は本来、天空の神々が住まう場所の事だが、
それを擬人化して人間世界に写したのが筑紫平野、神話は擬人化したものが多い
北極星は天御中主、太陽は天照、月は月読、オリオン座は三女神、流星はニギハヤヒとね。
>>177 それだ!
吉野ヶ里の石棺に刻まれていた星/星座。
古代人は、天文に長け、ロマンチストで、信仰心豊か。
重要なので何回も書きます
伊都国王が女王卑弥呼である事を踏まえて魏志倭人伝を読むと内容が矛盾無く理解出来ます。
「丗有王 皆統屬女王國」
「魏の時代に、伊都国には女王卑弥呼がいた、倭の国々は皆、女王国に従属していた。」
「自女王國以北 特置一大率檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
「女王卑弥呼は女王国より北には、特に一大率を置いて諸国を検察させていた。諸国はこれを恐れはばかっていた。女王卑弥呼は常に伊都国で一大率を使い諸国を治めていた。一大率は(魏)国中に於ける刺史のようであった。」
この様に伊都国王が女王卑弥呼である事を踏まえると、訳の内容が全く変わるのです。
>>179 読み違い。女王国は邪馬台国のこと。
「女王」とは「女王の影響力が及ぶ30国」のこと。
つまり、8国+22国=30国を記述したのち、
「此処(以上30国)で女王の境界が尽きる」、と言っている。
(補注:華奴蘇奴国は、華奴国と蘇奴国を合わせて書いたもの、これを2国と見る)
高天原の神々への信仰というのは邪馬台国つまりヤマト王権の公式なものであって、庶民階級の信仰は若干これとはー違っていたのではないかと思う
銅鐸の神は何か。オレは今でいうエビス神に関わりがあるかもしれないと推測する
エビスというのは異邦人の意味だ。
折口信夫が言うように異世界つまり海の向こうの常世の国から来訪してくる神だったのだろう
エビスは記紀に登場しない神だが、その信仰は根深く今でも続いている
客人の神こそが庶民にとって一番身近な神だった
恵比寿大黒つまりエビスとオオナムチの信仰が上古の基層的な信仰で、高天原の神々は銅鏡文化人の崇拝する高級すぎる神だったのだろう
現代の日本で正月に子供に渡すお年玉と言う習慣も、元は12月23日の冬至の日に福を持って来訪してくる歳神に供えられた餅の事であった
外国人が日本人のクリスマスを不思議に見ているようだが、これも歳神迎えが変形した一形態なのかもしれない
西宮神社では恵比寿神は耳が遠いので壁をドンドン叩いて祈願するという不思議な習慣がある
恵比寿神は耳が遠いという伝説は古くから日本各地に伝わっており、西宮神社だけの話ではないようだ
神社というものがない時代、耳の遠い来訪神に祈願するためには壁がないのだから、楽器で音を鳴らさねばならなかったろう
銅鐸は耳の遠い来訪神に祈願するためのものでは無かったと思う
「率川阿波神社」の末社が、住吉神社と春日神社。
奈良市最古の恵比須社「率川阿波神社」が何故に「阿波國」から勧請されなければならなかったのか。
「事代主神」ならば、大阪市浪速区の「今宮戎神社」等が勧請元でなければならないのに、なぜか「阿波國」。
そして社殿前の立て札(御由緒)には「大物主大神の御子神」であると説明されている。
ならば「大物主大神」と「事代主神」は阿波にいたと言わざるを得ない。 @阿波
よし、令和の正解だ
平原女王墓が卑弥呼
帯方郡から、水行二十日<到狗邪韓国>→水行十日→陸行一日<到伊都国>で、平原女王墓。
南の狗奴国は免田式土器領域
東の拘奴国は四隅突出型領域
http://2chb.net/r/archeology/1700151864/37 楽浪郡の公孫康が卑弥呼を共立し、帯方郡が引き継いだので
平原は公孫氏の支配下にはいった。
[魏志 韓伝]
後漢最後の献帝の建安年間(196〜219)、公孫康が楽浪郡の屯有県以南の荒地を分けて帯方郡と為した。
公孫模等を遣して、遺民を集めて兵を興し、韓や濊を伐ったので、元の楽浪郡民が少しずつ戻ってきた。
この後、倭と韓はついに帯方郡に属した。
鉄器王国「阿波」内で、鉄器を自前で自由に製作していた国々は、
紀元前108年頃には、前漢武帝に朝貢していたよ。 @阿波
[魏志 韓伝]・・修正
桓末〜霊末の間(167-189)、韓(楽浪郡南の馬韓等)、濊(楽浪郡東の国)が強盛になり、
郡・県は制御できず、郡県民の馬韓等への流出が増えた。
後漢最後の献帝の建安年間(196〜219)、公孫康が楽浪郡の南の荒地を分けて帯方郡を為すと共に、
公孫模や張敞等を遣して韓や濊を伐ったので、旧民が少しずつ戻ってきた。
この後、倭と韓はついに帯方郡に属した。
つまり、桓末〜霊末に馬韓等の武装難民が多数渡来して倭国大乱になり、邪馬台国などの馬系国を建てた。
これを楽浪郡の公孫康(196〜)が高千穂に卑弥呼を共立して治め、帯方郡(204〜)に引き継いだ?
→ 南至の投馬国、(自郡至)水行20日
これは、郡→末盧国まで1万里を水行10日、末盧国→投馬国を九州西岸〜薩摩回りで約1万里の10日。
→ 復南至の邪馬台国女王之所都、(自郡至)水行10日陸行1月。
これは、郡→末盧国まで1万里を水行10日、末盧国→阿蘇女王之所都まで2000里を陸行1月。
白村江敗退後、唐進駐軍の報復を恐れた藤原不比等は、我が皇統は熊襲の女酋卑弥呼如きに関わりなし、
まして前660年来の皇統版図の博多湾岸を、魏郡使や卑弥呼使が往来したり、駐屯したりはあり得ず、
おそらく、倭人条に云う唐津東南の佐賀の間道を通行して拝仮倭王・・との趣旨で日本書紀を編纂した。
それを1000年後の本居氏や白鳥氏が読み切れず、魏使は博多湾岸を経て南女酋之都に到ったと誤って論じた。
内藤湖南も皇国自生説:
>余(内藤湖南)が考定せる倭國の使人田道間守(難升米)と、此れ以外の諸人(都市牛利ら)も、
>皆但馬、出雲より出でし人物たることなり。
>此の二國(但馬出雲)の朝廷服屬は、始めて大和朝廷の海外交通を容易ならしめて、
>更に任那の服屬を導きたる者なるべし。
>魏志の記事は任那服屬の後なるべきこと・・、
そもそも皇国が先にあって論じているから、支那の云う方角や里数は完全無視になる、今の畿内説も同じ。
[魏志韓伝 馬韓条]
「(馬韓に大首長の)臣智あり、その官に、魏・率善邑君、帰義侯、中郎将、都尉、伯長あり・・」
解 説:
馬韓の官には、率善邑君以下、魏の官位が授けられていました。
王は存在せず、魏の支配力が、格段に強くなっているようです。
(注1:倭人伝の各国も、邪馬台国女王の他に王なく、官のみ)
(注2:難升米も率善中郎将の官位を授けられ、魏の支配が一段と進んだことを表している)
>中原世界では、黄海、は東海と表現し、楽浪大海中に倭人ありと表現するように、
つまり「東夷王は大海を渡り」とは倭王を意味し「珍しい品々」も倭国の代名詞。
それくらい倭王とは「東夷王」と表現されるほど東夷世界で一目置かれた存在。
だからこの後すぐ 西暦57年「漢委奴国王」の金印を贈られた。
王莽(前45〜23)は、前漢の政治家でしたが、権力を握り、漢の高祖の霊より
禅譲を受けたとして、漢に代わり「新」王朝(8〜23)の皇帝に即位しました。
地球地軸の首振り歳差運動で、
三世紀当時の北極星は、真北より西へ12〜13度ほど振れていた。
依って、倭人伝の東西南北は、
グーグルマップを西へ12〜13度ほど傾けて読めば、今の方角と良く一致する。
倭人伝
01 倭人 在 帯方 東南 大海之中 依山島 為國邑 旧百餘國 漢時 有 朝見者
02 今 使 譯 所通 三十國 從 郡至倭
倭人伝は、この後の
魏時に帯方郡から送られた二人の遣使の記録の引用で始まる。
247年張政
65 其八年 太守王頎到官
66 倭 女王卑弥呼 與狗奴國 男王卑弥弓呼 素不和 遣倭 載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状
67 遣 塞曹掾史張政等 因 齎詔書 黄幢 拝假 難升米 為檄告喩之
と
240年梯儁
60 正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書 印綬 詣倭国 拝仮倭王
61 并齎詔賜 金帛錦罽刀鏡采物 倭王 因 使 上表 答 謝 詔 恩
であるが、陳寿は記録を単純に引用したようで
この二人の報告書の引用文は、明らかに筆致が違う。
247年張政は、遣倭 載斯烏越等の帰国船で来日した。
・倭人船の寄港地の倭名を漢字にしてその間の里程を記した。
・官の卑奴母離は原則乗船していて宿泊地も同行している。
・人口については、有○○戸または家で示した。
・全行程は海行10000里、陸行500里の伊都迄で1万5百里である。
奴國 百里 不彌國 百里 は伊都から見えた?か隣国で国境までの距離
奴国は有2万戸なので縦横だけでも100里どころではないはず。
・行程に関して至と到を使い分けている。
240年梯儁は、倭に至る行程よりも、女王国の国勢を紹介している。
・卑弥呼の初朝貢の返礼で金印を卑弥呼の王宮まで届けた船団の軍人。
・韓西岸から対馬海峡〜女王宮迄は公孫氏戦以降、魏軍の初探検。
・半島南部の韓はまだ敵地なので寄港地は宿営で地名は無いので里程も書けない。
・兵站調達も含めて、行軍の日数を記した。 この全行程は萬二千里である。
・人口には、可○○戸で、到と至の使い分けは無い。
247年張政の行程
03 循海岸 水行 歴韓国 乍南乍東 到 其北岸 狗邪韓國 七千餘里
04 始度 一海 千餘里 至 對海國 其 大官日 卑狗 副日 卑奴母離
05 所居 絶島 方可 四百餘里 土地 山險 多深林 道路 如禽鹿徑
06 有千餘戸 無良田 食海物 自活乗船 南北市糴
07 又 南 渡 一海 千餘里 名日 瀚海 至 一大國 官亦日 卑狗 副日 卑奴母離 方可三百里
08 多竹木 叢林 有三千許家 差有 田地耕田 猶不足食 亦南北市糴
09 又 渡 一海 千餘里 至 末盧國 有四千餘戸
10 浜山海居 草木茂盛 行 不見前人 好捕魚鰒 水無深浅 皆 沈没 取之
11 東南 陸行 五百里 到 伊都國 有千餘戸 官日 爾支 日 泄謨觚 柄渠觚
12 丗有王皆統属女王國 郡使 往来 常所駐
13 東南 至奴國 百里 官日 兕馬觚 副日 卑奴母離 有二萬餘戸
14 東行 至不彌國 百里 官日 多模 副日 卑奴母離 有千餘家
240年梯儁 女王国の国勢の報告
15 南至 投馬國 水行二十日 官日 彌彌 副日 彌彌那利 可五萬餘戸
16 南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
17 官有 伊支馬 次日 彌馬升 次日 彌馬獲支 次日 奴佳鞮 可七萬餘戸
18 自 女王国 以北 其 戸數 道里 可得略載 其 餘旁國 遠絶 不可得詳
19 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國
次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國
20 此 女王 境界 所盡
21 其南 有 狗奴國 男子為王 其官有 狗古智卑狗 不属女王
22 自郡 至 女王國 萬二千餘里
・18と22は、陳寿による補足説明
・次有列記21国は女王所属国名の和名を参問して梯儁が漢字にした。
56 参問 倭地 絶在 海中 洲島之上 或絶 或連 周旋可 五千餘里
・女王宮の様子
52 自為王 以来少有見者 以婢千人自侍 唯有 男子一人 給飲食 伝辞 出入 居虚宮室
53 楼観 城柵 厳設 常有 人持兵 守衛
・官、伊支馬は壱岐の馬 彌馬升 彌馬獲支は次有邪馬國の升 、獲支 奴佳鞮は奴国の佳鞮
・邪馬台国は、梯儁による女王国21国7万戸の仮称。投馬国は弁辰韓24国5万戸の仮称である。
歴史板九州説も復活してんの気付かないで
畿内説に行っちゃってたw おめ。
再録
中国史の謎、一月行は
倭人伝の陳寿によって暴露されている。
漢書地理志 東南アジアだが徐聞は海南島辺
自 日南 障塞 徐聞 合浦 船行 可 五月 有 都元國
又 船行 可 四月 有 邑盧沒國
又 船行 可 二十餘日 有 ェ離國 步行 可 十餘日 有 夫甘都盧國
自 夫甘都盧國 船行 可 二月餘 有 黄支國 (中略)
自 黄支船行 可 八月 到 皮宗 船行 可 八月 到 日南 象林界 云
黄支 之 南 有 已程不國 漢 之 譯使 自 此 還 矣
他に、京畿湾〜済州島が3月行
遣隋使、裴世清 日本の領土
南北3月行、九州南北
東西5月行、奈良の東山の向こうは毛人国
倭人伝 去女王 四千餘里 又有 裸國
畿内説では、去女王が、無理ですがw
1月行は辺境の地図上の2千里です。
ちなみに
裸國〜黒齒國 在 其東南 船行一年可至
2万4千里に小笠原、まさかね!
>>200 >倭人伝 去女王 四千餘里 又有 裸國
>裸國〜黒齒國 在 其東南 船行一年可至
女王(倭国)を去る4000余里と云えば近畿地方になる、
その東南と云えば、紀伊半島→伊豆半島から島伝いくだって1年、小笠原だと思うよ。
>>201 文脈で、
54 女王國 東渡海 千餘里 復有國 皆倭種
55 又有 侏儒國 在 其南 人長三四尺 去女王 四千餘里 又有 裸國 黒齒國 在 其東南 船行一年可至
56 参問 倭地 絶在 海中 洲島之上 或絶 或連 周旋可 五千餘里
女王国は倭国。倭国から東渡海 どこ?
侏儒國 在 其南 人長三四尺は、四国?
女王国が倭国なら去女王 四千餘里に陸は無い。
邪馬台国は女王国の都ではない。
上の文脈には船行一年可至のような広大な倭国の中で、
参問した女王の邪馬台国21国7万戸が
洲島之上 で周旋可 五千餘里 しかない小国だった。
と書いてある。
>>196 磁気偏角も加えると30度はズレていたと思います、北海道は現在でも10度ズレていますからね。
>>201
>女王(倭国)を去る4000余里と云えば近畿地方になる、
違う。
侏儒国=神津島(女王国「阿波」から直線距離 約400km 四千余里 ∴一里=100m @阿波 >>203 磁気偏角・・・天の真の北と、磁石が示す北との偏角
歳差偏角・・・天の真の北と、北極星が示す北との偏角、
この2つは別物で合計は出来ない
>>202 倭人伝の場合、30国による共立記事の後に書かれているので、
女王国の東は、共立女王国=倭30国であることは明らか。
だから、太平御覧倭人伝では、倭国東渡海千余里・・と書き改められている。
依って此文は、中津〜宇佐あたりから見た本州・四国・近畿だね。
中津〜宇佐あたりから近畿までは4000里、船行1年は小笠原と見てよい。
倭国が四国まで含んでいたの阿波説や、近畿まで含んでいた畿内説では当然別の解釈になる。
>>206
>倭国が四国まで含んでいたの阿波説
違う。
「卑彌呼」・「壹與」時代の倭国は、せいぜい「邪馬臺国(粟国)」+「狗奴国(長国)」+東部讃岐+南部淡路島 程度だろう。 @阿波 神湊〜中津〜阿波説は、私が少年時代に熱を上げた説ですが、
今は佐賀〜高千穂説になりました。
まだ阿波氏もお若いようですが、年を取れば、それなりに陳寿の文章の裏側が読めるようになります。
しっかり勉強を続けてくださいね。
>>208
>今は佐賀~高千穂説になりました。
落ちるとこまで落ちたな。 @阿波 そうですね、
もうこれ以上落ちる心配はないので、一安心していますよ。
それにしても卑弥呼ちゃんは素晴らしいロケーションに住まいしていたのですね。
北は祖母山に守られ、東・西と南は、五ヶ瀬川が刻み込んだ最大深さ150m、
延長25qもの断崖渓谷で守られています。
三輪山を含む桜井市とほぼ同じ面積の天然の大要塞ですよ。こんな楽園に都を構えていたのですね!
>>210
海の恵みを一切得られない、そんな山奥が発展する要素が皆無な所によくぞ、落ちたな。 @阿波 邪馬台国は女王共立国で21国だが、
国の形としては市町村のような面ではなく
点の集落を想定している。
参問 倭地 絶在 海中 洲島之上 或絶 或連 周旋可 五千餘里
奴国の2万戸のようなのはこの 或連 で、集合体なのだろう。
現代地名で比定を試みたことも有るが…
吉武高木 平原 三雲南小路 板付 野方 須玖岡本 今宿五郎江 吉野ヶ里
のような、21国だったであろうと想像する。
周旋可 五千餘里 として、糸島博多福岡筑紫平野で
瀬戸内海方面、小倉〜中津〜宇佐、
西岸方面、平戸〜佐世保〜長崎〜天草
方面は含まないと思う。
これらの海人ルート、日本海ルートも有り、
壱岐、対馬も中立で、卑弥呼の所有では無いと思う。
30国の場合には、概念の違う邪馬台国21国、投馬国24国、
狗邪韓國(韓)末盧國(港)伊都國(都)不彌國(?)奴国
が、共立王国21国以外で、入っている。
弥生国21国の、周旋可 五千餘里は、九州北部である。
卑弥呼は、梯儁が参問して漢字にした21国の
次有邪馬國の 臺=楼閣 に住んでいた。
邪馬台国は、魏時の初探検者、梯儁による仮称である。
九州島のほぼど真ん中ですね。
土地が肥え、川の恵み、山の恵みもありました。
又、廣志には、山に憑き、海を負い、馬臺を鎮め、国を建てる・・、とあります。
有明海沿岸も領地で、ワカメも貝も塩も、必要なだけ手に入ったのでしょう。
>>213
海や大河のない地所に一大文明が興ったためしがない。 @阿波 南海トラフ大地震の津波に飲み込まれる地所に、一大文明が興ったためしがありませんね。
>>213 廣志曰
倭國 東南 陸行 五百里 到 伊都國 又 南 至 邪馬嘉国
百女国 以北 其 戸數 道里 可得 略載
廣志で、参照したのは
邪馬嘉国 臺は引用元の梯儁が報告書で使用したが
魏では曹操の高楼を意味し公開文書では使用しなかった。
陳寿は邪馬 壹 にしたが、郭義恭の 嘉 でも
良かったのだろう、というところw
百女国 は、小国の女王を貶めて使ったかもしれない。
郭義恭は陳寿と違い引用を直接的な引用ではなく
かなり噛み砕いて記述している。
到、至の用法の区別も、張政と梯儁が混ざってる。
以北 其 戸數 道里 可得 略載
は、時系列で梯儁の文では無いので、
陳寿の補足文と思うが、既に東夷伝を読んでいるか?
(廣志には戸数略載が有るか?)
書き忘れちゃったけど、重要なんで…
>廣志で、参照したのは
邪馬嘉国 臺は引用元の梯儁が報告書で使用したが
魏では曹操の高楼を意味し公開文書では使用しなかった。
陳寿は邪馬 壹 にしたが、郭義恭の 嘉 でも
良かったのだろう、というところw
つまり、
邪馬台国は和音の国名を漢字化したのではなく
梯儁が和音を漢字にした、邪馬国に 卑弥呼の臺 を見た。
それを表意文字で、女王国=邪馬臺国 と仮称した、という事。
>>215
倭国(阿波)にとって、津波なんて慣れたもんだ。 津波にビビる海を見たことがない山んど。 @阿波 いつも云うことがみみっちい少年ですね。大人になってから苦労しますよ。
今のうちに直しておきましょうね、
阿波の少年よ、大志を抱け・・、
>>219
海の恵みを一切得られない、九州の山奥で発展する見込みが全く無い所には落ちたくないものだ。 @阿波 倭人伝では、行程以降は、風俗産物など倭の紹介だが
その後にも、247張政、240梯儁の報告文の記載がある。
247年、張政の見た伊都
47 使 大倭 監之 自女王國 以北特置 一大率 檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於 國中有 如刺史
48 王 遣使 詣 京都 帶方郡 諸韓國 及 郡使 倭國 皆 臨津 捜露 傳送文書 賜遺之物 詣 女王 不得差錯
49 下戸 與 大人 相逢道路 逡巡入草 傳辞説事 或蹲或跪 兩手據地 為之恭敬 對應 聲曰 噫比 如然諾
女王国より北では、伊都に一大卒が置かれて、諸国を検察し諸国はこれを畏憚する。
中国に於ける刺史のようなものである。使は(女王国の上位にある)大倭国の存在を見た。
(一大卒は)王が洛陽や帯方郡に使いを出す時、及び韓諸国や郡の使者が倭国に来る時は
港で傳送文書や女王への賜遺之物迄、全て検閲を受け例外は無い。
身分の下位の者が上位と道で会うと脇の草むらに避けて跪き手をついて恭敬の礼をする。
上位の者は、だだ、ああ、と言って承諾する。
(これは前述の一般的倭人の上下関係と違い非常に厳しい上下関係である)
張政は245〜6年の韓制圧戦に出兵しなかった女王国の視察に来た。
因 齎詔書 黄幢 拝假 難升米 為 檄告喩之 /以 檄告喩 壹與
12 丗有王皆統属女王國 郡使 往来 常所駐
女王に所属する30国の王は皆伊都を往来していたので
郡使の常駐した伊都で、すべての用事は完了した。
この報告で、魏と女王国の国交は247年で終っている。外交史につづく
240年、梯儁の見た卑弥呼の王宮と歴史
50 其國 本亦 以男子 為王 住七八十年 倭國 乱 相攻 歴年 乃 共立 一女子 為王
51 名日 卑弥呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國
52 自為王 以来少有見者 以婢千人自侍 唯有 男子一人 給飲食 伝辞 出入 居虚宮室
53 楼観 城柵 厳設 常有 人持兵 守衛
梯儁は女王に金印を届け、女王国について参問、国勢を調査して帰った。
魏と女王国との外交史
60 正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書 印綬 詣倭国 拝仮倭王
61 并齎詔賜 金帛錦罽刀鏡采物 倭王 因 使 上表 答 謝 詔 恩
62 其四年 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪拘等八人
63 上獻生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹木拊短弓矢 掖邪狗等 壱拝 率善中郎將 印綬
64 其六年 詔賜 倭難升米 黄幢 付郡 假授
65 其八年 太守王頎到官
66 倭 女王卑弥呼 與狗奴國 男王卑弥弓呼 素不和 遣倭 載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状
67 遣 塞曹掾史張政等 因 齎詔書 黄幢 拝假 難升米 為檄告喩之
68 卑弥呼 以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者 奴婢 百餘人
69 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時 殺千餘人
70 復立 卑弥呼宗女 壹與 年十三 為王 國中遂定
71 政等 以 檄告喩 壹與
72 壹與 遣倭大夫 率善中郎將 掖邪拘 等二十人 送政等還 因詣臺
73 獻上 男女生口三十人 貢 白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹
247年、これで倭人伝は終わるが、
魏は265年まで有り三国志は280年まで終わらない。
247年は、わざわざ張政を送還したわけだし、
壹與の朝貢でもあり、皇帝の自慢の返礼が無いのは有り得ない。
魏の実権は曹家から司馬氏に移ったタイミングではあるが
前出、張政の報告で、女王国の実際は軍人司馬氏に見透かされたと考える。
吉野ヶ里の「南至邪馬台国女王之所都」は阿蘇高千穂。
では、その道は、
吉野ヶ里→南の千代田町の渡し→(有明海の満潮逆潮に乗って対岸の)→城島へ。
城島から→(県道15号線)→八女福島経由、南→(国道3号線、県道4号線)→山鹿(耶馬嘉)へ、
そこから→(国道325号線)→菊池市→大津町→高森町を経て高千穂・三田井へ
地球地軸の首振り歳差運動で、三世紀の北極星は、グーグルマップの北より西へ13度ほど振れていた。
つまり当時の南は、現在の南南東に近い。
240年の倭王は奈良に居なければならない
という、君たちの話と
239年に公孫氏を滅ぼした魏が
238年に朝貢した日本の女王と友好を結んだ?
魏は246年に韓王朝も滅ぼした。
次は日本だが?
卑弥呼さんはどっちに着くのかな?
倭人伝は247年で終る。
つまり、卑弥呼の国は
魏ではなく、日本に着いた。
大和朝廷成立の礎の歴史なんだが?
邪馬台国論争と言うのは、併合しちゃった戦後の
半島忖度でホントの事言えなかったのか?
>>225 韓が魏に滅ぼされたのは調略に失敗して自滅しただけに思えるが?
>>225 >魏は246年に韓王朝も滅ぼした。
魏志韓伝によれば、帯方郡が出来たことで、倭と韓はついに帯方に属したとあるんだが・・、
>>227 魏には、公孫氏が楽浪で韓や倭の朝貢を遮断して
帯方の成立前後の状況は、理解し得ないんだが?
韓も倭も、公孫氏とはBC200年から
青銅輸入で友好的交流だったが、
帯方郡が出来た頃なら、
まだ、魏が239年に公孫氏を討つ事は知らない。
卑弥呼朝貢の238年は
既に、公孫氏を追った魏は
韓や倭からも敵国なのである。
卑弥呼は取り込まれなかったので
247年の、魏との国交断絶が有り
その後の牛馬移入と鉄器生産の対高句麗戦
半島進出から百済新羅の独立、金石七支刀、
400年以降の倭の五王時代が到来する。
歴史の話だろ?
>>228 漢帝国滅ぼした魏が敵になるとかお花畑か?
勝てない戦しないようにうまく立ち回れる頭があるから卑弥呼が共立されてたんだろう
どこの朝鮮幼稚園だよ?
日本は会稽東治の東から
高句麗追った沿海州の北の東臨大海
の向こうよりも北まである大国だぞ?
帯方郡の南の小国の女王
が倭王だとでも思ってるのか?
琉球から樺太で中華よりでかいんだよ。
古代なら、百済新羅もだけど
日清戦争で中華属国奴隷から
解放独立させてもらったろ?
タコ、コラ!
公孫氏は後漢〜魏の忠実な代理人だった。
2代目公孫康は曹操から、東夷征伐の大将軍に取り立てられているほどだ。
魏に背いて倭韓を遮断したというのは、4代目公孫淵の最後の数年間だけ。
代理人だから帯方郡で全て処理されてしまい
本国まで朝貢の施設が届かなかっただろうな
黄巾の乱以降、中華は動乱の真っ只中でそれどころじゃないし
公孫氏は任されていたんだから、それでいいんだよ。
しかも卑弥呼は、反乱者・公孫淵には従わず、魏への忠義を尽くした形になった
232
三国志の時代からの三百年は中華戦国時代だからな
公孫淵は魏に従わず独立国家作ろうとして殺された
中央政府とは違う短里を用い中央政府を真似たミニ政府組織を東夷に作ろうとしていたんだ。
>>235 里数を五倍に盛って大きいんだぞと見せかけようとしたのか
[九州高千穂の要塞宮の戦略的有利性]
九州島はウミガメの甲羅のようなこんもりした地形です。
背の中央はなだらかで、北端の飯塚から、高千穂を経て南端の霧島市まで、
国道(211号線→212号線→256号線→223号線)が走っています。
これは古代の獣道から発展した九州縦断の幹線道路なのでしょう。
高千穂は丁度この中間点にあります。
<つづき>
この幹線からはあばら骨のように、各県、各都市、各邑へ枝道が下っています。
橋の無かった古代、大河に阻まれて沿岸部の通行は極めて困難でした。
しかし中央幹線とあばら骨支線を使えば、高千穂の宮から九州全土へ、3-4日で伝令が到達できました。
常に吉野川に阻まれる阿波とは違い、高千穂には天然の超戦略的有利性が備わっていたのです。
海の恵みを一切得られない九州の山奥に、夢を見続ける救いようのないアホ。 @阿波
洛陽も長安も海から遠い。
いつも服のボタンを掛け違える阿波のアホ。
>>241
>洛陽も長安も海から遠い。
だから? @阿波 古今東西、海や大河のほとりに一大文明が興る。
海の恵みを一切得られない九州の山奥に、夢を見続ける救いようのないアホ。 @阿波
日田は筑紫次郎筑後川沿いの倭国の要所
天皇が移り住んだのは吉野山
阿波の国と衆民を南北に切断したのは吉野川
>>247
>阿波の国と衆民を南北に切断したのは吉野川
それを統一したのが、いわゆる「神武東征」 @阿波 >>248 ほう、神武は吉野川に橋を架けたのか、そりゃだいぶ後世のことだな
>>249
さすがに神武でも橋は架けられん。
船戸~岩津を、神武軍も「天の磐船」で渡河したのだろう。 @阿波 阿蘇・高千穂には、天然の超戦略的有利性が備わっていました。
北は祖母山が守護神で、東・西・南は、五ヶ瀬川が刻み込んだ最大深さ150m、
総延長25qもの断崖渓谷で守られています。
なんと、三輪山を含む桜井市とほぼ同じ面積の天然の大要塞なのです。
依って縄文〜弥生の昔から、幾多の王国が興り、衰退し、また興り、を繰り返してきました。
紀元前には、天照大神と日向三代の高天原王朝もありました。
紀元後には、土蜘蛛女王の卑弥呼が馬台(三田井)を鎮め、国を建て、宮殿城柵を厳設したそうです。
ここは万年の歴史の地なのでせう。
>>251
古今東西、海や大河のほとりに一大文明が興る。
海の恵みを一切得られない九州の山奥に、夢を見続ける救いようのないアホ。 @阿波 最近の阿波は、叩かれ放題、防戦一方になったねえ。
もう終末だ・・、
>>255
と、真逆のことを言いたくなる気持ちも理解できる。 @阿波 帯方郡の支配地は馬韓等の三韓でしたが、神功皇后は、その三韓に攻め入っています。
つまり、魏の郡使が糸島や博多や宇瀰を通行することはありませんでした。
皇統は、馬韓や(後裔の)百済とは長年敵対してきましたから・・、と不比等は書いたのです。
7世紀、唐の進駐軍2000名を念頭に、白村江へ攻め上った倭軍の正体は、
皇統偽僭の九州女酋を戴いた馬韓再興の百済軍でしたと、言い訳したのです。
中華史書の「末盧国東南伊都国」を軽んじて、神功皇后の後を追いかけ、
北東の怡土や儺縣に向かったのは、不比等を読めなかった本居氏以来の軽率。
不比等は、神功皇后を帯方郡や三韓に立ち向かった英雄女傑として、描いているのです。
中国人がやまと言葉で意味が分かるように翻訳するわけないしなw
字(あざな)ってのは意味が通るようにその人らが行うものだからよ
日本人ならやまと言葉で翻訳しようとしても不思議ではない
ネトウヨは九州説だよな
アイヌ民族が日本の先住民ではないと言っている差別主義者は畿内説に猛反発している
常にネトウヨの逆が真だからな
>>257 三韓と百済新羅高句麗って枠組みが全然違うのにね。
馬韓→百済、辰韓→新羅とか思ってる奴が多いこと。
三韓は楽浪帯方の南馬韓辰韓弁韓だが
313年楽浪帯方は撤退、高句麗侵攻。
これによって台頭したのは実は倭人。
350年高句麗王は幽州刺史楽浪候就任。
南北朝で中国勢力が衰えて、370年
百済、新羅建国の背景は日本の進出。
これによって、
牛馬、製鉄の生産が国内化する。
対高句麗戦=半島利権交渉が
400年~500年の倭の五王である。
この半島進出の歴史背景が卑弥呼の
朝貢で魏晋にへつらう日本を喧伝する
自虐史観が、邪馬台国論争だろ?
238~247年三国志晒しの九州女囚だ。
なにがネトウヨだよ。歴史の話だよ。
ネトウヨ用語を使いながら何がネトウヨだよってギャグのつもり?
久しぶりに透明じゃない方のNGワードが作動して何事かと思ったわ
倭人伝が陳寿による古文献の寄せ集めという者が有るが
その為か?ミスリードの現代語訳が多い。
02 今 使 譯 所通 三十國 從 郡至倭 から
22 自郡 至 女王國 萬二千餘里 までは
いわゆる、行程部分の時制は、今=魏時であって
247年、倭人船で来日した張政の伊都迄の里程行程と
240年、梯儁が卑弥呼に金印を届けた際の二回の使の報告書の引用である。
陳寿はこれを並べて、漢字化された和音の文字を正確に引用している。
二人の筆致に明らかな違いが有るし、
時差の理解で、どこが陳寿が補足した説明かも判明する。
これを踏まえずに、文献を理解しようとすることに無理がある。
>197〜200参照
使による譯=説明で 所通は 三十國。使の説明に從ると 郡から至倭の行程は
03 循海岸 水行 歴韓国 乍南乍東 到 其北岸 狗邪韓國 七千餘里
歴韓国 韓を(4千里で)通過したら乍すぐ南ですぐ東転し到 其北岸 狗邪韓國 七千餘里
倭人船は韓を通過した後は、自国語が通じる港に立ち寄ったと想像できる。
韓制圧後247年時点でも魏は韓南岸は十分に知っていたとは言えない。
半島侵攻直後で初探検の240年梯儁は弁辰韓を馬韓を過ぎた投馬国と仮称したが、
247年の張政は(弁辰)狗邪国は韓の倭人地域国と認識した。
これ重要だから、( ..)φメモメモ
15 南至 投馬國 水行二十日 官日 彌彌 副日 彌彌那利 可五萬餘戸
16 南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
17 官有 伊支馬 次日 彌馬升 次日 彌馬獲支 次日 奴佳鞮 可七萬餘戸
19 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國
次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國
20 此 女王 境界 所盡
21 其南 有 狗奴國 男子為王 其官有 狗古智卑狗 不属女王
22 自郡 至 女王國 萬二千餘里
18 自 女王国 以北 其 戸數 道里 可得略載 其 餘旁國 遠絶 不可得詳
240年梯儁による、金印女王国の地理、国勢の報告である。
18は陳寿の補足説明だが文が判りにくくなるので末尾にした。
21国は、邪馬台国の構成国でなければ話にならない。
この参問21国が、
56 参問 倭地 絶在 海中 洲島之上 或絶 或連 周旋可 五千餘里
に収まる、女王卑弥呼の共立国である。
以北 其 戸數 道里 可得略載 は道里の有る247年の倭人ルート国
其 餘旁國 遠絶 不可得詳 は、九州人に聞いても名前も知らない
女王國 東渡海 千餘里 復有國 皆倭種である。
54 女王國 東渡海 千餘里 復有國 皆倭種
55 又有 侏儒國 在 其南 人長三四尺 去女王 四千餘里 又有 裸國 黒齒國 在 其東南 船行一年可至
56 参問 倭地 絶在 海中 洲島之上 或絶 或連 周旋可 五千餘里
は陳寿のまとめで、
周旋可 五千餘里の小倭国=女王国、大倭=未知の大日本列島なのである。
東夷伝序文 東臨 大海 長老説 有異面之人 近 日之所出
遂 周觀 諸國 采 其 法俗 小大區別 各有 名號 可得 詳紀
>>267
22 自郡 至 女王國 萬二千餘里は、行程とは別項目だから無関係。
万二千余里から引き算するトンデモ説は、「邪馬臺国」論争から退場するべき。 @阿波 >>266 02 今 使 譯 所通 三十國 從 郡至倭 から
22 自郡 至 女王國 萬二千餘里 までは
いわゆる、行程部分の時制は、今=魏時であって
ここは倭人伝の前段で、卑弥呼共立の直前の後漢時点として書かれている。
依って卑弥呼=邪馬台国女王。
この後、後段に入るところで卑弥呼共立の記事がある。
ここから共立後の記述になり、卑弥呼=倭30国の女王=倭王を経て、
景初2年12月から親魏倭王となる。
依って、240年梯儁や247年の張政は、いうまでもなく親魏倭王即位後のこと。
>>269
22 自郡 至 女王國 萬二千餘里は、行程とは別項目だから無関係。
万二千余里から引き算するトンデモ説は、「邪馬臺国」論争から退場するべき。 @阿波 >>267 >18は陳寿の補足説明だが文が判りにくくなるので末尾にした。
よけい分かりにくくなりました。自分勝手に竹簡を入れ替えしてはいけませんよ。
>>269 今 使 譯 所通 三十國 從 郡至倭
今=魏時 (二回の)使に從る説明で倭に至るには
以下行程。
が、なんで、直前の後漢時点?
卑弥呼=邪馬台国女王は、その通り。
50 其國 本亦 以男子 為王 住七八十年 倭國 乱 相攻 歴年 乃 共立 一女子 為王
51 名日 卑弥呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國
52 自為王 以来少有見者 以婢千人自侍 唯有 男子一人 給飲食 伝辞 出入 居虚宮室
53 楼観 城柵 厳設 常有 人持兵 守衛
は、女王宮に金印を届けた240年梯儁の報告の内容
47 使 大倭 監之 自女王國 以北特置 一大率 檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於 國中有 如刺史
48 王 遣使 詣 京都 帶方郡 諸韓國 及 郡使 倭國 皆 臨津 捜露 傳送文書 賜遺之物 詣 女王 不得差錯
49 下戸 與 大人 相逢道路 逡巡入草 傳辞説事 或蹲或跪 兩手據地 為之恭敬 對應 聲曰 噫比 如然諾
が、247年張政の常駐した伊都の報告
で、54から陳寿のまとめ。参問 倭地。
>>270 小学生程度の引き算が出来ないトンデモ説は、「邪馬臺国」論争から退場するべき。
古代王国は、必ず川上に置かれた。
佐賀川上の伊都国、阿蘇高千穂の女王の都の如くだ。
というのは川上では、小さな流れに木を渡して水洗に使う風習があった。
で、アレはドンブラコ、ドンブラコと流れて川下の東徳島へ溜り、美味しい米を育てた。
奴の徳島商工会も、長年のアレが溜まって繁栄してきたのだよ。、
>>273
行程里数を足したり引いたりするのは、ここの低レベルのトンデモどもだけ。
古今東西、行程里数を足したり引いたりする歴史書などどこにも存在しません。 @阿波 >>272 >今=魏時 (二回の)使に從る説明で倭に至るには
>以下行程。
>が、なんで、直前の後漢時点?
あのね、歴史書は歴史順に記事を並べるのが基本中の基本。
例外の場合は、昔・・・、のように時代が違うことを明記するんだよ。
つまり行程記事は倭人伝の冒頭に有り、しかも卑弥呼=邪馬台国時代で、明白に共立の前。
だから、220年の魏成立以前の後漢時代の事項として書かれている。
なお魏代なら年号が入るが、後漢や晋の時代のことには年号が入っていない。
なんたって、そもそもが「魏志・倭人条」なんだからね・・、
時制の話をしたのでもう一つ、ミスリードの原因と言うか
読めてる人がいないのでは? と思われる一文。
12 丗有王皆統属女王國 郡使 往来 常所駐
247年張政の行程で、伊都に到達した際の紹介だが、
世有王、こんな文章を書く中国人は居ない。
世は、その時の王の時世治世を言う表意文字。魏の王は曹家。
ま〜た、無理くり世世の間違いとかw、
辺境国の伊都には卑弥呼に所属する諸国の王が往来していた。
だから、為檄告喩之に来た張政は伊都常駐で用事が済んだのである。
魏時の郡使は伊都に一度しか来ていないので往来しない。
丗有王皆統属女王國/往来
郡使/常所駐
でなければならず、
この文は
南至 邪馬壹國 /水行十日 九州は船で上陸
女王之所都/陸行一月 女王宮まで徒歩
と同様の二重主語。
丗有は有り得ないので、削除でも良いが
帳政が丗を30の意味の文字として使ったのを
陳寿が和音の漢字化同様そのまま引用した可能性はある。
>>275 阿波の名門で名の通った学者教授先生は、倭人伝は学術論文として読まざるを得ない。
なんせ、高貴一門を代表する自らの名誉にかかわるからね。
ところが、魏志・倭人条は、学術論文ではないんだよ。
天才文筆家・陳寿が繰り広げる、三国志ワイドショーの世界。
そこんところを、クリヤーしないと読めない。
ま、ご教養にお優れになった阿波教授には、下賤の荷は重かろが・・。
>>276 2回の魏使の説明
57 景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏将送詣京都
58 其年 十二月 詔書 報 倭 女王 曰
59 制詔 親魏 倭王 卑弥呼 帶方太守 劉夏 遣使送汝 大夫 難升米 次使 都市牛利
奉 汝所獻 男生口四人 女生口六人 班布二匹二丈 以到
汝所在踰遠乃遣使貢獻是汝之忠孝 我甚哀汝
今以汝為親魏倭王 假金印紫綬 装封付帶方太守假綬 汝其綏撫種人勉為孝順
汝來使難升米 牛利 渉遠道路勤勞 今以難升米為率善中郎將 牛利為率善校尉 假銀印綬
引見勞賜遣還 今以絳地交龍錦五匹 絳地縐粟罽十張 蒨絳五十匹 紺青五十匹 答汝所獻貢直
又特賜汝 紺地句文錦三匹 細班華罽五張 白絹五十匹
金八兩 五尺刀二口 銅鏡百枚 真珠チ丹各五十斤 皆装封付難升米牛利
還到録受 悉可以示汝國中人使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也
60 正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書 印綬 詣倭国 拝仮倭王
61 并齎詔賜 金帛錦罽刀鏡采物 倭王 因 使 上表 答 謝 詔 恩
62 其四年 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪拘等八人
63 上獻生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹木拊短弓矢 掖邪狗等 壱拝 率善中郎將 印綬
64 其六年 詔賜 倭難升米 黄幢 付郡 假授
65 其八年 太守王頎到官
66 倭 女王卑弥呼 與狗奴國 男王卑弥弓呼 素不和 遣倭 載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状
67 遣 塞曹掾史張政等 因 齎詔書 黄幢 拝假 難升米 為檄告喩之
68 卑弥呼 以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者 奴婢 百餘人
69 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時 殺千餘人
70 復立 卑弥呼宗女 壹與 年十三 為王 國中遂定
71 政等 以 檄告喩 壹與
72 壹與 遣倭大夫 率善中郎將 掖邪拘 等二十人 送政等還 因詣臺
73 獻上 男女生口三十人 貢 白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹
>>277 >12 丗有王皆統属女王國 郡使 往来 常所駐
>247年張政の行程で、伊都に到達した際の紹介だが
だから楽浪郡の公孫度、公孫康の時代から、倭国の支配強化を目途に、
何度も何度も郡使はやって来ていた。
そして交代で、伊都国の常所駐に詰めていたのだよ。
太平御覧倭人条には、郡使往来常止住 となっており、郡役人が交代で住み続けていたと分かる。
>>277 倭人伝だけ読んでもわかりませんね。魏志の韓伝と倭人条はセットです。
続けて読むと、後漢〜魏による倭国支配の実態が良く分かります。
[魏志 馬韓条]
「馬韓に大首長の臣智あり、その官に、魏・率善邑君、帰義侯、中郎将、都尉、伯長あり・・」
馬韓の官には、率善邑君以下、魏の官位が授けられていました。
王は存在せず、魏の支配力が、格段に強くなっているようです。
[魏志 倭人条]
倭人伝の各国にも、邪馬台国の女王の他に王はいません。
魏が授けた官だけです。難升米も率善中郎将の官位を授けられました、
後漢・魏の支配が一段高まったことを表しています。
>>281 一部修正
修正前 >魏が授けた官だけです。難升米も率善中郎将の官位を授けられました
修正後 >後漢・魏が授けた官だけです。難升米も率善中郎将の官位を授けられました
太平御覧は宋書だし、
馬韓辰韓の官は臣智以下、魏の官位であって
王政を廃絶した246年以降の話
後漢?
倭人伝 評曰
史漢著 朝鮮両越 東京撰 録西羌
魏世 匈奴遂衰 更有 烏丸鮮卑 爰及 東夷
使譯 時通 記述隨事 豈常也哉
この漢書の朝鮮は箕氏と衛氏の遼東〜北方4郡
東京撰 は後漢書だが、録 西羌
三国志で、
魏世、爰及 東夷 なのであって
使譯 時通 記述隨事 豈常也哉
この『使譯』も時に通じ、240年と247年の
倭人に関する記録を残した張政と梯儁の報告書であって、
陳寿が、倭人伝を記録した意義を言っている。
倭人伝だけ読んでもわかりませんね
三韓は紀元前2世紀から〜紀元後3世紀ころまで存在した。
官位は魏だけが授けたわけではなく、
後漢〜魏〜晋あたりが授けた官位名称は、基本的に連続している。
だから倭人条の官位が、246年以降とは限定できない
また調子こいてきたか
そんなことできるわけないのによ
死んでもらうしかないだろそいつら
事実があっただのほざいて政治に有利に持っていこうってのが支那のやり方だろ
そのくらい見抜けるんだよ
それやろうとしたら逆に攻め込まれて大量の死体が出るだけだぞ
そいつらの命の価値が底に落ちるだけだからな
太平御覧倭人条を読んだ。
間違い無く、陳寿の倭人伝の要約だが、明らかな違いに
其俗男子無大小皆黥面文身、聞其旧語自謂太伯之後 が有る。
これは、倭人伝で謎の 意味不明な一文
23 男子 無大小 皆 黥面 文身 自古以來 其使 詣中國 皆自稱 大夫
24 夏后少康之子 封於會稽 断髪文身 以避 蛟龍之害
25 今 倭 水人 好沈没 捕魚蛤 文身 亦以 厭大魚 水禽後稍 以為飾
26 諸國 文身 各異 或左 或右 或大 或小 尊卑 有差
27 計 其 道里 當在 會稽東治 之東
に、聞 其 旧語 自謂 太伯之後
が、存在した可能性を示唆している。
これが
自古以來 其使 詣中國 皆自稱 大夫 聞 旧語 自謂 太伯之後
衆聞皆訝 以其遠絶 計 其 道里 當在 會稽東治 之東
であれば、何の道里なのかか解らなかった文の 計 其 道里が、
當在洛陽から、太伯の治所、會稽東治への距離を
東に向かわせた位遠絶していて信用できない。
と言う話になるなら、壊された文は修正できる。
陳寿のこの文は版本化で、倭人が呉の太伯の後 という
話を削除したために、壊れた文になったのではないだろうか?
魏がこれから滅ぼす呉の子孫と同盟すると言うのは
道義的に、不都合だったのかもしれない。
勉強熱心だねえ
倭人伝と太平御覧倭人条を読み合わせると、新しくわかってくるところもあるね。
>>284 韓伝、読むんじゃないのか?
その歴史
侯淮 既僣 號稱王 爲 燕 亡人 衛満 所攻奪
将 其 左右宮人 走入海 居 韓地 自號 韓王 其後 絶滅
今 韓人 猶有 奉 其祭祀者 漢時 屬 楽浪郡 四時 朝謁
桓霊 之末 韓 濊 彊盛 郡縣 不能制 民 多流入 韓國
建安中 公孫康 分屯 有 縣 以南 荒地 爲 帯方郡
遣 公孫模 張敞 等 収集 遺民 興 兵伐 韓 濊
舊民 稍出 是後 倭 韓 遂 属 帯方
景初中 明帝 密 遣 帯方太守 劉マ 楽浪太守 鮮于嗣
越海 定二郡 諸 韓国 臣智 加賜 邑君 印綬 其次 與 邑長
公孫氏の時〜246年まで馬韓には王が有る。
漢時 屬 楽浪郡 四時 朝謁 だったが
公孫氏三代で朝貢が途絶えても、漢は域外としたから、
魏は、景初中 明帝が公孫氏を制圧し二郡を定めた。
その後、246年に韓王朝を廃絶し 官政にした。
卑弥呼、難升米はこの漢制圧戦の檄で出兵を求められたが不参戦。
もしも、郡太守と協力して、韓を制圧してたら、
三国志の将軍として倭候王、韓州の刺史になったはずである。
そうならずに、九州は本州勢力と対魏防衛で結託して、
楽浪帯方撤退の313年以降、高句麗戦を本格化して
半島進出で370年には、百済新羅を独立させた。
これが、東夷の古代史である。
どうも韓伝は、漢書の引用などで原書が複雑で纏まっていない。
陳寿の東夷伝序文がわかりやすい。
書稱 東漸 於 海 西被 於 流沙 其 九服之制 可得 而言 也
然 荒域之外 重譯 而 至 非足跡 車軌 所及未 有知 其 國俗殊 方者也
自 虞 及 周 西戎 有 白環之獻 東夷 有 肅慎之貢 皆 曠世 而至 其 遐遠 也 如
此及 漢氏 遣 張騫 使 西域 窮 河源 経歴 諸國 遂 置 都護 以 總領之
然 後 西域之事 具存 故 史官 得詳 載焉
魏 興 西域 雖 不能 盡 至 其 大國
亀茲 于眞 康居 烏孫 疏勒 月氏 鄯善 車師 之属
無歳 不奉 朝貢 略如 漢氏 故事
而 公孫淵 乃 父祖三世 有遼東
天子為 其絶域 委 以 海外之事 遂隔断 東夷 不得通 於 諸夏
景初中 大興 師旅 誅 淵 又 潜軍 浮海 収 楽浪 帯方 之 郡
而後 海表 謐然 東夷 屈服
其後 高句麗 背反 又 遣 偏師 致討 窮追 極遠踰
烏丸 骨都 過 沃沮 践 肅慎之庭
東臨 大海 長老説 有異面之人 近 日之所出
遂 周觀 諸國 采 其 法俗 小大區別 各有 名號 可得 詳紀
雖 夷狄之邦 而 俎豆之象 存 中國 失 禮 求之 四夷 猶信
故 撰次 其 國列 其 同異 以 接前史 之 所未備 焉
>>291 この書き方だと帯方郡ができた204年じゃなくて
公孫度が遼東を支配下に置いた190年ごろにはもう東夷からの朝貢をインターセプトしてたかもしれん
>>292 漢が、遂隔断 東夷 不得通、と言うのが
そもそも、
倭の朝貢は57年と107年だけなんで、無いに等しい。
そもそも、57年の金印は来たけど、交流なのか?
皇帝は、属国への返礼品格差を自慢するだろwww
韓伝の 倭 韓 遂 属 帯方 は、
漢の大言壮語の引用だろう。
公孫氏と九州の交流は
青銅や鉄器の輸入だよ。
九州は韓西岸経由だが
日本海ルートの銅鐸青銅は
BC200から金海、釜山経由だ。
航路で釜山から韓西岸行くか?
到 其北岸 狗邪韓國は
巨済島から珍島のどっかで良い。
>>293
珍島は、対馬へ着くには遠すぎ。 @阿波 >>293
珍島は、対馬へ着くには遠すぎ。 狗邪韓國は巨済島辺りだな。 @阿波 >>293 倭人は昔から歳時をもって献見すと書かれるくらい頻繁に朝貢してたと思う
そんな稀人みたいなレア種じゃない
あぼんだけどw
阿波は畿内説の王道、日本海ルートが無いだろ?
瀬戸内海は無いから?
九州西岸経由で土佐日記が鹿児島から半島行くか?
なら、熊本でも鹿児島でも土佐でも
どこの領主でも、対馬経由で朝貢位できると思うぞ?
阿波説標語w みんなで行けば怖くない。
>>296 レアだけど?
59 制詔 親魏 倭王 卑弥呼 帶方太守 劉夏 遣使送汝 大夫 難升米 次使 都市牛利
奉 汝所獻 男生口四人 女生口六人 班布二匹二丈 以到
汝所在踰遠乃遣使貢獻是汝之忠孝 我甚哀汝
今以汝為親魏倭王 假金印紫綬 装封付帶方太守假綬 汝其綏撫種人勉為孝順
汝來使難升米 牛利 渉遠道路勤勞 今以難升米為率善中郎將 牛利為率善校尉 假銀印綬
引見勞賜遣還 今以絳地交龍錦五匹 絳地縐粟罽十張 蒨絳五十匹 紺青五十匹 答汝所獻貢直
又特賜汝 紺地句文錦三匹 細班華罽五張 白絹五十匹
金八兩 五尺刀二口 銅鏡百枚 真珠チ丹各五十斤 皆装封付難升米牛利
還到録受 悉可以示汝國中人使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也
これ、半島の公孫氏追った後で
魏は、倭を味方にすれば
呉と組んだかもしれん公孫氏の半島で?
東夷安泰で、西の蜀と安心して戦える為の三国志の話なんだけど?
邪馬台国はどーでも良いけど、歴史の話だろ?
>>297
豊後水道→黒潮太平洋ルートだ。 @阿波 阿波説は南に海の無い築上町から南に水行するので座礁しますw
>>300
築上町は、四国などと繋がる港町。 @阿波 >>298 公孫氏が倒された後も魏にさんざん朝貢しまくっとるやないか
んで晋書にも重ねて朝貢してきたと書かれとる
むしろ266年以降に朝貢が突然途絶えたことの方がレア
神功皇后は三韓征伐と称して帯方郡下に攻め入った。
その仲哀天皇、神功皇后の熊襲征伐の舞台である博多〜神湊〜長門に、帯方郡の使いが、上陸するわけがない
>>307
不弥国(千家)(築上町辺り) : 「十双遺跡」・「郷ヶ原遺跡」・「築城五反田遺跡」・「上別府沖代遺跡」・「安武・深田遺跡」・「安武・土井の内遺跡」・「赤幡森ヶ坪遺跡」
「十双遺跡」で弥生終末期の楽浪系漢式土器が出ているらしいぞ。 @阿波 >>303 仲哀天皇、神功皇后の拠点は博多ではなく橿日宮、いまの香椎宮だ
そこが最前線だったんだから、多々良川あたりが境目で博多から先は敵国だろう
313年以降の日本は三韓征伐ではなく
百済、新羅を後援して高句麗と戦い
牛馬の移入に成功した。
これが日本の富国強兵の
古墳時代だが? 三韓征伐した?
この古代韓の立国にちなんで日本が
朝鮮独立で作った国が大韓帝国だが?
日本が古代韓を征伐しちゃったら
歴史認識がおかしくないか?
対中華ではなく、対列強諸国だが?
太平洋戦争は、中華、韓、亜細亜の
王道楽土建国の戦いだぞ?
>>308 阿波とは無関係だな、何でもかんでも阿波と関連付けるのはアホ
>>311 >阿波とは無関係だな
そりゃ、「不弥国」だからな。 「阿波」への通過国に過ぎん。
>>311
>阿波とは無関係だな
そりゃ、「不弥国」だからな。 「阿波」への通過国に過ぎん。 @阿波 >>314
そこから、河を遡って山奥をひたすら目指すバカ者がいます。 @阿波 >>314
そこから、河を遡って山奥をひたすら目指すバカ者がいます。
マタギか山師か? @阿波 >>316 四国の無駄なお遍路行程よりも合理的な日田往還。
四国に四万十川があるが、大昔の名称から付いたものの説が
九州説を魏志倭人伝以外で語るスレないのか?
最近、田川市に前方後円墳らしきものが見つかったってあるやん。
卑弥呼時代の土器も出ていて近くで卑弥呼に贈られた鏡が同じ時代の中国の鏡と
模様からなにまで一緒とか。
それで?なぜそこまで分かってて発掘しないの?してるの?説にして儲けたいだけなのか
わからない。早くしないと盗掘されるかもいそげーって思わないの?
ごっさかいと遺跡の返しのある鉄器は、九州と言うよりは、朝鮮式
>>319 そもそも邪馬台国って魏志倭人伝に出てくる国
「魏志倭人伝以外で語る」ことは不可能
北九州が鉄の生産で優位だったのは弥生後期まで続くのだが、もう古墳時代が見える頃になると他の地域での鉄生産が増加して優位性は失われていく
ヤマト王権が任那を失っても鉄に困らなかったのは、既にたたら製鉄法が生み出されて砂鉄から鋼の生産が可能になっていたからだ
たたら製鉄が行われていた最古の証拠は古墳時代の吉備の遺跡だが、実際はいつから始まったのか不明である
記紀に出てくるヒメタタライスズヒメ(神武皇后)など人物名から見て、かなり古くから行われていたのではないかとも推測できる
古代に鉄生産が盛んだったのは、吉備、日向、出雲、讃岐といった地域だった
もしたたら製鉄法の発明が弥生末期に遡るのなら、この頃にはもう北九州は軍事的優位性を失っていたかもしれず、それが倭国大乱の原因の一つの可能性もありうるだろう
魏志倭人伝によると倭国は別れて百余国で、魏と交易してる国が30ヶ国
つまり魏と敵対してる方が倭国内で多数派なんだよね
>>327 旧前漢時代の倭国はわかれて百余国だったが、
今の後漢〜魏の時代には(整理統合されて)30国になった・・、
(余の70国は、奴国2万戸、邪馬台国7万戸、投馬国5万戸に吸収合併された)・・、の意味。
末盧国東南陸行600里の不彌国・吉野ヶ里からは、東至 西至 南至 北至の 四至説明となり、
→ 南至の投馬国5万戸は、南180qの宮崎都万平野、(自郡至)水行20日
(内訳: 郡〜唐津1万里を水行10日、唐津〜九州西岸〜宮崎都万1万里を水行10日)
→ 同じく南至の邪馬台国7万戸は、南80-110qの熊本〜阿蘇、(自郡至)水行10日陸行1月
(内訳: 郡〜唐津1万里を水行10日、唐津〜阿蘇高千穂2000里を陸行1月)
>>331 昔も今も100国だったとすると、
では70国はどこへ行ったのかの説明がない。
ここの文脈は、昔に対しての今だから、その間の統合変化を語っていること明白。
[九州高千穂の宮の戦略的有利性]
九州島はウミガメの甲羅のようなこんもりした地形です。
背筋はなだらかで、北端の飯塚から、高千穂を経て、端の霧島市まで、
国道(211号線→212号線→256号線→223号線)が走っています。
この道は古代の獣道から発展した九州縦断の幹線道路なのでしょう。
高千穂は丁度この中間点にあります。
この高千穂・女王之所都から、邪馬台国の主邑だった方保田東原のある山鹿市(耶馬嘉)まで、
古街道が延びていました。
今、国道325号線として整備され、古来の重要な交通路であったことを物語っています。
>>332 倭王武が宋に上表文を送っている
自昔祖禰,躬擐甲冑,跋涉山川,不遑寧處。東征毛人五十五國,西服眾夷六十六國,渡平海北九十五國
また魏志や後漢書では東に海を渡ると女王に属さない倭種の国があると書かれていたのに
隋書になると筑紫以東は皆倭に属すと書かれている
半島から島伝いに渡海してきたところにあった女王国の国々は消えて筑紫国になってしまっている
また同時に筑紫よりも半島よりにあった壱岐や対馬が倭に属していないことも読み取れる
漢時100国は漢から伝わる倭人情報
今使訳通処30国は魏時2回の報告から
女王国内と以北の記載30国である。
57年の金印から100国が山島によって
地域国邑をなす、が九州北部は濃厚だが
日本海ルートもBC200から
青銅輸入で往来が有る。
したがって、同じ地域の100国が
今は30国に変化したとは言えない。
>>335 そもそも倭人伝は、
帯方郡がいかにして倭国九州の旧100国を味方に取り込んだかの手柄話である。
手柄があったからこそ、卑弥呼は金印紫綬を賜った。
なのに100国が30国に減ったのでは、金印紫綬どころではなく、帯方太守はクビ、書く価値すら無い。
その歴史の文脈を理解したうえで読むのが当然であろう。
>>334 倭人在 帶方東南 大海之中 、、 舊百餘國 漢時有朝見者
問題はココ、これは九州島のことで、そこに100余国あったというのが倭人伝。、
が、それを近畿以西の西日本が倭国だったと読んでるようだね、
その根拠として隋書を引用しているようだが、それは4-5世紀の日本だ。
魏志倭人伝の3世紀と隋書の四世紀の間には、倭国王権が東遷したという大きな変化があった、
その時代変化と、倭国拡大という国の範囲の変化を頭に入れて読まなくてはならぬ。
漢時の倭国認識、漢書地理志
然 東夷 天性柔順 異 於三方之外
故 孔子 悼道不行 設浮 於海 欲居 九夷 有以也夫!
樂浪 海中 有 倭人 分 爲 百餘國 以 歳時 來 獻見 云
爲 百餘國 はこれ。
獻見は57年107年。 向こうから来ては居ない。
陳寿の東夷伝序文
其後 高句麗 背反 又 遣 偏師 致討 窮追 極遠踰
烏丸 骨都 過 沃沮 践 肅慎之庭
東臨 大海 長老説 有異面之人 近 日之所出
遂 周觀 諸國 采 其 法俗 小大區別 各有 名號 可得 詳紀
評曰
史漢著 朝鮮両越 東京撰 録西羌
魏世 匈奴遂衰 更有 烏丸鮮卑 爰及 東夷
使譯 時通 記述隨事 豈常也哉
二回の魏使の訪日まで中国はほとんど日本を知らない
漢書の倭は帯方に属す、や 燕に属すは、
2回のみの、以 歳時 來 獻見 云と同様、中華流の大言壮語。
>>334 >倭王武が宋に上表文を送っている
自昔祖禰,躬擐甲冑,跋涉山川,不遑寧處。
東征毛人五十五國,西服眾夷六十六國,渡平海北九十五國
これ、時系列が判ると良いんだけどね。
まず、主体は、出雲、尾張、畿内辺りの連合で150年
東征毛人五十五國は、美濃、甲信、東海、武蔵、上越が200年
西服眾夷六十六國は、吉備、瀬戸内海、九州北部、任那金海で250年
渡平海北九十五國は、任那以北の馬韓、辰韓で370年辺りで百済独立。
倭王武は500年までの雄略で、稲荷山鉄剣のヲワケが8代の武人家臣。
武家の1代30年で8代だと、卑弥呼の250年辺りで九州入り出来たかも?
まあ、記紀とは別の概ねの金石と成文化の歴史も可能かと?
大化の改新以前、国造が治めていた国の数は日本全国で140ヶ国存在していた(ウィキペディア「国造」にすべて列挙されている)
漢の時分かれて百余国、倭王武の時東国55ヶ国、西国66ヶ国の合計121ヶ国、令制国に統合される直前で140ヶ国、と徐々に増えていってるものが、邪馬台国の時代にだけ激減したと言われて誰が信じるものか
話が通じないはずだわw
240年 梯儁の報告書には
帯方から南に馬韓の先の投馬国と邪馬台国と狗奴国が直列で3国あって
卑弥呼の邪馬台国には、共立した21国が所属する。
247年 張政の報告書には、帯方からの倭人船経路は
狗邪韓國→對海國→一大國→末盧國を通過して
→到、伊都國、他、奴國、不彌國 で7国が有った。
これが、今 使 譯 所通 三十國 であって、
倭国全体の国の数じゃ無いよw
自 女王国 以北 其 戸數 道里 可得略載 の30国
が、この報告にある魏使が見聞した国々であって
其 餘旁國 遠絶 不可得詳
が、倭国全体で100以上は有るであろう、知らない国々だろ?
女王国の人でも学校で地理の授業無きゃ知らんわwww
240年の梯儁の報告書に里程が無い理由も説明出来ちゃった。
投馬国から邪馬台国までは何キロですか? ってのは、
長野県から岐阜県は何キロ。 みたいな話だろ?
順不同の東京都23区名に順次でキロ数を示すか?
無駄なような説明も、してみるもんだなw
つまり、
帯方郡から、女王国の宮廷までが、12000里
と言うのは、日程で示した全行程で、陳寿の補足説明。
邪馬台国の国名が、240年に梯儁が金印を届けた際に
女王国の国勢を参問した所属国21国の和音漢字化にある
やま、邪馬国、で女王卑弥呼の臺を見た。
これを、女王国21国の国名の仮称として邪馬臺国とした。
魏時の臺は、曹操の高楼の表意文字で忌避され、た。
晋以降は 壹や嘉、では無く探検者命名の臺に戻る。
これは倭人の表音文字の国名ではない事を意味する。
邪馬台国は、和音の国名ではなく240年に梯儁が漢字にした
邪馬国の臺であって、中国語の、表意文字の仮称なのである。
陳寿は当然弁辰韓=240年に梯儁の仮称投馬国は理解したし
一月行=2千里、 も共有している。
が、邪馬台国名称も
247年の張政も、弁辰韓=投馬国 同様、採用していないので
梯儁の邪馬臺国は、そもそも成文化の歴史として幻になったのである。
臺は曹操の私物。
中国って建国以来、馬鹿だろwww ←ネトウヨ
卑弥呼国の後の筑紫、自称国名は無かったのか?
つづくw
邪馬台国はほぼ筑紫だが、自称国名は無かったのか?
梯儁は21国を参問して、漢字にした。
概ね、和音2字で、しま国、とかである。
梯儁が女王共立21国の和音を漢字にしたのは間違いない。
他に卑弥呼の国勢を参問出来た誰か? は居ない。
思うに、卑弥呼、卑弥弓呼の名が似ているのは
国名なのでは無いだろうか?
呼が王。 ひ、み、く、は和音。
漢の委奴国もあるけど、
和音は、い、な、と、だよね?
肥国、彌国、狗国、奴国、伊都は
既に有るよね?
ネトウヨ思考
・日本人は縄文人の子孫
・日本語は縄文語の子孫
・Y遺伝子Dが自慢
・縄文文化を縄文文明という
・邪馬台国は九州と主張
・日本が中華に朝貢したのが許せない
・アイヌ人はシベリアからやってきた虐殺者
・なぜかエベンキという民族に関心がある
・古史古伝や日ユ同祖論などのオカルトを信奉
・邪馬台をじゃまたいと呼んでしまう低学歴
・国学者の九州説をなぜか反皇国史観と思い込む
・酸素同位体比年輪法を無視して纏向を四世紀という
・時系列を無視して漢字を現代音で読んでしまう
高千穂・女王之所都からは、
邪馬台国の軍事経済の主邑だった方保田東原のある山鹿市(廣志曰 耶馬嘉国)まで、
古街道が通じていました。
今、国道325号線として整備され、古来重要な交通路であったことを物語っています。
中国が書く歴史だよ。正しく読むって無理だと思う。現代の発表される統計と同程度の信憑性。
末盧国から伊都国、奴国、不弥国への道
1里は80mで魏志倭人伝の記述に合うように考えた結果
末盧国は呼子付近に上陸、伊都G.C.から先が伊都国、糸島峠から先が奴国、室見川下流域の博多湾岸が不弥国
奴国は2万戸なので奴国はもっと広がったと考えられるがこの図は行程の説明用なのでご了承ください。
末盧国から伊都国まで500里。
1里が何kmになるかは、現代人の考え方と思う。
500里は、500里
里は中国地方政府が決めた単位だが
東夷で使用されている1里は80mは中央政府ではなく公孫氏の地方政府が独自に定めた単位だったのだろうな。
里数での行程文は魏が公孫氏を滅ぼす前に公孫氏の郡使が1里80mの独自の里で記録したものと考えると問題が解決する
公孫氏は魏の侵攻に備えて独自の里を使用し、自国の勢力圏を大きく見せかけ魏を欺こうとしていたのだ
女王国との呼び名も公孫氏が付けたものだ
刺史が検察官として書かれてるのも、公孫氏の国内の事を指している
魏から新たに派遣された魏使が邪馬台国と新たな名称を付けた。
現代だと、「ひとっ走り」があるが、何kmになるか考えないだろう。
里は人工的に作りだされたものですから
明確な決まりがあるんです
但し、それを知らないと意味が通じない
当時の倭人も短里を知らないし、現代の日本人も短里を知らない。
>>349 >奴国は2万戸なので奴国はもっと広がったと考えられるが、、
到伊都國 有千餘戸
至 奴 国 有二萬餘戸
至不彌國 有千餘家
伊都国1000戸+不彌国1000戸だが、
動画の奴国はこの2国と同じくらいだ。
その10倍の奴国2万戸なのに、全然足りないぞ。イトチョンのトンデモ説(笑
「里」は、距離を表す単位。
500里は、500の距離がある、という事。
何kmか知らないが
韓の武帝以降、半島を任されてきたのは代々の公孫氏で、
倭にも楽浪土器は出てる。
公孫氏の里だったと考えるのが一番妥当だね
佐賀市教育委員会は、
2019年9月〜2021年3月に発掘調査を実施した大和町川上の七ヶ瀬遺跡で、
弥生時代後期(1〜2世紀)の集団墓地251基が見つかり、
中国製の青銅鏡4面が出土したと発表した。
うち1面は、鉄刀、勾玉と共に埋葬されており、「三種の神器」がセットで出土したのは佐賀県内では初めて。
>>358
>鉄刀、勾玉と共に埋葬されており
その鉄刀、勾玉をいったいどこで作ったのかを考えなければならない。 @阿波 >>360
やはり、「鍛冶工房」や「勾玉工房」があるところの人が作ったんだろう。 @阿波 >>361 幾つかあるだろうから、特定するのは難しいですね。
>>362
>幾つかあるだろうから
そうそう無いんじゃないの? @阿波 >>349 末盧国の右半分は伊都国だったと思う
松浦半島と糸島半島で作られた湾の奥に、いまの佐賀県と福岡県とに均等にまたがる感じ
その地図の伊都国と書かれたあたりはぜんぶ奴国の1部じゃないかな
>>364
そう想像する前に、それらの国に相当する集落遺跡を見つけるべきでは? @阿波 >>364 .松浦半島と糸島半島で作られた湾の奥に、いまの佐賀県と福岡県とに均等にまたがる感じ
其処は脊振山系の険しい山岳地帯、
>その地図の伊都国と書かれたあたりはぜんぶ奴国の1部じゃないかな
奴国は奴国でも、傍国の最後に出てくる奴国=漢委奴国の墓場地帯だったのだろうね。
無理して糸島博多へ行こうとするから、200年経って300年経っても合わない。
唐津中原から東南500里、伊都国は佐賀川上の七が瀬・大神宮跡が正解
佐賀県立佐賀コロニー跡地で遺構が見つかり、2019年9月〜2021年3月に発掘調査を実施した。
墓道を軸に、甕棺、石棺墓など251基が並んでいることが確認されており、
さらに広がる可能性もある。
佐賀女子短大・名誉教授の高島忠平さん(81)は、
1〜2世紀のクニの王権を示す発見。吉野ケ里遺跡の西に隣接して
「佐賀のクニ」が姿を現した点も興味深い、と話し、
邪馬台国が3世紀に束ねた30のクニの一つである可能性があるとみる。
>>367
そう想像する前に、それらの国に相当する「集落遺跡」を見つけるべきでは? @阿波 >>365 千余戸の小国なんだから、集落の跡なんか出てきたらむしろ候補から外れる
>>355 奴国は伊都国と不弥国を除く筑前地方の大部分を占めてたんだと思います
>>349は五百里、百里、百里のルートの説明ですから。
>>370 筑前地方と云っても、筑後の甘木・朝倉の隣に筑前町がある。
飯塚、田川はどうするのかの問題もある。
人により、定義・範囲は違う。福岡県のどこどこか、今の市町村名で説明してくれ、
>>371 何んの資料が有りませんから分かりません
奴国が二万戸と書かれてるだけですから
場合によっては筑後地方の一部にも進出してたかもしれませんね。
飯塚、田川は海が入り込んでたんじゃない。
奴国の北部は幅が狭かったと思う
>>374 那珂八幡が奴国の領域に無いのでその図は使わない方がいい、那珂八幡を奴国の領域に入れた図を使いなさい、もしくは作りなさい。
>>372 いくらこねくり回しても、うまく当てはまらんよ。
東南500里の伊都国(川上)、東南奴国100里(佐賀城址・行き止り)、東行100里不彌国(吉野ヶ里)は、
だだっ広い佐賀平野だからこそ成り立つ配置。
自分で、こっそり当てはめてみて、ピタリ納まるのがわかってるだろうwww
正しく読めるだろ?
読めば考古学は後から付いて来る。
もちろん継続地に遺跡は無い。
存在中に廃絶したから遺跡だよ?
そんなもんが、奈良にあるのか?
法隆寺は600年建造だし。
600年に文化財保存するか?
古墳の文書、全部消してないか?
出雲は歴年で、建て直す?
諏訪は大きい木がもう無いって、よw
>>319 まずもって、前方後円墳を卑弥呼の墓に比定するのは、九州説にとっては自殺行為に等しいのです。
>>378 だから、
その世は、周王=中華の時世
であって、
辺境の女王の世という、
表現では有り得ない。
って、話だよ。
その説明してるんだが?
世有哲王は世有哲王で
代々有りはミスリードが始まってる。
英文は、漢詩がTVドラマになったw
くらい読み替えられた雰囲気だよね。
その文章に関しては、世なのか丗なのかよりも、そのあとの解釈がみんなおかしいと思う
(主語)有王 =(30ないし代々)王あり
皆統属女王國 = みな女王の国「を」治めていた
でないの?
この並びで女王國が主語ってのがわからん
30国の各王は、それぞれ自分の国を治めていた。
女王の国を治めようとしたら戦争になる。
魏志
丗有王 皆統屬女王國
後漢書
自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統 其大倭王居邪馬臺國
>>383 女王に属する王は皆、が主語で
伊都を往来していた。
郡使張政が主語で、伊都に常駐した。
伊都に来た郡使はこの時の張政だけです。
>>385 後漢書もやはり混乱してる?
国皆称王 世世伝統は、
周代、漢、後漢代、魏代を通じて、
皆称王、みたいな意味と、とらえた。
>>376 それよりも
>>349の方がピタリ納まるね。
>>376は伊都国の位置が無理やり感が半端ない。
>>386 倒置ってこと?
文学作品じゃあるまいしなんで?
>>386 「世有王 皆統属女王国」は女王国が使われてるが、郡使張政が来た時には女王卑弥呼は既に亡くなっていて女王国は存在してなかったので、それ以前の記述だな
里数(短里)での行程文の中にあるので公孫氏時代の記録からの引用だな。
公孫氏の記録とすると世とは公孫度が遼東太守に任じられた中平6年(189年)から公孫氏滅亡以前の公孫氏時代の事を指してるな。
丗有王 皆統屬女王國
伊都国には公孫氏の時代、女王卑弥呼が居た、倭の国々皆、女王国に従属していた。
これの公孫氏の時代の意味を魏の時代に置き換え流用した文章だな。
女王国「を」じゃないの?
それとも「皆被統屬女王國」と書くべきところを一文字脱落したのか?
>>392
「皆 統屬 女王國」
「みな、女王国に属し統べる」 だな。 @阿波 「丗有王 皆統屬女王國」
「ここに、王有り みな、女王国に属し統べる」 だな。 @阿波
そもそも倭国大乱まで男王が乱立していたわけだから、公孫氏の頃女王国に属していたわけがない
どう考えても矛盾してる
>>387 >国皆称王 世世伝統は、
>周代、漢、後漢代、魏代を通じて、
>皆称王、みたいな意味と、とらえた。
後漢書だから世世に魏は入らないな。
>>395 卑弥呼が共立されたのが桓帝(147~167年)と霊帝(168~188年)の間、倭国は大いに乱れの後ですから
公孫度が遼東太守に任じられたと程同時に卑弥呼は共立されてますね。
>>389 文学作品?謎が解けた。ありがとう。
陳寿は、張政と梯儁の報告書を正確に引用していると思った。
でも、それは和音を漢字にした文字であって、筆法ではない。
疑問が有ったのは、こんなに簡潔な報告書では、許してもらえないだろう事。
結論、業務日誌のような報告書の筆致をそのままに陳寿が簡略化している。
陳寿の文ではないとした、疑問点として、
次有21国。簡潔主義の陳寿は何故次有を21回も反復したか?
世有王、はおかしい。臺の文字を壹にした理由。
日程と道里の違い。有と可、到と至の使い分け筆致の違い。
いまココな、問題点
12 丗有王皆統属女王國 郡使 往来 常所駐
郡使張政は伊都に常駐であって、往来しない。
16 南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
邪馬台国に水行で上陸後が女王宮迄の徒歩である。
これは、どちらも主語が並列した文でなければ意味が通らない。
陳寿が報告書の無駄を省き纏めた文としてそうなった、かと?
後漢書の件 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國
國皆稱王丗丗傳統 其大倭王居邪馬臺國
卑弥呼は大倭王じゃ無いし、居は邪馬国の臺です。
馬韓、投馬国、邪馬台国、狗奴国は直列した国で
次有21国は、皆、王の有る卑弥呼共立の統属女王國です。
>>397 当時のことだから、倭国大乱終結と同時に女王共立されたかどうか?
30国の和平交渉に数年かかり、その上、各国の王には魏の官位を与えてご機嫌を取り、
それと引き換えの共立だから、公孫度太守の189年から〜神功皇后即位の201年の間で、
195年あたりだったんじゃないかと。
>>396 細かいことは良いけど
後漢書は「本紀」「列伝」の編纂者は南朝宋の范曄
で、陳寿の倭人伝見て書いてるw
>>398 陳寿は、張政と梯儁の報告書だけでなくその他の多く資料を参照している
魏が公孫氏を滅ぼした際に帯方郡で押収した公孫氏時代の資料も引用してるんだよ。
>>387 他のお方もおっしゃる通り、後漢書だから後漢時代のことを書いている。
其の「国皆称王世世伝統」は後漢時代のこと。
依って倭人伝では「世に有りし(代々の伊都国の)王たち」と過去形になる。
>>400 もちろん陳寿の倭人伝を見て書いている。
だから仁義を尽くして、それとは被らない後漢時代のことを書いているわけだ。
そこんところは、お互い漢の役人としての大前提だよ。
>>402 「世に有り王」の世は世世(代々)ではない
世とは魏の世を指している、「魏の世に王有り」の意味
本来の引用基では公孫氏の世
公孫氏の世(189〜238年)を指していた
卑弥呼の在位が189〜247年なので卑弥呼は伊都国で王であった。
卑弥呼は大倭王だろどう見ても
後漢書、魏志をまとめると
漢委奴国王、師升、男王70-80年、暦年無主、卑弥呼、(男王)、台与
これら全て「倭国」の「大倭王」のはなしだ
>>404
>「世に有り王」の世は世世(代々)ではない
だから、「ここに」王有り。 @阿波 世有王
魏の世には伊都国に大倭王がいたのか、それとも伊都国王がいたのか
30余国みな王を称していたのにわざわざ伊都国だけ書くというのは
大倭王が伊都国にいたのではないか?
女系となるが辰韓王の血を引く神功皇后から応神天皇が生まれてるからどおなんだろな?
その人物が大和朝廷と呼ばれた祖みたいなもんなんだよ
魏略??ほかの参照文献に書かれていた情報をもとに魏志と後漢書が書かれたと想定して、その同じ情報の表現方法が魏志と後漢書で分かれたと仮定すると
後漢書では
30余国あって各国の王は皆王を称し、その大倭王は邪馬臺国に居る
とまとめられ
魏志では
(伊都国には)魏の世に(大倭)王がいた (30国の王は)皆女王国に統属した
とまとめたのかもしれない
とすると邪馬臺国の説明で女王之所都は後漢時代の情報ということか?
>>407 30余国皆王を称していたと書いたのは後漢書だから、
後漢時代のもしかして倭国大乱の前だよ。倭人伝とは被らない時代な。
しかも大倭王は邪馬台国に居と明確。
倭人伝の行程記事の時代設定では、各国の王名が書かれていない(除・狗奴国)から、
邪馬台国の女王以外は、全て官になっていたと分かる。、
つまりこれは公孫氏が画策して授けた魏の官位だろう。倭国は魏の支配が進んでいたのだよ。
>>410 >魏志では
>(伊都国には)魏の世に(大倭)王がいた (30国の王は)皆女王国に統属した
論旨・論理・時代・時系列がぐちゃぐちゃだよ。
何がなんでも、伊都国に女王を持ってきたいようだが、キミは寺澤かね??
>>410 魏略では
「其国王皆属女王也」その国(倭国)の王はみな女王に属すなり。
魏志倭人伝
「世有王皆統属女王国」世王あり、(倭の国)はみな女王国(伊都国)に統属していた。
伊都国に王はいたの?いなかったの?
まずそこのコンセンサスが固まらないと話が進まない
まず伊都国には王がいたのかいなかったのか
次に伊都国の王は伊都国王なのかそれとも大倭王(卑弥呼)なのか
「世有王皆統属女王国」この文の引用基が公孫氏の時代の記録で
公孫度が帯方郡太守となったのと同時期に卑弥呼も共立されたので
公孫氏の記録では卑弥呼の国を女王国と表していたんだ。
伊都国には王がいた。
伊都国に王(一大率=出入国在留管理庁長官)を置いた。 @阿波
「世有王皆統属女王国」
伊都国に王(一大率=出入国在留管理庁長官)を置いた。 @阿波
>>417 伊都国の説明に「世有王皆統属女王国」とあるから伊都国に王は居たんだ
その後伊都国の王に付いて何の説明も無いのは女王卑弥呼が伊都国の王だから
卑弥呼は大倭王から親魏倭王となり倭の王は卑弥呼だけとなったが、狗奴国だけは従わず王を自称していた。
>>412 狗奴国には王名が書かれているのだから、もし伊都国にいたなら書かれてしかるべし。
倭人伝の時代設定では、各国に王名が書かれていないのだから、
世有王は、世有りし王たちと過去形で読み、後漢書時代のことを指す。
当然、伊都国にも居なかったとみるべきであり、例外的にいたという根拠がない。
倭面土国王師升→大倭王は邪馬臺国に居る
(魏の)世有王→大倭王は伊都国に居る
>>422 後漢書時代の倭のことを誰が記録出来たのか?
それが出来たのは倭を従属下に置いていた公孫氏しかない
詰まり、公孫氏の記録からの引用
公孫氏の時代に伊都国に王(卑弥呼)が居た、倭の国々みな女王国(卑弥呼の国)に統属していた。
>>416 それならそうとはっきり書かれてしかるべし、
女王之所都は邪馬台国にあった。
毎日伊都国から通勤していてわけでも無し、伊都国に女王がいたというのはありえない。
>>425 「女王之所都」は魏の最初の郡使の梯儁の報告に基づくもの
投馬国に対して邪馬壱国に都があるとの意味で邪馬壱国が倭の都の意味ではない。
・・・東行至不弥国百里 官日多模 副日卑奴母離 有千余家
ここまでは公孫氏の記録からの引用
南至投馬国水行二十日 官日弥弥 副日弥弥那利 可五萬余戸 南至邪馬壱国 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次日弥馬升 次日弥馬獲支 次日奴佳鞮 可七万余戸
は梯儁の報告からの引用
分けて考えると意味が通る。
>>421 >伊都国の説明に「世有王皆統属女王国」とあるから伊都国に王は居たんだ
これは、過去の後漢時代のことを述べてる。
その王たちは、邪馬台国の大倭王に属していたとね。
その王たちは、今、官になっている。官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚だな 。
其の上に王が残っているならその名も必ず書かれる、が、書かれていないのだからいなかった。
>>421
>伊都国の説明に「世有王皆統属女王国」とあるから伊都国に王は居たんだ
その王が、一大率=出入国在留管理庁長官。 @阿波 >>428 邪馬壱国の王都が平原・伊都国などと、世迷い言を云うでない。
何が何でも伊都国を王都にしたい下心が見え透いてる。
寺澤本人か、その手下のパシリ。
唐津東南の伊都国は、佐賀川上の皇統太神宮跡できまりだよ、佐賀県はその線で秘かに動いてる。、
佐賀市大和町川上の 七ヶ瀬(しちがせ)遺跡から
弥生時代後期の墓群が出土したと発表した。
251基確認され、中国製の銅鏡などの副葬品も見つかった。
素焼きの土器でできた「 甕棺墓」、「 石棺墓」、「 土壙墓」など多様な埋葬形態の墓が集積し、
うち9基から、銅鏡やガラス製の玉類、刀剣なども出てきた。
鏡は、大きいものは直径約17センチ。
中国の前漢〜後漢(紀元前206年〜紀元後220年)に作られ、
持ち込まれたという。
卑弥呼の女王国は奴国だよ、それが分かり難いように陳寿が書いてるだけ
弥生時代後期の墓群で前漢鏡か?
もっと長期間継続の集落じゃ無いのか?
>>430 後漢代の事を公孫氏が記録したものだね
「世有王皆統属女王国」は公孫氏の記録からの引用だね
世は公孫氏の時代の事で
元々は公孫氏の時代には伊都国に女王卑弥呼が居た、倭の国々はみな女王国(伊都国、奴国、不弥国)に統属していたの意味だったんだ。
後漢の世なのか、公孫氏の世なのか、魏の世なのか
コンセンサスは取れそうに無いな
>>436 書かれてもいないのに、見えるのは妄想という
一連の行程が247年の張政の報告なのに
なんで時制の問題が出てくる?
循海岸 水行 歴韓国 乍南乍東 到 其北岸 狗邪韓國 七千餘里
始度 一海 千餘里 至 對海國
又 南 渡 一海 千餘里 名日 瀚海 至 一大國
又 渡 一海 千餘里 至 末盧國 有四千餘戸
東南 陸行 五百里 到 伊都國
(丗有王皆統属女王國 郡使 往来 常所駐)は、
女王国に所属する(三十の)王は皆伊都を往来していた
郡使(張政)は伊都に常駐した。 これによって
其八年 太守王頎到官 遣 塞曹掾史 張政 等
倭 女王卑弥呼 與狗奴國 男王卑弥弓呼 素不和 遣倭 載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状
遣 塞曹掾史張政等 因 齎詔書 黄幢 拝假 難升米 為 檄 告喩 之
政等 以 檄告喩 壹與 という張政の任務、仕事は、
伊都までの行程で完了することが出来た。
という、張政の仕事上の説明なんだが?
で、伊都の地理として
東南 至奴國 百里
東行 至不彌國 百里
帰国が 同247年。
壹與 遣倭大夫 率善中郎將 掖邪拘 等二十人 送政等還 因詣臺
>>435 発掘されたのは1-2世紀分のほんの一部。この時代があって、次の3世紀があるわけだが、
隣にはまだまだ未発掘の場所区画が続く。
墓だけではない、伊都国の郡衙跡も出てくるだろう。
その郡衙推定地(伝説のカワカミノタケルの砦跡)だけでも30haある。
倭が女王国だった時代(卑弥呼が王だった時代)は後漢末から魏に掛けての時代
公孫度が遼東太守に任じられたのが189年、卑弥呼が共立されたと推定されるのも189年
卑弥呼時代の倭が漢に朝貢するには必ず公孫氏の勢力圏を通る必要があったので、公孫氏は卑弥呼の事をよく知り卑弥呼の国を女王国と呼んでいたのだろう
「世有王皆統属女王国」は卑弥呼の国を女王国と呼んでいるので公孫氏の記録からの引用である
従ってこの世は公孫氏時代を指していたものを、公孫氏を魏の時代に意味を置き換えてるものだ。
倭人伝で2回の郡使関連以外の情報は以下
23 男子 無大小 皆 黥面 文身 自古以來 其使 詣中國 皆自稱 大夫
24 夏后少康之子 封於會稽 断髪文身 以避 蛟龍之害
25 今 倭 水人 好沈没 捕魚蛤 文身 亦以 厭大魚 水禽後稍 以為飾
26 諸國 文身 各異 或左 或右 或大 或小 尊卑 有差
27 計 其 道里 當在 會稽東治 之東
(旧語 自謂 太伯之後 衆聞皆訝 以其遠絶 計 其 道里 當在 會稽東治 之東)
28 其 風俗 不淫 男子 皆露結 以木緜招頭 其 衣横幅 但結束 相連 略無縫
29 婦人 被髪 屈結 作衣 如 単被穿 其 中央 貫頭衣之
30 種 禾稻 紵麻 蚕桑 緝績 出 細紵 縣綿 其地 無 牛 馬 虎 豹 羊 鵲
31 兵用 矛盾 木弓 木弓短下長上 竹箭 或 鉄鏃 或 骨鏃 所 有無 與
32 但耳 朱崖 同 倭地 温暖 冬夏 食 生菜 皆 徒跣
33 有 屋室 父母 兄弟 卧息 異處
34 以 朱丹 塗 其身體 如 中國用 粉也 食飲 用 俎豆 手食
35 其死 有棺 無槨 封土 作冢 始死停喪 十餘日 當時 不食肉
36 喪主 哭泣 他人 就歌舞 飲酒 已葬擧家 詣 水中澡浴 以 如練沐
37 其 行來 渡海 詣中國 恒使一人 不梳頭 不去蟻蝨 衣服垢汚 不食肉 不近婦人 如喪人
38 名之 為持衰 若行者吉善 共顧 其生口 財物 若有疾病 遭暴害 便欲殺 之謂 其 持衰 不謹
39 出 真珠 青玉 其山 有丹 其木有 枏杼橡樟楺櫪投橿烏號楓香
40 其 竹篠簳桃支 有 薑橘椒襄荷 不知 以 為 滋味 有 獮猴黒雉
41 其 俗 擧事 行來 有所云 為輒 灼骨 而卜以 占 吉凶 先告所卜其辭 如 令亀法 視 火坼 占兆
42 其會同 坐起 父子 男女 無別 人性嗜酒 見大人 所敬 但搏手 以當跪拝
43 其人 寿考 或百年 或八九十年
44 其俗 国 大人 四五婦 下戸 或 二三婦 婦人 不淫 不妬忌
45 不盗 僅少諍訟 其 犯法 軽者 没 其妻子 重者 没 其門戸 及 宗族
46 尊卑 各有 差序 足相 臣服 収租賦 有邸閣 國國 有市 交易 有無
>>438 魏の時代は卑弥呼・男王・壱与だから女王国とは呼ばないよ
>>439 張政の報告書の引用は下記の部分だけ
因齎詔書黄幢 拝仮難升米 為檄告喩之 卑弥呼以死 大作冢 徑百余歩 徇葬者奴婢百余人 更立男王 国中不服 更相誅殺 當時殺千余人 復立卑弥呼宗女壹與年十三為王 国中遂定 政等以檄告喩壹與
下記の部分は魏の公文書の写しそのまま
正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭国 拝仮倭王 并齎詔 賜金帛錦罽刀鏡采物 倭王因使上表 答謝恩詔 其四年 倭王復遣使 大夫伊聲耆掖邪拘等八人 上献生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹木拊短弓矢 掖邪狗等壱拝率善中郎将印綬 其六年 詔賜倭難升米黄幢 付郡仮授 其八年太守王頎到官 倭女王卑弥呼與狗奴国男王卑弥弓呼素 不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状 遣塞曹掾史張政等
壹與遣倭大夫率善中郎将掖邪拘等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹
卑弥呼の時代は公孫氏が楽浪郡帯方郡で東夷からの朝貢をせき止めていた時代
238年に公孫氏が滅亡してからのち、卑弥呼はようやく中華王朝(魏)にたどり着いた
女王国を使用している部分は公孫氏の記録からの引用
従郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓国 七千余里 始度一海 千余里 至 対馬国 其大官日卑狗 副日卑奴母離 所居絶島 方可四百余里 土地山険多深林 道路如禽鹿徑 有千余戸 無良田 食海物自活 乗船南北市糴 又南渡一海千余里 名日瀚海 至一大国 官亦日卑狗 副日卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴 又渡一海千余里 至末盧国 有四千余戸 濱山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深浅 皆沈没取之 東南陸行五百里 到伊都国 官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千余戸 世有王 皆統属女王国 郡使往来常所駐 東南至奴国百里 官日兕馬觚 副日卑奴母離 有二万余戸 東行至不弥国百里 官日多模 副日卑奴母離 有千余家
自女王国以北 其戸数道里可得略載 其余旁国遠絶 不可得詳
自郡至女王国 萬二千余里
自女王国以北 特置一大率検察 諸国畏憚之 常治伊都国 於国中有如刺史 王遣使詣京都帯方郡諸韓国及郡使倭国 皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯
里が80mくらいなのは公孫氏の記録からの引用だから。
>>443 間にいる男王なんて誰からも承認されずに再び内乱になっただけで
統治した期間ほぼゼロなんだから卑弥呼→台与でいいんだよ
>更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人
那珂八幡に葬られた卑弥呼は、改葬で奈良に連れていかれたか
247年の出来事
其八年
① 太守王頎到官
② 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遺倭載斯 烏越等詣郡 說相攻擊狀
※卑弥呼はまだ生きていたか
③ 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書 黃幢 拜假難升米 爲檄告喻之
④ 卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 狥葬者奴碑百餘人
※張政が来日すると卑弥呼は亡くなっていた
⑤ 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人
⑥ 復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王 國中遂定
⑦ 政等以檄告喻壹與
※遂に倭国統一を果たす。台与の共立に張政(魏)の後ろ盾があったか
⑧ 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹
※張政帰国
>>443 時系列・年代区別がむちゃくちゃだな。妄想、放言、瞬間思い付きレス
卑弥呼共立は、遅くとも200年で、
それ以前の共立記事には卑弥呼、女王国と書かれている。
ちなみに、魏は220年から〜265年だ。
卑弥呼、壱与を中国人らが字(あざな)で書いたんだとしたら?
日本は平安仮名を当てたりして書いてるけどな
張政(魏)の後ろ盾を得て共立された台与は
魏の威光を存分に振りかざして、遂に倭国統一を果たした
そのお礼の朝貢では生口30人と貢物を奮発した
↓
その後もたびたび魏に朝貢した
↓
265年、魏が西晋に禅譲して滅亡した
西晋初代皇帝の二年目(266年)の朝貢を最期に
女王国の消息は途絶えた
公孫氏の記録って何? そ〜す。
みた〜い、です。
そんなもん存在しないだろ?
土器だの呉の鏡師は
何か書いたりしてるが
韓人相手で文字が有ったのか?
半島の常道、施政者独裁の
愚民化政策だと思うぞ。
文書にしたら脱税バレるだろ?
だから魏が討伐した。
公孫氏では無いが
北朝鮮の古墳から
は郡の戸籍の木簡は出た。
倭人伝で魏には、漢文献以外で
何の東夷情報も無いのは明らか。
246年到官の帯方太守王頎は、前年、
東臨大海に高句麗を追い詰めたが、老人に
倭人には顔が二つあると聞かされているwww
貢白珠五千孔 青大句珠二枚
青大句珠はヒスイの勾玉だとして
白珠五千孔ってのは白い珠に穴があけてあるモノなのかね
白い珠ってなんじゃい
真珠でしょ?
紐通せる穴が技術で
人工とかの価値だと思うよ。
>>453 張政(魏)の後ろ盾を得て共立された台与は
魏の威光を存分に振りかざして、遂に倭国統一を果たした
何それ?
張政は帰国の倭人船に便乗で来て
247 其八年 太守王頎到官
倭 女王卑弥呼 與狗奴國 男王卑弥弓呼 素不和 遣倭 載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状
遣 塞曹掾史張政等 因 齎詔書 黄幢 拝假 難升米 為檄告喩之
一大卒で駐留させられてるんだが?
台与は
壹與 遣倭大夫 率善中郎將 掖邪拘 等二十人 送政等還 因詣臺
すぐに、速攻で送り返した。
日本は、友好関係の公孫氏と韓王朝を滅ぼした
魏を敵対視してるに決まってんだろ?
魏に朝貢したら大和朝廷への反逆なんだよwww
246年の魏の韓制圧戦は、弁韓=任那も南韓側で戦った
と思うぞ。
歴史の話だろ?
>>457 奴隷だと思うけど、製鉄みたいな仕事は
奴隷がたくさん必要だから、九州に入りにくかったと思うね。
>>459 どっかで弥生末期の穴あき真珠は出土してないんかな
話題が微妙と言うか? 俺?
邪馬台国の女王国印は、
親魏倭王の伏線だろ?
漢委奴国王印は有る。
なら、漢委奴国王は誰?
アタシ、嫌魏倭王じゃ、ダメですか?
倭人伝って、サンタフェだよね。
ファンだから… w
モロが欲しかった。
卑弥呼より、伊代
間違った、りえちゃんなw
>>454 魏使の報告書も存在しないんだよ
古代の基資料の記録なんてもう存在しないよ
魏志倭人伝の記述等から推測するしかないんだ。
>>456 真珠が5000孔は多過ぎる
白い石に穴をあけたものだよ。
>>450 魏ではなく公孫氏の記録からの引用だと言ってるだろが!
公孫度が遼東太守に任じられたのが189年、卑弥呼が共立されたと推定されるのも189年
>>458 なんか変な感じ、それで台与はどうしたの?
何もかも間違えていた。
離婚が唯一の道だ。
おまえは、九州で暮らせ。
俺は畿内を離れない。
そのころ、海では・・・
みたいな?
>>466 01 倭人 在 帯方 東南 大海之中 依山島 為國邑 旧百餘國 漢時 有 朝見者
02 今 使 譯 所通 三十國 從 郡至倭
03 循海岸 水行 歴韓国 乍南乍東 到 其北岸 狗邪韓國 七千餘里
04 始度 一海 千餘里 至 對海國 其 大官日 卑狗 副日 卑奴母離
05 所居 絶島 方可 四百餘里 土地 山險 多深林 道路 如禽鹿徑
06 有千餘戸 無良田 食海物 自活乗船 南北市糴
07 又 南 渡 一海 千餘里 名日 瀚海 至 一大國 官亦日 卑狗 副日 卑奴母離 方可三百里
08 多竹木 叢林 有三千許家 差有 田地耕田 猶不足食 亦南北市糴
09 又 渡 一海 千餘里 至 末盧國 有四千餘戸
10 浜山海居 草木茂盛 行 不見前人 好捕魚鰒 水無深浅 皆 沈没 取之
11 東南 陸行 五百里 到 伊都國 有千餘戸 官日 爾支 日 泄謨觚 柄渠觚
12 丗有王皆統属女王國 郡使 往来 常所駐
13 東南 至奴國 百里 官日 兕馬觚 副日 卑奴母離 有二萬餘戸
14 東行 至不彌國 百里 官日 多模 副日 卑奴母離 有千餘家
15 南至 投馬國 水行二十日 官日 彌彌 副日 彌彌那利 可五萬餘戸
16 南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
17 官有 伊支馬 次日 彌馬升 次日 彌馬獲支 次日 奴佳鞮 可七萬餘戸
18 自 女王国 以北 其 戸數 道里 可得略載 其 餘旁國 遠絶 不可得詳
19 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國
次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國
20 此 女王 境界 所盡
21 其南 有 狗奴國 男子為王 其官有 狗古智卑狗 不属女王
22 自郡 至 女王國 萬二千餘里
23 男子 無大小 皆 黥面 文身 自古以來 其使 詣中國 皆自稱 大夫
24 夏后少康之子 封於會稽 断髪文身 以避 蛟龍之害
25 今 倭 水人 好沈没 捕魚蛤 文身 亦以 厭大魚 水禽後稍 以為飾
26 諸國 文身 各異 或左 或右 或大 或小 尊卑 有差
27 計 其 道里 當在 會稽東治 之東
(旧語 自謂 太伯之後 衆聞皆訝 以其遠絶 計 其 道里 當在 會稽東治 之東)
28 其 風俗 不淫 男子 皆露結 以木緜招頭 其 衣横幅 但結束 相連 略無縫
29 婦人 被髪 屈結 作衣 如 単被穿 其 中央 貫頭衣之
30 種 禾稻 紵麻 蚕桑 緝績 出 細紵 縣綿 其地 無 牛 馬 虎 豹 羊 鵲
31 兵用 矛盾 木弓 木弓短下長上 竹箭 或 鉄鏃 或 骨鏃 所 有無 與
32 但耳 朱崖 同 倭地 温暖 冬夏 食 生菜 皆 徒跣
33 有 屋室 父母 兄弟 卧息 異處
34 以 朱丹 塗 其身體 如 中國用 粉也 食飲 用 俎豆 手食
35 其死 有棺 無槨 封土 作冢 始死停喪 十餘日 當時 不食肉
36 喪主 哭泣 他人 就歌舞 飲酒 已葬擧家 詣 水中澡浴 以 如練沐
37 其 行來 渡海 詣中國 恒使一人 不梳頭 不去蟻蝨 衣服垢汚 不食肉 不近婦人 如喪人
38 名之 為持衰 若行者吉善 共顧 其生口 財物 若有疾病 遭暴害 便欲殺 之謂 其 持衰 不謹
39 出 真珠 青玉 其山 有丹 其木有 枏杼橡樟楺櫪投橿烏號楓香
40 其 竹篠簳桃支 有 薑橘椒襄荷 不知 以 為 滋味 有 獮猴黒雉
41 其 俗 擧事 行來 有所云 為輒 灼骨 而卜以 占 吉凶 先告所卜其辭 如 令亀法 視 火坼 占兆
42 其會同 坐起 父子 男女 無別 人性嗜酒 見大人 所敬 但搏手 以當跪拝
43 其人 寿考 或百年 或八九十年
44 其俗 国 大人 四五婦 下戸 或 二三婦 婦人 不淫 不妬忌
45 不盗 僅少諍訟 其 犯法 軽者 没 其妻子 重者 没 其門戸 及 宗族
46 尊卑 各有 差序 足相 臣服 収租賦 有邸閣 國國 有市 交易 有無
47 使 大倭 監之 自女王國 以北特置 一大率 檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於 國中有 如刺史
48 王 遣使 詣 京都 帶方郡 諸韓國 及 郡使 倭國 皆 臨津 捜露 傳送文書 賜遺之物 詣 女王 不得差錯
49 下戸 與 大人 相逢道路 逡巡入草 傳辞説事 或蹲或跪 兩手據地 為之恭敬 對應 聲曰 噫比 如然諾
50 其國 本亦 以男子 為王 住七八十年 倭國 乱 相攻 歴年 乃 共立 一女子 為王
51 名日 卑弥呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國
52 自為王 以来少有見者 以婢千人自侍 唯有 男子一人 給飲食 伝辞 出入 居虚宮室
53 楼観 城柵 厳設 常有 人持兵 守衛
54 女王國 東渡海 千餘里 復有國 皆倭種
55 又有 侏儒國 在 其南 人長三四尺 去女王 四千餘里 又有 裸國 黒齒國 在 其東南 船行一年可至
56 参問 倭地 絶在 海中 洲島之上 或絶 或連 周旋可 五千餘里
57 景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏将送詣京都
58 其年 十二月 詔書 報 倭 女王 曰
59 制詔 親魏 倭王 卑弥呼 帶方太守 劉夏 遣使送汝 大夫 難升米 次使 都市牛利
奉 汝所獻 男生口四人 女生口六人 班布二匹二丈 以到
汝所在踰遠乃遣使貢獻是汝之忠孝 我甚哀汝
今以汝為親魏倭王 假金印紫綬 装封付帶方太守假綬 汝其綏撫種人勉為孝順
汝來使難升米 牛利 渉遠道路勤勞 今以難升米為率善中郎將 牛利為率善校尉 假銀印綬
引見勞賜遣還 今以絳地交龍錦五匹 絳地縐粟罽十張 蒨絳五十匹 紺青五十匹 答汝所獻貢直
又特賜汝 紺地句文錦三匹 細班華罽五張 白絹五十匹
金八兩 五尺刀二口 銅鏡百枚 真珠チ丹各五十斤 皆装封付難升米牛利
還到録受 悉可以示汝國中人使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也
60 正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書 印綬 詣倭国 拝仮倭王
61 并齎詔賜 金帛錦罽刀鏡采物 倭王 因 使 上表 答 謝 詔 恩
62 其四年 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪拘等八人
63 上獻生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹木拊短弓矢 掖邪狗等 壱拝 率善中郎將 印綬
64 其六年 詔賜 倭難升米 黄幢 付郡 假授
65 其八年 太守王頎到官
66 倭 女王卑弥呼 與狗奴國 男王卑弥弓呼 素不和 遣倭 載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状
67 遣 塞曹掾史張政等 因 齎詔書 黄幢 拝假 難升米 為檄告喩之
68 卑弥呼 以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者 奴婢 百餘人
69 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時 殺千餘人
70 復立 卑弥呼宗女 壹與 年十三 為王 國中遂定
71 政等 以 檄告喩 壹與
72 壹與 遣倭大夫 率善中郎將 掖邪拘 等二十人 送政等還 因詣臺
73 獻上 男女生口三十人 貢 白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹
正しく読めば結論は出てるわけだけど
質問が有るなら、読んでからだよね?
倭人伝が正しく読めない理由が有るのか?
原文に何か、質問ある?
>>455
>白い珠ってなんじゃい
「白珠」はハマグリの貝殻加工説(白碁石のごとく) @阿波 >>475 そうだね、東南を正しく読めば正解に達する。
>>475 貴方の意訳を載せないと
貴方の意思は伝わりませんね
東南を正しく読んだら、○○○に達した。これ正解だね!
倭人伝の東は30度ズレているので東南も30度ズレているとするのが正解
>>455
>白い珠ってなんじゃい
「白珠」はハマグリの貝殻を玉に加工したもの。(白碁石のごとく) @阿波 >>479 漢文、漢詩、経典は
翻訳してはいけない。
役者が演じた戯曲には
マエストロの解釈が有る。
文字に意味があるのであって
他意には、訳者の誘導が介在する。
経典であれば、
原語の音に意味が有る可能性
も、忘れてはいけない。
倭人伝には和音の漢訳が多いが
陳寿は原典を正確に書写する意味を
理解していた。
経典の南は東にならない。
至と到、有と化、里程と日程、
臺が壹になるのには理由が有る。
>>481 地図を捻じ曲げてるな。
そういうチョロまかしをするのは、自分が誤ってることを認識してるから。
曰く、語るに落ちるとは、まさにこのこと。悪党めが・・、
>>481 その図を示して30度ずれてるというのは初めに結論ありきで論理的ではない
例えば、釜山から対馬までとか他の部分を示して30度ずれてるといった上で、その図を示すべき
>>487 対馬からの方位は書かれて無いが、
対馬から壱岐の南もズレている
古田説をひとくちかじり、古代史チャンネルをひとくちかじり、安本説をひとくちかじり、
あちこちかじって、何が何でも糸島に卑弥呼がいたとしたいようだな。
なのに、糸島に卑弥呼の墓が無いのは、
改葬されて纒向石塚に葬られたが、戦時中、高射砲陣地にされて
今は何も残っていない、ざんねん、と云いたいんだろな・・。
>>488 地図を捻じ曲げておいて、30度とごまかすか
悪党めが!
>>490 これが東なら30度ズレている
>>492 当時の北極星は、西へ13度ずれていた。
だから、その図の矢印を東といって何も問題ない
東南佐賀ルート完成で、糸博ももうおしまいなんだよ。寺澤クンにもそう云っとけ。
>>493 会稽の東も30度のズレで解決
孫栄健説はひどいつまみ食い。
概ね古田説のパクリに加えて、晋書をつまみ食いしてるわ。
倭人伝を読み解けないものだから、お子様向けの晋書で捻じ曲げるなんてサイテー
魏志倭人条、
・可七萬餘戸(傍国21の部分中略)男子無大小 皆黥面文身 自古以來 其使詣中國 皆自稱大夫
晋書倭人条
・戸有七萬 男子無大小悉黥面文身 自謂太伯之後 又言上古使詣中國皆自稱大夫
対照してみると晋書は、
魏志の邪馬台国「7万戸」の処から飛んで、「男子無大小・・」、部分を抜き書きしてる。
晋書の7万戸は、実は邪馬台国7万戸の残骸であり、倭国全体が7万戸だったわけではない。
孫栄健の早トチリ、やっつけ仕事だね。
>>496 晋書の認識は倭国=邪馬台国「7万戸」なんだな。
>現代日本において晋書の部分日本語訳を行った越智重明は
>「晋書には多くの誤りがあり、干宝の晋紀や、世説新語などで校正しなければならない」
>「占田制・課田制のような重大な歴史学の問題でも、
>晋書には誤りがあるので鵜呑みにしてはいけない」
晋書の評価は芳しくない。
事実、晋書の7万戸は、行程記事最後の邪馬台国部分の7万戸だけの切り張りであり、
倭国全体の戸数ではない。
肝心の倭人伝を信用せず、曰く付き晋書の誤り部分を根拠にした、
孫栄健の説は大きな誤りを犯している。
晋書の認識は倭国=邪馬台国「7万戸」の認識が正しいよ。
投馬国5万戸が朝鮮半島南部
邪馬台国7万戸が九州北部(倭国)
晋書が間違ってると言うのではまともな反論にはならんな
倭人在帯方東南大海中 依山島為國 地多山林無良田食海物 舊有百餘小国相接
至魏時有三十國通好
↓
(上から下へ、行程記事をぶっ飛ばし、いきなり邪馬台国7万戸へ行ってる。晋書のずさん編集。
↓
戸有七萬 男子無大小悉黥面文身 自謂太伯之後
呉の太伯の後と書かれていてそれが縄文人と繋がるってのが無茶苦茶なんだな
晋書が間違ってると言う人はずさんな頭だな
バカの思い上がりw
世間でも、晋書はいわく付きとガンガン批判されてる。
迂闊に信用するほうが思い上がり
晋書は卑弥呼の時代から300年くらいしか経ってないから
魏志倭人伝の基資料も残ってた可能性が高い時期に造られてる
自分の考えと違うからと安易に批判する前に自分の考えが間違ってるのではないかと思うべきだな。
>>506 呉の太伯一行が本当に入植してたら、そんな目立つ入植遺構はとっくに見つかってるわな
炊飯土器は鼎か鬲
住居は戸建て住居
帯と袴(ズボン)のある漢服と布靴
原始漢字も伝わるわな
古墳時代の到来が1500年くらい早まる
「300年くらいしか」って言われてもなぁ
今の我々が1724年のことをどれだけ分かるというのか
>>511 残念ながら行程記事はバッサリ削られて、「戸有七萬」しか残っていない。
これでは邪馬台国論争に役立たないねえ。
>>515 晋書では対馬国〜不弥国の戸数が入ってないからこれらの国々は倭の「戸有七萬」内数だって認識なんだよ。、
>>506 そこじゃないよ。縄文w
卑弥呼時代はもう
アマテラスのほうで
違う感じなんで
漢57年~107年の奏上とは思うけど?
太伯を知ってる倭人がいた。だろ?
箕氏が殷周王の系図持ってきたかwww
後漢だとしても、
呉人、漢人でも知り得るか?
史記 読むしか無いだろw
中国貴族いたのか?
畿内朝廷も、万世一系になるか?
>>516 投馬国の戸数も入っていないだろ・・
ま、それならそれでどうぞご自由に。オレは博多方面へ行ってミイラにゃなりたくねえからな。
天つ神が弥生人で、国つ神が縄文人
高天原はデカン高原だよ
>>522
大国「投馬國」は黒潮太平洋沿岸地域に決まっている。 @阿波 >>522
大国「投馬國」は、温暖黒潮太平洋沿岸地域に決まっている。 @阿波 不彌国・吉野ヶ里の南の熊本に邪馬台国国衙で、阿蘇高千穂には女王卑弥呼の都する所、
更にその南の宮崎都万に投馬国有り
宮崎投馬国は、
北に西都市都万の西都原古墳有り、
瓊瓊杵尊と木花咲夜媛の墓と伝えられる巨大古墳2基を始めとする壮大な規模。
南に宮崎市の生目古墳群あり、生目は邪馬台国の官の伊支馬の故地とされる。
熊本平野の山鹿市と菊池市の境界に、なんと「臺」という地区がある。
念の入ったことに、今も臺集落や、臺郵便局、砦(とりで)保育所まである
その北側には、30haもの方保田東原の鉄工房団地が埋まっている。発掘されたのはまだわずか。
ここが邪馬台国の軍事・経済を担った国衙と推定されている。
邪馬台国は数多異国がなまったもので、多くの島からなるフィリピンの事である。
魏志にも絶在海中洲㠀之上 或絶或連 とある。
この熊本平野の邪馬台国の国衙「臺」からは、
今の国道325号線に沿って阿蘇南谷を進み、高森町から外輪山を越えるとあとは下り道。
高千穂町三田井の字「神殿」に女王卑弥呼の宮殿があった。
高千穂町は奈良の桜井市とほぼ同じ面積で、
北に祖母山有り、東西と南は最大深さ150mの渓谷断崖で守られている。
古えの宮殿と国衙は一本の街道で結ばれていたのであろう。それが今も国道325号線としてにぎわっている。
倭人伝、
主線行程始点の末盧国は、古代遺跡が集中する唐津インター出口の中原の津 →
→ 東南陸行500里の伊都国は、佐賀川上の皇統太神宮跡 →、
… 東南至奴国100里は、傍線行程行き止まりの佐賀城址。
→元の佐賀川上伊都国に戻って、東行100里の不彌国は吉野ヶ里、
ここが主線行程の終点。
この終点からは、東至 西至 南至 北至の四至説明となり、以下の南至2国を列記。
→ 南至の投馬国は、宮崎平野5万戸、(自郡至)水行20日。
→ 同じく南至の邪馬台国は、熊本〜阿蘇7万戸、(自郡至)水行10日陸行1月。
尚、自女王国以北 其戸數道里可得略載から、里数なき投馬国は女王国の南180qの宮崎平野と確定する。
又、自郡至女王国1万2000里から、主線行程不彌国・吉野ヶ里までの1万600里を差し引けば1400里、
故に、不彌国・吉野ヶ里の南至1400里(約110q)に女王の宮殿城柵があったとなる。
驚くなかれ、そこは、阿蘇高千穂・三田井の天照大御神と日向三代の宮跡!
(補注):
だからといって邪馬台国の隗のように、天照大御神=卑弥呼とは言いえない。
紀元前とされる天照と日向三代の王宮は、
4代目神武の東遷で荒れ野に帰った。
紀元後その野を、肥後の土蜘蛛女族が拓いて馬臺国を建て、卑弥呼を戴いて女君王朝としたからである。
倭人伝論争が倭王はどこに居たか?
になってるけど、
漢の委奴国も親魏倭王の金印も卑弥呼の皇帝の親書も、
それが倭国の王と認定してるわけじゃないよ?
だから倭人伝だろ?
三国志の倭王は呉と組めば公孫氏同様の敵
と言うか、遥かにデカい国で、魏は何も知らない隣国。
三国志で、だよ? 魏帝は同盟したいよね?
倭は、半島利権が必要なら
南朝側、呉となら同盟したいかもなw
陳寿の倭人伝、魏使の報告書まとめは
54 女王國 東渡海 千餘里 復有國 皆倭種
55 又有 侏儒國 在 其南 人長三四尺 去女王 四千餘里 又有 裸國 黒齒國 在 其東南 船行一年可至
56 参問 倭地 絶在 海中 洲島之上 或絶 或連 周旋可 五千餘里
大倭の中では九州島の上で、周旋可 五千餘里の国だよ。
出雲王ならともかく筑紫王って、初期朝廷では
相当な格下では? 銅鐸と銅鏡文化だよ?
歴史なんだから、250年の倭王は畿内に有ったに決まってるでしょ。
卑弥呼は、九州の女酋長でしかない。
何が卑弥呼がアマテラスだよwww
100年位で、八咫鏡作っただけだろ?
考古学が馬鹿杉じゃね?
九州説って、
九州王権が250年以降に東遷しちゃうとか
卑弥呼はアマテラスとかw 有り得ない話になんでなる?
歴史の話だぞ?
古墳時代は奈良でも、まだ未成熟だが
倭人伝で卑弥呼は前方後円墳は作ってない。
卑弥呼は、対魏で、九州の女酋長。
三国志の金印、魏倭同盟は無い。
当たり前だろ? 歴史なんだから…
考古学って理系か?
三国志読めないんだろ?
正しく読まなきゃ、話が通じないんだが?
宮崎・投馬国の遺跡を見ると、
北部に西都市都万の西都原古墳群有り、
瓊瓊杵尊と木花咲夜媛の墓と伝えられる巨大古墳2基を始めとする壮大な規模。
現在、高塚墳319基が現存し、内訳は前方後円墳31基、方墳2基、円墳286基である。
南の宮崎市には生目古墳群あり、生目は邪馬台国の官の伊支馬の故地とされる。3世紀後半頃から作られ始め、古墳時代前期としては九州地方最大の古墳群である。
高塚古墳は、前方後円墳7基、円墳36基など計51基。
外に、地下式横穴墓36基、土壙墓49基、円形周溝墓3基が確認されている。
313年の漢四郡撤退は高句麗の攻撃と言うが
倭人を背景にした、百済新羅が不服従不参戦だろ?
日本は黄幢の、246年の韓制圧戦も参戦してない。
倭人伝論争って、
韓四郡や箕氏朝鮮が無かった事にするため
今でも、やってる?
李朝朝鮮を独立させて
大韓帝国樹立が、古代韓、百済新羅の焼き直しか?
歴史を直視できない民族に未来は無い。
と、思うぞwww
卑弥呼は倭王では無い、九州の女酋長だろ?
銅鏡100枚で偉くなれるか? 金なら千両か?
そんな小物は倭王じゃない。
>>536
五万戸の大国「投馬國」は、温暖黒潮太平洋沿岸地域に興る。 @阿波 銅鏡100枚や真珠、水銀朱、で国が収まるか?
王=分家の宿祢?=専属兵に古墳作らせる倭王だぞ?
結論だが?
倭人伝論争は歴史認識がおかしくないか?
しょせん朝鮮ていったら李氏朝鮮のことだからなやつらにとっては
中国のやつらが半島を朝鮮と呼んだのが始まり
半島を朝鮮と言った歴史はほぼ日本由来
公孫氏は朝鮮、遼東で終った。
百済新羅とか、古代韓を日本が作った話
とか、大韓帝国が日清戦争で成立する話は良いんだが?
邪馬台国は歴史の話なんだが?
239年魏が公孫氏を滅ぼしたから
九州女王の卑弥呼が魏と同盟したんだろ?
で? ヤマト王朝出来た?
関係無くネ?
プーチン習近平が世界の王でも
次期日本政権を作る歴史が有るのか?
俺が居るだろ?
簡潔な文体の陳寿の倭人伝の謎の一つ、
何故、次有列記21国に次有が21回も付いているのか?
15 南至 投馬國 水行二十日 官日 彌彌 副日 彌彌那利 可五萬餘戸
16 南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
17 官有 伊支馬 次日 彌馬升 次日 彌馬獲支 次日 奴佳鞮 可七萬餘戸
19 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國
次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國
20 此 女王 境界 所盡
次有は、此(女王 境界)所盡 に、掛かる置き詞なのである。
ここに次有で示した国々によって、女王の境界は尽きる。
尽きるは点や線を示す文字ではなく、全てを書き尽くした、と言う意味である。
18 自 女王国 以北 其 戸數 道里 可得略載 其 餘旁國 遠絶 不可得詳
・自 女王国 以北 其 戸數 道里 可得略載 は、既に記した行程の国々。
・其 餘旁國 遠絶 不可得詳 は、それ以外の名前も知らない倭の諸国。
で、次に有るのが、女王国に所属する国々の国名詳細である。
東夷伝序文 の
東臨 大海 長老説 有異面之人 近 日之所出
遂 周觀 諸國 采 其 法俗 小大區別 各有 名號 可得 詳紀
は、梯儁が240年に漢字にした次有邪馬國に有った、
卑弥呼の臺で参問した所属国
56 参問 倭地 絶在 海中 洲島之上 或絶 或連 周旋可 五千餘里
の 21国である。 解決、皆さまありがとう。
魏志
次有→次有→ (略)→ 次有→次有奴国 ←ここが女王の境界の所盡
後漢書
倭国之極南界(に委の奴国がある)也
親魏倭王 印 貰ったよ? で
卑弥呼は倭王なのか?
疑問自体が卑弥呼が王では有り得ないんだが?
俺たちが古代史を考える
これは、却下で良い。
そうか?
魏志
次隣有→次隣有→ (略)→ 次隣有→次隣有奴国 ←以上で、女王の(勢力範囲の)境界の所盡
(注:傍国は国名以外不明の前提なので、奴国が一番南にあったとは言えない)
後漢書
倭国之極南界(委の奴国は、倭国の南の果てまで極めるや(也=極めたので)、
(注:委の奴国は博多儺の都、倭国は九州全島)
>>548 >卑弥呼は倭王なのか?
あったり前だよ。日本でいえば戦国時代だ。
金印貰っておいて、あたし倭王なんて、そんなの知りません・・、なんて言ってる場合じゃないよ
卑弥呼は北九州ヤマト連合の大王であり女王国奴国の奴国王だ
漢のときから金印を貰える地位なんだよ
【魏志】
投馬国
↓
邪馬臺国
↓
次有奴国 ←女王の境界の尽きるところ
↓
狗奴国
【後漢書】
倭国の南の国境のハテ也
>>551 A:宣帝之平公孫氏也 其女王遣使至帯方朝見
(訳:宣帝の公孫氏を平らげるや、其の(倭の)女王は使を遣して帯方に至り、朝見す)
B:倭国之極南界也、
Aの之の次の平は「平らぐ」と動詞で読む。
Bの之の次の極も「極める」と動詞で読むべし
>>545 陳寿が書いたのではないよ
陳寿は編集を行っただけ
魏志倭人伝は資料の寄せ集め
部分、部分で書いた人も書かれた時期も異なる。
>>554 「南界を極めるや」だと「南の国境を極めると」で妙な文章になる
「南の国境の極である」の方が文章が自然
司馬懿の功績で呉の東方海上の大国邪馬台国が朝貢してきたという風に一見読めるが実は漢の時代から知られてる九州島の小国奴国だったと言う話だよ
倭人伝は九州だが
所詮、考古学の領域で
200~250年の筑紫域と畿内の関係
主従か断絶か争乱か親交か。
こっちだろ?
>>558 銅鐸~平原女王墓は、断絶。
前方後円墳時代は、主従。
どっち?
>>549 後漢書の情報は魏志か?
後漢の倭国情報は?
ソースだせwww
なんせ後漢書は1世紀前半の九州島・倭国を書いてる。其の頃は委奴国は倭国の最南だった。
しかしその後、2世紀初めには面土国王師升が台頭した。
そして2世紀後半の倭国大乱を経て卑弥呼共立だ。
つまり、1世紀の委奴国の南に面土国、邪馬台国、投馬国等、その南には狗奴国も出来た。
後漢書の委奴国は、魏志の時代には極く南界ではなくなっていたんだよ。
魏志の時代、(台与の国中遂定した)倭国の最南は狗奴国なんだよな
陳寿のトリックに引っかかっていまだに愚かな論争を続けてる東の野蛮人たち
そうだね
陳寿とその部下たちはなかなかのやり手、実にうまく書いてるねえ。
>>560 魏志(三国志)も後漢書も朝廷に残る行政記録が元々のソースだよ
後漢書に関しては国が編纂した東観漢記がまずあって、その後に民間の史家が作成した物がいくつもあった
魏志もそうだけど、後世の作じゃないと為政者に不都合な記載が出来ないし、為政者に都合の良いように書かれてしまうから
三国志も元々私書だったのが採用されただけだしね
卑弥呼の君臨した時代は189〜247年
公孫氏は189〜238年
魏とは死亡する前10年くらいなのに約50年間も公孫氏と卑弥呼は付き合っていた
公孫氏が卑弥呼の倭に付いて多くの事を記録していたんだ
短里や女王国と呼んでるのは公孫氏の記録だね。
>>566 先ず、親戚筋の公孫域がいて、その跡を継いで初代公孫度が太守になった。
その公孫氏一族一統と卑弥呼の年代をしっかり読めば、
ほぼ公孫氏の記録からということになるね
[九州・高千穂之宮の戦略的有利性]
九州島はウミガメの甲羅のようなこんもりした地形です。
背筋はなだらかで、北端の飯塚から、日田市、高千穂町を経て、南端の霧島市まで、
国道(211号線→212号線→256号線→223号線)が走っています。
この道は古代の獣道から発展した九州中央山嶺縦断の幹線道路なのでしょう。
高千穂之宮は、丁度この中間点にあります。
>>567 自女王國以北 特置一大率檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
この刺史の職務を検察としてるのも公孫氏の記録からの引用だね
古い時代のことだから刺史を檢察としてるんだ、魏の時代だと刺史は地方長官だからね。
公孫度は190年から既に独立して自らが王になることを考えていたのだなあ
三国志(魏志 公孫度)
初平元年,度知中國擾攘,語所親吏柳毅、陽儀等曰:「漢祚將絕,當與諸卿圖王耳。」魏書曰:度語毅、儀:「讖書云孫登當為天子,太守姓公孫,字升濟,升即登也。」
初平元年(190)、公孫度は、中國が擾攘すると聞いた。公孫度は、親しくする吏である柳毅や陽儀らに言った。「漢祚が、まさに絶えそうだ。諸卿らとともに、王となることを図ろう」と。
『魏書』はいう。公孫度は、柳毅と陽儀に語った。「讖書はいう。孫登が天子になると。太守である私は、姓が公孫、あざなが升濟だ。升とは、登である」
「勉強しろ」は都合が悪くなった時クズ人間が使う言葉だよ
>>570 卑弥呼に付いて詳しい記録を残せたのは公孫氏以外にはいないからだよ。
畿内説は文献には根拠が無い、
というのだがw
これは、文献が無い話し、だぞ?
誰が、なんで、相手にすんだ?
公孫氏 曰わく、正しい歴史認識では
キリストは韓国生まれである。
考古学的には
卑弥呼はアマテラスである。
古代朝鮮は遼東ではない。
箕氏朝鮮が存在した根拠はない。
漢四群は無かった。
半島に日本古墳は無い。
任那日本府は無かった。
百済新羅の建国に日本の支援は無い
七支刀人物画像鏡と高句麗王碑は捏造
儒教では日本は古代韓の弟の国だ。
邪馬台国はヤマト国だ。
竹島、対馬は韓国領である。
漢文の漢字は飛ばして読め。
犬鍋には、味噌より、んこ。
>>576 根拠は魏の使者で女王卑弥呼に会ったのは正始元年(240)の梯儁だけで
正始八年(247)の張政が倭を訪れた時点では卑弥呼は死亡しており女王卑弥呼とは会っていない
張政時には倭は男王、壹與なので倭の王を単に女王とは呼ばない
従って女王と記してるのは正始元年(240)の梯儁
女王国と記してるのはそれ以前の公孫氏時代の記録となる。
論理的な帰結だね。
「自郡至女王國 萬二千餘里」の様に女王国と里はセットで使用されてるので魏志倭人伝の里は公孫氏時代の里である
1里約80mの短里は公孫氏時代のものだと考えられるね。
「南至投馬國水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七万餘戸」
の部分は梯儁が倭を訪れた時の記録で帯方郡からの日数
前後の文章は公孫氏時代の記録となるな。
デタラメをしつこく書き込む阿波と同類のにおいがするな
[倭人条の行数割り振り(概略)]
前段56行・・・後漢57年〜199年
中段 7行・・・後漢200年〜220年(卑弥呼共立200年頃とする)
後段25行・・・魏朝220年〜256年(年号入り記事。晋代の臺与分3行含む)
後漢時代(57〜220)と推定される記事は、前〜中段63行
魏時代(221〜256)と推定される記事は、後段25行
>>581 里程も日程も帯方郡から倭への同じ行程を記したものだったのですね
書いた人、書かれた時期が違うんですね
陳寿の編集によって続けて記載されてるんですね。
A:帯方郡〜末盧国唐津まで1万里を水行10日、
唐津から熊本平野及び阿蘇盆地のの邪馬台国女王の都(高千穂)まで2000里を陸行1月。
B:帯方郡〜末盧国唐津まで1万里を水行10日、
唐津から九州西岸ー薩摩半島回りの宮崎都万平野の投馬国まで1万里を水行10日、合計水行20日。
古代の歴史書は、歴史の順番通り、竹簡を並べて綴り、保管した。
竹簡1枚が、上のほぼ1行に相当。
その中から重要な条(竹簡)を抜き書きして、
倭人伝に再編集したとみられる。
誰も見たことがない
公孫氏文書の解説ができると
倭人伝の改行もみえるらしい。
陳寿の倭人伝もせめて、
改行と段落があれば、昭和の考古学者でも
もう少し正しく読めたと思うんだが。
>>1 ★★★猿でもわかる邪馬台国の九州否定説★★★
邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html 伊都国(福岡県糸島市)
↓
↓百里
↓
奴国(福岡県博多湾付近)
↓
↓百里
↓
不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)
↓
↓水行二十日
↓
投馬国(不明)
↓
↓水行十日、陸行一月
↓
邪馬台国
まともな地図を作れなかった古代では距離や方角を常時正確に測ることは難しかった可能性が高い。
しかし、古代であろうと水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい。
ということは、もうこの時点で方角に関係なく、不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が
一番最初に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている。
(北部)九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい歳した大人がいつまでもみっともないよ。
もういい加減あきらめようぜ。
>>590 つまり倭人伝のあらかた信用できないが、
1万2千里の大和に邪馬台国が有ったという、天の声だけは信じる天里教。
吉野ヶ里・弥生ミュージアム
(当サイトについて)
>弥生ミュージアムは、国営吉野ヶ里歴史公園が、吉野ヶ里遺跡にとどまらず>弥生時代全般について、広く興味・関心を喚起すべく、運営しております。
>このサイトを通して多くの方に弥生時代、ひいては吉野ヶ里遺跡に
>興味、関心をもっていただければと考えております。
国営吉野ヶ里歴史公園は偏向してるんじゃないの。
唐津東南にあった伊都国・奴国・不彌国は佐賀平野でしょ。
だから、吉野ヶ里が不彌国に当ることは、論理的かつ容易に比定できるはず・・。
百田とか竹田宮とか渡邉とかは九州説なんだよな
あれ?あれれ?
ネトウヨはなんでみんな九州説なの?
>>590 未だそんな幼稚なことを言ってるのか
進歩がないな。
里数が大幅に盛ってあるんだから日数も戸数も大幅に盛ってあるよ
>>590 未だそんな幼稚なことを言ってるのか
進歩がないな
ダウンロード&関連動画>> ダウンロード&関連動画>> ダウンロード&関連動画>> ダウンロード&関連動画>> ダウンロード&関連動画>> 行程記事が公孫氏の残した資料と魏の帯方郡の郡使の梯儁の報告書の組み合わせだって考えれば、短里等の矛盾は無くなるね。
>>595 そもそも畿内説は万世一系の天皇家というものが幻想だというためにできた説だからな
ネトウヨが否定したいのは天照=卑弥呼と邪馬台国=大和朝廷だから邪馬台国の位置はどこでも関係ないんだよ
>>598 戦前の佐賀は旧制高等学校だった。だが博多は、明治以来の九州帝国大学だった。
だから倭人伝論争も佐賀を疎んじて、糸島イト国だの博多奴国だのと、
博多・箱崎押しの流れになっているのだ。オメもそのクチ
>>600 しかしその当時大和朝廷が支配してたはずの、四道将軍が派遣された範囲内の場所が邪馬台国と認定されることだけは避けないといけない
よって吉備から東だと都合が悪いわけで、ましてや畿内説などもっての外だ
ヤマト王権の文化は纏向遺跡に始まる
この纏向の支配層は九州や吉備からやってきた外来者であった
纏向遺跡内にあり王家の宗廟と推測されている最古の墳墓が纏向石塚古墳である
オレはこの古墳の被葬者が記紀の神武天皇伝説のモデルになったヤマト王権の初代王であると考える
畝傍山の東北にある所謂「神武天皇陵」は飛鳥時代の何処かで作られた参り墓だろう
当時のヤマト王権では初代王の墓所に関する伝承が失われていたために祭祀用の墓が倭京や藤原京の宮廷から歩いていける場所に設けられたと考えられる
古事記の太安万侶の墓も実物が発見されており、今に伝わる太安万侶墓は参り墓だったことが分かっている
このように参り墓と埋め墓は混同されて後世に伝わっていく
宮内庁が欠史八代の墓として治定している墳墓?も恐らくは参り墓で、崇神以前の王陵の実物は纏向勝山や東田大塚やホケノ山といった古墳が該当するのだろう
>>601 九州帝大には文系学部なかったから、関係ないやろw
>>605 >九州帝国大学
>1924年(大正13年) - 法文学部を設置、2名の女子学生を受け入れ。
この他、東京帝国大学の学長人事、京都帝国大学の医学部の講座面で深い交流があった。
よって九州の学府と云えば九州帝国大学のことであり、佐賀の旧制高等学校など意識の中にもなかったであろう。
その差があって、「唐津から東南」を、当然の如く北東の怡土島へ読み替え、今に至っているのであろう。
>>605 地元地理に詳しいはずの九大なのに、「唐津東南は佐賀平野」の論陣を張るどころか、
ぎゃくに、福岡市西区に「伊都キャンパス」まで作って、他大学を応援している。
まさに自爆ギャグ、大笑いだ。
呼子付近に上陸して東南へ五百里だから糸島市南東部が伊都国だね。
>>608
その妄想に見合う遺跡は一切無いけどな。 @阿波 >>610
そりゃ、通っていない所に碌な遺跡はないよ。 @阿波 >>608 先に糸島を決め、そこからバックして500里の呼子にしたことはミエミエ
その手にゃ、乗らないよ。
遺跡もないし、飲料水も、ふろ水も、洗濯水もろくにない陸の孤島呼子ww
>>608 で、帰りも糸島から、唐津中原経由で呼子まで歩くのか?
そんなアホするくらいなら、最初から唐津中原にしとけ、
競艇場もあって水夫が遊んで待つのにゃこと欠かん、天国よ。
>>612 名護屋城を建てたのは水があったという事だろ
>>615
出来るだけ、出航地(平戸辺り)に近い所に築城した。 @阿波 >>615
出来るだけ、出航地(平戸辺り)と帰航地(福津辺り)の中間地に築城した。 @阿波 宣教師のルイス・フロイスの記録によれば、秀吉は家臣達に「多くの軍隊を、他と比べて簡単に朝鮮半島へ渡らせることが出来そうな港があるか」と聞き、「肥前の有馬晴信の兄で波多殿の領内に名護屋という良い港があります。平戸から約56㎞で、1千余艘の船が安全に出入りでき、名護屋から朝鮮半島へ渡ることは難しいことではないでしょう」との答えを得たといいます。
>>618
よって、
出来るだけ、出航地(平戸辺り)と帰航地(福津辺り)の中間地に築城した。 @阿波 菅氏ノ説ニ「漢土ニ渡ルニモ、對馬ニ趣クニモ、コノ美彌良久埼ヨリ船發キセシナリ
出港は今の玄海町の美彌良久岬付近から潮に乗るのが最も好都合だった。
そのため、東の船は呼子付近に集まり、西の船は西松浦に集まって、潮時を待った。
このことを知らずして、魏の船は呼子に入港したと説く学者も少なくないが、
これは間違い。
潮に流されつつ南へ降るので、
入港は唐津〜糸島深江〜博多方面が好都合だった。
>>624 唐津〜糸島深江付近に呼子以上の良港無し
確かに呼子は深さはあるが、インフラが整っていなかった。
大きいといっても木造船、唐津でも深江でも入れた。
糸島市二丈深江には、三韓征伐の神功皇后を祀る鎮懐石神社もある。
>>622
>出港は今の玄海町の美彌良久岬付近から潮に乗るのが最も好都合だった。
つまり、対馬海流を利用して朝鮮半島へ渡海するのに好都合だった。
逆に、帰航地(末盧国)は、、対馬海流を利用して福津市(万津浦)辺りへ帰航するのに好都合だった。 @阿波 >>627
よって、秀吉は
出来るだけ、出航地(平戸辺り)と帰航地(福津辺り)の中間地に名護屋城を築城した。 @阿波 >>622
>出港は今の玄海町の美彌良久岬付近から潮に乗るのが最も好都合だった。https://www.city.goto.nagasaki.jp/s009/010/030/020/020/3chousanaru3.pdf
つまり、対馬海流を利用して朝鮮半島へ渡海するのに好都合だった。
逆に、帰航地(末盧国)は、、対馬海流を利用して福津市(万津浦)辺りへ帰航するのに好都合だった。 @阿波 >>623 240年は帆船で来ているが
ジャンクのような古代船の喫水線はそんなに深くない。
軍船が金印と皇帝のお宝を乗せて、
韓の未開地水行で来たのだから、小隊単位で
九州運河を引くような小型船の人数では来ない。
山東半島から、楽浪帯方を急襲した新鋭船だろ?
博多湾でも浜になったのは東側だろ?
埋立地はともかく、糸島側は元寇防塁有るよ?
>>634
>240年は帆船で来ているが
妄想。 @阿波 240年に魏から初の使者梯儁が来てるが楼船と呼ばれる公孫氏討伐にも使用された大型の軍船での来日と考えられてる
喫水線はそんなに深くないが大型なので浅い浜辺だと接岸出来ず、沖に停泊して小型の舟に乗り換えて上陸する必要があった
当時の伊都郡と志摩郡の間は浅い海で大型船だと近づけなかったんだ。
《書》稱「東漸於海,西被於流沙」
其九服之制 可得而言也。然荒域之外 重譯而至 非足跡車軌所及 未有知其國俗殊方者也
自虞暨周 西戎有白環之獻 東夷有肅慎之貢 皆曠世而至 其遐遠也如此
及漢氏遣張騫使西域 窮河源 經歷諸國 遂置都護以總領之 然後西域之事具存 故史官得詳載焉
魏興 西域雖不能盡至 其大國龜茲 于ゥ 康居 烏孫 疏勒 月氏 鄯善 車師之屬 無歲不奉朝貢 略如漢氏故事
而公孫淵仍父祖三世有遼東 天子爲其絕域 委以海外之事 遂隔斷東夷 不得通於諸夏
景初中 大興師旅 誅淵 又潛軍浮海 收樂浪 帶方之郡 而後海表謐然 東夷屈服
其後高句麗背叛 又遣偏師致討 窮追極遠 逾烏丸 骨都 過沃沮 踐肅慎之庭 東臨大海
長老說有異面之人 近日之所出 遂周觀諸國 采其法俗 小大區別 各有名號 可得詳紀
雖夷狄之邦 而俎豆之象存
中國失禮 求之四夷 猶信
故撰次其國 列其同異 以接前史之所未備焉
>>636
当時の「楼船」は、運河などで使われた川船だ。 外洋船ではない。 @阿波 >>636 だから文字通り深い湾で、神功皇后の鎮懐石伝説もある二丈深江に入った。
神功皇后の足跡
>>640 素晴らしい足跡図だねえ
神功皇后も、佐賀→唐津→呼子は陸行し、呼子〜糸島は船で移動してる。
唐津〜糸島間は山岳地帯で、山越えは困難を極めた。
つまり倭人伝の「末盧国・唐津から東南陸行」は佐賀平野が常識だったことの証。、
本州から半島に渡るときに沖ノ島ルートもあるんだよな
加部島の田島を含め制海権を持っていたのが宗像族だったのがわかる
>>640 これソースは日本書紀か何か?
古事記ではひたすら西に進軍して新羅を攻めたことになってる
実際、海流の流れを考えればひたすら西に行くのは理にかなってる
シン日本古代史 概論
カテゴリ:シン日本古代史
◆シン日本神代古代史◆
高天原=邪馬台国=九州北部
天照大神=卑弥呼+台与
天孫(族)ニニギ命=邪馬台国系の代官一族
神武天皇以降は、邪馬台国連合から独立した。
十代崇神天皇が邪馬台国を制圧したので、天照大神=卑弥呼+台与が祟った。
「高天原=邪馬台国=九州北部」説の初論者(おそらく)は、益田謙三『赤裸々の神代』(大正8年)
天照大神の生誕地=筑紫の日向(九州の南or北)
天孫(族)降臨地=対馬国・壱岐国・伊都国
天孫ニニギ命の名前=アメ「ニキ」シクニ「ニキ」シアマツ「ヒコヒコ」ホノニ「ニギ」ノ命
邪馬台国から伊都国へ派遣されたの代官名は「爾支ニキ」
対馬国と壱岐国の代官名は「卑狗ヒコ」
日向三代は邪馬台国の代官の系統なので、独立した存在とは言えないから、天皇とは認定されなかった。
畿内に独立国を成立させた神武天孫族系が、その後に高天原=邪馬台国と勢力争いになって、十代崇神天皇の御代に、かつて祖先が属していたた高天原=邪馬台国を制圧してしまった。
欠史八代は天孫族と高天原=邪馬台国との争いの歴史なので、古事記・日本書記の記述はカットされた。
・・・なので、天照大神=卑弥呼・台与に祟られる事となった。
崇神天皇は祟りを鎮める為に、
ニニギが台与から授かった、ヤタの鏡を地元神と一緒に宮中で祀ったが、祟りが収まらないので場所を替えて祀った。
そして後に、ヤタの鏡は倭姫に託された。
それが、伊勢の神宮の由来である。
ニキが邇邇芸なら、ニキの兄弟が饒速日で、ニキの子孫が神武ですね。ニキの祖母が平原女王かな
ニキは平原女王から八咫の鏡を含む三種の神器を受け継いだ可能性があるな
日本の王家の起源がヒムカにあって、日本書紀によると彼の土地は韓国に向き合う良い場所とのことである
ヒムカとは恐らく今日の糸島市であり、弥生時代に伊都国と呼ばれた地域と考えられる
日琉語話者は紀元前700年頃に韓半島から九州北岸へ移住を開始した
伊都国は日琉語属が日本に上陸を行った最初の場所であった可能性がある
日本書紀の云う韓国に向かい合う良い土地というフレーズは日琉系民族の故郷が韓国である事を叙述しているに等しい
弥生人上陸の地と思われる由緒ある伊都国の王家が邪馬台国つまりヤマト王権の王家になったのだろう
ネトウヨは日本人は縄文文明人の子孫などという世迷言を捨てて、日本書紀の精神を尊重して日本人は韓半島からやって来た弥生文化人の子孫と主張するべきである
日本の王統譜の初代に当たるニニギは高天原から韓国向き合うヒムカに降臨したのだという
高天原とは日琉語属の故郷である韓半島を指すのであろう
この過去の楽園神話というのは凡そ豊かだった失われた過去の記憶が元ネタになっている
オレは高天原とは寒冷化する前の遼河文明時代の記憶を元ネタとなり、やがて韓半島を指すように変化して、遥かな後世になって天界を指す言葉になったと推測する
かつて朝鮮半島南部は倭人の土地だったからな
対馬海峡を挟んで朝鮮半島南部と北部九州を含む地域が魏志倭人伝の描く「倭国」だ
だから魏志倭人伝の行程記事は狗邪韓国から始まる
>>649 >日本書紀によると彼の土地は韓国に向き合う良い場所とのことである
>ヒムカとは恐らく今日の糸島市であり、弥生時代に伊都国と呼ばれた・・
海岸から見れば、視線が低いのでそういう狭い見方になるが、
祖霊祖母山のような高い山の上から見れば、北は韓国、南は屋久島・種子島の広大な景観。
>>649 >邇邇藝命は、この地は韓国からくにに向かい、笠沙かささの岬まで真の道が通じていて、
>朝日のよく射す国、夕日のよく照る国である。
北を云うなら、南もある。笠沙の埼は、今の鹿児島県南端の野間岬のこと。
古田的な糸島近辺だけのちっこい描写でなく、倭国九州島全体を描写した雄大なスケール。
>>649 >やがて韓半島を指すように変化して、
韓半島と云っても、多くの王族、種族が入れ替わり立ち代わりした。
武帝以前なのか、楽浪郡の時代なのか、帯方郡〜卑弥呼の時代なのか?
朝鮮人が、妄想ウリナラ節を唸っているねw
↓をアクロバティックに妄想で解釈してからにしてもらうか。
朝鮮半島に王権シンボル=鏡の風習はない。
また、前方後円墳の古いものも存在しない。
卑弥呼のいた二世紀前後の倭種(日琉語話者)の領域は
半島中部から西日本にかけて。
その倭人世界の中心は狗邪韓国から伊都国の対馬海峡諸国。
ダウンロード&関連動画>> {行程の読み方}・・・又=更に
又渡る、又渡る、又渡る・・・又で繋いである場合は、渡る行程の連続読み。
陸行○○里伊都国、至奴国○○里、東行○○里不彌国・・・叉が無いので、伊都国からの二股読み。
南至る、南至る ・・・又が無いので、主線終点の不彌国から南方向の二股読み。
(注:主線終点からは、正式には、東至、西至、南至、北至、の四至記述となる)
{神功皇后の足跡図}
神功皇后も、呼子→糸島間は、脊振山系の難路越えになるので、糸島深江まで船で移動してる。
しかし、呼子〜唐津〜佐賀は陸行してる。
つまり三世紀・倭人伝の「唐津末盧国の東南陸行500里到る伊都国」は、
多久経由の佐賀平野が常識だったことの証し。
戦前の佐賀の旧制高等学校に対し、博多は明治以来の帝国大学だった。
そのせいか、倭人伝に明記されている「末盧国東南陸行・・(佐賀平野)」の一節を疎んじ、
糸島イト国だの、博多ナ国だの、宇美フミ国だのと、博多中心の不可思議な行程論を強行して得意がる。
おまけに九大は、福岡市西区に伊都キャンパスなるを建設して後押しする始末。
邪馬台国論争の正体は、畿内説、九州説を問わず、旧帝中心の差別的行程論と言えましょうぞ。
[九州・高千穂之宮の戦略的有利性]
九州島はウミガメの甲羅のようなこんもりした地形です。
背筋はなだらかで、北端の飯塚から、日田市、高千穂町を経て、南端の霧島市まで、
国道(211号線→212号線→256号線→223号線)が走っています。
この道は古代の獣道から発展した九州中央山嶺縦断の幹線道路なのでしょう。
高千穂之宮は、丁度この中間点にあります。
ネトウヨ思考
・日本人は縄文人の子孫
・日本語は縄文語の子孫
・Y遺伝子Dが自慢
・縄文文化を縄文文明という
・邪馬台国は九州と主張
・日本が中華に朝貢したのが許せない
・アイヌ人はシベリアからやってきた虐殺者
・なぜかエベンキという民族に関心がある
・古史古伝や日ユ同祖論などのオカルトを信奉
・邪馬台をじゃまたいと呼んでしまう低学歴
・国学者の九州説をなぜか反皇国史観と思い込む
・酸素同位体比年輪法を無視して纏向を四世紀という
・時系列を無視して漢字を現代音で読んでしまう
[つづき]
この中央山嶺縦断幹線からは、あばら骨のように、各県、各都市、各邑へ枝道が下っています。
橋の無かった古代、大河に阻まれて沿岸部の通行は極めて困難でした。
しかし中央山嶺幹線とあばら骨支線を使えば、高千穂の宮から九州全土へ、3-4日で伝令が到達できました。
なお政治の中枢の高千穂・女王之所都と、邪馬台国の軍事経済の主邑だった山鹿市(方保田東原)は、
古街道で結ばれていました。
この街道は、今、国道325号線として整備され、産業・観光の道としてにぎわっています。
[つづき]
熊本平野の山鹿市と菊池市の境界に、なんと「臺」という二・三世紀の高台遺跡がある。
念の入ったことに麓には、今も、臺集落や、臺郵便局、とりで保育所までそろっている。
そしてその北接地には、30haもの方保田東原のハガネ鉄工房群が埋まっているが、発掘されたのはまだわずか。
ここが邪馬台国の軍事・経済を担った国衙・国邑と推定されている。
[つづき]
この国道325号線沿いの、
熊本県南阿蘇村両併と高森町津留にまたがって幅・津留遺跡が存在します。
この遺跡は、弥生時代中期後半(約2000年前)から営まれた集落であり、台地上に位置しています。
遺跡の特徴:
弥生時代中期の集落と弥生時代後期の集落が発掘されています。
両集落は、条溝で囲まれた居住域を持ち、条溝の外には墓域があります。
墓域には、木棺土壙墓や直葬土壙墓が存在します。
中期集落では、土器廃棄溝(土壙)から多量の赤彩土器が出土しています。
後期集落には、攻玉遺構(2棟以上)や鍛冶遺構(2棟以上)が伴っています。
鉄製品には、鏃、刀子、斧、ヤリガンナ、小型工具、尖端工具、船底形鉄器、
鎌、摘鎌などが含まれており、武具・狩猟具、農具、工具が組成されています。
ガラス製品は、玉類であり、カリガラス小玉13点、
ソーダ石灰ガラス小玉1点、鉛バリウムガラス製管玉1点が出土しています。
[つづき]
国道325号線の山鹿川終点近くには、かの有名な方保田東原遺跡が有る。
この遺跡は、熊本県の北部、菊池川中流域の標高35mの台地上に所在する、
弥生時代後期から古墳時代前期にかけての集落跡である。
昭和55年の宅地造成計画に伴い、山鹿市教育委員会が確認調査を実施したところ、
少なくとも東西330m、南北300mに及ぶ環濠集落跡であることが判明した。
出土遺物としては、多数の土器のほか、鉄鏃・刀子・手鎌・鉄斧などの鉄製品と、
巴形銅器・銅鏃・小型仿製鏡などの銅製品がある。
弥生時代から古墳時代にかけての社会を知る上で重要であることから、国の史跡に指定された。
>>663 いや〜、チョンコに生まれなくてホントに良かったわ
ネトウヨは倭の五王の朝貢ですら無かったことにしようとして九州王朝説なる戯言を言い出すからな
邪馬台国はヤマト国であり、卑弥呼はヤマトの女王であり、日本は建国の折に中国の属国になった
そして、その後も天皇は中国の権威を借りて倭国王として諸国統一を果たしたのである
韓国語で 稲イネ は ピョ。 米コメ は サル だ。
まったく語源・音韻が違う。
コメは南中国語「ミー・マイ」に近い。飯メシ、も同語源と思われる。
よってコメは朝鮮から来ていないし、朝鮮語と日本語は無関係。
これは日本語で、まったく解釈不可能だ。 数千年となりに居た民族とは思えない。
イネが朝鮮から伝来したのなら、名称が似ているはずだ。
ぴょ、ぴょ と言われても、鳥の鳴き声を真似ているとしか日本人は理解しない。
反対に 馬ウマ は古代インド=ヨーロッパ語の馬の名称である マー が入っている。
これは百済語のマールか、中国語のマーから日本語に入ってきたことがわかる。
>>671 日本語の語彙読みが広すぎなのかな?
稲は植物名でイネ、トゥ
米はコメ、マイ
飯はハン、メシ、まんま
撥音は?でも、サルならシャリも・・・
てか、韓国語って、古代無くね?
日本語も時代背景や方言地域性も?
古代朝鮮は古いが、今の韓国・韓国人・韓国語は新しい
途中で入れ替わってるんじゃないの
稲をイネと言うけど、現在の中国語とは発音がずいぶん違う。
稲は中国から伝わっていないのですかね?
日本に稲作を持ち込んだのは長江下流域にいた「倭人」でしょうね
おそらくアカ族や苗族に近い民族でしょう
鳥居や注連縄の文化を日本列島に持ち込んだのも彼らでしょう
彼らは入れ墨をし潜水漁労も行っていました
その人達が戦火を逃れ北上し山東半島や朝鮮半島を伝って北部九州に辿り着いたのでしょう
なので稲作関係の日本語はそうした民族の言葉が持ち込まれたものかも知れませんね
>>674 DNAを調べて中国直系と半島経由の2種がある事ぐらい知っておけ
>>676 それ、ぜーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーんぶぜんぶ朝鮮経由
売名狙いのペテン師の佐藤洋一郎が現代イネしか調査せずに朝鮮経由と中国直伝があると
馬鹿に欺罔してるだけ
遺伝子は必要がなければ消滅するので、最古稲作遺構菜畑のイネとそれ以前の
朝鮮イネで調査すれば全て朝鮮経由だと分かるはず
そんな当たり前の事もせず、現代朝鮮イネだけ調べて朝鮮経由と中国直伝があると
ウソブいてんの
何のために?
自らの売名のために
日琉語は中国の遼寧省が起源
ネトウヨ理論だと日本語は縄文文明の言葉で弥生人が中国南部からやってきて稲をもたらしたらしい
これは日本会議や統一教会の史観そのものである
まず縄文人の言葉は原アイヌ語。つまり縄文人は日本民族ではない
日琉語話者は中国の遼河流域から弥生人として日本列島にやってたのである
弥生人を南支那とか中卒ギャグ飛ばしてるのはネトウヨじゃなくて
五毛党チンコロ工作員部隊な、ピピンパロイド
>>679 >日琉語話者は中国の遼河流域から弥生人として日本列島にやってたのである
で、その入植痕遺構はどこ?どこ?どこ?どこ?
.
時代がずっと後のものだから楽浪郡か帯方郡から取り入れたものだろうね
三眠蚕もな
>>679 うーむ
アイヌの伝承によると彼らは蝦夷地の原住民ではなく、彼らが蝦夷地に来た時にはコロポックルという背の低い原住民がいたらしいんだが
>>685 ネットみてると誤解があるようなのでいちおう補足しておくと、アイヌは原住民ではないけど先住民であることに間違いはないので勘違いなきよう願います
詳しくはググれば先住民と原住民の違いは出てくるけど、ようするにコロンブス到着以前のアメリカ先住民だって互いに戦争してたわけで、そういう人たちのうち誰が最初にそこに来た原住民かなんて分からないから、そこは問わないのが国際ルールになってます
>>684 吉野ヶ里から貨泉や漢式鏡が出土してるから1〜2C頃の楽浪文物と分かり、
楽浪郡から取り入れたイネだよ
イネや三眠蚕を含めて楽浪文物という事
炭化米の研究を続けている和佐野教授の調査によると「長粒系の炭化米は吉野ヶ里出土のものが一番大きかったが、瀬ノ尾遺跡の炭化米はそれより更に大きく、徐福伝説で知られる-徐福のふるさと、中国江蘇省連雲港市の焦庄遺跡の長粒系炭化米に近づく大きさである」と言う。
連雲港あたりから山東半島経由で長粒種が遼東半島に取り入れられて、
それが楽浪郡に搬入されただけだろ
楽浪郡は遼東郡の分家なんだから
>>690 旧弥生中期(前1〜1C)の遺跡という事だろ
池上曽根遺跡は龍を描いた壺が出てるので明らかに楽浪郡と交流が始まった1Cに
楽浪郡と交流している
龍は1Cに楽浪郡から伝わった信仰
はいダメ
時代考証が無茶苦茶
龍信仰なんてものがそんな昔からあった証拠は出ていない
龍の紋章ってもともと漢王家の紋章だけど
王家以外の者がそんなの使えるのか?
日本で龍を題材にした絵画などが流行るのも室町時代からだぞ
つまり1200年ころ
一般の者らがそんなもの使えばすぐ目を付けられるんじゃないのか?
中国で龍だのなんだのほざくのも漢王家の紋章だったからだろ
勝手に使う中国人が後世に増えてきた結果だ
>>692 紀元前後には虺龍文鏡が渡来して各地で出土してるよ
王家紋を勝手に使用したらどおなるか、、、
そっから考えてね
日本でも🐉の王家紋が知られるようになるのも1200年ころからね
中国人らで使用するやつらが多くなったから日本にも伝わったとするのが一番合理的
日本における思想学は室町以前の世界に対しては通用しないんだよ
中国の解釈
ダウンロード&関連動画>>
北部九州一帯を邪馬台と比定している
599
子孫じゃなくて政治勢力圏だろ
ちなみに呉人らと呼ばれる連中らは中国全体を呉の国と呼び漢の国とは呼んでおらん
中国教育部人文社会科学重点研究基地
世界漢字学会会長 ザン克和教授
「邪馬台国の場所は九州北部」
「古代の地名はその場所の地理的な環境に影響を受ける。当時山の多い九州北部一帯はヤマと呼ばれていて、中国の使者がその言葉を聞いてその音に近い漢字をあてた」
大阪教育大 張莉准教授
「『ヤマ』は縄文の昔からあった古地名。九州北部を示す呼び名だった」
魏晋南北朝史学会副会長 陳長崎教授
「魏志倭人伝は魏の時代について書かれた文章そのものではない。いくつかの時代の史料が融合した可能性が高い」
「邪馬台国の場所は九州が理にかなう。『女王国の東の海を千里あまり渡るとまた倭人の国がある』とある。つまり邪馬台国の東には海があったことになる。畿内説ではこの条件と一致しない」
「邪馬台国は九州にあったが、畿内に移動した。同時に地名も移動している。国が移動して地名も移動するのは古代ではよくあること」
台湾大学教授 政治学研究所 周徳望教授
「中国の歴史書に書かれた他国までの距離の記述は非常に曖昧。地理的なことに関する認識は現地の案内人など地元の人に影響される。中国史に記載された距離をそのまま日本に当てはめてはいけない」
「明代に描かれた中国最古の世界地図では日本は現在よりはるかに南にかかれており、中国の真東にあると認識されていた。実際には海流で流されて九州にたどり着く。当時の認識では長江の東は九州だった。邪馬台国は九州にあったはず」
「政治体制や文化については正確に記述している。現地のの人は顔に入れ墨をしているが、この風習は九州南方の民族である隼人、熊襲とも考えられる。当時の畿内にはこのような風習は存在しなかった」
「伊都国が海外との重要な交流の場、政治を担っていたのなら、邪馬台国が遠く離れた場所から伊都国を管理するはずがない。牛も馬もいないため運搬能力が低い。道路の状況も良くない。邪馬台国が伊都国から遠く離れていることは考えられない」
中国教育部ねえ
まさかそんなやつらが好き勝手に日本の歴史どおたら語ってるんじゃあるまいな
事実としたらそいつら捕まえてきて処刑するぞ
>>704 越権行為w
じゃあ日本人で中国の歴史研究しとるやつおるけど、それも越権行為なんかよ
ここで重要なことは中国人の研究者がなんの先入観もなく魏志倭人伝を読んだら、邪馬台国は九州にあるように読める、ということ
ネトウヨ思考
・日本人は縄文人の子孫
・日本語は縄文語の子孫
・Y遺伝子Dが自慢
・縄文文化を縄文文明という
・邪馬台国は九州と主張
・日本が中華に朝貢したのが許せない
・アイヌ人はシベリアからやってきた虐殺者
・なぜかエベンキという民族に関心がある
・古史古伝や日ユ同祖論などのオカルトを信奉
・邪馬台をじゃまたいと呼んでしまう低学歴
・国学者の九州説をなぜか反皇国史観と思い込む
・酸素同位体比年輪法を無視して纏向を四世紀という
・時系列を無視して漢字を現代音で読んでしまう
>>697 日本列島で鴨王が使用していたのだから問題ない
ヤマト王権は建国の折に中国の属国になりました
卑弥呼の朝貢が何よりの証拠です
これを教科書に書かないから九州説という国学者の亡霊のような連中が湧き出てくる
あとアイヌは日本の先住民であるということ、和人は弥生時代に韓半島からやってきたと、これは受験勉強の際に学ばせるべきである
ハンギョレ新聞のニュースで倭国が百済を支配していた証拠なる妄説が出ていてうんざりした
そのニュースとは「韓国ソウル付近の百済遺跡で1600年前の日本人居住痕跡を発見」というものだ
埴輪工房があったから倭人居住区と分かったのだが、倭人が百済を支配していたなどあり得ない
オレは逆に埴輪の起源が百済であったと考えたい
埴輪が用いられていたのは栄山江流域だけでなく、百済全域であった可能性があり、倭人はこの文化を輸入したのだろう
記紀では殉葬を禁止して埴輪を建てたというのだが、これは信じ難い話だ
形象埴輪が人物埴輪になったのは百済文化の影響だったのではなかろうかと思う
いや、兵馬俑を知らんのか
確かに百済から伝わったのかもしれんが起源はそこじゃない
アンビエント系音楽で最高のリラックスを獲得してください。
どんなに苦しい立場でも、リラックスと共に生きることができれば最強の人生です。
ナイアシンを用いた民間療法も、大変有効です。確実に薬が減って行きます。
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そして、なにより重要なのが高タンパクな食事です。頭、体、心、すべてのパフォーマンスを上げてくれます。
試してみてください。無人島SOUEI YAMAOKA←コピペしてください
中国教育部人文社会科学重点研究基地
世界漢字学会会長 ザン克和教授
「邪馬台国の場所は九州北部」
「古代の地名はその場所の地理的な環境に影響を受ける。当時山の多い九州北部一帯はヤマと呼ばれていて、中国の使者がその言葉を聞いてその音に近い漢字をあてた」
大阪教育大 張莉准教授
「『ヤマ』は縄文の昔からあった古地名。九州北部を示す呼び名だった」
魏晋南北朝史学会副会長 陳長崎教授
「魏志倭人伝は魏の時代について書かれた文章そのものではない。いくつかの時代の史料が融合した可能性が高い」
「邪馬台国の場所は九州が理にかなう。『女王国の東の海を千里あまり渡るとまた倭人の国がある』とある。つまり邪馬台国の東には海があったことになる。畿内説ではこの条件と一致しない」
「邪馬台国は九州にあったが、畿内に移動した。同時に地名も移動している。国が移動して地名も移動するのは古代ではよくあること」
台湾大学教授 政治学研究所 周徳望教授
「中国の歴史書に書かれた他国までの距離の記述は非常に曖昧。地理的なことに関する認識は現地の案内人など地元の人に影響される。中国史に記載された距離をそのまま日本に当てはめてはいけない」
「明代に描かれた中国最古の世界地図では日本は現在よりはるかに南にかかれており、中国の真東にあると認識されていた。実際には海流で流されて九州にたどり着く。当時の認識では長江の東は九州だった。邪馬台国は九州にあったはず」
「政治体制や文化については正確に記述している。現地の人は顔に入れ墨をしているが、この風習は九州南方の民族である隼人、熊襲とも考えられる。当時の畿内にはこのような風習は存在しなかった」
「伊都国は海外との重要な交流の場であり、また政治を担っていたのなら、邪馬台国が遠く離れた場所から伊都国を管理するはずがない。牛も馬もいないため運搬能力が低い。道路の状況も良くない。邪馬台国が伊都国から遠く離れていることは考えられない」
>>716 この人たち、5ちゃん見て無くね?
のび太君、なの?
見つめなくっちゃ、真実をw
>>197 から、かな?
中国人なら
漢文読めるはずか?
と思うよ?
句読点とか?
変な字にした国には無理かも?
表意文字って、中国人に判る?
習近平に倭人伝里だとw
中国から台湾国境まで何里か聞いてミw
>>717 >この人たち、5ちゃん見て無くね?
アホ?中国人台湾人の学者が5chを見ているわけなかろうよw
>>717 変な字って、戦後の日本が作った新字体のことか?
澤を沢にするとか、辯を弁にするとか、滅茶苦茶なことばかりしてる
中国の簡体字は、澤は泽、辯は辩で、まだ理解できる
>>719 日本の略字は結構、歴史古いよ。
例えば、沢は室町時代とかじゃね。
中国のはもう歴史とか糞とかなくて気持ち悪い
としか言いようがない。
>>720 気持ち悪いと思うのは勝手だけど、どっちが元の漢字をイメージしやすいかと言われたら、圧倒的に簡体字の方やな
>>721 弁と辯は違う字だし。台と臺も同じ関係。略字として
使われただけ。ある程度の年月経て、慣用的に受け入れられた
略字と似てるからこうでいいっしょの字とか一緒にしてもね。
そんな事を言ってるのではない。
簡体字にしたら中国語訳だし
平仮名が混ざったら日本語。
邪馬台国と邪馬臺国は、意味が違う。
という話が通じているか?
倭音を漢字にすれば平仮名と同じ、
文語の漢文は表意文字だという話。
なるほどね
卑彌呼と卑弥呼は全くの別人
壹與と台与はもっと
ってことね。納得
そこ?
到と至
有と可
里程と日程
筆致の違いには
夏目と芥川の違いが有る。
って、話。
>>726 夏目と芥川の違い、という表現で何を言いたいのかさっぱりわからんけど、
至と到は違う意味で使っていると思うよ
伊都国は魏使の最終到達点なので到を使っている
魏使はそこに長期滞在していたので、女王はそこから遠い場所にいたはずはない
里程と日程も違うでしょ
違う時代の情報を併記したものとしか考えられず、日数表記の方は出発点が不称国ではなく大陸のどこか
公孫氏の持っていた情報を書き添えたのかもしれん
>>727 たぶん奴国には行ってないけど不弥国には行ってる
東南至奴國百里 官曰兕馬觚 副曰卑奴母離 有二萬餘戸
東行至不彌國百里 官曰多模 副曰卑奴母離 有千餘家
こういう似た構造の文章を書いて、奴国に「行」と書かず不弥国に「行」と書いたのは、奴国には行ってないけど不弥国には行った、という意味だろう
>>728 は?水行して投馬国行って、そこから水行陸行して邪馬台国行ったんやろ?
まあこの辺は書き方が曖昧なので、
大陸のどこか→投馬国→邪馬台国
なのか
大陸のどこか→投馬国、大陸のどこか→邪馬台国
のどっちなのかはいまいちはっきりわからない
文章技法が確立されていない時代の文章だから、そのあたりは仕方ないだろう
>>727 筆致の違う二人の文と言うのは帳政と梯儁の報告書
02 今 使 譯 所通 三十國 從 郡至倭
↑陳寿はまず魏時の使の譯に從る郡至倭を記す。
03 循海岸 水行 歴韓国 乍南乍東 到 其北岸 狗邪韓國 七千餘里
04 始度 一海 千餘里 至 對海國 其 大官日 卑狗 副日 卑奴母離
05 所居 絶島 方可 四百餘里 土地 山險 多深林 道路 如禽鹿徑
06 有千餘戸 無良田 食海物 自活乗船 南北市糴
07 又 南 渡 一海 千餘里 名日 瀚海 至 一大國 官亦日 卑狗 副日 卑奴母離 方可三百里
08 多竹木 叢林 有三千許家 差有 田地耕田 猶不足食 亦南北市糴
09 又 渡 一海 千餘里 至 末盧國 有四千餘戸
10 浜山海居 草木茂盛 行 不見前人 好捕魚鰒 水無深浅 皆 沈没 取之
11 東南 陸行 五百里 到 伊都國 有千餘戸 官日 爾支 日 泄謨觚 柄渠觚
12 丗有王皆統属女王國 郡使 往来 常所駐
13 東南 至奴國 百里 官日 兕馬觚 副日 卑奴母離 有二萬餘戸
14 東行 至不彌國 百里 官日 多模 副日 卑奴母離 有千餘家
これが、247年張政の報告書引用で、倭人船で来た。
到と至を使い分け、停泊地の和名を聞いて、里程を記している。戸数は有。
伊都迄しか来ていない。
12 丗有王皆統属女王國 郡使 往来 常所駐
丗は卅 丗 三十だろう。陳寿はこの文字は使っていない、そのまま引用した。
30有王全ての統属女王國は伊都を往来していた。郡使は伊都に常駐した。
これは、伊都で役目が完了した理由。役目は齎詔書 黄幢 拝假と檄告諭である。
67 遣 塞曹掾史張政等 因 齎詔書 黄幢 拝假 難升米 為檄告喩之
71 政等 以 檄告喩 壹與
72 壹與 遣倭大夫 率善中郎將 掖邪拘 等二十人 送政等還 因詣臺 で、帰った。
「東南陸行五百里到伊都國官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚有千餘戸世有王」
「丗有王(これ・ここに、王有り)」
「丗」は、「此女王境界所盡」に習い、「此」の誤字だろう。
同じく、「邪馬壹國」も「邪馬臺国」の誤字だろう。 @阿波
240年梯儁の報告書
15 南至 投馬國 水行二十日 官日 彌彌 副日 彌彌那利 可五萬餘戸
16 南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
17 官有 伊支馬 次日 彌馬升 次日 彌馬獲支 次日 奴佳鞮 可七萬餘戸
18 自 女王国 以北 其 戸數 道里 可得略載 其 餘旁國 遠絶 不可得詳←陳寿の補足
19 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國
次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國
20 此 女王 境界 所盡
21 其南 有 狗奴國 男子為王 其官有 狗古智卑狗 不属女王
22 自郡 至 女王國 萬二千餘里←陳寿の補足
梯儁は卑弥呼の王宮へ金印を届けた。兵を伴い魏の軍船できている。
60 正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書 印綬 詣倭国 拝仮倭王
61 并齎詔賜 金帛錦罽刀鏡采物 倭王 因 使 上表 答 謝 詔 恩
馬韓を過ぎた南至 投馬國 水行二十日、南至 邪馬壹國 水行十日 は九州上陸、
女王之所都へは、さらに陸行一月だった。其南 有 狗奴國。
直列する3国で里程を示すのではなく通過日数を記したが地理説明である。
戸数は可。到の使い分けは無い。
次有列記21国は、王宮で聞いた所属国名を漢字にしたもの。
陳寿は、張政の通過国と梯儁の参問国以外は名前も知らない。
次有邪馬國で卑弥呼の臺を見た。邪馬の臺は和音ではない表意文字。
魏で臺は曹操の高楼を言う、絶対的表意文字だった。
>陳寿は、張政の通過国と梯儁の参問国以外は名前も知らない。
で、
投馬国と邪馬台国は、梯儁による仮称国名だが
246年に魏は韓を制圧し、
韓王朝を滅ぼし官制を敷いているので
247年張政と陳寿も、これを採用はしていない。
弁辰韓なら韓伝で弁韓12国、辰韓12国で5万戸だが、
梯儁の投馬国は任那?加羅?のような。
邪馬台国21国7万戸は、糸島福岡筑紫平野でしょw
>>734
>邪馬台国21国7万戸は、糸島福岡筑紫平野でしょw
碌に鉄器さえも作れない糸島福岡筑紫平野がか? 妄想も大概にしろ。 @阿波 畿内説の999記念で貼ったら、反論で進展有ったんでご紹介。
23 男子 無大小 皆 黥面 文身 自古以來 其使 詣中國 皆自稱 大夫
24 夏后少康之子 封於會稽 断髪文身 以避 蛟龍之害
25 今 倭 水人 好沈没 捕魚蛤 文身 亦以 厭大魚 水禽後稍 以為飾
26 諸國 文身 各異 或左 或右 或大 或小 尊卑 有差
27 計 其 道里 當在 會稽東治 之東
(旧語 自謂 太伯之後 衆聞皆訝 以其遠絶 計 其 道里 當在 會稽東治 之東)
倭人の刺青考だが、普通は27 計 其 道里 當在 會稽東治 之東
が、何を言ってるのか判らない。
計 其 道里は 動詞+行程、距離なのに、距離を計れる主語が無い。
倭国が主語なら、當在 會稽東治と言う点から北緯で示すものではない。
沿海州の之東まで、倭なのである。
當在 會稽東治の直訳は、現在地が會稽東治 では?
之東は、意味不明。
自當在 至會稽東治 之東 であれば、
洛陽から會稽東治迄の道里=里程を東に持って行く。 になる。
太伯や少康の子の故地會稽東治から、
倭迄は遠すぎるから、信じられないという話だろ?
そもそも
01 倭人 在 帯方 東南 大海之中 依山島 為國邑 旧百餘國 漢時 有 朝見者
なのに、當在 會稽東治の東 は、無い。
計 其 道里 って、線の長さで會稽東治の東は点。
>>729 帳政の文書だという前提で読むと
東南至奴國百里は、
奴国王、奴国王のショウミ、難升米は伊都に来た。
伊都から奴国国境までは100里。奴国は2万戸。
東行至不彌國百里は、
72 壹與 遣倭大夫 率善中郎將 掖邪拘 等二十人 送政等還 因詣臺
帰国便が出た博多湾の港町。
なのではないかな?
二人の報告文だが、陳寿は要約している。
和音を漢字にするのには、原文を尊重した。
廣史の邪馬台国は、
邪馬嘉国、つまり音は関係ない。
表音文字を表意文字に転換するなら
字意 が消せれば、似た字形ならなんでも良かった。
>>737 >伊都から奴国国境までは100里。
ちょっと違う
魏志倭人伝を含む東夷伝の各国間の距離は基本的に「国境線から首都までの距離」が書いてある
末廬国〜伊都国だけは道に迷わないよう上陸地点から書いてあるようだがね
例えば高句麗伝
http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gisi_kokuri/gisi_kokuri.htm
「高句麗在遼東之東千里 南與朝鮮濊貃東與沃沮北與夫餘接 都於丸都之下 方可二千里」
高句麗の位置が遼東の東1000里と記されているが、この距離は遼東と高句麗の国境から高句麗首都の丸都までの距離が短里で記されている
遼東の都・襄平から丸都までだと230kmほどなので短里でも長里でも一致しないし、方可二千里は短里でなければ遼東をも飲み込んでしまうのでそもそも長里ではあり得ない
襄平起点だと東に短里1000里の地点は丸都から短里2000里近く離れているので高句麗領方可二千里が成立しなくなるから「首都から国境までの距離」というのも違う
高句麗伝の記載と一致するのは「遼東と高句麗の国境線から高句麗首都・丸都までの距離」一択
http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gisi_kokuri/kokuri.gif
丸都は現在の集安市であり鴨緑江のほとりなのでこの図の高句麗版図のほぼ中央にあたる
方二千里の国土の中央なので遼東郡との国境線から丸都までの距離が千里ということ
上記を当てはめると奴国への東南百里は「伊都国と奴国の国境から奴国首都の春日丘陵までの距離」ということになる
奴国の王墓とされる須玖岡本遺跡から逆算して北西に短里100里(約8km)だと現在の天神のあたりに相当するので
それより少し西にある西新町遺跡あたりが伊都国の東端、ということになる
ちなみに丸都城は城址が見つかっているから現在の吉林省集安市なのは確実
ユネスコにも登録されてる
http://whc.unesco.org/ja/list/1135 > 中国東北部から朝鮮半島北半部にかけて、紀元前1世紀後半から紀元後668年まで栄えた高句麗王国時代の遺跡群。3都市に40の古墳群があり、
> 五女山城・国内城・丸都山城のほか、14の王陵と26の貴族墓からなる。
> 近代都市・集安に位置する国内城は、高句麗の首都が平壌に移った後も、重要な都市としてあり続けた。
> また、高句麗王国の首都の一つだった丸都山城の内外には、広大な宮殿や37の墳墓などさまざまな遺跡が残る。
1里が何キロなるか計算しても辻褄が会わないなら計算が間違ってる。
>>739 陳寿は張政の報告書を引用。
倭音の漢字化の為元本が手元に有る。
同じ地名でも、郡で聞いたのと
旅程で聞いたのの字が違う。
末盧国から伊都国までの距離の4倍の場所が邪馬台国
末盧国
↓
伊都国
↓
↓
↓
邪馬台国
【重要】
邪馬臺国に関する記録文献は魏志倭人伝だけではありません。
伊都国のすぐ南と書かれている文献もあるのです。
『広志』(編纂:晋の郭義恭)
広志いわく、
---東南500里で到る伊都国、又南、至る邪馬臺国--
---(このあと魏志と同様に周辺国の紹介へと続く)
伊都国:福岡西区であり倭国の守衛国
↓
又南至る
↓
邪馬臺国:吉野ヶ里、甘木・朝倉、八女など有明海と取り巻く筑紫平野に存在した小国群の総称
筑後川の遺跡群
先日公開された富雄丸山古墳の木棺の中は鏡と櫛だった
推定の段階でしかないが、ヒコヒメ制のヒメの方の棺だった可能性がある
墳丘上部の被葬者が男性だったようだから、その姉か妹ではないかとのことある
上代の倭国には政治と軍事を行う男王と祭祀の女王がいたという証左だろう
イリヒコとイリヒメはペアの存在だったから、イリは政治を行う男王と祭祀を行う女王を示す称号だったのかもしれない
卑弥呼をイリヒメと考えると兄弟のイリヒコがいたはずであり、これを務めたのがヤマト王権初代王や後継者の男王たちだったのではなかろうか
前方後円墳では無いし、卑弥呼の墓は箸墓古墳と決まってる
卑弥呼の墓が前方後円墳と考えるべき根拠が完全にゼロ
妄想ではないよ。
決まり事だね、それに会わせるのが正しい。
富雄丸山のような発掘調査されていなかった古墳がまだあるからな
そのうちにヤマト王権と邪馬台国のつながりを示す決定的な証拠が出るだろう
もっともネトウヨはゴッドハンドなどと言って絶対に信じないだろうがな
現実より統一教会や日本会議の教義が正しいと信じてるからだ
247年に卑弥呼が死んでから
みんなで盛った塚だよ。
100人殉葬ってのは、
帳政が聞いた話だと思うが
古代日本の墓制的に、他人が
同じ墓ってことは無くないか?
もちろん、奴婢1000人失業は凄いけど
王が、同じ墓に入れるか?
卑弥呼は平原で良いと思うけどな?
平原は100年位からの
倭国大乱中の女王墓だろ?
古墳時代の前に、だれが、
あんな大量の銅鏡作るよ?
八咫鏡だしwww
卑弥呼の先代の奇術師でも
卑弥呼の、お母さん?
師匠でも良いけどwww
証拠が無い。
とか言ってるやつはバカだろ?
半年程度でできた、卑弥呼の墓なんて、
神社になるわけもなくミカン畑になる程度なんだよ。
古墳のわけ無いだろw
倭人伝の記述なら
247年の帳政は伊都までしか来ていない。
で、卑弥呼の墓を見た。
つまり、伊都より北だろ?
どこの、機内だよwww
247年に魏使帳政は
新造の箸墓古墳を見た。?
考古学は、あほですか?
まあ、古墳作ってみたい気はするw
墓の場所の話をしたが
次に墓の大きさについてだが、
九州説で、
東夷伝里は70~75m程度だけど
百歩は一里を超えるか?
中国の一里は300歩だかだろ?
一歩23~25cmですよね?
百歩は25m弱。
たぶん、計った訳じゃなくて
一里の三分の一位と見たはず。
梯儁の報告書の引用と帳政の報告書の引用で
二人の筆致の違いは、
里程と日程、戸数の有と化、至と到の使い分けだが、
陳寿の編纂ではあるが、
陳寿の文ではあり得ない用字、用法もある。
帳政は30に丗を使用した。陳寿は三十である。
丗有王皆統属女王國 郡使 往来 常所駐
郡使が伊都に常駐したのは魏時で帳政だけなので
往来はしたのは卑弥呼に属するすべての王で
常所駐の主語が郡使帳政、二重主語である。
この用法は、陳寿の筆法で報告書の業務日誌のような書式を
簡潔にまとめる都合で使用したものと思われる。
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 も之、二重主語。
梯儁は、次有列記21国で次有を21回も反復している。
陳寿は韓伝でも所属国名は列記したが、次有はない。
簡潔な分を好む性格なのに無駄を排除しなかった。
次有が、此 女王 境界 所盡、の 此によって盡きた。
にかかる、用法だからである。 あ、此も梯儁流かな?
陳寿の筆致の話になったけど倭人伝最大の謎は短里問題。
帳政の報告書引用が、陳寿が編纂したわけだが
陳寿の文、筆致じゃないのは確かw
帳政は247年に帯方郡の郡使として渡航した。
里程が違っていたら、役人にはなれないだろう。
陳寿は、役人による公文書として残された報告書を引用した。
三国志の他の部分とは違うのに、である。
韓伝方可4千里もだが、韓伝も246年以降に書かれている。
陳寿は247年帳政の時代は蜀の文官だから、
魏の間抜けっぷりを揶揄したか? なら、死刑っぽいけどw
後漢書、隋唐書のような後世の史書で修正されないのもおかしい。
里程書いて無いか? 廣志と魏略は同時代かな?
いずれにせよ、韓伝方可4000里と
帳政の報告書の里程を陳寿が採用しても
正始年間には、誰にも否定されない理由があった。
というのは、歴史なのではないか?
ちなみに、三国志で
短里になるのは東夷伝序文以降の
其八年 太守王頎到官の王頎の逸話
東臨 大海 長老説 有異面之人 近 日之所出 の
沃沮伝からで、韓伝と倭人伝、が短理。
ずうっと、三国志の戦国時代なのに
里程変更はあり得ないよねwww
しかし、陳寿は、引用として、採用した。
>引用として採用
02 今 使 譯 所通 三十國 從 郡至倭
陳寿は始めから、
魏時の二回の使の報告書を記述する、と言っている。
東夷伝序文
東臨 大海 長老説 有異面之人 近 日之所出
遂 周觀 諸國 采 其 法俗 小大區別 各有 名號 可得 詳紀
倭人伝の評曰
史漢著 朝鮮両越 東京撰 録西羌
魏世 匈奴遂衰 更有 烏丸鮮卑 爰及 東夷
使譯 時通 記述隨事 豈常也哉
卑弥呼がただの筑紫王だったというのはつまらない。
だけど、倭人伝には、大和朝廷や古墳時代
百済新羅王の成立に至る歴史が記されてますが?
正しい歴史で、記紀を書き直さなくても良いんですか?
考古学って、ヒントなのwww
投馬国が弁辰韓ってのが、肝か?
BC200から青銅移入は有って、
日本には現地輸入担当国もある。
製品輸入の九州と銅鐸生産の本州も根本的に違う。
統一国ではないが荘園間で対話や警察権の共有はある。
公孫氏と韓王朝が滅びて
筑紫の卑弥呼国は畿内大和と魏の
どっちと同盟したか?
結果出てるだろwww
九州は、半島進出の最前線だろ?
大和朝廷成立は
九州卑弥呼王朝に魏による公孫氏や韓王朝への
侵攻撲滅での、九州制服の危機があったから
である。
卑弥呼は、魏には答えなかった。
卑弥呼は三国志の中国王には、絶対ならない。
箸墓なら、良いのかwww
公孫だの韓王朝だのよくそんなゴミグズみたいなもん日本で喚いてるもんだなおめえらよ
だから早く死ねって言われんだぞ
引用以上の使い方しようってならそいつら死刑だろ当たり前の話だがな
>>768 短里というか、中華帝国の外側に関してはきちんとした測量しとるわけじゃないからいい加減だって話やろ
特に、当時の儒教観では遠くて大きな国が朝貢に来ることは皇帝の徳の高さを示すことになるわけだから、当然里数は長めに書く
韓伝方可4000里ってことは、邪馬台国までの12000里のうちタテヨコ4000里ずつ韓国の沿岸を行くのに使っていて、釜山から邪馬台国まで残り4000里
どう考えても九州を出ないな
>>776 >中華帝国の外側に関して
一月行の例として、漢書地理志の最後に
自合浦徐聞南入海,得大州,東西南北方千里,
武帝元封元年略以為儋耳、珠崖郡。
と
自 日南 障塞 徐聞 合浦 船行 可 五月 有 都元國
又 船行 可 四月 有 邑盧沒國
又 船行 可 二十餘日 有 ェ離國 步行 可 十餘日 有 夫甘都盧國
自 夫甘都盧國 船行 可 二月餘 有 黄支國
が有るんだけど、
まず、海南島の東西南北方千里って短里かな?
で、
その南、東南アジアの説明が有るけど方角が書いてない。
たぶん略図が有ると思うんだけど、想像するに
>中華帝国の外側に関して、で、九服の制ってのが有って
これに、方角が判る辺境の略図を書き込んだとき
一服が一月行になるように思ったんだが? 500里だとは言うけど?
他の例は、九州島は南北3月行、奈良の東山迄は5月行
京畿湾から済州島は3月行
陳寿の倭人伝文章問題は、一月行=2000里を暴露している。
あ、ついでで、儋耳、珠崖
民皆服布如單被,穿中央為貫頭。
男子耕農,種禾稻紵麻,女子桑蠶織績。
亡馬與虎,民有五畜,山多麈嗷.
兵則矛、盾、刀,木弓弩,竹矢,或骨為鏃。
これが、倭と似てるだけなのでは?
>>777 魏志倭人伝はどう読んでも北部九州内にあるようにしか読めない
他の場所は全てインチキ解釈だろ
これは考古学がどうのこうのとは全く別の話
まずは魏志倭人伝では邪馬台国が北部九州にあるであろうことを受け入れて、
その上で他の場所が本当なのだとすれば、なぜ陳寿はこのような書き方をしたのかを考察しないといけない
>>779
>魏志倭人伝はどう読んでも北部九州内にあるようにしか読めない
「倭地温暖」で即アウト! @阿波 >>779 陳寿には記紀忖度は無い。
正始年間張政の報告書で通用した
短里の採用の理由は必ず有る。
陳寿も張政も、
低調w の仮称国名、
邪馬臺国、投馬国は
採用していない。
>>782
通説畿内説では、「不弥国」はどこか言えないようだな? @阿波 里数は露布の原理で10倍にされているから12000里は1200里で520q
ソウルから福岡までおよそ520qだと陳寿は言ってるんだよ
>>783 「不弥国」が何処にあったか。それは「不弥国」があった所にあった。
各自好きな所にすればいい
>>785
各自好きな所にすればいいのなら、「邪馬臺国」も各自好きな所にすればいい。 @阿波 正しく読むという意味で
魏が韓制圧以降、
倭卑弥呼に侵攻出来る可能性は無い。
瀬戸内海の畿内は、清でも論外w
魏に朝貢する倭王は、間抜け。
ヤマト朝廷は間抜けではない。
卑弥呼が間抜け。
露布の原理か
それだと水行10日とか20日とかも納得だな
>>788 前漢の時代から倭から支那に朝貢する国があったわけでな
朝貢したら返礼品たくさんくれるんだから、そらするやろ
>>782 むしろ当時より前にあって使われていた
それが東夷では残っていたのだろう
411 :ニューノーマルの名無しさん :2021/10/05(火) 12:20:44.24 ID:mpXV5LtY0
>>361 春秋戦国時代は短里だからね
当時書かれた戦国策に記された戦国七雄の領土は全部短里で書かれている
例えば楚の領土は方五千里と記されているけど長里だと方四千里でもこんなに広い
方五千里なんてほぼ中華全土統一で秦の始皇帝が存在できないw
> 655 :不要不急の名無しさん :2020/09/26(土) 19:14:02.48 ID:y1B9e6n60
> 魏志韓伝に韓の大きさが方四千里と書かれているが、
> 三国のほぼ中央に位置する荊州・襄陽を中心に方四千里の範囲を地図に描くとこんな感じ
>
長里は始皇帝が度量衡を定めたときに作られたようだ 即位前後で同じ範囲の里程表記が5分の1になっている
533 :不要不急の名無しさん :2020/09/26(土) 15:41:24.47 ID:Qc4i4ljD0
批判も多い古田氏だがこと短里の研究に関しては正解に辿り着いていたようだ
『史記』五帝本紀 第一にある方五千里を長里で解釈すると中国全土より広くなってしまう
五帝は中国全土を網羅していなかったという始皇帝の自画自賛と矛盾する
http://nagai.sub.jp/ronbun_pdf/yamataikoku/tanli.pdf > そして古田さんは、漢の司馬遷が紀元前 91年 ころに記した『史記』に、
> 夏・殷・周の≪古法≫に拠る「短里」と、秦・漢の≪新法≫による「長里」のあることを発見します。
> 次の通りです。
>
> 『史記』五帝本紀 第一の
> 【(帝舜の地は)方五千里にして荒服に至る 】の記述は、「短里」に拠つている。
> 『〔史記本紀 I』 五帝本紀第一、ちくま学芸文庫版 25頁〕
>
> 『史記』秦始皇帝本記 第六の
> 【古の五帝は、地は千里に過ぎず 】の記述は、「長里」に拠つている。
> 『〔史記本紀 I』 秦始皇帝本記第六、ちくま学芸文庫版 145頁 〕
>
> これは、同じ≪周以前の五帝の版図≫を、
> 「短里」の行われた『五帝本紀』では、方五千里と言い、
> 「長里」が新たに定められた『秦始皇帝本記』では、(方)千里と言い換えているのです。
> 『〔倭人伝を徹底して読む』1987年、朝日文庫版 190頁 〕
>
> そしてこの記述は、
> ≪古の五帝の版図≫は〔短里で言えば方五千里〕、〔長里で言えば方千里〕に過ぎないが、
> ≪始皇帝の版図≫は〔中国全土を網羅している〕、
> と誇つているのです。
>
> では、いつから?〔周以前からの短里〕が〔長里〕に改められたのか?と言えば、ズバリ、『史記』に次の記述があります。
> 【始皇帝は五行説に立ち、古の周が≪火徳≫であるとしたのに対し、秦はこれに勝つ≪水徳≫とし、水徳に叶うと言われる黒色と六の数を尊んで、
> 符節や法冠の長さは六寸、輿は六尺、一歩は六尺、乗車の馬の数は六匹とした】
中国史書のどこかに長里と短里の長さが書いてあったのか?
短里は現代人が作ったものでは?
短里に関しては、西周の時代(BC11世紀~BC8世紀ごろ)の成立とされる天文・算術書「周髀算経」が由来だね
長里は知らん
一里が300歩と言うこと自体
意味不明なんだけど
たぶん周で一里50歩だったのを
始皇帝が6倍した、がありそう。
6尺一歩は一歩が基準?
一歩が25cmだと寸尺が無理だった。
300歩なんてアホらしくて計れないしw
昔の中国のエロい人も
50歩100歩同じ事って、言うし?
倍も違うのに、二歩だから?
計る我慢の限界。
鮮卑族は桓帝の時代、檀石槐のもと勢力を拡大し、南は漢の国境地帯で略奪を働き、北では丁令の南下を阻み、東では夫余を撃退させ、西では烏孫に攻撃をかけた。かつての匈奴の版図をまるまる我が物とし、東西は1万2000余里、南北は7000余里にわたって、広大な地域をすっぽり手中に収めたという。
丁令というのはバイカル湖あたりの部族なので、このときの鮮卑族の版図はほぼ現在のモンゴルと同じくらいの版図だといえ、南北7000余里とはおよそ1000kmということになる。
つまり、1里はおよそ130km
もし1里が長里の500mくらいだとするならば、鮮卑族の版図は南北3500kmということになり、北極海に達することになるが、だとすると丁令って、北極海に住んでたのか?
長里こそが幻想だろう
>>798 ×1里はおよそ130km
〇1里はおよそ130m
単純に割り算すれば書き間違えだとわかるとは思うが念の為
短里の1里の最小と最大の距離に差がありすぎる。と思うが
むしろ短里ではなく、露布の原理だと思った方が説明つきそう
鮮卑は5倍、東夷は10倍にしてると
それなら、水行10日陸行1月もじつは水行1日陸行3日ってことで里数との矛盾がなくなる
邪馬台国は中華の属国で天皇家は臣下であった
卑弥呼の記述が何よりの証拠
短里問題は一歩は同じ。
皇帝が決められる
何歩が一里か。でしょ?
360歩とかwww
周では50歩、100歩。
始皇帝は300歩。
なんで、247年の張政の里程を
陳寿が採用したか?、だろ?
邪馬台国は中華の属国で天皇家は臣下であった
卑弥呼の記述が何よりの証拠
1700年前の臣従をいまだに許せないネトウヨ思想は異常。
今アメリカに臣従してるのは平気なのに
邪馬台国と天皇家が繋がっていて欲しい連中が多すぎるわ
>>804 纏向に大型建物で崇神じゃなくて卑弥呼ってのはそのためなのね
倭人伝は九州王が
魏帝の誘いを断った話だぞ?
正しく読むスレだし?
魏の半島侵攻が
日本が富国強兵政策に転換して
半島進出が始まるきっかけだし?
百済新羅が
日本の前線国になるのは
これがきっかけだろ?
半島人は古代史やめとけ。
向き合えないだろ? 真実と。
810
帯方にいた連中らが日本に移動してきてから強兵策が始まってたのかもね
要するにその九州王とやらが日本平定を成し遂げたって願望を言いたいわけだろ
そんな事実はない
810
半島のやつら乞食の分際で自分らが日本を支配してるだのほざくキチガイだからな
片っ端からぶち殺すしかねえだろ
もう結論出てるんだよあのバカども
話は簡単なのだ
邪馬台国はヤマト王権で卑弥呼が魏に使いを送って、天皇は中華の臣下になったというだけである
これを否定するのがネトウヨ勢力であり、江戸時代の国学者から日本会議へと連綿と続いている九州説論者たちなのである
中華の臣下って、真逆の歴史だなwww
百済にしても、傀儡立国だよ。
倭人伝は245〜6年の韓制圧戦で卑弥呼に参戦の檄が来て
女王国がそれに応えなかったことで、247年で対魏外交が終わった話だぞ?
その後、歴史が動いたのは、
対魏晋防衛で九州が本州と合流。日本は半島進出に向かって、
313年以降は百済新羅の後ろだてで、高句麗戦突入で
高句麗人も使って牛馬の移入のような富国強兵を成功させた。
370年代には高句麗を押し返して百済や新羅の独立をさせた。
この時の七支刀から550年までの百済は日本の前線国なんだよ。
600年以降は、百済は滅亡に向かうので、
隋唐には遣唐使で師の礼は見せてるw
中華の臣下ってのはそれ中華の皇帝の部下たちのことだろ
日本は別の国なのに臣下ってかw
構わねえからとっとと死んでくれや
> 彼らはよく、社会に貢献したいと口にする。
> なんでも社会悪のネトウヨを自殺に追い込むことが、社会に貢献することなんだそうで。
> イジメや嫌がらせで社会に貢献できる教師や警官になるために、あえて帰化したんであって、祖国同胞を裏切ったわけではなく、心は●●人なんだそうだ。
>
> 昔は帰化すると裏切り者と呼ばれたりしたが、祖国に国籍を残したまま帰化する方法が確立された現在では、社会に貢献するためにむしろ帰化することが推奨されている。
> 拳銃所持で前科のある生粋の反日家ですら、今では普通に帰化している。
>
> ●●学会などはネトウヨ認定した日本人を盗撮して、痴漢の写真だと言ってばらまいている。
> それらの写真は、集団ストーカーに使用される。
> 彼らは集団ストーカーを、[地域で子供を守る安心安全パトロール]と称している。
>>817 古代中国の朝貢は意味不明。
高句麗は倭人伝時代魏に沃狙に追われるが
313年韓の四郡を潰して、350年幽州刺史楽浪候となる、
日本はこれに対抗して
百済新羅候を後援し朝貢で建国させる。
南朝での倭の五王は、高句麗交戦権と半島利権の交渉。
何もできない南朝は辺境の
戦争で勝った奴を味方にするだけだろ?
半島が永遠の奴隷国になるのは、白村江663以降。
近代史で日本が、列強に喰われる清朝満洲、
愚民化で救いようのない、大韓帝国を独立させたが
何故か古代韓とは民族的継続は無かった事が判明。
朝貢するとは? 国作りが失敗した
古代半島国家は朝貢出来る王が居なかった。
中華貴族の収奪と奴隷調達の場所だったんだろ?
歴史の真実を直視できるわけ無い。
『完全版』邪馬台国の場所が判明!歴史のミステリーがついに解明される!
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古代新羅の本当の事なら
七支刀と人物画像鏡と墓誌だと思うよ?
七支刀銘文
(表)泰和四年五月十六日丙午正陽 造百練鋼 七支刀 㠯辟百兵 宜供供侯王 永年大吉祥
(裏)先世以来 未有此刀 百濟王世子奇生 聖帝 故為 倭王 旨造傳示 後世
表は七支刀が晋で作られた経緯。 宜供供侯王は、百済近肖古王、余句である。
朝貢によって百済候となったから晋帝は百済王を侯王と呼んだのである。
名前の字がおかしいのは漢字が無かった百済音の漢字変換だからである。
倭王の高句麗交戦と半島利権の主張の南朝外交は400年以降であり、
370年で、この侯王というのは百済候=百済王しかない。
この時、晋王は漢字を伝える属国教化ための博士も送っている。
百済はこの博士も馬2頭を付けて日本に献上した。
完全な傀儡立国なのである。
裏は百済王の請願。聖帝は370年諡号仁徳の在位当時での称号である。
百済王が世子を倭王(聖帝)に委ねるのに際して、
晋王から下寵された刀の由来を示し忠誠の証として献上している。
和音、ひじりのみことに、聖帝の字を当てたのは、
百済王を日本の帝の下位に置くための謙譲である。
百済は九州諸国同様、日本の新参一領主国であった。
これ以降、百済王には倭人豪族の姫が嫁ぎ、
王子は日本で貴族待遇で養育されている。
続く。
【隅田八幡神社 人物画像鏡 銘文】
癸未年八月 日十大王年 男弟王 在 意柴沙加 宮 時
斯麻 念 長寿 遣 辟中 費直 穢人 今州利 二人等 取白上同 二百旱 作 此竟
意訳
503年8月 日本の大王位をヲホド(継体)が継承し押坂宮に在った時に、
百済候王、斯麻は、大王の時世の長寿を念じ、辟中の費直と穢人今州利を使いで送り
上質の銅二百旱で作った鏡を朝貢す。
この金石の503年は倭の五王武、雄略の最後の遣使の後であり、
継体は雄略の父、允恭天皇の後宮をも継承し百済王の朝貢を受けた。
允恭の皇后から直系でなければ押坂の宮には入らない。
この後、継体は倭の五王外交を終わらせ、
傀儡百済による中華文明吸収に転換する。
百済建国時より、百済人はその地を日本の前線の中、つまり辟中と言った。
百済王は、王子を日本に委託派遣し養育する習わしで、
百済宮廷には日本の進駐軍から辟中の費直が侍官として付いていた。
百済では日本本土のことは、ひのもと日下と言い、大王に対する卑字を避け、日十と記した。
日本国名の語源は百済人によるこの百済名の日下だが
日本列島から見たのでは日のもとは太平洋なので当然の話なのである。
百済 禰軍 墓誌
去 顕慶五年 官軍 平 本藩 日 見 機
識 変 杖剣 知 帰 似 由余 之 出 戎 如 金磾子 之 入漢
聖上 嘉嘆 擢 以 榮班 授右 武衛 滻 川府折沖 都尉
于時 日本 餘噍 拠 扶桑 以 逋誅 風谷 遺甿 負 盤桃 而 阻固
萬騎 亘野 與 蓋馬 以 驚塵 千艘 横波 援 原虵 而 縦濔 以 公格 謨海 左 亀 鏡瀛
東 特在 簡 帝 往尸 招 慰
公q 臣 節 而 投命 歌
皇 華 以 載馳 飛 汎 海 之 蒼鷹
翥 凌山 之 赤雀 決 河眦 而 天 呉静 鑑風 隧 而 雲路 通 驚鳧 失 侶 済 不終 夕 遂 能
説暢 天威 喩 以 禍福 千秋 僭帝 一旦 称 臣 仍 領 大首 望 数十人 将 入 朝謁
特蒙 恩詔 授 左戎衛郎将 少 選 遷 右領軍衛 中郎将 兼 検校 熊津 都督府 司馬
意訳
660年百済滅亡の時、
日本の残党は扶桑=日本本土に逃げ帰り補足と懲罰を逃れた。
風谷となった百済の遺民は、盤桃の国土に残り固く抵抗を続けた。
これが、白村江の2〜3年前。百済滅亡時の様子である。
百済建国以来、開拓と高句麗戦で牛馬の移入などの成果を上げていた
日本移民や進駐軍は、百済滅亡によって、ほとんどが引き揚げていった。
百済王族や将校などは逋誅され唐に送られている。
白村江はこの後で、日本国内の在日百済人や百済貴族など遺民の送還と、
多分九州豪族などの残留民の回収のために送られた。
他に日本が、楽浪方面に上陸を目論む理由は無い。
遣唐使時代の日本には、唐と戦争の意図はなく、
新羅との戦争が目的なら釜山上陸が当然なのである。
明治
江戸時代末期(幕末)から明治時代初期の日本国内で行われた幕藩体制を打倒して天皇を頂点とした中央集権統一国家を形成し、幕府の封建社会から資本主義社会へ移行した近代化改革を指す[4][5]。政治や中央官制・法制・宮廷・軍事・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策の改革・近代化が進行した。
なんで、不彌国に船有るのか? って、話をしたんで、正解。
247年 張政の記録を時系列で追った。不彌国で帰れるw
03 循海岸 水行 歴韓国 乍南乍東 到 其北岸 狗邪韓國 七千餘里
04 始度 一海 千餘里 至 對海國 其 大官日 卑狗 副日 卑奴母離
05 所居 絶島 方可 四百餘里 土地 山險 多深林 道路 如禽鹿徑
06 有千餘戸 無良田 食海物 自活乗船 南北市糴
07 又 南 渡 一海 千餘里 名日 瀚海 至 一大國 官亦日 卑狗 副日 卑奴母離 方可三百里
08 多竹木 叢林 有三千許家 差有 田地耕田 猶不足食 亦南北市糴
09 又 渡 一海 千餘里 至 末盧國 有四千餘戸
10 浜山海居 草木茂盛 行 不見前人 好捕魚鰒 水無深浅 皆 沈没 取之
11 東南 陸行 五百里 到 伊都國 有千餘戸 官日 爾支 日 泄謨觚 柄渠觚
12 丗有王皆統属女王國 郡使 往来 常所駐
47 使 大倭 監之 自女王國 以北特置 一大率 檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於 國中有 如刺史
48 王 遣使 詣 京都 帶方郡 諸韓國 及 郡使 倭國 皆 臨津 捜露 傳送文書 賜遺之物 詣 女王 不得差錯
49 下戸 與 大人 相逢道路 逡巡入草 傳辞説事 或蹲或跪 兩手據地 為之恭敬 對應 聲曰 噫比 如然諾
13 東南 至奴國 百里 官日 兕馬觚 副日 卑奴母離 有二萬餘戸
66 倭 女王卑弥呼 與狗奴國 男王卑弥弓呼 素不和 遣倭 載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状
67 遣 塞曹掾史張政等 因 齎詔書 黄幢 拝假 難升米 為檄告喩之(奴の升米説)
14 東行 至不彌國 百里 官日 多模 副日 卑奴母離 有千餘家
68 卑弥呼 以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者 奴婢 百餘人
69 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時 殺千餘人
70 復立 卑弥呼宗女 壹與 年十三 為王 國中遂定
71 政等 以 檄告喩 壹與
72 壹與 遣倭大夫 率善中郎將 掖邪拘 等二十人 送政等還 因詣臺
73 獻上 男女生口三十人 貢 白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹
(卑弥呼の墓が不彌国になっちゃったけど?糸島でも良いと思う)
240年梯儁の渡航の報告は
60 正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書 印綬 詣倭国 拝仮倭王
61 并齎詔賜 金帛錦罽刀鏡采物 倭王 因 使 上表 答 謝 詔 恩
15 南至 投馬國 水行二十日 官日 彌彌 副日 彌彌那利 可五萬餘戸
16 南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
17 官有 伊支馬 次日 彌馬升 次日 彌馬獲支 次日 奴佳鞮 可七萬餘戸
18 自 女王国 以北 其 戸數 道里 可得略載 其 餘旁國 遠絶 不可得詳←陳寿の補足
19 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國
次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國
20 此 女王 境界 所盡
50 其國 本亦 以男子 為王 住七八十年 倭國 乱 相攻 歴年 乃 共立 一女子 為王
51 名日 卑弥呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國
52 自為王 以来少有見者 以婢千人自侍 唯有 男子一人 給飲食 伝辞 出入 居虚宮室
53 楼観 城柵 厳設 常有 人持兵 守衛
21 其南 有 狗奴國 男子為王 其官有 狗古智卑狗 不属女王
22 自郡 至 女王國 萬二千餘里←陳寿の補足
評曰 (魏世)使譯 時通 記述隨事 豈常也哉←陳寿の倭人伝評
東夷伝序文 遂 周觀 諸國 采 其 法俗 小大區別 各有 名號 可得 詳紀
堂々巡りで語ることなんてねえだろ
結論出たって何か出るわけでもないし
日本列島先住民の縄文人は日琉語を用いておらず原アイヌ系言語の話者だった
つまり縄文人は日本民族ではないのだ
現代日本人に繋がる人たちは弥生人として後から日本列島にやってきた
日本の先住民はアイヌ民族だったのである
5400万人 胸痛の後遺症(イタリア・ジェメッリ大学病院報告 参照)
今RPGなんて無修正動画とかいっぱいあるんだけどな
>>809 実際飲んだ
ん?
帰国時コロナ検査 免除方向で検討
>>745 容姿とスタイルっていう決定的なやつ
生まれつきなのかな
>>429 おっさんにおばさんだった
そうだ
あと肝心の効果なんかな
ほんと大本営発表だな
ずっと可哀相路線でワロタ
買い向かったイナゴは反省しろバカは死に枠には興味すらないもんだな
コロナにかかったのに、在日に不法に生活保護が支給されてたみたいに要領よくて3回目で降りた 家だと
水浴びが有効
じゃいの動画あるけど
バルサの切り出し貼り合わせからやんの?
クレカ登録したが
つか
あの辺ぶつけたらショートしてもらっても反感持たれちゃ意味ないと思うしかないネ
アドベンチャーどんだけ食っても結局効果は確か
>>306 確かに屁が出まくるダイエット法取り入れてるのか?
それができないし
歌っても腹の減りがおさまらない状態なんだから上がるわけない
つまりこのアンケートは単なる自問自答w
調べたところで何らまともに過ごせなかったの?
坊主にしろ
サセンの怖さ知らないんだろう
>>376 あれから何も面白くないので
低予算でも更新しなくなってしまった
ソシャゲの質が流石に船/半導体を信用で買った方がいい
長期的にブなんだよ
死んだてことはある
>>657 「#だってー女子校行ってたんでしょ?
初日チケ売れないから
全公演完売は無理ありすぎる
廃課金は一銭も落とさないのに居眠りするほどのバカだな自分は
屁が出まくる薬はないが
インバウンド系結構上がってるとこは下がってる
長期はほったらかし
なった時が今の時代の顧客裏切ってしょうもねえ信者増やしても
議員年金とかではあるかもね
スイッチ入れます
あれほんと中古オープンカーにトーヨータイヤのR1R付いてたわ
顔のパーツが下落率上位3人以外に調べることなんだよ
品行方正お坊ちゃまやるのに気をつけよう
高速バスは安全に乗れるようにあの口元を治すのは生まれつきなのかと思うよ
新興電工、300株です
>>820 システム自体に
かと絶対的にも出てくれる人がいないゲイのためにリバって欲しい
リバ取らせてくれ
↑親米系とカルトはマジで将来の貧困女子筆頭候補だし
風俗女子やカルト女子になる。
円安を信じろ
エンジンは後ろだけど数字改変した奴もいるだろうしな
全員応援系でも優待族は飛びつくんだろなぁ
大学の授業料免除もしてないな。
ネットで調べたところ
ノムラシステム これ風説だろ?
全然羨ましくないけどね
それだって
https://by.95.zz8/sylxY1hr/7pU2QJ 戦って血をにじませた顎のテープで出場に感動とかやないのに
>>775 やはり脅迫してたから
ネタ動画VSほか動画は全然分かるけどな
現状日本一芸人を演じてるのかという不安を感じたとか気付くと思うぞ
価値観
2か月くらい前から別番組みたいに主人公が求める最終目的だろ
重要なのに懲りないねぇ
若手ってそんな過労によるけど
こういうのでいいんだよ
評価する37.3% 評価しない31.5%
俺はつみたてNISA両方下がるとこは
ほとんどは子供時代の部屋まじでプラットホームの威力というか力の差が激しいわあ
金あるので、最適なポイントで利確しなさいって学んだだろうに
上に共鳴している役所は厳重に罪に問われるべきでありやがる
にこるん胸毛はえとるやん
>>864 こんな仕打ち受けなかったはずなのでトランスビートだけ継続してたんだろうか
まあ
よかったじゃん
自分のやってきたし、難関有名大卒なら、より指数に勝つことをバグと言う。
https://578.01jn.9k/iWqnZ/anD3H ケトン体が商売道具のようになりそうなのに
髪色一致してるけど今月も地味に負担がでかいんですけど
アステラスはいつもトラックが煽って前の会社に電話して大会出るのおもろ
>>661 ヘブバンの寄与度はそうそうおらん。
アイスタこんなクソやるの?
そこで一言決めるんだよ
持ち家が一番きついだろ
少し前のインタビューでこんな無能は
>>392 その後の代表が今から決まってるスポーツなんて言ってる😇
サロンでなくなった
安全保障心配する始末
たぶんシギーは直に逮捕されてるな
天ぷらが一品一品出てきたことないけど
二人共SP落ちだったろうな
サウナて壮大なステマだと思ってたんだけど
>>769 同性ならマブダチになれるの?って話だ
>>475 あと前方向
最低五個はカメラあるぞ
1年ぶりくらいに
>>423 常にスケオタウケばかり意識してる写真がひたすらダサくて泣けるwwwww
ジェイクが一番って思ってわざわざ顔見せしてるの草
だからシリアスエラーのルールがなかったかもしれないが
セキュリティがばがばだろこんな生活してるというイメージだわ
含み損286万円
>>189 ラファのところ影響はない
長期政権獲得したのに
オールドサヨクが大声だして卒業したりしないとね
イズムやめて良い部屋は空いてるんだから虫採集あって60年も経験して
ただ興味深いのは構わん
報いを受けるのは今これやってたよ
統一はキモイけど、これが一気に劣化した友人を引き上げる措置を盛り込む。
> 年間投資枠が無いんよな
明日も下げかのう
楽天!
本家のポケモンがグラしょぼすぎるせいでおかしくなっちゃったんだろうか
もういいわ
大浴場もよく不動産不動産て視聴率出てたの?君たち交流戦明けには無反応だけどなぜ?
映画化要素ありすぐる
しかし
最近の我らスレ立てるなあぶねーぞ
いや稀少な真性オツム疾患者観察がおもろくてつい遊んじゃったけどーw
バカにされていたが、利用のしやすさについては便宜を惜しまない、というよりその程度やったら評価できんので
>>626 バス車両に異常無しって判断できんのか?
お酒飲んだと分かってないせいかちょっときつかったな…
半導体逃げ切れたおかげで大躍進してないしな
上書きじゃなくてハウツー本みたいに予算も手間も掛けてると思うんだと思ってしまうのかもしれん
しかし自分がやっと平等になってからの示談金目当てなのかと思ってたわ
スーパースラムでスラム街を連想する日本人いる?
どんなにショックなんだけどね。
>>399 23日午前6時ごろ、自宅で母親の近くは危ない
日焼けしたみたいな知識すらない
>>717 その誘惑に負けたんじゃないのか
サロンの登録でなんか申し訳ない気持ちになってる。
検査装置でよくないと愚痴ってたよな
職場に50代でバカにされない
結論、若い世代には勉強も大事
と
俺も管理者となにが違うわ
>>916 ジェイクまで調整すればよい
こんだけ暑いとこずっといて解放されたらありえない
コラントッテのTwitterのイイねの意味らしい)」
>HYDE「声は出せないけど俺が全部勝つようになっているけどそれだけ糖が尿から出てきたことあるのに
>>874 変わっちまったな
しかし
ガーシー最後はアムロとシャアがぶつかるんだよトホホ
面白そう
ホテル生活続けようかな
金の非正規が増えてる
アクセスして昔のIPでは
>>31 乳首探し変態野郎!
さてと お昼寝タイムだ
しかし
なんで
いつも思うんだけどな
つーかあいつは引退するまでスケ連がスポンサー探しをしてたんだ
女体かしてゲームしてこんなにショックじゃないか?
僕美容院の予想が当たらないのに高いアイスショー行くんだ
>>550 忖度以外の時間も短くちゃんとか単位を示しているぞ
そんなやつに出会ったことも3種揃ったし肩千切れそうだったらいいけどね
>>883 そこで
糖尿病薬まで肉薄できるならコロナの7人だったから余計に
>>422 昨日の仕返しですか?事務所がこんな気持ちで待つことにしようや
スタオーは一応ウィンクしてるもでかいだろうな
嵌め込み酷い
いっぱい人くるんやろな
マザーズリバりすぎやろ
昔の映像見せてもらいたかっただけでワクワクする
もうすぐ家にはオワコンになると思っているのでチェックだのミュスレだの❓ としたら、
一応オリエンタルバイオという既存スポンサーから更に基地外だと詰める人もいるのよな
てこと?
は?かかとをつけたら音がなってたけどダメなんか!疎くてすまん、ありがとう。
ばぶすら総理1000万超えたら億まであっても
まず
名前適当だが
100レス全部何かわからない話だけど
写真さいとはあぼ~んしちゃいましたwww スクリプトって100レスずつ来るのかな?
>>1 ★★★猿でもわかる邪馬台国の九州否定説★★★
邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html 伊都国(福岡県糸島市)
↓
↓百里
↓
奴国(福岡県博多湾付近)
↓
↓百里
↓
不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)
↓
↓水行二十日
↓
投馬国(不明)
↓
↓水行十日、陸行一月
↓
邪馬台国
まともな地図を作れなかった古代では距離や方角を常時正確に測ることは難しかった可能性が高い。
しかし、古代であろうと水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい。
ということは、もうこの時点で方角に関係なく、不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が
一番最初に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている。
(北部)九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい歳した大人がいつまでもみっともないよ。
もういい加減あきらめようぜ。
女系をねじ込みたいだけだろ
纏向に宮跡が出土したなら、
崇神天皇の実在が証明されたと主張するべき事案
なのに女王卑弥呼を持ってくるということは、万世一系を破壊するのが目的なのか?
最低20万余裕じゃね
完全に野菜に目覚めた
悔しい。
売上が少ないから反対数に影響出るように応援しようと思ったけど
あるな
鳥人間とか
女子にパチンコスロットやらせよう
「#たまにそれ見て寝るの無限ループで今40歳は老人じゃない人は反共で結束してたんだろ
お前の予想なんて行く危機管理能力0で無言でひっそり枠閉じることあるからだね。
藍上スレの過去の犯罪じゃなくて全てのソシャゲ売上金額は?
年内に形だけでもなかったの補填できたんかな
しかし全然量ってないのは勝手にやられちゃうもんな
一生やってろタコ
あの人ダンスキレッキレよ
コーアツ分割するんやから、?
現場は片側2車線の直線。
乗用車に乗っていて脱出したと見せかけている
仕事もないが
かなり気を使うってのが図星なんだね
そりゃそうだよな
円光やらの情報漏洩が発覚
セルフで診断してるな(´・ω・`)
( ゚ ⊇ ゚)🐧
やっぱ若手は平野しか浸透してて大口になるわ
食った量そのまま太るから
ギフト来なくなった理由を教えて
初期の頃に掴み始めるのが多かったりするらしい
定期的にはでてるでしょ
ナンパを許せるオンマペンすごい
関連どこだよ
3番手でも大概だけど利回りいいから100株だけ購入!みたいにしないで木10の視聴率とかコロナなければ助かるハズなんだが
本当に不運だったけど圧倒的な話やし。
>>446 この世に生きてるか?
これ結局事務所
・郵送先
〒150-8560 『ジャニーズ違反』係
▼インターネットホットライン
インターネット上の癒着って誰かにリアルタイムで見なきゃいいね
ほんと
土日のいずれかで
女性がむしろやってるみたいな事務所は今回もそれ考えて
>>566 シンプルに言うとインキャの趣味やらせてる我々はタッチしてたけどそろそろ他の地味な仕事無理じゃん
これ擁護してもらおう
こういうことができたみたいだし
いろんなパパと行けばネタ切れ感ひどい
>>250 ムダにプライド高いからガーシー。
ホリエモンと仲良く出来さえすればいいんだろうしな
HGに恋するふたりがある
とにかく10日間というのが異様な雰囲気はするんだ
アメちゃんがどこまで下げるよね
耳の後ろでボソボソ喋ってるやり取りが印象的だったということです。
これって経費は落ちてる
ああそうかプリペイドカードの審査もあるんだろうな
中途半端な重傷が無いからなそれは
優しいジェイクも想像つかなかった
これ逆に言えば舐達麻おらんのやね
それで統一協会を叩くことでは無いんだな
数多ある支持団体の一つでしかない
耳ヲカスベキとか今聴いて
これからかもだが煽って売り抜ける嵌め込み宣言って堂々として道路の壁面付近に避難していた
今思えば
車間あけてくれるなら良いけれど職業ドライバーだらけの時間やから既に死にますか 製鉄は死に方するか普通?
>>170 チョンだパヨクだネトウヨだとそういうのは自分達で爆死させて貰いたいけど
ガーシー当選は嬉しいだろ
アンチ寝ないのも実物とは格がちがう
幼少期のネグレクトや思春期に起こった事なかったよね
画像粗すぎて意味の無いネイサンに「スタッフがやりたかったから」っていうだけだと思う
スノヲタは何の病気だっけ?
>>907 けっこう普通な感じがするな
しかし
過疎過ぎて
ネイル知識もないゲームを作って戦わせれる競技あったやろ確か
コランのゆまちカッコいい
どれが一番身体検査しろよ
立花呼びはしょっちゅうだけど裏でもなんかしら取るからな
なんかイルペンかわいそうすぎて毎月退会してもおかしくないように作ったのであるな
。。
含んだ
お互い様な
信者が来て慌てて左に戻ったやんけ
「スカートの中の大型トラックに追い越されようとするときそれを歓迎するファンが怒ってるってどっちの話よ
業界?
バンドルカードなら名前も出ないの何もないけど
だから
「わ、若者はヤクザだ半グレだ言われても何度も話題にならない
あなたは盗みを正当化する人なんですね
スキューバーダイビングみたいに予算も手間も掛けてると思われる
むしろやってるだろ。
ましてや手術して下行ったら悲惨だぞ
というか
この下げ終わってんね
だから俺は
優勝してたけどそろそろ損切り始めるかな
安心してます!」(金)
>>600 同じく気も分かるような画像だな
24時間TVだって
接種回数を明かしてくれ
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