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邪馬台国畿内説 Part966 YouTube動画>5本 ->画像>34枚


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1◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 12:42:45.02
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://2chb.net/r/history/1700188517/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。
2◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 12:43:52.27
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3~布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2~3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2~8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
3◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 12:44:25.52
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
4◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 12:45:00.02
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
5◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 12:45:28.90
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
6◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 12:46:00.05
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期~中期・弥生終末~古墳前期・古墳後期~奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
7◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 12:46:31.73
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
8◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 12:47:01.91
(承前)
◆6-2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
9◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 12:47:41.03
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
10◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 12:48:14.42
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
11◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 12:48:46.93
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
 1世紀第1・2四半期~2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0~3)
 2世紀第3四半期中頃~3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0~1)
 3世紀中頃~4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2~3中・新段階)
 4世紀第2四半期前半~4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232~TK216)
 4世紀第4四半期~5世紀中頃
 (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0~1 ー 河内庄内I~II
 IB期ー 大和庄内2~3 ー 河内庄内II ~III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相~布留1古 ー河内庄内IV~V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相~布留1新 ー河内庄内IV~布留I●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山
12◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 12:49:17.83
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末~第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
13◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 12:49:48.47
◆FAQ 3-1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 因みに釜山~佐須奈34海里(=63km)、佐須奈~厳原47海里(=87km、厳原~芦辺37海里(=68.5km(海保水路部距離表)であり、芦辺~唐津は25海里(=46.3km)と短い。通算264.8kmである。印通寺~呼子は僅か16.3海里(=30.1km)と更に短い。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
14◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 12:50:20.19
(承前)
◆FAQ3-2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方~現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
15日本@名無史さん
2023/11/20(月) 12:50:33.60
>>1
頑張れ、キウス。
16日本@名無史さん
2023/11/20(月) 12:50:36.56
>>1
頑張れ、キウス。
17◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 12:50:52.44
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇陀と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
18◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 12:51:22.77
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内~布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
19◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 12:51:53.43
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
20◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 12:52:24.50
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄矛の後継品であったと思われる矛の後継品であったと思われるに劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
21日本@名無史さん
2023/11/20(月) 12:52:40.09
>>1
頑張れ、キウス。
22◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 12:52:59.98
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
23日本@名無史さん
2023/11/20(月) 12:53:05.43
>>1
頑張れ、キウス。
24日本@名無史さん
2023/11/20(月) 12:53:08.35
>>1
頑張れ、キウス。
25日本@名無史さん
2023/11/20(月) 12:53:09.35
>>1
頑張れ、キウス。
26日本@名無史さん
2023/11/20(月) 12:53:09.95
>>1
頑張れ、キウス。
27日本@名無史さん
2023/11/20(月) 12:53:10.85
>>1
頑張れ、キウス。
28日本@名無史さん
2023/11/20(月) 12:53:11.59
>>1
頑張れ、キウス。
29日本@名無史さん
2023/11/20(月) 12:53:14.74
>>1
頑張れ、キウス。
30日本@名無史さん
2023/11/20(月) 12:53:15.29
>>1
頑張れ、キウス。
31日本@名無史さん
2023/11/20(月) 12:53:16.25
>>1
頑張れ、キウス。
32日本@名無史さん
2023/11/20(月) 12:53:17.01
>>1
頑張れ、キウス。
33日本@名無史さん
2023/11/20(月) 12:53:19.15
>>1
頑張れ、キウス。
34日本@名無史さん
2023/11/20(月) 12:53:19.96
>>1
頑張れ、キウス。
35日本@名無史さん
2023/11/20(月) 12:53:20.72
>>1
頑張れ、キウス。
36日本@名無史さん
2023/11/20(月) 12:53:21.37
>>1
頑張れ、キウス。
37日本@名無史さん
2023/11/20(月) 12:53:22.28
>>1
頑張れ、キウス。
38◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 12:53:31.92
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 邪馬台国畿内説 Part966 YouTube動画>5本 ->画像>34枚 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半~中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
 ひとたび古墳への副葬が開始すると、畿内大和の鉄剣・鉄刀出土量は隔絶的である。邪馬台国畿内説 Part966 YouTube動画>5本 ->画像>34枚  首長権力の有りようが窺われる。
39日本@名無史さん
2023/11/20(月) 12:53:36.84
>>1
頑張れ、キウス。
40日本@名無史さん
2023/11/20(月) 12:53:37.70
>>1
頑張れ、キウス。
41日本@名無史さん
2023/11/20(月) 12:53:38.48
>>1
頑張れ、キウス。
42日本@名無史さん
2023/11/20(月) 12:53:39.14
>>1
頑張れ、キウス。
43日本@名無史さん
2023/11/20(月) 12:53:46.00
>>1
頑張れ、キウス。
44日本@名無史さん
2023/11/20(月) 12:53:46.68
>>1
頑張れ、キウス。
45日本@名無史さん
2023/11/20(月) 12:53:57.05
>>1
頑張れ、キウス。
46日本@名無史さん
2023/11/20(月) 12:53:57.59
>>1
頑張れ、キウス。
47日本@名無史さん
2023/11/20(月) 12:53:58.11
>>1
頑張れ、キウス。
48日本@名無史さん
2023/11/20(月) 12:54:00.67
>>1
頑張れ、キウス。
49日本@名無史さん
2023/11/20(月) 12:54:01.67
>>1
頑張れ、キウス。
50日本@名無史さん
2023/11/20(月) 12:54:02.39
>>1
頑張れ、キウス。
51日本@名無史さん
2023/11/20(月) 12:54:02.99
>>1
頑張れ、キウス。
52日本@名無史さん
2023/11/20(月) 12:54:03.96
>>1
頑張れ、キウス。
53日本@名無史さん
2023/11/20(月) 12:54:06.22
>>1
頑張れ、キウス。
54日本@名無史さん
2023/11/20(月) 12:54:07.20
>>1
頑張れ、キウス。
55◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 12:54:07.25
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179~122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
56日本@名無史さん
2023/11/20(月) 12:54:07.82
>>1
頑張れ、キウス。
57日本@名無史さん
2023/11/20(月) 12:54:08.42
>>1
頑張れ、キウス。
58日本@名無史さん
2023/11/20(月) 12:54:12.52
>>1
頑張れ、キウス。
59日本@名無史さん
2023/11/20(月) 12:54:13.38
>>1
頑張れ、キウス。
60日本@名無史さん
2023/11/20(月) 12:54:14.21
>>1
頑張れ、キウス。
61日本@名無史さん
2023/11/20(月) 12:54:15.16
>>1
頑張れ、キウス。
62日本@名無史さん
2023/11/20(月) 12:54:15.79
>>1
頑張れ、キウス。
63日本@名無史さん
2023/11/20(月) 12:54:16.74
>>1
頑張れ、キウス。
64◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 12:54:36.75
◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山~豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50~150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
65日本@名無史さん
2023/11/20(月) 12:54:58.28
>>1
頑張れ、キウス。
66日本@名無史さん
2023/11/20(月) 12:54:59.04
>>1
頑張れ、キウス。
67日本@名無史さん
2023/11/20(月) 12:54:59.86
>>1
頑張れ、キウス。
68日本@名無史さん
2023/11/20(月) 12:55:00.55
>>1
頑張れ、キウス。
69日本@名無史さん
2023/11/20(月) 12:55:03.65
>>1
頑張れ、キウス。
70日本@名無史さん
2023/11/20(月) 12:55:04.45
>>1
頑張れ、キウス。
71日本@名無史さん
2023/11/20(月) 12:55:04.90
>>1
頑張れ、キウス。
72◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 12:55:07.84
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末~東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 邪馬台国畿内説 Part966 YouTube動画>5本 ->画像>34枚

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。
73日本@名無史さん
2023/11/20(月) 12:55:07.90
>>1
頑張れ、キウス。
74日本@名無史さん
2023/11/20(月) 12:55:08.79
>>1
頑張れ、キウス。
75日本@名無史さん
2023/11/20(月) 12:55:09.39
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頑張れ、キウス。
76日本@名無史さん
2023/11/20(月) 12:55:09.91
>>1
頑張れ、キウス。
77◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 12:55:37.05
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245~620年である。
 もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
邪馬台国畿内説 Part966 YouTube動画>5本 ->画像>34枚
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
邪馬台国畿内説 Part966 YouTube動画>5本 ->画像>34枚
 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
78◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 12:56:07.12
◆FAQ 23-1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) 邪馬台国畿内説 Part966 YouTube動画>5本 ->画像>34枚
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1~4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 邪馬台国畿内説 Part966 YouTube動画>5本 ->画像>34枚

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
79◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 12:56:38.72
(承前)
◆FAQ 23-2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
80◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 12:57:09.30
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
81◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 12:57:39.90
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。
82◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 12:58:11.94
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
83◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 12:58:42.03
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   邪馬台国畿内説 Part966 YouTube動画>5本 ->画像>34枚
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨~摂津~河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
84◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 12:59:12.27
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
85◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 12:59:43.71
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
86◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 13:00:14.30
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
87◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 13:00:44.37
◆FAQ 36
Q:弥生中~後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
88◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 13:01:15.78
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百~千人日×十~五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
89◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 13:01:48.77
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  邪馬台国畿内説 Part966 YouTube動画>5本 ->画像>34枚
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。邪馬台国畿内説 Part966 YouTube動画>5本 ->画像>34枚
 現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
邪馬台国畿内説 Part966 YouTube動画>5本 ->画像>34枚
90◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 13:02:19.59
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2~3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
91◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 13:02:52.10
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II~III(久住IB~ IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
92◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 13:03:22.31
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII~IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII-1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 加美1号周溝墓出土の陶質土器が金官伽耶I期に先行するものである事から、楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する。(白井2001、久住2012)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である。(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
 活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240~247A.D.:久住IB期
 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248~266A.D.:久住IIA期
 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.~:久住IIB期
の目安が得られる。
 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。
93日本@名無史さん
2023/11/20(月) 13:03:34.80
遅いな。
94日本@名無史さん
2023/11/20(月) 13:03:35.34
遅いな。
95日本@名無史さん
2023/11/20(月) 13:03:36.64
遅いな。
96日本@名無史さん
2023/11/20(月) 13:03:37.43
遅いな。
97日本@名無史さん
2023/11/20(月) 13:03:38.33
遅いな。
98◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 13:03:54.73
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
99◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 13:04:22.95
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
100日本@名無史さん
2023/11/20(月) 13:04:38.31
百。
101◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 13:04:53.94
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
102◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 13:05:24.93
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
103◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 13:05:54.62
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
104日本@名無史さん
2023/11/20(月) 13:05:58.03
>>1
頑張れ、キウス。
105◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 13:06:25.44
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
106◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 13:06:56.62
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
 (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
 (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
 (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
 狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
 山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
 海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
107◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 13:07:26.59
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
108◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 13:07:57.38
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
邪馬台国畿内説 Part966 YouTube動画>5本 ->画像>34枚 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
109◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 13:08:26.90
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300~2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562~864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300~2,000里を日程合計60日で除すると約22~33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭~精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
110◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 13:08:58.39
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
 「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
 所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
 北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
 南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
 …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
 東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
 …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
 西與犂「革偏に于」・條支接。
 行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
 …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
 …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
 (漢書西域)
111◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 13:09:27.54
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
 これは実測したとしか考えられない!
 誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
112◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 13:09:59.07
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
113◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 13:10:30.01
◆FAQ 65-1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国~王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初~魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝~隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦~両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
114◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 13:11:00.77
(承前)
◆FAQ 65-2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
115◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 13:11:31.19
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
邪馬台国畿内説 Part966 YouTube動画>5本 ->画像>34枚

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
116◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 13:12:01.31
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230~250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期~終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
 
117◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 13:12:31.48
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末~南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) 邪馬台国畿内説 Part966 YouTube動画>5本 ->画像>34枚
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。
118◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 13:13:01.37
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:邪馬台国畿内説 Part966 YouTube動画>5本 ->画像>34枚

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
119◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 13:13:34.74
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6-1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
120◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 13:14:10.78
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生~古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。


◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
121◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 13:14:40.99
◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安~齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。

 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)
122◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 13:15:11.35
◆FAQ 78-2

(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。
123◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 13:15:42.89
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
124◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 13:16:11.91
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末~孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
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◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
125◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 13:16:42.07
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 
126◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 13:17:12.74
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。
127◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 13:17:44.43
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
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◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
128◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 13:18:17.36
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
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また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
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129◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 13:18:47.27
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215~282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291~299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261~303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
130◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 13:19:20.21
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。
131◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 13:19:52.82
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2~3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
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第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260~280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
132◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 13:20:23.62
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
133◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 13:20:55.37
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
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◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)
134◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 13:21:25.06
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

 下図のとおり、上部に堆積した包含層IIIを除去すると、造成された整地層上の建物B及びC柱穴を破壊している溝SD-2001(庄内3)、柱穴建物D柱穴を破壊している溝SX-1001(布留2)、溝SM-1001(布留1)期、溝SD-1009(布留0)が明らかとなる。

大型建物群配置図 邪馬台国畿内説 Part966 YouTube動画>5本 ->画像>34枚
同空撮 邪馬台国畿内説 Part966 YouTube動画>5本 ->画像>34枚
建物B空撮 邪馬台国畿内説 Part966 YouTube動画>5本 ->画像>34枚
Dより西を望む 邪馬台国畿内説 Part966 YouTube動画>5本 ->画像>34枚

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
135◆ondZSOlfxeS6
2023/11/20(月) 13:21:56.66
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし
136日本@名無史さん
2023/11/20(月) 13:31:02.97
>>1
よく、成し遂げたな。
137日本@名無史さん
2023/11/20(月) 13:31:34.78
大物主神の子孫を自称した者達の痕跡かもしれない遺蹟を発掘破壊し、
ジグザグの溝を、「方形周溝墓の溝なのだ。」と誤認したのと同時に、
明確な切り合い関係も確認できないスケッチを示すだけで、(ホウケイシュウコウボの)溝が、建物Dの(ハシラの)穴を破壊したのだ、と発表した者達が、いるのだが、撮影された風景写真の中の、最東のハシラ列の南から5番目の箇所の、発掘面の何の変哲も無い所に、白い塗料で書かれていた白線は、
「発掘では発見できなかったが、「後世の削平面の上にあって確認出来なかったのだ。」と想像された、建物Dの(ハシラ)穴の底面を囲う、想像の線の一部」なのだろうか。
それとも、発掘面の何の変哲も無い所に、白い塗料で書かれていた白線が、
「後世の削平面と発掘面の十数センチ程の間にあって、かろうじて確認出来た建物Dの(ハシラ)穴の底面の境界」だった可能性も、全く0ではないが、それならば、なぜ、発掘破壊面の白線が分割した両側に、段差すら残さず、発掘破壊してしまったのだろうか。
それとも、発掘破壊面の何の変哲も無い所に、白い塗料で書かれていた白線は、調査報告のスケッチに、実在しない痕蹟を書き加えるための、つまり、有り体に言えば、捏造するための前工作だったのだろうか。

0082日本@名無史さん2023/09/04(月) 15:13:24.15
貴方は、この白線には根拠が無いと言おうとしているのか
その主張は謎の熱血青年の反発を招く

邪馬台国畿内説 Part966 YouTube動画>5本 ->画像>34枚
138日本@名無史さん
2023/11/20(月) 13:31:38.89
その疑惑の箇所とは別に、建物Dのハシラ群の最南列の東から2番目のハシラ穴の箇所は、発掘破壊直後に示されたスケッチでは、ハシラ穴だけが描かれていました。スケッチ(以下、「笑いリラックス図」と呼びます。)では、このハシラ穴(以下、ハシラ穴★南1東2)は、別のどのような穴や溝とも、切り合い関係どころか、接触も確認できません。
ところが、後日、その遺蹟の南側を、更に、発掘破壊し、調査し、ジグザグの溝を、「方形周溝墓の溝なのだ。」と断定したことは、完全に、間違いだったことに、気付き、
また、ジグザグの溝の先に、桃の種等のゴミが捨てられた、祭祀の跡なのだと断定されてしまった、マツリの穴を、発見したのだが、その発掘破壊では、布留1式期の溝が、発見されました。
そして、布留1式期の溝が、マツリの穴やジグザグの溝やそれ以前に発見された建物Dのハシラ穴とともに、「笑いリラックス図」に繋げて、スケッチされました。
このスケッチを「疑惑のスケッチ」と名付けます。なぜならば、驚くべきことに、疑惑のスケッチでは、笑いリラックス図では確認できなかった、ハシラ穴★南1東2に重複する溝が、布留1式の溝の延長として、描かれているからです。

疑惑のスケッチ 邪馬台国畿内説 Part966 YouTube動画>5本 ->画像>34枚
同空撮 邪馬台国畿内説 Part966 YouTube動画>5本 ->画像>34枚

「笑いリラックス図」ならば、「巻向遺蹟第166次調査報告」という語句で、画像検索という物事を、実行すれば、獲得することが、出来ます。
139日本@名無史さん
2023/11/20(月) 13:31:44.62
成る程。ヤマタイコクキナイセツにとっては、致命的だね。
最初の発掘破壊で、建物Dのハシラ穴★南1東2を発見し、その底面まで、掘り下げたにも関わらず、そのハシラ穴内の堆積土では、他の痕跡との切り合い関係が、発見できなかったのだから、
後日の調査で、ハシラ穴★南1東2と重複して存在していた事が確認された、布留1式の溝は、やはり、その堆積後に掘られた建物Dのハシラ穴★南1東2に、痕跡が破壊されたことになるな。
つまり、建物Dは、布留1式期以降の建物だったのだ。
頭が普通の者達ならば、ごく自然に断定できる、
【布留1式の溝を、ハシラ穴★南1東2が破壊した】という真実を、否定するためには、
コウテキキカンによる最初の発掘破壊で、建物Dのハシラ穴★南1東2を発見し、その底面まで、掘り下げたときに、その、
【ハシラ穴内の堆積土に、地層が不連続となる明確な変化があり、発掘空間の側面からは連続していた他の痕跡との切り合い関係が、発見でき】ていて、
【白線の件で、スケッチの証拠能力の是非を指摘されているコウテキキカンによるスケッチではなく】、
その写真を示すしかないな。
完全に発掘破壊した今となっては、他には、
【布留1式の溝が、ハシラ穴★南1東2を破壊したこと】
の証明は、出来ないよ。
140日本@名無史さん
2023/11/20(月) 13:31:49.22
最大限、好意的に解釈するとすれば、
「ハシラ穴の底面が、ちょうど庄内式期に整地された地層にあった。」という理由だけで、庄内式の建物であると推定されてしまった可能性もあるのでは、ないのかな。
だが、現代の建築物でさえ、基礎は、庄内式期の地層に達するが、
頭の出来映えが普通ならば、基礎が、庄内式期の地層に達していたからといって、庄内式期の建築物だとは、考えないよ。
そして、庄内期の整地層を発掘破壊した時に発見したハシラ穴を、庄内期に掘られた穴なのだ、とした(笑いリラックスされるべき)バイアスがあったので、先行していた遺物との切り合い関係の存在の可能性に気がつかず、発掘作業の撮影記録を怠っていた可能性は、あるな。
だが、ヤマタイコクキナイセツが想定する建物Dのためだという整地層は、ヤマタイコクキナイセツには、あまり、深く考えることが出来なかったのかもしれないが、ハシラ穴の平面プランや、宣伝してしまった建物の規模からの想定からは、深さ2メートルの土壇場になってしまうね。
だから、やはり、悪質な捏造ではなく、頭の出来映えが、あまり良くはない、ヤマタイコクキナイセツのリーダーが、部下には有無を言わせることなく、発表させてしまったのでは、ないのかな。
141日本@名無史さん
2023/11/20(月) 13:31:55.98
それにしても、不思議なのは、二度の調査の平面図を見比べれば、容易にバレてしまう、布留1式の溝と建物Dのハシラ穴★南1東2の切り合い関係の逆転の誤認の可能性に対して、なぜ、関係者や報道機関からは指摘がないのだろうか。
客観的精査を通じて積み上げられる理数系科学分野とは方法論が、完全に異なり、主観的な意見が罷り通る文学部では、権威者に反対できないのだろうか。
つまりは、権威者が、ゴッドハンドを、擁護し続けていたときにもあったように、権威という💩のような物事に、文学部出身の者達は、体質的に、怯んでしまうのだろうか。
そして、疑惑は、まだ、あるぞ。これは、建物Bの北側の図だよ。

       西

口★口★口★口★口口口口口口口口口口
口口口口口口口口口口口口口口口口口口
口口口★★口口★口口口口口口口口口溝
口口口★★口口口口口口口口口口口溝溝
口口口口口口口★口口口口口口口溝溝口
口口口口口口口口口口口口口口溝溝口口
口建口★★口口★口口口口口溝溝口口口
口物口★★口口口口口口口溝溝口口口口
口B口口口口口★口口口溝溝口口口口口 北
口口口口口口口口口口溝溝口口口口口口
口口口★★口口〇口溝💩口口★口口★口
口口口★★口口口溝溝口口口口口口↑口
            底より下に土器が埋まった穴

     東
142日本@名無史さん
2023/11/20(月) 13:32:01.81
最北の★のハシラ穴の発掘側面は、発表された写真を見る限りでは、ハシラ穴の中央の底の東半分を破壊して、さらに掘り下げ、途中で発見された土器を撮影できる深さまで、掘り下げられたようにしか見えないね。
そして、実際の抜き取り穴の底の断面は、土器の上部から、もう一つ土器一個分、上の黄ばみのある層と黄ばみのない層の境界では、ないのかな。
そして、サクレツのハシラ(だと断定されてしまった)穴は、何かのために、整地層の上面にあった、石か何かの異物を取り除いただけのようにも見えるし、
なによりも、その上面の上の布留0式の(層なのだと断定された)層と、(本当に)連続していなかったのならば、サクレツのハシラ穴としては、浅すぎるぞ。

だか、少し、妙だな。土器の埋まっているハシラ穴の写真は、東からではなく、西からの撮影では、ないのかな。
コウテキキカンの報告者が、間違えたのだろうか。
143日本@名無史さん
2023/11/20(月) 13:32:22.34
報告された(推定ではなく、)状況が事実ならば、整地層が出現した時期は、整地土より上層の布留0式期=庄内3式期の可能性が、高いな。なぜならば、整地層に、主に庄内古式が含まれていたならば、整地土は、周辺の庄内古式の地層を掘り起こし運搬されたことになるからだ。
そして、整地層から、整地作業中に使用され混入した【割れていない庄内3式期の土器】が発見されても、全く、不自然ではないね。
つまり、サクレツFの北端のハシラ穴から発見された【割れていない庄内3式期の土器】は、実際には、発掘破壊時にハシラ穴の底を見逃し、さらに、発掘破壊で掘り下げられた整地土の中に、布留0式期の整地作業中に何らかの目的で使用され、埋もれていた土器だったのだ、というのは、ごく自然な意見だよ。
144日本@名無史さん
2023/11/20(月) 13:32:29.20
整地が庄内式期になされたとして、
使用される土器が布留1式や布留2式に入れ替わるまで、つまり、せいぜい半世紀程度の間で、人の活動痕のある、その地表面には、せいぜい数センチの厚さの堆積はあったかもしれないが、ヤマタイコクキナイセツは、発掘破壊調査で、布留式の地層があるかのように報告しているね。
だが、その布留1式期前後の地層の厚さを確認できる、記録写真は、残されては、いないのでは、ないのかな。
連続しながら重複していく他の活動痕があるにも拘わらず、建物や柵のハシラが整地時に立てられ、庄内式期中に抜き出されたと断定してしまったのは、やはり、ホウケイシュウコウボの誤認や建物Dのハシラと布留1式期の溝の切り合い関係の見逃しの件でもわかるように、色々な物事に対して、考えが至らず、早とちりする体質があるからではないのかな。
145日本@名無史さん
2023/11/20(月) 13:32:36.51
そもそも、庄内式期は、馬力利用時代直前の4世紀だよ。
なぜならば、直後の布留1式期の地層から、5世紀の木製鐙が、発見されたからだ。
146日本@名無史さん
2023/11/20(月) 13:33:40.77
>>137-145
成る程。
147日本@名無史さん
2023/11/20(月) 13:56:46.68
>>137-145
成る程。成る程。
ヤマタイコクキナイセツが、柱にしていた物事が、随分と、怪し気な、証拠の無い主張だと分かったぞ。
これでは、ヤマタイコクキナイセツは、正々堂々の討論から、逃亡し、
嘘の宣伝という、科学界に対する荒らし行為を、し続けるするしか、ないのだね。
148日本@名無史さん
2023/11/20(月) 14:09:42.88
後漢書によると邪馬台国は後漢時代から存在していた
代々王を継ぐ30国の連合国とのこと
3世紀に始まったと主張する纒向遺跡とは全く無関係であることは明確です
149日本@名無史さん
2023/11/20(月) 17:06:54.26
さて、畿内説は何を根拠に祭祀で使った壺を周濠に投げ捨てたと断定したのだろうか?
150日本@名無史さん
2023/11/20(月) 17:09:23.27
>>1
証拠は?
151日本@名無史さん
2023/11/20(月) 17:21:23.56
>>150
全てキナイコシの妄想です
152日本@名無史さん
2023/11/20(月) 17:34:56.39
箸墓古墳の周濠から発見された土器の年代測定に頼らざるを得ないほど畿内説の論拠は脆弱

纒向が魏志倭人伝のクニの様子と似ても似つかず、3世紀前半までの大陸との交流の痕跡も皆無だからね

畿内説はまともな根拠がなさ過ぎ
153日本@名無史さん
2023/11/20(月) 17:37:53.07
愚かな考古学界の暴走を、外部から来たまともな青柳所長が止められるか、が今後の焦点
154日本@名無史さん
2023/11/20(月) 17:46:08.51
78も荒らし投稿した九州説って異常です
155日本@名無史さん
2023/11/20(月) 17:48:49.08
いくらニセ情報を流しても
通説畿内説は揺るがないんで
ご苦労さま
156日本@名無史さん
2023/11/20(月) 17:50:38.30
❌畿内の邪馬台国は強大な権力を持っていた

⭕ 畿内には邪馬台国とは比較にならない圧倒的な王権が存在した
157日本@名無史さん
2023/11/20(月) 18:04:02.62
今日も畿内説はガセだった
158日本@名無史さん
2023/11/20(月) 18:04:42.05
>>155
通説じゃなくて痛風だろ
159日本@名無史さん
2023/11/20(月) 18:04:49.75
>>158
通説畿内説の主張どおりだ
160日本@名無史さん
2023/11/20(月) 18:06:25.64
罵倒するだけで反論のできない九州説は負け組
161日本@名無史さん
2023/11/20(月) 18:09:27.52
最近、畿内説の影が薄い。
162日本@名無史さん
2023/11/20(月) 18:10:04.09
最近、キナイコシの頭も薄い
163日本@名無史さん
2023/11/20(月) 18:11:40.86
ほら
罵倒するだけで反論のできない負け組
164日本@名無史さん
2023/11/20(月) 18:13:30.76
つまり罵倒するだけで反論のできない畿内説は負け組でしたと
165日本@名無史さん
2023/11/20(月) 18:15:31.02
>>163
お前、頭が薄いの?
166日本@名無史さん
2023/11/20(月) 18:16:05.00
九州説だが荒らすのはやめて欲しい
魏志倭人伝と全く整合しない畿内説にはそんなことをしなくても議論の中身で勝てるんだから
167日本@名無史さん
2023/11/20(月) 18:35:31.20
>>166
どう整合しない?
168日本@名無史さん
2023/11/20(月) 18:40:08.95
>>167
住居が無い
169日本@名無史さん
2023/11/20(月) 18:50:09.53
>>168
住居が無い?

それ、倭人伝のどの部分と整合しないの?
170日本@名無史さん
2023/11/20(月) 18:51:13.82
>>169
なに議論が続いてるフリしてんだ?詐欺師くん
171日本@名無史さん
2023/11/20(月) 18:51:38.14
さっさと教科書を書き直すべきでは?
172日本@名無史さん
2023/11/20(月) 18:51:50.82
>>169
ひどいクレーマーだな。 わははははは   @阿波
173日本@名無史さん
2023/11/20(月) 18:57:11.35
住居の無い大集落ザ纒向遺跡w
174日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:04:03.95
結局、罵倒するだけで反論のできない九州説は永遠に負け組
175日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:04:12.61
>>137-145
成る程。成る程。
ヤマタイコクキナイセツが、柱にしていた物事が、随分と、怪し気な、証拠の無い主張だと分かったぞ。
これでは、ヤマタイコクキナイセツは、正々堂々の討論から、逃亡し、
嘘の宣伝という、科学界に対する荒らし行為を、し続けるするしか、ないのだね。
176日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:04:35.85
ヤマタイコクキナイセツは、💩だよ。
177日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:05:17.76
ちゃんねるを、活発化する係員でしかない、ヤマタイコクキナイセツの卑劣な手口。

1.ヤマタイコクキナイセツの討論相手として、キウス馬鹿キャラクターを、創る。
だが、ヤマタイコクキナイセツは、元々、馬鹿なので、あまり、馬鹿さのレベルは、変わらない。

2.頭の出来栄えが普通の者達が出現し、ヤマタイコクキナイセツが、追い詰められたら、キウス馬鹿キャラクターを出現させる。

3.頭の出来栄えが普通の者達が、過去に、ヤマタイコクキナイセツを追い詰めた意見を、キウス馬鹿キャラクターに繰り返させるが、少し、嘘や馬鹿な意見を混ぜる。
或いは、キウス馬鹿キャラクターに、ヤマタイコクキナイセツの掲げる、、特に【巻向遺蹟の年代が三世紀前半を含む
のだ】や【東治は東冶の間違いなのだ】というような、間違った前提で、ヤマタイコクキナイセツとの討論を、進行させる。

4.頭の出来栄えが普通の者達がヤマタイコクキナイセツを追い詰めた意見の本筋は無視し、キウス馬鹿キャラクターが混ぜた嘘や馬鹿な意見に対して、徹底的に反論し、勝利を宣言する。
或いは、キウス馬鹿キャラクターと進行させた討論で前提とした、特に【巻向遺蹟の年代が三世紀前半を含む
のだ】や【東治は東冶の間違いなのだ】というような、間違った物事と、更にその間違った前提から、導かれる、別の嘘を、宣伝する。
178日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:10:09.50
ヤマタイコクキナイセツが、またしても、正々堂々の討論から、逃亡したな。
179日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:11:42.27
>>178
また、悪口を、連続で、投稿しそうだよ。
180日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:14:30.87
>>137-145
成る程。成る程。
181日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:19:36.82
九州説はだいたい事実と逆を言い張るから分かりやすい
182日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:20:30.50
九州説はだいたい事実と逆を言い張るから分かりやすい
183日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:20:31.47
九州説はだいたい事実と逆を言い張るから分かりやすい
184日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:20:32.48
九州説はだいたい事実と逆を言い張るから分かりやすい
185日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:20:33.25
九州説はだいたい事実と逆を言い張るから分かりやすい
186日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:20:33.88
九州説はだいたい事実と逆を言い張るから分かりやすい
187日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:20:34.86
九州説はだいたい事実と逆を言い張るから分かりやすい
188日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:20:38.28
九州説はだいたい事実と逆を言い張るから分かりやすい
189日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:20:39.14
九州説はだいたい事実と逆を言い張るから分かりやすい
190日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:20:39.84
九州説はだいたい事実と逆を言い張るから分かりやすい
191日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:20:40.58
九州説はだいたい事実と逆を言い張るから分かりやすい
192日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:20:41.29
九州説はだいたい事実と逆を言い張るから分かりやすい
193日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:20:43.64
九州説はだいたい事実と逆を言い張るから分かりやすい
194日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:20:44.52
九州説はだいたい事実と逆を言い張るから分かりやすい
195日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:20:45.19
九州説はだいたい事実と逆を言い張るから分かりやすい
196日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:20:45.71
九州説はだいたい事実と逆を言い張るから分かりやすい
197日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:20:46.61
九州説はだいたい事実と逆を言い張るから分かりやすい
198日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:20:49.72
九州説はだいたい事実と逆を言い張るから分かりやすい
199日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:20:50.56
九州説はだいたい事実と逆を言い張るから分かりやすい
200日本@名無史さん
九州説はだいたい事実と逆を言い張るから分かりやすい
201日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:20:51.87
九州説はだいたい事実と逆を言い張るから分かりやすい
202日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:20:54.83
九州説はだいたい事実と逆を言い張るから分かりやすい
203日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:20:55.55
九州説はだいたい事実と逆を言い張るから分かりやすい
204日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:20:56.35
九州説はだいたい事実と逆を言い張るから分かりやすい
205日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:20:57.19
九州説はだいたい事実と逆を言い張るから分かりやすい
206日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:20:57.90
九州説はだいたい事実と逆を言い張るから分かりやすい
207日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:21:00.28
九州説はだいたい事実と逆を言い張るから分かりやすい
208日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:21:01.02
九州説はだいたい事実と逆を言い張るから分かりやすい
209日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:21:01.58
九州説はだいたい事実と逆を言い張るから分かりやすい
210日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:21:02.23
九州説はだいたい事実と逆を言い張るから分かりやすい
211日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:21:04.62
九州説はだいたい事実と逆を言い張るから分かりやすい
212日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:21:05.45
九州説はだいたい事実と逆を言い張るから分かりやすい
213日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:21:06.28
九州説はだいたい事実と逆を言い張るから分かりやすい
214日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:21:06.89
九州説はだいたい事実と逆を言い張るから分かりやすい
215日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:21:10.39
九州説はだいたい事実と逆を言い張るから分かりやすい
216日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:21:11.22
九州説はだいたい事実と逆を言い張るから分かりやすい
217日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:21:12.03
九州説はだいたい事実と逆を言い張るから分かりやすい
218日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:21:12.68
九州説はだいたい事実と逆を言い張るから分かりやすい
219日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:21:13.41
九州説はだいたい事実と逆を言い張るから分かりやすい
220日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:21:16.06
九州説はだいたい事実と逆を言い張るから分かりやすい
221日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:21:16.85
九州説はだいたい事実と逆を言い張るから分かりやすい
222日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:21:17.53
九州説はだいたい事実と逆を言い張るから分かりやすい
223日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:21:19.63
九州説はだいたい事実と逆を言い張るから分かりやすい
224日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:21:20.51
九州説はだいたい事実と逆を言い張るから分かりやすい
225日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:21:21.16
九州説はだいたい事実と逆を言い張るから分かりやすい
226日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:21:21.74
九州説はだいたい事実と逆を言い張るから分かりやすい
227日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:21:37.80
九州説はだいたい事実と逆を言い張るから分かりやすい
228日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:23:20.30
>>179
貴方の予測が、おおよそ、的中したな。
ヤマタイコクキナイセツが、嘘を、連続で、投稿しましたね。
229日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:23:58.88
>>137-145
成る程。成る程。
230日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:25:53.30
追い詰められたヤマタイコクキナイセツが、そろそろ、💩酒キャラクターや、馬鹿アイコンキャラクターを出現させそうだな。
231日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:32:48.82
>>230
だが、皆、馬鹿さのレベルが、全く同じだよ。
232日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:43:10.72
墓穴を掘るアホの畿内説邪馬台国畿内説 Part966 YouTube動画>5本 ->画像>34枚
233日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:43:20.81
 自虐するキウス
234日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:47:39.18
一撃で論破されて荒らしを始めるから九州説は頭の悪さが丸出しなんだよ
235日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:48:18.85
>>1
おい、キウス。自らを、虐げるな。
236日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:48:40.92
一撃で論破されて荒らしを始めるから九州説は頭の悪さが丸出しなんだよ
237日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:48:41.69
一撃で論破されて荒らしを始めるから九州説は頭の悪さが丸出しなんだよ
238日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:48:42.37
一撃で論破されて荒らしを始めるから九州説は頭の悪さが丸出しなんだよ
239日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:48:43.30
一撃で論破されて荒らしを始めるから九州説は頭の悪さが丸出しなんだよ
240日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:48:43.94
一撃で論破されて荒らしを始めるから九州説は頭の悪さが丸出しなんだよ
241日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:50:19.92
>>137-145
成る程。成る程。
242日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:53:42.85
>>137-145
目から鱗が落ちたぞ。
ヤマタイコクキナイセツが、柱にしていた物事が、随分と、怪し気な、証拠の無い主張だと分かったぞ。
これでは、ヤマタイコクキナイセツは、正々堂々の討論から、逃亡し、
嘘の宣伝という、科学界に対する荒らし行為を、し続けるするしか、ないのだね。
243日本@名無史さん
2023/11/20(月) 19:54:39.53
>>137-145
目から鱗が落ちたぞ。
ヤマタイコクキナイセツが、柱にしていた物事が、随分と、怪し気な、証拠の無い主張だと分かったぞ。
これでは、ヤマタイコクキナイセツは、正々堂々の討論から、逃亡し、
嘘の宣伝という、科学界に対する荒らし行為を、し続けるしか、ないのだね。
244日本@名無史さん
2023/11/20(月) 20:07:39.85
もはや誰からも相手にされない九州説
245日本@名無史さん
2023/11/20(月) 20:09:01.66
>>244
願望乙
246日本@名無史さん
2023/11/20(月) 20:09:42.30
正々堂々の討論から、逃げ回るヤマタイコクキナイセツ、やはり、惨めだな。
247日本@名無史さん
2023/11/20(月) 20:10:11.84
>>137-145
成る程。成る程。
248日本@名無史さん
2023/11/20(月) 20:18:13.85
>>246
逃げてるのは九州説でしょ?
249日本@名無史さん
2023/11/20(月) 20:24:45.35
>>137-145
目から鱗が落ちたぞ。
ヤマタイコクキナイセツが、柱にしていた物事が、随分と、怪し気な、証拠の無い主張だと分かったぞ。
これでは、ヤマタイコクキナイセツは、正々堂々の討論から、逃亡し、
嘘の宣伝という、科学界に対する荒らし行為を、し続けるしか、ないのだね。
250日本@名無史さん
2023/11/20(月) 20:26:08.95
>>137-145
逃げ回るヤマタイコクキナイセツ。ついに、嘘だけになったな。
251日本@名無史さん
2023/11/20(月) 20:32:45.83
帰りたい。
252日本@名無史さん
2023/11/20(月) 20:36:40.93
ヤマタイコクキナイセツが、嘘をつく前の時に、帰りたがっているな。
253日本@名無史さん
2023/11/20(月) 20:37:03.88
>>137-145
成る程。成る程。
254日本@名無史さん
2023/11/20(月) 20:39:49.36
九州説は狂ってる
公的機関の調査報告を
なんの根拠もなく「ウソだー」って叫んでも
畿内説を論破できるわけないでしょ
255日本@名無史さん
2023/11/20(月) 20:43:15.67
嘘と自演とナリスマシ
そしてコピペ埋め立て荒らし
それじゃ
九州説の社会的信用ゼロになるの、当然でしょ
256日本@名無史さん
2023/11/20(月) 20:46:20.80
やはり、ヤマタイコクキナイセツは、馬鹿だな。
コウテキキカンとやらの判断の是非を、問題提起している議題で、コウテキキカンとやらの判断の真偽を、前提にした意見を、発表したぞ。
ヤマタイコクキナイセツは、やはり、馬鹿だった。
257日本@名無史さん
2023/11/20(月) 20:46:39.60
>>254
奈良県の公的機関
「畿内には邪馬台国とは比較にならない圧倒的な王権が存在した」
258日本@名無史さん
2023/11/20(月) 20:46:48.08
ヤマタイコクキナイセツは、馬鹿。
259日本@名無史さん
2023/11/20(月) 20:47:11.06
>>137-145
成る程。成る程。
260日本@名無史さん
2023/11/20(月) 20:50:11.74
>>257
「畿内には邪馬台国とは比較にならない圧倒的な王権が存在した」

それ、従来からの通説畿内説だよ
関川や安本の珍九州説を完全否定してるし



 
261日本@名無史さん
2023/11/20(月) 20:50:13.38
奈良県の公的機関には印象操作工作員がいます

邪馬台国畿内説 Part966 YouTube動画>5本 ->画像>34枚
262日本@名無史さん
2023/11/20(月) 20:50:33.25
やはり、キウス奥山>>1は、病気だな。どれだけ、5ちゃんねるに依存した生活を送っているのだ。
世界の殆どの物事は、5ちゃんねるては、無関係だぞ。

0255日本@名無史さん
2023/11/20(月) 20:43:15.67
嘘と自演とナリスマシ
そしてコピペ埋め立て荒らし
それじゃ
九州説の社会的信用ゼロになるの、当然でしょ
263日本@名無史さん
2023/11/20(月) 20:51:20.27
>>137-145
成る程。成る程。
264日本@名無史さん
2023/11/20(月) 20:51:37.94
❌畿内の邪馬台国は強大な権力を持っていた

⭕ 畿内には邪馬台国とは比較にならない圧倒的な王権が存在した
265日本@名無史さん
2023/11/20(月) 20:52:13.22
やはり、キウス奥山>>1は、病気だな。どれだけ、5ちゃんねるに依存した生活を送っているのだ。
世界の殆どの物事は、5ちゃんねるとは、無関係だぞ。

0255日本@名無史さん
2023/11/20(月) 20:43:15.67
嘘と自演とナリスマシ
そしてコピペ埋め立て荒らし
それじゃ
九州説の社会的信用ゼロになるの、当然でしょ
266日本@名無史さん
2023/11/20(月) 20:53:38.90
>>137-145
ヤマタイコクキナイセツが、追い詰められたな。
好古学芸会のメンバーであるかのようにして、コウテキキカンを擁護しているが、たかだか、5ちゃんねるを活発化させる係員のプロ固定でしかない、年中無給のキウス奥山氏も、なぜか、最近は、異常に興奮してきたが、
無知で無能のキウス奥山氏ではなくして、
謎の熱血青年の反発は、楽しみですね。
267日本@名無史さん
2023/11/20(月) 20:55:44.89
チョン、5ちゃんねるの不活発なスレッドでの物事が、社会に影響を与えられると考える。
268日本@名無史さん
2023/11/20(月) 20:57:59.25
おい、チョン。もっと楽しませろ。投稿が、疏らだぞ。
269日本@名無史さん
2023/11/20(月) 21:01:32.63
>>1
おい、キウス。
僕達は、全員、もう、寝るよ。だから、安心して、意見を発表しろ。
270日本@名無史さん
2023/11/20(月) 21:01:58.10
全員、寝たよ。
271日本@名無史さん
2023/11/20(月) 21:02:51.54
ぐう、ぐう。
272日本@名無史さん
2023/11/20(月) 21:05:50.70
年寄りは夜8時には寝ないと
273日本@名無史さん
2023/11/20(月) 21:09:40.56
ぐう、ぐう。
274日本@名無史さん
2023/11/20(月) 21:11:36.91
キチガイの阿波も寝たよ
275日本@名無史さん
2023/11/20(月) 21:24:13.82
>>152
じゃあ4世紀以降の土器をもっと古いと言い張って古墳も3世紀のものと断定したらいいじゃん
桃の種も3世紀だと測定できたんだしへーきへーき
276日本@名無史さん
2023/11/20(月) 21:34:37.53
>>275
>じゃあ4世紀以降の土器をもっと古いと言い張って古墳も3世紀のものと断定したらいいじゃん

言い張るもなにも、学術的な研究成果どおり
青柳所長が布留1式古相が3世紀で、正始元年鏡の出た桜井茶臼山古墳も3世紀と明言してるわけだが
277日本@名無史さん
2023/11/20(月) 21:41:39.57
青柳コメントは、畿内が邪馬台国では無い事がはっきりしたと言ってもいいだろう
278日本@名無史さん
2023/11/20(月) 21:54:52.16
>>276
そうそう
3世紀だぁーって名言して学説()にしたらいい
良かったじゃん
279日本@名無史さん
2023/11/20(月) 21:56:24.08
おっと
邪馬台国にしては強すぎる王権になっちゃったか
狗奴国にやられそうになるくらいしょぼい勢力じゃないと困るね
280日本@名無史さん
2023/11/20(月) 21:59:55.95
そういや狗奴国ってどこだ?
北に伊都国、伊都国から「南」に水行して邪馬台国
さらに南に狗奴国
「南」ではなく「東」である以上、狗奴国は東海あたりか?
え?
纏向と東海って深い交流があったし
一緒に仲良く箸墓古墳を作ってなかったっけ?
複雑な関係なのかな
281日本@名無史さん
2023/11/20(月) 22:02:43.22
>>277
>青柳コメントは、畿内が邪馬台国では無い事がはっきりしたと言ってもいいだろう

根拠もなく妄想するのが九州説
282日本@名無史さん
2023/11/20(月) 22:04:33.13
>>278
>そうそう
>3世紀だぁーって名言して学説()にしたらいい

とっくに通説なんだが
283日本@名無史さん
2023/11/20(月) 22:11:10.69
>>280
>そういや狗奴国ってどこだ?

テンプレ読めば?
畿内説のこと何も知らなけりゃ
畿内説に何も反論できないのは当然だよね
だから九州説はいつも簡単に論破されるんだよ
284琪瑛教大祭酒
2023/11/20(月) 22:11:48.77
相変わらず訳のわからんことを言っとるな。
平原は鬼道ではないだろ、
何処が鬼道なんだ?
我輩ですら柱信仰の朴個人崇拝の鬼神巫女としか見えんが中華は鬼道と勘違いしたとでもいうのかな?
おそらくその巫女とやらは大便の大きさで選ばれたな。
285日本@名無史さん
2023/11/20(月) 22:16:53.81
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
286日本@名無史さん
2023/11/20(月) 22:22:18.32
>>281
3世紀末なら台与が生きている可能性大の頃。その時代に邪馬台国とは比較にならない圧倒的な王権が存在したと青柳さんは言う。つまり畿内に邪馬台国があったとするのはノーチャンスだと誰でも思う。思いたく無いのは畿内説論者だけ。
287琪瑛教大祭酒
2023/11/20(月) 22:23:26.74
黒塚先生、甲冑小札ですよ。勇ましい卑弥呼ですね。
288日本@名無史さん
2023/11/20(月) 22:24:47.99
纏向には魏どころか大陸との交流を示すものがほとんどないからな
邪馬台国とは関係ないやろ
289琪瑛教大祭酒
2023/11/20(月) 22:26:22.34
286.全然そんなこと思ってないんだな。
黒塚、椿井大塚、茶臼山、皆卑弥呼の家来と思っているんだよ。
290日本@名無史さん
2023/11/20(月) 22:26:23.18
桃の種くらいやろ、マジで
モモの木ならうちの実家にもあるで
291日本@名無史さん
2023/11/20(月) 22:27:22.31
>>289
すげー希望的観測やなwwww
292日本@名無史さん
2023/11/20(月) 22:28:34.90
>>284
卑弥呼は東洋医学的をマスターしていたかもしれないね豊国奇巫が卑弥呼の鬼道の後継者だよ
293日本@名無史さん
2023/11/20(月) 22:30:18.21
>>292
鬼道なんてそんなたいそうなもんでもないやろ
ただのシャーマン、占い師やろ
294日本@名無史さん
2023/11/20(月) 22:32:30.02
>>287
邪馬台・狗奴戦争の邪馬台側の総司令官は誰だと思ってるんです?

俺の超能力は外しませんので
295日本@名無史さん
2023/11/20(月) 22:34:26.82
豊国奇巫
邪馬台国畿内説 Part966 YouTube動画>5本 ->画像>34枚
296日本@名無史さん
2023/11/20(月) 22:37:28.17
>>293
道教は不老長寿の医学でもあるからね
297琪瑛教大祭酒
2023/11/20(月) 22:38:41.03
実際5%の遺跡で交流ないはどうかねぇ。
そもそも宮でもあり宗教道場と思っているからな。
黒塚、椿井大塚等卑弥呼の時代の官と考えられる所からはわんさか鉄も含め出とるだろ、茶臼山もそちらで断言しとるじゃないか。
298琪瑛教大祭酒
2023/11/20(月) 22:41:42.17
希望的観測?鉄製甲冑小札は魏の甲冑と言われておるよ。
裸足の倭人国に甲冑はオーバーで倭人伝にも記されていないだろ。
299琪瑛教大祭酒
2023/11/20(月) 22:43:50.83
293.倭人伝をちゃんと読んどらんのが九州なんだな。
300日本@名無史さん
2023/11/20(月) 22:46:32.51
>>286
>3世紀末なら台与が生きている可能性大の頃。その時代に邪馬台国とは比較にならない圧倒的な王権が存在したと青柳さんは言う。つまり畿内に邪馬台国があったとするのはノーチャンスだと誰でも思う。思いたく無いのは畿内説論者だけ。

おつむ大丈夫デスカー
台与が邪馬台国となんの関係があるの?


九州説って知能足りない人デスカー




w
w
w
w
w
301日本@名無史さん
2023/11/20(月) 22:46:53.32
言うまでもないと思うけど、邪馬台・狗奴戦争の邪馬台側の総司令官は紛れもなく
卑弥呼、その人ですよ

ではなぜ卑弥呼は魏に朝貢しようと思ったんです?

魏を利用して戦争を有利に推し進めたかったからに他ならない
302琪瑛教大祭酒
2023/11/20(月) 22:52:58.59
台与の時代かな、新山古墳、晋式帯金具。
将軍クラスに贈与される物だよ。
終わってんだよ、タマゴ諸君。
303日本@名無史さん
2023/11/20(月) 22:53:51.28
>>296
道教と関係あるという証拠は?
君の妄想やろ?
304日本@名無史さん
2023/11/20(月) 22:54:52.07
>>300
台与は何者か?
305日本@名無史さん
2023/11/20(月) 22:55:15.25
難升米だろ
306日本@名無史さん
2023/11/20(月) 23:06:49.70
>>304
反論できない九州説
というより人と会話できない九州説
307日本@名無史さん
2023/11/20(月) 23:08:14.12
>>306
お前の考える台与は何者かと聞いている
308日本@名無史さん
2023/11/20(月) 23:13:04.68
>おつむ大丈夫デスカー
>台与が邪馬台国となんの関係があるの?

畿内説すげぇw
309日本@名無史さん
2023/11/20(月) 23:13:41.79
畿内説にはアタオカとキチガイしか居ないようだ
310日本@名無史さん
2023/11/20(月) 23:19:09.33
>>308
反論できずに罵るだけ
また九州説が一発で論破されました
311日本@名無史さん
2023/11/20(月) 23:20:47.67
>>310
で、台与って誰なん?
312日本@名無史さん
2023/11/20(月) 23:24:03.71
>>307
>お前の考える台与は何者かと聞いている

倭国王だよね
それが何か?
313日本@名無史さん
2023/11/20(月) 23:25:45.58
>>312
で、邪馬台国はどこ?
314日本@名無史さん
2023/11/20(月) 23:25:54.43
>>312
どうでもいいから住居を探してこい
315日本@名無史さん
2023/11/20(月) 23:26:31.44
邪馬台国七万戸
316日本@名無史さん
2023/11/20(月) 23:28:35.93
奈良盆地は7千戸
筑後肥国で7万戸
さあどっちが邪馬台国でしょう?
317日本@名無史さん
2023/11/20(月) 23:32:12.33
0戸×50=0戸
318日本@名無史さん
2023/11/20(月) 23:34:00.65
畿内は倭国ですら無いのだが、倭人伝の倭種の国。
319日本@名無史さん
2023/11/20(月) 23:38:53.25
『後漢書』に書かれた2世紀以前の倭国(北部九州)の出来事が畿内には欠落している

建武中元二年(57年) - 倭奴国が金印を授与される。

永初元年(107年) - 倭国王の帥升が安帝に拝謁を願う。

桓帝と霊帝の間(146年 - 189年) - 倭国大乱。

桓帝と霊帝の間(146年 - 189年)の末頃 - 一女子がいて、名を卑弥呼という。成人で独身、鬼神道につかえよく人々を惑わしていた。各国は共同して卑弥呼を立て王と為した。

畿内説では、これらの出来事が畿内で起きた事だと証明出来ない、つまり倭国としての歴史を畿内は持たないのである。
320琪瑛教大祭酒
2023/11/20(月) 23:44:43.95
319.馬鹿過ぎて話す気にもならないがそれが畿内で起こった出来事だなんて一度も言ったことはないし、
1.にもそんなことは書かれていない。
321日本@名無史さん
2023/11/20(月) 23:45:36.69
相変わらずアンカーすら打てない情弱畿内説
322日本@名無史さん
2023/11/20(月) 23:47:30.88
>>286

橿考研の青柳所長はポンペイ市名誉市民なので
講演会の発言は言葉足らずの部分はある

「(魏の時代の)邪馬台国が北部九州か畿内かといわれているが
3世紀末の奈良盆地には、(魏の時代の)邪馬台国とは比較にならない
圧倒的な王権が存在したことが明らかになった」
という意味だろう
323日本@名無史さん
2023/11/20(月) 23:54:15.05
>>322

「3世紀末の奈良盆地には、(北部九州の)邪馬台国とは比較にならない圧倒的な(ヤマト)王権が存在したことが明らかになった」と言う事だよ
324日本@名無史さん
2023/11/20(月) 23:56:17.91
>>320
1が馬鹿なのはこのスレの定説だけどな
325日本@名無史さん
2023/11/20(月) 23:59:19.15
>>320
畿内がいつ倭国になったのか説明してみろよ。
326日本@名無史さん
2023/11/21(火) 00:44:46.38
>>323

決めつけてはいけない
ポンペイ市名誉市民である青柳所長は
魏志の邪馬台国が北部九州か畿内かについても、
3世紀末まで続いているともいないとも言及していない
魏が滅亡した後の3世紀末の奈良盆地には
魏志(=魏の時代)とは比較にならない圧倒的な王権が存在したことが明らかになった
と言っている
327日本@名無史さん
2023/11/21(火) 01:42:42.25
要するに青柳さんは、邪馬台国が畿内でないなんて話は一切していな
しかし関川や安本の説ははっきり否定している
当然だけど
328日本@名無史さん
2023/11/21(火) 01:53:30.41
話は一切していない
329日本@名無史さん
2023/11/21(火) 05:59:19.27
「邪馬台国が北部九州か畿内かといわれているが、3世紀末の奈良盆地には、(北部九州の)邪馬台国とは比較にならない圧倒的な(ヤマト)王権が存在したことが明らかになった」このように行間を読むのが正しいだろう、疑問があるなら電話で問い合わせればいい
330日本@名無史さん
2023/11/21(火) 06:08:17.45
>>326
魏の事には全く触れていない
畿内説は何でもかんでも意訳する。
331日本@名無史さん
2023/11/21(火) 06:08:35.27
>>1
お早う、キウス。
332日本@名無史さん
2023/11/21(火) 06:24:18.96
>>330
理由もなく常識的解釈を拒絶するのはトンデモ
333日本@名無史さん
2023/11/21(火) 06:26:57.47
キナイコシがすっとぼけたように同じ話題を繰り返すのは、

あたかも議論がまだ続いており、

畿内説が審議中であるかのように見せかけて、

教科書の改訂運動を少しでも先延ばしするため
334日本@名無史さん
2023/11/21(火) 06:35:31.41
>>329
原文にない文字を勝手に書き加えて原意を歪曲するのは九州説の悪癖
335日本@名無史さん
2023/11/21(火) 06:38:11.91
>>334

それは畿内説>>322
336日本@名無史さん
2023/11/21(火) 06:43:03.44
>>333
このように
自分に都合のいい作り話をなんの証拠もなく主張するのが
九州説
337日本@名無史さん
2023/11/21(火) 06:48:52.20
>>335
>それは畿内説>>322


教科書にも載ってる通りの畿内説を述べただけって考えるのが当然なのに
338日本@名無史さん
2023/11/21(火) 06:50:10.88
7万戸だけで考えても邪馬台国は【筑後肥国】の一択しか無い。その北には投馬国があり渡海千里で倭種の国がある。これは倭人伝とピッタリ符合する邪馬台国畿内説 Part966 YouTube動画>5本 ->画像>34枚
339琪瑛教大祭酒
2023/11/21(火) 07:09:19.28
まあ、無駄だな。黒塚椿井大塚茶臼山と卑弥呼のおかげなんだな。
鉄製品もザクザクであるし
神獣鏡、魏甲冑と晋帯金具では
九州では相手にならない。
九州伊都地域はタマゴしか出てこない、方形四神の鏡では朴の域を出ない。
卑弥呼が伊都では神獣鏡は不要であり朴の鏡が増えていかなくてはならない。
甕タマゴは静かに縮小して行く後漢までの隆盛なんだな。まぁそうじゃないそうじゃないと信じて韓神を祀るのも日本人だわな。
340日本@名無史さん
2023/11/21(火) 07:13:44.52
>>339
無駄だ畿内には倭国の歴史が全く無い
341日本@名無史さん
2023/11/21(火) 07:17:58.81
>>340
ないって証拠は?
342日本@名無史さん
2023/11/21(火) 07:21:15.87
>>338
>7万戸だけで考えても邪馬台国は【筑後肥国】の一択しか無い。

このように
全く根拠を出さずに
ただ言い張る
それが九州説
343日本@名無史さん
2023/11/21(火) 07:23:52.04
>>341
お前は酒か?
344日本@名無史さん
2023/11/21(火) 07:24:49.91
青柳発言は、形式的には邪馬台国は北部九州か畿内かわからない、権力の大きさの差は前者なら国の違いで後者なら時期の違いでどちらとも言えない、という九州説と畿内説に中立なポジションを取ったということになろう

しかしこの十数年、まるで何かに取り憑かれたかの如く殆ど合理的根拠なしに邪馬台国は纒向で決まったかの如き異常な言説を繰り返してきた考古学界から、こうした理性的で穏当な発言が出てきたこと自体が我々心ある古代史ファンには驚きなのだ

まともなのが青柳氏一人なのか、それとも考古学界自体が正常化に向かいつつあるのか
今後の考古学界の言動を注視したい
345日本@名無史さん
2023/11/21(火) 07:25:18.46
>>342
根拠は奈良時代の推定人口から
346日本@名無史さん
2023/11/21(火) 07:27:25.89
九州説の言う事は何でも全否定するのが奥山の流儀w
347日本@名無史さん
2023/11/21(火) 07:28:38.05
魏志倭人伝には以下のように記述してある

・邪馬台国は伊都国など博多湾沿岸諸国から南に千五百里(ざっくり一里≒75m)ほど水行陸行したところにある
・倭国の西の記述がない(西には国や陸地がないと見られる)
・倭国の東の海を千里ほど渡ると倭種の国がある
・邪馬台国の南に倭国に属さない狗奴国(肥後に隈・熊・球磨などの地名多い)があり、その官は狗古智卑狗(≒久々知彦、久々知は菊池の旧名)という

さらに鉄鏃や絹や有棺無槨の墓(箱式石棺墓)がある
温暖で海に潜って魚や鮑を取る

どう見てもこれらは全て北部九州の話だ
何で畿内説だの阿波説だのという明らかに間違った珍説が出てくるのか私にはさっぱり理解できない
348日本@名無史さん
2023/11/21(火) 07:29:04.83
>>345
九州も畿内も、碌な鍛冶炉遺構や集落遺跡の無い寂れた寒村。 「邪馬臺国」になど成り得る訳もなし!  わははははは   @阿波
349日本@名無史さん
2023/11/21(火) 07:31:19.93
>>345
>根拠は奈良時代の推定人口から

それが三世紀の人口の根拠になると思うのは
お前の頭がおかしいとする根拠になる
350日本@名無史さん
2023/11/21(火) 07:32:57.37
◆FAQ
魏使が畿内に行くのならなぜ九州内を陸行700里するのか?
351日本@名無史さん
2023/11/21(火) 07:33:56.42
>>349
奴国の人口に変化は無い
352日本@名無史さん
2023/11/21(火) 07:35:32.99
畿内説は頭が狂っているから畿内説と言うトンデモを唱えるのだろう。
353日本@名無史さん
2023/11/21(火) 07:36:59.37
>>352
奥山がアタオカなのはこのスレの定説
354日本@名無史さん
2023/11/21(火) 07:45:30.26
>>339
お前に答えられるか?
◆FAQ
魏使が畿内に行くのならなぜ九州内を陸行700里するのか?
355日本@名無史さん
2023/11/21(火) 07:49:52.80
>>354
九州内を陸行700里したって言ってる人は誰
356日本@名無史さん
2023/11/21(火) 07:51:20.48
>>355
魏志倭人伝の記述だけど何か?
357日本@名無史さん
2023/11/21(火) 07:53:30.34
倭人伝では畿内に行ったとは書いていない。書いていない事が見えるのは精神の病気を疑った方が良い
358日本@名無史さん
2023/11/21(火) 07:54:29.11
>>344
青柳発言?

彼、定説畿内説と違うことはまったく言っていない
関川や安本の九州説は完全否定している

どこが中立?
359日本@名無史さん
2023/11/21(火) 07:56:07.34
>>356
>魏志倭人伝の記述だけど何か?

だから、九州内を陸行700里したって言ってる人は誰?
360日本@名無史さん
2023/11/21(火) 07:57:24.97
>>358
青柳さんは邪馬台国が畿内にあったとは一言も言っていない
361日本@名無史さん
2023/11/21(火) 07:58:20.54
>>355
九州内を陸行700里してないって言ってる人は誰?
362日本@名無史さん
2023/11/21(火) 07:58:56.88
>>359
魏使の記録だろ
363日本@名無史さん
2023/11/21(火) 08:01:01.46
魏志倭人伝をことごとく否定すると邪馬台国も否定することになる畿内説。
364日本@名無史さん
2023/11/21(火) 08:02:24.99
>>349
九州では紀元前1000年頃に水田稲作が始まり1300年も経ってるし、鉄器の農機具を使ってるから500年後の8世紀と大して人口は変わらんよ。
365日本@名無史さん
2023/11/21(火) 08:07:07.04
>>364
通説と全然違う主張だけど、根拠は?
366日本@名無史さん
2023/11/21(火) 08:08:49.27
>>362
>魏使の記録だろ

だという根拠は?
367日本@名無史さん
2023/11/21(火) 08:14:08.40
>>366
魏志倭人伝に書かれている事を認めないのが畿内説論法だな
368日本@名無史さん
2023/11/21(火) 08:14:35.03
>>365
九州では紀元前1000年頃に水田稲作が始まった・・・定説
九州では3世紀には鉄器の農機具を使っていた・・・定説
ですよw
369日本@名無史さん
2023/11/21(火) 08:15:00.97
帯方郡から倭に至るには海岸沿いに南に東にと七千里進んで倭の北側の沿岸すなわち朝鮮半島南岸にある狗邪韓国に到着する
狗邪韓国は金海市・釜山市あたりにあった倭人のクニと考えられる(倭人のクニでなければ魏志倭人伝で国名を取り上げる理由がない)

ここから南に
→千里で対馬国
→千里で一大国(壱岐国)
→千里で末蘆国(肥前国松浦郡)
と進み、さらに
→東南に陸行五百里で伊都国(筑前国怡土郡)
→東南に百里で奴国(筑前国儺県=なのあがた)
→東に百里で不弥国(筑前国糟屋郡宇美または筑前国穂波郡)
と進んだ

さらに、
→伊都国ないし不弥国から南に水行二十日で投馬国
→南に邪馬台国に至った(伊都国ないし不弥国ないし投馬国から水行十日陸行一月)

邪馬台国の南に狗奴国があり、女王に属さなかった
すなわち邪馬台国が女王の統治する倭国の南端だ
帯方郡から女王国すなわち邪馬台国に至るには一万二千里掛かった
(「女王国」の語は魏志倭人伝に5か所記載され単体の「邪馬台国」と解釈できるところと連合王国としての「倭国」と解釈できるところがあるが、既に帯方郡から七千里で倭国の北端狗邪韓国に至っているのでここは「倭国」とは解釈できず「邪馬台国」一択)

さらに倭の地を巡り歩くこと五千里とある
これは、倭国に来て北端の狗邪韓国から邪馬台国まで五千里ということだろう
帯方郡から狗邪韓国まで七千里、帯方郡から邪馬台国まで一万二千里という記述とも綺麗に整合する
(一万二千里-七千里=五千里)
(続く)
370日本@名無史さん
2023/11/21(火) 08:17:05.52
(続き)
邪馬台国は伊都国や不弥国などの南にあり、肥後にあったと思われる狗奴国(クマ=隈・熊・球磨の地名、官の狗古智卑狗は菊池の旧名久々知の長で久々知彦)の北にあったので、筑後と推定される
帯方郡から伊都国まで一万五百里なので伊都国から邪馬台国は残り千五百里、魏志韓伝と倭人伝の一里は概ね75m(凡そ300km四方の三韓地域を方四千里と書くなど)なので、伊都国から南におおよそ100kmで邪馬台国に着くということになる
この方角と距離感も筑後で符合する
博多湾側から筑後邪馬台国までは御笠川→宝満川→筑後川で水行してから少し陸行したと考えるのが合理的だ

地名から考えれば、邪馬台国は筑後山門郡(プラス肥後菊池郡山門郷)と比定できる
邪馬台国を目指して筑後川を水行してくる途中には筑後上妻郡・下妻郡があり、これが投馬国と考えられる
邪馬台国と狗奴国の国境に近いと考えられる菊池川流域では鉄鏃が大量に出土しており、両国の間で激しい戦いがあったことを窺わせる

なお、倭人は里数を知らず日数で距離を測る(隋書倭国伝より)ことから、投馬国の水行二十日、邪馬台国の水行十日陸行一月は倭人からの伝聞と考えられる
倭人が安全保障上の理由で距離と戸数(五万戸、七万戸)を誇張したことは大いに考えられるので、水行十日陸行一月や戸数七万戸を額面通りに受け止めて大真面目に議論することは賢明ではないだろう
実際、これらを大真面目に議論して合理的結論に至った人を私は未だかつて一人も見たことがない
371日本@名無史さん
2023/11/21(火) 08:17:46.13
>>369
→東に百里で不弥国(筑前国糟屋郡宇美または筑前国穂波郡)
と進んだ

突然百里が長くなってるな?
不弥国は末盧国から700里の場所だからそんな遠方じゃないよ
372日本@名無史さん
2023/11/21(火) 08:19:11.57
>>360
>青柳さんは邪馬台国が畿内にあったとは一言も言っていない

邪馬台国が畿内になかったとも一言も言っていないね
そして関川や安本の九州説は完全否定してる

どこが中立?
373日本@名無史さん
2023/11/21(火) 08:27:06.12
>>372
青柳さんは奈良盆地には邪馬台国と違う王権があったと言っている
374日本@名無史さん
2023/11/21(火) 08:28:37.75
>>371
369だがそこは私も気になっている
伊藤雅史氏の不弥国=比恵那珂遺跡説なども無視できない
いずれにしろ不弥国はよくわからない
375日本@名無史さん
2023/11/21(火) 08:29:12.58
>>368
あなたの主張「500年後の8世紀と大して人口は変わらん」が通説と全然違うってことは事実なんだけど、根拠は?
376日本@名無史さん
2023/11/21(火) 08:33:23.32
>>373
>青柳さんは奈良盆地には邪馬台国と違う王権があったと言っている

言ってないけど?
377日本@名無史さん
2023/11/21(火) 08:34:29.41
>>137-145
成る程。成る程。
ヤマタイコクキナイセツが、柱にしていた物事が、随分と、怪し気な、証拠の無い主張だと分かったぞ。
これでは、ヤマタイコクキナイセツは、正々堂々の討論から、逃亡し、
嘘の宣伝という、科学界に対する荒らし行為を、し続けるするしか、ないのだね。
378日本@名無史さん
2023/11/21(火) 08:35:46.88
>>137-145
成る程。成る程。
ヤマタイコクキナイセツが、柱にしていた物事が、随分と、怪し気な、証拠の無い主張だと分かったぞ。
これでは、ヤマタイコクキナイセツは、正々堂々の討論から、逃亡し、
嘘の宣伝という、科学界に対する荒らし行為を、し続けるしか、ないのだね。
379日本@名無史さん
2023/11/21(火) 08:38:11.35
ちゃんねるを、活発化する係員でしかない、ヤマタイコクキナイセツの卑劣な手口。

1.ヤマタイコクキナイセツの討論相手として、キウス馬鹿キャラクターを、創る。
だが、ヤマタイコクキナイセツは、元々、馬鹿なので、あまり、馬鹿さのレベルは、変わらない。

2.頭の出来栄えが普通の者達が出現し、ヤマタイコクキナイセツが、追い詰められたら、キウス馬鹿キャラクターを出現させる。

3.頭の出来栄えが普通の者達が、過去に、ヤマタイコクキナイセツを追い詰めた意見を、キウス馬鹿キャラクターに繰り返させるが、少し、嘘や馬鹿な意見を混ぜる。
或いは、キウス馬鹿キャラクターに、ヤマタイコクキナイセツの掲げる、、特に【巻向遺蹟の年代が三世紀前半を含む
のだ】や【東治は東冶の間違いなのだ】というような、間違った前提で、ヤマタイコクキナイセツとの討論を、進行させる。

4.頭の出来栄えが普通の者達がヤマタイコクキナイセツを追い詰めた意見の本筋は無視し、キウス馬鹿キャラクターが混ぜた嘘や馬鹿な意見に対して、徹底的に反論し、勝利を宣言する。
或いは、キウス馬鹿キャラクターと進行させた討論で前提とした、特に【巻向遺蹟の年代が三世紀前半を含む
のだ】や【東治は東冶の間違いなのだ】というような、間違った物事と、更にその間違った前提から、導かれる、別の嘘を、宣伝する。
380日本@名無史さん
2023/11/21(火) 08:38:37.15
「3世紀末の奈良盆地には、邪馬台国とは比較にならない圧倒的な王権が存在した」
この発言を持って邪馬台国が奈良盆地にあったと解する事は全く出来ない。
381日本@名無史さん
2023/11/21(火) 08:40:04.44
桜井茶臼山古墳は、馬力利用時代の5世紀に、出現したよ。
382日本@名無史さん
2023/11/21(火) 08:40:55.37
>>145
成る程。成る程。
383日本@名無史さん
2023/11/21(火) 08:44:37.90
ブラックなボックスで守られている物事は、空気シャワーの影響で年代を古く判定すれ物事からも、さらに、古く判定している、と判定されたね。
384日本@名無史さん
2023/11/21(火) 08:45:08.94
ブラックなボックスで守られている物事は、空気シャワーの影響で年代を古く判定する物事からも、さらに、古く判定している、と判定されたね。
385日本@名無史さん
2023/11/21(火) 08:47:30.42
つまり畿内説はガセと判定されましたと
386日本@名無史さん
2023/11/21(火) 08:49:22.08
>>380
>3世紀末の奈良盆地には、邪馬台国とは比較にならない圧倒的な王権が存在した」
>この発言を持って邪馬台国が奈良盆地にあったと解する事は全く出来ない。

とんでもない
邪馬台国が奈良盆地にあったという以外に解する事は全く出来ないんだよ

「当初弱かった政権の基盤が強化される過程がうかがえる」
「古墳時代初めから強大な支配体制が形成された」
だから古墳時代以前の邪馬台国ではまだ弱かった政権の基盤が強化されて強大になったんだよ
邪馬台国が奈良盆地にあったと言っている
387日本@名無史さん
2023/11/21(火) 08:51:48.59
伊都國は、伊万里川水系で、不彌國は、松浦川水系だな。
なぜならば、九州島北岸を、ある海岸からある津まで、500里(2島の間の距離の半分)、陸行できる場所は、
松浦市から伊万里市までだからだ。

そして、唐津は、壱岐からは、東南だし、呼子は、壱岐からは、近すぎる。
388日本@名無史さん
2023/11/21(火) 08:52:53.38
>>384
成る程。成る程。
ヤマタイコクキナイセツは、💩だな。
389日本@名無史さん
2023/11/21(火) 08:54:15.18
桜井茶臼山の被葬者は邪馬台国の人間では無いな
390日本@名無史さん
2023/11/21(火) 08:55:34.86
>>380
7000戸で圧倒的な王権が存在したとかへそで茶が沸くなw
391日本@名無史さん
2023/11/21(火) 09:02:01.43
>>386
>「当初弱かった政権の基盤が強化される過程がうかがえる」
「古墳時代初めから強大な支配体制が形成された」
だから古墳時代以前の邪馬台国ではまだ弱かった政権の基盤が強化されて強大になったんだよ
邪馬台国が奈良盆地にあったと言っている

妄想だけで、まったく裏付けるもの無し!   @阿波
392日本@名無史さん
2023/11/21(火) 09:06:08.02
>>381
桜井茶臼山古墳に埋められた死体は、応神天皇の関係者では、ないのかな。
そして、宗像とも関係が、ありそうだよ。
393日本@名無史さん
2023/11/21(火) 09:08:14.38
妄想だけで、まったく裏付けるもの無し!   @阿波
394日本@名無史さん
2023/11/21(火) 09:08:33.00
桜井茶臼山の被葬者は崇神朝の四道将軍だろ、邪馬台国とは無関係だな
395日本@名無史さん
2023/11/21(火) 09:09:14.09
武内宿禰の一族は、物部氏の女が、産んだな。
396日本@名無史さん
2023/11/21(火) 09:09:53.36
魏志倭人伝の倭人とは異なる文化圏だわ
倭人は村レベルのしょぼいクニ同士で争ってて巫女を女王として共立するしかなかったし
狗奴国と争うのに魏を頼るしかない弱小の連合体
環濠を必要としない大都市を築いて巨大古墳をいくつも作れて天下統一しそうな最強の畿内さまと比較するのは失礼
397日本@名無史さん
2023/11/21(火) 09:11:58.38
ここは妄想を披露するだけの、アホの集まり。 わははははは   @阿波
398日本@名無史さん
2023/11/21(火) 09:26:52.46
阿波(アホ)か
なるほど
399日本@名無史さん
2023/11/21(火) 09:42:31.06
奈良には邪馬台国はありません
県立橿原考古学研究所の公式見解ですwww

>青柳正規所長は調査の意義について「邪馬台国が北部九州か畿内かといわれているが、
>3世紀末の奈良盆地には、邪馬台国とは比較にならない圧倒的な王権が存在したことが明らかになった」と述べた。

https://www.sankei.com/article/20231106-YQ2CEHEOWRLK3EV2AME3WDEYFU/

邪馬台国とは比較にならない圧倒的な王権が存在した
邪馬台国とは比較にならない圧倒的な王権が存在した
邪馬台国とは比較にならない圧倒的な王権が存在した
邪馬台国とは比較にならない圧倒的な王権が存在した
邪馬台国とは比較にならない圧倒的な王権が存在した
400日本@名無史さん
2023/11/21(火) 09:45:49.73
>>145
つまり、前方後円型物体を作り始めた者達は、魏志倭人伝時代から、何十年も後の者達なのだな。
だから、邪馬壹國と庄内式期の畿内を、同じ時代の物事であるかのように、比較するのは、💩だよ。
401日本@名無史さん
2023/11/21(火) 10:07:04.58
>>399
>邪馬台国とは比較にならない圧倒的な王権が存在した
>邪馬台国とは比較にならない圧倒的な王権が存在した

「当初弱かった政権」が強化されて
「古墳時代初めから強大な支配体制が形成された」と言ってるんだもの
もう邪馬台国の都ができた当初とは比較にならない圧倒的な王権ですよ
402日本@名無史さん
2023/11/21(火) 10:08:24.11
>>137-145
成る程。成る程。
ヤマタイコクキナイセツが、柱にしていた物事が、随分と、怪し気な、証拠の無い主張だと分かったぞ。
これでは、ヤマタイコクキナイセツは、正々堂々の討論から、逃亡し、
嘘の宣伝という、科学界に対する荒らし行為を、し続けるしか、ないのだね。
403日本@名無史さん
2023/11/21(火) 10:10:03.12
武内宿禰の出身地が、謎だな。紀伊とは、関係なさそうだぞ。
404日本@名無史さん
2023/11/21(火) 10:11:43.44
>>399
>県立橿原考古学研究所の公式見解ですwww

関川や安本の九州説は間違いだってさ
御愁傷様
405日本@名無史さん
2023/11/21(火) 10:14:05.16
武内宿禰は、そもそも、何人いたのだ。
406日本@名無史さん
2023/11/21(火) 10:15:21.15
ちゃんねるを、活発化する係員でしかない、ヤマタイコクキナイセツの卑劣な手口。

1.ヤマタイコクキナイセツの討論相手として、キウス馬鹿キャラクターを、創る。
だが、ヤマタイコクキナイセツは、元々、馬鹿なので、あまり、馬鹿さのレベルは、変わらない。

2.頭の出来栄えが普通の者達が出現し、ヤマタイコクキナイセツが、追い詰められたら、キウス馬鹿キャラクターを出現させる。

3.頭の出来栄えが普通の者達が、過去に、ヤマタイコクキナイセツを追い詰めた意見を、キウス馬鹿キャラクターに繰り返させるが、少し、嘘や馬鹿な意見を混ぜる。
或いは、キウス馬鹿キャラクターに、ヤマタイコクキナイセツの掲げる、、特に【巻向遺蹟の年代が三世紀前半を含む
のだ】や【東治は東冶の間違いなのだ】というような、間違った前提で、ヤマタイコクキナイセツとの討論を、進行させる。

4.頭の出来栄えが普通の者達がヤマタイコクキナイセツを追い詰めた意見の本筋は無視し、キウス馬鹿キャラクターが混ぜた嘘や馬鹿な意見に対して、徹底的に反論し、勝利を宣言する。
或いは、キウス馬鹿キャラクターと進行させた討論で前提とした、特に【巻向遺蹟の年代が三世紀前半を含む
のだ】や【東治は東冶の間違いなのだ】というような、間違った物事と、更にその間違った前提から、導かれる、別の嘘を、宣伝する。
407日本@名無史さん
2023/11/21(火) 10:17:16.33
>>405
少なくとも、紀伊で生まれた武内宿禰と、仲哀天皇に仕えた武内宿禰は、別人では、ないのかな。
408日本@名無史さん
2023/11/21(火) 10:18:34.35
>>137-145
ヤマタイコクキナイセツが、追い詰められたな。
好古学芸会のメンバーであるかのようにして、コウテキキカンを擁護しているが、たかだか、5ちゃんねるを活発化させる係員のプロ固定でしかない、年中無給のキウス奥山氏も、なぜか、最近は、異常に興奮してきたが、
無知で無能のキウス奥山氏ではなくして、
謎の熱血青年の反発は、楽しみですね。
409日本@名無史さん
2023/11/21(火) 10:19:33.57
要するに頭の悪いカテゴリーに属する馬鹿学者は教科書の内容に口出しするなという事だね
410日本@名無史さん
2023/11/21(火) 10:21:54.84
>>407
紀伊で生まれたという武内宿禰が、孝元天皇からの何代目だったにせよ、やはり、一人と考えるのは、不自然だな。
411日本@名無史さん
2023/11/21(火) 10:24:08.42
>奈良には邪馬台国はありません
>県立橿原考古学研究所の公式見解ですwww

妄想すげえよ
412日本@名無史さん
2023/11/21(火) 10:30:32.74
奈良には邪馬台国では無いもっと大きな勢力が居ました
と言ってるわけで
それはつまり奈良は邪馬台国とは関係ない、いわゆる女王国の東の「倭種の国」でしたという事だよね
413日本@名無史さん
2023/11/21(火) 10:34:09.16
畿内説は何でも意訳する脳足りん
414日本@名無史さん
2023/11/21(火) 10:39:40.24
>>410
貴方は、この文章に、注目したな。

六十二年、新羅不朝。卽年、遣襲津彦擊新羅。
【百濟記云、壬午年、新羅不奉貴國。貴國遣沙至比跪令討之。新羅人莊飾美女二人、迎誘於津。沙至比跪、受其美女、反伐加羅國。加羅國王己本旱岐、及兒百久至・阿首至・國沙利・伊羅麻酒・爾汶至等、將其人民、來奔百濟。百濟厚遇之。加羅國王妹既殿至、向大倭啓云、天皇遣沙至比跪、以討新羅。而納新羅美女、捨而不討。反滅我國。兄弟人民、皆爲流沈。不任憂思。故、以來啓。天皇大怒、卽遣木羅斤資、領兵衆來集加羅、復其社稷。一云、沙至比跪、知天皇怒、不敢公還。乃自竄伏。其妹有幸於皇宮者。比跪密遣使人、問天皇怒解不。妹乃託夢言、今夜夢見沙至比跪。天皇大怒云、比跪何敢來。妹以皇言報之。比跪知不兔、入石穴而死也。】
415日本@名無史さん
2023/11/21(火) 10:40:42.92
>>412
意訳する脳足りん
416日本@名無史さん
2023/11/21(火) 10:42:05.87
>>414
武内宿禰についての研究からは、少し、外れるが、やはり、新羅も百済も、日本人にとっては、完全な属国だったのだね。
417日本@名無史さん
2023/11/21(火) 10:48:25.59
青柳氏は九州説にも畿内説にも肩入れしない巧みな言い方をした
畿内説のゴリ押し一辺倒だった最近の考古学界にはなかった中立的で穏当なスタンスだ
418日本@名無史さん
2023/11/21(火) 10:49:15.08
要するに>>1は邪馬台国は奈良にあったという事にしたいという願望であり
研究成果の発表でもなく、一つの意見としても成立しない個人的な「想像」だという事だね
419日本@名無史さん
2023/11/21(火) 10:49:54.51
沙至比跪は、応神天皇の兄なのだろうか。
420日本@名無史さん
2023/11/21(火) 10:58:04.58
>>418
だからここは、妄想を披露するだけの、アホの集まり だと、何度言えばww   @阿波
421日本@名無史さん
2023/11/21(火) 11:05:19.76
>>417
だから関川や安本の九州説を否定してる事実をどうすんの
422日本@名無史さん
2023/11/21(火) 11:27:29.29
先週末に守山の伊勢遺跡の祭祀跡とか調べてたんだけど、あの規模の祭祀跡が出てこなかったら畿内(纏向)は無いって思うね
倭種の国として銅鐸捨てたあとでもあのくらいの祭祀出来なきゃ王権なんて続かないでしょ
時期的には吉野ヶ里も同じ2世紀だっけか
吉野ヶ里も結局倭国大乱前の倭奴国の一部だったってオチの気もするし、3世紀中頃~3世紀末の九州の祭祀の中心て何処よ
423日本@名無史さん
2023/11/21(火) 11:38:53.77
>>422
もともと卑弥呼は八女に居たが、狗奴国と戦争になったので吉野ヶ里に避難していた可能性もある
だから魏志倭人伝で卑弥呼の居場所は警備厳重だったと記録された
中国の使者が見た時は吉野ヶ里に居たんだよ
424日本@名無史さん
2023/11/21(火) 11:44:14.86
>>423
推測を断定形で話すなよ
お前の脳内とかどうでもいい良いんだわ
425日本@名無史さん
2023/11/21(火) 11:48:04.93
九州説は頭が弱いから
426日本@名無史さん
2023/11/21(火) 11:50:27.92
>>425
>>424
427日本@名無史さん
2023/11/21(火) 11:51:28.02
>>425
箸墓を卑弥呼とする根拠がキウス!
428日本@名無史さん
2023/11/21(火) 11:56:02.61
>>414
成る程。
襲津彦擊が、百濟記の云う、沙至比跪ならば、文章の中の天皇は、応神ではなく、神功皇后か、
さもなくば、武内宿禰ということになりそうだな。
429日本@名無史さん
2023/11/21(火) 11:56:15.82
>>424
だからここは、妄想を披露するだけの、アホの集まり だと、何度言えばww   @阿波
430日本@名無史さん
2023/11/21(火) 11:56:46.47
畿内の考古学の邪馬台国離れが進む
431日本@名無史さん
2023/11/21(火) 11:57:41.23
記紀は、やはり、真の王の系譜を、隠したのだろうか。
432日本@名無史さん
2023/11/21(火) 12:01:21.29
邪馬台国候補となり得る地域は
やはり北部九州だな
【重要】
邪馬臺国に関する記録文献は魏志倭人伝だけではありません。
伊都国のすぐ南と書かれている文献もあるのです。

『広志』(編纂:晋の郭義恭)

広志いわく、
---東南500里で到る伊都国、又南、至る邪馬臺国--
---(このあと魏志と同様に周辺国の紹介へと続く)

伊都国:福岡西区であり倭国の守衛国

又南至る

邪馬臺国:吉野ヶ里、甘木・朝倉、八女など有明海と取り巻く筑紫平野に存在した小国群の総称

筑後川の遺跡群
邪馬台国畿内説 Part966 YouTube動画>5本 ->画像>34枚
433日本@名無史さん
2023/11/21(火) 12:03:08.26
>>431
葛城氏や、蘇我氏が、真の王統だった可能性が、あるね。
そして、巻向遺蹟は、その墓場兼牧場でしかなく、崇神、垂仁は、管理人だった可能性も高いぞ。
434ネトウヨ撲滅隊!
2023/11/21(火) 12:11:27.90
ジャップの来歴

BC2000頃
中国遼寧省から遼河文明系の偏堡文化人が韓半島に南下
古日本語話者の半島進出

BC1500頃
偏堡文化人が山東半島系の稲作技術と稲の品種を導入し無文土器文化が誕生
日琉祖語の誕生

BC800頃
無文土器文化人が玄界灘を超えて九州に植民を開始
弥生時代の始まり

BC300頃
弥生文化が日本本州北端まで到達

AD57年
倭奴国王が後漢より金印を賜る
日本列島に小国分立

AD180頃
畿内で大和王権が誕生
魏志倭人伝には卑弥呼が女王に立ったと記す

AD300頃
実在性のある初の天皇である崇神天皇が登場する
435日本@名無史さん
2023/11/21(火) 12:11:41.87
奈良県立橿原考古学研究所の
青柳正規所長は桜井茶臼山古墳の調査の意義について「邪馬台国が北部九州か畿内かといわれているが、3世紀末の奈良盆地には、邪馬台国とは比較にならない圧倒的な王権が存在したことが明らかになった」と述べた。

四道将軍の事だな邪馬台国とは無関係
436日本@名無史さん
2023/11/21(火) 12:13:44.35
>>434
密入国者は韓国に帰れ!
437日本@名無史さん
2023/11/21(火) 12:17:52.90
>>364

九州は稲作農耕社会の形成が瀬戸内、近畿と比べて遅い
438日本@名無史さん
2023/11/21(火) 12:19:40.39
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
439日本@名無史さん
2023/11/21(火) 12:20:18.27
>>437
だから、日本のイネは、日本固有種。
「阿波」は、米の二期作が出来る所。
日本のイネが日本固有種であることと、人が大陸からやってきたことは、まったく別問題。  
大陸のイネを日本に持ってきた訳じゃない。
長江流域でアワとかヒエとか米が原産する環境があるなら、「阿波」でも原産する環境がある。
日本のアワとかヒエとか米は、「阿波」が原産地だと言って誰が否定できるというのか。   
なぜなら「阿波」は、米の二期作が出来る温暖多雨地域なのである。   @阿波
「ジャポニカ米の栽培部分布」 
3vUnnv2.jpg (750 HYPERLINK "邪馬台国畿内説 Part966 YouTube動画>5本 ->画像>34枚 ;×550) (imgur.com)
440日本@名無史さん
2023/11/21(火) 12:26:16.47
「ジャポニカ米の栽培部分布」 
邪馬台国畿内説 Part966 YouTube動画>5本 ->画像>34枚
441日本@名無史さん
2023/11/21(火) 12:28:25.75
帝国書院

2002年、弥生時代のはじまりを紀元前10世紀ごろであると発表したのは、国立歴史民俗博物館(以下、歴博)です。歴博は最新のAMS-炭素14年代法などによって測定した結果、九州北部の弥生時代遺跡から出土した、土器に付着する炭化物(コメのおこげ)や木杭は、紀元前900~800年のものであり、紀元前10世紀後半に九州北部で本格的にはじまった水田稲作が、約800年かかって日本列島を東漸したとの説を展開しました。水田稲作が九州北部から各地に広がるのに要した年月は、例えば瀬戸内海西部地域までで約200年、摂津・河内までで300年、奈良盆地までで400年、中部地方には500年、南関東には600~700年、東北北部には500年であると推定されますが、水田稲作が、きわめてゆっくりと各地に広がっていったことが、ここから分かります。
442日本@名無史さん
2023/11/21(火) 12:29:27.23
>>396

倭国は東夷伝で最多戸数の国
443日本@名無史さん
2023/11/21(火) 12:30:18.20
戸数は何説をとろうとも一致することはないのであった
444日本@名無史さん
2023/11/21(火) 12:32:41.72
筑後肥国で7万戸。
邪馬台国はこれで決まり
445日本@名無史さん
2023/11/21(火) 12:33:10.82
「農耕社会の形成」(甲元眞之 熊本大学名誉教授)

佐賀県唐津市の菜畑遺跡は日本最古の水田が検出されたことで知られているが、
この遺跡で発見された食料はイネだけでなく、
オオムギ、ソバ、アワ、アズキ、ゴボウ、メロン、クルミなど多様な栽培・採集植物がある。
また魚にはエイ、サバ、アジ、ブリ、スズキ、クロダイなど各種に渡り、
狩猟動物もノウサギ、ムササビ、タヌキ、テン、アナグマ、ニホンジカ、イノシシ、イルカ、アシカ、ジュゴンなど多種に及んで、
各個の数の少なさを補っている状況が窺われる。
ところが弥生時代前期の山口県綾羅木遺跡では動植物の捕獲する範囲が限られるようになり、
穀物も米が圧倒的多数を占めるようになる。
特定のものに対する選別的な獲得が進んで、食料の範囲が狭まったことがわかる。
これは逆に少数の対象で食料が賄われていた一安定した食料があったことを物語っている。
さらに大阪府の池上遺跡ではそれが極端に表れ、穀物はイネ、魚はマダイ、肉はイノシシ、
果実はヤマモモというように狭い範囲の食料が圧倒的に多いという結果が示されている。
これは農業などの生産、食料確保が安定すると、
一定の効率のいい食べ物ばかりに偏ってしまうという傾向を物語るものである。
弥生時代に入ると稲作などの生産活動がうまくいった地域では食料体系が大きく変化するのに対して、
そうでない地域では必然的に縄文時代とはあまり変化のない食生活が持続するのであり、
地域的格差が増大して村落相互だけでなく、
村落内部においても社会的関係が変わらざるを得ない社会が出現することとなる。
つづく
446日本@名無史さん
2023/11/21(火) 12:33:25.88
それでは安定した稲作社会はいつ頃形成されたのであろうか。
そのかぎを握っているのは製塩業の展開である。
米は良質のたんぱく質を内臓しているが、
ナトリウムイオンがなければ体内に吸収することができない。
つまり米を主食とするには塩が必要になってくる。
弥生時代の中期後半(紀元前1世紀)頃になると大阪湾や備讃瀬戸で製塩土器が出現し、
塩の専業がはじまることが確認されている。
3世紀になると玄海灘や紀淡海峡、若狭湾でも
こうした専業の製塩業の出現が認められるようになる。
専業の製塩集団が形成されることは、それを可能にする稲作栽培の本格化を物語るものである。
熊本県では製塩土器が出るのは6世紀の天草型製塩土器が最初であり、
稲作栽培を中心とした農耕生産が本格化するのはこの頃であったことが窺えるのである。
447日本@名無史さん
2023/11/21(火) 12:40:25.90
>>444
畿内すべてで7万戸というのに等しい暴論
448日本@名無史さん
2023/11/21(火) 12:40:57.15
福岡の製塩は弥生時代から

ふくおかで本格的に塩づくりが行われたことが遺跡から確認できるのは、
弥生時代の終わり頃から古墳時代のはじめ頃です。西区の今津湾に面する今山遺跡では、大量の製塩土器(せいえんどき)とともに製塩の際に出た灰をまとめて捨てた場所も確認されました。
449日本@名無史さん
2023/11/21(火) 12:42:27.08
>>447
倭国が畿内から九州の範囲とする方が暴論
450日本@名無史さん
2023/11/21(火) 12:45:10.78
>>447
>畿内すべてで7万戸というのに等しい暴論

まぁ、碌に集落遺跡が無いもんな。   @阿波
451日本@名無史さん
2023/11/21(火) 12:48:02.92
理由を言わない九州説は暴論
452日本@名無史さん
2023/11/21(火) 12:50:43.69
>>448

今山遺跡の土器製塩はⅡA期前後(3世紀後半)
海の中道遺跡にⅠB期前後(3世紀前半)に中西部瀬戸内系製塩土器が伝わる
今山今宿遺跡に博多でⅠB期に成立した筑前型庄内甕が多量に搬入されている
453日本@名無史さん
2023/11/21(火) 12:56:46.09
>>447

畿内には畿内第Ⅴ様式という文化的斉一性がある
筑後肥国はただ単に畿内~筑前の政治連合の外というだけ
454日本@名無史さん
2023/11/21(火) 13:03:07.16
>>453
>畿内には畿内第Ⅴ様式という文化的斉一性がある

畿内第Ⅴ様式という弥生式土器だ。 弥生式土器に文化的斉一性は無い!
文化的斉一性があるのは、薄型軽量丸底土器(「東阿波型土器」)。   @阿波
455日本@名無史さん
2023/11/21(火) 13:05:22.56
>>453
筑前から肥後までは同じ石斧文化圏だよ

https://www.yoshinogari.jp/ym/episode05/trade_1.html
邪馬台国畿内説 Part966 YouTube動画>5本 ->画像>34枚
456日本@名無史さん
2023/11/21(火) 13:08:08.89
つまり日本語が理解できない畿内説はガイジん
457日本@名無史さん
2023/11/21(火) 13:12:24.15
四道将軍は本州内だけの事績で九州には行っていない
458日本@名無史さん
2023/11/21(火) 13:13:27.63
>>455

3世紀の大都市博多では石斧はもう使っていない
459日本@名無史さん
2023/11/21(火) 13:26:34.91
>>458
銅矛分布図で見ても筑前から肥後に分布している邪馬台国畿内説 Part966 YouTube動画>5本 ->画像>34枚
460日本@名無史さん
2023/11/21(火) 13:34:14.61
>>459

博多湾沿岸では銅矛は僅かしか出てない
461日本@名無史さん
2023/11/21(火) 13:42:23.60
>>460
どうやら、
銅剣・銅鉾を広めた倭人(阿波勢力)一派と

銅鐸を広めた倭人(阿波勢力)一派が「阿波」に居たようだな。 わははははは   @阿波
462日本@名無史さん
2023/11/21(火) 13:43:11.58
成る程。
金属加工と土器製作では、祀事、政事に還元される要素としても、比べものにもならないな。
そもそも、3世紀の畿内には、金属加工の痕蹟は、少ないのでは、ないのかな。

459 名前:日本@名無史さん 2023/11/21(火) 13:26:34.91
>>458
銅矛分布図で見ても筑前から肥後に分布している邪馬台国畿内説 Part966 YouTube動画>5本 ->画像>34枚
463日本@名無史さん
2023/11/21(火) 13:45:07.58
銅矛は卑弥呼の前の時代の威信材
464日本@名無史さん
2023/11/21(火) 13:46:27.40
>>460

須玖岡本遺跡で出てるだろ邪馬台国畿内説 Part966 YouTube動画>5本 ->画像>34枚
465日本@名無史さん
2023/11/21(火) 13:46:53.75
産経新聞が邪馬台国は畿内にあったのではないかとする記事を読んだ邪馬台国
畿内説者のそれに対する投稿が以下の通り
(同時に産経新聞は青柳正規所長の桜井茶臼山古墳の調査の記事を載せている)

産経新聞は正しい。理由は、今の大学の考古学会や歴史学会では、
邪馬台国畿内説で殆ど決まりって感じです
決定づけるような学会の論文があれば教えて欲しい
考古学会や歴史学会の性質かもしれないがあまり信用できない

箸中山古墳の被葬者が卑弥呼と呼ばれた人物であり、
纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できると
誰が同定したか知りたい
466日本@名無史さん
2023/11/21(火) 13:47:14.79
>>401
まさに畿内説オレオレ詐欺w
467日本@名無史さん
2023/11/21(火) 13:50:51.00
ヤマタイコクキナイセツの意見の中の年代は、九州では、半世紀から1世紀、
畿内では1世紀から1世紀半程、新しく、修正すれば、真実に近づくのだったな。
なぜならば、馬力利用時代の布留一式を、120年程繰り上げるために、
楽浪郡から、九州を経て、畿内に到る交差編年を、少しづつズラしたからだ。
468日本@名無史さん
2023/11/21(火) 13:51:17.85
>>464

前漢鏡を副葬する甕棺墓は2世紀までにど没落した
469日本@名無史さん
2023/11/21(火) 13:52:45.27
ヤマタイコクキナイセツは、馬鹿。
470日本@名無史さん
2023/11/21(火) 13:53:44.80
筑前と筑後を別の文化圏としたいのは朝鮮投馬国くらいだな
471日本@名無史さん
2023/11/21(火) 13:58:39.15
元々、ヤマタイコクキナイセツは、チョンの妄想だよ。
472日本@名無史さん
2023/11/21(火) 13:59:14.45
ヤマタイコクキナイセツは、ど没落した。
473日本@名無史さん
2023/11/21(火) 14:08:42.72
>>137-145
成る程。成る程。
474日本@名無史さん
2023/11/21(火) 14:42:20.94
なんで筑紫が畿内なんかと連合組むんだよ
畿内は筑紫が出雲から譲り受けた属国だよ
475日本@名無史さん
2023/11/21(火) 14:50:56.36
奴国の生産工房

弥生時代には青銅器、鉄器、ガラス製品の生産が開始される。これらの器物の生産には、原料を入手するための交易や、高度な技術、知識を必要とした。

奴国の中枢であったとされる須玖岡本遺跡の周辺には、青銅器・鉄器・ガラス工房跡が近接して分布する。このように先進技術をもった弥生時代の生産工房が集中する地域は全国でも他に例がない。

https://www.city.kasuga.fukuoka.jp/miryoku/history/historymuseum/1009433/1009437.html
476日本@名無史さん
2023/11/21(火) 15:07:58.28
>>475
なんだ、お墓かww  鉄器もないのかww  お粗末だな。 わははははは   @阿波
477日本@名無史さん
2023/11/21(火) 15:33:42.16
こな調査結果がメディアで公表されないという事は、畿内説が嘘だという証拠とも言える

>都合の悪い調査結果は証拠隠滅してしまう事で有名な畿内説さん
>結果報告まだですか?
>
>箸墓古墳を素粒子「ミューオン」で調査(2020/1/9)
>https://www.sankei.com/article/20200109-TTULALNZJBJXTMQXN35Z46OUTE/
478日本@名無史さん
2023/11/21(火) 15:36:57.33
>>475

「弥生時代の終わり頃には各地域に特色をもった首長墓がつくられていたが、
3世紀の後半頃に出現した前方後円墳は、日本列島の広い範囲で共通性をもっていた」

九州で最初に造られた前方後円墳が纏向石塚古墳と同じ博多の那珂八幡古墳(ⅠB期新相 3世紀前半)
大和型庄内甕を模倣製作したのがⅠB期に成立した筑前型庄内甕
479日本@名無史さん
2023/11/21(火) 15:41:48.72
>>477

ミューオンラジオグラフィは名古屋大学理学研究科

https://flab.phys.nagoya-u.ac.jp/2011/appli/muon/
480日本@名無史さん
2023/11/21(火) 15:44:30.23
>>474

>なんで筑紫が畿内なんかと連合組むんだよ

畿内と密接な交流関係は博多を中心とした筑前の奴国、筑後は関係ない
481日本@名無史さん
2023/11/21(火) 15:48:16.03
古墳時代開始期前後(3世紀)に造られたとみられる前方後円墳・那珂八幡古墳(福岡市博多区)の形が北部九州独自のものであることが、同市の発掘調査で明らかになった。最古級とされる同古墳の形状が近畿とは違うことから、ヤマト王権に服属した証しとして地方の勢力がヤマトをまねて前方後円墳を築造したとする古墳時代像に一石を投じることになりそうだ。
 これまで那珂八幡古墳は「纒向(まきむく)型」とみられていた。纒向型は、古墳時代開始期前後に近畿で築造された纒向石塚古墳(奈良県桜井市)のように、後円部と前方部の長さの比率が2対1で、前方部の端が広がっている形状の古墳を指す。全国に分布し、ヤマト王権の勢力の広がりを示すとされてきた。
 しかし、今回の調査により那珂八幡古墳は、従来75メートルとされていた全長は約86メートルに伸び、後円部と前方部の比率が5対3となることが確認された。前方部の端の幅も30メートル程度で想定の約45メートルより狭く、纒向型と異なっていた。
482日本@名無史さん
2023/11/21(火) 15:49:23.12
>>480
お前は朝鮮半島投馬国だろ
483日本@名無史さん
2023/11/21(火) 15:50:49.47
朝鮮半島投馬国説は阿波説と同じトンデモ。
484日本@名無史さん
2023/11/21(火) 15:52:33.13
関門海峡を渡海千里とする朝鮮半島投馬国説はアタオカ。
485日本@名無史さん
2023/11/21(火) 15:57:47.32
関門海峡を渡海千里とする朝鮮半島投馬国説は、絶対に「不弥国」を示せない。   @阿波
486日本@名無史さん
2023/11/21(火) 15:59:49.00
>>481

福岡市の那珂八幡古墳 北部九州独自の形状(2019/2/14)

https://www.nishinippon.co.jp/sp/item/n/486635/#google_vignette

古墳時代開始期前後(3世紀)に造られたとみられる前方後円墳・那珂八幡古墳(福岡市博多区)の形が北部九州独自のものであることが、同市の発掘調査で明らかになった。最古級とされる同古墳の形状が近畿とは違うことから、ヤマト王権に服属した証しとして地方の勢力がヤマトをまねて前方後円墳を築造したとする古墳時代像に一石を投じることになりそうだ。
487日本@名無史さん
2023/11/21(火) 16:01:47.61
よく見ていると畿内説がいかにいい加減な連中かという証明が次々と湧いて出てくるよな
488日本@名無史さん
2023/11/21(火) 16:02:01.74
>>486
トンデモは、古墳しか持ち合わせがない遺跡貧乏。 わははははは   @阿波
489日本@名無史さん
2023/11/21(火) 16:15:17.95
>>481

その提唱者の福岡の久住は日本の学問の通説畿内説
490日本@名無史さん
2023/11/21(火) 16:17:01.83
>>482

朝鮮半島投馬国説は糸島説
491日本@名無史さん
2023/11/21(火) 16:23:25.91
>>489
その通説とやらを上書きしてる発表なのだが?
492日本@名無史さん
2023/11/21(火) 16:25:23.51
>>489
忖度する事なく真実を追求したのだろう
493日本@名無史さん
2023/11/21(火) 16:32:34.06
>>491

九州大の溝口孝司教授(考古学)は「古墳時代の初期は近畿が地方を支配していたわけではなく、
近畿と各地の首長たちによるネットワーク連合という形だったのではないか。
各地域の古墳に独自性があった可能性がある」

首長の政治連合が畿内説
3世紀前半からの政治連合=女王国の一員が博多を中心とした筑前奴国2万戸
隷属伊都国の糸島、筑後は外
494日本@名無史さん
2023/11/21(火) 16:34:20.00
>>493
話を逸らすな
久住の話だぞ
495日本@名無史さん
2023/11/21(火) 16:40:31.38
3世紀前半からの政治連合は、
魏が滅んだ3世紀末の奈良盆地には、
魏志倭人伝の邪馬台国とは比較にならない圧倒的な王権が存在した
というのがポンペイ市名誉市民である橿考研の青柳所長の発言
496日本@名無史さん
2023/11/21(火) 16:41:32.33
>>493
>近畿と各地の首長たちによるネットワーク連合

古代にそんなこと無理無理。 隣村ぐらいなら出来るだろうが。   @阿波
497日本@名無史さん
2023/11/21(火) 16:42:04.60
>>495
また畿内説が嘘をつきました
498日本@名無史さん
2023/11/21(火) 16:43:39.33
奈良県立橿原考古学研究所の
青柳正規所長は桜井茶臼山古墳の調査の意義について「邪馬台国が北部九州か畿内かといわれているが、3世紀末の奈良盆地には、邪馬台国とは比較にならない圧倒的な王権が存在したことが明らかになった」と述べた。

https://www.sankei.com/article/20231106-YQ2CEHEOWRLK3EV2AME3WDEYFU/
499日本@名無史さん
2023/11/21(火) 16:44:39.48
>>495

畿内説の印象操作工作員がいます

邪馬台国畿内説 Part966 YouTube動画>5本 ->画像>34枚
500日本@名無史さん
2023/11/21(火) 16:44:49.77
弥生時代末期に電話やインターネットがあったかのような世界しかイメージ出来ない畿内説は重度の池沼だな
501日本@名無史さん
2023/11/21(火) 16:45:10.29
>>494

福岡市埋蔵文化財課の久住猛雄さんは「近畿の古墳をまるまるコピーしたのではない」と話す。
久住も九州大の溝口孝司教授も同じ畿内を中心としたネットワーク連合の共立女王国
これが日本の学問の通説の畿内説
502日本@名無史さん
2023/11/21(火) 16:46:41.49
>>500

弥生時代末期に電話やインターネットはないので
交流が密接な関係ということ
503日本@名無史さん
2023/11/21(火) 16:49:10.32
>>501
>久住も九州大の溝口孝司教授も同じ畿内を中心としたネットワーク連合の共立女王国

古代にそんなこと無理無理。 隣村ぐらいなら出来るだろうが。   @阿波
504日本@名無史さん
2023/11/21(火) 16:51:21.62
>>501
>久住も九州大の溝口孝司教授も同じ畿内を中心としたネットワーク連合

と見える理由は、倭人(阿波勢力)が散らばっているから。   @阿波
505日本@名無史さん
2023/11/21(火) 16:51:42.78
ちゃんねるを、活発化する係員でしかない、ヤマタイコクキナイセツの卑劣な手口。

1.ヤマタイコクキナイセツの討論相手として、キウス馬鹿キャラクターを、創る。
だが、ヤマタイコクキナイセツは、元々、馬鹿なので、あまり、馬鹿さのレベルは、変わらない。

2.頭の出来栄えが普通の者達が出現し、ヤマタイコクキナイセツが、追い詰められたら、キウス馬鹿キャラクターを出現させる。

3.頭の出来栄えが普通の者達が、過去に、ヤマタイコクキナイセツを追い詰めた意見を、キウス馬鹿キャラクターに繰り返させるが、少し、嘘や馬鹿な意見を混ぜる。
或いは、キウス馬鹿キャラクターに、ヤマタイコクキナイセツの掲げる、、特に【巻向遺蹟の年代が三世紀前半を含む
のだ】や【東治は東冶の間違いなのだ】というような、間違った前提で、ヤマタイコクキナイセツとの討論を、進行させる。

4.頭の出来栄えが普通の者達がヤマタイコクキナイセツを追い詰めた意見の本筋は無視し、キウス馬鹿キャラクターが混ぜた嘘や馬鹿な意見に対して、徹底的に反論し、勝利を宣言する。
或いは、キウス馬鹿キャラクターと進行させた討論で前提とした、特に【巻向遺蹟の年代が三世紀前半を含む
のだ】や【東治は東冶の間違いなのだ】というような、間違った物事と、更にその間違った前提から、導かれる、別の嘘を、宣伝する。
506日本@名無史さん
2023/11/21(火) 16:53:46.66
ヤマタイコクキナイセツの意見の中の年代は、九州では、半世紀から1世紀、
畿内では1世紀から1世紀半程、新しく、修正すれば、真実に近づくのだったな。
なぜならば、馬力利用時代の布留一式を、120年程繰り上げるために、
楽浪郡から、九州を経て、畿内に到る交差編年を、少しづつズラしたからだ。
507日本@名無史さん
2023/11/21(火) 16:54:02.93
>>502
その非論理思考はまさに韓国人の特徴だな
508日本@名無史さん
2023/11/21(火) 16:55:24.73
那珂八幡と畿内特に奈良が密に交流していた形跡は一切発見されていない
墓の形が似ている
ただそれだけw
509日本@名無史さん
2023/11/21(火) 16:56:15.72
武内宿禰の研究が、少し、行き詰まったな。
ヤマタイコクキナイセツが、真実の痕蹟を、破壊したようにして、
歴史の勝者が、武内宿禰についての真実の痕蹟を、破壊した可能性が、あるな。
510日本@名無史さん
2023/11/21(火) 16:57:14.19
>>507
韓国人にもいい人はいっぱいいる。 が、ここに来る韓国人は日本に僻んでいるようだ。 わははははは   @阿波
511日本@名無史さん
2023/11/21(火) 16:57:31.55
>>137-145
ヤマタイコクキナイセツが、追い詰められたな。
好古学芸会のメンバーであるかのようにして、コウテキキカンを擁護しているが、たかだか、5ちゃんねるを活発化させる係員のプロ固定でしかない、年中無給のキウス奥山氏も、なぜか、最近は、異常に興奮してきたが、
無知で無能のキウス奥山氏ではなくして、
謎の熱血青年の反発は、楽しみですね。
512日本@名無史さん
2023/11/21(火) 16:59:32.07
>>508
>墓の形が似ている
ただそれだけw

と見える理由は、倭人(阿波勢力)が散らばっているから。   @阿波
513日本@名無史さん
2023/11/21(火) 17:00:04.55
>>509
宇佐神宮では黒男神社に祀られているね
514日本@名無史さん
2023/11/21(火) 17:01:23.04
前方後円墳より100年ほど早く東日本では前方後方墳が定型化されており、北部九州では那珂八幡古墳より先に2基建造されている
そして纒向メクリの1号墳も前方後方墳だ
つまり後方部を持つ古墳形式は東から来た文化だ
515日本@名無史さん
2023/11/21(火) 17:02:52.11
>>508

密接に交流もしてないのに
九州にはない同じ周濠に囲まれた壺形の墓や大和型庄内甕を模倣製作などはしない
九州最大の都市博多には九州内と交流したものが何も無い
516日本@名無史さん
2023/11/21(火) 17:03:44.79
>>514
>前方後円墳より100年ほど早く東日本では前方後方墳が定型化されており、

証拠は?

>北部九州では那珂八幡古墳より先に2基建造されている

証拠は?
517日本@名無史さん
2023/11/21(火) 17:05:35.90
>>508
>那珂八幡と畿内特に奈良が密に交流していた形跡は一切発見されていない

証拠は?
518日本@名無史さん
2023/11/21(火) 17:06:57.63
>>515
>密接に交流もしてないのに
九州にはない同じ周濠に囲まれた壺形の墓や大和型庄内甕を模倣製作などはしない

と見える理由は、倭人(阿波勢力)が散らばっているから。   @阿波
519日本@名無史さん
2023/11/21(火) 17:10:37.45
>>498
>3世紀末の奈良盆地には、邪馬台国とは比較にならない圧倒的な王権が存在したことが明らかになった

通説である畿内説どおりだ
そして関川や安本の九州説は完全否定された
520日本@名無史さん
2023/11/21(火) 17:12:56.61
>>518
円墳に祭祀の場所を付けたら、似たような形になったのでは?
521日本@名無史さん
2023/11/21(火) 17:14:05.78
やはり、武内宿禰は、大王として、西暦400年頃に、桜井茶臼山古墳に埋葬されたのだろうか。
522日本@名無史さん
2023/11/21(火) 17:20:47.57
>>520
なぜ在来系土器を使う村を破壊して前方後円墳を畿内式の土器でお祭りしてるの?
523日本@名無史さん
2023/11/21(火) 17:22:47.47
>>520
いずれにせよ、「前方後円墳」は倭人(阿波勢力)の仕様だから。   @阿波
524日本@名無史さん
2023/11/21(火) 17:23:49.88
>>514

ⅠA期の宮の前は15m程度の突出部付方形墳丘墓
3世紀前半のメクリ1号墳は28m
これらは2世紀の楯築墳丘墓(墳丘直径50m)、四隅突出型墳丘墓3号墓40m×30mにすら及ばない
525日本@名無史さん
2023/11/21(火) 17:24:47.34
>>522
破壊はせんやろ。   @阿波
526日本@名無史さん
2023/11/21(火) 17:25:15.37
前方後円墳の前方が大きいのは祀る事が重要になったからだろう
527日本@名無史さん
2023/11/21(火) 17:25:48.27
>>425
九州説じゃねぇし
てか邪馬台国とかどうでもいい
弥生~5世紀の日本がどうだったか知りたいだけだわ
考古学的結果を科学的に説明出来るかどうかだろ
それが歴史書と齟齬が無いのか
齟齬があるとすれば原因は何か仮定を立てて解明してくのが学問だ
トンデモ論とか興味ないから裏付けない事を事実のように語るなって言ってんだよ
528日本@名無史さん
2023/11/21(火) 17:27:06.25
九州説は異常にしばしばニセ情報を流すので
証拠のない書き込みは信用すべきでないね
529日本@名無史さん
2023/11/21(火) 17:28:42.81
前方後円墳の前方部は円形周溝墓の陸橋の機能を失っている
つまり神仙思想の東方海上の壺形の三神山形に変化したということ
530日本@名無史さん
2023/11/21(火) 17:28:44.57
>>527
>弥生~5世紀の日本がどうだったか知りたいだけだわ

まぁ、縄文時代晩期末~7世紀末までは、「阿波」がすべての起源と思ってくれてよいから。  
「泥質片岩製石棒」「緑色片岩製柱状片刃石斧」「刻目突帯文土器」「水銀朱」「鯨面土製仮面」
「稲作」「鉄器」「銅鐸」「弧帯文土器」「東阿波型土器」「前方後円墳」「勾玉」「三角縁神獣鏡」
「論語木簡」「白鳳寺院」などなど。   @阿波
531日本@名無史さん
2023/11/21(火) 17:30:54.88
>>525
那賀八幡古墳は在来系の村を破壊して築造された
532日本@名無史さん
2023/11/21(火) 17:31:13.41
小さい字のはモニターの汚れかと思った
533日本@名無史さん
2023/11/21(火) 17:32:21.31
>>521
黒い人形が武内宿禰だと思う邪馬台国畿内説 Part966 YouTube動画>5本 ->画像>34枚
534日本@名無史さん
2023/11/21(火) 17:33:42.97
>>531
筑紫忌部も手荒いことするなぁ。 わははははは   @阿波
535日本@名無史さん
2023/11/21(火) 17:35:01.10
>>524
つまり纒向勢力はカスでしたと
536日本@名無史さん
2023/11/21(火) 17:36:33.71
>>516
それを否定する証拠は?
537日本@名無史さん
2023/11/21(火) 17:37:06.34
>>517
密な交流があったという証拠は?
538日本@名無史さん
2023/11/21(火) 17:37:38.23
>>535
もともと、纏向勢力なんて言えるものは、おらんがな。   @阿波
539日本@名無史さん
2023/11/21(火) 17:38:02.90
>>529
それ、あなたの想像ですよね
540日本@名無史さん
2023/11/21(火) 17:38:45.55
>>532
@阿波の文字のことかな?
541日本@名無史さん
2023/11/21(火) 17:40:40.14
>>540
専ブラ使ってないからだろ。   @阿波
542日本@名無史さん
2023/11/21(火) 17:57:10.67
>>481
インチキ情報連呼すなよ
纒向も8:4→8:5→8:6と変化して箸墓で完成
那珂八幡は8:5で箸墓の前段階にあたるから時期も合致する
543日本@名無史さん
2023/11/21(火) 18:05:19.13
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
544日本@名無史さん
2023/11/21(火) 18:05:26.46
>>542
那珂八幡古墳と同じ比率ってどの古墳?邪馬台国畿内説 Part966 YouTube動画>5本 ->画像>34枚
545日本@名無史さん
2023/11/21(火) 18:11:50.41
>>544
考古学的には全くの別物だよな
546日本@名無史さん
2023/11/21(火) 18:25:53.94
>>537
>密な交流があったという証拠は?

土器相は、IB期にC系統が受容され、次のIIIA期にはA系統が激減し、D系統が受容・創出され、「畿内系」主体となる。
比恵遺跡群において大和型庄内甕を母胎として「筑前型庄内安」がIB期に成立し、IIIA期には比恵および博多遺跡群において大和の「布留
0式」の影響をリアルタイムに受けて「北部九州型布留甕」が成立したと考えられる(久住1999)
また比恵・那珂や博多・堅粕ではIIIA期以降、畿内中枢部と同様の精巧な技術(次山1993の「B群」技法)の精製器種群がいち早く普及し(IB期に祖型が存在)、IIIB期以降に周辺に波及した。
547日本@名無史さん
2023/11/21(火) 18:31:44.69
ヤマタイコクキナイセツの意見の中の年代は、九州では、半世紀から1世紀、
畿内では1世紀から1世紀半程、新しく、修正すれば、真実に近づくのだったな。
なぜならば、馬力利用時代の布留一式を、120年程繰り上げるために、
楽浪郡から、九州を経て、畿内に到る交差編年を、少しづつズラしたからだ。
548日本@名無史さん
2023/11/21(火) 18:32:57.99
>>546
オール想像じゃんw
549日本@名無史さん
2023/11/21(火) 18:33:03.87
なぜ、武内宿禰は、大王として、西暦400年頃に、桜井茶臼山古墳に埋葬されたのだろうか。
550日本@名無史さん
2023/11/21(火) 18:33:55.34
>>549
大王だったからだよ。
551日本@名無史さん
2023/11/21(火) 18:34:06.29
畿内説の言う証拠とは想像の事だと判明したな
552日本@名無史さん
2023/11/21(火) 18:35:02.93
>>545
根拠なし
553日本@名無史さん
2023/11/21(火) 18:39:05.08
想像じゃなくて創造だろw
554日本@名無史さん
2023/11/21(火) 18:39:19.86
>>414
武内宿禰についての研究からは、少し、外れるが、やはり、新羅も百済も、日本人にとっては、完全な属国だったのだね。
555日本@名無史さん
2023/11/21(火) 18:40:04.43
>>414
成る程。
襲津彦擊が、百濟記の云う、沙至比跪ならば、文章の中の天皇は、応神ではなく、神功皇后か、
さもなくば、武内宿禰ということになりそうだな
556日本@名無史さん
2023/11/21(火) 18:41:37.58
>>137-145
成る程。成る程。
557日本@名無史さん
2023/11/21(火) 18:43:44.53
>>547
青柳所長が否定してるよ
558日本@名無史さん
2023/11/21(火) 18:47:30.35
>>137-145
ヤマタイコクキナイセツが、追い詰められたな。
好古学芸会のメンバーであるかのようにして、コウテキキカンを擁護しているが、たかだか、5ちゃんねるを活発化させる係員のプロ固定でしかない、年中無給のキウス奥山氏も、なぜか、最近は、異常に興奮してきたが、
無知で無能のキウス奥山氏ではなくして、
謎の熱血青年の反発は、楽しみですね
559日本@名無史さん
2023/11/21(火) 18:48:02.92
ヤマタイコクキナイセツの意見の中の年代は、九州では、半世紀から1世紀、
畿内では1世紀から1世紀半程、新しく、修正すれば、真実に近づくのだったな。
なぜならば、馬力利用時代の布留一式を、120年程繰り上げるために、
楽浪郡から、九州を経て、畿内に到る交差編年を、少しづつズラしたからだ。
560日本@名無史さん
2023/11/21(火) 18:49:10.21
ヤマタイコクキナイセツは、ズラしたよ。
561日本@名無史さん
2023/11/21(火) 18:59:07.35
やはり、ヤマタイコクキナイセツは、馬鹿だな。
コウテキキカンとやらの判断の是非を、問題提起している議題で、コウテキキカンとやらの判断の真偽を、前提にした意見を、発表したぞ。
ヤマタイコクキナイセツは、やはり、馬鹿だった。
562日本@名無史さん
2023/11/21(火) 19:00:46.80
>>542
ねえねえ那珂八幡古墳と比率が同じ古墳てどの古墳?邪馬台国畿内説 Part966 YouTube動画>5本 ->画像>34枚
563日本@名無史さん
2023/11/21(火) 19:01:17.47
沙至比跪は、父親から、憎まれたな。
父親は、応神を、選んだのだ。
564日本@名無史さん
2023/11/21(火) 19:03:48.43
成る程。
那珂八幡古墳という、謎の物体が、巻向遺蹟より、古い可能性を否定する材料も、本当は、全く無いのだな。
565日本@名無史さん
2023/11/21(火) 19:04:45.29
ヤマタイコクキナイセツは、馬鹿。
566日本@名無史さん
2023/11/21(火) 19:05:25.68
住居が無い遺跡を教科書に載せていていいのか?
567日本@名無史さん
2023/11/21(火) 19:07:23.78
>>563
「武内宿禰」の鎮守社に比定される「矢武八幡神社」は、徳島県板野郡矢武字鏡松に鎮座する。
当神社で注目すべきは、「往古、嵯峨御所から額(扁額か)が寄付された」とする伝承である。
「額は今存せざるも、ご寄付状は存在せり」(名勝案内)とみえ、
その文書には「阿波国板野郡矢武村者上古武内大臣為縁由地云々」とあって、
「武内宿禰」の由縁の地が額(扁額か)寄付の理由であったと理解される。
また、名勝案内の「船の本」条(矢武村に西接する大山村西分)には
「此地武内宿禰の旧領なればその遺址存せるならむ」とあり、
船の本の聖地に斎田その他を設け、慶事や祭典の折には、村民挙げて奉祭したとされている。
つまり、現在の阿波国上板町大山から板野町矢武一帯は、「武内宿禰」の領地、
または所縁の地であったとする伝承が存在している。   @阿波
568日本@名無史さん
2023/11/21(火) 19:09:26.07
この「矢武八幡神社」のご祭神が「品陀和気命(応神天皇)」という。 なにやら意味深。   @阿波
569日本@名無史さん
2023/11/21(火) 19:11:54.87
つまり、徳島県板野郡矢武辺りが「応神天皇」や「武内宿禰」に所縁の地なんだろう。   @阿波
570日本@名無史さん
2023/11/21(火) 19:20:02.58
では、@阿波よ。
昔の阿波人にとっても、武内宿禰が、大王だったことは、公然の物事だったのだな。
571琪瑛教大祭酒
2023/11/21(火) 19:20:21.27
何で日本紀に百済記が書いてあんだよ、なんで知ってんだよ、
原本は何処行ったんだよ、燃やしたんだろ?あっそうか運んでいる途中に新羅に取られたんだな。
572日本@名無史さん
2023/11/21(火) 19:20:30.04
ヤマタイコクキナイセツは、馬鹿。
573日本@名無史さん
2023/11/21(火) 19:25:01.27
>>570
武内宿禰が、大王だったことはなかろう。   @阿波
574日本@名無史さん
2023/11/21(火) 19:31:32.62
神功皇后はあるかもしれんね。
575日本@名無史さん
2023/11/21(火) 19:33:31.11
>>542
箸墓よりも那珂八幡のほうが前なのか
576日本@名無史さん
2023/11/21(火) 19:35:36.43
>>575
なんとまあ北部九州東征のモニュメントだったとわ
577日本@名無史さん
2023/11/21(火) 19:39:05.33
そもそも、纒向石塚前方後円型物体は、4世紀なのだから、那珂八幡の物体とも、前後関係は、不明だぞ。
578日本@名無史さん
2023/11/21(火) 19:57:16.30
畿内説は嘘をつくのが商売です
579日本@名無史さん
2023/11/21(火) 20:23:48.26
>>578
九州説さん
その発言って、証拠出せないんだから嘘だよな

九州説はは嘘をつくのが商売ですから
これまで、どれだけ嘘ついてきた?
異常でしょ
580日本@名無史さん
2023/11/21(火) 20:25:54.86
>>579
畿内説が嘘だから
581日本@名無史さん
2023/11/21(火) 20:35:28.83
>>575
以前は箸墓古墳が最古なのだとか言ってたのにな
582日本@名無史さん
2023/11/21(火) 20:39:02.78
>>575
には反論できない畿内説
583日本@名無史さん
2023/11/21(火) 21:05:54.94
>>574
>神功皇后はあるかもしれんね。

神功皇后は、徳島県板野郡矢武辺りから吉野川を下った板野郡藍住町住吉神蔵だ。

全国住吉神社の元社にあたる「住吉大明神こと住吉神社」
板野郡藍住町住吉神蔵に鎮座。
祭神は「神功皇后」、「表筒男命」、「中筒男命」、「底筒男命」。  

鎮座地は「神功皇后」ゆかりの地で、当社は全国住吉神社の元社にあたる。
「神功皇后」の本名は息長足姫 (おきながたらしひめ) 命。 息長ということは生粋の海人族である。
大陸進出にあたり航海の守護神として、「底筒男命」、「中筒男命」、「表筒男命」を御舟に祀ったのであろう。   @阿波
584日本@名無史さん
2023/11/21(火) 21:08:42.65
そして百済征伐の帰りに、当地(板野郡藍住町住吉)に寄り、御舟に祀っていた住吉三神を降ろし奉り、
全国住吉神社の元社にあたる「住吉大明神こと住吉神社」が建立されたのであろう。   

そのほか、夫にあたる「仲哀天皇」は西に位置する板野郡矢武の「応神山仲哀寺」で祀られ、
大臣 「武内宿禰」は同町 「矢武八幡神社」を中心に「武威神社」、「高良神社」で祀られている。

また御子である「応神天皇」の葬場跡は南に位置する応神町宮島。
審神者(さにわ)で顕れた淡郡の「嚴(いつの)事代主」は
吉野川を上流に上った阿波郡市場町伊月の式内社「事代主神社」で祀られている。   @阿波
585日本@名無史さん
2023/11/21(火) 21:13:33.61
住吉神社つながりで言うと、
「率川阿波神社」の末社が、住吉神社と春日神社。
奈良市最古の恵比須社「率川阿波神社」が何故に「阿波國」から勧請されなければならなかったのか。
「事代主神」ならば、大阪市浪速区の「今宮戎神社」等が勧請元でなければならないのに、なぜか「阿波國」。
そして社殿前の立て札(御由緒)には「大物主大神の御子神」であると説明されている。

ならば「大物主大神」と「事代主神」は阿波にいたと言わざるを得ない。 @阿波
586日本@名無史さん
2023/11/21(火) 21:50:37.33
>>582
我々がキミらに教えてあげた歴史的事実に、なにを反論する必要があるんだ?
587日本@名無史さん
2023/11/21(火) 22:01:05.06
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

邪馬台国畿内説 Part966 YouTube動画>5本 ->画像>34枚






.
588日本@名無史さん
2023/11/21(火) 23:17:21.23
>>1
おい、貴方達、いい加減にしろ。
ミサイル発射は、荒らし行為だぞ。
もう、僕達は、貴方達を、赦さないぞ。
589日本@名無史さん
2023/11/21(火) 23:39:59.59
>>1
ヤマタイコクキナイセツさん
その発言って、証拠出せないんだから嘘だよな
ヤマタイコクキナイセツはは嘘をつくのが商売ですから
これまで、どれだけ嘘ついてきた?
異常でしょ
590日本@名無史さん
2023/11/21(火) 23:59:29.21
>>137-145
ヤマタイコクキナイセツが、追い詰められたな。
好古学芸会のメンバーであるかのようにして、コウテキキカンを擁護しているが、たかだか、5ちゃんねるを活発化させる係員のプロ固定でしかない、年中無給のキウス奥山氏も、なぜか、最近は、異常に興奮してきたが、
無知で無能のキウス奥山氏ではなくして、
謎の熱血青年の反発は、楽しみですね。
591日本@名無史さん
2023/11/22(水) 00:00:10.51
11/22 00:00
592日本@名無史さん
NGNG?2BP(1000)

>参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。


ごめんこれを西暦250年代と判断した証拠って何なの?教えてくんね?
593日本@名無史さん
2023/11/22(水) 06:10:48.82
>>1
お早う、キウス。
594日本@名無史さん
2023/11/22(水) 06:12:30.08
>>137-145
ヤマタイコクキナイセツが、追い詰められたな。
好古学芸会のメンバーであるかのようにして、コウテキキカンを擁護しているが、たかだか、5ちゃんねるを活発化させる係員のプロ固定でしかない、年中無給のキウス奥山氏も、なぜか、最近は、異常に興奮してきたが、
無知で無能のキウス奥山氏ではなくして、
謎の熱血青年の反発は、楽しみですね
595日本@名無史さん
2023/11/22(水) 07:01:22.46
◆FAQ
魏使が畿内に行くのならなぜ九州内を陸行700里するのか?これに答えられる畿内説はいない。
596日本@名無史さん
2023/11/22(水) 07:08:09.46
>>595
畿内説では答えられる訳がない。

魏使が九州内を陸行700里するのは、「阿波」へ行くため。   @阿波
597日本@名無史さん
2023/11/22(水) 07:37:27.79
筑前に伊都国・奴国・不弥国などの諸国
筑後に邪馬台国・投馬国などの諸国
これに末盧国や吉野ケ里(カンノサキ=華奴蘇奴国?ミネ=弥奴国?)など肥前東部と、日田・玖珠など豊後西部を合わせたあたりが女王卑弥呼の治めていた北部九州倭国だったと考えられる
これは言わば玄界灘文化圏と有明海・筑後川文化圏の連合体だ

その南の肥後北部に同じ倭人だが倭国に属さない狗奴国があった(「狗古智卑狗」や「卑弥弓呼」は倭国と同じ倭人の言語と見られる)
この狗奴国と邪馬台国が、鉄鏃が大量出土する菊池川流域あたりの国境地域で戦争した

さらにその南、熊本県南部、宮崎県南部、鹿児島県などに熊襲がいた
渡来系の影響が濃い倭人と縄文系の影響が濃い熊襲は言語や文化がだいぶ違っていたと思われるが、後にヤマト王権の支配下で同化していった
598日本@名無史さん
2023/11/22(水) 07:48:02.43
まず魏志倭人伝
この記述によれば距離(帯方郡から一万二千里かつ伊都国から千五百里)、方角(伊都国・不弥国から南)とも邪馬台国は北部九州になる
南に菊池・熊本あたりの狗奴国があり、東に海を渡ると倭種の国々(本州・四国)があり、西については何ら記載がない(東シナ海なので何もない)という周囲の位置関係もぴったりだ
鉄鏃・絹・有棺無槨の墓制(箱式石棺墓)など北部九州に特徴的なことばかりが記述され、巨大前方後円墳・銅鐸など畿内大和に特徴的なことは一切記述されていない
魏志倭人伝を丹念に読んで地図や考古学と照らし合わせれば、邪馬台国および倭国が北部九州にあったことは容易にわかる

次に記紀
これを読めば、纒向に都した崇神・垂仁の時代には北部九州にはまだ影響力を持っていないことがわかる
崇神天皇が四道将軍を派遣した先は吉備・東海・丹波・北陸の四地域で北部九州には接触していない
纒向の外来土器は多い順に吉備25%、東海20%、河内20%、山陰北陸17%となっており、近接する河内を除けばぴったり四道将軍派遣範囲だ
そして纒向から北部九州の土器は殆ど出ない
記紀に書かれたこと(纒向ヤマト王権の勢力範囲に北部九州は含まれないこと)は考古学的にも裏付けられる

魏志倭人伝に描かれた倭国は北部九州の勢力すなわち筑紫の地方勢力であり、記紀に描かれた初期ヤマト王権(崇神天皇あたり)は大和の地方勢力だ
前者には王を合議で決める風習や巫女女王の伝統があるが、後者は成立当初から血統による男系男子(特に男系は絶対)に強く拘り、権力継承も全く異質だ
明らかにこの二つは地理的にも政治的にも別の権力であり別の国だ
纒向遺跡が魏志倭人伝の倭人のクニの様子と似ても似つかないのは、別の国なので当然の話だ

何故こんな簡単なこともわからず邪馬台国畿内説などという極めて合理性の乏しい珍説を主張する人間がいるのか理解に苦しむ
599日本@名無史さん
2023/11/22(水) 08:04:10.97
弥生末期の3世紀、殆ど何もなかった僻地の奈良盆地東南部に突如現れたのが九州・吉備からの征服王朝である崇神朝ヤマト王権、その遺跡が纒向だ
これは、魏志倭人伝の記述によれば少なくとも2世紀初頭あたりから「同じ地域で」(魏志倭人伝には倭国や邪馬台国が場所を移転したようなニュアンスが全くない)連綿と続いたはずの倭国の歴史とは整合しないだろう

AD107年に後漢安帝に朝貢した倭面土国王帥升も含めた北部九州倭国の王の系譜に卑弥呼は連なると考えられる
古くから朝鮮半島南部にも活動領域を持ち半島と活発に交易した北部九州倭国は、少なくとも前漢時代から中華帝国に朝貢する習慣があり、北部九州倭国女王卑弥呼もその伝統に倣ったものと考えられる

内陸の僻地の王に過ぎなかった纒向崇神朝が海もなく大陸との交易もなかったのに魏に朝貢する理由はない
纏向を含め3世紀半ばまでの奈良盆地の遺跡から銅鏡や鉄器や楽浪土器など大陸系の遺物は殆ど出土せず、この地の権力が大陸と交流がなかったのは考古学的にも明らかだ

纒向=邪馬台国の畿内説は桜井市・奈良県の公金を引き出そうとする関西考古学界による「ビジネス学説」に過ぎず、中身を見ると合理的根拠がまるでない
600日本@名無史さん
2023/11/22(水) 08:04:20.92
>>1
おはよう畿内越さん
601日本@名無史さん
2023/11/22(水) 08:42:58.89
武内宿禰の子孫は、天皇家と葛城氏に、分かれたのだったな。
茅渟王が出現するまで、どちらが真実の王統だったのだろうか。
602日本@名無史さん
2023/11/22(水) 08:46:36.16
それにしても、倭讃(狭野、佐野)以降の数代が、謎だな。
記紀が、武内宿禰sの数代の実名を、隠滅したのだろうか。
603◆fDifI8KlM.
2023/11/22(水) 08:59:20.05
>>602
周防の中枢部に、佐野があるよ。
元々は、宮は、大崎の神社ではなく、佐野だったのでは、ないのかな。
そして、佐野は狭野であり、(ス)サヌ-オが、周防になった可能性が、あるぞ。
筑紫の日向(東)でもあるな。
604日本@名無史さん
2023/11/22(水) 09:04:42.88
串山連峰という謎の連峰が、あるな。何と読むのだろうか。
605日本@名無史さん
2023/11/22(水) 09:14:58.43
事実に反して自説にとらわれると、大先生の説もしだいに荒唐無稽なものになる
たとえば魏の使者が行った邪馬台国は大和政権の支配下にあり、だまして親魏倭王
の金印をもらった
これで倭人伝のに書かれた倭国と当時の大和の風習などが全く違うことの説明になる、
水行陸行にしてもそもそも行かなかったので問題ない
これを九州説とするか畿内説とするか難しいが、邪馬台国は大和の出先機関だが女王
卑弥呼は大和、奈良にいたとすると、時代的に卑弥呼は4世紀はじめの崇神朝の2か
ら3世代前の人でヤマトモモソヒメと同時代の人であるから、ヤマトモモソヒメの墓
箸墓は卑弥呼の墓に違いないと勝手に同定する
この時代邪馬台国が大和王権の支配下にあったとするのは無理があると思うが、自説
を主張するためには仕方ないのだろう
606日本@名無史さん
2023/11/22(水) 09:54:36.06
周防一宮の一柱は、やはり、隠滅されたのだろうか。
607日本@名無史さん
2023/11/22(水) 10:43:49.79
>>606
某かが、憚られたな。
608日本@名無史さん
2023/11/22(水) 10:53:41.83
やはり、周防の佐野辺りが、玉國の最初の東進の地だね。
天孫降臨だよ。
609日本@名無史さん
2023/11/22(水) 11:24:26.00
>>595

なぜ末盧の津から草木が茂盛した道を陸行500里するのかと聞いてるのと同じ
610日本@名無史さん
2023/11/22(水) 11:48:10.57
>>609
隋使は陸行する必要が無いので陸行していない。魏使は陸行する必要があったのだろう。
611日本@名無史さん
2023/11/22(水) 11:56:49.41
邪馬台国は九州以外だな。
612日本@名無史さん
2023/11/22(水) 11:58:21.40
>>610
>隋使は陸行する必要が無いので陸行していない。

その頃には、瀬戸内海ルートが開発だれていたからな。   @阿波
613日本@名無史さん
2023/11/22(水) 12:04:24.87
魏使の第一の目的地は伊都国だったのだろうが、卜占により末盧国からの上陸と占いが出たから末盧国を選んだ可能性がある。

其俗 擧事行來有所云為 輒灼骨而卜以占吉凶

「その風俗では、何かをする時や、何処かへ行き来する時、気がかりがあると、すぐさま骨を焼いて卜し吉凶を占う。先に卜する目的を告げるが、その言葉は中国の占いである令亀法に似ている。火によって出来た裂け目を見て、兆しを占うのである。」
614日本@名無史さん
2023/11/22(水) 12:10:32.70
なぜ、松浦市に上陸したのだろうか。
615日本@名無史さん
2023/11/22(水) 12:11:26.29
超能力捜査官マクモニーグルの透視が当たったようだな
616日本@名無史さん
2023/11/22(水) 12:11:48.23
>>614
気象の影響で、ズレたよ。
617日本@名無史さん
2023/11/22(水) 12:39:16.15
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

邪馬台国畿内説 Part966 YouTube動画>5本 ->画像>34枚






.
618日本@名無史さん
2023/11/22(水) 12:40:07.74
>>610

倭王が使者を派遣し、魏の都や帯方郡、諸韓国に行く時、
及び帯方郡の使者が倭国に来る時には、
皆一大率の治所が置かれた伊都国の【津】で検査、確認し、
文書や贈り物を女王のもとへ伝送している

末盧の津から陸行する必要がない
619日本@名無史さん
2023/11/22(水) 12:44:33.83
>>618
>末盧の津から陸行する必要がない

それが必要あるんだよ。

なぜ内陸の伊都国(直方辺り)に一大率が置かれたのか。
理由は、大陸からの「行き」と「帰り」のルートは異なるから。
伊都国(直方)は、大陸との往路と復路の分岐点に位置する。 
だから、大陸からの「行き」と「帰り」の両方を監視出来る立地(内陸)の直方辺りに一大率(筑紫忌部)が置かれた。  
伊都国は一大率(筑紫忌部)が大陸出入りを監視するための言わば、「出入国在留管理庁」。  
ちなみにその朝鮮半島・大陸への出航地は、平戸市周辺。   @阿波
620日本@名無史さん
2023/11/22(水) 12:45:21.14
>>618
里数ルート、日数ルート、倭人ルート、郡使往来ルート等々
それぞれ別々にルートが記録されていたものが陳寿によってごった煮にされたのかもしれんな
621日本@名無史さん
2023/11/22(水) 12:47:18.06
>>618
卜占に従ったまでだよ
622日本@名無史さん
2023/11/22(水) 12:51:19.09
壱岐から南下し伊(万里の)津に直行しようとし、邪魔な島々を回り避け、松浦市の海岸近くまで来た時、南西の風が強まり、マッチョな漕ぎ手が、乗客に、ここから歩け、と言ったな。
623日本@名無史さん
2023/11/22(水) 13:04:34.91
帯方郡使が末盧国で上陸した理由としては以下のようなものが考えられる

ⅰ)倭国側の理由
・国防上の理由で、外国船を倭国の最重要都市の一つである伊都国まで引き入れたくない

ⅱ)帯方郡使側の理由
・天然の良港である呼子・名護屋に上陸して伊都国までの陸路を確認することは軍事調査として有効である
624日本@名無史さん
2023/11/22(水) 13:05:27.79
いくら地図をクルクル回転させても畿内が東の倭種の国だった事に変わりはない
625日本@名無史さん
2023/11/22(水) 13:07:19.12
倭国の使者が郡に行くときも、郡の使者が来るときも【皆】だから
626日本@名無史さん
2023/11/22(水) 13:11:22.04
畿内に行くのであれば九州を陸行700里する必要は無いな。
627日本@名無史さん
2023/11/22(水) 13:16:54.73
難波津に船で着けるなら伊都国でお宝を積み下ろして数えるのは間違いのもとだな
628日本@名無史さん
2023/11/22(水) 13:21:18.07
伊都国には女王国の一大率が置かれているから
倭国に渡したのと同じ
629日本@名無史さん
2023/11/22(水) 13:23:26.86
>>628
畿内に九州の物が届いた痕跡はあるのだろうか?
630日本@名無史さん
2023/11/22(水) 13:25:50.33
伊都国の【津】で検査して伝送しているのは、
九州の物ではなくて、魏からの賜りもの
631日本@名無史さん
2023/11/22(水) 13:28:36.50
>>630
伝送した証拠は無い
632日本@名無史さん
2023/11/22(水) 13:29:27.24
台風だからだよ
633日本@名無史さん
2023/11/22(水) 13:29:47.85
>>629
皆無
634日本@名無史さん
2023/11/22(水) 13:33:21.90
>>631

魏からの賜物の証拠って具体的に何?
635日本@名無史さん
2023/11/22(水) 13:34:54.67
>>634
無いだろw
636日本@名無史さん
2023/11/22(水) 13:35:26.35
>>137-145
ヤマタイコクキナイセツが、追い詰められたな。
好古学芸会のメンバーであるかのようにして、コウテキキカンを擁護しているが、たかだか、5ちゃんねるを活発化させる係員のプロ固定でしかない、年中無給のキウス奥山氏も、なぜか、最近は、異常に興奮してきたが、
無知で無能のキウス奥山氏ではなくして、
謎の熱血青年の反発は、楽しみですね。
637日本@名無史さん
2023/11/22(水) 13:36:58.45
>>635

だから具体的に何が無いのかと聞いている
638日本@名無史さん
2023/11/22(水) 13:38:18.57
伊万里には、魏志倭人伝時代の者が筆記具として使用していた刃物の発見があったな。
639日本@名無史さん
2023/11/22(水) 13:39:28.99
>>638
消しゴムのような用途に必要な物体では、ないのかな。
640日本@名無史さん
2023/11/22(水) 13:41:41.90
伊万里は一万里だね
641日本@名無史さん
2023/11/22(水) 13:42:16.83
>>637
何があるのか?
642日本@名無史さん
2023/11/22(水) 13:46:31.95
畿内に邪馬台国があったとする証拠は何も無い
643日本@名無史さん
2023/11/22(水) 13:46:43.21
>>641

魏からの賜物が何だったかを考察してるんだろ?
644日本@名無史さん
2023/11/22(水) 13:48:00.82
>>642

九州のどこにある?
645日本@名無史さん
2023/11/22(水) 13:50:24.42
>>637
お前が伝送したのは魏からの贈り物だと言っているから聞いている。
646日本@名無史さん
2023/11/22(水) 13:52:02.04
>>644
邪馬台国の奴国が貰った金印は福岡で発見されています

で、畿内の金印は何処にあるの?
647日本@名無史さん
2023/11/22(水) 13:52:10.46
>>644
魏志倭人伝には不弥国の南で伊都国の南にあると書いている。畿内は全く当てはまらない
648日本@名無史さん
2023/11/22(水) 13:53:47.55
魏志倭人伝には女王国の南に敵対する狗奴国があったと書いてある。
この狗奴国の「狗」というのは「反目」を意味します。
狗耶韓国の場合は反韓国の国であり、狗奴国の場合は反奴国の国を意味します。
つまり女王国=奴国と明記してあるも同然なのです。
649日本@名無史さん
2023/11/22(水) 13:56:51.03
>>645

俺が言っているのではなくて、
「皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯」と倭人伝に書いてある
650日本@名無史さん
2023/11/22(水) 13:59:22.05
>>649
畿内に伝送したとは書いていない
651日本@名無史さん
2023/11/22(水) 14:02:10.91
日本の政治家は嘘をつくのが仕事だが畿内説も嘘つくのが仕事のようだ。
そもそも畿内説が嘘だから。
652日本@名無史さん
2023/11/22(水) 14:04:25.17
>>648

馬韓に狗盧國、狗素國、狗奚國
弁辰韓に弁辰狗邪國
があるから狗は「反目」という意味では使われていない
653日本@名無史さん
2023/11/22(水) 14:06:33.19
>>650

だから伝送された女王の都がどこかの議論が邪馬台国論争だろ
654日本@名無史さん
2023/11/22(水) 14:09:41.05
馬韓には糞国があるのだな。
655日本@名無史さん
2023/11/22(水) 14:19:05.05
>>653
伊都国の南。
656日本@名無史さん
2023/11/22(水) 14:19:37.74
>>649
呼子付近の港まで卑弥呼の家臣が皆集まるんだから邪馬台国は関西じゃないよな
関西では遠すぎて皆は集まらないな。
657日本@名無史さん
2023/11/22(水) 15:26:04.06
奈良にいる卑弥呼への贈り物を糸島で開けるという畿内説の馬鹿な妄想
658日本@名無史さん
2023/11/22(水) 16:28:12.55
魏の使者は卑弥呼に会っていないし、行ったのは伊都国か、不弥国までで
はないか
実質邪馬台国連合の王は伊都国の王で、外交も行い魏の使者もここにいた
卑弥呼は巫女的な人で連合国の精神的な盟主であった、王権がどのような
ものであったかはよくわからない
水行陸行は実際に行ったと考えるから難しくなるが、行っていないのでど
こでもいいと考える
水行10日陸行1月で倭国、九州のどこか宮崎か鹿児島につけばいい
身も蓋もないが、水行陸行の一文で女王卑弥呼の邪馬台国の場所がわかる
と考えてはいけない
魏の使者の行程を読めば推測は可能だ
659日本@名無史さん
2023/11/22(水) 16:31:34.92
>>658
妄想だけで、まったく裏付けるもの無し!   @阿波
660日本@名無史さん
2023/11/22(水) 16:53:48.04
魏の役人が、九州島より東に向かわなかったことだけは、確かだな。
全く書かれていない。
661日本@名無史さん
2023/11/22(水) 16:55:09.17
>>658
>実質邪馬台国連合の王は伊都国の王で、

伊都国の王が女王卑弥呼なんだよ。
662日本@名無史さん
2023/11/22(水) 16:57:17.36
>>660
女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種 又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里 又有裸國黒齒國 復在其東南 船行一年可至

九州島より東に行ってるよw
663日本@名無史さん
2023/11/22(水) 16:58:54.70
>>658
卑弥呼は北部九州、それは合ってる
664日本@名無史さん
2023/11/22(水) 17:00:08.94
仲哀天皇の宮は、なぜ、畿内ではないのだろうか。
665日本@名無史さん
2023/11/22(水) 17:00:44.09
魏の役人が、九州島より東に向かわなかったことだけは、確かだな。
全く書かれていない。
666日本@名無史さん
2023/11/22(水) 17:01:26.75
>>662
侏儒国は女王国の南に四千里だそうだから
そこまでは里数を数えた記録があったのかもな
年数は伝聞か
667日本@名無史さん
2023/11/22(水) 17:05:46.06
>>666
「又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里」
「又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至參」
侏儒国=神津島(女王国「阿波」から直線距離 約400km 四千余里 ∴一里=100m
裸国=三宅島(またその神津島から東南)
黒歯国=御藤島   
其南とは、女王国「阿波」付近からの黒潮大蛇行による南への流れによるものだろう。   
論理的に侏儒国・裸国・黒歯国を比定できるのは「阿波」だけ。
トンデモ畿内や九州では、まったく説明できない。 @阿波
668日本@名無史さん
2023/11/22(水) 17:27:43.59
>>657

唐代でも劉仁願の命で来日した郭務悰は表函と献物を持って筑紫に来たが、
私的なもので唐皇帝からの国書でないとの理由で入京を許されなかった
魏代は女王国との境界の隷属伊都国で(一大率が)文書、賜物を検品、確認し伝送することが書かれている
669日本@名無史さん
2023/11/22(水) 17:28:25.14
女王国の東を渡海すると倭種の国があるとは書かれているがそれが畿内や四国の事だろうね
670日本@名無史さん
2023/11/22(水) 17:32:50.42
>>669
それ以外を想像してしまう畿内説や阿波は明らかにアタオカ
671日本@名無史さん
2023/11/22(水) 17:33:07.94
>>656

遠いとか集まるとかではなくて、大陸に渡る、渡って来るには、
大宰府が置かれた時代では、福岡城の地に鴻臚館があり
糸島半島の北東に風待ちのための韓亭(唐泊)があり
呼子加部島に航海の安全祈願の肥前唯一の名神大社の田島神社がある
672日本@名無史さん
2023/11/22(水) 17:33:15.31
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
673日本@名無史さん
2023/11/22(水) 17:38:43.34
>>669

肥人は異人だから本州と切り離したいと思う気持ちがあるんだろうが
2万戸の奴国の中心地であり経済的に九州の圧倒的頂点に君臨する大都市博多は
畿内との政治連合のグループ
674琪瑛教大祭酒
2023/11/22(水) 17:39:15.88
相変わらず馬鹿馬鹿しいのう。
魏の使いは平原の祭祀(甕棺柱)は観ていないだろうが卑弥呼の鬼道は確認しているであろう。中華には鬼道で通るものなんだな。
ゆえに魏は卑弥呼の都には行っているのだよ。
崇神の宮とか畿内は中華とは縁遠いとか言ったところで黒塚椿井大塚から魏甲冑小札や晋帯金具が出ている上に北枕なんだよ。
その崇神なんやらはおそらく360年ごろの話であろう
美崇山辺りの人物ではないのかな?。
675日本@名無史さん
2023/11/22(水) 17:41:18.33
>>670
だって、九州に女王国に見合う集落遺跡が無いからな。 無理というものだ。 わははははは   @阿波
676日本@名無史さん
2023/11/22(水) 17:41:58.08
>>668
賜物を検品、確認し文書を伝送したのは皆で行ったと書かれてるから卑弥呼の家臣団全員で行った事だよ、一大率なら一大率と書かれているはずだよ。
677日本@名無史さん
2023/11/22(水) 17:44:36.22
>>666
里数で行程を記録した郡使は女王国の更に東の1000里+4000里先まで行ってるね。
678日本@名無史さん
2023/11/22(水) 17:47:54.61
>>675
何の痕跡も無いのは阿波だろ
679日本@名無史さん
2023/11/22(水) 17:59:32.95
>>676

検品確認を皆で集まってワイワイ楽しくするのではない
【皆】は、倭国が使者を魏の都、郡、諸韓国に遣わすとき、郡の使者が倭国に詣でるとき
これら皆
680日本@名無史さん
2023/11/22(水) 18:20:45.24
>>677
じゃあ畿内は侏儒国になるなw
681日本@名無史さん
2023/11/22(水) 18:23:22.81
>>668
≫魏代は女王国との境界の隷属伊都国で(一大率が)文書、賜物を検品、確認し伝送することが書かれている

⇒「女王国との境界の隷属伊都国」などとは魏志倭人伝には一言も書いておらず、珍説畿内説の妄想に過ぎない
こんな妄想をしないと説明できない時点で畿内説は破綻している
682日本@名無史さん
2023/11/22(水) 18:26:43.44
>>681
統属してるって明記されてるが?
683日本@名無史さん
2023/11/22(水) 18:28:13.28
畿内説はもうダメだよ
纒向遺跡が魏志倭人伝と全く整合しない(距離と方角は元々不整合だったが、大陸との交流を示すものなどが驚くほど何も出て来ず何もかも不整合)
684日本@名無史さん
2023/11/22(水) 18:30:24.66
>>670
女王国の東を渡海すると倭種の国があるとは書かれているだけで
それを畿内や四国の事だろうと決めつけちゃう九州説って、明らかにアタオカでしょ
685日本@名無史さん
2023/11/22(水) 18:30:27.37
>>679

これら?
なんじゃそりゃ???
女王卑弥呼が、中国の都や帯方郡、諸韓国に使者を派遣すさい、及び帯方郡の使者が倭国へやって来たさいには、全員で呼子付近の港に出向いて調査、確認する。

何処にも「これら皆」とか無いぞ?
686日本@名無史さん
2023/11/22(水) 18:32:09.87
>>682
隷属ではなく統属だ
伊都国が倭国に統属しているというのはイングランドがUKに属しているが如しだろう

畿内説でも君以外にそんな珍解釈をしている人間を私は見たことがない
687日本@名無史さん
2023/11/22(水) 18:32:16.27
>>684
本州から東へ海を渡って何処へ行くんだ?
688日本@名無史さん
2023/11/22(水) 18:33:32.62
>>683
いつまでたっても具体的な根拠がまったく挙げられない九州説が、もうダメです
689日本@名無史さん
2023/11/22(水) 18:35:21.64
>>687
ムー大陸
690日本@名無史さん
2023/11/22(水) 18:36:20.19
>>686
>隷属ではなく統属だ
>伊都国が倭国に統属しているというのはイングランドがUKに属しているが如しだろう

そんな珍解釈する根拠がないもんね

>畿内説でも君以外にそんな珍解釈をしている人間を私は見たことがない

無学だからでは?
691日本@名無史さん
2023/11/22(水) 18:36:31.55
>>688
それも青柳さんとはずいぶん違うね
君は関西考古学界でも異端ではないかね?(もちろん異端でも優れていれば良いのだが。。)
692日本@名無史さん
2023/11/22(水) 18:40:47.54
>>687
>本州から東へ海を渡って何処へ行くんだ?

「本州から」って
九州説がまた捏造した
693日本@名無史さん
2023/11/22(水) 18:41:54.39
丗有王 皆統屬女王國

伊都国には魏の世に女王卑弥呼がいた、倭の国々は全て女王国に統属していた。 
694日本@名無史さん
2023/11/22(水) 18:43:23.03
>>692
畿内説は奈良地方に邪馬台国が在ったじゃないの?
奈良地方は本州でしょ?
695日本@名無史さん
2023/11/22(水) 18:43:24.71
>>691
>それも青柳さんとはずいぶん違うね

という理由は?

>君は関西考古学界でも異端ではないかね?(もちろん異端でも優れていれば良いのだが。。)

まったく理由の言えない九州説って
もうダメでしょ
696日本@名無史さん
2023/11/22(水) 18:56:26.84
>>694
>畿内説は奈良地方に邪馬台国が在ったじゃないの?
>奈良地方は本州でしょ?

本州全部が奈良地方でないけど?
あなたの脳に論理機能あります?
697日本@名無史さん
2023/11/22(水) 18:59:05.47
>>693
>伊都国には魏の世に女王卑弥呼がいた、倭の国々は全て女王国に統属していた。 

倭人伝にそんなこと書いてないけど?
698日本@名無史さん
2023/11/22(水) 19:09:27.20
>>693
>丗有王 皆統屬女王國

「丗有王(これ、王有り)」 「丗」は、「此」の誤字だろう。   @阿波
699日本@名無史さん
2023/11/22(水) 19:17:40.21
>>137-145
成る程。成る程。
ヤマタイコクキナイセツが、柱にしていた物事が、随分と、怪し気な、証拠の無い主張だと分かったぞ。
これでは、ヤマタイコクキナイセツは、正々堂々の討論から、逃亡し、
嘘の宣伝という、科学界に対する荒らし行為を、し続けるしか、ないのだね。
700日本@名無史さん
2023/11/22(水) 19:31:53.06
>>687
伊勢湾を渡るらしいぞ
無理やり過ぎるw
701日本@名無史さん
2023/11/22(水) 19:36:33.87
>>695
九州説云々の前に君は畿内説を代表してないよね
君の意見は畿内説の中でもレアな珍説だ
702日本@名無史さん
2023/11/22(水) 19:43:44.29
ヤマタイコクキナイセツは、珍々。
703日本@名無史さん
2023/11/22(水) 20:19:40.14
>>693
>丗有王 皆統屬女王國

「丗有王(これ、王有り)」 「丗」は、「此」の誤字だろう。   @阿波
704日本@名無史さん
2023/11/22(水) 20:26:12.18
ヤマタイコクキナイセツは、珍子。
705日本@名無史さん
2023/11/22(水) 20:27:25.45
ヤマタイコクキナイセツが、意味性のある意見を、発表しなくなったな。
706日本@名無史さん
2023/11/22(水) 20:30:16.05
天子のいる洛陽を中心に

距離と方位を正確にすると
こういう地図が出来上がりますw

>其地大較在會稽東冶之東 與朱崖儋耳相近故其法俗多同
後漢書でも地図的に合ってますw

727 ニューノーマルの名無しさん
2021/07/15(木) 11:06:18.17 ID:UT3ee60x0
前も書いたけど

正距方位図法なら、距離も方位も説明できるんだよねw

地図の中心から離れるほど地形が歪む

そして南米大陸のように、東にある日本も間延びして大きくなる

半島が方4千里と書かれてたのがヒントになってたよ

中華思想によって、天子のいる洛陽が世界の中心

これで魏志倭人伝の距離も方位も正しいとw
邪馬台国畿内説 Part966 YouTube動画>5本 ->画像>34枚
707ヤマタイコクキナイセツ。
2023/11/22(水) 20:31:37.39
>>705
では、意見を発表します。
ヤマタイコクは、畿内第V様式という土器を作成していた一族が、王家です。
だから、卑弥呼は、鬼道と呼ばれた、土器作成の達人です。
708ヤマタイコクキナイセツの二人目。
2023/11/22(水) 20:33:43.89
>>707
成る程。納得したぞ。
709ヤマタイコクキナイセツ。
2023/11/22(水) 20:35:35.97
>>708
ヤマタイコクは、畿内第V様式という土器の、販売網だよ。
710日本@名無史さん
2023/11/22(水) 20:36:36.24
ヤマタイコクキナイセツは、珍々。
711日本@名無史さん
2023/11/22(水) 20:40:36.07
孫呉が倭地を目指してたどり着けなかった
正確な測量技術が逆に仇となったw

倭地の位置が誤認されていた紛れもない記録であり
陳寿もそういう認識だったと読める

↓壱岐から千里の距離で、方角がおかしくなる理由の一つ

190 日本@名無史さん sage 2023/08/20(日) 23:01:02.77
九州と西日本が混同されてるのが、そもそもの発端

つまり、西日本は「大きな九州地方だった(勘違い)」ってワケw

これですべて答え解明です! 方角もw

海岸線も緑と橙の線がまっすぐでソックリw
(初見なら博多湾を関門海峡と間違えてもおかしくないw)
邪馬台国畿内説 Part966 YouTube動画>5本 ->画像>34枚


759 日本@名無史さん sage 2023/05/13(土) 07:14:42.19
前にも指摘したが
九州地方と西日本の地形は酷似している
邪馬台国畿内説 Part966 YouTube動画>5本 ->画像>34枚

壱岐から千里と聞いたら
そりゃ勘違いするだろうさw
(呼子じゃ近すぎるw)
邪馬台国畿内説 Part966 YouTube動画>5本 ->画像>34枚
712日本@名無史さん
2023/11/22(水) 20:41:18.63
>>685

全員って、女王卑弥呼が、中国の都や帯方郡、諸韓国に使者を派遣すさい、
倭国中から人が集まって来るのか?
713日本@名無史さん
2023/11/22(水) 20:43:05.80
つまり、ヤマタイコクキナイセツは、珍子。
714日本@名無史さん
2023/11/22(水) 20:47:21.49
エコーという謎の物事に、珍子が、写れば、男だよ。
715日本@名無史さん
2023/11/22(水) 20:52:01.86
ちゃんねるを、活発化する係員でしかない、ヤマタイコクキナイセツの卑劣な手口。

1.ヤマタイコクキナイセツの討論相手として、キウス馬鹿キャラクターを、創る。
だが、ヤマタイコクキナイセツは、元々、馬鹿なので、あまり、馬鹿さのレベルは、変わらない。

2.頭の出来栄えが普通の者達が出現し、ヤマタイコクキナイセツが、追い詰められたら、キウス馬鹿キャラクターを出現させる。

3.頭の出来栄えが普通の者達が、過去に、ヤマタイコクキナイセツを追い詰めた意見を、キウス馬鹿キャラクターに繰り返させるが、少し、嘘や馬鹿な意見を混ぜる。
或いは、キウス馬鹿キャラクターに、ヤマタイコクキナイセツの掲げる、、特に【巻向遺蹟の年代が三世紀前半を含む
のだ】や【東治は東冶の間違いなのだ】というような、間違った前提で、ヤマタイコクキナイセツとの討論を、進行させる。

4.頭の出来栄えが普通の者達がヤマタイコクキナイセツを追い詰めた意見の本筋は無視し、キウス馬鹿キャラクターが混ぜた嘘や馬鹿な意見に対して、徹底的に反論し、勝利を宣言する。
或いは、キウス馬鹿キャラクターと進行させた討論で前提とした、特に【巻向遺蹟の年代が三世紀前半を含む
のだ】や【東治は東冶の間違いなのだ】というような、間違った物事と、更にその間違った前提から、導かれる、別の嘘を、宣伝する。
716日本@名無史さん
2023/11/22(水) 20:55:47.42
5.ヤマタイコクキナイセツを追い詰めた、頭の出来栄えが普通の者達を、キウス呼ばわりする。
717日本@名無史さん
2023/11/22(水) 21:05:06.16
風景写真という謎の物事に、何の変哲も無い発掘面に引かれた白線が、写れば、ヤマタイコクキナイセツだよ。
718日本@名無史さん
2023/11/22(水) 21:30:04.47
0082日本@名無史さん2023/09/04(月) 15:13:24.15
貴方は、この白線には根拠が無いと言おうとしているのか
その主張は謎の熱血青年の反発を招く

邪馬台国畿内説 Part966 YouTube動画>5本 ->画像>34枚
719日本@名無史さん
2023/11/22(水) 21:33:16.13
>>718
この写真を、加工した者は、良い仕事をしたな。
赤線が、良いぞ。
720日本@名無史さん
2023/11/22(水) 21:42:38.25
インターネットで、写真や絵図を使いこなせたならば、意見を伝達する力が、高まりそうだな。
僕達の研究ノートには、絵図が、沢山有るよ。
721日本@名無史さん
2023/11/22(水) 22:02:44.76
>>700
伊勢湾だと魏志倭人伝内の書き方だと渡海じゃなくて水行だな。
722日本@名無史さん
2023/11/22(水) 22:04:46.89
>>721
その通り。   @阿波
723日本@名無史さん
2023/11/22(水) 22:05:13.13
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
724日本@名無史さん
2023/11/22(水) 22:06:28.90
>>712
流石に倭国中から人はないだろうから卑弥呼の家臣のことだと思うが他にある?
725日本@名無史さん
2023/11/22(水) 22:38:04.79
日本史の謎を解くキーは眉と唾だな
唾の神さまは事解男だな
眉から生えてきた楠
楠から作られた船は軽船とも速鳥とも言う
事解男と並ぶ熊野の神さまは速玉男だな
速ってなんなんだろうか
726日本@名無史さん
2023/11/22(水) 22:50:03.13
其国王皆属女王也(魏略)
丗有王皆統属女王国(倭人伝)

この解釈は難しいな
通説好きの畿内説の人らは通説読みするの?
世々王あるも、皆女王国に統属す。
727日本@名無史さん
2023/11/22(水) 23:27:22.78
このスレは畿内説と言う嘘つき集団をウオッチするスレです。
728日本@名無史さん
2023/11/22(水) 23:28:18.85
そりゃ常識で行くからな
729日本@名無史さん
2023/11/22(水) 23:31:02.97
>>727
罵るしか抵抗手段のない敗者
それが九州説
730日本@名無史さん
2023/11/22(水) 23:39:47.53
>>729
倭人伝を無視する畿内説に全く勝ち目は無い。
731日本@名無史さん
2023/11/22(水) 23:44:08.08
>>729
◆FAQ
魏使が畿内に行くのならなぜ九州内を陸行700里するのか?
これに畿内説は答えられるかな?
732日本@名無史さん
2023/11/22(水) 23:44:40.03
>>724

共立している国の官やその部下も卑弥呼の臣下だろ
733日本@名無史さん
2023/11/23(木) 01:25:39.76
>>731
>魏使が畿内に行くのならなぜ九州内を陸行700里するのか?
>これに畿内説は答えられるかな?

魏使が畿内に行くのに九州内を陸行700里したなんて主張してないので
答える必要もない
734日本@名無史さん
2023/11/23(木) 01:40:17.38
>>733
お前は答えられないと言う事だな、では次の畿内説の人に聞く。

◆FAQ
魏使はなぜ九州内を陸行700里するのか?

733のようなボンクラでは無い聡明な畿内説がいたら答えてくれ
735日本@名無史さん
2023/11/23(木) 01:54:56.45
>>734

末盧の津から500里陸行して伊都国から200里陸行したなら
伊都国の津で文書賜遺之物を捜露することはない
東南陸行は陸続きである地理を説明している
736日本@名無史さん
2023/11/23(木) 02:12:50.38
>>734
>お前は答えられないと言う事だな、

さすがは九州説、抜群に知能が低くて思わず尊敬しちゃうぞ
お前ってさ、畿内説の誰かに
「邪馬台国が九州だっていうなら、なんで卑弥呼が九州にいないのか説明してみろ」
って言われたら、なんて答える?

・・・答えられないかな、知能低いから
737日本@名無史さん
2023/11/23(木) 04:24:45.84
畿内説にはアホしかいないのかw
738日本@名無史さん
2023/11/23(木) 05:30:36.85
>>737
このように
なにも反論できず、ただ罵るのみ
それが九州説アホの証明
739日本@名無史さん
2023/11/23(木) 05:39:25.20
>>1
お早う、キウス。
740日本@名無史さん
2023/11/23(木) 05:40:55.41
>>137-145
ヤマタイコクキナイセツが、追い詰められたな。
好古学芸会のメンバーであるかのようにして、コウテキキカンを擁護しているが、たかだか、5ちゃんねるを活発化させる係員のプロ固定でしかない、年中無給のキウス奥山氏も、なぜか、最近は、異常に興奮してきたが、
無知で無能のキウス奥山氏ではなくして、
謎の熱血青年の反発は、楽しみですね。
741日本@名無史さん
2023/11/23(木) 05:41:51.56
ちゃんねるを、活発化する係員でしかない、ヤマタイコクキナイセツの卑劣な手口。

1.ヤマタイコクキナイセツの討論相手として、キウス馬鹿キャラクターを、創る。
だが、ヤマタイコクキナイセツは、元々、馬鹿なので、あまり、馬鹿さのレベルは、変わらない。

2.頭の出来栄えが普通の者達が出現し、ヤマタイコクキナイセツが、追い詰められたら、キウス馬鹿キャラクターを出現させる。

3.頭の出来栄えが普通の者達が、過去に、ヤマタイコクキナイセツを追い詰めた意見を、キウス馬鹿キャラクターに繰り返させるが、少し、嘘や馬鹿な意見を混ぜる。
或いは、キウス馬鹿キャラクターに、ヤマタイコクキナイセツの掲げる、、特に【巻向遺蹟の年代が三世紀前半を含む
のだ】や【東治は東冶の間違いなのだ】というような、間違った前提で、ヤマタイコクキナイセツとの討論を、進行させる。

4.頭の出来栄えが普通の者達がヤマタイコクキナイセツを追い詰めた意見の本筋は無視し、キウス馬鹿キャラクターが混ぜた嘘や馬鹿な意見に対して、徹底的に反論し、勝利を宣言する。
或いは、キウス馬鹿キャラクターと進行させた討論で前提とした、特に【巻向遺蹟の年代が三世紀前半を含む
のだ】や【東治は東冶の間違いなのだ】というような、間違った物事と、更にその間違った前提から、導かれる、別の嘘を、宣伝する。

5.ヤマタイコクキナイセツを追い詰めた、頭の出来栄えが普通の者達を、キウス呼ばわりする。
742日本@名無史さん
2023/11/23(木) 05:42:27.71
ヤマタイコクキナイセツは、阿呆。
743日本@名無史さん
2023/11/23(木) 05:43:59.61
>>137-145
成る程。
744日本@名無史さん
2023/11/23(木) 06:15:58.95
ニニギノミコトが降臨したのは筑紫の日向のクシフル岳
伊都国の領域だった糸島に高祖山南峰のクシフル山がある
ニニギノミコトは「ここは韓国(からくに)に向いた良い土地だ」(大意)と言っているので降臨の地が宮崎の高千穂であるはずがなく伊都国であろう

柳田康雄、寺沢薫、北條芳隆らはいずれも伊都国がヤマト王権のルーツの一つと考える
皇室の三種の神器や豪華な副葬品の風習などは伊都国のカルチャーを引き継いでいる可能性がある
北條は伊都国と纏向で農事暦が共通すると見る

また皇室には卑弥呼や親魏倭王の伝承が残っていないことから、邪馬台国が皇室のルーツであることは考えにくい
邪馬台国は田油津媛の代に滅亡したとも考えられる

纒向を作った最初期のヤマト王権は九州・吉備からの征服王朝だと見られるが、九州系ルーツの一つは伊都国であった可能性が高そうだ
745日本@名無史さん
2023/11/23(木) 06:35:21.06
卑弥呼以後に東遷した気配は無いので伊都国をルーツにするならそれは九州(倭国)大乱以前のことだと思われる
例えばなんらかの理由により伊都国から70-80年続いた王権がいなくなり
次代の大倭王が不在になったことで後継者争いが勃発して九州で大乱が発生したなどが考えられる
746日本@名無史さん
2023/11/23(木) 06:44:09.97
5ちゃんねるを、活発化する係員でしかない、ヤマタイコクキナイセツの卑劣な手口。

1.ヤマタイコクキナイセツの討論相手として、キウス馬鹿キャラクターを、創る。
だが、ヤマタイコクキナイセツは、元々、馬鹿なので、あまり、馬鹿さのレベルは、変わらない。

2.頭の出来栄えが普通の者達が出現し、ヤマタイコクキナイセツが、追い詰められたら、キウス馬鹿キャラクターを出現させる。

3.頭の出来栄えが普通の者達が、過去に、ヤマタイコクキナイセツを追い詰めた意見を、キウス馬鹿キャラクターに繰り返させるが、少し、嘘や馬鹿な意見を混ぜる。
或いは、キウス馬鹿キャラクターに、ヤマタイコクキナイセツの掲げる、、特に【巻向遺蹟の年代が三世紀前半を含む
のだ】や【東治は東冶の間違いなのだ】というような、間違った前提で、ヤマタイコクキナイセツとの討論を、進行させる。

4.頭の出来栄えが普通の者達がヤマタイコクキナイセツを追い詰めた意見の本筋は無視し、キウス馬鹿キャラクターが混ぜた嘘や馬鹿な意見に対して、徹底的に反論し、勝利を宣言する。
或いは、キウス馬鹿キャラクターと進行させた討論で前提とした、特に【巻向遺蹟の年代が三世紀前半を含む
のだ】や【東治は東冶の間違いなのだ】というような、間違った物事と、更にその間違った前提から、導かれる、別の嘘を、宣伝する。

5.ヤマタイコクキナイセツを追い詰めた、頭の出来栄えが普通の者達を、キウス呼ばわりする。
747日本@名無史さん
2023/11/23(木) 06:46:47.97
>纒向を作った最初期のヤマト王権
ってのは、唐子鍵(方形周溝墓+銅鐸)のこと?
それとも纏向旧古墳群(前方後円墳+銅鏡)のこと?
あと纏向を作った、ってのは、古墳部分だけ?
最初期だと大型建物群すら無いよね
748日本@名無史さん
2023/11/23(木) 06:48:40.60
>纏向旧古墳群(前方後円墳+銅鏡)のこと?
纏向旧古墳群から銅鏡は見つかっていない
あるかもしれんが
749日本@名無史さん
2023/11/23(木) 07:36:34.41
>>726
×世々王あるも、皆女王国に統属す。
〇世王あるも、皆女王国に統属す。
世を世々と訳すのは意訳で、読み下す場合はそのまま世と読む
意訳なので世をどうのように意訳すかは訳す人次第。
750日本@名無史さん
2023/11/23(木) 07:41:40.33
>>749
「丗有王(これ、王有り)」 「丗」は、「此」の誤字だろう。   @阿波
751日本@名無史さん
2023/11/23(木) 08:41:19.91
魏志倭人伝は倭人のクニを帯方郡から近い順に整然と記述している(帯方郡使の報告書がその順に記載していたのだろう)

朝鮮半島南部・・・狗邪韓国
対馬海峡・・・対馬国・一大(壱岐)国
肥前・・・末蘆国
筑前・・・伊都国・奴国・不弥国
その南・・・投馬国・邪馬台国
その南・・・狗奴国

狗奴国はクナの語感と官名に狗古智卑狗(おそらく菊地の旧名の久々知+彦)があることから肥後の菊池・熊本あたり(古くからクマのつく地名が多い)と見られる

投馬国・邪馬台国はその北であり、かつ博多湾側から南に水行して移動できる場所であることから、御笠川→宝満川→筑後川ルートで行ける筑後平野にあったクニだろう
投馬国は筑後妻(上妻・下妻)、邪馬台国は筑後山門(+肥後菊池郡山門郷)と思われる
752日本@名無史さん
2023/11/23(木) 08:49:04.06
>>744
互いに相反する説が並んでいるので何を言いたいのかよくわからない
古くからの大先生程自説の整合性を持たすため複雑怪奇なことを言う
傾向がある
753日本@名無史さん
2023/11/23(木) 08:52:55.33
>>751
水行二十日とか水行十日陸行一月とか、どうすんの
754日本@名無史さん
2023/11/23(木) 08:56:40.36
>>751
妄想だけで、まったく裏付けるもの無し!  

幼稚園児のお絵描き。 わははははは   @阿波
755琪瑛教大祭酒
2023/11/23(木) 09:08:58.96
卑弥呼以前に神獣鏡は使わん。
九州は誤魔化してはいかん
明らかな甕棺柱族でそれは半島鬼神に同じなのである。その者等は魏の侵攻と共に消えて行く。列島ではまったく別な者等が畿内を中心として銅鐸を吸収し卑弥呼の官が北九州では睨みをきかせるようになるのである。
九州の信仰、理念では銅鐸を取り込めなかったのである。
756日本@名無史さん
2023/11/23(木) 09:09:55.60
>>751
なんで川を移動するんだ?アホなの?
757日本@名無史さん
2023/11/23(木) 09:10:04.35
>>753
日数は倭人からの伝聞(距離を日数表記した理由はそれ以外に考えられない)
倭人が安全保障上の理由で距離や戸数を誇張したのは当然のこと

七万戸なんて多過ぎて奈良盆地でも筑後平野でも当時のクニのサイズでは日本列島のどこでも収容できない

不自然な戸数の多さと不自然な日数表記の両方を合理的に説明できるのは私の「倭人からの誇張された伝聞」説くらいだろう
758日本@名無史さん
2023/11/23(木) 09:10:49.34
>>754
珍説中の珍説、阿波説から賛同されたらこっちが困る
759日本@名無史さん
2023/11/23(木) 09:11:58.00
古代半島に卑弥国ってのあるけど?
760日本@名無史さん
2023/11/23(木) 09:17:05.21
>>757
説明できないから、ごまかしました、まで読んだ
761琪瑛教大祭酒
2023/11/23(木) 09:17:20.59
狗邪韓国から対馬海峡、対馬国とは記されていない。
狗邪韓国、対海国、翰海、一支国だ。九州は直ぐに後々の話に合わせようとしてはいけない。
762日本@名無史さん
2023/11/23(木) 09:18:22.30
>>758
だって、
「大宜都比売命」は「阿波」の神。
ならば、殺した「須佐之男命」も「阿波」の神。
「須佐之男命」の姉神「天照大御神」も阿波」の神。

どう転んでも、記紀神話の神々は「阿波」の神々である。 わははははは   @阿波
763日本@名無史さん
2023/11/23(木) 09:19:11.19
初め辰国とか名乗っておったが韓王だの言うやつがやってきて勝手に王様宣言
ここで三韓ができる
そのあと魏の軍隊がやってきて占領
このとき韓王の血を引く末裔みたいのが日本に逃げてきた
年代は西暦250年ころとか書かれた社伝が福井の神社に残っておる
764日本@名無史さん
2023/11/23(木) 09:19:54.99
神獣鏡は呉系の鏡
三角縁神獣鏡などは4世紀以降に呉から来た工人にヤマト王権が作らせただけで魏とも卑弥呼とも何の関係もない

(4世紀に三国志の呉は滅んでる!とかくだらないツッコミをする馬鹿がいそうなので先に言っとくがここでの呉は当然のことながら地域を指している)
765日本@名無史さん
2023/11/23(木) 09:21:28.28
>>761
始めて渡海すると書いてるだろうが。
あんたは知識が無さすぎ。
信用度ゼロ
766琪瑛教大祭酒
2023/11/23(木) 09:25:32.46
何処の知識に倭人伝に狗邪韓国、対馬海峡、対馬国と書かれているのだ。
767日本@名無史さん
2023/11/23(木) 09:28:37.38
問題はいつ卑弥姓から朴姓に切り替えたか?🤔なんだよな

やつらの主張はそれだからよ😳

まだ漢姓は名乗っておらんかったわけだ
768日本@名無史さん
2023/11/23(木) 09:30:06.62
卑弥呼は半島朴氏の祖先と半島の連中らが認識してるわけ
769琪瑛教大祭酒
2023/11/23(木) 09:30:18.08
鏡は広漢西蜀の職人としているんだが。
770琪瑛教大祭酒
2023/11/23(木) 09:34:22.46
九州こそ邪馬台で半島とも交流が頻繁であるようなことをいいながら狗邪韓国、対馬海峡、対馬国とは中華は認識していない。勝手な嘘を書くな。
771琪瑛教大祭酒
2023/11/23(木) 09:37:56.22
やがては対馬海峡、対馬になるであろう、その時期を考えるのが説だよ。
皇国史観丸出しでしかないのが九州とも言える。
772日本@名無史さん
2023/11/23(木) 09:40:20.43
ちんぷんかんぷん
773日本@名無史さん
2023/11/23(木) 09:42:37.39
>>751
>御笠川→宝満川→筑後川ルートで行ける

御笠川から宝満川へは途中に分水嶺が在り行けませんし、御笠川も宝満川も上流、中流では水量が無いから舟の航行が不可能。
774日本@名無史さん
2023/11/23(木) 09:44:11.43
>>757
北部九州地域全体が邪馬台国なんですよ。
775日本@名無史さん
2023/11/23(木) 09:45:21.09
>>773
船を乗り換えれば余裕
飛行機も適宜トランジットするでしょ
776日本@名無史さん
2023/11/23(木) 09:45:42.11
中国黄海を行き来したした氏族の名称が朱家なんだとよ
朱家の連中らが船で往来した可能性はあるわな
777日本@名無史さん
2023/11/23(木) 09:50:13.45
日本渡来七姓漢人の中に朱氏おるからの
778日本@名無史さん
2023/11/23(木) 09:50:49.00
>>774
魏志倭人伝にはそのように書かれていない
「南至投馬國 水行二十日 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月」
邪馬台国は明らかに投馬国など他のクニと同じレベルの単体のクニ
779日本@名無史さん
2023/11/23(木) 09:51:56.26
>>775
御笠川→宝満川→筑後川ルートだと半分以上は川沿いの陸地を歩く事になるな。
780日本@名無史さん
2023/11/23(木) 09:57:30.38
>>778
前後の文章と日程の文章は別の資料からの引用なんですよ
なので「邪馬壹國 女王之所都」とは投馬國に対してのみ言ってる事で
投馬國は「女王之所都」ではない邪馬壹國が「女王之所都」であるとの意味
邪馬壹國に女王卑弥呼が居て治めているってこと。
781琪瑛教大祭酒
2023/11/23(木) 09:59:04.80
神獣鏡により西王母が強調され桃が重要しされる。
その信仰は九州にはないし産まれない。
タマゴから生まれるのは朴。紫と緋色が大切であり柱に吊るした鏡の赫赫な光を有り難がり井戸から姫が生まれる。まさに神話そのまま。甕棺タマゴ族は卑弥呼の鬼道に茹でられてしまったんだな。
782日本@名無史さん
2023/11/23(木) 09:59:58.41
宝満川でも水運が行われていた
だから江戸時代に御笠川と繋いだらもっと良くなるなるだろうと期待された
また宝満川には神功皇后が船で移動した伝承が残る
783日本@名無史さん
2023/11/23(木) 10:05:13.22
>>778
まーだやってらっしゃるのか

http://2chb.net/r/archeology/1700151864/4-7

ハイ終了!
784琪瑛教大祭酒
2023/11/23(木) 10:05:24.55
中華は卑弥呼は鬼道と確認している。平原の巫女はあり得ない。
また、邪馬台者東高西下。
畿内である。
785日本@名無史さん
2023/11/23(木) 10:07:31.84
>>779
それはない
786日本@名無史さん
2023/11/23(木) 10:09:16.05
>>780
全く根拠がないし筋も通ってない
テストなら「✕」だ
787日本@名無史さん
2023/11/23(木) 10:09:37.36
南至投馬國 水行二十日 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月

これは魏の使者が実際に女王国に行かなかったからだと思われる
邪馬台国が奈良にあれば中国の使者は西域にでも行くのだから、
奈良に行くはずだ
戦争は南の方なので東の方に行く障害にならないので不思議だ
788日本@名無史さん
2023/11/23(木) 10:12:45.00
>>782
グーグルマップで見ると分かりますが御笠川(鷺田川)も宝満川(山口川)も殆ど溝ですよ。
789日本@名無史さん
2023/11/23(木) 10:16:32.40
>>786
別資料の張り合わせだとの根拠は2つあります
「自女王國以北 其戸數道里可得略載」と書かれてる事と
「女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種」と書かれてる事
790日本@名無史さん
2023/11/23(木) 10:33:12.64
>>788
懐かしい名前だが真鍋大覚によると3500年前は博多湾と有明海はつながっていたらしい
卑弥呼の時代がどうだったかわからんが
古代が今の地形のままだと思わない方が良い
791日本@名無史さん
2023/11/23(木) 10:39:27.07
>>758
だって、
「大宜都比売命」は「阿波」の神。
ならば、殺した「須佐之男命」も「阿波」の神。
「須佐之男命」の姉神「天照大御神」も阿波」の神。

どう転んでも、記紀神話の神々は「阿波」の神々である。 わははははは   @阿波
792日本@名無史さん
2023/11/23(木) 10:40:29.71
「国生み」にも「神生み」にも出てくるのは「阿波」の神「大宜都比売」だけ。
更に高天原を追放された須佐之男命に料理を振る舞う神としても登場する。
いかに「阿波」の神「大宜都比売」が偉大で、欠かすことのできない重要な存在であることが分かる。   @阿波
793日本@名無史さん
2023/11/23(木) 10:50:10.35
奈良飛鳥宮を渡来人の遺跡の遺跡とする理由:オンドル! わははははは   @阿波

事程左様に畿内説は最早死に体。 見る影なし。

だれか、「阿波」を黙らせてみろよ。 論理的にな。 わははははは   @阿波
794日本@名無史さん
2023/11/23(木) 11:00:03.30
阿波説の妄言を黙らせられる人はいませんよ
勝手にほざいてるんだから
795日本@名無史さん
2023/11/23(木) 11:01:57.53
>>758
>>794
>阿波説の妄言

だって、
「大宜都比売命」は「阿波」の神。
ならば、殺した「須佐之男命」も「阿波」の神。
「須佐之男命」の姉神「天照大御神」も阿波」の神。

どう転んでも、記紀神話の神々は「阿波」の神々である。 わははははは   @阿波
796日本@名無史さん
2023/11/23(木) 11:09:49.04
784
うん、その卑弥呼の信者だったのが魏の曹操
797日本@名無史さん
2023/11/23(木) 11:11:15.20
だから部下だの派遣したりしていろいろ世話を焼いたわけやな

よかったな❗😃朴さん
798日本@名無史さん
2023/11/23(木) 11:18:45.19
>>782

洪水筑後説は、「水行二十日」「水行十日陸行一月」は筑後人がホラをこいて
魏をだまくらかして洪水筑後に来ないようにしたという主張なので
無理矢理に水行ルートを見つける必要はない
ホラなんだから
799日本@名無史さん
2023/11/23(木) 11:30:11.23
洪水筑後説では、戸数もホラなので
畑の下にきっとあると主張している考古資料も必要としない
800日本@名無史さん
2023/11/23(木) 11:35:23.45
>>798
宝満川を南に下るのは倭人伝に最も整合的なルートだ
筑後説でもないし、法螺吹いたのは倭人ではなく魏側だという立場だけどね
801日本@名無史さん
2023/11/23(木) 11:38:50.74
>>800

>>370

>投馬国の水行二十日、邪馬台国の水行十日陸行一月は倭人からの伝聞と考えられる
>倭人が安全保障上の理由で距離と戸数(五万戸、七万戸)を誇張したことは大いに考えられるので、
>水行十日陸行一月や戸数七万戸を額面通りに受け止めて大真面目に議論することは賢明ではないだろう

筑後人がこいたホラであるという主張
802日本@名無史さん
2023/11/23(木) 11:48:39.22
魏がホラをこいたのであれば、整合も何もない
倭人伝そのものがホラの伝という主張
803日本@名無史さん
2023/11/23(木) 11:49:17.64
>>801
だからなんだよ
そう解釈する人もいるし、俺はそう解釈しないというだけ
804日本@名無史さん
2023/11/23(木) 12:10:22.11
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
805日本@名無史さん
2023/11/23(木) 12:10:28.62
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
806日本@名無史さん
2023/11/23(木) 12:10:40.56
>>803

お前は魏がホラをこいていると主張しているんだな
807日本@名無史さん
2023/11/23(木) 12:17:47.77
九州説がホラをこいているんじゃないのか?
808日本@名無史さん
2023/11/23(木) 12:20:45.78
>>806
そうだがなにか?
809日本@名無史さん
2023/11/23(木) 12:30:50.52
>>808

ホラとお前が考えた無理矢理水行ルートが整合して
何の意味がある
810日本@名無史さん
2023/11/23(木) 12:32:23.14
岡田英弘が1977年に出した本のなかで大月氏に比肩するように誇張した説を出してるね
811日本@名無史さん
2023/11/23(木) 12:37:53.73
畿内説では魏使が九州内を陸行する意味を説明出来ない。
812日本@名無史さん
2023/11/23(木) 12:49:59.40
九州説では投馬国を陸行できない意味を説明出来ない。
813日本@名無史さん
2023/11/23(木) 12:55:45.88
>>812
倭人伝には陸行出来ないとは書いていない
814日本@名無史さん
2023/11/23(木) 12:58:52.36
郡から狗邪韓国も陸行すれば出来ただろう、ただ魏使は水行を選んだだけ。
投馬国も同じで水行を選んだだけ。
815日本@名無史さん
2023/11/23(木) 13:01:36.50
投馬国は単なる通過点だから上陸しなかっただけ
816日本@名無史さん
2023/11/23(木) 13:06:30.67
九州は目的地だから上陸した
817日本@名無史さん
2023/11/23(木) 13:10:08.08
八村塁氏が、更に、活発化しそうだな。
818日本@名無史さん
2023/11/23(木) 13:10:51.46
>>809
数字は倭国を大きく見せるために誇張されている
このホラに合理性があるなら縮小すれば整合性が取れる
方角を法螺吹く合理性はあまりないな
ゼロではないが

畿内説では長大な里数はどう解釈してるの?
短里を否定するなら、計測ミスかホラになるけど
819日本@名無史さん
2023/11/23(木) 13:19:10.01
>>818
倭国を大きく見せるために誇張しているなら、
短里ではなく長里のままでいい。
820日本@名無史さん
2023/11/23(木) 13:23:58.80
>>818
>畿内説では長大な里数はどう解釈してるの?

色々あるぞ。
国威発揚のアドバルン説、世界の果てに近いという修辞説、漢代に倭奴国まで1万里だって宣伝しちゃってあったから仕方ない説。
そして呉に「キサマの背後辺りにある国を傘下に入れたぞ」とユサブリ掛けたという戦略的欺瞞情報説。
最後のやつだと、方角も歪めて発表したと説明できる
821日本@名無史さん
2023/11/23(木) 13:25:43.92
>>819
そもそも短里なんてもの無いし
822日本@名無史さん
2023/11/23(木) 13:25:46.30
>>819
そうだね
だから短里説はとらない
823日本@名無史さん
2023/11/23(木) 13:26:45.96
>方角も歪めて発表したと説明できる

ほらね全てが倭人伝に合わないんだよ
824日本@名無史さん
2023/11/23(木) 13:27:53.91
>>822
じゃあ戸数も里程も日程も、ゆがめて解釈しないといけない、ということだ
825日本@名無史さん
2023/11/23(木) 13:28:17.87
>>820
要するに魏のホラ説だね
826日本@名無史さん
2023/11/23(木) 13:29:59.54
魏がホラなのか、畿内説がホラなのか、の二択
827日本@名無史さん
2023/11/23(木) 13:30:20.61
>>818
短里は倭人伝だけでなく東夷伝全体で使用されてるから
倭国を大きく見せるために誇張されているはないな。
828日本@名無史さん
2023/11/23(木) 13:31:09.23
畿内説がホラなのは明白だな。
829日本@名無史さん
2023/11/23(木) 13:32:05.46
>>827
じゃあ言い直すよ
東夷全体を大きく見せるために数字は誇張されている
830日本@名無史さん
2023/11/23(木) 13:33:15.14
>>829
そう考えないと筑後に着かないのなら、筑後説は今日限りだな
831日本@名無史さん
2023/11/23(木) 13:33:50.00
何の為に東夷全体を大きく見せるために数字を誇張したの?
832日本@名無史さん
2023/11/23(木) 13:34:20.34
今日限りいうかとっくに消えてるしw
833日本@名無史さん
2023/11/23(木) 13:34:46.41
司馬懿称揚のためだろ
834日本@名無史さん
2023/11/23(木) 13:38:46.46
畿内説の言い分「九州から4000キロの彼方に帯方郡があります」
835日本@名無史さん
2023/11/23(木) 13:41:01.89
東夷全体を大きく見せると司馬懿称揚になるか?
間違った東夷に関する情報が広がり晋の人が困るんじゃなのいか?
836日本@名無史さん
2023/11/23(木) 13:41:15.56
今のところこのスレで、
方角、距離、戸数、が倭人伝と合致する説は、この説のみ!

http://2chb.net/r/archeology/1700151864/4-7
837日本@名無史さん
2023/11/23(木) 13:42:34.53
短里がウソと言ってる時点で筑後説者じゃないから
838日本@名無史さん
2023/11/23(木) 13:43:35.53
朝貢されて嬉しい国 3要素
遠い国
大きい国
徳の高い国
839日本@名無史さん
2023/11/23(木) 13:47:38.13
九州説が伊都説でまとまるのを阻止するために筑後説のフリをして九州説がまとまっていない風を装うが筑後説にとって困らない短里をも否定することで正体がばれた
840日本@名無史さん
2023/11/23(木) 13:48:11.90
>>835
倭国を誇張して報告した結果、くっそしょぼい木っ端使節が金印貰ってしまったのだ
841日本@名無史さん
2023/11/23(木) 13:50:10.50
生口にさせて嬉しい雑用 3要素

肉体労働
土器作り
貴人の後ろから大きな扇でパタパタするやつ
842日本@名無史さん
2023/11/23(木) 13:50:35.73
>>840
船に乗れない畿内猿はただの猿。
843日本@名無史さん
2023/11/23(木) 13:52:01.82
>>840
きた!韓人だ!

九州説を装ってたが、短里まで否定してしまって正体がバレ、

ホンネの倭国下げ!
844日本@名無史さん
2023/11/23(木) 13:52:14.25
短里説はむしろ九州説のガン
845日本@名無史さん
2023/11/23(木) 13:53:56.06
>>835
>東夷全体を大きく見せると司馬懿称揚になるか?

倭の朝貢は曹爽政府の時代で、曹爽は曹真の息子
曹真は蜀の向こうにある大月氏を朝貢させた男だ
曹爽は呉の向こうにある倭国を朝貢させた男として、距離的にも大月氏を越えたかったという推理
846日本@名無史さん
2023/11/23(木) 14:00:16.39
畿内には大陸との往来の証拠が無い
847日本@名無史さん
2023/11/23(木) 14:05:00.15
>>836
論破済み

>弁辰韓合二十四國 大國四五千家小國六七百家惣四五萬戸

弁辰と辰韓合わせて4、5万戸
投馬国半島説はバツ
848日本@名無史さん
2023/11/23(木) 14:08:09.56
>>847
論破になってないじゃん。
むしろ逆に、弁辰と辰韓合わせて4、5万戸入る世界観なら、
同じくらいの投馬国が南部に入ることになる。
849日本@名無史さん
2023/11/23(木) 14:08:48.54
馬韓が54国
弁韓辰韓で24国
女王国連合が30国

九州北部がそのくらいの範囲と考えるのが妥当
日本列島規模となると100余国は欲しいところだな
850日本@名無史さん
2023/11/23(木) 14:11:51.68
まーだやってらっしゃるのか



http://2chb.net/r/archeology/1700151864/4-7


ハイ終了

解決!
851琪瑛教大祭酒
2023/11/23(木) 14:19:09.56
オオゲツヒメとは大月姫。
閼英だよ。穀物を意味する
852日本@名無史さん
2023/11/23(木) 14:27:58.97
>>846
>畿内には大陸との往来の証拠が無い

畿内説側が挙げてる証拠に反論もしないまま
拒絶するだけの九州説

無力
853日本@名無史さん
2023/11/23(木) 14:30:20.66
>>852
無いものは無い
住居と同じ
854琪瑛教大祭酒
2023/11/23(木) 14:31:17.39
三韓の書物を根拠にしても三韓の話でしかないだろ。
倭に文字を教えた王仁は何語を教えたのだ?
難波津に咲くやこの花冬ごもり、何語かね?
855日本@名無史さん
2023/11/23(木) 14:32:52.44
帯方郡から倭に至るには海岸沿いに南に東にと七千里進んで倭の北側の沿岸すなわち朝鮮半島南岸にある狗邪韓国に到着する
狗邪韓国は金海市・釜山市あたりにあった倭人のクニと考えられる(倭人のクニでなければ魏志倭人伝で国名を取り上げる理由がない)

ここから南に
→千里で対馬国
→千里で一大国(壱岐国)
→千里で末蘆国(肥前国松浦郡)
と進み、さらに
→東南に陸行五百里で伊都国(筑前国怡土郡)
→東南に百里で奴国(筑前国儺県=なのあがた)
→東に百里で不弥国(筑前国糟屋郡宇美?筑前国穂波郡?)
と進んだ

さらに、
→伊都国ないし不弥国から南に水行二十日で投馬国
→南に邪馬台国に至った(伊都国ないし不弥国ないし投馬国から水行十日陸行一月)

邪馬台国の南に狗奴国があり、女王に属さなかった
すなわち邪馬台国が女王の統治する倭国の南端だ
帯方郡から女王国すなわち邪馬台国に至るには一万二千里掛かった
(「女王国」の語は魏志倭人伝に5か所記載され単体の「邪馬台国」と解釈できるところと連合王国としての「倭国」と解釈できるところがあるが、既に帯方郡から七千里で倭国の北端狗邪韓国に至っているのでここは「倭国」とは解釈できず「邪馬台国」一択)

さらに倭の地を巡り歩くこと五千里とある
これは、倭国に来て北端の狗邪韓国から邪馬台国まで五千里ということだろう
帯方郡から狗邪韓国まで七千里、帯方郡から邪馬台国まで一万二千里という記述とも綺麗に整合する
(一万二千里-七千里=五千里)
(続く)
856日本@名無史さん
2023/11/23(木) 14:34:02.53
このスレは畿内説というトンデモ信者達の阿鼻叫喚をウオッチングする場所です
857日本@名無史さん
2023/11/23(木) 14:34:17.17
(続き)
邪馬台国は伊都国や不弥国などの南にあり、肥後にあったと思われる狗奴国(クマ=隈・熊・球磨の地名、官の狗古智卑狗は菊池の旧名久々知の長で久々知彦)の北にあったので、筑後と推定される
帯方郡から伊都国まで一万五百里なので伊都国から邪馬台国は残り千五百里、魏志韓伝と倭人伝の一里は概ね75m(凡そ300km四方の三韓地域を方四千里と書くなど)なので、伊都国から南におおよそ100kmで邪馬台国に着くということになる
この方角と距離感も筑後で符号する
博多湾側から筑後邪馬台国までは御笠川→宝満川→筑後川で水行してから少し陸行したと考えるのが合理的だ

地名から考えれば、邪馬台国は筑後山門郡(プラス肥後菊池郡山門郷)と比定できる
邪馬台国を目指して筑後川を水行してくる途中には筑後上妻郡・下妻郡があり、これが投馬国と考えられる
邪馬台国と狗奴国の国境に近いと考えられる菊池川流域では鉄鏃が大量に出土しており、両国の間で激しい戦いがあったことを窺わせる

なお、倭人は里数を知らず日数で距離を測る(隋書倭国伝より)ことから、投馬国の水行二十日、邪馬台国の水行十日陸行一月は倭人からの伝聞と考えられる
倭人が安全保障上の理由で距離と戸数(五万戸、七万戸)を誇張したことは大いに考えられるので、水行十日陸行一月や戸数七万戸を額面通りに受け止めて大真面目に議論することは賢明ではないだろう
実際、これらを大真面目に議論して合理的結論に至った人を私は未だかつて一人も見たことがない
858日本@名無史さん
2023/11/23(木) 14:35:55.73
これでコンプリート邪馬台国畿内説 Part966 YouTube動画>5本 ->画像>34枚
859日本@名無史さん
2023/11/23(木) 14:47:01.71
馬韓が54国で10万戸
弁韓辰韓が24国で4~5万戸
投馬国が(?国)で5万戸
邪馬台国が26国で7万戸
860日本@名無史さん
2023/11/23(木) 14:49:18.32
>>857
ぐだぐだと長文を書いて誤魔化しても、

締めは
>水行十日陸行一月や戸数七万戸を額面通りに受け止めて大真面目に議論することは賢明ではないだろう

倭人伝と整合しない。
861日本@名無史さん
2023/11/23(木) 14:51:32.85
>>854
>倭に文字を教えた王仁

その和迩吉師が応神天皇に献上した論語十巻をお手本にして、
倭国(阿波)王権の役人たちは、木の板に文字を書く練習をしていた。   @阿波
862日本@名無史さん
2023/11/23(木) 14:53:09.37
まーだやってらっしゃるのか



http://2chb.net/r/archeology/1700151864/4-7


ハイ終了

解決!!
863日本@名無史さん
2023/11/23(木) 14:54:07.48
>>854
>倭に文字を教えた王仁

その和迩吉師が応神天皇に献上した論語十巻をお手本にして、
倭国(阿波)王権の役人たちは、木の板に文字を書く練習をしていた(観音寺木簡)。   @阿波
864日本@名無史さん
2023/11/23(木) 14:54:26.28
投馬国が朝鮮半島にあると言うヤツは阿波説並みのトンデモ。
865日本@名無史さん
2023/11/23(木) 14:54:35.41
前から感じてたが、倭人伝と整合しない畿内説が九州説の倭人伝と整合しない部分をあげつらうのってアタマおかしいのかな?と思ってしまう
866日本@名無史さん
2023/11/23(木) 14:56:20.66
倭人伝のほとんどを無視しないと畿内説は成立しません
867日本@名無史さん
2023/11/23(木) 14:57:53.08
>>865
畿内説のどこが倭人伝と整合しない?
868日本@名無史さん
2023/11/23(木) 14:58:47.51
>>866
「倭人伝のほとんど」って、
869日本@名無史さん
2023/11/23(木) 14:59:41.00
横からだけど距離と方位
870日本@名無史さん
2023/11/23(木) 15:00:18.12
具体的なことが何も言えないのは九州説がダメな証拠
871日本@名無史さん
2023/11/23(木) 15:02:58.14
>>869
それが「ほとんど」って
倭人伝読んだことあります? 九州説の人って?
872日本@名無史さん
2023/11/23(木) 15:04:58.47
>>871
距離と方位が違ったらそれだけでアウト、永遠に邪馬台国には着けませんからね
873琪瑛教大祭酒
2023/11/23(木) 15:05:03.39
伽耶(狗邪韓国)は倭国でも倭人国でもない。古辰国。
弁韓。
朴の名に記される国が倭人国とは考え難いがそうだというならそれでもかまわんよ。尚更北九州は古辰国の一部であったと言えよう。
874日本@名無史さん
2023/11/23(木) 15:08:50.30
>>872
>距離と方位が違ったらそれだけでアウト、永遠に邪馬台国には着けませんからね

その思い込みで九州説がアウトになったのに、まだ学習できないんだね
距離と方位が違ってるから会稽東冶の東なのに
875日本@名無史さん
2023/11/23(木) 15:11:17.90
>>874
いかに畿内説がアホかと言う事がよくわかる書き込みだなw
876日本@名無史さん
2023/11/23(木) 15:11:49.28
>>874
三国志は「会稽東治」

デマを流すしかない畿内説のあなたに、愛の教材を!
http://2chb.net/r/archeology/1700151864/9-10
877日本@名無史さん
2023/11/23(木) 15:23:33.60
畿内に邪馬台国の痕跡無し。
878日本@名無史さん
2023/11/23(木) 15:25:12.15
朝鮮投馬国に遺跡はあるのか?
879日本@名無史さん
2023/11/23(木) 15:25:36.64
>>876
>三国志は「会稽東治」

だったって証拠ないね
880日本@名無史さん
2023/11/23(木) 15:27:27.41
>>877
>畿内に邪馬台国の痕跡無し。

という証拠は?
881日本@名無史さん
2023/11/23(木) 15:28:41.08
>>878
朝鮮に投馬国と分かる遺跡があれば邪馬台国にも邪馬台国と分かる遺跡があるよw
882日本@名無史さん
2023/11/23(木) 15:32:42.93
畿内説に魏志倭人伝の記述と合うところあるの?
883日本@名無史さん
2023/11/23(木) 15:36:12.34
>>882
ほとんど合ってるが?
884日本@名無史さん
2023/11/23(木) 15:43:42.90
まず魏志倭人伝
この記述によれば距離(帯方郡から一万二千里かつ伊都国から千五百里)、方角(伊都国・不弥国から南)とも邪馬台国は北部九州になる
南に菊池・熊本あたりの狗奴国があり、東に海を渡ると倭種の国々(本州・四国)があり、西については何ら記載がない(東シナ海なので何もない)という周囲の位置関係もぴったりだ
鉄鏃・絹・有棺無槨の墓制(箱式石棺墓)など北部九州に特徴的なことばかりが記述され、巨大前方後円墳・銅鐸など畿内大和に特徴的なことは一切記述されていない
魏志倭人伝を丹念に読んで地図や考古学と照らし合わせれば、邪馬台国および倭国が北部九州にあったことは容易にわかる

次に記紀
これを読めば、纒向に都した崇神・垂仁の時代には北部九州にはまだ影響力を持っていないことがわかる
崇神天皇が四道将軍を派遣した先は吉備・東海・丹波・北陸の四地域で北部九州には接触していない
纒向の外来土器は多い順に吉備25%、東海20%、河内20%、山陰北陸17%となっており、近接する河内を除けばぴったり四道将軍派遣範囲だ
そして纒向から北部九州の土器は殆ど出ない
記紀に書かれたこと(纒向ヤマト王権の勢力範囲に北部九州は含まれないこと)は考古学的にも裏付けられる

魏志倭人伝に描かれた倭国は北部九州の勢力すなわち筑紫の地方勢力であり、記紀に描かれた初期ヤマト王権(崇神天皇あたり)は大和の地方勢力だ
前者には王を合議で決める風習や巫女女王の伝統があるが、後者は成立当初から血統による男系男子(特に男系は絶対)に強く拘り、権力継承も全く異質だ
明らかにこの二つは地理的にも政治的にも別の権力であり別の国だ
纒向遺跡が魏志倭人伝の倭人のクニの様子と似ても似つかないのは、別の国なので当然の話だ

何故こんな簡単なこともわからず邪馬台国畿内説などという極めて合理性の乏しい珍説を主張する人間がいるのか理解に苦しむ
885日本@名無史さん
2023/11/23(木) 15:44:20.00
>>880
あるのか?あるなら言え、ウスノロ。
886日本@名無史さん
2023/11/23(木) 15:45:34.99
>>883
嘘をつくのが畿内説の仕事。
887日本@名無史さん
2023/11/23(木) 15:48:37.28
>>854
>倭に文字を教えた王仁

その和迩吉師が応神天皇に献上した論語十巻をお手本にして、
倭国(阿波)王権の役人たちは、木の板に文字を書く練習をしていた(観音寺論語木簡)。   @阿波
888日本@名無史さん
2023/11/23(木) 15:48:51.01
阿波説という珍説を徳島県民以外誰も主張しないように、魏志倭人伝と整合する要素が何もない纒向を邪馬台国だと本気で主張しているのも、もはや奈良県民だけではなかろうか

キナイコシも明らかに奈良のこと以外何も知らない視野の狭い奈良県民だし
889日本@名無史さん
2023/11/23(木) 15:49:53.59
キナイコシは日本人じゃないよ?
890日本@名無史さん
2023/11/23(木) 15:50:12.91
できることは悪態つくだけ
具体的な反論が何も出来ない九州説

頭が弱いから仕方ないのかな
891日本@名無史さん
2023/11/23(木) 15:51:07.40
>>883
例えばどこですか?
892琪瑛教大祭酒
2023/11/23(木) 15:52:16.68
辰王は自立できない。
優呼臣雲遺支報安邪叔支濆臣離兒不例狗邪泰支廉。
四国が決めてんだな、四面心御柱が伝統なんだろ。であるから中心に四道将軍とやらもそんなとこだろ。
みまきとはなんぞや?何処であろうか?
893日本@名無史さん
2023/11/23(木) 15:53:27.51
>>884
箱式石棺墓は有棺無槨の墓制じゃないんだが
無学なうえ頭の弱い九州説信者は
そんなことも知らないのかな
894日本@名無史さん
2023/11/23(木) 15:53:29.89
>>890
倭人伝と合っていると言うだけで、どこが合ってるか聞かれても返答できない詐欺師キナイコシ
895日本@名無史さん
2023/11/23(木) 15:54:05.97
教えてやりなよ

http://2chb.net/r/archeology/1700151864/4-7
896日本@名無史さん
2023/11/23(木) 15:54:42.41
>>893
どう見ても箱式石棺墓は有棺無槨
897日本@名無史さん
2023/11/23(木) 15:55:51.13
陳寿ら魏晋人にとって、中国大陸側の地理は理解している。
領土である楽浪郡帯方郡の緯度もわかっている。

三国志に、呉の水軍が南西諸島に出兵したことが記録されている。
後漢書に、徐福の末裔が台湾経由で会稽の市に時々やってきたことも記録に残っている。
よって南西諸島も認識されていた。

以上から、陳寿としては、以下の緯度を示したのだな。

山東半島 → 帯方郡  常識
会稽東治 → 倭国   <ポイント>
台湾 → 南西諸島   常識
南越(ベトナム)    常識

三国志東夷伝は東夷伝里(短里)で統一記載されており、
その東夷伝の最終章である魏志倭人伝において総括として、

東夷伝里(短里)の尺度を示すための言葉が、
「自郡至女王國 萬二千餘里」
「計其道里 當在会稽東治之東」
で、

長里で一万二千里だと南越になるけれども、そうではなく、

東夷伝里(短里)は、
帯方郡から女王國まで=山東半島から会稽までに相当、する距離が、
一万二千里に相当するくらいの比率ですよ、
と念を押しているわけだな。
898日本@名無史さん
2023/11/23(木) 15:57:47.89
馬鹿だから畿内説を信じるのです。
899日本@名無史さん
2023/11/23(木) 15:59:00.79
>>892
>みまきとはなんぞや?何処であろうか?

もちろん、「阿波」の美馬。   @阿波
900日本@名無史さん
2023/11/23(木) 15:59:03.55
>>891
>例えばどこですか?

例えばってw
2000文字中で合わないのは南という文字くらいだから
99.9%合ってるし
901日本@名無史さん
2023/11/23(木) 15:59:06.83
陳寿ら魏晋人にとって、中国大陸側の地理は理解している。
領土である楽浪郡帯方郡の緯度もわかっている。

三国志に、呉の水軍が南西諸島に出兵したことが記録されている。
後漢書に、徐福の末裔が台湾経由で会稽の市に時々やってきたことも記録に残っている。
よって南西諸島も認識されていた。

以上から、陳寿としては、以下の緯度を示したのだな。

山東半島=帯方郡 
会稽東治=倭国←←東夷伝里(短里)一万二千里だよ
台湾=南西諸島 
南越(ベトナム)←長里だと明らかに違うでしょ

三国志東夷伝は東夷伝里(短里)で統一記載されており、
その東夷伝の最終章である魏志倭人伝において総括として、

東夷伝里(短里)の尺度を示すための言葉が、
「自郡至女王國 萬二千餘里」
「計其道里 當在会稽東治之東」
で、

長里で一万二千里だと南越になるけれども、そうではなく、

東夷伝里(短里)は、
帯方郡から女王國まで=山東半島から会稽までに相当、する距離が、
一万二千里に相当するくらいの比率ですよ、
と念を押しているわけだな。
902日本@名無史さん
2023/11/23(木) 16:01:32.86
>>900
合う部分を挙げられないのだね詐欺師キナイコシさん
903日本@名無史さん
2023/11/23(木) 16:02:22.02
>>898
悪口しか言えないのは
お馬鹿さんな証拠
904日本@名無史さん
2023/11/23(木) 16:03:16.02
>>892
>みまきとはなんぞや?何処であろうか?

もちろん、「阿波」の美馬。   @阿波
905日本@名無史さん
2023/11/23(木) 16:03:27.12
>>879
「会稽東治」の証拠は三国志!

デマを流すしかない畿内説のあなたに、愛の教材を!
http://2chb.net/r/archeology/1700151864/14-15
906日本@名無史さん
2023/11/23(木) 16:03:46.45
>902
挙げたけど?
南以外の全部だって
907日本@名無史さん
2023/11/23(木) 16:05:35.10
>>906
それ逃げだから。詐欺師キナイコシさん。
908日本@名無史さん
2023/11/23(木) 16:06:05.66
>>905
>「会稽東治」の証拠は三国志!

提出できないものは証拠じゃないよ
909日本@名無史さん
2023/11/23(木) 16:07:07.45
>>908
三国志から逃げる詐欺師キナイコシw
910日本@名無史さん
2023/11/23(木) 16:07:44.82
>>907
>それ逃げだから

逃げだって証拠は?
911日本@名無史さん
2023/11/23(木) 16:08:41.04
会稽東治 の東は、江蘇省下相県の真東。
帯方郡(沙里院市)→女王国(阿波)万二千里( 直線距離 900km)1里=75m   
∴1里=70mは、概ね妥当。   @阿波
邪馬台国畿内説 Part966 YouTube動画>5本 ->画像>34枚
912日本@名無史さん
2023/11/23(木) 16:09:41.20
>>906
1里は何mなんですか?
913日本@名無史さん
2023/11/23(木) 16:10:31.31
>>912
会稽東治 の東は、江蘇省下相県の真東。
帯方郡(沙里院市)→女王国(阿波)万二千里( 直線距離 900km)1里=75m   
∴1里=70mは、概ね妥当。   @阿波
邪馬台国畿内説 Part966 YouTube動画>5本 ->画像>34枚
914日本@名無史さん
2023/11/23(木) 16:12:10.64
畿内説では1里は何mなんですか?
915日本@名無史さん
2023/11/23(木) 16:18:30.86
会稽東治の東じゃないと邪馬台国が日本列島にならない

会稽東冶を主張するのは敗北説の自爆テロのようなもの
916日本@名無史さん
2023/11/23(木) 16:27:56.80
>>903
畿内説は馬鹿だから言われてもしょうがない
917日本@名無史さん
2023/11/23(木) 16:35:52.71
畿内説は嘘を研究する機関です
918日本@名無史さん
2023/11/23(木) 16:36:43.08
公金チューチュー畿内説のオレオレ詐欺
919日本@名無史さん
2023/11/23(木) 16:36:49.35
はい!どうぞ!

http://2chb.net/r/archeology/1700151864/14-17
920日本@名無史さん
2023/11/23(木) 16:38:32.52
住居の無い湿原を教科書に載せてていいの?
921日本@名無史さん
2023/11/23(木) 16:40:57.69
>>909
>三国志から逃げる詐欺師キナイコシw

逃げてるって証拠は?
922日本@名無史さん
2023/11/23(木) 16:42:19.91
>>914
>畿内説では1里は何mなんですか?

もちろん400m超
923日本@名無史さん
2023/11/23(木) 16:44:42.52
罵るだけで何も反論できない九州説は永遠に負け組だよ
924日本@名無史さん
2023/11/23(木) 16:47:13.03
>>923
罵るだけで何も反論できない君は永遠に負け組だよ


http://2chb.net/r/archeology/1700151864/4-7
925日本@名無史さん
2023/11/23(木) 16:48:52.70
>>922
それだと帯方郡から狗邪韓国まで2800km

キナイコシは議論放棄!ギブアップだね!
926日本@名無史さん
2023/11/23(木) 16:50:29.22
>>924
反論しないってことは九州説さん
敗北を認めるんだね?
927日本@名無史さん
2023/11/23(木) 16:51:27.03
>>926
反論できないってことは敗北を認めたんですね。


http://2chb.net/r/archeology/1700151864/4-7
928日本@名無史さん
2023/11/23(木) 16:52:00.51
>>901

>陳寿ら魏晋人にとって、中国大陸側の地理は理解している。
>領土である楽浪郡帯方郡の緯度もわかっている。

東夷伝序文冒頭の書(尚書)は方万里の地理観なので
一万二千里の南成分8千里弱で会稽と同緯度
倭地での移動水行三十日陸行一月で東冶あたりまで
三國志呉書で會稽東冶と呼称されている地域と同緯度だと推定している
929日本@名無史さん
2023/11/23(木) 16:53:19.39
朝鮮投馬国も畿内説もトンデモ
930日本@名無史さん
2023/11/23(木) 16:53:21.95
>>925
>それだと帯方郡から狗邪韓国まで2800km

7千里が間違いだって主張に何も反論できない九州説
いつものようにまた九州説が惨敗です
931日本@名無史さん
2023/11/23(木) 16:53:35.42
>>928
ごめ、それ下書き
お返事ありがとう!

http://2chb.net/r/archeology/1700151864/14-17
932日本@名無史さん
2023/11/23(木) 16:54:41.26
>>930
魏志倭人伝に書かれた狗邪韓国は何人の領土?
933日本@名無史さん
2023/11/23(木) 16:59:06.83
>>930
>7千里が間違いだって主張

へ~、トンデモってすごい主張するんだなww わははははは   @阿波
934日本@名無史さん
2023/11/23(木) 16:59:43.53
>>927
>反論できないってことは敗北を認めたんですね。

このスレに書き込まれてない意見なんて知らんわ
 どんなに論破されても本人が認めなきゃ負けてないゾー
 それ言ったの俺じゃないから不敗ナンダー
って喚いたおばか九州説男がいたからな
発言責任者不明のつぶやきとか無視だわ
935日本@名無史さん
2023/11/23(木) 17:01:20.08
>>932
>魏志倭人伝に書かれた狗邪韓国は何人の領土?

もちろん通説どおり韓人の領土だろ
936日本@名無史さん
2023/11/23(木) 17:03:25.47
方四千里を七千里で至る狗邪韓国はかなり広い領域なので
後に伽倻諸国と呼ばれる小国群
937日本@名無史さん
2023/11/23(木) 17:11:43.06
>>936
間違い
安邪とか別の国だよ
938日本@名無史さん
2023/11/23(木) 17:23:10.89
>>922
韓の方4000里はどう説明するの?
939日本@名無史さん
2023/11/23(木) 17:24:46.69
>>930
韓が方4000里だから7000里で正しいよ。
940日本@名無史さん
2023/11/23(木) 17:26:40.49
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

邪馬台国畿内説 Part966 YouTube動画>5本 ->画像>34枚






.
941日本@名無史さん
2023/11/23(木) 17:54:20.79
>>938
>韓の方4000里はどう説明するの?

「四方千里」から取り違えられたんだよ
それを楽浪から倭奴国まで1万里に粉飾するのに利用されたんだ
元凶は祭肜という男だ
942日本@名無史さん
2023/11/23(木) 17:57:07.35
>>941
トンデモよ、無茶言うな!

当時の韓(馬韓、辰韓、弁韓)の範囲は、東西南北四千里四方 直線距離280km四方 
∴一里=70m   @阿波
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%9F%93
943日本@名無史さん
2023/11/23(木) 18:14:50.19
>>893
箱式石棺墓は明確に有棺無槨
都合の悪いことは白を黒と平気で言うから纒向邪馬台国説は今や奈良県民しか信じない
944日本@名無史さん
2023/11/23(木) 18:41:03.06
>>941
祭肜って誰ですか?
945日本@名無史さん
2023/11/23(木) 18:47:59.10
>>943
>箱式石棺墓は明確に有棺無槨

理由もなくトンデモ結論だけ言い張るのが九州説
だから学説としては消滅した
946日本@名無史さん
2023/11/23(木) 18:55:50.51
>>137-145
成る程。
947日本@名無史さん
2023/11/23(木) 18:57:09.78
箱式石棺を直接土盛りしたのが、「有棺無槨」
箱式石棺を積石槨などで空間を設けたのが、「有棺有槨」   @阿波
948日本@名無史さん
2023/11/23(木) 18:57:18.76
畿内説は既に消滅したよ
949日本@名無史さん
2023/11/23(木) 18:59:10.89
邪馬台国畿内説は、完全に破綻したので、今回のスレッドが、最終回になりました。
なお、完全に論破されたテンプレートを撤去した、新しいシリーズが、始まっているので、紹介します。

http://2chb.net/r/history/1692049807/81-82

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*いつでも書き込んでください。

なお、書き込みは
 意味のある良い内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することも、良いよ。

 ロケット発射やミサイル発射は、荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
950日本@名無史さん
2023/11/23(木) 18:59:11.92
邪馬台国畿内説は、完全に破綻したので、今回のスレッドが、最終回になりました。
なお、完全に論破されたテンプレートを撤去した、新しいシリーズが、始まっているので、紹介します。

http://2chb.net/r/history/1692049807/81-82

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*いつでも書き込んでください。

なお、書き込みは
 意味のある良い内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することも、良いよ。

 ロケット発射やミサイル発射は、荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
951日本@名無史さん
2023/11/23(木) 18:59:34.93
>>137-145
目から鱗が落ちたぞ。
ヤマタイコクキナイセツが、柱にしていた物事が、随分と、怪し気な、証拠の無い主張だと分かったぞ。
これでは、ヤマタイコクキナイセツは、正々堂々の討論から、逃亡し、
嘘の宣伝という、科学界に対する荒らし行為を、し続けるしか、ないのだね。
952日本@名無史さん
2023/11/23(木) 19:01:08.70
箱式石棺を直接土盛りしたのが、「有棺無槨」
箱式石棺を積石槨などで空間を設けたのが、「有棺有槨」   @阿波
953日本@名無史さん
2023/11/23(木) 19:01:47.24
>>945
理由はちゃんと説明してますよ
貴方が見ない読まないだけですよ
現実逃避ですな。
954日本@名無史さん
2023/11/23(木) 19:05:41.84
箱式石棺は新石器時代中国東北部の積石塚の内部構造
955日本@名無史さん
2023/11/23(木) 19:12:09.69
>>953
>理由はちゃんと説明してますよ

いつ、どこで?
956日本@名無史さん
2023/11/23(木) 19:14:29.38
>>955
あんた畿内説とかどうでもいいんだろ

韓方可四千里を否定するのが目的の工作員なのだな
957日本@名無史さん
2023/11/23(木) 19:22:56.47
バレた途端に隠蔽しようとすさまじい援護射撃だなw
958日本@名無史さん
2023/11/23(木) 19:28:41.21
当時の韓(馬韓、辰韓、弁韓)の範囲は、東西南北四千里四方 直線距離280km四方 
∴一里=70m   @阿波
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%9F%93
959日本@名無史さん
2023/11/23(木) 19:51:41.43
>>955
解説は何回も貼ってます。
ダウンロード&関連動画>>


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960日本@名無史さん
2023/11/23(木) 19:59:08.12
明帝=曹叡がらくようから遼東半島の突端から東北東へ入った
公孫淵の牙城=襄平まで四千里と言ってるんだから
1里=400mで九州を遥々通り越して万二千里は
パプアニューギニア辺りwww
961◆ondZSOlfxeS6
2023/11/23(木) 20:04:48.06
新スレ立てました。
http://2chb.net/r/history/1700734854/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
962琪瑛教大祭酒
2023/11/23(木) 20:15:20.70
8世紀編纂、崇神紀九州から任那2000里。
2000×550韓尺=1100000
3000×400魏尺=1200000
大体合ってる。
2000×550韓尺=1100000
3000×100短里=300000
全然ダメ。
963日本@名無史さん
2023/11/23(木) 20:18:00.58
>>959
>解説は何回も貼ってます。

一体どこで理由を言ってる?
どんな理由を言った?
さては理由もなく言い張ってるのをゴマかす気か?
964日本@名無史さん
2023/11/23(木) 20:42:27.76
朝鮮投馬国説はクソ説
965日本@名無史さん
2023/11/23(木) 20:49:39.23
九州説患者はコミュ障で、ひとと会話が出来ないようだ
966日本@名無史さん
2023/11/23(木) 20:55:29.16
>>965
コミュ障は奥山な。
967日本@名無史さん
2023/11/23(木) 20:59:19.24
このように
まったく理由を言わないのが九州説
968日本@名無史さん
2023/11/23(木) 21:00:58.69
>>967
あれ?お前の名前、奥山だったんか?
知らんかったわ
969日本@名無史さん
2023/11/23(木) 21:06:19.32
>>968が心の病気っぽい件について
970日本@名無史さん
2023/11/23(木) 21:10:48.10
ヤマタイコクキナイセツは、心の病気だよ。
971日本@名無史さん
2023/11/23(木) 21:22:12.52
おい、この💩スレッドの読者達、魏志倭人伝時代についての真実を知りたいならば、良いホームページが、有るよ。
【連続苦闘天、魏志倭人伝を研究する。】
で、検索しろ。
今は、まだ、核心的な真実は、発表してはいないが、命の制限時間が、間に合うならば、曾孫へ、メッセージを送るよ。
知りたいならば、諸君も、読め。僕達は、比較的、裕福なので、無料だぞ。広告も無いぞ。
勿論、気持ちの悪い詮索や、ウイルス性の物事も一切無い。
ただし、今まで、発表した物事で、訂正したい物事も有るな。
今の考えは、アナログに僕達の研究ノートに書いてある。遺言が上手く機能すれば、必ず、ホームページに、全て、反映さるるぞ。
分かったか、💩スレッドの読者ども。
972日本@名無史さん
2023/11/23(木) 21:29:27.64
意味のある発言がぜんぜん出来ないのが九州説
原因は、理由を言うことを以上に嫌がるから
973日本@名無史さん
2023/11/23(木) 21:30:13.91
異常、な
974日本@名無史さん
2023/11/23(木) 21:37:56.50
>>972
そのような簡単な漢字もまちがえるようでは、バツだ。落第
975日本@名無史さん
2023/11/23(木) 21:47:39.77
魏志倭人伝で至はviaやtoなどの前置詞として使われている
到は動詞
976日本@名無史さん
2023/11/23(木) 21:48:47.30
九州説は距離も方向も無視して
七千里とか万二千里を繰り返すばかりで

吉野ヶ里テーマパークが邪馬台国とは
ウソっぽ過ぎて恥ずかしすぎて断定できないwww
977日本@名無史さん
2023/11/23(木) 21:55:26.86
>>963
現実逃避して見ないお前が悪いだけだよ
理由はちゃんと説明してる。
978日本@名無史さん
2023/11/23(木) 21:57:26.33
ヤマタイコクキナイセツよ、僕達は、もっと、笑いリラックスしたいぞ。
足搔け。貴方達が、足搔けば、足搔くほど、良いぞ。諦めずに、足搔け。
979日本@名無史さん
2023/11/23(木) 21:58:09.53
>>976
なぜに突然吉野ケ里?


きちんと勉強してくださいね
http://2chb.net/r/archeology/1700151864/4-7
980日本@名無史さん
2023/11/23(木) 21:58:36.34
楽浪郡帯方郡の緯度も・・・・・って
倭人伝の何処に「緯度」なんて書いてるんだ
「緯度」は韓ドラ「チャングムの誓い」に出てきた
カセットガスコンロと同じ「オーパーツ」www
オマケ
に唐子鍵から出土した楼観の絵をパクってる。
吉野ヶ里遊園地のホムペに書いてあった文章の
魚拓を撮って置けば良かったな。
981日本@名無史さん
2023/11/23(木) 22:00:06.65
2023/11/23 22:00
982日本@名無史さん
2023/11/23(木) 22:02:08.77
ヤマタイコクキナイセツは、馬と鹿。
983日本@名無史さん
2023/11/23(木) 22:02:31.63
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
984日本@名無史さん
2023/11/23(木) 22:10:23.94
>>983
証拠は?
985日本@名無史さん
2023/11/23(木) 22:14:59.28
吸収説は明後日の方角を向いてシカとする
986日本@名無史さん
2023/11/23(木) 22:20:40.66
>>979
それ奈良邪馬臺国は何処か書いてみろ
987日本@名無史さん
2023/11/23(木) 22:22:05.66
箸墓という大きな証拠があるのに、同定したと言うだけで
誹謗中傷を繰り返す畿内説
なぜ証明しないのかわからない
ないのか
988日本@名無史さん
2023/11/23(木) 22:30:05.89
郡使が吸収に上陸した後はブラックホールに突入したように
方向を見失うのが吸収説www
989日本@名無史さん
2023/11/23(木) 22:36:18.89
>>988
方向見失ってるのは畿内説やろ?
東と南を間違えているというのが前提だからな
990日本@名無史さん
2023/11/23(木) 22:48:39.51
南→東さえ強弁すれば、短里でも行程だけなら強弁すれば畿内説は成り立つんだよね。
短里で12000里で女王国に至る=入国して、女王国の中で不弥国→投馬国→邪馬台国でいい。

それを必死になって短里を否定するのは韓の人だから。
短里の否定が目的であって、ほんとは畿内説なんてどうでもいいんだよ。
991日本@名無史さん
2023/11/23(木) 23:02:21.86
短小里のアイデア商品を考えたのは在日朝鮮定時制高校の教師だよ
偽書でチョンボこいた人
992日本@名無史さん
2023/11/23(木) 23:05:02.93
と、キナイコシが申しております
993日本@名無史さん
2023/11/23(木) 23:07:54.98
現実逃避して自分達だけの世界に閉じこもってるのが畿内説w
994日本@名無史さん
2023/11/23(木) 23:30:36.85
>>990
間違ってるから反論されているってことが理解できないのは
頭が悪いからでしょ
995日本@名無史さん
2023/11/23(木) 23:32:46.54
>>994
三国志東夷伝が全て短里で統一されてるってことを認められないのは
韓防衛キナイコシだからでしょ
996日本@名無史さん
2023/11/23(木) 23:32:57.79
>>989
>東と南を間違えているというのが前提だからな

前提じゃなくて結論だよ
997日本@名無史さん
2023/11/23(木) 23:35:22.59
>>942
東西南北四千里四方奈良洛陽~公孫淵の牙城である山東半島の奥地=襄平=中華人民共和国の遼陽市中心部迄と同じ距離だなwww
法螺吹きの朝鮮人と同様公孫淵も法螺吹きだったんだwww
明帝紀:
丙寅,司馬宣王圍公孫淵於襄平,大破之,傳淵首于京都,海東諸郡平。冬十一月,錄討淵功,太尉宣王以下增邑封爵各有差。初,帝議遣宣王討淵,發卒四萬人。議臣皆以為四萬兵多,役費難供。帝曰:「★四千里征伐★,雖云用奇,亦當任力,不當稍計役費。」遂以四萬人行。及宣王至遼東,霖雨不得時攻,羣臣或以為淵未可卒破,宜詔宣王還。帝曰:「司馬懿臨危制變,擒淵可計日待也。」卒皆如所策。
998日本@名無史さん
2023/11/23(木) 23:38:10.55
>>995
>三国志東夷伝が全て短里で統一されてるってことを認められないのは

事実じゃないからだよ
999日本@名無史さん
2023/11/23(木) 23:41:39.18
>>997
証明できないことだけ主張する
トンデモ九州説地理に弱すぎ
1000日本@名無史さん
2023/11/23(木) 23:42:28.27
ここまでのスレまとめ


倭人伝と方角距離戸数が一致する説 その壱
http://2chb.net/r/archeology/1700151864/4-7
10011001
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