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邪馬台国畿内説 Part729 ->画像>42枚


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1◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 16:55:37.08
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://2chb.net/r/history/1634053681/l50

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
2◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 16:57:59.61
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
3◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 16:59:01.51
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
4コテ略
2021/10/17(日) 16:59:09.12
>>1 > 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです//
  クイズ番組じゃないんだからさ、当たってりゃエエってもんじゃないんだぞ。
5◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 16:59:34.31
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
6◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:00:07.09
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
7◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:00:40.49
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
8◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:01:08.44
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
9◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:01:41.37
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
10◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:02:14.21
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
11◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:02:47.04
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
12◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:03:20.18
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
13◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:03:53.36
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
14◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:04:25.92
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
15◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:04:58.21
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
16◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:05:32.38
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
17◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:06:05.24
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
18◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:06:38.22
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
19◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:07:10.75
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと


 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
20◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:07:41.49
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
21◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:08:13.92
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 邪馬台国畿内説 Part729 ->画像>42枚 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半〜中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
22◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:08:45.67
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
23◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:09:17.10
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
24◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:09:49.89
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 邪馬台国畿内説 Part729 ->画像>42枚

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。
25◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:10:20.37
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
邪馬台国畿内説 Part729 ->画像>42枚
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
邪馬台国畿内説 Part729 ->画像>42枚
 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
26◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:10:54.26
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) 邪馬台国畿内説 Part729 ->画像>42枚
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 邪馬台国畿内説 Part729 ->画像>42枚

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
27◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:11:45.15
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
28◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:12:17.22
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
29◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:12:49.51
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。
30◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:13:20.90
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
31◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:13:52.20
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   邪馬台国畿内説 Part729 ->画像>42枚
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
32◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:14:24.62
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
33◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:14:54.89
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
34◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:15:26.64
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
35◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:15:58.38
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
36◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:16:29.23
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
37◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:17:01.56
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  邪馬台国畿内説 Part729 ->画像>42枚
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
邪馬台国畿内説 Part729 ->画像>42枚
38◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:17:33.26
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
39◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:18:05.19
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
40◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:18:37.04
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
 活発期:2世紀末〜239A.D.:久住IA期
 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。
41◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:19:10.42
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
42◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:19:41.57
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
43◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:20:13.70
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
44◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:20:44.32
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
45◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:21:15.65
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
46日本@名無史さん
2021/10/17(日) 17:21:39.62
>>926
>狗古智卑狗は麹池彦…って、たしかに発音はピッタリだけどさ、河内彦で良いと思うけどなぁ...なんでみんなそこまで複雑に考えるかな?シンプルに箸墓=卑弥呼の冢でいいじゃん

箸墓は、
「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州付近」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツ。
47◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:21:47.28
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
48◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:22:18.72
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
49◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:22:49.71
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
50◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:23:22.39
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
邪馬台国畿内説 Part729 ->画像>42枚 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
51◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:23:53.18
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
52◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:24:24.81
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
53◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:25:02.33
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
54日本@名無史さん
2021/10/17(日) 17:25:07.87
>>933
>肥前国南高来郡三会(現長崎) 甕 12の小片
絹でているね。

ふーん。
55◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:25:33.57
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
56◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:26:05.00
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
57◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:26:36.80
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
邪馬台国畿内説 Part729 ->画像>42枚

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
58◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:27:07.87
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
59◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:27:39.33
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) 邪馬台国畿内説 Part729 ->画像>42枚
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。
60◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:28:10.73
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:邪馬台国畿内説 Part729 ->画像>42枚

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
61◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:28:42.05
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
62◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:29:16.86
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。


◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
63◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:29:48.39
◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。

 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)
64◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:30:19.61
◆FAQ 78-2

(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。
65◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:30:50.98
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
66◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:31:27.26
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
邪馬台国畿内説 Part729 ->画像>42枚

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
67日本@名無史さん
2021/10/17(日) 17:31:52.07
>>940
>嫌がって変えて日本にしたのが7、8世紀で、我々の知ってる日本史と一致するんだが
九州説の日本史って、世間常識とは随分違うんだね

大和政権が日本を称する事を中国に認められたのは、
釈日本紀引用の延喜講記に拠って、唐の武徳中になってからであり、
それで我々の知ってる日本史と一致するんだが
オレオレ詐欺師の大和説者らの日本史って、世間常識とは随分違うんだね
68◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:31:59.21
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
69◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:32:31.64
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。
70◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:33:03.78
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
邪馬台国畿内説 Part729 ->画像>42枚
邪馬台国畿内説 Part729 ->画像>42枚


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
71◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:33:34.74
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 邪馬台国畿内説 Part729 ->画像>42枚
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
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72◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:34:06.65
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
73◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:34:38.89
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。
74◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:35:12.79
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
邪馬台国畿内説 Part729 ->画像>42枚
邪馬台国畿内説 Part729 ->画像>42枚
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
75◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:35:43.69
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
76◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:36:14.11
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
邪馬台国畿内説 Part729 ->画像>42枚


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有コ。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)
77◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:36:45.21
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

大型建物群配置図 邪馬台国畿内説 Part729 ->画像>42枚
同空撮 邪馬台国畿内説 Part729 ->画像>42枚
建物B空撮 邪馬台国畿内説 Part729 ->画像>42枚
Dより西を望む 邪馬台国畿内説 Part729 ->画像>42枚

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78◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/17(日) 17:37:25.88
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし
79日本@名無史さん
2021/10/17(日) 17:38:33.55
>>943
>西日本の広範に渡って交流の痕跡があるのだから共立に参加した国の1つが大和にあってもおかしくないと思います
魏志に記述されている女王之所都としての邪馬壹國がどこに有ったのかは分かりませんが、連邦国家としての女王国が北九州限定だったとするなら例えば>>9に対する見解を知りたいです

ダメです。
卑弥呼を共立する事に参加したのは、30国の中の(狗奴國を除く)29国であり、
それらは、全て、九州島付近にあり、
「女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種」や大和は、入っていません。。
80日本@名無史さん
2021/10/17(日) 17:39:52.18
ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!

魏志倭人伝の核心は「計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。

1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.ところで倭国の気候風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある儋耳朱崖に似ている。
3.しかし本当の位置も残さなければならない。

そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪(伽耶)韓国の南から儋耳朱崖(ベトナム)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む、南北に細長〜い「2つの島」であるように思わせる印象操作。
まず「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国1】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」→2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を海南島までグィ〜ンと引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行一月」を転用して幻の【奴国2】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。
81日本@名無史さん
2021/10/17(日) 17:45:00.19
>>950
>だからそれ以前はどうなんだって話しで倭は中国が勝手に言ってるだけ
日本にはヤマトと言う言葉があった

「ヤマト」は、元々は、
「邪馬」や「山」の、(大倭職の)「戸」や「門」や「都」、
という意味の語であったの。
82日本@名無史さん
2021/10/17(日) 17:46:32.22
>>80の模式図だyo!【魏志倭人伝の「倭国≒東冶」印象操作】
   ┏━━┓帯方郡  ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行10日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」 
 ↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓(出雲・吉備=墳丘祭祀)
   ┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行10日」┐関門海峡〜〜〜〜〜▲┃(大和・東海=銅鐸祭祀)
v✖s┃〜〜┏末盧国━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃ 
   ┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲▲↓国東半島┃侏儒国┃〜┗━━━┛
 ↑ ┃〜〜┃▲↘「陸行1日」(正)‗▲▲▲▲↓豊後水道┗━━━┛「在其南 人長3〜4尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃♀【奴国1】女王之所都▲▲┛↙〜〜〜〜〜〜〜〜〜去女王4,000里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲投馬国←←┘宮崎平野=南「水行20日」
   ┃〜〜┗━━女王国島━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜
会稽┃〜東シナ海〜┌南「水行10日」〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜〜┌─┌←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド…幻)
 ↓ ┃〜〜│〜↓「陸行1月」_〜│←「※自女王國以北其戸数道里可得略載」(北部九州30カ国=30日=1ヶ月)
   ┃〜〜│〜↓▲沖縄〜〜〜│〜〜↓「自帯方郡至女王国 12,000里」
東冶┃〜〜│♀【奴国2】(幻).〜│★【(女王之所都)計其道里 當在会稽「東冶」之東】(魏晋のプロパガンダ…嘘)
   ┃〜〜│▲台湾〜〜〜〜〜│〜〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国遠絶(幻)不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜…本当」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其【奴国2】(幻)東南 船行1年…大げさ」
83日本@名無史さん
2021/10/17(日) 17:46:58.64
(私の質問)
邪馬台国=ヤマト王権へ継続しているのに
記紀が抹消する必要のないはずの卑弥呼を記さない理由は?
卑弥呼が誰かを聞いてる訳ではありません。記さない理由です。

前スレの996
>アンタは自分で考えるてこと出来んのか? 無意味な反問八゛力りだが。



私の思う、記紀が卑弥呼を書かなかった理由は

【天照大御神に相当する卑弥呼が魏に朝貢していたからです】

歴史と神話を切り離したかったからです。
質問に答えられないのにバカとか近畿説はこの程度なんですね。
あまりにも低俗ですね。読む価値ないですね。
永遠に距離や方角をこじつけてオナってて下さい。
そこに卑弥呼はいません。東の別の勢力です。
質問一つで瓦解する邪馬台国畿内説。
大量のテンプレですが、邪馬台国近畿教とも言うべき盲信。
読む価値がない事がわかっただけでも収穫とします。
邪馬台国=ヤマト王権なら魏志と同じくらい日本書紀もお読みください。
読めばバカでもわかりますよ。
84日本@名無史さん
2021/10/17(日) 17:47:54.34
「卑弥呼以死 大作冢 径百歩」〜卑弥呼は直径(円墳)百歩(140m)の冢を大いに作(るを以)って死んだ〜 のカラクリ

@265年、曹魏から禅譲を受け、280年、ついに呉を平定し中国を再統一。天下に再び平和と繁栄をもたらした西晋の功績を後世に書き残すための正史「三国志」を編集中、30年前の魏使の報告書「径百尺(25m)」を見た陳寿は、当時の倭国はすでに古墳時代に突入し、王墓だけはやたらと長大という情報を、官僚だけに読み知っていた。
A(膨大な餓死者を出しておきながら黄巾の乱を放置した後漢皇帝たちの厚葬に呆れた)曹操の薄葬に従ったのだろう卑弥呼でも、「径百尺(25m)」の墓ではいくらなんでも小さすぎる。地方豪族級の小さい墓しか作れない倭王に明帝曹叡が親魏倭王の金印を授けるはずがない。
B「径百歩」の誤りであろう。ついでに「以+【大】作冢」と補足しておこう。

こうして陳寿は仕方なく、形状●(直径=円墳)や数値「百」はそのままに、単位「尺(25cm)→歩(1.4m)」だけ刷り替えた。
(もし誰かが気付いたとしても誤記と言い逃れればよい。少なくとも倭国にわざわざ渡海してまで確かめようとする者ももはやいまいw)

そして時は流れ、1740年後の日本…
当然のことながら、祇園山古墳(九州説)も箸墓(大和説)も「径百歩」に該当せず、短里だ長里だ、南だ東だと、果てしない水掛け論が継続中w

▶●もしも箸墓(全長280m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作【大冢】 長二百歩」と記録→陳寿は魏志倭人伝にそのまま転載(×不正解)
●もしも祇園山古墳(直径25m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作冢 径百尺」と記録→陳寿は「卑弥呼以死 【大作】冢 径百【歩】」と盛る→魏志倭人伝(○正解)

祇園山古墳は上方下円墳で、天(上)から見ると方格規矩(四神相応)鏡そのもの。鏡マニアの倭王に相応しい。

「殉葬者奴婢百人」は、曹魏の薄葬に従いつつも、死後の孤独に怯えた卑弥呼の面従背腹であろう。
面白いのでそのまま転載しようw(陳寿、心の声)
85日本@名無史さん
2021/10/17(日) 17:48:25.31
>>951
>そうならば、箸墓を造った人々はどの遺跡でどのような暮らしをしていたの?
活発に外交していた邪馬台国の、畿内の玄関口として栄えた遺跡はどれ?

邪馬台国も畿内なんても、存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、バツであり、
「活発に外交」していたのは九州倭國(≒女王國)なの。
86日本@名無史さん
2021/10/17(日) 17:50:49.25
>>82
>>84
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、(蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様)呉の牽制として東の「親魏倭王」として、帯方郡が管理していた「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権(郡宛て鉄の発注書用の封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は【狗奴国の位置】であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説の狗奴国を検討すると、以下のようになる。

−女王国 東渡「海A」千余里 複有「国B」皆倭種【〇九州説…「海A」関門海峡「国B」本州、✕畿内説…「海A」鈴鹿山脈「国B」北海道】
−其南有狗奴國 不属女王【〇九州説…熊本もしくは薩摩、✕畿内説…仲良し東海+河内彦(大阪)←支離滅裂】

畿内説はいずれも当てはまらない上、「渡海複有国皆倭種(→東)」と「狗奴国(南⤴東)」が共に「東」で重複する。
また、鉄製武器(軍事力)も文字も駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能。
消去法により、九州説が正しい。
では、狗奴国が熊本か鹿児島かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)を想定。
面積から見て、川内平野でゎ「平野面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智卑狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所・甘木朝倉を、
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、かつ同時期(甕棺墓)の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳を比定。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3
87日本@名無史さん
2021/10/17(日) 17:50:53.59
>>952
>ほとんどの学者が本気で畿内説だ

「畿内」なんて存在もしなかったオレオレ詐欺の嘘つき騙し文言であり、
だから、殆どの大和説学者は、本当にオレオレ詐欺師仲間だ。
88日本@名無史さん
2021/10/17(日) 17:52:59.05
>>86
すると、欽明(現皇室開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家=狗奴国王・卑弥弓呼の末裔。鯨魚@八代淡海→近江琵琶湖)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!

漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向に東征させ「奥津城」として(帯方郡の鉄の代価)隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋【宋/斉/梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」任命(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
日出処「天子」倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&推古…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、近江大津宮へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝〜応神朝〜継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名をそっくり移植。阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)
89日本@名無史さん
2021/10/17(日) 17:56:39.60
質問一つで瓦解する邪馬台国畿内説。

私は東の別の勢力が何者かも答えられます。

魏志を読んでオナニーしていても絶対わかりませんが。

では、シコシコどうぞw
90日本@名無史さん
2021/10/17(日) 17:57:29.51
>>954
>主に纒向に日帰りできる範囲内の集落で普通に布留0期にふさわしい生活をしていた
加美、久宝寺あるいは西求女塚・五塚原地域が玄関口であろう

米田に拠って、加美、久宝寺は、「大和の玄関」というよりは、
加美、久宝寺の方が中心であった、といういう事であり、おそらく、
加美、久宝寺の方に九州倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」の本隊が拠点を構えていて、
大和に入ったのは、「東征毛人五十五國の別動隊」だったんだろうな。
91日本@名無史さん
2021/10/17(日) 17:58:26.09
>>88
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が邪馬台国「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。

ここに武内宿彌の正体も明らかになるのである!
伊都国崇神朝の景行/成務/仲哀、邪馬台国応神朝の応神(息子)/仁徳(孫)の5人の大王に仕えた彼は、筑紫女王・卑弥呼の男弟の末裔なのである!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0

その応神朝@筑紫(邪馬台国♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。

この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き(継体の大和入り20年に仮託)、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。用明の妹・推古が仏教の国教化を成就。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での完敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、継体→安閑・宣化→阿毎多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津宮に東遷。

ここに倭王権は史上初めて北部九州を出て、近江大津宮→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の「畿内」には、崇神朝・応神朝はもちろん、直前の継体朝ですら記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治政府設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。
92日本@名無史さん
2021/10/17(日) 17:59:27.09
>>955
>証明したら畿内接絵で確定

照明出来ないから、大和説学者らがオレオレ詐欺師であった、という事で確定。
93ですます ◆/91kCCQXBo
2021/10/17(日) 18:00:27.90
>>83
興味深い話題です
記さなかった理由として可能性のあるものは他にもあるように思います
そこまで断定する材料はなかなか無いと思うのですが何か根拠はありますか?
94日本@名無史さん
2021/10/17(日) 18:00:38.05
>>91
ダイワとしか読めない大倭(大和)を(オオ)ヤマト と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、国内外(唐)に対し、新益藤原京を新設した「畿内」に、筑紫邪馬台も阿蘇邪靡堆もあったと思わせたかったからなのである!

白村江海戦惨敗で東遷した九州本家の天智の死後、壬申の乱で倭王権を獲得した大和分家の天武が正史記紀を編纂し(唐を刺激する九州本家=継体創始の倭国独自年号&日出処「天子」多利思比孤を抹消)、
それに合わせて九州の地名をそっくり移植し、「畿内」をその歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!

7世紀唐(飛鳥時代)までの中国歴代王朝には、倭国は九州島のみと認識されていたことが判る。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
隋書倭国伝(倭王阿毎多利思比孤@阿蘇邪靡堆)、旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だったが、日辺(→東)にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭(九州)と言う名前が優雅でないから日本(本州)と改名した」と言い、
また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。

事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が近江大津宮に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた「倭国」の歴史テーマパークにするため、後漢書東夷伝の「大倭」@九州を借用しつつ、
発音は北部九州時代の都であった筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を50年繰り上げて生まれた「畿内」説、ならびに古墳時代「畿内」にあったとされる「ヤマト王権」(定説)は、
唐外交を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として強行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた幻想で、
記紀(後付け地名=ヤマト王権)という虚構のゴール地点から、魏志倭人伝と土器編年の年代繰り上げ操作による強引付会に過ぎず、どこまで史実歪曲&洗脳を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである(今年は皇紀2681年w)。
95日本@名無史さん
2021/10/17(日) 18:01:43.85
>>90
で見つかるのは東海系土器が多い
木製仮面も。九州と思われる痕跡もない。
阿保すぎ
96日本@名無史さん
2021/10/17(日) 18:02:32.50
>>94
まとめると、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し、その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲して、天智の首都・太宰府を殲滅できた超大国・唐(外交)への忖度で生まれた記紀が消そうとしたのは、

A.倭国史上初めて北部九州を出て、近江大津宮に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝→応神朝→継体朝)がすべて北部九州(筑紫邪馬台→阿蘇邪靡堆→天智太宰府)にあったこと
→3王朝ともその奥津城(王家の谷)&新益藤原京を新設したばかりの「畿内」にあったことにした〔記紀の歴史テーマパーク「大倭」→「大和」聖徳太子(以和為貴)へ〕。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!

1.(武寧王の百済を完全属国化した)継体が中国の南北朝二帝並立の隙に創始してしまった(時間の支配者=中国皇帝の冊封からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号
→天智の【倭京】(太宰府)以前は全て抹消!(下記リンク参照)
2.鉄の産出により高句麗&百済に形勢逆転した新羅からの朝貢で調子に乗り、南北朝を再び統一した隋の「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
→同時期の大和分家・厩戸皇子と合成し、憲法十七条(以和為貴)「聖徳太子」を捏造&抹消!
3.白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に怯えた九州本家・天智@太宰府の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草)
→舒明♂皇極♀の長男=斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極斉明重祚&天智天武兄弟の秘密)

-継体朝@阿蘇による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・【倭京】・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho122/kai12204.html
97日本@名無史さん
2021/10/17(日) 18:02:43.43
>>958
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しのオレオレ詐欺の大和説が、
自然消滅したから、
九州説一択になっただけじゃね?
98日本@名無史さん
2021/10/17(日) 18:06:04.71
今城塚古墳に眠る大王の、ピンクの石棺は、なぜ遠路はるばる運ばれてきたのだろう。。。
99日本@名無史さん
2021/10/17(日) 18:06:17.70
>>964
>3世紀中葉には奈良県南部に西日本各地に広がる広域政権の中心があったから
それがヤマト政権
イコール外国人お目に写った邪馬台国

「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しがバレたから、バツ。
100日本@名無史さん
2021/10/17(日) 18:09:02.49
>>967
>それは言わずもがな、
邪馬台国女王であり、親魏倭王であり、箸墓の主である卑弥呼の後を継いだ者(子孫ないし後継の者)が、
ヤマト王権の王になった、当然のことだ

「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しがバレたから、
ヤマト説はオレオレ詐欺であった事になり、バツね。
101日本@名無史さん
2021/10/17(日) 18:14:53.27
>>968
>張政が来た時点で径100歩の墳墓は箸墓のみであったのだから、
箸墓が卑弥呼墓であり、魏王朝の信任厚い親魏倭王の墓である事は確定事項だ。

箸墓は前方後円墳であって卑弥呼の冢ではないからバツであり、
また「径百余歩」は、魏朝が採用の周の周髀算経の里(1里≒76.5m)に拠って、
「径は約25〜30m位」であるから、箸墓はバツだ。
102日本@名無史さん
2021/10/17(日) 18:17:09.53
>>970
>ヤマトと言う言葉があるだけなんだから邪馬台も大和も同じヤマトでしょ

「邪馬台」なんて文言は、存在もしなかった嘘つき騙しのオレオレ詐欺文言であるから、
バツだ。
103日本@名無史さん
2021/10/17(日) 18:18:10.03
>モモソヒメは崇神の時代まで生きてるので卑弥呼ではない。

何を言ってるんだ?
崇神が纏向の王だと記紀に記されていて、纏向遺跡の年代がちょうど
魏志倭人伝の時代なんだから、むしろピッタリじゃないか?
104日本@名無史さん
2021/10/17(日) 18:18:52.31
>>81
日本になる前は日本人はなんとよんでたの
105日本@名無史さん
2021/10/17(日) 18:24:33.17
>記紀に倭国は出てこない

ちょっとまだるっこしいけれど、例えば
古事記では 倭建命
日本書紀では日本武尊 と書かれていて
日本書紀には「日本、此云耶麻騰。下皆效此」日本、これ耶麻騰(ヤマト)と云う。以後皆此れに效う
とあるので、記紀では古事記が倭国、日本書紀が日本国と書いて、
どちらもヤマト国と読む同じ国の歴史を書いていることが分かる

記紀に倭国が出てこないというのはウソ
106日本@名無史さん
2021/10/17(日) 18:25:48.97
>>93
ありがとうございます。

日本書紀では、【神功紀に限って】中国の年号を含む記事を引用しています。
そして、神功皇后の活躍と卑弥呼の時代が一致するように歴代天皇の年齢や在位期間を大幅に伸ばしています。
木花之佐久夜毘売の伝承に矛盾してまで調整しています。これは、神功皇后を卑弥呼だと思わせたいからです。

匂わせてなんとなくそうだと思わせるのは日本書紀のやり方で、中国の年号だけ記載したと思います。
卑弥呼=神功皇后説をとなえる人は多いのですが、私は実の卑弥呼の隠匿だと考えます。
魏志に記されてしまった卑弥呼=皇祖神アマテラスを隠匿するためです。
調整しなければアマテラス世代と卑弥呼の時代はほぼ一致してしまうのです。

皇祖神が朝貢では話になりません。
日本書紀が【神功紀に限って】中国の年号を含むを根拠としています。
107日本@名無史さん
2021/10/17(日) 18:26:34.93
>>979
>「こうやの宮」は正式には「磯上物部神社」
神社です。神宮すらありません。

現在の筑後の「こうやの宮」は「宮」と称しています。
108日本@名無史さん
2021/10/17(日) 18:32:39.25
>>103
>>モモソヒメは崇神の時代まで生きてるので卑弥呼ではない。

>何を言ってるんだ?
>崇神が纏向の王だと記紀に記されていて、纏向遺跡の年代がちょうど
>魏志倭人伝の時代なんだから、むしろピッタリじゃないか?


崇神が纏向地域の王だと記紀に記されているが、それは4世紀初〜前半の話。
それ以前の王権は纏向ではない、葛城だ。
神武から6代孝安まで、その宮は葛城だろ。

だから邪馬台国の王都は葛城だ。
109日本@名無史さん
2021/10/17(日) 18:35:52.59
>>992
>投馬國,邪馬壹國には
卑氏や奴氏はいないのですね。

そりゃ投馬國は天孫族の伊都国系の阿毎氏系の国だからいないんだろうが、
邪馬壹國は「(卑弥呼)女王之所都の国」だから、卑氏がいたんだろう。

>やはり、邪馬壹國は中心国でなく、
北部九州から離れた位置になる。
近畿は、農業、開拓、宗教 墓地等の人達で可7万

「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、この男はオレオレ詐欺師であり、バツ男。
110日本@名無史さん
2021/10/17(日) 18:36:03.96
>>106
>アマテラス世代と卑弥呼の時代はほぼ一致してしまうのです。

一致しない。
何を根拠に一致するなどと言っておられるのか?
111日本@名無史さん
2021/10/17(日) 18:36:53.10
>西日本の広範に渡って交流の痕跡があるのだから共立に参加した国の1つが大和にあってもおかしくないと思います

そして、その中で最大の墳丘墓を作っているのが大和なんだから、
そこに最大勢力=王がいたと考えるのが、一番自然で妥当ですよね?
112日本@名無史さん
2021/10/17(日) 18:38:12.69
>本気で近畿説主張してる学者とかいるの?

畿内説を前提にしていない論文を書く学者はここ2,30年は一人もいないと思うけど?
113日本@名無史さん
2021/10/17(日) 18:40:32.14
1) 多くの大型古墳の年代決定は、各古墳で共通して比較出来る土器や埴輪が主体となる。
2) 周濠や墳丘の中に含まれるものは参考にしかならない。古墳が築造された時期との関係が不明。古墳築造に伴う土器・埴輪を明らかにする必要がある。
3) 箸墓古墳の後円部上から、吉備系特殊埴輪・特殊器台・特殊壺が採集された。
4) 同上、前方部頂上から無紋の近畿系大型二重口縁壺が多く採集された。特殊壺片も僅かに含まれている。
5) 前方部頂上から出た無紋の近畿系大型二重口縁壺は、桜井茶臼山古墳・椿井大塚山古墳でみられた壺と同じ。(茶臼山型壺)
6) 葛本弁天塚古墳(前方後円墳、箸墓西方約4km)にも無紋の近畿系大型二重口縁壺、吉備系特殊器台・特殊埴輪がある。
7) 最古級の古墳墳丘上に壺型土器が置かれることは意外に多い。この壺型土器により古墳出現当初の時期を知ることが出来る。
8) ホケノ山古墳の墳頂上に置かれた小型装飾壺は庄内式土器である。
9) 壺型土器は規格性が高く、箸墓古墳の壺型土器は桜井茶臼山、葛本弁天塚の壺型土器とほぼ同じ土器形式の中にある。従って箸墓古墳は初期の大型古墳のグループに中では、他の古墳(桜井茶臼山、葛本弁天塚)とは大きな時期差は認められない。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

はい、箸墓は4世紀前後、卑弥呼の墓ではありません。
アホの>>君脂肪www
114日本@名無史さん
2021/10/17(日) 18:42:49.01
失礼
アホの>>1君脂肪www
115日本@名無史さん
2021/10/17(日) 18:43:42.55
調整の計算は人それぞれなので認めない人がいてもいいです。
少なくとも時代の古さで言えば

天照や卑弥呼時代>神功皇后であり、
天照>卑弥呼=神功皇后ではない。
116日本@名無史さん
2021/10/17(日) 18:46:47.68
>>115
神武の時代が卑弥呼の時代
117日本@名無史さん
2021/10/17(日) 18:48:26.71
>>1000
>「南→東海岸」「冢→円墳?」

何それ。そんな変な事を言う筈がないし、言った筈もない。

>正北抵新羅の倭國はほぼ九州島などないな。

新羅のほぼ真南になるのは、九州島しかない。

史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの
オレオレ詐欺師の東大理系博士号自称男は、コテ略らと同じように、
その精神的病状や詐欺性格は一生変わらないんだろうから
原則として、放置しておきましょうね。
118日本@名無史さん
2021/10/17(日) 18:52:35.94
神武天皇の別名はイワレヒコホホデミ。ウガヤフキアズの父もヒコホホデミ。
私はウガヤフキアエズの系図は無理やりぶち込まれたものと思ってますでの
ほぼ正解ですよ!
119日本@名無史さん
2021/10/17(日) 18:56:38.74
>> あるいは邪馬台国は人知れず消滅したの?//

>  卑弥呼や台与タンを輩出した宗家は、その後も続いたんでしょうよ。
そこら辺は、日本側史料を熟読して推定するしかないね。

続いてるよ。
その宗家の王を何というか。
それが「大物主」だ。
崇神の時代まで大物主が続いてるだろ。
それ以降は出なくなる。
それが「出雲の国譲り」だ。
実際には流血クーデターだが。
120日本@名無史さん
2021/10/17(日) 18:56:42.65
>>92の訂正
>証明したら畿内接絵で確定

証明出来ないから、大和説学者らがオレオレ詐欺師であった、という事で確定。
121日本@名無史さん
2021/10/17(日) 18:58:11.90
>>108
>崇神が纏向地域の王だと記紀に記されているが、それは4世紀初〜前半の話。

纏向遺跡の年代は、纏向大溝から出土した土器の一括資料から
2世紀末頃から(180〜)という年代が出されている

纏向遺跡の年代を無理に新しくしようとしても無駄
122日本@名無史さん
2021/10/17(日) 18:58:55.36
唐書の「日本は乃ち小国。倭の并す所となる。故に其の号を冒せり。」をどう解釈されますか?

日本書紀にこうあります。
及至饒速日命、乗天磐船、而翔行大虚也、睨是郷而降之、
故因目之、曰虚空見日本国矣。

神武東遷前の奈良桜井周辺の国号は「虚空見日本国(そらつみひのもと)」でニギハヤヒが命名。
ニギハヤヒは一説に天照国照彦火明とも呼ばれています。

wikiより「ニギハヤヒは神武天皇の神武東征において大和地方の豪族である那賀須泥毘古が奉じる神として登場する。
那賀須泥毘古の妹の登美夜毘売(三炊屋媛)を妻とし、との間に宇摩志麻遅命をもうけた。
宇摩志麻遅命は、物部連、穂積臣、采女臣の祖としている。神倭伊波礼毘古(後の神武天皇)が東征し、
それに抵抗した那賀須泥毘古が敗れた後、神倭伊波礼毘古が天照大御神の子孫であることを知り、
神倭伊波礼毘古のもとに下った。 」

で、ニギハヤヒを配下につけた神武天皇は奈良桜井の大神神社の祭神「大物主」の娘と結婚するのです。

唐書の解釈を
饒速日命の【日本国】と神武天皇の【倭(邪馬台)国】 の合併だとします。

(一般にニギハヤヒの命はスサノオの子、大物主と同体とする研究者が多いです。)
(大物主は海を照らし来る神と表現され本物のアマテラスかと思われます。)
つまり、東の別の勢力は出雲から飛来した物部氏の祖先です。
畿内説の墓や遺跡はこの人たちのものです。

結論としては、神武が九州を出発したので【女王国は九州以外にありえない】です。
魏志とにらめっこしても永遠にわかりません。

よければ近畿説で「日本は乃ち小国。倭の并す所となる。故に其の号を冒せり。」を説明して下さい。
絶対無理ですから。

ありがとうございました。失礼します。
123日本@名無史さん
2021/10/17(日) 19:01:32.21
>>113
>従って箸墓古墳は初期の大型古墳のグループに中では、他の古墳(桜井茶臼山、葛本弁天塚)とは大きな時期差は認められない。

小さな時期差があって、それが三世紀半ば後半と三世紀末なだけなんだが
なんか妄想してるのかい?
124日本@名無史さん
2021/10/17(日) 19:03:53.96
>>103
>何を言ってるんだ?
崇神が纏向の王だと記紀に記されていて、纏向遺跡の年代がちょうど
魏志倭人伝の時代なんだから、むしろピッタリじゃないか?

何を言ってるんだ?
崇神が纏向の王だと記紀に記されていても、
「卑弥呼の冢≠前方後円墳」であり、それからの推論で、
纏向遺跡の庄内1の石塚の年代がちょうど3世紀末になり、
魏志倭人伝の時代に全く合わないんだから、
むしろ君がオレオレ詐欺師の大和説者になるんじゃないか?
125ですます ◆/91kCCQXBo
2021/10/17(日) 19:04:32.58
>>106
天照が卑弥呼かどうかは別として、神功皇后に合わせて調整したというのは有力な説だと思います
理由までは断言できませんが少なくとも匂わせているのは確かです

ただ、そのことと畿内説との関係を教えてもらってもいいですか?
畿内説だけが距離や方角に特に拘っている印象はなかったのでピンと来ませんでした
126日本@名無史さん
2021/10/17(日) 19:07:47.06
>>113
>はい、箸墓は4世紀前後、卑弥呼の墓ではありません。

という根拠が書けないんだから、君が死亡したんだよ
127日本@名無史さん
2021/10/17(日) 19:15:49.06
>>121
>纏向遺跡の年代は、纏向大溝から出土した土器の一括資料から
>2世紀末頃から(180〜)という年代が出されている

180〜という根拠は不明だが、だいたいその時代からだな。
しかしそれは崇神がその時代からいたという意味ではない。
崇神は行灯山古墳で4世紀初頭。


>纏向遺跡の年代を無理に新しくしようとしても無駄

崇神の年代を無理に古くしようとしても無駄
128日本@名無史さん
2021/10/17(日) 19:18:04.95
>>105
>ちょっとまだるっこしいけれど、例えば
古事記では 倭建命 日本書紀では日本武尊 と書かれていて
日本書紀には「日本、此云耶麻騰。下皆效此」日本、これ耶麻騰(ヤマト)と云う。以後皆此れに效う

これまで、古事記に「倭」の文字がある事は否定してこなかったし、
問題は、日本書紀の倭國の記載は、孝徳の頃の「どこか辺鄙な地の呼称」として、
2〜3個出ていた、と言っていただけだよ。
勿論、書紀の「日本、此云耶麻騰」の「耶麻騰」は、7世紀後半頃の話の説明であり、
3世紀の「倭國」記載の説明には全くなっていない。

>とあるので、記紀では古事記が倭国、日本書紀が日本国と書いて、
どちらもヤマト国と読む同じ国の歴史を書いていることが分かる

違うな。書紀が、
7世紀中頃に自分らの「元、大倭職」の「ヤマト」の地に対して、
「大和」という華字に変更した、という事が判る。


記紀に倭国が出てこないというのはウソ
129日本@名無史さん
2021/10/17(日) 19:19:34.47
>>123
>小さな時期差があって、それが三世紀半ば後半と三世紀末なだけなんだが
なんか妄想してるのかい?

小さな時間差じゃないね、それ。
箸墓は葛本弁天塚や椿井大塚山、桜井茶臼山とほぼ同時代。
箸墓が3世紀半ばなんてスケベ心出すな、馬鹿。
130日本@名無史さん
2021/10/17(日) 19:32:09.95
>>129
>箸墓は葛本弁天塚や椿井大塚山、桜井茶臼山とほぼ同時代。

それ古墳1期ってことだろ?
相当に時間幅があるんだけど
箸墓が3世紀半ばでまったく問題なし
それじゃイケナいという理由、キミ人事も言えないんだから
もう諦めなよ
131日本@名無史さん
2021/10/17(日) 19:35:01.20
葛本弁天塚や椿井大塚山、桜井茶臼山のどれかを290年としてやるわ。
そして箸墓の近畿系大型二重口縁壺をそれより20年古いとしてやるわ、
この際、出血大サービスだ。

それでも箸墓は270年で卑弥呼の墓ではないwwww

アホの>>1
アホのぉ>>1

>>1君、撃沈wwww
132日本@名無史さん
2021/10/17(日) 19:35:46.19
>>130
>相当に時間幅があるんだけど

根拠は?
133日本@名無史さん
2021/10/17(日) 19:37:31.88
>>128
>7世紀中頃に自分らの「元、大倭職」の「ヤマト」の地に対して、
>「大和」という華字に変更した、という事が判る。

いや、それ無理だから
大和って言い出したの奈良時代だし
134日本@名無史さん
2021/10/17(日) 19:38:55.87
>>132
>根拠は?

布留0と布留1をそっくり含むから
135日本@名無史さん
2021/10/17(日) 19:40:50.08
>>131
>そして箸墓の近畿系大型二重口縁壺をそれより20年古いとしてやるわ、

40年古いとすれば250年で卑弥呼の墓
136日本@名無史さん
2021/10/17(日) 19:42:48.84
>>131
キミが簡単に撃沈されちゃうのは
実年代を全く言ってない学者の文章を引用して
それで4世紀とか言ってることだよ
論理が狂ってるの。自分で分からない?
137日本@名無史さん
2021/10/17(日) 19:43:02.02
箸墓古墳
橿考研が24年に実施した3次元航空レーザー計測で、
後円部の最上段に直径約39メートル、高さ約4・7メートルの特殊な円丘があることが分かっている。

これって円墳部がすでに完成してて、被葬者を埋葬するときにできた特殊な円丘だろうね。
つまり完成からかなり時間が経って特殊な円丘が出来たという事だろう。

百歩譲って建造開始を3世紀半ばだとしても、
なんで箸墓の被葬者埋葬が3世紀半ばになるのかな、オバカさん。
138日本@名無史さん
2021/10/17(日) 19:43:51.26
倭でヤマトと読む事もあるみたいだしそれは良いんだよ
日本人はワと言ってたのか?
139日本@名無史さん
2021/10/17(日) 19:44:14.07
>>136
ほとんどの学者が布留1式は4世紀前半だが。
おまえの頭がおかしいのだろうね。
140コテ略
2021/10/17(日) 19:44:48.26
>>83 > 邪馬台国=ヤマト王権へ継続しているの//
  継続なんてアイマイな単語で誤魔化すなよ。

> 記紀が抹消する必要のないはずの卑弥呼を記さない理由は?//
  前スレの、これが答えだよ。卑弥呼や台与タンを抹消する必要がない。
少なくとも、邪馬台国と皇室は、男系では繋がっていない、と考えるしかない。
http://2chb.net/r/history/1634053681/969

卑弥呼や台与タンの事を正直に書くってことは、
BC660以降の男系継続というファンタジーが、嘘八百の神だと書くも同然だからだよ。

> 卑弥呼が誰かを聞いてる訳ではありません。記さない理由です。
質問に答えられないのにバカとか近畿説はこの程度なんですね。
質問一つで瓦解する邪馬台国畿内説//

はァ? 張政が来た時点で径100歩の墳墓は箸墓のみであったのだから、
箸墓が卑弥呼墓である事は確定事項だ。
張政は邪馬台国の所在説明を直接に意図した訳ではないが、
「卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩」の一節だけで、邪馬台国が大和なのは確定した。
頓珍漢な質問なんぞで、瓦解の仕様もないだろ、八゛力。

> 永遠に距離や方角をこじつけてオナってて下さい//
  はァ? 前スレで私はこう書いてるだろ。
http://2chb.net/r/history/1634053681/803
> 陳寿が出鱈目と認めた道程記事から邪馬台国の位置を推定する事は、全く意味がないね//

> 大量のテンプレですが、邪馬台国近畿教とも言うべき盲信//
  私に云われても知らんがな。>>4 に記載の通りだよ。
(続く)
141日本@名無史さん
2021/10/17(日) 19:45:18.35
>>82
>>80 う〜ん、どうかなぁ…こんな誇大妄想考え付かないよ、普通…邪馬台=大和(箸墓)で良いと思うんだけどねぇ…
142日本@名無史さん
2021/10/17(日) 19:45:25.51
>>135
40年古いなんて根拠はない。
143コテ略
2021/10/17(日) 19:46:40.36
>>140 の続き

>>83 > 大量のテンプレですが、邪馬台国近畿教とも言うべき盲信//
  私に云われても知らんがな。>>4 に記載の通りだよ。

> 私の思う、記紀が卑弥呼を書かなかった理由は
【天照大御神に相当する卑弥呼が魏に朝貢していたからです】//
  意味無し頓珍漢なだけ。魏への朝貢自体は、隠されることなく記載されている。

> 歴史と神話を切り離したかったからです//
  事実を隠す事が、歴史と神話の峻別になぞなり得ないだろ、
オ〆は単に、無意味に単語に凝ってオナるのが取柄のノー夕リソにしか過ぎん。

> 日本書紀もお読みください。読めば八゛力でもわかりますよ//
  オ〆は八゛力だから、読んでも何一つ分からんのだよ。身の程を弁えな。
144日本@名無史さん
2021/10/17(日) 19:47:47.97
>>134
布留0で葛本弁天塚や椿井大塚山、桜井茶臼山と同型の大型二重口縁壺がある墳墓を言ってみ。
145日本@名無史さん
2021/10/17(日) 19:49:07.71
>>137
>百歩譲って建造開始を3世紀半ばだとしても、
>なんで箸墓の被葬者埋葬が3世紀半ばになるのかな、オバカさん。

あの規模の古墳作るの5年くらいだからだが、何か?
146日本@名無史さん
2021/10/17(日) 19:51:14.15
>>144
>布留0で葛本弁天塚や椿井大塚山、桜井茶臼山と同型の大型二重口縁壺がある墳墓を言ってみ。

葛本弁天塚と桜井茶臼山が布留0新相
147日本@名無史さん
2021/10/17(日) 19:52:23.24
殉葬がないホケノ山や(吉備特殊器台)箸墓や西殿塚は、邪馬台国の遺跡ではないと思う人?
148コテ略
2021/10/17(日) 19:53:42.16
>>131 > この際、出血大サービスだ//
  血塗れの了ホウだね、オ〆はさ。
箸墓の主要部から4世紀の型式の土器が出たってハナシじゃないのかよ。
箸墓以降の墳墓から、いかなる土器が出ようとも、そりゃ箸墓の年代には、何の関係も無いだろ。
箸墓周溝跡の上層の、腐葉土層から産業廃棄物の馬具が出た、
なんて、後世の攪乱遺物で年代を誤魔化した、と同様の出鱈目だな。
http://2chb.net/r/history/1634053681/893-895n
149日本@名無史さん
2021/10/17(日) 19:55:29.86
>>146
>葛本弁天塚と桜井茶臼山が布留0新相

なら同型の土器が出た箸墓は、被葬者埋葬時期が布留0新相でいいね?
まぁ280から300だろうね。
都合よく箸墓だけが40年古いなどと言うなよ。
150日本@名無史さん
2021/10/17(日) 20:00:08.21
>>147
泡沫候補は別として、主要誤説をまとめると、

−邪馬台国と狗奴国(さらに熊襲)の混同…熊本説(白鳥庫吉、森村伊作)

−邪馬台国とヤマト王権の遡上混同…「畿内」説(内藤湖南)
151日本@名無史さん
2021/10/17(日) 20:02:19.70
>>107
称で宮ならいくつかあるが?
152コテ略
2021/10/17(日) 20:04:03.60
>>147 > 殉葬がない//
  工〒公だな、オ〆はさ。
38世紀における、オ〆の遺体状況を想像することだね。
殉葬となったのは、奴婢と表現された人々だ。後世に残る石棺の如き遺物を伴う埋葬とは限らんだろ。
http://2chb.net/r/history/1633565063/936
153日本@名無史さん
2021/10/17(日) 20:06:10.24
>>131
>アホの>>1
>アホのぉ>>1

前から繰り返しこれを書いているバカがいるなと思っていたけど、
左側スロープ君だったのかww

まあ、バカの人数にも限りがあるということで、よかったよw
154日本@名無史さん
2021/10/17(日) 20:07:57.65
>>86 殉葬された人数は100人だよ。いくら3世紀でも墓壙くらい残るよね…
155日本@名無史さん
2021/10/17(日) 20:13:14.98
>>84
卑弥呼がもらった? 曹操墓出土と同型の鏡、なぜ大分に...
https://www.asahi.com/articles/ASM9443XDM94UCLV009.html
卑弥呼の鏡「可能性高い」大分・日田で出土の鉄鏡
中国・曹操高陵の発掘責任者が見解
https://www.saga-s.co.jp/articles/-/472520
「三国志の英雄」として知られる曹操(155〜200年)の墓「曹操高陵」を発掘した中国・河南省文物考古研究院の潘偉斌(ハン・イヒン)氏が、大分県日田市のダンワラ古墳出土と伝わる国重要文化財「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)」を、
邪馬台国の女王・卑弥呼がもらった「銅鏡百枚」の一枚である可能性が高いとする見解を明らかにした。
潘氏は、九州国立博物館でダンワラ古墳出土鉄鏡を確認した上で「金錯や銀錯が施される鏡は王宮関係に限られる。この鏡は国宝級の貴重なものであり、公式なルートで日本に伝わったと考えられる」と述べた。
「魏志倭人伝」は、景初3(239)年に卑弥呼の使いが魏の皇帝から「銅鏡百枚」を下賜されたと記している。
ダンワラ古墳の鏡は鉄製だが、潘氏は「倭人伝が『銅鏡』と表現したのは、鏡の総称として用いたのだろう。そこに鉄鏡が含まれても不自然ではない」と解説した。「魏の側からすれば、最高品質の鉄鏡を贈ることで、倭に工芸技術の高さを示そうとしたのだろう」と推測する。
156日本@名無史さん
2021/10/17(日) 20:13:51.43
>>154
>いくら3世紀でも墓壙くらい残るよね

奴婢に墓なんて作らない。
157日本@名無史さん
2021/10/17(日) 20:14:23.45
>>154
吉野ケ里遺跡の様子は大陸に伝わっていたと私見では考えている

北墳丘墓への追葬や甕棺墓列の様子が伝わっていれば、
「倭国には殉葬の習俗がある」という認識になっていてもおかしくなし
158日本@名無史さん
2021/10/17(日) 20:17:00.12
>>82
>>155
奴国(志賀島の金印)不弥国(日田の鉄鏡)投馬国(串間の玉壁)すべてがピッタリと符合w

https://www.asahi.com/articles/ASP8W6SN1P86TNAB001.html
宮崎県串間市で出土したとされる円盤状の器「玉璧(ぎょくへき)」。
古代中国で権威の象徴とされた品が、どのような経緯で串間の地にもたらされたのか。
直径33・3センチ、重さ1・6キロの円盤状。「軟玉」と呼ばれる鉱石でできており、真ん中に穴が開いている。
動植物がモチーフの文様が施され、ほぼ同じ大きさ・文様構成のものが、中国南部の「南越王墓」から出土しており、紀元前2世紀ごろに中国で作製されたものと推定されるという。
159日本@名無史さん
2021/10/17(日) 20:19:27.43
>>154
大量の奴婢が殺されたという記述あるいは伝承は残るだろう。

大量の奴婢が殺されたという記述あるいは伝承が残る場所は一つだけあるんだ。
それは纏向遺跡でも祇園山近辺でもない、高天原だ。
大量の奴婢が殺されたという記述とは日本書紀の神武東征紀の高尾張邑の土蜘蛛殺害だ。

場所はここ。
邪馬台国畿内説 Part729 ->画像>42枚
160日本@名無史さん
2021/10/17(日) 20:20:14.83
畿内説石野船長「南→東と読み替えて、不弥国から東に進み投馬国(出雲)を目指そう!次は女王卑弥呼の纏向だw全速前進!」
畿内説寺澤機関長「順風満帆!やはりこちらが正しかったですねw天も我々を祝福しているかのようですw九州説の警告なんて無視して良かったw」
畿内説橋本航海士「我々の進行方向、左右両舷をすっぽり取り囲むような三日月形の巨大な氷山脈発見!!!→)」
畿内説石野船長「エンジン逆回転!!!全速後退!!!←)」
畿内説寺澤機関長「なんで方角を読み替えたんだよ!!!船長のくせに!!!このハゲェ〜ッ!!!(豊田真由子元衆院議員)」
畿内説橋本航海士「フル回転中の逆回転でギア全損!!!エンジン大爆発!!!間に合いません!!!!!」
(フルスピード→ノーブレーキで氷山に正面衝突して、乗り上げ、反対側で再び着水する畿内説タイタニック号)ガツン!ドカン!ザブン!
(船側&船底外板を船首から船尾まで横一直線に切り裂く音)ギギギギギギギ!!!
ザァアアアアアアア!!!(全隔壁に一気に浸水、瞬時に沈む畿内説タイタニック号)
畿内説石野・寺澤・橋本「ぎゃあああ!!福永伸哉のマジックハンドに騙されたぁああ!!」(ごく僅かな庄内式土器と大量の布留式土器と三角縁神獣「銅鏡五百枚」と共に海底に引き摺りこまれ、海の藻屑と化す畿内説タイタニック号)
一方、九州説オリンピック号でゎ…
九州説A「畿内説タイタニック号から遭難信号SOS傍受!!」
九州説B「あれほど警告したのに、なんで東(大国主・大物主・饒速日3代の纏向宮殿)に向かったんだろう?
九州説C「手遅れにならないようにすぐに救助に向かおう!」
不弥国の東の海上に到着した九州説オリンピック号が見た光景は…
因幡の白兎同様、サメの餌食となった畿内説タイタニック号の乗客乗員の遺体の一部と思しき夥しい肉片&骨片が散乱…血で真っ赤に染まった波間に石野船長と寺澤機関長のものと思しき銀メッキ縁眼鏡がキラキラ&プカプカ浮かんでいる…
茫然自失の九州説ABC「だから船乗りの方角間違え(南→東)は漂流(全滅)しちゃうからあり得ない、纏向は「本州」島の毛人王権ってあれほど言ったのに...orz」
161日本@名無史さん
2021/10/17(日) 20:21:21.28
>>158
>奴国(志賀島の金印)不弥国(日田の鉄鏡)投馬国(串間の玉壁)すべてがピッタリと符合w

はいはい、全部捏造。
志賀島の金印
日田の鉄鏡
串間の玉璧

これらは発掘資料ではない。
そしてこの3つを結んだなら、邪馬台国南九州説になる。
志賀島から金印が発見されたと言われる時代、熊襲の女酋長が卑弥呼と偽ったという説が提唱されていた。
本居宣長である。
鶴峰戊申、那珂通世もそれに続く。

つまり彼らによる捏造であろう。

143日本@名無史さん2021/10/13(水) 19:27:53.03
なぜこのような手の込んだ捏造がなされたのであろうか。
彼らは邪馬台国がヤマトであることが分かっていた。
しかし、邪馬台国がヤマトであれば、大和朝廷及び天皇が朝貢してたという屈辱的史実を認めねばならなくなる。

だから朝貢してたのは九州だという説を創作したのである。
そのために金印、鉄鏡、玉壁を捏造した。
162日本@名無史さん
2021/10/17(日) 20:21:47.94
新井白石、本居宣長、鶴峰戊申、那珂通世らは邪馬台国がヤマトであることが分かっていた

どうやって分かったか。
簡単だ。

スサノオが、名前の似た倭国王帥升ではないかというたった一つの仮説である。
スサノオが帥升なら、スサノオの5世代約100年後に卑弥呼がいることになる。
そしてその後に台與もいる事になる。

107年 倭国王・帥升     スサノオ


238年 卑弥呼       ヒメ(蹈鞴五十鈴)后

266年 台与        天トヨ津

300年論争なんて邪馬台国や卑弥呼を3分で解いた人物たちによるヤラセの議論。
もういい加減に気づこう。
163日本@名無史さん
2021/10/17(日) 20:22:15.37
本居宣長、鶴峰戊申による熊襲の女酋長が朝廷を僭称したとする「偽僣説」。
那珂通世に引き継がれ一気に終わる。
なぜか。
那珂通世の生存中に日本が日清戦争に勝ったからである。

もともとが中国への劣等感の裏返しであった「偽僣説」、
それが、10分の1の兵力で中国に勝利するという圧倒的優越感によって終了したのである。
164コテ略
2021/10/17(日) 20:23:32.22
>>154 > いくら3世紀でも墓壙くらい残るよね//
  痕跡が無ければ、年月に耐える様な埋葬ではなかったというだけだ。
165日本@名無史さん
2021/10/17(日) 20:24:49.01
>>82
女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)は、出雲大国主(→饒速日→物部氏)と少彦名(阿波忌部王)が平和な国造りをしていたのです。
一方、女王国(九州)島では卑弥呼と卑弥弓呼が倭王の座を巡って、それぞれ曹魏と孫呉から支援を受け、代理戦争を繰り広げていたのです。
ちょうど、幕末の薩長と幕府が英仏から、冷戦時代の自民党と社会党が米ソからそれぞれ支援を受けていたように。

箸墓や纏向は、それより後の3世紀・第4四半期の勝者・台与から倭王権を「禅譲」された伊都国王・神武&崇神父子が九州から東征して築いた奥津城(お目当ては鉄の代価としての水銀鉱床@紀伊半島)です。
166日本@名無史さん
2021/10/17(日) 20:25:26.48
そもそも(ウソですが)皇祖を女神としているのに男系と言う矛盾に気が付きませんか?
万世一系は日本書紀のウソの一つです。

畿内の墓の大きさや遺跡の年代を論じても意味がないのがわかりませんか。
それは物部氏の祖先や豪族のものです。
あなたがた言ってる布留式とかの語源、布留って何か知ってますか?
『布留御魂』とは物部氏の遠祖・饒速日命が持っていた神宝、天璽十種瑞宝の事ですよ。
そんだけ物部に囲まれてまだ邪馬台国と言ってるのですか。
まぁ妄想は自由なので好きにしてください。
邪馬台国が阿波とか言ってる人もいるし。

>はァ? 前スレで私はこう書いてるだろ。
あなただけに言ってるんじゃないので流してください。ごめんなさい。

>意味無し頓珍漢なだけ。魏への朝貢自体は、隠されることなく記載されている。
高天原から魏へ朝貢は無理でしょうに。神話と歴史を切りたかったんですよ。わかりませんか。
167日本@名無史さん
2021/10/17(日) 20:25:49.57
>>149
>なら同型の土器が出た箸墓は、被葬者埋葬時期が布留0新相でいいね?

また妄想っすか?
箸墓は布留0古相で宮山都月共存で円筒なし
桜井茶臼山は宮山なし円筒あり
時代はどんどん変わっている
要するに、あなたのコピーしてきた本の筆者は、細かい編年のできない人で、布留0と布留1ひっくるめた大きい枠で
「ほぼ同じ土器形式」と言っているだけ
「同型の土器」なんて言ってない

ばかですか?
168日本@名無史さん
2021/10/17(日) 20:28:59.62
>>142
>40年古いなんて根拠はない。

たった20年だっていう根拠もないでしょ?
169日本@名無史さん
2021/10/17(日) 20:30:11.19
中華皇帝に冊封され、金印を下賜された周辺蛮夷の国で、文字使用の痕跡のない王都などと言うのはありえんよ。
よって畿内説は却下。阿波は論外w
170日本@名無史さん
2021/10/17(日) 20:31:04.97
まぁ年代、年代、墓の大きさ、大きさとか言ってる人が
いきなり「国名」や「為政者の名前」まで突きつけられて
受け入れたくないのはわからなくもないのですが。
これが史実ってやつですよ。
171日本@名無史さん
2021/10/17(日) 20:31:41.45
>>139
>ほとんどの学者が布留1式は4世紀前半だが。

それ、死んじゃったおじいさんか布留1古段階を布留0新相だと言ってる人だから
172日本@名無史さん
2021/10/17(日) 20:34:28.50
>>169
少なくとも倭王権内部に公孫氏や魏帝からの勅書を読み、風雲急を告げる三国時代の政治状況を分析し、誰に朝貢すれば一番国益に叶うか判断できる文官の養成所(大学)が必要。
纏向にその痕跡皆無。つまり飛鳥時代まで首都は北部九州にあった。九州王朝説が正解!
>>96
173日本@名無史さん
2021/10/17(日) 20:36:37.77
>>106
>日本書紀では、【神功紀に限って】中国の年号を含む記事を引用しています。
そして、神功皇后の活躍と卑弥呼の時代が一致するように歴代天皇の年齢や在位期間を大幅に伸ばしています。
木花之佐久夜毘売の伝承に矛盾してまで調整しています。これは、神功皇后を卑弥呼だと思わせたいからです。
匂わせてなんとなくそうだと思わせるのは日本書紀のやり方で、中国の年号だけ記載したと思います。
卑弥呼=神功皇后説をとなえる人は多いのですが、私は実の卑弥呼の隠匿だと考えます。
魏志に記されてしまった卑弥呼=皇祖神アマテラスを隠匿するためです。
調整しなければアマテラス世代と卑弥呼の時代はほぼ一致してしまうのです。

成程。
174日本@名無史さん
2021/10/17(日) 20:39:38.56
>>91 卑弥呼も神功皇后も筑紫女王だったからこそ、記紀は両者を混同させられたわけだね!
175日本@名無史さん
2021/10/17(日) 20:42:46.68
>>111
>>西日本の広範に渡って交流の痕跡があるのだから共立に参加した国の1つが大和にあってもおかしくないと思います
そして、その中で最大の墳丘墓を作っているのが大和なんだから、
そこに最大勢力=王がいたと考えるのが、一番自然で妥当ですよね

「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國(≒女王國)は九州」や、
「大和は九州倭國の東征毛人五十五國の別種の倭種の大倭職の旧小国」ですから、
バツです。
176日本@名無史さん
2021/10/17(日) 20:43:07.96
>>96
実年代=古事記の没年補正(卑弥呼=魏志倭人伝、※神功=日本書紀)+漢民族(○南朝×北朝)皇帝への朝貢記録
◆奴国@博多【後漢の冊封を受けて外交デビュー→大陸や半島との貿易本格化】
漢委奴国王(情報なし)…57年(光武帝、金印下賜=鉄輸入開始!)
帥升(情報なし)…107年(安帝に謁見。生口160人を献上=鉄輸入急増→タウポ山大噴火→大飢饉(黄巾の乱)発生→倭国大乱へ)
◆邪馬台国@筑紫【狗奴国と戦争→水銀朱と引き換えに帯方郡の鉄の独占輸入権=親魏倭王】
卑弥呼(〜247年)…238年/240年/243年/245年
台与(235年〜?)…247年/266年
◆伊都国@博多(崇神朝)…【国内統一→半島派兵(新羅攻撃)開始→任那日本府設置(鉄資源独自確保)】
10祟神(〜318年)…四道将軍派遣290年頃。
11垂仁(情報なし)…330年頃没。伊勢神宮創建(紀伊半島の水銀鉱床独占)。
12景行(情報なし)…343年頃没。日本武尊の東征335年頃。 大臣・武内宿禰
13成務(〜355年)…国造/県主設置(国内統一完成)  
14仲哀(〜362年)…新羅征伐(関門海峡開削=北朝/高句麗艦隊の瀬戸内海侵入リスク)に反対、神罰で崩御(暗殺)
神功(※〜389年)…「旨」(「泰和4年」369年銘石上神宮七支刀→372年百済・近肖古王より贈呈)
◆邪馬台国@筑紫(応神朝)…【半島派兵(高句麗戦争&百済支援)本格化→大将軍位を求めて南朝(東晋/宋/斉/梁)に朝貢】
15応神(〜394年)…「禰(でい)」
16仁徳(〜427年)…「讃」(413年/421年/425年)
17履中(〜432年)…「倭国王」(430年)┐
18反正(〜437年)…「珍」(438年)…「弟、珍立つ!」
19允恭(〜454年)…「済」(443年/451年)
20安康(情報なし)…「興」(460年/462年)
21雄略(〜489年)…「武」@(477年/478年)「獲加多支鹵大王」…辛亥(471)年銘稲荷山鉄剣+江田船山鉄剣
22清寧(情報なし)/23顕宗(情報なし)/24仁賢(情報なし)
25武烈(情報なし)…「武」A(502年)
◆狗奴国@阿蘇(継体朝)…【倭王磐井暗殺→阿毎多利思比孤・天智太宰府→欽明皇子を本州の飛鳥へ分家→現在の天皇家へ】
26継体(〜527年)…「男弟王」癸未(503)年銘人物画像鏡(隅田八幡宮)
177日本@名無史さん
2021/10/17(日) 20:46:08.96
>>112
>畿内説を前提にしていない論文を書く学者はここ2,30年は一人もいないと思うけど?

そりゃ、「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言を唱えた、
オレオレ詐欺師学者ばかりであったからだろ?。
178日本@名無史さん
2021/10/17(日) 20:50:52.88
>>113
>・・・はい、箸墓は4世紀前後、卑弥呼の墓ではありません。
アホの>>君脂肪www

成程。
179日本@名無史さん
2021/10/17(日) 20:54:03.18
>>116
>神武の時代が卑弥呼の時代

違うな。
二中歴に拠って、神武の即位元年は紀元前91年頃。
卑弥呼は3世紀。
180日本@名無史さん
2021/10/17(日) 20:59:05.39
>>119
>>卑弥呼や台与タンを輩出した宗家は、その後も続いたんでしょうよ。
そこら辺は、日本側史料を熟読して推定するしかないね。

>続いてるよ。
その宗家の王を何というか。それが「大物主」だ。・・・

違うな。
松野氏姫氏系図に拠って、卑弥呼や壹與は、呉王夫差の遺民の後裔である。
181日本@名無史さん
2021/10/17(日) 21:00:43.16
>>80
奴国王帥升の孫娘・卑弥呼が共立された理由は、帥升の皇子(倭王)たちが全員倭国大乱で戦死してしまい、止むを得ず長男の娘・卑弥呼を共立したということだと思われる。
>>176
また、魏(卑弥呼)晋(台与)南朝(倭の五王)帝に冊封されるということは、中国と事を構えることはないということを意味し、北部九州に倭王がいても問題なかったことを意味し、朝貢であったのだろう。
特に倭王武は大将軍位を求めて上表分を送っている。これらのことから、飛鳥時代までの「畿内」は北部九州王朝の奥津城と考えて良い。
182コテ略
2021/10/17(日) 21:03:56.09
>>166 > 畿内の墓の大きさや遺跡の年代を論じても意味がないのがわかりませんか//
  それぢゃあ、何も理解できんのだよ、って事すら分からんのだな。

> まぁ妄想は自由なので好きにしてください//
  オ〆の妄想、てか、聞きかじった単語の羅列はツマランだけなんだよ。

> あなただけに言ってるんじゃないの//
  オ〆はいったい誰と戦ってるのかね了ホウ。
183コテ略
2021/10/17(日) 21:06:24.47
>>181 > 奴国王帥升の//
  帥升は奴国王じゃないんだよ。
むろん、伊都国王とか面土国王とかでもないんだよ。
184日本@名無史さん
2021/10/17(日) 21:08:10.02
>>181
安東大将軍は皇帝陛下の側に控えていなければなw
当時の日本列島だと九州・四国・本州どの島だろう?
185日本@名無史さん
2021/10/17(日) 21:09:42.56
>>182
邪馬台国を知りたいのではないですか?
邪馬台国でないとわかっている所を熱心に調べても・・・。

「了ホウ」これは負け惜しみにしか聞こえない。
186日本@名無史さん
2021/10/17(日) 21:10:26.95
>>121
>纏向遺跡の年代は、纏向大溝から出土した土器の一括資料から
2世紀末頃から(180〜)という年代が出されている

「纏向大溝」とは、どこのものか?は知らんし、
土器も第五様式だというのかも知れないが、
まさか石塚と同じ庄内1だ、というんではないだろうな。
庄内1の石塚なら、3世紀末だ。
187コテ略
2021/10/17(日) 21:14:08.03
>>101
  円墳が前方後円墳に直されたのであり、短里も長里も存在しない。
メートルと同じ理屈で作られた距離単位の里は、定義としてはキッチリ500mだ。
188日本@名無史さん
2021/10/17(日) 21:14:46.76
>>184
倭王武の上表文の内容
倭王武「祖先同様、わたくしも皇帝陛下のために日夜頑張っております」
倭王武「わたくしは皇帝陛下に仕えたいのに、高句麗が邪魔をするのです」
倭王武「百済を救うために、御助けをお与えください」

皇帝陛下のご命令とあらば。すぐさま半島に駆け付けられる(出陣できる)島と言えば??
189コテ略
2021/10/17(日) 21:16:01.47
>>185 > 「了ホウ」これは負け惜しみにしか聞こえない//
  オ〆の膿味噌の直截的な性能評価書だよ。
190日本@名無史さん
2021/10/17(日) 21:18:26.86
>>147 まぁ、そうですね
191日本@名無史さん
2021/10/17(日) 21:18:35.28
>>123
>>従って箸墓古墳は初期の大型古墳のグループに中では、
他の古墳(桜井茶臼山、葛本弁天塚)とは大きな時期差は認められない。

>小さな時期差があって、それが三世紀半ば後半と三世紀末なだけなんだが
なんか妄想してるのかい?

箸墓自体が、(庄内のホケノよりも新しい)布留1であり、
4世紀になるから、バツね。
192コテ略
2021/10/17(日) 21:19:29.18
>>188 > すぐさま半島に駆け付けられる(出陣できる)島と言えば??//
  九州島だが、3世紀前半以降、大和の卑弥呼を共立してたんだよ。
193日本@名無史さん
2021/10/17(日) 21:19:32.16
結論としては、
日本書紀の編者は卑弥呼を完全に認知しており、またこれを秘匿したかった。
神功皇后にみせかけようとしたのは卑弥呼=アマテラスを隠匿するため。
奈良周辺は物部氏の一族が「日本国」を建国していたが
神武天皇の東遷によって邪馬台(やまと)国と日本国が合併した。
唐書の「日本は乃ち小国。倭の并す所となる。故に其の号を冒せり。」です。
神武天皇が九州を出発したので【女王国は九州】です。
魏志とにらめっこしても永遠にわかりません。
畿内の遺跡を調べても意味はありません。そこは出雲から飛来した物部一族のものです。
よければ畿内説で「日本は乃ち小国。倭の并す所となる。故に其の号を冒せり。」を説明して下さい。
絶対無理ですから。 ではごきげんよう。
194日本@名無史さん
2021/10/17(日) 21:23:12.60
>>126
>>はい、箸墓は4世紀前後、卑弥呼の墓ではありません。

>という根拠が書けないんだから、君が死亡したんだよ

その「否定する根拠を書けなかった」んだから、
君(おそらく東大理系博士号自称男)が死亡したんだよ。
195コテ略
2021/10/17(日) 21:23:17.54
>>191
> 箸墓自体が、(庄内のホケノよりも新しい)布留1であり、4世紀になるから、バツね//
  布留1が箸墓の要諦部から出土したのが事実なら、土器型式編年の見直しが必要だよ。
まぁ、オ〆が出鱈目云ってるのか、攪乱遺物に騙されてるかの何れかなんだろうから、
それには及ばんのだろうがね。
196日本@名無史さん
2021/10/17(日) 21:24:22.19
>>181 なるほど!倭王権が北部九州にあっても問題ないための朝貢かっ!
197日本@名無史さん
2021/10/17(日) 21:29:17.32
>>128の訂正
>ちょっとまだるっこしいけれど、例えば
古事記では 倭建命 日本書紀では日本武尊 と書かれていて
日本書紀には「日本、此云耶麻騰。下皆效此」日本、これ耶麻騰(ヤマト)と云う。以後皆此れに效う
記紀に倭国が出てこないというのはウソ

これまで、古事記に「倭」の文字がある事は、私は否定して来なかったし、
問題の日本書紀の倭國の記載は、孝徳の頃の「どこか辺鄙な地の呼称」として、
2〜3個出ていた、と言っていただけだよ。
勿論、書紀の「日本、此云耶麻騰」の「耶麻騰」は、7世紀後半頃の話の説明であり、
3世紀の「倭國」記載の説明には全くなっていない。

>とあるので、記紀では古事記が倭国、日本書紀が日本国と書いて、
どちらもヤマト国と読む同じ国の歴史を書いていることが分かる

違うな。書紀が、
7世紀中頃に自分らの「元、大倭職」の「ヤマト」の地に対して、
「大和」という華字に変更した、という事が判る。
198コテ略
2021/10/17(日) 21:32:05.10
>>193
> 「日本は乃ち小国。倭の并す所となる。故に其の号を冒せり。」を説明して下さい//
  大和も九州も、邪馬台国以前は小国だったが、
倭王とされた邪馬台国は九州を合併して、後に日本を称する事となった、くらいの意味だ。

> 絶対無理ですから//
  そりゃ、オ〆の膿味噌程度では、何もかもが無理だ。

> ではごきげんよう//
  九州王朝国なんてヨタ話をマに受けてる様なオツムなんだからさ、
最初から来るには及ばんかったね。
ああいうの読んで、感動しちゃったのかね。一種の中二病だな。
199日本@名無史さん
2021/10/17(日) 21:33:13.07
>>94
>>96
>〔記紀の歴史テーマパーク「大倭」→「大和」聖徳太子(以和為貴)へ〕

もしかして大倭→大和とワの字を変えたのは、聖徳太子「(大)『和』を以て貴しとなす」なの??
200日本@名無史さん
2021/10/17(日) 21:36:36.27
>>130
>それ古墳1期ってことだろ?相当に時間幅があるんだけど
箸墓が3世紀半ばでまったく問題なし
それじゃイケナいという理由、キミ人事も言えないんだから
もう諦めなよ

箸墓は、卑弥呼の冢≠前方後円墳である事や、
庄内1の石塚や箸墓が、筑紫の3世紀後半半ば過ぎの那珂八幡の進化型である事や、
AMS法のプラズマ化が50〜100年位古い年次が計測されてしまう事や、
年輪年代法が絶対的な根拠にならない事などで、
「3世紀半ば」説はオレオレ詐欺になり、バツ。
201ですます ◆/91kCCQXBo
2021/10/17(日) 21:42:04.85
>>193
ご存知だと思いますが、当時の唐でも諸説あったから列記されている説の1つであり、唐の側でも確信を持てていない情報を記載したものです
壬申の乱を表しているのでは無いかという説があるので、それでは説明がつかないと考える理由を示した方が良いと思います

あと、神武東征がもし仮に描写のとおりにあったとしたらもっと昔のイベントだと思っています
202日本@名無史さん
2021/10/17(日) 21:42:44.00
狂ったトンデモ科学を捏造しないと保てない九州説はもう死に体
203日本@名無史さん
2021/10/17(日) 21:45:44.11
>>147 まぁ、そうですね
204日本@名無史さん
2021/10/17(日) 21:47:17.52
>>133
>7世紀中頃に自分らの「元、大倭職」の「ヤマト」の地に対して、
「大和」という華字に変更した、という事が判る。

>いや、それ無理だから 大和って言い出したの奈良時代だし

おや?、情報提供、有難う。
私は、書紀の孝徳紀頃に「地方に倭國がある」という記載があるから、
大和がその時に「倭國ではなく独立的な大和という呼称を持ったんだろう」と、
推定していただけだ。
205日本@名無史さん
2021/10/17(日) 21:56:00.12
>>134
>>根拠は?

>布留0と布留1をそっくり含むから

箸墓に対する「布留0」の新設自体が詐術的であるから、バツであるし、
庄内3のホケノは、3世紀末の庄内1の石塚よりも後になり、
布留1の箸墓は、そのホケノの後になるから、4世紀にしかならず、
3世紀半ば説は全くバツ。
206日本@名無史さん
2021/10/17(日) 21:59:05.12
>>136
東大理系博士号自称男?のキミが簡単に撃沈されちゃうのは
実年代を全く言ってない学者の文章を引用して?、
それで3世紀半ばだとか言ってることだよ
論理が狂ってるの。自分で分からない?
207日本@名無史さん
2021/10/17(日) 22:02:21.33
>>137
>箸墓古墳 橿考研が24年に実施した3次元航空レーザー計測で、
後円部の最上段に直径約39メートル、高さ約4・7メートルの特殊な円丘があることが分かっている。
これって円墳部がすでに完成してて、被葬者を埋葬するときにできた特殊な円丘だろうね。
つまり完成からかなり時間が経って特殊な円丘が出来たという事だろう。

ふーん、成程。
208日本@名無史さん
2021/10/17(日) 22:11:01.79
>>138
>倭でヤマトと読む事もあるみたいだしそれは良いんだよ

「倭」は「ヤマト」とは、音韻が全く違うから、普通は読めないよ。

>日本人はワと言ってたのか?

半島から九州付近の住民や、女王國東渡海の倭種は「倭をワと読んだ」筈であり、
地方の市を監督する「大倭」職にも、当初は「ヤマト」とは読まなかった筈だよ
209日本@名無史さん
2021/10/17(日) 22:16:10.64
>>141
う〜ん、どうかなぁ…こんな誇大妄想考え付かないよ、
邪馬台なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、
君はオレオレ詐欺師であるし、
普通、大和(箸墓)説は、「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅は九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツだと思うんだけどねぇ…
210日本@名無史さん
2021/10/17(日) 22:52:28.24
>>205
>箸墓に対する「布留0」の新設自体が詐術的であるから、

新設とか意味不明なのだが
「布留0」は1986年に提唱されている
211日本@名無史さん
2021/10/17(日) 22:55:07.89
>>206
>東大理系博士号自称男?のキミが簡単に撃沈されちゃうのは
>実年代を全く言ってない学者の文章を引用して?、
>それで3世紀半ばだとか言ってることだよ

畿内説のものは皆、実年代を言っている学者のせ雨を引用して
箸墓が3世紀半ばだと言っているんだが
212日本@名無史さん
2021/10/17(日) 23:05:00.50
こうやの宮ってどう見ても昭和に作ったお人形さん入れてるあの小屋のことか
213日本@名無史さん
2021/10/17(日) 23:05:12.49
>>201
魏志しか読まない人達だと思って説明を省きました。
推論が入るのはお許しください。

日本の国号を復活させたのは天武天皇であったと思います。
しかし、壬申の乱があったので唐側は天武天皇の日本が天智の倭を倒し
合併したと思ったはずです。
旧唐書では日本が倭を合併したと書いてます。
しかし、これは対外的には王朝交代ではありませんので間違いです。
よって唐書では記事が変更されます。
(神武天皇の)倭が(饒速日命の)日本を合併したと。
列記とか諸説とはどう言う、、、?
日辺にあるをもってでしょうか?饒速日が眩しくて日本と名付けたのは説明済みですね。
雅かなざるをもって。これは天武天皇がそう思ったのでしょうね。
諸説と言うか全部正しい内容です。

【記事が変更されている】を理由に唐書の内容は壬申の乱ではありません。
214日本@名無史さん
2021/10/17(日) 23:25:41.80
ですから、女王国は九州なのです。少なくとも畿内ではありません。
そこは天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊がいらっしゃる場所なのです。
215日本@名無史さん
2021/10/17(日) 23:38:45.52
日本書紀は藤原氏の思惑で神話化されましたが
本来は歴史書なのです。
ちなみに神武天皇は大物主の娘を貰って王朝を継承しに来たのです。
東征ではありません。東遷です。首都を九州から奈良に変更したのです。
古代では母系が物をいいます。東征は崇神天皇ではないでしょうか。
記紀に騙されて男系男系言ってる人には分かりません。
216日本@名無史さん
2021/10/18(月) 00:13:54.79
>>214
ですからって、なんだからだよ?
九州説は言うことに脈絡がないな
217日本@名無史さん
2021/10/18(月) 00:35:33.85
その程度の事しか言えないのですか?
上から読み直してください。
それでもわかないなら理解力に問題がありますね。
218日本@名無史さん
2021/10/18(月) 01:27:54.66
記紀編纂者すら
九州での出来事、話だと思ってるw

991 日本@名無史さん 2021/09/10(金) 18:50:49.17
記紀編纂した奴らは
三国志呼んで「ん? 邪馬台国? 卑弥呼? 女王国?」と思って
神功皇后のところでチラ載せしてる程度にとどめてる

が、明らかに、わかってないことは事実だな

「邪馬台国はヤマト王権のこととして、九州の方の話? 女の王?」
で無理やりピースを埋めてる

手元にある記録からは
欠史八代の実績はともかく、系譜からも読み取れなかった

少なくとも畿内で起こった話ではない
と解釈してる
219日本@名無史さん
2021/10/18(月) 01:32:10.20
>>167
>箸墓は布留0古相

それは建造開始時期の時代。
今は被葬者埋葬時期の話。
ごまかすな、バカ者。
220日本@名無史さん
2021/10/18(月) 01:37:36.57
箸墓の建造開始時期は布留0古相。
そこから10年近くで完成(5年なんてごまかすな)。
そして被葬者埋葬時期はさらに遅れる、円墳の上にある特殊な円丘で分る。
その被葬者埋葬時期が葛本弁天塚や椿井大塚山と同時期。
若干古くみても270〜290年頃。

つまり箸墓古墳は卑弥呼の墓でも何でもない。
221日本@名無史さん
2021/10/18(月) 01:44:17.97
228日本@名無史さん2021/09/18(土) 23:10:28.11
>因詣臺 獻上男女生口三十人

各国から1人づつ生口を出した

計30国! およよ、これは合ってるねw

となれば
>奉汝所獻 男生口四人 女生口六人

計10国?

狗邪韓国、對海国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不彌国、投馬国、邪馬壹国

9国、数が合わない(笑)

そこで返礼品チェック
>今以絳地交龍錦五匹 絳地縐粟罽十張 蒨絳五十匹 紺青五十匹 
>答汝所獻貢直 又特賜汝紺地句文錦三匹 細班華罽五張 
>白絹五十匹 金八兩 五尺刀二口 銅鏡百枚 真珠チ丹各五十斤

だいたい5の倍数だなって(目立つのは50の数字)

>其四年 倭王復遺使大夫伊聲耆 掖邪狗等八人

この年は8人も行ってる
俺もワイもボクチンも印綬もらいたくて行った模様w
前回の難升米と牛利を含めれば、合計10人になるね
222ですます ◆/91kCCQXBo
2021/10/18(月) 01:45:37.08
>>213
推論を入れないと説明できないと言うことはまだ断定するのは難しいですよね

旧唐書の倭国の条は魏志のころからの知識を引き継いでいます
一方で、その記載内容と当時の日本との関係を唐側が正確には理解できていなかったため、日本国の条もあるのだと思われます
旧唐書では、「或曰」や「或云」で繋げて以下の3つの仮説を列挙していると認識していますが、ズレていますか?
1、東(日辺)にあるから日本に改名した
2、倭という名前が雅じゃないから日本に改名した
3、もともと小国だった日本が倭国を併合した
つまり3は、当時の唐の人にとっても仮説の1つに過ぎない曖昧な情報であり、どれが正しいか分からないから3つ列記したものと思われます
そのような1つの仮説だけを取り上げて断定する論理展開には無理がありませんか?
新唐書でも順番が変わっているけど似たような記述で、特に3は怪しい情報として書かれているように見えます
併合や号を冒すの主語は日本では?
223日本@名無史さん
2021/10/18(月) 01:45:47.28
229日本@名無史さん2021/09/18(土) 23:11:02.00>>236
10国目は狗奴国で
使者行きたかったが第二次倭国大乱となって

実は卑弥呼時代は10国程度で
壹與時代で、ようやく30国になったとかw

>因詣臺 獻上男女生口三十人

少なくとも、壹與のときの女王国連合は30国だったとわかるね

>『晋書』武帝紀 太康10年(289年)条
>東夷絶遠三十餘國 西南二十餘國來獻

これでも30国!
289年でも、まだ30国だったと

答え、こんな感じですw
224日本@名無史さん
2021/10/18(月) 01:46:10.26
>>193
>日本書紀の編者は卑弥呼を完全に認知しており、またこれを秘匿したかった。

そこは賛成。

>神功皇后にみせかけようとしたのは卑弥呼=アマテラスを隠匿するため。

全然違う、用明、雄略、応神、垂仁の各天皇の20人後、30人後の平均在位からさかのぼった神武天皇の時代が卑弥呼の時代。
卑弥呼(Bei mei hu)とは比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi mai hou〉、つまりヒメ后、
ヒメ(踏鞴五十鈴)后。
一億歩譲って卑弥呼がアマテラスだとしても、高天原は大和葛城にしかないので畿内説になるが良いのかな?
225日本@名無史さん
2021/10/18(月) 01:59:19.23
>>219
>それは建造開始時期の時代。

なに夢みてんの
完成が布留0古相って報告書出てんのは皆が知ってるから、そういう詐欺する九州説が落ちぶれた
226日本@名無史さん
2021/10/18(月) 02:05:39.42
>>220
>その被葬者埋葬時期が葛本弁天塚や椿井大塚山と同時期。

そんな妄想行っても誰も信じないんだよ
227日本@名無史さん
2021/10/18(月) 02:12:22.93
>>168
>>40年古いなんて根拠はない。

>たった20年だっていう根拠もないでしょ?

だいたい同型の土器の一画期は25年くらいだろう。
都合よく40年などなるわけがない。

@古墳建造時期 A古墳完成時期 B被葬者埋葬時期

箸墓の場合、円墳部の特殊ね円丘からこういう状況だったことが分かる。
というかほとんどの古墳がそうなんだろうが。

@の古墳建造時期の布留0古相を240〜260年だとしても、
Bの被葬者埋葬時期まで時間差がある。

その被葬者埋葬時期が葛本弁天塚と同時期、布留0新相であったなら箸墓は当然卑弥呼の墓ではない。

アホの>>1
アホのぉ>>1 wwwwww
228日本@名無史さん
2021/10/18(月) 02:14:34.96
>>225
>完成が布留0古相って報告書出てんのは皆が知ってるから

建造開始時期だごまかすなボケ。
一年365日朝昼晩パソコンの前に居ついて頭いかれてるのかおまえは。
229日本@名無史さん
2021/10/18(月) 02:16:03.00
>>220
布留1の頃には箸墓は木がぼうぼうだったことが調査でわかってんの
あきらめろ
230日本@名無史さん
2021/10/18(月) 02:16:54.79
>>228
>完成が布留0古相って報告書

立ち入り調査で分かったのか?
適当な事言うなよ。
231日本@名無史さん
2021/10/18(月) 02:25:19.09
>>227
>だいたい同型の土器の一画期は25年くらいだろう。

同型の土器じゃないんだよ
「ほぼ同じ土器形式の中」って言ってるだけで、同一じゃないしね
明らかに布留0の古相も新相も、布留1までひっくるめた荒っぽい括りで言ってるから
時間幅は何世代もあるんだよ
232日本@名無史さん
2021/10/18(月) 02:26:39.06
>>230
報告書が出てるんだからインチキ言っても無駄
233日本@名無史さん
2021/10/18(月) 02:32:13.01
>>231
>時間幅は何世代もあるんだよ

何世代もあるかよ、せいぜい10年の差だ。
完成時が布留0古相の古墳で、
近畿系大型二重口縁壺が出た古墳がない以上、
箸墓被葬者埋葬時期は布留0古相ではない。

つまり箸墓は卑弥呼墓ではない。
234日本@名無史さん
2021/10/18(月) 02:33:19.30
>>232
立ち入り調査しかできてないので無駄。
近畿系大型二重口縁壺は確認できたのであろう。
235日本@名無史さん
2021/10/18(月) 02:37:23.07
あと箸墓で確認できた近畿系大型二重口縁壺は「茶臼山型壺」
つまり桜井茶臼山と同時期。

はい>>1君の負け〜〜〜〜〜www
236日本@名無史さん
2021/10/18(月) 03:18:35.30
>>208
読めないよじゃなくて倭建命はなんて読むんだ?
余計な事に食いついておまえちゃんと答える気ないだろ
日本人が日本の事をワと言ってた記録はあるのか?
237日本@名無史さん
2021/10/18(月) 03:20:46.33
>>233
>何世代もあるかよ、せいぜい10年の差だ。

それ、あんたの空想で、学者は誰も言ってないから
箸墓は宮山・都月併存で円筒埴輪なしの時代。
そこから都月のみの時代、円筒埴輪のみの時代まで大きく幅があるの
238日本@名無史さん
2021/10/18(月) 03:22:01.46
>>235
ばかでしょ
「茶臼山型壺」の時代が長い間続いていただけだ
239日本@名無史さん
2021/10/18(月) 05:01:33.41
>>237-238

眠れないのか可哀そうにww
アホ丸出し。

https://sakitama-muse.spec.ed.jp/cabinets/cabinet_files/download/284/75bb9cdf909637604e35433d71bf446b?frame_id=311
二重口縁壺にはa手法とb手法があり、a手法は箸墓、桜井茶臼山、椿井大塚山、b手法は桜井茶臼山にもみられる。

つまり箸墓と椿井大塚山、桜井茶臼山は同型で同時代。

諦めろ、糞野郎www
240日本@名無史さん
2021/10/18(月) 05:05:08.96
>>237
誰も言ってない空想はお前だボケ。
もうこんな糞スレやめてしまえ、ボケ。

負け犬みじめwwwww
241日本@名無史さん
2021/10/18(月) 05:07:45.17
>>156
>>いくら3世紀でも墓壙くらい残るよね

>奴婢に墓なんて作らない

オレオレ詐欺師やヤクザ暴力団の殺人鬼や戦争狂や嘘つき騙しの大和説者らなら、
墓なんか作って上げない事があるかもしれない。
242日本@名無史さん
2021/10/18(月) 05:17:35.22
>>162
>なぜこのような手の込んだ捏造がなされたのであろうか。
彼らは邪馬台国がヤマトであることが分かっていた。
しかし、邪馬台国がヤマトであれば、大和朝廷及び天皇が朝貢してたという屈辱的史実を認めねばならなくなる。
だから朝貢してたのは九州だという説を創作したのである。
そのために金印、鉄鏡、玉壁を捏造した。

まあ、こんな極端な妄想が出来る大和説人種は、オレオレ詐欺を通り越して、
一種の精神異常の・・・・だろうな。
243日本@名無史さん
2021/10/18(月) 05:38:09.18
>>202
オレオレ詐欺や、狂ったトンデモ科学を捏造しないと保てない大和説は、
もう死に体
244日本@名無史さん
2021/10/18(月) 05:45:32.99
>>239
>二重口縁壺にはa手法とb手法があり、a手法は箸墓、桜井茶臼山、椿井大塚山、b手法は桜井茶臼山にもみられる。
>つまり箸墓と椿井大塚山、桜井茶臼山は同型で同時代。

知能が低く生まれつくって、こんなに悲惨な事なんだね
a手法は長い間続き、b手法はそんなに古くから無かったって言ってるんでしょ?
どこにも「同型で同時代」なんて書いてないよ
妄想で自滅してるね
同じ論文に「箸墓古墳出土の庄内式の二重口縁壺」って記述もあるよ

自分の知能が低いことを恥じて生きてね
245日本@名無史さん
2021/10/18(月) 05:50:50.93
>>225
なに夢みてんの
布留0ってオレオレ詐欺の報告書を出してんのは皆が知ってるから、
そういう詐欺する大和説が落ちぶれた
246日本@名無史さん
2021/10/18(月) 05:58:16.38
>>232
>報告書が出てるんだからインチキ言っても無駄

「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國(≒女王國)は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定に立脚したオレオレ詐欺の大和説学者らの報告書が、
いくら出たって、嘘をついた事がバレているんだから、
インチキ言っても無駄
247日本@名無史さん
2021/10/18(月) 06:02:56.44
>>237
>それ、あんたの空想で、学者は誰も言ってないから
箸墓は宮山・都月併存で円筒埴輪なしの時代。
そこから都月のみの時代、円筒埴輪のみの時代まで大きく幅があるの

「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國(≒女王國)は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定に立脚したオレオレ詐欺の大和説学者らが、
いくら言ったって、嘘をついた事がバレているんだから、
インチキ言っても無駄
248日本@名無史さん
2021/10/18(月) 06:12:15.01
日本のみならず、世界中みわたしても、都市遺跡と呼ばれるのは都市相応の住居跡が見つかっている。
纏向は都市遺跡と主張する畿内説は、狂っている。
また、纏向や箸墓が三世紀でも構わない。邪馬台国と関係ないから。
畿内説が関西の歴史研究するのは勝手だがね。
249日本@名無史さん
2021/10/18(月) 06:42:50.18
>>248
>纏向は都市遺跡と主張する畿内説は、狂っている。

理由は?

>邪馬台国と関係ないから。

理由は?
250日本@名無史さん
2021/10/18(月) 06:44:28.12
畿内説の学者はダメだ

奈良近辺の古代遺跡を邪馬台国一色にしようとする。
各県、各市町村ごとの古代郷土史を歪めようとしているように思える。
いわんや、三重、滋賀、兵庫まで広げて
各県、各市町村の古代郷土史まで変えようとするのはイカン。
251日本@名無史さん
2021/10/18(月) 06:48:01.20
>>249
南は南
252日本@名無史さん
2021/10/18(月) 06:55:17.27
>>249
>>纏向は都市遺跡と主張する畿内説は、狂っている。

>理由は


住居跡が数軒では都市遺跡の定義に当てはまらない。
なんなら、君が世界各国の都市遺跡と呼ばれる遺跡で住居跡が数軒の遺跡を、提示したら如何か
253日本@名無史さん
2021/10/18(月) 06:59:10.90
>>249
奈良大和の纒向遺跡の東は、笠置山地や布引山地など、山ばかり。
纒向遺跡は「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」にあきらかに矛盾している。   
もし女王国が奈良大和であれば、「女王國 東 越山 復 渡海千餘里復有國皆倭種」 である。   

よって、テンプレの
>倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
>それは桜井市纒向以外にありえない。

は、虚偽である。   @阿波
254日本@名無史さん
2021/10/18(月) 07:07:11.55
>>242
>>しかし、邪馬台国がヤマトであれば、大和朝廷及び天皇が朝貢してたという屈辱的史実を認めねばならなくなる。
>>だから朝貢してたのは九州だという説を創作したのである。
>>そのために金印、鉄鏡、玉壁を捏造した。

>まあ、こんな極端な妄想が出来る大和説人種は、オレオレ詐欺を通り越して、
>一種の精神異常の・・・・だろうな。

その通りだな、 持って回って九州だという愚説を創作・捏造しなくとも、
そもそも中国の史書は、最初から末盧国→東南→ちょっと東→南南と書いているのだ。
畿内大和説は、ひとり相撲同好会。
255日本@名無史さん
2021/10/18(月) 07:11:17.04
>>84 う〜ん、魏使の方向書には「作大冢 長二百余歩」と書いてあったのを、「大作冢 径百歩」と写し間違えたんじゃないのかなぁ…
>>86 殉葬奴婢百人はどこかの南方民族との混同じゃないのかなぁ…邪馬台=大和(箸墓)で良いと思うんだけどなぁ…
256日本@名無史さん
2021/10/18(月) 07:13:28.01
>>249
ようわからんが、巻向って都市遺跡と認定されてるの?畿内説の一部か全部か知らんが騒いでいるだけじゃねーの
257日本@名無史さん
2021/10/18(月) 07:49:50.19
大和盆地は北部九州王朝の奥津城
大型建物ABCFは、墓参りに来た大王の宿泊施設だよ
258日本@名無史さん
2021/10/18(月) 07:53:18.75
はぁ、畿内説同好会ww
259日本@名無史さん
2021/10/18(月) 08:13:57.29
>>257
なるほど
北部九州の土器が少なく、本州島各地(東海北陸山陰山陽)の搬入土器が出るのも、北部九州から墓参りに来た大王接待用の、各地の名産献上品(宮内庁御用達)と言うことで納得だな
特に大量の桃の種は、当時の最高級スィーツだ
260日本@名無史さん
2021/10/18(月) 08:18:25.67
>>255
>う〜ん、魏使の方向書には「作大冢 長二百余歩」と書いてあったのを、「大作冢 径百歩」と写し間違えたんじゃないのかなぁ…
>殉葬奴婢百人はどこかの南方民族との混同じゃないのかなぁ…邪馬台=大和(箸墓)で良いと思うんだけどなぁ…

文献考古の史料事実や史料実態からの帰納的高確率的な推論をするのが学問的なのであり、
それを「写し間違い」とか「混同」とか言って否定して、
自分の願望や妄想のような、確率が殆どない事を匂わせるのは、
そりゃ宗教狂や、オレオレ詐欺の犯罪者にしかならないよ。
261日本@名無史さん
2021/10/18(月) 08:25:26.08
>>257
>大和盆地は北部九州王朝の奥津城
大型建物ABCFは、墓参りに来た大王の宿泊施設だよ

違うな。
大和政権は、古事記の「欠史八代の中の4人に大倭の称号が入れられた」ように、
九州倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」に拠って征服された、
九州倭國の別種分家の「地方の市を監督する大倭職」の旧小国である。
262日本@名無史さん
2021/10/18(月) 08:26:32.43
>>261
室町時代の鎌倉公方みたいなもん?
263日本@名無史さん
2021/10/18(月) 09:02:34.62
>>222
(新)唐書の内容が壬申の乱でないはないとする説明をしただけです。
>仮説を列挙している
その仮説はどこから出てきたのですか?使者が言ったからじゃないのですか?
いろいろ言うから、訳が分からず全部書いとけって事じゃないですか?

>併合や号を冒すの主語は日本では?
これは病院に行くレベルです。

【「布留」「布留」とニギハヤヒ大王の異名を連呼しながら頑張って下さいw】

畿内は無理なのです。
少なくとも、「畿内説は卑弥呼が誰か」から完全に逃避している!
テンプレの負け惜しみはけっこうです。
264日本@名無史さん
2021/10/18(月) 09:04:12.47
新)唐書の内容が壬申の乱でないとする説明をしただけです。
訂正
265日本@名無史さん
2021/10/18(月) 09:07:18.92
>>250
その通り、古代奈良の山賊どもが三重まで鉱物を盗みに来やがった。何が邪馬台国だボケ
266日本@名無史さん
2021/10/18(月) 09:10:26.30
>>1
蒸し返すが、
桃の種が見つかった土坑はいくつあるのか
267日本@名無史さん
2021/10/18(月) 09:11:18.75
>>82
纏向遺跡大型建物は北部九州王朝が派遣した、本州毛人(女王国東渡海千里複有国皆倭種)五十五ヶ国総督・開拓使、つまり明治政府の北海道開拓使庁舎と同じ
https://suido-ishizue.jp/kindai/hokkaido/02.html
大和66州から9(九州)+4(四国)を引くと、53国≒本州島毛人55国でほぼ一致する
268日本@名無史さん
2021/10/18(月) 09:19:03.82
>>244
>a手法は長い間続き、b手法はそんなに古くから無かったって言ってるんでしょ?
>どこにも「同型で同時代」なんて書いてないよ

a手法の中に箸墓、椿井大塚山、桜井茶臼山があるわけなので、
これらは同時代だね。
なんでおまえが言うように、
箸墓だけ突出して40年も古いという事になるのかな、アホなのかな?

椿井大塚山、桜井茶臼山って崇神の時代だぜ。
まぁ箸墓被葬者もそうだろう、なぜならイカガノシコオだからね。
269日本@名無史さん
2021/10/18(月) 09:21:23.60
>>160 なるほど
270日本@名無史さん
2021/10/18(月) 09:23:30.70
>>242
大和朝廷及び天皇が朝貢してたという屈辱的史実を認めねばならなくなるから、
基点になる神武天皇の時代をBC660年などと大きくずらして、
最も屈辱的な倭国王帥升が誰なのかを隠したので、
神武以降の天皇もことごとく100歳超えるようになってしまった
のが日本古代史の最大の核心部分なのだが。

まだそんなことも分からないのか?
271日本@名無史さん
2021/10/18(月) 09:30:08.94
>>244
>箸墓古墳出土の庄内式の二重口縁壺

前方部最高地点ね。
後円部の被葬者埋葬時期のものではない。
272日本@名無史さん
2021/10/18(月) 09:33:19.72
>>181
朝貢自体は当時の三韓半島での存在感を高めるべく、北部九州に倭王権があるために必要不可欠だったんだろうが、
特に生口160人(帥升107年)や10人(卑弥呼239年)30人(台与248年)献上を隠したかったのだろうね。
273日本@名無史さん
2021/10/18(月) 09:33:20.65
女王国を求めながら卑弥呼の正体にせまると瓦解する奇妙な説
それが畿内説。死に体です。
274日本@名無史さん
2021/10/18(月) 09:44:20.99
>>252
>住居跡が数軒では

纒向遺跡が住居あと数軒だとかいう根拠は?
275日本@名無史さん
2021/10/18(月) 09:52:05.46
>>272
三韓征伐の神功皇后は筑紫に下り香椎宮を行宮として築き、そこから新羅を攻めたとあるが、実は通常の御所だったってこと?
276日本@名無史さん
2021/10/18(月) 09:55:37.66
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。当て嵌めると畿内説は成立しないので。

書き直せよw
277日本@名無史さん
2021/10/18(月) 10:16:23.94
>>266
>桃の種が見つかった土坑はいくつあるのか

確認できたのは2つ
測定されたのは1つ

まだ変な妄想してるの?
278日本@名無史さん
2021/10/18(月) 10:16:38.13
>>266
スレ主と関係ないけど、一つの土坑からと記憶してるよ。
279日本@名無史さん
2021/10/18(月) 10:19:32.08
>>277
妄想じゃ無い。
一つの土坑から一回の祭祀と言ってたね。
すると祭祀は2回しか行われていなで良いですね。
280日本@名無史さん
2021/10/18(月) 10:24:30.11
>>274
10数件数件との違いがあんの
都市ととして少なすぎ、
とにかく、世界中の王都の遺跡でこの程度の住居跡しかない遺跡名を、あげてみろ。生活道具も少ないと聞くし
281日本@名無史さん
2021/10/18(月) 10:25:11.08
「鍬の再利用」の木製仮面と桃の種と土器って…
仮に纏向遺跡が4世紀の王都だったとしても、あまりにもお粗末な出土品でないかえ?
しかも「記紀の伝承地」に一つも大王宮が出土しないなんて…北部九州王朝説が正しいんでないの?
282日本@名無史さん
2021/10/18(月) 10:26:19.16
>>276
同意、、
スレ主が名無し投稿ばかりしてちゃダメ
283日本@名無史さん
2021/10/18(月) 10:27:58.11
>>274
何軒見つかってるのかな?
284日本@名無史さん
2021/10/18(月) 10:30:14.43
>>186
>「纏向大溝」とは、どこのものか?は知らんし、

それも知らずに畿内説スレに出入りするなよww

>土器も第五様式だというのかも知れないが、

纏向1類はまさに第V様式だよ
第V様式土器の時代に纏向大溝の構築が始まって、その後庄内式、布留式土器が
「纏向を中心とする勢力」の間で広がっていくわけだ
285日本@名無史さん
2021/10/18(月) 10:31:57.31
>>91
>>150
みんな記紀の後付け地名である「大倭=大和=邪馬台」の印象操作(連想ゲーム)に騙されてるんだよ!
286日本@名無史さん
2021/10/18(月) 10:32:25.16
>>274
ドアホだな、何軒あるのかい
憶測はいいからさ、住居跡の物証は何軒あるのだよ
287日本@名無史さん
2021/10/18(月) 10:33:01.02
>>276
書き顔して欲しい理由は?
288日本@名無史さん
2021/10/18(月) 10:34:11.64
>>286
それ、少ないって言ってる馬鹿のやるべき仕事
まともな脳の人は、わからないと答える
289日本@名無史さん
2021/10/18(月) 10:36:25.01
>>280
>都市ととして少なすぎ

都市だって言ってるのは誰?
290日本@名無史さん
2021/10/18(月) 10:37:18.58
土器(鍋)の分布と政治を混同する「畿内」説って
日本の炊飯器を中国人が爆買いして、2000年後の中国で日本の炊飯器がたくさん出土するから、日本が中国を支配していたとする学説みたいなもん?
291日本@名無史さん
2021/10/18(月) 10:40:13.41
>>193
>よければ畿内説で「日本は乃ち小国。倭の并す所となる。故に其の号を冒せり。」を説明して下さ93

それ、最初から旧唐書の文言の上でも「異説」扱いだからww

日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本爲名。
これが本論 
「日本国は倭国の別種の国号である その国は日(太陽)のそばにあるので
 故に以て日本という名を名乗るようになった」

或曰、倭國自惡其名不雅、改爲日本。
異説その1 「倭国はその国号が雅でないのを自ら悪み、改めて日本とした」

本論と、異説その1は「倭国=日本国」という立場
国号が改められただけ

或云、日本舊小國、併倭國之地。
異説その2 「日本は旧くは小国、倭国の地を併呑した」
これだと日本が倭国を併合したことになるが、これはあくまで異説その2という扱いで
公式見解は本論の「倭国=日本国」で国号が改められただけというもの
292日本@名無史さん
2021/10/18(月) 10:41:38.54
>>280
それに拘る意味がわからん
何らかの目的があって大規模な建物群が建てられたんだから
293日本@名無史さん
2021/10/18(月) 10:42:19.93
>>206
>東大理系博士号自称男?のキミが

>>136は別の人ww
294日本@名無史さん
2021/10/18(月) 10:45:40.32
>>208
>「倭」は「ヤマト」とは、音韻が全く違うから、普通は読めないよ。

でも、君は「山」を「ヤマ」と読むのだろう?
「サン」と「ヤマ」とは、音韻がまったく違うのに?ww

音読みと訓読みをごっちゃにしてはいけないよ
訓読みは「やまとことば」を漢字に当てたものだから、
漢字のもともとの音韻とは無関係なのが当たり前

この辺が分かってない人が、アンチ畿内説なんていう歴史オンチに陥ってるんだろうね
295日本@名無史さん
2021/10/18(月) 10:45:51.25
>>284
それで、
鉄器も無い、住居も無い巻向の勢力ってなんなの
296日本@名無史さん
2021/10/18(月) 10:46:41.29
>>288
それで、物証は何軒なんだよ
297日本@名無史さん
2021/10/18(月) 10:47:12.84
>>213
>日本の国号を復活させたのは天武天皇であったと思います。

復活じゃないよ
新しく創った国号が日本
298日本@名無史さん
2021/10/18(月) 10:48:03.50
>>292
その理由がなんでしょうかねー
斎場じゃねーの
299日本@名無史さん
2021/10/18(月) 10:49:37.60
>>289
ぐくればいいよ
300日本@名無史さん
2021/10/18(月) 10:50:47.91
>>225
>完成が布留0古相って報告書出てんのは皆が知ってるから、そういう詐欺する九州説が落ちぶれた

それ、九州説じゃなくて葛城説の左側スロープ君w
妄想系なのは九州説と同じだけどさw
301日本@名無史さん
2021/10/18(月) 10:53:54.60
>>279
>すると祭祀は2回しか行われていなで良いですね。

九州説の人は、妄想で偽情報を流すのをやめてください
302日本@名無史さん
2021/10/18(月) 10:54:59.10
>>270
随や唐の時代も日本は朝貢外交だった
303日本@名無史さん
2021/10/18(月) 10:55:43.91
>>296
>それで、物証は何軒なんだよ

知らんな
少ないというのに証拠がない
ということだけが判明してる事実
304ですます ◆/91kCCQXBo
2021/10/18(月) 10:57:18.42
>>263
> (新)唐書の内容が壬申の乱でないはないとする説明をしただけです。

陽に説明されていないから新旧の唐書の記述を示して説明を促しました

> いろいろ言うから、訳が分からず全部書いとけって事じゃないですか?

そうですね
そのように検証されていない仮の見解を仮説と言います

ずいぶん自信がありそうなご様子でしたので興味深い話が聞けるのかと思って期待したのですが、自説すら満足に説明できない残念な人なのですね
説明を放棄されたようなのでこちらとしてももう結構です
7世紀まで九州に王朝があったという説はそれこそもう何十年も前からあるわけですし
305日本@名無史さん
2021/10/18(月) 10:58:25.17
>>302
それでも日本は日出処の天子だと主張していた
306日本@名無史さん
2021/10/18(月) 10:58:34.21
>>81
>>290 そうかもしれません
307日本@名無史さん
2021/10/18(月) 10:58:43.67
>>256
何をもって「都市」とするか、という定義の問題もあるけれど、
農業生産を営む集落のような自生的な集落ではなく
食糧生産から切り離された集積地(農民がいないまたは少ない)で
都市計画的な規格が見られる
ことから、纏向遺跡を古代都市と見る見解はわりに多数説になってる

「日本における都市の初現-纏向遺跡の調査から」橋本輝彦2011
https://irdb.nii.ac.jp/01138/0000559834
308日本@名無史さん
2021/10/18(月) 11:02:43.60
>>147 そうかもしれません
309日本@名無史さん
2021/10/18(月) 11:04:47.15
>>279
>すると祭祀は2回しか行われていなで良いですね。

どうしてそう短絡するかな?ww

「「纒向型土壙」について」児玉駿介2013
https://doshisha.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&;item_id=23913&item_no=1&attribute_id=28&file_no=1
310日本@名無史さん
2021/10/18(月) 11:05:21.17
>>300

本来は年代の幅がある布留0式土器を纏向3(新)式とするのは、マスコミなどがいうように確定した学説ではなく、寺澤薫やその支持者たちによる恣意的な判断の結果である危険性がある。
311日本@名無史さん
2021/10/18(月) 11:07:32.81
>>290
>土器(鍋)の分布と政治を混同する「畿内」説って

庄内式、布留式土器は、祭祀用供献土器として統一されたものなんだよ
祭政一致の時代の「まつりごと」=政治そのものだよ

鍋じゃないww
312日本@名無史さん
2021/10/18(月) 11:07:55.23
>>267 威信財としては、鍬の再利用wの木製仮面と桃の種wしか出ない纏向は、明治政府の北海道開拓使庁舎か。。。
313日本@名無史さん
2021/10/18(月) 11:10:57.03
>>295
>鉄器も無い、住居も無い巻向の勢力ってなんなの

鉄器? 
あるよ
邪馬台国畿内説 Part729 ->画像>42枚
鍛冶跡も
邪馬台国畿内説 Part729 ->画像>42枚
砥石も
邪馬台国畿内説 Part729 ->画像>42枚
ある

大体、ホケノ山と椿井大塚山の二つだけで、九州で出た全鉄鏃よりも多いのに
畿内に鉄がなかったとか、いつの時代の話だよw
314日本@名無史さん
2021/10/18(月) 11:13:25.28
>>310
>布留0式土器を纏向3(新)式とするのは

だから、纏向編年はほぼ使われなくなって、
布留0式という土器形式で編年するようになったんだよ
315日本@名無史さん
2021/10/18(月) 11:21:10.25
[日本書紀]にだけ登場する謎の漢字「孁」を分解 Tweet Share +1 RSS

伊弉諾尊と伊弉冉尊が相談して、一緒に日の神を生み申し上げた。大日孁貴という。一書に天照大神という。
とあり、「大日孁貴(おおひるめむち)」=「天照大神」としています。
ところが、この「大日孁貴(おおひるめむち)」の中に含まれる「孁」という字は、実は中国には存在していません。
【[日本書紀]にしか登場していない】のです!
つまり、日本人によって意図的に(作為的に)作られた漢字ということです。
先人たちの賢い文字遊び
ではこの「孁」という字はどこから生まれ、それはいったい何を意味しているのでしょうか。
この字は、「霝(レイ:雨が降ることー神の力の意)」と「女(未婚の女性)」の2文字から構成されています(霝+女=孁)。
霝(レイ)は靈(霊)の原字であり、変換すると「大日孁貴」→「大日靈女貴」となります。
つまり、「日孁」とは「日靈女」。現代の漢字に直すと「日霊女」です。
では、この「日霊女(日靈女)」とはいったい誰なのでしょうか…?

以上転載ですが。何でこんな漢字作ったんですかね?



あなた達が必至で論争している遺跡や墓の

【国名】や【為政者の名前】まで突きつけられて

受け入れたくない気持ちはわかります。

史書に記された事なのでそれでも無視するなら

もはや【宗教】と言うべきものなのでお好きにどうぞ。

改宗させる権利は誰にもありませんので。

そこにいるのは布留御魂大神・饒速日命であって卑弥呼こと日孁はいませんが。
316日本@名無史さん
2021/10/18(月) 11:36:17.85
>>309
馬鹿に餌やると、また新しい馬鹿読みするぞ
日本語読めないから
317日本@名無史さん
2021/10/18(月) 11:39:56.26
>>267
大和66州?
山陰、山陽等はどうした?
西服眾夷六十六國ですよ。
どこに大和とあんのか?
インチキ野郎。
1
318日本@名無史さん
2021/10/18(月) 11:54:00.67
>>288
わからないは無い?
はぁーー
319日本@名無史さん
2021/10/18(月) 12:02:43.33
纏向遺跡に少ないのは竪穴式住居跡な
320日本@名無史さん
2021/10/18(月) 12:04:16.38
>>306
>また新しい馬鹿読みするぞ

バカ読みしたら、バカにするだけだよ
事実で殴り続けるしかない
321日本@名無史さん
2021/10/18(月) 12:04:16.63
>>318
アンチは馬鹿だから仕方がない
322日本@名無史さん
2021/10/18(月) 12:10:11.14
>>320
彼はどんな文章も誤読できる素晴らしい脳と
どんなに事実で間違いを指摘されても結論を変えない意志の強さがある
323日本@名無史さん
2021/10/18(月) 12:18:20.72
>>213
旧唐書では、日本は倭国と別種とも書いてありますよ
324日本@名無史さん
2021/10/18(月) 12:26:25.97
>>323
倭国が日本に国号変更したとも書いてありますよ
325日本@名無史さん
2021/10/18(月) 12:33:32.82
旧唐書は編集が杜撰で有名
326日本@名無史さん
2021/10/18(月) 12:40:44.15
倭人の言う事は信用できないとも書かれてたな
間に立ってる日本の役人たちは大変だったと思うわ
メンツは重要だけど実利も取らなきゃいけないからいろいろ誤魔化してたんだろ
327日本@名無史さん
2021/10/18(月) 12:51:20.40
>>326
旧唐書が書かれたのは唐代じゃないから関係なし
日本と国交のない時代、政治的混乱続きの泡沫国だよ
旧唐書が完成して二年後に滅んだ
328日本@名無史さん
2021/10/18(月) 13:10:26.72
>>213
旧唐書
倭國
倭國者,古倭奴國也
其王姓阿每氏

日本
日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本爲名。或曰:倭國自惡其名不雅,改爲日本。或云:日本舊小國,併倭國之地。其人入朝者,多自矜大,不以實對,故中國疑焉。又云:其國界東西南北各數千里,西界、南界咸至大海,東界、北界有大山爲限,山外即毛人之國。
都於邪靡堆,則魏志所謂邪馬臺者也

倭王姓阿每,字多利思比孤
329日本@名無史さん
2021/10/18(月) 13:13:08.49
ほら。混乱してるでしょ?
330日本@名無史さん
2021/10/18(月) 13:21:01.55
>>300
>完成が布留0古相って報告書

ソースは?

>妄想系なのは九州説と同じだけどさw

奴婢埋葬痕跡のかけらもなく、大きさも形も全然違う箸墓を卑弥呼墓としている君が妄想系。
331日本@名無史さん
2021/10/18(月) 13:44:18.72
だいたい、ヤマト王権が九州発祥と明記しているのに無視して論ずる脳が理解できない。
近畿説は神代は無視。それでもいいだろう。しかし、少なくとも東遷後となるので
卑弥呼が記紀の誰かに比定できないと言うのは矛盾していると言う極めて簡単な論理である。
なぜなら女王と記される彼女が記紀から無視される理由がないからである。
そして、東遷前から居た人々の名前や国名すら明記されていると言うのに
それらも無視しないと成立しない近畿説って何ぞや?

唐書の百済のところでも「百済は扶余の別種なり」と書かれていてる。
この百済王の名前を見ると「扶余璋」であったり、「扶余豊」と扶余の文字が見える。
この別種とは「別名」と翻訳するのが妥当。

唐「何、日本が倭を倒したのではないのか?」
日「いや、国号変更でして。今でも倭国でもあり。」
唐「ん〜。倭国の別種なりと」
日「字があれなんで、変更するんですけど。」
唐「ふむ、雅ならざるを以ってと、日本の由来は?」
日「日辺に近く名づけられました。倭が合併した旧小国の名前です」
唐「ふぁ?合併した小国の名を名乗るのか?」
唐「日辺云々、日本は小国でその号を冒せりと」
唐「わけがわからん。どうにも嘘くさい」

そら混乱するだろうね。
332日本@名無史さん
2021/10/18(月) 13:52:39.52
>>330
>ソースは?

だから報告書
報告書といったら一つしかない

>奴婢埋葬痕跡のかけらもなく

必要なし

>大きさも形も全然違う

という根拠なし
333日本@名無史さん
2021/10/18(月) 13:56:59.78
>>319
他は見つかったのか
334日本@名無史さん
2021/10/18(月) 14:01:18.07
>>307
畿内説互助会の話だろ
都市遺跡として、世界に通用してるの?
葬儀場兼古墳造営基地だよ。
335日本@名無史さん
2021/10/18(月) 14:07:42.85
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めると畿内説は成立しません。
  それだけは絶対にやめて下さい。(遺跡の年代の話題推奨)
336日本@名無史さん
2021/10/18(月) 14:11:03.36
纏向の調査は今後も続くんだし現状なんだって良いじゃん
なんでそんな事に拘ってるんだ?
337日本@名無史さん
2021/10/18(月) 14:14:45.60
>>307
計画倒れしたのかな?
338日本@名無史さん
2021/10/18(月) 14:15:01.49
>>332
>だから報告書
>報告書といったら一つしかない

被葬者埋葬時期が3世紀半ばというその報告書の根拠は?
おそらく願望であろうね。

>>奴婢埋葬痕跡のかけらもなく

>必要なし

それはダメ、ただの逃げ。

>>大きさも形も全然違う

>という根拠なし

それはダメ、ただの逃げ。
339日本@名無史さん
2021/10/18(月) 14:33:59.98
纏向がたこ部屋なら桃の差し入れをうめ〜つって食ってたのか?
それはそれで面白いけどさ
340日本@名無史さん
2021/10/18(月) 14:45:39.39
>>338
>被葬者埋葬時期が3世紀半ばというその報告書の根拠は?
>おそらく願望であろうね。

そういうのが願望
341日本@名無史さん
2021/10/18(月) 14:47:07.87
>>338
>被葬者埋葬時期が3世紀半ばというその報告書の根拠は?
>おそらく願望であろうね。

そういうことだろ。報告書の中に、願望を書き添えたんだな。
342日本@名無史さん
2021/10/18(月) 14:57:09.43
>>341
白石、福永、東、西川など各センセーをはじめ複数の方が箸墓説者なので、
箸墓の被葬者埋葬時期が3世紀半ばという都合よい報告書も出てくるのだろうね。
343日本@名無史さん
2021/10/18(月) 15:09:22.44
>>342
・・・というのも願望
344日本@名無史さん
2021/10/18(月) 15:45:54.90
>>334
邪馬壹國にぴったりだな。
祭祀場でもあり、開拓、インフラ整備
の女王之所都。

どういう定義での都市遺跡として、世界に通用してるのとか
わからんが、勝手な思い込み。
邪馬壹國の詳細な記述は
水行十日,陸行一月。官有〜可7万戸のみ。

大作塚,徑百餘步,徇葬者奴婢百餘人。
居處宮室樓觀,城柵嚴設,常有人持兵守衛とか
それが邪馬壹國にあるという記載もない。
345日本@名無史さん
2021/10/18(月) 15:47:37.97
自分が発掘を手掛けたものは自分のものと考えてしまうんだろね、
いわゆる、発掘遺跡・発掘物の私物化・・・、
346日本@名無史さん
2021/10/18(月) 16:00:12.19
>>345がまた妄想独白モードに入りました
347日本@名無史さん
2021/10/18(月) 16:15:54.20
>>336
学者たる者、憶測で物を言うべきでは無い
348日本@名無史さん
2021/10/18(月) 16:25:29.89
>>344
馬鹿か、卑弥呼の墓が邪馬台国に無いと言っているのと同じと気づけ
349日本@名無史さん
2021/10/18(月) 16:26:55.55
周辺の坪井遺跡等から人が来て開拓
避難民、災害被害者対策での工事で終われば
次の現場へ、中には近辺に住む人もいるだろう
故郷の復興活動もあるだろうな。
唐古遺跡でも古墳時代の初めに
居住域が規模の縮小あるが再度環濠集落をも形成する。
滋賀や難波とか移動が多い
遺跡から邪馬壹國てそんな国だろうろな。個人的にはそう思える。
350日本@名無史さん
2021/10/18(月) 16:29:34.14
>>344
箸墓は誰の墓?
351日本@名無史さん
2021/10/18(月) 16:32:41.38
>>349
古代関西の郷土史を語られても、、、
352日本@名無史さん
2021/10/18(月) 16:36:27.26
>>346
どこが
353日本@名無史さん
2021/10/18(月) 16:36:33.07
>>350
卑弥呼だな
354日本@名無史さん
2021/10/18(月) 16:37:16.72
>>348
意味不明 箸墓だろー。竹斯国ができた
以降に移動されたもんという考え方。
卑弥呼かも、壹與かもしれん。
魏志の状態のまま現在まで続くとは
思えない。たとえば九州で被葬者がいない女性らしいと
思われる装飾や埋蔵物のみが発見された墳丘墓や墓等など。
355日本@名無史さん
2021/10/18(月) 16:38:54.06
>>349
鮎喰川下流域の集落遺跡や吉野川流域の集落遺跡は移動なんかしていないがw   @阿波
356日本@名無史さん
2021/10/18(月) 16:41:13.04
>>353
根拠は径百歩?ホケノも候補にならない?
357日本@名無史さん
2021/10/18(月) 16:50:32.75
>>355
移動とは行っていない。
工事現場、終われば元の所へ帰る。
周辺に小規模な集落が多い。
また、東海土器が多いことから避難地だったと思う
それらの人が周辺に定住したり
滋賀とか、あるい故郷に戻って復興とか?
別に定住しなくても
公共事業として水路、道路インフラや
斎場等やイベント地でもいいじゃないの?
358日本@名無史さん
2021/10/18(月) 16:50:44.94
>>354
全ての陵墓の見直しが必要だな
359日本@名無史さん
2021/10/18(月) 16:55:27.78
>>357
>また、東海土器が多いことから

その東海土器とやらも「東阿波型土器」の東海版なんだがw   @阿波
360日本@名無史さん
2021/10/18(月) 17:06:01.04
東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國

これを読めば、ヤマトの東側に55国、西側に66国、半島進出で95国と読むのが普通だがな
九州から見て西に66国も入らないだろうっていうww
361日本@名無史さん
2021/10/18(月) 17:06:34.61
>>358
当然だろー。でも許可はでないな

混在するもんが出る理由にもなる。
埋葬時期の祭祀でやればその時期のもんが混じる
案外、6世紀の古墳に埋葬もあるうる。
埋葬物での判断もあるが被葬者自体のDNA等の
生物、医学的なデータと集積が重要と思う。
宮内庁管轄以外の自治体ならできそうと思うが
被葬者多い、祇園山などいいケースと思うけど?
362日本@名無史さん
2021/10/18(月) 17:08:20.27
>>360
>九州から見て西に66国も入らないだろうっていうww

つまり、東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國
の中心地は、四国一択ということ。   @阿波
363日本@名無史さん
2021/10/18(月) 17:09:30.25
>>356
>ホケノも候補にならない?

小さい
364日本@名無史さん
2021/10/18(月) 17:10:11.67
>>330
>奴婢埋葬痕跡のかけらもなく

人為的改変の欠片もない自然地形で300メートルくらいの尾根を150メートルの塚というのが妄想
昭和に建てられた妖怪退治の説話をもとにした蜘蛛窟の碑を奴婢埋葬痕跡というのが妄想

高天彦神社周辺は、鎌倉時代まで高間と呼ばれていて、高台の平地くらいの意味
葛城西南部の山地のとっかかりの辺りに奴婢埋葬痕跡など欠片もないww
365日本@名無史さん
2021/10/18(月) 17:11:14.44
>>356
>ホケノも候補にならない?

小さい云々より、「前方後円墳」自体が論外。   @阿波
366日本@名無史さん
2021/10/18(月) 17:12:44.58
>>333
>他は見つかったのか

高床式建物の柱穴あとは多数出てるよ
だが、何度も立て直していて柱跡が交錯しているし、何棟分と見積もるのは難しい
367日本@名無史さん
2021/10/18(月) 17:14:12.32
>>337
>計画倒れしたのかな?

計画倒れとは?
纏向大溝も完成しているし、非常に大面積の連続した遺跡遺構が検出されているんだが?
368日本@名無史さん
2021/10/18(月) 17:15:37.08
>>366
フェス会場だな。跡のみで
柱を移動して再利用て感じ。
369日本@名無史さん
2021/10/18(月) 17:18:59.71
>>366
>高床式建物の柱穴あとは多数出てるよ

高床式建物? 掘立柱建物な。  で、掘立柱建物があって、竪穴住居跡がない遺跡がそんなに特異なのか?   @阿波  
370日本@名無史さん
2021/10/18(月) 17:21:48.89
>>294
>>「倭」は「ヤマト」とは、音韻が全く違うから、普通は読めないよ。

>でも、君は「山」を「ヤマ」と読むのだろう?
「サン」と「ヤマ」とは、音韻がまったく違うのに?ww
音読みと訓読みをごっちゃにしてはいけないよ
訓読みは「やまとことば」を漢字に当てたものだから、
漢字のもともとの音韻とは無関係なのが当たり前
この辺が分かってない人が、アンチ畿内説なんていう歴史オンチに陥ってるんだろう

8世紀の大和政権時代になってからの「倭」の和訓読みの「ヤマト」では、
根拠にならず、
例えば、書紀の孝徳紀付近の「倭國」記載を「ヤマト国」と読む人はおらず、
また、万葉集では「ヤマト」の音韻に「倭」ではなく、別の文字を使っていたり、
「ヤマトタケルノミコト」のように、古事記では「倭」を使ったものを、
書紀は、「日本」と書き変えており、
「倭」の情報を「ヤマト」と読む、という例は見かけない。
371日本@名無史さん
2021/10/18(月) 17:24:28.42
>>360
魏使は行っていないよ
372日本@名無史さん
2021/10/18(月) 17:26:11.83
>>363
寺澤さんはホケノと言ってるよ
373日本@名無史さん
2021/10/18(月) 17:26:24.26
>>369
掘立柱建物そんな感じだな。
移動できれば、古墳や見える山ごとによって
祭祀時期が違うから便利。固定したもん置くと
逆に往来の邪魔、画期的かも?
374日本@名無史さん
2021/10/18(月) 17:26:47.94
>>300
完成が布留0古相って報告書出てんのは皆が知ってるから、
そういう詐欺するオレオレ詐欺の大和説が落ちぶれた
オレオレ詐欺師は、九州説者じゃなくて大和説考古学者ら。
妄想系なのは葛城説と同じだけどさ
375日本@名無史さん
2021/10/18(月) 17:28:30.26
>>301
オレオレ詐欺師の大和説の人は、詐欺で偽情報を流すのをやめてください
376日本@名無史さん
2021/10/18(月) 17:33:05.91
>>366
>高床式建物の柱穴あとは多数出てるよ

普通は、高床式建物があって、周辺には竪穴住居跡がいっぱいあるんじゃないの? 少なくとも、「阿波」ではそうだがw
掘立柱建物があって、竪穴住居跡がない纏向遺跡は、そういう意味で特異なのか?  わははははは   @阿波 
377日本@名無史さん
2021/10/18(月) 17:35:35.17
>>371
??
これ、宋書の倭王武の上表文なんだが?
この文を見て、倭王武は九州王朝だっていう頭のおかしい人がいるから、
そんなはずないだろって言ってるだけ

魏使は関係ない
378日本@名無史さん
2021/10/18(月) 17:37:38.29
>>373
>移動できれば、古墳や見える山ごとによって

掘立柱建物だって、仮設テントじゃないんだから
そうそう簡単に移動したりはしないよw おバカさんw

柱根が腐ってくるので、そこまで長期には持たないけれど
逆にそこまでの期間はずっと同じ場所に立っている
379日本@名無史さん
2021/10/18(月) 17:47:57.43
>>305
>それでも日本は日出処の天子だと主張していた

ダメです。
日出処の天子を称したのは九州俀國の天子のアマイ氏のタリシホコであり、
大和の日本國ではなく、
大和が日本國を称したのは、「小野妹子が隋文帝に申し出」て失敗し、
認められたのは、唐初の「武徳」中になってからです。
380日本@名無史さん
2021/10/18(月) 17:51:33.86
>>372
>寺澤さんはホケノと言ってるよ

ソースは?
381日本@名無史さん
2021/10/18(月) 17:57:14.57
>>378
だからさ、工事期間さえ持てばいいじゃないの?
その名残が伊勢神宮の式年遷宮とかね。
382日本@名無史さん
2021/10/18(月) 18:02:37.91
>>311
>>土器(鍋)の分布と政治を混同する「畿内」説って

>庄内式、布留式土器は、祭祀用供献土器として統一されたものなんだよ
祭政一致の時代の「まつりごと」=政治そのものだよ
鍋じゃないw

その土器の外壁に、炎であぶられた跡の炭化物が付着し、
内壁にも湯で上がった「おこげ」が付着しているものがあるんだから、
鍋としての使用だな。
383日本@名無史さん
2021/10/18(月) 18:07:53.22
>>381
>その名残が伊勢神宮の式年遷宮とかね。

伊勢の式年遷宮が20年間隔
出雲の遷宮だと60年

そんな掘立小屋みたいにポンポン移動するものではないな
むしろひと世代丸々同じ場所にあることになる

それだけの期間同じ場所に同じ建物があれば、恒久的建築物だろ
384日本@名無史さん
2021/10/18(月) 18:09:29.18
>>383
>高床式建物の柱穴あとは多数出てるよ

普通は、高床式建物があって、周辺には竪穴住居跡がいっぱいあるんじゃないの? 少なくとも、「阿波」ではそうだがw
掘立柱建物があって、竪穴住居跡がない纏向遺跡は、そういう意味で特異なのか?  わははははは   @阿波 
385日本@名無史さん
2021/10/18(月) 18:12:11.36
>>313
>鉄器? あるよ・・・鍛冶跡も・・・砥石も・・・ある
大体、ホケノ山と椿井大塚山の二つだけで、九州で出た全鉄鏃よりも多いのに
畿内に鉄がなかったとか、いつの時代の話だよ

そうだよ。時期の問題だな。
弥生期全体では、九州の鉄出土は大和の鉄出土の数十倍以上であり、
大和の鉄は、九州倭國の東征軍が入った3世紀最末〜4世紀の、
ホケノ以後の前方後円墳期に急増するだけ。
386日本@名無史さん
2021/10/18(月) 18:14:45.73
>>385
要するに年代デタラメしないと九州説即死ってわかってるわけね
387日本@名無史さん
2021/10/18(月) 18:15:27.20
>>385
要は、九州も畿内も、鉄器王国「阿波」による、被鉄器供給地域  ってこと。   @阿波
388日本@名無史さん
2021/10/18(月) 18:16:08.30
>>382
祭祀土坑から出ている土器は、使用痕のない穿孔されたものが出ていて
そうした祭祀土坑で最も搬入土器の比率が高い

土器だからと何でもかんでもごっちゃにしちゃダメだよ

鍋と炊飯甕の区別もつかない人に言っても無駄だろうけどw
389日本@名無史さん
2021/10/18(月) 18:16:39.39
>>314
>だから、纏向編年はほぼ使われなくなって、
布留0式という土器形式で編年するようになったんだよ

だから、普通は「1式」の中に含めるべきものであり、
「0式」という設定をする、という編年自体が、
オレオレ詐欺のインチキ性を示しているんだよ。
390日本@名無史さん
2021/10/18(月) 18:18:57.85
>>389
>だから、普通は「1式」の中に含めるべきものであり、
>「0式」という設定をする、という編年自体が、
>オレオレ詐欺のインチキ性を示しているんだよ。

その通り!   @阿波
391日本@名無史さん
2021/10/18(月) 18:19:33.65
>>372
>寺澤さんはホケノと言ってるよ

寺澤先生は、土器編年の年代にかなり忠実に考えようとしているみたいだね
392日本@名無史さん
2021/10/18(月) 18:24:47.56
>>320
史料事実や史料実態の曲解や否定のオレオレ詐欺師の大和説者がバカ読みしたら、
バカにするだけだよ
史料事実や史料実態で殴り続けて上げるしかない
393日本@名無史さん
2021/10/18(月) 18:28:16.97
>>325
>旧唐書は編集が杜撰で有名

「南→東」などの史料事実や史料実態の否定曲解のウソつき騙しの、
オレオレ詐欺師仲間の大和説学者らは、読解力が杜撰で有名。
394日本@名無史さん
2021/10/18(月) 18:28:34.07
>>373
それで、掘立柱建物は何棟なのだよ
395日本@名無史さん
2021/10/18(月) 18:29:25.08
>>391
で?
ソースは?
396日本@名無史さん
2021/10/18(月) 18:30:04.47
>>394
たくさん
397日本@名無史さん
2021/10/18(月) 18:31:48.24
>>393
悪口言っても反論にはならない
398日本@名無史さん
2021/10/18(月) 18:32:42.28
>>326
隋文帝が、「日本國」号を申請した小野妹子の言う事は信用できない、とした、
というようにも書かれてたな
間に立ってる大和の役人たちは大変だったと思うわ
メンツは重要だけど実利も取らなきゃいけないから、
いろいろ誤魔化してたんだろ
399日本@名無史さん
2021/10/18(月) 18:36:58.13
>>327
>旧唐書が書かれたのは唐代じゃないから関係なし
日本と国交のない時代、政治的混乱続きの泡沫国だよ
旧唐書が完成して二年後に滅んだ

そうか。
舊唐書が書かれた時には、舊唐書筆者の属する国はまだ存続していたのか。
それじゃ、その情報は確かであり、確率も高いな。
400日本@名無史さん
2021/10/18(月) 18:37:30.99
>>383
柱腐れば替える。お隣に移動
で次の現場へ、道、水路も繋がるし
その後、東、西への進出もできるし、物資も入る。
定期建築物と考えるけどね。
祭祀にも使えるし
401日本@名無史さん
2021/10/18(月) 18:40:52.36
>>400
で、纏向遺跡のどこが魅力なんだ?  ただのつまらん遺跡だろ?   @阿波
402日本@名無史さん
2021/10/18(月) 18:41:15.79
>>329
>都於邪靡堆,則魏志所謂邪馬臺者也

あれ?。
この「則魏志所謂邪馬臺者也」は、隋書の「魏徴らの注」の文ではないか。
どうなっているの?。
403日本@名無史さん
2021/10/18(月) 18:42:57.53
>>394
移動式だからね
永久的な建物なら数えられるけど
纏向のみはおさまらないと思うよ。
404日本@名無史さん
2021/10/18(月) 18:44:42.67
>>380
王権誕生 日本の歴史02  寺沢 薫
405日本@名無史さん
2021/10/18(月) 18:47:01.27
>>399
>舊唐書が書かれた時には、舊唐書筆者の属する国はまだ存続していたのか。
>それじゃ、その情報は確かであり、確率も高いな。

そう思う人の神経がわからない
406日本@名無史さん
2021/10/18(月) 18:49:00.34
>>366
それ、1箇所に穴だらけの斎場の事だろ
407日本@名無史さん
2021/10/18(月) 18:49:12.50
>>402
だからどうしたの?
裴世清、裴清の記禄があったのだろうな。
408日本@名無史さん
2021/10/18(月) 18:52:10.24
>>396
ソースは
409日本@名無史さん
2021/10/18(月) 18:52:23.72
>>402
>この「則魏志所謂邪馬臺者也」は、隋書の「魏徴らの注」の文ではないか。
>どうなっているの?。

それは本文
頭、どうなっているの?
410日本@名無史さん
2021/10/18(月) 19:03:18.93
>>344
>邪馬壹國の詳細な記述は水行十日,陸行一月。官有〜可7万戸のみ。

「水行十日陸行一月」は郡から女王之所都の所要日数。纏向では、「可七万戸」は無理。

>大作塚,徑百餘步,徇葬者奴婢百餘人。

卑弥呼の墓の説明。

>居處宮室樓觀,城柵嚴設,常有人持兵守衛とか
それが邪馬壹國にあるという記載もない。

「居處宮室樓觀,城柵嚴設,常有人持兵守衛」は、邪馬壹國の説明ではなく、
女王之所都内の卑弥呼の「居宮」の実態説明。
411日本@名無史さん
2021/10/18(月) 19:03:27.91
>>408
>ソースは

「辻地区においてはすでに多数の掘立柱建物、大規模な水路、祭祀土坑などが検出されている」文化庁
412日本@名無史さん
2021/10/18(月) 19:04:58.77
>>346
オレオレ詐欺の大和説者らが、また妄想独白モードに入りました
413日本@名無史さん
2021/10/18(月) 19:05:01.50
>>377
魏志とは関係ないけど、
もう一本 鉄剣はある。
半島にあるのでは?

まあ、七支刀みたいに
日中は、倭国に貢いだもん
半島は倭国に下賜になりそうだな。
414日本@名無史さん
2021/10/18(月) 19:06:04.17
>>410
>「纏向では、「可七万戸」は無理。

纒向=邪馬台国とか言ってる痴呆は
畿内説には一人もいません
415日本@名無史さん
2021/10/18(月) 19:08:00.46
>>412
そうやってウソをつくから九州説はダメになった
416日本@名無史さん
2021/10/18(月) 19:13:48.44
>>410
纏向で、「可七万戸」とかは、
誰が言ったのか?

邪馬壹國(近畿)で「可七万戸」

卑弥呼の墓の説明
当然だな。一致

女王之所都内とは書いていないけど?

「居處宮室樓觀,城柵嚴設,常有人持兵守衛」
「居宮」の実態説明 当然 だから書いた
417日本@名無史さん
2021/10/18(月) 19:19:52.34
「居處宮室樓觀,城柵嚴設」
これで、もう日本が環濠集落の時代でないことが
よくわかる
418日本@名無史さん
2021/10/18(月) 19:21:51.30
九州説は畿内説に反論しない
不思議だが本当だ
419日本@名無史さん
2021/10/18(月) 19:21:59.66
>>349
>周辺の坪井遺跡等から人が来て開拓 避難民、災害被害者対策での工事で終われば
次の現場へ、中には近辺に住む人もいるだろう 故郷の復興活動もあるだろうな。
唐古遺跡でも古墳時代の初めに居住域が規模の縮小あるが再度環濠集落をも形成する。
滋賀や難波とか移動が多い
遺跡から邪馬壹國てそんな国だろうろな。個人的にはそう思える。

幾ら個人的にそう思っても、
「南≠東」にも「冢≠前方後円墳」にも「正北抵新羅」にも、
「可七萬餘戶」にも「卑彌呼以死,大作冢,徑百餘步,徇葬者奴婢百餘人」などにも、
合わないから、バツね。
420日本@名無史さん
2021/10/18(月) 19:29:51.02
>>417
いや、今の所、混在時期だな。
纏向に環濠と異なる
大規模な定住跡あれば初期の
証明になる。

藤原京より古いもんになるだろう
それとも、計画断念地かも?
421日本@名無史さん
2021/10/18(月) 19:35:39.06
>>419
意味不明
「南≠東」も「冢≠前方後円墳」も「正北抵新羅」
について書いていないし否定も肯定もしていない。
まして、魏志に「正北抵新羅」などないな。
頭おかしい。
422日本@名無史さん
2021/10/18(月) 19:47:44.96
>>420
>いや、今の所、混在時期だな。

なら、どうして環濠集落には一言も言及せず、独立した居館だけ書いたの?
423日本@名無史さん
2021/10/18(月) 19:47:58.66
>>419
「可七萬餘戶」にも「卑彌呼以死,大作冢,徑百餘步,徇葬者奴婢百餘人」などにも、
ばっちりだな。卑弥呼が邪馬壹國以外に居ればな。
また、あした
424日本@名無史さん
2021/10/18(月) 20:04:45.03
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
邪馬台国の東の国が作った。
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
神武東遷によるもの。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
首都移転により副都になった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の旧都があったのは九州である。
425日本@名無史さん
2021/10/18(月) 20:20:06.99
>>424
捏造ダメ
426日本@名無史さん
2021/10/18(月) 20:27:53.17
7世紀の朝廷は、魏志倭人伝の卑弥呼も、後漢書東夷伝の倭国王帥升も、
それらが誰の事なのか、すべて分かっていた。
しかしそれは未来永劫隠さねばならない史実だった。
なぜなら倭国王自ら渡海して安帝に会いたいという謁見要請、
日本の歴史が中国への土下座から始まるという、この屈辱。
未来永劫隠さねばならないこの史実、その帥升の約5世代100年後に卑弥呼がいる。
日本書紀では、この時代を、女王の時代ではなかったかのように脚色せねばならなかった、
そこで日本書紀に記されたのが神武東征紀であり、新称号「天皇」だ。
そしてその神武の時代をBC7世紀に設定、だから神武以降の天皇がことごとく100歳を超えるようになってしまった。

卑弥呼(Bei mei hu)とは比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi mai hou〉、つまりヒメ后である。
魏志倭人伝に書かれた卑弥呼とは、夫の神武に先立たれたヒメ(蹈鞴五十鈴)后の姿である。
427日本@名無史さん
2021/10/18(月) 20:39:25.57
近畿説の人は、卑弥呼を記紀の誰かに比定しません。
比定すると近畿説は成立しないからです。
邪馬台国=ヤマト王権とする畿内説において
記紀が卑弥呼を記載しない理由が全くわからないのです。
仮にも「魏」から女王と記載された卑弥呼は
いかなる理由によって記紀から無視されたのでしょう?
本当に無視されたのでしょうか?
近畿説ではこの問いに答えることはできません。

日本書紀では、【神功紀に限って】中国の年号を含む記事を引用しています。
そして、神功皇后の活躍と卑弥呼の時代が一致するように歴代天皇の年齢や在位期間を大幅に伸ばしています。
木花之佐久夜毘売の伝承に矛盾してまで調整しています。これは、神功皇后を卑弥呼だと思わせたいからです。
匂わせてなんとなくそうだと思わせるのは日本書紀のやり方で、中国の年号だけ記載したと思います。
卑弥呼=神功皇后説をとなえる人は多いのですが、実の卑弥呼の隠匿だと考えます。
魏志に記されてしまった卑弥呼=皇祖神アマテラスを隠匿するためです。
調整しなければアマテラスの年代と卑弥呼の時代はほぼ一致してしまうのです。
皇祖神が朝貢では話になりません。
高天原(神の世界)から魏(現実世界)への朝貢はできません。
428日本@名無史さん
2021/10/18(月) 20:39:29.47
調整の計算は人それぞれなので認めない人がいると思いますが、少なくとも時代の古さで言えば
天照・卑弥呼>神功皇后であり、
天照>卑弥呼=神功皇后ではない。
ちなみに、??草葺不合尊の父は彦火火出見尊(山幸彦)ですが
子である神武天皇も神日本磐余彦火火出見尊で、??草葺不合尊の系図は無理矢理挿入されたものと解釈しています。
(磐余は奈良の地名に由来する名です)

卑弥呼=皇祖神アマテラスとする理由はまだあります。
伊弉諾尊と伊弉冉尊が相談して、一緒に日の神を生み申し上げた。大日?貴という。一書に天照大神という。
とあり、「大日?貴(おおひるめむち)」=「天照大神」としています。
ところが、この「大日?貴」の中に含まれる「?」という字は、実は中国には存在していません。
【[日本書紀]にしか登場していない】のです。
つまり、日本人によって意図的に(作為的に)作られた漢字ということです。
ではこの「?」という字はどこから生まれ、それはいったい何を意味しているのでしょうか。
この字は、「?(レイ:雨が降ること・神の力の意)」と「女(未婚の女性)」のニ文字から構成されています(?+女=?)。
?(レイ)は靈(霊)の原字であり、変換すると「大日?貴」→「大日靈女貴」となります。
つまり、「日?」とは「日靈女」。現代の漢字に直すと「日霊女」です。
この「日霊女(日靈女)」とは明らかに日巫女(ひみこ)を暗示していると思われます。

さて、アマテラスの子孫である神武天皇は九州を出発し奈良を目指します。
卑弥呼=皇祖神アマテラスであれば説明の必要なく当然に【邪馬台国は九州】になります。
近畿説が生き残るには神功皇后=卑弥呼とすればよいのですが
これがかなり苦しい説である事はご理解いただけたと思います。

近畿説の人が、卑弥呼を記紀の誰かに比定しないのはこれらの理由からです。
もしくは、邪馬台国はヤマト王権と関連のない国としなければなりません。畿内説ではかなり苦しい言い訳です。
比定した時点で終了する。近畿説は完全に死に体なのです。
429日本@名無史さん
2021/10/18(月) 20:46:32.17
この字は、「霝(レイ:雨が降ることー神の力の意)」
あれ、化けた。
430日本@名無史さん
2021/10/18(月) 20:47:33.58
三国志東夷伝倭人の条通称魏志倭人伝の記述によれば
3世紀の倭人は顔中体中真っ赤な入れ墨だらけ

ところが日本書紀・古事記では入れ墨族は
「天孫族」とやらにひたすら殺戮されていくウホウホ蛮族扱い

「天孫族」と入れ墨族のハーフのイワレヒコが
入れ墨族の小邑を配下にしたという記述はあるが
イワレヒコの配下の入れ墨族もやっぱり他の入れ墨族を殺戮していく
431日本@名無史さん
2021/10/18(月) 20:54:14.31
>>354
>意味不明 箸墓だろー。竹斯国ができた以降に移動されたもんという考え方。
卑弥呼かも、壹與かもしれん。
魏志の状態のまま現在まで続くとは思えない。・・・

大和王権が九州倭國を併合吸収継承出来たのは、白村江の敗戦の後であり、
大和日本国が西日本の盟主になったのは、大宝元年の建元からであるから、バツ。
432日本@名無史さん
2021/10/18(月) 20:56:57.67
>>356
>根拠は径百歩?ホケノも候補にならない?

「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」だから、ならない。
433日本@名無史さん
2021/10/18(月) 20:59:43.29
>>357
>移動とは行っていない。工事現場、終われば元の所へ帰る。周辺に小規模な集落が多い。
また、東海土器が多いことから避難地だったと思う
それらの人が周辺に定住したり 滋賀とか、あるい故郷に戻って復興とか?
別に定住しなくても公共事業として水路、道路インフラや
斎場等やイベント地でもいいじゃないの?

「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」だから、バツ。
434日本@名無史さん
2021/10/18(月) 21:04:51.59
>>428
卑弥呼=皇祖神アマテラスであれば説明の必要なく当然に【邪馬台国は九州】になります。
この決め付けは無理がある
別に近畿でも構わない訳で
それと神武東征は疑っている
実際はもっと近しい人物に依る暗殺とかじゃないか
435日本@名無史さん
2021/10/18(月) 21:05:19.91
>>360
>東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國
これを読めば、ヤマトの東側に55国、西側に66国、半島進出で95国と読むのが普通だがな
九州から見て西に66国も入らないだろうっていうw

「西服衆夷六十六國」の「服」は、元々「服属する」という自動詞の文言を、
「衆夷」という目的語を付けて「服属せしめた」という他動詞的な使用法であるので、
「西の九州を服属せしめた」という意味になるのであるから、
この男も、バツ。
436日本@名無史さん
2021/10/18(月) 21:11:59.25
>>372
>寺澤さんはホケノと言ってるよ

寺澤がいくら言い直したって、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、ホケノもバツだよ。
437日本@名無史さん
2021/10/18(月) 21:14:36.30
郷土愛って狂土愛になると思います。 例) @阿波

奈良は素晴らしいとこなのに何が不満なんだろう。
本来のアマテラスと思われる海を照らし依り来る神「大物主」のお膝下。
卑弥呼がいないといけませんかね。
438日本@名無史さん
2021/10/18(月) 21:17:05.82
>>437
俺は最近九州説から近畿説に変わった訳で郷土愛とか考えてないけど
439日本@名無史さん
2021/10/18(月) 21:17:56.94
>>373
>掘立柱建物そんな感じだな。移動できれば、古墳や見える山ごとによって
祭祀時期が違うから便利。固定したもん置くと逆に往来の邪魔、画期的かも

「以婢千人自侍,唯有男子一人給飲食,傳辭出入。居處宮室樓觀,城柵嚴設,常有人持兵守衞」
でなければ、バツだよ。
440日本@名無史さん
2021/10/18(月) 21:20:43.93
>>377
>これ、宋書の倭王武の上表文なんだが?この文を見て、
倭王武は九州王朝だっていう頭のおかしい人がいるから、
そんなはずないだろって言ってるだけ 魏使は関係ない

「西服衆夷六十六國」の「服」は、元々「服属する」という自動詞の文言を、
「衆夷」という目的語を付けて「服属せしめた」という他動詞的な使用法であるので、
「西の九州を服属せしめた」という意味になるのであるから、
この男も、バツ。
441日本@名無史さん
2021/10/18(月) 21:21:07.47
>>434
どっちみち崇神天皇が東征してきます。
それなりの理由は述べてます。決めつけと仰るなら誰?
比定すらできませんよね?説でけっこうですからどうぞ。
できませんよね?
442日本@名無史さん
2021/10/18(月) 21:23:44.07
>>383
>伊勢の式年遷宮が20年間隔 出雲の遷宮だと60年
そんな掘立小屋みたいにポンポン移動するものではないな
むしろひと世代丸々同じ場所にあることになる
それだけの期間同じ場所に同じ建物があれば、恒久的建築物だろ

成程。
443日本@名無史さん
2021/10/18(月) 21:24:08.18
>>441
全部近畿で起きた事でも構わない訳で九州の根拠になってない
444日本@名無史さん
2021/10/18(月) 21:26:09.68
>>386
要するに年代デタラメをしないと、
オレオレ詐欺の大和説は即死だって、わかってるわけね
445日本@名無史さん
2021/10/18(月) 21:29:01.84
>>434
それなりの理由は述べてます。決めつけと仰るなら誰?
比定すらできませんよね?説でけっこうですからどうぞ。
できませんよね?畿内で起こった事なら尚更誰?
何で偉大なる女王の伝説を記紀に書かないの?
446日本@名無史さん
2021/10/18(月) 21:30:22.68
アンカミス
>>443
447日本@名無史さん
2021/10/18(月) 21:32:50.95
卑弥呼=皇祖神アマテラスで近畿説で良いじゃん
何故近畿説だと神功皇后=卑弥呼じゃなきゃいけないのか訳わからん
448日本@名無史さん
2021/10/18(月) 21:34:19.78
>>387
>祭祀土坑から出ている土器は、使用痕のない穿孔されたものが出ていて
そうした祭祀土坑で最も搬入土器の比率が高い

祭祀土器であっても、
外壁の「炎に拠る付着スス」や、内壁の「煮炊きの付着炭化物」が出来のは同じ。
土器だからと何でもかんでも区別しちゃダメだよ
鍋でも炊飯甕でも同じだ、って事が判らないような、
オレオレ詐欺の人に言っても無駄だろうけど
449日本@名無史さん
2021/10/18(月) 21:34:20.08
>>94 これもどうかなぁ...そんな複雑なことしないでしょ、普通。邪馬台=大和(箸墓)でいいとおもうけどなぁ…
450日本@名無史さん
2021/10/18(月) 21:39:06.62
〉卑弥呼=皇祖神アマテラスで近畿説で良いじゃん
ダメです。神武や崇神は九州から来てるのです。
何でわざわそんな嘘を?
で、偉大なる女王を記紀が無視する理由は何?
九州なら全て説明できます。
451日本@名無史さん
2021/10/18(月) 21:40:16.29
>>437
奈良は、海のない山奥へき地、最悪・最底辺ズボズボの沼地。  実に素晴らしいところ。  わははははは   @阿波
452日本@名無史さん
2021/10/18(月) 21:40:51.62
>>391
>>寺澤さんはホケノと言ってるよ
>寺澤先生は、土器編年の年代にかなり忠実に考えようとしているみたいだね

ダメだな。寺澤は、
土器編年で「布留0」というインチキ文言をでっち上げた犯人そのものだ。
おそらく、「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの、
オレオレ詐欺師犯人の人種そのものである。
453日本@名無史さん
2021/10/18(月) 21:41:17.13
あなた方が巫女墓と言ってるのは大物主の巫女です。
454日本@名無史さん
2021/10/18(月) 21:46:57.04
>>400
>柱腐れば替える。お隣に移動で次の現場へ、道、水路も繋がるし
その後、東、西への進出もできるし、物資も入る。定期建築物と考えるけどね。
祭祀にも使えるし

「以婢千人自侍,唯有男子一人給飲食,傳辭出入。
居處宮室樓觀,城柵嚴設,常有人持兵守衞」などの記載に合わなければ、
いくらオレオレ詐欺の分裂幻覚的な妄想をしたって、詐欺がすぐにバレるから、バツ。
455日本@名無史さん
2021/10/18(月) 21:49:29.94
>>403
>移動式だからね 永久的な建物なら数えられるけど 纏向のみはおさまらないと思うよ。

「以婢千人自侍,唯有男子一人給飲食,傳辭出入。
居處宮室樓觀,城柵嚴設,常有人持兵守衞」
に合わなければ、いくら言い訳したって、無駄。
456日本@名無史さん
2021/10/18(月) 21:50:33.50
>>450
何がダメです。だよ
おまえの言ってる事は近畿で起きた事だとしても何も矛盾しない
457日本@名無史さん
2021/10/18(月) 21:51:45.36
>>427
崇神が4世紀前半で決定、ならばその数十年前に13歳で即位したトヨがいることになる。
それは天トヨ津姫しかいない。
その3世代前にヒメ后もいるし、卑弥呼の死後に千人規模の死者を出す男王・建甕尻(別名タケミカヅチ)がいる。
邪馬台国畿内説 Part729 ->画像>42枚

邪馬台国の王都は葛城であっさり決定。
458日本@名無史さん
2021/10/18(月) 21:52:09.26
移動できようができまいが千人の巫女や守衛が暮らしていた痕が残っていないという現実
459日本@名無史さん
2021/10/18(月) 21:55:58.69
>>411
>>ソースは

>「辻地区においてはすでに
多数の掘立柱建物、大規模な水路、祭祀土坑などが検出されている」文化庁

成程。文化庁も、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの纏向説の、
応援をしていた、という事か。
460日本@名無史さん
2021/10/18(月) 21:58:26.24
>>456
卑弥呼が神代でなく歴史の人なら
なぜ記紀は偉大なる女王の卑弥呼を記載しないのだ?
何で皇祖の子孫が九州から来たと嘘を書くのだ?
仮説でいいから説明してくれ。
461日本@名無史さん
2021/10/18(月) 22:01:07.53
>>414
>>纏向では、「可七万戸」は無理。

>纒向=邪馬台国とか言ってる痴呆は畿内説には一人もいません

邪馬台国とか畿内なんては、存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、
この男もバツであり、
「可七万戸」の説明も出来ないから、やはりバツ。
462日本@名無史さん
2021/10/18(月) 22:02:23.52
>>460
まず金印貰っちゃマズいわな
それと暗殺で権力を奪ったなら事実をそのまま書かないでしょ
そら九州から来て合戦を挑んで勝ったなら格好いいけど
463日本@名無史さん
2021/10/18(月) 22:04:01.49
>>415
>そうやってウソをつくから九州説はダメになった

そうやって、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定のウソをつくから、
オレオレ詐欺の大和説はダメになった
464日本@名無史さん
2021/10/18(月) 22:06:42.70
>>457
あんたそのの系図知っててそれか。
神武は大物主(事代主)の娘をもらいに九州から来たんだろうに。
何で九州から来たと嘘を書く必要がある?ないよ。
465日本@名無史さん
2021/10/18(月) 22:11:21.91
>>416
>纏向で、「可七万戸」とかは、誰が言ったのか?

キミら大和説者が言った。

>邪馬壹國(近畿)で「可七万戸」

近畿説も「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「倭國は正北抵新羅」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツ。

>卑弥呼の墓の説明 

当然、不一致だな。

>女王之所都内とは書いていないけど?

「居處宮室樓觀,城柵嚴設,常有人持兵守衛」は、当然女王の所都だな。

>「居宮」の実態説明 当然 だから書いた

「居宮」になっていなければ、当然バツ。
466日本@名無史さん
2021/10/18(月) 22:14:01.77
>>418
「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、バツであるし、
オレオレ詐欺師の大和説者は、九州説に全く反論出来ない
不思議だが本当だ
467日本@名無史さん
2021/10/18(月) 22:17:08.04
実際に起きた事は乙巳の変みたいに権力に近い者同士の
どろどろとした争いだと思うけどな
468日本@名無史さん
2021/10/18(月) 22:17:55.48
>>420
>いや、今の所、混在時期だな。纏向に環濠と異なる大規模な定住跡あれば
初期の証明になる。藤原京より古いもんになるだろう
それとも、計画断念地かも?

魏の役人たちが実地に見聞計測した3世紀第2四半世紀のものである、
という証明が出来なければ、当然バツだよ。
469日本@名無史さん
2021/10/18(月) 22:18:45.83
畿内説では卑弥呼が誰か?だけで爆死なんだ。

卑弥呼は皇祖のモデルになった人(仮定)
子孫の神武が九州から大物主の婿養子になりに来る。
邪馬台国は九州。葛城周辺は饒速日や大物主が平定済みの日本。
両国合併=ヤマト王権。
仮定1つで何一つ矛盾なく無理なく説明できる。

畿内にはとても無理、無理。死に体。
470日本@名無史さん
2021/10/18(月) 22:18:46.44
畿内説では卑弥呼が誰か?だけで爆死なんだ。

卑弥呼は皇祖のモデルになった人(仮定)
子孫の神武が九州から大物主の婿養子になりに来る。
邪馬台国は九州。葛城周辺は饒速日や大物主が平定済みの日本。
両国合併=ヤマト王権。
仮定1つで何一つ矛盾なく無理なく説明できる。

畿内にはとても無理、無理。死に体。
471日本@名無史さん
2021/10/18(月) 22:22:44.33
>>423
>「可七萬餘戶」にも「卑彌呼以死,大作冢,徑百餘步,徇葬者奴婢百餘人」などにも、
ばっちりだな。卑弥呼が邪馬壹國以外に居ればな。

「邪馬壹國女王之所都」が卑弥呼がいた「所都」なんだから、
このオレオレ詐欺男はバツ。
もう君は、あしたも来たら、大和説の批判をやってね。
472日本@名無史さん
2021/10/18(月) 22:23:53.93
その仮定にもそれなりの説明はしたはずだ。
では、畿内説どうぞ。卑弥呼は誰?なぜ書かない?
473日本@名無史さん
2021/10/18(月) 22:34:25.65
>>324
北部九州では3世紀後半半ば過ぎには、前方後円墳時代が開始していた。
邪馬台国なんて存在もしなかったし、邪馬壹國は筑紫付近にあった。
弥生時代発現期段階で、筑紫を中心に、
九州付近規模の倭國の政治連合が形成され始めていた。
倭人の天孫族の阿毎氏や、呉王夫差の遺民の姫氏らによるもの。
北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の中心であり、九州島一円は傘下にあった。
首都は筑前地域から一旦糸島付近になり、更に中国や半島の戦乱により、
317年頃に「こうやの宮〜久留米」付近に遷宮した。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは九州の筑紫である。
474日本@名無史さん
2021/10/18(月) 22:42:49.50
>>438
>俺は最近九州説から近畿説に変わった訳で郷土愛とか考えてないけど

近畿説自体が、「南≠東」や「正北抵新羅の倭國(≒女王國)は九州」などの、
史料事実や史料実態に拠ってバツ。
475日本@名無史さん
2021/10/18(月) 22:46:28.49
>>443
>全部近畿で起きた事でも構わない訳で九州の根拠になってない

近畿説も、「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や、
「正北抵新羅の倭國(≒女王國)は九州」などの史料事実や史料実態に拠って、バツです。
476日本@名無史さん
2021/10/18(月) 22:50:06.10
>>447
>卑弥呼=皇祖神アマテラスで近畿説で良いじゃん

卑弥呼は3世紀であり、天照は紀元前3世紀位だから、バツであり、
近畿説は「南≠東」や「正北抵新羅の倭國(≒女王國)は九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツ。
477日本@名無史さん
2021/10/18(月) 22:52:33.91
>>449
>もどうかなぁ...そんな複雑なことしないでしょ、普通。
邪馬台=大和(箸墓)でいいとおもうけどなぁ…

「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國(≒女王國)は九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツ。
478日本@名無史さん
2021/10/18(月) 22:56:09.09
ん、王者の貫禄は???

で、熱り覚めた頃に
また「布留」「布留」と「物部氏の遠祖・饒速日命の異名」を唱えながら
土器の年代でも語り合うのか?
一説に天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊のお膝下だぞ。
本物のアマテラスいや、アマテルなんだが。うれしいだろ?
女王国を求めながら女王は誰か?の質問一つで終わる奇説。
それが邪馬台国畿内説。阿波とたいしてかわらんw





それでも物部氏族の遺跡でシコシコしたかったら永遠にやってなさいw
479日本@名無史さん
2021/10/19(火) 00:05:48.02
>>476
>卑弥呼は3世紀であり、天照は紀元前3世紀位だから、バツであり、
>近畿説は「南≠東」や「正北抵新羅の倭國(≒女王國)は九州」などの、
>史料事実や史料実態に拠って、バツ。

これは例のザラコク(本物)かな?
だとすると以前から不審に思ってたのだが、フルタやザラコクの本心は、
(大古より新羅が高天原で、紀元前3世紀にその新羅夷族の天孫が降臨したのが畿内で、)
(その畿内王朝の出先として九州地方王朝があり、その王朝は7世紀/白村江あたりまで続き、大宰府に移行した・・)、
こういう新羅的筋立てなんだな。
480日本@名無史さん
2021/10/19(火) 02:37:47.44
>>409
<隋書倭国伝について>
(1)都於邪靡堆
(2)則魏志所謂邪馬臺者也
(3)古云去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里在會稽之東與?耳相近

(1)(2)(3)は連続して記されていますので(1)(2)だけ取り出して訓むのは間違いです。また隋書倭国伝の主語は「倭国」ですから主語を明確にして訓むべきです。

(1)(倭国は)邪靡堆に都す。
(2)(倭国は)則ち魏志の所謂る邪馬臺なる者也。
(3)古に云う「樂浪郡境及び帯方郡を去ること並びに一萬二千里にして會稽の東に在りてタン耳に相い近し」と。

(2)(3)は魏志倭人伝をもとに記されています。(3)を切り離すことは出来ません。(3)を切り離すと(3)を記す理由が理解できなくなります。
(1)は隋の時代(7世紀頃)の倭国について、(2)(3)は魏の時代(3世紀頃)の倭国について記されています。

隋の邪靡堆は都の名称、魏の邪馬臺は国の名称です。

<旧唐書倭国伝について>
倭國者、古倭奴國也。

(唐の時代の)倭国は古の倭奴国なり。

倭國=倭奴國ではなく、古の倭奴国が倭国の盟主だったということです。
481日本@名無史さん
2021/10/19(火) 04:44:00.12
>>479
これは例のオレオレ詐欺師の東大理系博士号自称男の本物かな?
だとすると以前から不審に思ってたのだが、スレ主や東大理系博士号自称男らの本心は、
大古より新羅が高天原で、紀元前3世紀にその新羅夷族の天孫が降臨したのが畿内で、
その畿内王朝の出先として九州地方王朝があり、
その王朝は7世紀/白村江あたりまで続き、大宰府に移行した・・、
こういう新羅的筋立てなんだな?。
482日本@名無史さん
2021/10/19(火) 05:13:57.58
>>481
>隋書倭国伝について(1)都於邪靡堆(2)則魏志所謂邪馬臺者也
(3)古云去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里在會稽之東與?耳相近
(1)(2)(3)は連続して記されていますので(1)(2)だけ取り出して訓むのは間違いです。また隋書倭国伝の主語は「倭国」ですから主語を明確にして訓むべきです。

君は、ここでもオレオレ詐欺をしています。隋書は「倭国伝」ではなく「俀國伝」であり、
タリシホコは明らかに「倭」という文字を嫌って「俀」という文字に替えました、
しかし、隋書の帝紀などでの九州以外の列島の記録では殆ど「倭」を使って、「俀」とは明らかに区別しています。

>(1)(倭国は)邪靡堆に都す。(2)(倭国は)則ち魏志の所謂る邪馬臺なる者也。
(3)古に云う「樂浪郡境及び帯方郡を去ること並びに一萬二千里にして會稽の東に在りてタン耳に相い近し」と。
(2)(3)は魏志倭人伝をもとに記されています。(3)を切り離すことは出来ません。(3)を切り離すと(3)を記す理由が理解できなくなります。
(1)は隋の時代(7世紀頃)の倭国について、(2)(3)は魏の時代(3世紀頃)の倭国について記されています。
隋の邪靡堆は都の名称、魏の邪馬臺は国の名称です。

これも少し違います。「則ち魏志の所謂る邪馬臺なる者也」は、
隋書の編者である「唐代の魏徴らの自己解釈による書き換え文」であり、全く根拠になりません。

>旧唐書倭国伝について 倭國者、古倭奴國也。(唐の時代の)倭国は古の倭奴国なり。
倭國=倭奴國ではなく、古の倭奴国が倭国の盟主だったということです。

これも少し違います。
舊唐書の最も大事な主張は、倭國と日本國との関係や違いをはっきりさせる事であり、日本國伝の冒頭の、
「日本國者倭國之別種也。以其國在日邊故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅改為日本。或云:日本舊小國併倭國之地」
という事です。
483日本@名無史さん
2021/10/19(火) 05:55:23.42
>>364
>人為的改変の欠片もない自然地形で300メートルくらいの尾根を150メートルの塚というのが妄想

立派な150m。

>昭和に建てられた妖怪退治の説話をもとにした蜘蛛窟の碑を奴婢埋葬痕跡というのが妄想

碑は昭和だが、伝承そのものは神武の時代、庄内0期。

>高天彦神社周辺は、鎌倉時代まで高間と呼ばれていて、高台の平地くらいの意味

鎌倉時代の『三流抄』には『太神・・・大和国葛城山高間原天岩戸ニ閉籠リ玉フ』
つまりここが高間原、高天原。


>葛城西南部の山地のとっかかりの辺りに奴婢埋葬痕跡など欠片もないww

高尾張邑の土蜘蛛征伐伝承がある。

悔しいのう、悔しいのうw
150mの墳墓でもなく、奴婢埋葬伝承の全然ない箸墓を卑弥呼墓だと早とちりした己のバカさ加減を嘆け、無能君w
484日本@名無史さん
2021/10/19(火) 06:10:23.01
>>482
それは。君流の解釈にすぎません。
485日本@名無史さん
2021/10/19(火) 06:14:05.90
>>482
また、君は記述された年代感が欠如しています。
486日本@名無史さん
2021/10/19(火) 06:27:29.71
>>478
>それでも物部氏族の遺跡でシコシコしたかったら永遠にやってなさいw

物部氏族の遺跡=「忌部一族(阿波勢力)」進出の痕跡。   @阿波
487日本@名無史さん
2021/10/19(火) 06:37:02.87
>>482
アンカミスしてねーか
488日本@名無史さん
2021/10/19(火) 07:07:40.04
>>84
>>86 
卑弥呼の冢=祇園山古墳
台与の墓=那珂八幡古墳(2号。1号は父の「男弟」)
神武の墓=箸墓(大和東征後)
489日本@名無史さん
2021/10/19(火) 07:25:39.40
>>488
台与から倭王の禅譲を受けた神武(伊都国王)東征後、倭迹迹日百襲姫が追葬された箸墓の断面図(北側)
……………………………___
5段目…………………/百襲姫\←崇神が追葬
4段目…………/ ̄磐余彦神武 ̄ ̄ ̄\____________
3段目………/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\___________\_
2段目……/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\____________\_
1段目_/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\_____________\__地面
……… ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
490日本@名無史さん
2021/10/19(火) 07:28:04.79
天照大神と須佐之男が、天之安河(あまのやすかわ)を挟んで宇氣布(うけふ)=誓約をした。
その「天之安河」がまさに「鮎喰川」である。 
鮎喰川下流一帯弥生集落遺跡群(女王国)は、「邪馬臺国」構成国のひとつ。 実質的に「邪馬臺国」の首都。
女王「卑彌呼」が隠棲した所が、鮎喰川上流の神山町にある大宜都比売命(おおげつひめのみこと)を祀る上一宮大粟神社一帯。(
女王「卑彌呼」の陵墓は、御祭神 大日?女命を祀る、正一位 式内名神大社 「天石門別八倉比賣神社」裏手の円墳。
そして、「高天原」が神山一帯の四国山地。

邪馬台国と狗奴国は激しい戦闘を繰り広げている。
狗奴国の軍勢は、鮎喰川下流の邪馬台国王都に攻め込み、鮎喰川上流の神山まで押し寄せている。 
それに反攻するため、邪馬台国側は吉野川流域の勢力を味方につけ、狗奴国軍を押し戻し、打ち破った大戦争。   

こういう地理的事実で説明できるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。   @阿波
491日本@名無史さん
2021/10/19(火) 07:40:09.12
>>483
>悔しいのう、悔しいのうw
>150mの墳墓でもなく、奴婢埋葬伝承の全然ない箸墓を

なんで悔しがってもらえると思うのか理解できない。
裸の男に「お前ら露出できなくて悔しいだろ」と言われても変態じゃないから悔しくないのと同じ
492日本@名無史さん
2021/10/19(火) 07:42:45.43
>>220
箸墓が3世紀第4四半期ってことは、3世紀中葉の那珂八幡古墳こそ最初の前方後円墳ってこつ?!
>>488
卑弥呼の死後、男王が立ったが収まらず千人あまりが殺し合ったっててあるけど、男弟が立って殺されちゃって那珂八幡古墳に葬られ、後に娘の台与が追葬されてってこと?
493日本@名無史さん
2021/10/19(火) 07:54:56.09
>>487
>アンカミスしてねーか

しているようですね。
申し訳御座いません。
私のPCがもう相当古くなっていて?、画面に変な画面が割り込んできたり、
突然画面が消えてまた始めから打ち直しさせられたり、
打った文字が突然消えたり、画面が動かなくなったり、
5chの管理者からクレームが入ったりで打ち直しをさせられたりなどで、
四苦八苦しています。
494日本@名無史さん
2021/10/19(火) 07:56:26.13
天照大神と須佐之男が、天之安河(あまのやすかわ)を挟んで宇氣布(うけふ)=誓約をした。
その「天之安河」がまさに「鮎喰川」である。 
鮎喰川下流一帯弥生集落遺跡群(女王国)は、「邪馬臺国」構成国のひとつ。 実質的に「邪馬臺国」の首都。
女王「卑彌呼」が隠棲した所が、鮎喰川上流の神山町にある大宜都比売命(おおげつひめのみこと)を祀る上一宮大粟神社一帯。
女王「卑彌呼」の陵墓は、御祭神 大日孁女命を祀る、正一位 式内名神大社 「天石門別八倉比賣神社」裏手の円墳。
そして、「高天原」が神山一帯の四国山地。

邪馬台国と狗奴国は激しい戦闘を繰り広げている。
狗奴国の軍勢は、鮎喰川下流の邪馬台国王都に攻め込み、鮎喰川上流の神山まで押し寄せている。 
それに反攻するため、邪馬台国側は吉野川流域の勢力を味方につけ、狗奴国軍を押し戻し、打ち破った大戦争。   

こういう地理的事実で説明できるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。   @阿波
495日本@名無史さん
2021/10/19(火) 08:00:11.24
>>488
>卑弥呼の冢=祇園山古墳

賛成です。

>台与の墓=那珂八幡古墳(2号。1号は父の「男弟」)

壹與の墓は、
壹與は「玉と鏡の女王」ですから、平原1号墳だろう、と思います。

>神武の墓=箸墓(大和東征後)

神武即位元年は、二中歴の年代歴に拠って、紀元前91年頃であり、
箸墓とは年代が全く合いません。
496日本@名無史さん
2021/10/19(火) 08:17:48.09
>>155
>>158
曹操高陵と同じ鉄鏡は男弟が副葬し(那珂八幡古墳1号)、娘・台与(那珂八幡古墳2号)と共に盗掘を受け、ダンワラ古墳の被葬者が相続したってことかな?
497日本@名無史さん
2021/10/19(火) 08:23:50.33
>>476
>>卑弥呼は3世紀であり、天照は紀元前3世紀位だから、バツであり、
>>近畿説は「南≠東」や「正北抵新羅の倭國(≒女王國)は九州」などの、
>>史料事実や史料実態に拠って、バツ。
>>481
>これは例のオレオレ詐欺師の東大理系博士号自称男の本物かな?

これはあのザラコク(本物)かな?
とすると以前から疑問不審に思ってたのだが、フルタやザラコクの本心は、
(大古より新羅が高天原で、紀元前3世紀にその新羅夷族の天孫が降臨したのが畿内で、)
(その畿内王朝の出先として九州地方王朝があり、その王朝は7世紀/白村江あたりまで続き、大宰府に移行した・・)、
つまり結局は新羅礼賛の筋立てのようだな、、。
498日本@名無史さん
2021/10/19(火) 08:24:59.57
>>496
もしかしたら卑弥呼死後の男王を巡る殺し合いは、金印「親魏倭王」はもちろん、曹叡明帝から特別の恩寵として「銅鏡百枚」とともに卑弥呼に贈られた曹操高陵の鉄鏡の奪い合いだったりしてw
共立(⇔世襲)女王のくせに、摂政(男弟)が勝手に私物化するとは何事か!(怒)となってしまったのかも…
499日本@名無史さん
2021/10/19(火) 08:50:51.92
>>493
それは大変ですね
昔と違い、今パソコンはピンキリで
安く買えますよ。
500日本@名無史さん
2021/10/19(火) 08:52:02.58
>>80
>>82 う〜ん、どうかなぁ...こんな壮大な誇大妄想思い付かないでしょ、普通…邪馬台=大和(箸墓)で良いと思うけどなぁ…
501日本@名無史さん
2021/10/19(火) 10:23:37.57
>>440
「西の九州を服属せしめた」という意味
にならない
「西服衆夷六十六國」である。
インチキ野郎。
502日本@名無史さん
2021/10/19(火) 11:15:14.82
>>501
「東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」

これはずばり、四国(阿波)を中心とした東・西・北への「忌部一族(阿波勢力)」進出展開記述
「東征毛人五十五國」 =畿内以東(北関東含む)
「西服衆夷六十六國」 =西瀬戸内・九州
「渡平海北九十五國」 =東瀬戸内・山陰・北陸 

これ全部、倭国(阿波)から進出した忌部一族の開拓地域と合致する。   @阿波
503日本@名無史さん
2021/10/19(火) 11:24:07.45
>>502
海北は朝鮮半島じゃなきゃ上表文の意味がない
おバカですね
504日本@名無史さん
2021/10/19(火) 11:26:36.00
>>503
>上表文の意味がない

なんでや?   @阿波
505日本@名無史さん
2021/10/19(火) 11:40:34.11
>>426
>比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi mai hou〉、

左側スロープ君や、否定されつくした妄想を書き続けるのは止めなさいw

卑弥呼が倭人の発音からの聞き取り音訳なのはお前も否定しないんだろ?

であるなら、中国語の「后」を大王の后妃に付けて呼ぶ(発音する)ことは
ありえない
この時点で「比桃@(Bi mie hou)」は最初から破綻しているデタラメだってことだ
506日本@名無史さん
2021/10/19(火) 11:52:22.96
>>441
>どっちみち崇神天皇が東征してきます。

これは決めつけだね

崇神天皇(3世紀半ば)の頃に西から東への文物の移動・影響は見られない
畿内様式甕の東から西への移動・浸透は明確
佐々木憲一「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」
507日本@名無史さん
2021/10/19(火) 11:55:29.02
>>506
>畿内様式甕の東から西への移動・浸透は明確

何も難しいことではない。 単に「忌部一族(阿波勢力)」が九州へ進出した痕跡に過ぎない。   @阿波
508日本@名無史さん
2021/10/19(火) 11:59:19.58
>>460
>なぜ記紀は偉大なる女王の卑弥呼を記載しないのだ?
>何で皇祖の子孫が九州から来たと嘘を書くのだ?
>仮説でいいから説明してくれ。

畿内(おそらく唐子鍵)の卑弥呼を共立するときに、九州勢への懐柔策として
卑弥呼の祖先に九州から来た王がいてその血筋であるという話を持ち出した

それが、神武東征の本来の意味

記紀に卑弥呼は書いてあるよ
倭迹迹日百襲姫命でいい
記紀で唯一、墓の造営記事がある皇女で巫女なのだから、彼女と見てよい
卑弥呼は呼称であり、固有名詞ではないということだろう

あと、記紀編纂時に男系主義になっていたので、ヒメヒコのヒコ王が
皇統として記録されたと考えれば十分
509日本@名無史さん
2021/10/19(火) 12:02:15.62
>>481
>これは例のオレオレ詐欺師の東大理系博士号自称男の本物かな?

違うよww
私が本人

最近は、たまに来て集中的に回答しているだけだから、分かりやすいと思うがなww
510日本@名無史さん
2021/10/19(火) 12:04:45.74
>>506
>佐々木憲一「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」

卑弥呼の時代は「塚(ちょう)」の時代だ。
そのころの土器類の拡散がどのようであったかが問題なのである。
(崇神天皇からと言われている古墳文化(前方後円墳文化)の拡散は、もっとずっと後のことだ。)
511日本@名無史さん
2021/10/19(火) 12:12:02.36
>>483
>立派な150m。

どこがだ?wwwwww
邪馬台国畿内説 Part729 ->画像>42枚
お前の言う傾斜が変わるところ(人為的改変跡ではなくただの尾根の始まり)から
150メートルの距離を測っても、単に東向きに単調に下るだけの尾根で
「150メートルのところまでが塚だ」と考える理由が一切ないwwwww
お前の大好きな蜘蛛窟の標柱(昭和になって妖怪退治の逸話をもとに建てた)までで
285メートルだww

数値的にも左側スロープ君の言うことはデタラメww
512日本@名無史さん
2021/10/19(火) 12:18:34.68
>>483
>碑は昭和だが、伝承そのものは神武の時代、庄内0期。

伝承に土器など出てこないし、伝承から土器形式を推定するのは不可能
よくもまあこんなデタラメを思いつくよなww

お前の大好きなもっこりからは庄内0期はおろか、土器の出土は一切ない

御所市史による蜘蛛塚、蜘蛛窟の縁起は
「むかし、千本の足を持つ大きな土蜘蛛が住んでいた。
時の天皇は御悩みであったので、勅使が来て、字サルチ(猿伐)から矢を射て殺した。
矢の落ちたところを矢の段という。
土蜘蛛を高天彦神社の傍らに埋め、蜘蛛塚といった。蜘蛛の居た窟は神社の前の並木の東にある。」
となっている

「時の天皇」という時点で、神武天皇ではない
「妖怪討伐の伝説」で土蜘蛛は1体、土蜘蛛100人ではない
退治したのは天皇の「勅使」、神武の軍勢ではない

左側スロープ君の言うことはとことんデタラメw
513日本@名無史さん
2021/10/19(火) 12:19:50.06
>>483
>鎌倉時代の『三流抄』には『太神・・・大和国葛城山高間原天岩戸ニ閉籠リ玉フ』

自分でも、高天原じゃなくて「高間」原って認めてるじゃないかww
514日本@名無史さん
2021/10/19(火) 12:21:57.49
>>510
「東阿波型土器」の拡散も、「前方後円墳」の拡散も、いずれも「忌部一族(阿波勢力)」の全国進出を物語るもの。   @阿波
515ですます ◆/91kCCQXBo
2021/10/19(火) 12:29:42.74
>>493
スレ違いの質問で恐縮だけど、どんなときに(何をやると)5chの管理者からクレームが来るんですか?
516日本@名無史さん
2021/10/19(火) 12:58:45.66
>>489
>台与から倭王の禅譲を受けた神武(伊都国王)東征後、倭迹迹日百襲姫が追葬された箸墓の断面図

日本人の感覚だと、他人の墓の上に別人を葬るっていうのは冒涜的だと感じるはずだがな

どこの文化の人なの?>>489は?
517日本@名無史さん
2021/10/19(火) 13:00:35.56
>>492
>箸墓が3世紀第4四半期ってことは、3世紀中葉の那珂八幡古墳こそ最初の前方後円墳ってこつ?!

箸墓の大きさ基準で作られているのだから、そういうことにはならないんだよなw
つまり、箸墓を新しくしようとする(3世紀第4四半期とか)と
方々で矛盾が出る=間違いってこと
518日本@名無史さん
2021/10/19(火) 13:01:36.78
>>494
>その「天之安河」がまさに「鮎喰川」である。 

それ、滋賀県守山市の野洲川だろ
519日本@名無史さん
2021/10/19(火) 13:02:00.07
>>465
「邪馬壹國女王之所都」が卑弥呼がいた「所都」なんだから?

女王の都とする所なりだよ。

卑弥呼がいた、住む
「邪馬壹國女王之居都」
「邪馬壹國女王之住都」になる。
520日本@名無史さん
2021/10/19(火) 13:04:57.39
そう言えば、箸墓の5段目は後付け感半端ないな。傾斜角度が明らかに下四段と違う。
西殿塚に至っては後円部だけでなく、前方部も四角だしね。
521日本@名無史さん
2021/10/19(火) 13:07:15.80
>>510
>卑弥呼の時代は「塚(ちょう)」の時代だ。

おいおい、「塚(ちょう)」というのが高塚の墳墓であり、
現代の歴史用語で古墳と呼んでいるものを大陸からの使者が
見て「冢」と書いたというだけ

径百歩と書いてある時点で、古墳時代に入っている
522日本@名無史さん
2021/10/19(火) 13:09:09.42
>>495
で被葬者はいるのか?
523日本@名無史さん
2021/10/19(火) 13:09:23.02
前方後円墳なら長百歩だろうしな。
524日本@名無史さん
2021/10/19(火) 13:14:09.06
>>520
赤色立体地図で見る限り、5段目が後付けというより、
4段目までが基壇で、5段目が墓本体だろう
4段目にスロープが接続している
邪馬台国畿内説 Part729 ->画像>42枚
525日本@名無史さん
2021/10/19(火) 13:15:28.17
>>524
下4段はパキパキしてるけど、5段目だけ土饅頭みたいだね
526日本@名無史さん
2021/10/19(火) 13:19:13.03
>>515
差別用語の使用とか個人情報の暴露とか
527日本@名無史さん
2021/10/19(火) 13:22:52.35
>>488
>>492 
そういうこと。今夜は死亡した畿内説のお通夜。
528日本@名無史さん
2021/10/19(火) 13:23:54.36
>>523
>前方後円墳なら長百歩だろうしな

根拠は?
なし?
529日本@名無史さん
2021/10/19(火) 13:26:55.16
>>523
「径○歩」と書くということは、曲面で、どこから見ても幅が変化しない、つまり円墳だと判るということだもんね、納得。

またしても畿内説は墓穴を掘ってしまったねw
530日本@名無史さん
2021/10/19(火) 13:30:24.69
>>518
>それ、滋賀県守山市の野洲川だろ

なんで?   @阿波
531日本@名無史さん
2021/10/19(火) 13:30:32.34
>>521
韓伝に紹介されているとおり、
「塚(ちょう)」と前方後円墳とは、明らかに形式形状が違う。

現代歴史用語で古墳(前方後円墳)と呼んでいるものを大陸からの使者が
見て「冢」と書いたというだけ・・、というのは、
いささか願望を込めての所感というべきだろうな。
また、径百歩と書いてある時点で古墳時代に入っている、というのも同様の所感だな。

径百余歩の自然丘陵の頂上部に径十数歩〜程度の塚を作り、
その周囲の自然丘陵を手直し整形して百余の殉葬を行えば、全体を以て径百余歩と形容しておかしくない。
世相混乱の中での卑弥呼死を以て大作塚径百余歩の状況にぴったり合う高名な神域が、九州島のど真ん中に残されている。
532日本@名無史さん
2021/10/19(火) 15:07:15.26
>>529
>「径○歩」と書くということは、曲面で、どこから見ても幅が変化しない、つまり円墳だと判るということだもんね、納得。

それ、FAQで論破されてるから
533日本@名無史さん
2021/10/19(火) 15:08:13.27
>>531
それ、論理的に間違ってるので、無効
534ですます ◆/91kCCQXBo
2021/10/19(火) 15:33:54.48
>>526
なるほどww
それはクレーム来そうですね
535日本@名無史さん
2021/10/19(火) 15:36:48.61
>>527
那珂八幡古墳 
前方後円墳     ⇒ 畿内の墓制を受け入れている畿内中心の文化圏の中
箸墓の3分の1サイズ ⇒ 箸墓被葬者より下位の位置付け
三角縁神獣鏡が出土 ⇒ 畿内から下賜品をもらう立場

これが臺予の墓とかww
536日本@名無史さん
2021/10/19(火) 15:40:20.02
>>530
>なんで?

ここを野洲川が流れているんだよ
http://moriyama-bunkazai.org/ise/

神々(のちの人たちの祖先の有力者)が集まったヤスカワの川辺と言えば
ここが最有力
537日本@名無史さん
2021/10/19(火) 15:42:16.20
>>508
それはない。
まず、古代交易は九州北部経由、
渡来人の友好関係も九州北部経由
対外的に、東征はあっても、畿内からの西征はありえない。
文明的が優れた大陸との支援は九州が有利である。
538日本@名無史さん
2021/10/19(火) 15:44:29.32
>>536
>ここを野洲川が流れているんだよ

だから、なに?   @阿波
539日本@名無史さん
2021/10/19(火) 15:52:10.55
>>535
>これが臺予の墓とかww

或る意味、その通り、
卑弥呼の墓も、臺与の墓も、永遠の静謐のために守護の神社が建てられ神官神職がお守りしている。
だから考古学者風情の手に負えるものではないのだ。
540日本@名無史さん
2021/10/19(火) 15:52:43.96
>>537
>まず、古代交易は九州北部経由

明らかに間違いですね
北部九州経由は対外交易だけです
だから西征がありうる
541日本@名無史さん
2021/10/19(火) 16:03:03.96
>>508
モモソが実在した証はなにも無い。
神話の世界の戯言
天皇を神格化するために書かれたのが記紀神話。北の将軍様と同じ。
542日本@名無史さん
2021/10/19(火) 16:13:27.83
>>526
それは君が悪いですね。5ちゃんだからと言っても、普通は犯罪行為で訴えられます。
543日本@名無史さん
2021/10/19(火) 16:19:21.70
>>532
阿保
スレ主の個人的な意見をテンプレで書いてるだけじゃん。
544日本@名無史さん
2021/10/19(火) 16:23:24.83
>>543
アンチが論破されているのは事実
545日本@名無史さん
2021/10/19(火) 16:28:00.48
>>544
キナイコシの自己満足Ww
箸墓が前方後円墳で無いなら、古墳時代は前倒しにできない。
546日本@名無史さん
2021/10/19(火) 16:30:42.57
>>544
どこで、証拠は
547日本@名無史さん
2021/10/19(火) 17:57:38.80
埋葬部分は後円部なんだから前方部は別てのが一番説得力があると思うけどな
548日本@名無史さん
2021/10/19(火) 18:07:44.15
たしかに説得力あるな、、間違った説だと一般人にもよくわかる
549日本@名無史さん
2021/10/19(火) 18:08:30.37
>>545
>箸墓が前方後円墳で無いなら、古墳時代は前倒しにできない

どうして?
550日本@名無史さん
2021/10/19(火) 18:20:45.53
>>541
同意
魏志倭人伝と記紀は別物
551日本@名無史さん
2021/10/19(火) 18:25:20.40
「弥生人にとって、阿波はまさにパラダイス」

南四国は、温暖な黒潮流れる太平洋に面し、漁労・航海術が発達、内陸は高温多雨による森林資源に恵まれ、
一方、希少価値の高い鉱物に恵まれている。
また、吉野川を始めとする、いくつもの大河が流れ、大河流域にも、多大な土地の恵みを与えている。   

南四国に大国「邪馬臺国」・「狗奴国」・「投馬国」が興るのも当然と言えば当然。   @阿波
552日本@名無史さん
2021/10/19(火) 18:38:18.46
>>511
>>立派な150m。

>どこがだ?wwwwww
>邪馬台国畿内説 Part729 ->画像>42枚

なんでわざと損なとこまで計ってるの?
何度も書いてるだろ。
邪馬台国畿内説 Part729 ->画像>42枚

君が300mという約半分だから150mだね。

妖怪退治って何なの、水木しげるの話か。
日本書記には人間と書いている、妖怪ではない。

おまえしつこい、負け犬。
553日本@名無史さん
2021/10/19(火) 18:44:27.59
>>513
>自分でも、高天原じゃなくて「高間」原って認めてるじゃないかww

高間原天岩戸だから問題ないね。
おまえサイコパスかな。
554日本@名無史さん
2021/10/19(火) 18:49:34.27
>>512
>伝承に土器など出てこないし、伝承から土器形式を推定するのは不可能
よくもまあこんなデタラメを思いつくよなww

字音武藤正のような出来事があったのなら必ず考古学的に大きな変化が現れる。
大和盆地でそのような大きな変化があったのは2世紀末の庄内0期。

それは神武の時代であり、ニギハヤヒの時代であり、忌部の天富、中臣の天種子の時代であり、卑弥呼=ヒメ后の時代だ。

崇神が卑弥呼であるモモソヒメの40歳年下という、ほぼ知恵遅れの君は黙っててくれないか?
555日本@名無史さん
2021/10/19(火) 18:50:20.38
× 字音武藤正のような

〇 神武東征のような 

556日本@名無史さん
2021/10/19(火) 18:59:05.79
>>508
>記紀に卑弥呼は書いてあるよ
倭迹迹日百襲姫命でいい
記紀で唯一、墓の造営記事がある皇女で巫女なのだから、彼女と見てよい
卑弥呼は呼称であり、固有名詞ではないということだろう>

アホ丸出しやなおまえ。

卑弥呼を隠す事=帥升を隠す事=中国への土下座から始まる日本の歴史を隠す事。

それが日本書紀編纂の最大の動機なのだから、夜は神が造ったなどとの卑弥呼を匂わす箸墓が卑弥呼の墓であるわけがない。
557日本@名無史さん
2021/10/19(火) 19:06:01.18
神武なんかを根拠にされてもなぁ
そんな奴居ねえよ
558日本@名無史さん
2021/10/19(火) 19:16:50.72
>>557
崇神が4世紀前半、ならば神武も実在。
崇神から約6世代前、時期は2世紀末、卑弥呼の時代。
559日本@名無史さん
2021/10/19(火) 19:22:01.51
>>558
>崇神が4世紀前半、ならば神武も実在。

「阿波」でな。   @阿波
560日本@名無史さん
2021/10/19(火) 19:28:15.74
>>559
大塚美術館に向かう電車で鳴門うず潮高校の女生徒に取り囲まれた。
全国各地の女子高生を研究してる私だが、鳴門うず潮高校の女生徒たちの胸が全国平均よりも大きい事に容易に気付いた。
子供のころから食べている鳴門金時の影響であろう。
彼女たちが私を快楽のエトランゼへと導いてくれたことを告白しよう。
561日本@名無史さん
2021/10/19(火) 19:36:49.30
>>556
私もそう思う。箸墓は、卑弥呼の墓ではない。
記紀に出てこない、卑弥呼の墓守りをする訳が無い。
もし、記紀が創作された時に箸墓が墓守りも居なく荒廃していたとしたら、それこそ邪馬台国と、ヤマト王権は関係ない。
562日本@名無史さん
2021/10/19(火) 19:47:29.24
>>561
なに言ってるのか意味がわからない
563日本@名無史さん
2021/10/19(火) 19:58:54.43
>>562
ひとに自論を説明する自信のない証拠。     @阿波
564日本@名無史さん
2021/10/19(火) 20:03:32.39
箸墓は京都山代の五塚原古墳や大阪交野の雷塚古墳と強い関係がある。

そして崇神の前代。
崇神陵より箸墓の方が巨大だ。

崇神の前代で山代や交野と強い関係がある人物、それは崇神の叔父であるイカガノシコオ以外にいない。
イカガノシコオの妻である真木姫の父が山代国造の祖・長溝。
イカガノシコオと真木姫の子が交野連であるタベノスクネ。

つまり箸墓古墳の被葬者とはイカガノシコオ以外に考えられない。
565日本@名無史さん
2021/10/19(火) 20:06:59.29
言い忘れたが、イカガノシコオの妻である真木姫と、
女優で豊胸手術をした真木よう子は何も関係はない、念のため。
566日本@名無史さん
2021/10/19(火) 20:10:36.09
>>564
>つまり箸墓古墳の被葬者とはイカガノシコオ以外に考えられない。

その「イカガノシコオ」を、なんで「阿波」だけで祀らにゃならんのだ?  それなら、畿内でお祀りしろよ!   @阿波
567日本@名無史さん
2021/10/19(火) 20:14:26.40
>>508
>倭迹迹日百襲姫命でいい
でいいw
倭迹迹日百襲姫は誰の巫女なんだよ?
知らないのか?ありえねーんだよ!

倭迹迹日百襲姫=親魏倭王w

珍説もいいとこだな。だから畿内説は詰んでるって!
568日本@名無史さん
2021/10/19(火) 20:14:27.11
>>508
>倭迹迹日百襲姫命でいい
でいいw
倭迹迹日百襲姫は誰の巫女なんだよ?
知らないのか?ありえねーんだよ!

倭迹迹日百襲姫=親魏倭王w

珍説もいいとこだな。だから畿内説は詰んでるって!
569日本@名無史さん
2021/10/19(火) 20:16:32.73
みんな

記紀

好きだね

倭人伝と

関係ないのに

よっ日本人

万歳
570日本@名無史さん
2021/10/19(火) 20:24:47.52
卑弥呼が誰かで瓦解する珍説
それが邪馬台国畿内説。
571日本@名無史さん
2021/10/19(火) 20:38:57.73
卑弥呼は卑弥呼
記紀の誰かにアテハメするゲームには興味がない
これが畿内説
572日本@名無史さん
2021/10/19(火) 20:43:48.16
負け惜しみはよせ
アテハメするゲームではない。史実に迫る事だ。
アテハメゲームすら出来ない説は終わってるってんだ。
573日本@名無史さん
2021/10/19(火) 20:46:05.16
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めると畿内説は成立しません。
  それだけは絶対にやめて下さい。(遺跡の年代の話題推奨)
574日本@名無史さん
2021/10/19(火) 20:47:32.41
>>560
徳島に「電車」は走ってないし、大塚の美術館の最寄り駅は鳴門駅で、そこからはバスかタクシーなんでw
リアリティーが無い作り話はつまらんよ、

まるで@阿波氏のようだ。
575longinus_bouz ◆bq94Vh60JQ
2021/10/19(火) 20:52:23.12
>>523 > 前方後円墳なら長百歩だろうしな//
  だからさ、張政が見た時は円墳で、後に前方後円墳に直ったんだよ。
張政は卑弥呼墓について、正確に記さねばならなかったので、
径100歩と記載した。その時点では、径100歩の墳墓は、卑弥呼墓だけだったからだ。
その時点で前方後円墳だったら、彼は大喜びで、径100歩に基壇あり、とでも書いた事だろう。

卑弥呼は急死して墳墓が急増された(卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩)。
日本書紀は箸墓について、昼は人が作り、夜は神が作ったなんて書いてあるが、
これは、卑弥呼急死を受けて、昼夜を問わない突貫工事が成された様子を描いている。
箸墓について日中の史料は一致している。
円墳を築造して、奴碑百餘人の殉葬もしたので手いっぱいで、前方部は後回しになったんだよ。


>>529 > 「径○歩」と書くということは、曲面で、
どこから見ても幅が変化しない、つまり円墳だと判るということだもんね//
  だから張政は、そう書いたんだよ。

> またしても畿内説は墓穴を掘ってしまったねw//
  はァ? 径100歩の墳墓なんて、箸墓以外、何処にあるってんだよ。
張政が見た時点で径100歩の墳墓は箸墓だけだったのだから、
箸墓が卑弥呼墓である事は確定事項なんだよ。
それに伴い、箸墓は、円墳から前方後円墳に直されたのも、確定事項なんだよ。

むろん、距離単位の里は、定義としてはキッチリ500mなのであり、
短里も長里も存在しない。メートルと同じ理屈で作られた単位だからだ。
「計其道里 當在會稽東冶之東」の記載より、当時の中国では、
緯度という概念があった事は明白なんだよ。
576日本@名無史さん
2021/10/19(火) 20:55:34.77
>>568
>倭迹迹日百襲姫=親魏倭王w
>珍説もいいとこだな。だから畿内説は詰んでるって!

確かにその通りだ、
畿内説の言い分が正しいなら、「倭迹迹日百襲姫=親魏倭王」であるが、
ただの姫に親魏倭王の金印だとか、そんな馬鹿なことあるか。羨んだ豪族たちが暴動を起こして、箸墓造営どころではなかったはずだ。
577日本@名無史さん
2021/10/19(火) 21:00:19.48
>>576
実在しないキナイセツを捏造して批判ゴッコw
578日本@名無史さん
2021/10/19(火) 21:03:17.18
北部九州王朝説を論破したつもりでオレオレ詐欺、畿内説!w
579コテ略
2021/10/19(火) 21:06:48.16
>>460 > 卑弥呼が神代でなく歴史の人なら
なぜ記紀は偉大なる女王の卑弥呼を記載しないのだ?//
  邪馬台国女王について正直に書いたら、都合が悪かったからに決まってるでしょ。
BC660以降、男系が続いているというファンタジーが崩壊するんだしさ。

> 何で皇祖の子孫が九州から来たと嘘を書くのだ?//
  宮崎の説話が創生神話に相応しかったんで、パクったんだよ。
邪馬台国には何の関係も無いハナシだけどもね。

>>576 > ただの姫に親魏倭王の金印だとか、そんな馬鹿なことあるか//
  ただの姫、ただの巫女なんかじゃなかったに決まってるでしょ。
580日本@名無史さん
2021/10/19(火) 21:17:59.27
>>579
> 男系が続いているというファンタジーが崩壊するんだしさ。
神功皇后は?彼女のように登場させればいい。
神功皇后は男系ファンタジーを壊したのか?矛盾だぜ。

> 宮崎の説話が創生神話に相応しかったんで、パクったんだよ。
そう推論する根拠を書け。

> ただの姫、ただの巫女なんかじゃなかったに決まってるでしょ。
その巫女さんはな、出雲神・大物主様の巫女なんだよ。
出雲神が居たんだよ先に!何回言わせるんだ。
お前らが必死でシコシコしてる遺跡は後の物部氏族のものだ!
581日本@名無史さん
2021/10/19(火) 21:48:24.60
神功皇后説は論破済みだからな。
>>106
582日本@名無史さん
2021/10/19(火) 22:02:17.21
そろそろ邪馬台国≠ヤマト王権説が出てくるか?
記紀が卑弥呼を記載しない理由はこれくらいしか残されないなぁw
場所が場所だけに苦しいのぉ。
何で卑弥呼に固執するかわからん。大物主のお膝下なのに。
本来の日本の最高神と言うべきお方なのに。
583コテ略
2021/10/19(火) 22:03:59.70
>>580 > 神功皇后は?彼女のように登場させればいい。
神功皇后は男系ファンタジーを壊したのか?矛盾だぜ//

オ〆は何を云ってるのかね。事績的には架空キャラでも、神功は仲哀嫁だろ。
男系継続は崩壊していない。
だが、邪馬台国女王について正直に書くと、崩壊するんだよ。

> そう推論する根拠を書け//
  セッセと地方の説話を採取してるだろ。で、これにしよう、だろ。
東遷なんてマに受けてるのかね。宮崎の景色風土を持って来る訳には遺憾のだから、
キャラを東遷させるしかないだろが、パクるにはさ。

> 巫女さんはな、出雲神・大物主様の巫女なんだよ//
  はァ? 出雲説かね。まぁ、いわゆる神宝検校事件とか、
三輪山南麓に出雲なんて地名があるのは、無関係ではなさそうだがね。

> 出雲神が居たんだよ先に!何回言わせるんだ//
  そりゃいるだろ。オ〆は頓珍漢を何回も云ってるのかね。

> お前らが必死でシコシコしてる遺跡は後の物部氏族のものだ!//
  邪馬台国の家来だろ。
連って、邪馬台国に連なっていた、の意味だと思うんだがね。

張政が来た時点で径100歩の墳墓は箸墓だけだったのだから、
箸墓が卑弥呼墓なのは確定事項なんだよ。
オ〆が如何に鳴き喚こうが、揺るぎもしないね。

>>581 > 神功皇后説は論破済みだからな。>>106//
  残念ながら頓珍漢だね。神話キャラなぞ無関係だ。
584コテ略
2021/10/19(火) 22:07:33.33
>>582 > そろそろ邪馬台国≠ヤマト王権説が出てくるか?
記紀が卑弥呼を記載しない理由はこれくらいしか残されないなぁw//

記紀に卑弥呼・台与タンが直接出てこないのは、
彼女らが大和にいなかったから、じゃないんだよ、為念な。
585日本@名無史さん
2021/10/19(火) 22:10:28.42
>>584 クソ坊主
「弥生人にとって、阿波はまさにパラダイス」

南四国は、温暖な黒潮流れる太平洋に面し、漁労・航海術が発達、内陸は高温多雨による森林資源に恵まれ、
一方、希少価値の高い鉱物に恵まれている。
また、吉野川を始めとする、いくつもの大河が流れ、大河流域にも、多大な土地の恵みを与えている。   

南四国に大国「邪馬臺国」・「狗奴国」・「投馬国」が興るのも当然と言えば当然。   @阿波
586日本@名無史さん
2021/10/19(火) 22:24:56.72
〉邪馬台国女王について正直に書くと、崩壊するんだよ。
何故?女帝はいくらでも居るだろう。
なぜ卑弥呼に限って記載すると男系ファンタジーが崩壊するのだ?
ここを明確にしてくれ。ここは、畿内説のアキレス腱だぞ。

〉神話キャラなぞ無関係だ。
なら尚更に誰なんだよ。親魏倭王の称号を得て、かつ神話時代の人でなく
歴史の時代の人なら何らかの伝承が残るだろう。
って言うか記紀がなぜ記さない?に帰結する。
587日本@名無史さん
2021/10/19(火) 22:33:09.76
転載だが、鋭い指摘だと思う。

後漢・魏の時代の一歩は六尺なのですが、後漢と魏では六尺の長さが少し違います。
唐代になると一歩は五尺で1.555mに相当します。
<後漢>一歩(六尺)1.382m
<魏>一歩(六尺)1.447m
*一歩の意味は左足と右足で踏み出したときの長さの事で、ほぼ六尺。
片足の幅を半歩として跬(キ)といい三尺になります。

卑弥呼の墓は直径百餘歩とありますので、そのまま受け取れば150m位になりますね。
墓の形状については「円墳」「方墳」なのか「前方後円墳」なのか全く記述がありませんが、
当時の中国人から見れば円墳や方墳ならともかく、「前方後円墳」は珍しい形であるはずです。
様々な時代の史書を読むと、中国に無いものを記す場合は詳しく形状を書く事が多いので「前方後円墳」であれば何らかの形状に
ついての特徴を記したのではないかと思います。何も特徴が記されていないという事であれば、「円墳」とするのが妥当だと説が有力です。

「箸墓古墳」を卑弥呼の墓とする説を時々拝見しますが、「箸墓古墳」は前方後円墳で全長278m、高さ30mと言われていますから、
径百餘歩の墓とは規模が違うように思います。
588日本@名無史さん
2021/10/19(火) 22:33:57.48
>>575
>箸墓は、円墳から前方後円墳に直されたのも、確定事項なんだよ。

どこで確定したの?
589日本@名無史さん
2021/10/19(火) 22:38:44.76
卑弥呼の墓は「円墳」とするのが妥当。
「箸墓古墳」は前方後円墳で全長278m、高さ30mと言われていますから、
径百餘歩の墓とは規模が違うように思います。

コテ略氏の畿内説の根拠は径100歩の墳墓だけなのようなので無理筋。
590日本@名無史さん
2021/10/19(火) 22:39:53.16
>>587
後円部が径百余歩でしょ
591日本@名無史さん
2021/10/19(火) 22:44:22.42
>>575
あなた
右翼の宣伝カーみたい
592日本@名無史さん
2021/10/19(火) 22:46:29.56
箸墓の周辺にはホケノ山古墳や箸墓旧古墳群やら前方後円墳の完成形がとっくに存在していたのに箸墓の後円部だけと主張する畿内説
593日本@名無史さん
2021/10/19(火) 22:47:54.37
>箸墓は、円墳から前方後円墳に直されたのも、確定事項なんだよ
え、畿内説ってこんな事を言っちゃってるの?
これは完全に無理筋だなぁ。情けないね。

捏造してまで何で卑弥呼に拘るのかわからんね。
「主」さまがいらっしゃるに。
594ですます ◆/91kCCQXBo
2021/10/19(火) 22:50:17.68
私見ですけれども、畿内説はそもそも記紀に基づいているわけでは無いですよね
テンプレで挙げられているのは、主に考古学的アプローチで導かれる説のようにみえます
立脚しているものが違うわけですから、それを記紀と合わないからと言われても議論は噛み合わないでしょう
本当に議論したいなら、自説で邪馬壹国を比定するのは最低限必要じゃないですかね

もっとも、このスレでは議論が噛み合っていることの方が珍しいみたいですけどねw
595日本@名無史さん
2021/10/19(火) 22:56:40.11
畿内説のちゃんとした人は居ないの?
スレ主は?ご大層なテンプレ群には恐れ入るけど。
邪馬台国と関係ない資料を大量にw

テンプレ書き直し推奨
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めると畿内説は成立しません。
  それだけは絶対にやめて下さい。(遺跡の年代の話題推奨)
596日本@名無史さん
2021/10/19(火) 23:07:30.26
どこから狂ったんだろうな。
昔は桃核の年代測定がどうなったとか科学的な話もしていたのに。
597日本@名無史さん
2021/10/19(火) 23:09:34.97
>>500
う〜ん、どうかなぁ...普通の人は、
「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國(≒女王國)は九州」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定のオレオレ詐欺の、
こんな壮大な誇大妄想思い付かないでしょ、
普通…邪馬壹國女王之所都=筑紫で良いと思うけどなぁ…
598日本@名無史さん
2021/10/19(火) 23:14:02.21
考古学的になら「卑弥呼の墓だ」などとはしない事です。
考古学的に何世紀の墓だとか、こう言う特徴があるとか。
この様式が基本で全国に広まったようだとかのみを扱うべきです。

名前を出すと文献と照らし合わされるのは仕方のない事です。
その時代に邪馬台国以外の国が無かったわけではないのです。
真偽を確かめる人が必ず現れます。
決定的な何か(例えばオオホコの鉄剣など)が出ない限り口にしない事です。
名を口に出すなら畿内説も文献に照らし合わすべきです。
599日本@名無史さん
2021/10/19(火) 23:15:27.23
>>501
>「西の九州を服属せしめた」という意味にならない
「西服衆夷六十六國」である。インチキ野郎。

漢語での動詞文言の使用では、原則として、元々、
自動詞としての使用も、他動詞としての使用も、どちらでも可能であり、
前後の文字との関係で区別されるものである。
600日本@名無史さん
2021/10/19(火) 23:18:55.61
それが出来ないのは間違っているからです。
簡単な論理です。親魏倭王がこの国の歴史から
消えてしまうと言うのには何らかの説明が必要です。
601日本@名無史さん
2021/10/19(火) 23:19:18.37
>>596
>崇神天皇(3世紀半ば)の頃に西から東への文物の移動・影響は見られない
畿内様式甕の東から西への移動・浸透は明確
佐々木憲一「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」

佐々木憲一?。
この名前には記憶があるし、一回きちんと論破した事があるぞ。
602日本@名無史さん
2021/10/19(火) 23:29:17.81
>>517
同じ部族においては、墓の形態や大きさは、その部族の崩壊や滅亡がなければ、
原則として、「形態が進化」し「サイズも大きくなる」ものなんだよ。
そういうような考えからで編年しなければならないんだよな。
つまり、箸墓を新しくしようとする(3世紀中ごろ?とか)と
方々で矛盾が出る=間違いってこと
603日本@名無史さん
2021/10/19(火) 23:34:21.34
>>600
親魏倭王じゃ不味いからでしょ
604コテ略
2021/10/19(火) 23:45:26.09
>>593
> >箸墓は、円墳から前方後円墳に直されたのも、確定事項なんだよ
え、畿内説ってこんな事を言っちゃってるの?//
  はァ? >>575 に矛盾でもあるってなら、サッサと書けよ。
こんな事を言っちゃってる人はいない、ってのは、矛盾でも何でもないだろ。

> これは完全に無理筋だなぁ。情けないね//
  だからさ、何処が無理筋なんだよ八゛力。情けないのはオ〆の膿味噌の性能だろ。

> 捏造してまで何で卑弥呼に拘るのかわからんね//
  どこが捏造なのかねノー夕リソ。

>>588 > どこで確定したの?//
  はァ? レス元に矛盾でもあるってなら、サッサと書けよ。

>>587 > 「円墳」とするのが妥当//
  だから私は>>575で、張政が見た時の箸墓はそうだったと、言ってるだろ。

> 「箸墓古墳」は前方後円墳で全長278m、高さ30mと言われていますから、
径百餘歩の墓とは規模が違うよ//
  後円部の径はキッチリ百歩だろ。
オ〆さ、スで全長が100歩だと思ってたのかね。愚昧なんだな。
なお、日本書紀記載より、神功陵とされる五社神古墳も、径はほぼ100歩だ。
書紀編纂者は、径100歩の箸墓が卑弥呼墓だと知ってた事になるな。

> 転載だが、鋭い指摘だと//
  わ、とてもじゃないが思えんの。自分の糞投稿でも甜菜したのかね、甘い脳味噌だな。

>>589 > 「箸墓古墳」は前方後円墳で全長278m//
  同じ誤りをクドクドと繰返すには及ばんのだよ了ホウ。
605ですます ◆/91kCCQXBo
2021/10/19(火) 23:57:20.31
>>598
畿内説だろうが九州説だろうがその他の説だろうが、アプローチは違えど魏志に合うように考えているのでは?
当時の文献はそれしか残っていないのだからある意味で妥当だと思いますし、そもそも他人の指図を受けるようなものではないでしょう

真偽を確かめるとは??
記紀に基づけば真偽を確定できるのですか?本当ですか?
畿内説が間違っていると断言出来るなら、ここでレスバを煽っているよりは論文なり書籍なりを書いて名を上げた方がいいと思いますよ
畿内説と言ってもいろいろでしょうからトンデモ説もあるでしょうけど、万人が認めて長きに渡る論争に終止符をうてるならすごいですね
606longinus_bouz ◆bq94Vh60JQ
2021/10/19(火) 23:57:59.06
>>592 > 箸墓の後円部だけ//
  張政が見た時はそうだったんだよ。後に前方後円墳に直された。
>>575に書いた通りだが、矛盾は無かろ、逆は無理っぽいけどな。

>>595 > 畿内説のちゃんとした人は居ないの?//
  ちゃんとしてないオノレの膿味噌の心配でもしとけよ八゛力。

>>600 > 親魏倭王がこの国の歴史から消えてしまうと言うのには//
  消えてないでしょ、日本書紀は魏志倭人伝を引用してるんだしさ。

>>594 > 私見ですけれども、
畿内説はそもそも記紀に基づいているわけでは無いですよね//
  卑弥呼急死と箸墓の築造については、日中の史料は一致してるだろ。

序に云えば、垂仁紀の、殉葬止めたという記載は、箸墓での殉葬が念頭にあって、
自分の墓では殉葬はヤダ、という意思表示と考えればいいだろ。
垂仁ってのは、卑弥呼の次の世代の為政者っぽいんだしね。

むろん、替わりの埴輪ってのは狂言回しだね、箸墓殉葬との連環を晦ます為のさ。
607コテ略
2021/10/20(水) 00:00:51.24
>>605 > 記紀に基づけば真偽を確定できるのですか?本当ですか?//
  読み方次第だろ。たとえば、アンタ宛ての>>606後段みたいにさ。
608日本@名無史さん
2021/10/20(水) 00:02:53.09
>>596
>どこから狂ったんだろうな。
>昔は桃核の年代測定がどうなったとか科学的な話もしていたのに。

好事魔多し何かに気をとられてこーろんだのさ。
何かとは、自分自身で書いたFAQ、、
609コテ略
2021/10/20(水) 00:10:11.10
>>596 > どこから抂ったんだろうな//
  張政が来た時点で径100歩の墳墓は箸墓だけだったのだから、
箸墓が卑弥呼墓である事は確定事項なんだが、
オ〆の膿味噌はどこから抂って、タヒ沼で抂いっぱなしなのかね。
610日本@名無史さん
2021/10/20(水) 00:15:38.85
>>609
本当?
大阪城の下に埋まってない?
611日本@名無史さん
2021/10/20(水) 00:18:39.54
坊主が滑ってこーろんだ!
612ですます ◆/91kCCQXBo
2021/10/20(水) 00:18:42.42
>>607
いろいろな立場や考え方はありますね
利用可能な情報に基づいて蓋然性の高い説を考えることはできると思いますが、確定は出来ないというのが自分の立場です
他の可能性を排除できないうちは、個人的にかなり同意できる場合でも「有力な説」くらいに考えています
613日本@名無史さん
2021/10/20(水) 00:24:06.26
>>604
あなた
また、右翼の街宣車ですか
騒音を撒き散らすのはやめて欲しいです
614日本@名無史さん
2021/10/20(水) 00:36:50.04
>>612
消去法では真実に迫れませんよ。
優劣をつけたがるのはわかりますが
正解は出ません。
邪馬台国論叢に終止符を打つ決定打が無いのが現状です。
だから、興味深いし、楽しいのです、
615日本@名無史さん
2021/10/20(水) 00:42:27.52
>>614
何言ってんのかわかんねえ
616日本@名無史さん
2021/10/20(水) 01:03:26.88
キウス
617日本@名無史さん
2021/10/20(水) 03:30:35.14
邪馬台国は最近は畿内説が有利だと昨日の読売新聞の夕刊に書いてあったね。
618日本@名無史さん
2021/10/20(水) 04:21:34.63
>>616
嘘や間違いは指摘しますよ。奥山さん
619日本@名無史さん
2021/10/20(水) 04:25:44.14
>>1
ところで、奥山VSザラコクは
何年前から、続いているの?
620日本@名無史さん
2021/10/20(水) 04:33:32.99
>>617
畿内で新たな発掘物がありましたか?
621日本@名無史さん
2021/10/20(水) 04:42:56.45
>>618
一度もしたこと無くないか?
622日本@名無史さん
2021/10/20(水) 06:33:51.76
>>617
読売新聞は邪馬壹國の記事を良く載せるね。紙面が余った時用かな?
今年に入って、筑紫平野連合説や、立命館の出口氏や、新聞社刊行の本を出したり、、
623日本@名無史さん
2021/10/20(水) 06:43:18.85
>>596
>どこから狂ったんだろうな。

そりゃ、「阿波」が台頭してからだよ。   @阿波
624日本@名無史さん
2021/10/20(水) 06:49:48.76
>>605
動かぬ、倭国(阿波)の決定的証拠 : 「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」   

他説の追随を許さない、「阿波」の圧倒的遺跡群。   

旧説(畿内説や九州説)の御用学者やミーハー相手のマスコミが「阿波」に跪くのは、時間の問題。   @阿波
625日本@名無史さん
2021/10/20(水) 06:53:32.05
他説の追随を許さない、「阿波」
626日本@名無史さん
2021/10/20(水) 07:07:18.45
>>488
>>492 う〜ん、これもどうかなぁ...邪馬台=大和(箸墓=卑弥呼の冢・長二百歩)で良いと思うんだけどなぁ…
627日本@名無史さん
2021/10/20(水) 07:07:20.64
>>623
誰が狂ったの? キウス?
628日本@名無史さん
2021/10/20(水) 07:10:47.64
>>627
>誰が狂ったの? キウス?

旧説(畿内説や九州説)の御用学者やミーハー相手のマスコミが。   @阿波
629日本@名無史さん
2021/10/20(水) 07:13:31.84
>>496
>>498 九州なら中国文明の威信財(揉め事の原因)が豊富だが、大和は鍬の再利用の木製仮面と桃の種と土器しか出てこない平和な遺跡w
630日本@名無史さん
2021/10/20(水) 07:24:29.11
>>629
>九州なら中国文明の威信財(揉め事の原因)が豊富だが

しかし、九州発祥の文明無し。 他所(中国や阿波)からの貰い物ばかり。   @阿波
631日本@名無史さん
2021/10/20(水) 07:24:55.85
>>617
多分、武光誠の執筆じゃねーの
個人的意見だろ
632日本@名無史さん
2021/10/20(水) 07:25:53.80
>>631
武光は九州説だろ?
633日本@名無史さん
2021/10/20(水) 07:27:55.90
>>620
>畿内で新たな発掘物がありましたか?

そんなもんネー
634日本@名無史さん
2021/10/20(水) 07:33:34.92
読売が云いたいのは、

箸墓 = 親魏倭王の墓!?
635日本@名無史さん
2021/10/20(水) 07:39:15.08
>>82
>>94 阿波さん、四国は縁の下の力持ち少彦名王の侏儒(小人)国だよ
636日本@名無史さん
2021/10/20(水) 07:59:07.46
えっ、
読売は、親中派だったの。
637日本@名無史さん
2021/10/20(水) 08:00:01.55
>>635
侏儒国に、「其山有丹」は無い!  と何度言えばw   @阿波
638日本@名無史さん
2021/10/20(水) 08:07:19.03
中央構造線上に丹はあるからね。四国だけじゃないから!と何度言えばw
639コテ略
2021/10/20(水) 08:13:53.79
>>591 > あなた 右翼の宣伝カーみたい//
>>613 > あなた また、右翼の街宣車ですか
騒音を撒き散らすのはやめて欲しいです//

オ〆は街宣車の運転してる八゛力うよなんだよな。
であればこその減らず口なんだシネ。
矛盾でもあるってなら、サッサと書いてみなよノー夕リソ。

>>612 > いろいろな立場や考え方はありますね//
  アンタに考え方なんてモンは無いでしょう。

> 蓋然性の高い説を考えることはできると思いますが、確定は出来ないというの
個人的にかなり同意できる場合でも「有力な説」くらいに考えていま//
  要するに、考える脳力がなくて、何も分かんないだけでしょ。
持って回った云い方だけで、内容皆無なんだしさ。
640コテ略
2021/10/20(水) 08:14:30.89
>>617 > 邪馬台国は最近は畿内説が有利だと//
  誰が何言ってるかなんて、あんまり関係ないんですわ。
張政が来た時点で径100歩の墳墓は箸墓だけだったのだから、
箸墓が卑弥呼墓である事は確定事項なんだしさ。

古墳の型式編年が進む前でもさ、箸墓についての日中史料の一致、
例えば、>>575なんかに気付けば、それが卑弥呼墓だと分かりそうなもんだし。
>>606後段でも書いたが、垂仁紀の殉葬エピソードだって、手掛かりなんだしさ。
641日本@名無史さん
2021/10/20(水) 08:16:30.36
>>147 そうかもしれません
642日本@名無史さん
2021/10/20(水) 08:17:00.11
>>638
もう、いい加減に諦めたらどうだ?  潮時だぞ。   @阿波
643日本@名無史さん
2021/10/20(水) 08:17:54.53
>>529
径100歩は墓の大きさじゃなくて墓域のことだね
墓の大きさなら高さも記してはずだ
殉葬100人の奴婢も径100歩内に埋められてるんだろうな
644日本@名無史さん
2021/10/20(水) 08:17:57.56
>>521
おいおい、「冢(ちょう)」というのは錐体や錐体台的な墳墓であり、
楽浪太守墓や現在の天皇家の墓にもみられる形態であり、
現代の大和説学者らが「前方後円墳」と呼んでいる語は、
大陸の「冢」という文言とはかけ離れたものだ。
また、径百余歩の「歩」も、周髀算経の周代や魏朝や西晋朝の使用里であり、
大和時代とは、殆ど関係がない。
645日本@名無史さん
2021/10/20(水) 08:19:36.85
>>84 径百尺を盛って百歩と書いたの??
646コテ略
2021/10/20(水) 08:39:55.73
>>644
> おいおい、「冢(ちょう)」というのは錐体や錐体台的な墳墓であり・・・
大陸の「冢」という文言とはかけ離れたものだ//

張政は卑弥呼墓である箸墓について、「大作冢 徑百餘歩」と記載した。
それだけのことなんだよ。

> 楽浪太守墓や//
  当時の楽浪太守や帯方太守がどうなったか、
そして、玄菟太守はどうだったか、なんてのも、考える事だね。

> 径百余歩の「歩」も、周髀算経の周代や魏朝や西晋朝の使用里であり//

距離単位の里は、メートルと同じ理屈で作られていて、
定義としてはキッチリと500mなんだよ。短里も長里も存在しない。
当時の中国では、緯度という概念が既にあったのだから。
その事は、「計其道里 當在會稽東冶之東」の記載より明白だ。
647日本@名無史さん
2021/10/20(水) 08:43:41.89
>>644
>おいおい、「冢(ちょう)」というのは錐体や錐体台的な墳墓であり、

捏造はいかんな九州説
648日本@名無史さん
2021/10/20(水) 08:47:37.86
>>639
人格変えての投稿お疲れ様
649コテ略
2021/10/20(水) 08:51:05.63
>>643 > 径100歩は墓の大きさじゃなくて墓域のことだね//
  張政は卑弥呼墓である箸墓について、
「大作冢 徑百餘歩」と記載した。それだけのことなんだよ。
彼は卑弥呼墓について、正確に記載する必要があった。
それゆえ、卑弥呼墓のID情報として、径100歩と記載した。
張政が見た時点で、他には径100歩の墳墓なぞ無かったからだ。

> 墓の大きさなら高さも記してはずだ//
  書かなかったのは、高さなんて、ID情報になぞならないからだよ。
前方後円墳だったなら、彼は大喜びで径100歩に基壇あり、とでも書いたのだろうが、
そうは書かなかったという事は、彼が見た時点で円墳だったからだ。
彼が送還された後に、円墳が前方後円墳に直されたことも、確定事項なんだよ。
矛盾はしないだろ、逆は、前方後円墳を円墳に直すのは無理っぽいけどな。

そもそも前方後円墳って、円墳作って前方部を付け足してるんだろ。

>>648 > お疲れ様//
  オ〆の膿味噌が低性能なのは疲れてるからではなく、元から悪いからだよ。
矛盾でもあるってなら、サッサと書けばいいだろノー夕リソ。
650日本@名無史さん
2021/10/20(水) 08:57:48.35
箸墓なら長二百歩だもんねw
651日本@名無史さん
2021/10/20(水) 08:59:31.15
>>650
根拠なし
652日本@名無史さん
2021/10/20(水) 09:01:20.37
>>147 そうかもしれません
653日本@名無史さん
2021/10/20(水) 09:01:30.80
魏志という文献を根拠に卑弥呼を探すのはいいのです。
が、邪馬台国がヤマト王権であるとしながらそのヤマト王権が記した
記紀と言う文献に触れないのはどういう理由からでしょうか。
畿内説にもいろいろあると言うのに記紀にふれる人はいません。
あげく倭迹迹日百襲姫命でいいとか言う人がいたり。(総意でないのはわかっています。)
記紀の内容は男系ファンタジーや年代に関する事を除けば概ね信用できるものです。
でなければ、記紀編纂時に没落している物部氏の祖先が「日本国の名づけ親」などと
記載する理由がありません。全部、天皇様がした事にすればいいのです。
654日本@名無史さん
2021/10/20(水) 09:22:34.83
日本書紀は執筆期のヤマト政権を構成する主要氏族の永久平和条約なんだよ

永久平和条約の肝は各主要氏族の口承伝承の英雄を大王の系譜に
組み入れること

だから

(1) 大王族の一方的な言い分がまかり通るわけでない

(2) 当時の人間は各氏族の伝承の英雄がどの大王とされたのかよーく知っている

(3) 複数の有力氏族の口承伝承の英雄が同一人物らしき場合は
 中国書からのコピペや関係の無い伝承のすりかえもしくは内容を書かないなどの
 手段が採られている
 重要なのは氏族の口承伝承の英雄の名前が
 「日本書紀という碑」に刻まれているかどうかということなんだから
  
655コテ略
2021/10/20(水) 09:29:55.61
>>650 > 箸墓なら長二百歩だもんねw//
  後円部は径100歩だろ。
序に云えば、神功陵とされる五社神古墳も、後円部は径100歩だ。
神功が卑弥呼だと云い貼る以上は、「大作冢 徑百餘歩」と辻褄合わせにゃならんからだ。

>>653 > 魏志という文献を根拠に卑弥呼を探すのはいいのです。
記紀と言う文献に触れないのはどういう理由からでしょうか//
  御託を並べてるだけじゃ、どうしようようも無いだろ。

> 畿内説にもいろいろあると言うのに記紀にふれる人はいません//
  アンタの偏った認識なぞ知った事ではないよ。

> 記紀の内容は男系ファンタジーや年代に関する事を除けば概ね信用できるものです//
  読めもせん癖に何をエロそうに。

> 記紀編纂時に没落している物部氏の祖先が「日本国の名づけ親」などと//
  そんな事がどこに書いてあるのかね。ニギハヤヒ?
藤原不比等が相役の石上麻呂に忖度しただけでしょ。

>>654
> 日本書紀は執筆期のヤマト政権を構成する主要氏族の永久平和条約なんだよ//
  忖度もあったんだろうが、BC660からの男系継続というファンタジーが要諦なんだよ。
656日本@名無史さん
2021/10/20(水) 09:30:26.50
>>535
>那珂八幡古墳 前方後円墳⇒ 畿内の墓制を受け入れている畿内中心の文化圏の中

畿内なんて存在もしなかったオレオレ詐欺の嘘つき騙し文言であり、
大和の石塚や箸墓は、筑紫の那珂八幡などの進化型であるから、
那珂八幡の方が古いのであるから、バツ。

>箸墓の3分の1サイズ ⇒ 箸墓被葬者より下位の位置付け

石塚や箸墓は、当然、
九州倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」の征服軍の将軍や部将らの墓であり、
九州倭國王よりも下位の位置付け。

>三角縁神獣鏡が出土 ⇒ 畿内から下賜品をもらう立場

△も、筑紫の志登や祇園山や福崎西新町や那珂八幡などが先行しており、
福崎西新町にやって来ていた渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡をもらう立場。

これが臺予の墓とかww
657日本@名無史さん
2021/10/20(水) 09:34:12.36
>当時の人間は各氏族の伝承の英雄がどの大王とされたのかよーく知っている
よーく知っているなら親魏倭王も知ってますよね?

私見では、記紀は藤原氏が藤原氏とその傀儡である天智系持統天皇のために書いたもと推察しております。
没落氏族との平和条約は不要です。編纂から完成までの政情が大事です。
天照から天孫瓊瓊杵、持統女帝から孫文武。女帝から孫と言う前代未聞の皇位継承の正当化など。
658日本@名無史さん
2021/10/20(水) 09:36:11.73
>>492 箸墓がどんなに古くても270年とすると、前方後円墳の起源が変わるね
659日本@名無史さん
2021/10/20(水) 09:41:03.38
>>540
>>まず、古代交易は九州北部経由

>明らかに間違いですね 北部九州経由は対外交易だけです だから西征がありうる

明らかに間違いですね 大和は、
九州倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」の別種分家の、
「地方の市を監督する大倭職」の旧小国であり、
国内的な交易だけです
だから西征は有り得ない。
660日本@名無史さん
2021/10/20(水) 09:43:19.50
>>544
オレオレ詐欺の大和説にアンチが論破されている、
のは事実
661日本@名無史さん
2021/10/20(水) 09:46:57.18
>>578 なるほどね
662日本@名無史さん
2021/10/20(水) 09:48:33.71
>>599
「西服衆夷六十六國」である。
九州という記載はない。
インチキ野郎。
663日本@名無史さん
2021/10/20(水) 09:56:24.28
畿内説の遺跡が『女王国東渡海千余里復有国皆倭種』でないとする根拠が不明。
記紀と言う文献からするに明らかに「出雲国」や「饒速日の日本国」
おそらく畿内より東は倭種ではなく後に「蝦夷」と呼ばれる人たちの国だろう。
664日本@名無史さん
2021/10/20(水) 09:58:47.97
【骨 子】
・畿内には3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
邪馬台国の東の国。出雲から飛来した大物主、物部氏の遠祖・饒速日命の日本国
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
神武東遷により邪馬台国と饒速日の日本国が合併=ヤマト王権
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
首都移転により副都になった倭女王卑弥呼の都は【九州】である。
665日本@名無史さん
2021/10/20(水) 10:00:43.36
>>547
「冢は錐体や錐体台的な形状」なんだから、
前方後円墳というのは冢ではない、ってのが一番説得力があると思うけどな
666コテ略
2021/10/20(水) 10:03:59.38
>>657
> 私見では、記紀は藤原氏が藤原氏とその傀儡である
天智系持統天皇のために書いたもと推察しております//
  はァ? 何で?
藤原不比等の係累と思しき中臣金が、壬申の乱のとき、
近江朝の最高幹部として粛清されてるからか?

リアリストの不比等が、そんなノスタルジーに耽るとも思えんのだがね。
持統だって、天智系の皇族なんかには無関心でしょ。
皇統は結果的には天智系に戻るんだが、そりゃ、ずっと後のハナシだし、
不比等の与り知らぬハナシでしょ。
667日本@名無史さん
2021/10/20(水) 10:05:40.61
>>665
そういう意味じゃなくて他の根拠を探すくらいならそれが一番説得力があると言ってるだけで
俺も箸墓じゃ無いとは思ってる
668コテ略
2021/10/20(水) 10:06:53.81
>>665
> 前方後円墳というのは冢ではない、ってのが一番説得力があると思うけどな//
  張政は箸墓を見て、卑弥呼墓であると特定できるID情報として、
「大作冢 徑百餘歩」と記載した、それだけの事なんだよ。
669日本@名無史さん
2021/10/20(水) 10:09:50.81
>>658
>箸墓がどんなに古くても270年とすると、前方後円墳の起源が変わるね

もっと古いから変わらないけどね
670日本@名無史さん
2021/10/20(水) 10:17:52.27
>>653
>記紀編纂時に没落している物部氏の祖先が「日本国の名づけ親」などと記載する理由がありません。

それは、「物部氏の祖先」がすなわち「忌部一族(阿波勢力)」に他ならないからだよ。 
もちろん、「忌部一族(阿波勢力)」なんていう固有名詞は無かったからな。
もし、その固有名詞があれば、「物部氏の祖先」なんていう回りくどい表現はしていない。   @阿波
671日本@名無史さん
2021/10/20(水) 10:20:32.22
魏志が前方後円墳と言う珍妙な形状を記載しないわけがない。
672日本@名無史さん
2021/10/20(水) 10:21:50.95
>>654
それはまさに、各有力氏族の大元がすべて、倭人=「忌部一族(阿波勢力)」だったということ。   @阿波
673日本@名無史さん
2021/10/20(水) 10:25:02.80
>>664
>>664
逆だな。
卑弥呼、奴国がヤマトの中核
前方後円墳
那珂八幡古墳(奴国王)、箸墓(壹與と推測)
同時期だな。大きい分、箸墓が遅く完成
九州に筑紫国を置く

伊都国が出雲と関連深い
方形周溝墓
四隅突出型古墳
674日本@名無史さん
2021/10/20(水) 10:28:23.68
「弥生人にとって、阿波はまさにパラダイス」

南四国は、温暖な黒潮流れる太平洋に面し、漁労・航海術が発達、内陸は高温多雨による森林資源に恵まれ、
一方、希少価値の高い鉱物に恵まれている。
また、吉野川を始めとする、いくつもの大河が流れ、大河流域にも、多大な土地の恵みを与えている。   

南四国に大国「邪馬臺国」・「狗奴国」・「投馬国」が興るのも当然と言えば当然。   @阿波
675日本@名無史さん
2021/10/20(水) 10:32:05.82
>>671
>魏志が前方後円墳と言う珍妙な形状を記載しないわけがない。

という理由は?
676日本@名無史さん
2021/10/20(水) 10:36:59.40
>>673
東遷説の妄想は
無視できない現実と
なんとしてでも卑弥呼を九州にしたいという欲望のため
どうしても不自然なまぜこぜになる運命ってことだ
677日本@名無史さん
2021/10/20(水) 10:43:12.62
邪馬壹國(近畿)に奴国勢力を置く
奈良の語源
開拓、草木を踏みならす
平(なら)した地
植物のナラ
奴から来る
奴国より良い
東征でも、東遷でもない。
678日本@名無史さん
2021/10/20(水) 10:51:51.83
>>676
記紀は九州と近畿との統合させる為に
書いたもの。

旧唐書
倭国条に邪馬壹國の記述がない

新唐書はすでに記紀は書かれており
記紀に沿った記述
679日本@名無史さん
2021/10/20(水) 10:52:10.59
>>677
ほら、不自然
680日本@名無史さん
2021/10/20(水) 11:01:03.41
>>679
何が不自然?
地名も似ている。
681日本@名無史さん
2021/10/20(水) 11:06:03.32
byは日本語が変
682日本@名無史さん
2021/10/20(水) 11:08:21.77
>>677
>奈良の語源

平らな山「奈良山」=阿讃山脈   @阿波
683日本@名無史さん
2021/10/20(水) 11:15:06.74
>>680
>何が不自然?

土器の移動で「畿内→北部九州」の動きが確定しているから
684日本@名無史さん
2021/10/20(水) 11:17:16.03
ウリ奈良じゃないの
685日本@名無史さん
2021/10/20(水) 11:18:00.31
>>683
「阿波→北部九州」 「阿波→畿内」の動きが確定している。   @阿波
686日本@名無史さん
2021/10/20(水) 11:26:44.37
考古学的に伊勢から海を越えた東の国は倭種の国なんか?
卑弥呼の時代にだぜ?縄文人とか蝦夷じゃないの?
考古学得意なんだろ?
687日本@名無史さん
2021/10/20(水) 11:27:01.16
>>685
脳内でな
688日本@名無史さん
2021/10/20(水) 11:27:52.69
>>686
誰に話しかけてんの?
689日本@名無史さん
2021/10/20(水) 11:29:01.18
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。

読み替えないw
なんたるご都合主義。読めば読むほど無理筋。
690日本@名無史さん
2021/10/20(水) 11:29:38.27
サンスクリットの語源学では、nara の成り立ちを次のように解釈することも可能です。
nara は、na と ra の2音節からなる。
na のコトダマは、「息/息をするもの(生きもの)、もっとも貴重なもの(生命)」。
これは、n(a)に「存在」を意味するa-を冠すると
√an(息をする;“プラーナ”の語源)になることからもうかがわれる。
ra のコトダマは、「活動、行く、動く」。
na-raで、「生き物が行く」。もともとは「動物全般」をさしていた言葉が、
のちに「人間」に限定されるようになり、さらに「神/至高神」をもあらわすようになった、というわけです。

ナラ nara नर【伊藤武のちょこっとサンスクリット語】
691日本@名無史さん
2021/10/20(水) 11:30:30.33
奥山始め畿内説信者にとって、それは禁句だ。 畿外の伊勢まで取り込む詐欺集団。   @阿波
692日本@名無史さん
2021/10/20(水) 11:31:00.91
>>668
答えないなら無駄だから雑魚は黙ってろ。
693日本@名無史さん
2021/10/20(水) 11:31:34.66
倭国とか倭種とかは中国かまたは陳寿の認識であって実際は交易もしてたし
言葉もある程度共通だったと思うけどな
紀元前でも数千年の歴史があるんだから
694日本@名無史さん
2021/10/20(水) 11:31:42.48
>>688
答えないなら無駄だから雑魚は黙ってろ。
アンカ訂正
695日本@名無史さん
2021/10/20(水) 11:32:01.99
>>687
>脳内でな

違う。 「東阿波型土器」でだ。   @阿波
696日本@名無史さん
2021/10/20(水) 11:34:19.29
>>693
>倭国とか倭種とかは中国かまたは陳寿の認識であって実際は交易もしてたし
>言葉もある程度共通だったと思うけどな

その通り!  倭国(阿波)を発った「忌部一族(阿波勢力)」が暮らす所だから。   @阿波
697日本@名無史さん
2021/10/20(水) 11:37:46.62
真偽はともかく少なくとも文献等との照合をする阿波氏の説は畿内説より真摯。
九州説>>>阿波説>【文献無視と言う越えられない壁】>畿内説。
698日本@名無史さん
2021/10/20(水) 11:42:44.27
>>697
そうか?
阿波が歴史の表舞台にたった事は歴史上一度もない
699日本@名無史さん
2021/10/20(水) 11:45:03.29
>>689 箸墓ありきの「畿内」説w
>>147 もちろん
700日本@名無史さん
2021/10/20(水) 11:46:33.56
弥生人(倭人)が縄文人(蝦夷)を東へ追いやりながら
広がったのではないのか?考古学的に。

>倭国とか倭種とかは中国かまたは陳寿の認識
ん、陳寿が東の国まで行って確かめたとでも?
「倭人からの伝聞」に決まってるじゃないか。
倭人が虚勢を張って東にも倭人が居ると言ったのか?
でも、勢力外の外国だぜ。虚勢になるか?
701コテ略
2021/10/20(水) 11:53:04.25
>>689
> 読み替えないw なんたるご都合主義。読めば読むほど無理筋//
  はァ? オ〆は読み替えるのが是だと言うのかね。ご都合主義はオ〆だろ。
元が八゛力な上に、口答えだけしか頭にないからさ、支離滅裂になるんだよノー夕リソ。
無理筋という単語がお気に入りで、それ使って作文してるのかよ。
オ〆は消防でしかないな。身の程を弁えろよ、工〒公。
702日本@名無史さん
2021/10/20(水) 11:53:54.67
>>700
おまえと同じ様に揚げ足取りをすると「倭人からの伝聞」だけじゃないな
実際に来て確かめた中国人の記録もあるはず
703コテ略
2021/10/20(水) 11:56:36.82
>>686 > 伊勢から海を越えた東//
  万二千里、だけじゃなくて、道程がマルっきり出鱈目なんだから、
それもまるっきり出鱈目だという発想は出来んのかね。
704日本@名無史さん
2021/10/20(水) 11:58:25.61
>>698
>阿波が歴史の表舞台にたった事は歴史上一度もない

そうか?  織田信長より先に天下を取ってたぞ。   @阿波
705日本@名無史さん
2021/10/20(水) 12:00:43.08
>>703
>万二千里、だけじゃなくて、道程がマルっきり出鱈目なんだから

トンデモのお前にとってはな。    
自分がトンデモだという発想は出来んのかね。 わははははは   @阿波
706日本@名無史さん
2021/10/20(水) 12:01:15.57
卑弥呼こと九州ヤマト女王は出雲のスサノオの遠征を受けて和睦している。
次に、スサノオの血統の大物主が支配している奈良との合併が神武東遷。
大物主の娘を貰ってね。全部書いてるじゃん。
読み替えないwとか言わなくても。どこに無理がある?
だから東の国である出雲も知ってるのさ。
707日本@名無史さん
2021/10/20(水) 12:01:56.71
>>587
>転載だが、鋭い指摘だと思う。
後漢・魏の時代の一歩は六尺なのですが、後漢と魏では六尺の長さが少し違います。
・・・一歩の意味は左足と右足で踏み出したときの長さの事で、ほぼ六尺。
片足の幅を半歩として跬(キ)といい三尺になります・・・

不完全です。
周代以前から周朝の「歩」の文字は、
「二つの止を裏向けに貼り合わせた字形」であり、「1足底長の寸法≒1尺」であり、
「(後代秦朝などにおける)両足での一回の進む長さ」ではなく、
周代には混乱していた。
そして、秦の始皇帝は「1歩=6尺(2歩歩行長)」を命令したが、
漢代には、周朝歩と始皇帝歩の混乱が起こり、
魏の初代文帝が即位の受命改制の詔書で「度量衡の統一」を指示し、
重心たちが「周制への復古」を上表し、
明帝が暦法の改革の時に周代の周髀算経里への復古を決め、
自らも遼東の公孫氏征伐を「四千里征伐」という周髀算経里での発言をし、
それは西晋朝代でも継続したが、東晋が周髀算経里への強制を止めたので、
その後少しの間、南朝でも周髀算経里記載が存続した。
708コテ略
2021/10/20(水) 12:02:57.34
>>671
> 魏志が前方後円墳と言う珍妙な形状を記載しないわけがない//
  だからさ、張政が見た時点で円墳で、
我々の時代には前方後円墳になっていたで、何の矛盾も無いだろ。
大体さ、前方後円墳って、円墳作って前方部を継ぎ足すんだろ。

それにさ、箸墓以外に径100歩の墳墓って、当時の何処にあるんだよ。
短里だの長里だのってシロモノも、一切存在しないんだよ。
709日本@名無史さん
2021/10/20(水) 12:03:23.84
>>706
>卑弥呼こと九州ヤマト女王は出雲のスサノオの遠征を受けて和睦している。

妄想は楽しいか? 虚しくならないのか?   @阿波
710日本@名無史さん
2021/10/20(水) 12:04:35.29
>>708
>それにさ、箸墓以外に径100歩の墳墓って、当時の何処にあるんだよ。

「阿波」。   @阿波
711日本@名無史さん
2021/10/20(水) 12:05:47.30
>>80
>>82 こんな壮大な妄想思い付かないよ、普通…邪馬台=大和(箸墓)で良いと思うんだけどなぁ…
712コテ略
2021/10/20(水) 12:05:58.77
>>710
 ね〜だろ八゛力。
713日本@名無史さん
2021/10/20(水) 12:07:23.45
>>712
在るから言っている。   @阿波
714コテ略
2021/10/20(水) 12:09:22.36
>>705
  オ〆の膿味噌は、トンデという以前に、発想という機能が搭載されていない。
八゛力の癖して纏わり付くな、身の程を弁えなノー夕リソ。
715コテ略
2021/10/20(水) 12:10:49.56
>>714 > から言っている//
  云い貼るだけの工〒公。
716日本@名無史さん
2021/10/20(水) 12:13:15.73
>>715
そりゃ、オ〆だ工〒公。   @阿波
717日本@名無史さん
2021/10/20(水) 12:14:51.80
>>683
卑弥呼一族の影響で土器の移動「畿内→北部九州」、
奴国と結びつくことによって
鉄の輸入、護衛をつけ、弥生後期から古墳時代に増える。
ほとんど、滋賀、阿波で加工、開拓に使う。
古墳に奉納、紛争地域でないから開拓も進む。
宇陀、阿波等で水銀産出で輸出、水銀朱が入墨?祭祀のアイテム(棺等)
また祭祀道具の鏡の国産製造。
流通と祭祀等によって九州を安定化。
安定すれば、鉄農業道具が各地に安定供給できる。
718日本@名無史さん
2021/10/20(水) 12:18:49.24
>>84 南は東に、「作大冢 長二百歩」を「大作冢 径百歩」に写し間違えたんだと思うよ。
>>86 殉葬百人はどこか別の周辺民族と混同してしまったんじゃないかなぁ...邪馬台=大和(箸墓)で良いと思うんだけおなぁ…
719日本@名無史さん
2021/10/20(水) 12:19:39.96
>>717
妄想は楽しいか? 虚しくならないのか?   @阿波
720日本@名無史さん
2021/10/20(水) 12:20:21.66
「昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。」

— 『宋書』倭国伝「倭王武の上表文」より大意
721日本@名無史さん
2021/10/20(水) 12:24:18.57
>>697
文献等無視しない近畿説。
722日本@名無史さん
2021/10/20(水) 12:27:39.39
邪馬台国が九州の一豪族であるなら飛び地の近畿の土地を取ることに何の意味があるのか
もし近畿を取れば日本の覇権を握ることが出来るなら既に近畿にはそれだけの権力が集中してた事になる
でもそんな戦国時代みたいなことが太古の昔にあったのかねえ
723日本@名無史さん
2021/10/20(水) 12:33:21.13
>>677
お奈良
724日本@名無史さん
2021/10/20(水) 12:35:57.93
>>719
まったく、ならない。既存の説がむなしい。
阿波爺よ。なぜ、奈良に東遷したのに文献がないのか?
白村江の後なら文字もあろうに?
まあ、四国が、近畿、九州の中間地で重要な地。
日本海側、山陰、山陽との無用な争いを避ける
それと協力関係を構築。東海土器の次に多いのが
吉備系の土器。
725日本@名無史さん
2021/10/20(水) 12:36:46.36
>>686
その通りです。

「昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。」
— 『宋書』倭国伝「倭王武の上表文」より大意
726日本@名無史さん
2021/10/20(水) 12:38:19.73
どうやら>>694はコミュ障のようだな
727日本@名無史さん
2021/10/20(水) 12:40:11.58
>>691
奥山は詐欺ができるほど頭が良くない
馬鹿の一つ覚えで進歩が無い
728日本@名無史さん
2021/10/20(水) 12:41:38.85
元々の九州説というのは九州の一豪族が4世紀以降に
ヤマト王権に吸収されたという仮説だったんだが、
関西の朝鮮部落民が北部九州作り話の中心になってからは
朝鮮半島から来た北部九州の分家が
平安時代までに近畿までを征服したと言い張るようになった
つまり朝鮮起源説
729日本@名無史さん
2021/10/20(水) 12:44:26.10
>>708
箸墓が邪馬台国と何の関係があるのかな
ただ大きいだけじゃん
前方後円墳は前方部と後円部を合わせて、一つの墓と見なす事も知らないのかねー
730日本@名無史さん
2021/10/20(水) 12:47:41.08
大きな墓を造れるということは、それだけ大きな権力が誕生しているということ
731日本@名無史さん
2021/10/20(水) 12:48:55.94
>>729
埋葬施設は後円部だし前方部は祭祀用と考える事も出来ない訳じゃない
732日本@名無史さん
2021/10/20(水) 12:50:13.75
>>721
南を東と明確に答えた学者はいない
誤認、誤写、、、根拠もへったくれもない
733日本@名無史さん
2021/10/20(水) 12:52:14.93
>>718
それで良いよ
思うのは勝手だから
734日本@名無史さん
2021/10/20(水) 12:54:46.30
>>724
>なぜ、奈良に東遷したのに文献がないのか?

常世の国として、祖国「阿波」を明示している。   @阿波  
735日本@名無史さん
2021/10/20(水) 13:08:48.85
>>732
>南を東と明確に答えた学者はいない

うそ
「支那の古書が方向を言ふ時、東と南と相兼ね、西と北と相兼ぬるは、その常例ともいふべく、又其發程の首、若くは途中の著しき土地の位置等より、方向の混雜を生ずることも珍らしからず。
後魏書勿吉傳に太魯水即ち今の「氵兆」兒河より勿吉即ち今の松花江上流に至るに宜しく東南行すべきを東北行十八日とせるが若き、陸上に於けるすら此の如くなれば海上の方向は猶更誤り易かるべし。
故に余は此の南を東と解して投馬國を和名鈔の周防國佐婆郡玉祖郷(多萬乃於也)に當てんとす。」
(湖南)
736日本@名無史さん
2021/10/20(水) 13:08:59.03
>>730
>大きな墓を造れるということは、それだけ大きな権力が誕生しているということ

残念ながら、畿内には見当たらんけどな。  わははははは   @阿波
737日本@名無史さん
2021/10/20(水) 13:10:17.27
>>537
>対外的に、東征はあっても、畿内からの西征はありえない。

征西なんてしてないよ
西(九州)も含めた談合で畿内ヤマトの卑弥呼を共立したんだよ
軍門に下ったのではなく、一つの集団として卑弥呼を仰ぐ体制に移行したということ

その時に、西の顔を立てる意味で、卑弥呼の祖先筋に神武がいたという真偽不明の
昔話を持ち出して、それが公式化したのでのちの記紀にもその話が残った、という話
738日本@名無史さん
2021/10/20(水) 13:11:50.17
>>538
>だから、なに?

ヤスカワというのが、現実の地名の反映だと考えるなら
遺跡の状況から見て守山市の野洲川が最有力
739日本@名無史さん
2021/10/20(水) 13:14:05.15
>>614
>邪馬台国は最近は畿内説が有利だと昨日の読売新聞の夕刊に書いてあったね。

読売かあ?。
「邪馬台国」なんて存在もしなかった嘘つき騙しのオレオレ詐欺文言だし、
「読売」も、元々思想的に偏向性が酷かった新聞だし、
そんなものは根拠にはならないなあ。
740日本@名無史さん
2021/10/20(水) 13:14:27.99
>>546
>どこで、証拠は

アンチの方々は、テンプレは読まないって嘯いてるだろ?

反論すらできないっていう、論破されていることの現れだよww
741日本@名無史さん
2021/10/20(水) 13:15:04.24
>>732
九州説も同じだよ。末盧國〜伊都国や
南至にしても、実際は東、西のどちらかで
沿岸航法で南至。(日数、官名以外の説明記載なし)
倭人在帶方東南大海之中
(日数、官名以外の説明記載なし)南至投馬國、南至邪馬壹國

自郡至女王國萬二千餘里も邪馬壹國ではなく
女王国である。
短里、長里などない。固定化できない変動里
をうまく利用している。
742日本@名無史さん
2021/10/20(水) 13:16:38.04
>>738
>ヤスカワというのが、現実の地名の反映だと考えるなら

考えない。 記紀以降の後付け地名に、なんの値打ちもない!   @阿波
743日本@名無史さん
2021/10/20(水) 13:17:35.30
>>550
>魏志倭人伝と記紀は別物

だが、魏志倭人伝は魏志倭人伝で、倭国のことをよく知っている訳でもない陳寿が
確認も取れない文書をコピペしつつ私見を交えて書いたものでしかないんだがな
744日本@名無史さん
2021/10/20(水) 13:18:46.73
>>737
そう記紀原理主義は持ち込まない。
統合をはかる為に書かれたもの
事実にそったものもあり、
たとえもあり、中国の文献からの参照
や元となったモデルもあるだろう。
745日本@名無史さん
2021/10/20(水) 13:18:59.62
>>626
>う〜ん、これもどうかなぁ...邪馬台=大和(箸墓=卑弥呼の冢・長二百歩)で良いと思うんだけどなぁ…

う〜ん、これもどうかなぁ...?。
邪馬台国なんて、存在もしなかった嘘つき騙し文言だし、
箸墓=卑弥呼の冢・長二百歩も、
倭人伝の「冢≠前方後円墳」や「径百余歩」で良いと思うんだけどなぁ…
746日本@名無史さん
2021/10/20(水) 13:20:56.80
>>745
>邪馬台国なんて、存在もしなかった嘘つき騙し文言だし、

これって、byか?   @阿波
747日本@名無史さん
2021/10/20(水) 13:21:43.24
>>552
その図のどこが150メートルなの?

一度も示したことないだろ?

ここからここまでが塚、と言える根拠が一切ないんだからww

それ、ただの自然地形だから、塚でも何でもないし、墓でもないし
骨一本、土器の欠片一つ出ていないただの尾根ww

御所市史
「むかし、千本の足を持つ大きな土蜘蛛が住んでいた。
時の天皇は御悩みであったので、勅使が来て、字サルチ(猿伐)から矢を射て殺した。
矢の落ちたところを矢の段という。
土蜘蛛を高天彦神社の傍らに埋め、蜘蛛塚といった。蜘蛛の居た窟は神社の前の並木の東にある。」

左側スロープ君は、デタラメをしつこく書き続けるのをやめなww
748日本@名無史さん
2021/10/20(水) 13:22:53.64
>>558
>崇神が4世紀前半、

ここから間違いww
749日本@名無史さん
2021/10/20(水) 13:26:11.45
>>567
>倭迹迹日百襲姫は誰の巫女なんだよ?

崇神朝の巫女として、日本書紀に書かれているな

崇神と卑弥呼のヒメヒコが、魏志倭人伝の卑弥呼と佐治國の男弟に対応する
そして、崇神の皇太子、イクメイリヒコイサチが邪馬台国の官筆頭の伊支馬で
固有名詞まで一致している
750日本@名無史さん
2021/10/20(水) 13:27:51.69
>>698
>そうか?
>阿波が歴史の表舞台にたった事は歴史上一度もない


それがあまり言いたくないのだが
『神武皇后』は「大物主神」と「八咫烏こと賀茂建角身命」の娘なんだが
もし、「賀茂建角身命」=「お酉様こと天日鷲翔矢命」ならば、阿波がかんでくるんだよ。
【神武天皇を助けた「鳥」と言う共通点しなかないけどね。】
むしろ、神武東遷は賀茂氏の主導によるものかと思われ・・・
まぁ邪馬台国論とははずれるので参考まで。ちょっと妄想が入ってるので。
751日本@名無史さん
2021/10/20(水) 13:27:58.63
>>735
それさ、方位を間違える事もあると言う個人的な意見だろ。 
752日本@名無史さん
2021/10/20(水) 13:28:03.07
権力が近畿に集中してた可能性がない訳じゃないよ
ただ地方の豪族が軍勢を率いてそれを取りに来る事が可能なのか?
戦国時代と同じだよね
中国はやってたけど彼らは遊牧民で故郷を持たない
故郷を捨てて遠く離れた近畿に引っ越しする意味って何なんだ?
狭い範囲での権力争いなら起こり得ると思うけど
753日本@名無史さん
2021/10/20(水) 13:30:27.67
>>593
>え、畿内説ってこんな事を言っちゃってるの?

墓はあくまで後円部

前方部に別の人物を葬ったものもある 島の山古墳など
754日本@名無史さん
2021/10/20(水) 13:30:31.40
>>647
>捏造はいかんな九州

「冢」とは、豚の顔の形のような「錐体(台)」的な形状であり、
始皇帝冢や、馬韓の家屋を形態や、「華山の山々の形状が冢と形容されている」ように、
いずれも「錐体(台)」的な形状を示す文言だな。
755日本@名無史さん
2021/10/20(水) 13:33:38.06
>>619
>ところで、奥山VSザラコクは

VSにはなってない
ザラコクは、誰とも対話してないしできない人だからww
756日本@名無史さん
2021/10/20(水) 13:34:44.27
>>751
>それさ、方位を間違える事もあると言う個人的な意見だろ。

頻々と間違ったことがあるという史料事実を指摘した学説
757日本@名無史さん
2021/10/20(水) 13:39:37.05
>>735
内藤湖南かい、古ーー
畿内説だけどね
758日本@名無史さん
2021/10/20(水) 13:46:47.87
>>653
>記紀編纂時に没落している物部氏の祖先が

それは認識が間違っている
記紀編纂の頃の天下第一の臣・左大臣の石上麻呂は、物部氏の氏の長者だ
759日本@名無史さん
2021/10/20(水) 13:50:46.82
>>752
>狭い範囲での権力争いなら起こり得ると思うけど

それが現実。 「阿波」国内での出来事。  バカは根拠もないのに、誇大妄想をしたがる。   @阿波
760日本@名無史さん
2021/10/20(水) 13:53:56.70
>>686
>卑弥呼の時代にだぜ?縄文人とか蝦夷じゃないの?
>考古学得意なんだろ?

つ 高尾山古墳

沼津にある墳丘長62mの前方後方墳
古墳時代の最初期、西暦230年頃という造営年代が出されている

この時期から、高塚の古墳に首長を埋葬する文化圏に組み込まれているんだから
倭人だろ
761日本@名無史さん
2021/10/20(水) 13:58:09.41
>>760
>つ 高尾山古墳

静岡県沼津市の高尾山古墳は、「蛇紋岩製勾玉」や「水銀朱」などの副葬品から、「忌部一族(阿波勢力)」のお墓だと一発で分かる。  @阿波
762コテ略
2021/10/20(水) 14:00:25.19
>>729 > 箸墓が邪馬台国と何の関係があるのかな ただ大きいだけじゃん//
  ただ大きいだけじゃんと、張政が書いてるだろ八゛力。

> 前方後円墳は前方部と後円部を合わせて、一つの墓と見なす事も知らないのかねー//
  張政が見た箸墓が円墳だった事は否定してないし、
こんにち我々が見る箸墓が前方後円墳である事も否定してないだろノー夕リソ。

で、箸墓以外に径100歩の墳墓って、当時の何処にあるんだよ、工〒公。
763日本@名無史さん
2021/10/20(水) 14:02:43.50
>>742
>記紀以降の後付け地名に

地名というのは同じ場所に人が継続的に住み続ける限り、残るものなんだよ
親と子で同じ場所を別の名称で呼んだら話が通じないからね
世代を超えて、地名は残るんだよ

記紀以降の後付けということにして言い逃れがしたいようだが、
記紀の地名説話は昔からある地名に、無理のある謂れをくっつけただけのもので
地名自体はそれ以前からあるんだよww

好字令も、当て字をよい字にしなさいというだけで、地名自体が変わった訳ではない
阿波はオオゲツヒメ以来の「粟」のままの方がよかったかもしれないけどな
764コテ略
2021/10/20(水) 14:03:01.33
>>761 > 葬品から、「忌部一族(阿波勢力)」のお墓だと一発で分かる//
  はァ? フリーメーソンのお墓だと一発で分かるんじゃないのかよ、工〒公。
765日本@名無史さん
2021/10/20(水) 14:08:21.81
>>760
東海地方の水害での避難地
東海系土器が出土、近畿系の出土はない。
つまり、奈良と沼津が避難地。
古墳の形は違うが大型化は沼津から。
766日本@名無史さん
2021/10/20(水) 14:11:14.29
>>760
ありがとう。さすがだね。
前方部には熊野神社、後方部には高尾山穂見神社。
うーん、興味深い祀りかたですね!
熊野の神も保食神も習合しまくって何者かわかんないけど何か糸口が見つかるかも!
すげーーーー!
767コテ略
2021/10/20(水) 14:24:10.09
>>735 > 故に余は此の南を東と解して//
  道程記事が出鱈目であるという真実に鑑みれば、真実に近い見解だろ。

白鳥内藤論争って、九州論者と大和論者の対決ってんじゃなくてさ、
著名な史学者同士がさ、九州論と大和論それぞれの立場に分かれて、
論点を整理したという、一種のブレインストーミングなんでしょ。
内藤先生は京大なんだから、ひとつ大和説で、てな感じでさ。

道程記事に関しては、何らかの錯誤が含まれるという事で合意したんじゃないのか。
そりゃそうだろ、万二千里なんて、どう考えたって辻褄が合わないんだしさ。
768コテ略
2021/10/20(水) 14:28:26.46
>>766 > ありがとう。さすがだね。
前方部には熊野神社、後方部には高尾山穂見神社。
うーん、興味深い//

近世の古墳なんて色々でしょ。
神社になったり寺になったり砦になったり、茶店になったりとか、
石材掘り出されて再利用されたり、運び切れんで放置されたりとかさ。
769コテ略
2021/10/20(水) 14:36:38.51
>>483 > 高尾張邑の土蜘蛛征伐伝承がある//
  裏山があるくらいで、墳墓なぞないだろ。
もういっそ、私財を投じてさ、土蜘蛛塚とやらに、金印なり黄色い旗なりを埋めればどうかね。
金印はともかく、黄色い旗なんかは、どこぞの横断歩道からクスねてこればエエだろ。
770日本@名無史さん
2021/10/20(水) 14:44:02.08
>>766
保食神
こういうのあるよ。
巫女の酒造り
https://jp.sake-times.com/knowledge/word/sake_kuchikami

陸1月は28日、儀式的なもんと見る
771日本@名無史さん
2021/10/20(水) 15:16:26.30
>>756
畿内説得意の誤認説じゃん
人間、間違うことはある、だから魏の使も間違った可能性があると言う程度だろ。論理的でもなんでもない憶測じゃん。

そんな事言い出したら、径百歩も誤ってる可能性も出てくるじゃん。
径百歩は合ってて、方位は間違えてるなんて、ご都合主義の典型じゃん。
772日本@名無史さん
2021/10/20(水) 15:22:47.81
>>760
前方後円墳なんて流行だよ。
タトゥーを入れてる人は皆ヤクザと言うか?
フラダンス踊ってる人は皆ハワイの人と言うか?
773日本@名無史さん
2021/10/20(水) 15:27:17.62
>>762
それで、いつから円墳から前方後円墳に変わったの?
今の学者間で箸墓は築造時は円墳だったとコンセンサスが取れてるの?
774日本@名無史さん
2021/10/20(水) 15:31:13.74
>>762
>で、箸墓以外に径100歩の墳墓って、当時の何処にあるんだよ、工〒公。

「阿波」。   @阿波
775日本@名無史さん
2021/10/20(水) 15:32:02.71
>>753
それ合葬と言うの、別に古代に限った事では無いよ
776日本@名無史さん
2021/10/20(水) 15:32:49.63
>>763
>好字令も、当て字をよい字にしなさいというだけで、地名自体が変わった訳ではない

おお変わりだ。   @阿波
777日本@名無史さん
2021/10/20(水) 15:33:00.62
>>765
>東海地方の水害での避難地
>東海系土器が出土、近畿系の出土はない。
>つまり、奈良と沼津が避難地。

事実誤認がひどいなw
巨大墳丘墓のような権力誇示のためのモニュメントを避難地に作ってどうするw

大勢の人の目に触れてこそのモニュメントだ
巨大墳丘墓の造営地点は、人口集積地、王都、またそれらへの街道沿いだよ

>古墳の形は違うが大型化は沼津から。

これも大嘘
高尾山古墳は墳丘長62m
それ以前の纏向勝山古墳が既に全長96メートルある
778日本@名無史さん
2021/10/20(水) 15:35:57.56
>>767
>万二千里なんて、どう考えたって辻褄が合わないんだしさ。

そりゃそうだろ。 工〒公のお前はトンデモ詐欺師なんだからよ。   @阿波
779日本@名無史さん
2021/10/20(水) 15:37:21.20
>>777
>つ 高尾山古墳

静岡県沼津市の高尾山古墳は、「蛇紋岩製勾玉」や「水銀朱」などの副葬品から、「忌部一族(阿波勢力)」のお墓だと一発で分かる。  @阿波
780日本@名無史さん
2021/10/20(水) 15:39:58.88
>>770
>陸1月は28日

これはおそらくない
水行、陸行の日数は10日=旬日が単位になっているから、
1月は三旬で30日と思われる

旬を使うのは、文字数を減らすため

「文帝期の出土物とされる阜陽漢簡の断片の諸簡中、算術と関連があると考えられ
たものは、整理後『算術書』と仮名が与えられた。この中の一片に「□萬一千二百
戸行二旬各到輸所」(28号簡)と書されたものがあり、これが本題の「丁縣一萬
二千二百戸、行衟二十日、各到輸所」の文にほぼ対応する。そうすると、本題の原
型は、文帝期にすでに存していたことになり、均輸章の「均輸」とは、桑弘羊の均
輸法以前の均輸を表していたことの一証になる。(胡平生「阜陽双古堆漢簡数術書
簡論」の六、「算術書」(『出土文献研究』4 輯、1998年11月)参照)。『算数書』や『数』
には均輸題との類題は見えない。」
『九章算術』訳注稿(17) 大川 俊隆
781日本@名無史さん
2021/10/20(水) 15:44:56.97
>>756
湖南の説はもう論破されてると思うが、私でも論破できる、

魏使は邪馬台国に何度往来してるかでわかるよ。
その全てが行きは東を南に、帰りは西を北と間違えたと言いたいの。そんな馬鹿な!稚拙な憶測でしか無い。
782日本@名無史さん
2021/10/20(水) 15:45:13.34
>>772
>前方後円墳なんて流行だよ。

アンチの人たちはとにかく古墳が嫌いww
古墳時代の中心が畿内にあるのは明確過ぎるからね

前首長の埋葬祭祀は、まつりごと=政治そのものだよ
古墳時代に入る前は、各地で墓制が別々だった

それが列島の広い範囲で一斉に古墳時代に入り、
列島の人い範囲で前方後円墳または前方後円墳に前首長を埋葬するようになる
そこに、統一的な社会構造が新たに構築されたことは
「まともな論理的思考のできる人」にとっては議論の余地のない結論になる

流行が400年も続くって考えているなら、すごいバカだよね、としかww
783日本@名無史さん
2021/10/20(水) 15:49:25.37
>>771
>径百歩は合ってて、方位は間違えてるなんて、ご都合主義の典型じゃん。

方位が合ってたら、そこに日本列島は無いんだから、間違ってるのは確実
784日本@名無史さん
2021/10/20(水) 15:51:06.76
>>781
>湖南の説はもう論破されてると思うが、私でも論破できる、

してから言ってね
785日本@名無史さん
2021/10/20(水) 15:54:34.36
>>767
>万二千里なんて、どう考えたって辻褄が合わないんだしさ。

そりゃそうだろ。 工〒公のお前はトンデモ詐欺師なんだからよ。   @阿波
786日本@名無史さん
2021/10/20(水) 15:57:27.58
>>777
その前の時代話
1世紀〜2世紀の話
近畿系の出土はない
わずかに東海系土器が出土 

高尾山古墳、纏向勝山古墳
築造時期の決め手に欠いている。
787日本@名無史さん
2021/10/20(水) 16:00:09.37
>>780
『九章算術』
当時の倭人が知っているのだろうか?
788日本@名無史さん
2021/10/20(水) 16:00:30.99
>>775
>それ合葬と言うの、別に古代に限った事では無いよ

合葬というのは、こういうやつ
邪馬台国畿内説 Part729 ->画像>42枚

まあ、吉野ケ里遺跡北墳丘墓は合葬というより追葬だろうけれど

ここで話題に出しているのは、こういう形式
島の山古墳
邪馬台国畿内説 Part729 ->画像>42枚
西殿塚古墳
邪馬台国畿内説 Part729 ->画像>42枚

前方部に後円部とは別の独立した埋葬施設がある
後円部が一つの墓、前方部には墓があったりなかったりする

ということで、後円部で一つの墓という認識に特に問題はない
789日本@名無史さん
2021/10/20(水) 16:01:23.78
>>787
>当時の倭人が知っているのだろうか?

記録を書くのは中国人
790日本@名無史さん
2021/10/20(水) 16:02:18.51
>>787
>『九章算術』
>当時の倭人が知っているのだろうか?

魏志倭人伝の10日単位が、元の記録では旬だったのだろう、という推定に
当時の倭人は関係ない
791日本@名無史さん
2021/10/20(水) 16:03:55.73
>>786
>その前の時代話
>1世紀〜2世紀の話
>近畿系の出土はない
>わずかに東海系土器が出土 

その頃は、同じ銅鐸文化圏だろ?
倭人であることに変わりはない
792日本@名無史さん
2021/10/20(水) 16:11:16.29
>>791
銅鐸文化圏て吉野ヶ里出土で
否定されたけど、銅の流通経路で倭人だな。
793日本@名無史さん
2021/10/20(水) 16:13:48.60
>>763
あのー
トヨタ市の昔の地名はコロモだったんですけど、、
794日本@名無史さん
2021/10/20(水) 16:14:45.29
>>790
なんで?倭人から聞いたんじゃないの?

記録を書くのは中国人
実際に行ったならもっと詳細に書く
大雑把に聞いたのみ。
795日本@名無史さん
2021/10/20(水) 16:23:21.18
>>763
あのー
トヨタ市の昔の地名はコロモだったんですけど、、
796日本@名無史さん
2021/10/20(水) 16:27:40.19
>>793
>トヨタ市の昔の地名はコロモだったんですけど、、

そういうのは、自然に、時の流れで、地名が変わった訳ではないでしょ?

政治的に、トヨタ自動車のお膝元であることを示すことに利があったから、
改名された訳でそういう地名変更は、記録に残る

井ノ口が岐阜に改名されたのも記録に残ってるでしょ

逆に言えば、改名記録がなければずっと昔からある地名だと思っていい
797日本@名無史さん
2021/10/20(水) 16:28:23.30
>>749
モモソが実在したかどうかの検証が先ですよ
798日本@名無史さん
2021/10/20(水) 16:35:13.86
>>780
自分でまとめてみなさい、
コピペもいいけどさー
前後関係がわからなくなる
799日本@名無史さん
2021/10/20(水) 16:38:34.53
>>784
もうしましたが、、
何か反論でも、、、
魏の使いが、来るたびに行き帰りの方位を誤認したとでも言うのですか
800日本@名無史さん
2021/10/20(水) 16:39:48.13
>>794
>なんで?倭人から聞いたんじゃないの?

金印を持ってきた建中校尉の梯儁さんは除正使だから、邪馬台国まで行ってるよ
そして、その行った時の記録を事細かに書いて持ち帰ることはできなかっただろってこと
遠く海外に行く人が紙の帳面なんて持っていけないからね

木簡、竹簡は現地調達できるだろうけれど、そこに書き込める字数には限りがある
片道2カ月の行程を事細かに書き残して大陸まで持ち帰るなんて最初から無理な話ってこと

二十日と書くより二旬と書いた方が字数が少ない
801日本@名無史さん
2021/10/20(水) 16:40:59.57
>>796
次有斯馬國,次有已百支國,次有伊邪國,次有都支國,次有彌奴國,次有好古都國,次有不呼國,次有姐奴國,次有對蘇國,次有蘇奴國,次有呼邑國,次有華奴蘇奴國,次有鬼國,次有爲吾國,次有鬼奴國,次有邪馬國,次有躬臣國,次有巴厘國,次有支惟國,
次有烏奴國

山陰、山陽あたりの地名かな?
802日本@名無史さん
2021/10/20(水) 16:42:13.77
>>788
聞いた事無いけど、教えてよ
誰が言い出したの?
前方部と後円部は別々の墓だと

又、箸墓の場合は前方部は誰の墓?
803日本@名無史さん
2021/10/20(水) 16:43:45.73
>>799
>魏の使いが、来るたびに行き帰りの方位を誤認したとでも言うのですか

岬を回るごとに、方角が変わるのをいちいち記録してたりしないってこと
こういう経路で、東に行って北に行って東に行って、なんて書かずに循海岸水行とだけ
記録して帰ったんでしょ

で、最後の陸行が南向き
邪馬台国畿内説 Part729 ->画像>42枚

この最後の陸行が南向きで、陳寿は倭国を南へ伸びた列島だと
信じて(誤認して)いたから、南と書いたのだろうと
804日本@名無史さん
2021/10/20(水) 16:44:24.68
>>796
勢力が変われば地名も変わると言う事
岐阜も信長がつけたのです
805日本@名無史さん
2021/10/20(水) 16:46:08.07
>>799
>もうしましたが、、

いつ、どこで?
806日本@名無史さん
2021/10/20(水) 16:46:20.75
>>796
それがね、日本には記紀以前の文献が無いのです。
807日本@名無史さん
2021/10/20(水) 16:47:38.25
>>805
読解力の無い方ですねWw
808日本@名無史さん
2021/10/20(水) 16:48:49.82
>>798
>前後関係がわからなくなる

まとめなきゃ分からなくなるような複雑な話じゃないんだが?

「文帝期の出土物とされる阜陽漢簡の断片の諸簡」に
「□萬一千二百戸行二旬各到輸所」と書かれたものがあり
九章算術の「丁縣一萬二千二百戸、 行衟二十日、 各到輸所」とほぼ一致しているので
「二旬」という表記が「二十日」の代わりに使われているのが分かる

これだけだぞ
809日本@名無史さん
2021/10/20(水) 16:50:01.68
>>802
>聞いた事無いけど、教えてよ

前方部と後円部に同じ人が葬られていると考える方がおかしいだろ?
810日本@名無史さん
2021/10/20(水) 16:52:04.04
>>809の修正

>>802
>聞いた事無いけど、教えてよ

前方部と後円部に別々の埋葬施設があるのに、
その二カ所に同じ人が葬られていると考える方がおかしいだろ?

>又、箸墓の場合は前方部は誰の墓?

箸墓の前方部に埋葬施設は検出されていないし、想定もされていない
前方部に埋葬施設があるのは、一部の例だけ
811日本@名無史さん
2021/10/20(水) 16:53:43.98
>>800
正始元年(*58)、帯方太守弓遵は、建中校尉梯儁らをつかわし、この詔書と印綬をもって倭国に行かせた
は奴国では?

邪馬壹國には行っていないと思う
卑弥呼が共立され伊都国か不彌國にいる。

少有見者。以婢千人自侍,唯有男子一人給飲食,傳辭出入。居處宮室樓觀
,城柵嚴設,常有人持兵守衛
卑彌呼以死,大作塚,徑百餘步,徇葬者奴婢百餘人
は九州の地。

後の時代に近畿移動
812日本@名無史さん
2021/10/20(水) 16:56:15.38
>>804
>勢力が変われば地名も変わると言う事
>岐阜も信長がつけたのです

勢力が変わったら、地名を変える=地名を付ける権力がある、という観念が
かなり新しいもの

>>806
>それがね、日本には記紀以前の文献が無いのです。

なので、古代にポンポン地名を改めていたと考える理由の方が逆に存在しない

実際、対馬も壱岐も松浦も怡土も那の津も魏志倭人伝から現代まで地名が残っている
813日本@名無史さん
2021/10/20(水) 16:59:05.41
>>770
「口噛み酒」って出雲にもあったようだ。
驚いたスサノオが殺したのかと思ったが違うっぽい。
これはただの神話なんだろうか。

支持している説が邪馬台国認定と
美巫女の「口噛み酒」口移し飲み放題どっち選ぶ?
俺は圧倒的に後者だがなw
814日本@名無史さん
2021/10/20(水) 17:02:36.01
>>811
>この詔書と印綬をもって倭国に行かせた
>は奴国では?

それは無理読みが過ぎる

其年(景初二年)十二月詔書報倭女王、曰「制詔親魏倭王卑彌呼。(詔書の内容略)」
正始元年。太守弓遵遣建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭國。拜假倭王、幷齎詔。

という文章なのだから、建中校尉の梯儁さんたちは拜假倭王=卑弥呼のところまで行っているし
卑弥呼のいる場所は邪馬壹國、女王之所都で、自爲王以來、少有見者とあるから
卑弥呼が奴国に出張したりしないのは当然のこと
815日本@名無史さん
2021/10/20(水) 17:02:40.95
>>803
>岬を回るごとに、方角が変わるのをいちいち記録してたりしないってこと


從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 
816日本@名無史さん
2021/10/20(水) 17:11:22.52
>>814
卑弥呼のいる場所は邪馬壹國、女王之所都との記載はない

自爲王以來、少有見者とあるから
卑弥呼が奴国に出張でなく
奴国、伊都国、不彌國のいずれかに定住。
共立で自国にいるのかな?
817日本@名無史さん
2021/10/20(水) 17:13:37.71
>>816
>奴国、伊都国、不彌國のいずれかに定住。

それ、周回遅れ、というか、4周も5周も遅れている

いずれかに定住していたら、
奴国、伊都国、不彌國のいずれかに女王之所都の文言が入る

こういう基本的なところを無視しないと九州説にならない
818日本@名無史さん
2021/10/20(水) 17:14:37.42
畿内説の課題解決のため

結論  箸墓を掘りまくるしか無い

宮内庁が許可しないだろうし、許可してもリスクが伴うのを覚悟の上
819日本@名無史さん
2021/10/20(水) 17:15:08.53
>>815
>>岬を回るごとに、方角が変わるのをいちいち記録してたりしないってこと

>從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 

いちいち記録しなかったという例だね
820日本@名無史さん
2021/10/20(水) 17:16:23.82
>>818
>畿内説の課題解決のため

課題って、なに?
821日本@名無史さん
2021/10/20(水) 17:18:40.70
>>815
>乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 

それ、曲がるたびにいちいち方角を記録してる訳じゃないだろ?
ずーっと南に行って、半島の西南角に着いたら
ずーっと東に行くってだけだから

錯誤の原因として、
最後の陸行が南向きであること
陳寿(というか陳寿の参照した元本の撰者)が倭国をずーっと南方の国だと
誤認(百越の流れの論衡の倭と同一視)していたこと
を考えれば、何度も行っているから方角を間違う「はずがない」というのは
ただの思い込みに過ぎない
822日本@名無史さん
2021/10/20(水) 17:20:46.02
>>816
少有見者
移動は籠で見えないように移動もある。

それにしても、副曰卑奴母離
投馬国、邪馬壹國には置いていない。
823日本@名無史さん
2021/10/20(水) 17:23:26.50
>>817
奴国、伊都国、不彌國のいずれかに女王之所都の文言が入る
どうして?

邪馬壹國,女王之所都にあるけど?
824日本@名無史さん
2021/10/20(水) 17:24:46.41
>>811
>後の時代に近畿移動

移動した近畿の主たる遺跡は? 言えるのか?   @阿波
825日本@名無史さん
2021/10/20(水) 17:25:02.91
径百歩の議論もいいけど
畿内説が解くべきだと思うが
箸墓は女性の墓と確定してるの?
826日本@名無史さん
2021/10/20(水) 17:26:38.24
>>799

郡使が往來するとき常に逗留する伊都國の方位が45度間違ってるからな
827日本@名無史さん
2021/10/20(水) 17:28:32.26
>>817
皇帝や強い王権を持つならわかるが?
共立なんで基盤が疑問。
828日本@名無史さん
2021/10/20(水) 17:28:38.13
>>819
違うよ、分かってると思いますが

 乍南乍東 の表現
829日本@名無史さん
2021/10/20(水) 17:29:02.82
>>825
>畿内説が解くべきだと思うが

何を?
830日本@名無史さん
2021/10/20(水) 17:30:31.37
>>828
>うよ、分かってると思いますが
> 乍南乍東 の表現

何が言いたいの?
ちゃんと文章を書いて下さい
831日本@名無史さん
2021/10/20(水) 17:32:53.44
>>827

基盤が疑問なら近畿の女王が他所の国に住めないだろ
832日本@名無史さん
2021/10/20(水) 17:33:22.45
>>826
>郡使が往來するとき常に逗留する伊都國の方位が45度間違ってるからな

つまり、畿内説の解釈が45度間違ってると、認めるんだな。
833日本@名無史さん
2021/10/20(水) 17:35:01.31
>>832

学者の通説畿内説は、行程記事では国々の比定はできない
834日本@名無史さん
2021/10/20(水) 17:35:41.47
>>826
東南の議論はあるのは承知ですが、
私見ですが、
末盧國へは、往路一回しか行って無いと思いますよ。
その後は伊都國経由邪馬台国との往来だと思います。
835日本@名無史さん
2021/10/20(水) 17:37:23.16
>>834

なんで?
836日本@名無史さん
2021/10/20(水) 17:37:46.48
>>833
テンプレに書いてある通りだ
837日本@名無史さん
2021/10/20(水) 17:37:52.08
>>824
墓の移動ね。
纏向な。祭祀、質素 墓でぴったり。
立派で豪華で人が賑わうとは縁のない都だな。
古い環濠からの脱却を試みた地かもしれない。
838日本@名無史さん
2021/10/20(水) 17:39:52.07
でもやっぱ古代人が奈良から高尾山方面を海の東と表現するかなぁ・・・
奈良から直接三重県は厳しすぎるような気がするしな。
奈良>京都>滋賀>岐阜>名古屋ルートではないのだろうか。
奈良>宇陀>名張>伊勢>(渡海)>豊橋へ抜けたのだろうか、古代人。
こう言うの詳しい人おらんの?
839日本@名無史さん
2021/10/20(水) 17:40:28.25
>>662
>「西服衆夷六十六國」である。九州という記載はない。インチキ野郎。

「服」が他動詞を持ったでは「服属せしめた」という他動詞としての使用である。
「服属する」という自動詞での使用ではない。
オレオレ詐欺師さん。
840日本@名無史さん
2021/10/20(水) 17:43:15.65
>>835
伊都国が糸島三雲なのはガチ定説
末盧国が中原〜久里・千々賀あたりなのもガチ定越
となれば、陸路はマイナーで魏の使者が通ったコースと考えにくい
無論、倭人伝でも魏使が陸路を歩いたとか書いてない
841日本@名無史さん
2021/10/20(水) 17:46:43.72
>>840
>伊都国が糸島三雲なのはガチ定説

伊都国が糸島三雲なのはガチ、トンデモの定説   @阿波
842日本@名無史さん
2021/10/20(水) 17:47:00.00
>>831
近畿の女王ではないよ。共立王だよ。
問題が多い地域にいる。
卑弥呼が死んで男王たつがおさまらない
その地域基盤が疑問、邪馬壹國につよい権力があれば
起こらない。

邪馬壹國には、官有伊支馬,次曰彌馬升,次曰彌馬獲支,次曰奴佳鞮
いるが紛争から離れた遠方地だろうな。
卑奴母離も置かない
843日本@名無史さん
2021/10/20(水) 17:48:34.42
>>833
ま、畿内説同好会の解釈はそうなんだろうな。
行程無し、空を飛んで大和の纒向に着陸するドラえもん説。
844日本@名無史さん
2021/10/20(水) 17:48:53.33
>>840

つまり、行程記事では国々の比定はできないので
全ての国々は考古資料が根拠になる
845日本@名無史さん
2021/10/20(水) 17:50:00.20
>>839
「西服衆夷六十六國」である。九州という記載はない。
インチキ野郎でオレオレ詐欺師さん
846日本@名無史さん
2021/10/20(水) 17:50:10.50
>>838

大河川が多い名古屋あたりは雨が降ると通れないからな
東山道のほうが利用されていた
847日本@名無史さん
2021/10/20(水) 17:53:48.29
>>846
奈良大和の纒向遺跡の東は、笠置山地や布引山地など、山ばかり。
纒向遺跡は「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」にあきらかに矛盾している。   
もし女王国が奈良大和であれば、「女王國 東 越山 復 渡海千餘里復有國皆倭種」 である。   

よって、テンプレの
>倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
>それは桜井市纒向以外にありえない。

は、虚偽である。   @阿波
848日本@名無史さん
2021/10/20(水) 18:00:28.88
>>822
>移動は籠で見えないように移動もある。

弥生時代の籠が発掘されたら、もう一度それを主張してみてww
人の心は自由だから、何でもどんなことでも想像はできるんだけど
実証的論証を伴わなければただの寝言だよw

>それにしても、副曰卑奴母離
>投馬国、邪馬壹國には置いていない。

卑奴母離は日本人ならヒナモリ・夷守と読む
夷・雛は、辺地ってことだよ

夷守がいるのは都から遠い、都からの直接統制の届かないところってこと
849日本@名無史さん
2021/10/20(水) 18:01:56.02
>>823
>邪馬壹國,女王之所都にあるけど?

つまり、邪馬台国に卑弥呼がいるってこと
奴国や伊都國、不彌国ではない

王のいるところが都なんだから
850日本@名無史さん
2021/10/20(水) 18:03:07.01
>>830
あなたは、日本海ルート説ですね
倭人伝は倭国の事を書いた伝です。
郡から釜山まで、水行で南へ行ったり東へ行ったりと記述されています。
曲がるたびに記述はできませんが、おおよその方位として、郡から釜山まで乍南乍東と記述しています。
何故、投馬国を挟んだ日本海ルートを乍南乍東のような表現をしなかったと解説しなかったのかが、あなたの課題です。
851日本@名無史さん
2021/10/20(水) 18:04:09.15
>>827
>皇帝や強い王権を持つならわかるが?
>共立なんで基盤が疑問。

基盤がぜい弱な王が本拠地を離れたら弑されて終わりだよ

共立による統制力がかなり強かったとみてよいだろ
列島の広い範囲でそれまでの各地域の墓制を捨てて
前方後円墳または前方後方墳を作る時代にいきなり移行するんだから
852日本@名無史さん
2021/10/20(水) 18:04:21.83
>>840
倭人伝には(末盧国から)東南陸行500里と明記されているのに
「魏使が陸路を歩いたとか書いてない」などと、正気の沙汰ではない。
・・・ついに来るべき時が来たようだ、南無、、、
853日本@名無史さん
2021/10/20(水) 18:06:16.25
>>838
>奈良から直接三重県は厳しすぎるような気がするしな。

物証が出ているからね
邪馬台国畿内説 Part729 ->画像>42枚

この東海って、伊勢の土器だよ
854日本@名無史さん
2021/10/20(水) 18:07:58.39
>>841
>伊都国が糸島三雲なのはガチ、トンデモの定説   @阿波

糸島三雲の伊都国を否定する人が、須らくトンデモ説なのはガチwww
855日本@名無史さん
2021/10/20(水) 18:10:11.90
>>851
>前方後円墳または前方後方墳を作る時代にいきなり移行するんだから

「忌部一族(阿波勢力)」が進出しただけのこと。   @阿波
856日本@名無史さん
2021/10/20(水) 18:10:34.61
>>664
>・畿内には3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
邪馬台国の東の国。出雲から飛来した大物主、物部氏の遠祖・饒速日命の日本国

畿内も邪馬台国も存在もしていなかった嘘つき騙し文言であり、
大和は、九州倭國の「東征毛人五十五國」で征服された別種分家の旧小国の倭種であり、
地方の市を監督する「大倭」職であった。

・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
神武東遷により邪馬台国と饒速日の日本国が合併=ヤマト王権
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
首都移転により副都になった倭女王卑弥呼の都は【九州】である。
857日本@名無史さん
2021/10/20(水) 18:10:44.28
>>849
ヨコからゴメン

卑弥呼は倭国の王兼邪馬台国の王?
もしくは、邪馬壹國に倭国の王と邪馬台国の王の二人がいたと言う事?

こんがらがって来ました。

纏向に二人の王がいた?同一人物?
858日本@名無史さん
2021/10/20(水) 18:12:00.80
>>853
>この東海って、伊勢の土器だよ

東海は伊勢だけでない!   @阿波
859日本@名無史さん
2021/10/20(水) 18:13:48.26
>>854
なら、糸島三雲の伊都国にふさわしい集落威勢を挙げてみよ。   @阿波
860日本@名無史さん
2021/10/20(水) 18:14:37.00
>>849
>>王のいるところが都なんだから?

なんで?居るから都とか書いてないよ。

共立王なんだけど?
邪馬壹國は、直接統制などがない都
宗教や祭祀の地 女王之所都
861日本@名無史さん
2021/10/20(水) 18:15:08.01
>>850
>何故、投馬国を挟んだ日本海ルートを乍南乍東のような表現をしなかったと解説しなかったのかが、あなたの課題です。

何度も説明してるんだけどな

海沿いで岬を曲がるたびに方角が変わる経路について、記録して持ち帰られた分は
「循海岸、二旬」「循海岸、旬」
そのあとに「南陸行一月」
これで十五文字
これくらいの情報量くらいしか持ち帰られない

これだけがあって、これを見て史書を書く人が倭国は南方の国、と思っていれば
水行部分にも南を挿入するだろってこと

半島部分については、それこそ帯方郡と地続きなんだし半島であることが分かっているんだから
現地記録なしで、南とか東とか書けるだろ?

「半島沿岸」と「倭国の九州から先」は、撰者の利用できる情報量が違うんだから
同列に比較するのはあまり意味がない
862日本@名無史さん
2021/10/20(水) 18:15:41.33
>>857
の続きです。畿内説ではモモソ=卑弥呼の説がありますが、モモソと時の天皇の住んでた所は一緒なのですか?
纏向は初期ヤマト王権の都と言うのですが、、初期ヤマト王権の王=卑弥呼??
863日本@名無史さん
2021/10/20(水) 18:16:22.47
>>851
本拠地てどこよ?
864日本@名無史さん
2021/10/20(水) 18:17:11.28
>>859
>なら、糸島三雲の伊都国にふさわしい集落威勢を挙げてみよ。

だから、泡はトンデモなんだって!
三雲遺跡群は集落遺跡!

邪馬台国畿内説 Part729 ->画像>42枚
865日本@名無史さん
2021/10/20(水) 18:17:14.18
>>860
>邪馬壹國は、直接統制などがない都

都に竪穴住居跡がないのか? そんな都って聞いたことが無いが?   @阿波
866日本@名無史さん
2021/10/20(水) 18:18:17.24
>>861
同じ沿岸航行で違いがあるのですか?
867日本@名無史さん
2021/10/20(水) 18:20:54.85
>>864
いや、お墓にすぎん。   @阿波
868日本@名無史さん
2021/10/20(水) 18:21:32.47
>>857
>卑弥呼は倭国の王兼邪馬台国の王?
>もしくは、邪馬壹國に倭国の王と邪馬台国の王の二人がいたと言う事?

中華思想では、中華皇帝が封じるのが王であって、
倭国に倭王以外の王はいないことになるんだけど
魏志倭人伝では「國」も「王」もちょっといい加減に書いてあって
伊都国に王がいたり、狗奴国に男王がいたりする

伊都国や狗奴国にいるのはのちの豪族の祖先だから、首長って呼び方を私はしているけどね

卑弥呼はもともとは邪馬台国の首長で倭国内の多くの首長によって共立されて、
魏朝から倭王と認められたってことでいいと思う
869日本@名無史さん
2021/10/20(水) 18:22:22.29
>>860
>なんで?居るから都とか書いてないよ。

王がいるところが都です
870日本@名無史さん
2021/10/20(水) 18:23:49.48
>>863
>本拠地てどこよ?

だから、女王の都するところ=邪馬台国=ヤマト国が本拠地でしょ!
魏志倭人伝にそう書いてあるんだから
871日本@名無史さん
2021/10/20(水) 18:24:39.25
>>866
>同じ沿岸航行で違いがあるのですか?

「半島沿岸」と「倭国の九州から先」は、撰者の利用できる情報量が違う
872日本@名無史さん
2021/10/20(水) 18:24:58.63
>>861
ヨコ
日本海ルートで出雲まで大きな岬ってあったけ?
873日本@名無史さん
2021/10/20(水) 18:29:07.40
畿内説は、あっちでもこっちでも辻褄が合わなくなって、
今や、どのスレ読んでも錯乱状態だな。
874日本@名無史さん
2021/10/20(水) 18:29:41.99
>>871
畿内説の主流は瀬戸内ルートですよ
875日本@名無史さん
2021/10/20(水) 18:32:50.87
>>873
>畿内説は、あっちでもこっちでも辻褄が合わなくなって、

どこが?
876日本@名無史さん
2021/10/20(水) 18:38:44.02
>>867
無知泡沫
877日本@名無史さん
2021/10/20(水) 18:39:52.89
>>875
畿内説は、あっちでもこっちでも辻褄が合わなくなって、

どこが? くらいしか言うことがなくなってるな。
878日本@名無史さん
2021/10/20(水) 18:41:14.45
>>865
ない、柱建物、発掘どうり、
今後の発掘もあるが、ほとんど近郊の集落から
工事に出向いている。
879日本@名無史さん
2021/10/20(水) 18:45:16.81
>>869
変な定義、共立された王て古代にあったけ?
880日本@名無史さん
2021/10/20(水) 18:53:00.71
>>850
>何故、投馬国を挟んだ日本海ルートを乍南乍東のような表現をしなかったと解説しなかったのかが、あなたの課題です。

課題じゃないから
陸路で帯方郡と繋がってるので中国人は最初から東南に行き先の狗邪韓国があるのを知っている
だから細かい行程を記録してなくても頻繁に方向転換したと聞けば乍南乍東のような表現になる
細かい情報がなかったからああなったとも言える
881日本@名無史さん
2021/10/20(水) 18:54:41.32
>>852
>倭人伝には(末盧国から)東南陸行500里と明記されているのに
>「魏使が陸路を歩いたとか書いてない」などと、正気の沙汰ではない。

ほら
「魏使が陸路を歩いたとか書いてない」だろ?
882日本@名無史さん
2021/10/20(水) 18:56:49.18
>>877
>畿内説は、あっちでもこっちでも辻褄が合わなくなって、
>どこが? くらいしか言うことがなくなってるな。

アンチはまたも具体的な指摘が出来なかっと
つまり、論破された
883日本@名無史さん
2021/10/20(水) 18:58:34.11
>>872
>日本海ルートで出雲まで大きな岬ってあったけ?

小さな岬でも、方角がくるくるしたらどっち向きって分からなくなるだろ?
山口沿岸でもこんなだし
邪馬台国畿内説 Part729 ->画像>42枚

さらに拡大すればこんな感じだよ
邪馬台国畿内説 Part729 ->画像>42枚

港や家の大きさを見てもらえば、それより小さな船での移動で
方角が分からなくなるというのは理解できるだろ?
884日本@名無史さん
2021/10/20(水) 19:01:23.80
>>870
宗教の本拠地
卑奴母離がある卑弥呼は紛争地域にいる。

南至邪馬壹國,女王之所都であって

南至邪馬壹國,女王”国”之所都
或いは倭国の都とは書いていない
885日本@名無史さん
2021/10/20(水) 19:03:29.42
>今後の発掘もあるが、ほとんど近郊の集落から
>工事に出向いている。

何年かかったかしらんが、肉体労働を長距離出勤?
どんな世界観やw
886日本@名無史さん
2021/10/20(水) 19:08:19.26
>>873
困ったものですね。
結構、無知な人が畿内説に騙されているようです。
887日本@名無史さん
2021/10/20(水) 19:10:17.15
>>875
あなたが無知だけです。
研鑽ください。
         以上
888日本@名無史さん
2021/10/20(水) 19:10:27.73
>>886
そういう駄弁を弄している暇があったら、つじつまの合わないところとやらを
具体的に指摘してはどうだろうか?
889日本@名無史さん
2021/10/20(水) 19:10:35.51
>>675
>逆だな。卑弥呼、奴国がヤマトの中核
 前方後円墳 那珂八幡古墳(奴国王)、箸墓(壹與と推測)同時期だな。大きい分、箸墓が遅く完成
九州に筑紫国を置く

大和の日本國に関しては、「日本國者倭國之別種也。以其國在日邊故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅改為日本。或云:日本舊小國併倭國之地」ですから、バツです。
890日本@名無史さん
2021/10/20(水) 19:10:40.28
>>884
続き
卑奴母離がある紛争地域を抑える
属しない狗奴国に対峙する九州にいる。

南至邪馬壹國,女王之所都は近畿
纏向は、祭祀、墓、イベント会場

和歌山、三重、奈良の山中と日の出入り見える海岸の範囲が
女王之所都。
891日本@名無史さん
2021/10/20(水) 19:12:03.53
>>858
おー伊勢の土器
邪馬壹國 近畿説が成り立つ
892日本@名無史さん
2021/10/20(水) 19:13:07.67
>>874
>畿内説の主流は瀬戸内ルートですよ

まあ、そうなんだけれど、北部九州・吉備・ヤマトのアライアンスと
魏使の行程は別に考えていいんじゃないかな

丹波の大古墳や、四道将軍の行き先の一つが丹波であること、
開化妃、垂仁妃に竹野媛があることから、もうちょっと丹波を重要視してもよいと思う
893日本@名無史さん
2021/10/20(水) 19:13:20.68
>>885
>何年かかったかしらんが、肉体労働を長距離出勤?
>どんな世界観やw

3〜5kmは通勤できる近距離
894日本@名無史さん
2021/10/20(水) 19:13:27.73
>>883
そんな小さな岬を、クルクル回る必要があったのかねー
教えてよ
895日本@名無史さん
2021/10/20(水) 19:14:55.97
>>885
長距離出勤とか書いていない。

どんな世界観や。
896日本@名無史さん
2021/10/20(水) 19:15:18.54
>>890
>属しない狗奴国に対峙する九州にいる。

對馬國。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離
一大國。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離

対馬や壱岐のどこが狗奴国と対峙してるって?ww
はい論破

夷守がいるのは単に都から遠く離れたところってことだよ
897日本@名無史さん
2021/10/20(水) 19:15:28.52
>>886
>困ったものですね。
>結構、無知な人が畿内説に騙されているようです。

具体的な反論がひとつも出来ず罵るだけなのは
アンチが敗北した証拠
898日本@名無史さん
2021/10/20(水) 19:16:47.76
>>887
>あなたが無知だけです。
>研鑽ください。

罵るだけなのは畿内説に負けた証拠
899日本@名無史さん
2021/10/20(水) 19:19:28.86
>>889
却下 
旧唐書
倭国条に邪馬壹國の記載はない。

邪馬壹國は元は小国、魏志の時代に可7万戸に成長


新唐書 記紀完成後なので
記紀に沿った記載
900日本@名無史さん
2021/10/20(水) 19:23:21.54
>>892
>・・もうちょっと丹波を重要視してもよいと思う

重要視すると、出雲と丹波の二国経由で大和入りになって、倭人伝と合わない
901日本@名無史さん
2021/10/20(水) 19:24:32.90
>>874
テンプレではね
キナイコシは名無しで、なんでもありの馬鹿だからご都合主義

畿内説でここに来てるのは多くて三人
ほとんどキナイコシの名無し投稿

24時間貼り付いている人キナイコシ
なんの世間の役に立って無い

俺なんて、親の介護や町内会やちょっとしたアルバイトの合間に投稿してる状態

阿波の知識はわかるけど阿波もキナイコシと同じ状態

なにも非難してない
好き勝手に生きれば良い
902日本@名無史さん
2021/10/20(水) 19:25:38.99
>>901
誹謗してるな
証拠もなく
903日本@名無史さん
2021/10/20(水) 19:25:43.39
>>896
狗奴国しか読んでないのか?
共立参加国の利権争いが激しい紛争地域
だから卑奴母離を置いて抑えている。
また鉄、銅等の輸入、物資(黒曜石、翡翠)等
輸出もあり、盗賊、海賊対策もある。
904日本@名無史さん
2021/10/20(水) 19:28:25.55
>>890
>和歌山、三重、奈良の山中と日の出入り見える海岸の範囲が
>女王之所都。

そのうちに、「阿波」も取り込むつもりなんだろうが、そうはいかんぞ、 ペテン師。   @阿波
905日本@名無史さん
2021/10/20(水) 19:29:04.35
>>891
そのうちに、「阿波」も取り込むつもりなんだろうが、そうはいかんぞ、 ペテン師。   @阿波
906日本@名無史さん
2021/10/20(水) 19:30:35.05
>>905
田舎不要
907日本@名無史さん
2021/10/20(水) 19:33:28.26
>>906
最悪・最低沼地大和盆地に言われる筋合いはない。

「弥生人にとって、阿波はまさにパラダイス」
南四国は、温暖な黒潮流れる太平洋に面し、漁労・航海術が発達、内陸は高温多雨による森林資源に恵まれ、
一方、希少価値の高い鉱物に恵まれている。
また、吉野川を始めとする、いくつもの大河が流れ、大河流域にも、広範に肥沃な土壌の恵みを与えている。   

南四国に大国「邪馬臺国」・「狗奴国」・「投馬国」が興るのも当然と言えば当然。   @阿波
908日本@名無史さん
2021/10/20(水) 19:34:33.40
>>848
阿保すぎ、籠と書けば籠しか考えないのか?
布でも、化粧でもいいんでは?
阿保すぎ、読み方でなくどういう役割だよ。
909日本@名無史さん
2021/10/20(水) 19:35:07.81
>>762
>で、箸墓以外に径100歩の墳墓って、当時の何処にあるんだよ、工〒公。

箸墓古墳は長200歩。
径100歩は葛城の高天原にしかない。
大和朝廷の発祥地だし文句はなかろう。
910日本@名無史さん
2021/10/20(水) 19:38:55.02
>>905
女王国の範囲の話だよ。
もう遅い、当然、阿波も取り組む。
四国が投馬国だな。太平洋ルート
東間国。
911日本@名無史さん
2021/10/20(水) 19:51:46.23
>>910
なに言ってんだか、あなたの日本語わからない
912日本@名無史さん
2021/10/20(水) 19:51:49.57
キナイコシ名無し投稿で恥晒してるな
913日本@名無史さん
2021/10/20(水) 19:53:03.81
>>912
どれが?
914日本@名無史さん
2021/10/20(水) 19:54:24.79
>>909
>箸墓古墳は長200歩。

なぜ?
915日本@名無史さん
2021/10/20(水) 19:55:32.19
>>911
日本語わからないあんたには関係ない。
放置でいい。無理に付き合う必要もない。
付き合うつもりもない。
916日本@名無史さん
2021/10/20(水) 19:59:02.14
キウスが多投して恥をさらしているな
917日本@名無史さん
2021/10/20(水) 19:59:48.57
キウスの文章を理解するのは無理
918日本@名無史さん
2021/10/20(水) 20:10:12.55
>>868
よくわからないけど

纏向は倭国女王の卑弥呼の居住地で
初期ヤマト王権の地で有れば

初期ヤマト王権での卑弥呼の位置付けは?

卑弥呼が初代天皇???
919日本@名無史さん
2021/10/20(水) 20:11:29.81
>>915
日本語話せてないのが自分だと、まだ認めないのですか?
あなた常に理由が説明出来ないでしょう
日本語が話せないからで
920日本@名無史さん
2021/10/20(水) 20:13:41.68
>>918
>卑弥呼が初代天皇???

天皇とか、後世できた称号だから
921日本@名無史さん
2021/10/20(水) 20:16:08.92
「希薄」の読めない男、キウス
922日本@名無史さん
2021/10/20(水) 20:19:50.28
>>880
テンプレ読めよ
日本海ルートは否定されてるよ
後はスレ主と議論しろよ
923日本@名無史さん
2021/10/20(水) 20:23:12.88
>>910
支離滅裂、なんでもありの畿内説と思われるよ
924日本@名無史さん
2021/10/20(水) 20:25:38.48
>>918
>初期ヤマト王権での卑弥呼の位置付けは?
>卑弥呼が初代天皇???

初期ヤマト王権での卑弥呼の位置付け = 魏王朝臣下の親魏倭王
925日本@名無史さん
2021/10/20(水) 20:28:40.30
>>923
とっくに思われてるよ。 畿外まで取り込むペテン畿内説。   @阿波
926日本@名無史さん
2021/10/20(水) 20:35:55.56
>>1
纏向が初期ヤマト王権の地なら
その王は卑弥呼でいいの?
927日本@名無史さん
2021/10/20(水) 20:36:00.00
近畿説だけど
畿内説はどう思うの?
928日本@名無史さん
2021/10/20(水) 20:37:11.46
>>927
ヤラセで無ければ、近畿説の範囲を示せよ
929日本@名無史さん
2021/10/20(水) 20:38:41.74
>>924
根拠は?
930日本@名無史さん
2021/10/20(水) 20:40:20.76
>>924
あの纏向の4棟の建物群で同居かい
931日本@名無史さん
2021/10/20(水) 20:47:33.60
初期ヤマト王権での卑弥呼の位置付け = 魏王朝臣下の親魏倭王 = 親魏倭王の墓は箸墓
932日本@名無史さん
2021/10/20(水) 20:51:06.77
>>927
ヤラセの意味がわからんけど
範囲、基本的な思考ベースが下記
出真珠、青玉。其山有丹,其木有柟、杼、豫樟、楺櫪、投橿、烏號、楓香,其竹筱簳、桃支。有薑、橘、椒、蘘荷,不知以爲滋味。有獮猴、K雉
この範囲。結果 丹山で三重、郡から万二予里を伊勢東海岸として
円を書く、不思議と糸井川の翡翠産出 近辺も入る。
933日本@名無史さん
2021/10/20(水) 20:54:02.07
>>924
畿内説はめちゃくちゃだな
纏向に
初期ヤマト王権の王が居て、女王卑弥呼が居て、卑弥呼に使える巫女千人と兵が居て、、、、
何本指があったらいいのだ
934日本@名無史さん
2021/10/20(水) 20:55:03.82
>>932
相変わらず、byのいいとこ取り・支離滅裂話。   @阿波
935日本@名無史さん
2021/10/20(水) 20:56:32.81
科学を捨て、円を書く
936日本@名無史さん
2021/10/20(水) 21:05:31.07
位置が明確な韓国と対馬の距離と対馬と壱岐の距離、凡そ70kmを千余里としている
明の時代の1里のメートル換算表を見ると、400mから560mの間で、約70mは極端に短く、
疑問の湧いて当然と云える距離換算と云えるが
魏の明帝の時代、景初初年から数年間だけ、極めて短い里数が正式なものとして
採用されていた可能性があるとの説が有る。
中国古代天文学書「周髀算経」と云う書物中の太陽光の影の長さを計測する方法の記述があり、
その方法を現代の知識で再計算してみると、1里は約76-77mとなる。
魏の明帝が年号を景初に変えた時に、暦の制度を変更たとの記録が残っている。
新しい王朝には、改めて暦・法律・度量衡の制度を定めるとの約束事があり、
暦の制度の変更と共に度量衡制度も変更されたと推定できる。

これ本当ですか?インチキのでっちあげですか?
937日本@名無史さん
2021/10/20(水) 21:19:31.12
>>932
相変わらず、byのいいとこ取り・支離滅裂話。   @阿波
938日本@名無史さん
2021/10/20(水) 21:27:00.30
>>934
科学を捨てないで円を書く
939日本@名無史さん
2021/10/20(水) 21:28:13.43
>>937
畿内説ではないよな。
940日本@名無史さん
2021/10/20(水) 21:30:10.86
>>938
やっぱり、いいとこ取り・支離滅裂話のbyだったな。  わははははは   @阿波
941日本@名無史さん
2021/10/20(水) 21:32:26.06
>>940
支離滅裂話かわからんが 
わははははは 
942日本@名無史さん
2021/10/20(水) 21:34:30.60
>>931
箸墓かどうかはともかくその通りだわな
943日本@名無史さん
2021/10/20(水) 21:36:36.77
>>925
良いじゃん別に
なんなら阿波も入れてやろうか?
944日本@名無史さん
2021/10/20(水) 21:39:46.44
ホケノ山古墳の朱で舞い上がり

引っこみつかない

田舎者  =  @阿波れwww
945日本@名無史さん
2021/10/20(水) 21:43:17.20
>>676
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國(≒女王國)は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説の妄想は
無視できない現実と
なんとしてでも卑弥呼を大和にしたいという欲望のため
どうしても不自然なまぜこぜになる運命ってことだ
946日本@名無史さん
2021/10/20(水) 21:45:52.36
>>677
>邪馬壹國(近畿)に奴国勢力を置く・・・

「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國(≒女王國)は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの近畿説は、
バツ。
947日本@名無史さん
2021/10/20(水) 21:47:32.03
>>853
なるほど、伊勢津彦の事を考えたら古代でもそう遠くはないのか、伊勢は。
だったら阿波説の神武東征移動総距離40kmはやっぱりなしだな。
948日本@名無史さん
2021/10/20(水) 21:48:50.69
>>946
「南→東」や「冢→前方後円墳」なんて書いてない

「正北抵新羅の倭國(≒女王國)は九州」否定するけど
949日本@名無史さん
2021/10/20(水) 21:49:30.02
>>683
>土器の移動で「畿内→北部九州」の動きが確定しているから

「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「石塚や箸墓は那珂八幡の進化型」などの史料実態や、
土器の移動で「北部九州→大和」の動きが確定しているから
950日本@名無史さん
2021/10/20(水) 21:49:46.03
>>945
>>844が言ってる事は説得力があるよ
方角がおかしいと言うなら九州だっておかしい訳で
951日本@名無史さん
2021/10/20(水) 21:55:55.59
魏の公式な使者が東を東南に間違ったりしないよ
しかも陳寿は行ってないんだし僅かな勘違いなんて通用しない
952日本@名無史さん
2021/10/20(水) 21:56:20.70
>>717
>卑弥呼一族の影響で土器の移動「畿内→北部九州」、・・・

「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「石塚や箸墓は那珂八幡の進化型」などの史料実態や、
土器の移動で「北部九州→大和」の動きが確定しているから、
この男はバツ。
953日本@名無史さん
2021/10/20(水) 21:57:42.43
>>721
文献等を無視する近畿説。
954日本@名無史さん
2021/10/20(水) 22:01:29.64
>>953
意味不明
出真珠、青玉。其山有丹〜がベース
文献無視していない。
955日本@名無史さん
2021/10/20(水) 22:04:10.71
>>728
元々の大和というのは、
九州倭國の「東征毛人五十五國」に征服されて出来た別種分家の倭種の「大倭」職の旧小国であり、
701年の「大宝元年の建元」で倭國を併合吸収継承した、
というのが実態だったんだが
956日本@名無史さん
2021/10/20(水) 22:08:10.98
>>730
大和が大きな墓を造れるということは、
九州倭國の「東征毛人五十五國」の軍が、在地の毛人や銅鐸祭祀部族らを征服支配して、
彼らを生口や守墓人にして作らせたからだった、という事。
957日本@名無史さん
2021/10/20(水) 22:09:51.40
>>956
そうする事に何の意味があるのよ
故郷を捨てて移住するの?
958日本@名無史さん
2021/10/20(水) 22:14:26.72
>>735
>・・・(湖南)

湖南なんて、始めから「大和天皇家一元列島支配」教の宗教で、
「南→東」などの史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しのオレオレ詐欺の、
・・・・京大学者ではないか。
959日本@名無史さん
2021/10/20(水) 22:21:28.33
山門郡のあたりが邪馬台国だろう。地名って千年以上残るんだな。
音韻学的には「邪馬台」の「ト」は(乙類)らしいが
「山門」を発音してる後の人たちにはどっちも同じなわけで。
>>936が本当なら畿内へ到達は不可能だしな。
記紀の内容は圧倒的に九州に軍配だし。

>>955
分家に吸収されちゃったって事?九州だけに。
文武天皇ってすごいんだね。
阿波の大御和神社から国璽の印を差し出させたらしい。
960日本@名無史さん
2021/10/20(水) 22:21:44.37
>>755
>>ところで、奥山VSザラコクは

VSにはなってない
奥山は、誰とも対話してないしできない人だから
961日本@名無史さん
2021/10/20(水) 22:22:09.89
元々近畿には権力が集まっててその中での権力争いならあり得ると思うのよ
でも九州から軍勢を引き連れて戦してその後どうするの?
962日本@名無史さん
2021/10/20(水) 22:26:12.43
神武は東征じゃなくて東遷だよ。主さんの婿になりに来たんさ。
ちょっとしたアクシデントがあったけど。
963日本@名無史さん
2021/10/20(水) 22:27:50.29
>>781
>湖南の説はもう論破されてると思うが、私でも論破できる、
魏使は邪馬台国に何度往来してるかでわかるよ。
その全てが行きは東を南に、帰りは西を北と間違えたと言いたいの。
そんな馬鹿な!稚拙な憶測でしか無い

成程。
964日本@名無史さん
2021/10/20(水) 22:29:48.05
>>782
アンチの人たちはとにかく「冢」が嫌い
「冢≠前方後円墳」である事は明確過ぎるからね
965日本@名無史さん
2021/10/20(水) 22:32:40.93
>>783
>径百歩は合ってて、方位は間違えてるなんて、ご都合主義の典型じゃん。

方位が合ってたら、そこは大和では無いんだから、
大和説が間違ってるのは確実
966日本@名無史さん
2021/10/20(水) 22:40:48.02
>>788
前方部に後円部とは別の独立した埋葬施設がある
後円部が一つの墓、前方部には墓があったりなかったりする

ということで、卑弥呼の墓の冢の中心部の主体は卑弥呼一人であり、
殉葬の奴婢百余人は、主体は主体ではなく、陪葬の位置であり、
中心部の墓は一つだ、という認識に特に問題はない
967日本@名無史さん
2021/10/20(水) 22:44:13.84
>>801
>次有斯馬國,次有已百支國,次有伊邪國,次有都支國,次有彌奴國,次有好古都國,次有不呼國,次有姐奴國,次有對蘇國,次有蘇奴國,次有呼邑國,次有華奴蘇奴國,次有鬼國,次有爲吾國,次有鬼奴國,次有邪馬國,次有躬臣國,次有巴厘國,次有支惟國,
次有烏奴國
山陰、山陽あたりの地名かな?

北部九州の地名だな。
968日本@名無史さん
2021/10/20(水) 22:46:35.41
>>804
>この最後の陸行が南向きで、陳寿は倭国を南へ伸びた列島だと
信じて(誤認して)いたから、南と書いたのだろうと

4回位来ている魏の役人らが、方向を間違える筈がないな。
969日本@名無史さん
2021/10/20(水) 22:51:34.07
>>806
>それがね、日本には記紀以前の文献が無いのです。

勿論、8世紀前半に大和政権に拠って焚書坑儒のような事をされたらしいが、
九州では、いくつかの文書や寺社などの縁起書や松野氏姫氏系図のように、
かろうじて残ったものもあったな。
970日本@名無史さん
2021/10/20(水) 22:56:44.69
>>968
魏の役人らが、方向を間違える筈がないけど
魏志の説明ではたどりつかない。
陳寿の主観、会稽意識が強い。
971日本@名無史さん
2021/10/20(水) 22:58:21.67
>>968
そこ陳寿の思い込みだと思うんだけどな
信じたいものだけ信じる
972日本@名無史さん
2021/10/20(水) 22:59:36.60
>>812
>邪馬壹國には行っていないと思う 卑弥呼が共立され伊都国か不彌國にいる。

魏の役人たちは、当然「邪馬壹國女王之所都」に行っている。

>少有見者。以婢千人自侍,唯有男子一人給飲食,傳辭出入。居處宮室樓觀
城柵嚴設,常有人持兵守衛 卑彌呼以死,大作塚,徑百餘步,徇葬者奴婢百餘人
は九州の地。
後の時代に近畿移動

近畿移動があった、としても、「東征毛人五十五國」の軍からであり、
九州倭國のトップ首長らは、近畿には殆ど移動していない。
973日本@名無史さん
2021/10/20(水) 23:03:37.72
>>816
>卑弥呼のいる場所は邪馬壹國、女王之所都との記載はない・・・

結局、この「近畿説」男は、史料事実の曲解や否定の嘘吐き騙しの、
オレオレ詐欺の・・・・男であったのかな?。
974日本@名無史さん
2021/10/20(水) 23:06:21.24
>>821
>乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 
それ、曲がるたびにいちいち方角を記録してる訳じゃないだろ?

いや、「南へ行ったり東へ行ったりを繰り返した」という意味だ。
975日本@名無史さん
2021/10/20(水) 23:07:59.83
>>972
結局、この「北部九州説」男は、史料事実の曲解や否定の嘘吐き騙しの、
オレオレ詐欺の・・・・男であったのかな?。
976日本@名無史さん
2021/10/20(水) 23:12:16.09
>>826
>郡使が往來するとき常に逗留する伊都國の方位が45度間違ってるからな

魏の役人らは、8方向区分を記録し分けているから、45度は間違えないな。
977日本@名無史さん
2021/10/20(水) 23:16:53.47
>>844
>つまり、行程記事では国々の比定はできないので

ほぼ大体出来る。
978日本@名無史さん
2021/10/20(水) 23:21:09.12
>>845
>「西服衆夷六十六國」である。九州という記載はない。
インチキ野郎でオレオレ詐欺師さん

「西服衆夷六十六國」では、「服」の「衆夷・・・」という目的語が付いているから、
「西は衆夷を服属せしめた」という他動詞の使用であった事になる。
インチキ大和説野郎でオレオレ詐欺師さん
979日本@名無史さん
2021/10/20(水) 23:25:01.77
>>856の訂正
>・畿内には3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
邪馬台国の東の国。出雲から飛来した大物主、物部氏の遠祖・饒速日命の日本国

畿内も邪馬台国も存在もしていなかった嘘つき騙し文言であり、
大和は、九州倭國の「東征毛人五十五國」で征服された別種分家の旧小国の倭種であり、
地方の市を監督する「大倭」職であった。
980日本@名無史さん
2021/10/20(水) 23:28:46.36
>>870
>だから、女王の都するところ=邪馬台国=ヤマト国が本拠地でしょ!
魏志倭人伝にそう書いてあるんだから

倭人伝にそう書いていないから、バツ。
981日本@名無史さん
2021/10/20(水) 23:32:04.51
>>882
アンチのオレオレ詐欺師の大和説者らは、
またも具体的な反論や指摘が出来なかっと
つまり、論破された
982日本@名無史さん
2021/10/20(水) 23:35:40.58
>>883
>港や家の大きさを見てもらえば、それより小さな船での移動で
方角が分からなくなるというのは理解できるだろ?

日の出日の入り方向や、昼間の太陽の方向を知れば、
大体の方角は判るの。
983日本@名無史さん
2021/10/20(水) 23:42:36.66
>>890
>南至邪馬壹國,女王之所都は近畿
纏向は、祭祀、墓、イベント会場
和歌山、三重、奈良の山中と日の出入り見える海岸の範囲が
女王之所都

「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國(≒女王國)は九州」などの、
史料事実や史料実態などに拠ってバツ。
984日本@名無史さん
2021/10/20(水) 23:50:33.22
>>931
>初期ヤマト王権での卑弥呼の位置付け = 魏王朝臣下の親魏倭王 = 親魏倭王の墓は箸墓

「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國(≒女王國)は九州」などの、
史料事実や史料実態などに拠ってバツ。
985日本@名無史さん
2021/10/20(水) 23:58:26.41
>>970
魏の役人らが、方向を間違える筈がないし、
魏志の説明で、十分邪馬壹國女王之所都にたどり着く。
「南→東」などの史料事実の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説者は、
主観や捏造やオレオレ詐欺の意識が強い
986日本@名無史さん
2021/10/21(木) 00:32:10.20
やっぱり邪馬台国は大阪だろうな
987日本@名無史さん
2021/10/21(木) 00:42:42.96
>>803
このルートよく見かけるが
帰りも同じルートなのかね?

無理だと思うが海流的に
988日本@名無史さん
2021/10/21(木) 00:58:38.04
>>985
「南→東」などの史料事実の曲解や否定の嘘吐き騙しの北部九州説者は、
主観や捏造やオレオレ詐欺の意識が強い
989日本@名無史さん
2021/10/21(木) 01:13:54.72
>>979
その九州倭国とは、きゅうしゅうわこく?きゅうしゅうやまと?
ややこしいな。わこくって中華が勝手に呼んでるだけで国名は?
ソースが不明で意味がよくわからない。
990◆n7jxAxKCBhb6
2021/10/21(木) 01:20:55.70
新スレ立てました。
http://2chb.net/r/history/1634744254/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
991日本@名無史さん
2021/10/21(木) 02:29:47.12
初期ヤマト王権の王 = 親魏倭王 = 卑弥呼 = 其の墓は箸墓
992日本@名無史さん
2021/10/21(木) 04:25:11.04
>>991
畿内説ては、そう考えるのが普通である。
すると、箸墓はモモソの墓では無い、
卑弥呼はどの女性天皇に当たるのだろう?
倭人伝で、邪馬台国の王=倭国の王=卑弥呼と解せるのだろうか?

畿内説の方、教えてください、
993日本@名無史さん
2021/10/21(木) 04:43:43.43
>>968
>4回位来ている魏の役人らが、方向を間違える筈がないな。<

その通り、四往復として八回の内殆ど方位を誤認したとは考えづらい。
994日本@名無史さん
2021/10/21(木) 04:53:36.88
最近思うのだけど、畿内説は記紀に随分おんぶに抱っこだな
995日本@名無史さん
2021/10/21(木) 05:01:19.78
>>933
纏向は倭国王卑弥呼の王宮があった所
初期ヤマト王権の邪馬台国の王は纏向にはいなかった??
畿内説の言う、纏向は初期ヤマト王権誕生の地ってなんなんだろうか
996日本@名無史さん
2021/10/21(木) 05:28:41.17
親魏倭王= 親魏ヤマト王 = 初期ヤマト王権の王 = 卑弥呼 = 其の墓は箸墓
997日本@名無史さん
2021/10/21(木) 05:31:32.43
>>996
モモソってなんなの?
998日本@名無史さん
2021/10/21(木) 05:56:25.77
>>993
四回って誰が来た
999日本@名無史さん
2021/10/21(木) 05:57:36.79
>>995
>初期ヤマト王権の邪馬台国の王は纏向にはいなかった??

誰の主張?
1000日本@名無史さん
2021/10/21(木) 06:01:17.70
アンチの言うこと、良くわからない
とくに言葉が
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邪馬台国畿内説、令和元年に消える。
邪馬台国 畿内説Part219
邪馬台国畿内説が敗北を宣言したね
考古学者が明かす邪馬台国畿内説破綻の本当の理由
文学部 邪馬台国畿内説  part2
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邪馬台国畿内説の討論会
つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだな。
ゆるりと邪馬台国畿内説Pprt 302
邪馬台国畿内説の感染防止
邪馬台国畿内説は、、、
筑紫吉備連合軍による畿内征服が邪馬台国を産んだ
完全に破綻した邪馬台国畿内説の葬儀
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邪馬壹国畿内説 Part618
畿内説奥山の馬鹿発言等保存スレ
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