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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://2chb.net/r/history/1616475299/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと
。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。
畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
纒向大溝建築材実測図

矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半〜中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。
湖南省西晋墓陶俑図
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代)
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
(承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆 ・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
九州説にとって不利な条件と言える。
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。
倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
活発期:2世紀末〜239A.D.:久住IA期
衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(漢書西域)
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
(承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀)
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。 ◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。
生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
もとより倭人伝は倭人の国々を
1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰)
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。 ◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
東漢にあっても普通に食用であった。
「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。
◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。
纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。
纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。
以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
4世紀後半だ!
A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!
A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有コ。崩而葬焉。
至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。
「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40) ◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!
A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
と調査機関は公式発表している。
事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。
大型建物群配置図
同空撮
建物B空撮
Dより西を望む
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 魏志倭人伝には、卑弥呼の塚の大きさは書かれていません。
邪馬台国畿内説は、「魏志倭人伝に、卑弥呼の塚の大きさが書かれているのだ。」という、漢文を翻訳出来ない者の、出来栄えの悪い脳に出現した妄想です。
大いに鬘を売る。
径、100余歩に、並待者、禿げ、100余人。
大いに塚を作る。
径、100余歩に、殉葬者、奴婢、100余人。
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし
>>1 つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだね。
九州説は下手な荒らしやりすぎ
九州説の敗北を公言してるのと同じ
>>1 邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人が、重複ニセスレッドを作製してしまいましたね。
「邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのか、
それとも、
邪馬台国畿内説は、まだ、完全には破綻してしまってはいないのか、」
について討論するための、このスレッドで、
奥山氏が、
「邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのか、
それとも、
邪馬台国畿内説は、まだ、完全には破綻してしまってはいないのか、」
という議題とは、全く無関係の、
奥山氏の脳の内側にしか存在しない「九州説」に対して、敗北宣言の意味にしかならない嘘の悪口を言い放っているな。
998日本@名無史さん2021/03/25(木) 10:28:28.76
>>995 偽物でた
九州説の偽物でた
999日本@名無史さん2021/03/25(木) 10:29:34.69
詐欺をやるから九州説は嫌われる
1000日本@名無史さん2021/03/25(木) 10:30:12.80
九州説、敗北して惨めに終了
80日本@名無史さん2021/03/25(木) 10:33:31.71
九州説は下手な荒らしやりすぎ
九州説の敗北を公言してるのと同じ
邪馬台国候補となる条件(仮)
・実際には完全に間違えだったことが判明した、「方形周溝墓があったのだ」という早とちりの誤認と同時に、「溝との切り合い関係があるから、観光用の着ぐるみのモデルとなった卑弥呼の時代の物体なのだ。」と発表された「穴の跡」がある。
・ジグザグに掘り進められた深さ2mの溝がある土壇場の上で、卑弥呼は桃とカエルを食いながら木の面をつけて全裸で踊っていた。
・おそらく方形で、数十センチメートル程の深さに掘削された、5世紀末以降に出現した「SX-1002」と完全に平行に隣接し、「SX-1002」との関係性が強く疑われるが、
謎の勢力に、謎の勢力が作製した観光用の着ぐるみのモデルとなった卑弥呼の時代である3世紀前半に立てられたのだ、と断定されてしまった「建物C」の痕跡が発見された。
・時速6kmで通勤途中の女に抜かされながら、中国人が、難波から1月かけて辿り着く。
・カエルの骨は溶けないが、鉄は溶ける地域である。
・魏志倭人伝時代が終わった後に吉備を経て庄内に伝来したが、庄内式と名付けられたので、「畿内から九州に伝来したという誤認をされている」土器が埋まっている。
・中国から飛んできた砂よりも軽い花粉が発見される。
・中国の骨董屋で売りに出された鏡と同じ4世紀の国産鏡が4世紀以降の古墳に埋まっている。
・火星との交易が盛んだった地域である
・人民の住居がない。
・対馬の真東にある。
・古墳を積み上げる土方のための大下水道がある。
・布留式という式の土器の時代に5世紀の馬がいる。
・最初に、相撲が始まった地域である。
・4世紀に朝鮮半島で捕獲、連行された馬によって積み上げられた前方後円型の物体がある。
・奴隷の死体を乗せる4世紀の埴輪が、発見できた。
・冬は大雪だが、一年中、裸足で駆け回り、一年中、生野菜が食べられる。
・卑弥呼の着ぐるみに自治体の予算が出る。
・自治体が自称考古学者に給料を払う。
・自治体が観光を活発化しようとして財政が破綻寸前。
・若者達が、自治体の方針にうんざりしているだけではなく、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎることや、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎる割には、教育水準が高まらないことに不信を抱き始めている。
・奥山氏の鬘は、海外交差編年のように、ズレる。
>>980 >吉野ヶ里なんかもイト国の範囲かも、、、
私は、「奴國の吉野ケ里」は、
北へ山越えをすると、奴國の室見川の上流に出ますから、
奴國から分かれた「奴國の分国」ではないか?という意見。
丁度、馬韓の不彌國と同じ名前の室見川河口付近の不彌國がある事から、
室見川河口付近の不彌國と馬韓の不彌國とは、
同じ不彌部族の国であった可能性が高い事から。
>>978 阿波さんへ
それが、阿波同様、調査費用が少ない
奈良に落とす莫大な調査費用を少し回して欲しい
吉野ヶ里は、邪馬国(八女)から奴国まで、次々に紹介された国のどれかの可能性が高いな。
次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國。
86日本@名無史さん2021/03/25(木) 10:45:13.64
>>980 >吉野ヶ里なんかもイト国の範囲かも、、、
>>1000 詐欺をやるから大和説学者らは嫌われる
大和説、敗北して惨めに終了
>>90 そういう詐欺をするから
九州説の信用はゼロになった
「邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのか、
それとも、
邪馬台国畿内説は、まだ、完全には破綻してしまってはいないのか、」
について討論するための、このスレッドで、
奥山氏が、
「邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのか、
それとも、
邪馬台国畿内説は、まだ、完全には破綻してしまってはいないのか、」
という議題とは、全く無関係の、
奥山氏の脳の内側にしか存在しない「九州説」に対して、敗北宣言の意味にしかならない嘘の悪口を言い放っているな。
92日本@名無史さん2021/03/25(木) 10:54:22.59
>>90 そういう詐欺をするから
九州説の信用はゼロになった
九州説だが
佐賀平野に注ぐ筑後川を主要交通で邪馬台国
王都は平塚川添遺跡と思う
>>95 少し悪質ですよ。
以前、奥山氏がやってましたが
同類だとおもわれますよ。
>>80 「南→東」や「冢→前方後円墳」や、
「正北抵新羅の倭國(≒女王國)は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの大和説学者らは、
下手な荒らしやりすぎ
大和説の敗北を公言してるのと同じ
>>92 「南→東」や「冢→前方後円墳」や、
「正北抵新羅の倭國(≒女王國)は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの
そういう詐欺をするから
大和説学者らの信用はゼロになった
>>87 >それが、阿波同様、調査費用が少ない
阿波同様なのに、「阿波」と雲泥の差は
>>87
>それが、阿波同様、調査費用が少ない
阿波同様なのに、「阿波」と雲泥の差はなんでだ? @阿波 纏向説の根拠となる鏡はどれですか?
◆魏の年号が記された鏡
方格規矩四神鏡 青龍三年(235年) 大田南5号墳 京都府弥生町
方格規矩四神鏡 青龍三年(235年) 安萬宮山古墳 大阪府高槻市
三角縁神獣鏡 景初三年(239年) 神原神社古墳 島根県加茂町
平縁神獣鏡 景初三年(239年) 黄金塚古墳 大阪府和泉市
三角縁盤龍鏡 景初四年(240年) 広峰15号墳 京都府福知山市
三角縁盤龍鏡 景初四年(240年) 持田古墳群? 伝・宮崎県
三角縁神獣鏡 正始元年(240年) 蟹沢古墳 群馬県高崎市
三角縁神獣鏡 正始元年(240年) 森尾古墳 兵庫県豊岡市
三角縁神獣鏡 正始元年(240年) 御家老屋敷古墳 山口県新南陽市
平縁神獣鏡 (晋の元康年間291年〜) 上狛古墳 京都府山城町?
◆呉の年号が記された鏡
平縁神獣鏡 赤烏元年(238年) 狐塚古墳 山梨県三珠町
平縁神獣鏡 赤烏七年(244年) 安倉高塚古墳 兵庫県宝塚市
>>971
>割れているし、証拠も根拠もそれぞれ
byよ、伊都国を直方辺りに比定してはどうだい? @阿波
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦)
↓【東南】陸行500里 (25km)1里50m 福津市→八木山峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
末盧国(福津市辺り・万津浦) : 「田熊石畑遺跡」・「今川遺跡」・「徳重高田遺跡」・「鐘崎上八遺跡」・「手光於緑遺跡」・「朝町町ノ坪遺跡」・「朝町竹重遺跡」・「新原・奴山古墳群」
伊都国(直方辺り) : 「感田上原遺跡」・「帯田遺跡」 >>106 やっぱり全奥山病のにせスレじいさんだったか
>>103 景初三年(239年) 黄金塚古墳の画文帯神獣鏡や
正始元年(240年) 森尾古墳の三角縁神獣鏡あたり
景初や正始は卑弥呼が魏と使者のやり取りをした事が魏志倭人伝に書いてある
奥山氏は、なぜ、重複偽スレッドを作製してしまったのだろうか。
>>110 嘘だらけのテンプレートを、貼り付けたかったからではないのかな。
>>1 邪馬台国畿内説の根拠となる人民の住居は、どれですか。
>>1 かなり、悪質ですよ。
以前から、奥山氏がやってますが
ウンコだとおもわれますよ。
>>110 某〇鮮民族の得意な成りすまし乗っ取りも通用しないよ
>>112 畿内からは弥生時代最大級規模の
唐古鍵遺跡が見つかっている
>>1 邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだから、
この重複偽スレッドを、
日本海溝の生命体についての研究に使用すれば良いのではないのかな。
朝鮮民族の奥山氏が、重複偽スレッドを立てたので、後ろめたさが高まり、
公式スレッドを、貶めているな。
114日本@名無史さん2021/03/25(木) 12:42:47.53
>>110 某〇鮮民族の得意な成りすまし乗っ取りも通用しないよ
>>115 霊園跡地ですか?
唐古・鍵遺跡の変遷
■ムラの衰退(古墳時代前期)
弥生時代中・後期には大環濠はなくなり、ムラの規模が縮小します。環濠の一部は再掘削されますが、 井戸などの居住区関連の遺構は大幅に減少します。
■ムラのその後(古墳時代以降)
遺跡の中央付近で古墳時代後期の前方後円墳がみつかっています。この時期にはムラは消滅し、墓域となっていたようです。
九州説はそもそもが九州に邪馬台国はないものだから
畿内説に学説で勝とうとはハナから考えてなくて
嘘や罵倒や暴走発狂などの朝鮮しぐさで畿内説に勝とうとする
>>115
消滅遺跡を自慢するな。 畿内説も消滅するぞ! わははははは @阿波 日本海溝、伊豆・小笠原海溝と連なる水深6000m以深の海溝生態系が長く連なる特徴的な海域である(海上保安庁水路部,1985)。これら海溝は太平洋プレートが他のプレートに沈み込んでいく境界でもある)(海上保安庁水路部,1985)。
「邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのか、
それとも、
邪馬台国畿内説は、まだ、完全には破綻してしまってはいないのか、」
について討論するための、このスレッドで、
奥山氏が、
「邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのか、
それとも、
邪馬台国畿内説は、まだ、完全には破綻してしまってはいないのか、」
という議題とは、全く無関係の、
奥山氏の脳の内側にしか存在しない「九州説」に対して、敗北宣言の意味にしかならない嘘の悪口を言い放っているな。
119日本@名無史さん2021/03/25(木) 12:47:48.09
九州説はそもそもが九州に邪馬台国はないものだから
畿内説に学説で勝とうとはハナから考えてなくて
嘘や罵倒や暴走発狂などの朝鮮しぐさで畿内説に勝とうとする
絢爛たる唐古鍵遺跡
九州説は都合が悪いから墓域などと噓をつく
主な遺物
大阪府西部・滋賀県南部・三重県から愛知県西部・岡山県南部など各地の搬入土器が出土。
木棺墓1基から弥生人の成人男性の人骨を検出。
絵を描いた土器が多数出土。そのうちの二つの土器の破片に「楼閣」が描かれている。楼閣とは、2階建て以上の高い建物のこと。巻き込んだ屋根飾りを付けた建物が6棟あり、格式の高い建物である。その中でも「楼閣」は巻き込んだ屋根飾りがたくさん付いているので一番格式の高い建物であることが推測できる。建物の絵を描いた土器は西日本の各地で46例見つかっており、そのうち15例がこの遺跡から出土した土器で、屋根飾りを付けた建物の絵はこの遺跡で6例、隣村の清水風(天理市)で1例あるのみ。
絵画土器 - 弥生土器にヘラ状の道具で描いた線刻画。弥生時代後半、近畿地方を中心に出土する。最多出土が本遺跡で300点。次いで清水風遺跡約50点。祭祀用の土器と考えられている。水壺・酒壺などの液体貯蔵用土器に描かれている。画題は、建物・人物・鹿など。
大型勾玉が2個入った褐鉄鉱(かつてっこう)容器が出土。
ヒスイ製勾玉(新潟県糸魚川市周辺のものが原料)
石庖丁(いしぼうちょう)
木製農耕具
埋没古墳の検出。前方後円墳
動物遺体(イノシシ、イヌ、ブタ)
銅鐸片・銅塊・銅滓・鋳型の外枠[5]・送風管・被熱土器片。
朝鮮民族の奥山氏
>>1が、
「邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのか、
それとも、
邪馬台国畿内説は、まだ、完全には破綻してしまってはいないのか、」
について討論するための、このスレッドで、
奥山氏が、
「邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのか、
それとも、
邪馬台国畿内説は、まだ、完全には破綻してしまってはいないのか、」
という議題とは、全く無関係の、
奥山氏の脳の内側にしか存在しない「九州説」に対して、敗北宣言の意味にしかならない、朝鮮民族にしか分からない言葉を使って、訳の分からないことを言い放っているな。
122日本@名無史さん2021/03/25(木) 12:48:49.99
朝鮮しぐさ九州説
水深1万メートルにも 達たっする超深海層に、いったいどんな生き物がいるのだろうか。
日本海溝は、マリアナ海溝という海溝に繋がっているのではないのかな。
九州説は嘘や難くせのたぐいで朝鮮しぐさである事はわかった
これからの問題は北朝鮮しぐさか南朝鮮しぐさのどちらかということ
唐古鍵遺蹟という遺蹟には、火星のタコが降臨したのだろうか。
>>124
消滅遺跡を自慢するな。 畿内説も消滅するぞ! わははははは @阿波 朝鮮民族の奥山氏
>>1が、
「邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのか、
それとも、
邪馬台国畿内説は、まだ、完全には破綻してしまってはいないのか、」
について討論するための、このスレッドで、
「邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのか、
それとも、
邪馬台国畿内説は、まだ、完全には破綻してしまってはいないのか、」
という議題とは、全く無関係の、
奥山氏の脳の内側にしか存在しない「九州説」に対して、敗北宣言の意味にしかならない、朝鮮民族にしか分からない言葉を使って、訳の分からないことを言い放っているな。
128日本@名無史さん2021/03/25(木) 12:55:59.31
九州説は嘘や難くせのたぐいで朝鮮しぐさである事はわかった
これからの問題は北朝鮮しぐさか南朝鮮しぐさのどちらかということ
唐古鍵遺蹟という遺蹟には、火星のタコが降臨したのだろうか。
それとも、
唐古鍵遺蹟という遺蹟には、北朝鮮のタコが降臨したのだろうか。
それとも、
唐古鍵遺蹟という遺蹟には、南朝鮮のタコが降臨したのだろうか。
マリアナ海溝という海溝が、大規模に調査された可能性があるな。
>>132 >>133 嘘や難くせや発狂暴走の九州説
「しぐさ」でなく「しわざ」と言いたかったんじゃないかな?w
外国人または畿内説を装った他説か?w
128 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2021/03/25(木) 12:55:59.31
九州説は嘘や難くせのたぐいで朝鮮しぐさである事はわかった
これからの問題は北朝鮮しぐさか南朝鮮しぐさのどちらかということ
朝鮮民族の奥山氏
>>1が、
「邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのか、
それとも、
邪馬台国畿内説は、まだ、完全には破綻してしまってはいないのか、」
について討論するための、このスレッドで、
「邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのか、
それとも、
邪馬台国畿内説は、まだ、完全には破綻してしまってはいないのか、」
という議題とは、全く無関係の、
奥山氏の脳の内側にしか存在しない「九州説」に対して、敗北宣言の意味にしかならない、嘘の悪口を言い放っているな。
135日本@名無史さん2021/03/25(木) 13:01:16.83
>>132 >>133 嘘や難くせや発狂暴走の九州説
知的なタコは、海溝の底で、どのような知的な脳の活動を、活発化させているのだろうか。
>>141 知的なタコは、海溝の底で、知的な脳の活動を、活発化させ、
「邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのか、
それとも、
邪馬台国畿内説は、まだ、完全には破綻してしまってはいないのか、」
について研究している可能性もあるのでは、ないのかな。
>>141 どのようにして日本国民を騙すかをだけ考え、いつも失敗している奥山氏
>>1よりも、
海溝の底の知的なタコの方が、脳の出来栄えのレベルが、高そうだね。
>>142 魏志倭人伝や日本地図が、海溝に沈んだのだろうか。
海溝の底の知的なタコは、どのようにして、魏志倭人伝を翻訳したのだろうか。
魏志倭人伝や漢字の意味の情報を、海溝の底の知的なタコが、漁師の縺れを利用し、解読してしまう事は、可能性が完全に0では無いのだったな。
>>147 魏志倭人伝時代の日本列島に住んでいた人類の完全な情報を、21世紀の海溝の底の知的なタコが、漁師の縺れを利用し、知覚してしまう事も、可能性が完全に0では無いよ。
>>141 知的なタコは、海溝の底で、知的な脳の活動を、内面的に収束させ、瞑想している可能性もあるのでは、ないのかな。
「どのようにしてかは不明だが、情報やエネルギーの伝達が、お互い完全に隔離されたタコや人類の間で存在する。」という命題は、真実なのだろうか。
奥山氏
>>1は、病室で、病んでいる脳の活動を、内面的に収束させ、妄想している可能性もあるのでは、ないのかな。
>>105 モグラと格闘していた。
北九州ね。不弥國は中津、宇佐あたり ?by
>>153
>北九州ね。不弥國は中津、宇佐あたり ?by
当たらずと雖も遠からずだな。 @阿波
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15km)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25km)1里250m
不弥国(千戸)(築上町辺り)
奴国(田川辺り) : 「上本町遺跡」・「下伊田遺跡」・「五徳畑ケ田遺跡」・「真崎遺跡」
不弥国(築上町辺り) : 「築城五反田遺跡」・「上別府沖代遺跡」・「安武・深田遺跡」・「安武・土井の内遺跡」・「赤幡森ヶ坪遺跡」 .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
.
「死と再生という自然循環の神 大宜都比売神」
大宜都比売神(オオゲツヒメ)は、『古事記』に云う粟国(阿波国)の国神となる女神であり、
日本の養蚕・五穀の起源神、日本の偉大なる食物の女神、かつ日本最古の農業神である。
また、焼畑農業神、稲作・畑作農業神としての顔をもつ。『古事記』にあるオオゲツヒメの死は、死と再生という自然循環思想を表す。
穀物名を国名とするのも、農業神が国神となるのも日本で阿波国のみである。 @阿波
「死と再生という自然循環の神 大宜都比売神」
大宜都比売神(オオゲツヒメ)は、『古事記』に云う粟国(阿波国)の国神となる女神であり、
日本の養蚕・五穀の起源神、日本の偉大なる食物の女神、かつ日本最古の農業神である。
また、焼畑農業神、稲作・畑作農業神としての顔をもつ。
『古事記』にあるオオゲツヒメの死は、死と再生という自然循環思想を表す。
穀物名を国名とするのも、農業神が国神となるのも日本で阿波国のみである。 @阿波
朝鮮民族の奥山氏
>>1が、
「邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのか、
それとも、
邪馬台国畿内説は、まだ、完全には破綻してしまってはいないのか、」
について討論するための、このスレッドで、
「邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのか、
それとも、
邪馬台国畿内説は、まだ、完全には破綻してしまってはいないのか、」
という議題とは、全く無関係の、
奥山氏の脳の内側にしか存在しない「九州説」に対して、敗北宣言の意味にしかならない、嘘の悪口を言い放っているな。
158日本@名無史さん2021/03/25(木) 14:40:52.52
荒らししか出来ない九州説は死んでる説
纏向から逃げて唐古・鍵遺跡へ
纏向よりマシだけど✖
畿内説と九州説のデタラメたちはこれといった物証がないので、投稿ネタに窮しているのではないのだろうかww @阿波
タコは、タコ生の終わりに、一度だけ、オスとメスが愛し合うのだったな。
タコのオスは、タコ生の終わりに、一度だけ、メスと愛し合うために、他のオスと死闘を闘い、
命を落とす者もいるよ。
タコのオスは、タコ生の終わりに、一度だけ、メスと愛し合い、その直後に、死体になってしまうのだね。
タコのメスは、タコ生の終わりに、一度だけ、オスと愛し合い、卵を産み、
驚くべきことに、産んだ卵を愛し、つきっきりで、世話をするのだったね。
タコのメスは、タコ生の終わりに、一度だけ、オスと愛し合い、卵を産み、
驚くべきことに、産んだ卵を愛し、つきっきりで、世話をするため、
エサを捕獲しないので、
体が完全に弱ってしまうのだったな。
>>175 タコのメスは、卵がかえるのを見届け、その直後に、死体になってしまうのだね。
>>171-176 やはり、タコは、嘘ばかりついている奥山氏
>>1より、数段、心のレベルが高いな。
畿内説と九州説のデタラメたちは、これといった物証がないからといって、
いつまでもここでバカをさらしていてもいいのだろうかww @阿波
「死と再生という自然循環の神 大宜都比売神」
という、神は、どのような神なのだろうか。
タコは、「死と再生という自然循環」を繰り返しているのだろうか。
タコは、タコが「死と再生という自然循環」を繰り返していることを、知っているので、
タコ生を、真剣に、生きている可能性もありそうだな。
奥山氏は、奥山氏が「死と再生という自然循環」を繰り返していることを、知らないので、
「真実を歪めて宣伝する」という、くだらないことに熱中している可能性もありそうだな。
>>108 >景初三年(239年) 黄金塚古墳の画文帯神獣鏡や
正始元年(240年) 森尾古墳の三角縁神獣鏡あたり
景初や正始は卑弥呼が魏と使者のやり取りをした事が魏志倭人伝に書いてある
どちらも「大和」ではないから、大和説の根拠にならないし、
「卑弥呼が魏と使者のやり取りをした」というのも、
「景初三年(239年)と正始元年(240年)」は、
明帝の詔書は景初二年12月だから、明帝の下賜の銅鏡百枚ではないし、
「景初三年」は、使者もまだ列島に来ていないから、バツだし、
「正始元年」も、使者は、
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國(≒女王国)は北部九州」に拠って、
北部九州に来たのであるから、大和説はバツ。
古代史を議論する際の基礎知識として、次の地名の由来は知っておくべき。
トルコ語
cikis(チクシ)=出口
iki(イキ)=数詞の2
tazima(タジマ)=お悔み
特に、tazima(タジマ=お悔み)は、秦氏と宗像氏が深くつながっていたことを示す語彙で、注意を要する語彙だ。
宗像大社の南側の小高い山は宗像山と通称されるが、この山の頂には古墳前期の円墳があり、宗像氏の先祖の墓だと目されている。
そして、宗像山や宗像大社などがある土地の名が田島(タシマ)で、このタシマ(田島)を秦氏のトルコ語と結び付けた場合、
トルコ語のタジマが「お悔み」を表す言葉であり、タシマ(田島)の地名はごく普通にタジマ(田島)とも発音されることを考えると、
この田島(タシマ)の地に宗像氏の先祖の墓があることは、宗像氏と秦氏の無視できない関係を想定させることになる。
つまり、秦氏が宗像氏の先祖に哀悼の念を表してtazima(タジマ=お悔み)の言葉を贈り、それが地名となって、
やがてそのタジマに田島の漢字が当てられ、現在のタシマ(田島)の発音となっているとみなすことが可能である。
それほど深い関わりが秦氏と宗像氏にあり、それは松尾神社と宗像大社双方の神社に摂社が設けられていることでも推測がつくことである。
このようにして、宗像神は田島(タシマ)の地名でも呼ばれることになったようだ。
交易などで朝鮮半島への行き来の際の唐津から西の呼子の対岸にある加部島はその渡海の最初の港であるが、
この加部島の港に田島神社があって、宗像三女神が主祭神として祀られていることがそのことを示している。
このように、宗像神に関連するタシマ(田島)の名の起源は、秦氏のトルコ語のtazima(タジマ=お悔み)であるのはほぼ間違いないことだ。
北部九州の古代史議論の際には、宗像氏と秦氏の関連は注目されてしかるべきだといえる。
>>185 なんかもう
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國(≒女王国)は北部九州」
って呪文唱えてるだけやんか
畿内説と九州説のデタラメたちは「阿波」にあおられまくって、活気がなくなってしまったのではないのだろうかww @阿波
>>993 邪馬臺の中国語発音はヤマドイで、その音写元の現地発音はヤマド(山門)。
日本書紀や古事記のヤマトは奈良弁だから、ヤマド(山門)とは別物。
ヤマトは後漢書の邪馬臺(ヤマドイ)を奈良弁で発音したもので、奈良には元々ヤマトの地名はなかった。
その他の語彙については、阿波由来かどうかは知らんけど。
>>187 その大宰府周辺のツクシは、関東から来た防人の関東弁。
>よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の倭人達の経済共同体であったと見なせます。
よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域は、当時の鉄器王国「阿波」からの被鉄器供給地域であったと見なせます。 @阿波
>>18
>もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
もとより「東阿波型土器」様式圏の文化的斉一性は、交流圏の中心が「阿波」に存在したことを示す。 @阿波 >>159 自ら作り出した想像上のスレ主の幻影に怯えるあまり
奥山説という存在しないものを作り上げてしまう九州説
>>109 >九州説の根拠となる鏡はどれですか?
全部。
渡来の呉系楽浪鏡師らは、一旦西新町の不彌國に拠点を構えて、
手持ちの青龍三年鏡などの同范鏡を造って各地に豪族や東征将軍らに売り込み、
その後は、東征将軍や武将らにも新しい年号鏡やその同范鏡で商売をしたの。
しかし、大和の阿毎氏の将軍や武将らは、始めは買わなかったようで、
4世紀に鏡造り神社を造って、そこに鏡師らから大和の子弟に鏡造りを教えて貰って、
弟子らが、副葬用の大量の粗悪な鏡を造って、副葬したの。
庄内甕の大和型登場を時系列で地図上にプロットしても拡散プロセスが分からないので、
纏向が拡散元などと言えない。
庄内〜布留0は、纒向特有の消耗品土器ではないので、
仮に、庄内〜布留0土器が、三重県(伊勢)に分布していても、三重県(伊勢)が女王国の一部などとは言えない。
奈良大和の纒向遺跡の東は、笠置山地や布引山地など、山ばかり。
纒向遺跡は「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」にあきらかに矛盾している。
もし女王国が奈良大和であれば、「女王國 東 越山 復 渡海千餘里復有國皆倭種」 である。
よって、テンプレの
>倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
>それは桜井市纒向以外にありえない。
は、虚偽である。 @阿波
>>115 >畿内からは弥生時代最大級規模の
唐古鍵遺跡が見つかっている
弥生時代の最大の遺跡は、福岡平野の弥生銀座。
>>115 >畿内からは弥生時代最大級規模の
唐古鍵遺跡が見つかっている
弥生時代の最大の遺跡は、福岡平野の弥生銀座。
◆FAQ 8
> 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、
>古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
「忌部一族(阿波勢力)」 の痕跡を、ちゃっかり盗んだらイカンぜよ、奥山君。 @阿波
伊豆七島神津島 式内社 「阿波命神社」 御祭神 「阿波当ス」
>>119 大和説学者らは、そもそもが、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料事実に拠って、九州説には全く勝てないものだから
九州説に学説で勝とうとはハナから考えてなくて
嘘や罵倒や暴走発狂などで九州説に勝とうとする
>>124 >絢爛たる唐古鍵遺跡・・・
唐古鍵は、九州倭國の東征軍が入るまでの、
出雲系銅鐸祭祀部族や毛人らが中心の集落であり、
東征軍に拠って、占拠破壊されたもの。
>>8
>もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
もとより「東阿波型土器」様式圏の文化的斉一性は、交流圏の中心が「阿波」に存在したことを示す。 @阿波 >>135 「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実の曲解や否定の嘘や難くせや、
発狂暴走の大和説
>>185 大和説ではなくて畿内説なので
大阪京都奈良辺りは古墳時代に文化的な共通性があって
魏の銅鏡や前方後円墳など魏志倭人伝に書いてるものと推定できる考古物が存在してるので
邪馬台国は畿内にあったとする学会における定説
>>158 「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの、
史料事実の曲解や否定の嘘つき騙しの荒らししか出来ない大和説は、
死んでる説
奈良盆地は飛鳥時代まで「忌部一族(阿波勢力)」の巨大墓地。
奈良盆地の飛鳥時代は、朝鮮半島避難渡来人居住地。
奈良盆地の発展は、8世紀の倭国(阿波)からの遷都から。 @阿波
>>195 畿内から粗悪でない鏡の出土がよく見られるから
呉系楽浪鏡師やらのそのストーリーは破綻
そもそも楽浪はもと漢の領地でのちには魏の領地
呉の領地ではなかったので呉系楽浪鏡師というのは存在しない
唐子鍵水害ですよ。
やはり纏向だよ。みやびな侘び寂び
女王之所都
奈良から熊野
にある巫女の修行場所
空海等が開いた理由の一つ by
畿内の邪馬台国、九州の一大卒
似たようなものでしょう
地域支配の拠点
邪馬台国は対狗奴国の前線基地かもしれません
「大和坐大国魂神社」
「村屋坐弥冨都比売神社」
「坐」ってことは、勧請された神社だな。 当然、「阿波」からだな。
奈良の神社は、「坐」が付く神社だらけ。
片や「阿波」には、一つもそんな勧請された神社など存在しない。
まあ、当たり前といえば当たり前なんだが。 わははははは @阿波
九州で、「坐」が付く神社ってあるのだろうか? @阿波
.
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
.
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◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
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◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
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倭(ヤマト)国とは、
日本で唯一、大和朝廷から「倭大國魂神社・倭大國敷神社」と名付けることが 「認められた」ところ。
その心は、「阿波」が嘗ての「倭の地」だったから。 @阿波
阿波忌部は、天皇陛下即位式である践祚大嘗祭に麁服を調進する大役を担い、今現在も天皇家と繋がっている。
それは、紛れもなく「阿波」から8世紀に奈良大和へ遷都した、天皇家の出身地だから。 @阿波
>魏志倭人伝時代の奈良や北部九州には、「橘(たちばな)」が植生していたのだろうか。
魏志倭人伝の「橘」自生地は、黒潮流れる太平洋沿岸。 少なくとも、北部九州や奈良盆地には自生しない。
よって、北部九州や奈良盆地は「邪馬臺国」では有り得ない。 @阿波
畿内説と九州説のデタラメたちは、「阿波」に圧倒されてしまって活気がなくなってしまったのではないのだろうかww @阿波
>>212 正反対の開拓地です。纏向遺跡でわかります
by
>>204 この投稿に対する返信から、ただいま「投稿拒絶され」ております。コメント内容
>邪馬台国ではなくて畿内説なので
邪馬台国も機内も存在もしなかった嘘吐き騙し文言なので、バツです。
>>222 「邪馬臺国」ピンポイントでなく
女王國、倭國についての特徴のひとつを書いただけ by
>>227 当然、機内にはない。
畿内にある by
>>204 >大阪京都奈良辺りは古墳時代に共通性があって
古墳時代なら前方後円墳時代であるから、3世紀後半半ば過ぎ以後であるから、
九州倭国の「東征毛人五十五国」時代であり、共通性があって当然。
>>207 只今5chから投稿拒否されており、この投稿への返事は、パスね。
>>208 纏向説は「,南≠東」などによってバツね。
記紀に記がある宮を置いた天皇の
確認と時代がわかるかもしれません。 by
>>212 「畿内」も「邪馬台国」も存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、バツね。
「畿内」も「邪馬台国」も存在もする
嘘吐き騙し文言でないから、丸ね。by
>>236 なぜなら、橘の自生地域です。
南は、ヒューマンエラーなのです。
鵜呑みは禁物です by
>>237 実際に使われています。
裁判での訴訟でも、近畿、邪馬台国あります
嘘吐き騙し文言などの判例はありません。by
情弱畿内説の特徴
・韓国式LINE無しではコミュニケーションが取れない
・IT音痴がゆえのApple信者
・回線はソフバン
・利用規約や取説を読んでも理解できない
>>232 なんか差別用語を使って投稿しようとしてるからでは?
今日の奥山はどのような迷言を準備しているのだろうか
魏志倭人伝には、卑弥呼の塚の大きさは書かれていません。
邪馬台国畿内説は、「魏志倭人伝に、卑弥呼の塚の大きさが書かれているのだ。」という、漢文を翻訳出来ない者の、出来栄えの悪い脳に出現した妄想です。
大いに鬘を売る。
径、100余歩に、並待者、禿げ、100余人(その100余人分の鬘を売ったのだ。)。
大いに塚を作る。
径、100余歩に、殉葬者、奴婢、100余人(その100余人分の塚を作ったのだ。)。
初期の纏向形前方後円墳には造り出しがないよね
前方部が儀式の場で後円部を墓と認識していたなら
魏志倭人伝の書き方で問題はないということになる
>卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩
>>248 九州説ってとことんばか連中ばかりなんだな
畿内説の者だったら学問的に問題を解くのにさ
類例をあたるやり方で
解説いるか
百舌鳥古市の時代になると
でかい前方後円墳のくびれあたりに造り出し作られるけど
儀式はこの造り出しで行われたと思われる
○
< >←ココ 造り出し
/ \
纏向の時代はこの造り出しがない
じゃあどこで儀式をしてたか?前方部が有力だろ
>>248
魏志倭人伝の作者は、別の文章で、
大作海船
と書いたが、
大きな海船を一隻作ったのではなく、
海船を四つの州で、たくさん作ったことを、
書いたのだったな。
大いに塚を作る。
径、100余歩に、殉葬者、奴婢、100余人(その100余人分の塚を作ったのだ。)。 >>252 朝鮮民族の奥山氏
>>1が、 またしても、正々堂々の討論での反論を完全に諦め、
「邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのか、
それとも、
邪馬台国畿内説は、まだ、完全には破綻してしまってはいないのか、」
について討論するための、このスレッドで、
「邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのか、
それとも、
邪馬台国畿内説は、まだ、完全には破綻してしまってはいないのか、」
という議題とは、全く無関係の、
奥山氏の脳の内側にしか存在しない「九州説」というレッテルを貼り付けながら、
正々堂々の意見を発表している貴方達に対して、
類例をあたるという、学問的に問題を解くこともせずに、
敗北宣言の意味にしかならない、嘘の悪口を言い放っているよ。
250日本@名無史さん2021/03/26(金) 09:25:07.78
>>248 九州説ってとことんばか連中ばかりなんだな
畿内説の者だったら学問的に問題を解くのにさ
類例をあたるやり方で
魏志倭人伝には、卑弥呼の塚の大きさは書かれていません。
邪馬台国畿内説は、「魏志倭人伝に、卑弥呼の塚の大きさが書かれているのだ。」という、漢文を翻訳出来ない者の、出来栄えの悪い脳に出現した妄想です。
大いに鬘を売る。
径、100余歩に、並待者、禿げ、100余人(その100余人分の鬘を売ったのだ。)。
大いに塚を作る。
径、100余歩に、殉葬者、奴婢、100余人(その100余人分の塚を作ったのだ。)。
>>254
魏志倭人伝の作者は、別の文章で、
大作海船
と書いたが、
大きな海船を一隻作ったのではなく、
海船を四つの州で、たくさん作ったことを、
書いたのだったな。
詔青兖幽冀四州大作海船。
大作塚。
徑百餘步徇葬者奴婢百餘人。
大いに塚を作る。
径、100余歩に、殉葬者、奴婢、100余人(その100余人分の塚を作ったのだ。)。 >>255 貴方達は、卑劣な朝鮮人プロ固定
>>1の嘘の悪口にも動じることなく、正々堂々と「大作○○」の類例を示し、
魏志倭人伝で書かれた「大作塚。」が、
大きな塚を一つ作ったことを書いたのではないという真実を、明確にし、
インターネットを利用できる、日本の全ての若者に、真実を発表したな。
邪馬台国畿内説を完全に論破れてしまった、朝鮮民族の奥山氏
>>1が、 またしても、正々堂々の討論での反論を完全に諦め、
「邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのか、
それとも、
邪馬台国畿内説は、まだ、完全には破綻してしまってはいないのか、」
について討論するための、このスレッドで、
「邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのか、
それとも、
邪馬台国畿内説は、まだ、完全には破綻してしまってはいないのか、」
という議題とは、全く無関係の、
奥山氏の脳の内側にしか存在しない「九州説」というレッテルを貼り付けながら、
正々堂々の意見を発表している貴方達に対して、
類例をあたり、学問的に問題を解くこともせずに、
敗北宣言の意味にしかならない、嘘の悪口を言い放っているよ。
258日本@名無史さん2021/03/26(金) 10:19:46.36
>>255 失笑を買っただけだよ
魏志倭人伝には、卑弥呼の塚の大きさは書かれていません。
邪馬台国畿内説は、「魏志倭人伝に、卑弥呼の塚の大きさが書かれているのだ。」という、漢文を翻訳出来ない者の、出来栄えの悪い脳に出現した妄想です。
大いに鬘を売る。
径、100余歩に、並待者、禿げ、100余人(その100余人分の鬘を売ったのだ。)。
大いに塚を作る。
径、100余歩に、殉葬者、奴婢、100余人(その100余人分の塚を作ったのだ。)。
>>260
魏志倭人伝の作者は、別の文章で、
大作海船
と書いたが、
大きな海船を一隻作ったのではなく、
海船を四つの州で、たくさん作ったことを、
書いたのだったな。
詔青兖幽冀四州大作海船。
大作塚。
徑百餘步徇葬者奴婢百餘人。
大いに塚を作る。
径、100余歩に、殉葬者、奴婢、100余人(その100余人分の塚を作ったのだ。)。 完全に破綻した邪馬台国畿内説が、正々堂々の討論に応じないので、
八村塁氏を応援しながら、
この重複偽スレッドでは、
タコの研究を、深めれば良いな。
海溝の底のタコは、海溝に居ながらにして、海溝の外の情報を集める事が出来るのだろうか。
病室の奥山氏は、病室に居ながらにして、病室の外の情報を集める事が出来るのだろうか。
>>263 海溝の底にはインターネットは、ないよ。
>>265 だが、知的なタコは、謎の知覚を発達させている可能性もあるのでは、ないのかな。
外の世界と完全に隔たれた海溝の底に生息する知的なタコが、外の世界の情報を収集するためには、
タコは、謎の知覚で「非局所性」という謎の物事にアプローチすれば良いのではないのかな。
コウライ橘 日本は、萩のみ自生。
阿波氏からヒントを貰う。
魏志における使者が橘の自生を確認
となると行った可能性が出てくる。
上記の二点から
沼津まで行ったなら、強烈な印象の
富士山の様子を書くと思うので記がないから
そこまでは行ってない。
三重、和歌山、高知、宮崎だな。
それが倭国、女王國の範囲。
萩は北九州ではないので、北九州が崩れる
使者が方向 間違うことはないので
書き間違える、転記ミス by
外の世界と完全に隔たれた精神病院の一室に生息する病的な奥山氏が、外の世界の情報を収集するためには、
奥山氏は、インターネットで「邪馬台国畿内説」というタイトルの5ちゃんねるのスレッドにアプローチすれば良いのではないのかな。
>>268 東に千里に倭種(魏略?からの転用)。萩は、陸なので萩は外れる。行ったなら後に続く
使者の目安となるので里数で書く。
そこから水行なので、使者は宮崎までは行った。
倭人に聞く(情報や、政治要因、伝達で間違うことも高くなる)。by
>>270 ワシントン・ウィザーズが、八村塁氏の献身的な防御にも拘わらず、味方のエゴイスティックなプレイで、残酷な逆転負けをしたので、
貴方は、卑劣な奥山氏に、八つ当たりしてしまったな。
狗奴国も対抗できる國だから
それだけの食糧、人口がいること
考え、熊本から東へ水平に宮崎方面へ
だいたい延岡。万二千餘里。
黒潮にのる為、南へが、
魏志以前のデータと絡み
全て南になったのか?
エラー起こる要因、分析も必要だな by
Lineで畿内説捏造データが中国に保存されている事がわかりショックで起き上がれない奥山あわれ
>>274 5ch、アマゾン等での商品のやり取り
全て、個人を特定され思考傾向、経済状態も
中国に流れているかもね by
中国要人、軍人に適合する
血液型、DNA情報なども収集
被葬者、曹操の判定に
曹操の子孫という人たちのDNAを
使ったそうだ。 驚くと恐れが同居 by
『Doja Cat - Say So』
また、そのネタ?聴いてみた?
どのスレの話なんだろう。
『日本昔話 石楠花』画像w
もし、「非局所性」という謎の物事にアプローチできる謎の知覚を持つ、海溝の底のタコが、
魏志倭人伝に記録された卑弥呼の城を、魏志倭人伝時代の巻向に発見すれば、
そのタコは、同時に、
魏志倭人伝に記録された卑弥呼の城を、巻向以外の「無数の」場所に発見した、「無数の」、
「非局所性」という謎の物事にアプローチできる謎の知覚を持つ、海溝の底のタコに、
完全に、「無数に」分裂し、「無数の」分裂した世界で、それぞれ、「無数の」残りのタコ生を生きるのではないのかな。
>>280 つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだね。
『阿頼耶識』 『阿羅漢』
そういう話をしているんだろう。
なぜ(詳しいのか)知っているんだろう?
『牛郎織姫』
老婆談、このような話もしていたしなw
朝鮮民族の奥山氏
>>1が、 またしても、正々堂々の討論での反論を完全に諦め、
「邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのか、
それとも、
邪馬台国畿内説は、まだ、完全には破綻してしまってはいないのか、」
について討論するための、このスレッドで、
「邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのか、
それとも、
邪馬台国畿内説は、まだ、完全には破綻してしまってはいないのか、」
という議題とは、全く無関係の、
奥山氏の脳の内側にしか存在しない「九州説」というレッテルを貼り付けながら、
正々堂々の意見を発表している貴方達に対して、
類例をあたるという、学問的に問題を解くこともせずに、
敗北宣言の意味にしかならない、訳の分からないことを呟いたり、嘘の悪口を言い放っているよ。
277 名前:日本@名無史さん 2021/03/26(金) 13:04:07.00
『Doja Cat - Say So』
また、そのネタ?聴いてみた?
278 名前:日本@名無史さん 2021/03/26(金) 13:07:36.73
どのスレの話なんだろう。
『日本昔話 石楠花』画像w
282 名前:日本@名無史さん 2021/03/26(金) 13:21:13.18
九州説は発狂しすぎだろ
283 名前:日本@名無史さん 2021/03/26(金) 13:22:21.44
『阿頼耶識』 『阿羅漢』
そういう話をしているんだろう。
なぜ(詳しいのか)知っているんだろう?
老婆談、このような話もしていたしなw
>>280 もし、「非局所性」という謎の物事にアプローチできる謎の知覚を持つ、海溝の底のタコが、
魏志倭人伝に記録された卑弥呼の城を、魏志倭人伝時代の巻向に発見すれば、
そのタコは、同時に、
魏志倭人伝に記録された卑弥呼の城を、巻向以外の「無数の」場所に発見した、「無数の」、
「非局所性」という謎の物事にアプローチできる謎の知覚を持つ、海溝の底のタコに、
完全に、「無数に」分裂し、
その中の、
魏志倭人伝に記録された卑弥呼の城を、九州に発見した、幾つかの知的な、
「非局所性」という謎の物事にアプローチできる謎の知覚を持つ、海溝の底のタコの、
どれか一匹だけが、
このスレッドを読んでいる者達の世界のタコとして、日本海溝で残りのタコ生を生きるのだったな。
>>1 奥山氏よ。
この世界は、卑弥呼の城が巻向にあったという世界では、ないよ。
もし、邪馬台国畿内説を正しいのだと証明したいのならば、他の世界に逝くしかないが、
貴方は、この世界で生きろ。
残念ながら奥山説が間違い
by説が有力になった。by
だから言っているだろう。
ほんと〜に、かなり前の話になるんだけど、
某(?)は超カリスマだと(そういう書き込み)言っている人達がいたりw
某(?)誰なんだろう、日本の人物みたいなんだけど。
そんな人物いないような気がするんだけど、アニメの神様の系統?
あまり評価されていない、売れていない人物?
あの「かすめ取られた」みたいな曲の類の人物?・・・何なんだろう。
例:「某(不明)について、知っていますか?」
「そんな人物(作品)は知らない」と同じような話?
ほんとーの話みたいだろう?
例『ライオン・キング 騒動』
「そんな作品(人物)は知らない」とか、そういう話。
>>290-292 奧山氏
>>1よ、精神の薬には、服用の仕方を説明する文章が、添えられているよ。
良く読め。
邪馬台国候補となる条件(仮)
・実際には完全に間違えだったことが判明した、「方形周溝墓があったのだ」という早とちりの誤認と同時に、「溝との切り合い関係があるから、観光用の着ぐるみのモデルとなった卑弥呼の時代の物体なのだ。」と発表された「穴の跡」がある。
・ジグザグに掘り進められた深さ2mの溝がある土壇場の上で、卑弥呼は桃とカエルを食いながら木の面をつけて全裸で踊っていた。
・おそらく方形で、数十センチメートル程の深さに掘削された、5世紀末以降に出現した「SX-1002」と完全に平行に隣接し、「SX-1002」との関係性が強く疑われるが、
謎の勢力に、謎の勢力が作製した観光用の着ぐるみのモデルとなった卑弥呼の時代である3世紀前半に立てられたのだ、と断定されてしまった「建物C」の痕跡が発見された。
・時速6kmで通勤途中の女に抜かされながら、中国人が、難波から1月かけて辿り着く。
・カエルの骨は溶けないが、鉄は溶ける地域である
・魏志倭人伝時代が終わった後に吉備から西日本各地に伝来したが、庄内式と名付けられたので、「畿内から九州に伝来したという誤認をされている」土器が埋まっている。
・中国から飛んできた砂よりも軽い花粉が発見される。
・中国の骨董屋で売りに出された鏡と同じ4世紀の国産鏡が4世紀以降の古墳に埋まっている。
・火星との交易が盛んだった地域である
・人民の住居がない。
・対馬の真東にある。
・古墳を積み上げる土方のための大下水道がある。
・布留式という式の土器の時代に5世紀の馬がいる。
・最初に、相撲が始まった地域である。
・4世紀に朝鮮半島で捕獲、連行された馬によって積み上げられた前方後円型の物体がある。
・奴隷の死体を乗せる4世紀の埴輪が、発見できた。
・冬は大雪だが、一年中、裸足で駆け回り、一年中、生野菜が食べられる。
・卑弥呼の着ぐるみに自治体の予算が出る。
・自治体が自称考古学者に給料を払う。
・自治体が観光を活発化しようとして財政が破綻寸前。
・若者達が、自治体の方針にうんざりしているだけではなく、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎることや、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎる割には、教育水準が高まらないことに不信を抱き始めている。
・奥山氏の鬘は、海外交差編年のように、ズレる。
7名無しのひみつ2021/03/26(金) 13:40:55.20ID:5uBj0sq0
この世界は蛸の夢なんだよ
『』
この曲の、〜ヴァージョンとか、聴いてみた?あるでしょ?
其餘旁國遠絶、不可得詳。
つまり、狭い範囲ではない
北九州説はボツ by
邪馬台国候補となる条件(仮)
・実際には完全に間違えだったことが判明した、「方形周溝墓があったのだ」という早とちりの誤認と同時に、「溝との切り合い関係があるから、観光用の着ぐるみのモデルとなった卑弥呼の時代の物体なのだ。」と発表された「穴の跡」がある。
・ジグザグに掘り進められた深さ2mの溝がある土壇場の上で、卑弥呼は桃とカエルを食いながら木の面をつけて全裸で踊っていた。
・おそらく方形で、数十センチメートル程の深さに掘削された、5世紀末以降に出現した「SX-1002」と完全に平行に隣接し、「SX-1002」との関係性が強く疑われるが、
謎の勢力に、謎の勢力が作製した観光用の着ぐるみのモデルとなった卑弥呼の時代である3世紀前半に立てられたのだ、と断定されてしまった「建物C」の痕跡が発見された。
・時速6kmで通勤途中の女に抜かされながら、中国人が、難波から1月かけて辿り着く。
・カエルの骨は溶けないが、鉄は溶ける地域である
・魏志倭人伝時代が終わった後に吉備から西日本各地に伝来したが、庄内式と名付けられたので、「畿内から九州に伝来したという誤認をされている」土器が埋まっている。
・中国から飛んできた砂よりも軽い花粉が発見される。
・中国の骨董屋で売りに出された鏡と同じ4世紀の国産鏡が4世紀以降の古墳に埋まっている。
・火星との交易が盛んだった地域である
・人民の住居がない。
・対馬の真東にある。
・古墳を積み上げる土方のための大下水道がある。
・布留式という式の土器の時代に5世紀の馬がいる。
・最初に、相撲が始まった地域である。
・4世紀に朝鮮半島で捕獲、連行された馬によって積み上げられた前方後円型の物体がある。
・奴隷の死体を乗せる4世紀の埴輪が、発見できた。
・冬は大雪だが、一年中、裸足で駆け回り、一年中、生野菜が食べられる。
・卑弥呼の着ぐるみに自治体の予算が出る。
・自治体が自称考古学者に給料を払う。
・自治体が観光を活発化しようとして財政が破綻寸前。
・若者達が、自治体の方針にうんざりしているだけではなく、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎることや、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎる割には、教育水準が高まらないことに不信を抱き始めている。
・奥山氏の鬘は、海外交差編年のように、ズレる。
海溝の底のタコの脳は、無数の意識が、共存している可能性もあるのだったな。
海溝の底のタコの脳は、無数の意識が、共存し、無数の意識のトロイカ体制で、活動しているのではないのかな。
統一は、倭の五王
斉の頃と推測 それ以前は本家によるもの
by
隋の派遣の頃にはまだ倭國、
その後、日本、大和となる。by
>>268 橘か自生してるのは沖縄、九州、高知、和歌山、三重、静岡の太平洋沿岸と山口だね
つまり、役割分担。
北は、本家の筑紫國
東の毛人は、旧邪馬壹國。
毛人が先に終えて、統一し北に参加。
国内が手薄になることから、役割分担をする by
東征毛人、五十五國、西服衆夷、六十六國、渡平海北、九十五。
順番道理 by
@阿波が息をしなくなったからCO2削減できそうだね
>>313 偽物ですね
よりによって阿波に成り済ますなんて、誰得なのでしょうか
>>311 いや、腐食してメタン出してるだろ
温室効果は二酸化炭素の21倍だ
>>315 そうなんですか
畿内説は環境に悪いんですね
>>316 九州説の人になる必要条件は
日本語がわからないことらしい
>>1 炭素年代で答えてクダサイ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
纏向の
大型建物と箸墓のどちらが古いのか?
桃の種と時に付着した炭化物どちらが古いのか?
箸墓と、土器の炭化物とどちらが古いのか?
箸墓と、ホケノとどちらが古いのか?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
勘違いした人が土器編年で答えてましたが
炭素年代で答えてください
>>1 炭素年代で答えてクダサイ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
纏向の
大型建物と箸墓のどちらが古いのか?
桃の種と時に付着した炭化物どちらが古いのか?
箸墓と、土器の炭化物とどちらが古いのか?
箸墓と、ホケノとどちらが古いのか?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
勘違いした人が土器編年で答えてましたが
炭素年代で答えてください
>>1 炭素年代で答えてクダサイ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
纏向の
大型建物と箸墓のどちらが古いのか?
桃の種と時に付着した炭化物どちらが古いのか?
箸墓と、土器の炭化物とどちらが古いのか?
箸墓と、ホケノとどちらが古いのか?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
勘違いした人が土器編年で答えてましたが
炭素年代で答えてください
訂正
時→土器
>>1 炭素年代で答えてクダサイ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
纏向の
大型建物と箸墓のどちらが古いのか?
桃の種と土器に付着した炭化物どちらが古いのか?
箸墓と、土器の炭化物とどちらが古いのか?
箸墓と、ホケノとどちらが古いのか?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
勘違いした人が土器編年で答えてましたが
炭素年代で答えてください
>>320 お前って頭悪いな
炭素年代で「ちらが古いのか」答えるって
具体的にどうすることなんだ?
言えないだろ
扶桑fusang フサ 総 房 上総 下総 安房
あわわわわわ@安房
まだ諦めないのか?橘なんてなんの根拠にもならんよ柚子なのか蜜柑なのか橙なのか柑橘類なぞパッと見わからんよ、しかも鳥が運ぶ。桃は特別。
奥山と阿波は職員室に呼び出されて謹慎処分を食らったんだろうねw
>>326 いいえ、使者は食した。
柚子、蜜柑は区別はつく by
又、竹の種類も
竹には、篠(ささ)・(やたけ)・排支(かづらだけ)がとか細かく書いています。by
>>326 運んでも、環境が合わなければ育ちません。
奈良でも、なんとか苦労しながら商品化しています。まず、自生を探してください。by
余所でやれアク禁喰らってるわw
書ける方法あるけど、面倒くさいから当分書かねえわ
せっかく、邪馬壹は奈良なのに
残念ですね。アク禁 by
>>326 炭素年代では、箸墓、大型建物、ホケノの
確たる、年代がわからないと言う事?
それなら 了解です・・・
>>334 相変わらず九州説のやつは妄想ばかりだな
>>333 >炭素年代では、箸墓、大型建物、ホケノの
>確たる、年代がわからないと言う事?
わかってるよ
>>333 は炭素年代という言葉の意味からして解ってないんだろうな
>>337 一連の新聞記事では、C14法など知らない人々はあの方法が充分「科学的」と思うはずです。
そしてそれこそが、畿内説の学者の狙い通りです。マスコミ操作。歴博は知りませんが、学会では炭素年代による
同志社の故森浩一名誉教授などは、こういう1部畿内説の学者の傾向を「学者として全く恥ずべき姿勢だ」と非難していました
今もなんら変わらないと思います。また炭素年代の比定については、統一見解は未だにありません。
私は邪馬台国は奈良にあってもいいのです。
しかし一連の、近畿圏の一部の学者達の度を超えた仮定やマスコミ操作には到底くみし得ないものを感じるのです。
最近の学界の進んでいく方向に、背筋の寒くなります。
土佐って都佐
都の将
大和の和はあわの意味
なるほど意味ありげだ
でも自分は九州説を推すけどw
失礼・・・削除
>歴博は知りませんが、学会では炭素年代による<
Qなぜ、纏向の建物は卑弥呼の時代ですか?
A桃の種、桃の種・・・・と連呼
Qなぜ、箸墓は卑弥呼の墓ですか
A土器の炭化物、土器の炭化物・・・と連呼
創価、奥山はCO2削減のために息を止めたのか
南無
>>339って、中傷してるだけでは?
九州説って、どうしてそうなの?
>>306 宮崎だな
二つの島の陸行きで距離をかせぎ
ほぼ終わっているなんて、北部九州にしたい事が
ミエミエで幼稚
いい加減覚えろ
■卑弥呼の時代に存在していたことが確実なクスノキ(樹齢1800年以上)
樹齢3000年
・柞原八幡の大クス:大分県大分市八幡
・川古のクス:佐賀県武雄市若木町川古 日子神社
樹齢2000年
・衣掛の森(クスノキ):福岡県粕屋郡宇美町宇美八幡宮
・武雄のクス:佐賀県武雄市花島
・老松神社のクス:山口県防府市お茶屋町 老松神社
・阿豆佐和気神社のクス:静岡県熱海市 来宮神社
樹齢1800年あたり
・未確認
〜畿無い説〜
魏志倭人伝における謎の水行陸行は「帯方郡から女王の都までの行程概要」を重複記載してしまったと考えれば解決できる。
■基本的に魏志倭人伝の構文解析が最優先課題である
同じ内容で使われる文字が変化したり、奴国の紹介が重複していたり、距離が里から日に変わるなど、
魏志倭人伝は過去の記録を引用しつつ、新たに得た情報を大雑把に追記する形式で構成されている
■中国に伝わる古い伝承記録から書き写した部分
・帯方郡(ソウル)から南→東と海岸沿いに水行し狗邪韓国(釜山)までの距離が約7000里
・対馬→壱岐→北部九州上陸までの合計が約3000里
・上陸してから伊都国までが陸行およそ500里
・奴国、不彌国までがそれぞれ約100里
・陳寿は単純に帯方郡から女王の都までの総距離を合計12000里と見積もった
参照した記録資料の1里は75mだったが、陳寿は1里=435mの認識だった(例 会稽東冶の東)
■卑弥呼時代に朝貢に来た倭人による行程説明を追記した部分(日数表記の記録)
@帯方郡から(記載漏れ?)
A南に船で20日→投馬国(任那、伽耶、狗邪韓国など)
B南に船で10日→邪馬台国(北部九州=女王国)上陸
Cまず伊都国に駐留し、女王国の入国許可を待つ
D倭人か客人の到着を女王に知らせに行く
E女王の使者が迎えに来る
F迎えに来た護衛とともに女王の都へ
■考えられること
・中国人と倭人との意思疎通は完全ではなく、誤解は日常茶飯事だった
・陳寿は倭に関する古い情報と新しい情報の関連性がよく理解できていなかった
・倭人による船で移動する行程の説明を中国は「水行」と記録していた
・倭人は対馬海峡を挟んで半島側を投馬国と呼び、北部九州側を邪馬壹(臺)国と呼んでいた
・倭人は距離単位の「里」を知らず「日」を使って表現していた(隋書倭国伝に記載あり)
・陸行一月とは、女王の都に到着するまで(C〜F)に一か月を要するという意味である
◆畿内派による印象操作「纏向遺跡の建物は祭祀場であり、大量の桃がお供えされた」
桃の種が発見されたのは柵列の下の別の遺構
建物とお供え物の桃が同時期に存在したとは言えない
〜卑弥呼時代の半島南部は「倭」〜
後に狗邪韓国(金官国)そして任那となる地域は、弥生時代中期(前4、3世紀)に入り
従来の土器とは様式の全く異なる弥生土器が急増し始めるが、
これは後の任那に繋がる地域へ倭人が進出した結果と見られる
古墳を造り終えた後の奈良霊園は空き地だったので半島人が続々と入植できました
https://www.asahi.com/articles/ASLCX5JHQLCXPTFC01S.html 大壁建物が4世紀末〜5世紀初めに築かれ、渡来人の同町への移住時期が100年近くさかのぼる可能性が出てきた
4世紀末に倭人より立派な住居が立ち並んでいたわけだ
阿波さん、
徳島と、千葉の安房はなんか関係があるの?
頭の悪い者が学者を気取る「考古学」は廃止でお願いします
『1)大学の人員や組織改編に関するもの
考古学に関する教員の増員や新規開講が行われ,あるいは行われる予定であると述べたものは各 1 件,
増員を要望しているとしたものが 1 件と極めてわずかである。
これに対し,すでにあるいは近い将来において減員(退職後不補充を含む)が決まった,講座が廃止
になったとするものは 8 件,その可能性が高い(考古学を含む組織全体でのポストの削減を含む)とし
た回答も 3 件あり,全体的に考古学関連の人員,講義が減少,縮小傾向にあることは明らかである。』
良くはわからないんだが?
藤原鎌足は、
本当に百済王みたいだな
他スレ見てると
>>349 何度ばかを繰り返すんだろう
九州説って全く勉強しないんだな
>建物とお供え物の桃が同時期に存在したとは言えない
だから最初から、建物廃絶後に大型土坑の祭祀が行われたと発表されてる
>>351 当然だろー、優れているのだからね。
だから庇護し、その後の飛鳥京に繋がる。by
>>348 呼んでいません。女王國と呼んでいます,
藤原氏って、
顔が変わってるでしょう。
もっと言ったら、
顔がおかしい。
マグダラが、
復活したイエスをみて、
最初だれたか分からなかったということは、
イエス替え玉説?
まじで、
名の悪、文字の悪、
言霊信仰の弊害だな
観音信仰。
>>355 >建物廃絶後に大型土坑の祭祀<
何のために?、
種の炭素年代との建物と因果関係がないのでは?・・結構古い種も見つかってる
>>344 誰でも九州説と思わないでください
それより、論じたほうが良いよ
>>362 でも中傷するのも荒らすのも九州説だからな
>>346 もし、陸行きがあるなら記すもの
何故なら次に航海する使者のしるべに
なるからです。by
>>365のように
なんの前段もなく突然「要するに」と結論を述べるのは
間違いなく頭のおかしい九州説信者
>>366 要するにあれだ
畿内説は間違いなく頭おかしいということだ
>>368 邪馬台国、宮崎説なので
九州説でも
分けて書いて貰いたい
>>369 こうやって何も理由のないところから結論を出すには
頭のおかしい九州説だけの特徴だ
奥山さん、奥山もうしあげます
あなたが逝き嵐がやみました、
>>372 連続句点は頭がおかしい
誰を奥山だといい誰が奥山じゃないというのか
全く理由にないことを呟いている
>>374 こんなふうに罵倒や中傷しかできない九州説は
もう死んだ説ですね
>>1
瀬戸内海で南を東に誤認する根拠は?
難波から纏向まで、陸行ひと月の行程は?
・・・確定しない滞在日数を入れたら、水行・陸行の日数はなんとでもなってしまう >>355 >建物廃絶後に大型土坑の祭祀<
何のために?、
種の炭素年代との建物と因果関係がないのでは?・・結構古い種も見つかってる
>>377 >そっくり畿内説に返すよ
理由もない返品はお断りします
>>378 年代が同じ庄内3で接近しているので因果関係があるというのが皆の見解
古い種とか特に見つかっていない
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向ではない
倭の女王は、共立され
別の地で生涯を終え、冢まであった。
邪馬壹は、政治中心でもなく、開拓地
卑弥呼が修行した地 by
>>382 なんにも理由言わないって
まるで九州説のじいさんだな(最大級の侮辱)
>>383 纏向遺跡である。魏志の記に合う
遺跡出土したか?by
木花咲耶姫の木花って、
梅を指すんだって。
誰かが桜としちまったんだな。
日本の貶め。
畿内説はなぜ「南」という記述を無視するのか?
畿内説はなぜ「鉄の鏃」という記述を無視するのか?
畿内説はなぜ「東の倭種の国」という記述を無視するのか?
畿内説はなぜ「南に狗奴国」という記述を無視するのか?
畿内説はなぜ「殉葬者奴碑百余人」という記述を無視するのか?
畿内説はなぜ「邪馬台国」という記述を無視しないのか?
だってさあ、
失われた3大陸とか、多分4大陸、
バンゲア大陸とか言ってんのに、
日本だけ見てどうすんだっつう
何だ、俺、
熊野の神でも、キリストでもないのか。
あーあ
今日もまた息が出来ずに終わってしまった韓国式畿内説あわれ
変な by が現れたな
お前が答えてやれよ 何航路でもいいからさ
376日本@名無史さん2021/03/27(土) 16:08:12.92
>>1
瀬戸内海で南を東に誤認する根拠は?
難波から纏向まで、陸行ひと月の行程は?
・・・確定しない滞在日数を入れたら、水行・陸行の日数はなんとでもなってしまう 不昧因果
たったこれだけでいい
しかし、因果の法則っていうのも問題で、
因果以外の幸不幸というのもある。
因果をくらましてると、
狐霊になるよ。
ようは、狐霊は、因果をくらましている。
だから、狐霊は、必ず地獄に落ちる。
例外なし。
>>400 > ・・・確定しない滞在日数を入れたら、水行・陸行の日数はなんとでもなってしまう
なんとでもなっていい
なんの問題もない
畿内説は行程で邪馬台国の位置を決めてるんじゃないからな
阿波さんに質問
明治天皇ということは、
現天皇家は、南朝?
そもそも阿波に質問とか、意味がわからない、どこの池沼なんだ。
阿波〜なんて、何も関係ないんだけど。
松傾(奥山)が阿波をディスってるようだが
目くそ鼻くそだな
お前の書き込みがあるでしょ、
ただの『池沼』『基地外』調べてみたほうが良いぞ。
それとオマエの名前は?
どこかのチンピラか何かだろう。
誤認だとする根拠もわからん
まあ、政治的な中心でもないので、あえて深く、探索しなかった。官と戸数、日数のみを聞いたのみ。
書き間違え、写し時のヒューマンエラー
倭人視点から見ると理由がいくつもある。
誰から聞いたのか、定かではない。
政治的要因とか?
ルートがひとつしか知らない人とか
仮説
太平洋ルートだろう、南下が
黒潮に乗って東へ、熊野から伊勢方面へ
宗教地だから、しきたりなどで1月
水行10日陸1月の南が東、そこのみ。by
ネットではなくても同じ、ただ偉そうなことを語っているだけ、
それよりも本人(何かの家のことなら、その家の人物)に聞いたほうが、はやいと書いたはず。
かなり前のことになるんだけど、たしか書いた。
ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。
1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.しかし本当の位置も残さなければならない。
3.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある海南島の大陸側、儋耳朱崖に似ている。
そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪(伽耶)韓国の南から儋耳朱崖(ベトナム)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む、南北に細長〜い「2つの島」であるように思わせるテクニック。
まず「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国1】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」→2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を海南島までグィ〜ンと引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行一月」を転用して幻の【奴国2】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。
>>415の模式図だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
┏━━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行10日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」
↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行10日」┐関門海峡〜〜〜〜〜▲┃
v✖s┃〜〜┏末盧国━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲▲↓国東半島┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘「陸行1日」(正)‗▲▲▲▲↓豊後水道┗━━━┛「在其南 人長3〜4尺
【呉】┃〜〜┃♀【奴国1】女王之所都▲▲┛↙〜〜〜〜〜〜〜〜〜去女王4,000里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲投馬国←←┘宮崎平野=南「水行20日」
┃〜〜┗━━女王国島━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜
会稽┃〜東シナ海〜┌南「水行10日」〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜〜┌─┌←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド)
↓ ┃〜〜│〜↓「陸行1月」_〜│←「※自女王國以北其戸数道里可得略載」(北部九州30カ国=30日=1月)
┃〜〜│〜↓▲沖縄〜〜〜│〜〜↓「自郡至女王国 12,000里」
東冶┃〜〜│♀【奴国2】(幻).〜│★『(女王之所都)計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏≦西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲台湾〜〜〜〜〜│〜〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国遠絶(幻)不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其【奴国2】(幻)東南 船行1年」 >>411 個人的見解は聞き飽きた
証拠、根拠がなければ、
結論ありきの、仮想www
邪馬台国候補となる条件(仮)
・実際には完全に間違えだったことが判明した、「方形周溝墓があったのだ」という早とちりの誤認と同時に、「溝との切り合い関係があるから、観光用の着ぐるみのモデルとなった卑弥呼の時代の物体なのだ。」と発表された「穴の跡」がある。
・ジグザグに掘り進められた深さ2mの溝がある土壇場の上で、卑弥呼は桃とカエルを食いながら木の面をつけて全裸で踊っていた。
・おそらく方形で、数十センチメートル程の深さに掘削された、5世紀末以降に出現した「SX-1002」と完全に平行に隣接し、「SX-1002」との関係性が強く疑われるが、
謎の勢力に、謎の勢力が作製した観光用の着ぐるみのモデルとなった卑弥呼の時代である3世紀前半に立てられたのだ、と断定されてしまった「建物C」の痕跡が発見された。
・時速6kmで通勤途中の女に抜かされながら、中国人が、難波から1月かけて辿り着く。
・カエルの骨は溶けないが、鉄は溶ける地域である
・魏志倭人伝時代が終わった後に吉備から西日本各地に伝来したが、庄内式と名付けられたので、「畿内から九州に伝来したという誤認をされている」土器が埋まっている。
・中国から飛んできた砂よりも軽い花粉が発見される。
・中国の骨董屋で売りに出された鏡と同じ4世紀の国産鏡が4世紀以降の古墳に埋まっている。
・火星との交易が盛んだった地域である
・人民の住居がない。
・対馬の真東にある。
・古墳を積み上げる土方のための大下水道がある。
・布留式という式の土器の時代に5世紀の馬がいる。
・最初に、相撲が始まった地域である。
・4世紀に朝鮮半島で捕獲、連行された馬によって積み上げられた前方後円型の物体がある。
・奴隷の死体を乗せる4世紀の埴輪が、発見できた。
・冬は大雪だが、一年中、裸足で駆け回り、一年中、生野菜が食べられる。
・卑弥呼の着ぐるみに自治体の予算が出る。
・自治体が自称考古学者に給料を払う。
・自治体が観光を活発化しようとして財政が破綻寸前。
・若者達が、自治体の方針にうんざりしているだけではなく、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎることや、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎる割には、教育水準が高まらないことに不信を抱き始めている。
・奥山氏の鬘は、海外交差編年のように、ズレる。
>>416 久々に見たなw
相変わらずきったねー図だぜw
>>417 まあ、どの説も個人的な見解、
聞き飽きた、根拠も証拠もない
結論ありきの、仮想だよー by
>>418 だろー。
by説は一箇所で済みます。by
奥山氏が、僕達を指し示すニックネームのレッテルを、他の人物に貼り付ける、頓珍漢な誤認をしているのだろうか。
それとも、
奥山氏が、僕達を指し示すニックネームに対して、悪口を言い放ちたかっただけなのだろうか。
373日本@名無史さん2021/03/27(土) 15:38:11.66
>>372 連続句点は頭がおかしい
誰を奥山だといい誰が奥山じゃないというのか
全く理由にないことを呟いている
北部九州に30ヶ国近い
国々を押し込み。
ましては、大陸側の人間が
其餘旁國遠絶、不可得詳てなるか?by
>>425 馬韓50国、女王国は30国だ
邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったので、
このスレッドは、海溝の底の知的なタコについての研究所に、なってしまったのだったね。
>>427 邪馬台国畿内説は、人類にとっては、完全に破綻してしまったことが判明した物事だが、
海溝の底では、人類にとっては、完全に謎の、思いも寄らない進化が、進行している可能性があるな。
やはり、
日本中の古ぼけた物事を好む者達を、あのゴッドハンドによる「発掘」の時と同様にして、熱狂させた、
おそらく方形で、数十センチメートル程の深さに掘削された、5世紀末以降に出現した「SX-1002」と完全に平行に隣接し、「SX-1002」との時間的な関係性が強く疑われるが、
謎の勢力に、謎の勢力が作製した観光用の着ぐるみのモデルとなった卑弥呼の時代である3世紀前半に建てられたのだ、と断定されてしまった「建物C」は、
本当は、5世紀以降に、建てられた物体なのだろうか。
奥山氏が松傾ではない、と言い張る狂人、、、
間違いなく、「奥山氏
>>1=松傾」本人。
やはり、
日本中の古ぼけた物事を好む者達を、あのゴッドハンドによる「発掘」の時と同様にして、熱狂させた、
おそらく方形で、数十センチメートル程の深さに掘削された、5世紀末以降に出現した「SX-1002」と完全に平行に隣接し、「SX-1002」との時間的な関係性が強く疑われるが、
謎の勢力に、謎の勢力が作製した観光用の着ぐるみのモデルとなった卑弥呼の時代である3世紀前半に建てられたのだ、と断定されてしまった「建物C」は、
本当は、5世紀以降に、建てられた物体だった可能性が、高いな。
ETV特集 「誕生 ヤマト王権〜いま前方後円墳が語り出す〜」
3月27日(土)午後11:00
4月1日(木)0:00
奥山氏は耄碌したかな
名無し投稿も、数行で中身無い。また貼り付けも多い。
堂々と論戦したいけど、新たな知識も無いようです。勉強してますか?
・・・これは纏向以降、畿内説の学者の研究が進まないのに起因してます。
テンプレ作成作業員じゃないのですから頑張って欲しい。
浄土とは、
失われた大陸
浄土とは、複数ある。
浄土で検索。
東方薬寿浄土ということは、
日本とアメリカ大陸の間に、
多分、失われた大陸があるな
単純な思いは、
真以外あり得ない
我思う故に我あり
我思うゆえに神在り
桃の種の95%信頼曲線の意味がわからない低レベルが
九州説を唱えててこいつらは自分がアホであることに気づいてない
統計学勉強しろよ
弓野神社で検索すると、
靖国神社
国会図書館
熊野大社
が出てくるな
まあ、
素戔嗚尊だから、
当たり前なんですけどね
前田家
家紋花橘
橘氏
祖は、
藤原不比等
天智天皇の落胤
九州の学界では邪馬台国は畿内だとあきらめて研究を続けている
頑張ってるのは素人研究者だけ
>>439 キウスと連句点とは違う
いずれも奥山の天敵では一緒
NHKの今日の番組はいかんな・・まだマスコミ誘導を畿内説がしてんのかな
NHKも悪い 検証もしないでコメンテイターの歴博の松木氏他に編集を丸投げの番組の様相
指摘したら数多くあるが、笑ったと言うかねつ造と捉えられかねない
一番笑ったのが寺沢氏の巻向の原画
いまだ見つかりもしてない集落群や整備された巻向の古代の風景・・これ原画?
寺沢氏の原画をあたかも本当のように言うアナウンサーXは原稿通りこなしてるので罪はないが、
また、X「九州を含め全国各地から持たされた巻向から土器が多数巻向から出土してます」・・・ハーー
歴博の松木氏いわくヤマト王権(邪馬台国)は倭国大乱意向 武力によらない統一国家
ハーー倭人伝読んでないのかな、卑弥呼の男王を立てたが国中が乱れ・・殺し合い死者千人余り
他 唖然としたこと多い
これを、巻向王都説のマスコミ誘導というのであろうか
一番悪いのはNHKだが、視聴料を払ってるからシャッキとしてほしい
それともバラエティ番組?
炭素年代は出なかったですね
以前 歴博の某氏が炭素年代で巻向遺跡は卑弥呼の時代と決定したような講演したのを受け
学会が「学会としての統一見解ではありません」と表明したのが響いていたのかも・・
お休みなさい
なんだよ、本に、
ポセイドンは、
アトランティスの支配者であり、
守護神って書いてあるぞ
天王星ちゃんと文章見てる?
本は、ある意味、
読まなくていいんだよ
見りゃあ分かんだから
大陸そのものは、
ゼウスか
違うか
判らん
牛窓のゼウスは、
天王星か地球か
へびつかい座を含む、
13星座占い
と言うのもあるんだな
天の南極、
南極大帝は、誰?
御親元主大神でもない、
素神?
それとも、
南朝と関係してるのかな
カードキャプターさくら自体と、
カードキャプターさくらの考え
どっちが大事か
答え
カードキャプターさくらの考え
私なんかどうだっていいと言う
奴だから
考え11次元
>>446 結局また中傷以外ひとことも喋っていないキウス
>>446 ヤマト王権の話だからいいんでねーの
邪馬台国とは関係ない番組だったとおもうよ
誇張しすぎな場面もあったが
邪馬台国畿内説は、
1000キロメートル程も離れた陸続きでもない地層を、幾つもの併行関係という物事で、年代を恣意的にずらしながら、細々と繋げることが、絶対年代を決定する証拠なのだ、という非学問的な嘘をつき、
さらには、一般の科学的学問の手法としては、完全に破綻してしまった要素還元主義に基づき、近畿第V様式土器の埋まっていた範囲が邪馬台国なのだ、とする、完全に非科学的な妄想なのだったな。
畿内説は、「箸墓=卑弥呼の墓(250年)」とするためのゴッドハンド(半世紀繰り上げ)なんだねw
>>458 一部の、古ぼけた物事を好む学芸会の者達が、
「最近、数年来、宇宙線の観測が劇的に進行し、千数百年間、巻向にも数限りなく降り注がれた、強大な空気シャワーに含まれる中性子が、地表付近の桃の種や壺の吹きこぼれを構成する炭素の同位体比率を激変させる可能性を明らかにし、完全に破綻してしまった炭素年代法」という、炭素についての物事を売り上げる者達に、騙され踊り、最後には、笑われ者になってしまい、
さらには、近畿第V様式土器という謎の物体を売り上げていた、大昔のほんの一部の要素でしかない者に、勝手に騙されてしまっていたのだったね。
>>415 >>416 倭王卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様、呉の牽制として東の「親魏倭王」号を取得し、帯方郡が管理している「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権の確保(郡宛て発注書用封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援(後に援軍)要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は【狗奴国の位置】であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説における狗奴国を検討すると、以下のようになる。
−女王国 東渡「海A」千余里 複有「国B」皆倭種(〇九州説…A関門海峡・B本州、✖畿内説…A鈴鹿山脈・B北海道)
−其南有狗奴國 不属女王(〇九州説…熊本もしくは薩摩、✖畿内説…仲良し東海)
畿内説はいずれも当てはまらない上、「渡海複有国皆倭種(→東)」と「狗奴国(南⤴東)」が重複する。
また、鉄製武器(軍事力)も文字・駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能。消去法により、九州説が正しいことになる。
では、狗奴国が熊本か鹿児島かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)を想定。
面積から見て、川内平野でゎ「平野面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智比狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所・甘木朝倉を、
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳を比定。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3 昨日のNHKの番組はほんとによくできていたと思う
Eテレじゃなく、NHK総合で放送すべき
一つ残念だったのは、円形周溝墓から纒向型前方後円墳を経て、箸墓古墳が造られた流れが説明されなかったこと
おい、嘘を吐くな。繰り上げたのは、半世紀ではなく、100年程だぞ。
459日本@名無史さん2021/03/28(日) 07:42:52.17
畿内説は、「箸墓=卑弥呼の墓(250年)」とするためのゴッドハンド(半世紀繰り上げ)なんだねw
「卑弥呼以死 大作冢 径百歩」〜卑弥呼は直径【円墳】百歩(140m)の冢を大いに作(るを以)って死んだ〜 のカラクリ
@曹魏から禅譲を受け、呉を平定し中国を再統一。280年頃、再び天下に平和と繁栄をもたらした西晋の功績を後世に書き残すための正史「三国志」を編集中、30年前の魏使の報告書「径百尺」を見た陳寿は、当時の倭国はすでに古墳時代に突入し、王墓だけはやたらと長大という情報を、官僚だけに読み知っていた。
A(膨大な餓死者を出しておきながら黄巾の乱を放置した後漢皇帝たちの厚葬に呆れた)曹魏の薄葬令に従ったのだろう卑弥呼でも、「径百尺」の墓ではいくらなんでも小さすぎる。地方豪族級の小さい墓しか作れない倭王に明帝曹叡が親魏倭王の金印を授けるはずがない。
B「径百歩」の誤りであろう。ついでに「以+【大】作冢」と補足しておこう。
こうして陳寿は仕方なく、形◎や数値「百」はそのままに、単位「尺(25cm)→歩(1.4m)」だけ替えた。
(もし誰かが気付いたとしても誤記と言い逃れればよい。少なくとも倭国にわざわざ渡海してまで確かめようとする者ももはやいまいw)
そして時は流れ、1740年後の日本…
当然のことながら、祇園山古墳(九州説)も箸墓(大和説)も「径百歩」に該当せず、短里だ長里だ、南だ東だと無意味な論争が継続中!
もしも箸墓が卑弥呼の冢だったら…
魏使「卑弥呼以死 作【大冢】 長二百歩」と記録→陳寿は魏志倭人伝にそのまま転載(×不正解)
もしも祇園山古墳が卑弥呼の冢だったら…
魏使「卑弥呼以死 作冢 径百尺」と記録→陳寿は「卑弥呼以死 【大作】冢 径百【歩】」と盛る→魏志倭人伝(○正解)
「殉葬者奴婢百人」は、魏の薄葬令に従いつつも、死後の孤独に怯えた卑弥呼の面従背腹であろう。
面白いのでそのまま転載しよう(陳寿、心の声)w
おい、嘘を吐くな。魏志倭人伝には、卑弥呼の墓の大きさは、書かれていないよ。
邪馬台国畿内説は、「魏志倭人伝に、卑弥呼の塚の大きさが書かれているのだ。」という、漢文を翻訳出来ない者の、出来栄えの悪い脳に出現した妄想だぞ。
大いに鬘を売る。
径、100余歩に、並待者、禿げ、100余人(その100余人分の鬘を売ったのだ。)。
大いに塚を作る。
径、100余歩に、殉葬者、奴婢、100余人(その100余人分の塚を作ったのだ。)。
464日本@名無史さん2021/03/28(日) 07:51:14.19
「卑弥呼以死 大作冢 径百歩」〜卑弥呼は直径【円墳】百歩(140m)の冢を大いに作(るを以)って死んだ〜 のカラクリ
>>461 >>464 すると、欽明(現皇室開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家>狗奴国・卑弥弓呼末裔/鯨魚@八代淡海→近江琵琶湖)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向に東征させ「奥津城」として(帯方郡の鉄の代価)隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋【宋/斉/梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」任命(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
日出処「天子」倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&厩戸…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、近江大津京へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝〜応神朝〜継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名をそっくり移植。阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)
まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京)
>>458 一部の、古ぼけた物事を好む学芸会の者達が、
「最近、数年来、宇宙線の観測が劇的に進行し、千数百年間、巻向にも数限りなく降り注がれた、強大な空気シャワーに含まれる中性子が、地表付近の桃の種や壺の吹きこぼれを構成する炭素の同位体比率を激変させる可能性を明らかにし、完全に破綻してしまった炭素年代法」という、炭素についての物事を売り上げる者達に、騙され踊り、最後には、笑われ者になってしまい、
さらには、近畿第V様式土器という謎の物体を売り上げていた、大昔のほんの一部の要素でしかない者に、勝手に騙されてしまっていたのだったね。
>>466 邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が邪馬台国「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。
ここに武内宿彌の正体も明らかになるのである!
伊都国崇神朝の景行/成務/仲哀、邪馬台国応神朝の応神(息子)/仁徳(孫)の5人の大王に仕えた彼は、筑紫女王・卑弥呼の男弟の末裔なのである!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0 その応神朝@筑紫(邪馬台国♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。
この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き(継体の大和入り20年に仮託)、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。その妹推古が仏教の国教化を成就。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での完敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、継体→安閑・宣化→阿毎多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津京に東遷。
ここに倭王権は史上初めて北部九州を出て、近江大津京→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の「畿内」には、崇神朝・応神朝はもちろん、直前の継体朝ですら記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治政府設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。
>>465
魏志倭人伝の作者は、別の文章で、
大作海船
と書いたが、
大きな海船を一隻作ったのではなく、
海船を四つの州で、たくさん作ったことを、
書いたのだったな。
詔青兖幽冀四州大作海船。
大作塚。
徑百餘步徇葬者奴婢百餘人。
大いに塚を作る。
径、100余歩に、殉葬者、奴婢、100余人(その100余人分の塚を作ったのだ。)。 >>461 >同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳を比定。
同時期でないと、殉葬者いないと確認されている。
棺、見つかっていない
>>468 ダイワ(オオワ)としか読めない大倭(大和)を(オオ)ヤマト と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、国内外(唐)に対し、新益藤原京を新設した「畿内」に、筑紫邪馬台も阿蘇邪靡堆もあったと思わせたかったからなのである!
白村江海戦惨敗で東遷した九州本家の天智の死後、壬申の乱で倭王権を獲得した大和分家の天武が正史記紀を編纂し(唐を刺激する九州本家の=継体創始の倭国独自年号&日出処「天子」多利思比孤を抹消)、
それに合わせて九州の地名をそっくり移植し、畿内をその歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!
7世紀唐(飛鳥時代)までの中国歴代王朝には、倭国は九州島のみと認識されていたことが判る。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
隋書倭国伝(倭王阿毎多利思比孤@阿蘇邪靡堆)、旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だったが、日辺(→東)にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭(九州)と言う名前が優雅でないから日本(本州)と改名した」と言い、
また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。
事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が近江大津京に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた「倭国」の歴史テーマパークにするため、後漢書東夷伝の「大倭」@九州を借用しつつ、
発音は北部九州時代の都であった筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を繰り下げて生まれた畿内説(他人の褌)、ならびに教科書の古墳時代「畿内」にあったとされる「ヤマト王権」(定説)は、
唐外交を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として強行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた幻想で、
特に前者は、記紀(ヤマト王権)という虚構のゴール地点から、魏志倭人伝と考古学の年代繰り上げ操作という他人の褌で、どこまで史実(スタート地点)歪曲&洗脳を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである。
>>471 まとめると、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し、
ダウンロード&関連動画>> その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲し、天智の首都・太宰府を殲滅できた超大国・唐(外交)への忖度で生まれた記紀が消そうとしたのは、
A.倭国史上初めて北部九州を出て、近江大津京に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝→応神朝→継体朝)がすべて北部九州(筑紫邪馬台→阿蘇邪靡堆→天智太宰府)にあったこと
→3王朝ともその奥津城(王家の谷)&新益藤原京を新設したばかりの「畿内」にあったことにした(記紀の歴史テーマパーク「大倭」→「大和」聖徳太子「以和為貴」)。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!
1.(武寧王の百済を完全属国化した)継体が中国の南北朝二帝並立の隙に創始してしまった(時間の支配者=中国皇帝の冊封からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号
→天智の【倭京】(太宰府)以前は全て抹消!(下記リンク参照)
2.鉄の産出により高句麗&百済に形勢逆転した新羅からの朝貢で調子に乗り、南北朝を再び統一した隋の「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
→同時期の大和分家・厩戸皇子と合成し、憲法十七条(以和為貴)「聖徳太子」を捏造&抹消!
3.白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に怯えた九州本家・天智@太宰府の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草)
→舒明♂皇極♀の長男=斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極斉明重祚&天智天武兄弟の秘密)
-継体朝@阿蘇による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・【倭京】・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html -熊本県玉名市和水町前原の石原家文書
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho122/kai12204.html >>462 考古学の初心者はそのように感じるんだな
マスコミ誘導とは思わんが
>>446キウスの言うこともわかる
前方後円墳の勉強にはなった
今城塚古墳に眠る治天下大王のピンクの石は、なぜ遠路はるばる運ばれてきたのだろう。。。
>>465
魏志倭人伝の作者は、別の文章で、
大作海船
と書いたが、
大きな海船を一隻作ったのではなく、
海船を四つの州で、たくさん作ったことを、
書いたのだったな。
詔青兖幽冀四州大作海船。
大作塚。
徑百餘步徇葬者奴婢百餘人。
大いに塚を作る。
径、100余歩に、殉葬者、奴婢、100余人(その100余人分の塚を作ったのだ。)。 >>458 一部の、古ぼけた物事を好む学芸会の者達が、
「最近、数年来、宇宙線の観測が劇的に進行し、千数百年間、巻向にも数限りなく降り注がれた、強大な空気シャワーに含まれる中性子が、地表付近の桃の種や壺の吹きこぼれを構成する炭素の同位体比率を激変させる可能性を明らかにし、完全に破綻してしまった炭素年代法」という、炭素についての物事を売り上げる者達に、騙され踊り、最後には、笑われ者になってしまい、
さらには、近畿第V様式土器という謎の物体を売り上げていた、大昔のほんの一部の要素でしかない者に、勝手に騙されてしまっていたのだったね。
>>420 >>471 すべては、「纏向遺跡=3世紀中ごろ(卑弥呼の邪馬台国)」 とするためのゴッドハンドだったんだねw
>>477 歴史を捻じ曲げないと死亡確定な九州説の無駄足掻きあわれ
後世の福永伸弥先生への評価はどうなるんだろうか。。。
日本中の古ぼけた物事を好む者達を、あのゴッドハンドによる「発掘」の時と同様にして、熱狂させた、
おそらく方形で、数十センチメートル程の深さに掘削された、5世紀末以降に出現した「SX-1002」と完全に平行に隣接し、「SX-1002」との時間的な関係性が強く疑われるが、
謎の勢力に、謎の勢力が作製した観光用の着ぐるみのモデルとなった卑弥呼の時代である3世紀前半に建てられたのだ、と断定されてしまった「建物C」は、
本当は、5世紀以降に、建てられた物体である可能性が高いな。
畿内説因数分解
@記紀の後付け地名 邪馬台→大和
A年代繰り上げゴッドハンド「纏向遺跡=3世紀」
B印象操作
>>420 吉備の土器を「布留式」「庄内式土器」と命名(あたかも関西から九州へ広がっていったかのような)
朝鮮民族の奥山氏
>>1プロ固定が、またしても、意味のある、正々堂々の反論を諦め、
「邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのか、
それとも、
邪馬台国畿内説は、まだ、完全には破綻してしまってはいないのか、」
について討論するための、このスレッドで、
「邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのか、
それとも、
邪馬台国畿内説は、まだ、完全には破綻してしまってはいないのか、」
という議題とは、全く無関係の、
奥山氏の脳の内側にしか存在しない「九州説」に対して、敗北宣言の意味にしかならない、嘘の悪口を言い放っているな。
478日本@名無史さん2021/03/28(日) 09:10:59.55
>>477 歴史を捻じ曲げないと死亡確定な九州説の無駄足掻きあわれ
布留式という式の土器が、最初に吉備で出現した土器だというのは、間違えではないのかな。
そして、
吉備から畿内に機能的特徴が伝来した庄内式という式の土器の機能的特徴が、最初に吉備で出現したかどうかも、本当は、不明なのではないのかな。
481日本@名無史さん2021/03/28(日) 09:25:00.46
畿内説因数分解
@記紀の後付け地名 邪馬台→大和
A年代繰り上げゴッドハンド「纏向遺跡=3世紀」
B印象操作
>>420 吉備の土器を「布留式」「庄内式土器」と命名(あたかも関西から九州へ広がっていったかのような)
>>482 プロ固定とか、わけわからん妄想してる九州説って
脳死してんじゃないの?
>>483 完全に破綻してしまった邪馬台国畿内説をタイトルにしている、この重複偽スレッドは、
海溝の底のタコについての研究するための、落書き用のスレッドだよ。
朝鮮民族の奥山氏
>>1が、5ちゃんねるを活発化させるためのプロ固定であることを恥ずかしがりながら、またしても、意味のある、正々堂々の反論を諦め、
「邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのか、
それとも、
邪馬台国畿内説は、まだ、完全には破綻してしまってはいないのか、」
について討論するための、このスレッドで、
「邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのか、
それとも、
邪馬台国畿内説は、まだ、完全には破綻してしまってはいないのか、」
という議題とは、全く無関係の、
奥山氏の脳の内側にしか存在しない「九州説」に対して、敗北宣言の意味にしかならない、嘘の悪口を言い放っているな。
484日本@名無史さん2021/03/28(日) 09:40:27.35
>>482 プロ固定とか、わけわからん妄想してる九州説って
脳死してんじゃないの?
>>486 完全に破綻してしまった邪馬台国畿内説をタイトルにしている、この重複偽スレッドは、
海溝の底のタコについての研究するための、落書き用のスレッドだよ。
>>487 完全に破綻してるのは九州説だから
暴力でひとを黙らせようとしてる
にせ情報で社会を混乱させようとしてる
それもこれも九州説が破綻してるからだ
朝鮮民族の奥山氏
>>1プロ固定が、またしても、意味のある、正々堂々の反論を諦め、暴力をふるいながら、
「邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのか、
それとも、
邪馬台国畿内説は、まだ、完全には破綻してしまってはいないのか、」
について討論するための、このスレッドで、
「邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのか、
それとも、
邪馬台国畿内説は、まだ、完全には破綻してしまってはいないのか、」
という議題とは、全く無関係の、
奥山氏の脳の内側にしか存在しない「九州説」に対して、敗北宣言の意味にしかならない、嘘の悪口を言い放っているな。
488 名前:日本@名無史さん 2021/03/28(日) 09:57:40.81
>>487 完全に破綻してるのは九州説だから
暴力でひとを黙らせようとしてる
にせ情報で社会を混乱させようとしてる
それもこれも九州説が破綻してるからだ
>>489 完全に破綻してしまった邪馬台国畿内説をタイトルにしている、この重複偽スレッドは、
海溝の底のタコについての研究するための、落書き用のスレッドだよ。
>>489 荒らしのお前がやってるのが「敗北宣言の意味にしかならない嘘の悪口」だよ
証拠が一つも出せないだろ
海溝のタコは、エゴイスティックにタコ生を、楽しめば良いな。
>>490 ここが本スレで、お前が執拗に作っているのがニセスレだ
朝鮮民族の奥山氏
>>1プロ固定が、またしても、意味のある、正々堂々の反論を諦め、暴力をふるいながら、
「邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのか、
それとも、
邪馬台国畿内説は、まだ、完全には破綻してしまってはいないのか、」
について討論するための、このスレッドで、
「邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのか、
それとも、
邪馬台国畿内説は、まだ、完全には破綻してしまってはいないのか、」
という議題とは、全く無関係の、
奥山氏の脳の内側にしか存在しない「九州説」に対して、
全く証拠を示すこともなく、敗北宣言の意味にしかならない、嘘の悪口を言い放っているな。
491日本@名無史さん2021/03/28(日) 10:25:30.72
>>489 荒らしのお前がやってるのが「敗北宣言の意味にしかならない嘘の悪口」だよ
証拠が一つも出せないだろ
八村塁氏も、もっと、エゴイスティックにバスケットボールの闘いを、楽しめば良いな。
朝鮮民族の奥山氏
>>1プロ固定が、またしても、意味のある、正々堂々の反論を諦め、暴力をふるいながら、
「邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのか、
それとも、
邪馬台国畿内説は、まだ、完全には破綻してしまってはいないのか、」
について討論するためのスレッドの、この重複偽物スレッドで、
「邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのか、
それとも、
邪馬台国畿内説は、まだ、完全には破綻してしまってはいないのか、」
という議題とは、全く無関係の、
奥山氏の脳の内側にしか存在しない「九州説」に対して、
全く証拠を示すこともなく、敗北宣言の意味にしかならない、嘘の悪口を言い放っているな。
493日本@名無史さん2021/03/28(日) 10:29:26.40
>>490 ここが本スレで、お前が執拗に作っているのがニセスレだ
>>1 完全に破綻してしまった邪馬台国畿内説をタイトルにしている、この重複偽スレッドは、
海溝の底のタコについての研究するための、落書き用のスレッドだよ。
>>458 一部の、古ぼけた物事を好む学芸会の者達が、
「最近、数年来、宇宙線の観測が劇的に進行し、千数百年間、巻向にも数限りなく降り注がれた、強大な空気シャワーに含まれる中性子が、地表付近の桃の種や壺の吹きこぼれを構成する炭素の同位体比率を激変させる可能性を明らかにし、完全に破綻してしまった炭素年代法」という、炭素についての物事を売り上げる者達に、騙され踊り、最後には、笑われ者になってしまい、
さらには、近畿第V様式土器という謎の物体を売り上げていた、大昔のほんの一部の要素でしかない者に、勝手に騙されてしまっていたのだったね。
海溝のタコが、エゴイスティックにタコ生を、楽しめば、
結果的に、
海溝のタコは、未来に向かって、さらに進化しそうだよ。
朝鮮民族の奥山氏
>>1プロ固定が、またしても、意味のある、正々堂々の反論を諦め、暴力をふるいながら、
「邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのか、
それとも、
邪馬台国畿内説は、まだ、完全には破綻してしまってはいないのか、」
について討論するためのスレッドの、この重複偽物スレッドで、
「邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのか、
それとも、
邪馬台国畿内説は、まだ、完全には破綻してしまってはいないのか、」
という議題とも、全く無関係の、
僕達や、
僕達が作成した、完全に破綻してしまった邪馬台国畿内説をタイトルにする、公式スレッドに対して、
全く証拠を示すこともなく、敗北宣言の意味にしかならない、嘘の悪口を言い放っているな。
493日本@名無史さん2021/03/28(日) 10:29:26.40
>>490 ここが本スレで、お前が執拗に作っているのがニセスレだ
日本中の古ぼけた物事を好む者達を、あのゴッドハンドによる「発掘」の時と同様にして、熱狂させた、
おそらく方形で、数十センチメートル程の深さに掘削された、5世紀末以降に出現した「SX-1002」と完全に平行に隣接し、「SX-1002」との時間的な関係性が強く疑われるが、
謎の勢力に、謎の勢力が作製した観光用の着ぐるみのモデルとなった卑弥呼の時代である3世紀前半に建てられたのだ、と断定されてしまった「建物C」は、
本当は、5世紀以降に、建てられた物体である可能性が高いな。
なるほど
エゴイスティックに生きるのも、
正神の道なんだな
わかった
>>502 完全に破綻してしまった邪馬台国畿内説をタイトルにしている、この重複偽スレッドは、
海溝の底のタコについての研究するための、落書き用のスレッドだよ。
勘違いを、しては、駄目だ。
海溝のタコは、真実に逆らわずに、嘘偽りなくエゴイスティックなので、進化するよ。
503日本@名無史さん2021/03/28(日) 10:57:10.27
なるほど
エゴイスティックに生きるのも、
正神の道なんだな
わかった
>>465
魏志倭人伝の作者は、別の文章で、
大作海船
と書いたが、
大きな海船を一隻作ったのではなく、
海船を四つの州で、たくさん作ったことを、
書いたのだったな。
詔青兖幽冀四州大作海船。
大作塚。
徑百餘步徇葬者奴婢百餘人。
大いに塚を作る。
径、100余歩に、殉葬者、奴婢、100余人(その100余人分の塚を作ったのだ。)。 なんで、海底のタコは、
エゴイスティックなんだろう?
天上天下唯我独尊の解説お願い
それと、
鹿島大神のお膝元、
茨城県の民は、
なんであんなブサイクなんだろな
>>458 一部の、古ぼけた物事を好む学芸会の者達が、
「最近、数年来、宇宙線の観測が劇的に進行し、千数百年間、巻向にも数限りなく降り注がれた、破天荒に強大な空気シャワーに含まれる中性子が、地表付近の桃の種や壺の吹きこぼれを構成する炭素の同位体比率を激変させる可能性を明らかにし、完全に破綻してしまった炭素年代法」という、炭素についての物事を売り上げる者達に、騙され踊り、最後には、笑われ者になってしまい、
さらには、近畿第V様式土器という謎の物体を売り上げていた、大昔のほんの一部の要素でしかない者に、勝手に騙されてしまっていたのだったね。
天王星は、
自然にやることの他に、
愛が大事というのだが、
孤独の時はどうしたらいいんだろうな
自愛も過ぎると、
女恐怖症の、
オナニストになるが
自愛でいいんだな
他愛なんて、
人間有限なんだから、
無理だろ
さくらの願いは、
地上天国作造りなんだが、
すぐには完成しないようだ
世界は自由だ
俺は好きな事をやる、と、
大義に生きるの、
両方をやるといいんだろう
で、
一般人は大義には生きられないんだから、
好きなことやればいいんだな
3匹が切るの、
千石でいいんだよ
そもそも殿様じゃねえし
学問も、芸術も、信仰も、
同じこと
好きにしたらいい
>>458 一部の、古ぼけた物事を好む学芸会の者達が、
「最近、数年来、宇宙線の観測が劇的に進行し、千数百年間、巻向にも数限りなく降り注がれた、破天荒に強大な空気シャワーに含まれる中性子が、地表付近の桃の種や壺の吹きこぼれを構成する炭素の同位体比率を激変させる可能性を明らかにし、完全に破綻してしまった炭素年代法」という、炭素についての物事を売り上げる者達に、騙され踊り、最後には、笑われ者になってしまい、
さらには、近畿第V様式土器という謎の物体を売り上げていた、大昔のほんの一部の要素でしかない者に、勝手に騙されてしまっていたのだったね。
376日本@名無史さん2021/03/27(土) 16:08:12.92
>>1
瀬戸内海で南を東に誤認する根拠は?
難波から纏向まで、陸行ひと月の行程は?
・・・確定しない滞在日数を入れたら、水行・陸行の日数はなんとでもなってしまう >>517 >瀬戸内海で南を東に誤認する根拠は?
明々白々
会稽東冶の東だろ
会稽郡は九州より遙か南だ
邪馬台国候補となる条件(仮)
・実際には完全に間違えだったことが判明した、「方形周溝墓があったのだ」という早とちりの誤認と同時に、「溝との切り合い関係があるから、観光用の着ぐるみのモデルとなった卑弥呼の時代の物体なのだ。」と発表された「穴の跡」がある。
・ジグザグに掘り進められた深さ2mの溝がある土壇場の上で、卑弥呼は桃とカエルを食いながら木の面をつけて全裸で踊っていた。
・おそらく方形で、数十センチメートル程の深さに掘削された、5世紀末以降に出現した「SX-1002」と完全に平行に隣接し、「SX-1002」との関係性が強く疑われるが、
謎の勢力に、謎の勢力が作製した観光用の着ぐるみのモデルとなった卑弥呼の時代である3世紀前半に立てられたのだ、と断定されてしまった「建物C」の痕跡が発見された。
・時速6kmで通勤途中の女に抜かされながら、中国人が、難波から1月かけて辿り着く。
・カエルの骨は溶けないが、鉄は溶ける地域である
・魏志倭人伝時代が終わった後に吉備から西日本各地に伝来したが、庄内式と名付けられたので、「畿内から九州に伝来したという誤認をされている」土器が埋まっている。
・中国から飛んできた砂よりも軽い花粉が発見される。
・中国の骨董屋で売りに出された鏡と同じ4世紀の国産鏡が4世紀以降の古墳に埋まっている。
・火星との交易が盛んだった地域である
・人民の住居がない。
・対馬の真東にある。
・古墳を積み上げる土方のための大下水道がある。
・布留式という式の土器の時代に5世紀の馬がいる。
・最初に、相撲が始まった地域である。
・4世紀に朝鮮半島で捕獲、連行された馬によって積み上げられた前方後円型の物体がある。
・奴隷の死体を乗せる4世紀の埴輪が、発見できた。
・冬は大雪だが、一年中、裸足で駆け回り、一年中、生野菜が食べられる。
・卑弥呼の着ぐるみに自治体の予算が出る。
・自治体が自称考古学者に給料を払う。
・自治体が観光を活発化しようとして財政が破綻寸前。
・若者達が、自治体の方針にうんざりしているだけではなく、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎることや、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎる割には、教育水準が高まらないことに不信を抱き始めている。
・奥山氏の鬘は、海外交差編年のように、ズレる。
>>520 その異常連呼ぶりが、あんたを「おえい」で松傾だと立証してるよ
魏志倭人伝では、繰り返し、繰り返し、「壹與」と記録された人物が、
奥山氏が邪馬台国畿内説の根拠としている後世の中国の文章では、「臺與」に変換されてしまっていることは、
重大な物事だね。
中国人は、意味ではなく発音記号として使用する文字を、試行錯誤したのだが、
そもそもの邪馬壹國を邪馬臺國と変換した全ての原因は、
発音についての推測からではなく、
後漢書の作者が、5世紀の大和王権のことを伝え聞き、魏志倭人伝の九州の邪馬壹を畿内の邪馬臺の誤記なのだと邪推したことであり、
邪馬壹國を邪馬臺國と変換してある後漢書を読んだ者が、邪馬壹國や壹與と書かれていた魏志倭人伝と読み比べ、
「魏志倭人伝時代の後から5世紀以前には「壹」の字の発音が変化し、魏志倭人伝時代の「壹」の発音は、「5世紀以降の壹の字の発音」とは異なり、「5世紀以降の臺の字の発音」と同じ発音だったのだ。」
と誤認し、
魏志倭人伝で倭人の固有名詞の音を表す文字である「壹」の字が、正確な発音としては時代遅れになったと考え、全て「臺」の字に変換してしまった可能性があるな。
梁書、、、629年 祁馬臺 臺與 「其後復立男王並受中國爵命」
隋書、、、636年 邪馬臺
案今名邪摩惟音之訛也。李賢。唐。。。676年
太平御覧魏志曰、、、、977年から983年 耶馬臺 臺舉
奥山氏が、奥山氏が演じる「おえい」の犯行を、僕達に、なすりつけてきたな。
521 名前:日本@名無史さん 2021/03/28(日) 13:14:35.37
>>520 その異常連呼ぶりが、あんたを「おえい」で松傾だと立証してるよ
>>524 奥山が「おえい」じゃないって証拠も出てるのに
理由ひとつないことを言い張る態度は九州説そのもの
>>518 もう、ひとつあるよ。
万二千餘里は魏略にもある。
水行は、追加分で聞いたのみ、その距離が
会稽とどう距離。by
なんで、
長文を書くと、
読んでもらえないってことが。分からないんだろう?
>>527 長文だからダメなんじゃなくて
内容がボロカスだからでは?
>>518 誤認でなくて、行っていないから
推測だろー。まあ、政治、経済、軍事の中心でもないから行く、必要性もない。たんに出身地
魏志に書かれいる、千人待、冢は、別の地 by
纏向は、記紀の内容と大和の成り立ちで
箸墓周辺の調査
卑弥呼に繋がるもんが何か出てくると
ラッキー程度。by
>>531 わからないなら気にするな。放置だな
by
長文も何も関係ない。
それと専門家(中国、朝鮮〜、日本)がいたりするでしょ?
その専門家も、交流していた当時の人間(ほんとーの、その家の人)ではないという話。
どこにいるんだと思う?当時のホンモノみたいな家の人々。
例えば
>>1関係。
ほんとーのwその家の人でもないし、
わからないから調べたり研究したりしているんだろう。
当時〜現在・・・その家の人がいるでしょ?
ホンモノの、その家みたいな意味。
>>518 >会稽東冶の東だろ
会稽郡は九州より遙か南だ<
ダメだね、 まったく答えになっていない
会稽東冶の東は実証でなく机上の文だし、瀬戸内と思われる記述なし
>>1説では瀬戸内は魏使が実際に通ったんだろ
だから、聞いてんの
魏使いが瀬戸内海で南を東に誤認する根拠は?
>>521 キミ 読み取る力不足
おえいはアンチザラコク
魏志倭人伝では、繰り返し、繰り返し、「壹與」と記録された人物が、
奥山氏が邪馬台国畿内説の根拠としている後世の中国の文章では、「臺與」に変換されてしまっていることは、
重大な物事だね。
中国人は、意味ではなく発音記号として使用する文字を、試行錯誤したのだが、
そもそもの邪馬壹國を邪馬臺國と変換した全ての原因は、
発音についての推測からではなく、
後漢書の作者が、5世紀の大和王権のことを伝え聞き、魏志倭人伝の九州の邪馬壹を畿内の邪馬臺の誤記なのだと邪推したことであり、
邪馬壹國を邪馬臺國と変換してある後漢書を読んだ者が、邪馬壹國や壹與と書かれていた魏志倭人伝と読み比べ、
「魏志倭人伝時代の後から5世紀以前には「壹」の字の発音が変化し、魏志倭人伝時代の「壹」の発音は、「5世紀以降の壹の字の発音」とは異なり、「5世紀以降の臺の字の発音」と同じ発音だったのだ。」
と誤認し、
魏志倭人伝で倭人の固有名詞の音を表す文字である「壹」の字が、正確な発音としては時代遅れになったと考え、全て「臺」の字に変換してしまった可能性があるな。
梁書、、、629年 祁馬臺 臺與 「其後復立男王並受中國爵命」
隋書、、、636年 邪馬臺
案今名邪摩惟音之訛也。李賢。唐。。。676年
太平御覧魏志曰、、、、977年から983年 耶馬臺 臺舉
地球が、
へそ曲がりで、
改心してないのに、
どうやって、
天王星の力で、
地上天国作るんだろうな
天王星は、
痴呆症
悪く言うと、
なぜ成り済まし、騙りのような人々が出てくるようになったんだろう。
>>1この話ではない。
天王星にも、
能力に限界がある。
俺は、
ワールドメイトに、
実質3年半所属し、
数百万円支払った。
しかし、
偽統合失調症になり、
生活保護。
ということは、
例え絶対神であっても、
能力に限界があるということ
ワールドメイトなんかに頼らずに、
自分で生きていけ
>>118 「南→東」や「冢→前方後円墳」や、
「正北抵新羅の倭國(≒女王國)は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの大和説学者らは、
馬鹿
俺が自殺したら、
人間界はどうなるんだろう?
まあ、なんにも変わらないか
霊界で、
神と人類を呪うことになるが
絶対神と、
多神を信じても、
裏切られることを、
俺は知っている
家の周辺の談があるでしょ、
なぜか老婆と同じような話をしている人物がいる。
土俵があって・・・とか、相撲が好きだった、相撲取りではない。
いま住んでいるところに来る前、他の地方に住んでいたときも。
>>525 奥山のボケの投稿は誰も信用しない
だから、パソコン2台だとか携帯併用だと疑われても仕方がない
近所の、どこそこの辺りまで行き、相撲を取っていたり。
『王母〜』このような家。
『日本昔話 石楠花』
同じ話をしているし、何の家(職)なんだと思う?
家自身が相撲取りだったわけではない、
好きだったから、近所に行き、相撲を取っていたり。
他の地方にいたときも、観に行っていたとか。
例『ガンダム サングラス』w
あれは家の写真なんだけど、暴力団、ヤクザでもない、
白い服の写真。
さくらが、
人間に反省を促してる
改心しない場合、
人類滅亡
地球がそう思ってるってことは、
さくらもそう思ってるのかもな
天王星って、
チヤホヤされて、
いい気になってるよな
『相撲』wiki
>皇極天皇元年(642年)7月22日には、
>百済の使節、大佐(だいさ)の平智積(へいちしゃく)らを饗応し、
>宴会の余興として、健児(ちからひと)に命じて、
>同年4月8日に亡命していた百済王族 翹岐(ぎょうき)の前で相撲をとらせた、とある[8]。
だろ?
力があるなら、
道路工事でもやったほうが、
よっぽど世の中の為になるのに、
自分の利益と、
自分の名誉のために、
やってんだぞ、あれ。
>>546 >奥山のボケの投稿は誰も信用しない
>だから、パソコン2台だとか携帯併用だと疑われても仕方がない
理由もなく信用しないのは、あんた個人の事情だよな
だから、パソコン2台だとか携帯併用だとか
ありえないこと疑うのも、あんたが特殊な人だからだな
異常者だけが主張する
老婆談w
時代的には近代になるんだけど、
当時の職業も「?」みたいな話ばかり、
馬に乗っていて・・・、どこかの城に行ったりしていた。
その周辺にも土俵があったという話。
当時、住んでいた家に凄い刀(剣)が飾ってあったりした。
でも、そういう類の家ではない?軍人(?)でもない。
何かの制服を着ている子供、父親も母親も軍人ではない。
>>535 なるほど、実際に行ったのか?
会稽東冶の東は実証でなく机上の文だよー。
投馬国てどこよ。by
例『成太作』?
wikiを信じている人間なんて「」みたいな事が書いてあるけど、
一部、ほんとーの話。
よくわからないけど『池田犬作』(アンサイクロペディア)
>ウィキペディアなんか見てる奴はバカだ、残りカスだ
老婆談があるでしょ?調べてみると、(一部)ほんとーの話みたいなんだけど。
相撲、何やら〜、の話とか。
しかしまあ、
奥田民生率いる、
ユニコーンの、
大迷惑とか、
すげー歌詞だな
ちと見直しちった
みんな、
意味わかってて、
聴いてたの?
俺はまだまだだ
大迷惑は、
考えすぎか
でも、
大迷惑ということは
魏志倭人伝では、繰り返し、繰り返し、「壹與」と記録された人物が、
奥山氏が邪馬台国畿内説の根拠としている後世の中国の文章では、「臺與」に変換されてしまっていることは、
重大な物事だね。
中国人は、意味ではなく発音記号として使用する文字を、試行錯誤したのだが、
そもそもの邪馬壹國を邪馬臺國と変換した全ての原因は、
発音についての推測からではなく、
後漢書の作者が、5世紀の大和王権のことを伝え聞き、魏志倭人伝の九州にあった邪馬壹を、畿内のヤマト=邪馬臺の、
誤記なのだと邪推し、下世話に、後漢書の作者の壹は臺の間違いだという邪推により、
邪馬臺と書き換えたことが始まりであり、
その後世、
邪馬壹國を邪馬臺國と変換してある後漢書を読んだ者が、邪馬壹國や壹與と書かれていた魏志倭人伝と読み比べ、
「魏志倭人伝時代の後から5世紀以前には「壹」の字の発音が変化し、魏志倭人伝時代の「壹」の発音は、「5世紀以降の壹の字の発音」とは異なり、「5世紀以降の臺の字の発音」と同じ発音だったのだ。」
と誤認し、
魏志倭人伝で倭人の固有名詞の音を表す文字である「壹」の字が、正確な発音としては時代遅れになったと考え、全て「臺」の字に変換してしまった可能性があるな。
梁書、、、629年 祁馬臺 臺與 「其後復立男王並受中國爵命」
隋書、、、636年 邪馬臺
案今名邪摩惟音之訛也。李賢。唐。。。676年
太平御覧魏志曰、、、、977年から983年 耶馬臺 臺舉
>>565 九州説
倭人は対馬海峡を挟んで半島側を投馬国
でいいのか?by
>>568 つまり、邪馬台国畿内説は、後漢書の作者の頓珍漢な邪推から出現し、脳の出来映えが良くない者達が受け継ぎ完成させた、完全に破綻してしまった妄想である可能性が高いのだな。
>>569 女王國の範囲ではないということ事?by
>>556
奥山さん
早く勝者の貫録見せてよ
>>517
瀬戸内海で南を東に誤認する根拠は?
難波から纏向まで、陸行ひと月の行程は?
・・・確定しない滞在日数を入れたら、水行・陸行の日数はなんとでもなってしまう ザラコクは、投馬国の位置はどこで
女王國の範囲なのか?by
>>569 私は九州説じゃないのでゴメン
前に投稿したが、今はスレチゆえ
テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
気が変わったら、又 投稿しておきます
日本海溝の底には、5ちゃんねるのプロ固定や邪馬台国畿内説よりも、数段、レベルの高い知能を持つ、進化したタコが、知的なタコ生を、生きているよ。
>>574 熊本説は天草をあげていたが女王國に属するのか
は不明 by
>>577 宮崎説はどこだろうか?
阿波は高知。 by
日本中の古ぼけた物事を好む者達を、あのゴッドハンドによる「発掘」の時と同様にして、熱狂させた、
おそらく方形で、数十センチメートル程の深さに掘削された、5世紀末以降に出現した「SX-1002」と完全に平行に隣接し、「SX-1002」との時間的な関係性が強く疑われるが、
謎の勢力に、謎の勢力が作製した観光用の着ぐるみのモデルとなった卑弥呼の時代である3世紀前半に建てられたのだ、と断定されてしまった「建物C」は、
本当は、5世紀以降に、建てられた物体である可能性が高いな。
>>458 一部の、古ぼけた物事を好む学芸会の者達が、
「最近、数年来、宇宙線の観測が劇的に進行し、千数百年間、巻向にも数限りなく降り注がれた、破天荒に強大な空気シャワーに含まれる中性子が、地表付近の桃の種や壺の吹きこぼれを構成する炭素の同位体比率を激変させる可能性を明らかにし、完全に破綻してしまった炭素年代法」という、炭素についての物事を売り上げる者達に、騙され踊り、最後には、笑われ者になってしまい、
さらには、近畿第V様式土器という謎の物体を売り上げていた、大昔のほんの一部の要素でしかない者に、勝手に騙されてしまっていたのだったね。
深見東州って、
パン屋の前世とかもあるんだって
俺あんまり好きじゃない
顔もブサイクだし
奥山氏
>>1が、狂った。
584 名前:日本@名無史さん 2021/03/28(日) 20:08:47.43
〇〇〇〇って、
パン屋の前世とかもあるんだって
俺あんまり好きじゃない
顔もブサイクだし
>>458 一部の、古ぼけた物事を好む学芸会の者達が、
「最近、数年来、宇宙線の観測が、劇的に進行し、千数百年間、巻向にも数限りなく降り注がれた、破天荒に強大な空気シャワーに含まれる、想像を絶する数量の、中性子が、地表付近の桃の種や壺の吹きこぼれを構成する炭素の同位体比率を激変させる可能性を明らかにし、完全に破綻してしまった炭素年代法」という、炭素についての物事を売り上げる者達に、騙され踊り、最後には、笑われ者になってしまい、
さらには、近畿第V様式土器という謎の物体を売り上げていた、大昔のほんの一部の要素でしかない者に、勝手に騙されてしまっていたのだったね。
宮内庁はなんの権利・権限があって古墳内部を調べることを禁止しているんだ?
古墳を掘り起こせば内部は丸わかりになるし貴重な物が中にきっとあるはずなのに
>>594 自分の先祖の墓を掘り返したいと赤の他人が要求してきたら、あんたはどうする?
>>595 税金でやっているから、学術調査ならいいじゃないの?エジプトピラミッドが例。親族関係も確認
子孫もわかる。
世界遺産登録の条件になるかもね。
百舌鳥古墳群も取り消しだな。
人類共立の遺産でも宝でもないもん
に税金はかけられない。
九州説信者になる必須条件は、気が狂ってることのようだ
たとえ研究者であっても他人の所有物を自由に扱えないのは当たり前
文化財は保護することが至上命題
上記の前提から、所有者自らが破壊しようとしているのでなければ
第三者がとやかくいうのは筋違いも甚だしい
群から会稽の距離と
ほぼ同じになる。
90m×12,000=1080km、餘3%と取る。
1080×1.03=1112km ほぼ合うね。
近畿も範囲内だな。
老婆談があるでしょ、ほとんど?(かなりの高確率)合致している。
wiki(関連)調べてみた?
相撲、芸能関係の話もしていた事があったりw
老婆によると川崎に来てからの話、
あっちに行ったり、こっちに行ったりして相撲を取っていた。
家自体が、そういう家という話ではない。
川崎に来る前に住んでいたところにも、
土俵があって、相撲が好きだった・・・観に行っていた?
『天財若子』(『王母〜』)
家自体は、このような家、
当時の職も???みたいな話ばかりしていたり。
>>598 宮内庁の見解
「陵墓は皇室の先祖の墓である。今も祭祀が行われている。
静安と尊厳を保つのが本義である。」
つまり、皇室の墓であるという理由でしか
ありません。
今も祭祀が行われている。静安と尊厳を保つのが本義である。は
一般国民の墓と同じです。しかしそれを理由にダム建設を反対しても、
ダムは作られ多くの墓が葬り去られます。
皇室は特権階級なのでしょう。
文化財保護法を持ち出す方もいますが、破壊しない事を前提に調査がなければ
文化財かどうかの判定はどこでするのでしょう。
学者も地団太を踏んでるのが現状です。
直近では、制限を設けて宮内庁と堺市共同での調査が大山古墳で認められています。
しかし、非公開であり制限もあることから期待はできないでしょう。
蛇足
鉄の溶けやすい土壌であれば、なおさら早期に発掘し貴重な遺物を
早期に保護するのが文化財保護ではないでしょうか
>>603 敗戦後、GHQが全てのサンプル採取され
解明されているとか?
また、昭和天皇、危篤の際
輸血の為の採血サンプルも米中に流れ
いるとか。
>>596 保護しつつ、学術調査を受けないなら
世界遺産登録、取り消しだよ。
そうなると人類共立の遺産ではないからね。
by
DNAで親父関係、姻族関係、
亡くなった原因がわかる。
炭素測定で死んだ時期とかもね。
遺伝子学の確認に天皇陵は、
最良のサンプル。by
>>606 >世界遺産登録、取り消しだよ。
そんなこと決めつける根拠は?
九州説さん、また変な政治思想の押し付け?
>>472 漢委奴国王〜天智まで倭王権は、一貫して福岡平野にあったとして、中国地方の墳丘王国が近畿東海の銅鐸王国を従え本州毛人国を統一(倭国大乱後)。
その後、筑紫女王卑弥呼が神武に本州毛人王国を東征させたという2段階理解でOK?
>>609 >>変な政治思想の押し付け
そんなこと決めつける根拠は?
九州説?
邪馬壹は奈良。by
>>609 無視すりゃいいのに
邪馬台国と関係ないし
>>611 双方から嫌われて仲間じゃないと言われるコウモリ
東遷説
@出雲吉備連合(墳丘祭祀)が、大和東海連合(銅鐸祭祀)を征服(纏向型前方後円墳の誕生)
A北部九州邪馬台国がを出雲吉備連合を征服し、奥津城とする(紀伊半島の水銀を独占し、帯方郡の鉄を輸入)。
B天智の代で東遷し、大和をヤマトと読ませる。記紀の後付け地名に惑わされて大和説が生まれる←今、ココ!
>>471 >>595 そもそも古墳が墓だとなぜ断定できる?中身を誰も確認したことが無いのに
>>604 賛成である。文化財保護のあるべき姿と思慮する。
朝鮮民族の凶った奥山氏
>>1が、またしても、意味のある、正々堂々の反論を諦め、 「邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのか、 それとも、 邪馬台国畿内説は、まだ、完全には破綻してしまってはいないのか、」 について討論するための、このスレッドで、 「邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのか、 それとも、 邪馬台国畿内説は、まだ、完全には破綻してしまってはいないのか、」 という議題とは、全く無関係の、 奥山氏の脳の内側にしか存在しない「九州説」に対して、敗北宣言の意味にしかならない、嘘の悪口を言い放っているな。 597日本@名無史さん2021/03/29(月) 01:20:49.85 九州説信者になる必須条件は、気が狂ってることのようだ 609日本@名無史さん2021/03/29(月) 07:18:11.70
>>606 >世界遺産登録、取り消しだよ。 そんなこと決めつける根拠は? 九州説さん、また変な政治思想の押し付け?
そういえば、奥山氏が、ここ数日間、
「おえい」と叫びながら、ファンキーな学者の論文を探すことを、止めているな。
>>609 調査は必要
世界遺産条約の条文
「文化遺産及び自然遺産の保護、保存及び整備の分野における全国的、
または地域的な研修センターの設置、または発展を促進し、
並びにこれらの分野における学術的調査の奨励」
このように世界遺産条約では「学術的調査の奨励」をうたっており、
これを国が妨げるようなことがあれば取り消しの可能性が無いとは言えない。
条約違反で世界遺産から抹消された世界遺産は世界で2例ある。
朝鮮民族の凶った奥山氏
>>1が、またしても、意味のある、正々堂々の反論を諦め、
「邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのか、
それとも、
邪馬台国畿内説は、まだ、完全には破綻してしまってはいないのか、」
について討論するための、このスレッドで、
「邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのか、
それとも、
邪馬台国畿内説は、まだ、完全には破綻してしまってはいないのか、」
という議題とは、全く無関係の、
奥山氏の脳の内側にしか存在しない「九州説」に対して、敗北宣言の意味にしかならない、嘘の悪口を言い放っているな。
597日本@名無史さん2021/03/29(月) 01:20:49.85
九州説信者になる必須条件は、気が狂ってることのようだ
609日本@名無史さん2021/03/29(月) 07:18:11.70
>>606 >世界遺産登録、取り消しだよ。
そんなこと決めつける根拠は?
九州説さん、また変な政治思想の押し付け?
>>614 出雲大和(墳丘祭祀)連合が大和東海(銅鐸)連合を征服した場合、鍵となるのが東海の動向だな。
おそらく前者は、まず東海を取り込むことで大和を挟み討ちにしたものと思われる。
東海の調略の名残(盲腸)が、最後の謎である前方後方墳■▢だろう。
>>1 =
>>609奥山・・また無知をさらけ出したな
世界遺産条約の条文
「文化遺産及び自然遺産の保護、保存及び整備の分野における全国的、
または地域的な研修センターの設置、または発展を促進し、
並びにこれらの分野における学術的調査の奨励」
このように世界遺産条約では「学術的調査の奨励」をうたっており、
これを国が妨げるようなことがあれば取り消しの可能性が無いとは言えない。
条約違反で世界遺産から抹消された世界遺産は世界で2例ある。
現状を説明し理解してもらった上で世界遺産になってるのにバカ丸出し
>>609 >>世界遺産登録、取り消しだよ。
そんなこと決めつける根拠は?
九州説さん、また変な政治思想の押し付け?
↑ ↑ ↑
根拠を
>>619に示され沈黙
>>619 サンキュウ
「徳島県旧三加茂町の文化財 丹田古墳」
外形はシャモジ形をした積石塚の前方後方墳で、前方後方墳のうちでも古式に属する外形をしている。 @阿波
https://www.town.higashimiyoshi.lg.jp/docs/873.html >>625 東海は大和裏切りの恩賞として初期ヤマト王権(出雲吉備連合)から、前方後円墳に準じた前方後方墳の築造を許されたと。
そこへ北部九州邪馬台国から派遣された神武が東征し、奥津城(歴代九州倭王の王家の谷)となり、ヤマト王権という幻想が生まれたということか!
>>627 しかし、条約違反で取り消された例があるのだったな
今後の状況により取り消される可能性が無いとはいえないのだなウハハ
畿内説はなぜ「南」という記述を無視するのか?
畿内説はなぜ「鉄の鏃」という記述を無視するのか?
畿内説はなぜ「東の倭種の国」という記述を無視するのか?
畿内説はなぜ「南に狗奴国」という記述を無視するのか?
畿内説はなぜ「殉葬者奴碑百余人」という記述を無視するのか?
畿内説はなぜ「邪馬台国」という記述を無視しないのか?
>>630 初期ヤマト王権(出雲吉備連合)が、北部九州の邪馬台国卑弥呼が派遣した伊都国王・神武に征服された後は、前方後方墳(東海への裏切りの恩賞)の存在意義がなくなり、前方後円墳に統一されていったのだろう。
天皇家っつっても、
大したことねえな
ただ、
男神天照大神の末裔っていうだけ。
一体、
全天に、
いくつ星があると思う?
ここは、
天王星か?
金星か?
太陽か?
この星の名前を、
地球、
またの名前を、 地星という。
もういいや
俺は、
俺の子、
金毛九尾の狐、
イルミナティに加担するは。
では、今から、
俺が知ってる、
ワールドメイトの秘密、
全部バラすね。
もう、俺には、
関係がないんで。
調査しなければ世界遺産取り消しとか
ちょっとは前例調べてから書き込めよ
願望と現実は違うんだぜ
なんで、
ミカヤ、
御小屋岳、
じょうが天仙が、
神仙界一位なんだ?
天仙より、
神仙の方が、
上と思うが。
天之桃神
ハトシェプスト女王の娘三人の内の、
長女
ハトシェプスト女王、
預言者サムエルが、
植松愛子
宰相センムト、
ダビデ王が、
深見東州
トトメス三世、
サウル王が、
藤原家半田晴久の父。
NHK面白かったな
白い葺き石が横の池に落ちてて
農家の人が年一で入れ替えのために水を抜くと見られるのな
いっぱいあった 出雲の影響か
後円部の高いところに特殊器台の破片もでた 吉備の影響か
そして統一国家ヤマトへ
>>634 健康や運動に気を使っているつもりのオイラもいつコロナに感染して死ぬか判らないし、この後、横断歩道渡ってて横から信号無視の暴走プリウスに轢き殺されるか判らない。
オイラがいつ死んでもいいように、おまいらには真実を伝えておかねば!
@倭国大乱後、出雲吉備(墳丘祭祀)連合が、大和東海(銅鐸)連合を征服(初期ヤマト王権=纏向型前方後円墳)。大和挟撃に貢献した東海には前方後方墳。
Aそこへ北部九州・邪馬台国卑弥呼から派遣された伊都国王神武が東征してきて、奥津城(王家の谷=紀伊半島の水銀鉱床独占=帯方郡の鉄を独占大量輸入)化する。
B崇神が鉄剣により、更なる東征で本州統一(前方後円墳祭祀)を進め、台与崩御後王統が途絶えた邪馬台国を乗っ取り、魏も西晋に代わり、薄葬圧力から解放され、3世紀末頃箸墓を築造する(王宮は天智太宰府まで博多、ヤマト王権は完全な幻想)。
>>472 >>639 極端だね、可能性があると彼が言っているの
あんた、保護しつつ古墳の調査を望まないのかな。
考古学者は望んでいるのだがね。
世界遺産条約「学術的調査の奨励」は調査を後押ししてくれてるのだよ
四男の神武が初代天皇だったり
神武のあと3年間空位で2代天皇が決まるまでに混乱があって
長男が弟二人を殺そうとしたら逆に殺されて弟が継ぐ
壬申の乱で武力によって兄の天智天皇の子の大友皇子を殺した
大海人皇子は天武天皇になる
天武天皇は武力で天皇になったと思われないようにするために
681年歴史書の編纂を命令して崩御後に日本書紀が完成する
日本書紀の内容は天武天皇の意に沿ったものになってると思われる
もう、この国は、
741年だったか、
墾田永年私財法が出た時点で、
誰のものでもなく、国民の物なんだよ
今現在の、日本国所有者は、
アメリカ合衆国。
古墳や遺跡の発掘は破壊行為の一種
発掘したら二度と元の状態には戻せない
宮内庁に限らず全ての遺跡・古墳について
必要なければ掘らないというのが日本国の基本方針
日本人が納めた国税は、
ほとんど、
ロシアと中国に渡っています。
自民党。
>>613 東遷?どこが東遷?
共立され西に移動した。
方向音痴だな。by
自民党の、
最大のバックは、
イルミナティと、ロシアと、中国な
>>646 >極端だね、可能性があると彼が言っているの
「世界遺産登録、取り消しだよ。」が?
正気?
>>649 学者や地方自治体が発掘調査の申請を多く出してるが
当然、調査の必要性の根拠を提示ているよ
しかし、陵墓は申請すれど却下の状態
箸墓遺跡周辺では東海、吉備、出雲、関東各地の土器がたくさんでてる
その土器に付着した炭素を調べて
箸墓遺跡は240〜260年に作られたという研究結果がでて論争になった
それはおいといて箸墓の王は
多くの地域から望まれて平和的に王になった可能性があって
卑弥呼が天皇のあるべき姿の象徴になった可能性がある
卑弥呼(百襲姫)が死んだあと崇神天皇は四道将軍を派遣して
武力で押さえ込んだ可能性があるけど
形態として卑弥呼の統治は天皇の理想とされた可能性がある
奥山氏が、ここ数日間、「おえい」と叫びながら、ファンキーな学者の論文を探すことを、止めているな。
>>653 あなたの639の投稿にコテをつけて無いから誰を指してるの不明だったよ
「申請すれど却下」はウソ
思い込みは事実とは違うぞ
>>653 マジにありうる。
エジプト ピラミッド
中国 始皇帝など
保存と研究は、いろんな国々と協力しています。
中国のもうひとつ目的は、検査装置やそのソフト
です。by
日本も、
核武装化したほうがいいと思うよ
日米で、
核を超える武器、
開発中らしいけど
つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだね。
>>660 すでに核武装です。
福一で人災事故がありました。
三箇所あれば十分です。by
>>655 >箸墓遺跡周辺では東海、吉備、出雲、関東各地の土器がたくさんでてる
その土器に付着した炭素を調べて
箸墓遺跡は240〜260年に作られたという研究結果がでて論争になった<
少しいいかな
・地方の土器は30% 大半が東海
・また、炭素年代を測定したのは箸墓の周濠部分から出土したもの
測定した土器は土師器
下段はあなたの私見ゆえコメントしません
>>663
>・地方の土器は30% 大半が東海
少しいいかな。
箸墓遺跡周辺出土土器は、すべて「東阿波型土器」様式ということ。 @阿波 >>658 平成22年1月30日提出 国会質問より抜粋
>宮内庁は「陵墓や陵墓参考地は現に皇室により祭祀が継続して行われ、
静安と尊厳の保持が最も重要」という理由で、
立ち入りや学術的調査でさえ頑迷に拒んでいる。<
>>663 東海・和歌山南部地方に地震、津波が
あったと見ています。
出土がほとんど現地の木を使い
掘っています。by
>>666 それ、現状を述べてるだけ
どこが「申請」と 「却下」?
もう一度言うぞ
思い込みは事実とは違うぞ
>>666の続き
同じ国会質問
>学術的調査によっても、古墳の被葬者名を特定できることは非常にまれである。
宮内庁が被葬者を「特定」し、陵墓や陵墓参考地として管理している古墳であっても、
被葬者を確実に特定できるものは何一つ確認されていない。それにも関わらず、
被葬者を「特定」して皇室用財産として管理し、学術的調査や文化財としての活用を拒否するのは、
歴史の正確な解釈や扱いを歪めるものになると考えないのか。<
ここがポイント
>歴史の正確な解釈や扱いを歪めるものになると考えないのか<
>>668 やめたほうがいいよ
自分で何も調べず感情に任せ投稿するのは
>>663 >・地方の土器は30% 大半が東海
地方の土器が非常に多いですね
東海、吉備、出雲、関東ほか各地の土器がたくさん出てる
事実です
>・また、炭素年代を測定したのは箸墓の周濠部分から出土したもの
箸墓築造の時期のものですね
その結果、 240〜260年に作られたという研究が発表された
異議があるんですか?
「申請」と「却下」の証拠を提示できず
ピント外れのコピペでさらに恥の上塗り
せめて新聞とか学会誌の記事を持ってこい
>>674
>東海、吉備、出雲、関東ほか各地の土器がたくさん出てる
それら土器すべて、 「東阿波型土器」様式ということ。 @阿波 >>458 一部の、古ぼけた物事を好む学芸会の者達が、
「最近、数年来、宇宙線の観測が劇的に進行し、千数百年間、巻向にも数限りなく降り注がれた、想像を絶する強大な空気シャワーに含まれる大量の中性子が、地表付近の桃の種や壺の吹きこぼれを構成する炭素の同位体比率を激変させる可能性を明らかにし、完全に破綻してしまった炭素年代法」という、炭素についての物事を売り上げる者達に、騙され踊り、
箸墓古墳の年代を、卑弥呼の死に合うよう、実際よりも、百年以上、古く発表し、
最後には、笑われ者になってしまい、
さらには、近畿第V様式土器という謎の物体を売り上げていた、大昔のほんの一部の要素でしかない者に、勝手に騙されてしまっていたのだったね。
>>677 吉備型とも、庄内型、難波型とも言えます。
面倒だから、あの辺あたり型としている by
畿内説石野船長「南→東と読み替えて、不弥国から東に進み投馬国(出雲)を目指そう!次は女王卑弥呼の纏向だw全速前進!」
畿内説寺澤機関長「順風満帆!やはりこちらが正しかったですねw天も我々を祝福しているかのようですw九州説の警告なんて無視して良かったw」
畿内説橋本航海士「我々の進行方向、左右両舷をすっぽり取り囲むような三日月形の巨大な氷山脈発見!!!→)」
畿内説石野船長「エンジン逆回転!!!全速後退!!!←)」
畿内説寺澤機関長「なんで方角を読み替えたんだよ!!!船長のくせに!!!このハゲェ〜ッ!!!(豊田真由子元衆院議員)」
畿内説橋本航海士「フル回転中の逆回転でギア全損!!!エンジン大爆発!!!間に合いません!!!!!」
(フルスピード→ノーブレーキで氷山に正面衝突して、乗り上げ、反対側で再び着水する畿内説タイタニック号)ガツン!ドカン!ザブン!
(船側&船底外板を船首から船尾まで横一直線に切り裂く音)ギギギギギギギ!!!
ザァアアアアアアア!!!(全隔壁に一気に浸水、瞬時に沈む畿内説タイタニック号)
畿内説石野・寺澤・橋本「ぎゃあああ!!福永伸哉のゴッドハンドに騙されたぁああ!!」(ごく僅かな庄内式土器と大量の布留式土器と三角縁神獣「銅鏡五百枚」と共に海底に引き摺りこまれ、海の藻屑と化す畿内説タイタニック号)
一方、九州説オリンピック号でゎ…
九州説A「畿内説タイタニック号から遭難信号SOS傍受!!」
九州説B「あれほど警告したのに、なんで東(大国主・大物主・饒速日3代の纏向宮殿)に向かったんだろう?直ちに救助に向かおう!」
九州説C「纏向の大型建物ABCDは2世紀末には遡れないのに!!!」
朝鮮民族の要素還元的な共産主義者である奥山氏
>>1が、元気になり、活発化してきたな。
>>674 >箸墓築造の時期のものですね
その結果、 240〜260年に作られたという研究が発表された
異議があるんですか?<
異議はありませんが
少しだけコメント
炭素年代についてはいろいろ議論があるので省き、
たとえ、土器に付着した炭化物が240〜260年としても
箸墓築造年と結び付けるのは少し飛躍があると思います。
当時 日本で土器で煮炊きしてたのが唯一箸墓近辺だけならいいですが
>>674 FAQ100データですね。
260から320年あたり
作り始め
>>458 一部の、古ぼけた物事を好む学芸会の者達が、
「最近、数年来、宇宙線の観測が劇的に進行し、千数百年間、巻向にも数限りなく降り注がれた、想像を絶する強大な空気シャワーに含まれる大量の中性子が、地表付近の桃の種や壺の吹きこぼれを構成する炭素の同位体比率を激変させる可能性を明らかにし、完全に破綻してしまった炭素年代法」という、炭素についての物事を売り上げる者達に、騙され踊り、
箸墓古墳の年代を、卑弥呼の死に合うよう、実際よりも、百年以上、古く発表し、
最後には、笑われ者になってしまい、
さらには、近畿第V様式土器という謎の物体を売り上げていた、大昔のほんの一部の要素でしかない者に、勝手に騙されてしまっていたのだったね。
>>685 260で作り始め320頃 完成。
4世紀前半でしょー by
>>663 炭化物のついた土器は土師器だったのか
土師器だと3世紀後半からじゃねーかな
>>685 つまり、箸墓古墳は、やはり、鐙の発見された地層の乗馬時代の直前である4世紀後半の物体なのだな。
混同されないように、
キウス名付けといた。
日本には、自由権があるから、
自由にしていい。
法律を守るのも、破るのも、
自由。
箸墓を開けたら馬具が出てくる可能性大だよな
<箸墓古墳で馬具出土>
2001年12月
「箸墓の周濠から、馬具と布留1式土器が同時に出土した。」
奈良県桜井市箸中の箸墓古墳の周濠から、乗馬の 際に足を掛ける馬具、
木製の輪鐙(わあぶみ)が見つかり、桜丼市 教委は三十日、
「輪鐙は四世紀初めに周濠に投棄され たと推定され、国内最古の馬具
である可能性が高い」 と発表した。
>>686 つまり、箸墓古墳は、やはり、鐙の発見された地層の乗馬時代の直前である4世紀後半の物体なのだな。
相手を選ばないと
途中で誰か気付かないと・・・・・
>>686 そもそも、魏志倭人伝には、卑弥呼の塚の大きさは書かれていません。
邪馬台国畿内説は、「魏志倭人伝に、卑弥呼の塚の大きさが書かれているのだ。」という、漢文を翻訳出来ない者の、出来栄えの悪い脳に出現した妄想です。
大いに鬘を売る。
径、100余歩に、並待者、禿げ、100余人(その100余人分の鬘を売ったのだ。)。
大いに塚を作る。
径、100余歩に、殉葬者、奴婢、100余人(その100余人分の塚を作ったのだ。)。
>>695
魏志倭人伝の作者は、別の文章で、
大作海船
と書いたが、
大きな海船を一隻作ったのではなく、
海船を四つの州で、たくさん作ったことを、
書いたのだったな。
詔青兖幽冀四州大作海船。
大作塚。
徑百餘步徇葬者奴婢百餘人。
大いに塚を作る。
径、100余歩に、殉葬者、奴婢、100余人(その100余人分の塚を作ったのだ。)。 法律を破る自由…
やはり基地外の発想は常人には理解不能
>>684 >たとえ、土器に付着した炭化物が240〜260年としても
>箸墓築造年と結び付けるのは少し飛躍があると思います。
>当時 日本で土器で煮炊きしてたのが唯一箸墓近辺だけならいいですが
なんで?その理由は?
ああ、俺のことを、
キウスって読んでるんじゃないの?
木とゼウスの造語かと思った。
なんで、
人間の国会議員如きが作った、
法律なんか、
守らなけりゃいけないの?
>>1 おい、朝鮮民族の奥山氏よ。
貴方を教育します。
日本で生活している以上は、日本の法律を守れ。
>>692 最古の馬具だけど
古墳の年代を決定するもんではない
4世紀前半だな。
修復があったと見る。by
だから、
蠍座を殺そうとしてるのが、
いて座だから、
武器の神だから、
天王星よりも、
金星よりも、
白山菊理姫よりも、
男神天照大神よりも、
俺のほうが強いの
クイーン・エメラルダスには、
負けそうだが。
絶対神とか、
南極神には、
負けると思うけど。
いや、
鹿島の神と、箱根の神には、
負けるのか。
剣と、弓矢、
さあどっちが強いでしょう?
今は、
偽統合失調症で、
生活保護だから、
日本の法律遵守するけど、
本当は、日本なんかにいたかねえんだよ。
ここは、
白山、天照、瓊瓊杵の国。
いづらいったらありゃしない。
さっさと、
横浜戸塚舞岡病院の、
指名手配犯十数名を、
警視庁に通報して、
報奨金五千万もらって、
生活保護を抜け出し、
サンクトペテルブルクか、
クライストチャーチか、
仏蘭西にでも行きたい。
俺の妻の父には、 弁護士ついてるからね
イチコロ。
そいつの前世は、
織田信長と戦った、
浅井長政配下、
小谷城武将な
平家。
家紋剣。
邪馬台国畿内説を完全に論破された奥山氏
>>1が、キウス氏に成り済ましているのだろうか。
>>695 近畿説ですが、その近畿説が阿保です。
あのバカでかいもん、4〜5年ではつくれません。by
邪馬台国畿内説というタイトルの、この重複偽スレッドが、ウンコのように渾沌としてきたな。
>>699 簡単じゃん
とある井戸から、10世紀に造られたどこにでもある土器がでたとするよ
だからこの井戸は10世紀に造られたたと言うか
まあ、
弓矢も、
剣で払われたら、
負けるか
世界最強武器、
日本刀。
現代は、水素爆弾。
人間なんかいても、
酸素と、動植物を、
奪われるだけ
人間あっての地球なんだろうか
地球が無かったら、
人住めないけどね
いくら、
古代神が守ってるって言ったって、
最新武器には、勝てねえよ。
3次元は、
物理世界。
4世紀末期に朝鮮半島で捕獲し連行した馬主と馬を利用すれば、大規模な古墳も、割合、速く築けるぞ。
709日本@名無史さん2021/03/29(月) 11:27:06.77
>>695 近畿説ですが、その近畿説が阿保です。
あのバカでかいもん、4〜5年ではつくれません。by
いいや、
セックスは、
オナニーで処理しよう
女さえいなけりゃ、
俺は無敵だ
ただ忍耐してるだけだけど
>>717 左側スロープを泥水で浸し、幾つもの土嚢を綱に繋げ、
先に作成した上部の平面で綱を、横倒しした巨大な太鼓リールに巻きつけ、
軸を、馬力で回転させれば、次々に土石を積み上げられるな。
木刀は、
常備しといたほうがいいよ
稲荷ぎつねたちへの、
威嚇、攻撃。
>>719 馬の出土はないけど。
馬具にこだわる理由がわからん。
外豪なんだから5世紀頃に修理などで
混ざたかも?by
>>668 申請でいいよ 届け出と勘違いしてねーか
九州の那珂八幡古墳
周溝を有していたと考えられ
ゴミ捨て場になっていた
周溝からは鎌倉時代の土師器が出土
古墳自体が鎌倉時代のもんになるのか?by
>>724 まあ、そういうバカがいる。
皇居の堀に、iPhone6sが出てきました。
皇居は令和に作られたんか?
キウスこと、
俺は、
西知 正悦だよ
人の名前勝手に変えてんじゃねえよ
>>1奥山さん・・未だ回答がないのですが
1、瀬戸内航路で南を東に一月も誤認する根拠は?(会稽東治の東の回答は既に論破済みなのでダメですよ)
2、難波から纏向まで、陸行一月の行程は?
・・・確定しない(倭人伝に記述なし)停泊日数や滞在日数を入れたら、水行・陸行の日数はなんとでもなってしまう
追記
いつもスレを立てていただいていることには感謝しています・・これは本心です ああ、
やっぱり、
キウスは俺じゃなかったか。
じゃあ、名前なんにしようかな
>>711 >とある井戸から、10世紀に造られたどこにでもある土器がでたとするよ
だからこの井戸は10世紀に造られたたと言うか
俺なら畿内説同様に言い張るな
名誉や銭に化けるかもしれんからな
>>731 ばれねーよ
個人の所有だから調査させねーよ
ばれてもさ、子孫は「先祖の勘違いでしたかね。」で済むし
ばれるまで、銭稼げるじゃん
>>729 別にキウスでもいいですよ、「巻向学」みたいに
商標権はありませんから
ありゃあ、
違うスレに書いちゃったな
国際情勢板の、 アメリカ情報スレに、書いてしまった。
つまんない内容だから、
バカにしたいやつだけ見てくれ
畿内説はなぜ「南」という記述を無視するのか?
畿内説はなぜ「鉄の鏃」という記述を無視するのか?
畿内説はなぜ「東の倭種の国」という記述を無視するのか?
畿内説はなぜ「南に狗奴国」という記述を無視するのか?
畿内説はなぜ「殉葬者奴碑百余人」という記述を無視するのか?
なのに畿内説はなぜ「邪馬台国」という記述を無視しないのか?
>>735 織田信長とアメリカ情報の関連を聞きたいな
707キウス2021/03/29(月) 11:21:56.09
そいつの前世は、
織田信長と戦った、
浅井長政配下、
小谷城武将な
平家。
家紋剣。
737へ
その内容、このスレだっけ、
あっちだっけ
その内容は、
俺の妻の父の事ね
アメリカは関係ない
>>736 全て無視などしていない
のでお門違い。by
キウス ◆PyuQX798ps さんへのお詫びに
>>1さん以下ヨロシク
728キウス ◆PyuQX798ps 2021/03/29(月) 12:40:34.69
>>1奥山さん・・未だ回答がないのですが
1、瀬戸内航路で南を東に一月も誤認する根拠は?(会稽東治の東の回答は既に論破済みなのでダメですよ)
2、難波から纏向まで、陸行一月の行程は?
・・・確定しない(倭人伝に記述なし)停泊日数や滞在日数を入れたら、水行・陸行の日数はなんとでもなってしまう 俺、
キウス名辞めるね
悪かった
では簡単に、
風の神、ヒューイとしとこう
アメリカスラングの、
ヒューイ ゴーは、
つまり俺の事
辞めた
花関索にしよ
深見東州は、
乙女が好き。
それから、
若尾文子さん
創価は、
そこを攻めてけ
なんで、
金数百万払って、
実質3年半、
全部で7年必死に勤めて、
ワールドメイト辞めさせなければ
ならないんだ
妻の父に、
弁護士ついてるから、
訴えようかな
ワールドメイトで、
統合失調症になったと言ったら、
大スキャンダルwww
御神徳も全くないと、
世間にバレるwww
だから、
中国と、北朝鮮は、
徳島、剣山に、
核ミサイル落とせばいいんだよ
そうすれば、
日本と、
太陽天皇家、つまり、皇統が、
途絶えるからww
俺、
報奨金5000万でたら、
ロシア永住権と、
モスクワ市民権得るんだ
射殺されるかもしれないが、
まあいいや
>>740 >(会稽東治の東の回答は既に論破済みなのでダメですよ)
いつ、なんと言って論破した?
夢の中で、かな?
>>711 >とある井戸から、10世紀に造られたどこにでもある土器がでたとするよ
>だからこの井戸は10世紀に造られたたと言うか
10世紀には既にあった、と言うなあ
だって、
御魂磨きって、
ほとんど、
男は、
仕事場でしかできないんだぞ
また、精神病院通う事になったから、
もう、就職は、無理。
ワールドメイト復帰は、
働かなければ駄目だから、
俺は、一生、御魂磨きできない。
もう、ワールドメイトと、
深見東州先生は、
関係ないので、サヨウナラ。
太平洋戦争は、
情報戦で、
破れた。
その繰り返し。
多分、
白山菊理姫と、天照大神と、
瓊瓊杵命が馬鹿なんだと思う
どうやったら、
ゼウスに勝てると思うんだろう?
絶対神に、
全天落ちさせられたら、
俺負けるけど、
それならそれでいいや
肩の荷が下りる
邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまい、
完全に不要になった、この重複偽スレッドを、
花関索と名乗り始めた奥山氏
>>1を含め、
様々な者達が、自由に使用しているのだな。
>>747 俺でもわかるよ
{会稽東治の東}に瀬戸内航路なんて記述ない
質問は瀬戸内航路での誤認だから質問に答えてない事になる
>>747 あとさ{会稽東治の東}は机上での記述
瀬戸内航路は
>>1は実際に魏使が通ったんだろ
だから、どうしたら瀬戸内航路で南を東に一月も誤認したのか
奴は質問してるの 畿内説って科学的実証なんだろ わはは
>>754 >質問は瀬戸内航路での誤認だから質問に答えてない事になる
なるって理由は?
「会稽東治の東」は行程記事の
方位にも距離にも間違いがあるって証拠だと
論証がテンプレにあって
それに何も反論してないじゃないか
畿内説宣伝係は毎日殴られるだけの簡単なお仕事だと思ってた奥山あわれ
藤原道長の国になるのね
ステキだわー
やりたい放題
欲望の権化
そもそも、
天皇家が無かったら、
日本ももっとマシだったんじゃないか、
天皇の存在価値に、疑問符。
たかが、ガド家。
天皇って、
何にもしてないよな
ただ、
海外のセレブ達と、
シャンパン飲んでるだけ
道路工事とかやると、
パンピーの気持ちわかるよ
>>747 しかし褒めてやるよ奥山
やっと{会稽東治の東}が九州(機内でも可)を指してることを理解したようだから
こういうこと書くと、
戦前なら、即射殺かも知れないが、
俺の心の底の声気持ち。
なんだよ、
天王星とか、金星とか、太陽とか、
お高く止まりやがって
>>755 >>1は魏使が「瀬戸内航路で南を東に一月も誤認した」って主張してないのに
「どうしたら瀬戸内航路で南を東に一月も誤認したのか」
って質問するのは
おかしいんでは?
>>761 >やっと{会稽東治の東}が九州(機内でも可)を指してることを理解したようだから
そんな不合理なことは誰も理解できないな
>>754 >{会稽東治の東}に瀬戸内航路なんて記述ない
>質問は瀬戸内航路での誤認だから質問に答えてない事になる
ということは
「会稽東治の東の回答は既に論破済み」
が嘘ってことになるんだが
山島が大なり、武力によらず
和(統)ヤマトゥ、by
人間が、
つうか悪人が、
改心するわけねえだろ
絶対神馬鹿説
でも、
プーチンと、イルミナティが、
寿命で死んだら、
絶対神野勝ちか
おめでとう、さくら!!
でも、その前に、
全人類絶滅されても知らんけど
イルミナティは、
悪霊なんだろ?
地球を、
悪霊界にしたいんだろ?
人類と、
3次元は、
いらないんだろ?
じゃあ、
今から、
全人類絶滅させたらいい。
それができないという事は、
お前らも、
肉体ないとまずいんだろ?
イルミナティの、
弱点見っけ
日、登る東から共立、
卑弥呼、日を呼ぶ。東門から
日の向こうから、来る
日のミカド、アマテラスだな。
ミカドの語源?by
やっぱ、
朝は日が登り、
夕日が沈み、
夜は満天の星空と夜景
動植物は栄え、
宝石が散りばめられた、
愛すべき地球!!
やっぱ、こうでなくちゃ。
良かった、まだ神魂と、大御心は、
失われていなかった。
>>1奥山ってさ
都合が悪くなるとアラスか寝たふりだな
早く答えてやれよ
1、瀬戸内航路で南を東に一月も誤認する根拠は?(会稽東治の東の回答は既に論破済みなのでダメですよ)
2、難波から纏向まで、陸行一月の行程は?
・・・確定しない(倭人伝に記述なし)停泊日数や滞在日数を入れたら、水行・陸行の日数はなんとでもなってしまう
会稽東治の東の解答が論破された過去レス探してやるよ
>>754
反論するまでも無いよ 倭人伝が証拠 >>771 ヒミカでもOk、某氏と同じなった
卑弥呼門、卑弥呼戸
日の帝 by
正しさを貫いてきたものは、
地獄に行く。
何故なら、
悪をやるという、自由が無いから。
正しさを悦ぶ、
俺の納得行かない点。
欲望は、創造神創造。
欲望を否定、禁止した、
古来学問宗教群。
心言宗。
欲望を肯定した、
学問、宗教は、
俺の知る限り、
空海真言宗だけだな
深見東州生前は、
天王星の上を行っていた、
弘法大師空海。
正しい存在は、
さくらだけにしたいんだな、さくらは。
別に、人に譲ったっていいじゃねえか。
エゴイスティック 少女
俺は、
木花咲耶とか、
クイーン・エメラルダスとか、
メーテルとか、
セイラ・マスとかが
好きだ
少女に、
なんの魅力があるんだよ
まあ、無にして、
変幻自在神なんだろうけども
>>763 誤認してなかったら、南は南になっちゃうよ
つまり、やはり、邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのだね。
>>782 だな。後はそれぞれ理屈や物証をつけ。
九州だのー、近畿だのー、阿波だのー
沖縄だのー、etc 俺もそうだけど by
つまり、やはり、邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのだね。
>>1くん
わたしゃ これのほうが興味あるな
どう答える
2、難波から纏向まで、陸行一月の行程は?
・・・確定しない(倭人伝に記述なし)停泊日数や滞在日数を入れたら、水行・陸行の日数はなんとでもなってしまう >>458 一部の、古ぼけた物事を好む学芸会の者達が、
「最近、数年来、宇宙線の観測が劇的に進行し、千数百年間、巻向にも数限りなく降り注がれた、想像を絶する強大な空気シャワーに含まれる大量の中性子が、地表付近の桃の種や壺の吹きこぼれを構成する炭素の同位体比率を激変させる可能性を明らかにし、完全に破綻してしまった炭素年代法」という、炭素についての物事を売り上げる者達に、騙され踊り、
箸墓古墳の年代を、卑弥呼の死に合うよう、実際よりも、百年以上、古く発表し、
最後には、笑われ者になってしまい、
さらには、近畿第V様式土器という謎の物体を売り上げていた、大昔のほんの一部の要素でしかない者に、勝手に騙されてしまっていたのだったね。
土器原理主義
文献原理主義
いろいろ居て楽しいな。
親魏倭王印付き土器出土しないかな?
金印、封泥も出土されない。by
あーあ、
俺は、
根本夏美さんと、
付き合いたかったな
小5から付き合って、
18で結婚して、
一生一緒でも良かったのに
サクラは、
それを許さなかったな
>>1 FAQ3の
「行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、
所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる」
で通せばよかったのですよ。
それをこねくり回してテンプレを長くするから
付け込まれるのですよ。自業自得。
788へ
知らねえよそんなもん
なんでわざわざ、
難解な資料なんか読むわけ?
女とデートしたり、
夜空見たり、
夜景見たり、
花々見たり、
彼女に宝石贈ったりしたらどうよ
あんたら人生損してるよ
中国文献の、7割は、嘘
これ、ワールドメイトの、
絶対神の言葉な
破綻したくせに未練がましい畿内説宣伝係の奥山あわれ
>>795 いつ、どう破綻したの?
君の夢の中でかな?
俺は、
我慢と忍耐の違いが、
解らなかった
と言うよりも、
熟語、文字自体の、
違いが分からなかった。
人体は、神体だから、
辛い思いをさせたね。
悪かった、さくら。
妻は、
セックスできない体なので、
動画見て、セックスするね
たくさんの女の子と、
恋愛できるし、
世の中の事、
いっぱい学べる。
誤認 例がひとつあった。
共立され、奈良から西へ行ったのに
東遷説扱いとか?by
>>792 >「行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、
>所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる」
>で通せばよかったのですよ。
通してるんでは?
頭悪いんだな
>>792とか見ると分かりやすいが
キウスの決定的な頭の悪さは
相手の言ってることに何も反論できない
という一点によく出ている
しかし、
孔子は、
なんで仁と並んで、
義礼智忠信孝なんて、
説いたんだ?
仁に並ぶものはなかったと、
譚嗣同も言っている。
>>801 奥山の決定的頭の悪さは
自分で何を言ってるのか理解できないところ
深見東州よりも、
俺の方が、
頭がいい気がする
仏陀と、普賢菩薩
深見東州先生は、
方以智の、
東西均を、
是非読んでね
ネットにもあるから
頭良くなるよ
>>796 お前奥山が破綻したの
畿内説に迷惑かけるなよ
人工甘味料は、
体に悪いそうだね
砂糖も駄目だから、
甘味は、
果実、果汁で、
摂取することをおすすめするよ
創価の人は、
偽仏教なんか学んでないで、
真学学びなよ
学とは、
人文科学、
社会科学、
自然科学な
あと、芸術
創価の人も救おうというのが、
神の意思だから
>>803(キウスだな)の悲惨なほどの頭の悪さは、決して証拠の出せないことを断定する点によく出ている
>>806 「破綻した」「破綻した」と結論部分を言うだけで
なぜそう断定できるのか、何がどう破綻したのか
一切説明できない人の脳は
破綻しています
>>811の悲惨なほどの頭の悪さは、決して証拠の出せないことを断定する点によく出ている
すぐに姿を露わにしてしまう前頭葉未発達な奥山あわれ
>>799さん
テンプレ読みましたか
九章算術とか海遊録、推古記の引用
あとは、これが適切かどうかはご自分で判断してください
各々 解説いただければ、過去同様の反論してもいいですが
私だけでなく優秀な方も指摘してますので
まず、過去レス読んでください
>>817 なんで反論しないで逃げてばかりいるの?
>>818さん
だから、過去レス読んでください
あなただけに特別に過去同様の反論しても良いですよ
まず、何から行きますか九章算術?・・・・海遊録
ただし条件を付けます
あなたの解釈を付けるのとIDも付けてください
できなければ、過去レス読んでください
>>818 お前はアホか奥山か相手を選べといっただろ気概は伝わるが勝手にしろ
つまり、やはり、邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのだね。
奥山まだあきらめてないのか
働きもせず何ぐだぐだ生き恥さらしてんだ
ザラコクの書き込みが止まってるな
・本人に何かあった
・規制に引っかかった
どちらだろう
それはない
大方、同じ規制に引っかかってるんだろう
>>819 >あなただけに特別に過去同様の反論しても良いですよ
じゃ、して
>>831 IDってなに?
先につけろって条件も書いてない
反論聞かせて
それにしても、何の職なのか、わからない。
名前(遠い親戚とか?)が同じというだけで、他の家は(正確には)、家ではない。
家とは、そういう話も違うでしょ?
凄い家なんだけどな、みたいな話をしている人もいた。
むかーしの渡来人、自分の家で供えたりするものも作ったりしていた。
>>832 名前のところのに
ID
半角で#?????と?は自分で考えて入れる
例えば#okuyama
なぜか『日本昔話 石楠花』?このような話もしていた。
泥棒のようなものに入られた話もしていた、よくわらない話ばかり。
泥棒のようなものに入られた?神代〜古代の話でもない。
家があったところ、住んでいたところ、その周辺の話、何かのほんとーの家なのかな?
>>837 IDと言ったからトリのことを言ってると思って教えてあげただけ
トリップと言ったら彼はまた混乱するだろ
5ちゃんのIDについては君が教えてやれ
老婆談によると、明治時代の、もう少し前とか、その頃の話。
どこに住んでいた頃だったかな〜、あの周辺w
『天財若子』(?)このような家。
『日本昔話 石楠花』『』『』・・・『』
その他も、なぜか同じ家(の話)だと言っていた。
例『天王』〜調べてみた?
『日本昔話 石楠花』
七福神みたいな話と同じ、・・・なぜか山王みたいな家があって。
『天王宮 山王院』
周辺に渡辺(家の老婆の旧姓と同じ)という家もあるし、
弟子か何かみたいな家だったんだろう?
老婆談、なぜか(むかーしの)芸能みたいな関係の話ばかりしているし、
刀(剣?)を持って戦っていたみたいな話もしていない、当時の職業も「?」
>>839 >IDと言ったからトリのことを言ってると思って教えてあげただけ
>トリップと言ったら彼はまた混乱するだろ
それはお前の想像だろ?
キウスがなんでIDとか要求したか判らないのに、第三者が勝手にトリップのことだと決めてしまう方が、聞いてる方は混乱するぞ
凄い刀(剣)w
当時、住んでいた家にあったとは言っているんだけど、
よくわからない話、あの制服(子供)も・・・軍人ではない。
一般人みたいに暮らしていたのかな?
>>850 まったく証拠のない非現実的なこと連呼してるから
一見して中傷デマとわかるね
よくわからない話ばかり。
相撲の話もしていたしな、
当時、住んでいたところにも土俵があって・・・、観ていたほうw相撲が好きだったみたいな話。
いま住んでいるところに来てからも?どこかに行っては、相撲を取ろうとか。
家自体、自身は『』このような家、
『日本昔話 石楠花』(七福神〜)?同じような話、画像も出てくるし。
>>851 >>852 バレバレワロタw
奥山=松傾=スレ主
相撲を観ていたほう(不明)。
例:よーし、これから、どこそこに行き野球、サッカーをしよう!みたいな話と同じ、
したりするでしょ?本業(職)ではないんだけどw
本業(職)は山王院みたいな家?
旧広瀬座というところも?同じような話なのかな、観に行っていたという話w
当時、山の上のほうに住んでいて、馬に乗り・・・下のほうまで降りて行き。
家は自体はw・・・何度も説明した。
>>828 近畿説と古田説の二重人格と思った。
by
>>855 つまりキウスは反論をするのが嫌でIDとか無理言ってるってこと?
よくわからない話ばかり。
戦争をしているときも、
そこに(伊達郡のほう)住んでいたと言っているし。
何か知っている人がいるのかな?
少し違うんだけど、
なぜか家の近所の談(〜学校があったり、相撲、土俵とか)と同じ?
川崎には戦前から住んでいたんだけどw
戦争をしているときは、それ以前に住んでいたところに、
戻っていたみたいな話・・・、その辺りにも土俵があったり。
家の近所に住んでいる人物(〜さんとか)、
読んでいない、見ていないと思うけどw
家の、おばあちゃん(老婆と言っているだけ)がいたでしょ、旧姓:渡辺。
・・・その辺りの話をしていたり、伊達郡とか、いまの福島県のほう。
老婆によると肉(牛)も食べてなかったと言っていた、
老婆自身も食べなかったし・・・。
何やら院みたいな家だったのかな?
老婆談によると、牛を飼っていたことがあるからなのかな?
まさか・・・機織り関係の話?
食べたくないから食べないんだよ(食べなかった)という話。
知っている限り(範囲内)の親戚がいるでしょ、
漫画、アニメ〜、ゲーム?そういうところの社員でもないし。
おかしな話ばかり。
まさか、ほんとーに名探偵コナソ〜みたいな話(家の近所)?
・・・誰の仕業なのか。
「おーむ」?「成太作」それとも「」、または「」か、でも某とも考えられる。
>>861
「阿波」はそんな悪させんよ。 旧説(畿内説・九州説)は最早終わったようだな。 わははははは @阿波 阿波さんに再度質問。
これは国家機密かもしれないが、
明治天皇ということは、
現朝廷は、南朝?
皇居に、
楠木正成の像があるんですよね?
>>853 こういうウソつき続けなきゃいけない連続句点も悲惨だな
>>875 ウソ?
このスレで奥山=松傾=スレ主というのは定説ですよw
つまり、やはり、邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのだね。
>>879 僕達が、突然、投稿できなくなってしまう可能性も、高まってきているね。
>>880 僕達が、突然、投稿できなくなってしまえば、
「邪馬台国畿内説という有害な仮説が嘘なのだ。」という真実を発表できなくなり、
邪馬台国畿内説という有害な仮説が広まってしまうな。
松傾である奥山氏
>>1が、真実を発表した誰かを、僕達だと勘違いしてしまっているな。
872日本@名無史さん2021/03/30(火) 11:44:17.94
>>853 こういうウソつき続けなきゃいけない連続句点も悲惨だな
投稿規制はこのスレに問題があるからです(フェイク情報拡散防止)
極力、sage進行でお願いします
>>881 僕達が、このスレッドに書き込めなくなった時のために、他の5ちゃんねるの掲示板に僕達の意見を発表できるスレッドを、作製すれば良いな。
sage進行とは、メールアドレス欄に、「あ」と入れればできるのかを、テストします。
>>885 他の5ちゃんねるの掲示板に、日本史の掲示板に投稿できなくなってしまった者達が、
交流できるスレッドが、出現したので、紹介します。
http://2chb.net/r/student/1617076685/l50 投稿しづらくなってしまった可能性の高いザラコク氏も、利用すれば良いよ。
他の5ちゃんねるの掲示板に、日本史の掲示板に投稿できなくなってしまった者達が、
交流できるスレッドが、出現したので、紹介します。
http://2chb.net/r/student/1617076685/l50 投稿しづらくなってしまった可能性の高いザラコク氏も、利用すれば良いよ。
他の5ちゃんねるの掲示板に、日本史の掲示板に投稿できなくなってしまった者達が、
交流できるスレッドが、出現したので、紹介します。
http://2chb.net/r/student/1617076685/l50 投稿しづらくなってしまった可能性の高いザラコク氏も、利用すれば良いよ。
阿波さんに、2つ質問。
1.真正イエス・キリストの、妻は、
婚姻のマリアか、マグダラのマリアか
2.道天魔に落ちる前の道元と、空海では、どっちが上か
僕は、道元禅師語録が気に入っています。
他の5ちゃんねるの掲示板に、日本史の掲示板に投稿できなくなってしまった者達が、
交流できるスレッドが、出現したので、紹介します。
文学部 邪馬台国畿内説
http://2chb.net/r/student/1617076685/l50 投稿しづらくなってしまった可能性の高いザラコク氏も、利用すれば良いよ。
南天北嶺衛兵寺
臨済宗高級武士
等。
神仏習合源平藤橘すごすぎww
>>892 早速、IDを明示する者達同士で、活発な議論が始まっているな。
>>884 >投稿規制はこのスレに問題があるからです(フェイク情報拡散防止)
ひどい嘘つきだな
問題ある投稿をしてる人間が規制されてんだよ
常識ないのか?
>>458 一部の、古ぼけた物事を好む学芸会の者達が、
「最近、数年来、宇宙線の観測が、劇的に進行し、千数百年間、巻向にも数限りなく降り注がれた、破天荒に強大な空気シャワーに含まれる、想像を絶する数量の、中性子が、地表付近の桃の種や壺の吹きこぼれを構成する炭素の同位体比率を激変させる可能性を明らかにし、完全に破綻してしまった炭素年代法」という、炭素についての物事を売り上げる者達に、騙され踊り、最後には、笑われ者になってしまい、
さらには、近畿第V様式土器という謎の物体を売り上げていた、大昔のほんの一部の要素でしかない者に、勝手に騙されてしまっていたのだったね。
他の5ちゃんねるの掲示板に、日本史の掲示板に投稿できなくなってしまった者達が、
交流できるスレッドが、出現したので、紹介します。
文学部 邪馬台国畿内説
http://2chb.net/r/student/1617076685/l50 投稿しづらくなってしまった可能性の高いザラコク氏も、利用すれば良いよ。
chmateだと規制されて、
パソコンからだと書き込める
同じポケットwifi使ってるんだが
>>877 >このスレで奥山=松傾=スレ主というのは定説ですよw
なんでそんなウソつくの?
日本なんか調べるのやめて、
世界と宇宙に目を向けましょう。
視野が狭いんだよ、あんたら。
>>898 問題ある投稿をしてる人間が規制されてんだよ
プロバイダ規制の巻き込まれを除く一般論
反論あるの?
邪馬台国候補となる条件(仮)
・実際には完全に間違えだったことが判明した、「方形周溝墓があったのだ」という早とちりの誤認と同時に、「溝との切り合い関係があるから、観光用の着ぐるみのモデルとなった卑弥呼の時代の物体なのだ。」と発表された「穴の跡」がある。
・ジグザグに掘り進められた深さ2mの溝がある土壇場の上で、卑弥呼は桃とカエルを食いながら木の面をつけて全裸で踊っていた。
・おそらく方形で、数十センチメートル程の深さに掘削された、5世紀末以降に出現した「SX-1002」と完全に平行に隣接し、「SX-1002」との関係性が強く疑われるが、
謎の勢力に、謎の勢力が作製した観光用の着ぐるみのモデルとなった卑弥呼の時代である3世紀前半に立てられたのだ、と断定されてしまった「建物C」の痕跡が発見された。
・時速6kmで通勤途中の女に抜かされながら、中国人が、難波から1月かけて辿り着く。
・カエルの骨は溶けないが、鉄は溶ける地域である
・魏志倭人伝時代が終わった後に吉備から西日本各地に伝来したが、庄内式と名付けられたので、「畿内から九州に伝来したという誤認をされている」土器が埋まっている。
・中国から飛んできた砂よりも軽い花粉が発見される。
・中国の骨董屋で売りに出された鏡と同じ4世紀の国産鏡が4世紀以降の古墳に埋まっている。
・火星との交易が盛んだった地域である
・人民の住居がない。
・対馬の真東にある。
・古墳を積み上げる土方のための大下水道がある。
・布留式という式の土器の時代に5世紀の馬がいる。
・最初に、相撲が始まった地域である。
・4世紀に朝鮮半島で捕獲、連行された馬によって積み上げられた前方後円型の物体がある。
・奴隷の死体を乗せる4世紀の埴輪が、発見できた。
・冬は大雪だが、一年中、裸足で駆け回り、一年中、生野菜が食べられる。
・卑弥呼の着ぐるみに自治体の予算が出る。
・自治体が自称考古学者に給料を払う。
・自治体が観光を活発化しようとして財政が破綻寸前。
・若者達が、自治体の方針にうんざりしているだけではなく、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎることや、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎる割には、教育水準が高まらないことに不信を抱き始めている。
・奥山氏の鬘は、海外交差編年のように、ズレる。
>>906 だからあ、誰が規制されてるんだい?
他のスレ、板では書き込めるが、このスレだけおかしい
そういう現象だとしたら、、、
他の5ちゃんねるの掲示板に、日本史の掲示板に投稿できなくなってしまった者達が、
交流できるスレッドが、出現したので、紹介します。
文学部 邪馬台国畿内説
http://2chb.net/r/student/1617076685/l50 投稿しづらくなってしまった可能性の高いザラコク氏も、利用すれば良いよ。
他の5ちゃんねるの掲示板に、日本史の掲示板に投稿できなくなってしまった者達が、
交流できるスレッドが、出現したので、紹介します。
文学部 邪馬台国畿内説
http://2chb.net/r/student/1617076685/l50 投稿しづらくなってしまった可能性の高いザラコク氏も、利用すれば良いよ。
レプタリアン、
トカゲ人種は、
本当にいるみたいだ。
アイツラの弱点は、
タバコの煙な。
要するに、
悪霊界、魑魅魍魎の出生地は、
地底。
今まで、発見されなかったろ?
イース1か2の、
画面の外枠に、
そのことが
描かれている。
横田は、
歴史捏造を企てる奥山氏を逮捕するために、
祭祀統一教会に入信したそうです
すぐそばに居るそうです
TVゲーム、PCゲームというのは、
伝記、伝承を踏まえて作られているので、
真実のゲームです。
ザラコク氏が意見を、発表したので、転載します。
37学籍番号:774 氏名:_____2021/03/30(火) 14:59:18.13ID:BAL2QAvi
おや?、テスト投稿が出来たね。
邪馬台国畿内説スレの
「901 名前:日本@名無史さん 2021/03/30(火) 14:34:23.97
他の5ちゃんねるの掲示板に、日本史の掲示板に投稿できなくなってしまった者達が、
交流できるスレッドが、出現したので、紹介します。
文学部 邪馬台国畿内説
http://2chb.net/r/student/1617076685/l50 投稿しづらくなってしまった可能性の高いザラコク氏も、利用すれば良いよ。」さん、
有難う。
何せ、PCカフエを渡り歩いて投稿して、どこから投稿しても、
「ERROR: 余所でやってください。[history]
問い合わせID: lav/637f1927af3a0a24
ホスト:219.115.225.45
名前: 日本@名無史さん
E-mail:
内容:
テスト投稿」
とされて、5チャンネルの投稿拒否されていたからな。
土星とは、
地獄がある星。
また、海王星は、
偽善者、エセ宗教家、エセ学者、易者などが行く、星です。
池田大作、文鮮明が、ここ。
サターンだから、
サタン
ただ、チョン消しただけww
昔、
日本テレビで、
V ビジターという、
映画ドラマがやっていた。
トカゲ人間を追い詰めるというドラマ。
>>458 一部の、古ぼけた物事を好む学芸会の者達が、
「最近、数年来、宇宙線の観測が劇的に進行し、千数百年間、巻向にも数限りなく降り注がれた、想像を絶する強大な空気シャワーに含まれる大量の中性子が、地表付近の桃の種や壺の吹きこぼれを構成する炭素の同位体比率を激変させる可能性を明らかにし、完全に破綻してしまった炭素年代法」という、炭素についての物事を売り上げる者達に、騙され踊り、
箸墓古墳の年代を、卑弥呼の死に合うよう、実際よりも、百年以上、古く発表し、
最後には、笑われ者になってしまい、
さらには、近畿第V様式土器という謎の物体を売り上げていた、大昔のほんの一部の要素でしかない者に、勝手に騙されてしまっていたのだったね。
>>902 それは専ブラが板の仕様変更に追い付けてない一種のバグだろう
>>915 >また奥山が荒らしてるのか
そういう嘘の中傷ばかりしているとお前もいつかバンくらうぞ
>>908 >だからあ、誰が規制されてるんだい?
ザラコクだろ?
>他のスレ、板では書き込めるが、このスレだけおかしい
>そういう現象だとしたら、、、
連続句点がまたデマを流しているということだな
邪馬台国畿内説を完全に破綻させたのは、一種のバグだろう。
奧山氏は、僕達以外にも、連続句読点を使用している者がいることに、気づいていないのだろうか。
924日本@名無史さん2021/03/30(火) 16:48:45.86
>>908 >だからあ、誰が規制されてるんだい?
ザラコクだろ?
>他のスレ、板では書き込めるが、このスレだけおかしい
>そういう現象だとしたら、、、
連続句点がまたデマを流しているということだな
奧山氏は、他の掲示板にも出没し、卑劣な荒らし行為をしているのだったな。
923日本@名無史さん2021/03/30(火) 16:46:11.87
>>915 >また奥山が荒らしてるのか
そういう嘘の中傷ばかりしているとお前もいつかバンくらうぞ
邪馬台国候補となる条件(仮)
・実際には完全に間違えだったことが判明した、「方形周溝墓があったのだ」という早とちりの誤認と同時に、「溝との切り合い関係があるから、観光用の着ぐるみのモデルとなった卑弥呼の時代の物体なのだ。」と発表された「穴の跡」がある。
・ジグザグに掘り進められた深さ2mの溝がある土壇場の上で、卑弥呼は桃とカエルを食いながら木の面をつけて全裸で踊っていた。
・おそらく方形で、数十センチメートル程の深さに掘削された、5世紀末以降に出現した「SX-1002」と完全に平行に隣接し、「SX-1002」との関係性が強く疑われるが、
謎の勢力に、謎の勢力が作製した観光用の着ぐるみのモデルとなった卑弥呼の時代である3世紀前半に立てられたのだ、と断定されてしまった「建物C」の痕跡が発見された。
・時速6kmで通勤途中の女に抜かされながら、中国人が、難波から1月かけて辿り着く。
・カエルの骨は溶けないが、鉄は溶ける地域である
・魏志倭人伝時代が終わった後に吉備から西日本各地に伝来したが、庄内式と名付けられたので、「畿内から九州に伝来したという誤認をされている」土器が埋まっている。
・中国から飛んできた砂よりも軽い花粉が発見される。
・中国の骨董屋で売りに出された鏡と同じ4世紀の国産鏡が4世紀以降の古墳に埋まっている。
・火星との交易が盛んだった地域である
・人民の住居がない。
・対馬の真東にある。
・古墳を積み上げる土方のための大下水道がある。
・布留式という式の土器の時代に5世紀の馬がいる。
・最初に、相撲が始まった地域である。
・4世紀に朝鮮半島で捕獲、連行された馬によって積み上げられた前方後円型の物体がある。
・奴隷の死体を乗せる4世紀の埴輪が、発見できた。
・冬は大雪だが、一年中、裸足で駆け回り、一年中、生野菜が食べられる。
・卑弥呼の着ぐるみに自治体の予算が出る。
・自治体が自称考古学者に給料を払う。
・自治体が観光を活発化しようとして財政が破綻寸前。
・若者達が、自治体の方針にうんざりしているだけではなく、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎることや、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎる割には、教育水準が高まらないことに不信を抱き始めている。
・奥山氏の鬘は、海外交差編年のように、ズレる。
>>927 >奧山氏は、他の掲示板にも出没し、卑劣な荒らし行為をしているのだったな。
だから、そういう何の根拠もない中傷ばかりしてる九州説が信用無くなるわけ
>>929のような自分の行いを顧みない低脳って畿内説か奥山ぐらいしかいないよな
スレ住人から、お前の信用なぞイラネーと思われてる畿内説宣伝係代表の奥山あわれ
>>930 結局また何も証拠なく
中傷しかしてない九州説
それにしても、
ほんとーに
>>1よりも凄い話(不明)ばかり。
〜中国(大陸のほう)のほうから来たみたいな説を唱えている人もいたり。
>>932 これお前じゃねぇのか?
60 学籍番号:774 氏名:_____ 2021/03/30(火) 17:45:22.39 ID:LRhbHK7Y
通報してくれて結構。
俺は精神病患者だから、
捕まらない。
老婆談があるでしょ、
ほとんど合致しているから、おかしいな?と思っている人もいるはず。
『諸蕃』〜『蕃神』?
「王母〜聖造」画像を調べると、
『上帝』このような画像も出てきたりw
自分の家で何かを作ったりして祀っていた、
広めたりしていた家(ほんとーの)なのかな。
ほとんど同じような話(画像)も出てくる。
やはり、そうだろうな・・・みたいな話ばかり、
(例)『倭の五王』よりも上。
>>935 そんなふうに
何の理由もないことを言い張り続けるのは
九州説の常
例w
王母〜の人物関係とか、
ほんとーは中国(大陸)の話なんだろう。
日本の????の話ではない。
老婆も、そうだったしな、
日本のテンノウ?(最近のメディア、テレビなどの話)みたいな反応。
どういう事なんだろう。
たまにやっているでしょ、テレビにも出てきたり。
観ているときも、
例:「軍司川俣」「仏教」
(とある画像)みたいに横になって、寝ながらテレビを観ていたり、あのような顔ではないけど。
「?」ほんとーに、
ダレソレみたいな反応(とくに何もない、反応もしない)
それとも何かが入れ替わったり(不明)している?
・・・おかしな話ばかり。
そういう説を唱えている人達もいる。
とあるスレには、
家の老婆自身が何かの家(旧姓わたなべ)なんだろう?と考えている人もいた。
当時の弟子(?)みたいな家で。
〜太子(?)とかいるでしょ、その女の人の呼称・・・。
家の老婆は、王母〜の家の、弟子みたいな家。
正確には部屋なんだけど、
当時、住んでいた家に何かの凄い刀(剣)があったとか、
そういう話もしているし。
例:小手子の像、この周辺の話。
その像の人物より、そこの周辺に住んでいる人々(一般人?)のほうが上。
日本の話。
どう考えても一般人(不明)のほうが上。
〜中国〜朝鮮〜から来た人々のほうが、ほんとーの家の人々。
実際は、とある時代からみたいな話ばかり。
正確には、当時の日本に天皇(天王)は、いないという話。
ほとんど、とある時代になってから、ホンモノは渡来系。
なんで知っている人達がいるんだろう。
もともと日本のテンノウは、
部落(不明)の何かなんだろうという話をしている人達もいるし。
それと中国(中華)があって・・・・、その下の?部落のTOP?
例『クレクレタコラ』も、
そう(?)だという話をしている人がいたり。
『老いたるスサノオ』
なぜか同じような話ばかり。
『2ch 偉人 南蛮千治』〜『何番煎じ』
家の周辺の談(している人がいるでしょ)、
あの人物は、テンオーの一人なのかな?なぜか、そのような気がする。
テンノーの一人(不明)なんだろう?
木材、建築関係の話もしているし。
よく来た、お前が何々(仕官、当時の軍人?)なのかみたいな話もしているし。
ガンダムの話でも、なさそう。
老婆も同じような話をしていたw
近代の戦争?行こうともしたようなとか。
相撲の話もしているでしょ、とある談、読んでみた?
むかーしの何かの家?とある時代から〜〜〜〜〜一般人になっていたりした家。
>>958 とりあえず纏向という文字が消えるらしい
新スレ立てました。
http://2chb.net/r/history/1617105719/l50 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
家来の川崎東北菅野が妄想をほざいているな
東北菅野 天皇の家来
百済菅野 天皇の家来
日本の天皇と外国の天皇は無関係
まあ次回の教科書改訂で九州説が消えることはないだろうけど
10年後には消えててもおかしくないな
というか消える可能性大
362本当にあった怖い名無し2021/03/26(金) 10:07:31.03ID:pIfLLd4j0
5000兆円くらいで良いと言っているだけ、損害(〜侵害)〜みたいな話。
ほんとーは、ほとんど家の話、とある創作、漫画にアニメ〜とか。
711 :本当にあった怖い名無し:2021/03/26(金) 23:37:47.73 ID:LAE/IGeM0.net
>>362 お前の妄想だろ
親も違うと言っている
スカン貧野サ欺トシ
589本当にあった怖い名無し2021/03/23(火) 02:15:57.55ID:Gc+MHLUj0
家の父親、母親によると『』『』『』『』・・・『』、
このような作品とか、作る?作ったという記憶もないし、聞いたこともないwとか。
悪く言うと、すとーかー?がいるのかな。
統合失調症
妄想
妄想とは、ほかの人にとってはあり得ないと思えることを確信してしまうことです。周りが違うと説得しても受け入れられません。
たとえば、何でも自分に関係があると思い込む「関係妄想」、
周囲の人が自分を陥れようとしていると思い込む「被害妄想」、
見張られていると思い込む「注察妄想」など、様々なものがあります。
連句点が立てた別板のスレがID表示なんで
連句点が複数端末持ちであることが確定
244日本@名無史さん2021/02/03(水) 23:34:00.60
コンプレックスをこじらせて頭がおかしくなった川崎ボロ平屋おじさん
統合失調症
思考内容の障害(妄想)
被害妄想:「近所の住民に嫌がらせをされる」「通行人がすれ違いざまに自分に悪口を言う」「自分の体臭を他人が悪臭だと感じている」などと思い込む
関係妄想:周囲の出来事を全て自分に関係付けて考える。
注察妄想:常に誰かに見張られていると思い込む[30]。
誇大妄想:自分は実際の状態よりも、遥かに裕福だ、偉大だ、などと思い込む。
宗教妄想:自分は神だ、などと思い込む。
血統妄想:自分は貴人の隠し子だ、などと思い込む。
関連語に妄想着想(妄想を思いつくこと)、妄想気分(世界が全体的に不吉であったり悪意に満ちているなどと感じること)、
妄想知覚(知覚入力を、自らの妄想に合わせた文脈で認知すること)がある。
また、上記の妄想に質的に似ているが、程度が軽く患者自身もその非合理性にわずかに気づいているものを「 - 念慮」という。
>>965 おいおい今さらw
皆さんPCと携帯だろ
阿波も2種類だろ
これ、奥山だろ?w
63 名前:学籍番号:774 氏名:_____[] 投稿日:2021/03/30(火) 17:53:32.15 ID:LRhbHK7Y [32/33]
今、大学に行く価値ねえよ。
オンライン授業だし、
情報は、医師などのPDFなどを含めて、
一切、
インターネット上にあるからな
大卒ニートな
NHK大河ドラマ
「卑弥呼」
近畿説で構想があるかもね?by
ヒロインは、渡辺直美さんだな。
三国志での貂蝉役 面白かった by
連句点とザラコクがいなくなると書き込みがガクッと減るという揺るぎない現実
>>978 とか決めつける理由は?
もしかして
連句点とザラコクの荒らしを苦々しく思ってる人間が一人だけでないと
立場的に困る人なの?
【捏造体質の考古学】畿内派による印象操作「纏向遺跡の建物は祭祀場であり、大量の桃がお供えされた」
しかし桃の種が発見されたのは柵列の下の別の遺構
建物と桃の種は時代も異なり関連性は無いと思われる
>>980 いつもガセネタ捏造して考古学を中傷ご苦労様
実際は九州説を貶めてるだけ
>>984 また理由もなく中傷しているな
九州説だろう
理由を言わないから
>>983 >報告者が1名ですからw
報告者って誰?
>>988 また何も根拠なく決めつけてる
九州説の脳足りんさんかな
>>993 >2世紀だろバカw
そんな調査結果は出ていない
桃の種は新しい方の年代を発表し、ホケノ山古墳の小枝は古い方の年代を発表する畿内説は捏造考古学者の温床w
>>997 纏向の建物と桃の種の話
なんでホケノが出てくる?by
>>998 ホケノ山古墳は4世紀濃厚では?
「樹齢が15年ぐらいの細い木を測定対象として、いわゆる古木効果が入らないように注意深く試料を選んだ。
これだと、再利用したものではないし、風倒木でもないと言えるので、炭素14年の誤差も15年以内に収まる。」
纏向の桃の種
「桃の種について、放射性炭素(C14)年代測定を実施したところ、西暦135〜230年とみられることがわかった。
市纒向学研究センターの最新紀要で報告された。2018/05/14」
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