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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://2chb.net/r/history/1580148907//
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
(承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと
。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。
畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
纒向大溝建築材実測図
矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半〜中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。
湖南省西晋墓陶俑図
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代)
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
(承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆 ・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
九州説にとって不利な条件と言える。
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。
倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(漢書西域)
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
(承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀)
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。 ◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。
生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
もとより倭人伝は倭人の国々を
1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰)
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。 ◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
東漢にあっても普通に食用であった。
「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。
◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。
纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。
纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。
以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
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以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし
>>1 大型建物群と言うから誤解されてると思う。
柵に囲まれた大きなお屋敷(棟数3?4?)と表現すれば分かりやすいのでないでしょうか?
例えば
「敷地面積??平米で東西整然と4棟(内1棟は当時最大級)並び柵に囲まれている、大きな屋敷」
重要人物が居住していたと考えられる。祭器に使われていただろう3世紀の遺物も出土。
卑弥呼の宮殿ではないかと推測できるとか・・・
根本的に巻向は王都とは思っていませんが、くだらん助言失礼
完全に破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の奥山氏が、無職の強味を活かし、真夜中にスレッドを作成したのではないのかな。
四国旅行は楽しみだ。
目的は徳島だが、他にもいろいろ回りたい。
僕(王)がついに来る。女王に会いに。
君達、準備しときなさい。
>>79
大吉野川を阿波市岩津で眺望することをお勧めします。
岩津は、天孫降臨・神武東征のポイント地点。 @阿波 で、纒向には何戸の建物があった?
魏志倭人伝では卑弥呼の宮城には千人の下女がいたことになっているのだが?
巨大都市とやらの纒向の広大なエリアに、何戸あった?
(それってもう「纒向」じゃないじゃんとも思うがw)
>>989日本@名無史さん2020/01/29(水) 19:37:06.98
>弥生時代の竪穴住居から見れば大型建物だよ
吉野ケ里遺跡でも柱6本の倉庫群が多数の大型建物とされている<
1、倉庫群地域の中で最も奥まったエリアともいえる場所に、 =地区の中で最も大型の=建物群が並んでいます。
⇒ということで、比較であるから。単発的に大型建物群と表現していない
2、 吉野ケ里遺跡の高床倉庫跡は、4本柱、6本柱、8本柱のものがあり、床面積が20平方メートルを超す大型の建物もいくつか存在する。
⇒ということで、倉庫としては大型であり、住居とは言っていない
2018フォーラム 寺澤所長は箸墓撤退を表明し橿考ホケノにおっかぶせて逃亡
972 :日本@名無史さん:2018/10/15(月) 18:15:57.69 .net
纒向フォーラム
>渡辺義浩・早稲田大教授(中国古代思想史)は、魏の文帝が「寿陵)は自然の山を利用し、樹を植えてはならない」、
などと定めたことを紹介し、「魏の使者は、卑弥呼の墓を見て中国の墓制にのっとった墓だと思っただろう」などと話した。
>その後、センターの寺沢薫所長の司会で4人が討論。箸墓古墳が卑弥呼の墓だとする見方に対し、
>寺沢所長は、桜井市のホケノ山古墳など、箸墓以前に築造された古墳のいずれかだと主張した。
>>84 またニセ情報流す腐れ九州説
寺澤は20年前から「箸墓は次の男王の墓」説
>>989日本@名無史さん2020/01/29(水) 19:37:06.98
>弥生時代の竪穴住居から見れば大型建物だよ <
、
竪穴住居の多くの例が20平方メートルから30平方メートル前後の規模である
竪穴住居との比較はしたくないが、
大型と言うとすると・・・建物Bは✖ 建物Cは▲ 建物Dは◎
卑弥呼級の古墳がゴロゴロあった?
おかしいだろ。
寺澤をはじめ、畿内説はもうガタガタなんだよ。
>>938 >そして、自女王国以北という表現が二つあるが、その二か所は女王国=ヤマト国
これが基本 <
「南≠東」などに拠って、×。
朝倉のとっつあんも、あいかわらず元気だねえ。
邪馬台国の怪:今後の講演会予定
■
3月22日(日)
@饒速日の命の東遷と邪馬台国の東遷
A『先代旧事本紀』の謎
■
4月26日(日)
講演テーマ未定
■
5月24日(日)
講演テーマ未定
■
6月28日(日)
講演テーマ未定
>>980 「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説の連中は、
うそを書くことにためらいがないから困る
>>74 >例えば
「敷地面積??平米で東西整然と4棟(内1棟は当時最大級)並び柵に囲まれている、大きな屋敷」
重要人物が居住していたと考えられる。祭器に使われていただろう3世紀の遺物も出土。
卑弥呼の宮殿ではないかと推測できるとか・・・<
「卑弥呼の宮殿」説は、
「南≠東」に拠って×だし、
3世紀最末期〜4世紀であるから×だし、
大和は九州倭国の別種の旧小国であり、
「東征毛人五十五國」の中の一国であることからも、×。
>>92 >箸墓は畿内説では誰の墓が定説なの?
誰って、倭人伝じゃなくて記紀の誰がの名前を出すという意味なら
そういうことをする人はほとんどいない
>>93 そのお経を反論だと思う人も、もういないんじゃないかな
>>83
>>吉野ケ里遺跡でも柱6本の倉庫群が多数の大型建物とされている<
>1、倉庫群地域の中で最も奥まったエリアともいえる場所に、
=地区の中で最も大型の=建物群が並んでいます。
⇒ということで、比較であるから。単発的に大型建物群と表現していない
2、 吉野ケ里遺跡の高床倉庫跡は、4本柱、6本柱、8本柱のものがあり、
床面積が20平方メートルを超す大型の建物もいくつか存在する。
⇒ということで、倉庫としては大型であり、住居とは言っていない <
ふーん、成程。 ずいぶんマキムク王都説が揺らいできたな
やはり古墳造営キャンプ地で押したほうが貴重な遺跡になっただろう
古墳ミュージアムとか作って、古墳の作り方とか、道具、作業の様子のミニチュアとか
大和の古墳群のミニチュア立体地図とか展示、すれば脚光をあび観光客も増えると思うがな
>>88 >じゃあテンプレも修正しろよ。
なにを何と?
そして、修正する理由は?
九州説の人は主張が漠然としてて内容がよくわからない
>>94 すると卑弥呼の墓かどうかは不明?が畿内説の定説?
>>97 >ずいぶんマキムク王都説が揺らいできたな
そんなこと思う理由は?
ただの願望?
それは、むなしいな
>>84 >纒向フォーラム
渡辺義浩・早稲田大教授(中国古代思想史)は、
「魏の文帝が「寿陵)は自然の山を利用し、樹を植えてはならない」、
などと定めたことを紹介し、
「魏の使者は、卑弥呼の墓を見て中国の墓制にのっとった墓だと思っただろう」などと話した。<
何だ?、「渡辺義浩・早稲田大教授」も、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの教授であったのかい?。
やくざ暴力団詐欺師のような、レベルの低い大学だな。
>その後、センターの寺沢薫所長の司会で4人が討論。
箸墓古墳が卑弥呼の墓だとする見方に対し、
寺沢所長は、桜井市のホケノ山古墳など、箸墓以前に築造された古墳のいずれかだと主張した。」
寺澤が、どこの大学であったのか?は、関心もないし知らんが、
いずれにしても、「卑弥呼大和説」なんだから、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの、
・・・・アホ詐欺師であった事にな変わりがない。
>>98 21 ◆n7jxAxKCBhb6 2020/01/30(木) 01:53:30.98
◆1(女王所都)
(中略)
>この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の
>花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
>ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、
>箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
>>85 >またニセ情報流す腐れ九州説
寺澤は20年前から「箸墓は次の男王の墓」説<
また、「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説や寺澤を弁護し、
ニセ情報流す、
・・・・アホ詐欺師の腐れ大和説者。
>>98 31 ◆n7jxAxKCBhb6 2020/01/30(木) 01:54:03.34
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
>前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、
>歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。
>したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
>>103 判定基準は平均的な弥生期の竪穴住居の面積
>>98 >101日本@名無史さん2020/01/30(木) 08:57:56.30
>纒向フォーラム
>渡辺義浩・早稲田大教授(中国古代思想史)は、
>「魏の文帝が「寿陵)は自然の山を利用し、樹を植えてはならない」、
>などと定めたことを紹介し、
>「魏の使者は、卑弥呼の墓を見て中国の墓制にのっとった墓だと思っただろう」などと話した。
箸墓は自然の山か、そんなことはないだろう。定型化古墳だとかなんとか威張ってたくせに???
渡辺義浩・早稲田大教授(中国古代思想史)は、
「箸墓は卑弥呼の墓ではない」と断言しているに等しいではないか。
こうも畿内説に疑問や否定の投稿が多いのは何故だ
三人寄れば文殊の知恵じゃないが、奥山一人じゃやり込められるよ
奥山 仲間いないの
>>110 魏文終制の不封不樹は中国の伝統的な墓制ではない革新的なニューウェーブ系なのだが?
タイトルを邪馬台国ヤマト説に変更するべし
山城摂津和泉河内が邪馬台国であった根拠はない
>>113 当時はそういう時代だった、
そして卑弥呼の時代は其のニューウエーブの真っただなかにあった・・、ということだろう。
時代に逆らって消えた人もあれば、流れに乗って勢力を伸ばし、金印紫綬の栄に浴した卑弥呼のような人物もいたのさ。
>>94 >>箸墓は畿内説では誰の墓が定説なの?<
>誰って、倭人伝じゃなくて記紀の誰がの名前を出すという意味なら
そういうことをする人はほとんどいない <
「記紀の人物」の名前を挙げるんなら、まだ僅かに確率はあるが、
倭人伝の名前を挙げるのは、「南≠東」などに拠って、確率は殆ど0であり、
その「畿内説」学者は、全員・・・・詐欺師の×学者。
邪馬台国畿内説の渡邉義浩先生を九州説にしようとしている愚か者がいます。
渡邉義浩教授は、又の名を狐狸庵先生というそうだ。
てっきり畿内説、と思い込んでいると一筋縄ではいかぬぞ、、。
>>95 >そのお経を反論だと思う人も、もういないんじゃないかな<
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しを肯定するような人間は、
始めから、脳が皇国史観でおかしくなってしまった・・・・アホ人種であり、
説明して上げても、治癒する可能性は殆ど0%であり、
だから、私は、国民から、これ以上、
嘘つき騙しの大和説学者らやマスコミや5chや政府などに騙される人が出ないように、
若い子供や学生らも、これ以上騙されないように、
死ぬまで、投稿し続けるの。
>>98 >>じゃあテンプレも修正しろよ。<
>なにを何と?<
「卑弥呼大和説」説を撤回すると。
>そして、修正する理由は?<
「南→東」の大和説は、嘘つきだから。
>九州説の人は主張が漠然としてて内容がよくわからない<
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説者は、
都合の悪い事は、知らん振りして判らん振りして、
善人ぶって世間の人々を誤魔化して、騙そうとする。
>>120 で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?
>>120 で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?
>>120 で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?
>>120 で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?
渡邉義浩先生が言った。
中国の歴史書は日本のために書かれたわけではない。
三国志は正統性を示す歴史書で正しいことが書かれているわけではない。
三国志では邪馬台国は戦略的に呉の東方海上にあるべきだとされた。
>>120 で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?
>>120 で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?
>>120 で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?
>>100 >>ずいぶんマキムク(卑弥呼の)王都説が揺らいできたな <
>そんなこと思う理由は? ただの願望?<
寺澤が、離脱したから。
>それは、むなしいな<
何時までも「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・アホの、
「纏向=卑弥呼の王都」説から逃れられないこの男や、大学教授クラスや、
右翼マスコミや、文部省は、むなしいな。
>>112 >こうも畿内説に疑問や否定の投稿が多いのは何故だ
九州説に異常にヒマで偏執的なのが約2名いるから
>>104 >この地に、青銅鏡や武具、<
ホケノなどの3世紀最末〜4世紀であり、卑弥呼の時期ではない。
>新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、<
4世紀以後である。
>列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、<
年代特定困難である。
>中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。<
「南≠東」などに拠って、×である。
>ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、
箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、
ここ纒向が女王の所都である。<
「南≠東」などに拠って、×である。
>>119 >死ぬまで、投稿し続けるの。
早めにおながいしまつ
>>111 佐原真「縄文・弥生時代の住まいと村」金関恕・春成秀爾編
>>129 >>>ずいぶんマキムク(卑弥呼の)王都説が揺らいできたな
>寺澤が、離脱したから。
そういうニセ情報を平気で流すから
九州説の評判がダダ下がりになる
>>111 これでもいいよ
日本大百科全書・・竪穴住居[樋口昇一]
>>135 まず 寺澤氏が箸墓を卑弥呼の墓としていないのは痛いな
径百歩だけじゃ無理筋ということだろう
また、巻向が大集落と言ってる学者が多い中住居跡がわずか
スレ主にいたっては、巫女千人・兵は通勤と言う
その他 いろんな問題点を抱えているマキムク王都説
>>135 まあ最晩年にいたった九州説老人の朦朧とした脳内には
畿内性の学者が次々と屈服して転向していくという
甘美な幻想がふわふわ湧いてるんだろ
現実は彼らには過酷だからね
>>138 >まず 寺澤氏が箸墓を卑弥呼の墓としていないのは痛いな
べつに痛くない
彼が寿陵主義なだけで
確固たる根拠があるわけでないから
>>138 >また、巻向が大集落と言ってる学者が多い中住居跡がわずか
と言ってる学者、いないよね?
>>138 >その他 いろんな問題点を抱えているマキムク王都説
それを問題だと言ってる学者がいないのは、なぜ?
方書きで判断するのはいけないが 敢えて
奈良大学教授の酒井龍一氏の古墳造営基地に好感がもてる
石野氏、寺澤氏のような地方自治体の職員研究家とは格がちがう
>>107 >◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、
後世の遷宮との関連も考えられるが、
歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。
したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。<
掘立柱建築の傍の土坑から、3世紀最末〜4世紀の庄内3が出た、という事は、
掘立柱建築の廃絶も3世紀最末〜4世紀以降であった、という事であり、
卑弥呼の死の3世紀前半末とは離れ過ぎであり、
石床などの補強のない掘立柱建築では数十年位しか持たず、
卑弥呼の活動期とは全く重ならない。
>>143 >奈良大学教授の酒井龍一氏の古墳造営基地に好感がもてる
前世紀の説だろ
>>142 マキムク互助会の学者連中はそうだろうな
現段階で住居跡が少ないのは認めてるというか事実
今後の調査でどうなるか分からないが、現時点では大集落と断定できない
>>115 >当時はそういう時代だった、
そして卑弥呼の時代は其のニューウエーブの真っただなかにあった・・、ということだろう。
時代に逆らって消えた人もあれば、
流れに乗って勢力を伸ばし、金印紫綬の栄に浴した卑弥呼のような人物もいたのさ。<
「南≠東」などに拠って、大和説は×。
>>144 >掘立柱建築の傍の土坑から、3世紀最末〜4世紀の庄内3が出た、という事は、
その年代が世間常識と離れすぎだから
反論として成り立ってないよ
しかもその年代、根拠ゼロだろ
>>117 >邪馬台国畿内説の渡邉義浩先生を九州説にしようとしている愚か者がいます。<
邪馬台国畿内説というような存在もしなかった「邪馬台国」や「畿内」という文言や、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しで、
国民や学生を騙して大和説者にしようとする、
早稲田大学の渡邉義浩のような愚か者の教授もいます。
僕は九州の人間なので、
ずっと九州だと思ってました
しかし、考古学的に調べてるうちに
九州ではないとはっきり分かりました。
もちろん畿内でもない。
>>150 >僕は九州の人間なので、
>ずっと九州だと思ってました
「九州の学者で九州説なんていない」(九州の某学者)
実際はひとりふたり居る
>>146 >今後の調査でどうなるか分からないが、現時点では大集落と断定できない
あんた以外はもう全員断定してなくないか?
朝鮮が起源でないことは、日韓併合で簡単に韓国が併合された事実だけで充分だw
大阪府立近つ飛鳥博物館
ZONE2「古代国家の源流」 b.古墳造営のムラ
いくつもの巨大前方後円墳を築造した人々はどのような生活を営んでいたのでしょうか。
ここでは
古市古墳群で確認された古墳造営キャンプと目される遺跡と、
古代の大型運搬具、
「修羅」の使用を重ね合わせ、巨大古墳造営の具体的な様子に迫ります
>>153 断定していない
「と考えられる・ と思われる」 の学者が殆ど
>>125 >渡邉義浩先生が言った。
中国の歴史書は日本のために書かれたわけではない。
三国志は正統性を示す歴史書で正しいことが書かれているわけではない。
三国志では邪馬台国は戦略的に呉の東方海上にあるべきだとされた。<
いや、魏志倭人伝は、「同時代の魏の役人たちの実地の見聞計測」の記録が元になっており、
それに陳寿の判断が少し加えられたものであり、
「三国志では邪馬台国は戦略的に呉の東方海上にあるべきだ」なんて全くなく、
「殆ど正しい正確な情報」なのであり、
この投稿文を見ても、渡辺という早大教授という人物の人間性が、
「魏使らや陳寿の記載が自分の大和説に都合が悪いから否定抹殺しよう」
としている、一種の・・・・犯罪者的な詐欺師であったんだろう、という事になる。
>>157 >古市古墳群で確認された古墳造営キャンプと目される遺跡<
大和にもあるよ
古墳造営キャンプ地と目されるマキムク
>>150
>僕は九州の人間なので、
>ずっと九州だと思ってました
それでいいよ いろいろ自分なりに研究するといいよ >>160 学者の著書読むか発言を自分で調べろ
人任せにするな
それで否定するなら構わないけど
>>162 酒井は生きてるが纏向キャンプ説は死んでるだろ
>>161 >奥山の断定病w
奥山じゃないし
>>158で
>断定していない
>「と考えられる・ と思われる」 の学者が殆ど
と断定しといて証拠を求められたら罵って誤魔化す
九州説が断定病でしょ
纒向は卑弥呼に率いられた兵の巨大な駐屯地
対狗奴国の前線基地
兵を率いるのは巫女の仕事
兵、巫女、櫛、鏡、き
>>168 前世紀に出版されたきり新しい論文ないから
説として死んでる
>>164 >古市古墳群で確認された古墳造営キャンプと目される遺跡<
>大和にもあるよ
古墳造営キャンプ地と目されるマキムク<
そうだろうな、いままで大和にあんなに大きな古墳群があるのに古墳造営キャンプ地がみつかってなかったもんな
喜ばしいことだと思うよ
江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間
589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。
江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。
>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。
>
> @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
> ロングハウス式高床建物
> A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
> 木骨泥墻・環濠村
> B石家河期(前2600〜前2000年)
> 木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html 江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間
589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。
江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。
>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。
>
> @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
> ロングハウス式高床建物
> A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
> 木骨泥墻・環濠村
> B石家河期(前2600〜前2000年)
> 木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html 江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間
589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。
江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。
>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。
>
> @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
> ロングハウス式高床建物
> A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
> 木骨泥墻・環濠村
> B石家河期(前2600〜前2000年)
> 木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html 江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間
589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。
江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。
>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。
>
> @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
> ロングハウス式高床建物
> A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
> 木骨泥墻・環濠村
> B石家河期(前2600〜前2000年)
> 木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html 江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間
589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。
江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。
>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。
>
> @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
> ロングハウス式高床建物
> A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
> 木骨泥墻・環濠村
> B石家河期(前2600〜前2000年)
> 木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html 江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間
589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。
江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。
>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。
>
> @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
> ロングハウス式高床建物
> A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
> 木骨泥墻・環濠村
> B石家河期(前2600〜前2000年)
> 木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html 江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間
589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。
江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。
>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。
>
> @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
> ロングハウス式高床建物
> A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
> 木骨泥墻・環濠村
> B石家河期(前2600〜前2000年)
> 木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html >>171 古墳時代政権交替論の考古学的再検討
(課題番号:20320122)
平成20〜22年度科学研究費補助金
基盤研究(B)研究成果報告書
で、酒井氏の古墳造営キャンプ地説について触れてるよ
未だに通用する論ではないかな
奈良盆地は単なる古墳置き場だったんだよな
しかも4世紀以降
邪馬台国とは無関係だな
>>173 >訂正する必要が無いからだろww
その後に大型建物とか導水施設とかいろいろ見つかってるのに訂正しなかったら、説として確実に死んでいる
>>182
>奈良盆地は単なる古墳置き場だったんだよな
そんなことが出来るのは、倭国(阿波)だけ! @阿波 最初は倭国が滅ぼした大物主の魂の、倭国による鎮魂と封印の場所だったのが、鎮魂と封印の係長である天皇家の祖先の墓場に変化していったのだったな。
182日本@名無史さん2020/01/30(木) 12:40:40.61
奈良盆地は単なる古墳置き場だったんだよな
しかも4世紀以降
邪馬台国とは無関係だな
つまり、邪馬台国畿内説は、朝鮮民族による捏造だったのだね。
>>186 日本書紀を読めば、倭国が銅鐸王国を滅ぼしたことも、倭国の者が巻向で大物主を鎮魂したことも、明記されていることが分かるのだったな。
>>188 日本書紀には、九州に本部があった倭国の者達が、奈良盆地を侵略したことも、明記されているのだったな。
朝鮮民族の民族運動である邪馬台国を宣伝している朝鮮人の奥山氏が、またしても、完全に論破され、討論での反論を諦めて、敗北宣言の意味にしかならない、嘘の悪口を言い放ってきたな。。。
191日本@名無史さん2020/01/30(木) 13:57:16.82
九州説の発狂は続く
>>192 「朝鮮民族の民族運動である邪馬台国を宣伝している朝鮮人の奥山氏が、またしても、完全に論破され、討論での反論を諦めて、敗北宣言の意味にしかならない、嘘の悪口を言い放ってきたな。。。
191日本@名無史さん2020/01/30(木) 13:57:16.82
九州説の発狂は続く」
という文章は、
「朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の発狂している奥山氏が、またしても、完全に論破され、討論での反論を諦めて、敗北宣言の意味にしかならない、嘘の悪口を言い放ってきたな。。。
191日本@名無史さん2020/01/30(木) 13:57:16.82
九州説の発狂は続く」
とタイピングしたかったのでは、ないのかな。
>>184 >その後に大型建物とか導水施設とかいろいろ見つかってるのに訂正しなかったら、説として確実に死んでいる<
ますます、古墳造営キャンプ地の可能性が高まったのだよ
大型建物・・斎場
導水施設・・古墳づくりの資材等の運搬
江南野郎ども うぜー
よそでやれよ
邪馬台国となんの関係があるの
太伯の末裔を自称した人々、古い渡来人、邪馬台国の人々の子孫はつぶやきさんの言う通り東北にいるんじゃないかな。蝦夷の元。
太白、太伯信仰、オシラサマ信仰も色濃く残るし
奈良にも黒塚古墳はあるが、黒塚伝説は東北の伝承だし
奈良は東日本勢力が半島からの天下りを受け入れた場所なのだろう
産経新聞(2018.11.28)
最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html 〜 大陸から来た渡来人の重要施設とみられる国内最大級の 〜
建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。
〜 省略
白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長(考古学)は、建物の時期についてはさらに
検討が必要としながらも、「(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが営んだ重要な
施設があったことは間違いない」とみている。
朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の発狂している奥山氏が、またしても、完全に論破され、討論での反論を諦めて、敗北宣言の意味にしかならない、嘘の悪口を言い放ってきたな
奈良に攻めてきて邪馬台国を作ったが後に東北に追いやられたのかもな
>>201 朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の発狂している奧山氏の嘘の悪口が、続いているね。
194日本@名無史さん2020/01/30(木) 14:20:48.46
まだ続く
説明不要、
漫画やアニメ、ゲーム・・・ほとんど、同じ設定。
奈良は半島で捕獲し連行した奴隷の文化を受け入れた場所なのだったな。
その後の歴史などがあるんだけど、知らないんだろう?
みたいな事を言っている人もいるしw
邪馬台国のスレの話ではないんだけど。
>>205 古墳を作製するために、朝鮮半島からの大量の奴隷を必要としたのではないのかな。
新羅本紀という文章では、倭人は、新羅で人民を捕獲していたのだったな。
だから精神病院に行けと言っているんだよ、
何度、言えばわかるんだ。
朝鮮民族の民族運動では、新羅本紀を嘘だというのだったな。
やはり、朝鮮民族の奧山氏が、激怒したね。
209日本@名無史さん2020/01/30(木) 16:16:58.64
だから精神病院に行けと言っているんだよ、
何度、言えばわかるんだ。
>>211 それは呟き荒らしの投稿だから、あんたが書いたんだろ?
きちがいの・・・一派wなぜだと思う?
例えば
>>1のような類の話など信じていない・・・みたいな人物がいたりするでしょ。
『サムライ・トルーパー』
でもなんでも良い、wikiなどを読んでみた?
そういう話に繋がるし、古代中国の話(人物)が出てきたりw
誰が作ったのか、しらないけど、謎のチェーンソーのゲームとか。
『サムライ・トルーパー』
なぜか、女のキャラが三人出来て・・・という話。
『チェーンソーのゲーム』
『ドンバ』?
以前から書いていることなんだけど家は
『鳳輿』?このような名前の家、あの写真も。
奥山 24時間貼りついてるな
感心感心 概ね特定できるようになったが
外の空気も吸ってきたり、人との交流とか、家族サービスとか運動しないの??
病気になるし、見聞も広がらないよ
ついでに
奥山 つぶやき何とかならんか?
荒らしの一番手なんだけど・・・・・
>>181 >古墳時代政権交替論の考古学的再検討
・・・
>で、酒井氏の古墳造営キャンプ地説について触れてるよ
>未だに通用する論ではないかな
触れてない
デマ
九州説といえば、デマ
w
『サムライ・トルーパー』w
・・・観たことないから、わからないんだけどw
一刀両断のようなシーンもあるし。
『チェーンソーのゲーム』
なぜか『ドンバ』・・・・・・・・・・・・・。
>>224 その通りだが、難しいかな
テンプレで100レス、名無し、つぶやきと素数が約150レスづつと言うところかな
ザラコクも多いが 南≠東を論破できる畿内説の学者もいないからしょうがいない
キウスの投稿数は100かな(アンチまきむくの投稿から)
だろう
連続句読点は、良いことも投稿するが朝鮮人連呼
@阿波は、畿内説で言う阿波板の奥山
あと、知らないが結構やる九州説論者
そして俺が50レス
これで殆どかな
>>230 >あと、知らないが結構やる九州説論者
見た覚えがない
老婆談wなぜか・・・ジュリエッタとかと同じ話をしているし。
駆け落ち?したんだったかな。
馬に乗っていて・・・、・・・、・・・。
>>207 >>200 畿内説によると、祭祀場がある土地に王が住んでたんだよな
明日香にチョンの有力者が降臨したという事だな
>>230 >@阿波は、畿内説で言う阿波板の奥山 <
ちがう、阿波は奥山より数段上
確実w・・・歌舞伎(むかーしの芸能関係)などが好きだった?とか、
いまの福島県のほうで・・・とか。
当時の写真から考えてもわかる、
何かの制服を着ているし、でも軍人などではないと言っている。
『未来 うらしまん』?・・・・・・・・・・・、
何かの職なんだろうとは思う。
日本ではなく中国〜からの何かだとか?
何かの制服を着ているでしょ、
皿のような帽子、白い制服・・・、ブーツを履いていて。
軍人とか・・そういうものではないと言っているし。
『シェリフ』名誉〜?
そういう仕事(職)をしなくても良いみたいな事も書いてあるし。
『未来 うらしまん』?
住んでいるところは川崎区の南部のほう。
貼り付けた写真なども、家にあると言っているのにw
なぜか、サイバーパンク〜も同じだしな。
>>240 イミフなことしか言えないお前のことだろ
成長できない末期高齢九州説
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
纏向遺跡は王都でも都でもないだろう
定住した痕跡がほぼ皆無でありながら、生活土器だけは大量に見つかると言う状況からして一時的な滞在がされていた場所だというのが自然
ただこれはむしろ畿内の有利な条件
祭祀場や古墳と言う生活に必要のない物をこれだけの空前絶後の規模で築造出来る存在が大和にいたと言う証拠
むしろ纏向の存在一つで他のどんな遺跡も比較対象にさえならないものとして霧消する
生活に必要でない巨大祭祀遺跡という存在は逆にその卓越性の証拠となる
あのよ(╹◡╹)
中国との国交みたいなん大和王朝と吉備王朝どっちが早いと思う?
自分の考えでいいから答えてくれ
>定住した痕跡がほぼ皆無でありながら、生活土器だけは大量に見つかると言う状況
纏向が古墳造営キャンプ場だった証拠だ
>>245
>生活に必要でない巨大祭祀遺跡という存在は逆にその卓越性の証拠となる
倭国(阿波)のね。 わははははは @阿波 弥生時代の奈良盆地が墓地だったというのは証拠が多くて容易いな
邪馬台国と卑弥呼の特徴的な部分は「鬼道」と「共立」
纏向はまさに巨大な宗教施設として現在まで含めても例をみない絶後の規模で突然出現している
更にはここで見つかる祭祀や墓制はそれまでの全国の制度の集大成と言えるような物となっている
呪術によって共立された卑弥呼の存在を示すものとしてこれほど適合するものは他にない
纏向は都などではなく宗教施設であると言う点こそがむしろ重要な部分であると言えるだろう
>>251 その纏向の南に渡来人が祭祀施設作ってんだから結局大和はチョンに乗っ取られたという事だな
>>253 無学九州説事実は本どころかテンプレも読まんのか
>>254 テンプレというファンタジー小説は度外視してるな
学者は
老婆よりも前の世代の話みたいだから「❓」、
このような話ばかり、でも、なぜか、そういう漫画などと同じだしな・・・、
キュウリの葉の写真とか。
当時、家にあったものなども、川崎に持ってきてなかった、
かなり経ってから・・・、荷物などを引き取りに戻った(どこに?)・・・、
そうしたら家にあったものなども、無くなっていて?
もともと纏向周辺は縄文時代から人が殆ど住まない土地で弥生時代の痕跡も見つからない
生活に不要な祭祀場や古墳築造の場所として選ばれるにはうってつけだと言える
この事からも纏向は計画的な意図がハッキリと背後に存在していると分かる
纏向はこれだけの巨大な「無駄な物」を莫大な人員と物資を投じて計画的に作れる存在がいると言う事が分かる証拠
纏向に比べれば他の遺跡などその企画力、経済力、から見ても全く足元にも及ばないと言えるだろう
伝説クラス?
凄い刀(剣)なんかもあったとか。
そういうのも、ほとんど無くなっていた。
>>1=スレ主さんへ 楽しく投稿しています ちょっと荒らしが多いですが
あなたが
名無し投降するのもいいですが
これは学術、物証から離れてると思う時はIDつけたほうが良いですよ
私はそうしてます 後は確信が持てない投稿は名無しですが断定は極力避けてます
奥山無職と騒ぐ方もいますが、、私も代替わりで企業(ささやかな中小企業ですが)
顧問なんて言う役は退き 実質舞台からおります、無職になるんでしょうね
何度も投稿してますが、畿内説は巻向王都説から可笑しな方向に向かっていると思います >>175 >纒向は卑弥呼に率いられた兵の巨大な駐屯地 対狗奴国の前線基地
兵を率いるのは巫女の仕事 兵、巫女、櫛、鏡、き<
「南≠東」などに拠って、×。
向こうで怪しいな不弥国ってのがあるだろ
これが富士のことを指すなら当たりやが
あの辺の古代の名称は不二の国
企業がなんか関係あるんかね?
そゆ肩書き誰も取り上げてないんだがね
「鬼道」と「共立」と言う卑弥呼の存在の前提を考えると
全国のそれまでの祭祀や墓制の集大成的な空前絶後の巨大な祭祀場が
「まさに卑弥呼の時代に」
突如出現する大和はその一つを取るだけで邪馬台国の中心地として最早疑う余地もないだろう
ザラコク?さん
南≠東はあなたの得意技ですが
コメントも付けず、一刀両断はいけないと思います。
あなたが窮したと思われますよ
>>264
>突如出現する
突如出現したのは、倭国(阿波)の先進文化が到達したから。 吉備や出雲より遅いけれどね。 @阿波 >>255 それじゃ永遠に畿内説に反論できないぞ
ずっと負け犬だな
(当時の話w)家にあったものなども、誰かにあげたのか、
それとも近所の人が持って行っちゃったのかな。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
なぜか311の放射能の辺り、濃いところ。
きっ九州説敗北の戦犯と判断されて顧問解雇されたんだろ
>>242 お前は
キナイコシ=奥山確定だなww
24時間貼りつかなよ
>>129 >寺澤が、離脱したから。
何度も書くが、寺澤氏は纏向=邪馬台国の王都説の親玉格
土器編年を重視して箸墓は卑弥呼の墓としては新しいという立場をとるだけで
纏向が邪馬台国の都ではないなどと言ったためしはない
>>246 大和、吉備、讃岐、近江連合のプレ邪馬台国が成立してから中国との外交を始めたと考えてる
その前の大和や吉備と言う個別ではまだ中国と外交する段階になってない
だから質問に対しては「邪馬台国の初期段階になってから」と考えてる
>>133 >早めにおながいしまつ
そんなに長くはないと思うよ
連続句読点もザラゴキも後期高齢者だから、最終解決はもうすぐだ
>>191 >九州説の発狂は続く<
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説者の、
発狂が続く。
>>249 反論しなきゃ
あんたの投稿が無駄になる
>>196 >江南野郎ども うぜー
>よそでやれよ
これ、連続句読点の荒らしコピペだから
ウザがらせるのが目的
奴は普通の人間とは書き込みの目的が違う
そして、朝鮮人連呼は自らの出自へのコンプレックスがその基盤にある
>>230は邪馬台国の会の中の人(石器で矢板)君だろ?ww
>連続句読点は、良いことも投稿するが朝鮮人連呼
こんな感覚の人間はバカ以外にはいない
連続句読点がよいことを書いたことは一度もないぞ
>>273 <何度も書くが、寺澤氏は纏向=邪馬台国の王都説の親玉格 <
石野から引きついただけじゃん
石野も桜井市から離れないし
>>234 >畿内説によると、祭祀場がある土地に王が住んでたんだよな
「国家祭祀は王が行う」以外にないだろうがww
九州には国家祭祀の跡がまったくないから分からないのかな?
>>272 だから誰でも奥山に見えるのはマジ病気だって
病名もついてる
>>245 >定住した痕跡がほぼ皆無でありながら、生活土器だけは大量に見つかる
生活土器が大量に見つかる=定住した痕跡、だぞww
こういう矛盾したことが平気で書けるおめでたい脳みその持ち主以外
九州説には残っていない
>>281 >石野も桜井市から離れないし
意味不明
>>259 >狗奴国なんて呼ばれた地域の記録がないだ
久努国ならあるよ
東海地方に、というか静岡県
>>195 >ますます、古墳造営キャンプ地の可能性が高まったのだよ
>大型建物・・斎場
>導水施設・・古墳づくりの資材等の運搬
脳が死んでるな
古墳時代350年間、どこに斎場なんかあるんだ?
なにトンチンカン言ってる
導水施設は祭祀場だぞ
>>277 >反論しなきゃ
>あんたの投稿が無駄になる
では、筑紫君はどうして八女に古墳群を作ったのかな?
自らの勢力の本拠地に?
古墳造営基地であることが筑紫君の本拠地の在り方なのかな?
>>153 >あんた以外はもう全員断定してなくないか?
大集落「纏向」には何戸の家があった?
ごり押しの寺澤より石野がマシな人間だよ
寺澤の功績は箸墓を卑弥呼の墓としなかった事かな
>>155 >高天原は関東にあった
>鹿島神宮とタケミカズチの神の研究
鹿島神宮は博多湾の志賀島の神なんだけど。
出雲の国譲りで筑紫が王都になるのを助けた功労者だ。
それが関東まで進出しただけ。
>>281 >石野から引きついただけじゃん
>石野も桜井市から離れないし
つまり、九州説を信じる大バカの
>>281も
ザラゴキの言う「寺澤は纏向王都説から離れた」というのが大嘘だと認めるんだね?ww
ザラゴキは嘘インチキデタラメしか言わないし、
根拠なしの捏造を書くことに何の抵抗も感じないサイコパスに通じる他人との
共感性を失った人格
魏石鬼、八面大王と同じやろ
ヤマトを征伐し親魏倭王になった卑弥呼、邪馬台国
卑弥呼亡き後男王の時代下克上が起こり石の国になる
二重の罪を背負った石は後に鬼に
牛鬼伝説と同じ
記紀でいう孝霊天皇の時代
各地に石が牛鬼を倒す伝承が残る
後漢の霊帝、孝霊皇帝と同じようなことが起きたんだろう
>>246 >中国との国交みたいなん大和王朝と吉備王朝どっちが早いと思う?
倭の代表権は筑紫と出雲で取り合っていた。
大和も吉備も、筑紫を差し置いて大陸にアクセスできない。
>>249 >
>>247 >その妄想、連呼してて何か楽しいの?
畿内説のことだよ。
>>251 >纏向はまさに巨大な宗教施設として現在まで含めても例をみない絶後の規模で突然出現している
夢でも見ているのか?
>>289 >大集落「纏向」には何戸の家があった?
戸数は関係ないので興味もない
纏向説論者は大型建物が一棟しかないのに、その建物群をあえて「大型建物群」と呼んでいる
本来であれば「建物群」ないしは「大型建物一棟を含む建物群」と呼称すべきであろう。
一般人が「大型建物群」という言葉を聞けば、複数の大型建物の集合体であると勘違いするのは至極当然のことである。
これに対して纏向説論者は
>大型建物群というのは、「大型建物」の群れじゃないんだよ?
>建物群の規模の大きなものが、大型「建物群」なんだ
(邪馬台国畿内説Part540
>>880)
という実に見苦しい言い訳をしているが、
纏向遺跡を実際以上に大規模なものに見せかけるためにこのような呼称を意図的に使用していることは明白である
纏向遺跡にはその調査のために多額の税金が投入されており、
その遺跡の実態を虚飾する行為は日本国の納税者、日本国民に対する重大な背信行為である
纏向説論者は詐欺師集団、反社会勢力も同然と言えよう
日本社会のゴミ屑、税金にたかるダニと言い換えても良い
纏向遺跡関連の予算は大幅に削減し、発掘調査は早急に中止すべきであろう
纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。
また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。
ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。
つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。
というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。
アホの
>>1 アホの
>>1 >>300 >纏向説論者は大型建物が一棟しかないのに、
一棟しかないという証拠は?
水質何やら〜・・・なども、おかしな話ばかりでしょ。
『2ch 偉人 おわた じんせい』
>>306 >つまり「大集落」に根拠がない。
なぜ?
広さなら公表されてるでしょ?
>>308 そういうウソをつくから九州説は信用を失った
追い詰められて、どんどん珍説方向に走る九州説の無残
当時の纏向は鉄を入手できない後進地域
食料にも乏しくカエルを食べていた
まさに貧困にあえぐ山奥の寒村、陸の孤島
華やかな場所だったと思っているのはキナイコシとその仲間だけ
>>314 >当時の纏向は鉄を入手できない後進地域
なら、どうして鉄器で加工された矢板で護岸工事されてるの?
>>285 俺の記憶では
石野は巻向学研究センターの顧問じゃなったっけ?
いくら発掘しても具体的な証拠が見つからない纏向
いくら論文を出しても定職が見つからないキナイコシ
纏向は人の住む集落ではない
これは発掘物や纏向の立地から考えて道理と言える
ここは全国の祭祀を集合させた現在まで他に類例のない超巨大な祭祀と古墳築造地
だがこれを大和に邪馬台国の中心があるという事実に対して何かのマイナスになると思い込んでるのが畿内、九州ともにいるのが理解できない
この巨大な無駄な大工事を行うだけの経済力、動員力、企画力を持つものが突然、まさに卑弥呼の時代に大和に出現してる
鬼道と共立によって成り立った卑弥呼と邪馬台国のこれ以上ない程の証
最早これ一つ取るだけで他の遺跡など比較対象にもならないほどの証拠だと言えるのに
>>292 地方公務員が支える巻向互助会
村おこしじゃねーの
>>314 >食料にも乏しくカエルを食べていた
じゃ、どうして山海の珍味がお供えされてて
大量のイネ花粉が見つかるの?
>>282 >九州には国家祭祀の跡がまったくないから分からないのかな?<
アホの極め付け 国があれば祭事はあるよ
今の市町村しかり
あとガンダムの曲?
『ガンダム 水の星』
どのスレだったかな、
日本の話なんですよwwwみたいな事を言っている人も?。
謎の小椋佳の曲、黒い水が〜とか・・・。
おわた じんせい?
>>318 鬼道の卑弥呼、千八百年後までも、良く衆を惑わす
完全に破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人の卑劣な奥山氏は、奥山氏の卑劣な行為を僕達に、なすり付けるのだったね。
279日本@名無史さん2020/01/30(木) 19:10:37.16
>>196 >江南野郎ども うぜー
>よそでやれよ
これ、連続句読点の荒らしコピペだから
ウザがらせるのが目的
奴は普通の人間とは書き込みの目的が違う
そして、朝鮮人連呼は自らの出自へのコンプレックスがその基盤にある
『』『もののけ姫』なども・・・・ほとんど同じようなコンセプト。
>>326 朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の発狂している奥山氏が、完全に論破されると、討論での反論を諦めて、敗北宣言の意味にしかならない、嘘の悪口を言い放つのだったね。。。。
今は、薬の切れた奥山氏が、訳の分からないことを呟く時間帯なのだろうか、、、
キュウリの葉・・・、何の写真なのか?なんだよな。
漫画などでいうと水の国の〜?
奥山氏が、正気に返るまで、素数についての研究をすれば良いな。
ζ関数の対数は、全ての素数についてのある関数の対数の総和になるのだったな。
>>334 対数をとることで、オイラー氏の考えついた全ての素数についてのある関数の全てを掛け合わせた物事を、総和として扱えるのではないのかな。
だから宗教集団のサティアンだよ、麻原の富士山、神谷町の伊豆の山奥みたいなもんさ。仙人思想の宗教団体。
結局は、先行している研究者の考え方に戻ってしまうな。
江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間
589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。
江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。
>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。
>
> @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
> ロングハウス式高床建物
> A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
> 木骨泥墻・環濠村
> B石家河期(前2600〜前2000年)
> 木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html 或る自然数より小さい素数の個数ではなく、n番目に小さい素数をnで表したいのだったな。
>>347 よく似ているが、決定的な違いがあるな。
オズボーン(おじー)とか?
あと「死ねジェイソン、死ねジェイソン」と言っていた当時の子役?
九州説は全く取るに足らない珍説で畿内を攻撃するだけしか能がない
ただそれ故に畿内が思い込みで見落としてる部分を指摘してる部分もある
それが「纏向=壮麗な王都」という畿内の多くの人が何故か抱いてる誤解
定住跡がほぼ皆無の状態で、掘立柱建物も1間から3間程度で囲炉裏のようなものを持たないモノばかり
そもそも人がそれまで全く住まなかった土地だった
こんなものが都市であるとはとても言えない
纏向はその在り方から「祭祀の為だけに作られた超巨大遺跡」と言うのが自然な判断だろう
だがこれは大和に邪馬台国があると言う事実に対して何らマイナスにならないどころかむしろ絶対的な証拠となっていると言える
何故ならこれだけの無駄な巨大事業を仕切れるだけの実力があり、鬼道と共立によって立った卑弥呼の記載にこれ以上ない程合致する
纏向の存在一つで最早議論の余地など存在せず邪馬台国=大和であると断言できる
『フェルドマン ジェイソン』
画像を調べてみて・・・・・・。
『キョンシー』『パンダ』『』
>>245 >ただこれはむしろ畿内の有利な条件<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
「南≠東」などに拠って、大和説は×。
最終的に自分が(ジェイソン、キョンシー?)なってしまったとか、
そういう話じゃなかった?
それとも自演(同一の・・・)
ほんとーは、
・・・こそが真のジェイソン、ガンダムで言うとオリジン?
三貴子?
なぜか、そのような気がするんだけど、何なんだろう。
奥山氏は、頭が悪いな。
353 名前:日本@名無史さん 2020/01/30(木) 21:15:39.13
九州説は全く取るに足らない珍説で畿内を攻撃するだけしか能がない
ただそれ故に畿内が思い込みで見落としてる部分を指摘してる部分もある
それが「纏向=壮麗な王都」という畿内の多くの人が何故か抱いてる誤解
定住跡がほぼ皆無の状態で、掘立柱建物も1間から3間程度で囲炉裏のようなものを持たないモノばかり
そもそも人がそれまで全く住まなかった土地だった
こんなものが都市であるとはとても言えない
纏向はその在り方から「祭祀の為だけに作られた超巨大遺跡」と言うのが自然な判断だろう
だがこれは大和に邪馬台国があると言う事実に対して何らマイナスにならないどころかむしろ絶対的な証拠となっていると言える
何故ならこれだけの無駄な巨大事業を仕切れるだけの実力があり、鬼道と共立によって立った卑弥呼の記載にこれ以上ない程合致する
纏向の存在一つで最早議論の余地など存在せず邪馬台国=大和であると断言できる
>>360 奥山氏が、巻向が都市ではなかったことを認めてしまったな。
>>251 >邪馬台国と卑弥呼の特徴的な部分は「鬼道」と「共立」<
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×。
>纏向はまさに巨大な宗教施設として現在まで含めても例をみない絶後の規模で突然出現している
更にはここで見つかる祭祀や墓制はそれまでの全国の制度の集大成と言えるような物となっている<
石塚が庄内1で3世紀末であるから、巨大墓はそれ以後であり、
3世紀前半の卑弥呼とは関係がない。
>呪術によって共立された卑弥呼の存在を示すものとしてこれほど適合するものは他にない <
「鬼道」というのは、魏使らが使用した「形容的文言」であり、
卑弥呼らが自分から「鬼道」という筈がない文言。
>纏向は都などではなく宗教施設であると言う点こそがむしろ重要な部分であると言えるだろう<
卑弥呼は、おそらく、鏡を、「凹面鏡で集光して火をおこし」たり、
「平面鏡や凸面鏡で信号を送ったり」する科学的な不可思議な使用をしたから、
「鬼道」と呼ばれる事になったのだ、と思う。
>>362 巻向は、前の王朝の怨恨の封印場所だったね。
奥山氏は、算数を勉強してから、労働者として雇用して貰えば良いよ。
嫌がらせのような事をしている・・・(創価関係の工作とか?)・・・があるんだよ?
みたいな事を言っている人もいたり。ほんとーは日本の話だとか。
>>257 >纏向はこれだけの巨大な「無駄な物」を莫大な人員と物資を投じて計画的に作れる存在がいると言う事が分かる証拠
纏向に比べれば他の遺跡などその企画力、経済力、から見ても全く足元にも及ばないと言えるだろう<
九州倭国の「東征毛人五十五國」があって、
征服した毛人や出雲系銅鐸祭祀部族を、生口や墓守り人にして、
3世紀末から、巨大墓を造らせたから、出来たの。
>>364 天皇家が、公式に作成した文章に、記録されているね。
『スサノオ』
あの曲なども同じだしな、
れでぃお・がが・・・の?とか。
>>264 >「鬼道」と「共立」と言う卑弥呼の存在の前提を考えると
全国のそれまでの祭祀や墓制の集大成的な空前絶後の巨大な祭祀場が
「まさに卑弥呼の時代に」突如出現する大和は
その一つを取るだけで邪馬台国の中心地として最早疑う余地もないだろう<
「南≠東」などに拠って、×。
>>268 「南≠東」などに反論出来なくっちゃ、
じゃ永遠に九州説に反論できないぞ
大和説は、ずっと負け犬だな
>>270 スレ主らは、きっと、
大和説敗北の戦犯と判断されて、
顧問解雇されたんだろ
>>345 当たり前だが、
「或る素数P及びPより小さい全ての素数を全て掛け合わせた値」を「Pより小さい全ての素数を全て掛け合わせた値」で除すれば、
pそのものなのだったね。
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
奥山氏は、恥ずかしがっているな。
370日本@名無史さん2020/01/30(木) 21:42:49.39
>>362 「誰でも奥山」病
371日本@名無史さん2020/01/30(木) 21:44:25.97
>>366って学歴コンプレックス拗らせてるな
>>273 >何度も書くが、寺澤氏は纏向=邪馬台国の王都説の親玉格
土器編年を重視して箸墓は卑弥呼の墓としては新しいという立場をとるだけで
纏向が邪馬台国の都ではないなどと言ったためしはない<
じゃ、寺澤は「南≠東」などに拠って、×人間。
ザラコク氏に、×人間と判定された寺澤氏という謎の人物は、何者なのだろうか。
>>274 >大和、吉備、讃岐、近江連合のプレ邪馬台国が成立してから中国との外交を始めたと考えてる
その前の大和や吉備と言う個別ではまだ中国と外交する段階になってない
だから質問に対しては「邪馬台国の初期段階になってから」と考えてる <
中国の記録では、列島からの国交が始まったのは筑紫の倭奴國であり、
その他の列島の出雲も越も毛人蝦夷も、直接国交は記録されていないから、×。
>>380 学生時代から一貫してフリーランスで、主に警察批判を中心に活動している人物なのだろうか。
>>382 NHK大分放送局のアナウンサーなのではないのかな。
>>282 >「国家祭祀は王が行う」以外にないだろうがww
九州には国家祭祀の跡がまったくないから分からないのかな?<
「正北抵新羅」の北部九州に倭国があったのであり、
大和の日本國は「倭國之別種也」の旧小国であったんだから、×。
>>383 ミュージシャン、画家、小説家とマルチに活動する人物の可能性も、無視出来ないのだったね。
理由は分からないが、奥山氏が、怒っているな。
386日本@名無史さん2020/01/30(木) 22:03:02.20
九州説の人って、コミュ障?
『みつばちハッチ』も同じ。
何者かに襲撃されて・・・・、
最終的にハッチがジェイソン化(していない?目の辺りのデザインでわかる。ハッチこそがオリジン。)。
>>284 >生活土器が大量に見つかる=定住した痕跡、だぞ
こういう矛盾したことが平気で書けるおめでたい脳みその持ち主以外
九州説には残っていない<
掘立柱建築には、台所も寝室もトイレもないし、卑弥呼の着替えの部屋もないし、
婢千人の侍る場所もない。
>>378 朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の奥山氏は、コミュニケーション能力を司る脳の部分に、重大な障害があるのだったね。
>>286 >>狗奴国なんて呼ばれた地域の記録がないだ<
>久努国ならあるよ 東海地方に、というか静岡県<
「南≠東」などに拠って、×。
>>293 >ヤマトを征伐し親魏倭王になった卑弥呼、邪馬台国<
「南≠東」などに拠って、×。
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
なぜか・・・成太作(ほんとーなのかな)も同じような話だしな・・・。
漁師か何かの家で、どこかで溺死したの?
>>305 「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しを問い詰められると、
呟き荒らしになる
それが大和説
>>311 「南→東」などの史料事実の否定曲解の、
そういうウソをつくから大和説は信用を失った
>>313 「南≠東」などの史料実態に追い詰められて、
どんどん珍説方向に走る山t説の無残
ジェイソン・・・、
本当は聖人(せいじん)だと話もあるし。
専門家に聞いてみたほうが良い。
>>318 >この巨大な無駄な大工事を行うだけの経済力、動員力、企画力を持つものが突然、
まさに卑弥呼の時代に大和に出現してる<
石塚が3世紀末だから、卑弥呼の時代ではなく、×。
>>353 >何故ならこれだけの無駄な巨大事業を仕切れるだけの実力があり、鬼道と共立によって立った卑弥呼の記載にこれ以上ない程合致する
纏向の存在一つで最早議論の余地など存在せず邪馬台国=大和であると断言できる <
「南≠東」などに拠って、×。
すずめばち?とミツバチ(ハッチ)の話。
『ジェイソン』
>>359 馬鹿で貧乏でアニオタで
妄想を現実だと思うようになったんだろう
>>405の訂正
「南≠東」などの史料実態に追い詰められて、
どんどん珍説方向に走る大和説の無残
(ジェイソン)首を切り落とされ。と書いてあるでしょ?
スズメバチとミツバチの攻防。
本当はジェイソンのほうがミツバチ(ハッチ)。
それにしてもジェイソン。
なぜ、すぐに蘇生するのか・・・『❓』、
何度も蘇生(復活)。
詳しい事はわからないけど、
ガンダムで言うとオリジン?
蘇生、復活。
聖人だと何度言えばw
・・・このスレではないんだけど、
たしか、そういう書き込みをしている人がいたり。
そういう伝説(〜復活)などがあるでしょ、
確実に、批判している人々がいるんだろう。
偽書〜、まだ偽書なんて信じているのか?とか。
『河童 長老 生活教』
それとも『ドラクエ』・・・『ドンバ』?
なぜか、ほとんど同じような気が・・・・。
ジェイソン・・・『ドンバ』同じでしょ、画像などを調べてみた?
電気(落雷)で蘇生、復活。
博士のような人物がいて、・・・自分の〜(子供。亡くなった子供?)をモデルに・・・キカイダー。
それとも母親だったかな、亡くなった母親をモデルに・・・聖造。
『スサノオ ビックリマン』と同じような人物・・・。
・・・有名人だったのかな?
ほとんど仮名、キャラクター名でしょ。
どこかに、もれ(仮)と同じような考えの人(人たち)がいたような気がするんだけど。
ジェイソンなど(その他)・・・本当は聖人だとか。
あのゲーム。
『バーサク』という魔法などもあったり、最終的にジェイソン(狂)化。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ほとんど同じ。
お前たちは頭が悪いんだろう?
「本人だと言っているんだよw」
「ホンモノです」みたいな書き込み、見たことがあるでしょ?
数年前の、どのスレだったかな。
なぜか妹と同じ5月15日。
某まいく・おー?のMVなど、なぜだと思う?
海底〜、フェニックスが出てきたり。
例えば『ドンバ』と一緒にいるキャラ・・・、ドンバの嫁?妹なのかな?
老婆と同じことを言っているし。
謎の写真:たしか、こっちの人が誰々(嫁、妻だったかな)、この人が父親で・・・とか。
というか・・・家の写真なんだけど。
キュウリのような葉:左のほうにいるのが父親、あと制服を着ている子供。
葱の華:右のほうに母親と・・・もうひとり子供?
立っている女の人は・・・何か言っていたような。
ドンバは何なんだろう「?」不明。
別人を描いたもの?
ビックリマンのスサノオ。
サイバーパンクSPECIALに出てくるロトちゃんは同じような雰囲気。
なんとなくわかる。
グランゾート、ザ・モモタロウ・・・なども、ほとんど同じような設定。
確実にストーカーだろう。・・・・・・・・・・・・・・・・・そうか?
何となくなんだけど、
ドンバは、ドラゴンボールの作者・・・、小椋佳?
夜中じゅう荒らしてるのか
九州説の狂いっぷり
すげえな
>>428 >牧場も都市になるな
「牧」の遺跡が出れば「牧」だ
一次産業の遺跡は都市じゃない
昨日の九州説ウソ ハイライト
181 名前:日本@名無史さん :2020/01/30(木) 12:40:03.54
古墳時代政権交替論の考古学的再検討
(課題番号:20320122)
平成20〜22年度科学研究費補助金
基盤研究(B)研究成果報告書
で、酒井氏の古墳造営キャンプ地説について触れてるよ
未だに通用する論ではないかな
ウソ
触れてない
参考文献リストに酒井の1977年の論文名があるだけ
昨日の九州説のウソ ハイライト
84 名前:日本@名無史さん :2020/01/30(木) 07:57:51.44
2018フォーラム 寺澤所長は箸墓撤退を表明し橿考ホケノにおっかぶせて逃亡
ウソ
寺澤は20年以上前から「次の男王の墓」説
当時の彼の年代観で270年代の墓と考えていたから
のち260年代に修正したが寿陵説なので結論は変わらず
>>437 夜中じゅう荒らしていたのか
人種差別的皇国史観の妄想大和説者の「呟き?」の狂いっぷり
すげえな
>>439 >ウソ
触れてない
参考文献リストに酒井の1977年の論文名があるだけ<
古墳時代政権交替論の考古学的再検討 (課題番号:20320122)
平成20〜22年度科学研究費補助金 基盤研究(B)研究成果報告書
に載せられた、という事は、
平成20〜22年度段階においても、無視出来なかった、
という事を示すんだよ。
>>443 自分の悪事を他人になすりつける醜悪な心の人だなあ
心が醜く歪んでるから普通の人の心を理解できないんだよ
畿内説の者が自分のホームを荒らすわけないという
第三者も荒らしは畿内説を憎む者の仕業と見破るという
この常識がね
そうやって自分の首を絞めてなさい
最期の日までご勝手に
>>444 >平成20〜22年度段階においても、無視出来なかった、
>という事を示すんだよ。
あなた、論文って書いたことは勿論
読んだこともないでしょ
引用・参考文献ってデータの一部を借用したときでもリストアップするんだよ
論旨とは関係なくね
>>440 >ウソ 寺澤は20年以上前から「次の男王の墓」説
当時の彼の年代観で270年代の墓と考えていたから
のち260年代に修正したが寿陵説なので結論は変わらず<
それなら、寺澤が、
「南→東」や「前方後円墳=冢」などの嘘吐き騙しの大和説者であった事には変わらず、
・・・・アホ詐欺師であった事も変わらないだけだよ。
>>444 関係無いけど
1977年の文献が平成20〜22年でも参考献として用をなすと言う事じゃねーの
>>440 ありがとう
寺澤は箸墓を卑弥呼の墓としてないんだ
スレ主と見解が違うようだ
>>450 常識で考えれば、先行研究者の「見解」に触れといて本文にも注釈にも研究者の名前を載せないなんて失礼なことはしない
文献リストにしか載せてないということは、まず
単なるデータ取り
40年経っても変わらない、どこそこで何が発見されたー的なファクト部分ということ
「説について触れ」だというのは確実にウソね
保身のためにウソをつき続け
ますむす九州説を窮地に陥れる
九州説の因業だな
>>454 続けようか
事の発端はね
>>143奈良大学教授の酒井龍一氏の古墳造営基地に好感がもてる
>>171前世紀に出版されたきり新しい論文ないから 説として死んでる
このあたりからおかしな方向に向かったのだよ
酒井氏の文献は読んだこと無いが、今も酒井氏は同じ見解じゃないのかな・・知る由もなし
>>457 ネットに、おかしな造語が流れてるのは当然
>>456 おかしいよな
死んだ説ということで決着だろ
>>459
酒井氏の文献は読んだこと無いが、
纏向遺跡は、倭国(阿波)の「古墳造営前線基地」だよ。 @阿波 >>458 水産都市の活性化 - 国土交通省
水産都市協議会
都市農業の6つの機能:農林水産省
持続可能な都市農業の実現に向けて - 日本学術会議
>>459 酒井氏に関係なく
私も@阿波 同様 巻向は古墳造営地
>>461 根本的に、わかってないな
水産都市というのは食費加工工期から流通業までコンプレックスで漁港が都市化するというコンセプトだ
都市農業とは都市における農業のこと
一次産業の遺跡を都市とよぶ馬鹿を助けてくれる情報じゃない
>>463 やっと調べだしましたね
労を惜しまずが肝心です
キナイコシが推奨する学者○・けなす学者×の所属を日本地図に落とすと、
○×ドットの片よりが分かる。
そして不思議なことに、ドットの表れない空白地帯もある。
この空白地帯こそ、諸般の震源地らしい・・・、
あれは、・・・有名人だったのかな?
ほとんど仮名でしょ。
それとも・・・『奈のクニ』?
なぜか、ほとんど同じような気が・・・・。
>>455 寺澤らは、保身のために、大和説にも可能性がある、という誤魔化しウソをつき続け
更にますます大和説を窮地に陥れている、という事だな
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説の因業だな
奈良盆地では世界が孤立するんですね
わかります
(奈良判定)
>>467 「南→東」などの史料事実の否定曲解のような嘘つき騙しの大和説者は、
何故ここまで平気で嘘がつけるんだろうか?、
という事が問題なんだろうなあ。
結局は、大和説を信仰する人種は、
やくざ暴力団の・・・・アホと同じように、
唯我独尊で、口先詐欺や殺し合い戦争をしてでも自分が勝ち残って、
全人類を支配して、栄耀栄華を極めたい、
という事しか考えられない・・・・人種だ、という事なんだろうなあ。
よく見てみると、
大和説賛成者は国民の3割余りであり、安部自民支持者も3割余りであり、
この3割余りが、
「唯我独尊のタカ派で、人種差別的殺戮戦争をしてでも、人類滅亡になっても構わず、
世界を支配したい」
という・・・・人種の割合なんだろう。
自分らが勝ち残って、
>>472 名前:日本@名無史さん 2020/01/31(金) 08:55:52.92
>>455 >寺澤らは、保身のために、大和説にも可能性がある、という誤魔化しウソをつき続け
>更にますます大和説を窮地に陥れている、という事だな
そういうことだ。
(0.001%でも可能性があれば)学術的には否定できない・・・、というトリッキー話法。、
保身、金、欲、
流される市長と議会と・・・、
九州説にできることは
もうデマ中傷くらいしか
残ってないんだね
さみしいね
亡んだ説は
>>476 大和説学者らの、
「南→東」や「畿内」や「邪馬台国」などの嘘つき騙しや、
「正北抵新羅」や「日本國者倭國之別種也」や「東征毛人五十五國」などの隠蔽や、
「冢≠前方後円墳」や「大和の庄内や△や前方後円墳は3世紀末以後」などへのインチキは、
すぐバレる。
>>479 「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説にできることは
もうデマ中傷くらいしか
残ってないんだね
さみしいね
亡んだ説は
>>483 >九州説は芸がない<
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説学者らの、
・・・・詐欺師の「芸」なんて要らない。
九州説者は、
史料事実や史料実態からの「帰納的確率的な推論」という「良心」があるから、
それで十分。
、、、なまじ芸など、あっただろう
(学者の曲芸にトリック)
芸は身を滅ぼす、、、
言うだろう・・、策士 策に溺れる
詐欺師が 詐欺に遭う
学者は ブランコから落っこちる
>>456 結論
古墳時代政権交替論の考古学的再検討
(課題番号:20320122)
平成20〜22年度科学研究費補助金
基盤研究(B)研究成果報告書
は、酒井氏の古墳造営キャンプ地説について
触れてない
>>488 「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しのアホの大和説は、
三文芸です。
>>353 >何故ならこれだけの無駄な巨大事業を仕切れるだけの実力があり、鬼道と共立によって立った卑弥呼の記載にこれ以上ない程合致する
魏志倭人伝で詳細不明の倭種でもいいんだけど?
>>318 >この巨大な無駄な大工事を行うだけの経済力、動員力、企画力を持つものが突然、まさに卑弥呼の時代に大和に出現してる
魏志倭人伝にある帯方郡から一万二千里(九州上陸ですでに一万里)という距離に一致せず、卑弥呼の宮城には奴婢が千人と書かれているのに彼らが働くスペースも住む家もなく、楼閣高く鉄器で武装した兵が警備していたはずなのに鉄器がない。
>>494 >魏志倭人伝にある帯方郡から一万二千里(九州上陸ですでに一万里)という距離に一致せず、
あと二千里で畿内に着くよ
>卑弥呼の宮城には奴婢が千人と書かれているのに彼らが働くスペースも
お庭があるよ
>住む家もなく、
通えばいいよ
>楼閣高く鉄器で武装した兵が警備していたはずなのに鉄器がない。
鉄器持ってる人がみんな、そこらに投げ捨てたりはしないよ
>>493 >魏志倭人伝で詳細不明の倭種でもいいんだけど?
ダメでしょ
「女王国の東、渡海千余里」に合わないから
森浩一先生が言った。
三角縁神獣鏡は漢字が書かれているから中国製だ。
カシオペア 北斗七星、北辰++、、
だから、なぞの電波☆といったろう
>>493 畿内が詳細不明の倭種だということにしたいなら、畿内に三角縁神獣鏡とかがあるのはなぜ?
あれを畿内が独自に作るなんて不可能だろ?
最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》
クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。
エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。
鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。
スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
何時覗いても、邪馬台国畿内説が、論破されてしまっているな。
頭の悪い奥山氏は、銅鐸を作成できた者達が、三角縁神獣鏡は作成出来なかったと考えているのだな。
505日本@名無史さん2020/01/31(金) 13:58:14.92
>>493 畿内が詳細不明の倭種だということにしたいなら、畿内に三角縁神獣鏡とかがあるのはなぜ?
あれを畿内が独自に作るなんて不可能だろ?
>>509 邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮民族の奥山氏は、日本人の先祖を貶めたいのだったね。
だから、三流三角で、手っ取り早く
倭種を手なづけたのだといったろう
楽浪人が確実に糸島まで来て逗留してるのに、博多まで大量に来てる畿内系住民の故国の名前すら魏に伝わらないとか
無理無理
九州説ダメね
銅鐸王国が、倭国に滅ぼされたので、それまで銅鐸を作成していた職人は、倭国の軍隊長に三角縁神獣鏡の作成を命じられたのだったね。
奥山氏は、やはり、頭が悪いな。
517日本@名無史さん2020/01/31(金) 15:06:47.38
楽浪人が確実に糸島まで来て逗留してるのに、博多まで大量に来てる畿内系住民の故国の名前すら魏に伝わらないとか
無理無理
>>520 仕方ないよ。
魏志倭人伝時代が終わってしまった後に、いくら、楽浪人が色々なことを知ったとしても、魏志倭人伝に書かれる訳が無いことを、
頭の内部が腐食している可哀想な奥山氏には、理解できないのでは、ないのかな。
糸島に逗留したという楽浪人というのは、マッチョな倭人によって新羅で捕獲され連行された奴隷の可能性も、高いな。
>>521 それ、脳内時系列が狂ってる九州説専用の妄想だから
世間の人には理解できないよ
>>522 では、博多まで大量に来てる畿内系住民とは、古墳を作成するため、畿内に朝鮮半島の奴隷を連れて帰る役目の者達なのではないのかな。
奥山氏は、炭素年代法の仕組みや中性子線のことを全く理解できないのだったね。
523日本@名無史さん2020/01/31(金) 15:19:46.17
>>521 それ、脳内時系列が狂ってる九州説専用の妄想だから
世間の人には理解できないよ
銅鐸倭種は、鏡に釣られて、
三角倭種になったのだ。
>>524 大量の朝鮮人奴隷を奈良盆地に連行するために、何往復もしたのではないのかな。
それにしても、頭が悪いんだろう。
『河童 長老 生活教』
調べてみた?関連する・・・・など、
なぜか創価(日蓮〜?)の話ばかり出てくるでしょ?
チンピラ警官・・・横井何やら、小野田某?とかwww
家がホ・・・ンモノなんだと言っているのに。
『未来 ウラシマン』どこかの王子、国王?
老婆談によると、
香野という家があって・・・そういう話もしているし。
何やら様なんて言われていたとか・・・。
ほんとーの、カミタマの・・・家など?
平氏、平家だと言っている人もいるし。
自分の家で、何か供えたりするものを作ったりしていたとか、
老婆が言うには・・・そういう話。
家は『鳳輿』?このような名前の家、傾いた松の木?。
『サムライ・トルーパー』なども、なぜか同じ設定だしな・・・・・・・・・。
とるーぱー。
漫画やアニメなどで言うとアマテラス(不明)w
そういうイメージのキャラも出てきたり。
歌舞伎(?)のようなメイクとか、老婆のほうが詳しい。
『ザ・モモタロウ』
シュテンドルフとウラシマン?
むかーしの知り合い(以前、どこかで会ったことが・・・、知っているような)・・・、みたいなシーンもあるし。
なぜ埼玉・・・辞典なのかわからないけど。
香野という家の話?
『埼玉 浄誓寺』
九州説が言うには、詳細不明の倭種である畿内が魏との交流なしで
神獣のデザインを知ってて、漢字を知ってて、魏晋鏡と同じ銘文も知ってて、
魏の元号も知ってて、鏡の成分である銅、錫、鉛の割合を後漢鏡と同じにすることができたんだ
凄いね
あの写真の当時、
テレビ(大河ドラマ?)などもなかったしな。
老婆も生まれていない頃のモノだと言っているし。
>>492 >>魏志倭人伝にある帯方郡から一万二千里(九州上陸ですでに一万里)という距離に一致せず、<
>あと二千里で畿内に着くよ <
里の「比率」が5倍位違って、全く合わないし、南≠東も合わないよ。
>>卑弥呼の宮城には奴婢が千人と書かれているのに彼らが働くスペースも <
>お庭があるよ<
婢千人を庭に放り出しておれば、卑弥呼が批判されるよ。
>>住む家もなく><
>通えばいいよ <
婢千人を遠くから通わせたら、夕方〜朝は、卑弥呼一人にになり、
台所がないから食事も出来ず、トイレもないから行けず、
寝床の準備も始末も出来ず、着替えも出来ず、「鬼道?」の準備も出来ず、
卑弥呼は「こんな女王は辞める」とでも言い出しかねんだろうなあ。
>>楼閣高く鉄器で武装した兵が警備していたはずなのに鉄器がない。<
>鉄器持ってる人がみんな、そこらに投げ捨てたりはしないよ<
鉄鏃は、普通は打ち捨てるものだよ。
>>505 >
>>493 >畿内が詳細不明の倭種だということにしたいなら、畿内に三角縁神獣鏡とかがあるのはなぜ?
>あれを畿内が独自に作るなんて不可能だろ?
卑弥呼の名声にあやかったか、九州の卑弥呼が配ったか。
>>505 >畿内が詳細不明の倭種だということにしたいなら、<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
>畿内に三角縁神獣鏡とかがあるのはなぜ?
あれを畿内が独自に作るなんて不可能だろ?<
3世紀の大和には△はでないし、△は、渡来の呉系楽浪鏡師らが関与した鏡だし、
大和の△は、4世紀以後であり、3世紀前半の卑弥呼とは関係がないよ。
>>518 >楽浪人が確実に糸島まで来て逗留してるのに、
博多まで大量に来てる畿内系住民の故国の名前すら魏に伝わらないとか無理無理
九州説ダメね <
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから×であり、
博多の庄内は3世紀前半であるが、大和の庄内は庄内1の3世紀末であるから、
年代からして、「博多まで大量に来てる畿内系住民」というのが×であり、
九州倭国の「東征毛人五十五國」軍が、大和に庄内を伝搬させ、
それから、大和から倭国に庄内の上納があったらしい、という事になるだけ。
大和説ダメねえ。
>>523 それ、明大の佐々木らのような、脳内時系列が狂ってる大和説学者専用の妄想だから
世間の人には理解できないよ
>>542 >九州説が言うには、詳細不明の倭種である畿内が魏との交流なしで <
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×であり、
そんな文言を使った「論理」も×だよ。
>神獣のデザインを知ってて、漢字を知ってて、魏晋鏡と同じ銘文も知ってて、
魏の元号も知ってて、鏡の成分である銅、錫、鉛の割合を後漢鏡と同じにすることができたんだ
凄いね<
渡来の呉系楽浪鏡師の関与鏡であったから。
彼らは、当初は筑紫で関与したようであるが、明帝→卑弥呼への銅鏡百枚を知って、
筑紫では商売ならず、と諦めて、
西日本各地の豪族らの依頼注文を受けたり、
大和のように鏡作り神社を造ったところで大和の子弟に△造りを教えた。
『葱の華』も写っている、
謎の写真があるでしょ?何々様なんて言われていた家で・・・とか、
よくわからない話ばかり。
老婆談。
>>544 >鉄鏃は、普通は打ち捨てるものだよ。
ばかだなあ
戦闘がなければ使わないんだよ
警備だけじゃね
『河童 平家』
ほんとーに、どういう話なんだろう。
家自体は『鳳輿』?
調べてみると出てくるでしょ、そういう名前の家。
奥山 なんでもかんでも相手にするほど
あんたは頭がよくない
得意を2、3に絞ったほうが良い
あとは、墓穴を掘るだけだよ
>>551 >>鉄鏃は、普通は打ち捨てるものだよ。<
>ばかだなあ 戦闘がなければ使わないんだよ 警備だけじゃね<
筑紫でも「更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人」ように、
戦闘状態がまだ少し残っていたんだから、使われる事はあり得るし、
大和でも、「東征毛人五十五國」の軍が使用することや、、
征服された毛人や出雲系銅鐸祭祀部族の反乱が起き可能性もあるから、
鉄鏃の使用訓練も欠かせない。
安物鏡に釣られて、銅鐸倭種は、
三角倭種になったのだ。
その安物鏡を大事に大事に副葬してた九州の王様ってどんだけ雑魚なの?
畿内説といっても、
巻向学でない人間が、レスしてんじゃないの。
ずっと北の方。コールセンターとか、掛け子とか。
・・・・・・・・・・・・・・・・むかーしの中華?
「王」という名前だったみたいな事も書いてあるし。
九州にも、
遠絶の傍国というのが、20余もあってだな・・・
>>554
だけど続けると
奥山
1.あんたが不得意分野の投稿に対してはすぐに反応して投降しないこと
時間かあると思うので、じっくり制さしてから投稿すること
2.どうでもいい投稿に反応しないこと
3.何度も、同じ反論(例えば 南⇒東の嘘つきだまし)にはスレ主として、回答するか
スルーする(逃げてもいいよ、畿内説の学者もこの点が誰もが納得する論をした人はいないから)
他 いろいろあるが、あなたが畿内説を代表する学者でもなんでもないのだから無理しない程度に投降したほうが良い >>554 >奥山 なんでもかんでも相手にするほど
だからそれは「畿内説は一人しかいない」という
あんたの狂った妄想からくる病的幻覚なんだよ
お大事にな
それぞれ文体が違うし、畿内説が何人もいることくらい普通は分かるはず
外国人には日本語での文体の違いを見分けられないのかもしれんが
奥山/キナイコシが推奨する学者を○・けなす学者を×として所属を日本地図に落とすと、
そのドットの片よりが分かる。
そしてあるべきところにドットのない、不自然空白地帯もある。
この空白地帯こそ、諸悪の巣窟・震源地ではないか・・・、
『ドンバ』のようなキャラも出てくるし、きんたろー?
いくら発掘しても具体的な証拠が見つからない纏向
いくら論文を出しても定職が見つからないキナイコシ
纏向説論者は大型建物が一棟しかないのに、その建物群をあえて「大型建物群」と呼んでいる
本来であれば「建物群」ないしは「大型建物一棟を含む建物群」と呼称すべきであろう。
一般人が「大型建物群」という言葉を聞けば、複数の大型建物の集合体であると勘違いするのは至極当然のことである。
これに対して纏向説論者は
>大型建物群というのは、「大型建物」の群れじゃないんだよ?
>建物群の規模の大きなものが、大型「建物群」なんだ
(邪馬台国畿内説Part540
>>880)
という実に見苦しい言い訳をしているが、
纏向遺跡を実際以上に大規模なものに見せかけるためにこのような呼称を意図的に使用していることは明白である
纏向遺跡にはその調査のために多額の税金が投入されており、
その遺跡の実態を虚飾する行為は日本国の納税者、日本国民に対する重大な背信行為である
纏向説論者は詐欺師集団、反社会勢力も同然と言えよう
日本社会のゴミ屑、税金にたかるダニと言い換えても良い
纏向遺跡関連の予算は大幅に削減し、発掘調査は早急に中止すべきであろう
Q 纏向が邪馬台国の王都である証拠はなんですか?
A 桃の種とカエルの骨です
Q 纏向が邪馬台国の王都である証拠はなんですか?
A ハイ先生、王都である可能性がゼロとは言い切れないからです
>>564 >九州説は畿内説スレにそんなに脅威を感じるのかな<
いや、大和説が、
「南→東」などの嘘つき騙しである事や、
大和説学者らが、
国民や中国学者らや世界の人類の常識に逆らって、嘘つき騙しをしている事や、
マスコミや安部文科省らまでが、嘘つき騙しの大和説に加担している、
という状態が、黙過し難いの。
それを
お前が畿内説だからイジメてるわけじゃないんだよ
お前がキナイコシだからイジメられるんだよ
そんなことよりも『おわた じんせい』
と水質の話など、なぜ知っている人たちがいるんだろう。
何かの・・・工作員?
>>573 「南≠東」などに反論出来ず、
中傷しか出来ない大和説学者って
最低だよな
>>562 ふーーん
あんた、何が邪馬台国論争で得意ですか?興味がありますが?
鉄?巫女千人・兵?方位?距離?丹?倭国大乱?鏡?径百歩の墓?
私は、邪馬台国の王都ですが
例えば、
あの汚染水(オウムがやったの?)などで『ドンバ』も絶滅?
みたいな事を言いたいのかな。・・・よくわからない話ばかり。
>>557 500枚もある粗製濫造の安物をありがたがっていたのは畿内。
九州は八咫の鏡。
>>574 学会の定説畿内説は
九州説なんてどうでもいいから九州説のスレは放っといてるけれど
>>581 500枚ある≠安物
高級品が500枚あるかも知れないだろ
三角縁と言えば畿内では棺の外に大量に置くような適当な使い方だが九州だと一枚だけを大切に絹の袋に入れて主体部に収めてるな
上位と下位の関係が如実に分かる姿だな
>>585 畿内の古墳で、九州から伝えられた内行花文鏡(平原の八咫の鏡と同じ)を(畿内では)貴重な絹に包んで安置して、安物の三角縁神獣鏡を床に並べてあったんじゃなかったかな。
巻向に足りないのは
方位?住居?生活用具が少ない?海から遠い?陸行1月?・・・・・
どうやっても九州>>畿内という序列が存在していたというか、畿内そのものが九州北部の銅鏡文化の広がりに飲み込まれているよな。
九州では三角縁一枚か数枚をを恭しく主体部に副葬しているな
畿内では雑に扱われる鏡でも九州では最も珍重される財宝として見ているのが分かる
畿内の宗主から与えられた下賜品を大切に扱っている九州の姿がハッキリ見えているね
>>588 鉄も含めすべて
邪馬台国と関係ない地方豪族の文化程度の低い古墳造営基地
>>589 >どうやっても九州>>畿内という序列が存在していたというか、
その「どうやっても」が思考停止してるサイン
まあ、記紀そのものが、ヤマト王権は筑紫から来ましたと伝えているわけで。
>>588 方位については畿内説は弱いのは確かだけど
倭人伝は方位がすべてでは無い
九州だって丹がないし
九州で鏡が出た古墳と言うと石塚山古墳、老司古墳、一貴山銚子塚古墳が著名だがこれも殆どが三角縁が大半で数枚の中国鏡を持つ程度
三角縁のみならず他の鏡の数や種類を見ても畿内に全く及んでない
どんな夢を見て大量の鏡があると思い込んでいるのか理解に苦しむばかりだな
>>594
すべて合致するのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 >>578 同意
邪馬台国の比定地を行程抜きに語るのいけません
大和説の弱点は瀬戸内ルートを主流にしたことかも
一枚か数枚の三角縁を主体として大切に埋納するスタイルは関東や東北などの地方豪族と同様
九州も畿内を宗主とした地域の下位に属する存在と言うのがよく分かる発掘の結果だな
>>322 >アホの極め付け 国があれば祭事はあるよ
>今の市町村しかり
地元民でひっそりとやる祭事は、国家祭祀とは言わない
倭国の広い地域から人が集まって、各地の文物が持ち寄られた状態で行う大規模祭祀が
国家祭祀に当たる
北部九州には国家祭祀の跡がまったくない
>>353 >囲炉裏のようなものを持たないモノばかり
高床式建物に囲炉裏があったらびっくりだ
ほんとーに、おかしな話ばかり、
『サムライ・トルーパー』
プリンセス何やらの話なのかな?てんこーとか。
老婆談・・・、たしか歌舞伎、芸能関係の話をしていたこともあるしな。
>>364 >巻向は、前の王朝の怨恨の封印場所だったね。
三輪山は典型的な神南備山
磐坐などの甘南備は縄文時代からあり、前王朝の怨恨の封印などとは無関係
巻向王都説は着いていけない、
巻向は都として体をなしていない 最大は生活痕の残る定住者の住居跡
あと、陸行一月と環濠、無防備、
巻向に3世紀に人がいたことは否定しませんが
>>371 >
>>366って学歴コンプレックス拗らせてるな
連続句読点は自らまともに義務教育の授業を聞いてなかったって言ってたくらいだからねw
>>406 >平屋三兄弟 図々しいぞ
日本の最高神、天照大神の神殿も平屋だが?
宇佐八幡も平屋だな
それがどうした?
>>599 >北部九州には国家祭祀の跡がまったくない<
国家祭祀の定義はなんですか?
>>599 >倭国の広い地域から人が集まって、各地の文物が持ち寄られた状態で行う大規模祭祀が
>国家祭祀に当たる
世界遺産である沖ノ島のことかな。
『てんこー ホワイトタイガー』
さなだ某、だて某・・・その他も、
芸能人になったのかな、テレビなどにも出てくるし。
とよとみ・・・はいないような?
『スットン・D・キマシタ』。
>>602 >三輪山は典型的な神南備山
ああ、三輪山の神といえば、典型的な封印されし前王朝そのものだな。
>>467 >何故ここまで平気で嘘がつけるんだろう
上位と下位の者は、徳の高さで最初から決まっていて、
上位者は下位の者に対して何をしてもかまわない、うそをついても問題ない
なぜなら、上位者は徳の高い正しいものだから、上位者の行うすべての行為は
アプリオリに正しい、そう考える文化があるんだよ
日本の文化にはない考え方だけどね
例えば『サンド 伊達』
よく見かける人物だしな、・・・ほとんど芸能人になっていたんだろう。
>>468 >キナイコシが推奨する学者○・けなす学者×の所属を日本地図に落とすと、
>○×ドットの片よりが分かる。
また嘘をついてる
偏りなんてないよ
現役で原著論文を書いているすべての学者が、3世紀に倭国の中心が
畿内にあったことを前提としている
>>611 まさかそんな朝鮮みたいな文化が本当にあるわけないだろう
>>493 >魏志倭人伝で詳細不明の倭種でもいいんだけど?
そんなことになったら、中華王朝の赤っ恥だ
何度も書くが、日本列島では縄文時代から沿岸航行による長距離交流が普通にあった
纏向に大勢力があって、北部九州の比恵那珂遺跡群の首長と協調関係にあって
その状態で纏向のことが大陸中華に伝わらないと考える奴は合理的思考ができないバカ
畿内説が推奨する学者○・けなす学者×の所属機関を日本地図に落とすと、
その片寄りが分かる。
が、あるべきところにドットのない、不自然な空白地帯がある。
この空白地こそ、キナイコシの巣窟ではないか・・・、
>>617 >その状態で纏向のことが大陸中華に伝わらないと考える奴は合理的思考ができないバカ
だからそれが、かの有名な倭種なんだよ、なにか不服でも?
>>494 >魏志倭人伝にある帯方郡から一万二千里(九州上陸ですでに一万里)という距離に一致せず、
一万里も、萬二千里も、現実の地理とは無関係な設定値だからそれは反論として意味をなさない
短里がないのは確定
短里がないと認めるだけで九州説が死ぬから必死に抗っているだけ
>卑弥呼の宮城には奴婢が千人と書かれているのに彼らが働くスペースも住む家もなく、
卑弥呼の住む居館に千人詰めていたと考えているならただのバカ
「自爲王以來、少有見者」
卑弥呼に仕える(広義)のが奴婢千人だ
纏向周辺の人口(集落)密度は奴婢千人を供給するのに十分
>楼閣高く鉄器で武装した兵が警備していたはずなのに鉄器がない。
城柵は出てる
楼閣は発掘待ち
鉄は十分にあったと考えるのが妥当⇒金属器で加工した矢板10000枚
鉄器の出土量で、当時の使用量を想定するのは間違い
ということで、この人ももうポジショントークをしているだけなのがバレバレ
まあ、邪馬台国の会の利害関係者なんだろうけれど
>>505 >畿内が詳細不明の倭種だということにしたいなら、畿内に三角縁神獣鏡とかがあるのはなぜ?
それに加えて九州でも大事に三角縁神獣鏡を副葬しているのはなぜ?ww
>>524 >畿内に朝鮮半島の奴隷を連れて帰る役目の者達なのではないのかな。
その仮定を置くなら、ますます畿内のことが
半島にあった帯方郡に詳細が伝わっていないという想定がデタラメだってことになるなw
>>545 >卑弥呼の名声にあやかったか、九州の卑弥呼が配ったか。
本拠地のはずの九州に、分布の中心が来ないことが説明できない
『プリンス・うらしま』
龍宮〜、ほとんど同じだしな・・・。
>>564 >九州説は畿内説スレにそんなに脅威を感じるのかな
まともな人間にはここのテンプレを読むだけで、
九州説が終わっていることが分かってしまうからね
大事に副葬?w
棺外に並べてあるだけだから
仏壇の周りに置いてある造花みたいなもんだろ
>>621 >それに加えて九州でも大事に三角縁神獣鏡を副葬しているのはなぜ?ww
九州の三角は三世紀、本州の三角は4世紀のバチもん
漫画やアニメ・・・、家の写真と同じだしな。
『ドンバ』・・・『何者にもなれない お前たち』『』『』
>>623 別に植民地のことを詳細に伝える必要はないよ?
それでも海を東に渡ったところにも倭種がいるとは記録されているわけだし、耳には入っていたみたいだね。
>>620 >鉄器の出土量で、当時の使用量を想定するのは間違い
間違いだという根拠は?
溶けてしまうから?
>ということで、この人ももうポジショントークをしているだけなのがバレバレ
それってブーメランでしょw
>>620 >短里がないと認めるだけで九州説が死ぬから必死に抗っているだけ
一万二千里と認めるだけで畿内説が即死だろw
>>581 >九州は八咫の鏡。
九州説は「八咫の鏡」をありがたがりすぎるww
しかも、昭和の思い付きなのにww
九州に西海道風土記にあるような八咫鏡があったとしても、
これと同様のもの
別小鹿火宿禰、從紀小弓宿禰喪來、時獨留角國、
使倭子連(連、未詳何姓人)奉「八咫鏡」
於大伴大連而祈請曰「僕、不堪共紀卿奉事天朝。故、請留住角國。」
皇統のレガリアとは無関係な大鏡にも使われる普通名詞
>>617 >何度も書くが、日本列島では縄文時代から沿岸航行による長距離交流が普通にあった
あー、かつて倭人は100カ国が大夫を自称していたけど、今は30カ国くらい、その中で倭王と認められたのは福岡の卑弥呼だけっていう話でしょ?
交流の窓口が伊都に集約されたわけじゃん。
>>587 >九州から伝えられた内行花文鏡(平原の八咫の鏡と同じ)を(畿内では)貴重な絹に包んで安置して
桜井茶臼山古墳では三角縁神獣鏡を含む大量の鏡片が、絹の袋に入れられていたけれど?
>何度も書くが、日本列島では縄文時代から沿岸航行による長距離交流が普通にあった
日本海沿岸の話だね
>>608 >世界遺産である沖ノ島のことかな。
三角縁神獣鏡が大事に奉納されてたね
纏向まで来たらホケノ山もあるしその他の前方後円墳群もあるし
前方後円墳の完成形に取り囲まれているわけなんだよね
魏志倭人伝には書かれてないけど
江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間
589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。
江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。
>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。
>
> @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
> ロングハウス式高床建物
> A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
> 木骨泥墻・環濠村
> B石家河期(前2600〜前2000年)
> 木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html >>616 >まさかそんな朝鮮みたいな文化が本当にあるわけないだろう
日本人にはないんだけれど、日本国内に在住のコミュニティでそういう文化を
持ち込んでいる人はいるんだよ
>>641 >魏志倭人伝には書かれてないけど
つまり纒向まで来ていないんだよ。
>>619 >だからそれが、かの有名な倭種なんだよ、なにか不服でも?
東渡海「千余里」をどう説明する?
渡海ではなく、水行で移動する範囲だよ?
大国主の頃から、出雲と宗像は行き来があるぞ?
>>633 >一万二千里と認めるだけで畿内説が即死だろw
どうして?
理由は?
なぜ、九州説のひとは理解を言わないの?
>>648 北部九州までで一万二千里を費やしてしまうから
>>627 >棺外に並べてあるだけだから
九州の古墳では三角縁神獣鏡を棺内に副葬してるんだけど?
>>628 >九州の三角は三世紀、本州の三角は4世紀のバチもん
つまり、三角縁神獣鏡は3世紀からあると認めるんだね?ww
『隋書』流求国伝
>流求國,居海島之中,當建安郡東,水行五日而至
「流求国(台湾)は海島の中に居す。建安郡の東に当り、水行五日にして至る」
台湾へ水行
>>631 >別に植民地のことを詳細に伝える必要はないよ?
植民地の祖先祭祀文化と、祭祀用土器を全面的に受け入れる宗主国ってwww
>>653 失職した銅鐸職人さんたちが作った世界に誇る同范技法な
ザラコク氏の南⇒東の嘘つきだまし連呼への反論
ザラコク氏は末盧國から東南 伊都國について
まず東南に向かったと解説してますね
すると 南至投馬國 南至邪馬壹國も 最初に向かった方位でもいいでしょう
黒潮ルートとか四国南部海岸沿いルートとか考えても良いと思いますが
>>633 >一万二千里と認めるだけで畿内説が即死だろw
???
一万二千里の出どころまできちんと考察しているのは畿内説の側なんだが?
淮南子:時則訓
東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,
太?、句芒之所司者,萬二千里。
>>635 >その中で倭王と認められたのは福岡の卑弥呼だけっていう話でしょ?
「福岡の」卑弥呼が間違い
伊都国には派遣官の一大率がいる
それ以外の九州の副官はみんな卑奴母離
これだけで、九州は鄙・田舎だと日本人なら分かるんだけどな
>>639 >日本海沿岸の話だね
だから、纏向まで陸行一月が必要なんだよ
それにしても・・・・・かなり有名な話みたいだしな。
日蓮宗(それとも日蓮〜宗?)というのがあってだなwと、
よく言っている人がいたり。
どのスレだったかな、他のサイトでも言われていたり。
実際に、そういう漫画やアニメ・・・など・・・家の話でしょ。
ストーカー?
>>641 >魏志倭人伝には書かれてないけど
魏志倭人伝には、庶民の
其死、有棺無槨、封土作冢。始死、停喪十餘日。
當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飲酒。已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。
とは別に、王が死んだときには
卑彌呼以死、大作冢、徑百餘步。狥葬者奴婢百餘人。
と大規模な墳丘墓を作ることが明記されている
弥生終末期に各地の首長が成長し巨大首長墓を作る流れに取り残され
古墳時代草創期にあまり大きな古墳を作るだけの
実力がなかった九州ではないことが確定
私は、阿波説も捨てがたいと思いますが・・・阿波は領土的にハテナです 吉備とのつながりもしかりです
私は畿内とか近畿とかはどうでもいいです
京都周辺(近江・出雲・大和・越前・東海・・・の京都に近い地域)
が邪馬台国と思います
>>644 >バッキバキに破られて?
平原1号墓をディスるのはやめてやれよw
しかも、棺にも入れず墓壙の土にばらまいただけだなんて言ってやるなよ!
>>651 >九州北部の伝統は内行花文鏡だよね。
古墳時代にはその内行花文鏡はどこへ行ってしまったんだろうね?ww
>>654 >台湾へ水行
それ、島伝いだから水行でよいと何度教えれば
至高華嶼,又東行二日至郤鼊嶼,又一日便至流求。
>>661 日本海ルートは畿内説の主流じゃないですが
語ってください
>>669 全国統一されたんだろ?
大王が統一したんだろ?
考えてもみろ
三種の神器に使われている鏡種
それは至高のものとなった鏡種
大王以外の者がふんだんに持っててよいものなのか?
>>605 平屋の貧乏人が三人兄弟というだけで
自分の兄弟が三貴子(の子孫)だと妄想、宣伝してる
図々しいだろ
>>670 なるほど
九州島から本州島への島づたいね
それとも創価なのかな?
むかーしから、そういう事ばかりしているとか。
王都については、法的に発掘不可能ですが京都市東部と想定してます
江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間
589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。
江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。
>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。
>
> @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
> ロングハウス式高床建物
> A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
> 木骨泥墻・環濠村
> B石家河期(前2600〜前2000年)
> 木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html 京都市なんてこれまで発掘されまくってるだろ
王都があるならとっくに見つかってる
創価ってか遺跡みたいなん出るとバカが自分らに関連付けて主張しだすからな
わかりやすく書けば自分らの利権主張の手段として使う
>>605 天皇が偽物で自分が三貴子の直系子孫だと言っていた
川崎の菅野って奴(つぶやき)
図々しいだろ
三貴子は日本じゃないとも言っていた
京都は平安京が始まりやん
それ以前なんざただの原っぱだよ
別に何宗でも良いんだけど、
老婆談と・・・伝説(?)など、ほとんど同じ。
>>649 >北部九州までで一万二千里を費やしてしまうから
そんなに費やすという根拠は?
>>684 お前の祖国を通り過ぎるのに四千里も費やしてしまうから
>>666
>阿波は領土的にハテナです
なんの領土?
>吉備とのつながりもしかりです
吉備忌部・忌部焼(備前焼)・備前市伊部の忌部神社 等々 がちがちの忌部つながり。 @阿波 纏向王都の矢板は阿波で鉄器仕上げして持ち込まれているな
>>678さん
邪馬台国論争は江戸期からです。
京の都があり、現代にいたるまで一部を除き発掘は難しいです。
サザエさんの話?ではないと思うんだけど、
母親という人だけ裸足(素足に下駄、草履?)だとか。
あの写真の話。
>>691
だから、淡路島は倭国(阿波)の島のひとつに過ぎない と、何度言えばw @阿波 >>688 だから京都なんて発掘されまくってるだろ
これまでどんだけ建設現場が遅延してきたと思ってるんだ
とんがり帽子の埴輪もあるからな
とんがり帽子のサカはいたんやろな
烏帽子族とでもいうか
サカイ、アサカ、烏帽子、トサカ、鳥
>>655 土器は下級国民が作るもの。
筑紫の伝統である銅鏡文化はヤマト王権を通じて今日まで堅持されている。
筑紫の王墓に三種の神器が副葬されている頃、畿内は失われた銅鐸文化だったろ?
畿内が宗主だったら、筑紫の祖先礼拝を受け入れたことになるのだが?
>>670 対馬海峡のようなものを島伝いという。
中国ほどから台湾には経由するような島はないだろ。
畿内説の口から出まかせぶりには呆れるよ。
>>684 小学生にでもできる計算ができない畿内説が世間に認められるわけがないな。
近畿地方で一番広く信仰されているのはお地蔵さん
子供の守り神
地蔵盆、地蔵講は今でも続いている
現代ですら新たにお地蔵さんを祀る人もいる
お地蔵さん、道の神、塞の神、サルタヒコ、道饗祭、クナト
>>685 4千里四方だけど、南岸も少し移動するから、韓国で費やすのは七千里。
対馬海峡三千里で九州上陸。
>>697
>阿波さん 人格変わりましたか
??? @阿波 >>703 猿田彦は筑紫への天孫降臨を出迎えた人物じゃん。
畿内はなぜ筑紫の神を祀っているの?
>>703
阿波国内に 二千基程度あると云われる 「地神塔」。
阿波独特の祭礼(地神塔)
これは阿波独特のもので、寛政二年(一七九〇)に徳島藩主であった蜂須賀治昭は、神職早雲伯耆の建白を受け、県下全域に地神塔(塚)を建て、
春秋の社日(戌の日)に地神祭を行うようにさせたと言われている。
阿波藩独特の祭礼行事ではあるが、香川県の南部、 岡山県南部の瀬戸内海に面する部落、 北海道では阿波藩からの入植者のいる地域等で「地神さん」が祀られている。
その形は五角柱で、塔の五面には…
1. 天照大神
2. 大己貴命
3. 稲倉魂命
4. 少彦名命
5. 埴安媛命
が彫られている。
通説では農業五面神といわれているが、正しくは皇祖 「天照大御神」、 葦原中つ国の盟主神 「大己貴命」、 薬学の神 「少彦名命」、
稲米(五穀)の神 「稲倉魂命」、 埴土(はに: 土器や祭祀にかかわる)の神 「埴安媛命」 の五神で、
記紀神話の中でも 国土創生に欠かせない、いわば主役級の神々であり、阿波国内では神蹟の明らかな「土着の神」である。 @阿波 日本で一番多い神社は八幡神社。
九州宇佐八幡宮を本宮し、九州生まれの応神天皇を祀る神社です。
なぜ畿内も関東も九州の神を祀るの?
>>706 征服されて銅鐸を放棄して銅鏡文化を受け入れて三角縁神獣鏡を作って媚びへつらい、征服されて労働力として筑紫へ徴用され、土器を作ってせめてもの貢献をしたから。
>>605 貧乏人の系図話. びんぼうにんのけいずばなし.
以前は盛んだったのだが、と
先祖の系図話をするのが貧乏人である。
祖先の自慢をして自分を飾る。
その愚かさかげんを皮肉っていう言葉。
〔類〕賤(いや)しい者の系図調(けいずしら)べ
>>709 支配層だけでなく被支配層ですらその末裔だから実は問題なくて、2600年前はみんな九州のご近所さんだったから。
系図話は貧乏人もいるだろうけど金持ちもやるよ
一番多いのは成金だけどね
国民的放送でも定期的にやってるっしょ
サカは中国でいう塞
サカイ、ギリシャ語でサカの人という意味
アサカは聖なる人という意味、サカ族の国家名、民族名そのものらしい
堺、方違神社、八衢、八衢姫八衢彦クナト
サルタヒコは歴史の道しるべ
出雲の姫神の幸神と、クナトの神の子
京都を代表する祭りは葵祭。
賀茂建角身命を祭る賀茂神社の祭りです。
先代旧事本紀には、筑紫から大和に天降った饒速日に随伴した天櫛玉命が鴨県主の祖、天神魂命が葛野鴨県主の祖とあります。
なぜ畿内では九州から来た神をありがたく祭っているのでしょうか。
>>717 九州から来たからさ
身分に関係なくほぼ全員ね
気づいている人は気づいている。
何やら王子などの話、ほとんど漫画やアニメの話ばかり、後付け。
賀茂氏の系譜はもう一つある。
出雲の大己貴神と宗像の田心姫の間に生まれた味耜高彦根命と下照姫を祖とする賀茂氏である。
これはもう、畿内は明確に九州の勢力に支配されたということになる。
>>720 別の者達が支配されたんじゃなくて同郷の者達が統一されただけ
賀茂建角身命の息子である建玉依比古が賀茂県主の祖である。
賀茂建角身命の娘である活玉依姫(玉櫛媛、勢夜陀多良比売)が鴨川で拾った(山城国風土記逸文による)丹塗矢で懐妊して産んだ息子が賀茂別雷命、または天日方奇日方(櫛御方、鴨主)であり、娘が後に筑紫から来た神武の妃となるイスケヨリ姫(媛蹈鞴五十鈴姫)である。
天日方奇日方の曾孫が太田多根子、イスケヨリ姫の次男が綏靖天皇である。
つまりヤマト王権の祖は男系も女系も筑紫の出身とされている。
>>721 つまり畿内ヤマトの支配層は皆が筑紫の出身である。
俺は奈良湖の蛙の骨は捨てる派だが周囲は骨まで噛み砕く派が多い
>>723 順番が早いか遅いかだけで支配層も被支配層も皆が筑紫の出身
すでに気づいているだろうw
『鳳輿』〜中国から来たんだけど。
お前たちが知らないだけの話。
川崎東北菅野(天皇の家来) (百済菅野(天皇の家来)ではない)
最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》
クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。
エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。
鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。
スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
周囲が増えすぎて奈良湖の蛙が減ってきたお前らは捕るな
老婆談?・・・マサカド関係とか。
>この頃、武蔵権守となった興世王は、
>新たに受領として赴任してきた
>武蔵国守百済貞連と不和になり、>興世王は任地を離れて将門を頼るようになる。
百済〜?うらしまんと同じような事が書いてあるし、
ウラシマンは、さらに、むかーしの家の人だとか。
アマテラスの時代の百済は馬韓の伯済国
アマテラスは百済の歴史書に出てこない
『サムライ・トルーパー』
どう考えても、マサカド関係の話でしょ。
稲作は複数の時代複数ルートで伝わったんやろね
長江流域と畿内でしか見つかっていない石包丁のタイプがある
直接近畿地方に渡来した集団がいたんだろう
イネとコメ
プロパガンダ(不明)だと言っている人がいるでしょ、
反逆〜とか、主人公と悪役など・・・逆のような設定のモノがあるとかw
子供・・・何かの制服を着ているでしょ?
その家の写真だと言っているのに。
鳳輿・・・傾いた松?たしか同じ家・・・。
むかーしの事だから、よくわからない話ばかり。
何かの制服を着ているけど、たしか・・・軍人などでもないと言っていたり。
戦争などにも行っていない?
>>590 >九州では三角縁一枚か数枚をを恭しく主体部に副葬しているな
畿内では雑に扱われる鏡でも九州では最も珍重される財宝として見ているのが分かる
畿内の宗主から与えられた下賜品を大切に扱っている九州の姿がハッキリ見えているね<
違うね。関係がない。
呉系楽浪鏡師らが、魏の楽浪帯方攻撃から逃げようとして九州倭国に来て、
△などに関与した鏡師もいたが、
そこで明帝→卑弥呼の銅鏡百枚を知って、商売にならないとして、
地方の豪族に頼って、△などを造ったの。
子供が軍人のわけはないし
子供の親の制服を着た写真はないのか
ただのコスプレだな
軍服なら軍事スレに行け
服のことなら老婆の実家または親戚または近所の
二本松市 裏が菅原神社の
ワタナベファッションパーク にきけ
>>594 >方位については畿内説は弱いのは確かだけど
倭人伝は方位がすべてでは無い<
「南≠東」は、99.9%位の確率だ。
>九州だって丹がないし<
九州にも「丹=顔料」が沢山ある。
>>595 >九州で鏡が出た古墳と言うと石塚山古墳、老司古墳、一貴山銚子塚古墳が著名だがこれも殆どが三角縁が大半で数枚の中国鏡を持つ程度
三角縁のみならず他の鏡の数や種類を見ても畿内に全く及んでない
どんな夢を見て大量の鏡があると思い込んでいるのか理解に苦しむばかりだな<
畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であり、
大和は、九州倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の旧小国であり、
大和の△は、(3世紀ではなく)4世紀だ。
それにしても老婆・・・なぜか詳しかったり、
クモスケ(蜘蛛のほう)みたいだな〜とか。
老婆の旧姓わたなべ。
>>598 >一枚か数枚の三角縁を主体として大切に埋納するスタイルは関東や東北などの地方豪族と同様
九州も畿内を宗主とした地域の下位に属する存在と言うのがよく分かる発掘の結果だな <
糸島の一貴山銚子塚からは、金メッキの「黄金△鏡」が出土している。
勿論大和は、4世紀の粗悪な副葬用の△ばかり。
老婆は芸能人でもないし、あと家も。
・・・・・・・・・・何なんだろう。
>>599 地元民でひっそりとやる祭事は、国家祭祀とは言わない
倭国の広い地域から人が集まって、各地の文物が持ち寄られた状態で行う大規模祭祀が
国家祭祀に当たる
列島で、一番「広い地域から人や土器が集まった祭祀」は弥生銀座の那珂八幡など。
>>613 >現役で原著論文を書いているすべての学者が、3世紀に倭国の中心が
畿内にあったことを前提としている<
畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから×だし、
「倭國の中心が大和にあった」という事を前提にした学者は、全員、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しの、・・・・アホの詐欺学者。
ほんとーに漫画やアニメなんだよな・・・、なぜか同じような設定。
当時、結婚した家の人が〜〜〜〜〜〜とか。
ドラクエ、サムライ・トルーパーでもなさそうだし。
>>617 >纏向に大勢力があって、<
九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の旧小国があった。
>北部九州の比恵那珂遺跡群の首長と協調関係にあって<
大和は、九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の別種の旧小国の関係。
>その状態で纏向のことが大陸中華に伝わらないと考える奴は合理的思考ができないバカ<
中国は、九州倭国を相手にし、田舎の別種分家の旧小国の纏向など、相手にしない。
>>757 で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?
>>757 で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?
『ドンバ』
なぜ詳しいんだろう、たしかツブラヤ(・・・知り合いがいる)?
母親が言うには、老婆から、そういう話を聞いたことがあるとか。
>>757 で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?
>>757 で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?
>>757 で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?
>>757 で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?
>>757 で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?
>>626 まともな人間には、
ここのテンプレや類スレ主らの、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しの投稿を読むだけで、
大和説が終わっていることが分かってしまうからね
>>634 >九州に西海道風土記にあるような八咫鏡があったとしても、
これと同様のもの
別小鹿火宿禰、從紀小弓宿禰喪來、時獨留角國、
使倭子連(連、未詳何姓人)奉「八咫鏡」
於大伴大連而祈請曰「僕、不堪共紀卿奉事天朝。故、請留住角國。」
皇統のレガリアとは無関係な大鏡にも使われる普通名詞<
紀小弓自体が、九州倭国の東海姫氏(キ氏、紀氏)國の王家の人。
畿内説が推奨する学者○・けなす学者×の所属を日本地図に落とすと、
その片寄りが分かる。
が、あるはずなのにドットのない、不自然な空白地帯が残る。
この空白地こそ、奥山/キナイコシらの巣窟なのではないか・・・、
>>637 >>九州から伝えられた内行花文鏡(平原の八咫の鏡と同じ)を(畿内では)貴重な絹に包んで安置して<
>桜井茶臼山古墳では三角縁神獣鏡を含む大量の鏡片が、絹の袋に入れられていたけれど?<
鏡片自体が、卑弥呼や壹與が、「親愛なる部下に対して下賜したペンダント」のようなもの。
『渡辺 蜘蛛』
確実・・・それらしき話も出てくるし。
>>653 >つまり、三角縁神獣鏡は3世紀からあると認めるんだね?ww<
△は、渡来の呉系楽浪鏡師らの一部が造ったもので、
筑紫の志登のが一番古く、その次に祇園山や藤崎西新町が古く、
大和の△は4世紀。
>>655 宗主国の九州倭国の祖先祭祀文化と、祭祀用土器を、
全面的に受け入れた大和って。
つちぐも?この辺りが、おかしいんだよな。
>史料の上での登場は神武天皇の時代以後で、『古事記』『日本書紀』に記されている
>神話の時代には登場していない。
後付けとか?
大足彦(景行天皇)が海路で九州に入るとき、筑紫の魁帥である神夏磯媛の出迎えを受け、かわりに朝敵である土蜘蛛を討伐することを求められた。
このとき、神夏磯媛は賢木に八握剣、八咫鏡、八尺瓊を掛けて神威を示している。
これは皇位を象徴する三種の神器そのものである。
日本書紀は神夏磯媛と大足彦のどちらの立場が上であったかぼかしてあるのであるが、
神夏磯媛が筑紫を支配して三種の神器を保有していたのであるから、神夏磯媛こそが当時の筑紫倭国の女王であり、アマテラスやニニギ、卑弥呼の後継者であったと考えられる。
その尊号には筑紫の支配者を意味する帥(そち)の字が使われている。
神夏磯媛は朝廷にまつろわぬ者として、
菟狭(うさ、豊前国宇佐郡、大分県宇佐市)の川上の鼻垂(はなたり)、
御木(みけ、豊前国三毛郡、大分県中津市)の川上の耳垂(みみたり)、
高羽(たかは、豊前国田河郡、福岡県田川市)の川上の麻剥(あさはぎ)、
緑野(みどりの、福岡県北九州市紫川)の川上の土折猪折(つちおりいおり)
を挙げて討伐するように求めるが、いずれも卑弥呼時代の倭国連合の範囲内にほぼ収まる。
耳垂の名は、魏志倭人伝において投馬国の官と副官である彌彌(みみ)と彌彌那利(みみたり)とも同じである。
大足彦より前とされる神武東征の折にはすでに菟狭の川上には後の宇佐国造家の祖である菟狭津彦と菟狭津媛がいたことになっている。
すなわちこの戦いは異国や異民族との戦いではなく、倭国内部の権力闘争であり、筑紫の女王である神夏磯媛にしてみれば分家(ワケ)である大足彦忍代別の兵力を借りて国内にいる政敵を倒したことになり、
神夏磯媛が言う朝廷は大足彦ではなく自らの倭国王権を指していたことになる。
今日、本屋に行って高校生の日本史参考書がどんな記述になってるか見てきた
ほとんどの参考書が弥生時代の章の終わりに邪馬台国のことが書かれていて、
纒向遺跡が邪馬台国との関連で注目されている、というよくある記述だった
その中で山川出版社のナビゲーター日本史という参考書は、ちょっと変わってて
弥生時代の章だけでなく、古墳時代の章の最初でも邪馬台国について触れていた
箸墓古墳の築造が卑弥呼の死亡時期と一致していて、現在注目されている古墳だと紹介していた
弥生時代から古墳時代への移行を邪馬台国を絡めて、連続するような書き方だった
あと、山川出版社の詳説日本史研究という参考書も、細かい字で1ページびっしり畿内説の説明をしていた
ただ白石太一郎氏の説だから倭国大乱を畿内連合と北部九州との争いとしてるのはちょっと引っ掛かったが
今では教育現場でも畿内説がかなり浸透してきてるということなんだろう
江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間
589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。
江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。
>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。
>
> @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
> ロングハウス式高床建物
> A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
> 木骨泥墻・環濠村
> B石家河期(前2600〜前2000年)
> 木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html >>777 それはね
「畿内説と言う説がある」が浸透してきたのではないかな
>>658 >ザラコク氏の南⇒東の嘘つきだまし連呼への反論
ザラコク氏は末盧國から東南 伊都國について
まず東南に向かったと解説してますね
すると 南至投馬國 南至邪馬壹國も 最初に向かった方位でもいいでしょう<
南至投馬國は、至の前に「途中移動の文言」がないから向かっておらず、
不彌國からの側副傍線國の位置説明であり、いわゆる(・)付き説明文である。
南至邪馬壹國女王之所都は、行程の目的地説明であり、
(投馬國が側副傍線國説明であったから)不彌國からの主行程説明文であり、
至の前に途中移動があった事を示す文言がないから、
不彌國から移動するする里数無し(おそらく50里以下)で至る、という説明である。
>黒潮ルートとか四国南部海岸沿いルートとか考えても良いと思いますが <
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっており、そのすぐ南に邪馬壹國女王之所都があるので、
×です。
>>778 チンプンカンプン
>>570の投稿とどんな関係があるの?
>>659 >>一万二千里と認めるだけで畿内説が即死だろw <
>??? 一万二千里の出どころまできちんと考察しているのは畿内説の側なんだが?
淮南子:時則訓
東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,
太?、句芒之所司者,萬二千里。<
淮南子は、楽浪郡を知らず、「10尺棒での一寸千里」を知っているから、
山東半島や遼東からの東方の日本列島付近までの里数の計測や推定が出来ていたんだろう、
という事になり、
魏志に書かれた魏の役人たちの行程計測とは直接関係がなく、別情報。
類スレ主は、・・・・アホ詐欺師。
>>779 「九州説という説が元々ない」は普及せえへんの?
おかしいなあ
>>776 邪馬台国とヤマト王権を結び付けるのは反対だな
ヤマト王権は大和周辺の国ぐにが成立させたか
他の地の勢力が大和の地を制圧し成立させたと思う
畿内説が推奨する学者○・けなす学者×の所属を、
日本地図に落としてみると、不自然な空白地帯が残る。
これぞ、奥山/キナイコシらの隠れ砦ではないか・・・、
陸行一月は難解だな?
どの説でもいいから解説してくれないかな?
難波から巻向まで毎回(魏使4度)1月もかけて行くような距離でも無いし・・・
>>786
>どの説でもいいから解説してくれないかな?
「陸行一月」
陸行一月区間(旧土佐街道 別名土佐浜街道) 途中の河川は川船で渡河
投馬国(土佐国宿毛) → 途中、魏使一行 阿南市若杉山辰砂採掘現場視察 → 女王国(阿波国鮎喰川下流域集落群)
距離約350km 歩行速度11.7km/日 @阿波 >>784 なんで理由を言わないの?
ばかだから?
>>777
(山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
「魏志倭人伝」に記載される邪馬台国をめぐる論争。邪馬台国に関する研究は江戸時代以前にさかのぼるが,明治末年の白鳥庫吉と内藤湖南の論争をきっかけに,大正・昭和期におもに所在地をめぐって北九州説と畿内大和説が激しく対立した。
それぞれ倭人伝に記される行程記事と矛盾する点があり,それを克服するものとして,伊都(いと)国以降の方位についてはこれを放射状に解する
榎一雄の説がだされたりしている。
第2次大戦後は考古学・国語学・民俗学などの関連分野からの考察も加わり
,また問題点も位置論に限らず,邪馬台国の社会・政治・構造,卑弥呼(ひみこ)の
権力の性格など多方面にわたって論争が展開。
最近では日本の古代国家の特質やその成立過程をめぐる論争の一環として,さらに活発な議論がなされている。
>>789
>最近では日本の古代国家の特質やその成立過程をめぐる論争の一環として,さらに活発な議論がなされている。
いまや、阿波説が圧倒的主流。 @阿波
> (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
ま、其のうち、さらに活発な議論がなされて、山川もひっくりカエルことになるだろう
山川も、上手といえば上手だわな。
結論は避け、さらに活発な議論云々・・と、派手に実況放送しているだけ。
「また問題点も位置論に限らず,・・・など多方面にわたって論争展開。
最近では・・・、さらに活発な議論がなされている。」
>>660 >「福岡の」卑弥呼が間違い
伊都国には派遣官の一大率がいる
それ以外の九州の副官はみんな卑奴母離
これだけで、九州は鄙・田舎だと日本人なら分かるんだけどな<
「卑奴母離=ひなもり」であったのか?、という解釈が、そもそも疑問。
「卑」氏から派遣された副官である可能性が十分にあるし、
古代においては、九州内の辺縁地域は既に「鄙」とされる位田舎であり、遠かった、
という可能性もある。
>>661 >>日本海沿岸の話だね<
>だから、纏向まで陸行一月が必要なんだよ<
「南≠東」に拠って、纏向そのものが×。
>>794 で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?
>>794 で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?
>>794 で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?
>>794 で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?
>>794 で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?
>>794 で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?
>>794 で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?
>>665 >魏志倭人伝には、庶民の
其死、有棺無槨、封土作冢。始死、停喪十餘日。
當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飲酒。已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。
とは別に、王が死んだときには
卑彌呼以死、大作冢、徑百餘步。狥葬者奴婢百餘人。
と大規模な墳丘墓を作ることが明記されている<
「大作冢」は、(「大きな冢」であり、を作るではなく)「大いに(冢を)作る」であり、
「 徑百餘步」も25〜30m位であり、「大規模は墳丘墓」という事もない。
>弥生終末期に各地の首長が成長し巨大首長墓を作る流れに取り残され
古墳時代草創期にあまり大きな古墳を作るだけの
実力がなかった九州ではないことが確定<
卑弥呼や難升米らもは、魏の臣下の形だから、魏の薄葬令に制約されて、
「巨大首長墓」なんて造る事など、出来ない。
巨大墓を造ってあったら、それは卑弥呼の墓ではない事の証拠。
>>666 >私は、阿波説も捨てがたいと思いますが・・・阿波は領土的にハテナです
吉備とのつながりもしかりです 私は畿内とか近畿とかはどうでもいいです
京都周辺(近江・出雲・大和・越前・東海・・・の京都に近い地域)が邪馬台国と思います <
「南≠東」などに拠って×です。
>>667 >平原1号墓をディスるのはやめてやれよw
しかも、棺にも入れず墓壙の土にばらまいただけだなんて言ってやるなよ!<
破鏡は「親愛なる臣下へ下賜した鏡片」のつもり。
例えば、阿波や大和の鏡片は、卑弥呼や壹與から「東征将軍らに下賜されたペンダント」のようなもの。
だから、平原1号墳は、おそらく壹與の墓。
>>784 >他の地の勢力が大和の地を制圧し成立させたと思う
筑紫か出雲の勢力しかないな。
>>805
>筑紫か出雲の勢力しかないな。
どちらも、「忌部はん」 わははははは @阿波 だから箸墓だけじゃなくてホケノ山やその他の纏向前方後円墳群がこれ見よがしに乱立していたんだから、魏使が纏向に来ていたら前方後円墳だらけの光景を目にしてその墓制を記録してるだろうが。
101日本@名無史さん2020/01/30(木) 08:57:56.30
>纒向フォーラム
>渡辺義浩・早稲田大教授(中国古代思想史)は、
>「魏の文帝が「(寿陵)は自然の山を利用し、樹を植えてはならない」、
>などと定めたことを紹介し、
>「魏の使者は、卑弥呼の墓を見て中国の墓制にのっとった墓だと思っただろう」などと話した。
箸墓は自然の山か? そんなことはないだろう。畿内説は、これは定型化古墳だと自慢気に話していたわけだからな。
つまり、渡辺義浩・早稲田大教授の発言は、「箸墓は卑弥呼の墓ではありえない・・、」と断言しているに等しいのだ。
>>809 台与は、砕けたペンダントを配る方だ。
自分自身は、立派なものを所持し、副葬していなくては辻褄が合わぬ
>>669 >>九州北部の伝統は内行花文鏡だよね。<
>古墳時代にはその内行花文鏡はどこへ行ってしまったんだろうね?ww<
明帝→卑弥呼の内行花文鏡や、渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡があり、
卑弥呼らの関与鏡から部下や地方の豪族に分けられたり、
「東征毛人五十五國」将軍らに下賜されたり、
親愛なる部下に「ペンダント鏡片」にして下賜されたり、
壹與が一部を相続して、平原で鏡片破鏡された。
>>812 >壹與が一部を相続して、平原で鏡片破鏡された。
それをやってしまっては、破片を配られた臣下と同じ低位の身分になってしまって、
配られた方からすると、まったくありがたみがなくなるのだよ。
>>786 >魏使4度
こういうおかしな読み方をしてるのは九州説だと思うが
4度とは倭人伝どの文を指してるんだ?
>>814 それくらい自分で読んで数えてみろ
というより、倭人伝を論ずるものの入門編、入門資格だ。文盲めが。
>>670 >それ、島伝いだから水行でよいと何度教えれば
至高華嶼,又東行二日至郤鼊嶼,又一日便至流求。<
島伝いでも、200kmも離れていたり、二日もかかったりしては、
次の島は全く見えていないんだから、そりゃ「渡海」であり、
だから「渡海は水行に含まれる」だよ。
>>815 トンデモ読みをしてるだけだということだな
相手にする必要なかった
>>676 >王都については、法的に発掘不可能ですが京都市東部と想定してます<
「南≠東」などに拠って、×。
>>817 そりゃ、こっちの云うことだ。
文章すら読めないトンデモトンデモは、こんなところに出てくるな。
>>819 トンデモ読みしておいて、間違いを指摘されると、どの文かも提示できないんだから
自分でトンデモと認めたのと同じだ
いつもの、何事も「まったく説明できない人」でしょ
聞くだけ無駄
歴史学者の渡邉義浩先生が言った。
邪馬台国は魏志倭人伝を文献的に解釈する限り九州にはない。
早稲田の杜には、古いタヌキさんや古いきつねさんが沢山さんお住まいしてらっしゃるからね。
ダブルスタンダード、トリプルスタンダードなんか、朝飯前のお散歩程度。
>>786 行程について、最終地点までが水行十日陸行一月などとあいまい表記なのはわざと邪馬台国の位置を「ぼかした」疑いがある
それは別の段落で「会稽、東冶の東に在る」と位置をゆがめて記している事とも関連している
つまり魏と敵対している「呉」の背後の位置(沖縄辺り)に倭国、邪馬台国が在ると匂わせる、挟撃するぞという意味
魏は呉の水軍に悩まされていたから背後に海人の国(水軍の強い国)があると思わせて牽制したい
だからわざわざ「金印」を授けて友好関係を持った、「親魏倭王」は破格の扱い
ちなみにもう一か国金印授かったのは「蜀」の背後方面にあるクシャーナ朝
まあこの辺はむかし「BS歴史館」で三国志研究者(渡邉義浩氏)が言ってたことなんだけどね
磯田氏「ショックだ〜」
魏にとって半島から近すぎず程々の距離、呉に対面している位置で海人の国だと都合がいい
>>814 畿内説推しの渡邉義浩氏も「10年間に4度も」とBS歴史館で言ってるが
>>828 >行程について、最終地点までが水行十日陸行一月などとあいまい表記なのはわざと邪馬台国の位置を「ぼかした」疑いがある
ボケているのはお前の頭だ。
公式な報告書でそんなことが許されるわけがない。
邪馬台国まで一万二千里と明記してあるのだから、そこにかかる日数が併記してあるだけ。
>>828 >魏にとって半島から近すぎず程々の距離、呉に対面している位置で海人の国だと都合がいい
むしろ本来の位置よりも南、呉の近くに倭があると思わせる必要もあったかもね。
だからうすうすおかしいと思いながらも短里を許容したのかもしれない。
畿内説推しの渡邉義浩氏
とはいえ、これは2018年3月の収録だ。問題はその後だな、、、
畿内説推しの渡邉義浩(2015年6月)
【倭国の官制】
・中国と類似:徴税制度、貯蓄倉庫、市を監督する官僚(大倭)、刺史に似た監察官(大率)
・大率を一人、伊都国に置き、諸国を監察させている。これは中国でいう刺史に似ている
※刺史は地方の州に置かれた機関。他方、首都には司隷校尉が置かれた。
→つまり、福岡県にあったとされる伊都国は、首都圏から外れている
→首都の邪馬台国は、九州ではないことが類推される
>>672 >三種の神器に使われている鏡種
それが内行花文鏡であるという資料は一切ない
ただの九州説の思い込みのみだ
宮中の八咫鏡の方は、内裏の火事の時のに見られた面径が伝わるのみだが、
九州説に大好きな平原1号墓の割るためにタダ大きく作った手抜きの二尺鏡の半分の
径一尺程度だ
>>674 >九州島から本州島への島づたいね
九州から本州へは入り江の入り口を横切るだけだよ
https://imgur.com/LEf95qW ただの沿岸航行
これを渡海千里と表現したと言い出すのはバカ
>>834 >・大率を一人、伊都国に置き、諸国を監察させている。
アホか・・・
大率を一人、伊都国に置き、諸国を監察させているのなら、
それは長官だろうが。
部下の刺史達が諸国で監視業務にあたっているのだ。
大率のいる伊都国が首都だ。
>>828 >畿内説推しの渡邉義浩氏も「10年間に4度も」とBS歴史館で言ってるが
渡辺は「魏の使者が」とか言ってないし
10年間に4回というのは倭国の使者が中国に行った回数のことだ
>>699 >どこに行ったと思う?
そんな伝統は最初からない
多鈕細文鏡も、連弧文鏡(日光鏡)も、日田の金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡も内行花文鏡じゃないのにww
全部ごっちゃにして王の鏡だとか言ってるのが九州説のバカなところ
>>836 >九州から本州へは入り江の入り口を横切るだけだよ
>ただの沿岸航行
>これを渡海千里と表現したと言い出すのはバカ
そのとおりだね、
だから、渡ったのはここではなかったのだよ。
多分大分の中津〜宇佐あたりから山口の徳山方面へ渡ったことを書いたのだろうね
>>837 >大率を一人、伊都国に置き、諸国を監察させているのなら、
>それは長官だろうが。
>部下の刺史達が諸国で監視業務にあたっているのだ。
これ、妄想
刺史は皇帝直属だから
>>840 >多分大分の中津〜宇佐あたりから山口の徳山方面へ渡ったことを書いたのだろうね
恣意的な遠回り想定って
ナンセンス
>>700 >中国ほどから台湾には経由するような島はないだろ。
至「高華嶼」,又東行二日至「郤鼊嶼」,又一日便至流求。
島の名前も明記されてるぞww
航海術の発達した別の時代とごっちゃにしても無意味だよ
隋書の時代には自衰なんか乗せてないだろ?
九州説は原資料を読まないし、何でもごっちゃにしてチェリーピッキングするから
意味にある整合性の取れた論立てができない
>>838 >渡辺は「魏の使者が」とか言ってないし
>10年間に4回というのは倭国の使者が中国に行った回数のことだ
その通りだが、それでも魏の時代には2回来てるといってる。それ以外にも後漢時代を含めて少なくとも2回以上の往来記述がある。
>>824 >恣意的な遠回り想定って
>ナンセンス
「千里の海を渡った」と書いているのだよ。
それを関門海峡だったと強弁するのは、恣意的な近回りだ。
>>843
>意味にある整合性の取れた論立てができない
意味にある整合性の取れた論立てができるのは、倭国(阿波)だけだよ。 @阿波 >>709 >日本で一番多い神社は八幡神社。
>九州宇佐八幡宮を本宮し、九州生まれの応神天皇を祀る神社です。
>なぜ畿内も関東も九州の神を祀るの?
ヒント、源氏
>>844 結論
「魏使4度」は妄想
同じ道を4回通ったというならまだわかるが
そのたび記録なんて取らん
>>846
>それを関門海峡だったと強弁するのは、恣意的な近回りだ。
その通り。 「千里の海を渡った」ところは、紀伊水道。 @阿波 >>848 いつもの「まったく説明できない人」が出た
>>709
>なぜ畿内も関東も九州の神を祀るの?
倭国(阿波)にいた神だよ。 @阿波 >>846 >「千里の海を渡った」と書いているのだよ。
>それを関門海峡だったと強弁するのは、恣意的な近回りだ。
つまり
本州が東渡海千余里の倭種国だという説は
破綻してる
>>853
>本州が東渡海千余里の倭種国だという説
本州というより、紀伊半島だね。 @阿波 >>802の訂正
>魏志倭人伝には、庶民の
其死、有棺無槨、封土作冢。始死、停喪十餘日。
當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飲酒。已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。
とは別に、王が死んだときには
卑彌呼以死、大作冢、徑百餘步。狥葬者奴婢百餘人。
と大規模な墳丘墓を作ることが明記されている<
「大作冢」は、(「大きな冢」を作るではなく)「大いに(冢を)作る」であり、
「 徑百餘步」も25〜30m位であり、「大規模は墳丘墓」という事もない。
>弥生終末期に各地の首長が成長し巨大首長墓を作る流れに取り残され
古墳時代草創期にあまり大きな古墳を作るだけの
実力がなかった九州ではないことが確定<
卑弥呼や難升米らもは、魏の臣下の形だから、魏の薄葬令に制約されて、
「巨大首長墓」なんて造る事など、出来ない。
巨大墓を造ってあったら、それは卑弥呼の墓ではない事の証拠。
>>804 >破鏡は「親愛なる臣下へ下賜した鏡片」のつもり。
下賜したつもりが全部自分の墓穴に雑に放り込まれていたら、
捨てられた王ってことにしかならないんじゃね?ww
平原1号墓は伊都国ローカルの有力女性の墓だよ
九州説は他にトピックがないからだろうけど、持ち上げすぎ
吉野ヶ里北墳丘墓の中央埋葬者の方が格上
>>856
>巨大墓を造ってあったら、それは卑弥呼の墓ではない事の証拠。
その通り。 @阿波 >>808 >だから箸墓だけじゃなくてホケノ山やその他の纏向前方後円墳群が
これ見よがしに乱立していたんだから、
魏使が纏向に来ていたら前方後円墳だらけの光景を目にしてその墓制を記録してるだろうが。<
「南≠東」などに拠って×。
>>855 鎧袖一触すぐ負ける九州説
反論できず罵るだけ
みじめ
>>856 >卑弥呼や難升米らもは、魏の臣下の形だから、魏の薄葬令に制約されて、
魏に薄葬令なんて無いよ
渡海千里なら、文化が違う宗像地方は邪馬台国に含まれないから女王国からだと下関まで渡海千里かかるって結論してなかったか?
>>851 日本史の知識がないとヒントをもらっても分からないんだな
鶴岡八幡宮って知ってるか?
源氏が武家の棟梁として、八幡神を信仰したから、
武門な各家がそれぞれ八幡神を勧請分祀したので日本中に八幡神が祀られているんだよ
同じように上杉謙信が諏訪大神を信仰したから越後国は諏訪神社だらけだ
>>858 自分の意見がなくて賛成だけ書き込む人は
多くの場合アホの自演だが
まれに素でやるアホもいる
>>862
>文化が違う宗像地方は邪馬台国
文化が違う宗像地方が、邪馬台国側。 @阿波 >>854 >本州というより、紀伊半島だね。
四国から本州へ渡るには「淡路」島を通るから、やはり渡海千里とはならないだろ?ww
卑弥呼の直属の大率が周辺の諸国を検察して実効支配をしていたのなら、その大率が置かれている伊都が首都じゃないか。
そもそも魏志倭人伝には、他に首都にあたる国邑の名前が出てこない。
>>867 そのとーり
単にキナイコシがダダこねてるだけで、最近の考古学成果を見たらみんなもう伊都九州説と思ってるよ
平成30年(2018)10月14日
>纒向学 東京フォーラムVII
>渡辺義浩・早稲田大教授(中国古代思想史)は、
>「魏の文帝が「(寿陵)は自然の山を利用し、樹を植えてはならない」、
>などと定めたことを紹介し、
>「魏の使者は、卑弥呼の墓を見て中国の墓制にのっとった墓だと思っただろう」などと話した。
このフォーラムでは、上の渡辺義浩発言と共に、寺澤薫も箸墓撤退を表明した。
これ以降の、邪馬台国畿内論者の発言が注目される。
>>866
>「淡路」島を通るから
それがなにか? @阿波 >>842 3世紀の時点で関門海峡を安全に通過することはできない。
だから小倉(岡田宮)が陸上の回避ルートとして重要だったんだよ。
>>862 >渡海千里なら、文化が違う宗像地方は邪馬台国に含まれないから女王国からだと下関まで渡海千里かかるって結論してなかったか?
このように、九州説はどんどん邪馬台国を矮小な取るに足りない国へと格下げしていく
七万戸の大国と書かれていることは全無視ww
宗像地方と文化が違ったところで、倭種で倭人の国なのは間違いないし、
地続きの沿岸を通るのに渡海とは表現しない
渡海じゃないだろ?
>>826 >歴史学者の渡邉義浩先生が言った。
邪馬台国は魏志倭人伝を文献的に解釈する限り九州にはない。<
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
文献での「南≠東」であるんだから、
早稲田の渡邊は嘘つき騙しの詐欺師であり、
早稲田の恥でもあり、日本の大学教授の恥。
>>857 >下賜したつもりが全部自分の墓穴に雑に放り込まれていたら、
破鏡は畿内でも見られる倭人の一般的な風習だから、あんたがこき下ろしても無駄。
関門海峡は、仲哀天皇の御代に開削されたというが、
おそらくこれは、急潮流を避けるために、下関と彦島の間の抜け道水路を拓いたことを云っているのではないか。
これにより関門は安全に通過できるようになった。
>>857 >平原1号墓は伊都国ローカルの有力女性の墓だよ
副葬品は空前の豪華さであり、とてもローカルだとは思えない。
そもそも鏡以外はほとんど舶来品だからだ。
大陸からの宝飾品がほぼ全て平原の被葬者に捧げられている。
そしてそれは卑弥呼の治世の出来事であった。
魏志倭人伝は伊都の様子を詳しく述べているが、卑弥呼の他にそんな権力者がいたことは記されていない。
>>867 その状況は卑弥呼が支配しているであって、一大率が支配しているとが言わないww
それに邪馬台国の筆頭官、伊支馬の立場は?ww
この一大率を大率と捏造する九州説の人はバカ
>>877 >破鏡は畿内でも見られる倭人の一般的な風習だから、あんたがこき下ろしても無駄。
壺にも入れず墓坑の土にそのままばらまかれているのが倭人一般の風習とは聞いたことがないなww
>>863 諏訪の神だって出雲の末裔だろ。
つまりこの国の主な神社は、筑紫、出雲、越のいずれかの神を祭っているんだよ。
それは大和だって例外ではない。
>>857 >吉野ヶ里北墳丘墓の中央埋葬者の方が格上
苦し紛れに根拠もなく何を言っているのだ?
>>871 >それがなにか?
淡路島が「阿波への路」だから淡路島なんだろ?
そしてこれは古い地名だ
四国と淡路島の間を渡海千里とは言わないよな?
>>870 >このフォーラムでは、上の渡辺義浩発言と共に、寺澤薫も箸墓撤退を表明した。
その後、渡辺はどのように発言してるのか、或は沈黙してるのか。ネットではさっぱりわからんが??
>>876 >は?渡海だろ
お前、バカだろ?
https://imgur.com/LEf95qW どこからどこに渡るんだ?
>>863 説明になってない
石清水八幡宮の勧請は清和源氏成立前
>>853 当時は今よりずっと広かった遠賀川の河口じゃないかねえ。
入り組んだ複雑な海岸線だったらしい。
そして門司からはほぼ陸続きで本州という扱いだったのだろう。
>>883 >壺にも入れず墓坑の土にそのままばらまかれているのが倭人一般の風習とは聞いたことがないなww
魏志倭人伝に棺有り槨無しとあるがw
魏志倭人伝を無視して聞いたことがないとは片腹痛いわw
>>881 卑弥呼は人前に姿を見せないんだろ。
だから「君臨すれども統治せず」みたいな状況で、倭国の実権を掌握していたのは大率だろ。
>>828 >行程について、最終地点までが水行十日陸行一月などとあいまい表記なのはわざと邪馬台国の位置を「ぼかした」疑いがある<
「あいまいな表記」になっておらず、「不彌國のすぐ南」とする極めて明快な記述であり、
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、この男も×男。
>それは別の段落で「会稽、東冶の東に在る」と位置をゆがめて記している事とも関連している<
陳寿の「女王国の位置推定」は「会稽東治之東」であるから、この男がまた騙した。
>つまり魏と敵対している「呉」の背後の位置(沖縄辺り)に倭国、邪馬台国が在ると匂わせる、挟撃するぞという意味
魏は呉の水軍に悩まされていたから背後に海人の国(水軍の強い国)があると思わせて牽制したい
だからわざわざ「金印」を授けて友好関係を持った、「親魏倭王」は破格の扱い <
この男が、「分裂幻覚の妄想的な嘘つき騙しの、・・・・アホ詐欺」であった証拠。
>ちなみにもう一か国金印授かったのは「蜀」の背後方面にあるクシャーナ朝
まあこの辺はむかし「BS歴史館」で三国志研究者(渡邉義浩氏)が言ってたことなんだけどね
磯田氏「ショックだ〜」
魏にとって半島から近すぎず程々の距離、呉に対面している位置で海人の国だと都合がいい<
魏使らにとっては、実地に見聞計測した事を報告する事が仕事であり、
渡邊も磯田も、「南→東」などの嘘つき騙しに狂った・・・・アホ詐欺師の大和説学者。
>>880 >とてもローカルだとは思えない。
個人の感想ですねww
平原1号墓は単に仿製の銅鏡がやたらたくさん出るだけ
青銅製品の量なら荒神谷遺跡の銅剣の方がよほど多いが、
荒神谷遺跡の主祭者を九州説の連中は倭王とは考えないんだろ?
そして、銅鏡の枚数以外では丹波の王墓の方が豪華だよ
でもこれも地方首長墓と考えられている
舶載鏡が古いもの2枚だけでは3世紀の倭王の墓と見るのは無理
>>893 >だから「君臨すれども統治せず」みたいな状況で、
男弟が佐治してますが、何か?
>>891 >魏志倭人伝に棺有り槨無しとあるがw
前期古墳に槨は無いのでノープロブレム
>>895 当時の地理状況では川と認識できないんだよ。
>>898 平原の話をしているんだろ?
流れを読んでいないのか?
コミュ障?
>>897 でもその弟は名前すら記録されず、実権はないよね。
実権は大率にあったのは魏志倭人伝から明らかで、それは伊都が倭国を支配していたとも言える。
>>832 >むしろ本来の位置よりも南、呉の近くに倭があると思わせる必要もあったかもね。<
ない。
魏の役人たちは、「実地の見聞計測の、出来るだけ正確な記録を残す」事が仕事。
>だからうすうすおかしいと思いながらも短里を許容したのかもしれない。<
だから、この男も、「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの匂わせをして、
世間の人々や高校生や人類を騙す必要があったのかも知れない。
>>833 >畿内説推しの渡邉義浩氏
とはいえ、これは2018年3月の収録だ。問題はその後だな、、、<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
早稲田の渡邊は、教授だから、もう充分に脳が固まってしまっており、
もう一生治らん精神的な病気だな。
こんな・・・・アホ詐欺師を教授にした早稲田の経営者らも同罪だ。
>>833 >畿内説推しの渡邉義浩(2015年6月) 【倭国の官制】
・中国と類似:徴税制度、貯蓄倉庫、市を監督する官僚(大倭)、刺史に似た監察官(大率)
・大率を一人、伊都国に置き、諸国を監察させている。これは中国でいう刺史に似ている
※刺史は地方の州に置かれた機関。他方、首都には司隷校尉が置かれた。
→つまり、福岡県にあったとされる伊都国は、首都圏から外れている
→首都の邪馬台国は、九州ではないことが類推される<
女王国の首都は福岡平野中央部〜筑紫平野付近のあり、
糸島の伊都国は、その時点で首都から離れたところで、「諸国を監察」しているから、
何の問題もない。
つまり、渡辺は、勝手に存在もしなかった「畿内」に首都を置こうとしている訳で、
渡邊は、・・・・アホ詐欺師。
早稲田の学生が可哀そう。
>>835 >>三種の神器に使われている鏡種<
>それが内行花文鏡であるという資料は一切ない ただの九州説の思い込みのみだ
宮中の八咫鏡の方は、内裏の火事の時のに見られた面径が伝わるのみだが、
九州説に大好きな平原1号墓の割るためにタダ大きく作った手抜きの二尺鏡の半分の
径一尺程度だ<
「内向花文」という「原則八つの花弁模様の存在」と、
その「一つの花弁の大きさが大体一咫」位だ、という事が、
「八咫鏡」というものの原義だ。
そして、その1咫を、一つの花弁の円周に採るか、半周に採るか、直径に採るか?などで、
いくつかのサイズの八咫鏡が発生しただけだ。
>>836 >>九州島から本州島への島づたいね<
>九州から本州へは入り江の入り口を横切るだけだよ
https://imgur.com/LEf95qW ただの沿岸航行 これを渡海千里と表現したと言い出すのはバカ<
九州から本州の行程は書かれていない。
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」の行程も、
宇佐や国東半島付近から伊予への渡海であり、
魏使らは伊予から四国の西岸を南下して、
足摺付近の侏儒國付近まで行った。
勿論、出雲に行くのは、「南≠東北」であるから、×。
>>849 日数は2回としても、近似値となる
難波から巻向までの距離で1月は無いよ
>>909 ないなら、なぜ裴世清はそれ以上かかってるの?
???
>>838 >>畿内説推しの渡邉義浩氏も「10年間に4度も」とBS歴史館で言ってるが<
>渡辺は「魏の使者が」とか言ってないし
10年間に4回というのは倭国の使者が中国に行った回数のことだ<
「其四年(正始四年)」は、
「倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人、上獻生口倭錦絳青糸兼緜衣帛布丹木hu短弓矢。
掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬」であり「上獻」しているから、
倭国使者は洛陽まで行った可能性があり、
「其六年」も「詔賜倭難升米黄幢、付郡假授」と「詔」を述べているから、
難升米は洛陽まで行った可能性はあるが、
「其八年」は、
「太守王kui到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯烏越等詣郡説相攻撃状。
遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、拜假難升米爲檄告喩之」であり、
「載斯烏越等」は郡までしか行っていない事になり、
張政らが「齎詔書、黄幢、拜假難升米爲檄告喩之」だけであり、
倭国の使者が皇帝にあったのか?は不明だ。
要するに、早稲田の渡邊は、ちょっと頭の弱い・・・・アホだな。
>>910 隋からの使者、裴世清は倭国のどこへ来たのか?
どういう行程で?
>>910 島国日本で陸行一月はありえない。
陸行1日の誤りだろう。
>>841 以上、「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説は、
「史料事実の否定曲解」の分裂幻覚の「嘘つき騙し」の妄想で出来てることが
よくわかる
>>910 裴世清が訪れたダイ国は、
東西五月行、
南北三月行の四国以外には存在しえない。
近畿は東西南北同距離で、地形も違い、
海も全くない奈良にダイ国があったとは、
空想することさえ難しい。
>>910 裴世清は難波の鴻臚館から
どこまで 1月以上かかってるの?記述は?
>>913 若狭湾で上陸して南に一ヶ月も陸行したとしても、また太平洋にドボンだよ
若狭湾から奈良北部まで歩いて3日ほどだから
奈良には南からアプローチですわ
奈良をボコボコにして始まるのがヤマト政権
記紀にある通り大阪側は敵の本拠地
伊吹山にはヤマト政権に最後まで抗った伊吹山の荒ぶる神
記紀の通り若さや大阪から奈良にはアプローチできまへん
最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。
◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット
鼎は穀物を煮炊きする三足と直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と釜と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
>>857 >>破鏡は「親愛なる臣下へ下賜した鏡片」のつもり。<
>下賜したつもりが全部自分の墓穴に雑に放り込まれていたら、
捨てられた王ってことにしかならないんじゃね?ww<
平原は、「大量の玉と鏡の女王」であり、
玉は、女性としての頂点であった事を示し、
鏡片は、生前に鏡片を下賜する地位にあった事を示し、
鏡片の数だけ、鏡を使って奇跡を起こし、
家臣らにかしづかれていた女王であった、という事を示す。
滋賀の愛知川より北は伊吹山の荒ぶる神の縄張り
南の斗西遺跡は纒向と同じ外来系の土器が主体
それより北は在来系
愛知川は前線ですわ
>>860 「南≠東」などで鎧袖一触、すぐ負ける大和説
反論できず罵るだけ
みじめ
と言う事で
巻向王都せつは陸行1月でも説明できないことが確定しました。
>>861 >>卑弥呼や難升米らもは、魏の臣下の形だから、魏の薄葬令に制約されて、<
>魏に薄葬令なんて無いよ<
曹操以来、皇帝らが「厚葬」を否定しているのに、
家臣らも「薄葬」しない訳にはいかないよ。
>>919 普通ならありえないルートからアプローチしたので神武は優勢に立てた。
奈良盆地に入るなら、普通は大阪から上陸。
しかしそこは敵にとっても重要な土地だったから、撃退されてしまった。
>>870 >平成30年(2018)10月14日 纒向学 東京フォーラムVII
渡辺義浩・早稲田大教授(中国古代思想史)は、
「魏の文帝が「(寿陵)は自然の山を利用し、樹を植えてはならない」、
などと定めたことを紹介し、
「魏の使者は、卑弥呼の墓を見て中国の墓制にのっとった墓だと思っただろう」などと話した。
このフォーラムでは、上の渡辺義浩発言と共に、寺澤薫も箸墓撤退を表明した。
これ以降の、邪馬台国畿内論者の発言が注目される。<
何だ?、それじゃ、祇園山は、
「自然の山を利用し、樹を植えてはならない」にピッタリではないか。
それよりも、繋がっているでしょ?
『旧広瀬座』
というところの話とか、芸能関係の話をしていたり。
酒、宴?〜という話も出てきたり、むかーしの中国の?
小野某という人物の話も出てきたり。
家は『鳳輿』・・・?このような名前だとw
名前の読み方も?何か言っていたり。
老婆は渡辺(旧姓)。
>>881 >それに邪馬台国の筆頭官、伊支馬の立場は?ww<
邪馬壹國は、
(日田の)邪馬部族と伊都国系の「阿毎=アマ+イ=天、海の伊や壹」氏の、
合同国であるようであり、
「伊支馬」は、「伊」氏の「支馬」という意味も呼称であった可能性がある。
>>882 >邪馬台国は奈良ですわ<
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから×であり、
「奈良」は「南≠東」のために×ですわ。
決まって引きこもりが畿内説やってんだよな
社会知らずが古代社会を妄想してさ
馬鹿じゃね?w
蚕を飼い、機織りなんかをしている家・・・。
本や書なども沢山並んでいたとか。
誰かに、あげたりしたのかな〜・・・・・・・・・・。
クラの中にも、掛け軸や壺などがw
溝が2本出てきただけで
日本初の計画的な都市、邪馬台国の巨大な首都まで妄想膨らますからな
でもそんなに嫌いじゃないぜ
本来古代史なんて荒野に夢を駆け巡らせる様なもんだからな
荒野じゃない
東アジアで唯一金印を渡された先進国家だ
>>893 >卑弥呼は人前に姿を見せないんだろ。
だから「君臨すれども統治せず」みたいな状況で、倭国の実権を掌握していたのは大率だろ。<
うーん?、どちらかと言えば、「実権を掌握していた」のは、「大夫」らだろうなあ。
>>938 曹操は朝貢を欠かさない卑弥呼の生真面目さを評価したんだよ
卑弥呼を愛おしく思うと書いてあっただろ
『姥清水』
こういう話も、
なぜか?家の話のような気がしたり。
邪馬台国が先進国だの大国だったのと妄想してる畿内教徒は病気
>>897 >平原1号墓は単に仿製の銅鏡がやたらたくさん出るだけ<
いや、明帝の下賜鏡を示す21枚の「 尚方作」の方格規玖鏡などや、
渡来の呉系楽浪鏡師らの「関与」が考えられる内行花文鏡などは、
仿製とは言えない。
>青銅製品の量なら荒神谷遺跡の銅剣の方がよほど多いが、
荒神谷遺跡の主祭者を九州説の連中は倭王とは考えないんだろ?<
平原は、筑紫の女王の「おそらく壹與」の墓。
>そして、銅鏡の枚数以外では丹波の王墓の方が豪華だよ
でもこれも地方首長墓と考えられている<
丹波は、出雲と越の空白的地域であったのであり、
おそらく、播磨から北上した「東征毛人五十五國」の別動隊に征服された地域の一つ。
>舶載鏡が古いもの2枚だけでは3世紀の倭王の墓と見るのは無理<
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しをし、
21枚の「尚方作」鏡の事を隠蔽するインチキをするようじゃ、
類スレ主らは、まともな死に方をするのは無理。
>>898 >>魏志倭人伝に棺有り槨無しとあるがw<
>前期古墳に槨は無いのでノープロブレム<
前期古墳とは、大和の事を言っているようだが、
庄内1の石塚が3世紀末で、庄内3〜布留のホケノが3世紀最末〜4世紀なので、
いずれも卑弥呼の墓にならず、×。
平原遺跡の舶来品の宝飾品の数々を見ると、卑弥呼は中国趣味どっぷりだったのだろう。
郡使も滞在中は楽浪土器で食事をしながら、邪馬台国の伊都の豪勢な様子を報告書にまとめ、魏の皇帝もそんな倭を同盟国とするために厚遇したことになる。
>.910
>ないなら、なぜ裴世清はそれ以上かかってるの?<
書紀の造作であったから。
書紀記載の「裴世清の大業4年の大和への渡来」は、中国側の記録になく、
書紀も「(隋使ではなく)唐使」と記載しており、
延喜講記に書かれた開皇末の小野妹子も「日本國」を名乗って、隋文帝に叱られ?、
その後何もなく、唐の「武徳」中になって、「日本國」の国号を認められており、
書紀の裴世清の大和への渡来は、
大業4年の12年後位の唐の武徳中であった話が多く、
従って、唐使の裴世清の渡日の記載は、書紀の造作。
>>924 >と言う事で
巻向王都せつは陸行1月でも説明できないことが確定しました。<
出雲経由もあり黒潮ルートもあり・・テンプレ=私見だろが
畿内説の恥さらし瀬戸内航路は止めたほうが良い
行程無視するのが畿内説なんだから・・こだわらなくていい
>>912 >隋からの使者、裴世清は倭国のどこへ来たのか?<
隋の使者の「裴清」は、大業4年に、
(「西日本全体や大和を含む場合を示す倭國」ではなく)、
阿蘇山のある九州付近の俀國に来たの。
>どういう行程で?<
上遣文林郎裴清使於俀國。
度百濟、行至竹島、南望身冉羅國、經都斯麻國、迥在大海中。
又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國・・・(又經十餘國達於海岸自竹斯國以東皆附庸於俀。)
俀王遣小徳阿輩臺、従數百人、設儀仗、鳴鼓角來迎。
後十日、又遣大禮哥多毘、従二百余騎郊勞。既至彼都。
>>940 >曹操は朝貢を欠かさない卑弥呼の生真面目さを評価したんだよ
卑弥呼を愛おしく思うと書いてあっただろ<
曹操ではないし、明帝の時も一回きりだろうな。
>>913
>島国日本で陸行一月はありえない。
有る。 @阿波 隋書の倭国は十万戸
魏代に七万戸なので、増えたといっても3割弱程度
倭国には阿蘇山を含むことから、九州島を含む
ということは
倭国=九州島限定なのだろう
>>950 >>910はアホだから 奥山じゃねーの
老婆談・・・、ほとんど同じことを言っているし、何なんだろう。
>>956 朝廷が中国にペコペコしてたのは確かだな
豊臣秀吉はスゴイ人物だな
隋に国書を送ったのは九州の倭国。
日出処の天子云々の国書で対等外交を目指したが拒絶された。
白村江の敗戦で日本国が傀儡政権として誕生すると、遣唐使による唐の制度の模倣が始まった。
>>957 >朝廷が中国にペコペコしてたのは確かだな
豊臣秀吉はスゴイ人物だな<
それどこかの書物で読んだ記憶があります・
朝廷(天皇制)が権力をもった背景が大陸とか??
秀吉は朝廷を利用したが、天皇なんて馬鹿にしてたかも
>>959 家康もし天皇なんて利用しただけ
江戸期の朝廷なんて、困窮してたか
官位乱発して銭稼ぎしてたのは有名だよ
維新もそうだろ、朝廷は大義名分に利用するだけなんだろy
太平洋戦争もしかり、天皇がしかけたわけでもないし、天皇おかざりじゃねーの
>>956 >随書
中国は大和王政馬鹿にしてるな<
馬鹿にしてないよ、同族として認めてると思う
天皇は渡来系倭人だから??
>>961 蘇我氏調べて御覧
百済じゃん
大和朝廷は九州倭人と渡来人連合が作った国だよ
卑弥呼は各々軍隊をかかえる30国間のもめ事を押さえるために共立された。
つまり倭の30国によって共立されたという威光を以て、ある国が暴れたら他のいくつかの国に命じて抑えることができた。
しかし江戸期に入り、家康一人で全国各藩を取り仕切るようになると、各藩の士族は弱体化し、天皇も力を失い、徐々にお飾りになって行った。
家康一人の権力にとってかわられたわけだ。
明治になると、薩摩長州連合の官軍なる体制の力が一層顕著になった。
おまけに徴兵制によって、全軍隊も維新政府に属することになって、各藩相互の武力牽制体制は完全に消滅し、
全日本官軍の思うままに物事が進められるようになったわけだ。
天皇制とは、不仲で乱立する諸国を押さえるには良いが、全国統一された独裁国家を押さえるには向いていないのだ。
そこに大きな課題がある。
、
難波から巻向まで陸行1月はないな
九州説も陸行1月??
陸行一月は1日の間違いかな
陸行一月に限り 阿波説が良いが
倭人伝の部分的な抽出だけど
むずいな 各説
巻向は大和説で古墳造営基地がしっくりいく・・卑弥呼の都は他に求めたほうが良い
鎌倉幕府以降、全国統一された独裁国家の連続だろ
それを
天皇制だからこそ押さえてきた
大きな課題などとのたまうお前さんは一体???
>>962 >大和朝廷は九州倭人と渡来人連合が作った国だよ<
賛同する
天皇陛下万歳では邪馬台国は語れない
宮内庁も邪馬台国を語らないのが現実
小椋佳の曲と同じ、
実際は天皇(日本のw)よりも上の家があるんだろう。
『小椋佳 きみは それ以上』
畿内説は寺澤しかりだが気骨がない
モモソ=卑弥呼で無いことは畿内説では周知
しかしだらしないよ 畿内説の石野や寺澤等の一部の学者か知らんけど
宮内庁が箸墓=倭迹迹日百襲姫命の墓に治定したとたんに
箸墓=卑弥呼の墓っ説から逃亡しちゃうんだから
>>964
>陸行一月に限り 阿波説が良いが
「其山有丹」でも、阿波一択! わははははは @阿波 宮内庁が何かな
史学会考古学会はすでに邪馬台国畿内説が前提
とある曲(そういう時代があったのかな)も、
ほとんど同じようなコンセプトばかりだしな・・・。
>>964
>陸行一月に限り 阿波説が良いが
「橘」でも、奈良盆地や北部九州は即アウト! わははははは @阿波 >>969 村おこし 銭稼ぎ 助成金をもらう手段
石野が一番悪い 寺澤以下は雑魚
これも以前書いたはずw
『渚・モデラート』
出生名・・・・・・・劉。
>>973
それでも、我を張るトンデモ説! @阿波 家とking・・・なぜか同じような話?、
ほとんど老婆談なんだけど。
>>968
小椋佳 きみは それ以上
恋愛の歌
何妄想してんだ
天皇の家来の菅野 公務員も65歳定年制にすれば良いと思います。
公務員から離れた瞬間に人が変わります。
食うために 天下りするには必要なんだろうけど・・
畿内説互助会は税金の無駄遣い
老婆はワタナベというんだけど、
家のほうが・・・何かの家の人だと言われたと言っているし。
『渡辺源氏』?
>>727 >気づいている
>知らない
矛盾を知らない中卒(以下)
お前ももう気づいているだろう
川崎東北菅野(天皇の家来) (百済菅野(天皇の家来)ではない)
例えば、渡辺(渡辺源氏、不明)・・・、
むかーしの皇族のような事が書いてあるでしょ。
>>967 >天皇陛下万歳では邪馬台国は語れない
宮内庁も邪馬台国を語らないのが現実<
だから、箸墓はモモソの墓なんだよ
根拠はべつにして卑弥呼の墓と言う学者は勇気がある
誰かの投稿じゃないけど
寺澤が20年前から、箸墓が卑弥呼の墓では無いと言う証拠も無いし
鉄器が無いという証拠
ホケノ山やら纏向古墳群やらが既に乱立して板のに
その墓制が記載されていないという証拠
寺澤なんて 末端の地方公務員の考古学者もどきだよ
どうでもいいじゃん このスレ寺澤をPRするスレでもないし
本論に戻るが
万二千余里は行程なのか、群からの直線距離なのか誰かろんじてくれる
むかーしの中国の話なのかな・・・、
ほとんど引用だとか?天皇(日本の)なんて知らないと言っているし。
日本の天皇?テレビなどにも映ったりするでしょ、
老婆自身も『❓』・・・このような反応だしな。
>>990 終わるよ・・・
もうすぐ1000だよーーー
次スレで語れよ
アホ奥山暇人だから次スレ建てるから
>>990 昔から、、真っすぐな屏風も曲がってこそ立つ、、、
と云うてな、
だから萬二千余里も、南へ行ったり 東へ寄ったり で成り立ってるのよ。
確実・・・家は軍人などでもないし、
同じ名前の家?で、そういう家はあるんだろうけど。
だから近代の・・・何やらなどに、いないでしょ?家。
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