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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://2chb.net/r/history/1567762784/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
(承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
(本項 続く)
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「倭国(女王之所都)=計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。
1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.しかし本当の位置も残さなければならない。
3.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある海南島の大陸側、儋耳朱崖に似ている。
そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪韓国(伽耶)の南から儋耳朱崖(ベトナム国境)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む「南北に」長大な2つの列島であるように思わせるテクニック。
まず、正解の【奴国@】と、「當在会稽【東冶】之東」となる幻の【奴国A】を設定。
「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国@】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」←2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を南に引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行(徒歩)一月」を転用して幻の【奴国A】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、郡県内では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代)
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
(承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛
・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総
・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵
・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬
・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆
・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。
(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査
には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構封カが同じであり=A「南至邪馬壹囹」の起点を帯封郡とするなら=u南至投馬國」bフ起点も帯方郡bノせざるを得なb「が、投馬国にbヘ水行のみで到鋳�オ得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(漢書西域)
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
>>58 503番のスレッドで、邪馬台国畿内説が完全に破綻してしまったので、闇の勢力が、503番のスレッドを倉庫からも消去したのではないのかな、、、
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
(承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
奥山氏は、なぜ、
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する、
と考えてしまったのだろうか、、、
◆n7jxAxKCBhb6は、頭が悪すぎるな。。。
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀)
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。 ◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝で各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。
>>875 >「3世紀(及びそれ以前)」には、九州で丹が採れないからだよ
今、鉱脈が知られていても、3世紀の人がその存在を知らなければ
其山有丹とは書かれない<
丹は「顔料」であり、阿蘇のベンガラがあるから「朱丹」で問題はないし、
水銀朱は、西日本の中央構造線付近に多いが、九州にも中央構造線が来ているし、
九州より東であれば、
「東征毛人五十五國」の「地方の市」から九州への搬入でも説明可能。
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とやある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。 >>67 奥山氏は、頭が悪すぎ、漢文を翻訳できないので、帯方東南を、女王国に行くために渡海する海域への帯方からの方角だと分からずに、女王国そのものへの帯方からの方角だと誤認してしまった可能性が高いな。。。
FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰) >>878 >畿内様式土器、前方後円墳(纏向型を含む)の分布により
畿内中心の秩序がまだらながらも汎日本列島的に存在していたのは確実<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
弥生銀座の庄内は、3世紀前半であるが、
大和の撥型前方後円墳は、庄内1の石塚の3世紀末であり、
前方後円墳も、那珂八幡は3世紀後半半ばであり、
大和自体も、九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の、
地方の市を監督する大倭職の国であったに過ぎない。
>そして、奴国もその秩序に参加している<
類スレ主は、相変わらず、
「伊都国の東南百里の奴國」を弥生銀座に比定するインチキ騙しをしている、
・・・・アホ詐欺師。
>>879 その弥生銀座にあった国が、そこから前方後円墳、祭祀用供献土器が
広域に伝えられたことと合わせて考えると、
弥生銀座が、当時の列島上の秩序の中心だったと
通常の思考能力のある人なら当然に判断するからだよ
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
>>83 奥山氏の貼り付けているテンプレートには、他にも、笑いリラックスさせてくれる部分があるのではないのかな、、、
>>887 >景初三年に卑弥呼が魏に使いを出したとある梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧は
魏志曰く、等魏志倭人伝を引用してそう記述した事を明記している<
ダメだ。
梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧は、前史の記載の引用に関して、
「自己解釈に拠る書き換えを一杯やっているインチキ本であった」という事が実態であり、
3世紀の同時代の役人たちの記録を元にした魏志の記載を訂正し得る文書ではなく、
実際に、宋明清代の校勘学者は誰一人「二年→三年」に校勘した学者はいない。
>卑弥呼が使いを出した年が景初二年になっているのは
原本が失われた十二世紀の復刻本の魏志倭人伝から
それ以前の魏志倭人伝を引用した史書は卑弥呼が魏に使いを送った年を景初三年と記述<
後代史家の「自己解釈に拠る前史の書き換え」は根拠にならず、
宋明清代の校勘でも誰一人「二年→三年」の校勘をしていない。
>よって景初三年と記名のある三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏から下賜された鏡である事は確実で
その後年になる正始元年記銘のものも畿内にあり魏と畿内の継続的交流があった事の物的証拠<
正始元年でも、明帝下賜も鏡にはならない。
>さらに卑弥呼が魏に使いを送った年度が景初二年なら
景初二年記銘の鏡が見つかる筈だけれど今まで発見がないから
卑弥呼が魏に使いを送った年は景初三年である蓋然性が高い <
魏の工房で造られた鏡では、年号など必要が全くなく、「尚方作」と刻印すれば十分であり、
在野からの備蓄鏡などであれば、景初二年以前の年号なら、刻印されていた可能性があり、
例えば「青龍三年(235年)顔氏作鏡方格規矩四神鏡」が同范鏡として、高槻と京都竹野に存在し、
この同范鏡は、渡来の呉系楽浪鏡師らの関与が考えられる。
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。 >>888 >魏の皇帝から「到錄受、悉可以示汝國中人、使知國家哀汝。故鄭重賜汝好物也。」と
言って下賜されたものだから、皆に配るんだよ
そして、足りなかった分を踏み返しで倭国でさらにコピー鏡を大量生産している<
魏帝らや魏の工房が、「同范鏡」のような価値が下がる鏡を下賜する事は考え難い。
だから、列島に同范鏡があったとすれば、それはおそらく渡来の呉系楽浪鏡師らの関与。
>厳しめに判断する人では、これまでに出土した数百枚の三角縁神獣鏡のうち
卑弥呼の鏡100枚に入るのは13枚と言っている人がいるよ<
△は、敵国の呉系の鏡なので、明帝らは下賜鏡に選択しないから、×。
>まあ、数次の遣使でその都度もらえば何百枚でもおかしくないって言う人もいるけれど
通常は三角縁神獣鏡の形式編年で初期のものだけが卑弥呼の鏡という判断だ<
まあ、大和説学者らは、人類の常識を知らない・・・・アホ詐欺師集団だ、
という事だ。
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】 なし
>>893 >別のものだとしようにも、2つの別の秩序・枠組みが入る領域が、列島上に取れないんだよ、物理的にww
投馬国は女王国より以北の国ってのも、結局は同じ文脈になるのだけれど、<
投馬国は、
不彌國やそのすぐ南にある邪馬壹國女王之所都からの南へ水行二十日の位置だから、
女王国の中心から以南になり、×だ。
>北部九州には、奴国二万戸、投馬国五万戸、邪馬台国七万戸を容れられるだけの
スペースがない <
投馬国は、ほぼ南九州だから、×だ。
>伊都国・奴国と邪馬台国を重ねる、二重帳簿詐欺は知っているけれど、
その詐欺だと、実は邪馬台国より投馬国の方が強大国になってしまうww
どうやっても、北部九州説は矛盾だらけで破綻してるんだよ <
どうやっても、大和説は、矛盾だらけになってしまって、破綻しているんだよ。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
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注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
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注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
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前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
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注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
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>>18の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
┏━━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行十日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海千余里 複有国 皆倭種」
↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行十日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘_陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長三四尺
【呉】┃〜〜┃★奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王四千余里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲▲▲投馬国←┘宮崎平野=南「水行二十日」
会稽┃〜〜┗━━女王国島━━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜東シナ海〜┌南「水行十日」〜〜〜〜〜〜〜〜
┃〜〜┌┌←←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド)↓
↓ ┃〜〜│↓「陸行一月」(幻)│←「自女王國以北其戸数道里可得略載※」(北部九州30カ国)
┃〜〜│↓〜▲〜〜〜〜〜│亶州(沖縄)〜↓「自郡至女王国 万二千余里」
東冶┃〜〜│☆奴国A(幻)〜〜│←『【女王之所都】計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲狗奴国(幻)〜〜│夷州(台湾)〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国(幻)遠絶 不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(奴国A)東南 船行一年」 卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様、呉の牽制として東の「親魏倭王」号を取得し、帯方郡が管理している「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権の確保(郡宛て書簡封泥用の金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援(後に援軍)要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は狗奴国の位置であることに留意されたい。
そこで主要3説(九州説・四国説・畿内説)における狗奴国を検討すると、以下のようになる。
−女王国「東渡海A」千里「複有国B」皆倭種(〇九州説…A関門海峡・B本州、〇四国説…A紀伊水道・B本州、✖畿内説…A鈴鹿山脈・B北海道)
−其南有狗奴國 不属女王(〇九州説…熊本もしくは薩摩、✖四国説…南阿波、✖畿内説…仲良し東海)
畿内説はいずれも当てはまらない上「複有国(東)」と「狗奴国(南⤴東)」が重複し混乱が生じる。
また、軍事力(鉄製武器)も通信手段(文字・駅伝制=早馬)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能。
3世紀の四国に十四万戸(邪馬台国+狗奴国)比定は無理がある(後述)。消去法によって、九州説が正しい。
次に、狗奴国が熊本平野か鹿児島川内(せんだい)平野かだが、邪馬台国七万戸を統治している女王卑弥呼をして、魏の明帝曹叡に援軍要請させるほど窮地に陥れる(狗奴)国の国力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)と想定。
面積から見て、狗奴国が川内(せんだい)平野でゎ3世紀の開墾能力では限界があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智比狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、吉野ヶ里遺跡を始め弥生拠点集落の宝庫「筑後川の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮は扇状地の最高所・甘木朝倉と確定。
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳(リンク参照)を比定。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3 >>83 奥山氏は、ベクトルという物事を学習しなかった可能性が高いな。。。
>>912 >>前方後円墳は、魏志倭人伝とは、そもそも時代が違う要素なのだったな。。。<
>3世紀で「径百歩」の墓として想定できるのは、前方後円墳のでかいやつしか存在しない<
魏志における行程説明に記載された「里」は、「1里≒60〜90m」の短い里であり、
1里=300歩は変わっていないから、
「径百余歩」は、長径が20m余〜30m余である事になり、
「でかい前方後円墳」は、全部ダメであるし、
卑弥呼の墓は「冢」であるから、前方後円墳は全部ダメであり、
また、最も古い前方後円墳は那珂八幡などの3世紀後半半ば頃であるから、
卑弥呼の死の248年頃とは全く違っている事でも、×。
>>955 「南→東」などの嘘吐きがましなどのように、
そんなふうの
ニセ情報と嫌がらせが
今の大和説やスレ主らの全てなのか?
>>970 結局、「南≠東」などの嘘吐き騙しのように、
大和説の論拠としていたことが、すべて根本から否定されている状態で
素朴に大和説を信じていた人たちはこのスレをしばらく読んでいればすぐに
考えを改めるんだよね
そして、残る大和説者は、論理的思考とか、整合性を考えて説を組み立てる知的能力とかが
最初から欠けている人たちだけになっている
奥山氏には、論理的思考とか、整合性を考えて説を組み立てる知的能力とかが欠けていることが、優れたザラコク氏にはバレてしまっているので、
ザラコク氏は、奥山氏に対して真剣には意見を発表しなくなっている可能性が、高いな。。。
>>109 >優れたザラコク氏
109自身がザラコク氏なんでしょ
どこかで見たんだよな〜、
別人のふりをして、自分を援護するような書き込み・・・とか
それよりも凄い話
川俣グンジと、あのゲームやアニメなど、
角□?
グンジを応援している、
そして応援している人物自身も何か()を使用しているとか
『川俣軍司』
すこし読んでみて
あの謎のチェーンソーのゲーム、角□ゲームス
??????????????のようになるでしょ
魏史倭人伝はずっと九州の話をしてるのに突然関西に飛ぶわけねぇだろと俺は何度も言いましたよ!
新幹線どころか馬も無い時代に関西の勢力が伊都国まで支配していたなんて本気で思ってるんですか?
畿内説優勢とか考古学者はアホですか?
土器などの流通を見ると、尾張から東西に文物が運ばれたことがわかる。
大和纒向はその中継地に過ぎない。
そして生産品の最大の消費地が筑紫であることがわかる。
また、海外交流の拠点が出雲と筑紫であったことがわかる。
倭国の対外交渉権の変遷が出雲の国譲りと筑紫への天孫降臨の伝承に反映されているもしれない。
魏や帯方郡と交渉していた可能性があるのは出雲と筑紫しかなく、3世紀においては筑紫の他には邪馬台国の候補はあり得ない。
そして、7万戸という東夷の世界で最大の消費地も、筑紫に求めるしかない。
出雲王国について、おじいちゃん達は伝説に過ぎないと教わって大人になったから
未だに受け入れられないんだろうね
>>96 >893
>別のものだとしようにも、2つの別の秩序・枠組みが入る領域が、列島上に取れないんだよ、物理的にww
投馬国は女王国より以北の国ってのも、結局は同じ文脈になるのだけれど、<
>北部九州には、奴国二万戸、投馬国五万戸、邪馬台国七万戸を容れられるだけの
スペースがない <
トンデモの北部九州説によほど恨みがあるんだろうな
ま、トンデモ同志で差し違えも悪くなかろう
恨みというより嫌悪感かな
醜悪なものは見たくないという
>>120 南部九州説だって投馬国を一体どこに差し込むのさ
>>122 横からだけど、
畿内説みたいに都合の悪い記述は誤情報等で通せば可能だよ
>>123 それ、やらかしたら二度と畿内説批判できないぞ
わかってる?
>>1 FAQ4の
>邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、
考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の{近畿第V様式分布域}を想定する。<
畿内説では無く、近畿説でいいのですか?
{近畿第V様式分布域}の図等があれば張り付けてもらいたいのですが・・・
蛇足
テンプレの長いのは主の勝手として
テンプレ作成中の投稿も勝手だが止めてもらいたい。読みづらいので・・
>>123 >畿内説みたいに都合の悪い記述は誤情報等で通せば可能だよ
「都合が悪い」記述ではなく、「現実に合わない」記述は、
誤情報として考えていくのが合理的だってこと
末盧国から伊都国の方角が東南というのは現実に合わない
それを「魏志倭人伝の記述が正しい」を大原則にしてしまうと
現実を魏志倭人伝に合わせようとする本末転倒なバカにしかならない
曰く
「末盧国を名護屋浦にすればいい」⇒上陸地を国とする用例はない
「末盧国を志摩半島にすればいい」⇒五百里がとんでもなく短くなる
「日の出が東で夏には北にずれる」⇒夜に北極星を見れば方角は大きくずれない
「伊都国は唐津の東南の佐賀平野」⇒そんなところに国はないし臨津搜露もできない
ことごとく、無理なデタラメにしかならない
魏志倭人伝の記述が正しいとする原理主義は理性的ではない
畿内説では不合理な記述は外して考える、というだけ
>>1
>考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の{近畿第V様式分布域}を想定する。
近畿第V様式分布域}を想定しても意味がない。
畿内第V様式土器はあくまで、厚型重量弥生式土器。 そんなものの文化斉一性に意味はない。
文化的斉一性が見られるのは、軽量薄型丸底土器。 いわゆる「東阿波型土器」なのである。
鮎喰川下流集落群では、弥生終末期には軽量薄型の土器が生み出される。
中・東部瀬戸内から大阪湾岸地域、淀川地域・山城地域に搬出された阿波を代表する土器であり、東阿波型土器と呼んでいる。
企画性が強く、器壁内面にヘラケズリと指頭圧痕を残す製作技法に特徴がある。 土器製作専業集団によるものだろう。
類似技法による土器は讃岐・吉備に拡がり、薄型土器の南北軸を形成している。 @阿波 >>127
「末盧国は福津市(万津浦)周辺」
>畿内説では不合理な記述は外して考える、というだけ
トンデモだから、逃げているだけ。 @阿波 >>125の投稿は畿内説のご都合主義を表しているww
>>1は、これに答えられず、逃げてばかり。 @阿波 【歴史】邪馬台国の卑弥呼がもらった?曹操墓出土と同型の鏡 「皇帝の所有物にふさわしい最高級の鏡」がなぜ九州に?
http://2chb.net/r/newsplus/1568210099/ これはどういうことでしょうか?
>>126 >テンプレ作成中の投稿も勝手だが止めてもらいたい。読みづらいので・・
連続句読点という荒らし専業の九州説の人がいるんだよ
何を言っても聞かない(効かない)
>{近畿第V様式分布域}の図等があれば張り付けてもらいたい
案外まとまったいい図がないんだよ
この辺りを読んでもらうと、概要が理解できると思う
「畿内地域における古墳時代初頭土器群の成立と展開」田中 元浩 2005年
日本考古学12 巻 20 号 p. 47-73
https://doi.org/10.11215/nihonkokogaku1994.12.20_47 >畿内説では無く、近畿説でいいのですか?
これは、陳寿が可七萬餘戶と書いた一つの勢力圏の範囲として
畿内第V様式土器の範囲を考えるということ
概ね「大和+河内〜環大阪湾の範囲」となる
近江や紀国、丹波、伊勢は入らないので、近畿とすると広くなりすぎる
>>132
「鏡」や「お墓」や「土器」ごときに頼らざるを得ない、九州説や畿内説。
圧倒的な倭国(阿波)の遺跡のまえに、ひれ伏すばかりなり。 @阿波 >>133
>考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の{近畿第V様式分布域}を想定する。
近畿第V様式分布域}を想定しても意味がない。
畿内第V様式土器はあくまで、厚型重量弥生式土器。 そんなものの文化斉一性に意味はない。
文化的斉一性が見られるのは、軽量薄型丸底土器。 いわゆる「東阿波型土器」なのである。
鮎喰川下流集落群では、弥生終末期には軽量薄型の土器が生み出される。
中・東部瀬戸内から大阪湾岸地域、淀川地域・山城地域に搬出された阿波を代表する土器であり、東阿波型土器と呼んでいる。
企画性が強く、器壁内面にヘラケズリと指頭圧痕を残す製作技法に特徴がある。 土器製作専業集団によるものだろう。
類似技法による土器は讃岐・吉備に拡がり、薄型土器の南北軸を形成している。 @阿波 >>1は、これに答えられず、逃げてばかり。 @阿波 >>129 >トンデモだから、逃げているだけ。
これがトンデモだから相手にしていないだけ
↓
「末盧国は福津市(万津浦)周辺」
万津浦が末盧という語呂合わせだが、その万津浦の記載がある「永島文書」が
昭和より前に遡れない出所不明の怪文書で、それが伝わるとされる年毛神社も
古い由緒などない地元でも大事にされていない神社
>>137
「火のない所に煙は立たぬ」 わははははは @阿波 >>137
煙も立たぬトンデモ説。 わははははは @阿波 >>116 魏志倭人伝に出てくる物が畿内で出るから仕方ないだろ
>>128 成程ネ
畿内説は阿波も含めようとしているトンデモだな
>>132 鏡なら卑弥呼が魏と交流していた景初三年や正始元年の魏の年号が入ってる
三角縁神獣鏡が畿内で見つかっているよ
>>127 >畿内説では不合理な記述は外して考える、というだけ
なかなか歯切れがいいじゃないか。畿内説は、不都合な真実は除外して考えると明言しておる。
まるきりのモラルハザード、何でもあり、破れかぶれ居直りの畿内説。
畿内説に合致しない物事は全部除外して考えるというのだから、
まさに暴君暗君極道の発言ですな。
>>145 >畿内説に合致しない物事は全部除外して考えるというのだから、
それ、誰の考え?
暴君暗君極道の九州説さんが思いついたんだよね
>>127
「末盧国は福津市(万津浦)周辺」
>畿内説では不合理な記述は外して考える、というだけ
トンデモだから、逃げているだけ。 @阿波 >>130 >
>>125の投稿は畿内説のご都合主義を表しているww
ご都合主義だという理由は?
???
>>143 >「魏の年号が入ってる」三角縁神獣鏡
畿内のどこから?
>>149 纏向の出土品で魏志倭人伝の記述と合致する遺物を列記してくれない?
>>18 >>102 卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様、呉の牽制として東の「親魏倭王」号を取得し、帯方郡が管理している「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権の確保(郡宛て書簡封泥用の金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援(後に援軍)要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は狗奴国の位置であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説における狗奴国を検討すると、以下のようになる。
−女王国 東渡「海A」千余里 複有「国B」皆倭種(〇九州説…A関門海峡・B本州、✖畿内説…A鈴鹿山脈・B北海道)
−其南有狗奴國 不属女王(〇九州説…熊本もしくは薩摩、✖畿内説…仲良し東海)
畿内説はいずれも当てはまらない上「複有国(東)」と「狗奴国(南⤴東)」が重複し混乱が生じる。
また、軍事力(鉄製武器)も通信手段(文字・駅伝制=早馬)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能。
魏志倭人伝を史料として採用する以上、消去法によって九州説が正しいことになる。
では、狗奴国が熊本平野か鹿児島川内(せんだい)平野かだが、邪馬台国七万戸を統治している女王卑弥呼をして、魏の明帝曹叡に援軍要請させるほど窮地に陥れる(狗奴)国の国力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)と想定。
面積から見て、狗奴国が川内(せんだい)平野でゎ3世紀の開墾能力では限界があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智比狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、吉野ヶ里遺跡を始め弥生拠点集落の宝庫「筑後川の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮は扇状地の最高所・甘木朝倉と確定。
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳(リンク参照)を比定。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3 >>152すると、欽明(現・皇室の開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家=狗奴国・卑弥弓呼の末裔/八代淡海→「近江」)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を派遣し、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向を征服させ、奥津城(王家の谷)として隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋>【宋>斉>梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」に任官(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
日出処「天子」倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教伝来による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&厩戸…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、近江大津京へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝〜応神朝〜継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名を移植。朝倉&阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)
まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京)
倭人伝をこねくり回すより
畿内に倭種の別国があったでいいんでねーの
>>146 >>127 >畿内説では不合理な記述は外して考える、というだけ<
>>152 >「親魏倭王」号を取得し、帯方郡が管理している「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権の確保(郡宛て書簡封泥用の金印「親魏倭王」)。
「偉大な皇帝陛下、卑弥弓呼には鉄を輸出しないでくださいね 卑弥呼より」
今城塚古墳に眠る大王の、ピンクの石は、なぜ遠路はるばる運ばれてきたのだろう、、、
>>133 >近江や紀国、丹波、伊勢は入らないので、近畿とすると広くなりすぎる <
別に広くなっても構わないと思うが、なぜ広くなるとダメなのでしょうか
畿内説教徒の言い分:
畿内は不滅です。畿内は永遠です。・・・そのとおり永遠の黒歴史に成ったねえ
>>153の続き
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神朝「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が邪馬台国女王「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。
ここに武内宿彌の正体も明らかになるのである!
崇神朝(伊都国系)の@景行A成務B仲哀、続くC応神(息子)D仁徳(孫)の5人の大王に仕えた彼は、筑紫邪馬台国女王・卑弥呼の男弟の末裔なのである!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0 その応神朝@筑紫(邪馬台国系の♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。
この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。その妹推古が仏教の国教化に成功。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での惨敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、〔倭国独自(九州)元号を創設した継体朝の、「天子」を名乗ってしまったため、記紀に消された〕多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津京に東遷。
ここに倭王権は史上初めて九州島を出て、近江大津京→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の古墳時代の畿内には、記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治以降設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。
>>160 >畿内説教徒の言い分:
>畿内は不滅です。畿内は永遠です。・・・そのとおり永遠の黒歴史に成ったねえ
そんな「言い分」が実在するという証拠は?
なければ
>>160の捏造なのだが
>>124の続き
ダイワとしか読めない大倭(後漢書東夷伝からの借用)を「ヤマト」と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、唐帝国に対し、新益藤原京を新設した畿内に筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆があったと思わせたかったからなのである!
白村江海戦惨敗で九州本家の天智が東遷した後、大和分家の天武が(確実に唐を刺激する、継体創設の倭国独自年号&日出処「天子」多利思比孤を抹消するための)歴史改ざん書である記紀を書かせ、
九州の地名をそっくり移植し、畿内を記紀の歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!
また7世紀の隋・唐までの中国歴代王朝には、倭国は九州島のみと認識されていたことが判る。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だった(九州から見て日が昇る)日辺にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭と言う名前が優雅でないから日本と改名した」と言い、また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭国の地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。
事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が大和分家(近江大津京)に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた記紀の歴史テーマパークにするため大倭(後に大和)と書かせ、
発音だけ九州時代の都であった筑紫邪馬台〜阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を繰り下げて生まれた畿内説(他人の褌)、ならびに教科書に載っている古墳時代にあったとされるヤマト王権(定説)は、
超大国・唐(アメリカ・トランプ大統領)との友好親善を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として遂行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた電波(幻想)で、
特に前者は、記紀(定説・ヤマト王権)というゴール地点から、考古学と魏志倭人伝という他人の褌で、どこまで史実(スタート地点)歪曲を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである。
>>144 こいつがいま一番質が悪い詭弁使いだな
>なかなか歯切れがいいじゃないか。畿内説は、不都合な真実は除外して考えると明言しておる。
末盧国から伊都国の方角が正しくないというのは、畿内説に不都合な真実ではないぞww
こいつは捏造上等という立場の本格的な悪意の嘘つきだ
>>152 >>153 >>161 >>164 以上まとめると、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し、
ダウンロード&関連動画>> その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲し、天智の京都・太宰府を殲滅できた超大国・唐(外交)への忖度で生まれた記紀が消そうとしたのは、
A.倭国史上初めて九州島を出て、近江大津京に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝〜応神朝〜継体朝)が北部九州(筑紫邪馬台〜阿蘇邪靡堆〜天智太宰府)にあったこと
→3王朝ともその奥津城(王家の谷)&新益藤原京を新設したばかりの畿内にあったことにした(記紀の歴史テーマパーク「大倭」→「大和」>聖徳太子「以和為貴」より)。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!
@(武寧王の百済を完全属国化した)継体@阿蘇邪靡堆が創設した(時間の支配者=中国皇帝からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号の創設
→天智の倭京(太宰府)以前は全て抹消!(下記リンク参照)
A新羅からの朝貢で調子に乗って、世界の支配者「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
→同時期の大和分家・厩戸皇子と合成し、憲法十七条(以和為貴)「聖徳太子」を捏造&抹消!
B白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に恐れ慄いた九州本家・天智@太宰府の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草)
→舒明♂皇極♀の長男&斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極斉明重祚・天智天武兄弟の秘密)
-継体による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・倭京・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html -熊本県玉名市和水町前原の石原家文書
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho122/kai12204.html >>145 >畿内説に合致しない物事は全部除外して考えるというのだから、
「末盧国から伊都国の方角が正しくない」というのが、九州説にとって
この上なく不都合な真実だってのが分かるなww
この取り乱しようったらないww
>>154 >畿内に倭種の別国があったでいいんでねーの
魏志倭人伝には「倭種の別国」なんてどこにも書いてないぞ
書いてあるのは「皆倭種」だ
卑弥呼は倭種の王だから、倭王なんだよ
>>127
「末盧国は福津市(万津浦)周辺」
>畿内説では不合理な記述は外して考える、というだけ
トンデモだから、逃げているだけ。 @阿波 >>159 >別に広くなっても構わないと思うが、なぜ広くなるとダメなのでしょうか
ダメかどうかではなく、畿内説の主張と合致しない表現だということ
「近畿」が邪馬台国だったという主張ではない
>>169 もちろんその意味もある。
しかし、倭王がいたのは九州で、本州にいたのはただの倭種。
尾張が西日本の流通の中心であったのなら、完全に畿内説は終了かな。
魏志倭人伝の、、、女王國東渡海千餘里復有國皆倭種、、、という文章は、
女王国の東へ海を千里余り渡れば、また国が有り、全て、人種は倭種だ。。。
という意味だということが、頭の悪い者には分からないのだな。。。
169日本@名無史さん2019/09/12(木) 08:21:04.29
>>154 >畿内に倭種の別国があったでいいんでねーの
魏志倭人伝には「倭種の別国」なんてどこにも書いてないぞ
書いてあるのは「皆倭種」だ
卑弥呼は倭種の王だから、倭王なんだよ
>>170 泡は他人とコミュニケーションをとらず、すぐに同じ短文の連投を始めるからただの迷惑目的
自分のスレでやれ!
>トンデモだから、逃げているだけ。
トンデモは泡!
つ
>>137 万津浦が末盧という語呂合わせだが、その万津浦の記載がある「永島文書」が
昭和より前に遡れない出所不明の怪文書で、それが伝わるとされる年毛神社も
古い由緒などない地元でも大事にされていない神社
永島文書の信憑性を示さない限り、万津浦が末盧国というのはただのデタラメ
永島文書以外に「万津浦」は『一切知られていない』
西日本の中の拠点を挙げると、出雲、吉備、尾張、近江、摂津、、、
畿内?
夢でも見てる?
>>152 阿波説を消してスッキリしたねw まぁ、当然だがw
奧山氏、つまり、◆n7jxAxKCBhb6 は、頭が悪いな。。。
朝鮮人の奥山氏は、配管工としては解雇されたので、今は無給で5ちゃんねるのプロ固定として活動中なのだったな。。。
>>179 朝鮮人の奥山氏は、素人よりも水道工事が上手なことを自慢していましたね。。。
>>175
「火のない所に煙は立たぬ」 わははははは
煙も立たぬトンデモ説。 わははははは @阿波 >>176
みごとなスルー技。 わははははは @阿波 僕達が笑いリラックスするためにアプローチしている、このレベルの低い、5ちゃんねるのサクラのプロ固定が作製したスレッドとは全く異次元の、 たくさんの分野のレベルの高い学者達が集う、
魏志倭人伝時代の真実について、僕達か僕達の論敵のどちらの頭がカラフルになるかを賭けて、
お互いに、不敵な笑みを浮かべながら、 闘っている討論会では、
破綻した非科学的な唯物論や破綻した非科学的な要素還元主義を、お互いに掲げることなしに、正々堂々の討論を闘っているので、
魏志倭人伝に全く記録はされていない土器や時代の異なる前方後円墳ではなく、
最近明らかにされてきた空気シャワーの威力や、鉄鏃や、人民の住居や、ベンガラや、方角や、距離や、夏の時代の考古学的に判明している会稽の位置や、魏志倭人伝時代の倭人の太い骨や、
萬二千里の事で奥山氏も頼みにしている淮南子を規定している一寸千里の法を材料にして、討論が進行し、
卑弥呼の城が日本の何処にあったかの討論から、卑弥呼の城が九州の何処にあったかの討論に、話題が移り変わってきたのだったな。。。
>>177
「鏡」や「お墓」や「土器」ごときに頼らざるを得ない、九州説や畿内説。
圧倒的な倭国(阿波)の遺跡のまえに、ひれ伏すばかりなり。 @阿波 >>169 それさぁ 差別ジャネーノ
関東 東北には異人種が住んでてたにならないか
>>127 >>畿内説みたいに都合の悪い記述は誤情報等で通せば可能だよ<
>「都合が悪い」記述ではなく、「現実に合わない」記述は、
誤情報として考えていくのが合理的だってこと<
いや、「南」などは「現実になど十分合う」のに、大和説者は、「東」の間違いだ、として、否定曲解の嘘つき騙しをしている。
>末盧国から伊都国の方角が東南というのは現実に合わない <
魏の役人たちは、原則として、知り得た事実を記録しているのであり、
末盧國から伊都国は、出発時点や途中では全く見えないので、案内人に従って行くしかなく、
記録も出発時点での出発方向の記載をしており、
「東南」は現実に合う。
つまり、大和説の類スレ主は、史料事実を否定改竄する悪質な人種。
>>176 例えば亀井遺跡では正確な分銅(石製)が出ていて、
「性格に秤量」して取引する必要があるものを取り扱っていたことが分かる
唐古鍵は青銅器生産の中心だし弥生後期で列島最大級の遺跡
その前代には池上曽根遺跡もある
間違いなく大和+河内の地は、弥生終末期の列島において中心的存在だよ
>>133 >これは、陳寿が可七萬餘戶と書いた一つの勢力圏の範囲として
畿内第V様式土器の範囲を考えるということ
概ね「大和+河内〜環大阪湾の範囲」となる<
「南≠東」などに拠って、×。
>>188
碌な集落遺跡や資源の無い「大和+河内の地」に、邪馬台国など在る訳がない。 以上御終い。 @阿波 >>189 また理由をひとことも言わない
そんな九州説が消えていくのは当然だ
>>140 >魏志倭人伝に出てくる物が畿内で出るから仕方ないだろ<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
魏志倭人伝に出て来る物も、大和からは殆ど出ず、
出ても3世紀末〜4世紀のホケノ頃以後であるから、×。
>>187 >末盧國から伊都国は、出発時点や途中では全く見えないので、案内人に従って行くしかなく、
事情聴取もしないの?
道すがら調べたりもしないの?
そんな杜撰な報告をした人は
何で首が飛ばないの?
要するにまた九州説はチェリーピッキングしてるわけだ
杜撰な説だね
>>193
>畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
↑
これも
魏志倭人伝に出て来る物も、大和からは殆ど出ず、
↑
これも
出ても3世紀末〜4世紀のホケノ頃以後であるから
↑
これも
なんで九州説は全く立証しようとしないの?
世間常識から外れた結論だけを言い張るの? >>188
>例えば亀井遺跡では正確な分銅(石製)が出ていて
その分銅も、「若杉山辰砂採掘遺跡」で採れた水銀朱を計るものだよ。 ごくろうさん。 わははははは @阿波 >>143 >鏡なら卑弥呼が魏と交流していた景初三年や正始元年の魏の年号が入ってる
三角縁神獣鏡が畿内で見つかっているよ<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×であるし、
景初三年や正始元年の鏡は、明帝の詔書の景初二年12月以後であるから×であるし、
大和からは出ていないから×であるし、
△も、魏の敵国の呉系の鏡であるから明帝の下賜鏡に選択されない鏡だから×であるし、
△には「海東」鏡があるから、
渡来の呉系楽浪系鏡師らの関与鏡である可能性が高い事でも、×。
>>188
>例えば亀井遺跡では正確な分銅(石製)が出ていて
その分銅も、「若杉山辰砂採掘遺跡」で採れた水銀朱を計るものだよ。 ごくろうさん。 わははははは @阿波 >>146 >>畿内説に合致しない物事は全部除外して考えるというのだから、<
>それ、誰の考え?<
大和説学者や、スレ主や、類スレ主や、
大和説シンパのアホらの考え。
>>148 >その畿内説に不都合な真実とは何かな <
例えば、「南→東」などの嘘付き騙しの「南」や、
「卑弥呼の墓は冢」や、
「不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている」などの史料事実や史料実態。
>>188
>例えば亀井遺跡では正確な分銅(石製)が出ていて
その分銅も、「若杉山辰砂採掘遺跡」で採れた水銀朱を計るものだよ。 ごくろうさん。 わははははは @阿波 >>18 >>102 帯方郡
↓↓
↓東治
↓↓580q 陸行一月
東冶=倭国「女王之所都」12,000里
中国大陸の道里の倭国への転用か!
>>177
「鏡」や「お墓」や「土器」ごときに頼らざるを得ない、九州説や畿内説。
圧倒的な倭国(阿波)の遺跡のまえに、ひれ伏すばかりなり。 @阿波 >>149 >>
>>125の投稿は畿内説のご都合主義を表しているww<
>ご都合主義だという理由は?<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言を使っている事や、
「南→東」などの嘘付き騙しや、
「卑弥呼の墓は冢」や「不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている」などの、
史料事実の否定曲解のチェリーピッキングをしている事。
>>204 それ、あんたの我流珍説と合わないってだけだろ
畿内が存在しないとか言い張っても
世間はあんたをバカと思うだけだ
>>186 事実だよ。
関東の古い地名の多くはアイヌ語。
>>167 >「末盧国から伊都国の方角が正しくない」というのが、九州説にとって
>この上なく不都合な真実だってのが分かるなww
北部九州説は畿内説の異母兄弟だからそうかもしれんなあ。
だが、熊本説にとっては「末盧国から伊都国の方角・・」はこの上なく好都合なんだけど。。。
>>188 >間違いなく大和+河内の地は、弥生終末期の列島において中心的存在だよ
海に開けた河内と、内陸の大和を同列で語るなよ。
しかも纒向では河内の土器が出ないから、時代によっては大和と河内は分断されていたことになる。
>>159 >>近江や紀国、丹波、伊勢は入らないので、近畿とすると広くなりすぎる <
>別に広くなっても構わないと思うが、なぜ広くなるとダメなのでしょうか<
九州倭國の「東征毛人五十五國」があったのだから、
近畿位の範囲で一国だ、などという計算では、
中部山岳付近まででは、数国〜10国位しか入り切れず、
55国はとても入り切れない、という矛盾が発生してしまうから。
だから、大和と河内や摂津や山城は、別国だった、としなければならない。
>>165 >末盧国から伊都国の方角が正しくないというのは、畿内説に不都合な真実ではないぞww
こいつは捏造上等という立場の本格的な悪意の嘘つきだ <
「末盧国から伊都国の方角」なんて、書かれていないのだぞ。
また、「東南」は、末盧國からの出発時点での出発方向の説明だ。
こいつ(おそらく類スレ主)は、捏造上等という立場の本格的な悪意の嘘つきだ
>>167 「末盧国から伊都国の方角が正しくない」というのが間違いであり、
「東南は、末盧國からの出発時点での出発方向」というのが正しい。
その事が、大和説者や類スレ主らにとってら、この上なく不都合な真実だ、
ってのが分かるな。
この取り乱しようったらない
>>172 >しかし、倭王がいたのは九州で、本州にいたのはただの倭種。
九州にいたのも対馬にいたのも「皆倭種」なんだよ
そして、九州に欧と呼べる存在が3世紀にいたというのは考古学的に否定される
3せいきに入ってからの九州は、畿内と仲良しの奴国がそこそこ栄えている以外は
みんな雑魚
>>173 >尾張が西日本の流通の中心であったのなら、完全に畿内説は終了かな。
この図の横のキャプションでも、尾張が流通の中心なんて書いてないだろ?ww
こういう思い込みで引用もまともにできないやつしか九州説に残留してないww
この図を普通に見れば、尾張は畿内と東国を結ぶ重要な中継地ということになる
そして、北部九州は、半島・大陸との交流の中継地だな
>>174 >女王国の東へ海を千里余り渡れば、また国が有り、全て、人種は倭種だ。。。
つまり、連続句読点の大好きな「半島の人(韓)」はいないんだよww
連続句読点は国籍はともかくとして、韓種の人なのかな?
>>186 >関東 東北には異人種が住んでてたにならないか
この場合の「異人種」をどういうつもりで使っているんだ?
旧唐書の「其國界東西南北各數千里 西界南界咸至大海 東界北界有大山爲限
山外即毛人之國」に従えば、東の山岳地帯(中部山岳地帯)の向こう(関東・東北)は
倭人ではなく毛人という扱いだが?
>>169 >魏志倭人伝には「倭種の別国」なんてどこにも書いてないぞ
書いてあるのは「皆倭種」だ
卑弥呼は倭種の王だから、倭王なんだよ<
唐会要倭國伝では、卑弥呼のいた倭國は、
「西北接百濟、正北抵新羅」の位置であるから北部九州であり、
日本國伝では、「日本、倭國之別種」で「日本舊小國、呑併倭國之地」だ。
>>196 >その分銅も、「若杉山辰砂採掘遺跡」で採れた水銀朱を計るものだよ。
泡はきちんとした計測ができるだけの文化水準に達してなかったんだねw
前に分銅型土製品を「泡にも分銅がある」って威張って
恥をかいたのはもう忘れたのかい?w
まあ、亀井遺跡の分銅は、三重の丹生鉱山や大和水銀鉱山の
辰砂を測ったのだろうけれど
>>208 >海に開けた河内と、内陸の大和を同列で語るなよ。
両方で一帯の地域なんだよ
土器生産を集約して一定形式で統一するくらいにね
そして、同期してバージョンアップしていく
河内と大和の間に交流がないとかいいだすかどうかも、
九州説のバカをさらすよい指標になっているw
>>213 図をよく見なよ。
東国から尾張ではなく、尾張から東国の矢印が書いてある。
尾張からは出雲にも筑紫にも矢印が伸びている。
尾張は中継地ではない。
キャプションは、書いた人が先入観で書いているため、図の内容と異なっている。
畿内説にありがちだね。
>>213 >そして、北部九州は、半島・大陸との交流の中継地だな
矢印の方向を注目するんだよ。
九州北部は中継地ではなく、大陸からも本州からも最終目的地であり、大消費地なんだ。
>>216 >唐会要倭國伝では、卑弥呼のいた倭國は、
>「西北接百濟、正北抵新羅」の位置であるから北部九州であり、
それは宋の人たちが日本列島を
朝鮮半島からみて南へ南へ伸びていると誤解していた結果でしかないよ
邪馬台国九州説の見方をしてはくれない
まったく、ね
>>215 >倭人ではなく毛人という扱いだが?
あってるじゃん?
>>218 >河内と大和の間に交流がないとかいいだすかどうかも、
考古学的にはそうなるね。
>>221 >それは宋の人たちが日本列島を
>朝鮮半島からみて南へ南へ伸びていると誤解していた結果でしかないよ
九州しか認識されていないからだよ。
つまり倭とは九州だし、卑弥呼がいたのも九州。
>>220 >九州北部は中継地ではなく、大陸からも本州からも最終目的地であり、大消費地なんだ。
それは妄想
その図の矢印はモノじゃなくてヒトの流れを示してるから
北部九州が畿内人の植民地になったことを示してるだけ
>>188 >例えば亀井遺跡では正確な分銅(石製)が出ていて、
「性格に秤量」して取引する必要があるものを取り扱っていたことが分かる<
九州倭国の、地方の市を監督する国があったから。
>唐古鍵は青銅器生産の中心だし弥生後期で列島最大級の遺跡<
大和に元いた出雲銅鐸祭祀系部族や残留毛人の国に、
磐余に入って来た阿毎氏の後裔も少し共存関与した国。
>その前代には池上曽根遺跡もある <
元いた出雲銅鐸祭祀系部族や残留毛人の国に、九州倭国の東征軍が来て、「市」を造って、
おそらく共存した国。
間違いなく大和や河内の地は、
九州倭国の東征毛人五十五國の中の市を監督する旧小国の中の一国だよ。
>>192 また「南→東」などの嘘付き騙しの理由をひとことも言わない
そんな大和説が消えていくのは当然だ
>>217
>前に分銅型土製品を「泡にも分銅がある」って威張って
>恥をかいたのはもう忘れたのかい?w
「阿波市 西長峰遺跡:弥生時代中期の大形掘立柱建物 分銅形土製品」
竪穴住居跡が26棟、掘立柱建物跡(14棟大型のものを含む)
注目されるのは分銅形土製品がある。分銅形土製品には目・鼻・口など顔が線刻されており、祭祀に用いられたと思われる。 @阿波
https://www.pref.tokushima.lg.jp/rekishiru/remains/5023030/ >>217
>まあ、亀井遺跡の分銅は、三重の丹生鉱山や大和水銀鉱山の
>辰砂を測ったのだろうけれど
「辰砂採掘遺跡」の無い畿内に、三重の丹生鉱山や大和水銀鉱山の辰砂を測った分銅が在る訳がない。 以上御終い。 @阿波 >>188
>例えば亀井遺跡では正確な分銅(石製)が出ていて
その分銅も、「若杉山辰砂採掘遺跡」で採れた水銀朱を計るものだよ。 ごくろうさん。 わははははは @阿波 >>194 >>末盧國から伊都国は、出発時点や途中では全く見えないので、案内人に従って行くしかなく、<
>事情聴取もしないの? 道すがら調べたりもしないの?
そんな杜撰な報告をした人は何で首が飛ばないの?
要するにまた九州説はチェリーピッキングしてるわけだ 杜撰な説だね<
魏の役人たちは、道なき道にも等しい田舎道で、
車駕が倒れたり落ちたりしないように下賜品等を見守って監督し、
記里車や歩測を間違えないように数え続け、
案内人の後を必死て付いて行くだけなのであるから。
>>202 >帯方郡
↓↓
↓東治
↓↓580q 陸行一月
東冶=倭国「女王之所都」12,000里
中国大陸の道里の倭国への転用か!<
魏志倭人伝には「東冶」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、
この貼り付け大和説男は・・・・アホ詐欺師であり、×ね。
>>205 >それ、あんたの我流珍説と合わないってだけだろ
畿内が存在しないとか言い張っても 世間はあんたをバカと思うだけだ <
おや?、この男がまた嘘を書いたな?。
「畿内が存在しない」なんて言わないし書かないよ。
「畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言」と言っているのであり、
過去形なんだよ。
それは、当然史料事実や史料実態であるのであり、
世間の人々も、
古代には「畿内」なんて存在もしなかった、
という事はよく知っている。
>>225 「土器から推定した」人の動き
王都に人が集まったんだね。
外国人も、畿内には行かずに九州北部にとどまった。
魏志倭人伝の通りだ。
>>217
>前に分銅型土製品を「泡にも分銅がある」って威張って
>恥をかいたのはもう忘れたのかい?w
「阿波市 西長峰遺跡:弥生時代中期の大形掘立柱建物 分銅形土製品」
竪穴住居跡が26棟、掘立柱建物跡(14棟大型のものを含む)
注目されるのは分銅形土製品がある。分銅形土製品には目・鼻・口など顔が線刻されており、祭祀に用いられたと思われる。 @阿波
https://www.pref.tokushima.lg.jp/rekishiru/remains/5023030/ >>217
>まあ、亀井遺跡の分銅は、三重の丹生鉱山や大和水銀鉱山の
>辰砂を測ったのだろうけれど
「辰砂採掘遺跡」の無い畿内に、三重の丹生鉱山や大和水銀鉱山の辰砂を測った分銅が在る訳がない。 以上御終い。 @阿波 >>188
>例えば亀井遺跡では正確な分銅(石製)が出ていて
その分銅も、「若杉山辰砂採掘遺跡」で採れた水銀朱を計るものだよ。 ごくろうさん。 わははははは @阿波 「鏡」や「お墓」や「土器」ごときに頼らざるを得ない、九州説や畿内説。
圧倒的な倭国(阿波)の遺跡のまえに、ひれ伏すばかりなり。 @阿波
>>189 >妄想です
こういう何一つ根拠も理由も言わない一言反論のコメントって、
九州説はろくな反論もできないだめなやつしかいませんって
いうのを喧伝するためのもの?
神獣鏡や内行花文鏡,画像鏡などの?製鏡が阿波でつくられた。
「宮谷古墳」は徳島市国府町と名西郡石井町の境界をなす気延山の東に延びる気延山古墳群の盟主的な前方後円墳で、
3世紀末〜4世紀初頭の築造年代が考えられ、前方後円墳では徳島県内最古の一つである。
主軸は畿内(南北方向が中心)と相違し、東西方向という地域性(東四国に多くみられる)を有している。
副葬品では、棺内から重圏文鏡、碧玉製管玉、ガラス製小玉、鉄鏃、鉄鉾(軸身系)、板状鉄斧、やり鉋など、
棺外から鉄剣などが出土している。前方部からは「張是作」銘の三角縁銘帯六神四獣鏡、三角縁唐草文帯ニ神二獣鏡片、三角縁神獣鏡片の三面が出土している。
この内、三角縁銘帯六神四獣鏡は、京都府八幡市内里古墳、32面の三角縁神獣鏡が出土した奈良県天理市黒塚古墳などと同笵あるいは同型とされるものがあり、
一方、三角縁唐草文帯ニ神二獣鏡片も大分県宇佐市赤塚古墳などに同笵あるいは同型とされるものがある。
また、三角縁神獣鏡片も島根大学の岩本崇氏により、群馬県の天神山古墳の三角縁獣文帯五神四獣鏡と同笵との指摘がなされている。 @阿波
神獣鏡や内行花文鏡,画像鏡などのぼう製鏡が阿波でつくられた。
「宮谷古墳」は徳島市国府町と名西郡石井町の境界をなす気延山の東に延びる気延山古墳群の盟主的な前方後円墳で、
3世紀末〜4世紀初頭の築造年代が考えられ、前方後円墳では徳島県内最古の一つである。
主軸は畿内(南北方向が中心)と相違し、東西方向という地域性(東四国に多くみられる)を有している。
副葬品では、棺内から重圏文鏡、碧玉製管玉、ガラス製小玉、鉄鏃、鉄鉾(軸身系)、板状鉄斧、やり鉋など、
棺外から鉄剣などが出土している。前方部からは「張是作」銘の三角縁銘帯六神四獣鏡、三角縁唐草文帯ニ神二獣鏡片、三角縁神獣鏡片の三面が出土している。
この内、三角縁銘帯六神四獣鏡は、京都府八幡市内里古墳、32面の三角縁神獣鏡が出土した奈良県天理市黒塚古墳などと同笵あるいは同型とされるものがあり、
一方、三角縁唐草文帯ニ神二獣鏡片も大分県宇佐市赤塚古墳などに同笵あるいは同型とされるものがある。
また、三角縁神獣鏡片も島根大学の岩本崇氏により、群馬県の天神山古墳の三角縁獣文帯五神四獣鏡と同笵との指摘がなされている。 @阿波
>>212 >>しかし、倭王がいたのは九州で、本州にいたのはただの倭種。<
>九州にいたのも対馬にいたのも「皆倭種」なんだよ<
ダメだ。
陳寿は、韓の南の「倭」地と、共立女王國と、狗奴國含む倭國と、倭種と、
倭国ではない「侏儒國と裸國と黒齒國」とをきちんと書き分けており、
對海國は明らかに女王共立の29国に数えられて女王國や倭國に含まれ、
邪馬壹國女王之所都は、萬二千余里がほぼ終わった不彌國の直ぐ南にある事になり、
九州にある事になる。
>そして、九州に欧と呼べる存在が3世紀にいたというのは考古学的に否定される
3せいきに入ってからの九州は、畿内と仲良しの奴国がそこそこ栄えている以外は
みんな雑魚 <
「南≠東」などの文献だけではなく、考古学的にも、
大和の前方後円墳や庄内や鏡や鉄器などは3世紀末以後であり、
卑弥呼の3世紀前半にはならず、×。
九州説はヤケになり嘘の連呼とオウム返しをするばかり
>>197 魏志倭人伝を引用して書かれた梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧に
卑弥呼が魏に使いを送った年が景初三年と記載
畿内で見つかる景初三年銘の入った銅鏡は魏から卑弥呼に下賜されたものという事は明らか
三角縁神獣鏡だけではなくて画文帯神獣鏡も景初三年銘のものが出ている
>>244
三角縁神獣鏡 は、「魏の水銀朱」が使われた「天河別神社古墳群」出土の「斜縁二神二獣鏡」を倭国(阿波)でぼう製したものだろう。 @阿波 >>200 畿内説で魏志倭人伝の南は東の書き間違いとは現在誰も主張してないし
卑弥呼の墓は冢、大きな墓で前方後円墳で問題ないし
帯方から不彌国までの距離は1万700里で1万2千里は終わってない
それで畿内説に不都合な真実は?
>>245 三角縁神獣鏡だけではなく景初三年銘の画文帯神獣鏡も畿内で出てるぞ
>>219、
>>220 そんなのが反論になると思っている時点でww
>>245
>三角縁神獣鏡だけではなく景初三年銘の画文帯神獣鏡も畿内で出てるぞ
景初三年銘の画文帯神獣鏡 も、「魏の水銀朱」が使われた「萩原古墳群」出土の「画文帯神獣鏡」を倭国(阿波)でぼう製したものだろう。 わははははは @阿波 「鏡」や「お墓」や「土器」ごときに頼らざるを得ない、九州説や畿内説。
圧倒的な倭国(阿波)の遺跡のまえに、ひれ伏すばかりなり。 @阿波
「萩原1号墓から出土した獣帯同向式神獣鏡」
萩原1号墓出土の銅鏡は鋳上がりがよく、中国の鏡作り専門の工房で作られた鏡であることがわかる。 徳島県埋蔵文化財センター展示説明文書写
萩原1号墓の鏡の銘文は以下の通りです.
吾作明竟 天王日月
幽凍三商 統徳序道
配象萬京 天王日月
敬奉賢良 天王日月
曾年益壽 子孫番昌
天王日月 與天無亟
天王日月 見師命長
「萩原墳墓群」
http://www001.upp.so-net.ne.jp/wi12000/forGmap/html/hagiwara.html すっかり時代遅れな平成スレですね。
令和時代は九州説ですよ。
【歴史】邪馬台国の卑弥呼がもらった?曹操墓出土と同型の鏡 「皇帝の所有物にふさわしい最高級の鏡」がなぜ九州に?
http://2chb.net/r/newsplus/1568210099/ 画文帯神獣鏡は魏の鏡
景初三年銘の入ったものが見つかった畿内はその頃魏と交流していたという証拠
>>252
>阿波で記年鏡は出てないからぼう製はできないね
倭国(阿波)には、卑弥呼以前から中国人が頻繁に往来しているので、ご心配なく。 わははははは @阿波 「萩原1号墓から出土した獣帯同向式神獣鏡」
萩原1号墓出土の銅鏡は鋳上がりがよく、中国の鏡作り専門の工房で作られた鏡であることがわかる。 徳島県埋蔵文化財センター展示説明文書写
萩原1号墓の鏡の銘文は以下の通りです.
吾作明竟 天王日月
幽凍三商 統徳序道
配象萬京 天王日月
敬奉賢良 天王日月
曾年益壽 子孫番昌
天王日月 與天無亟
天王日月 見師命長
「萩原墳墓群」
http://www001.upp.so-net.ne.jp/wi12000/forGmap/html/hagiwara.html >>245
>三角縁神獣鏡だけではなく景初三年銘の画文帯神獣鏡も畿内で出てるぞ
景初三年銘の画文帯神獣鏡 も、「魏の水銀朱」が使われた「萩原古墳群」出土の「画文帯神獣鏡」を倭国(阿波)でぼう製したものだろう。 わははははは @阿波 >>252
>阿波で記年鏡は出てないからぼう製はできないね
倭国(阿波)には、卑弥呼以前から中国人が頻繁に往来しているので、ご心配なく。 わははははは @阿波 >>253 >【歴史】邪馬台国の卑弥呼がもらった?曹操墓出土と同型の鏡 「皇帝の所有物にふさわしい最高級の鏡」がなぜ九州に?
卑弥呼は別に皇帝じゃないから無関係だな
それよりも基地外がいるけど、何なんだろう、
他のスレにもいるでしょ
魏志倭人伝の、、、女王國東渡海千餘里復有國皆倭種、、、という文章は、
女王国の東へ海を千里余り渡れば、また国が有り、全て、人種は倭種だ。。。
という意味だということが、頭の悪い者には分からないのだな。。。
169日本@名無史さん2019/09/12(木) 08:21:04.29
>>154 >畿内に倭種の別国があったでいいんでねーの
魏志倭人伝には「倭種の別国」なんてどこにも書いてないぞ
書いてあるのは「皆倭種」だ
卑弥呼は倭種の王だから、倭王なんだよ
奧山氏、つまり、◆n7jxAxKCBhb6 は、頭が悪いな。。。
朝鮮人の奥山氏は、配管工としては解雇されたので、今は無給で5ちゃんねるのプロ固定として活動中なのだったな。。。
朝鮮人の奥山氏は、素人よりも水道工事が上手なことを自慢していましたね。。。
>>263 奧山氏は、何十年も労働をしていないのではないのかな。。。
日本史版って基本キチガイしかいないよ?
松傾さん 先祖嫉妬厨さん 阿波さん 阿波チョンコaa連投する人
一般の凡人ぽいのは逆にピットクルーバイトの畿内説宣伝員の人くらい
松傾・・・家の話なんだけど、
あの写真なども家のものだし、何だと思う?
カッパ、カミタマか何かの家?後の〜?
僕達が笑いリラックスするためにアプローチしている、このレベルの低い、5ちゃんねるのサクラのプロ固定が作製したスレッドとは全く異次元の、 たくさんの分野のレベルの高い学者達が集う、
魏志倭人伝時代の真実について、僕達か僕達の論敵のどちらの頭がカラフルになるかを賭けて、
お互いに、不敵な笑みを浮かべながら、 闘っている討論会では、
破綻した非科学的な唯物論や破綻した非科学的な要素還元主義を、お互いに掲げることなしに、正々堂々の討論を闘っているので、
魏志倭人伝に全く記録はされていない土器や時代の異なる前方後円墳ではなく、
最近明らかにされてきた空気シャワーの威力や、鉄鏃や、人民の住居や、ベンガラや、方角や、距離や、夏の時代の考古学的に判明している会稽の位置や、魏志倭人伝時代の倭人の太い骨や、
萬二千里の事で奥山氏も頼みにしている淮南子を規定している一寸千里の法を材料にして、討論が進行し、
卑弥呼の城が日本の何処にあったかの討論から、卑弥呼の城が九州の何処にあったかの討論に、話題が移り変わってきたのだったな。。。
家は福島県()に住んでいるわけでもないし、
どういう事だと思う?
はやく精神病院に行け、または刑務所があるから、
そこに行けと言っているんだよ、何度言えばわかるんだ?
松傾と書くと湧いてくる基地外がいるでしょw
お前に言っているんだよ
>>248 どちらが正しいかは、その図をじっとよく見ればわかるわけで、君の主張にはなんら根拠がない。
>>254 で?
その見つかった古墳は何世紀の古墳なんだ?
まさか、出土地がわからないものを取り上げたりしていないよね?
あと阿波というのは、どこかの地名なの?
家は、そこに住んでいるわけでもないし
『五十足』wikiを読んでみて?ほとんど、家の話と同じでしょ
『葱の華』(画像など)・・・何やらとか、かぐや姫、UFO?
>>221 >>唐会要倭國伝では、卑弥呼のいた倭國は、
「西北接百濟、正北抵新羅」の位置であるから北部九州であり、<
>それは宋の人たちが日本列島を
朝鮮半島からみて南へ南へ伸びていると誤解していた結果でしかないよ
<
ダメだ。
東震旦地理図は、作者も情報源もはっきりせず、
隋代の裴清や唐代の遣唐使や白村江の唐軍や郭務ソウらの報告のあった、
旧唐書や唐会要や新唐書の記載を否定出来る根拠になる筈がない。
ほとんど同じ、
野見宿禰が当麻蹴速と何やら〜相撲?とか
『河童 相撲』
>田道間守に命じて常世国の非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求めさせる
浦島太郎(仮名、キャラクター名)の話でしょw
>>253 >【歴史】邪馬台国の卑弥呼がもらった?曹操墓出土と同型の鏡 「皇帝の所有物にふさわしい最高級の鏡」がなぜ九州に?
その鏡が見つかった(とされている)のは、平成どころか昭和なんだけど?ww
古いのを焼き直しでさも新発見のように出してきて騒ぐっていうのは、
あまり日本人的ではないねぇw
>>272 >どちらが正しいかは、その図をじっとよく見ればわかるわけで、
つまり学問的検討は一切せずに
いつもの「根拠は僕がそう考えたから」でしかない訳だww
九州説はこれだから妄想の域から出てこられないww
>>279 俺は赤日の会員じゃないから全文は読めないけど、
”それから半世紀余。新たな知見が明らかになったのは先月初めだ。東京国立博物館で開催中の「三国志」展(16日まで)に関連して開かれた学術交流団座談会でのことだった。
「X線で調べたところ、象嵌の…”
>>273 >その見つかった古墳は何世紀の古墳なんだ?
見つかったと「される」だんわら古墳は、発掘した梅原末治氏の論文では
5世紀〜6世紀に作られたと判断されているね
こう書くと「断定した」って訳の判らない言いがかりをつける人が
出るかもしれないけれどww
〜天皇という人物の辺りの話w
あと神代〜初代〜・・・・〜直系とかそういうものではないと言っている人もいたり、
系図として繋げているけど、実際はそういうものではないという話
>>281 >脳がズレ杉w
>馬鹿じゃね?
「学界に紹介されたのは63年」
昭和38年だね
発見されたのはさらにその30年前とされているww
きちんと古代史の情報を抑えている人には、とっくに既出の情報なんだよw
>>282 >新たな知見が明らかになったのは先月初めだ。
これが、新たな知見というほど新たではないってことww
>>280 能書きはいいから、尾張と奈良と筑紫と関東のそれぞれの間の矢印の向きを確認しろよ。
さあ、みんなも確認してみよう!
>>285 >きちんと古代史の情報を抑えている人には、とっくに既出の情報なんだよw
鏡そのものは見つかっていたけれど、それが曹操の鏡であったというのが新たな知見なんじゃない?
>286
馬鹿だね君
昔に発見されているのに騒がれなかったのは
当時の学者に想像力が欠けていたということだけ
江田山古墳の鉄剣とかと同じよ
〜直系というわけではない。
最近になり、わかったことなのかな、
それとも、むかーしから有力な説、定説なのかな?
しかっかりと調べてみると、
そのような話ばかり出てくるし
>>286 先月なら新たと言っていいだろ?
これまで知られていなかったわけだから。
大体30年前に、何かが発見されたとして、これは邪馬台国の遺物だー!とか
突然言い出したらキチガイ扱いされただろ当然に
今だってギリギリくらいだぜ
卑弥呼の鏡の可能性がある鏡の分布
それとも、ほんとーにオギワラ(荻原)〜の古墳だったとか?
上のほうでオギワラ?が〜と言っている人がいるし
>>285 知らんのかw
鏡が見つかったというニュースじゃないだろ馬鹿w
僕達が笑いリラックスするためにアプローチしている、このレベルの低い、5ちゃんねるのサクラのプロ固定が作製したスレッドとは全く異次元の、 たくさんの分野のレベルの高い学者達が集う、
魏志倭人伝時代の真実について、僕達か僕達の論敵のどちらの頭がカラフルになるかを賭けて、
お互いに、不敵な笑みを浮かべながら、 闘っている討論会では、
破綻した非科学的な唯物論や破綻した非科学的な要素還元主義を、お互いに掲げることなしに、正々堂々の討論を闘っているので、
魏志倭人伝に全く記録はされていない土器や時代の異なる前方後円墳ではなく、
最近明らかにされてきた空気シャワーの威力や、鉄鏃や、人民の住居や、ベンガラや、方角や、距離や、夏の時代の考古学的に判明している会稽の位置や、魏志倭人伝時代の倭人の太い骨や、
萬二千里の事で奥山氏も頼みにしている淮南子を規定している一寸千里の法を材料にして、討論が進行し、
卑弥呼の城が日本の何処にあったかの討論から、卑弥呼の城が九州の何処にあったかの討論に、話題が移り変わってきたのだったな。。。
>>292 そういう可哀想な人を知っている。
古田だっけ?
まさかオギワラ(萩原)の・・・だったとか、
オギハラ(荻原)?
>>291 >先月なら新たと言っていいだろ?
>これまで知られていなかったわけだから。
妄想
昭和の頃から指摘されてます
つまり、昭和の頃から、邪馬台国畿内説は破綻していたのだな。。。
>>302 朝鮮人が作製した邪馬台国畿内説が成立する可能性があった時代は、一度も無いのではないのかな。。。
かぐや姫でも何でも良い
皇女〜?というくらいだから、
実際は中国(中華〜渡来系)の話なんだろう
頭の良い人は気づいている
日本の場合、ほとんど後付けで、
皇子〜皇女と(書いている)言っているだけでしょ
>>225 >>九州北部は中継地ではなく、大陸からも本州からも最終目的地であり、大消費地なんだ。<
>それは妄想
その図の矢印はモノじゃなくてヒトの流れを示してるから
北部九州が畿内人の植民地になったことを示してるだけ <
人の流れ?。そりゃ無理だ。
古代の人の足跡でも残っていれば、そんな説明も有り得るが、
実際には、モノの移動を「想像」して、それは「人が持ち運んだ」という、
空想を主張しているだけなんだろ?。
そして、文献に残っている証拠では、神武東征や「東征毛人五十五國」の移動しかなく、
また、地方の市を監督する「(使)大倭」という役職があった、というだけであり、
あった第X様式も庄内も九州の方が50年位早いし、
前方後円墳も那珂八幡の方が石塚よりも15〜20年位早いから、
人やモノの移動があったのは「九州から大和」の方。
当時の皇子、皇女など
中国の人?だというのに、
おかしな名前だな〜となるし、
ほんとうにking(上の名前)とかなら、まだわかるんだけど
>>285 要するに、57年間もこの鏡が皇帝級だと
身近にいた考古学者様でもわからなかったわけだよ。
恥ずかしい話だよな!
>>288 >曹操の鏡であった
曹操の鏡と同レベルの宝飾鏡
ここんところのごまかしが笑える
>>307 >古代の人の足跡でも残っていれば、そんな説明も有り得るが、
九州説信者は無知だから分からないだけだよ
生活用の雑器も祭祀の道具も持ち込まれてる
これは移民だ
あと劉(上の名前)・・・何やら〜とか、
それならまだわかる
日本の場合、ほとんど後付けなのかな
>>239 こういうような、「南≠東」や「冢≠前方後円墳」などの批判に対して、
何一つ根拠も理由も言わない一言反論のコメントって、
大和説にはろくな反論もできないだめなやつしかいませんって
いうのを喧伝するためのもの?
>>307 >あった第X様式も庄内も九州の方が50年位早いし、
>前方後円墳も那珂八幡の方が石塚よりも15〜20年位早いから、
九州説さん
お手製のニセ編年作って喧伝しても
世間の人は騙せないよ
>>293 >卑弥呼の鏡の可能性がある鏡の分布
>
何度も嗤わせるなよ
それ、邪馬台国の会の「十種の魏晋鏡」というインチキデータだ
平原1号墓の方格規矩鏡を、公式報告書で仿製鏡とされているのを知りつつ
全部数に入れているというインチキ
福岡県37枚のうち、実に32枚が平原1号墓の仿製鏡だから、
福岡県の卑弥呼の鏡の可能性のある「舶載鏡」の十種の魏晋鏡は
『5枚だけ』だ
>>243 「南→東」や「冢→前方後円墳」などの嘘付き騙しがバレた的説は、
ヤケになり、
嘘の連呼とオウム返されをするばかり
>>295 >知らんのかw
>鏡が見つかったというニュースじゃないだろ馬鹿w
いや、「知らんのか?」はこっちの台詞
昭和の時代から、伝だんわら古墳の金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡は知られていて、
宝飾鏡というのが王侯貴族の鏡だってのは、とっくの昔に公知なんだよ
今回は、文様が従来よりはっきり見えた、というのと、
曹操墓が確認されて宝飾鏡(鉄鏡)が出たってだけ
同じレベルの鏡であって、同じ鏡ではない
この辺が、チェリーピッキングなんだよ
>>312 移民じゃなくても遠出するなら一式必要だろ。
コンビニもホテルも無い時代だぞ。
>>319 >曹操墓が確認されて宝飾鏡(鉄鏡)が出たってだけ
的確に畿内説を否定する重要キーワード →「鉄」鏡 www
とことん鉄とは縁のない畿内www
>>244 >三角縁神獣鏡だけではなくて画文帯神獣鏡も景初三年銘のものが出ている<
「大阪府和泉市上代町 黄金塚」だから、
大和ではなく和泉市からだよ。
>>320 畿内説だと、畿内から北部九州までの移動に2か月はかかるはずだもんなwww
昨日も紹介したけれど、この論文が2005年
「三角縁神獣鏡と卑弥呼の鏡」西川 寿勝
https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonkokogaku1994/6/8/6_8_87/_pdf/-char/ja 図はこの論文からの引用
単に九州説連中が情報リテラシーが低くて無知だってだけ
纏向古墳建造事務所には東海・伊勢のドカタが一式持ち込んでるよな。
>>310 >要するに、57年間もこの鏡が皇帝級だと
>身近にいた考古学者様でもわからなかったわけだよ。
分ってたよww
>>325のように論文も出てる
>恥ずかしい話だよな!
お前のような無知なやつは本当に、恥 ず か し い よな
頭の悪い奥山が、また頭の悪さを飛散させてるのですね
しばらく前に「投馬国は女王国より以北の国」でも壊滅し、
今回また宝飾鏡で恥をさらすのかww
九州説ってマゾなんかい?w
>>319 >チェリーピッキング
どちらかというと、ストライクピッキングだろw
>>328 うん、畿内論者の学者はスルーしてたんだとよ。
恥ずかしいよな。これが畿内説の限界なんだろう。
そもそも畿内は邪馬台国じゃないからね。世界中の学者から鼻で笑われてるんだってね。日本人として恥ずかしいよな。
いや、実は日本人じゃないかもしれんな(笑)
『漢』wikiを読んでみて
「唐(もろこし)」・・・トトロのセリフだしな
日本の考古学者は捏造バイトしてた藤村未満だと判明したわけだw
>>333 おかしいなと思ってたんだろ?
良かったな、自分が病気だという事が判明してw
さつき、メイ・・・五月という意味でしょ、
某という人物(家の人)は、漢人系だと思われると言っている人がいたり
おそらく・・・・kingの話だろう、
後の名前(日本風の名前)というのが。
龍宮〜?
僕達が笑いリラックスするためにアプローチしている、このレベルの低い、5ちゃんねるのサクラのプロ固定が作製したスレッドとは全く異次元の、 たくさんの分野のレベルの高い学者達が集う、
魏志倭人伝時代の真実について、僕達か僕達の論敵のどちらの頭がカラフルになるかを賭けて、
お互いに、不敵な笑みを浮かべながら、 闘っている討論会では、
破綻した非科学的な唯物論や破綻した非科学的な要素還元主義を、お互いに掲げることなしに、正々堂々の討論を闘っているので、
魏志倭人伝に全く記録はされていない土器や時代の異なる前方後円墳ではなく、
最近明らかにされてきた空気シャワーの威力や、鉄鏃や、人民の住居や、ベンガラや、方角や、距離や、夏の時代の考古学的に判明している会稽の位置や、魏志倭人伝時代の倭人の太い骨や、
萬二千里の事で奥山氏も頼みにしている淮南子を規定している一寸千里の法を材料にして、討論が進行し、
卑弥呼の城が日本の何処にあったかの討論から、卑弥呼の城が九州の何処にあったかの討論に、話題が移り変わってきたのだったな。。。
邪馬台国畿内説が前提にしていた、唯物論や要素還元主義が、他の多くの分野で破綻してしまい、
魏志倭人伝時代についての討論をするまでもなく、 邪馬台国畿内説も自動的に破綻してしまったので、
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する、朝鮮人の奥山氏は、、、
邪馬台国畿内説が破綻した唯物論や破綻した要素還元主義反論を前提にしていた、、、
という真実の指摘への反論を完全に諦め、スレッドに出現しても、意味がよくわからないことや嘘しか発表しなくなったことが、
このレベルの低いスレッドの、益々の低レベル化を進行させてしまっているのではないのかな。。
>>323 >畿内説だと、畿内から北部九州までの移動に2か月はかかるはずだもんなwww
下にもおかない待遇で接待しながら進む大国の使者でも2ヶ月で移動できる距離で、
土器様式が伝わるのに50年もかかる訳ないよなw
九州説のいう土器編年って、そういう前提なんだぞww
なぜ、そんなに詳しいの?となるかもしれないけど
大げさに言うと『阿頼耶識』(阿羅漢)?
>>332 この人の頭の悪さはどこから来るんだろう?
誰も無視してないだろ?
どこからそういう妄想が出てくるんだ?
5,6世紀の古墳から伝世鏡が出て、その来歴は分らないねってだけ
しかも、いったん盗品になって古物商持込っていうエピソード付
それでも、国の重要文化財に指定されてるし、知ってる人は皆知ってたものだよ
九州説は情報に疎いw
詳しいことはわからないけど
『カッパ 仏教』?
このような話をしていた
邪馬台国の会の
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku250.htm のページの
「県別・卑弥呼がもらった可能性の大きい「10種の魏晋鏡」の数」というグラフの、福岡県が37枚」
表2の抜粋だが、
三雲遺跡寺口U-17 2号石棺墓 福岡県 連弧文鏡(蝙蝠)△1
汐井掛遺跡4号箱式石棺墓 福岡県 方格規矩渦文鏡 ●1
汐井掛遺跡6号箱式石棺墓 福岡県 連弧文鏡 △1
汐井掛遺跡28木棺墓 福岡県 飛禽鏡 △1
汐井掛遺跡203土壙墓 福岡県 連弧文鏡 △1
平原遺跡 福岡県 方格規矩四神鏡 ●32
連弧文鏡 ●2
キ竜文鏡 ●1
連弧文八葉鏡 ●5
と、庄内期の福岡県の鏡が45枚挙げてあって、このうち37枚を「10種の魏晋鏡」としている訳だ
『ひと頃までは』、この平原遺跡の40枚のうち、大型の連弧文八葉鏡5枚は仿製鏡とされ、
キ竜文鏡1枚は前漢鏡、連弧文鏡2枚のうち1枚は後漢鏡で1枚は仿製鏡とされていた
とすると、平原1号墓の方格規矩四神鏡32枚と、その他の遺跡で1枚ずつの5枚を合わせて、
「福岡県は37枚」としていたと考えられる
たぶんこれで合っているだろう 同じ邪馬台国の会のウェブページで、この鏡のグラフだけを示したページがある
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/206kagami.htm このページでは、福岡県の37枚が、「およそ邪馬台国時代」の20枚と、
「およそ古墳時代」の17枚に分割されている
福岡県の枚数が多いのは単に平原1号墓の方格規矩四神鏡32枚を数えているから
多いだけで、20枚と17枚に分けるのであれば、必ずこの32枚のうちの何枚かが
「およそ邪馬台国時代」別の何枚かが「およそ古墳時代」に分割されていることになる
ひとつの墳墓からの遺物をどうして「邪馬台国時代」と「古墳時代」に分けられるのか、
説明は一切ない
つまり不適切なデータの扱いということになる
さらに、
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku250.htmの表2では
平原1号墓の鏡の枚数が「40枚」になっていて、このページ自体は2002年の「季刊邪馬台国」の
データの転載だと考えられる
平原1号墓の鏡の枚数は、長らく「39枚」されていたが、2000年の「平原遺跡(前原市文化財報告書)」での
「40枚」への修正を反映したものだと考えられる
2000年の報告書の内容が、2002年の季刊邪馬台国に反映されているので問題はないように見えるが、
この2000年の報告書で平原1号墓の鏡は「漢鏡5期の雲雷文長宜子孫銘内行花文鏡と
漢鏡3期の四螭二朱雀龍虎鏡のの2枚以外は『全て仿製鏡』」とされている
鏡の枚数が40枚になっているところを見ると、2000年の報告書を参照していると見られるが、
それならば平原1号墓の鏡は全て外れるので、卑弥呼の銅鏡百枚候補の「10種の魏晋鏡」の福岡県の枚数は
「5枚」でなければおかしい
>>343 >苦しい苦しい見苦しい畿内説信者w
はい出た!
理由も根拠も一切ない1行コメント!ww
理由も根拠もなく、論理的思考もできず、
情報リテラシーも低い九州説のできることはこれが精一杯ww
>>320 >移民じゃなくても遠出するなら一式必要だろ。
遠出するだけの行き先に祖先祭祀の道具は必要ないよ
邪馬台国畿内説が前提にしていた、唯物論や要素還元主義が、他の多くの分野で破綻してしまい、
魏志倭人伝時代についての討論をするまでもなく、 邪馬台国畿内説も自動的に破綻してしまったので、
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する、朝鮮人の奥山氏は、、、
邪馬台国畿内説が破綻した唯物論や破綻した要素還元主義反論を前提にしていた、、、
という真実の指摘への反論を完全に諦め、スレッドに出現しても、意味がよくわからないことや嘘しか発表しなくなったことが、
このレベルの低いスレッドの、益々の低レベル化を進行させてしまっているのではないのかな。。
僕達が笑いリラックスするためにアプローチしている、このレベルの低い、5ちゃんねるのサクラのプロ固定が作製したスレッドとは全く異次元の、 たくさんの分野のレベルの高い学者達が集う、
魏志倭人伝時代の真実について、僕達か僕達の論敵のどちらの頭がカラフルになるかを賭けて、
お互いに、不敵な笑みを浮かべながら、 闘っている討論会では、
破綻した非科学的な唯物論や破綻した非科学的な要素還元主義を、お互いに掲げることなしに、正々堂々の討論を闘っているので、
魏志倭人伝に全く記録はされていない土器や時代の異なる前方後円墳ではなく、
最近明らかにされてきた空気シャワーの威力や、鉄鏃や、人民の住居や、ベンガラや、方角や、距離や、夏の時代の考古学的に判明している会稽の位置や、魏志倭人伝時代の倭人の太い骨や、
萬二千里の事で奥山氏も頼みにしている淮南子を規定している一寸千里の法を材料にして、討論が進行し、
卑弥呼の城が日本の何処にあったかの討論から、卑弥呼の城が九州の何処にあったかの討論に、話題が移り変わってきたのだったな。。。
畿内説は、事実と、そこから導いた仮説との区別がついていない。
なるほど、、、
熊本城とそれほど離れてはいない日田に埋まっていた鏡が、曹操墓出土の鏡と酷似していると中国の研究者発表が、発表したのだな。。。
>>354 なるほど、、、
熊本城とそれほど離れてはいない日田に埋まっていた鏡が、曹操墓出土の鏡と酷似していると中国の研究者発表が、発表したのだな。。。
というのは、、、
なるほど、、、
熊本城とそれほど離れてはいない日田に埋まっていた鏡が、曹操墓出土の鏡と酷似していると中国の研究者が、発表したのだな。。。
とタイピングしたかったのではないのかな。。。
熊本城とそれほど離れてはいない日田に埋まっていた鏡が、曹操墓出土の鏡と酷似していると発表した中国の研究者とは、何者なのだろうか。。。
潘研究員という研究員が「曹操墓出土の鏡は、日本の日田市で見つかったという鏡『金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)』とほぼ同型式である可能性が高い」と発表した可能性があるな。。。
>>246 >それで畿内説に不都合な真実は?
畿内説で魏志倭人伝の南は東の書き間違いとは現在誰も主張してないし<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言である事と、
「不彌國から南に至る」としか書かれていないのに、
「東」や「東北」の方の地に向かわせた事。
>卑弥呼の墓は冢、大きな墓で前方後円墳で問題ないし<
古代中国での「冢」の言う文言は、錐体台状の形態に使われていて、
前方後円墳のような形状には使われていない事が問題。
>帯方から不彌国までの距離は1万700里で1万2千里は終わってない<
陳寿は、
「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里」の五千餘里の計算でも、
對海國と一大國の国内参問移動の距離に当たる各国の二辺の陸路距離を算定している事になるから、
萬二千余里の計算でも、
對海國と一大國の各二辺分の里数を計算し参入している事になるから、
不彌國で萬二千余里がほぼ終わってしまっている事になる。
それで畿内説に不都合な真実は?
曹操というのは、卑弥呼と文通を実行した魏の皇帝の祖父ではないのかな。。。
>>340 >下にもおかない待遇で接待しながら進む大国の使者でも2ヶ月で移動できる距離で、
>土器様式が伝わるのに50年もかかる訳ないよなw
むしろ畿内説の矛盾を示していないか?
>>247 >三角縁神獣鏡だけではなく景初三年銘の画文帯神獣鏡も畿内で出てるぞ<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
大和説であっても、肝心の磐余〜纏向付近から出なくては、意味がないのだぞ。
>>356 まあ、鏡そのものは知られていたわけで、今回はその位置付けが見直されたんだな。
ここにその鏡らしきデータが含まれているからね。
これが邪馬台国(福岡佐賀大分)、狗奴国(熊本)、投馬国(宮崎)のそれぞれの範囲に対応するのだろう。
>>364 いや、別に昔から同じ評価だ
「中国人が言った」というだけ
そこに九州説の変な権威主義が出た
>>361 どんな矛盾?
また九州説は具体的内容ナシか
ほんとーに、白い服の写真の裏w
龍宮〜寒いな・・・、
このような名前だったでしょ?それと下の名前「市」
出家した家なのかな?何なんだろう
>>349 >遠出するだけの行き先に祖先祭祀の道具は必要ないよ
いつものように矛盾してるなあw
祭祀が国を統合できるほど威力を持っていたという畿内説とは思えない発言だw
>>371 何と何が矛盾していると?
九州説またブラフ?
>>363 >大和説であっても、肝心の磐余〜纏向付近から出なくては、意味がないのだぞ。
ここは畿内説のスレだよ
来るとこ間違えてるよ
九州説・・・曹操級の金銀鏡
畿内説・・・桃のタネ、カエルとサバの骨ww
>>359 向かわせてないぞ
南は南で魏志倭人伝の行程の行きつく先は会稽東治の東で台湾か沖縄
冢とは塚のこと
土を盛り上げた墓で前方後円墳で問題なし
対馬、壱岐島に書いてあるのは行程ではなく大きさを表す方400里や方300里
行などの行程を表す文言が使われてないと移動した事にならないと言っていたのは九州説
そして倭国の大きさを表す周旋可五千餘里は最初から知らんふりで
1万2千里の行程に加えない九州説の支離滅裂な厚顔無恥ぶり
>>317 オウム返されとは何かな
そんな日本語ないから
>>374 だから、お宝ひとつで歴史は変わらないのに
>>377 >朝鮮思考だと矛盾に気付かないんだなw
ほら、また九州説は具体的な主張が出来ない
曹操の鏡が本物でも邪馬台国が九州にあった証拠にはならないからね
それに例え九州から親魏倭王の金印が出ても邪馬台国は九州にはならん
それだけ九州説は畿内説に対し圧倒的不利な状況にある
畿内のほら夫、勢いが落ちてきたなww
方角は合わない、里数は合わない、お宝も出ない。踏まれたり蹴られたりwww
ああ幻の畿内説という小説でも書いてた方が金になったかもな
>>1 畿内説の近代学者で
中国の三国志に精通した学者とのパイプが強い学者はだれですか・
寺澤は下っ端のだから無理でしょうが
まぁ寺澤は地方公務員の観光大使だな
考古学に一石を投じた論は寺澤は皆無
石野が悪いのは承知だが・・
>>381 まいど論破されては反論出来ない九州説
ただ悪口三昧のその日暮らし
あまりに悲惨
畿内説の学者と三国志に精通した中国の学者との意見交換するといいのですかが・・
曹操の鏡も、中国の学者と議論してもらいたい
学会では畿内説が主流ですが、誰も中国の学者と喧々諤々とやった形跡がない
なんだろう
畿内説の学者と三国志に精通した中国の学者との意見交換するといいのですかが・・
曹操の鏡も、中国の学者と議論してもらいたい
学会では畿内説が主流ですが、誰も中国の学者と喧々諤々とやった形跡がない
なんだろう
>>381 畿内説が圧勝してるから
別に勢いつける必要なんてないけど?
>>389 >テンプレで中国の学者の引用が無いはなぜ
邪馬台国の研究者がいないから、では?
曹操の鏡ー曹操の鏡と群がって来たところで
邪馬台国の証拠にならないよと一蹴されて蹴散らかされる九州説
スレ主のIDが変わったのはなぜ?
誰もID解明してないけど
#okuyamaは自業自得だが・・
ほら夫のホラも、テンション落ちるし聞き飽きてたわ、
>>383 >中国の三国志に精通した学者とのパイプが強い学者はだれですか・
岡村とか?
>>348 一行じゃないけど、似たり寄ったりの投稿じゃん
曹操の鏡は、曹操と九州の親密さを示す。
九州はまさに親魏の国々だったわけだ。
>>396 具体的な事実を反映してるので畿内説は問題なし
たしかに中国の学者から見れば近畿説は客観的に無理があると笑いものだろうな
隣の国のトンデモナショナリズム史学と同視されてんじゃね?
>>400 なんで九州説はいつもまったく理由を言わないの?
>>402 此処は畿内説のスレ
テンプレ無視は×
他説に振るほど畿内説が落ちぶれた証拠
テンプレ
>>1 >邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。 <
キナイコシが他のスレを荒らしているぞ。
畿内説は責任を取って回収しろよ。
>>401 理由を説明されても理解できないキナイコシはコミュ障
>>403 んー畿内説と途切れ途切れといわし雲の意味がつながりませんねー
情景もまったく目に浮かびません
才能ナシ
邪馬台国は何処かようわからんけど
倭国は九州でいいんでねーの
>>406 九州説が荒らし自演しています
他スレの人は気をつけて
>>408 夏井先生同様
添削してくれないか
表現したかったのは、畿内説は連続性がいまいち
魏との交流のあかしと各地の土器との関係?
纏向が王都としての機能的物証?
箸墓は径百歩以外の卑弥呼の墓としての根拠?
出雲、阿波との関連性?
畿内が7万戸なら投馬国5万戸は耕作面積から吉備に投馬国にあったのかな?
もろもろ、あわせ
畿内説
途切れ途切れの
いわし雲
>>254 >画文帯神獣鏡は魏の鏡<
神獣鏡自体が呉系の鏡であり、楽浪系の鏡でもあり、
洛陽にも少し出るが、明帝は選択しない。
>景初三年銘の入ったものが見つかった畿内はその頃魏と交流していたという証拠<
和泉からの出土であり、大和からは出土せず、明帝鏡は×であり、
おそらく、渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡。
「吉備邪馬台国の奴国・伊都国制覇」、「吉備勢力の出雲制覇」
ロマンが広がるが 学者と呼ばれるのは少数だが
ロマンより真実だよ
関川氏は学者だと思う 畿内説互助会から干されたがな
個人的には尊敬してます
>>406 >キナイコシが他のスレを荒らしているぞ。
>畿内説は責任を取って回収しろよ。
荒らされてる他のスレって、どれのことだ?wwwww
九州説は連続句読点の無駄スレ立てを批判しろよw
あれ「邪馬台国 畿内説」でググった時に
このスレに出会いにくくしようっていう、浅ましくも浅はかな
姑息で能力のないカスのやることだぞww
そこまでして、ここのテンプレを読まれるのがいやなのかねぇ
まあ、ここのテンプレを読むだけでたいていの普通の知恵のある人は
畿内説で納得するからなww
九州説は本当にここのテンプレに手も足も出ないから、大嫌いなんだよなww
>>414 景初三年と魏の年号が入っている
畿内に相当する大阪府黄金塚古墳から出土
>>362 >孫引きで想像を膨らせるなよ。
孫引きじゃねーよw
邪馬台国の会作成のウェブページ、表、グラフそのものだww
邪馬台国の会のウェブサイトは(自分好みの=九州説前提の)データが
よくまとめられているからよく見るけど、邪馬台国の会の主張は知らないって
いう寝言を恥ずかしげもなく書いてたのはお前だろ?ww
>>280 つまり大和説者は、学問的検討は一切せずに
いつもの「南→東」や「冢→前方後円墳」や「庄内→筑紫より大和が古い」などの嘘付き騙しの、
「根拠は僕がそう考えたから」でしかない訳だ。
大和説はこれだから妄想の域から出てこられない。
ヨコからすまん
>>1 石野先生の考古学における功績は何ですか
寺澤先生の考古学における功績は何ですか
>>409 倭王卑弥呼がいた都が邪馬台国なんだよ。
>>411 当時、日本という概念はないし、少なくとも列島全てが倭というわけでもなかったようだ。
九州説はそろそろウソつくのに疲れて来たんじゃないの
>>418 >あれ「邪馬台国 畿内説」でググった時に
>このスレに出会いにくくしようっていう、浅ましくも浅はかな
>姑息で能力のないカスのやることだぞww
そういうことではないと思うけどね。
>>418 >まあ、ここのテンプレを読むだけでたいていの普通の知恵のある人は
畿内説が詐欺まがいの嘘であると気づくだろうね。
>>419 大阪府黄金塚古墳は4世紀以降だと思うが
「 還到録受 悉可以示汝國中人使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也 」
ここも引っかかるが、どう思う?
>>432 3世紀の鏡が4世紀の古墳から出ても問題なし
2世紀の古墳なら問題あるけど
それで魏志倭人伝の賜ったものを周りに示しなさいという文がどうした?
>>312 「南→東」などの嘘付き騙しの大和説信者は無知だから分からないだけだよ
生活用の雑器は、市を介しての交易が中心であるし、
祭祀の道具は、「東征毛人五十五國」で勝った将軍らが広めた、という事が普通だ。
これは人類の常識だ。
>>315 「南→東」などの嘘付き騙しの大和説さん
お手製の「大和が筑紫よりも古い」というニセ編年作って喧伝しても
「東征毛人五十五國」があったんだから、
世間の人や人類は騙せないよ
>>395 岡村さんも優秀な方だけど、旧石器捏造事件からどうかな?
奈良県とのパイプは今だにあるようだが
年を食うと論より収入かな????
>>431 じゃあ、鏡を移動したり複製したりする時間はたっぷりとあるわけだ。
>>316 >平原1号墓の方格規矩鏡を、公式報告書で仿製鏡とされているのを知りつつ
全部数に入れているというインチキ<
別にインチキではない。
21枚の「尚方作」方格規矩鏡は、明帝下賜鏡であって、
渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡である可能性が非常に高い。
>>412 >新知識
吸収せんのに
九州説 <
畿内説の新知識は何ですか
纏向以降止まってませんか
最近の纏向の報告書もそれなりに評価してもいいですが
邪馬台国、卑弥呼との関連ある報告はなされて無いでのではないですか
>>397=
>>1 レス進めるのもいいが
テンプレが泣いているよ
Part505
だが、いつく飛ばした
>>438 3世紀の鏡を4世紀に複製して
両方とも4世紀のものになるのかな
>>440 AMS炭素14c年代測定法によってホケノ山古墳は3世紀中葉と判明
蛍光X線分析によって三角縁神獣鏡は魏・晋鏡と同じ銅で作られている事が判明
>>325 >「三角縁神獣鏡と卑弥呼の鏡」西川 寿勝 <
この画像が出なかったよ。
しかし、この西川という男は、
「邪馬台国」という存在もしなかった嘘つき騙し文言を使っているようだから、
やはり、・・・・アホ詐欺師ようであり、価値も関心も感じないなあ。
まだ、やってるね
知識よりキャラが受けてる奥山さんですね
京都・近江をよろしくお願いしますよ。
>>426 >そういうことではないと思うけどね。
じゃあ、どういうことだと思うんだ?
個人の考えでいいから、きちんと示してくれよ
それから、連続句読点が屑スレを立てまくることをどう考えているんだ?
あのスレ立ては、まともな人間のやることだと思うのかい?
九州説の正当性を示す一助になる行為だと判断しているのかい?
>>426の個人の考えでいいから教えてくれ
>>429 >畿内説が詐欺まがいの嘘であると気づくだろうね。
何を根拠にどこの部分から、「詐欺まがいの嘘」だと判断しているんだい?
>>429個人の考えでいいから、示して見せてくれ
それができないなら、無根拠に他人の行動を侮蔑する心根の卑しい人間だってことにしかならないぞ
>>330 以前から「南→東」で嘘つき騙しがバレ、
しばらく前に「投馬国は女王国より以北の国」でも壊滅し、
今回また西川寿勝で恥をさらすのか
類スレ主ってマゾなんかい?
>>446 >「邪馬台国」という存在もしなかった嘘つき騙し文言を使っているようだから、
古田武彦氏も、魏志倭人伝以外の後漢書等に言及するときには邪馬台国という単語を
使っているんだが?
古田武彦氏も嘘つき騙しなんだなwwwwwww
纏向は無いですよ
テンプレの根拠は?
交通の要所なら京都・近江が常道
三重県にこだわるなら、東海は狗奴国?
伊賀市は畿内?北部紀伊は畿内?近江は畿内?淀川以西の何処まで畿内?
あと、三重県の北勢、中勢、南勢の区分ぐらい理解したほうが良いですよ
>>445 日本全国、3世紀に人が住んでたんだからな!
誰も纏向が3世紀に無人の地とはいってねーしwww
>>380 >曹操の鏡が本物でも邪馬台国が九州にあった証拠にはならないからね<
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言だからね。
>それに例え九州から親魏倭王の金印が出ても邪馬台国は九州にはならん<
それに例え大和から親魏倭王の金印が出ても
邪馬台国が存在もしなかった嘘つき騙しの文言だから、どっち道×ね。
>それだけ九州説は畿内説に対し圧倒的不利な状況にある<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言だから、
それだけでも九州説に対して、圧倒的に不利な状況にある。
>>385 「南≠東」などで、まいど論破されては反論出来ない大和説
ただ悪口三昧のその日暮らし
あまりに悲惨
>>410 >九州説が荒らし自演しています
他スレの人は気をつけて <
ここの
>>1をはじめ軟弱だから荒されるだけじゃん
自覚してないのが不思議だ
>>1 が新しい畿内説に有用な情報を開示するべきじゃん
纏向もいいが、、新事実が停滞気味じゃん
>>390 「畿内」なんて存在もしていなかった嘘つき騙し説だし、
「南≠東」などで九州説が圧勝してるから
別に勢いつける必要なんてないけど?
>>392 曹操の鏡ー曹操の鏡と群がって来たところで
九州の話だから、大和説の証拠にならないよと、
一蹴されて蹴散らかされる大和説
>>458
>纏向もいいが、、新事実が停滞気味じゃん
まさに、ここ掘れワンワン状態の、阿波考古学。 阿波の遺跡は、他のトンデモ説のチンケな遺跡とは、別格! >>397 「南≠東」で敗れ、「冢≠前方後円墳」で敗れた大和説、悲惨
庄・蔵本遺跡は、阿波徳島のランドマーク、眉山の北側山麓に広がる遺跡です。
蔵本キャンパスでは、1982 年に体育館器具庫地点の発掘調査を嚆矢とし、これまで30次にわたる発掘調査が実施されています。
その結果、縄文時代晩期から近代までの幅広い時代にわたる、数多くの貴重な文化財が発見されています。
その中でも、弥生時代前期のそれは極めて豊富で、初期の農耕集落遺跡として、学界で注目されています。
弥生時代の始まりには、2重の大溝が居住地の周りを巡り、その周辺に墓地や畑・水田が広がっていたようです。
そのほか、弥生時代中期の方形周溝墓群、後期の中国鏡、銅鐸片を発見するなどの学術的価値の高い成果をあげています。
旧河道や溝などからは、土器・石器などの道具に加え、木製品・炭化種実といった有機質資料も豊富かつ良好な状態で出土しており、
弥生人の生活誌の復元にも大きく貢献しています。 @阿波
http://tokudaimaibun.jp/s_rist.html >>399 畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
具体的な史料事実を反映していなかったので,
大和説は問題大有り。
@阿波も新たな物証は停滞だよ
@阿波がもっと研究費をもらう方法はなにかを考えるべき
阿波説も捨てがたいが、纏向みたいにウソでもいいから徳島県教委が花火打ち上げればいいよ
推奨はしない 畿内説なんてもう過去の産物だしね いつもTVに出てくる畿内説論者は
元、現に限らず
奈良県教委傘下の橿考や桜井市職員だけじゃん。橋本もいい加減な知識だけ
>>402 「南→東」や「畿内という存在もしなかった嘘つき騙し文言」の大和説は、
なんでいつもまったく理由を言わないの?
>>410 「南→東」などの嘘付き騙しの大和説の人が、荒らしや詐欺をしています
正直な人や真面目な国民は気をつけて
>>418 スレ主や類スレ主らは、
本当にここの議論で、
九州説に手も足も出ないから、大嫌いなんだよな
>>419 >景初三年と魏の年号が入っている 畿内に相当する大阪府黄金塚古墳から出土<
畿内なんて、存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×。
>>380九州説の何が不利なのか教えてください。
私は都民ですが、奈良や京都などにはほとんど興味なくて
九州のことだけはもっと知りたいと感じています
>>475 「南→東」などのウソ付き騙しの大和説は、
そろそろウソつくのに疲れて来たんじゃないの
>>442 「南→東」などの嘘付き騙しの大和説の妄想悲惨
>>465
>@阿波も新たな物証は停滞だよ
今以上に倭国(阿波)の遺跡が発掘されたら、もう、どうしようもなくなるよ? わははははは @阿波 >>445 >AMS炭素14c年代測定法によってホケノ山古墳は3世紀中葉と判明<
プラズマ化をしてしまったために、原子核内の電子が余ってしまって、
電子を放出して安定しようとしまったて、原子核のベータ崩壊が促進されてしまうので、
50年余り古い年代が出てしまったから、
ホケノは3世紀末〜4世紀。
>蛍光X線分析によって三角縁神獣鏡は魏・晋鏡と同じ銅で作られている事が判明<
列島の△が、渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡であり、
彼らは、魏・晋の材料銅も持参して△を鋳造したから、成分が類似しただけなの。
これだけは言っておく
古代に纒向に人が居たのは誰も否定できない
人がいると言う痕跡ことは、生活圏があったと言う事
>>455 3世紀に全国に人が住んでても
大規模な前方後円墳が集中しているのは畿内
>>456 結局言ってるのは畿内は存在しなかったという狂人のたわ言のみ
>>458 軟弱だから荒らされても仕方ないとはどういう理屈
九州説の異様な思考
これ以上新しい物が出なくても畿内説で決着はついている
>>469 >>470 ザラコクは俳句のセンスねーな
>>454 今でが中勢でいい
市町村合併以前は南勢
伊勢は
>>1の解説通り、邪馬台国の地では無い
>>473 魏志倭人伝に書いてある邪馬台国の位置は会稽東治の東とあり
現在の地図で見れば福建省福州市の東で沖縄か台湾あたり
魏志倭人伝の行程距離を存在もしなかった短里だったとして
九州北部にこじつける事でしか存在できなかった九州説はもう反論不能
一方畿内では魏志倭人伝に書いてある魏の銅鏡や前方後円墳など
考古学的な証拠が多く見つかっている
126 154 159 186 383 386 387 389 393 404 405 417 422 440
441 447 452 454 458 473 481
>>478 3世紀の遺物なんて全国各地にあるなら
みんな邪馬台国の候補地
桃核や土器の付着物の
炭素年代も3世紀でいいよ
>>478
>古代に纒向に人が居たのは誰も否定できない
碌な集落遺跡や資源の無い纏向に、王都など在る訳がない。 以上御終い。 @阿波 >>477 原子核内の電子という言葉ひとつで
何の知識もない人間がデタラメ言っているという事が丸わかり
原子核を構成するのは陽子と中性子
>渡来の呉系の〜
魏の年号が記銘されていて魏の鏡と含まれる成分が同一なので
三角縁神獣鏡は魏で作られた鏡という蓋然性の高い推定を崩すものではなし
渡来の呉系鏡師が三角縁神獣鏡を作ったという推察は
三角縁神獣鏡が魏で作られた鏡ではないという積極的否定の証拠にはならない
>>482 畿内の銅鏡は数が多すぎるから偽物の疑いがあるし、
前方後円墳に至っては倭人伝に書かれていない
畿内説の言う根拠は根拠になっていないのが現状です
>>487 蛍光X線分析で三角縁神獣鏡の舶載鏡とされていたものは
魏・晋時代の中国鏡と同一成分である事がわかったから偽物説は払拭
卑弥呼の墓は径百歩、約140mと魏志倭人伝にある
卑弥呼の時代の3世紀でその条件を満たす墓は畿内にある前方後円墳
>>482
>一方畿内では魏志倭人伝に書いてある魏の銅鏡や前方後円墳など
>考古学的な証拠が多く見つかっている
魏の銅鏡や前方後円墳など、倭国(阿波)の特産品をちゃっかり我が物にしちゃ、イカンぜよ。 専売特許で訴えてやる。 ぷんぷん。 @阿波 >>482
>一方畿内では魏志倭人伝に書いてある魏の銅鏡や前方後円墳など
>考古学的な証拠が多く見つかっている
魏の銅鏡や前方後円墳など、倭国(阿波)の特産品をちゃっかり我が物にしちゃ、イカンぜよ。 専売特許違反で訴えてやる。 ぷんぷん。 @阿波 >>473 邪馬台国と関係なく、九州へ観光目的でもいいですが一度訪れてください
以外な発見があるかもしれませんよ
3世紀の倭国を知るのは九州だと思います
結構 広いですから、レンタカーがいいと思います
古代に関係ありませんが 北部九州なら(南九州は少しだけ省略・・ゴメン)
お勧めは・・・福岡はもちろんですが
阿蘇、湯布院、唐津、呼子、島原、日田、石仏、冷戦、・・・
いっぱいすぎです
邪馬台国と関係なく九州は謎めいていておもしろいです
阿波へ行くなら、平野に立つぽつんとした山を見てください
これは人為的なものを感じますよ さぬきうどんは、金毘羅付近はお勧めでないです。
伊勢うどんが好きなら良いですが・・
まずは目的は別にして、現地に行くのも面白いですよ
私は奈良県の八木に5年ほど住んでましたが明日香はいいですよ
>>473 邪馬台国と関係なく、九州へ観光目的でもいいですが一度訪れてください
以外な発見があるかもしれませんよ
3世紀の倭国を知るのは九州だと思います
結構 広いですから、レンタカーがいいと思います
古代に関係ありませんが 北部九州なら(南九州は少しだけ省略・・ゴメン)
お勧めは・・・福岡はもちろんですが
阿蘇、湯布院、唐津、呼子、島原、日田、石仏、冷戦、・・・
いっぱいすぎです
邪馬台国と関係なく九州は謎めいていておもしろいです
阿波へ行くなら、平野に立つぽつんとした山を見てください
これは人為的なものを感じますよ さぬきうどんは、金毘羅付近はお勧めでないです。
伊勢うどんが好きなら良いですが・・
まずは目的は別にして、現地に行くのも面白いですよ
私は奈良県の八木に5年ほど住んでましたが明日香はいいですよ
>>484 >3世紀の遺物なんて全国各地にあるなら みんな邪馬台国の候補地<
「邪馬台国」なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、×。
>桃核や土器の付着物の炭素年代も3世紀でいいよ<
場の相互作用は、「安定化」しようとする方向性を持ち、
プラズマ化で外周電子を全部失えば、原子核内の電磁場が不安定になり、
原子核も結局は減った外周電子分の電子を失って元のように安定化しようとし、
だから、原子核内で核子間の転換をして電子を放出しようとして、
ベータ崩壊が促進されて、
プラズマ化は、ベータ崩壊が促進され、現在のAMS法では、
50〜100年位古い年代が計測されてしまう、という事になった。
奈良県は空白地域。
これが海運中心の弥生時代における海がない地域の現実。
>>473 続きです
高松塚古墳は、私の同期の庄屋屋敷の杉○さんの所有の小山でした
私が八木・・飛騨地区を離れその後にその小山からお宝が出ました
高松塚古墳です
びっくり 松本清張ではないけど明日香の常用語は百済語と認識しました
今でいう同和地区
近辺に倭国の遺物が多いと思いました
桜井市も同和問題に取り組んでいます
>>473 続きです
高松塚古墳は、私の同期の庄屋屋敷の杉○さんの所有の小山でした
私が八木・・飛騨地区を離れその後にその小山からお宝が出ました
高松塚古墳です
びっくり 松本清張ではないけど明日香の常用語は百済語と認識しました
今でいう同和地区
近辺に倭国の遺物が多いと思いました
桜井市も同和問題に取り組んでいます
>>473 邪馬台国と関係なく、九州へ観光目的でもいいですが一度訪れてください
以外な発見があるかもしれませんよ
3世紀の倭国を知るのは九州だと思います
結構 広いですから、レンタカーがいいと思います
古代に関係ありませんが 北部九州なら(南九州は少しだけ省略・・ゴメン)
お勧めは・・・福岡はもちろんですが
阿蘇、湯布院、唐津、呼子、島原、日田、石仏、冷戦、・・・
いっぱいすぎです
邪馬台国と関係なく九州は謎めいていておもしろいです
阿波へ行くなら、平野に立つぽつんとした山を見てください
これは人為的なものを感じますよ さぬきうどんは、金毘羅付近はお勧めでないです。
伊勢うどんが好きなら良いですが・・
まずは目的は別にして、現地に行くのも面白いですよ
私は奈良県の八木に5年ほど住んでましたが明日香はいいですよ
>>486 >原子核内の電子という言葉ひとつで
何の知識もない人間がデタラメ言っているという事が丸わかり
原子核を構成するのは陽子と中性子<
相変わらず、相手の言葉を曲解してそれで誹謗する・・・・類スレ主。
当然、失った電子分の核内電磁場を、
核内の陽子→中性子の返還で電子を生成して修復して、
また安定化しようとして、その生成電子を放出(ベータ崩壊)し、
AMS法は、50年〜100年位古い年代が計測される。
>魏の年号が記銘されていて魏の鏡と含まれる成分が同一なので <
同一ではない。ある領域内に存在する、というだけ。
>三角縁神獣鏡は魏で作られた鏡という蓋然性の高い推定を崩すものではなし
渡来の呉系鏡師が三角縁神獣鏡を作ったという推察は
三角縁神獣鏡が魏で作られた鏡ではないという積極的否定の証拠にはならない<
同じ徐州銅が含まれていれば、同じ成分比群の範囲内に入る、というだけ。
>>488 >蛍光X線分析で三角縁神獣鏡の舶載鏡とされていたものは
魏・晋時代の中国鏡と同一成分である事がわかったから偽物説は払拭 <
「同一成分」ではない。「成分比の近い範囲内」にあった、というだけ。
>>499
>阿波へ行くなら、平野に立つぽつんとした山を見てください
それは、讃岐の山。 阿波にはそんな 平野に立つぽつんとした山はないから。 @阿波 >>491 正論だな
邪馬台国は何処かわからなけど
北部九州は倭国の一員はどの説も異論はないだろう
>>491 正論だな
邪馬台国は何処かわからなけど
北部九州は倭国の一員はどの説も異論はないだろう
>>503
>北部九州は倭国の一員はどの説も異論はないだろう
卑弥呼の時代は、北部九州は倭国(阿波)への通過・友好国。 @阿波 >>491 正論だな
邪馬台国は何処かわからなけど
北部九州は倭国の一員はどの説も異論はないだろう
>>499
>阿波へ行くなら、平野に立つぽつんとした山を見てください
もうすこく、阿波のことを勉強してください。 無知丸分かり。 わははははは @阿波 なんで・・・・・・・・・・・・・・・・・・
鏡で重要文化財や国宝が九州にあるのに
ヤマトでは無いのはなんで^^^
>>508
「鏡」や「お墓」や「土器」ごときに頼らざるを得ない、九州説や畿内説。
圧倒的な倭国(阿波)の遺跡のまえに、ひれ伏すばかりなり。 @阿波 畿内説の考古学者もどきは馬鹿じゃねーの
誰も明日香以降の専門家いねーし
隙間産業もええ加減にせいよ・・・
石野・寺澤・橋本・・・・・・・・・・地方公務員ええ加減にせいよ
おーーーい
>>1 纏向は古墳造営基地との意見に反論ねーのか
>>498 何度も言っているが
ヤマト王政は渡来人と倭人の合作
倭国と関係ない天皇崇拝
まぁ現天皇家の血筋もいろいろあるし
491 492 496 498 499 503 504 506 508 510 511 512 513
>>500 AMS法は対象をプラズマ化して炭素14原子を直接数える方法
プラズマ化とは原子核と電子が分離している状態
そしてそれが放射性崩壊を促進するような現象は確認されてないね
なぜなら放射性崩壊は原子核内での不安定さに依存するもので
電子は原子核の外にあるものだからプラズマ化と原子の放射性崩壊は
基本的には別個の現象
>>501 三角縁神獣鏡と魏・晋鏡は
素材の銅に含まれる銀・アンチモン比が同じグループに属する
銅素材の魏・アンチモン比は採掘される鉱山によって違いがあり
三角縁神獣鏡の素材の銅は魏・晋鏡と同一の鉱山から採掘されたものと推定される
三角縁神獣鏡といってもピンキリだから、そんな稚拙な話は根拠にならない。
九州説唱えてる人の言動がどれも正常に見えない件について
まず、誰と会話しようとしているのか判りかねる投稿ばかりだし
>>518 纏向が古墳造営基地と言う人へ反論を少しは述べろ
>>519 ぜんぜん根拠がないとこれまでも再三指摘されてるだろ
その後新しい主張もないし
今更何を言わんや
誰も相手にしなくなって当然
>>1 我が強いネ・・
FAQ78
まだ九章算術で通してるが
まぁいいかwww
畿内説崩壊しちゃってさびしいな
明日から何をバカにして生きていけばいいんだ。。
>>515
>AMS法は対象をプラズマ化して炭素14原子を直接数える方法
プラズマ化とは原子核と電子が分離している状態 <
プラズマ化した瞬間に、外周電子が失われて、
「裸の原子核」という不安定状態になっている。
>そしてそれが放射性崩壊を促進するような現象は確認されてないね
なぜなら放射性崩壊は原子核内での不安定さに依存するもので<
ほら、類スレ主は、自分から、
「放射性崩壊は原子核内の不安定性に依存するもので」と白状してしまっている。
>電子は原子核の外にあるものだからプラズマ化と原子の放射性崩壊は
基本的には別個の現象<
ベータ崩壊は基本的に、
原子核内の「場の不安定性」を安定化させようとして、
核子間の相互作用によって、新たな電子が生成され、放出される現象。 >>516 >三角縁神獣鏡と魏・晋鏡は
素材の銅に含まれる銀・アンチモン比が同じグループに属する<
「同じグループに属する」という事は、完全一致(完全イコール)ではない、という意味。
>銅素材の魏・アンチモン比は採掘される鉱山によって違いがあり
三角縁神獣鏡の素材の銅は魏・晋鏡と同一の鉱山から採掘されたものと推定される<
鏡師らは、当然、鉱山からの新規採取材料銅も持っておれば、
使用済み銅製品や中古鏡の鋳直し材料銅も持っていて、
それら全体で、新規鏡を鋳造するもの。
つまり、一カ所の銅鉱山からの銅だけで全ての鏡を鋳造するなんて事が殆どない。
>>518 大和説を唱えてる人の言動が、どれも「南→東」などの嘘吐き騙しに立脚しており、
正常に見えない件について
まず、正常な議論や会話をしようとしているのか?が、判りかねる投稿ばかりだし
>>521
あんたが答えてないだけ
纏向
まず、大集落じゃない・・住居跡がほとんど見つかって無く都市と言うにはお粗末
土木具が多い 生活痕が少ない
古墳の資材運搬の水路がある
斎場か監督者の住居とみられる掘立柱建物がある
出稼ぎにきた近辺の人の主に食事用の土器がある
まわりに古墳が多数ある
武器の出土も無いし、無防備
「以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處 宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛」
の証拠が無い
ここまででも古墳造営基地との推理に値する 炭素年代はこだわる必要は無い
3世紀に纏向に人がいた程度の解釈で良い
畿内説が騒いでいるが
日本全域3世紀に人がいたのだから、炭素年代で特段騒ぐ必要もないよ
>>531 人がいて当時最大の建物があって当時最大の墳墓があるんだよね
んでその墳墓の形式の発祥地で全国的序列の最上位が集中する地域な訳だ
>>530 >まず、大集落じゃない
あなたが一人でそう言って頑張っても
他の全員が認めてくれないから
あなたの説はハナから没でしょ
そうやって
九州説が世間常識からカケ離れたことを叫び続けていれば
九州説=トンデモ説という評価がどんどん定着するだけだもの
畿内説としては大歓迎ですぞ
方角が合わない、里数が合わない、年代が合わない、ただの古墳土方の作業宿舎
>>537 「年代が合わない」って決めつける理由は?
九州説はいつも理由を言わないね
>>530はウソ情報や我流決めつけテンコ盛りな上
「古墳造営基地」って結論につながらなう話しばっかりなので
相手にされないのは当たり前だよ
自己矛盾だらけの築造キャンプ説いつまでも言い張ってて藁
纏向遺跡は、「忌部一族」有力者のお墓を造営するための、「古墳造営前線基地」である。
纏向での役目が終わったので、佐紀盾列古墳群などへ解体移設されている。 @阿波
>>532 「当時」って、何年代のこと?
その年代の精度は?
>>533 何棟の建物があった?
それは福岡の何倍?
>>542 3世紀前半〜4世紀初頭にかけて
精度は±10年程だな
>>526 原子核は例えるなら太陽
電子は周りを回る水星
太陽が不安定になったら放射線等が放出もされるけど
水星がどっか行ったからといって太陽が不安定になる事はなし
>>527 国内で作られた鏡は様々な鉱山から産出された銅が混じった結果が検出される
倭国内には鉱山がなかったので輸入物の古いものや新しいものを溶かして作った事を表す
三角縁神獣鏡の銅は魏・晋鏡に使われた鉱山から出たものと同じものが使われた分析結果が出ており
これは三角縁神獣鏡が魏で作られた鏡である事を示すもの
これを積極的に否定する物は今のところ見つかっていない
>>547 あほか?
電子の膜を失った原子核では、中性子の崩壊が促進されるんだよ。
外気に晒されるとすぐ崩壊を始めるのが中性子。
>>549
>これは三角縁神獣鏡が魏で作られた鏡である事を示すもの
これは三角縁神獣鏡が倭国(阿波)で作られた鏡である事を示すもの。 @阿波 >>530 纏向
まず、大集落じゃない・・という理由がない、理由なく言い張るだけ
住居跡がほとんど見つかって無い、という情報ソースなし、捏造と思われる
生活痕が少ないというウソ、大量に炊飯した形跡ありあり
古墳の資材運搬の水路だという証拠なし、理由なき決めつけ
斎場か監督者の住居とかいう人なし、我流珍説
出稼ぎにきた近辺の人というウソ、山陰や北陸は奈良近辺ではない
まわりに古墳が多数ある というのは、朝歌から長安洛陽に至るまでそう
武器の出土など都には不要、そんなのあるのは前線基地
「以婢千人自侍・・・」の証拠が無いのは日本の全遺跡同じ
これで古墳造営基地と推理するバカは世界に何人いるだろう?
少なくとも他所で見たことはない
九州説は原子核を風船か何かかと思っているのかな
スケール感が全然理解できてないようだ
あらゆる学問に反対しないと成り立たないのが九州説だな
>>532 >人がいて当時最大の建物があって当時最大の墳墓があるんだよね
んでその墳墓の形式の発祥地で全国的序列の最上位が集中する地域な訳だ <
ダメだ。
倭國は、唐会要倭国伝の「正北抵新羅」に拠って、北部九州にあった事は確定であり、
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた神武らの別種の旧小国で、
欠史八代の頃は「大倭」の称号を持っていて、
その後も倭王武の頃まで「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の一国であった事が確実であり、
梁代になって初めて「扶桑國」を称して独立的になり、
隋代の「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」の時に、
小野妹子が隋文帝に日本国を称して叱られ?、
唐初の武徳中になって初めて日本国を認められて独立出来た国だ。
だから、3世紀の卑弥呼の頃は、大和は「東征毛人五十五國」の中の一国であり、
大和の「当時最大の建物があって当時最大の墳墓」は、
3世紀末以後に東征毛人五十五國の将軍らが必要があって造ったものであり、
墳墓の形態は、那珂八幡などの筑紫の墳墓を進化発展させたものに過ぎない。
>>533 >>まず、大集落じゃない<
>あなたが一人でそう言って頑張っても 他の全員が認めてくれないから
あなたの説はハナから没でしょ<
それで、誰が?どんな根拠で?「纏向は大集落だ」と言っているの?。
名前を出してその文献を紹介してくれるか?、
このスレに出て来て話して貰うか?、してくれないかなあ?。
>>553
>これで古墳造営基地と推理するバカは世界に何人いるだろう?
纏向遺跡は、「忌部一族」有力者のお墓を造営するための、「古墳造営前線基地」である。
纏向での役目が終わったので、佐紀盾列古墳群などへ解体移設されている。 @阿波 >>557 九州説のダメさは、こういう典型さんを見ればよくわかる
一見相手の説に反論しているようで
実は自分の新説を主張しているだけ
これでは永遠に通説に勝てないんだよ
原理的に無理
>>536 そうやって
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説が、
世間常識からカケ離れたことを叫び続けていれば
大和説=トンデモ説という評価がどんどん定着するだけだもの
九州説としては大歓迎ですぞ
>>558 >それで、誰が?どんな根拠で?「纏向は大集落だ」と言っているの?。
既出
文化庁
>>558 おいおい、話が逆だろ
誰が?どんな根拠で?「纏向は大集落じゃない」と言っているの?
名前を出してその文献を紹介してくれるか?
>>538 >「年代が合わない」って決めつける理由は?<
根本的には、3世紀中頃の卑弥呼の墓は冢であって、前方後円墳では全くないから、
大和の前方後円墳は、3世紀頃以降になってしまうから。
>九州説はいつも理由を言わないね <
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説詐欺師は、いつも、
とっくに何度も言ってある理由を、知らん振りしてなかった事にして、
すぐさま「いつも理由を言わないね 」という嘘つき騙しの宣伝文言を入れて、
世間の人々を騙そうとしているね?。
思想宗教に狂った人間は、オーム信者やキョクウテロリストらのように、
いずれ殺人事件を引き起こすものであり、怖いね。
>>564 >根本的には、3世紀中頃の卑弥呼の墓は冢であって、前方後円墳では全くないから、
冢だと前方後円墳ではないっていう理由は?
なんにも理由なく言い張ってるだけでしょ
だから九州説はダメなの
>>539 「南→東」の大和説者は、
ウソ情報や我流決めつけテンコ盛りな上
「纏向は女王の都」って結論に、つながらないウソばっかりなので
相手にされないのは当たり前だよ。
誰がこんな・・・・アホ詐欺師らを造り出したんでしょうかねえ?。
そりゃ学会教育界が実行し、右翼マスコミや文科省が後押ししたんですよ。
>>545 >3世紀前半〜4世紀初頭にかけて 精度は±10年程だな<
3世紀前半末の卑弥呼の墓は冢であり、前方後円墳では全くないし、
大和の前方後円墳の始まり頃の庄内1の石塚は、
筑紫の那珂八幡などの進化型であるから、3世紀末であり、
更に掘立式建築の横の土坑が庄内3であるから、これも3世紀末であり、
大和は、卑弥呼の後の50年位の精度だな。
>>564 >「南→東」などの嘘付き騙しの大和説詐欺師は、いつも、
>とっくに何度も言ってある理由を、知らん振りしてなかった事にして、
>すぐさま「いつも理由を言わないね 」という嘘つき騙しの宣伝文言を入れて、
>世間の人々を騙そうとしているね?。
>
>思想宗教に狂った人間は、オーム信者やキョクウテロリストらのように、
>いずれ殺人事件を引き起こすものであり、怖いね。
そうまでして理由を言いたくないのか
異常だよ九州説
>>567 お見事に
>>560にドンピシャ該当する九州説投稿
証明責任って知ってる?
あなたが証明したいことはあなたが一般人を納得せきる説明をする必要があるのよ
問いに問いで返しちゃダメダメ
538日本@名無史さん2019/09/13(金) 06:58:59
>>537 >「年代が合わない」って決めつける理由は?
年代が合うと考えるべき根拠がない。
なお方保田東原遺跡の発掘進展により、庄内式の初発は肥後であると考えるべき大きな根拠が出てきた。、
>>549 500枚を超える鏡の全てがそのようなデータなのか?
なんで学者も言わないような主張をするんだ?
畿内説は何も説明せず、ザラコクの揚げ足を取って九州説に反論したつもりになっている。
そんなことをすればするほど、畿内説を見限る人は増える。
>>553 纏向
まず、大集落じゃない・・という理由がない、理由なく言い張るだけ
^^^^大集落だと言う証拠は何もない
住居跡がほとんど見つかって無い、という情報ソースなし、捏造と思われる
^^^^無い物な無い
生活痕が少ないというウソ、大量に炊飯した形跡ありあり
^^^^それ土木作業員で定住していない
古墳の資材運搬の水路だという証拠なし、理由なき決めつけ
^^^^運搬用水路と畿内説の学者も認めている
斎場か監督者の住居とかいう人なし、我流珍説
^^^^宮殿と言う根拠が無い
出稼ぎにきた近辺の人というウソ、山陰や北陸は奈良近辺ではない
^^^^東海地区の土器が多く纏向にも近い
まわりに古墳が多数ある というのは、朝歌から長安洛陽に至るまでそう
^^^古墳が多いのは事実
武器の出土など都には不要、そんなのあるのは前線基地
^^^兵がいたと倭人伝に記述あり
「以婢千人自侍・・・」の証拠が無いのは日本の全遺跡同じ
^^^^纏向の事を他にふる必要なし
>>562 文化庁 は 地方の教委の公表をそのまま載せるだけ
>>574 >まず、大集落じゃない・・という理由がない、理由なく言い張るだけ
>^^^^大集落だと言う証拠は何もない
おいおい現実を見ようよ
東西大体2km、南北が1.5kmくらいあるんだぜ
誰がどう見ても大集落だ
>>575 >文化庁 は 地方の教委の公表をそのまま載せるだけ
それも「ボクちゃんの考え」だろ
これだから九州説はダメなんだ
>>576 で、何棟の建物があった?
勝手に線を引いただけだろ?
ついでに天理市を含めてやれよ。
纏向の外来土器はほとんど食事用じゃん
わざわざ、市場に持っていくような代物じゃねーよ
土木作業員が持ち込んだ物・・否定する理由は無い
>>572 >500枚を超える鏡の全てがそのようなデータなのか?
え?
九州説の人は舶載鏡と仿製鏡という伝統的な区分も知らないで鏡を語ってるの?
>>578 >で、何棟の建物があった?
それ、大集落であることと関係ないぞ
>>576 面積だけで都市と言うのは無理がある
また纏向は推定領域が独り歩きしているが
確認できている範囲はもっと狭い
>>579 >土木作業員が持ち込んだ物・・否定する理由は無い
否定されてるのに無視かw
関東やら山陰から土木作業員を集めるなんてナンセンスなんだよ
しかも精製品が多いので身分の高い人間が集まったと推定されている
>>582 >また纏向は推定領域が独り歩きしているが
>確認できている範囲はもっと狭い
証拠でもあるの?
また空想?
だから九州説はダメなんだ
纒向遺跡の
掘立柱建物は大型では無いという説もある
何度も柱穴の位置を動かしているという説
根拠は砂利、板、石等の柱の基礎が無く、弱い建物だから何度も動かした
また、柱もそれと同時に動かしているから、柱が発見されていない
柱は最後にはどこかの工事現場へ持つていかれた
>>574 >>住居跡がほとんど見つかって無い、という情報ソースなし、捏造と思われる
>^^^^無い物な無い
駄々っ子じゃないんだから
いい歳なんでしょ?
情報ソースを出せないんだから諦めなよ
空想しただけなんでしょ?
素直に認めなよ
だいたい、多数の土木作業員がいた(=生活してた)って自分で言ってるでしょ
住んでた場所は?
言ってることが矛盾してるじゃないか
>>586 >纒向遺跡の
>掘立柱建物は大型では無いという説もある
>何度も柱穴の位置を動かしているという説
誰が言ってる説?
誰が?どんな根拠で?
名前を出してその文献を紹介してくれるか?
>>582 >面積だけで都市と言うのは無理がある
誰が面積だけで歳だと言った?
またウソついて誤魔化すの?
だから九州説はダメなんだ
>>581 建物がなかったらそもそも集落じゃないです。
外来土器って言っても、奈良と東海の土器で9割以上 あと出雲系が5%でしょ
そのうち近場の東海も7%
外来ってほど外来じゃないわなそもそもw
>>553,
>>556 すごいな
ザラゴキ以外でも九州説の人は科学を全無視なんだw
まずβ崩壊は素粒子のクォークやグルーオンと、標準理論における弱ゲージボソンの
相互作用によって引き起こされるが、電子はグルーオンともウィークボソンとも
相互作用しないからまったく関係しない
さらに炭素の原子半径≒原子核と電子の距離は約70 pm
炭素の原子核半径は〜3fm
ピコが10の−12乗、フェムトが10の−15乗だから、
電子は原子核半径の2万倍以上遠くに存在する
裸の原子核とかいっているバカがいるが、
もともと原子核は通常の物質中でも近傍には電子は存在せず
真空中に存在しているようなものだ
九州説ってのはアンチ畿内説ではなく、アンチ科学なんだなw
纒向遺跡の
掘立柱建物は大型では無いという説もある
何度も柱穴の位置を動かしているという説
根拠は砂利、板、石等の柱の基礎が無く、弱い建物だから何度も動かした
また、柱もそれと同時に動かしているから、柱が発見されていない
柱は最後にはどこかの工事現場へ持つていかれた
纒向遺跡の
掘立柱建物は大型では無いという説もある
何度も柱穴の位置を動かしているという説
根拠は砂利、板、石等の柱の基礎が無く、弱い建物だから何度も動かした
また、柱もそれと同時に動かしているから、柱が発見されていない
柱は最後にはどこかの工事現場へ持つていかれた
>>574 >>斎場か監督者の住居とかいう人なし、我流珍説
>^^^^宮殿と言う根拠が無い
斎場か監督者の住居とかいう人がいないのは認めるんだね?
そういう学説がないの、認めるね?
「斎場か監督者の住居とみられる掘立柱建物がある 」
ってのはお前さんのテキトーな思いつき
ということで、いいね?
>>591
それ全部、「忌部はん」 が持ち込んだ「東阿波型土器」様式 だと、何度言えばw @阿波 >>593 >>594 簡単に論破されて心壊れちゃって
呟きに変身してb
>>586を連呼する九州説
みじめすぎる
>>590 >建物がなかったらそもそも集落じゃないです。
という根拠は?
そして建物がないと思う理由は?
>>590
土方だから、高級住居である「竪穴式住居」になんか住んでいなかったからね。 @阿波 だから畿内説のほうが建物があった証拠を出さなければ仕方ないのよ
赤ん坊みたいな人だね
どちて坊やと呼んでもいい?
>>574 >>出稼ぎにきた近辺の人というウソ、山陰や北陸は奈良近辺ではない
>^^^^東海地区の土器が多く纏向にも近い
回答になってないぞ
山陰や北陸、関東に西部瀬戸内
こんな各地から人が来ているのに
「出稼ぎ」で説明できると思うのか?
だから九州説はダメなんだ
>>572 >500枚を超える鏡の全てがそのようなデータなのか?
>なんで学者も言わないような主張をするんだ?
これは失礼
横レスだが、情報リテラシー皆無で常識的な知識のない
>>572のような人には
不親切な書き方だったねw
三角縁神獣鏡でも形式編年が研究されていて、図像や鏡縁の形状によって
どれが古くどれが新しいのかが、系統的に並べられるようになっている
そのうちの最初期のものが以前から舶載鏡とされていたグループで、
そのグループのものを分析したところ、使用された銅の不純物から
魏・晋鏡に使われた鉱山から出たものと同じものが使われていたと
判断するに足る分析結果が出ているんだよ
500枚全てが魏で作られたと主張する畿内説はほぼいないよ
そして、最初期のものは鏡縁が三角縁ではなく斜縁になっている
「三角縁神獣鏡は大陸での出土は骨董市に出た一枚だけ」みたいなことを
九州説の人はよく言うけれど、大陸でも斜縁神獣鏡は普通に発見されている
「竪穴式住居」に住める人は、上流階級の人たちだけ。 @阿波
>>601 >だから畿内説のほうが建物があった証拠を出さなければ仕方ないのよ
いやそんなもん出す必要もなく
t多数の柱穴の存在が報告されてるんだ
これ、現実
九州説さん現実を見なよ
建物がなかったって説を出してる学者、いる?
ないと主張してるのは、あなただけ
しかも、理由も言わない
誰も九州説を信用しなくなるの、わかるでしょ?
>>603
三角縁神獣鏡 は、「魏の水銀朱」が使われた「天河別神社古墳群」出土の「斜縁二神二獣鏡」を倭国(阿波)でぼう製したものだろう。 @阿波 >>573 >畿内説は何も説明せず、ザラコクの揚げ足を取って九州説に反論したつもりになっている。
揚げ足なんて取ってないだろ?
最初からザラゴキの書くことは、うそ・でたらめなんだから、
「全否定」だよww 揚げ足なんて相手にしてないw
>そんなことをすればするほど、畿内説を見限る人は増える。
それ以前に、九州説としてデタラメを書き続けるザラゴキを何の釈明もせずに
放置している九州説は、そんな態度でいたら九州説全体が「ザラゴキと同一視」
=「インチキでたらめ以外の中身がない」とみなされるけれど、それでいいんだね?ww
>>599 ほれ、畿内説が信用されないのはそういうところだ。
大集落と言うのなら、建物の数くらい示せばいいだろ?
弥生時代に百棟建ち並んでいたら、大集落といってもいいだろうけど、何棟あった?
九州アホ爺さんが
「竪穴式住居がない」という報告を
人が住んでないのだーッと短絡解釈して
そのうち、建物がないないないと脳内情報劣化した
こんな経緯だろ
アホらし
>>602 >山陰や北陸、関東に西部瀬戸内
>こんな各地から人が来ているのに
ああ、楽浪帯方と関係が深かった福岡からの人がいない。
郡使は伊都に滞在したとあるのに、そことの関わりが決定的なまでにない。
>>603 >500枚全てが魏で作られたと主張する畿内説はほぼいないよ
上の方で吠えているバカ畿内説に言ってやれよ。
>>608 >大集落と言うのなら、建物の数くらい示せばいいだろ?
なんでそんなことする必要があるの?
大集落であることと建物の数と、なんか関係あるの?
>>605 >t多数の柱穴の存在が報告されてるんだ
>これ、現実
で、3世紀と確定できるのは何棟?
>>613 なんでここまで頑なに建物の数を答えたくないのかな?
>>613
>大集落であることと建物の数と、なんか関係あるの?
苦しい。 @阿波 編年自体の正確性を保障する客観的な根拠がないよね
編年どころか舶載鏡仿製鏡と言う区分も大昔の分類で出来が良い悪いだけに基づいて決定しており分類自体が非科学的だと批判されてますね。
そこで適当に好きなものを勝手に初期の舶載鏡と決めつけて次節に都合の良いデータを出してきたという疑いを合理的思考の一般人ならば持たざるを得ないわな
>>573 論破されたことを揚げ足を取られたと勝手に言い換えると
論破された事実が消えるとかw
負けて退却したのを敵前大迂回作戦とか言い繕ったどっかかの皇国主義政権の報道みたいだね
>>579 >纏向の外来土器はほとんど食事用じゃん
こういうところももの知らずw
外来土器の比率が最も高いところは、大型祭祀土坑の遺物だ
纏向遺跡全体では15%程度だが、祭祀遺構では30%程度のところもある
つまり、外来土器は
土木作業員が飯炊き用に持ってきた(ものがあるのは否定しない)のではなく、
国家祭祀に参加する各地の代表が自分たちの国の象徴として祭祀供献しているんだよ
このような、各地の代表が集まって祭祀を行っていたと物的根拠=考古遺物をもって
示されるのは纏向遺跡以外にはない
そして、纏向遺跡で始まる前方後円墳と祭祀供献土器(庄内式・布留式土器)が
列島の広域で受け入れられることが、そこに古墳時代の秩序の中心があったことを示している
さらに、纏向遺跡が2世紀末から3世紀初頭に建設が始まっていることは、九州説も認めているし
奴国が最初期から古墳時代の秩序に参加していることはザラゴキ以外は認めている
つまり、卑弥呼の遣使の時点=3世紀中葉で奴国から畿内〜東海までの秩序が
列島の広域に成立しており、その中心が纏向にあったことは十分に認められる
この秩序体系が、魏志倭人伝の記す倭国ではないと考える理由がどこにもない
>>618 具体的な中身がない反論モドキに失笑した
既存の学説完全否定だが
理由をひとことも言ってないのが笑いのツボ
>国家祭祀に参加する各地の代表が自分たちの国の象徴として祭祀供献しているんだよ
それは君の妄想ね
>>622
>そして、纏向遺跡で始まる前方後円墳と祭祀供献土器(庄内式・布留式土器)が
>列島の広域で受け入れられることが、そこに古墳時代の秩序の中心があったことを示している
「忌部はん」 だね。 わははははは @阿波 >既存の学説完全否定だが
否定されたくなかったら科学的な根拠付きで銅鏡の年代と産地を並べてみなさい
できないのなら纏向でカワラケ掘りでも頑張ってくれ
もしくは別のピットクルーに交代したほうがいいんじゃない?
どちて?しか言えないんなら戦力にならんだろう
>>621 >ザラコクを論破したと喜んで意味があるのか?
末盧の東南に伊都国と書かれているから包囲がおかしいとか
会稽東治の東と書いた陳寿の行程記事は当然九州を指してないとか
こういった指摘に
九州説は沈黙したんだよ
唯一まだ抵抗してくるマッドzarakokuを論破したら
敗残兵掃討完了で
九州説終わりでしょ?
こういう意味、あるよね
>>577 文化庁の本部が独自に調査し公表した文献載せろよ
末盧の東南に伊都国と書かれているから包囲がおかしいとか
↓
末盧の東南に伊都国と書かれているから方位がおかしいとか
>>618 >編年自体の正確性を保障する客観的な根拠がないよね
君には何度目か分からないが、この言葉を送ろう
9回2アウトランナーなし10点リードされてる状況で
「まだ勝負は決まってない」←まあね笑
「つまり同点だ」←は?
「今のはボールだろ!」←わかる
「誤審だからオレの勝ちだ」←は?
九州説はこんなのばっか
絶対編年は確定はしないけれど、多くの研究の積み重ねでコンセンサスが
得られているんだよ
研究者ごとに前後するといっても、50年もずれるようなことはない
それを無視して「編年は信じないにだー」って言い張っても無駄だよ
もうじき水月湖年縞の14Cのデータが使えるようになるから、そうしたら
もう少し精度の高い話ができるようになるだろう
それで、九州説の言い分が正しかったとされる確率は1.6%もないけれどね
>>622 >列島の広域に成立しており、その中心が纏向にあったことは十分に認められる
仮説を積み上げただけで、それを確定的に述べる詐欺?
砂上の楼閣。
なるほど。古墳時代にも野球があったというのが畿内説ですね
目からウロコですな
>>628 >会稽東治の東と書いた陳寿の行程記事は当然九州を指してないとか
>こういった指摘に
>九州説は沈黙したんだよ
はあ?
短里と長里を陳寿が取り違えたで説明つくだろ?
無視してんのはそっちだ。
>>621 >ザラコクを論破したと喜んで意味があるのか?
だから、ザラゴキを論破しているんじゃなくて、
その言い分を全否定しているんだよw
そして、ザラゴキの言い分で、九州説一般との共通する部分も
当然に全否定されてるww
九州説はザラゴキ野放しに危機感を持った方がいいよ?wwwww
>>637 雑魚の相手ご苦労。
でもそれでは畿内説への支持は得られないよ。
>>627 >>既存の学説完全否定だが
>否定されたくなかったら科学的な根拠付きで銅鏡の年代と産地を並べてみなさい
それをやった学説を
九州説は理由も言わずに否定してるわけだが
>>621 ザラゴキ以外にも、
>>550、
>>556みたいなアンチ科学しか九州説にはいないじゃないかww
論破しているつもりはないよ
デタラメを糾しているだけw
もう少し普通の知能の論者はいないのか畿内説は
もう駄々っ子が涙目で無茶を言ってる構図にしか見えないのは
自分でもわかってるんでしょ?
>>639 >雑魚の相手ご苦労。
>でもそれでは畿内説への支持は得られないよ。
いや、非常に有効だな
九州説が勝手に自壊して常識人の顰蹙を買ってくれるんだから
残るsw円卓滋賀畿内説だけになって
畿内説の支持が増えるさ
>>641 >ここまで畿内説の証拠提示ゼロ
という証拠は?
また九州説ブーメラン自死
>>643みたいに悪口しか言えなくなるのが
いつもの九州説敗退パターン
世に言う「負け犬の遠吠え」
>>624 >それは君の妄想ね
そう判断する根拠は?
>>583の人も書いてくれているけれど、祭祀遺構で出土する外来土器は
精製品であり身分の高い人間が使うものだ
国家祭祀の場である大型祭祀土坑での土器供献に、土木作業員が精製土器を
持って参加すると考える人は、頭がおかしいとしか言えないww
>>587 土木作業員は定住しないから
今でいうプレハブみたいな簡易な建物に住んでたのだろう
雨風防げる程度の建物に寝泊まりしてたのだよ・・だから住居の痕跡は無い
飯場を大集落とは言わない いわんや都市なんて・・・・
残るsw円卓滋賀畿内説だけになって
↓
残る選択肢が畿内説だけになって
>>636 >はあ?
>短里と長里を陳寿が取り違えたで説明つくだろ?
どんな状況で
「短里と長里を陳寿が取り違えた」
可能性があるのかな?
それ、全部否定されて説明不能に陥って
いつも沈黙したでしょキミ
まだ無駄な抵抗する気力あるの?
ないよね
またキミは黙るよ
>>636 >短里と長里を陳寿が取り違えたで説明つくだろ?
短里が存在したという証明、論証はありませんよ?
短里なんてなかったというのは、何度もきちんと論証されていますがww
九州説というのは、既に否定された仮説ですらない「インチキ設定」を
いくつも積み上げて作られたガラクタなんだよ
自分のやっていることを冷静に見つめてみてごらんよ
恥ずかしくて二度と科学板に出てこられなくなるレベルの醜態だと思うよ?
>>648 >今でいうプレハブみたいな簡易な建物に住んでたのだろう
5年も10年も?
それ、痕跡残るよね
>>647 >国家祭祀の場である大型祭祀土坑での土器供献に、土木作業員が精製土器を
「国家祭祀」とか決めつけたらダメなんだって。
少なくとも九州がそこに参加していないわけだし、郡使が来ていたことが確実な九州と関係ない「国家」があっただけ。
>>605 >多数の柱穴の存在が報告されてるんだ <
多数って幾つ?
>>650 >どんな状況で
>「短里と長里を陳寿が取り違えた」
>可能性があるのかな?
報告書が短里で書かれていただけ。
>>651 >短里が存在したという証明、論証はありませんよ?
魏志倭人伝を読んでね。
>短里なんてなかったというのは、何度もきちんと論証されていますがww
それは君の主張であり、事実ではない。
そしてコンセンサスも得られていない。
>>638 >畿内説は事実と仮説の違いが理解できていない。
そう断定する証拠は?
>>656 >魏志倭人伝を読んでね。
ほら、立証のできない九州説はまた逃げる
>それは君の主張であり、事実ではない。
>そしてコンセンサスも得られていない。
それ、証明できる?
できなきゃ、また九州説の負け
>>636 >短里と長里を陳寿が取り違えたで説明つくだろ?
取り違えるも何も、3世紀世界の何処を探しても、
短里を使って距離を計測する人も
短里を使って記録する人も
そもそも短里を知っている人も、
誰一人存在しないという「厳然たる事実」を九州説は認めないとww
問いに問いで返すのは荒らしと同じ
理由は畿内説論者が考えなさい
ここは畿内説スレでしょ?
テンプレを信じない理由は?って一般人に聞くことが愚だというのは自明だと思うのだが。。
>>655 >報告書が短里で書かれていただけ
その報告書、誰が書いたの?
魏の役人が魏の皇帝でない度量衡を使うと主張するのかな?
換算の注釈もなしにですよ
あまりに荒唐無稽な夢想に過ぎませんか?
>>656 >魏志倭人伝を読んでね。
それ、ただの循環論法で何の足しにもならないって、何度教えられたら理解するんだ?
九州説って、まったく説明能力がないよな
まあ、それ以前に説明すべき実態がないんだからしょうがないかww
>>660 負けが込んでくると誰に対するレスなのかわからない投稿をする性癖の人
一人知ってます
頭の悪い人です
自分の主張の理由が言えない人です
みじめな人です
>>622 .>この秩序体系が、魏志倭人伝の記す倭国ではないと考える理由がどこにもない
この秩序体系が「魏志倭人伝の記す倭国である」と考える理由がどこにもない。
つまり庄内式は肥後熊本発の最新高級土器だったのだよ。
>>628 >末盧の東南に伊都国と書かれているから包囲がおかしいとか
ちーとも、おかしくないわい。正しく東南に伊都国は在ったのだ。
ま、畿内説と北部九州説は異母兄弟だから仲がよろしくないようだが、破綻するときは一緒の運命、ザンネーン。
>658
>できなきゃ、また九州説の負け
子供か君は?
歴史というものはねー、勝ち負けじゃないんだよ?事実か妄想か、それだけです。
君のは薄弱な根拠を妄想でつなぎ合わせただけというのが大方の見解なのよ
>>664 九州説はこうして歴史学完全否定のムー世界に堕ちていく
>>653 >「国家祭祀」とか決めつけたらダメなんだって。
この規模の祭祀はよそにはないし、広い範囲の他地域の参加がある以上
国家祭祀と考えるのが最も妥当
そして、決め付けたりはしてないよww
昨日の「判断」を「断定」に摩り替えるというインチキをしたのもお前だろ?ww
できの悪い詭弁使いだな
>少なくとも九州がそこに参加していないわけだし、
胎土分析で北部九州から持ち込まれたと判定されている土器片があるんだよ
ある程度の大きさがないと、各地の土器の特徴が見出せないから細かいやつが
判定から落ちてるだけだろ
>>665 歴史というものはねー、勝ち負けじゃないんだよ?事実か妄想か、それだけです。
そしていつも妄想に、証拠のある事実が勝つんだよー
勝ち負けだよー
そんな空想的な総論で言い訳しても現実は
九州説の妄想を畿内説側が事実で突き崩してるだけだよー
つまり九州説の負け
>>655 >報告書が短里で書かれていただけ。
これこそが「根拠なしの勝手な想像」の典型
報告書を書くのは魏朝の官人
度量衡の公定が皇帝の専権事項である以上、公定尺以外の単位を使うことは
皇帝権力への叛逆にしかならない
「報告書」の時点で「短里」が入り込む余地はないんだよ
バカ以外はこれで理解するww
>>667 九州説さん
やけくそのおうむ返しですか
それ許されるの、幼稚園児くらいまでです
>>664 >つまり庄内式は肥後熊本発の最新高級土器だったのだよ。
このように
どんどん九州説は堕ちていく
>>664 >この秩序体系が「魏志倭人伝の記す倭国である」と考える理由がどこにもない。
あるよ?
しかも誰一人反論しようもないほど、明確な理由が
「奴国が共通して入っていること」
魏志倭人伝の奴国が卑弥呼の倭国のメンバーであることは明確だし、
奴国の比定地が福岡平野で3世紀の中心が比恵那珂遺跡群であることは
ザラゴキ以外には普通に認められている
そして、比恵那珂遺跡群の首長墓が最初期の前方後円墳として造営され
追葬と考えられる第二埋葬主体から三角縁神獣鏡が出土していて、
前方後円墳+三角縁神獣鏡で示される畿内中心の墳墓祭祀秩序に奴国が
3世紀時点で参加しているのも考古学的事実
これで、同じと考えない方が「頭おかしい」レベルと言わざるを得ない
>つまり庄内式は肥後熊本発の最新高級土器だったのだよ。
まあ、この辺こそがまだ編年研究は絶対ではない、というところだろ
肥後熊本の土器編年の研究が進んでないってだけだよ
肥後熊本に他所に影響を与えるほどの強大国があったことをうかがわせる遺跡は
存在しない
ベンガラが採れるから、初期から畿内勢力がアプローチしていたと考えるのが
標準的な見方
>>665 >歴史というものはねー、勝ち負けじゃないんだよ?事実か妄想か、それだけです。
でもな、
>>656の「そしてコンセンサスも得られていない。」というのは
歴史ではなくこのスレでの現代のことなんだから、立証できることだよ? 事実ならねww
それが立証できないなら、事実ではないってことで、
事実ではないことを言い張ったお前がうそつきの負け犬ってことになるんだよ
もうなんかイジメみたいだな
もっと優しくしてやれ畿内説バイトに
>>658 事実と主張の区別がつかないのは、君のリテラシーの問題だよ。
畿内の説明は簡単だよ、学者がみんな畿内って言ってるから。はい、終わり。
>>659 >短里を使って記録する人も
>そもそも短里を知っている人も、
>誰一人存在しないという「厳然たる事実」を九州説は認めないとww
それは君の「考え」であり、「事実」ではない。
意見を述べることは勝手だが、事実と思い込むのは誤りだ。
>>661 >その報告書、誰が書いたの?
>魏の役人が魏の皇帝でない度量衡を使うと主張するのかな?
いいかい?
魏志倭人伝は短里で書かれている。
それが事実なんだ。
>>662 >それ、ただの循環論法で何の足しにもならないって、何度教えられたら理解するんだ?
どう循環論法なのかな?
>>668 >この規模の祭祀はよそにはないし、広い範囲の他地域の参加がある以上
>国家祭祀と考えるのが最も妥当
それは意見や主張であり、事実と区別しなよ。
これはリテラシーの問題だ。
>>668 >昨日の「判断」を「断定」に摩り替えるというインチキをしたのもお前だろ?ww
違うと思うよ。
君、周りから総スカンにあっている自覚がないね?
>>681 理由もなく言っても九州説が返り討ちになるだけだぞ
>>683 >君、周りから総スカンにあっている自覚がないね?
そんな事実がないから当然だが
>>668 >ある程度の大きさがないと、各地の土器の特徴が見出せないから細かいやつが
>判定から落ちてるだけだろ
だからさ、割合としてほんの僅かで、コンタミみたいなもの。
とても九州から誰か来ていたと言う程度ではないんだよ。
大量の土器の中で、かけら一つが九州だ!と喜んで、それを根拠に九州まで参加した国家的祭祀だと言い張るなんて、惨めだよ。
>>670 >「報告書」の時点で「短里」が入り込む余地はないんだよ
それは事実と異なる君の個人的な主張に過ぎない。
>>673 >魏志倭人伝の奴国が卑弥呼の倭国のメンバーであることは明確だし、
でも纒向は関係ないのだから、纒向は卑弥呼の倭国のメンバーではないね。
>>673 >肥後熊本に他所に影響を与えるほどの強大国があったことをうかがわせる遺跡は
なぜ他所に影響を与えることが関係するのか、その思考回路が意味不明。
>>674 >歴史ではなくこのスレでの現代のことなんだから、立証できることだよ? 事実ならねww
反論が出ている時点で、コンセンサスが得られていないとわかるよね。
はい証明終わり。
>>680 >どう循環論法なのかな?
「短里は実在したー」 <どうして?
「倭人伝に書いてあるー」 <なんでそれが短里なの?
「短里で数えると丁度合うからー」 <どう合う計算なの?
「短里で逆算すると、ここが⚫⚫国だからー」
>>676 >事実と主張の区別がつかないのは、君のリテラシーの問題だよ。
事実と主張の区別を切り分けて示して見せればいい
簡単だろ?
こっちはいつもやってるぞww
事実「魏志倭人伝の里程は現実の地理に合わない」
ただの主張「短里はある」
これをせずにいる時点で、能無しが逃げているだけと言われるのが当然
>>690 >反論が出ている時点で、コンセンサスが得られていないとわかるよね。
それ、ネット上で九州説の爺さんが
「わしゃ認めんぞ」
と言うと畿内説が論破できるってこと?
そりゃお気楽だこと九州脳
>>679 >魏志倭人伝は短里で書かれている。
>それが事実なんだ。
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
ʬʬʬʬʬ
それww、ただのwwww、無根拠なwww否定済みのwww
「主張」そのものwwwwww
事実の欠片もねーでやんのwwwww
>>680 >どう循環論法なのかな?
魏志倭人伝は短里で書かれている
↓
根拠は?
↓
魏志倭人伝を読め
ww
循環してるじゃないかww
>>690 九州説さん
あなた、わざとリンク辿れないよう工作してる人?
>>679 >いいかい?
>魏志倭人伝は短里で書かれている。
>それが事実なんだ。
いやソレ、いくない典型だろ
理由なにも言ってない
そういう宗教?
九州説はそれだからダメなんだ
>>686 >大量の土器の中で、かけら一つが九州だ!と喜んで、それを根拠に九州まで参加した国家的祭祀だと言い張るなんて、惨めだよ。
胎土分析はめんどくさいから大量にはやらないんだよ?
そして、九州からは来ていないというのが否定されればそれで十分だろ?
>>686は「自分の論拠が失われたこと」を必死でごまかそうとしているだけww
早い時期から北部九州の中心の比恵那珂遺跡群では、
畿内様式土器を模倣製作しているし、それをもってザラゴキなんかは
庄内式土器の起源は九州とか言っている
各地の様式の土器といっても、胎土分析の結果、
纏向の土で作られた「外来土器(土器様式による判定)」も確認されている
奴国の土器が少ないのは、奴国からの参加者が纏向の土で庄内式土器を
作って奴国の分として参加していたってことで説明できてしまうのかもしれない
>>689 >なぜ他所に影響を与えることが関係するのか、その思考回路が意味不明。
いや、常識的思考だが
強大国がなんて他国に影響及ぼさないの?
鎖国でもしてるの?
影響及ぼしてないなら、影響力ないってことでしょ
なんでそんな国が強大でありうるの?
>>678 >それは君の「考え」であり、「事実」ではない。
『「事実」ではない』というのは
>>678の「主張」であって「事実」ではないよな?
ちょっとメタが入っているが理解できるか?
それが言いたいなら、『「事実」ではない』ことを立証しないと!ww
簡単だろ?
「短里を使って距離を計測する人」
「短里を使って記録する人」
「短里を知っている人」
に該当する人物を具体的に一人指摘すれば、立証できるぞ!
それができて初めて
>>678のいう『「事実」ではない』が事実だと認められるww
さあ、がんばれww
「短里を使って中央に報告するわけない人」:魏の役人
「短里を知らない人」:陳寿
>>688 >でも纒向は関係ないのだから、纒向は卑弥呼の倭国のメンバーではないね。
纏向、関係してるだろ?
無関係なのに、どうして奴国で庄内式土器を作って前方後円墳を作るんだ?
畿内とは別の北部九州に卑弥呼がいたとして、
祭政一致の時代に、前首長の葬送儀礼は最重要の国家祭祀だが、そこで畿内様式を
取り入れることを、事鬼道能惑衆と書かれた宗教的権威の卑弥呼が認めるって
本気で考えてるのか?
頭おかしいとしか言えないだろ?ww
奧山氏、つまり、◆n7jxAxKCBhb6 は、頭が悪いな。
>>683 >違うと思うよ。
「思うよ」ってなんだよwww
自分じゃなければ「違う」って断定すればいいだろ?
やっぱりこの人、「頭オカシイ」ww
朝鮮人の奥山氏は、配管工としては解雇されたので、今は無給で5ちゃんねるのプロ固定として活動中なのだったな。。。
>>704 今日も敗北した九州説は悪愚痴を言って憂さ晴らしをする
みじめな人生である
w
>>689 >なぜ他所に影響を与えることが関係するのか、その思考回路が意味不明。
>>664で
「つまり庄内式は肥後熊本発の最新高級土器だったのだよ。」って書いてるじゃないか
よそに影響を与えなかったら、よそが庄内式を肥後熊本から受け入れることなんてないんだよ
僕達が笑いリラックスするためにアプローチしている、このレベルの低い、5ちゃんねるのサクラのプロ固定が作製したスレッドとは全く異次元の、 たくさんの分野のレベルの高い学者達が集う、
魏志倭人伝時代の真実について、僕達か僕達の論敵のどちらの頭がカラフルになるかを賭けて、
お互いに、不敵な笑みを浮かべながら、 闘っている討論会では、
破綻した非科学的な唯物論や破綻した非科学的な要素還元主義を、お互いに掲げることなしに、正々堂々の討論を闘っているので、
魏志倭人伝に全く記録はされていない土器や時代の異なる前方後円墳ではなく、
最近明らかにされてきた空気シャワーの威力や、鉄鏃や、人民の住居や、ベンガラや、方角や、距離や、夏の時代の考古学的に判明している会稽の位置や、魏志倭人伝時代の倭人の太い骨や、
萬二千里の事で奥山氏も頼みにしている淮南子を規定している一寸千里の法を材料にして、討論が進行し、
卑弥呼の城が日本の何処にあったかの討論から、卑弥呼の城が九州の何処にあったかの討論に、話題が移り変わってきたのだったな。。。
>>690 >反論が出ている時点で、コンセンサスが得られていないとわかるよね。
>はい証明終わり。
コンセンサスは全員一致を意味しない
反論終わりww
この人、バカすぎ
頭が悪すぎる奥山氏と同じレベルの脳を持っている小学率が、出現し、邪馬台国畿内説を宣伝するために、インターネットで収集した文章を理解しないまま、加工し貼り付けついるな、、、
>>711 労働で疲弊した僕達を、笑いリラックスさせてくれるので、良いな。。
奧山氏、つまり、◆n7jxAxKCBhb6 は、頭が悪いな。
>>711 このスレッドを、釣り堀に見立て、しばらく自由に、泳がせておけば良いな。。
>>708 肥後熊本の在来文化はどうなったの
ww
心壊れた連句点が呟き始めたな
今日も九州説は全敗か
>>695 現実の地理と比較すれば、一里が短いことは明らかだよ。
纏向古墳造営基地局で大型建物は3棟しか見つかっていないということは、ドカタの人数はそう多くは無いということだな。
ということは、巨大古墳を造るためには馬を用いたのではなかろうか。
実際に馬具も発見されていることだし、馬の導入時期を見極めることの方が先ではないのか?
>>699 >そして、九州からは来ていないというのが否定されればそれで十分だろ?
土器の流れと人の流れは違う。
九州の土器が大量に出ていれば九州から誰か来ていたことになるだろうが、割合として僅か(統計的に1パーセントに満たない)のなら、例えば吉備や出雲が筑紫から受け取ったものが流れてきただけかもしれない。
驚いたな、、、
庄内式という式は肥後熊本発の最新高級土器だったというのは、真実なのだろうか、、、、
>>717 >現実の地理と比較すれば、一里が短いことは明らかだよ。
どう明らかなの?
論理的にお願いします
>>699 >奴国の土器が少ないのは、奴国からの参加者が纏向の土で庄内式土器を
>作って奴国の分として参加していたってことで説明できてしまうのかもしれない
それは事実ではなく、仮説に過ぎない。
福岡から誰かが纒向に来ていたと言う証拠はないんだよ。
>>700 >いや、常識的思考だが
それはあなたの「思考」つまり考えであり、事実とは分けようね。
>強大国がなんて他国に影響及ぼさないの?
どこから強大国という話がで来るの?
畿内説は妄想に塗り固められているね。
奥山氏のテンプレートを完全に論破されたBBAが、反論を諦め、敗北宣言にしかならない嘘の悪口を言い放ってきたな、、、
716日本@名無史さん2019/09/13(金) 12:38:18.36
心壊れた連句点が呟き始めたな
今日も九州説は全敗か
>>701 事実だと主張する側が証明しなよ。
論理学を知らないのかな?
>>723 思考と言ってるが?
頭がおかしくなった?
>>703 それはすばて君の考察や仮説に過ぎない。
ここまで畿内説の証明が皆無
もっと頑張れ、キナイコシ!
>>717 >現実の地理と比較すれば、一里が短いことは明らかだよ。
それは、
「漢土の外の情報の少ない遠隔の地は距離が誇張されるバイアスが見られる」
という、大陸史書の共通の特徴で簡単に説明できるだろ?
ザラゴキがよく持ち出す
「梁書」と「南史」の
「循海大灣中正西北入,歴灣邊數國,可一年餘到天竺江口,逆水行七千里乃至焉」も
その例
九州説がよく言う「東夷世界では」とか「公孫氏が」とかいうのは、
この例にはまったく適用できない
短里なんてないんだよ
あったら、その換算を示す記録が一つもないというところにも無理が出る
三国志の時代にはもう咫は実用単位ではなかったけれど、その長さは記録されてる
古い「短里」が残っていたとして、その記録がない時点で3世紀の短里は否定される
邪馬台国は古墳や出土物など文化的繋がりのある畿内一帯
纒向はその王都
独立した3つの根拠のことで、論理を知らないことが、バレてしまったベジタリアンには、説明しても無駄なことの方が多いのだったな、、、
721日本@名無史さん2019/09/13(金) 12:42:02.29
>>717 >現実の地理と比較すれば、一里が短いことは明らかだよ。
どう明らかなの?
論理的にお願いします
>>722 >福岡から誰かが纒向に来ていたと言う証拠はないんだよ。
その証拠は、胎土分析で北部九州からの搬入土器が確認できるということで示されている
>>728 >それ、他の人だから知らないよ。
自分の書き込みじゃなくても、このスレのコメントを読んでいたら
「意味不明」にはならないだろ?
やっぱりこの人、バカすぎるww
淮南子に、一寸千里と同じ考え方で、一里の長さを規定したことを前提にした文章があったな、、、
>>723 >それはあなたの「思考」つまり考えであり、事実とは分けようね。
こっちが事実と分けてないと言いたいようだが
その根拠は?
>>725 >事実だと主張する側が証明しなよ。
十分な論証がなされているし、広く認められているからこれ以上の証明は不要だと考えるが?
つ「短里はない」
それを否定する論証は比較的簡単なんだから、否定したいならその論証をがんばれというだけ
「短里を使って距離を計測する人」
「短里を使って記録する人」
「短里を知っている人」
に該当する人物を具体的に一人指摘すれば、『事実ではない』と立証できるww
さあ、がんばれww
>>652 >5年も10年も?
それ、痕跡残るよね <
それが無いから、畿内説は困っているのだよ
ドヤ街や飯場はあとはほとんど残らないよ
ダム建設の飯場から住居跡が見つからないよ。
全部撤去しちゃうから
ましてや、掘立小屋ていどなら残らないし、事実纒向にのこっていない
大集落とか都市とか言うが、どのような奴が住んでたかといえば労務者じゃねーの
古墳造営が済んだとたんに纏向は消滅したのだよ
>>736 つまり、淮南子の萬二千里は、一里が約77メートルなのだな、、、
庄内式という式は肥後熊本発の最新高級土器だったというのは、真実なのだろうか、、、、
邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人の小学率は、角度の計算ができないのだったな、、、
奧山氏、つまり、◆n7jxAxKCBhb6 は、頭が悪いな。
>>622 >つまり、外来土器は
土木作業員が飯炊き用に持ってきた(ものがあるのは否定しない)のではなく、
国家祭祀に参加する各地の代表が自分たちの国の象徴として祭祀供献しているんだよ <
食事用土器でそんなに価値は無いよ、
外来土器で国や県・市指定の文化財ないんじゃないの
>>744
「鏡」や「お墓」や「土器」ごときに頼らざるを得ない、九州説や畿内説。
圧倒的な倭国(阿波)の遺跡のまえに、ひれ伏すばかりなり。 @阿波 >>727 >それはすばて君の考察や仮説に過ぎない。
「奴国で庄内式土器を作って前方後円墳を作っている」
考古学的事実で、私個人の考察や仮説じゃないよ?
「3世紀が祭政一致の時代」
これも広く認められていることで、私個人の考察や仮説じゃない
「卑弥呼が事鬼道能惑衆と書かれている」
魏志倭人伝のテキストに書かれている事実
私の意見の部分は
「卑弥呼が自分を女王と仰ぐ倭国傘下の奴国が
無関係の畿内様式の前首長葬送儀礼を受け入れたと考えるのがおかしい」
という部分だけだが、この部分も否定すべき点はないだろ?
「仮説だから認めない」というだけなら、このスレで書き込みするのは無駄だぞw
「仮説のどの部分がおかしい」といえるのでなければ、バカの戯言だww
奧山氏、つまり、◆n7jxAxKCBhb6 は、頭が悪いな。
>>731 >邪馬台国は古墳や出土物など文化的繋がりのある畿内一帯
>纒向はその王都
大体いいけれど、「古墳や出土物など文化的繋がりのある」範囲だと、
倭国になるんじゃないか
>>731
「鏡」や「お墓」や「土器」ごときに頼らざるを得ない、九州説や畿内説。
圧倒的な倭国(阿波)の遺跡のまえに、ひれ伏すばかりなり。 @阿波 「私」という言葉は、特定の10個の箱を持ち出したが、完全に間違った思考実験だった、頭の悪い人物の使用する一人称だったな、、、
>>739 >それが無いから、畿内説は困っているのだよ
別にこまってないが?
だって飯場だとか築造キャンプだとか言ってるのは九州説のおバカさんだからな
自分たちの説の背反する主張の裏付けがなくて困る人類はいない
>古墳造営が済んだとたんに纏向は消滅したのだよ
纏向が消滅した4世紀初頭に造営が済んだ古墳って、どれ?
自己矛盾しまくる九州説
>>741日本@名無史さん2019/09/13(金) 12:57:01.88
>庄内式という式は肥後熊本発の最新高級土器だったというのは、真実なのだろうか、、、、
庄内式は薄いのに硬い。
そこには従来より高温で焼く技術があったからだろう。
そしてそのためには高熱を出せる樫か松を燃料にしなくてはならぬが、其の材を大量に切りだすには鉄斧が必須だったのだ、、、
頭の良い者達の討論会では、「仮説のどの部分がおかしい」かよりも、仮説を前提にした別の仮説を積み上げることがおかしいのだったな、、、
>>751 三世紀の日本列島はまだそこまでシャッフルされてない
だから同じ倭国でも畿内と吉備、筑紫、丹後、出雲などの文化的プラットホームの違いがまだまだ弁別できる
あのね、日本の優秀な考古学者が倭人伝に書かかれてる邪馬台国は畿内だと言ってるだからね。
畿内でしょう!
なるほど、、、
だが、鉄斧の無い大和地方でも庄内式を作製したのではないのかな、、、
755日本@名無史さん2019/09/13(金) 13:09:26.45
>>741日本@名無史さん2019/09/13(金) 12:57:01.88
>庄内式という式は肥後熊本発の最新高級土器だったというのは、真実なのだろうか、、、、
庄内式は薄いのに硬い。
そこには従来より高温で焼く技術があったからだろう。
そしてそのためには高熱を出せる樫か松を燃料にしなくてはならぬが、其の材を大量に切りだすには鉄斧が必須だったのだ、、、
日本の考古学者は、数学や化学や物理学の勉強や試験を免除されている者達が、多いのだったな、、、
758日本@名無史さん2019/09/13(金) 13:12:01.90
あのね、日本の優秀な考古学者が倭人伝に書かかれてる邪馬台国は畿内だと言ってるだからね。
畿内でしょう!
鉄斧の無い大和地方でも庄内式を作製するためには、木材を大量に調達できなかったので、
大和地方製庄内式は、他の地方製品より、量が少ない可能性が高まってきたな、、、
>>757 >だから同じ倭国でも畿内と吉備、筑紫、丹後、出雲などの文化的プラットホームの違いがまだまだ弁別できる
その文化的プラットホームの違いの上に、共通の上部構造として乗せられたのが
前方後円墳祭祀(前方後方墳も可)と祭祀用供献土器の共通化だろう
古墳や出土物(祭祀用供献土器)とすれば、やはり「倭国」になると思う
大和地方製庄内式は、鉄斧の発見された他の地方の製品より、量が少ないのだろうか、、、
それとも、少なくはないのだろうか、、、
頭の悪い者が思いつく、典型的な、破綻した要素還元主義の手法だね、、、
763日本@名無史さん2019/09/13(金) 13:21:20.28
>>757 >だから同じ倭国でも畿内と吉備、筑紫、丹後、出雲などの文化的プラットホームの違いがまだまだ弁別できる
その文化的プラットホームの違いの上に、共通の上部構造として乗せられたのが
前方後円墳祭祀(前方後方墳も可)と祭祀用供献土器の共通化だろう
古墳や出土物(祭祀用供献土器)とすれば、やはり「倭国」になると思う
>>754 >纏向が消滅した4世紀初頭に造営が済んだ古墳って、どれ? <
箸墓古墳・・古墳から布留1式期(4世紀初め)出土
もう九州説は畿内説の論立てには反論ができなくなったのか?
仮説だからダメって、千年以上前のことが確定するはずがないじゃないかww
その上で、どの仮説がより尤もらしいかを検証していくのが科学だろ?
九州説はアンチ科学だから、自分の決めた結論に合わないのは全否定ってことなのかな?
9回2アウトランナーなし10点リードされてる状況で
「まだ勝負は決まってない」←まあね笑
「つまり同点だ」←は?
とりあえず、まだ3アウトゲームセットではないけど
奈良の纒向が有力だということで良いんだよ
>>758 優秀な人はそんなドロ船に乗っからないでどこかの企業にでも務めるでしょ
根拠薄弱なクソ説に追従している時点で優秀でない証拠
>>767 >>纏向が消滅した4世紀初頭に造営が済んだ古墳って、どれ? <
>箸墓古墳・・古墳から布留1式期(4世紀初め)出土
不正解
箸墓は布留お0
>>747 そういう説明をしたいのであれば、飯炊き用の土器、祭祀用土器それぞれの産地比率などを提示しろよ。
纏向遺跡で出土した土器の産地
伊勢・東海系:49%
北陸・山陰系:17%
河内系:10%
吉備系:7%
近江系:5%
関東系:5%
播磨系:3%
西部瀬戸内海系:3%
紀伊系:1%
連続句読点は要素還元主義って言葉の意味が分かってないんだろうなw
遺跡と遺蹟の区別がついてないしww
布留0が布留1時代に廃棄されるという可能性も否定は出来ないよな。
箸墓では5世紀の馬具の上層に布留1の破片が埋もれていたり。
畿内説が強引にその馬具を4世紀初めの物だと言い張っているのは、そう言わないと土器編年そのものが崩壊するから。
下手すりゃ100年ぐらい古く見積もってるんじゃないかな。
>>547 >原子核は例えるなら太陽 電子は周りを回る水星
太陽が不安定になったら放射線等が放出もされるけど
水星がどっか行ったからといって太陽が不安定になる事はなし<
ダメだ。
重力場と電磁場は相互作用をしていたから、
惑星がどこかへ行ってしまってその重力場が無くなれば、
太陽内の電磁場バランスにもわずかな攪乱が発生し、
その分間接的ではあるが、太陽内もわずかながら、不安定化する。
また、その不安定さは、
原子における「外周電子を全部失う」事での原子核内の電磁場の不安定化よりも、
はるかに程度が低い、という事だな。
>>773 なんでウソ書くの?
九州説って、そういう説?
>>771
>纏向遺跡で出土した土器の産地
これ、よくコピペする人がいるけれど、搬入土器の中での比率なんだよね
まず在地の土器が85%あって、残り15%の中の比率だからww
これが分かってないやつが、纏向は東海の植民地とか言い出す
在地系: 85%
伊勢・東海系:7.4%
北陸・山陰系:2.6%
河内系: 1.5%
吉備系: 1.1%
近江系: 0.75%
関東系: 0.75%
播磨系: 0.45%
西部瀬戸内海系:0.45%
紀伊系: 0.15%
こんなもんだよ >>730 >という、大陸史書の共通の特徴で簡単に説明できるだろ?
その「説明」は君の考えた「主張」であり、短里で書かれているという事実の方が優先するんだよ。
>>773 >箸墓では5世紀の馬具の上層に布留1の破片が埋もれていたり。
こういうのが「バカ丸出し」だって早く気づくといいんだけれど
>>730 >古い「短里」が残っていたとして、その記録がない時点で3世紀の短里は否定される
魏志倭人伝を読めよ。
短里で書かれていことは事実だぞ。
>>735 その人は自分とは違う考えの人だから、そんなことを言われても困るのだが?
>>749 >「奴国で庄内式土器を作って前方後円墳を作っている」
同じ集団がかどうかはわからない。
博多には様々な集団がひしめいていた。
>「3世紀が祭政一致の時代」
それは個人の意見。
卑弥呼の他に大率などが置かれていたし官も多く置かれていたから、必ずしもそうではないかもね。
>「卑弥呼が事鬼道能惑衆と書かれている」
これは事実。
>という部分だけだが、この部分も否定すべき点はないだろ?
そらは君の個人的な主張。
>>749 >「仮説のどの部分がおかしい」といえるのでなければ、バカの戯言だww
君の個人的な仮説を絶対的なものとして押し付けるから、話しが噛み合わない。
このスレを不毛なものとしているのは、君と、テンプレを書いたスレ主。
>>773 まず「5世紀の馬具」ってのが、お前が散々言っていた「編年は確定ではない」だろ?
このダブスタ野郎がwwwww
次に「箸墓では」ってのが、かなり頭が悪い
正しくは「箸墓の周濠堆積物では」だ
周濠堆積物の堆積速度は正確に見積もることができないが、
かなりの長期にわたるのは確実で、その間いくらでも擾乱の可能性があるし
何がいつ周濠に入ったかは、どうにも決めようがない
分かるのは「5世紀(だとして)の馬具」より、箸墓の造営はずっと早いということだけ
参考になるのは周濠の底(地山の土層の直上)の遺物だけだよ
それが布留0式
箸墓の推定編年は、この布留0式の編年で推定されている
>>757 それでは倭国ではなく、多種多様な文化を持つ倭人の集まり、倭種だ。
>>778 >その「説明」は君の考えた「主張」であり、
これも「公知で広く認められている説」だ
個人の考えという訳ではない
「何処がおかしい」ではなく、
「個人の考えだから」というのは何の反論にもならないって早く気付けや
>>770 纒向学研究センターのHPに
>箸墓古墳・・古墳から布留1式期(4世紀初め)出土 <と記載あるよ
>>777 つまり、九州からはほぼ0に近い。
紀伊系の0.15%より小さく、有効数字で0に等しい。
郡使が滞在した九州北部と纒向は交流がないことになる。
もちろん、伊都の大率は纒向から派遣されたなどということもない。
>>780
>短里で書かれていことは事実だぞ。
バカ丸出し
魏志倭人伝の里程は短里
↓ ↑
根拠は魏志倭人伝が短里で書かれているから
並みのバカでも、これはおかしいって気づくぞ
レベル1まで行かない循環論法
要するに「根拠ゼロ」ってことww >>787 個人の考えを押し付けて前提とするなと言っている。
>>789 >郡使が滞在した九州北部と纒向は交流がないことになる。
ならないよ
あれば交流があったことが証明できるが、
ないことは交流がなかったことの証明にはならない
見つからない理由はいくらでもあるからね
そして、「ある」ことは胎土分析で証明されている
九州説のいう「纏向と北部九州は交流なし」は既にとっくの昔に否定されている
逆方向の畿内様式土器が比恵那珂遺跡群で大量に作られていることだけで
「纏向と北部九州は交流なし」は否定されつくしているんだがなww
>>549 >国内で作られた鏡は様々な鉱山から産出された銅が混じった結果が検出される
倭国内には鉱山がなかったので輸入物の古いものや新しいものを溶かして作った事を表す
三角縁神獣鏡の銅は魏・晋鏡に使われた鉱山から出たものと同じものが使われた分析結果が出ており<
これ×ね。
全く「同じもの」であるのではなく、
分布図上で「ある近縁範囲内に散らばって分布していた」という事。
という事は、列島△と、魏晋時代の中国の鏡とは、
同じ材料銅を使った事になった鏡もあった、という事。
>これは三角縁神獣鏡が魏で作られた鏡である事を示すもの <
示さない。
例えば、列島の△も、材料銅に徐州銅を使ったものがあり、
魏晋朝の鏡も、材料銅として徐州銅を使ったものがあった、という事を示すだけ。
>これを積極的に否定する物は今のところ見つかっていない<
データとして否定する必要もない。
この男(類スレ主?)らの解釈や頭が稚拙である、というだけ。
要するに、△は殆ど列島にしか見つかっていないのであり、
例えば、渡来の呉系楽浪鏡師が徐州銅を所持していて材料銅として使った、
という事であれば、十分に説明が付くのであり、
その事は、列島の△などの紀銘にも「徐州銅」を使った事が書かれた鏡が幾つもある、
という事が証拠。
>>550 >あほか?
電子の膜を失った原子核では、中性子の崩壊が促進されるんだよ。
外気に晒されるとすぐ崩壊を始めるのが中性子。<
ふーん、成程。
>>792 >ないことは交流がなかったことの証明にはならない
こいつ馬鹿だ
>>792 >逆方向の畿内様式土器が比恵那珂遺跡群で大量に作られていることだけで
「纒向型」と呼ぶのは循環論法だな。
>>790 >魏志倭人伝の里程は短里
これの根拠は、倭人伝の里数と実際の地理との比較だぞ?
予定通り詰んでしまった畿内説の悪あがきを冷ややかに見守るスレですね。
畿内説崩壊予定時期は今年の年末でしたっけ?
誰かが事前予告出してましたよね?
>>796 だと思う理由は?
どうして九州説はいつも理由を言わないの?
>>797 >これの根拠は、倭人伝の里数と実際の地理との比較だぞ?
「短里」の存在を前提にせずに倭人伝の里数と実際の地理とを比較した、という証拠は?
>>553 >纏向 まず、大集落じゃない・・という理由がない、理由なく言い張るだけ
住居跡がほとんど見つかって無い、という情報ソースなし、捏造と思われる
生活痕が少ないというウソ、大量に炊飯した形跡ありあり <
かまどや寝床やトイレがある建物の大集落がない。
>「以婢千人自侍・・・」の証拠が無いのは日本の全遺跡同じ<
甘木付近にかなり人数を収容出来出来るる集落群があり、
祇園山にも「62人以上の奴婢」らの殉葬墓にがある。
邪馬台国畿内説は、なぜ、完全に破綻してしまったのだろうか、、、
>>781 >その人は自分とは違う考えの人だから、そんなことを言われても困るのだが?
他人の考えであっても、文字で日本語として記載してあって、
九州説の姑息な人と違ってコメ番も明記してあり、アンカも追えるんだから、
それで論理の展開が分からないっていうなら、
>>781は「私は日本語をまともに読めないバカです」っていうのとほぼ同義だぞww
例えばこの「同義」っていう単語、九州説の人の語彙にはおそらく入ってないんだよね
九州説の人とはレベルが違いすぎる
>>795 >こいつ馬鹿だ
九州説さん、また反論できなくなって
罵りの一行レスですか
それだから
九州説は学問でいられなくなったのですよ
>>555 「南→東」などの嘘付き騙しのように、
あらゆる学問や人類の常識に反対しないと成り立たないのが、
大和説だな
>>802 >祇園山にも「62人以上の奴婢」らの殉葬墓にがある。
ないよ
そんなもの無い
ただの村の共同墓地だ
須恵器も出てる
邪馬台国畿内説が、邪馬台国だと信じてきた物事は、何だったのだろうか、、、
畿内説のスレは終了でいいだろう
嘘を何回いっても真実にはならないよ
>>560 「南→東」などの嘘付き騙しの大和説のダメさは、
こういう投稿を見ればよくわかる
一見相手の史料事実に拠る九州説に反論しているようで
実は自分の口先での無意味なイチャモンを主張しているだけ
これでは永遠に九州説に勝てないんだよ
原理的に無理
>>809 九州倭国が滅ぼした銅鐸王家の怨恨を封じるための、4世紀の九州倭国が派遣した祭祀係による祭祀跡地なのではないのかな、、、
>>804 君は他人の論理の展開を理解していないだろw
>>802 >かまどや寝床やトイレがある建物の大集落がない。
なんでそんなもんが必要なの?
>>565 >冢だと前方後円墳ではないっていう理由は? <
文字も意味も使用対象例も、全く違うから。
僕達が笑いリラックスするためにアプローチしている、このレベルの低い、5ちゃんねるのサクラのプロ固定が作製したスレッドとは全く異次元の、 たくさんの分野のレベルの高い学者達が集う、
魏志倭人伝時代の真実について、僕達か僕達の論敵のどちらの頭がカラフルになるかを賭けて、
お互いに、不敵な笑みを浮かべながら、 闘っている討論会では、
破綻した非科学的な唯物論や破綻した非科学的な要素還元主義を、お互いに掲げることなしに、正々堂々の討論を闘っているので、
魏志倭人伝に全く記録はされていない土器や時代の異なる前方後円墳ではなく、
最近明らかにされてきた空気シャワーの威力や、鉄鏃や、人民の住居や、ベンガラや、方角や、距離や、夏の時代の考古学的に判明している会稽の位置や、魏志倭人伝時代の倭人の太い骨や、
萬二千里の事で奥山氏も頼みにしている淮南子を規定している一寸千里の法を材料にして、討論が進行し、
卑弥呼の城が日本の何処にあったかの討論から、卑弥呼の城が九州の何処にあったかの討論に、話題が移り変わってきたのだったな。。。
>>814 このように
思考停止して
ただ言い張るのが
トンデモ信仰の九州説
>>818 >>冢だと前方後円墳ではないっていう理由は? <
>文字も意味も使用対象例も、全く違うから。
違うという証拠は?
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する係員は、皆、頭が悪すぎることがバレてしまったのだが、奥山氏が貼り付けているテンプレート以外の邪馬台国畿内説が成立する可能性は、0.05%よりも少ない確率で残されているな、、、
>>782 >同じ集団がかどうかはわからない。
>博多には様々な集団がひしめいていた。
那珂八幡古墳は奴国の首長墓だぞww
言い訳一つまともにできないんだなww
やっぱりこいつ「バカ丸出し」だわ
>それは個人の意見。
いいえ違います
>卑弥呼の他に大率などが置かれていたし官も多く置かれていたから、必ずしもそうではないかもね。
祭政一致とは、祭で決めたことを政で実現する体制を言う
官は卑弥呼の祭を実行に移すために置かれるものだから、祭政一致そのものであり
何の反論にもなっていない
>そらは君の個人的な主張。
個人の主張が「おかしい」か「おかしくないか」で議論しなよ
具体的な議論では能力的に相手にならないから逃げてるだけだろ?
バカ丸出しの無能さんww
>>783 >君の個人的な仮説を絶対的なものとして押し付けるから、話しが噛み合わない
押し付けてなんていないぞww
>>783が「絶対的なもの」と感じるなら、それだけこちらの
畿内説の論拠が磐石だというだけのこと
反論は具体的にどうぞww
「個人的意見だから」というのは、
歴史の真理の探究には何の意味も持たない逃げの発言
>>785 >多種多様な文化を持つ倭人の集まり、倭種だ
その倭人の集まり、倭種の国が「倭国」であり、卑弥呼は倭国の倭王だ
卑弥呼は絶対君主ではなく、共立された王なんだから、
多種多様な文化を持つ諸地域の首長の共立によって推戴されたんだよ
この倭人の集まりに、奴国も参加している
それだけのことが認められないんだから末期だよな、この人はww
>>791 >個人の考えを押し付けて前提とするなと言っている。
「個人の考えだから」で逃げずに、
「前提とならない理由を具体的な根拠をつけて論証してくれ」といってるんだが?ww
具体論がら逃げ続ける、いつもの惨めな九州説の姑息な言い逃れしかないww
>>795 >こいつ馬鹿だ
お前がな
理由は書いてあるだろ?ww
>>798 >「纒向型」と呼ぶのは循環論法だな。
また、捏造しているww
こちらの書いている文字列は「畿内様式土器」だ
これは時系列を追って「畿内第V様式」「庄内式」「布留式」と変遷していくが
比恵那珂遺跡群では畿内の土器相の変遷に同期して順番に出土しているww
これで、九州と畿内には交流がないとか言っちゃうんだから、
九州説は頭が悪い
>>797 >これの根拠は、倭人伝の里数と実際の地理との比較だぞ?
まだそんな嘘が通ると思ってるのか?
九州説の大好きなインチキ比定地で図示するとこうなるんだが、
短里って何メートルだという主張だっけ?ww
>>816 >君は他人の論理の展開を理解していないだろw
おいおい、
>>689で
「なぜ他所に影響を与えることが関係するのか、その思考回路が意味不明。」って書いているのは
お前だろ?
他人の思考回路が分からないっていっているのがお前だぞww
なんかこの人、バカの突き抜け方がレベルアップしてるんだけど大丈夫か?
>>823 >那珂八幡古墳は奴国の首長墓だぞww
それは主観が入った判断だ。
>>823 >官は卑弥呼の祭を実行に移すために置かれるものだから、祭政一致そのものであり
それは君の主観
>>824 >畿内説の論拠が磐石だというだけのこと
頑迷に自分の考えに固執して押し付けているだけ。
根拠に乏しい仮説を積み上げれば積み上げるほど、砂上の楼閣になる。
畿内説は
無い物は無いという意味がわからないで
あたかもあったように妄想する癖がある
無い物ねだりは学問じゃない
纏向に大集落と言える住居跡は無い
NHKが、邪馬台国畿内説には、具体的な証拠が無い、、と発表していたな。。。
>>825 >多種多様な文化を持つ諸地域の首長の共立によって推戴されたんだよ
根拠なし。
>この倭人の集まりに、奴国も参加している
奴国が含まれるが、奴国そのものに判断の主体があったかは書かれていない。
奴国は人口こそ多いが、それは庶民が多かっただけで、その割には支配層についてない記事が少ない。
>>826 >「前提とならない理由を具体的な根拠をつけて論証してくれ」といってるんだが?ww
個人の考えを押し付けるなということに根拠が必要か?
僕達が笑いリラックスするためにアプローチしている、このレベルの低い、5ちゃんねるのサクラのプロ固定が作製したスレッドとは全く異次元の、 たくさんの分野のレベルの高い学者達が集う、
魏志倭人伝時代の真実について、僕達か僕達の論敵のどちらの頭がカラフルになるかを賭けて、
お互いに、不敵な笑みを浮かべながら、 闘っている討論会では、
破綻した非科学的な唯物論や破綻した非科学的な要素還元主義を、お互いに掲げることなしに、正々堂々の討論を闘っているので、
魏志倭人伝に全く記録はされていない土器や時代の異なる前方後円墳ではなく、
最近明らかにされてきた空気シャワーの威力や、鉄鏃や、人民の住居や、ベンガラや、方角や、距離や、夏の時代の考古学的に判明している会稽の位置や、魏志倭人伝時代の倭人の太い骨や、
萬二千里の事で奥山氏も頼みにしている淮南子を規定している一寸千里の法を材料にして、討論が進行し、
卑弥呼の城が日本の何処にあったかの討論から、卑弥呼の城が九州の何処にあったかの討論に、話題が移り変わってきたのだったな。。。
邪馬台国畿内説が、破綻したのは、なぜなのだろうか。
同じ古墳から
古いものと新しいものが出土した場合は
新しい年代のものが年代比定に優先するのは常識
ほら、君が言う400メートルより短いだろ?
>>843 新しい年代のものは後から流れ込んだ物ニダ―!
邪馬台国畿内説は、たくさんの仮説を何段にも前提にしながら積み上げた、最上段の仮説なのだったな、、、
邪馬台国畿内説が、土台から崩壊してしまったな、、、
>>845 逆も真なり
古いものが後から混入したともいえる
同じ地層(土壌)からだと新しいものが優先
>>592 >まずβ崩壊は素粒子のクォークやグルーオンと、標準理論における弱ゲージボソンの
相互作用によって引き起こされるが、<
関係なし。
今のC14の問題での、
プラズマ化に拠る外周電子の全消失に拠る原子核内の電磁場的な不安定性は、
それまでは原子核内には陽子が6個と中性子が8つあって不安定であったのだから、
これ幸いと、余った中性子の一つから「電子とニュートリノ」を放出して、
「陽子+電子+ニュートリノ」に放射性変換して、N14になって、
少しでも安定化しようとする現象が起きる。
>>831 >それは主観が入った判断だ。
首長墓以外を想定する理由が「まったく・一切・何一つ」存在しない
そして、
>>831も首長墓以外の可能性すら一つたりとも指摘していない
主観が入っているかどうかに逃げないで、
那珂八幡古墳を首長墓だと考えるか否かについて論及するのでなければ意味がない
こいつ、本格的にバカだろう?w
>>848 そういう事をあえて検討しないのが畿内説なのニダ―!
>>834 >頑迷に自分の考えに固執して押し付けているだけ。
>根拠に乏しい仮説を積み上げれば積み上げるほど、砂上の楼閣になる。
だから、押し付けてないって言ってるだろ?
そして、お前みたいな「かまってチャン」にもちゃんと対応していることからも
分かるだろうが、意味のあることを書いてくるならちゃんと正しく反論してあげるww
「根拠に乏しい仮説」というなら、
「どこがどう根拠に乏しいのか」
「具体的な根拠をつけて」論じなさいっての
逃げるばっかりで具体的なことは一切書かないww
具体論に入った瞬間に、矛盾だらけで立ち往生するのが分かっているから
逃げ続けるだけの卑怯で姑息な九州説の典型w
>>838 >個人の考えを押し付けるなということに根拠が必要か?
「個人の考え」という言葉一つにすがり付いて逃げ続けているが、
こちらはいちいち根拠をつけて論じているだろ?
その根拠が正しいかどうかで、こちらの主張の是非を判断しようとどうしてしないんだ?
個人の考えでも正しいものは正しいし、間違っているものは間違っている
そこを論じずに、具体論から逃げ続けるなら、このスレに書き込むだけ無駄だと言っている
反論されるのがいやなら、このスレなんかに書き込むといいんじゃないかな?ww
http://2chb.net/r/history/1556163703/ そんなのは証明する側の責任でしょw
高校すら出たのか怪しいなこのネット書き込みバイトは
安部の世話が忙しくて頭弱いのしか残ってないんだろうけど
>>831 >>那珂八幡古墳は奴国の首長墓だぞww
>それは主観が入った判断だ。
そう断定する理由は?
>>853 >こちらはいちいち根拠をつけて論じているだろ?
それは君の論理なんだよ。
正しいか正しくないかの判断以前の問題だ。
個人の判断を事実とすり替えて論議するなと言っている。
理解できているか?
>>855 「首長墓」であることを証明するのは、それを主張する側の責任だろ?
>>837 >奴国が含まれるが、奴国そのものに判断の主体があったかは書かれていない。
>奴国は人口こそ多いが、それは庶民が多かっただけで、その割には支配層についてない記事が少ない。
は?
奴国の首長墓である那珂八幡古墳が前方後円墳である以上、奴国の中枢がそれまでの
北部九州の墓制を離れて列島の広域での合意に従って新しい葬送祭祀を選んだのは
否定のしようがないだろ?
そして、卑弥呼の共立に奴国がイニシアティブをどれだけ持っていたかは不明であっても
魏志倭人伝に不屬女王と書かれていない以上、女王国連合の一員だ
支配層についての記事が少ないというが、支配層についての記事なんて
一大率と卑弥呼と、あとは倭国から派遣された難升米とかの記事くらいしかないぞ
魏志倭人伝、きちんと読んでないだろw
畿内説と北部九州説は異母兄弟。
だから半分一致の半分相違で愛憎交錯してる、というか、どっちもどっちの似た者同士なの、、。
>>835 >畿内説は
>無い物は無いという意味がわからないで
わからんな
ただのトートロジーだとしか
実は九州説と畿内説って大して変わらない
倭国をシカトするか否かだけが違う
>>838 >個人の考えを押し付けるなということに根拠が必要か?
「個人の考え」だという証拠が要るだろ?
>>861 >実は九州説と畿内説って大して変わらない
たいした根拠を提示できていない点ではどちらも似たようなものだな
>>858 >奴国の首長墓である那珂八幡古墳が前方後円墳である以上、
首長墓だと言う根拠は?
また、それが卑弥呼の時代のものだという根拠は?
君の意見は常に様々な仮定が事実と混同されている。
だから他人から信用されない。
ワザとやっているなら詐欺と思われるし、そうでないならリテラシーがないと思われる。
気をつけた方がいい。
>>857 >「首長墓」であることを証明するのは、それを主張する側の責任だろ?
証明されているだろ?
その時期の当該地域で卓越した巨大墳丘墓が首長墓じゃなかったら何だ?ww
お前、バカだろ?ww
>>861 そんなことはない。
九州説は、後漢書によって、倭国とはそもそも対馬海峡の国だと言っている。
赤点小僧が90点とった秀才に
「おたがい満点とれなかったから同格」
だとさ
>>865 「その時期」ってどの時期?
その年代比定が「仮説」に過ぎないだろ?
「常識を疑え」という格言を
無知と非常識の免罪符にする九州説
不確かな仮説を積み上げても、それは推論に過ぎない。
それを
>>1 > 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
> 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
> それは桜井市纒向以外にありえない。
などと言うから叩かれる。
理解した?
>>603 >三角縁神獣鏡でも形式編年が研究されていて、図像や鏡縁の形状によって
どれが古くどれが新しいのかが、系統的に並べられるようになっている
そのうちの最初期のものが以前から舶載鏡とされていたグループで、<
この時点でダメだ。
最初期の△も、明帝下賜鏡ではなく、おそらく渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡であり、
舶載鏡だとは言えない。
>そのグループのものを分析したところ、使用された銅の不純物から
魏・晋鏡に使われた鉱山から出たものと同じものが使われていたと
判断するに足る分析結果が出ているんだよ
500枚全てが魏で作られたと主張する畿内説はほぼいないよ<
列島の△でも、
「陳是作鏡」や「王氏作竟」や「吾作明竟」は、
そのまま渡来の楽浪鏡師自身の姓である可能性があるが、
「尚方作竟」の△は、明帝下賜鏡である筈が無く、
同范鏡が造られているから、渡来の楽浪鏡師らの関与鏡である可能性がある。
>>868 学者たちの通説もひとりの素人の思いつきも
「仮説」の一言でクソミソにする九州説
>>870 たしかに九州説盲信ボケ老人を発狂させるには十分だな
>>605 >いやそんなもん出す必要もなく t多数の柱穴の存在が報告されてるんだ
これ、現実 九州説さん現実を見なよ<
柱穴があって、かまどやトイレや寝室がないのかい?。
そんなものでは、大集落跡にはならないよ。
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝するキナイコシ全員が、発狂した可能性が、そうではない可能性よりも高いな。
邪馬台国畿内説は、たくさんの仮説を何段にも前提にしながら積み上げた、最上段の仮説なのだったな、、、
そして、邪馬台国畿内説が、土台から崩壊してしまったな、
学者って言っても歴史学科は劣等生の行くところだからなぁ
>>866 >九州説は、後漢書によって、倭国とはそもそも対馬海峡の国だと言っている。
この時点で無知無能
後漢書の情報は、光武帝のとき西暦57年の漢委奴國王の金印の件と
安帝西暦107年の倭國王帥升等の遣使記事以外は三国志魏志倭人伝の
抜粋要約でしかない二次情報
対馬海峡の国っていう時点で大笑い
そして後漢書根拠に対馬海峡の国にだ(エッヘン)と言いながら
自女王國「東」度海千餘里至拘奴國は認めないダブスタ上等のインチキww
>>875 >柱穴があって、かまどやトイレや寝室がないのかい?。
>そんなものでは、大集落跡にはならないよ。
ならん理由は?
九州説さん、また個人的感覚で決め付けかあ?
>>856 >それは君の論理なんだよ。
>正しいか正しくないかの判断以前の問題だ。
本当に面白いやつだなww
普通は「個人の勝手な言い分」っていうのは、ものすごく簡単に否定できるものだぞww
ここのザラゴキ絡みのやり取りを見れば一瞬で理解できるだろ?w
「正しいか正しくないかの判断以前」というのは負け犬の逃げ口上ww
具体的に「正しいか正しくないか」を論じてごらんってずっと言ってるのにww
>>622 つまり、外来土器は 土木作業員が飯炊き用に持ってきた(ものがあるのは否定しない)のではなく、
国家祭祀に参加する各地の代表が自分たちの国の象徴として祭祀供献しているんだよ
このような、各地の代表が集まって祭祀を行っていたと物的根拠=考古遺物をもって
示されるのは纏向遺跡以外にはない <
ダメだよ。
筑紫からの祭祀供献がないから、「倭国の国家祭祀」ではない。
逆に、大和から筑紫への祭祀供献は、3世紀末からあったらしい。
>>878 >学者って言っても歴史学科は劣等生の行くところだからなぁ
いくら中傷しても
それ、反論にも批判にもならんから
>>626 >生駒市 伊東義彰
おや?、これは、懐かしいお名前だねえ
>>878 >>883 最近は知らんけど、昔の東大文学部は駒場で最低点がつくのは英文学科と社会学科、社会心理学科くらいだった
他の学科は単位取れれば進学可能
戦前に至っては東京帝大文学部は無試験で入学可能
しかも東大の国史や国文は高校時代に日本史勉強せずに世界史地理で受験している学生が多いらしい
その程度の学生ばかりだからレベルは推して知るべし
>>864 >首長墓だと言う根拠は?
奴国の領域全体で、当該時代で卓越した最大の巨大墳丘墓であること
奴国の首長以外の被葬者候補が出せるものなら出してくれよww
本当に、負け犬の遠吠え以外しないやつだな
>また、それが卑弥呼の時代のものだという根拠は?
墳形がいわゆる纏向型前方後円墳であること、葺石、埴輪はないことから、
箸墓古墳以降の定形型前方後円墳ではない
これだけの情報で、3世紀半ば以前であり、
2世紀末〜3世紀初頭以降であることが分かる
この時期は卑弥呼が倭王の時代と重なる
こんなことくらい、他人に訊かなくても分かるだろうにww
自分が無知無能であることをそんなに大声で主張しなくてもいいんだよww
>>870 >不確かな仮説を積み上げても、それは推論に過ぎない。
推論なのは何処まで言っても推論だけれど、「不確かな仮説の不合理な点」を
「具体的に」「客観的な根拠とともに」示さない限りは、「推論だから間違い」と
いう話にはならないww
今日はこの人一人で、九州説はバカばかりというのを強調してるなw
自分の息子が頭が良かったとして、歴史学科に行くって言ったらなんて言う?
1000万払うんだから経済か法科、又は理系に行け じゃなければじぶんで学費稼げって言うでしょ?
そう言うことですよ
専門家としての優位性は史料にアクセスしやすいことくらいで他は一般人と変わらないでしょ
理系みたいに実験機材が必要ということもないしね
>>885 >しかも東大の国史や国文は高校時代に日本史勉強せずに世界史地理で受験している学生が多いらしい
東大って受験科目いくつか知ってる?
東大どころかここの学者さんは恐らく3教科で入れる短大みたいなところの出の方だよ頭悪いもん
日本の考古学者は、数学や化学や物理学の勉強や試験を免除されている者達が、多いのだったな、、、
>>844 >ほら、君が言う400メートルより短いだろ?
短くなる理由は、「漢土の外の情報の少ない土地の距離は誇張されるバイアスがかかる」と
いうのが「私の言うこと」の中身だよww
そして、
>>797のこれ↓
「これの根拠は、倭人伝の里数と実際の地理との比較だぞ?」
が完全に根拠を失っているのが理解できるか?
話をそらしてごまかそうとするのが姑息で卑怯な九州説の常だけれど、
うそやインチキは通らないんだよ
「私」という言葉は、特定の10個の箱を持ち出したが、完全に間違った思考実験だった、頭の悪い人物の使用する一人称だったな、、、
>>854 >安部の世話が忙しくて頭弱いのしか残ってないんだろうけど
こういうところで、九州説の書き込みバイトは政治的な背景があるって自爆するんだよなww
九州説が「反阿部・反日・日本下げ・半島系パヨク」だって、自白していくスタイルww
>>896 僕達の頭の良い孫達が、一読して、間違いを見破ってしまったのだったな。。
>>891 まあ文3がそもそも東大の落ちこぼれみたいなものだからな
東大でも文1の場合は併願私立大は法学部が多いし、文2の併願私立大はほとんどが経済系の学部
でも文3志望者の併願私立大は法学部や経済学部ばかりw
>>651 >短里が存在したという証明、論証はありませんよ?
短里なんてなかったというのは、何度もきちんと論証されていますがww<
あるよ。
周髀算経や周代文書や淮南子や、文穎注や、如淳注や、三国志や、魏略や、後漢書や、
江表伝や、梁書など。
類スレ主は、自分のやっていることを冷静に見つめてみてごらんよ
恥ずかしくて二度と科学板に出てこられなくなるレベルの醜態だと思うよ?
奥山氏の頭の悪さに匹敵する頭の悪い朝鮮人が、淮南子をもとに、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝するための意見の発表を、繰り返しているな、、、
895日本@名無史さん2019/09/13(金) 16:47:22.09
>>844 >ほら、君が言う400メートルより短いだろ?
短くなる理由は、「漢土の外の情報の少ない土地の距離は誇張されるバイアスがかかる」と
いうのが「私の言うこと」の中身だよww
>>897 なに君は学者でもピットクルーですらない無給で頑張ってる人?
昼間から優雅でいいねえ
でも君じゃあ議論は無理。
根拠は?しか言えないんだもん。
ヒマなら一回留学でもしてみるか日本のディベートやる大学院にでも聴講に行くといいよ
子供の駄々っ子みたいなコメントするのが恥ずかしくなると思うから
>>900 >あるよ。
>周髀算経や周代文書や淮南子や、文穎注や、如淳注や、三国志や、魏略や、後漢書や、
>江表伝や、梁書など。
古田説独自の珍解釈だけどな
日本史はコロコロ変わるから、比較的変化の少ない地理で受験するほうが無難だよな。
俺はそうしたw
日本の考古学者は、数学や化学や物理学の勉強や試験を免除されたので、論理的思考が不可能な者達が、多いのだったな、、、
>>903 >子供の駄々っ子みたいなコメントするのが恥ずかしくなると思うから
そこ、根拠のまったく出せないお前さんが通用する場所じゃないから
自分がまさに「子供の駄々っ子みたいなコメント」ばかりしてる実態に気付いたらいいよ
ひょっとして「個人の判断」というレッテルを貼れば
根拠なく否定できるって「勝手に個人的に判断」してるのか?
今日無駄な足掻きをしている九州説の人は?ww
最強だなww
邪馬台国畿内説は、たくさんの仮説を何段にも前提にしながら積み上げた、最上段の仮説なのだったな、、、
そして、邪馬台国畿内説が、土台から崩壊してしまったな、
このようにして、地の底へと埋もれてゆく畿内説を、未来の人は発掘してくれるのであろうか。。。
プレートテクトニクスに身を任せ、マントルの中へと落ち込んでゆくのであろうか。。。
>>903 >根拠は?しか言えないんだもん。
前から再三「文は人なり」って書いてるんだが、
この御仁はいまだに書き込んでいる人が区別できていないんだなww
>>881と
>>897が同じ人
この人は一行書き込みはほとんどしていない
よく「根拠は?」で、手間を省いているのは別の人だよww
>>903はスイスかどこかに留学したとか言って威張ってた人なのかな?
でも、かなりのバカだよねww
>>854、
>>903 「もう正体を隠さないスタイル」ってところは否定する気もないのかな?w
このスレッドで、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している者達は、皆、頭の悪さが同じレベルなので、区別する必要性があまり無く、皆、キナイコシと呼んでまとめてしまえば良いのではないのかな、、、
912 名前:日本@名無史さん 2019/09/13(金) 17:06:11.45
>>903 >根拠は?しか言えないんだもん。
前から再三「文は人なり」って書いてるんだが、
この御仁はいまだに書き込んでいる人が区別できていないんだなww
>>881と
>>897が同じ人
この人は一行書き込みはほとんどしていない
よく「根拠は?」で、手間を省いているのは別の人だよww
>>913 立証するすべのないことを妄りに口にするのは
まず間違いなく愚か者
>>903 「根拠は?」と聞かれて
一行で論破されちゃうのが
キミの情けないところだよ
>>915 ベイジアンを持ち出した奥山氏も、特定の10個の箱を持ち出した者も、考え方は少し違っていたが、間違いのレベルが同じなので、同一人物の可能性があるのだったな。。。
そろそろ埋もれゆく畿内説を振り返ってみようじゃまいか。。。
:抜粋:
絹が畿内に出ないのは北部九州と違い甕棺でない為に遺物が残らない故、とされます。
それなのに木のお面が残っていることの意義を評価されています。
木は残り人骨や絹は腐朽することについて科学的根拠を述べられるべきでしょう。
弥生の人骨の出土も甕棺と同様に、北部九州では人骨などが貝塚から多数出土しています。
畿内でも貝塚からの出土例との比較をされたらどうですか。
少なくとも、倭人伝に「銅鐸」が書かれていないことについての釈明を避けていて、
「強いて言えば近畿論に傾いている」という「科学的根拠」の説明は佐原真氏には全く見れないのです。
故人を誹謗するつもりはありませんが、無意識のうちに「近畿論から物を見る」視点が故佐原真氏の中に
存在していた、ということを示しているでしょう。
そういえば、原子内の電子の状態についての話題は、終わってしまったのだろうか、、、
果たして、電子は、原子核の周りを太陽に対する水星のように回っているのだろうか、、、
>>919 >少なくとも、倭人伝に「銅鐸」が書かれていないことについての釈明を避けていて、
避けてないんでは?
>>920 電子は原子核の周りの確率分布に従い、存在します。
ぐるぐると周っているわけではありません。
>>919 >木は残り人骨や絹は腐朽することについて科学的根拠を述べられるべきでしょう。
?
木と骨と絹って
違う物質なのはワカル?
さっき必死で炭素14年代測定のコピペしてる幼稚園児がいたみたいだけど
大体3教科の幼稚園を出た人は数学物理は中卒か高校中退レベルの学力が証明済みなんだよね
積分もできない人が放射能のほの字も言わないで欲しい
>>916 >立証するすべのないことを妄りに口にするのは
>まず間違いなく愚か者
否定するまでもないとww
「文は人なり」って言うのは、きちんと見る目のある人には「丸見え」ってことだよw
>>659 >取り違えるも何も、3世紀世界の何処を探しても、 短里を使って距離を計測する人も
短里を使って記録する人も そもそも短里を知っている人も、
誰一人存在しないという「厳然たる事実」を九州説は認めないとww<
魏の役人たちや陳寿や、魏略や後漢書や梁書なども「短里」を使って書いた、
という史料事実や史料実態を認めないと。
>>923 纏向では数ミリの蛙の骨は残っていたが、人骨は残っていない。
蛙の骨と人骨は全く違う物質なのか?
なるほど。
>>661 >>報告書が短里で書かれていただけ<
>その報告書、誰が書いたの? <
魏や郡の役人ら。
>>890 >専門家としての優位性は史料にアクセスしやすいことくらいで他は一般人と変わらないでしょ
それがな、今ではテキスト資料は専門家ではなくてもフリーにアクセスできるし、
昔であれば一字ずつ確認しなければならなかったことも、全文検索で一度に拾える
私は理系畑の人間で古代史に関しては趣味の素人だが、ここにいる九州説の誰よりも
たくさん原文の漢文資料を読んでるし、ひと頃なら文献の修士論文のテーマに
できるくらいのことまでは言及できてるぞ
それでも、人生をかけて研究している専門家に意見するつもりはない
現物を実見しているしている人には敵わないし、専門家と議論する機会もないから
それを、勝手な個人の思い込みで専門家の判断を間違いだと言い切る九州説の人って
すごいと思うww
>>927 >魏の役人たちや陳寿や、魏略や後漢書や梁書なども「短里」を使って書いた、
>という史料事実や史料実態を認めないと。
そんな「史料事実」どこにあるの?
>>924 >さっき必死で炭素14年代測定のコピペしてる幼稚園児が
どの書き込み?
アンカー付けて示してくれるかな?
>>666 「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、こうして、
史料事実や史料実態からの帰納的確率的推論の歴史学の、
完全否定のムー世界に堕ちていく
>>916 >立証するすべのないことを妄りに口にするのは
ちら裏メディアの匿名掲示板でも、信じてもらえることは信じてもらえるんだよ?
ザラゴキですら私の東大理系博士号持ちってのを信じてるww
逆に、ザラゴキの理系大学院進学は誰も信じていないけれどww
まあ、理系で大学院まで進んで、電子が原子学の崩壊確率に影響するなんて
信じていたらそれは人間じゃないからね
>>928 >蛙の骨と人骨は全く違う物質なのか?
湧水層にあると残る
人はドブには埋葬しない
>>930 >勝手な個人の思い込みで専門家の判断を間違いだと言い切る九州説の人ってすごいと思うww
その「個人」が専門家である可能性もあり、あるいは専門家と組んで仕事をしている人かもしれない。
5chで遊ぶ道化は珍しくないぞw
>>668 >>少なくとも九州がそこに参加していないわけだし、<
>胎土分析で北部九州から持ち込まれたと判定されている土器片があるんだよ
ある程度の大きさがないと、各地の土器の特徴が見出せないから細かいやつが
判定から落ちてるだけだろ<
また、筑紫と言わず、「北部九州」という逃げか?。
それに、また0〜1個か?。
洛陽の△の「0〜1個」と全く同じ詐術だな。
>>936 >その「個人」が専門家である可能性もあり、
専門家が
「箸墓は布留1式だから4世紀」とか
「畿内の編年は根拠がない」とか言うか?
どんな専門家だ?
古田史学の専門家?
>>930 え?
あなた議論するつもりでなければなんでここの掲示板に来られてるの?
学者の意見に盲従したければ歴史サークルでおじいちゃん達と学芸員でも呼んでご説を拝聴すれば良いけんのぉ
>>669 >歴史というものはねー、勝ち負けじゃないんだよ?事実か妄想か、それだけです。<
違うね。
歴史や自然科学は、殆どが不可知部分だから、
知り得た史料事実や史料実態からの、帰納的確率的推論をするしかないんだよ。
今のおじいちゃん達は大国主は伝説だと習ったから、今さら方向転換できないでしょう。
>>670 >>報告書が短里で書かれていただけ。<
>これこそが「根拠なしの勝手な想像」の典型 報告書を書くのは魏朝の官人
度量衡の公定が皇帝の専権事項である以上、公定尺以外の単位を使うことは
皇帝権力への叛逆にしかならない
「報告書」の時点で「短里」が入り込む余地はないんだよ
バカ以外はこれで理解するww<
魏の役人らの記録が魏朝や皇帝に承認されたから、
陳寿がその記録を見て魏志倭人伝などを書く事が出来た。
という事は、記載された「里」の距離は、魏朝が公定した「里の長さ」であった、
という事になる。
>>940 普通自然科学的証明といえば一点の疑義もない程度の証明度を要するとするのが通説ですね
それに対して歴史等それ以外の分野についての証明は高度の蓋然性を持って足りるとせざるを得ませんよね。その点についてはおっしゃる通りでございます
>>939 >あなた議論するつもりでなければなんでここの掲示板に来られてるの?
いや、今日一日ずっと、「それは個人の考えだから」で、
議論から逃げられ続けていたのが私の方なんだが?
議論するつもりがないのは九州説だよw
>>939 ああ、
>>930のこれを曲解したのか
「専門家と議論する機会もないから」
学会とか講演会に出向いて専門の研究者と話をする機会がないって意味だよ
>>672 「南→東」などの嘘付き騙しの大和説さん
やけくそですか
それ許されるの、幼稚園児くらいまでです
このようにどんどん大和説は堕ちていく
>>944 そんな昼間のことまでは知らんがな。
でも、そう言うあしらわれ方すると言う事は、
あなたのご主張が第三者には明快に伝わっていないと言うことですよ。
そうでなければ、一般の理解能力を持つ人ならば皆はたと膝を打ってあなたに敬服するはずですからね
>>677 畿内否定の説明は簡単だよ。
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
国民も中国学者らも人類の常識も、殆ど「大和説否定」って言ってるから。
はい、終わり。
>>947 >そうでなければ、一般の理解能力を持つ人ならば皆はたと膝を打ってあなたに敬服するはずですからね
そうだよね
私の言うことが理解できない人は、一般の理解能力を持っていないってことだと認めてくれてありがとうww
>そんな昼間のことまでは知らんがな。
ちょっと遡ってスレを読むことくらいはたいした手間じゃないだろw
>>947 >でも、そう言うあしらわれ方すると言う事は、
>あなたのご主張が第三者には明快に伝わっていないと言うことですよ。
まさか
勝てないと自覚したズルさん特有の遁辞だよ
邪馬台国畿内説を宣伝する者達は、なぜ、正々堂々の討論から、人間に発見されたゴキブリのように逃げ回るのだろうか、、、
>>703 >纏向、関係してるだろ?
無関係なのに、どうして奴国で庄内式土器を作って前方後円墳を作るんだ?<
纏向の庄内も前方後円墳も、3世紀末のも前方後円墳の石塚の庄内1が最も古く、
どちらも、卑弥呼の3世紀前半には届かない。
>>707 今日も、「南→東」などの嘘付き騙しで敗北したで大和説は、
悪愚痴を言って憂さ晴らしをする
みじめな人生である
原子内の電子が、ぐるぐると周っていると発表した者は、邪馬台国畿内説を宣伝する者だろうか、、、
それとも、そうではないのだろうか、、、
922日本@名無史さん2019/09/13(金) 17:28:07.76
>>920 電子は原子核の周りの確率分布に従い、存在します。
ぐるぐると周っているわけではありません。
>>717 「南→東」などの嘘付き騙しで心壊れた類スレ主が、
興奮して暴れ始めたな
今日も大和説は全敗か
>>951 邪馬台国畿内説を宣伝するキナイコシは、正々堂々の討論からは逃げ回らなければ、完全に論破され、ゴキブリが叩き潰されるようにして叩き潰されることが、恐ろしいからではないのかな、、、
この意見は、発表した者の頭の悪さを、自ら公表している可能性が、高いな。。
547日本@名無史さん2019/09/13(金) 07:57:23.15
>>526 原子核は例えるなら太陽
電子は周りを回る水星
太陽が不安定になったら放射線等が放出もされるけど
水星がどっか行ったからといって太陽が不安定になる事はなし
「鏡」や「お墓」や「土器」ごときに頼らざるを得ない、九州説や畿内説。
圧倒的な倭国(阿波)の遺跡のまえに、ひれ伏すばかりなり。 @阿波
>>958 特定の10個の箱を持ち出した人物は、インターネットで情報を収集することは得意でも、それを理解できないまま、発表しつしまうのだったな、、、
>>886 >奴国の領域全体で、当該時代で卓越した最大の巨大墳丘墓であること
当該時代?
それが卑弥呼の時代だという根拠は?
>奴国の首長以外の被葬者候補が出せるものなら出してくれよww
魏志倭人伝では奴国の官は兜馬觚とあるが、その人物だということかな?
>>887 >「具体的に」「客観的な根拠とともに」示さない限りは、「推論だから間違い」と
推論、仮説を断定的に騙って論を進めるなということだよ。
>>895 >短くなる理由は、「漢土の外の情報の少ない土地の距離は誇張されるバイアスがかかる」と
>いうのが「私の言うこと」の中身だよww
それは君が考えた理由であり、それが正しいかどうかは別として、事実とは言わない。
事実は、魏志倭人伝は短里で書かれているということ。
確かに、歴史学者なんて朝から晩まで椅子に座ってコーヒーでも飲みながら妄想にふけっているのかもね。
>>912 >よく「根拠は?」で、手間を省いているのは別の人だよww
同時に登場するのはなぜ?
>>1 奧山 テンプレの単発的な投稿は賛同する面もあるが
テンプレの流れは賛同できない
今一度 ご自分のストリーを完成したほうがよいと思う
このスレの主の基本は、纒向=邪馬台国の王都でしょ
ここを深ぼりするのに注力を注ぐほうがいい
>>961 >当該時代?
>それが卑弥呼の時代だという根拠は?
つ
>>886 墳形がいわゆる纏向型前方後円墳であること、葺石、埴輪はないことから、
箸墓古墳以降の定形型前方後円墳ではない
これだけの情報で、3世紀半ば以前であり、
2世紀末〜3世紀初頭以降であることが分かる
この時期は卑弥呼が倭王の時代と重なる
こんなことくらい、他人に訊かなくても分かるだろうにww
自分が無知無能であることをそんなに大声で主張しなくてもいいんだよww
>>961 >魏志倭人伝では奴国の官は兜馬觚とあるが、その人物だということかな?
兕馬觚くらい、正しい文字表記ができるといいね
奴国の官が奴国の首長だと判断するなら、
兕馬觚は那珂八幡古墳の被葬者の候補になるね
ただ、それこそ確認のしようがないから、
奴国の首長墓以上のことは言うだけ無意味だろ
>>944 >いや、今日一日ずっと、「それは個人の考えだから」で、
>議論から逃げられ続けていたのが私の方なんだが?
そうじゃないだろ?
自分の考えを確定的に述べて、それを根拠に次の話をするから、批判されているわけ。
「〜だと仮定すると〜だと考えられます」
くらいにしておけばいいのに。
>>962 >推論、仮説を断定的に騙って論を進めるなということだよ。
断定などしていないし、騙ってもいない
本当に無能だなww
推論、仮説の妥当性を具体的に根拠を示して検証してくれって言っているのに
まだ逃げるのか?
どこまでも姑息で卑怯な無能だなww
>>949 >私の言うことが理解できない人は、一般の理解能力を持っていないってことだと認めてくれてありがとうww
あなたのプレゼン能力、話法のリテラシーが低いということ。
それ故に、誰もあなたということに納得せず、あなたが嘘を並べ立てている詐欺師に見えるわけ(あくまでも個人の感想です)。
>>963 >それは君が考えた理由であり、それが正しいかどうかは別として、事実とは言わない。
いちいち話をそらすなよ!
九州説は議論から逃げることに全精力を注ぎすぎる!
その前に
>>844の「ほら、君が言う400メートルより短いだろ?」というのが、
不正な引用
「君が言う」の正しい内容は「漢土の外の情報の少ない土地の距離は誇張されるバイアスがかかる」
自分の間違いを糊塗するな!
>事実は、魏志倭人伝は短里で書かれているということ。
それこそが「
>>963の勝手な推論」であり、事実と断定して騙るなと言われるべき内容ww
事実はこれ
まったくもって、九州説の主張する短里とはかけ離れている
こうやって、「推論を事実だと断定する騙り」は
「具体的な根拠を示す」ことで否定できるんだよww
それをせずに「個人の推論だからー」で論証から逃げるのは無能な卑怯者のやり口
邪馬台国畿内説が前提にしていた、唯物論や要素還元主義が、他の多くの分野で破綻してしまい、
魏志倭人伝時代についての討論をするまでもなく、 邪馬台国畿内説も自動的に破綻してしまったので、
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する、朝鮮人の奥山氏は、、、
邪馬台国畿内説が破綻した唯物論や破綻した要素還元主義反論を前提にしていた、、、
という真実の指摘への反論を完全に諦め、スレッドに出現しても、意味がよくわからないことや嘘しか発表しなくなったことが、
このレベルの低いスレッドの、益々の低レベル化を進行させてしまっているのではないのかな。。
>>965 >同時に登場するのはなぜ?
同時でもないだろ?
「文は人なり」が読み取れない人間は、読解力の基本的なスキルが低いんだよ
無能の証明ww
キナイコシは、淮南子でも一寸千里の法で一里の長さを規定していたことを、あくまで無視するしかないのだな、、、
>>966 >スイスで日本史の勉強ができるの?
また話を摩り替えているww
>>903で「ヒマなら一回留学でもしてみるか
日本のディベートやる大学院にでも聴講に行くといいよ」って無意味な煽りを
するようなバカだから、前に「自分は理系で高学歴で留学経験者だ」って
威張ってたやつだろってこと
畿内説は各論のつながりが今いち
あれがあった、これがあったのが
遺跡ごとにバラバラだし、
それも倭人伝との関係性があまりに乏しいっ物証ばかり
>>971 >自分の考えを確定的に述べて、それを根拠に次の話をするから、批判されているわけ。
だからその根拠の妥当性を論じることからどうして逃げるんだって言ってるんだよ
お前の「事実は、魏志倭人伝は短里で書かれているということ。」という勝手な推論は
根拠つき
>>829と
>>974で否定されているだろ?
反論はいくらでもしてもいいけれど、入り口でピンポンダッシュして逃げるんじゃなくて
具体的な根拠を挙げて論証しなさいってい言ってるの!
文は人也、、という物事を逆用している可能性があるのだったな、、
>>979 >それも倭人伝との関係性があまりに乏しいっ物証ばかり
こういうのが、連続句読点が誤用している要素還元主義による誤謬だよ
畿内説の主張は、前方後円墳祭祀と祭祀用供献土器が3世紀に
纏向遺跡で初現ののちに列島の広い範囲に広がっていくという「歴史の流れ」を
根拠にしている
九州のみの倭国を主張する場合でも、その中心から九州の範囲に
広がっていく「卑弥呼の倭國」の影響を示せないといけないのに、
それをうかがわせる考古学的な遺物・遺跡・根拠が一切ない
この時点で、九州説は主張の基盤がない
>>986 コンビニエンスストアの団子の方が美味しいな、、、
桃は葬儀場だよ、吉備の桃の出土の量は纏向の比じゃないが
吉備説はお供え物の理解なんだよ
桃核は古墳造営基地および斎場だからお供えの桃があったのだろう・・・吉備の桃の量から吉備よりちんけな葬儀かお参り
邪馬台国畿内説を宣伝する者達は、なぜ、正々堂々の討論から、人間に発見されたゴキブリのように逃げ回るのだろうか、、、
>>973 >あなたのプレゼン能力、話法のリテラシーが低いということ。
いま、あなた
自分の考えを確定的に述べて、それを根拠に次の話してない?
批判されるよ
邪馬台国畿内説が前提にしていた、唯物論や要素還元主義が、他の多くの分野で破綻してしまい、
魏志倭人伝時代についての討論をするまでもなく、 邪馬台国畿内説も自動的に破綻してしまったので、
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する、朝鮮人の奥山氏は、、、
邪馬台国畿内説が破綻した唯物論や破綻した要素還元主義反論を前提にしていた、、、
という真実の指摘への反論を完全に諦め、スレッドに出現しても、意味がよくわからないことや嘘しか発表しなくなったことが、
このレベルの低いスレッドの、益々の低レベル化を進行させてしまっているのではないのかな。。
2013年、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまいました。
石野も寺澤も有名大学の教授でもねーが
名誉欲だけで動いても 底が知れてるから
地方団体にしがみつくしかねーんだろうなwww
>>994 >自分の考えを確定的に述べて、
だから、その「確定的に述べて」と
>>994が勝手に判断している内容が
「誤りである」と論証すればすむことだろ?
それができないから、「個人の考えだからー」に逃げているだけw
>>996 僕達が笑いリラックスするためにアプローチしている、このレベルの低い、5ちゃんねるのサクラのプロ固定が作製したスレッドとは全く異次元の、 たくさんの分野のレベルの高い学者達が集う、
魏志倭人伝時代の真実について、僕達か僕達の論敵のどちらの頭がカラフルになるかを賭けて、
お互いに、不敵な笑みを浮かべながら、 闘っている討論会では、
破綻した非科学的な唯物論や破綻した非科学的な要素還元主義を、お互いに掲げることなしに、正々堂々の討論を闘っているので、
魏志倭人伝に全く記録はされていない土器や時代の異なる前方後円墳ではなく、
鉄鏃や、人民の住居や、ベンガラや、方角や、距離や、夏の時代の考古学的に判明している会稽の位置や、魏志倭人伝時代の倭人の太い骨や、
萬二千里の事で奥山氏も頼みにしている淮南子を規定している一寸千里の法を材料にして、討論が進行し、
卑弥呼の城が日本の何処にあったかの討論から、卑弥呼の城が九州の何処にあったかの討論に、話題が移り変わってきたのだったな。。。
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