11 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:41:29.41
2日本@名無史さん2018/11/10(土) 11:55:38.14
3日本@名無史さん2018/11/10(土) 12:19:04.38
最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
昭和40年(1965年)に平原遺跡から出土した最大の内行花文鏡は国産と考えられている。その円周が漢代の8咫(直径1尺の円の円周が4咫)に相当することから、記紀などにおいてアマテラスがニニギに与えたとされる八咫の鏡であると考えられている。
かつては八咫は単に大きいことを意味するだけだという説もあったが、この鏡の出土により実際に円周がちょうど八咫である鏡が実在したことが確認された。
これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の起源は稲作伝来の地でもあるこれら博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
これが卑弥呼が女王となった倭国の姿である。
4日本@名無史さん2018/11/10(土) 12:19:35.17
邪馬台と書いてヤマトと読む。
倭と書いてヤマトと読む。
つまり邪馬台国とは倭国と同義で、訓読みにさらに漢字を当てただけ。
魏志にある女王国もまた同義である。
卑弥呼の称号は邪馬台国の女王ではなく、倭国女王(親魏倭王)である。
倭国は稲作伝来の地である玄界灘沿岸に成立し、対馬海峡の交易により発展した海洋国家であり、海人の国を意味する「天津国」とも呼ばれた。
生活の基盤が次第に漁撈から稲作と交易にシフトすると博多がその中心として発展したが、卑弥呼の時代には王都は博多からやや離れた伊都国に置かれた。
倭国の都は紀元前から一貫して筑紫、現在の福岡県にあった。
漢の時代に金印を授かり冊封され、女王卑弥呼の時に魏から冊封された。
倭国においては筑紫の他に、豊国、肥国などの有力な国があり、魏志によると東の海を渡ったところにも倭種つまり出雲や近江、越など日本海沿岸に国が続いていた。
畿内は京都も大阪も奈良も、沼地であった。
5日本@名無史さん2018/11/10(土) 12:20:55.11
後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。
6日本@名無史さん2018/11/10(土) 12:21:55.44
後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(の王都、邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界(国境)である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。
魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。
魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
また、帯方郡から投馬国(宮崎都万)までは水行20日
邪馬台国時代の遺物の出土状況
7日本@名無史さん2018/11/10(土) 12:30:18.53
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 8日本@名無史さん2018/11/10(土) 12:54:09.58
9日本@名無史さん2018/11/10(土) 12:56:31.25
>>7
それがどういう意味なのか説明しないと、意図が伝わらないのだけど。 10日本@名無史さん2018/11/10(土) 12:57:27.70
邪馬台国は佐賀平野であった。
11日本@名無史さん2018/11/10(土) 13:01:44.83
12日本@名無史さん2018/11/10(土) 13:53:01.32
>>10
佐賀が浮上するのは、壹與や河上タケルの頃で、卑弥呼より少し後だろ。
卑弥呼は平原遺跡で良い。 13日本@名無史さん2018/11/10(土) 15:05:25.64
ここは荒らしをあぶり出すスレ
14日本@名無史さん2018/11/10(土) 19:43:07.52
15日本@名無史さん2018/11/10(土) 20:52:12.03
>>9
それが本当なら、おまえ考古にさっぱり全然向いてねえよ。
長江、江南、華北、オール中国から渡来人も稲作も来てねーよ、
という意味に決まってんだろが脳弱低能。 16日本@名無史さん2018/11/10(土) 20:53:20.22
ちょっと耳を傾けてやろうとしたら、それかよ。
馬鹿だろ。
17日本@名無史さん2018/11/10(土) 21:07:33.21
18日本@名無史さん2018/11/10(土) 21:11:39.42
>>17
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 19日本@名無史さん2018/11/10(土) 22:30:30.43
>>1
>タイトルをタイプミスしました。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
当面の間
邪馬台国畿内説 Part39
http://2chb.net/r/history/1541814138/
をお使いください。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★<
雑炊ふいたー
ここ建てるから書き込まれてPart39使わん人がでてくるやん?
アホ曝しましたな
つうわけですので皆さんここはアホスレやから以後レスしたるな 20日本@名無史さん2018/11/12(月) 20:30:36.79
1乙
21日本@名無史さん2018/11/12(月) 20:57:41.67
前スレの>>440
>山の高さを表す単位は、丈。 これは、すでに誰かが言っている。 里は、距離。<
文穎曰く「(介山)其の山特立し、周七十里、高三十里」(『漢書』武帝紀、注)
明らかに、三十里は山高。 22>>1=オクヤマ=キナイコシに協力2018/11/12(月) 21:03:58.16
ここをうめる
23日本@名無史さん2018/11/12(月) 21:05:33.77
>>441
史料実態と人類の常識に拠って、最も確率の高い論理を追究した結果が、
箸墓の前方部と後円部が出来た後で、という後円部に埋葬祭祀が行われた説。 24日本@名無史さん2018/11/12(月) 21:07:03.87
タイトルをタイプミスしました。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
当面の間
ここをうめてください
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
25日本@名無史さん2018/11/12(月) 21:09:00.75
26日本@名無史さん2018/11/12(月) 21:14:42.52
>>443
>鉄鎌があったのなら、その証拠に鉄鎌掘り出してみせてちょ。
出てないのに、「あったかも」は単なる推測。
単純な推測だけでものいっちゃ、議論になりまへん <
いや、この投稿子の始めの投稿での、
石包丁の最終発掘時期の特定根拠やその場所の明示や、
鉄鎌の最古発掘時期の特定根拠やその場所の明示が、
はっきりさせていなかったから、
始めから無価値な投稿であった事になり、放置された。 27日本@名無史さん2018/11/12(月) 21:27:20.25
28日本@名無史さん2018/11/12(月) 21:27:35.71
>>445
>その「筑紫の宗教儀式を司る倭王」というのが、超絶拡大解釈。
周防灘に関連する筋書きは、この景行のときと、神武のときと、仲哀のときの3回もある。
日本書紀は、別々の時代に同じことをわざわざしつこく書いている。
このしつこさをみれば、周防灘を押えておくことが大和政権の最重要事項だったことが分かる。<
周防灘は、「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」の場所であり、
だから、九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の出発地であり、
また、景行の南遠征の出発地伝承があり、
仲哀や神功や応神の活躍の主要舞台でもあり、
いずれも、九州倭国内の武将としての伝承が書紀などに拠って、記録された、
という可能性が高い。 29日本@名無史さん2018/11/12(月) 21:32:56.06
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
30日本@名無史さん2018/11/12(月) 21:57:43.88
>>446
>>仮にそうだとしても、その儀式を司るのは倭国の王の務めなわけだから、
結局は神夏磯姫が筑紫の宗教儀式を司る倭王であるということとかわりない。<
>榊に剣、鏡、玉を榊に掛けて外来の人を出迎えた記述があるのは
1神夏磯姫 それに2岡の熊鰐と3伊都の五十迹手だね
熊鰐と五十迹手は同時代 しかも場所は岡と伊都
つまり彼らは「筑紫の宗教儀式を司る倭王」ではない
よって「その儀式を司るのは倭国の王の務め」は誤り <
いや、誤りという程でもない。
三種の神器をお宝にした始めは、天照らの天孫族の阿毎氏らのようであり、
倭奴國時代には姫氏とも(婚姻を通して?)合同して倭国の王家になっており、
その後、卑弥呼共立の時には倭奴國は伊都国と奴國に分裂したようであるが、
伊都国からも、壹與や銚子塚や端山の王が倭国王であったようで、
更に、姫氏が久留米付近で東海姫氏國と称された後の、
磐井〜タリシホコやサチヤマらも阿毎氏であったようで、
だから、伊都国の阿毎氏系と思われる玄界灘沿岸地域や、
日向や岡田宮や沖之島や宇佐〜瀬戸内〜大和は、いずれも三種の神器をお宝にしていた、
と十分に考えられる。
勿論、高良大社にも三種の神器祭りがあるので、
姫氏も三種の神器祭祀を持ち続けていた。 31日本@名無史さん2018/11/12(月) 22:30:55.07
>>448
また、「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説が、
三種の神器問題でもバッチリ論破されたなでも。 321 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:31:08.28
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://2chb.net/r/history/1541814138/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 331 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:31:35.92
◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
341 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:31:55.04
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
351 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:32:11.03
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
361 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:32:28.57
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
371 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:32:43.55
◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
381 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:33:05.77
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
391 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:33:21.28
◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
401 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:33:34.33
◆6−3
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
411 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:33:51.76
◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
421 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:34:07.12
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
431 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:34:21.99
◆7−2
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
441 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:34:39.57
◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
451 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:34:57.31
461 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:35:14.62
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山
471 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:35:29.34
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
481 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:35:45.21
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。
491 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:36:05.13
◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りが含まれていること、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌ほどの南方に過ぎず、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,57も参照)
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、会稽山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
501 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:36:23.91
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
511 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:36:42.75
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
521 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:36:58.71
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
53日本@名無史さん2018/11/12(月) 22:37:13.06
>>457
何を語っても論破されるのが、
「南→東」などの嘘吐き騙しや、「九州倭国の銅矛や銅鏡や鉄器」で負けた大和説で。 541 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:37:27.92
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。
551 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:37:50.51
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
561 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:38:31.62
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
571 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:38:47.96
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東近くに所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
581 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:39:02.63
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
591 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:39:19.16
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
601 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:39:34.40
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 611 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:39:52.80
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代)
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) 621 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:40:11.41
(承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛
・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総
・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵
・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬
・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆
・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
631 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:40:49.25
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。
641 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:41:44.61
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
651 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:42:53.58
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
661 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:43:07.24
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。
671 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:43:23.76
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。
681 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:43:39.51
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
691 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:45:03.51
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
701 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:45:20.70
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
711 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:46:04.10
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
721 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:46:19.64
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
731 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:46:35.01
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
741 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:46:51.05
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
751 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:47:08.53
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
761 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:47:35.02
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 771 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:48:00.32
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
781 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:48:16.02
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
791 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:48:31.71
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
801 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:49:07.63
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
811 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:49:44.87
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
821 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:50:02.82
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
831 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:50:20.07
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都す
841 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:50:38.23
る所が桜井市纒向であることを妨げない。
851 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:50:54.31
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
861 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:51:15.16
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
871 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:51:33.89
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
88日本@名無史さん2018/11/12(月) 22:51:40.83
>>460
>H23.10.8ジパング倶楽部主催の「邪馬台国ヤマト説を体感」
「寺沢 薫」先生の「邪馬台国ヤマト説を検証する」の講演
@纏向遺跡の出現は3世紀初めで古墳時代の幕開けである<
ここでも寺澤も「古墳時代」という曖昧な言い方で誤魔化している。
北部九州の倭國は弥生墳丘墓や卑弥呼の冢から古墳はあったが、
大和の古墳は前方後円墳であって、冢ではなく、3世紀末以後である。
>A纏向遺跡は、新生倭国の中枢(都)であり、邪馬台国の都ではない<
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であり、
倭国中枢は、白村江まで九州にあったのであり、
大和は、九州倭国から別れた別種の旧小国であり、
九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の一国であった。
>B倭国は2つあり、一つは後漢書の東夷伝(AD107年)に出てくる「倭国王帥升」という表現
二つ目は、魏志倭人伝の「往七八十年。倭国乱相攻伐。乃共立一女子為王。名目卑弥呼。」
卑弥呼は倭国の女王であり、邪馬台国の女王ではない <
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であり、
倭国は、白村江の後まで、筑紫はが都であった。 891 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:51:55.20
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
901 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:52:15.09
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
911 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:52:43.53
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定
921 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:53:22.11
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
93日本@名無史さん2018/11/12(月) 22:53:33.54
>>463
>卑弥呼は唐古・鍵遺跡に居たのだ 巻向は斎場兼市場で良い<
「南≠東」などに拠って、×。 941 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:53:40.68
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
951 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:53:56.46
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
961 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:54:15.11
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上)
971 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:54:31.00
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
981 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:54:48.04
◆FAQ 62−1
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。
(本項 続く)
991 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:55:06.86
(承前)
◆FAQ 62−2
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
1001 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:55:24.07
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
1011 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:55:46.84
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
1021 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:56:06.70
(承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
1031 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:56:42.23
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 104日本@名無史さん2018/11/12(月) 22:57:48.75
>>465
>往七八十年。倭国乱相攻伐。乃共立一女子為王
ということは2世紀前半から続く王権がもう一方の勢力と相争って卑弥呼を擁立ということだ。
纏向は2世紀末に現れた新興勢力。 2世紀前半から続く其国の男王の王権ではない。。
あっさり言うが祖国の王権とは大国主や事代主の出雲系銅鐸王権。
都の場所は高天原(金剛山)墓は御所市高天。<
「南≠東」などに拠って、×。 1051 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:58:03.48
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半と考えられる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但丹・近江などの地域で弥生後期〜終末の弥生墳丘墓で発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
1061 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:58:40.14
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
1071 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 22:59:23.02
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足相赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
郭沖三事にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
1081 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 23:00:09.75
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(十二世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(十三世紀)
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州に限定し得ないことは明らかである。
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。 1091 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 23:02:39.89
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。 1101 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 23:04:17.26
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
1111 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 23:06:30.13
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。
112日本@名無史さん2018/11/12(月) 23:07:36.26
>>493
>答えは、邪馬台国を乗っ取った大和朝廷が、台与の死後、
箸墓と西殿塚始め大型前方後円墳で
邪馬台国の痕跡(卑弥呼と台与の冢、宮殿)を悉く埋め尽くしてしまったからだ<
邪馬台国も大和朝廷も台与もいなかったし、
「南≠東」に拠っても、×。 1131 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 23:09:08.69
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
114>>1=オクヤマ=キナイコシに協力2018/11/12(月) 23:10:18.55
うめ
1151 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 23:10:43.14
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
1161 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 23:13:11.03
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。暮壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
117日本@名無史さん2018/11/12(月) 23:13:55.06
114>>1=オクヤマ=キナイコシに協力2018/11/12(月) 23:10:18.55
うめ 118日本@名無史さん2018/11/12(月) 23:14:46.80
114>>1=オクヤマ=キナイコシに協力2018/11/12(月) 23:10:18.55
うめ 1191 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 23:15:38.80
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。
1201 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 23:18:03.72
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
1211 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 23:20:22.93
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。
古墳主体部の年代は、殉葬の可能性を完全に放棄するならば、これより多少の時代遡求もあり得るが、山の中腹の尾根上という仰ぎ見られる視野角の広くない立地からは、あまり広域を支配していない首長像が瞥見される。
1221 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 23:23:02.62
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正しい!
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 1231 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 23:26:10.62
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するの不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。 1241 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 23:29:05.71
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 1251 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/12(月) 23:33:03.14
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 ◆FAQ 73を修正
126日本@名無史さん2018/11/13(火) 00:04:51.38
「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf
3世紀中葉から後半にかけて日本列島各地で出現した前方後円墳は,弥生時代後期後葉の様々な地 域の交流の所産という考えが日本考古学界で広く受け入れられている。
しかし古墳の出現は首長間交流の所産であるのに対し,集落から出土する土器は一般庶民の生活を 反映している。したがって,両者の関係をそう単純には結びつけることはできない。
纒向遺跡での搬入土器の主体は東海系であるのに対し,河内平野では吉備系土器が主体である。纒向遺跡では北陸系や近江系といった河内には 流入しない土器群がみられる。
前方後円墳で象 徴されるネットワークは恐らく大和が中心で,そしてそれは祭祀,あるいは政治的な意味合いも含めたネットワークであろう。
それに対して,畿内型(系)土器の拡散で象徴されるネットワークは大和や河内が必ずしも中心ではなく,場合によっては交易の所産である可能性も高い。
特に重要なのは, 福岡平野の比恵・那珂遺跡群で,一度畿内型土器が搬入され,模倣製作されたのち,在地の土器製作者がそれらを我流の技術で生産し,豊前,豊後の一部地域はもちろん,壱岐や遠く朝鮮半島南部に搬出するという現象である。
これは福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたことを示すものであろう。
中央(最高首長)の意思決定行為は内的に細分化・専門化されておらず(官僚機構の不在),支配能力が高くなく,したがって地方首長は自分の支配地域の維持運営にさまざまな責任を負っているため,地方は中央の意思とは別に,独自の行動をとることが可能である。
古墳出現期の福岡平野がまさに,独自の行動をとっている地方の実例である。古墳時代を国家段階と捉えた時期もかつてあったが,この研究の成果が示すように,少なくとも古墳時代初頭は国家段階にまったく達していないことが推測できるのである。 127日本@名無史さん2018/11/13(火) 00:05:07.39
関川尚功(邪馬台国大和説と箸墓古墳・纏向遺跡、2017)
「大和の弥生遺跡と纏向遺跡をみても、邪馬台国のあった地域の遺跡とは思えない。大陸系の遺物もほとんど出ないし、
古墳の起源になるような墳丘墓もみられない。
このようなところに北部九州の「奴国」や「伊都国」を統属して、中国王朝と盛んに交流を行ったという邪馬台国があったは
ずはないし、またこのような国が大和において自然に現れてくるということは、まず考えられない。
また、箸墓古墳の土器や埴輪も布留式の時代ですから3世紀まで行くものではない。纏向遺跡のピークもこのころだから、
やはり邪馬台国の時代よりあとのことで、纏向遺跡はむしろ大和政権の確立期の遺跡であろうと思われる。」
128日本@名無史さん2018/11/13(火) 00:05:25.64
アホの九州説及と反畿内説
畿内説にまったく歯が立たないの巻
始まり始まり〜
129日本@名無史さん2018/11/13(火) 00:05:27.23
「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
もともと第一の道論は、奈良盆地の自然環境の卓越性を根拠に、生産力の先 進性をことさらに高く見積もり、前期古墳に見る隔絶性から前段階の強力な権力の存在を推定するという本末転倒の論理によって説明されてきた感が強い。
以降、第一 の道論は吉備連合論、河内(大和川水系)連合論、鉄ルート開発 ・ 確保論、倭国乱での巻き返し論等々を巻き込み、 修復を繰りかえしながら多くの論者によって支持され続 けてきた。
しかし証明のための論理や手法に根本的な改 善は見られない。
私は第一の道を否定する立場である。
第二の道とは、(中略)大和弥生社会がこの時期により大き な別の権力主体によって征服、あるいは包括、
刷新されるという苛酷な道であり、そこでは農業共同体構造の再 編は外的強力によって強制的に達成されたことになる。
旧稿において私は、(中略)第二の道を主張した。
しかしこのことが、私があたかも北部九州勢力の東遷論 者であるかに評価されることとなり、
5年後に刊行された橿原考古学研究所論集では改めて、いわゆる「東遷論」 一般には与するものではないことを明記した。
こうした小共同体の安定した強固にすぎる程の紐帯とそれを安住させ得る自然条件の卓越性、それゆえの保守的基盤と非闘争性をもつ大和の弥生社会が、
いわゆる「ヤマト王権」と呼ばれる政治的連合体の権力中枢を内的に生成させ、国家形態を「王国」にのし上げ得るだけの母胎にはたしてなりうるのだろうかという疑問をもつにいたった。
そもそも私は、橿原考古学研究所に入所し自らこのテーマを追い始めた1976 年頃から、大和弥生社会の自然的、社会的、
そして文化的安定性とそれゆえの緊張関係の欠除、いわば内陸後背地の保守的地域がそうした王権機構を生成するような母胎にはたしてなりえたのか、というこの疑問が終始脳裏を離れることがなかった。
(一)大和にとっての外的強力とはいかなる地域のいかなる集団であったか(権力中枢の系譜)、
(二)彼らの征服活動に興ずる必然性とその対象としての大和とりわけ東南部の重要性、
(三) 農業共同体再編の具体化と階級的支配関係の実体については、その後の論攷で私なりの一応の答えは用意することができた。 130日本@名無史さん2018/11/13(火) 00:52:11.31
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
131日本@名無史さん2018/11/13(火) 01:38:25.06
132日本@名無史さん2018/11/13(火) 02:45:24.03
>>21
この漢末魏初の人、文穎の注の(高三十里)は、陳寿の天柱山(高峻二十里)と同じ用法。
陳寿が「呉志」で(高数十丈」と書いているように、高さを表す場合は(丈)を用いるのが普通に一般的。
文穎注のこの文章では、(周七十里)は(周歩すること七十里)の意味であるから、次に続く(高三十里)も(高歩すること三十里)とし、頂上までの道のりが三十里とするのがよい。 133日本@名無史さん2018/11/13(火) 03:02:23.29
134日本@名無史さん2018/11/13(火) 03:08:04.84
>>26
お互い、推測でもの言っちゃ、あきまへんな。 135日本@名無史さん2018/11/13(火) 03:14:12.00
>>28
東征毛人…は雄略の自分の先祖の自慢話。
なので、これはやはり、出発地は大和ということで。 136日本@名無史さん2018/11/13(火) 05:37:22.64
>>529
>卑弥呼は唐古・鍵遺跡に居たのだ
巻向は斎場兼市場で良い <
「南≠東」に拠って×。 137日本@名無史さん2018/11/13(火) 05:40:07.77
>>530
>H23.10.8ジパング倶楽部主催の「邪馬台国ヤマト説を体感」
「寺沢 薫」先生の「邪馬台国ヤマト説を検証する」の講演・・・<
寺澤も、「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者だから、×。 138日本@名無史さん2018/11/13(火) 05:47:33.37
>>531
>山梨県の笛吹市平林2号墳の被葬者とどんな関係があるんだい?ww
>>428では2例しか挙げてないが、3種の神器の組合せは日本中で普通に
見られる首長層に共通の文化だよ<
当然、九州倭国の「東征毛人55国」の、天孫族系や阿毎氏系の将軍や部将の内の、
征服地で亡くなって埋葬された人物であったんだろう、
という事になる。 139日本@名無史さん2018/11/13(火) 05:49:18.74
>>533
>邪馬台国は伊勢神宮の地下にあります。<
「南≠東」などに拠って、×。 140日本@名無史さん2018/11/13(火) 05:54:13.42
>>539
>つくづく思うんだがほんとうに「丹」の威力ってすごいもんだね。
現在の5チャンの世界でも、よく効く効く。 @阿波
つくづく思うんだが、
ほんとうに「南≠東で×」の威力ってすごいもんだね。
阿波でも現在の5チャンの世界でも、よく効く効く。 141日本@名無史さん2018/11/13(火) 05:56:10.88
>>540
>ひがしにうみがあり、そこにも和種がいるとのことです。
よって卑弥呼の居所は大分か、宮崎、香川、とくしま、三重のどこかです。<
「南≠東」などに拠って、これも×ね。 142日本@名無史さん2018/11/13(火) 05:57:47.04
>>543
>丹鉱山は三重や大和にあるしな<
「南≠東」などに拠って、×。 143日本@名無史さん2018/11/13(火) 06:03:04.12
>>544
>そのとおり 九州説の爺さんたちの耳は 自分に都合の悪いことは
本当に聞こえない みたいだからな<
そのとおり。
アホ大和説の学会教育界やマスコミや安部文部省たちの耳は、
自分に都合の悪い「南≠東に拠って×」は、
本当に聞こえないみたいだからな。 144日本@名無史さん2018/11/13(火) 06:06:02.77
>>548
終わったのは「南≠東」などに拠って×の大和説だ。
このスレの存在によって崩壊。 145日本@名無史さん2018/11/13(火) 06:09:15.59
>>548
終わったのは「南≠東」などに拠って×の大和説だ。
このスレの存在によって崩壊。 146日本@名無史さん2018/11/13(火) 06:15:38.16
>>549
大和説の根拠って何?
・長里で萬二千里
⇒赤道付近にまで誇張されてる値を実地に当てはめても意味はない
・周髀算経でも長里だ
⇒実測値だし、だし、大地平面という近似前提説
・鉄も絹も漢鏡も大和
⇒3世紀末以後
>他には?<
「南≠東」などに拠って×。 147日本@名無史さん2018/11/13(火) 06:18:39.78
>>551
ここは、どちらかというと、
「南→東」などの嘘吐き騙しをして気の触れた大和説斜の収容所だろ。
いや屠殺場かもな。 148日本@名無史さん2018/11/13(火) 06:22:15.83
>>552
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説関係のスレは、
「ボクの考えたサイツヨの読み方」発表会になってて、
学問からドンドン離れているしな。
史学に、文献や考古の学を持ち込むな、とか言う奴も多いし。 149日本@名無史さん2018/11/13(火) 06:25:06.16
>>554
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
探さなくてもアラだらけだろうが。 150日本@名無史さん2018/11/13(火) 06:29:52.94
>>557
>畿内の東側の海はどこ? <
「南→東」などの嘘吐き騙しをされちゃ、答えようがないのと同じように、
「畿内」なんて存在もしない嘘つき騙しの文言を使っての質問にも、
答えようがない。 151日本@名無史さん2018/11/13(火) 06:32:05.60
>>560
「南≠東」などの嘘吐き騙しの指摘に拠って、全部論破されて、
こんな程度の低い事しか書くことのなくなった大和説。 152日本@名無史さん2018/11/13(火) 06:35:43.57
>>562
>方角が違うの一点張りだから まったく建設的な議論にならんよな<
「南→東」などの「方向の否定捏造」の一点張りだから、
大和説者らは、まったく建設的な議論にならんよな。 153日本@名無史さん2018/11/13(火) 06:41:18.69
>>563
>畿内説の根拠は九州説の否定じゃなくて、3世紀時点で列島の広い範囲に
共通の土器、前方後円墳という共通の葬送祭祀を持つ祭祀連合が成立していた、とするもの<
畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
大和説は「南≠東」に拠って、始めから×。
祭祀連合も、九州倭国の「東征毛人五十五國」に拠って成立したもの。
大和説の否定は、絡んでくるのを叩き落としてるだけだよ。
ある意味、余技だw。 154日本@名無史さん2018/11/13(火) 06:47:35.28
>>565
>なるほど、そうか。
つまり、邪馬台国さがしは余技になってしまったのなwww<
なるほど、そうか。
つまり、大和説者の言う「邪馬台国」なんて、存在もしない嘘つき騙しの造作文言であったから、
「邪馬台国さがし」とやらも、「南→東」と同じように、
嘘吐き騙しの詐欺の余技になってしまったのなwww。 155日本@名無史さん2018/11/13(火) 07:06:14.47
>>567
>その「どれだけ合致しているか」という部分は、考古学的出土遺物で考えるのだろ?
その時点で文献史学の領域からはみ出している<
関係がない。自然や歴史における学問というものは、文献も考古も関係がなく、
それら全てからの情報から総合的な推論をすべきもの。
>そして、畿内説では魏志倭人伝の中の邪馬台国の比定に最も重要で誤りの余地の少ない部分<
畿内も邪馬台国も、存在もしない嘘つき騙し文言であるから、「南→東」と同じように、始めから×。
>・邪馬台国の発音に近い地名<
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるから、×。
>・戸数7万戸 <
「南≠東」に拠っても×だし、大和盆地では始めから×。
>・30近くの国々の盟主<
魏志の倭国は「正北抵新羅」に拠ってほぼ九州付近であり、
大和は「東征毛人五十五國」の中の一国であるから、×。
>・宮室、楼観、城柵<
大和は存在せず、ず、九州には吉武高木から吉野ヶ里や弥生銀座や安徳台や朝倉付近など、可能性は沢山ある。
>・卑弥呼の墓径百歩 ・徇葬百人 をもとに考えている訳だ <
祇園山。 156日本@名無史さん2018/11/13(火) 07:10:02.37
>>568
>九州説の否定が余技で、邪馬台国探しは「決着済み」w <
大和説の否定は余技で、
女王国探しは、南≠東に拠って「決着済み」w。 157日本@名無史さん2018/11/13(火) 07:18:26.72
>>568に対する返事に、5chが「連投してるで」と投稿拒否?。
スレ主の貼り付けの連投は、何故拒否しないの?。
>>569
>・邪馬台国の発音に近い地名 ⇒ ヤマト国そのもの<
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
大和なら、南≠東に拠って、始めから、×。 158日本@名無史さん2018/11/13(火) 07:23:56.96
スレ主はIPアドレスの違う2代のPCで打ち込んでる。
上げ下げ変えてキウスのくせにキウスではない振りしてるのがみえみえw
159日本@名無史さん2018/11/13(火) 07:26:42.13
>>570
>・戸数7万戸
⇒ 大和+河内〜環大阪湾の畿内第V様式土器が共通で出る範囲 <
始めから「南≠東」に拠って×であるし、
米田らに拠って、河内は大和とは別国であるから×。
>戸数7万は実数ではないだろうが、<
おそらく、倭人からの兵役納税単位になる戸数の概数情報。
>福岡平野2万戸(奴国)、<
福岡平野は×。日向峠西麓〜早良平野広域付近。
>四隅突出墓の範囲5万戸(投馬国、出雲)との比較で妥当な数字といえる<
「投馬国、出雲」も、「南≠東」の嘘吐き騙しに拠って×。 160日本@名無史さん2018/11/13(火) 07:39:46.78
畿内説のレスをパクって返す朝鮮人根性丸出しの九州説
161日本@名無史さん2018/11/13(火) 07:40:59.87
162日本@名無史さん2018/11/13(火) 07:59:21.19
163日本@名無史さん2018/11/13(火) 08:25:10.58
>>570
>・30近くの国々の盟主<
九州島付近の九州倭国での話。
「南→東」などの嘘つき騙しの大和の話ではなく、
大和は、九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国であり、旧小国。
>⇒ 纏向遺跡で出土する、広範囲で多様な各地の土器の集積<
九州倭国の「東征毛人五十五國」の国に出来た、
地方の市を監督する大倭職の国であったから。
>広い範囲からの人が集まっている証拠<
筑紫や半島からのものは殆ど皆無。
>⇒ 前方後円墳の定型化が、纏向遺跡で進められている<
筑紫の那珂八幡などで始まって、九州倭国の「東征毛人五十五國」の将軍や武将が広めたもの。
>それを古墳時代に列島の広い範囲で共通に受け入れていることから、
この墓制の共通化を主導した盟主と認められる<
主導したのは、東征将軍や武将ら。 164日本@名無史さん2018/11/13(火) 08:32:59.32
うめ
165日本@名無史さん2018/11/13(火) 08:33:15.68
うめ
166日本@名無史さん2018/11/13(火) 08:33:26.88
うめ
167日本@名無史さん2018/11/13(火) 08:34:13.71
うめ
168日本@名無史さん2018/11/13(火) 08:34:26.64
うめ
169日本@名無史さん2018/11/13(火) 08:35:50.67
うめ
170日本@名無史さん2018/11/13(火) 08:38:09.12
>>572
>・宮室、楼観、城柵 ⇒ 纏向遺跡の辻地区居館域の建物群 <
宮室、楼観ではなく、九州倭国の地方の市を監督する大倭職の「祭祀用の建築」。
>それまでの弥生時代の建築にはない複数建物の計画的な配置が確認できる<
それまでの毛人や出雲系銅鐸祭祀部族とは、「東征毛人五十五國」に拠って支配者が変わった。
>⇒ 唐子鍵遺跡から、楼閣を記した線刻土器が多数出土している<
唐子鍵遺跡は、は、出雲系銅鐸祭祀部族と神武東征の後裔の欠史八代との、共存地であり、
新たな「東征毛人五十五國」軍に拠って破壊された。 171日本@名無史さん2018/11/13(火) 08:44:29.89
>>573
>・卑弥呼の墓径百歩 ⇒ 纏向古墳群は、<
「南≠東」などに拠って×。
>最初期の纏向型前方後円墳の纏向石塚古墳で墳丘長96メートル それ以後、
ずっと列島最大の墳丘墓が作られ続け、いずれでも径百歩の墓として見劣りしない <
「短歩」であるから、25.5m余りの冢であり、
纏向型以降の巨大古墳は3世紀末以後であり、×。
>どれが卑弥呼の墓かは編年次第で変動するため特定できないが、
いずれにしても纏向古墳群に卑弥呼の墓がある蓋然性が極めて高い <
全て、「南≠東」に拠ってだけでも、×。 172日本@名無史さん2018/11/13(火) 08:46:45.05
>>574
大和説が、全て「南≠東」などの矛盾を突きつけられているだけ。
つまり自滅。 173日本@名無史さん2018/11/13(火) 08:50:53.99
174日本@名無史さん2018/11/13(火) 08:56:43.19
うめ
175日本@名無史さん2018/11/13(火) 08:56:51.88
うめ
176日本@名無史さん2018/11/13(火) 08:57:44.50
うめ
177日本@名無史さん2018/11/13(火) 08:58:41.27
>>576
>・徇葬百人 ⇒ 日本列島で大規模殉葬の確認例はない<
現在のところ、列島で唯一、
「大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」を満たす墓として、祇園山がある。」
>家族墓である方形周溝墓への追葬を殉葬と誤認した=倭国には殉葬の風習があると
誤解した可能性がある<
この男は、祇園山を曲解否定の嘘つき騙しをし、平原を否定する事で、
「南≠東」の嘘つき騙しの大和説が可能性があるかのようにして、
国民を騙そうとした悪質な詐欺師であった可能性がある。
畿内大和説では、殉葬以外はきちんと説明できる 178日本@名無史さん2018/11/13(火) 09:20:42.32
>>582
>>祇園山古墳には100人ほどの殉葬がある<
>殉葬なんてど〜でもいいよ。<
阿波にはないんだろ?。
>そんなことより、「祇園山古墳」の水銀朱は、まず間違いなく
筑紫忌部が持ち込んだ「若杉山産」だ と何度言えばw @阿波<
そんな事より、「南≠東」に拠って阿波は×だし、
九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」に拠って、瀬戸内〜東海〜 南関東は、
九州倭国の「地方の市を監督する大倭職の国々」になってしまっているんだから、
その地域に齎される産物は、市を介して九州倭国に搬入され、
九州でも使われ見つかるもの。 179日本@名無史さん2018/11/13(火) 09:27:11.73
>>594
>聞く耳持たない人に真実は話しかけてくれない<
「南→東」などの嘘つき騙しをする大和説者には、
文献考古の事実は、話かけてもくれない。 180日本@名無史さん2018/11/13(火) 09:31:32.16
卑弥呼=馬韓卑弥国王族
ヒミココ=同じく馬韓卑弥国王族
不弥国=馬韓の不弥国人が作った国
反論なしにより確定で
181日本@名無史さん2018/11/13(火) 09:31:50.72
馬韓の風俗
・毎年五月に種蒔きが終わると、鬼神を祭り、人々が群集して歌舞し、昼夜ぶっとうしで酒を飲む。
・そのとき舞われる舞いは、数十人が立って、一つながりになって地を踏み、手足を下げたり、高く上げたりして、音楽のリズムに合わせる。中国の鐸舞に似ている。
・十月に農作業が終わったときも、同様の行事がある。
・鬼神を信じ、国々の邑ではそれぞれ一人を選んで天神の祭りを司らせ、そのものを天君と呼ぶ。
・また、それぞれの国にはもう一つの邑があって、蘇塗と言う名で呼ばれる。そこには大きな木を立てられ、鈴と太鼓をぷら下げて、鬼神の祭祀を行う
卑弥呼の「鬼道」=馬韓の祭祀
はい確定
182日本@名無史さん2018/11/13(火) 09:41:30.04
>>602
>その通り。 纏向に王権が移るのは4世紀前半の崇神天皇以降。 それ以前は葛城。<
九州倭国に関係なく、大和の中での、
「毛人や出雲系銅鐸祭祀部族」の歴史や、
筑紫倭国からの神武東征や東征将軍らの旧小国の歴史を語るだけなら、
嘘にもならんし、個人の自であるから構わんが、
それを、大和が列島盟主であった、なんて嘘つき騙しをしゃべって国民を騙そうとしたら、
それは黙過し難い。
>邪馬台国は葛城で決まり. <
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙しだし、「南≠東」などによっても、×。 183日本@名無史さん2018/11/13(火) 09:52:15.01
前スレ>935
>土蜘蛛が水源を求めて荒らしに来たのかは分からないが、
>奴婢埋葬痕跡が明確にあるのは確かだ。
そんなところが王権の聖地だってのがおかしいだろって話
土蜘蛛の逸話があっても、王権の説話が一つもない土地が王権の故地で聖地なんてのは
破綻した論理だ
184日本@名無史さん2018/11/13(火) 09:58:17.25
前スレ>932
>いや、もっこりしたところがあるのでそこからだよ。
いや、そのもっこりしたところなんてないからw
左側スロープ君自身、どこがもっこりしてるか分かってないから、
毎回適当に150メートルくらいになるように線を引いてるだけww
https://yahoo.jp/XvZjCc
これだと標高差28.8メートル
https://yahoo.jp/Vb3hX8
こっちだと、標高差20.8メートル
ずれた場所に線を引いてるし坂の下まで線にかかるかどうかで、
標高差が変わってくる
最初に高低差36.6メートルって言ってたのはなんだったんだw
単に尾根の下り坂があるだけだよ
塚なんてない
最初から、左側スロープ君の葛城説は破綻している
あるのは王権と関係ない土蜘蛛の説話だけ 185日本@名無史さん2018/11/13(火) 09:58:46.55
>>624
>九州説なんて吉田神道の連中らの虚言からやん<
大和説なんて、「南→東」などの嘘つき騙しなんだし、
天皇家神社神道のキョクウ戦争狂のやくざ連中らの虚言やん。 186日本@名無史さん2018/11/13(火) 10:24:36.38
>>627
>考古学を否定してる時点で九州説は理性を放棄してるからな<
九州説は、文献考古の史料事実や発掘事実からの帰納的確率的推論を重視しているが、
大和説は、「南→東」などの嘘つき騙しのように、
文献考古の史料事実の否定曲解のウソつき騙しをしており、
「戦前の万世一系皇国史観の人種差別戦争好き」の「結論先にありき」の、
・・・・人種であり、
理性を放棄しているからな。 187日本@名無史さん2018/11/13(火) 10:34:21.96
>>635
>会稽東治て会稽東県の治所やな?
はじけた様な気分でゆれていればそこがなんたーら<
「東県」なんて書かれていないの。
「会稽の東の治」と普通に読めばよいの。 188日本@名無史さん2018/11/13(火) 10:39:33.81
>>647
「南→東」などの嘘つき騙しの、
愚にもつかない妄言を吐き散らかして、
一人、分裂幻覚の妄想の悦に入る大和説者。
もう完全に精神を破壊された人間のやる行動だな。 189日本@名無史さん2018/11/13(火) 10:42:31.35
>>652
九州説があまりにも鉄板過ぎるので、
とうとう精神をやられた、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者。 190日本@名無史さん2018/11/13(火) 10:52:12.99
>>653
>奴婢の件は、伝聞の可能性が高い。<
「百余歩」という大きさは、
倭人は「里」を知らないんだから、「歩」も知らない訳で、
だから、倭人からの伝聞ではなく、魏使らの実測であった訳で、
だから、この卑弥呼の冢の説明は、当然、全部、魏使らの実見記録であった事になる。 191日本@名無史さん2018/11/13(火) 11:03:25.56
うめ
192日本@名無史さん2018/11/13(火) 11:03:25.63
うめ
193日本@名無史さん2018/11/13(火) 11:03:41.38
うめ
194日本@名無史さん2018/11/13(火) 11:04:02.91
うめ
195日本@名無史さん2018/11/13(火) 11:05:58.08
うめ
196日本@名無史さん2018/11/13(火) 11:09:48.78
>>655
>奴婢を埋めるとかじゃなく
クビ切ったのとか実見したかも知れないだろ?
いずれにせよ殉葬は古墳の周りに奴婢を埋めるようなものじゃないのは考古調査により明らか <
魏使らははっきりと、
「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」
という記録をしているんだから、
徑百餘歩の冢を眺めて、殉葬奴婢百余人も眺めた、という事は、
否定出来ない。 197日本@名無史さん2018/11/13(火) 11:15:01.15
>>187
>「会稽の東の治」と普通に読めばよいの。
普通じゃねーよアンタの脳 198あ2018/11/13(火) 11:18:15.12
199日本@名無史さん2018/11/13(火) 11:20:53.87
>>657
>日本の古墳に殉葬の痕跡はない。<
祇園山にある。
>ならばこれは通常ではない事件である。 王権にまつろわぬ者を殺した。
そして埋めた。 そう言う事だ。 まつろわぬ者とは土蜘蛛だ。<
はっきりと、「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」
と書かれているから、
魏使らは奴婢百余人の殉葬を見ている。 200日本@名無史さん2018/11/13(火) 11:26:22.48
>>660
>そんな痕跡はないから行われてない。<
魏使らが「jun葬者奴婢百餘人」と記録しているから、事実行われていたんだし、
祇園山があるし、
痕跡なら、
wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/himikotyou/himiko3horon.htm
にも書かれている。 201日本@名無史さん2018/11/13(火) 11:33:02.06
>>662
>それじゃ卑弥呼の墓は径何メートルよ <
短歩であり、長径で「25.5m余り。
>そんで九州説の言うように魏志倭人伝の記述
「大作塚」が塚を沢山作ったという意味なら、
「大作冢」は、「冢を沢山作った」という意味ではない。
「冢を大いに作った」という意味。
>それが集まってる古墳群はどこよ 畿内には沢山古墳群があるんだけど<
畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言であり、
魏使に書かれた冢は一個。 202日本@名無史さん2018/11/13(火) 11:37:46.40
>>667
>奴婢を埋葬したのは神武・・・場所は高天原<
年代が300年位違うし、
「南≠東」などに拠って×。 203日本@名無史さん2018/11/13(火) 11:40:11.70
>>669
発狂大和説者。
もう、根拠なしの自分に都合のいい妄言を、
わめき散らすだけ。 204日本@名無史さん2018/11/13(火) 11:50:43.21
>>672
>殉葬は、家族墓としての方形周溝墓への追葬を、殉葬と誤認したんじゃないか
あるいは庶民墓の甕棺墓列を大規模殉葬と見たのか <
魏使らは、はっきりと、
「径百余歩の卑弥呼の墓の冢に、奴婢百余人の殉葬があった事を実見して記録している。
>いずれにしても、卑弥呼の時代より古い時代の記録だろう<
卑弥呼の死直後の記録だ。
>それと卑弥呼が王であることと合わせて
すごい殉葬があったに違いないという記述のように思う<
推定記録ではなく、実見記録だ。
>卑弥呼の死には張政は立ち会っていないようだし<
この男も、史料事実を曲解抹殺する嘘つき騙しの・・・・大和説の犯罪者のようだし。」 205日本@名無史さん2018/11/13(火) 11:57:59.52
これが
論争に敗れ、狂ったように喚き散らす九州説の醜態です
206日本@名無史さん2018/11/13(火) 12:02:04.83
>>674
>殉葬をやめる代わりに、前方後円墳と埴輪類を作るようになったのだ。
それくらい劇的に、大和は人道的・人間味あふれるクニに変わったということだ。<
大和には、卑弥呼のような、
「殉葬してくれる奴婢百余人」が出るような、尊敬出来る王がいなかった、
という事だろう。 207日本@名無史さん2018/11/13(火) 12:05:38.81
九州にもいません
後世の共同墓地を殉葬にデッチ上げても無駄
208日本@名無史さん2018/11/13(火) 12:13:32.74
うめ
209日本@名無史さん2018/11/13(火) 12:14:26.92
うめ
210日本@名無史さん2018/11/13(火) 12:14:56.50
うめ
211日本@名無史さん2018/11/13(火) 12:40:30.63
まとめ
西暦57年 倭の奴国(筑紫)の王が金印「漢委奴国王」を授かる。(支配地域は九州北部から朝鮮半島南部まで)『後漢書』
西暦107年 倭国王師升等(歴史書に登場する初の倭国王)が安帝に拝謁を願う。『後漢書』
西暦107〜181年 70〜80年間、倭国で男性の王の時代が続いた。『三国志』
西暦181〜184年 倭国大乱 『梁書』
西暦181年 ニュージーランドの超巨大火山「タウポ火山」の大噴火
西暦181年 「空が黄色くなり太陽が覆われた。」 「6月に雹が降った。大きさは鳥の卵ほどもあった。」 『後漢書』
西暦182年、「井戸の中が凍ってしまった」異常気象を示す記述は2年続く。 『後漢書』
西暦193年(183年の間違いと思われる) 倭国が大飢饉となり1000人以上が食料を求めて朝鮮半島に渡る。『新羅本記』
西暦183年 大飢饉によって九州は壊滅的なダメージを受ける。九州の王族の権威失墜
西暦184年、黄巾の乱が勃発(漢の衰退)
西暦184年頃、漢が衰退したことによって「漢委奴国王印」の権威喪失。
西暦184年頃、大飢饉によって人々が神頼みになり巫女の卑弥呼が女王になる。(ここまでの間に首都が筑紫から大和に移った。)
西暦238年 卑弥呼が魏から金印「親魏倭王」を授かる。『三国志』
西暦247年頃 卑弥呼が亡くなった。『三国志』
212日本@名無史さん2018/11/13(火) 12:51:59.54
九州王が権威失意して国が崩壊してるとこが重要なポイント
213日本@名無史さん2018/11/13(火) 13:06:54.86
九州は畿内には目もくれず半島攻略に夢中だったと思うんだが。
半島に倭王の墓が見つかっただろ?
214日本@名無史さん2018/11/13(火) 13:23:37.14
九州説がまた妄想してるな
215日本@名無史さん2018/11/13(火) 13:40:35.02
霍公鳥鳴く声聞くや卯の花の咲き散る岡に葛引く娘女
月夜吉み鳴く霍公鳥見まく欲り我れ草取れり見む人もがも
万葉集は面白い 月やほととぎすの歌が沢山ある
月やほととぎすの来訪を心待ちにする期待感が次第に高まっていくのが感じられる
216日本@名無史さん2018/11/13(火) 13:46:31.37
久方乃 天照月者 神代尓加 出反等六 年者經去乍
ひさかたの 天照る月は 神代にか 出で反るらむ 年は経につつ
奈良時代後半、隠れていた月が再び表舞台に出ることになりつつあったのかな
217日本@名無史さん2018/11/13(火) 14:12:56.00
魏志倭人伝には邪馬台国の墓は方墳と書いてあるので
前方後円墳である纏向は邪馬台国と全く関係ありません
218日本@名無史さん2018/11/13(火) 14:13:30.98
気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
219日本@名無史さん2018/11/13(火) 14:13:57.08
卑弥呼の墓は、平原1号墓しかありえません
220日本@名無史さん2018/11/13(火) 14:20:02.10
老婆談が正解なんだよ、
当時の姑(老婆から見て)というのがいて、
その姑の父親がいるんだけど何々様なんて言われていたよ
と言っていたり
『松傾』の家の嫁の話、何の家なんだろう
221日本@名無史さん2018/11/13(火) 14:22:58.18
ひみこ様とか、
そういうのではないんだけど、
何だったんだろう
222日本@名無史さん2018/11/13(火) 14:30:03.46
>>217
>魏志倭人伝には邪馬台国の墓は方墳と書いてあるので
円墳って言い張るやつはちょくちょくいるけど、方墳は斬新だなww
で、魏志倭人伝のどこにそんなことが書いてあるって?
具体的に、原文引用して見せてくれよw 223日本@名無史さん2018/11/13(火) 14:30:48.08
>>217
前方後円墳は、もともとは円墳部分のみが墓。
前方部は陸橋(祭祀スペース)が進化したもの。
当時は円墳部分のみを墓と認識していたと思われる。
224日本@名無史さん2018/11/13(火) 14:33:55.21
『筋肉少女帯 これでいいのだ』
なぜか同じような写真でしょ、
バンドなどもなかった頃の写真なんだけど
225日本@名無史さん2018/11/13(火) 14:36:16.66
白い服を着ていたわけではない
と思うんだけど・・・そういう写真があったり、ガンダム?
みたいな話
226日本@名無史さん2018/11/13(火) 14:47:50.94
敏達天皇
538年、百済で生まれ育つ(百済大井宮)
青年時代は父、欽明天皇の念願である任那復興のため、百済に駐在して百済や新羅との交渉にあたる
百済にて百済王族の広姫を皇后とし、押坂彦人大兄皇子を生ませる
新羅との交渉により「任那の調」を送ることを約束させる
押坂彦人大兄皇子を任那に駐在させる(水波宮)
572年(34歳)父、欽明天皇の崩御に伴い倭に帰国し皇居を訳語田幸玉宮(奈良県桜井市)に移す
改めて額田部皇女を皇后に立てる
585年(47歳)崩御
227日本@名無史さん2018/11/13(火) 14:48:36.38
>>223
陸橋が進化したというのに、後方部分まで周壕で囲まれてるようになったというのは本末転倒だな。 228日本@名無史さん2018/11/13(火) 14:53:37.73
>>222
円墳が方墳かは重要なことではない
魏志倭人伝に卑弥呼の墓は前方後円墳とはどこにも書いてない 229日本@名無史さん2018/11/13(火) 14:55:08.47
ホトトギス、時鳥
農耕の開始時期を告げる鳥
倭国大乱前
230日本@名無史さん2018/11/13(火) 15:10:33.17
>>227
そうでもない。
方墳にしろ、円墳にしろ、元々溝がぐるりを取り巻いていた。
墳丘が大きくなるにつれて、ぐるりの溝も広く、深くなった。
それだけの話。 231日本@名無史さん2018/11/13(火) 15:11:43.31
気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
232日本@名無史さん2018/11/13(火) 15:17:03.43
>>223
前方後円型が最初造られた纏向石塚の時点では、前方部はそのときすでに重要な意味づけがなされていた。
前方部後円部一体の観念だった。 233日本@名無史さん2018/11/13(火) 15:22:34.43
234日本@名無史さん2018/11/13(火) 15:27:34.98
>>190
張政らは墓の現場へは行っていず、百歩などのデータは倭人が伝えたのだろう。
張政 「大きさはどれくらい」
倭人役人 「だいたい百歩」
張政 「百余歩ね、OK」 235日本@名無史さん2018/11/13(火) 15:33:07.67
>>228
>円墳が方墳かは重要なことではない
どうして素直に間違えました、ごめんなさいって言えないのかねぇ
間違いを認めたら負けの価値観で生きてる人は大変だw
>魏志倭人伝に卑弥呼の墓は前方後円墳とはどこにも書いてない
円墳とも方墳ともどこにも書いてないね
「円墳か方墳か」が重要なことではないのであれば、
「前方後円墳かどうか」も重要ではなくなるんじゃないの?
「特記したくなるほど大きな墓だった」というその一点が重要なんじゃないか 236日本@名無史さん2018/11/13(火) 15:45:54.66
>>181
卑弥呼の(事鬼道)と、韓伝の(祭鬼神)(信鬼神)は、同じではない。
卑弥呼の祀りは、馬韓の祭祀と同じではないだろう。 237日本@名無史さん2018/11/13(火) 15:52:16.53
>>170
纏向のように建物を計画的に配置したものは、近江の伊勢遺跡、下之郷遺跡の祭祀施設で確認できる。
纏向の建物群は、そうした近江の祭祀施設の流れを汲むもので、弥生時代で初めてのものではない。 238日本@名無史さん2018/11/13(火) 16:06:34.74
テンプレ主も、次第に、貧血ぎみになってきてるな。
239日本@名無史さん2018/11/13(火) 16:26:44.02
>>680
>元々畿内に殉葬の風習はない<
「畿内」なんて存在もしない文言だが、
大和は、毛人や出雲銅鐸系や九州からの欠史八代が共存していた頃は、
突出した宗教的支配者はいなかったんだろうから、
殉死そのものが余りなかっただろうと思われ、
殉葬も余りなかったんだろう。
>卑弥呼を共立した勢力が持ち込んだんだろう><
九州倭国の東征将軍の事を言っているんなら、可能性はあるかも。 240日本@名無史さん2018/11/13(火) 17:24:39.22
>>691
>そのデータ古すぎ。 今では、庄内甕、筑前型庄内甕と用語が変わっている。<
「甕」に変えても、庄内である事は変わりがなく、
筑紫の庄内と、それと同じものでの大和の庄内との先後問題も変わりがない。
>寺澤の編年で言えば、その庄内甕は庄内3式期、また筑前型庄内甕は布留0式期。
庄内3式期は、350年直前の時期。 布留0式期は、360年前後。<
突然350年とか360年とか言われても、ねえ。
いずれにしても、
筑紫では、三雲の庄内の年代が不詳であっても、
卑弥呼の冢である祇園山から「土師器の古い方=庄内」が出ていて、
庄内が250年頃よりも前になり、
大和では、一番古いとされるのは前方後円墳の石塚の庄内であるから、
3世紀末頃になり、
大和の庄内は、筑紫の庄内よりも50年位(以上?)後であった、という事になる。
だから、都出や森岡や寺澤らは、
大和の庄内を3世紀始め頃にまで古くした編年の再検討を要す。 241日本@名無史さん2018/11/13(火) 17:29:18.17
>>696
>卑弥呼 ヒミココ
どちらも馬韓の卑弥国出身 <
成程。 242日本@名無史さん2018/11/13(火) 17:52:35.31
気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
243日本@名無史さん2018/11/13(火) 17:54:13.73
>>240
>卑弥呼の冢である祇園山から「土師器の古い方=庄内」が出ていて、
もちろん真っ赤なウソ 244日本@名無史さん2018/11/13(火) 17:55:45.73
>>725
また、「南→東」などの証拠を出せず、
「大和の庄内を3世紀始め」にした証拠の出せないで、
大和説が敗北した。 245日本@名無史さん2018/11/13(火) 18:11:37.20
>>740
「南≠東」などの指摘に対して、
ちゃんと反論や理由が書かれていないから、問題あるな。
つまり大和説は反論できなかった。 246日本@名無史さん2018/11/13(火) 18:14:50.61
>>245
ちゃんとテンプレに書いてあったよ
そしてザラコクは反論できなかった 247日本@名無史さん2018/11/13(火) 18:17:23.50
>>747
>じゃ九州説も改名しろや<
嫌だ。
九州島の倭人は、中国にいた頃から、
「九州」にいた、という実態があった。 248日本@名無史さん2018/11/13(火) 18:17:26.44
249日本@名無史さん2018/11/13(火) 18:19:57.16
250日本@名無史さん2018/11/13(火) 18:20:08.86
>>749
いつまでたっても、「南→東」などの嘘つき騙しの理由の言えない、
コミュ障の大和説あわれ。 251日本@名無史さん2018/11/13(火) 18:22:12.00
>>250
などとバレバレの
ウソをつくしか道のない
九州説が悲惨 252日本@名無史さん2018/11/13(火) 18:23:07.05
>>750
こうやって大和説は毎日毎日、「南→東」などのウソをつく。 253日本@名無史さん2018/11/13(火) 18:24:56.81
>>250
「会稽東治之東」という動かぬ証拠を突きつけられて
逃げ回ってるのが九州だろう 254日本@名無史さん2018/11/13(火) 18:25:51.96
>>252
どうやって?
またザラコク、ウソついてる? 255日本@名無史さん2018/11/13(火) 18:26:20.95
>>252
その嘘で作った細い細い糸の下に、とんでもなく巨大ファンタジーをぶら下げてしまう畿内説のナンセンスさw 256日本@名無史さん2018/11/13(火) 18:27:02.78
>>751
>(對海國から一大國)見えてるなら正しいじゃん<
魏使らは、高い山の上に登ったりしないから、全く見えないの。 257日本@名無史さん2018/11/13(火) 18:28:35.02
258日本@名無史さん2018/11/13(火) 18:31:17.44
>>752
>まあ対馬に行ったこともないでデタラメ書いてるんだろうね
九州説は現地を全然知らない人が多い
厳原のすぐ裏手の高台からでも天気のいい日は壱岐が見えるし夜は明かりも見える<
魏使らは、高台に登らないから、見えないの。 259日本@名無史さん2018/11/13(火) 18:37:20.91
気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
260日本@名無史さん2018/11/13(火) 18:37:27.74
>>752
大和説者は、どうして平気でそんな嘘をつくの?。
私が学生だった60年位前には「畿内説」という文言など全く使わなかったし、
考古学とか大して気にしてなかった100年前から、現在のマスコミでも、
大和説は大和説のままなのに。
どうしてそんなに嘘つくの?
心の病気なの? 261日本@名無史さん2018/11/13(火) 18:38:42.04
>>754
>魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の墓が高天原にあった。<
「南≠東」などに拠って、×。 262日本@名無史さん2018/11/13(火) 18:40:04.27
いつもの九州説では完璧超人である魏使が都合良く怠け者になるのはちょっと面白いぞ
263日本@名無史さん2018/11/13(火) 18:42:20.19
>>258
そんなこと誰が決めたんだ?
九州説の俺様さんは、みんな皇帝様かなんか? 264日本@名無史さん2018/11/13(火) 18:46:11.59
>>260
あらゆる証拠を踏みにじって、現代史まで偽造する九州説
スゲー 265日本@名無史さん2018/11/13(火) 18:47:43.84
>>755
>ヒミコことヒメ(踏鞴五十鈴)の時代に土蜘蛛を討ったのは神武である。<
書紀や二中歴によっては、神武は、卑弥呼よりも300年以上古い人だから、×。 266日本@名無史さん2018/11/13(火) 18:54:33.87
267日本@名無史さん2018/11/13(火) 18:55:07.31
>>769
>石塚古墳の周囲には方形周溝墓や墓壙が見つかっている
元々墳墓は累代の墓として一所に集中して埋葬していた
これを見て殉葬と言っていた可能性がある <
可能性はない。
張政らは、「大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」の現場を見て記録している。 268日本@名無史さん2018/11/13(火) 18:56:43.37
桜井市は桜と桃のピンクネタお花盛り
269日本@名無史さん2018/11/13(火) 18:56:48.98
>>265
つまり「俺様解釈と違うから絶対拒否する」って言ってるだけだな 270日本@名無史さん2018/11/13(火) 19:16:30.39
うめ
271日本@名無史さん2018/11/13(火) 19:16:54.29
うめ
272日本@名無史さん2018/11/13(火) 19:17:05.38
うめ
273日本@名無史さん2018/11/13(火) 19:47:38.14
>>240
祇園山の“庄内”は筑前型庄内甕であり、大和庄内甕の技術を習って地元の土で焼いたもの。
その筑前型庄内甕の早い時期のものではないか。 274日本@名無史さん2018/11/13(火) 19:56:29.88
>>273
それってデマでしょ?
バレないと思ってるの?
バカじゃないの? 275日本@名無史さん2018/11/13(火) 19:56:42.86
祇園山から庄内は出てない
276日本@名無史さん2018/11/13(火) 20:10:00.78
>>258
高台に登らないという文献でもあるのか?
リンクを張ってくれ! 277日本@名無史さん2018/11/13(火) 20:13:23.81
>>253
いつもこれをいう人がいるが、この意味がさっぱりわからない。
真東にないからってことなのか?
八分方位であらゆる方向が示せるわけじゃないし、このくだりは風習について述べている部分で方位がアバウトでも問題ない。 278日本@名無史さん2018/11/13(火) 20:26:57.44
起点となる地点を北にずらせば正確になるじゃん
279日本@名無史さん2018/11/13(火) 20:36:43.90
畿内説は考古学を無視しないと成り立たないから必死だなw
280日本@名無史さん2018/11/13(火) 20:41:43.87
ザラコクはウソはつかない
ザラコクに反論できない奴が悪い
南≠東は間違いない
ザラコクのみならず、国民に納得できる説明が必用である
テンプレもこの件に関しては、行程はアテにならないで済ましている
基本は記紀でもヤマト王政でもない
倭人伝にいかに近づくかが論争の焦点である
巻向・箸墓も良いだろうが倭人伝の記述に添い語るべきだ…倭人伝が無ければ邪馬台国も卑弥呼も存在しない
281日本@名無史さん2018/11/13(火) 20:44:21.14
倭人伝通りだとインドネシアの密林の中になるから困ってるわけで
282日本@名無史さん2018/11/13(火) 20:48:40.29
>>253
>「会稽東治之東」という動かぬ証拠を突きつけられて
逃げ回ってるのが九州だろう <
あんたは邪馬台国は無かった説なのです。全ての説を否定するの「会稽東治之東」 気づいてると思うが・・・・
日出処の天使(太陽が昇るところ東方向)で良いのです。 283日本@名無史さん2018/11/13(火) 20:55:07.49
284日本@名無史さん2018/11/13(火) 20:59:05.17
>>275
>祇園山から庄内は出てない <
土器編 年は相対的であり年代を確定しているわけでは無いです
またその地方地方の文化もあります・・・鉄は少量しか出土しないでも結構
(年代比定に関係無いです、文明・文化の違い BUT倭人伝の記述は?)
寺澤先生も纏向編年(石野先生説等)についてヤンワリと疑問を投げかけてます
(過去の書き込みでどなたかが指摘しています) 285日本@名無史さん2018/11/13(火) 21:08:16.68
三輪山の語源も知らんドアホの畿内説
286日本@名無史さん2018/11/13(火) 21:10:37.14
>>274
デマと思うなら立証しないと
デマで片付けるのは学の無い証拠ですよ
反論が大事ですよ 287日本@名無史さん2018/11/13(火) 21:19:51.56
288日本@名無史さん2018/11/13(火) 21:25:13.70
>>258
現地を知らないのは畿内説だろう
奴国までの方角が完全一致してるのに
そこから先の邪馬台国までの方角を都合の良いように変えてるだろう
方角が違うので畿内説は100万%ありえません 289日本@名無史さん2018/11/13(火) 21:48:58.71
邪馬台国はヤマト国だろ
タイトル変えろ
関係ない他の畿内を巻き込むなよ
290日本@名無史さん2018/11/13(火) 21:50:23.20
>>280
>倭人伝にいかに近づくかが論争の焦点である
「史料の限界」を考慮しない魏志倭人伝原理主義はまともなアプローチではない 291日本@名無史さん2018/11/13(火) 21:53:09.98
>>288
>奴国までの方角が完全一致してるのに
これが大ウソ
末盧国を呼子にしても伊都国は東南にならないし
国境を越えたところで国に着いたとは表現しない 292日本@名無史さん2018/11/13(火) 21:58:29.49
九州説なら末盧の津は伊万里のほうがいいんじゃないかな
293日本@名無史さん2018/11/13(火) 22:11:52.37
>>289
その辺り一体文化的繋がりがあるし
邪馬台国は7万戸
そしてそれなら九州説も改名して欲しいものですな 294日本@名無史さん2018/11/13(火) 22:18:46.16
>>280
ザラコクは畿内など存在しないなどウソばっかついてる
魏志倭人伝通りに不彌国から南に行っても何もない
東に行けば魏年号入りの魏鏡三角縁神獣鏡が多数発見され
3世紀当時国内随一の巨大前方後円墳のある邪馬台国に似た大和国がある 295日本@名無史さん2018/11/13(火) 22:27:34.22
>>247
九州は中国で言う九州じゃあないぞ
日本の九州は古代では倭
あくまで九州は古代から九州だと言い張るなら
親魏九州王じゃない親魏倭王の卑弥呼は九州には居なかったという事になる 296日本@名無史さん2018/11/13(火) 22:30:44.18
邪馬台国倭説では、本末転倒だ。
何しろ邪馬台国は、倭の王都とされているからね。
こればかりはしょうがない。
伊都国説や筑紫説でもスッキリしない。
297日本@名無史さん2018/11/13(火) 22:34:02.94
>>201
冢を大いに作ったというのは大きな冢を作ったという意味ではないのか
それにこの前まで九州説は墓をたくさん作ったという意味だと言っていたはず 298日本@名無史さん2018/11/13(火) 22:39:05.32
>>772
>大和、九州ともに逆算しても弥生い時代に邪馬台国要素を見いだせない<
「邪馬台国」なんて存在もしない嘘つき騙しであるから、×。
倭国は「正北抵新羅」に拠って、北部九州にあった。
>その文化的要素は、吉備、近江、摂津、河内、丹波、播磨、讃岐、阿波で構成されている<
その地域國は、九州倭国の「東征毛人五十五國」の東瀬戸内周辺地域國であり、
東征前はほぼ出雲系であったが、東征に拠って九州倭国の文化も加わったもの。
>大和に成立した邪馬台国は、<
「南≠東」などに拠って、×。
>大和でも九州でもない近畿周辺各地のクニグニが集合して作り上げた国だと分かる<
九州倭国の「倭種」や「地方の市を監督する大倭職の国々」の地域。 299日本@名無史さん2018/11/13(火) 22:39:07.09
>>200
殉葬と埋葬は違うぞ
日本書紀の記述から殉葬で人を埋めるなら縦
埋葬は横たえて埋める
それからすると祇園山のは埋葬のようだが 300日本@名無史さん2018/11/13(火) 22:42:26.80
>>773
>特に大和と九州は邪馬台国要素は皆無に近い状況になっている
この両地域は邪馬台国の主体として発展した場所ではなく、邪馬台国に上書きされた土地であると理解できる
この二つの土地の弥生時代の状況をいくら見たところで邪馬台国に繋がるものにはならない<
邪馬台国なんて存在もしないものだから、
この男は、一種の分裂幻覚の妄想の・・・・嘘つき。 301日本@名無史さん2018/11/13(火) 22:50:34.47
>>774
>邪馬台国は近畿とその周辺地域のクニグニが大和に集まってこの時代に初めて創出した連合国家と理解すべき<
この・・・・妄想男は、結局やっぱり、
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者であった。
>このような成立背景があるために多くの地域で邪馬台国の要素の一部を見出すとが出来るが
それ以外の部分でつじつまが合わなくなる
この文化的構成要素から考えて
邪馬台国を特定地域にのみ見出そうとする考え方自体が見当違いでると分かる <
毛人蝦夷的要素や、出雲銅鐸系や、越の要素や、九州倭国の東征要素の混合であったから。 302日本@名無史さん2018/11/13(火) 22:56:05.43
気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
303日本@名無史さん2018/11/13(火) 22:56:19.62
なんで1は、他の畿内まで邪馬台国にしようとするんだろう
河内には河内の、和泉には和泉の、なにわにはなにわの、山背には山背の歴史があるのに
ホント根性がねじ曲がっている
304subo2018/11/13(火) 22:57:49.46
卑弥呼の塚は久留米御井の祇園山古墳
305日本@名無史さん2018/11/13(火) 22:58:44.70
306日本@名無史さん2018/11/13(火) 22:59:46.96
307日本@名無史さん2018/11/13(火) 23:01:50.46
いや、祇園山の方が卑弥呼より新しい。
壹與の墓かもしれない。
方形周溝墓の流れをくむ方墳だよ。
308日本@名無史さん2018/11/13(火) 23:02:34.61
古墳を作るときに壊された甕棺墓が周りにあるだけの、
さして特徴のない地域首長墓としても小さな二段築成の方墳を
倭王の墓と言わなきゃならないくらい、九州にはめぼしい遺跡がないわけだ
309日本@名無史さん2018/11/13(火) 23:04:53.21
>>776
>大和では庄内式土器の原型の一つとされるX式土器くらいしか邪馬台国に繋がらない <
邪馬台国なんて存在もしない造作文言であるから、×。
>九州は鏡の副葬と序列化という点で先行しているが、 この時代には破鏡副葬が主で完形鏡を手に入れられず、<
完形鏡が沢山出ており、その頃は大和では0。
>?製鏡も近畿で別の物が作成配布されているため鏡の副葬主体とはなり得ない <
この男のいう?製鏡とは、立岩のようなものではなく、
呉系楽浪鏡師らが造った△などの事をいうつもりらしい。
>大和、九州ともにこの程度しか邪馬台国に関連する部分が存在しない
大半の要素が近畿周辺の地域に見出せる事から考えて
この両地域に邪馬台国の淵源を見出そうとすることは困難だと分かる<
邪馬台国なんて存在しない嘘つき騙し文言。 310日本@名無史さん2018/11/13(火) 23:11:04.71
>>307
祇園山の主体部の棺は盗掘されていたが
その近くの追葬者の棺からは後漢鏡と西新式土器が見つかっている
常識的に考えれば被葬者より追葬者の方が後になる筈なので
三角縁神獣鏡の渡来前に作られた墓の可能性が高い 311日本@名無史さん2018/11/13(火) 23:15:45.11
方形周溝墓と段築を持つ方墳は直接繋がる訳じゃないぞ
312日本@名無史さん2018/11/13(火) 23:32:44.40
西新町U式はUC期、布留1式まで
祇園山の甕棺はUC期
313日本@名無史さん2018/11/13(火) 23:33:18.50
前方後円墳よりは繋がりがあるよw
筑紫倭国の伝統的な倭王墓は方形周溝墓だからね。
314日本@名無史さん2018/11/13(火) 23:34:04.90
>>312
それはザラコクの方が正しいとでも言いたいのかね? 315日本@名無史さん2018/11/13(火) 23:35:28.52
ザラコクはどうでもいい
316日本@名無史さん2018/11/13(火) 23:38:12.66
いずれにしても祇園山には殉葬跡がないから違うな
埋葬跡ならあるけど
317日本@名無史さん2018/11/13(火) 23:56:58.69
気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
318日本@名無史さん2018/11/14(水) 00:00:35.97
>>291
末盧国=呼子
伊都国=三雲井原遺跡群
奴国=須玖岡本遺跡
全て東南で合ってるがちゃんと地図見てくれる? 319日本@名無史さん2018/11/14(水) 00:01:48.13
>>293
三雲井原遺跡が三世紀当時の日本最大の集落跡
唐古鍵遺跡なんかより大きい
邪馬台国の七万戸としてふさわしい 320日本@名無史さん2018/11/14(水) 00:05:48.56
>>294
これが畿内説の暴論
纏向ありきのために魏志倭人伝の記述を根本から否定する
これがおかしいと思わないのか?
魏志倭人伝の記述から外れてる時点で纏向から何が出てこようと邪馬台国とは関係ない
鏡がどうのこうのと言うなら
井原1号墓から大量の内行花文鏡や方格規矩鏡が出土しており
三雲井原遺跡群が三世紀の当時最大の集落である 321日本@名無史さん2018/11/14(水) 00:06:54.55
殉葬の跡のある古墳って未だ発見されて無いから
今後の発見も期待出来ないんじゃね
大化の改新の際にも殉葬が禁止されてるから古代には殉葬はあったのかもしれんがもう骨も溶けちゃってるのだろう
322日本@名無史さん2018/11/14(水) 00:09:21.76
>>308
めぼしい遺跡がないのは奈良だろ
三雲井原遺跡群は三世紀当時日本最大の集落跡
北陸のヒスイや山陰の碧玉や九州から東海にかけての土器や楽浪土器出土
井原鑓溝は倭国王師升の墓
平原1号墓は大国の女王墓と確定
これだけ遺跡があってめぼしいものはないと言う畿内説者はメクラか? 323日本@名無史さん2018/11/14(水) 00:15:06.49
三雲井原は伊都国に比定されてるからでしょ
あきらめろ
324日本@名無史さん2018/11/14(水) 00:20:36.71
平原を上回る豪華な副葬品の王墓は国内からは発見されていない
325日本@名無史さん2018/11/14(水) 00:36:38.72
>>275
西新式土器のほかに、庄内式甕も出ているようだ。 326日本@名無史さん2018/11/14(水) 00:45:01.29
327日本@名無史さん2018/11/14(水) 00:57:23.14
>>318
>末盧国=呼子
呼子には国を想定できる遺跡がない
>伊都国=三雲井原遺跡群
これは通説通り
>奴国=須玖岡本遺跡
3世紀の奴国の中心は比恵那珂遺跡群の方
須玖岡本遺跡は卑弥呼の時代には古すぎる
そして
末盧国=呼子
伊都国=三雲井原遺跡群
奴国=須玖岡本遺跡
を認めたとしても、呼子ー三雲方向は東南東よりまだ東で東南ではないし
呼子から三雲へは東南陸行では行き着けない 328日本@名無史さん2018/11/14(水) 01:04:17.57
>>324
>平原を上回る豪華な副葬品の王墓は国内からは発見されていない
そんなことはない
平原1号墓はやたらに仿世鏡が多いのが特徴なだけ
鉄剣やガラスの玉類は丹波の赤坂今井墳丘墓や大風呂南1号墓の方が豪華だし、
鏡にしても、一つの墳墓からの鏡の出土数最多は桜井茶臼山古墳であって平原1号墓ではない
成人男子が10人もいれば1週間で作れるような小さな墓が
戸数七万戸の大国の王墓だと真顔で言える神経がすごいと思う 329日本@名無史さん2018/11/14(水) 01:09:11.51
330日本@名無史さん2018/11/14(水) 01:37:23.23
「徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人」
日本に奴婢を徇葬する習慣などない。
垂仁紀の埴輪誕の記述は魏志を解釈した上書きだ。
徇葬者奴婢百餘人は慣習ではなく事件だ。
かつて女子高生コンクリ―ト詰め殺人事件という胸糞悪い事件があったが
日本に女子高生をコンクリ―ト詰めにする習慣がないのと同じだ。
徇葬者奴婢百餘人、これは神武軍によるものであった。
場所は葛城の高天原。
誅された奴婢とは土蜘蛛。
今も高天原の日本最古の神社に怨霊を封印された土蜘蛛の痕跡が残る。
331日本@名無史さん2018/11/14(水) 01:46:21.27
それにしても、どういうことなんだろう、あの鳥のような置物とか、
『三貴子』
ググると出てきたりする画像があるでしょ、スサノオ・・・・などの画像
332日本@名無史さん2018/11/14(水) 01:50:04.29
本当に家『松傾』?の話なんだけど
むかーしは、イナリ(稲?)があって、そういうのを祀っていた?
みたいなことを言っていたり
『広瀬座』というところがあってという話も
333日本@名無史さん2018/11/14(水) 01:54:38.41
>>328
それはない
平原王墓出土の内行花文鏡は直径46.5センチで日本最大
同年代の他の遺跡で四十枚の破砕された銅鏡は出土していない
墓が小さいというが埋もれてしまっているが墳丘もあるのでかなり巨大
東南アジアからもたらされたガラス玉
当然鉄器も出ている
ここまでの女王墓はほかに一切ない 334日本@名無史さん2018/11/14(水) 01:59:45.73
祇園山古墳は筑後平野一帯を治めた王の墓
伊都国において一般的だった福井式甕棺を使用している点から
伊都国の支配下にある人物の墓である
335日本@名無史さん2018/11/14(水) 02:01:59.28
桜井茶臼山古墳や椿井大塚山古墳や黒塚古墳は
平原より後
平原の主が東遷し伊都倭国の畿内浸透の表明
336日本@名無史さん2018/11/14(水) 02:02:27.37
民家園に保存されている家があるんだけど、
上の名前の読み方が違っていたり・・・でも、
そこの話をしていた
家は『松傾』?あの写真
337日本@名無史さん2018/11/14(水) 02:15:11.16
平原1号は埋もれているのではなくて墳丘が削られていた
巨大な墳丘ではない
鏡は1枚も棺に入れていないから
被葬者の権威を示すようなものでもないだろう
珍しいインドパシフィックビーズらしいは持っているから南越系商人程度だろうな
338日本@名無史さん2018/11/14(水) 02:22:28.55
気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
339日本@名無史さん2018/11/14(水) 02:34:13.64
ネタなのかな?
釣り竿を持っている画.........タイ、スズキとか?
340日本@名無史さん2018/11/14(水) 02:39:04.17
イナリ、寿司関係の話?
『何者にもなれない お前たち』
タコ(『スーパー・オクトパス・ホールド』)が出てきたり、
太平プロレス?太平洋?
341日本@名無史さん2018/11/14(水) 03:01:24.41
どのスレに書いても同じような気がする
TWINZER『PLACE FOR TWO』
素顔見せて〜というのも、ジェイソンのテーマ?
342日本@名無史さん2018/11/14(水) 03:04:27.04
桃マスク、天狗面?『ザ・モモタロウ』?
343日本@名無史さん2018/11/14(水) 03:06:13.64
稲荷面?
ジェイソンのテーマでしょ
344日本@名無史さん2018/11/14(水) 04:14:49.50
ゴカイ、ミミズ
確か、ハエの幼虫?みたいなエサ(釣り)も売っているし・・・、
本当に何の話なんだろう
『地球が釣れた』?
345日本@名無史さん2018/11/14(水) 04:27:18.84
『ハエの幼虫 釣り餌』
調べると出てくるはず、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ほとんど、同じような作品(テーマ)ばかりだしな
346日本@名無史さん2018/11/14(水) 05:06:09.82
土葬禁止・・・みたいな作品ばかりなのかな
347日本@名無史さん2018/11/14(水) 07:12:43.88
>>832
>庄内大和甕は内里八丁遺跡等で初現的な物が現れる
その後に纏向遺跡を中心に大和東南部に限定的な流行がみられるようになる
大体弥生時代終末期の230年とかそのくらい 石塚が最初じゃない <
hmuseum.doshisha.ac.jp/html/research/kizuyodo/pdf/chapter6.pdf#search=%27%E5%86%85%E9%87%8C%E5%85%AB%E4%B8%81%E9%81%BA%E8%B7%A1%27
によれば、
(4)木津川左岸 内里八丁遺跡(第4図4 森下・柴2001)木津川が形成した自然堤防上に立地する集落遺跡で、
弥生時代後期後半から古墳時代前期、古墳時 代後期の遺構、遺物が検出されている。
当遺跡の西に横たわる男山丘陵では古墳時代前期後半の石不 動古墳、茶臼山古墳、西車塚古墳、東車塚古墳などの前方後円墳、前方後方墳が分布する(第2図)。
また、前期末から中期初頭にはヒル塚古墳と美濃山大塚古墳が築造された。・・・
内里八丁遺跡では、弥生時代後期末から古墳時代初頭(庄内式期)の竪穴建物跡38棟、小型掘立 柱建物跡1棟が検出されている・・・
報 告では庄内式期を1〜3期に区分するが、1・2期には居住域で周溝状遺構が検出され、居住域に隣 接する水田跡も確認されている・・・
他地域との交流を示す出土遺物として、自然流路から1期の近江系、河内系、 近江・東海系、丹波・丹後系、
2期の近江・東海系、丹後・丹波系、播磨系の土器が出土している。
以上、「230年とかそのくらい 石塚が最初じゃない 」という事の根拠にはなっていないな。 348日本@名無史さん2018/11/14(水) 07:17:39.09
349日本@名無史さん2018/11/14(水) 07:19:08.68
>>323
伊都国と奴国をあわせて邪馬台国、倭の王都 350日本@名無史さん2018/11/14(水) 07:20:32.06
>>328
>平原1号墓はやたらに仿世鏡が多いのが特徴なだけ
後漢の影響から離れて、独自の道を歩み始めた卑弥呼の治世の特徴がよく出ているね。 351日本@名無史さん2018/11/14(水) 07:23:01.48
>>334
>祇園山古墳は筑後平野一帯を治めた王の墓
九州北部を支配する倭王ですね。
平原遺跡の卑弥呼の後継者である壹與が被葬者の候補にあがります。 352日本@名無史さん2018/11/14(水) 07:25:20.74
>>328
>鉄剣やガラスの玉類は丹波の赤坂今井墳丘墓や大風呂南1号墓の方が豪華だし、
>鏡にしても、一つの墳墓からの鏡の出土数最多は桜井茶臼山古墳であって平原1号墓ではない
後の時代の古墳を寄せ集めても、何の論拠にもならないということがわからないのか。
>>337
>珍しいインドパシフィックビーズらしいは持っているから南越系商人程度だろうな
こういう書き方がかえって畿内説の偏向ぶりを強調して信頼を失うことが理解できないのかな? 353日本@名無史さん2018/11/14(水) 07:25:27.03
>>832
>で、この段階だと大和甕は限定的な分布だが、その後の布留式に繋がる技術系譜を持っている
なので庄内式の変化の変遷を見ると下記のようになる
河内型→各地に伝播後衰退し布留式に変わる
↓
大和型→大和東南部→布留式→全国展開
と言う流れになる
なので、大和に成立した邪馬台国は最初は河内方面からの影響で成立したが、程なくして中心地としての地位を確立する
と言う流れが明らかになる<
まあ、米田の言っていた事に近い流れだが、
それでも、
「纏向遺跡を中心に大和東南部に限定的な流行がみられるようになる
大体弥生時代終末期の230年とかそのくらい 石塚が最初じゃない」
というキミの主張の根拠は何もない。 354日本@名無史さん2018/11/14(水) 07:41:06.40
>>834
>土器、古墳などの動きをみると大和の邪馬台国の発展の過程を追うことが出来る<
邪馬台国なんて存在もしない「結論先にありき」の嘘つき騙しありき」の文言であり、×。
>吉備、河内、摂津、近江等の勢力が大和に邪馬台国を共同して樹立
↓
大和が新中心地としての地位を確立
↓
全国的な文物発信源となる という過程が見える <
見えない。
九州倭国の倭王武の「自昔・・・東征毛人五十五國」という上表の方が、
はるかに確率の高い情報であり、
それを無視したり覆したりする事はほぼ不可能であるのであり、
歴史推論の出発論理になる。
>大和の邪馬台国が弥生時代から発展的に邪馬台国になったのではなく各地域の連合によるものだと分かる
そしてその連合によって樹立された中心地が時代を追うごとに地位を確立していく動きとなる <
その「連合」の発生が、「東征毛人五十五國」事件であった訳で、
米田が言うように、河内が中心的であったらしい。 355日本@名無史さん2018/11/14(水) 07:50:13.15
気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
356日本@名無史さん2018/11/14(水) 07:59:41.58
>>274
デマと思うなら立証しないと
デマで片付けるのは学の無い証拠ですよ
反論が大事ですよ 357日本@名無史さん2018/11/14(水) 08:04:33.83
優れた考古学者が畿内説を完璧に論破した今、このスレはどうすればいいのかな、、、
358日本@名無史さん2018/11/14(水) 08:20:29.12
>>356
オマエ、ホントに学がないな
オマエがオカマだって噂は
どうやってデマと証明するんだ?
反論してデマだと証明してみせろよ
わかるか?
「デマだ」って指摘が反論なんだよ
「デマでない、ホントだ」って証拠だ出せないことでデマだと証明されるんだ 359日本@名無史さん2018/11/14(水) 08:21:30.35
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
360日本@名無史さん2018/11/14(水) 08:26:11.32
フェイクニュースとして世に広めれば良いのではないかな、、、
361日本@名無史さん2018/11/14(水) 08:26:35.99
>>352
偏向価値観で連呼してるのがお前だよ
だからチョンボをこいてしまう 362日本@名無史さん2018/11/14(水) 08:31:38.79
363日本@名無史さん2018/11/14(水) 09:42:55.37
>>841
>庄内式はその分布状況を見ても河内に濃密に存在している<
米田もそう言っている。
>大和は大和型を多く出す場所は限定的でそれ以外の場所ではX式土器を継続していると言う状況がみられる
この事からも邪馬台国が、大和自生の物ではなく、
外部の影響によって纏向に成立したものであると理解できる<
九州倭国の東征毛人五十五國の中心地であったのは、河内だった、という事になる。
その河内の久宝寺と加美に、
285年頃の扶余の乱で発生した伽耶からの陶質土器と庄内が共存していた。 364日本@名無史さん2018/11/14(水) 09:53:37.58
>>845
>鏡:破鏡と小型?製鏡しかない。西日本各地には完形鏡が多く見つかっている<
筑紫には、明帝の銅鏡百枚や、渡来の呉系楽浪鏡師の鏡が大量にあり、大和は0。
>絹:麻布よりも粗雑な糸くずが一つ見つかるだけ。こんなもんで良いなら纏向の絹の袋の方がよっぽどマシ<
明帝の下賜とが考えられる「中国絹」は筑紫だけ。
>丹:当時の九州に丹山など存在しない <
阿蘇付近のベンガラは幾らでもあったあったし、西日本から「市」を介して幾らでも手に入れられた。
バカ大和説は、九州の事を何も知らずにバカ丸出しの妄想を叫んでいるとよく分かりますね。
みなさん、これが「南→東」などの嘘つき騙しの大和説です。 365日本@名無史さん2018/11/14(水) 09:57:27.35
>>847
「南→東」などの嘘つき騙しの大和のアホと話しても、何の意味もないのがよく分かる。
何一つ考えず、「戦前の万世一系皇国史観」という結論先にありきのバカの集まりだからな。
短いレス一つでよく分かる。 366日本@名無史さん2018/11/14(水) 09:59:57.36
>>349
>伊都国と奴国をあわせて邪馬台国、倭の王都
国二つ分が王都とかww
都のほうが国より大きいなんてのは、最初から破綻してるだろうがw
そして、伊都国千戸、奴国二万戸と明記してあるから、どうやって足しても
邪馬台国七万戸には五万戸近く足りない
そういう無理筋の話を「でっち上げ」る以外に九州説を唱える余地がないってことだ 367日本@名無史さん2018/11/14(水) 10:01:09.09
>>350
>後漢の影響から離れて、独自の道を歩み始めた卑弥呼の治世の特徴がよく出ているね。
大陸の影響が皆無になって、魏から銅鏡100枚をもらった勢力と無縁だったことがよく出ているね 368日本@名無史さん2018/11/14(水) 10:02:15.11
>>351
>九州北部を支配する倭王ですね。
奴国一国の首長である那珂八幡古墳被葬者よりも小物なのに?ww 369日本@名無史さん2018/11/14(水) 10:03:04.58
>>356はオカマである 福岡の幼稚園の経営者でキショいオカマ 370日本@名無史さん2018/11/14(水) 10:11:16.83
>>352
>後の時代の古墳を寄せ集めても、何の論拠にもならないということがわからないのか。
後の時代じゃないんだよ
弥生終末期と古墳時代とは、古墳と作るかどうかの違いだけの一続きの時代
大きな古墳が作れないところは、弥生終末期にも実力のなかった地域 371日本@名無史さん2018/11/14(水) 10:12:33.05
372日本@名無史さん2018/11/14(水) 10:12:44.91
>>848
>大和はあくまでも近畿周辺のクニグニの連合によって新規に中心地に設定された場所であるのが分かる<
近畿は、九州倭国の東征毛人五十五國の中の一地域の「市」の国々であり、
その中心は河内であり、大和はそのおこぼれ頂戴であった、という事が分かる。
>大和独自の勢力の確立と拡大がはじまるのが布留式の段階であるのが土器の分布から明確になる<
近畿付近の布留も、4世紀頃にや、筑紫や南加賀からの伝播であったらしい。
>布留遺跡の発展も4世紀〜5世紀後半であることからも大和が政権の中枢として成長して
それに付随する地元豪族が成長している姿が見える<
九州倭国の分都(倭京)としての河内の発展は、7世紀の難波宮まで続いた。 373日本@名無史さん2018/11/14(水) 10:13:30.89
つまり、テンプレートは完全に論破されてしまったのだね。。。
374日本@名無史さん2018/11/14(水) 10:14:22.68
>>356
>デマと思うなら立証しないと
逆だろ
出までないと主張するなら、>>273の
「祇園山の“庄内”は筑前型庄内甕であり、大和庄内甕の技術を習って地元の土で焼いたもの。
その筑前型庄内甕の早い時期のものではないか。」
を検証できるだけの、根拠、ソースを具体的に提示しないと!
適当にデマを書き込んで「そっちで調べて否定できなければ正しいことと認めろ」式の
主張をするのは、詐欺師の論法であり科学の手法ではない 375日本@名無史さん2018/11/14(水) 10:18:29.08
>>373
テンプレートが、詐欺師の論法であり科学の手法ではないことが、証明されてしまった今、なぜ、畿内説が詐欺行為を実行したのかを、討論すれば良いのではないのかな。。。 376日本@名無史さん2018/11/14(水) 10:20:15.66
377日本@名無史さん2018/11/14(水) 10:26:44.96
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
378日本@名無史さん2018/11/14(水) 10:43:43.97
うめ
379日本@名無史さん2018/11/14(水) 10:43:59.26
うめ
380日本@名無史さん2018/11/14(水) 10:44:44.62
>>854
>卑弥呼時代の大和の邪馬台国は緩やかな連合体で、<
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙しの文言であるから、×。
>卑弥呼死後に中心地としてよりハッキリと発展している形になる
卑弥呼死後の後継者争いなどもコレに該当するのだろうか<
「南≠東」などに拠って、大和は×。 381日本@名無史さん2018/11/14(水) 10:47:37.15
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w w w w w デマだけが 九州説の 生きる道
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382日本@名無史さん2018/11/14(水) 10:52:43.14
>>860
>張政は卑弥呼の墓を見ていない可能性が高い。
なので、周辺の方形周溝墓などもみていないと思われ。<
倭人は「里」を知らないのだから里歩系単位の「歩」も知らず、
だから、「大作冢、徑百餘歩」は、張政らの実見記録であった事になり、
だから「jun葬者奴婢百餘人」も、張政らの実見記録であった事になる。 383日本@名無史さん2018/11/14(水) 11:03:45.79
>>861
>石塚古墳は8次調査で盛り土内から庄内1式土器が出土して他のものが混在していない
この事から築造は3世紀前半と考えられている<
石塚は、卑弥呼の「冢」ではなく、撥型前方後円墳の「墳」であるから、卑弥呼よりも後の時代であり、
また、筑紫の那珂八幡の「くびれ部彎曲」ではなく「撥型」の前方後円墳であるから、
卑弥呼のずっと後の那珂八幡よりも後である事になり、早くて3世紀末であり、
「3世紀前半」説は、全く×。
>近年では寺澤説のように3世半ばと言う年代観も提示されている<
寺澤の「3世紀半ば」説も、勿論×。
>この時期は卑弥呼の死後にちょうど前後する時期となる
倭人伝では特徴的な墳墓の築造は卑弥呼死後について記載されているので時期的に一致する<
50年位は合わない。 384日本@名無史さん2018/11/14(水) 11:19:19.11
>>383
>石塚は、卑弥呼の「冢」ではなく、撥型前方後円墳の「墳」であるから
それ、世界でたった一人、素人老人zarakokuが理由もなく唱えてる説だけど
それがどうしたの? 385日本@名無史さん2018/11/14(水) 11:20:44.79
うめ
386日本@名無史さん2018/11/14(水) 11:20:54.50
うめ
387日本@名無史さん2018/11/14(水) 11:21:21.76
うめ
388日本@名無史さん2018/11/14(水) 11:22:29.87
うめ
389日本@名無史さん2018/11/14(水) 11:30:26.82
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
390日本@名無史さん2018/11/14(水) 11:32:21.14
>>337
平原王墓は巨大な墳丘
木棺は残存していなかっただけ
内行花文鏡、方格規矩鏡40枚は国内最大
ガラス玉は東南アジア産
伊都国は玄界灘の制海権を確保していた 391日本@名無史さん2018/11/14(水) 11:36:27.33
>>366
三雲井原より集落規模の小さい唐古鍵を七万戸に比定する畿内説よりマシ 392日本@名無史さん2018/11/14(水) 11:40:45.53
>>368
那珂八幡は卑弥呼の時代ではない
纏向型前方後円墳は四世紀以降のもの
平原女王=卑弥呼の後イト倭国が東遷してヤマト政権となり前方後円墳が各地に普及したもの
椿井大塚山や黒塚の銅鏡大量副葬平原女王の影響 393日本@名無史さん2018/11/14(水) 11:48:16.02
また根拠なく東遷とか言ってるし
394日本@名無史さん2018/11/14(水) 11:51:56.64
>>868
>中国の史書だと台与の後に男性王が特に問題もなく即位して
使節を晋、宋、斉、梁、隋とずっと継続しているとしている<
台与なんて存在もしない嘘つき騙し文言であり、×だし、
「使節を晋、宋、斉、梁、隋とずっと継続している」のは、
(大和ではなく)、九州倭国の話だ。
>大和と東海方面の土器や墓制も大和を主体に緩やかに統合していく流れが見えている<
大和が主体ではない。九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の結果だ。
>なので狗奴国は自然消滅的に邪馬台国に吸収されていったのだろうと思われる<
狗奴國も「南」に拠って九州にあったのであり、
「邪馬台国」も存在もしない嘘つき騙し文言だ。
>そもそも纏向の原型とされる伊勢遺跡方面に前方後方墳の起源があると言う説が近年有力になりつつある
なので、纏向そのものが東海の狗奴国勢力との連帯を目指して作られた場所と言う事も考えられる
搬入土器が東海主体と言う点がその考えを補強する <
近江も、(大和における欠史八代の頃の共存時代と同じように)、
九州倭国の「東征毛人五十五國」に拠って、出雲系や越系部族との共存があったので
あり、
前方後方墳も、東征将軍ら前方後円墳部族の,近縁の部族が来ていた、という事になるだけ。 395日本@名無史さん2018/11/14(水) 12:00:25.35
ところで、濃尾平野周辺部から尾張北部には三角縁神獣鏡が偏って出土しているね、、、
396日本@名無史さん2018/11/14(水) 12:02:26.06
尾張北部には天火明命や天香山命を祀る神社も偏って存在するのではなかったのかな、、、
397日本@名無史さん2018/11/14(水) 12:03:25.68
>>875
>(梁書、北史)これを踏まえて
隋書にタリシヒコの系統、ひいては後の平安時代の天皇と系譜をつながる
と中国が認識している<
認識していない。
九州倭国と大和日本国とははっきり別の国であった、と書き、
大和日本国は九州倭國から別れた別種の旧小国であったとし、
白村江の中国の対戦相手は「倭國」や「倭衆」や「倭賊」として、大和日本国を挙げず、
その後、大和日本国が九州倭国を併合した、という事をはっきり書いている。 398日本@名無史さん2018/11/14(水) 12:04:46.54
>>382
その里を知らずは、暦を知らずの誤りだろう。 399日本@名無史さん2018/11/14(水) 12:05:19.90
犬山市の東之宮古墳では、鏡作坐天照御魂神社で出土した三角縁神獣鏡の同范鏡が出ていたのではなかったのかな、、、
400日本@名無史さん2018/11/14(水) 12:08:07.72
東之宮古墳は4世紀初めの古墳らしいね、、、
崇神天皇の四道将軍の派遣と何か関係があるなら、崇神天皇は3世紀末から4世紀初めころの人物というわけだ、、、
401日本@名無史さん2018/11/14(水) 12:10:46.78
秋津遺跡や纏向遺跡から特徴的なS字甕が見つかったのではなかったのかな、、、
伊勢尾張との関係が多いに示唆されるという、、、
402日本@名無史さん2018/11/14(水) 12:14:22.80
秋津遺跡は2世紀から3世紀の遺跡と、言われていたのでは、なかったのかな、、、
403日本@名無史さん2018/11/14(水) 12:15:38.26
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
404日本@名無史さん2018/11/14(水) 12:26:02.19
405日本@名無史さん2018/11/14(水) 12:26:15.88
どうして孝昭天皇と孝安天皇の宮は秋津遺跡の近くにあるのだろうか、、、
神武天皇社の近くに水平社博物館があるのだね、、、
キウス氏だったか、、、人権問題を指摘していたのはそういうことだったのか、、、
406日本@名無史さん2018/11/14(水) 12:31:08.50
>>390
>平原王墓は巨大な墳丘
たった14メートル×12メートルの方形周溝墓が?
九州説の人は、どう言う神経で
すぐバレる嘘を平気でつきまくるの? 407日本@名無史さん2018/11/14(水) 12:33:30.08
>>366
>都のほうが国より大きいなんてのは、最初から破綻してるだろうがw
伊都国のことか?
魏志倭人伝で国というのは国邑を指すから、王都だったり王都を含んでいたりしてもいい。 408日本@名無史さん2018/11/14(水) 12:34:41.53
>>370
>弥生終末期と古墳時代とは、古墳と作るかどうかの違いだけの一続きの時代
そりゃ幕末と明治もひと続きだけど、何も意味がない反論だ。
お前はもう歴史を語るな。 409日本@名無史さん2018/11/14(水) 12:36:07.65
410日本@名無史さん2018/11/14(水) 12:36:19.52
鏡作坐天照御魂神社は唐古・鍵遺跡の近くにあるのだな、、、
銅鐸の代わりに三角縁神獣鏡を複製したのではないかな、、、
411日本@名無史さん2018/11/14(水) 12:36:51.52
>>390
>伊都国は玄界灘の制海権を確保していた
その通り。
伊都に葬られていた女王は、当時の対馬海峡から運ばれてくる中国産の宝物の大半を独占していた。
それが可能なのは、大率で対馬海峡を支配して荷を検疫していた倭国女王卑弥呼だけ。 412日本@名無史さん2018/11/14(水) 12:38:16.31
>>406
至伊都国五百里、又南至邪馬台国
と書かれた文書もあるんだよ。 413日本@名無史さん2018/11/14(水) 12:39:18.02
>>406
方形周溝墓は、三雲南小路などの他の倭王墓も同じだから、平原も倭国女王卑弥呼の墓で良い。
大きさは問題ではない。
墓制と副葬品で語るべきだ。 414日本@名無史さん2018/11/14(水) 12:41:11.18
>>390
復元した墳丘は小さいよ
一度くらい行って見てみ 415日本@名無史さん2018/11/14(水) 12:44:55.69
>>413
三雲と平原1号は埋葬姿勢が違うから
墓制が違う 416日本@名無史さん2018/11/14(水) 12:45:38.93
丹波からやってきたという村雲家は、秋津遺跡に住んだのではないかな、、、
ヌナカワミミ天皇がタギシヒコを追い出したことで、登美家が復権したということかもしれないね、、、
417日本@名無史さん2018/11/14(水) 12:47:39.84
418日本@名無史さん2018/11/14(水) 12:48:22.04
墓が包茎なら径は使わない別の表現でしょうね
朝鮮は方墳だった気がするけど大きさの記載あるんかな
419日本@名無史さん2018/11/14(水) 12:54:04.93
鏡作りに関わる伊福部氏も美濃尾張に来ているのだな、、、
420日本@名無史さん2018/11/14(水) 12:54:35.66
>>408
幕末ー明治は大政奉還、戊辰戦争を経ているから、ひと続きじゃない 421日本@名無史さん2018/11/14(水) 12:57:30.50
>>413
なんで倭王って決めてるわけ?
九州説はいつも結論先にありきだな 422日本@名無史さん2018/11/14(水) 13:00:59.14
穂積氏はクーデターで孝元天皇を擁立したというのは本当だろうか、、、
孝元天皇は実は神八井耳の子孫だという、、、
423日本@名無史さん2018/11/14(水) 13:03:31.65
穂積氏が熊野にもいるのはうましまじと関係がありそうだな、、、
424日本@名無史さん2018/11/14(水) 13:06:40.64
2世紀に播磨と吉備出雲で二つの大乱があったそうだね、、、
425日本@名無史さん2018/11/14(水) 13:10:19.12
孝元天皇が3世紀の平和な時代だったということかな、、、
426日本@名無史さん2018/11/14(水) 13:10:33.18
>>879
>南斉書を見ると漢末に女王が立ってその後に安東大将軍から進んだ鎮東大将軍の称号を得ているとある
この中で倭の王が卑弥呼から続いて倭の五王から続く朝鮮半島の統治者の称号を引き継いでいる事が分かる
つまり中国は女王卑弥呼からの系譜が後の倭の五王、そして更に後の飛鳥、奈良、平安と継続していると認識しているのが分かる<
この大和説男が、また、嘘つき騙しをしている、という事が分かる。
卑弥呼から倭の五王やタリシホコに続いたのは、
「正北抵東」に拠って北部九州の倭國なのであり、
大和の日本国なのは、その北部九州の倭国から別れた別種の旧小国だった、
と書かれているのであり、
その大和の日本国が、北部九州の倭國を併合したのだ、と書かれている。 427日本@名無史さん2018/11/14(水) 13:11:19.93
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
428日本@名無史さん2018/11/14(水) 13:16:37.97
唐古・鍵遺跡が衰退したのは、大乱のせいではないかな、、、
429日本@名無史さん2018/11/14(水) 13:25:18.98
>>884
>>(周髀算経の漢初期に収集編集された本)整地など、全く必要がないし、
算術書にそんな整地範囲の作業を書くなんて事も、全く必要がないく、
始めから「則位徑一百二十一尺七寸五分。因而三之,為三百六十五尺、四分尺之一,以應周天三百六十五度、四分度之一」
の作図を地面にすればよいのであり、
また、一寸千里の法の測影にしても、大地を整地する事なども、全く記載されていない。
そして、この男も、
「即平地徑二十一步,周六十三步。令其平矩以水正」は、全く無意味な文であり <
>書いてあるものは仕方がない
いくら自分に都合が悪いからって史料無視はいけない<
全ての文献は、当然「全ての事を知って書いた」筈もなく、
当然確率的なのであり、だから確率的な史料批判が必要なのであり、
「書いてある」事を100%絶対肯定する人間やお前は、
学問には向かない宗教や政治家であるから、
歴志や学問は、止めた方がよい。 430日本@名無史さん2018/11/14(水) 13:29:27.39
>>888
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説バカは、
いまだに「全て始皇帝の歩であり里だ」とか言う妄想にすがるだけしかないのか。
倭人伝さえもろくに読んでないアホが何を語るのやら。 431日本@名無史さん2018/11/14(水) 13:30:04.21
432日本@名無史さん2018/11/14(水) 13:34:43.12
銅鐸の代わりに鏡による王権祭祀が始まったのが3世紀なのではないかな、、、
宮外に出した日を象った鏡とは、コピー品らしいね、、、
倭大国魂神社にも形代として八尺瓊を奉ったという、、、
剣は引き続き石上で奉斎したということだろうか、、、
433日本@名無史さん2018/11/14(水) 13:35:11.83
>>895
「南→東」などの嘘吐き騙しのアホ大和説者の、
意味不明なバカレスとか、本当にわけわからん。 434日本@名無史さん2018/11/14(水) 13:37:08.97
>>896
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説詐欺師の無知って、
悲惨だけど自由でもある。 435日本@名無史さん2018/11/14(水) 13:42:51.41
>>897
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者らは、
「犯罪者学校」卒なんだなん老人から、
資料の扱い方がわからないって告白してるんだよ。 436日本@名無史さん2018/11/14(水) 13:43:29.62
登美家の大ミケ主がヤタガラスだったのだな、、、2世紀末なのか、、、
437日本@名無史さん2018/11/14(水) 13:49:56.70
>>429
>>>884
>>>(周髀算経の漢初期に収集編集された本)整地など、全く必要がないし、
>算術書にそんな整地範囲の作業を書くなんて事も、全く必要がないく、
>始めから「則位徑一百二十一尺七寸五分。因而三之,為三百六十五尺、四分尺之一,以應周天三百六十五度、四分度之一」
>の作図を地面にすればよいのであり、
>また、一寸千里の法の測影にしても、大地を整地する事なども、全く記載されていない。
>そして、この男も、
>「即平地徑二十一步,周六十三步。令其平矩以水正」は、全く無意味な文であり <
>
>>書いてあるものは仕方がない
>いくら自分に都合が悪いからって史料無視はいけない<
>
>全ての文献は、当然「全ての事を知って書いた」筈もなく、
>当然確率的なのであり、だから確率的な史料批判が必要なのであり、
>「書いてある」事を100%絶対肯定する人間やお前は、
>学問には向かない宗教や政治家であるから、
>歴志や学問は、止めた方がよい。
そうまでして周髀算経の本文に書いてあることを
絶対拒否したいなら
一寸千里も否定で、いいよね
結論でましたわ 438日本@名無史さん2018/11/14(水) 13:50:38.65
>>421
伊都を中心とする倭国は九州にありヤマト国とは別 439日本@名無史さん2018/11/14(水) 13:53:37.82
>>415
三雲井原遺跡群倭国大乱以前の伊都国のものである
大乱以後伊都を中心とする連合政権である邪馬台国=倭国となり
女王は日巫子として曽根丘陵の平原に宮殿を持ち
平原に全く新しい形の墓となった 440日本@名無史さん2018/11/14(水) 13:55:10.95
>>898
>あんた・・・標高って海抜だぞ どうやって測るつもりだ? 馬鹿ではないのか? <
何だ?、何だか変な言い方をしている、っと思ったら、
この男は、やっぱり?、「標高」という文言にイチャモンを付けよう、としていたのか。
「標高」は、当然「標準になる位置からの標準的な高さ」と言っているだけであり、
中国大陸では、ほぼ「標高≒海抜」である、という事になるだけだ。 441日本@名無史さん2018/11/14(水) 13:57:16.08
>>428
唐古・鍵なんぞ衰退も何も大した集落ではない
伊都国の王都である三雲・井原のほうが日本最大である 442日本@名無史さん2018/11/14(水) 14:01:09.36
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
443日本@名無史さん2018/11/14(水) 14:05:33.58
>>411
「東南陸行五百里 到伊都國」だから、伊都国は内陸国だと思うぞ。玄界灘の制海権を確保していたなんて思えないな。
「大率で対馬海峡を支配」って「率」は司令官のことで軍団のことじゃないぞ。意味を取り違えてる。
「『魏志』には”一大石””一大蛇””一大統”という言葉が出てくるので、”一大率”もこれらの”一大...”の中の一つだと思われがちであるが、じつはそうではない。
三字をさらに区切るなら、
”一大石”は”一 大石”
”一大蛇””は一 大蛇”
”一大統”は”一 大統”
というような、”一”は”一つの”という意味になる。
したがって、ちょうど英語のaやanのような冠詞になる。そして”大”を加えると、まさに、a bigと同じ意味になって、石、蛇、伝統いうのにちょうどいいようになる。
しかし、”率”にa bigというのはおかしいし、例え”大”をbigといわずにgreat、largeといい変えてもおかしい。
日本で”率”を”軍団”と誰かがでっち上げたから、”一大率”を”一つの大率”と取っても違和感がなくなったが、もともと”率”は”軍団”ではなく、”師”であり、分かりやすくいえば”司令官”という意味である。」
誤読だらけの邪馬台国 444日本@名無史さん2018/11/14(水) 14:07:18.85
>>439
連呼民族の妄想
平原は三雲から見えない曽根丘陵の西側 445日本@名無史さん2018/11/14(水) 14:08:00.72
>>432
畿内の連中が銅鐸を後生大事に崇拝していた時代から
伊都王都である三雲井原遺跡群では大量の漢鏡が出土する
やがて全国的に漢鏡が銅鐸を駆逐して畿内も鏡文化圏に入る
これは伊都を中心とする北部九州が畿内を駆逐したという事 446日本@名無史さん2018/11/14(水) 14:10:47.56
>>914
>メジャーな学者、文筆家はほぼ全員機内説だわ <
当たり前ではないか。
日本では、「戦前の万世一系皇国史観」信仰の安部自民政府や文部省自体が、
戦後の始めから「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説であって、
大学や学会教育界やマスコミやYahooや5chなどを牛耳っているんだから、
国民の7割に否定された位では、
「メジャーな学者、文筆家」が、九州説を唱える、てな事が出来る筈が全くのようにない。 447日本@名無史さん2018/11/14(水) 14:11:58.91
>>443
伊都国が玄界灘の制海権を確保していたからこそ
軍事警察権を司る一大率があり郡使は常に伊都に留まったと考えるほうが自然
楽浪土器から東海系土器まで出土する伊都国は
朝鮮半島から東海まで広い範囲で勢力を持っていたという事 448日本@名無史さん2018/11/14(水) 14:12:37.62
>>515
「南→東」などの嘘吐きだましの、
そんな中身のない悪口ばかり言ってるから、
大和説は誰も納得させられないんじゃないのか?。 449日本@名無史さん2018/11/14(水) 14:21:11.00
>>447
制海権を持ってるような海洋国家に船じゃなくて陸から行くわけないだろ。港がなかったんだよ。
「一 大率」じゃなくて「一大 率」、一大国の司令官だよ。もし制海権をもっているのは一大国で、そこが女王国の手先になってる。 450日本@名無史さん2018/11/14(水) 14:22:42.85
>>444
現地に行ったこともないお前が妄想と言える資格はない
平原王墓は曽根丘陵の北端だから三雲井原から見える
その先には日向峠があり
棺は日向峠方面を足側にして
日向峠から差し込む朝日を女王が浴びるように作られている
この墓に埋葬された人物は卑弥呼しかありえない
>>406
曽根丘陵全体が墳丘なのだが 451日本@名無史さん2018/11/14(水) 14:23:24.12
>>918
>>畿内説は口先三寸のレトリックでディベートの技術だけ磨いているかのようだが <
>畿内説側は、いちいち根拠やソースを貼ってるんだが?<
大和説者側は、「南→東」などの嘘吐き騙しに対する批判に対して、
反論も根拠もソースなども全くのように張っておらず、提示も出来ず、逃げ回っているだけなんだが。
>一言レスで根拠なしでごまかしてるのが九州説だろ?
まあ、レトリックもディベートの技術も、九州説には皆無なのは認めるけどさw<
一言レスで口先でごまかして、実質的な反論から逃げて誤魔化してるのが大和説だろ?。
まあ、レトリックもディベートの技術も、
嘘つき詐欺師の大和説者には皆無なのは認めるけどさw。 452日本@名無史さん2018/11/14(水) 14:23:42.49
>>447
楽浪土器は博多で庄内甕の模倣製作が始まるTB期から減少しUA期に停止する
弥生終末期は博多、古墳初頭は西新が外港 453日本@名無史さん2018/11/14(水) 14:27:56.03
つまり、畿内説の宣伝係のキナイコシが作製したスレッドのテンプレートが、論破されたのは、キナイコシにレトリックもディベートの技術も足りないからではなく、畿内説が破綻したからなのだね。。。
454日本@名無史さん2018/11/14(水) 14:29:16.21
>>919
「畿内説」などという、存在もしないという口先騙しのディベートばかり上手すぎてばかり、
「南→東」などの大和説破滅。
まあ学問的裏づけがない、からこそなんだが。 455日本@名無史さん2018/11/14(水) 14:29:27.17
>>449
当時の海岸線は今津湾と加布里湾が深く入り込んだ入り江で海はずっと近い
志登、今宿、元岡など海に面した集落もある
大和盆地まで湖が深く入り込んでたという前提で唱える畿内説のバカな主張よりよっぽどマシ 456日本@名無史さん2018/11/14(水) 14:33:59.01
>>924
そして大和説学者らは、「南→東」などの嘘吐き騙しの、脳無しの学者。 457日本@名無史さん2018/11/14(水) 14:35:45.50
九州バカって思い込みの脳内の偉大なる先進国大九州帝国を妄想して喚いてるから笑えるな
こいつ等って考古学なんて何一つ興味ないとよく分かる
こんなアホが知りもしないで分かる程の優位が九州にあるならだれも苦労せんわw
458日本@名無史さん2018/11/14(水) 14:36:23.41
>>453
畿内説の宣伝係のキナイコシが作製したスレッドのテンプレートが、論破されたのは、畿内説が破綻したからだけではなくて、キナイコシに脳が無いからではないのかな。。。 459日本@名無史さん2018/11/14(水) 14:37:54.25
可也山(筑紫富士)
平原王墓
三雲井原(伊都王都)
日向峠
この四箇所が直線上に位置している
日向峠から朝日が昇り曽根丘陵上の平原に太陽が差し込む
伊都国は太陽神を司る王が支配していた
平原王墓の副葬品からその王は女王であり
やはり卑弥呼だろう
460日本@名無史さん2018/11/14(水) 14:39:02.93
461日本@名無史さん2018/11/14(水) 14:39:43.99
熊本城の地下には、太陽神が永眠している可能性が高いな。。。
462日本@名無史さん2018/11/14(水) 14:40:27.08
岡上並みのアホがいた
463日本@名無史さん2018/11/14(水) 14:41:05.65
>>459
日向峠から朝日が昇る前に東の日本人は皆起床している 464日本@名無史さん2018/11/14(水) 14:42:03.48
>>457
イト地域から証拠が全て出ているのに
それを真っ向から否定するお前こそ考古学に興味がないんだろ
出て行け 465日本@名無史さん2018/11/14(水) 14:45:37.04
糸島の考古も地理もよく知らない連呼民族が>>464 466日本@名無史さん2018/11/14(水) 14:48:08.51
>>390
>平原王墓は巨大な墳丘
>木棺は残存していなかっただけ
平原1号墓の墳丘サイズは12×8メートル
同じ北部九州でも吉野ヶ里遺跡北墳丘墓は40×27メートルの大きさがある
平面プランで比べると、面積10分の1以下
たいそう巨大な墳丘だねww
吉備や出雲や丹波や大和では、もっと大きいのがあるぞw 467日本@名無史さん2018/11/14(水) 14:48:18.37
考古学の成果を援用してちゃんと歴史の復元をしろお前ら
468日本@名無史さん2018/11/14(水) 14:48:44.79
>>458
畿内説が破綻したので、脳が無い畿内説の宣伝係のキナイコシが、論破されてしまったのだな。。。 469日本@名無史さん2018/11/14(水) 14:49:46.07
イクメ王は佐穂彦やヒコタツ王やオオカモツミと戦ったのだね、、、
470日本@名無史さん2018/11/14(水) 14:52:26.77
石上神宮を継承してイニシキイリヒコが武器を納めたのだね、、、
3世紀後半ころだろうか、、、
471日本@名無史さん2018/11/14(水) 14:53:28.96
イクメ王は佐穂彦やヒコタツ王やオオカモツミと戦ったので、畿内説の宣伝係のキナイコシが焦っているな。。。
472日本@名無史さん2018/11/14(水) 14:53:32.38
馬韓の風俗
・毎年五月に種蒔きが終わると、鬼神を祭り、人々が群集して歌舞し、昼夜ぶっとうしで酒を飲む。
・そのとき舞われる舞いは、数十人が立って、一つながりになって地を踏み、手足を下げたり、高く上げたりして、音楽のリズムに合わせる。中国の鐸舞に似ている。
・十月に農作業が終わったときも、同様の行事がある。
・鬼神を信じ、国々の邑ではそれぞれ一人を選んで天神の祭りを司らせ、そのものを天君と呼ぶ。
・また、それぞれの国にはもう一つの邑があって、蘇塗と言う名で呼ばれる。そこには大きな木を立てられ、鈴と太鼓をぷら下げて、鬼神の祭祀を行う
卑弥呼の「鬼道」=馬韓の祭祀
はい確定
473日本@名無史さん2018/11/14(水) 14:55:34.71
ホケノに葬られた豊鉏入媛は
各地を転々とした後伊勢で亡くなったのだね、、、
ホケノから鏃が出るのは女将軍だったからなのか、、、
474日本@名無史さん2018/11/14(水) 14:58:03.89
>>391
>三雲井原より集落規模の小さい唐古鍵を
三雲遺跡群として、点々とある発掘地点を全部ひっくるめて言うから大きく見えるだけ
それと唐子鍵の環濠内だけで比べてるだろ
三雲遺跡群と比べるなら、清水風遺跡や三河遺跡といった唐子鍵の墓域や、
庵治遺跡や出屋敷遺跡、下永東城遺跡などの衛星集落も含めた初瀬川下流北遺跡群で
比べないとフェアじゃないよ
まあ、九州説はチェリーピッキングが常だから、フェアネスを求めるだけ
無駄かもしれないけどね 475日本@名無史さん2018/11/14(水) 14:59:50.70
476日本@名無史さん2018/11/14(水) 15:00:29.51
>>398
>その里を知らずは、暦を知らずの誤りだろう。
魏志倭人伝にはないけれど、隋書に
「夷人不知里數但計以日」とあるから、これのことだろう 477日本@名無史さん2018/11/14(水) 15:02:08.79
>>406
>たった14メートル×12メートルの方形周溝墓が?
それ、周溝の幅まで入れたサイズだよ
墳丘だけなら12×8メートルしかない 478日本@名無史さん2018/11/14(水) 15:03:00.34
イクメ王の娘の倭姫が箸墓の主人なのだね、、、
479日本@名無史さん2018/11/14(水) 15:03:47.48
>>408
>そりゃ幕末と明治もひと続きだけど、何も意味がない反論だ。
明治に大都市のあるところは、幕末の時点でも大都市だろ?
意味あるじゃんw
ごまかして逃げようとするなよww 480日本@名無史さん2018/11/14(水) 15:05:10.28
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
481日本@名無史さん2018/11/14(水) 15:06:26.01
>>439
>女王は日巫子として曽根丘陵の平原に宮殿を持ち
>平原に全く新しい形の墓となった
新しい妄想人が出現したな
平原に宮殿遺跡なんて一切ないぞww 482日本@名無史さん2018/11/14(水) 15:06:57.76
崇神天皇は宮崎で亡くなって、孫のオシロワケが九州を遠征ついでに古墳を作ったのだね、、、それがイクメ古墳群なのか、、、
483日本@名無史さん2018/11/14(水) 15:10:59.32
埋葬物については地理的に入手のしやすさが違うので
初期は九州が多いのは当然だから
その後に畿内に逆転されちゃってる事の方が重要では
デカい古墳をつくるって事は単純に国力が大きいんじゃね
古墳築造に従事してる連中に武器持たせれば軍隊になるって煽ってる話が確か記紀にあったし
世界を見渡しても貿易で栄えた都市国家は多いけど繁栄は一時期で最後は農業国に負けてるわけで
484日本@名無史さん2018/11/14(水) 15:13:59.39
オシロワケは東西に遠征したから
大和では賀茂家が実質取り仕切ったのだね、、、
桜井茶臼山古墳やメスリ山は賀茂家のものなのか、、、
行燈山は箸墓と似ているからイニシキイリヒコのものなのかもしれないね、、、
485日本@名無史さん2018/11/14(水) 15:17:17.64
素人の九州猿が知りもしないで分かる優位なんてものがあるなら論争なんてあるわけねーだろw
バカが
どうせまた「やよいじだいをつうじてー」とかいうバカ表を見て乗り込んできた邪馬台国の会のアホだろ
486日本@名無史さん2018/11/14(水) 15:23:34.05
破綻した畿内説の宣伝係のキナイコシが、論破されてしまったので、発狂して、九州人に悪口を言い放ったのではないのかな。。。
485日本@名無史さん2018/11/14(水) 15:17:17.64
素人の九州猿が知りもしないで分かる優位なんてものがあるなら論争なんてあるわけねーだろw
バカが
どうせまた「やよいじだいをつうじてー」とかいうバカ表を見て乗り込んできた邪馬台国の会のアホだろ
487日本@名無史さん2018/11/14(水) 15:26:22.96
なぜ、魏志倭人伝時代が、終わった後に、纏向遺蹟が作られたのだろうか。。。
488日本@名無史さん2018/11/14(水) 15:27:28.11
>>441
>伊都国の王都である三雲・井原のほうが日本最大である
また根拠もなく、妄想を撒き散らしているww
たぶん、この図を頼りに最大だといってるんだと思うが
その中身はこんなのだ
点々と遺跡がある範囲を全部ひっくるめて面積を測ってる
ほかの遺跡が環濠で遺跡範囲を区切られているのに対し、
適当にこの辺までっていう測り方
一枚目の図で、三雲遺跡群の図では周辺に行くほど色を薄くしてごまかしている 489日本@名無史さん2018/11/14(水) 15:29:15.99
>>487
日本国と商業の取引があった倭国が、古墳を作製するための、馬や馬主を、新羅で捕獲したからではないのかな。。。 490日本@名無史さん2018/11/14(水) 15:30:51.98
孝霊天皇と垂仁天皇は150年近く離れているのは、けいさんまちがいではないかな、、、
孝元
開花
彦坐王
彦多都王 垂仁天皇 竹内宿禰 長尾市
日葉酢姫
倭姫
であるわけであるし、、、
491日本@名無史さん2018/11/14(水) 15:31:08.48
偉大なる大九州帝国
・鏡は5〜6期の古い鏡を打ち割った破鏡か欠損鏡、小型?製鏡が殆ど。古墳出土鏡を待つまで完形鏡がほぼ出ない
(西日本各地では完形鏡が出土するので既に九州に中心地など存在しない)
・平原の鏡も古い鏡を鋳つぶして作った?製鏡だらけ
・絹は中期の13遺跡から激減の1遺跡。しかも麻布よりも粗悪な糸くず片が一かけら出るのみ
・祭祀遺跡は柱を2本立てただけの小さなものくらいしかない
・当時採掘されていた丹山は存在しない
・宮殿など影も形もない
・全域が畿内の土器に塗り替えられ在地土器が変容(一方的に畿内の影響が入り込み九州から広まる様子はない)
・大型墳墓の歴史が無い状況で突然この時期に大型墳墓が持ち込まれる
すごいなー
九州は確実な証拠が山のようにあって驚きだなー
492日本@名無史さん2018/11/14(水) 15:31:51.20
>>450
>棺は日向峠方面を足側にして
>日向峠から差し込む朝日を女王が浴びるように作られている
それが結構いい加減
原田大六氏が言い出してから、平原遺跡は日向峠がーって常に言ってるけれど、
肝心の棺の向きは、日向峠よりも南を指してるんだよ
大柱の方向はたぶん適当
平原5号墓にも墳丘長軸方向の大柱があるが、日向峠とは関係ないもっと北寄りの
方向を向いている
平原遺跡を考えるなら、最初に作られた平原5号墓のことも含めて考えないと 493日本@名無史さん2018/11/14(水) 15:33:04.22
押人大王も後漢に朝貢したというのは、本当だろうか、、、107年のことだ、、、
494日本@名無史さん2018/11/14(水) 15:33:19.83
まぁ何一つ資料なんて見もしないでバカサイトを見て「九州は最強だ!間違いなく邪馬台国だ!」とか信じ込んでるアホ猿だろうよ
いつもいつもこの手のバカがアホ丸出しのこと喚きながら乗り込んでくるから笑える
495日本@名無史さん2018/11/14(水) 15:35:43.58
オシロワケ大王は人望が無くて
年貢の徴収のために東西を行き来したのか、、、
496日本@名無史さん2018/11/14(水) 15:36:12.85
>>459
>可也山(筑紫富士)
>平原王墓
>三雲井原(伊都王都)
>日向峠
うそつきww
書き込む前に調べればいいのにw
井原鑓溝遺跡のあたりから、冬至の日の入り方向に平原遺跡(王墓じゃないよw)と
可也山があるのは正しい
けれど、日向峠はこの直線上にないww 497日本@名無史さん2018/11/14(水) 15:36:35.65
珍説くんは「線で結ぶと図形が浮かぶううう!!!」「線の先にたいようがあああ!」とか大好きだからなw
498日本@名無史さん2018/11/14(水) 15:44:08.19
倭国で一番の朝寝坊でいつも叱られていたのが伊都国王
499日本@名無史さん2018/11/14(水) 15:45:53.39
それで三貴子というのは、いつの時代の話なの?
500日本@名無史さん2018/11/14(水) 15:48:30.10
三貴子
大陸〜中国〜半島〜神話から引用というか、
渡ってきた人々の話だと言ってる人たちがいたり
501日本@名無史さん2018/11/14(水) 15:53:21.18
>>431
>そこで弥生式土器が出たからといって、祇園山古墳が弥生時代のものってことにはならないよ
正論
スレタイに戻れば あんたのご意見は
>そこで、土器付着物や桃の種が3世紀としても、箸墓や纏向が3世紀のものってことにはならにないよ
こんなとこかな???? 502日本@名無史さん2018/11/14(水) 15:53:30.17
『ジェイソン』
というのも日本の話?でも日本の話ではないし・・・何なんだろう、
503日本@名無史さん2018/11/14(水) 16:01:14.95
『小泉八雲 左目』のエピソード、
『松傾』の画とか
504日本@名無史さん2018/11/14(水) 16:02:16.53
まぁバカにいくら教えてやってもどうせ無駄だからほっとけw
505日本@名無史さん2018/11/14(水) 16:05:11.32
結局九州に何もない事を思い知らされてタンリだのキュウシュウオウチョウだのいう狂信の世界に突入するわけよ
506日本@名無史さん2018/11/14(水) 16:07:42.21
畿内説のスレで
上から目線で書きこむな九州バカ
507日本@名無史さん2018/11/14(水) 16:10:09.29
旅客機(数時間くらい?)などで来ましたという話ではないから、
容姿、外見なども何とも言えないはず
日本人でしょ
508日本@名無史さん2018/11/14(水) 16:14:21.60
うめ
509日本@名無史さん2018/11/14(水) 16:14:39.53
うめ
510日本@名無史さん2018/11/14(水) 16:15:35.85
なぜ、魏志倭人伝時代が、終わった後に、纏向遺蹟が作られたのだろうか。。。
511日本@名無史さん2018/11/14(水) 16:17:40.05
>>501
纏向は出土した層位が確定してるから、土器の年代で遺跡の年代がわかる
祇園山は残念ながら、そうはいかない 512日本@名無史さん2018/11/14(水) 16:17:47.12
513日本@名無史さん2018/11/14(水) 16:17:59.54
孝霊天皇は
霊帝の光和期間中に活動していたらしいね、、、
いつ頃だろうか、、、
2世紀末の180年代だね、、、
514日本@名無史さん2018/11/14(水) 16:30:44.63
活玉依毘売がヒミコとちゃうかな
515日本@名無史さん2018/11/14(水) 16:30:54.23
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
516日本@名無史さん2018/11/14(水) 16:32:35.50
明治維新はね上級武士の生き残り策が定説
517日本@名無史さん2018/11/14(水) 16:33:58.84
>>490
どうも、熊野に上陸したのは、孝霊天皇以前の時期らしい、、、それで150年というわけだ、、、 518日本@名無史さん2018/11/14(水) 16:34:44.96
飲み明かそう・・・・
本当(本物)は、お酒などを供えるみたいな話?
519日本@名無史さん2018/11/14(水) 16:36:58.66
『お酒 供える』
それにしても、何の話なんだろうw
520日本@名無史さん2018/11/14(水) 16:37:12.61
最新50など常にこれが表示される
削除依頼出せよ
11 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/10(土) 11:41:29.41
タイトルをタイプミスしました。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
当面の間
邪馬台国畿内説 Part39
http://2chb.net/r/history/1541814138/
をお使いください。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 521日本@名無史さん2018/11/14(水) 16:40:32.75
東大寺山古墳は、日葉酢姫の父君、ヒコタツヒコというわけだ、、、
522日本@名無史さん2018/11/14(水) 16:42:00.41
>>511
興味深い
「纏向は出土した層位」
層位を詳しく教えてくれないか?
その層位からは3世紀の物しか出て来ないの
その層位と掘立柱建物群の柱跡の層位は一致してるの 523日本@名無史さん2018/11/14(水) 16:49:28.99
剣はヌナカワミミ天皇から尾張家に渡ったらしい、、、
524日本@名無史さん2018/11/14(水) 16:50:45.03
>>522
どうやって纏向編年ができたかの本を読みな 525日本@名無史さん2018/11/14(水) 16:59:02.95
あの謎の写真があるでしょ、
子供の被っている帽子、何かの紋のようなものがあったり、植物。
稲、桜・・・その他。
軍人とかでもないと言っていたし、酒の神?
526日本@名無史さん2018/11/14(水) 16:59:43.11
>>492
>平原遺跡を考えるなら、最初に作られた平原5号墓のことも含めて考えないと
そりゃあんたの勝手な論理だよ、キナイコシ
日の巫女とその家族では扱いが違って当然 527日本@名無史さん2018/11/14(水) 16:59:43.83
5285282018/11/14(水) 17:00:16.18
まとめ
西暦57年 倭の奴国(筑紫)の王が金印「漢委奴国王」を授かる。(支配地域は九州北部から朝鮮半島南部まで)『後漢書』
西暦107年 倭国王師升等(歴史書に登場する初の倭国王)が安帝に拝謁を願う。『後漢書』
西暦107〜187年 70-80年間、倭国で男性の王の時代が続いた。『三国志』
西暦178〜184年 倭国大乱 『梁書』
西暦181年 ニュージーランドの超巨大火山「タウポ火山」の大噴火
西暦181年 「空が黄色くなり太陽が覆われた。」 「6月に雹が降った。大きさは鳥の卵ほどもあった。」 『後漢書』
西暦182年、「井戸の中が凍ってしまった」異常気象を示す記述は2年続く。 『後漢書』
西暦193年(183年の間違いと思われる) 倭国が大飢饉となり1000人以上が食料を求めて朝鮮半島に渡る。『新羅本記』
西暦183年 大飢饉によって九州は壊滅的なダメージを受ける。九州の王族の権威失墜
西暦184年、黄巾の乱が勃発(漢の衰退)
西暦184年頃、漢が衰退したことによって「漢委奴国王印」の権威喪失。
西暦184年頃、大飢饉によって人々が神頼みになり巫女の卑弥呼が女王になる。(ここまでの間に首都が筑紫から大和に移った。)
西暦238年 卑弥呼が魏から金印「親魏倭王」を授かる。『三国志』
西暦247年頃 卑弥呼が亡くなる 『三国志』
529日本@名無史さん2018/11/14(水) 17:00:18.07
北部九州の弥生後期後半の状況は福岡周辺の求心力の低下、辺縁部の勢力の主導的勢力の喪失が見て取れる
鏡の出土そのものが減少しているだけでなく、平原も含めて?製鏡が主体で、鏡の出土自体も拡散してまばらになり卓越した存在がいない
周辺地域を見ても破鏡や?製鏡が集落祭祀に用いられる状況が見え、副葬されるようなことも少なく強力な主導的存在を欠いているのが分かる
そして平原の後には最早?製鏡も含めて複数の副葬を行うような場所はなくなる
墓制も各地域が様々な埋葬方法を行うようになっていてその前の甕棺墓時代のような中心性の喪失が顕著になっている
銅矛も後期後半には遅くとも終焉を迎えていて、その破片を砥石に使うなど権威として既に意味をなしていないのが見える
邪馬台国前夜の九州はこのような状況にあり、強力な中心性を発揮し始めている西日本各地と逆の様相を呈しているのが分かる
各地域の中心的な存在として成立していた邪馬台国の状況とは反対の傾向を見せている
530日本@名無史さん2018/11/14(水) 17:00:47.55
531日本@名無史さん2018/11/14(水) 17:01:07.95
>>491
>(西日本各地では完形鏡が出土するので既に九州に中心地など存在しない)
筑紫が破鏡の文化に移行したのに、畿内が勝手に時代遅れのことをやっていただけ。 532日本@名無史さん2018/11/14(水) 17:02:46.51
>>488
>ほかの遺跡が環濠で遺跡範囲を区切られているのに対し、
環濠に収まらないくらい大きく栄えていたんだね。 533日本@名無史さん2018/11/14(水) 17:03:01.44
>>521
>東大寺山古墳は、日葉酢姫の父君、ヒコタツヒコというわけだ、、、
「東大寺山古墳」も「忌部はん」のお墓だよ。
「東大寺山古墳」の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」だと何度言えばw @阿波 5345282018/11/14(水) 17:03:10.87
西暦181年のタウポ火山の大噴火、
日本の記録にも残ってるはずなので調べてみたらこれだ。
崇神5年 疫病が流行し、人口の半分が死に至った。
崇神6年 農民が農地から離れる。農民の反逆が収まらなかった。
※農民が農地から離れていることから、この疾病は伝染病ではなく餓死であることがわかる。
崇神8年 百襲姫(卑弥呼と言われている)に奈良県で大物主神を祀らせた。豊作になった。
535日本@名無史さん2018/11/14(水) 17:03:14.08
5365282018/11/14(水) 17:05:02.60
崇神天皇のこのエピソードはリアリティがあるので
崇神天皇が即位したのは178年ころだな。
537日本@名無史さん2018/11/14(水) 17:07:06.99
>>501
>正論
>スレタイに戻れば あんたのご意見は
>そこで、土器付着物や桃の種が3世紀としても、箸墓や纏向が3世紀のものってことにはならにないよ
>こんなとこかな????
そうはならないよ
この桃核は、纏向遺跡辻地区の大型建物跡に付随する大型祭祀土坑から出土している
祭祀土坑から直接採取されているので、遺物の混入(祇園山の弥生土器はこれ)を
疑う必要がない
そして、その祭祀土坑から同時に祭祀供献された土器も出土しているので、
土器編年に直接絶対年代の定点(誤差その他の年代幅はある)を与える試料ともなっている
纏向遺跡の庄内期の大型建物が2世紀末から3世紀前半に存在したのは確実で
卑弥呼の遣使より前から存在していることが確かめられたというのがスレタイだよ 538日本@名無史さん2018/11/14(水) 17:07:19.75
>>443
百済の制度を見ると、大率や徳率など、いくつかの官位があった。
倭においては、大率一人が置かれ、対馬海峡すなわち倭国の本貫地の内政を司っていたということだよ。 539日本@名無史さん2018/11/14(水) 17:07:46.43
>>535
「巨大な墳丘」に「周溝」含めるのは白痴だけ 540日本@名無史さん2018/11/14(水) 17:09:33.18
本当の専門家はいないのかな、いろいろ調べてみて
『竹 紋』?
541日本@名無史さん2018/11/14(水) 17:09:52.09
>>439
>女王は日巫子として曽根丘陵の平原に宮殿を持ち
曽根丘陵は墓があっただけ。
宮殿はその足先の高祖山にあり、糸島平野を見下ろしていた。
高祖宮またの名を筑紫の日向の高千穂宮。
伊都国と奴国を含めた博多湾沿岸が邪馬台国だよ。 542日本@名無史さん2018/11/14(水) 17:10:05.90
>>524
纏向編年は考古学の定説じゃないから
教えて欲しいのは
⇓
「纏向は出土した層位」
層位を詳しく教えてくれないか? 543日本@名無史さん2018/11/14(水) 17:10:29.31
5445282018/11/14(水) 17:10:47.30
『古事記』は崇神の没年を干支により戊寅年と記載しているので、
これを信用して318年(または258年)没と推測する説も見られるが
崇神の没年は、198年だな。
崇神の即位が178年
545日本@名無史さん2018/11/14(水) 17:12:07.27
>>436
>登美家の大ミケ主がヤタガラスだったのだな、、、2世紀末なのか、、、
ヤタガラスは畿内の開拓者であり筑紫からの神武東征の先導者である三島溝杭耳の別名とされているよ。
その孫の登美の長髄彦が神武と戦い、その姪のイスケヨリ姫が神武の妃となった。 546日本@名無史さん2018/11/14(水) 17:12:11.62
>>542
>纏向編年は考古学の定説じゃないから
じゃない、という根拠は? 547日本@名無史さん2018/11/14(水) 17:13:48.03
>>431
>「大祝家の祖 日往子尊の廟との伝(御井町誌) 4C末-5C初」
日巫女の関係者? 548日本@名無史さん2018/11/14(水) 17:14:06.54
>>526
>そりゃあんたの勝手な論理だよ、キナイコシ
>日の巫女とその家族では扱いが違って当然
この「キナイコシ」連呼厨も含め、九州説で平原1号墓を持ち上げる連中は
平原遺跡がどういう遺跡か十分に把握しないまま、適当なことを書いてるだけだから
どうしようもない
平原5号墓が、平原遺跡の最初の周溝墓でそのときに平原遺跡の場所が選ばれている
ある意味平原遺跡の立地や配置は、平原5号墓基準で考えるのが妥当なのに、
それが都合が悪いとなるとチェリーピッキングよろしく、関係ない、家族は別
とか言い出す
それでいて、内行花文鏡が出るのは九州倭国の王族だとか、三種の神器の組み合わせを
副葬する古墳の被葬者は九州倭国の王族だとか言い出す
平原5号墓の被葬者はおそらく平原1号墓被葬者の親だし、それこそ王族ってことになるだろうに
それは王じゃないからどうでもいい、触れてくれるなといって逃げるのが九州説 549日本@名無史さん2018/11/14(水) 17:15:59.11
>>416
>ヌナカワミミ天皇がタギシヒコを追い出したことで、登美家が復権したということかもしれないね、、、
正解をつぶやいている。
驚いたな。
奴奈川耳の母であるイスケヨリ姫は登美の王家の姫だからね。 550日本@名無史さん2018/11/14(水) 17:16:10.81
>>532
>環濠に収まらないくらい大きく栄えていたんだね。
範囲をごまかして大きく見せてるだけなんだよ 5515282018/11/14(水) 17:16:35.41
>>433
『魏志倭人伝』には、卑弥呼を佐治する弟(卑弥呼の政治を補佐する弟)のことが書かれているが、
「一大率」は、伊都で佐治する人(伊都で卑弥呼の政治を補佐する人)のことだろうね。
伊都佐治(いとさち) = 一大率(いったいそつ) 552日本@名無史さん2018/11/14(水) 17:17:05.85
北部九州のかつての甕棺墓文化圏は弥生時代後期後半には卓越した中心性を喪失した地方の交易圏と言う程度の存在になっているのが分かる
墓制から鏡の利用法など、各地域ごとに様相が違いどの土地も個別に活動している様子が浮き上がっている
瀬戸内海に近い北九州近辺に多少強いまとまりが見える程度になっている
これも瀬戸内海方面からの影響で自立的な存在ではないと思われる
九州はこのような状況の中で邪馬台国の時代を迎えている
553日本@名無史さん2018/11/14(水) 17:17:20.00
>>529
平原王墓出土の内行花文鏡は直径46.5センチあり
銅鏡を何でもかんでも大事にしていた畿内と違い
内行花文鏡と方格規矩鏡を選りすぐってしかも破鏡までする進んだ文明があるのは平原だけ 554日本@名無史さん2018/11/14(水) 17:18:35.13
ここにも貼り付けたはず
左(←)に『キュウリ』のような植物、右(→)のほうに『葱の華』
何なんだろう、謎の写真
555日本@名無史さん2018/11/14(水) 17:19:10.71
>>535
>ちゃんと周溝も含めないと
周溝は塚ですか?w 556日本@名無史さん2018/11/14(水) 17:20:22.12
>>488
>点々と遺跡がある範囲を全部ひっくるめて面積を測ってる
現在まで集落に人が住んでいるんだから当然だろう
奈良みたいなど田舎なら全部掘り返すんだろうが
3世紀に三雲井原より上回る王都があるなら証拠を出せ 557日本@名無史さん2018/11/14(水) 17:25:03.77
九州説のアホはついに「中国の鏡なんて関係ないもん!」「まともな鏡が出てこなくてもいいんだい!」とか言い出して笑う
こいつ等まいど「沢山の鏡が出る九州最強!!!!!」「中国鏡が大量!!!(ただの勘違い)魏と交流してた邪馬台国はきゅうしゅうぅううう!!!」
とか叫んでのたうちまってたのにな
その場その場でテキトーな思い付きを言えば何とかなると思う程度の低能だから九州説なんだろうな
558日本@名無史さん2018/11/14(水) 17:25:37.68
>>542
大型建物の廃絶が布留0層位以前
箸墓の土取りから完成が布留0層位の中
ホケノ山周濠最下層が3類 559日本@名無史さん2018/11/14(水) 17:26:35.68
560日本@名無史さん2018/11/14(水) 17:27:04.24
まぁ「本当な九州に絹も鏡もありません」と「今知った」んだから仕方ないよね
バカだから珍説サイトしか見てないもんね
561日本@名無史さん2018/11/14(水) 17:28:17.51
>>492
>>496
地形上の制約をギリギリクリアできる場所を選んだから誤差があって当然
南を東と間違える畿内説に比べたら
可也山ー平原王墓ー三雲井原王都ー日向峠が直線上にあるかどうかは誤差の範囲
曽根丘陵の北端に作られた平原王墓に日向峠から差し込む朝日が当たる
内行花文鏡は太陽神の鏡であるから
平原女王は日巫子である 562日本@名無史さん2018/11/14(水) 17:31:21.31
>>561
外国から初めて来た旅行者が間違えるのと
長年住んでる人が間違えるのと
同じに考える馬鹿発見 563日本@名無史さん2018/11/14(水) 17:31:22.24
今日も馬鹿な九州説に真実を知らせてしまった
バカはバカのままで妄想を信じていた方が幸せだったろうに悪いことしたなぁ
564日本@名無史さん2018/11/14(水) 17:31:35.75
>>559
纏向に集落なんてないぞ
当時の奈良盆地の最大の集落は唐古・鍵遺跡
それでも三雲井原王都に比べたら半分以下の面積しかない 565日本@名無史さん2018/11/14(水) 17:32:30.65
>>561
>内行花文鏡は太陽神の鏡であるから
それ・・・割るのか? 566日本@名無史さん2018/11/14(水) 17:35:37.97
>>455
>>>449
>当時の海岸線は今津湾と加布里湾が深く入り込んだ入り江で海はずっと近い
>志登、今宿、元岡など海に面した集落もある
>
>大和盆地まで湖が深く入り込んでたという前提で唱える畿内説のバカな主張よりよっぽどマシ
だから伊都国に船で行ければ末盧国からそのまま船で行くだろう。
なぜ500里歩いて行くのかわからない。
対馬海峡の制海権を持っていたんなら魏使の乗った外洋船をそのままつけられるだろ? 567日本@名無史さん2018/11/14(水) 17:35:53.29
>>564
>纏向に集落なんてないぞ
ないという証拠は? 568日本@名無史さん2018/11/14(水) 17:37:09.58
でも九州説の幼児が真実を知らないまま大人になったら邪馬台国の会のキチガイ老人みたいな人間に育つからなぁ
厳しいようだけど真実を教えてあげるのも必要だよね
569日本@名無史さん2018/11/14(水) 17:37:37.59
>>562
平原王墓は曽根丘陵の北端
三雲井原王都は瑞梅寺川と川原川の氾濫原に囲まれた扇状地
どちらも地形上の制約がある
女王墓を作るときに王都からも見え可也山から日向峠にかけての直線上にできるだけ近づけて作ったもの 570日本@名無史さん2018/11/14(水) 17:37:40.00
あるという証拠は?
571日本@名無史さん2018/11/14(水) 17:39:13.34
>>566
偉大な王に合わせるために直接船で乗り付けさせてどうすんだよ 572日本@名無史さん2018/11/14(水) 17:39:31.94
>>538
>>>443
>百済の制度を見ると、大率や徳率など、いくつかの官位があった。
>倭においては、大率一人が置かれ、対馬海峡すなわち倭国の本貫地の内政を司っていたということだよ。
百済なんて時代が合わないじゃないか。
大率という官名が既に倭にあったとしても(なんで中国語の官名?)、中国語では一が付くことはない。 573日本@名無史さん2018/11/14(水) 17:40:14.02
>>566
末盧国まで1000里とあるが、方角は書いてない。
菅の呼び名も書いてない。
つまり寄ってない。
たぶん壱岐から見た距離のことだと思うけどね。 574日本@名無史さん2018/11/14(水) 17:40:23.43
>>567
纏向は墓と宮殿だけしか見つかってないぞ 575日本@名無史さん2018/11/14(水) 17:40:50.57
576日本@名無史さん2018/11/14(水) 17:40:52.97
>>930
>「測影した」って書かれてないだろ<
周髀算経から転写。
「日中立竿測影」。 577日本@名無史さん2018/11/14(水) 17:45:12.67
578日本@名無史さん2018/11/14(水) 17:46:06.57
579日本@名無史さん2018/11/14(水) 17:46:32.23
580日本@名無史さん2018/11/14(水) 17:47:36.03
581日本@名無史さん2018/11/14(水) 17:48:02.13
582日本@名無史さん2018/11/14(水) 17:49:32.74
纏向遺跡はそれ以前の弥生集落のような「生活の場所」と言う性格を脱却し、
「祭祀」と「王城」と言う特別な用途を持つ部分を分離して特化拡大した点が他の弥生集落と次元を違う存在にしている
このような重要な場所は弥生集落では安全な集落の中央部などに作られていたが、この纏向はそれそのものが環濠も持たずに独立して存在している
これは既に集落と言う壁で守らなくても、その領域そのものが安全の確保された土地であることを示している
纏向は弥生時代の「クニ」と言う領域を超えた「国」の出現を意味している
弥生時代後期後半より続いていた集落の解体と再編成の集大成的存在であると言える
この広域をもって七万戸と言う他を圧倒するような人口を擁している国を形成している
決して弥生時代のような集落という単位ではない事がこの事からも理解できる
倭人伝の記述のようにほんの少し移動しただけで別の国に辿り着く九州と全く違う様相を示しているのが分かる
583日本@名無史さん2018/11/14(水) 17:52:55.62
>>582
>纏向遺跡はそれ以前の弥生集落のような「生活の場所」と言う性格を脱却し、
だから、纏向遺跡は倭国(阿波)の「古墳造営前線基地」
と、何度言えばw @阿波 584日本@名無史さん2018/11/14(水) 17:54:02.46
585日本@名無史さん2018/11/14(水) 17:57:40.76
で、なんだっけ?
九州って柱2本立てただけのアレがなんか太陽に向いてるとかなんとか言って物凄い祭祀の遺跡だ!とか言うアレだけなんだっけ?
で、宮城とか影も形もないんだっけ?
こりゃすごいな
間違いなく邪馬台国に違いないわ
586日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:00:09.74
平原王墓の主は日巫子=卑弥呼とわかったので
引き続き三雲南小路と井原鑓溝の主は誰なのかを議論していきましょう
587日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:01:36.18
>>564
それで?
「纏向に集落なんてないぞ」という証拠は? 588日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:02:20.33
589日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:02:42.37
590日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:04:14.61
困ったなぁ
真実をただ言うだけでキュウシュウセツ君が死にそうになっちゃう
でも仕方ないよなぁ
絹も鏡も丹も祭祀遺跡も宮城も何にもないのは事実だからなぁ
困ったなぁ
イジメてるみたいになっちゃうよ
591日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:04:14.90
>>553
>内行花文鏡と方格規矩鏡を選りすぐって
「選りすぐって」ってww
それ全部仿製鏡なんだから、自分で作れるやつを作っただけだろ?ww
他の地域にまったく影響を及ぼさなかったガラパゴス鏡を褒め上げるのは大変だww 592日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:07:32.85
593日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:09:06.61
>>556
>3世紀に三雲井原より上回る王都があるなら証拠を出せ
つ 纏向遺跡
ちなみに、三雲南小路遺跡は3世紀じゃないし、平原遺跡は三雲伊原じゃないぞww
この図のぼやかした範囲にも平原遺跡は入っていない
で、偉大なる王都「3世紀の三雲伊原」には何があるんだい?
畿内様式の庄内式土器が出土したサキゾノ地区の居館跡かい? 594日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:10:24.73
それで、お前は、どこの国の人間なんだ?
本物だと言っているわけなんだけど、家の写真、家の話。
595日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:10:58.73
>>588
魏志倭人伝に「女王卑弥呼に銅鏡百枚を下賜した」とある
魏帝は邪馬台国住人が銅鏡大好きだと知っていた
日本国内で長期間にわたりどの遺跡でも銅鏡が大量に出土するのは三雲井原だけであるから
これだけ見ても平原女王は日巫子=卑弥呼である 596日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:12:44.96
あんまりイジメるなよ
バカだから「きゅうしゅうはたくさんのものがでる!三雲小路!井原鑓溝!平原!」とか時代も何も訳も分からず思い込んでるだけのバカな幼児なんだから
しかも集落じゃなくて弥生中期の出土品とかしか知らないんだよ
低能な子なんだから優しくしてあげようよ
597日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:13:16.58
598日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:13:45.66
他のスレにも書いているはず
頭の病院、刑務所に行くか、自殺でも良い、
好きなのを選んだほうが良いぞ
599日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:14:21.30
>>593
纏向に集落跡がどこにあるの?
三雲井原の伊都王都から目と鼻の先に平原王墓があるのだが?
その向こうには可也山が見える
後ろを振り返れば日向峠だ
日向峠に太陽が差し掛かった時に平原に光が差す
女王はここで太陽神と出会いまつりごとをしていた 600日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:15:02.72
>>592
>それにはなんも書いていないぞ
書いてないという証拠は? 601日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:15:33.06
>>941
>だから実際に測ったら
夏至の正午、北緯35度卑近に立てた8尺棒の1寸6尺の影長が
北に千里で1寸7尺南に千里で1寸5尺と丁度一寸づつ違う地点は地球上にない
夏至の北緯35度は太陽が真上にないし地球は丸いからな<
周髀算経は、周地付近の「大地平面」近似が出来る付近での、
有効数字1桁程度の「日中立竿測影」での近似値計測値からの、
天地の近似モデル論。
>一寸千里法は実際に測った数値ではなくて机上の空論<
実測値からの近似的な推論。
>ゆえに周の時代に短里の使われていた根拠にはならない <
ゆえに、周朝の時代に、
6倍も違う始皇帝の「1歩=6尺」が、使われていた、
という事の根拠にはならない。
>北に千里で影が1寸差だけなら良かったが南も千里で1寸差とばっちり書かれてしまっているからな
周牌算経そのものによって短里の根拠は否定されていると言えるだろう<
周髀算経は、周地付近の「大地平面」近似が出来る付近での、
有効数字1桁程度の「日中立竿測影」での近似値計測値からの天地像の推論。 602日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:16:25.45
小泉八雲、河童が何やら〜自殺という作品なも後付けではないんだろう、
精神病?のようになったとか
603日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:16:47.39
604日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:17:12.90
>>597
しかし高祖山とその麓は怡土城である
吉備真備がある日突然この地に城を築くはずがない
古よりなんらかの権威があったと見るべ傘 605日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:19:17.57
>>600
>書いてないという証拠は?
アップしてみろ 606日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:19:19.91
ほらな?
時代も位置関係もなーんにも知らないだろ?
「きゅうしゅうはたくさんのものがでるんだもん」
と言うアホサイトの表しか見てないとこういう恥さらしのサルが生まれるわけよ
607日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:19:26.75
>>944
>・・・つまりwikiの臺與候補、全員アウト!
というわけで臺與の条件をたった一人、トヨ津媛のみがクリアする。
しかも【国宝】中平銘鉄刀の保持者・和邇氏の祖・孝昭天皇の母である。
卑弥呼とは彼女から3世代前のヒメ(踏鞴五十鈴)媛である。<
「南≠東」などに拠って、大和の女性は×。 608日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:19:56.01
>>603
弥生前期からの住居跡や甕棺墓が大量に見つかってるのに集落がないと? 609日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:20:14.55
>>599
それで?
「纏向に集落なんてないぞ」という証拠は? 610日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:22:00.46
>>605
つまり、お前は何の証拠もなく、ずっとウソの難癖を付けているのだな 611日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:22:56.40
『河童 自殺』
キュウリのような葉、葱の華・・・・
家の先祖の写真なんだけどw何なんだろう
612日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:23:11.72
>>947
>高さを表す単位は丈だよ<
漢書注での、「介山」の山高が「里」で書かれていた、
という例を紹介してあるよ。 613日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:23:14.98
614日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:23:31.04
九州は証拠を出さない
そういう人々なんだよ
615日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:24:03.96
616日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:26:13.52
617日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:26:33.92
『日本昔話 姥清水』
なぜか同じような話だしな・・・、
蚕を飼っていたり、機織りをしていたという話もなかった?
山の奥のほう話
618日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:28:11.02
>>613
「纒向遺跡は、3世紀初頭から4世紀初めにかけて営まれた、極めて大規模な集落跡である。
し かも、本遺跡のような規格性のある建物群は例がなく、当該時期の首長居館の構造を知る上で極 めて重要である。
また、同時期の居住域や墓域および祭祀遺構、大溝などが広範囲に広がってい ることも明らかとなった。」以下略 619日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:28:38.98
『松傾』
山奥に行き、道に迷い何やら〜みたいな話で・・・・蚕?機織り?
620日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:34:28.01
>>592
>それにはなんも書いていないぞ
と平然とウソをついていた九州説 621日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:34:49.35
622日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:35:46.78
>>561
>地形上の制約をギリギリクリアできる場所を選んだから誤差があって当然
おいおい、平原遺跡の敷地内、平原1号墓の墳丘内で木棺をどの向きにするかってところに
地形上の制約なんてまったくないだろ?
でも平原1号墓の木棺は日向峠を向いていない
>可也山ー平原王墓ー三雲井原王都ー日向峠が直線上にあるかどうかは誤差の範囲
そんなことはない
平原遺跡基準で、冬至の日の入りの方角(反対方向が夏至の日の出の方角)を入れた図
この図を見ると、可也山はばっちり通っているが、日向峠に向かう赤い線は、
誤差どころじゃなくはっきりずれている
伊都国内部を拡大すると
赤丸が三雲南小路遺跡、青丸が井原鑓溝遺跡推定地
これは誤差の範囲と見ていいだろう
こういう線引きはお遊びの範疇だが、それで見ても日向峠は無関係だと分かる 623日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:36:24.26
>>565
卑弥呼が死んだら割るかもしれない。
実際に破鏡という文化があるので、その意味を考えろよ。
事実から目をそらすな。 624日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:37:04.26
>>476
その隋書の文章は、倭人伝に注を入れた裴松之の文章とおんなじ。
暦と里を入れ替えたもの。
なので、元々は里ではなく、暦だった。 625日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:39:11.51
>>564
>それでも三雲井原王都に比べたら半分以下の面積しかない
その「面積」はインチキだって教えただろ?
点在する遺跡を全部境界をぼやかして適当に面積をはかってるだけなんだから
三雲遺跡群と同じ測り方をするなら、唐子鍵遺跡の面積には、
清水風遺跡や三河遺跡といった唐子鍵の墓域や、 庵治遺跡や出屋敷遺跡、
下永東城遺跡などの衛星集落も含めた初瀬川下流北遺跡群まで入れないと 626日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:39:14.69
>>621
>ほら、竪穴住居ないじゃん
竪穴住居が無いと何なんだ?
まいどウソをついては、次なる珍説発表の繰り返しか?
これだから敗残九州説の足掻きは醜い 627日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:40:58.24
>>618
竪穴住居がなくても大規模集落跡とは呆れるぜ 628日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:41:43.30
629日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:41:51.47
>>566
>だから伊都国に船で行ければ末盧国からそのまま船で行くだろう。
むしろ、末盧国には寄ってないと思ってる
末盧国は倭国の地理として紹介してあるだけで、船で直接伊都国に向かっていると
考えるほうが合理的
末盧国には寄らないこともあるが、必ず伊都国には寄るというのが
郡使往來「常所駐」の意味するところだろう 630日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:43:58.53
>>556
最近の寺澤先生の講演に行ってないのでは? 631日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:45:42.94
>>604
怡土城は、山頂と山麓を囲む中国式山城。
博多湾を望む要所だから、城があって当然。 632という証拠は?根拠は?=>>12018/11/14(水) 18:46:17.36
いつものパターン
633日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:46:26.92
634日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:46:34.99
>>612
>漢書注での、「介山」の山高が「里」で書かれていた、
それ、現実の山じゃないからww 635日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:50:19.02
証拠は絶対ださず、根拠も言わず
とにかく俺様の想像が正しいのだーで押し通し
それが九州説
636日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:50:39.44
むかーし、寺院に通っていたような事も言っているし、
偶然なのかな、何の話なんだろう
637日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:51:08.78
638日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:52:25.28
>>949
>考えた結果 やっぱり南北でピッタリ1寸差になるのは 実際に測ってない証拠<
大地平面と近似でき周地付近での、有効数字1桁程度の近似値計測値である、
という事が理解出来ないアホであるようだし、
その近似値データでも、1里=434m位の「長里」では6倍位の合っていない、
という事を隠しているから、
この投稿は、この投稿者も「大和説信仰」の精神病的な患者である、という事の証拠。 639日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:53:13.17
本や書なんかが、ずらーっと並んでいたとかw
山の上のほうに住んでいたころの話(老婆談)
640日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:53:53.42
>>604
756年築城の怡土城は、白村江の戦いの後日本と新羅との緊迫感が強まった時期に
大野城、基肄城に次いで防衛のために築いた城
権威など関係ない 641日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:54:18.19
>>637
平然とウソをつき、とうぜん追い詰められ
ワケのわからないことをワメき出す
九州説いつものパターンですねえ 642日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:55:03.43
>>618
>「纒向遺跡は、3世紀初頭から4世紀初めにかけて営まれた、極めて大規模な集落跡である。
纏向の課題の一つですね
「極めて大規模な集落跡」
巫女千人、兵、都の体裁・・
金印がでなくて良いと思いますが纒向を現段階で王都とする学者は居ないよ
時代は違うが吉野ケ里に近い物が出ないといけないと思う
候補とする学者は居るけど・・・・・・・・・・ 643日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:55:43.01
>>637
あたま、大丈夫?
キミの嘘をあばき、キミを論破した人が
何か悔しがる理由があるか? 644日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:55:52.66
>>624
>その隋書の文章は、倭人伝に注を入れた裴松之の文章とおんなじ。
>暦と里を入れ替えたもの。
>なので、元々は里ではなく、暦だった。
三国志の全文検索をかけてみたけど
隋書の「夷人不知里數但計以日」にあたる、里を暦に変えた部分はなかったぞ
もしかして裴註のこれのこと?
魏略曰。其俗不知正歲四節、但計春耕秋收爲年紀。
これと隋書の記述が同じ文とは言えないだろ? 645日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:56:56.59
>>631
>博多湾を望む要所だから、城があって当然。
8世紀には、なww 646日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:57:29.27
647日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:57:49.80
纏向遺跡に竪穴住居跡がありません
648日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:58:09.77
駆け落ちみたいな話もしていたしw
家の話じゃないの?
649日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:59:13.48
>>641
あんたが適任だ
南⇒東の謎を論じてくれ
テンプレでは行程については参考程度で納めてるが これでいいの? 650日本@名無史さん2018/11/14(水) 18:59:16.82
>>629
500里陸行して行く国に船で行けるって言ってるの?
なら水行で書くんじゃないかなぁと思う。
少なくとも併記するんじゃない? 651日本@名無史さん2018/11/14(水) 19:00:54.60
>>642
>時代は違うが吉野ケ里に近い物が出ないといけないと思う
「吉野ヶ里に近いもの」 これ、笑うところだよ
吉野ヶ里遺跡の「復元」建物は、魏志倭人伝の記述に「わざわざ寄せて」作ってあるんだから
そして、その際に参考にしたのが唐子鍵遺跡から出た線刻土器の楼閣の絵
唐子鍵遺跡出土の考古遺物を参考に、現代の事情で魏志倭人伝の記述に似せて作ったのが
現在吉野ヶ里の地上にある建物群なんだよ 652日本@名無史さん2018/11/14(水) 19:00:59.97
653日本@名無史さん2018/11/14(水) 19:01:03.64
>>953
>そもそも南北千里で地面に立てた棒の影の長さを測るのも
千里をまっすぐ北に進まなくてはいけない
道が曲がりくねっていたり間に山があったりした時点で
もう正確な距離は測れなくなる
そんな都合のいい地点があったとは考えにくいし
実験のために千里のまっすぐな道を整備したとするのはナンセンス<
周髀算経は、東西南北の計測法も書いているし、
既に、尺定規や簡易三角測量や歩測などに拠る近似的里数計測も出来ていたから、
有効数字1桁程度の近似里数計測は十分に可能であり、
それを「100%絶対正しい里数」は求められない、
という曲解捏造をするこの大和説男はナンセンス。 654日本@名無史さん2018/11/14(水) 19:03:54.12
>>640
白村江が何年か知っていて書いているのか?
アホだろ。 655日本@名無史さん2018/11/14(水) 19:04:01.78
先に、こっち(いま住んでいるところ?他の家なのかな?)に出てきていて、
家を建てて住んでいたんだよ、その後に・・・嫁が・・・?
よくわからない話
656日本@名無史さん2018/11/14(水) 19:04:55.84
657日本@名無史さん2018/11/14(水) 19:05:03.20
>>653
それが古代中国人から妄説と呼ばれてるのは、なぜ? 658日本@名無史さん2018/11/14(水) 19:05:22.96
>>957
>1番こだわってるのは葛城だろ
そもそも卑弥呼の墓を確実に特定するのは難しいから
日本書紀にあるような奴婢を周りに埋めたような痕跡は国内のどの古墳にも見られないし
基本3世紀の大きな墓でだとすると前方後円墳だろうくらいしか<
列島では、
「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」に適合する墓としては、
祇園山がある。 659日本@名無史さん2018/11/14(水) 19:05:58.96
660日本@名無史さん2018/11/14(水) 19:06:01.11
先に、こっち(いま住んでいるところ?他の家なのかな?)に出てきていて、
家を建てて住んでいたんだよ、その後に・・・嫁が・・・?
よくわからない話
661日本@名無史さん2018/11/14(水) 19:07:44.20
>>658
・・・と言ってるのは
短里短歩盲信で考古学無視の
アマチュアさんだけだよね 662日本@名無史さん2018/11/14(水) 19:11:10.15
>>650
>500里陸行して行く国に船で行けるって言ってるの?
>なら水行で書くんじゃないかなぁと思う。
>少なくとも併記するんじゃない?
この辺は推測混じりにしかならないから、テンプレにまとめられることのない部分なのだけれど、
魏志倭人伝の記事は、複数の時代の異なる資料をまとめて書かれていると思っている
「伊都国、佐賀川上説」というのがあって、末盧國を唐津に置いた上で、そこから
松浦川沿いに東南陸行して佐賀平野に抜けたところが伊都国だとする、魏志倭人伝
旅程記事原理主義から来る説
ただ、これはある意味正しいと思っていて、吉野ヶ里あたりの米多郷が面土国なら
倭面土王帥升の時代には、大陸から海を渡ってきて佐賀から米多郷に抜けるなら
末盧國に上陸するのが合理的ということになる
卑弥呼の時代には、魏使は末盧國には寄っていないのだけれど、後漢時代の記録で
倭国で上陸するのは末盧國という記録があれば、それが紛れ込むだろう
そんな感じで考えているよ
これは私のオリジナルの考えではなくて、ここの受け売りだけどね
『東南陸行五百里』考
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/zatu/zatu03.html#rikuko 663日本@名無史さん2018/11/14(水) 19:13:54.65
664日本@名無史さん2018/11/14(水) 19:16:18.72
ウラシマン(マリン、ムーの王子)で言うと、
一緒にいる老婆がいるでしょ、ウラシマンの世話をしていたというキャラ。
実際は嫁・・・後にウラシマンの家と結婚?みたいな話?
665日本@名無史さん2018/11/14(水) 19:17:12.13
>>971
>円墳先造説自体は先人が唱えてるから
まあそういう考えもあるのだろう<
先に周濠が前方後円型に造られたんなら、
始めから前方後円墳の形に造ろうとする意図があった訳で、
また、後円部頂での埋葬祭祀が終わった後で、
前方部を何年もかかって築造するなんて事をする筈もなく、
埋葬祭祀をした時には、前方後円墳の形は出来上がっていた、
という可能性が最も高い。
短里よりは根拠あると思った 666日本@名無史さん2018/11/14(水) 19:20:04.57
浦島(ムーの王子)の祖母・・・・みたいな話、
頭の良い人は気づいてるw
667日本@名無史さん2018/11/14(水) 19:21:02.59
>>662
結論ありきの読み方で説得力に欠ける。
検証せずに末盧国に唐津、伊都国の前原を当ててる時点でもう残念って感じ。 668日本@名無史さん2018/11/14(水) 19:23:49.31
このスレ
ど素人の畿内説 VS 素人から本格的に邪馬台国を考えた奴
素人同士で論戦しようぜ
畿内説のど素人は石野と寺澤だよ・・今は邪馬台国を離れヤマト王建の初期が纒向に論調を変えてるがな
村おこしの桜井市は完全に終わる・・・被害者は全国筒浦の納税者
669日本@名無史さん2018/11/14(水) 19:27:07.60
>>662
推測を入れて読むのはダメ。
書いてあることを改変せずに解釈しないと。 670日本@名無史さん2018/11/14(水) 19:27:39.47
>>977
>なんで箸墓や纏向で騒ぐのか
畿内説の邪馬台国の王都は纒向や卑弥呼の墓は箸墓と騒ぐのか
畿内に他に候補地は多くあるし
未だ、纒向や箸墓に否定的な畿内説の研究者もいるのになぜ?
巻向と箸墓の決定打は何????? <
「南≠東」に拠って、纏向も箸墓も×。
纏向と箸墓で騒いだ理由は、
「戦前の万世一系皇国史観」で日本をまた戦争出来る強い国ししたい、
とする安部自民や文部省や、右翼マスコミや、右翼学会教育界や宗教界や、
やくざ暴力団や戦争が金儲けチャンスの財界が、大和説を応援しているから。 671日本@名無史さん2018/11/14(水) 19:31:50.98
西暦193年(183年の間違いと思われる) 倭国が大飢饉となり1000人以上が食料を求めて朝鮮半島に渡る。『新羅本記』
なんでこれ間違いだと思ったん?
672スレ主 寺澤先生を利用するなよ2018/11/14(水) 19:34:37.26
最近 寺澤先生ファンだが
彼の立ち位置、苦悩がよくわかる
彼は偉いよ
石野の「バカ」とは違う
寺澤先生は邪馬台国論争に関係無いから
初期ヤマト王建を研究しているのが寺澤先生
スレ主 寺澤先生を利用するなよ
673日本@名無史さん2018/11/14(水) 19:41:10.37
寺沢先生という音楽家(ベーシスト)いるけど、
ずっと、その人物の話をしていたの?
674日本@名無史さん2018/11/14(水) 19:41:51.66
>>985
>そもそも殉葬の痕跡のある古墳ってあるの?<
現在のところ、列島では唯一「祇園山」が、
「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」を満たす墓。 675日本@名無史さん2018/11/14(水) 19:42:06.44
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
676日本@名無史さん2018/11/14(水) 19:44:28.47
>>989
>とはいえ九州でめぼしいところは発掘済みだしな <
九州でも、「祇園山」がも、唯一、
「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」を満たす。 677スレ主 寺澤先生を利用するなよ2018/11/14(水) 19:45:57.44
スレ主 寺澤先生を利用するなよ
678日本@名無史さん2018/11/14(水) 19:48:53.69
>>628
邪馬台国と関係あるの
日本全国 弥生時代それぞれの文化はあったのでは 679スレ主 寺澤先生を利用するなよ2018/11/14(水) 19:51:08.96
672スレ主 寺澤先生を利用するなよ2018/11/14(水) 19:34:37.26
最近 寺澤先生ファンだが
彼の立ち位置、苦悩がよくわかる
彼は偉いよ
石野の「バカ」とは違う
寺澤先生は邪馬台国論争に関係無いから
初期ヤマト王建を研究しているのが寺澤先生
スレ主 寺澤先生を利用するなよ
680日本@名無史さん2018/11/14(水) 19:52:16.51
葛城終わったら祇園山かよ
同一人物なのか
681日本@名無史さん2018/11/14(水) 19:52:47.12
キウスが発狂中
682スレ主 寺澤先生を利用するなよ2018/11/14(水) 19:54:19.90
スレ主 寺澤先生を利用するなよ
スレ主 寺澤先生を利用するなよ
スレ主 寺澤先生を利用するなよ
683日本@名無史さん2018/11/14(水) 20:00:10.42
>>679
>スレ主 寺澤先生を利用するなよ
爺 義理も人情も知らん奴
日本の考古学は義理人情なんだよ
関西へおいで 初期山口組は正義なんだよ 684日本@名無史さん2018/11/14(水) 20:00:26.09
>>992
>日本書紀に殉葬は奴婢を古墳の周りに埋める 古代から行われて来た風習とある
しかしそうならば国内の古い時代の古墳からそういった痕跡が数多く見つかるはずだが
そういった発見はない<
祇園山があるし、宝賀氏は他にも存在する事を紹介しておられた。
また、殉葬は、自発的な殉死的思考が必須であり、
治世での業績や宗教的な尊敬が無くては起こり得ないから、そんなに多く発生するものではない。
>代わって古い円墳や最前期の特に大型の前方後円墳からは特殊器台と円筒埴輪が見つかる
これは人物埴輪が登場すると廃れるもので
日本書紀では人物埴輪は殉葬の奴婢の代わりだったとの記述から考えると
特殊器台に奴婢を生贄にするような儀式が行われていたと推察される<
特殊器台をそのように解するのであれば、
逆に特殊器台や人物埴輪は、卑弥呼の時代よりも後のものだろう、という事になる。
>つまり殉葬は古墳の周りに奴婢を埋めるようなものではなく
古墳の周りに墓があったりするのは殉葬ではないという事<
逆。殉死を選択するものであれば、
当然対象の主君や宗教的教祖の近くに埋葬を希望するもの。
>そうであるならばもっと多数の古墳に見られなければおかしいから<
殉死を希望されるような主君の数自体がすくない。
>代わりに古い100m超の王墓クラスの前方後円墳から特殊器台が見つかるのは
それに血を捧げる殉葬の儀式が行われていたのではないかと考えるに十分
もっとも邪馬台国の頃には既に形骸化していたのかも知れないが <
当然、卑弥呼の時よりも後の時代で起った事を示す。 685日本@名無史さん2018/11/14(水) 20:04:23.10
>>637
>悔しかったら掘り出してみろ
すごいパンチだな 686日本@名無史さん2018/11/14(水) 20:06:35.56
687スレ主さんへ2018/11/14(水) 20:09:58.59
邪馬台国の王都は山城
688日本@名無史さん2018/11/14(水) 20:10:23.75
>>995
>(纏向や箸墓説)別にそんなに拘ってないが 一番拘ってるのは九州説及び葛城厨<
スレ主が最も酷く?拘ったから、激しい議論や批判になった。
>畿内説の態度としては邪馬台国と目される畿内に<
畿内も邪馬台国も、存在もしないインチキ文言。
>複数の大きな建物跡と<
「市を監督する大倭職の祭祀建築。
>大きな前方後円墳があるね <
九州倭国の「東征毛人五十五國」のおそらく将軍的地位の人物の墓であり、
毛人を墓守り人に使って造った。
>邪馬台国は7万戸の国内で1番大きな国で
卑弥呼の墓は大きなものだったという魏志倭人伝の記述に合うなぐらいのもんだ<
「南≠東」であるから、×。 689日本@名無史さん2018/11/14(水) 20:12:36.73
オクムラーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ダメ ダメだ
690日本@名無史さん2018/11/14(水) 20:15:01.64
オクムラーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ダメ ダメだ
病院へ行けよ
あんたがいなくても畿内説は続くから
迷惑だ奥村 イネ
691日本@名無史さん2018/11/14(水) 20:16:34.49
どこの基地外なんだ?
そこで待っていろと言っているんだよ
お前の人生は終わり
692日本@名無史さん2018/11/14(水) 20:17:36.40
>>663
>吉野ヶ里遺跡はモニュメント?
工場団地の造成で遺跡が破壊されそうになってたところで、
「吉野ヶ里から邪馬台国が見える」といううまいキャッチフレーズでブームを盛り上げて
遺跡の保存⇒遺跡公園に、ということになったので、
ある意味広告塔的に邪馬台国的な建物がわざわざ作ってあるんだよ 693日本@名無史さん2018/11/14(水) 20:18:57.05
>>667
>検証せずに末盧国に唐津、伊都国の前原を当ててる時点でもう残念って感じ。
それはもう定説だから、素人が検証する余地はないだろうにww 694日本@名無史さん2018/11/14(水) 20:19:40.93
纏向は貴重な遺跡だが、邪馬台国と結び付ける桜井市の観光は失敗してるな
「日本のふるさと纒向」のキャチコピーがいいと思う
695日本@名無史さん2018/11/14(水) 20:20:08.25
吉野ヶ里は帥升倭国の都
面土国=米多
696日本@名無史さん2018/11/14(水) 20:20:26.55
>>668
>ヤマト王建
>全国筒浦
ちょっと、もちつけww
ありえない誤変換してるぞww 697日本@名無史さん2018/11/14(水) 20:21:27.57
>>669
>書いてあることを改変せずに解釈しないと。
そこで九州説は、解釈という名の下に「捏造」するからだめなんだよw 698日本@名無史さん2018/11/14(水) 20:22:08.28
特殊器台は、食べ物を備えるものだったんだね、、、
699日本@名無史さん2018/11/14(水) 20:22:51.81
オクムラーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ダメ ダメだ
病院へ行けよ
あんたがいなくても畿内説は続くから
迷惑だ奥村 イネ
700日本@名無史さん2018/11/14(水) 20:23:05.54
>>680
>葛城終わったら祇園山かよ
>同一人物なのか
左側スロープ君とザラコクは別人だよ
どちらも昔からいる、頭のゆるい人(精一杯穏当な表現ww) 701日本@名無史さん2018/11/14(水) 20:26:41.48
キウスさんよ
奥山≠奥村
どうでもいいけどな
702日本@名無史さん2018/11/14(水) 20:28:00.83
特殊器台はお酒や食べ物でしょ。
バラバラにした奴婢の遺体って…
箸墓に殉葬の痕跡がないからと言ってもう無茶苦茶w
703日本@名無史さん2018/11/14(水) 20:32:13.13
悪いけど
おれ寺澤さんから銭もらってねーし
寺澤と面識もねーし
寺澤本が好きなんだが
質はいいが 値段が釣りあっていない もう少し安くてもよい
704日本@名無史さん2018/11/14(水) 20:35:28.86
寺澤もインチキ本書いて畿内説信者から金巻き上げてんのか
705日本@名無史さん2018/11/14(水) 20:42:52.44
寺澤さんは踊り子なんだよ
706日本@名無史さん2018/11/14(水) 20:43:30.02
買ってもいないキウスがほざく
707日本@名無史さん2018/11/14(水) 20:45:16.05
踊り子の分際で本なんか出すんじゃねえ
708日本@名無史さん2018/11/14(水) 20:48:23.26
ごめん
>>672さんへ
寺澤さんは踊り子なんだよ 人間味溢れる踊り子なんだよ
論より守るべきは家庭 それでいいでしょう 709日本@名無史さん2018/11/14(水) 20:48:47.33
>>693
何か説をとなえるなら、定説とやらの裏をとるべきだと思うがな。
語呂合わせで読んだ地名が似てるからってのも定説になってたりするしな。
松浦が末盧とか伊都が糸島とかさ。 710日本@名無史さん2018/11/14(水) 20:49:47.12
711日本@名無史さん2018/11/14(水) 20:52:24.49
>>693
ところで、伊都国が対馬海峡の制海権を有する海洋軍事国家だってのは、根拠のない想像ってことでいいんだよね? 712日本@名無史さん2018/11/14(水) 20:53:11.99
ワロタ
畿内説は親分が白を黒と言ったら 皆黒になるんだ
畿内説の親分は誰なんだよ
⇓
683日本@名無史さん2018/11/14(水) 20:00:10.42
>>679
>スレ主 寺澤先生を利用するなよ
爺 義理も人情も知らん奴
日本の考古学は義理人情なんだよ
関西へおいで 初期山口組は正義なんだよ 713日本@名無史さん2018/11/14(水) 20:54:00.32
>>126
>「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312 ・・・<
この論考に対する反証は済んでいる。
基本的な反証は、
卑弥呼の墓は「冢」であり、那珂八幡の「くびれ部彎曲」の前方後円墳は卑弥呼よりも後であり、
大和の石塚や箸墓の「撥型前方後円墳は、更に後の3世紀末以後になる、という事と、
筑紫の庄内は、三雲や祇園山が非常に古く、3世紀前半であるのに、
大和の最古の庄内は石塚の庄内のようであり、3世紀末であるから、
筑紫の庄内の始めよりも50年位遅く、大和から筑紫への伝播搬入論は成立しない事。 714日本@名無史さん2018/11/14(水) 21:03:50.64
>>127
>関川尚功(邪馬台国大和説と箸墓古墳・纏向遺跡、2017)
「大和の弥生遺跡と纏向遺跡をみても、邪馬台国のあった地域の遺跡とは思えない。大陸系の遺物もほとんど出ないし、
古墳の起源になるような墳丘墓もみられない。
このようなところに北部九州の「奴国」や「伊都国」を統属して、中国王朝と盛んに交流を行ったという邪馬台国があったは
ずはないし、またこのような国が大和において自然に現れてくるということは、まず考えられない。
また、箸墓古墳の土器や埴輪も布留式の時代ですから3世紀まで行くものではない。纏向遺跡のピークもこのころだから、
やはり邪馬台国の時代よりあとのことで、纏向遺跡はむしろ大和政権の確立期の遺跡であろうと思われる。」 <
関川氏の論は、大体よいが、惜しむらくは、
「正北抵新羅」に拠って、倭国は北部九州である事と、
大和日本国は、九州倭国から別れた別種の旧小国の、
「地方の市を監督する大倭職の国」であったのであり、
九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の一国であって、
白村江の後で母国の九州倭国を併合吸収継承した、
という文献的な決定的史料事実に気が付いておられないらしい、
という事。 715日本@名無史さん2018/11/14(水) 21:07:30.01
>>128
「南→東」や「畿内」などの嘘つき騙しのアホの大和説、及び反九州説。
九州説にまったく歯が立たないの巻、 始まり始まり〜。 716日本@名無史さん2018/11/14(水) 21:19:38.63
>>129
>(寺澤の論考らしい)
(一)大和にとっての外的強力とはいかなる地域のいかなる集団であったか(権力中枢の系譜)、
(二)彼らの征服活動に興ずる必然性とその対象としての大和とりわけ東南部の重要性、
(三) 農業共同体再編の具体化と階級的支配関係の実体については、その後の論攷で私なりの一応の答えは用意することができた。<
これを見ても、この時点では、寺澤は、
「南≠東」という根本的は論理と、
大和が、九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の一国であって、東征将軍や武将らに拠って形成された、
という事が分かっていないアホのままであったらしい、
という事が分かる。
という事が 717日本@名無史さん2018/11/14(水) 21:23:39.63
>>716
あんたも終りだよ
雑魚の寺澤を相手にしてるようじゃ 718日本@名無史さん2018/11/14(水) 21:27:23.65
>>696
ちょっと落ち着けはアンタ
>ちょっと、もちつけww
餅つき大会かいなww落ち着け 719日本@名無史さん2018/11/14(水) 21:34:35.70
>>718
笑わせるな
まぁいいか
>>696のあわてんぼうが{{ちょっと、もちつけww}}
尻餅をついただけでいいんでねえーか
思慮に欠けるバカで流せばいいんでねーの 720日本@名無史さん2018/11/14(水) 21:44:11.30
>>??
キウスは山城王都説かい
山城はいいんでねーの
観光は桜井市でいいんでねの
九州の観光は魅力的だが邪馬台国が無くても成立してる
奈良県や桜井市の赤字財政に協力してもバチはあたらんよ
日本経済の活性化を考えたら奈良でいいんでねーの
721日本@名無史さん2018/11/14(水) 21:47:04.02
>>678
倭国の王都はどこかという問題。
それがわかれば自動的に卑弥呼がいた邪馬台国はわかる。 722日本@名無史さん2018/11/14(水) 21:48:43.01
>>711
伊都においた大率が刺史のように北の国々を検察していたと、魏志倭人伝に書いてある。 723日本@名無史さん2018/11/14(水) 21:48:52.43
>>132
>この漢末魏初の人、文穎の注の(高三十里)は、陳寿の天柱山(高峻二十里)と同じ用法。
陳寿が「呉志」で(高数十丈」と書いているように、高さを表す場合は(丈)を用いるのが普通に一般的。<
関係がない。
元々「丈」は尺寸系単位であり、
人間の身長などの大きさ程度の寸法をなどを示すのに使う単位であり、
それに対して、「里」は里歩系単位であり、
「田の土」という意味であり、
「田畑やそれを耕作する集落」の長さ位のものを示すのに使う単位。
だから、滝のような数十m位の物では「丈」でもよいが、
1000〜2000m位の山高を表すには、「丈」では数字が巨大になり過ぎてイメージが湧かず、
「里」で表した方が、イメージが湧き易いもの。
>文穎注のこの文章では、(周七十里)は(周歩すること七十里)の意味であるから、
次に続く(高三十里)も(高歩すること三十里)とし、
頂上までの道のりが三十里とするのがよい。<
これも×。
「周」は独立峰であれば、ある程度の一定数値を計測出来る可能性はあるが、
そうでない広大な山地の山であれば、全く無限の計測値が出来てしまって、里数表現も無限にあって不適切な表現になり、
「高三十里」も「道のり」であれば、道の選択の違いに拠って、
無限に近い里数表現が出来てしまい、「高」の表現としては不適切であり、
実際に山の「高」を、登山道の道のり里数で示す、なんて事は、人類は全く行っていない。
それに、平地からの山高の計測法は、周髀算経などの算術書の簡易三角測量方法で、概算は十分に可能である。 724日本@名無史さん2018/11/14(水) 21:50:59.38
>>703
あなた、スレ主?
テンプレを減らしていただけませんか? 725日本@名無史さん2018/11/14(水) 21:51:51.95
大和弥生社会の展開とその特質
寺沢薫
(纒向学研究 第4号より抜粋・引用)
もともと第一の道論(注釈:奈良盆地の独自の発展によるヤマト王権の誕生)は、奈良盆地の自然環境の卓越性を根拠に、生産力の先進性をことさらに高く見積もり、
前期古墳に見る隔絶性から前段階の強力な権力の存在を推定するという本末転倒の論理によって説明されてきた感が強い。
以降、第一の道論は吉備連合論、河内(大和川水系)連合論、鉄ルート開発 ・ 確保論、倭国乱での巻き返し論等々を巻き込み、修復を繰りかえしながら多くの論者によって支持され続けてきた。
しかし証明のための論理や手法に根本的な改善は見られない。
私は第一の道を否定する立場である。
第二の道は多様である。
私は北部九州や2世紀以降とくに強大な勢力として新興してきた吉備を中心とした瀬戸内海勢力を維新主要勢力とした政治的談合による倭国の再編成(私の言う「新生倭国」の誕生)と考えている。
畿内や大和ではその直前まで首長墓を含む一般的墓制は方形墓なのであって、しかも王権を構成した主要地域に比べると、
墓に反映されるほどの階級的に隔絶した首長権力が存在した形跡は微塵もないのである。
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf 726日本@名無史さん2018/11/14(水) 21:52:52.75
寺澤先生のところ
1、研究者であるところ
2、自説の間違いを受け止め次に展開するところ
3、既存の畿内説学者と対峙するところ
4、纒向と邪馬台国との接点について断定しないところ
5、纏向編年や炭素年代に理解を示しつつも?とするところ
寺澤先生を邪馬台国論争に利用するな>>1 727日本@名無史さん2018/11/14(水) 21:54:08.82
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
728日本@名無史さん2018/11/14(水) 21:55:14.01
>>135
>東征毛人…は雄略の自分の先祖の自慢話。<
倭王武と雄略とでは、名前も生存年次も治績なども全く一致していないから、
違う人物であり、×。
>なので、これはやはり、出発地は大和ということで。<
なので、これはやはり、出発地は、「正北抵新羅」に当てはまる北部九の倭国である、
という事で。 729日本@名無史さん2018/11/14(水) 21:55:35.88
>>722
「『魏志』には”一大石””一大蛇””一大統”という言葉が出てくるので、”一大率”もこれらの”一大...”の中の一つだと思われがちであるが、じつはそうではない。
三字をさらに区切るなら、
”一大石”は”一 大石”
”一大蛇””は一 大蛇”
”一大統”は”一 大統”
というような、”一”は”一つの”という意味になる。
したがって、ちょうど英語のaやanのような冠詞になる。そして”大”を加えると、まさに、a bigと同じ意味になって、石、蛇、伝統いうのにちょうどいいようになる。
しかし、”率”にa bigというのはおかしいし、例え”大”をbigといわずにgreat、largeといい変えてもおかしい。
日本で”率”を”軍団”と誰かがでっち上げたから、”一大率”を”一つの大率”と取っても違和感がなくなったが、もともと”率”は”軍団”ではなく、”師”であり、分かりやすくいえば”司令官”という意味である。」
誤読だらけの邪馬台国 730日本@名無史さん2018/11/14(水) 21:57:13.39
>>729
「諸国を検察するのにたった一人の司令官を置くのは、どう考えても辻つまが合わない。”率”は”司令官”であるから”小率”は絶対になく”大”とわざわざ書かなくても当然”大”である。
したがって”一大”が固有名詞でない限り、ここには”一”の”大”も出てくるはずがなく、したがって一大というのは、固有名詞であり、一大率は一大国の司令官である。つまり、一大国の司令官を使って諸国を統治していたのである。」
誤読だらけの邪馬台国 731日本@名無史さん2018/11/14(水) 21:57:29.42
関川尚功の論は別にして彼は本物の探求者だよ
人参ぶら下げられても食わなかった本物の探求者だよ関川は
732日本@名無史さん2018/11/14(水) 21:58:17.25
>>730
「女王国以南の投馬国は、天領の邪馬台国と全く同じで、邪馬台国からの司令官が統治していたと思われる。一大国の司令官が統治したのは、狗邪韓国、対馬国、一大国、末盧国が主だと思われる。
そして、司令官による統治は、つまり、軍政だということである。だから諸国は恐れたり、畏怖したりしたのである。
しかし、司令官による統治は、軍政だということであるから、小国に対してはできたが、伊都国のように“世有王”という半独立国にはできない。
したがって、いつも伊都国に対する統治の仕方は、国の中に刺史に似たような長官を置いたのである。つまり、一大国の司令官で統治するような軍政を行わずに、刺史のような長官で、伊都国王に一目おきながら伊都国を統治したのである。」
誤読だらけの邪馬台国 733日本@名無史さん2018/11/14(水) 22:02:03.37
>>709
>何か説をとなえるなら、
九州説と違って畿内説は「何か説を唱え」たりはしないんだよ
呪文でも唱えるのかい? 九州説は?
まあ、半ばカルト化してるから呪文みたいなものだな
ザラコクの「南≠東」とか「畿内なんてない」とかw
畿内説がどんなものであるのかを、「根拠とともに紹介」しているだけ 734日本@名無史さん2018/11/14(水) 22:03:31.66
ふーーん
ここは畿内説のスレ
よそでやれ
皆の者
九州説のスレでやれよ
ここは畿内説のスレ九州説が暴れるのは別スレ
畿内説への反論は>>1もろとも受けて立つ 735日本@名無史さん2018/11/14(水) 22:03:40.07
>>733
それを日本語で、畿内「説」をとなえてるっていうんだよ。 736日本@名無史さん2018/11/14(水) 22:06:56.71
>>734
>畿内説への反論は>>1もろとも受けて立つ
ふーーん
九州説相手だと威勢がいいねぇ。 @阿波 737日本@名無史さん2018/11/14(水) 22:19:53.20
テンプレ爺
余生をここで過ごせばいいい
付き合ってあげてもいいよ
少しだけだが
だが 学を積んだ方が良いテンプレ爺
ボケるぞテンプレ爺
纒向はこれからだよ断定爺
爺よ纏向はこれからだよ
あんたも俺も死んでからだよ
邪馬台国と関係ない地が纒向・・日本史のうえで重要な地が纒向(櫻井市では無い 三輪山周辺)
738日本@名無史さん2018/11/14(水) 22:22:05.08
>>924
そして大和説学者らは、「南→東」などの嘘吐き騙しの、脳無しの学者。 739日本@名無史さん2018/11/14(水) 22:27:07.39
>>725
サンキュウ
このスレは寺澤説を曲解した寺澤説の面汚しのスレ
寺澤説に賛同したわけじゃねーけど 740日本@名無史さん2018/11/14(水) 22:28:45.84
>>721
>倭国の王都はどこかという問題。
10代崇神が4世紀前半として6代考安以前は葛城であると記紀に書いてある。
ヒミコが住んだ王都は葛城なのだが。
何も難しくないのに何で分からないのだろ? 741日本@名無史さん2018/11/14(水) 22:30:38.84
小便爺は引っ込んでろ
742キウス ◆PyuQX798ps 2018/11/14(水) 22:32:20.81
>>720
邪馬台国は淀川水系です
太平洋ルート説です
奈良は王家の墓地
纒向は斎場 743日本@名無史さん2018/11/14(水) 22:32:58.72
>>726
>4、纒向と邪馬台国との接点について断定しないところ
はっきり言わないからいやウザいのだが。
はっきり断定して間違えるのを避けてるんだろう。 744キウス ◆PyuQX798ps 2018/11/14(水) 22:39:00.19
王都は京都支持派
畿内説でなく邪馬台国は水系から京都
奈良は邪馬台国の南の地を含め 河内、近江、京都(日本海の北部も含む)が邪馬台国
王都は現京都市
745日本@名無史さん2018/11/14(水) 22:42:20.68
>>160
>畿内説のレスをパクって返す朝鮮人根性丸出しの九州説<
「南→東」などの嘘吐き騙しがバレ、
大和説レスが、直ぐにパクられて「鸚鵡返視され」て返され、
唯我独尊のタカ派の人種差別的殺人戦争狂の根性丸出しの・・・・大和説。 746日本@名無史さん2018/11/14(水) 22:43:47.81
>>718
>ちょっと落ち着けはアンタ
「もちつけ」は、ネットスラングだよ
ミスタッチその他で「も」になったりはしないだろ? 747日本@名無史さん2018/11/14(水) 22:46:09.19
>>726
>寺澤先生のところ
あいかわらず日本語がおかしいな
無理に日本語を使わなくてもいいのに 748日本@名無史さん2018/11/14(水) 22:46:49.87
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
749日本@名無史さん2018/11/14(水) 22:47:41.50
>>177の忘れ物。
>畿内大和説では、殉葬以外はきちんと説明できる<
大和説は、「南≠東」などに拠って、全部×。 750日本@名無史さん2018/11/14(水) 22:48:32.33
卑弥呼が馬韓から倭国にやってきて女王になったとき、
反対派の抵抗に対して卑弥呼はこう言ったらしいよ
「いやんばかん」
馬韓だけにwww
751日本@名無史さん2018/11/14(水) 22:51:20.47
>>709
語呂合わせで読んだ地名が似てるからってのは定説ではないだろ 752日本@名無史さん2018/11/14(水) 22:51:51.43
>>746
ご無礼
ネットスラングですね
このスレもたわいもないスラングですね
お互い楽しみましょう 753日本@名無史さん2018/11/14(水) 22:55:57.96
>>205
これが
論争に敗れ、狂ったように喚き散らす大和説の醜態です。 754日本@名無史さん2018/11/14(水) 22:57:26.77
畿内説はダメだ
5ちゃんで論破されるようじゃ畿内説も終りだ
755日本@名無史さん2018/11/14(水) 22:57:33.20
>>751
結構そういうのを見るけど?
末盧→松浦、伊都→糸島とか怡土、邪馬台→山門とか大和は? 756日本@名無史さん2018/11/14(水) 23:03:35.08
>>755
今の糸島→伊都国は考古学成果で裏づけされたから
ほぼ定説となったんだろ
邪馬台→山門は定説じゃない
邪馬台→大和は、考古学者はほぼ畿内説 757日本@名無史さん2018/11/14(水) 23:04:07.55
>>207
>九州にもいません<
魏志に、殉葬墓があった事がはっきり証言されています。
>後世の共同墓地を殉葬にデッチ上げても無駄<
「戦前の万世一系皇国史観」や「人種差別的殺人戦争」に狂った安部文部省らに支配され、
隷従するしか脳のない公的発掘報告者のデッチ上げ報告など、
何の証言価値もなく、無駄です。 758日本@名無史さん2018/11/14(水) 23:06:55.70
759日本@名無史さん2018/11/14(水) 23:06:56.10
>>212
>西暦184年頃、大飢饉によって人々が神頼みになり巫女の卑弥呼が女王になる。
(ここまでの間に首都が筑紫から大和に移った。)<
南≠東などに拠って×ね。 760日本@名無史さん2018/11/14(水) 23:09:14.16
>>212
>九州王が権威失意して国が崩壊してるとこが重要なポイント<
この大和説男が、「南→東」などの嘘吐き騙しをしている事、
そこが重要なポイント。 761日本@名無史さん2018/11/14(水) 23:09:16.12
>>758
帯方郡の前の楽浪郡との交流遺物だろうな 762日本@名無史さん2018/11/14(水) 23:10:57.12
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
763日本@名無史さん2018/11/14(水) 23:11:08.24
>>214
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説が、
また妄想して、国民を騙そうといているな。 764日本@名無史さん2018/11/14(水) 23:12:20.20
>>761
他の国邑でなく伊都国だとした根拠は?
語呂合わせ? 765日本@名無史さん2018/11/14(水) 23:16:15.41
>>764
楽浪土器→馬韓系土器に替わる時代の
郡からのルートだよ 766日本@名無史さん2018/11/14(水) 23:18:35.92
>>223
>前方後円墳は、もともとは円墳部分のみが墓。
前方部は陸橋(祭祀スペース)が進化したもの。
当時は円墳部分のみを墓と認識していたと思われる。・・・<
いや、周濠が「前方後円墳型」に掘られた限り、
始めから「前方後円墳の形に掘ろう」とした事が自明であり、
モンゴルや高句麗の前方後円墳は、
円墳部分と方墳部分とを区別せず繋がった形になっている。 767日本@名無史さん2018/11/14(水) 23:18:45.20
>>754
>5ちゃんで論破されるようじゃ畿内説も終りだ
「論破された」って文字列を並べたって、それで論破したことにはならないんだよ
九州説は根拠なく言い張るだけだから 768日本@名無史さん2018/11/14(水) 23:21:41.51
>>765
それは伊都国と違う国だと何か違ってくるの? 769日本@名無史さん2018/11/14(水) 23:26:14.61
>>230
>そうでもない。 方墳にしろ、円墳にしろ、元々溝がぐるりを取り巻いていた。
墳丘が大きくなるにつれて、ぐるりの溝も広く、深くなった。 それだけの話。<
いや、周濠が「前方後円墳型」に掘られた限り、
始めから「前方後円墳の形に掘ろう」とした事が自明であり、
円墳でも方墳でもなく、
卑弥呼の冢でもない。 770日本@名無史さん2018/11/14(水) 23:32:49.36
>>233
>張政らは、墓を実見していないだろう。<
倭人は「里」を知らないんだから、
同じ里歩系単位である「歩」も知らない事になり、
だから、倭人は「径百歩余歩」という計測は出来ず、
だから「径百歩歩」は、張政ら中国役人たちが自ら計測した歩数であった、
という事になり、
張政らは、卑弥呼の墓の「大作冢」を見ていた事になる。 771日本@名無史さん2018/11/14(水) 23:34:00.95
772日本@名無史さん2018/11/14(水) 23:35:52.06
>>767
なぜ九州にこだわるの
別スレへ行け
テンプレ無視かい 773日本@名無史さん2018/11/14(水) 23:40:46.12
というか勝手に大和VS九州とかいうアホ丸出しの図式で喚いてる九州低能猿に笑う
邪馬台国は寺澤氏がどうのこうの言う前に複数地域の文化の集合体として成立してるのは自明
弥生時代の大和と文化が全然違うんだから当たり前
ついでに九州とも全然違う
吉備、摂津、河内、近江、讃岐、阿波、播磨の文化が集まってできている
むしろ大和はその連合の中心地として上書きされた土地
それも知らないでやれ弥生時代の大和がどうのだの、九州がどうのだの一人で騒いでるから笑いしか出ない
774日本@名無史さん2018/11/14(水) 23:49:53.95
難しい畿内説
径百歩は正しくて、方位は誤記と言う畿内説
倭人伝の何が正しくて何が間違いなのか畿内説でまとめた文研があれば示してほしい
九州も出雲も阿波も関係ない、畿内説のスレだからあえて問
最近 何がなんだか畿内説はようわからん 纏向の功罪だろうが
775日本@名無史さん2018/11/14(水) 23:49:58.38
文化的には大和も九州も「弥生時代の様相と全く違う邪馬台国の文化に上書きされて独自性を消失した土地」という点で同じ
双方とも逆算しても邪馬台国の文化を弥生時代に見いだせない
突然、今まで全くなかったものに乗っかられて個性を失う場所
主体は摂津や河内の方にある
776日本@名無史さん2018/11/14(水) 23:54:35.86
777日本@名無史さん2018/11/14(水) 23:54:47.17
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
778日本@名無史さん2018/11/14(水) 23:55:26.29
広域の連合として成立してるからこそ7万戸という人口を擁する土地になってるんだろう
まさか単体の環濠集落とか、弥生集落でそれだけ行くとか思ってたらすごいわな
779日本@名無史さん2018/11/14(水) 23:56:51.74
だから九州バカとかはありもしない「単体で7万戸」の超巨大王都とかいう妄想を喚くんだろうなぁ
35万人の人口とか現代でも相当でかいのにw
九州説の異常者の異常ぶりがよくわかる
780日本@名無史さん2018/11/14(水) 23:57:03.80
三雲遺跡はそれ以前の弥生集落のような「生活の場所」と言う性格を脱却し、
「祭祀」と「王城」と言う特別な用途を持つ部分を分離して特化拡大した点が他の弥生集落と次元を違う存在にしている
このような重要な場所は弥生集落では安全な集落の中央部などに作られていたが、三雲遺跡はそれそのものが環濠も持たずに独立して存在している
これは既に集落と言う壁で守らなくても、その領域そのものが安全の確保された土地であることを示している
三雲遺跡は弥生時代の「クニ」と言う領域を超えた「国」の出現を意味している
弥生時代後期後半より続いていた集落の解体と再編成の集大成的存在であると言える
魏志倭人伝において三雲遺跡は伊都国として紹介され人口は千戸しかないが、隣の世俗の地である奴国を合わせると、北部九州全体で七万戸と言う他を圧倒するような人口を擁している国を形成している
決して弥生時代のような集落という単位ではない事がこの事からも理解できる
781日本@名無史さん2018/11/14(水) 23:58:02.77
>>779
>だから九州バカとかはありもしない「単体で7万戸」の超巨大王都とかいう妄想を喚くんだろうなぁ
ありもしない仮装の「九州説」を叩いて勝った気になっているアホウ 782日本@名無史さん2018/11/14(水) 23:58:35.90
畿内説は近畿周辺の先生の互助会だよな
先生ってもいろいろあるが、低レベルだな
自動車学校の先生レベル・・
783日本@名無史さん2018/11/15(木) 00:01:10.23
行程記事と風俗記事と外交記事に分類して外交記事は信頼性高いとするのが普通じゃね
中世近世どころか現代でさえ誤解は少なからずあるのに古代の記事が何もかも正しいって考える方がおかしいでしょ
784日本@名無史さん2018/11/15(木) 00:04:55.21
畿内説は近畿周辺の先生の互助会だよな
先生ってもいろいろあるが、低レベルだな
自動車学校の先生レベル
畿内説って銭になるのは
ヤマト王政や前方後円墳と三角縁神獣鏡と結び付ける事だろ
関係無いよ
ヤマト王政は記紀から誕生したのだよ 遡っても5世紀あたりだよ
謎の4世紀に何が起こったのかも論ぜず畿内説を唱えるのはいかんよ
785日本@名無史さん2018/11/15(木) 00:10:59.84
まぁ九州は7万戸の人口どころか何一つないからな
ウソと妄想叫ぶしかないよな
・鏡は5〜6期の古い鏡を打ち割った破鏡か欠損鏡、小型?製鏡が殆ど。古墳出土鏡を待つまで完形鏡がほぼ出ない
(西日本各地では完形鏡が出土するので既に九州に中心地など存在しない)
・平原の鏡も古い鏡を鋳つぶして作った?製鏡だらけ
・絹は中期の13遺跡から激減の1遺跡。しかも麻布よりも粗悪な糸くず片が一かけら出るのみ
・祭祀遺跡は柱を2本立てただけの小さなものくらいしかない
・当時採掘されていた丹山は存在しない
・宮殿など影も形もない
・全域が畿内の土器に塗り替えられ在地土器が変容(一方的に畿内の影響が入り込み九州から広まる様子はない)
・大型墳墓の歴史が無い状況で突然この時期に大型墳墓が持ち込まれる
九州説とかいうバカは何をどう妄想したらそういう結論になるのやら
786日本@名無史さん2018/11/15(木) 00:11:46.34
>>780
纏向の説明をコピペでオウム返ししたのかな
サルマネっぽいぞ 787日本@名無史さん2018/11/15(木) 00:12:40.85
しかも平原の祭祀遺跡とやらは本当に「ただ柱を立てただけ」だからな
建物跡ですらない
こんなもんを全ての起源の大祭祀遺跡とかほざいてるんだから憐れみしか出ないな
本当に何一つないんだなと
788日本@名無史さん2018/11/15(木) 00:12:53.57
>>779
畿内の範囲を示すべきではないか
7万戸を主張するなら 789日本@名無史さん2018/11/15(木) 00:14:20.68
>>786
そいついつもの九州バカだから
つか「ダメージ受けた痛いレス」をコピペするんで大爆笑もんだからw
あー効いてる効いてるとw 790日本@名無史さん2018/11/15(木) 00:15:53.58
しかもなんか平原の「柱2本だけの超巨大スーパー遺跡」とやらの説明が
「御柱祭りと同じ」とか言ってるからなw
持ち出すものがローカル祭祀というお笑いネタ
791日本@名無史さん2018/11/15(木) 00:20:10.56
このスレってさ
九州説支持者=スレ主じゃねーか
スレ主の巧妙な罠だな
スレ主=九州説
わざとテンプレを墓穴を掘る様に支離滅裂にしてるな やっと気づいたよ
テンプレ以外はスレ主名無し投稿だしな
792日本@名無史さん2018/11/15(木) 00:23:00.91
>>780
>三雲遺跡はそれそのものが環濠も持たずに独立して存在している
川に挟まれてるからな 793日本@名無史さん2018/11/15(木) 00:27:22.13
マスコミ誘導は別だが
畿内説は何故支持されないのかなぁ〜
アンケートを見直すべき時期かも。畿内在住の研究者は頑張っているのだが
794日本@名無史さん2018/11/15(木) 00:28:06.62
>>785
あのな、破鏡じゃなくて破砕鏡な
割れたのではなく割ったの
伊都王都には割ってもいいくらい大量の中国鏡があったの
ほんとここまで馬鹿な文章も珍しいな 795日本@名無史さん2018/11/15(木) 00:28:12.16
>>790
ローカルじゃないでしょ
『ジェイソン』 796日本@名無史さん2018/11/15(木) 00:28:47.20
九州低能のアホレスに深夜に大笑い
797日本@名無史さん2018/11/15(木) 00:34:17.24
キウスは死ぬまで治らない
798日本@名無史さん2018/11/15(木) 00:35:05.20
>>787
平原王墓は朝になる真っ先に日向峠から差し込む太陽の光が当たる
鬼道をもって治めた日巫子が平原女王、それは卑弥呼
比類なき希代の王墓である平原王墓に対する嫉妬か? 799日本@名無史さん2018/11/15(木) 00:35:11.94
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
800日本@名無史さん2018/11/15(木) 00:36:09.75
伊都クズも死ぬまで治らない
801日本@名無史さん2018/11/15(木) 00:37:26.64
『ジェイソン』wikiを読んでみて
802日本@名無史さん2018/11/15(木) 00:38:47.13
大量の銅鏡とガラス玉を副葬した墓は平原王墓から始まって全国に広がる
平原王墓の主が連合王国の女王卑弥呼でありその支配が全国に広がったという証
803日本@名無史さん2018/11/15(木) 00:42:20.08
思考停止
妄想連呼
ま、九州猿なんてこんなもんだろう
804日本@名無史さん2018/11/15(木) 00:42:37.91
wiki『ジェイソン』
このような事が書いてあったり
>クリスタルレイクでキャンプに参加していた11歳のジェイソン
>顔に『布袋』を被せられ
805日本@名無史さん2018/11/15(木) 00:57:28.23
『水晶宮』でしょ?
日本にも同じような話があったり
『水晶宮 龍宮』
806日本@名無史さん2018/11/15(木) 01:00:13.06
畿内は文明が遅れすぎて話にならない
北部九州では大量の硯石が発見されており文字を用いている
ハアー 銅鏡ネェ 鉄もネェ
王都もそれほど大きくネェ
貨泉もネェ ガラスもネェ
文字とは一体何者だ
おらこんな村いやだー おらこんな村いやだー
伊都へ出るだー
807日本@名無史さん2018/11/15(木) 01:02:48.39
偉大なる九州
・鏡は5〜6期の古い鏡を打ち割った破鏡か欠損鏡、小型?製鏡が殆ど。古墳出土鏡を待つまで完形鏡がほぼ出ない
(西日本各地では完形鏡が出土するので既に九州に中心地など存在しない)
・平原の鏡も古い鏡を鋳つぶして作った?製鏡だらけ
・絹は中期の13遺跡から激減の1遺跡。しかも麻布よりも粗悪な糸くず片が一かけら出るのみ
・祭祀遺跡は柱を2本立てただけの小さなものくらいしかない
・当時採掘されていた丹山は存在しない
・宮殿など影も形もない
・全域が畿内の土器に塗り替えられ在地土器が変容(一方的に畿内の影響が入り込み九州から広まる様子はない)
・大型墳墓の歴史が無い状況で突然この時期に大型墳墓が持ち込まれる
808日本@名無史さん2018/11/15(木) 01:05:24.43
『日本昔話 姥清水』
本当に同じような話
『月宮殿』
809日本@名無史さん2018/11/15(木) 01:11:19.84
『松傾』
この家の話でしょ
810日本@名無史さん2018/11/15(木) 01:13:41.50
>>807
銅鐸と土偶の縄文信仰をしてろくに王の居なかった畿内は何なの!? 811日本@名無史さん2018/11/15(木) 01:15:24.71
一つくらいまともな事言えよ猿
812日本@名無史さん2018/11/15(木) 01:16:49.14
『何者にもなれない お前たち』
モレ(仮)が生まれるよりも前の話、
ウサギの話をしていた事があったり、父親も生まれていなかった頃の話かも
813日本@名無史さん2018/11/15(木) 01:20:24.89
倭国大乱は伊都国が瀬戸内以東に進出して連合王国の主になっていく課程
814日本@名無史さん2018/11/15(木) 01:21:05.40
まともなこと言ってやろうか?
纏向型前方後円墳の分布と邪馬台国は全くの無関係
815日本@名無史さん2018/11/15(木) 01:21:59.30
あの葱の華などの写真の話なんだけど
むかーし、普通の白いウサギを飼っていたことがあって・・・、
自分で餌をあげたり可愛がっていたとかw
816日本@名無史さん2018/11/15(木) 01:23:43.16
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
817日本@名無史さん2018/11/15(木) 01:35:12.00
土偶はサザビーズで2億で落札されるほど
海外では評価が高いけど朝鮮人は嫌うよな
九州では阿蘇が出土は多い
818日本@名無史さん2018/11/15(木) 01:38:14.09
本物だと言っているわけなんだけどw
むかーし住んでいたところが〜伊達郡・・・川俣町が何やらとか
819日本@名無史さん2018/11/15(木) 01:47:21.61
何の家なんだよwと思っている人もいるだろうけど
『松傾』?この家
820日本@名無史さん2018/11/15(木) 01:49:18.55
猿と会話しようとしてる奴がいたらそいつの方が頭おかしく見えるな
猿が口きけると思った方がバカだったよ
821日本@名無史さん2018/11/15(木) 02:02:54.22
50兆円の話は、どうなったの?
いつまで経っても振り込まれないというか、
持ってこないし
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜侵害などを含めた話
822日本@名無史さん2018/11/15(木) 02:12:20.96
>>813
女王に統属されてる半独立国の伊都国が異常に過大評価されてる。 823日本@名無史さん2018/11/15(木) 02:25:55.47
『三貴子』
画像などが出てくるでしょ
『松傾』
この人物の話なんだけど
824日本@名無史さん2018/11/15(木) 02:33:47.04
むかーし、日本(日本も無かった頃の話)に渡ってきたんだよ
と言ってる人がいたでしょ?
だから見た感じも、ほとんど日本人というか日本人
『詐欺師と一緒にされるのも嫌なので』
825日本@名無史さん2018/11/15(木) 02:49:00.91
ガンダムのサングラス?
826日本@名無史さん2018/11/15(木) 05:10:07.08
>>787
墓に関連して、柱状のものを特定の時期の太陽の方向に向けて立てるものは、縄文後期にはみられるからな。
秋田県の大湯環状列石がそれ。
夏至の夕日の方角に合わせて、石柱を二本立てている。
平原の柱も、大湯列石と同じ性格のものだろう。 827日本@名無史さん2018/11/15(木) 05:48:05.73
マスコミ誘導は別だが
畿内説は何故支持されないのかなぁ〜
アンケートを見直すべき時期かも。畿内在住の研究者は頑張っているのだが
828日本@名無史さん2018/11/15(木) 05:49:23.82
大阪人は畿内説と関係無いからよろしく
829日本@名無史さん2018/11/15(木) 06:06:35.18
>>234
>張政らは墓の現場へは行っていず、百歩などのデータは倭人が伝えたのだろう。
張政 「大きさはどれくらい」
倭人役人 「だいたい百歩」
張政 「百余歩ね、OK」<
倭人は、里を知らないのだから、「里歩系」単位の「歩」も知らないので、
「倭人役人 「だいたい百歩」」という事にはならず、
だから、×。 830日本@名無史さん2018/11/15(木) 06:19:53.69
>>235
>どうして素直に間違えました、ごめんなさいって言えないのかねぇ
間違いを認めたら負けの価値観で生きてる人は大変だw
>円墳とも方墳ともどこにも書いてないね
「円墳か方墳か」が重要なことではないのであれば、
「前方後円墳かどうか」も重要ではなくなるんじゃないの?<
円墳であっても方墳であっても、
棺を容るるに足りる位のサイズであれば、「冢」たり得るが、
山のような巨大な前方後円墳は、
サイズ的にも,形状的にも「冢」たり得ない。
>「特記したくなるほど大きな墓だった」というその一点が重要なんじゃないか <
「大作冢」は「大いに冢を作る」であって、
「大きい冢を作る」ではないから、
「特記したくなるほど大きな墓だった」というのは、×。 831日本@名無史さん2018/11/15(木) 06:23:51.29
>>829
おれもそのように思う
なぜ百歩なんて曖昧な表現をしたのだろうかな
長さを表すなら丈でいいのに 832日本@名無史さん2018/11/15(木) 06:25:24.34
>>830
>円墳であっても方墳であっても、
>棺を容るるに足りる位のサイズであれば、「冢」たり得るが、
>山のような巨大な前方後円墳は、
>サイズ的にも,形状的にも「冢」たり得ない。
なんの文献的根拠もないザラコク思想を
いくら叫んでも意味がない 833日本@名無史さん2018/11/15(木) 06:33:28.64
>>251
>などとバレバレの ウソをつくしか道のない九州説が悲惨<
などと、
「ウソをつく」と言ったり、「テンプレに書いてある」とか言うんなら、
その内容の部分をそのレスに書き出せばよいのに、
それをしないで、口先だけで誹謗するしか、バレバレの道のない大和説が、悲惨。 834日本@名無史さん2018/11/15(木) 06:35:30.28
>>253
「会稽東治之東」という動かぬ証拠を突きつけられて,
逃げ回ってるのが、大和説者なんだろ?。 835日本@名無史さん2018/11/15(木) 06:43:01.49
>>834
なんど言っても理解不能なチンカスだな
「会稽東治之東」を真東としたら畿内説も破たんするだろ
太陽の上る方向ぐらいでいいのだよ
「日出処の天子・・・」でいいのだよ 836日本@名無史さん2018/11/15(木) 06:46:01.97
>>257
>高い山に登らなくても見えるんだが <
Yahooでの議論での計算では、
対馬の海岸の目の高さからは、壱岐の最高峰の壱岐島の最高峰.の岳ノ辻. 標高212.8mは、
見えなかったよ。 837日本@名無史さん2018/11/15(木) 06:50:49.38
838日本@名無史さん2018/11/15(木) 06:55:03.30
839日本@名無史さん2018/11/15(木) 06:55:36.97
>>262
いつものテレビや著作では、完璧超人であるように装っている大和説学者らが、
都合良く、「南→東」などの嘘吐き騙しの怠け者になるのをみるのは、
ちょっと面白いぞ。 840日本@名無史さん2018/11/15(木) 06:57:03.85
>>264
あらゆる証拠を踏みにじって、現代史まで偽造する大和説
スゲー 841日本@名無史さん2018/11/15(木) 06:59:49.86
>>269
つまり「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者や大和説学者らは、
「俺様解釈と違うから絶対拒否する」って言ってるだけだな。 842日本@名無史さん2018/11/15(木) 07:05:38.34
畿内説は組織的に嘘をつくのだ
843日本@名無史さん2018/11/15(木) 07:07:36.33
>>273
>祇園山の“庄内”は筑前型庄内甕であり、大和庄内甕の技術を習って地元の土で焼いたもの。
その筑前型庄内甕の早い時期のものではないか。<
祇園山は「冢」であり、
だから、祇園山の庄内は、
大和の最古クラスの撥型前方後円墳の石塚の庄内よりも古くて、
「大和庄内甕の技術を習った」事にはならないの。
石塚の庄内が祇園山の庄内を習った、という事になるの。 844日本@名無史さん2018/11/15(木) 07:11:44.24
>>275
>祇園山から庄内は出てない<
都出や柳田らが判定した「土師器の古い方」といういうのが、
「庄内」を意味していたの。 845日本@名無史さん2018/11/15(木) 07:16:47.95
>>281
>倭人伝通りだとインドネシアの密林の中になるから困ってるわけで <
「インドネシアの密林の中になる」という倭人伝解釈をした人間の、
解釈や脳の中身がおかしい、
という事になるから困ってる訳で。 846日本@名無史さん2018/11/15(木) 07:23:05.78
>>289
>邪馬台国はヤマト国だろ タイトル変えろ 関係ない他の畿内を巻き込むなよ<
それ以前に、「邪馬台国」も「畿内」も、
日本列島の古代には存在しなかった文言だよ。 847日本@名無史さん2018/11/15(木) 07:28:34.43
>>290
>>倭人伝にいかに近づくかが論争の焦点である<
>「史料の限界」を考慮しない魏志倭人伝原理主義はまともなアプローチではない <
「考古史料の限界」を考慮しない「考古原理主義」は、まともなアプローチではない。
文献も一種の考古であり、
文献は、考古では「紀年付きの金石文」に匹敵する。 848日本@名無史さん2018/11/15(木) 07:29:22.38
>>828
京都府民も畿内説と関係無いからよろしく 849日本@名無史さん2018/11/15(木) 07:36:24.65
もちろん、滋賀も和歌山も三重も畿内説と関係無いからよろしく
850日本@名無史さん2018/11/15(木) 07:38:43.66
>>291
>これが大ウソ 末盧国を呼子にしても伊都国は東南にならないし
国境を越えたところで国に着いたとは表現しない <
これが大ウソ。
陳寿は、行程説明では、原則として「出発の説明+途中の説明+到着説明」を書き分けており、
「東南陸行五百里到伊都國」では、
「東南」が出発の説明、「陸行五百里」が途中の説明、「至る伊都國」が到着の記載、
とはっきり書き分けており、
だから「東南」は、末盧國からの出発時点での出発方向の指定、という記載であった事になり、
末盧國から伊都國への方向説明にはなっていない。 851日本@名無史さん2018/11/15(木) 07:41:36.11
>>37
> 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
どこの砂丘を指してんの??
鳥取砂丘?温暖化と関係ないし
鳥取砂丘は中国山地の花崗岩質の岩石が風化し、千代川によって日本海へ流されたあと、
海岸に集まったものが砂丘の主な砂となっている。海中の砂を海岸に向けて流れ寄せる潮流と、
海岸線に堆積した砂を内陸へ吹き込む卓越風の働きで形成された。 852日本@名無史さん2018/11/15(木) 07:42:09.43
マジか出発時の方向なら畿内に行くのに出発時に南でも構わなくなるぞ
853日本@名無史さん2018/11/15(木) 07:46:02.61
854日本@名無史さん2018/11/15(木) 07:50:05.25
>>852
それはね
太平洋航路なの、
畿内説で瀬戸内航路と言いだしたのが間違いなのだ
帰りは知らんが 855日本@名無史さん2018/11/15(木) 07:50:05.86
856日本@名無史さん2018/11/15(木) 08:05:09.58
>>844
>都出や柳田らが判定した「土師器の古い方」といういうのが、
「庄内」を意味していたの。
都出も柳田も、そんなものが祇園山から出たとは言っていないな 857日本@名無史さん2018/11/15(木) 08:20:05.32
>>850
壱岐以降の比定地がどこも「説」に過ぎなくて未確定なのになぜそんなことを事実であるように書けるのか、理解できない? 858日本@名無史さん2018/11/15(木) 08:20:54.13
859日本@名無史さん2018/11/15(木) 08:25:23.40
>>851
トンデモ説は何度論破されても、ほとぼりを醒ましてまた嘘をかく
しかし科学はいつもトンデモ説を否定する
@ 古鳥取湾の時代
約10数万年前、海面は現在よりも上昇していた。鳥取地方は大きな内湾となり、山地は岬状につきだし、湾には大小の岩島が点在していた。この砂丘形成前の大きな内湾を古鳥取湾という。
A 古砂丘形成の時代
古鳥取湾では、潮流で運搬された粒のよくそろった砂が、湾口や近くの島々をとりまくように堆積してきた。
その後、氷河期のおとずれで海水面が低下してくると内湾は陸化し、湾に堆積していた砂は干上がって低地となりこの低地を飛砂がおおって砂丘(古砂丘)を形成した。
この古砂丘は、約5万年ほど前に大噴火した大山の火山灰に厚くおおわれてしまった。
B 新砂丘形成の時代(縄文海進と砂丘草原化時代と弥生時代の小海退時代)
氷河期も長続きはせず、縄文時代になると世界的に温暖となり、海水面の上昇(縄文海進)が見られた。
砂丘は一部が水没し、再び鳥取平野は大きな内湾となった。
この時期は河川による侵食も弱まり、砂礫の搬出量も減少したため砂丘形成作用が衰え、飛砂おさまって、砂丘には植物が繁茂するようになった。
弥生時代にはいると海岸線はしだいに後退し(弥生海退)、再び飛砂が始まった。
この弥生海退に伴い、山地と海面との間には新たに高度差を生じて侵食が復活するとともに、陸地の拡大で飛砂が多くなり、急速に砂丘が形成されるようになった。
(引用文献:鳥取県野外学習指導テキスト第4集別刷鳥取砂丘と浜坂より) 860日本@名無史さん2018/11/15(木) 08:38:26.70
861日本@名無史さん2018/11/15(木) 08:48:02.55
>>845
だめだめ。
魏晋1里=434mで計算して、地図上でその1万2000余里の地点を探したら、密林になるの。 862日本@名無史さん2018/11/15(木) 08:51:46.16
863日本@名無史さん2018/11/15(木) 08:52:23.47
864日本@名無史さん2018/11/15(木) 08:53:50.39
砂丘と聞いて鳥取砂丘しか思いつかない残念なキウス
865日本@名無史さん2018/11/15(木) 08:56:12.24
>>293
>その辺り一体文化的繋がりがあるし 邪馬台国は7万戸
そしてそれなら九州説も改名して欲しいものですな<
それ以前に、
「邪馬台国」なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
「南≠東」であるから大和説自体も、×。 866日本@名無史さん2018/11/15(木) 08:56:35.95
鳥取以外に砂丘があるとか言い張ってる畿内未開土人
867日本@名無史さん2018/11/15(木) 08:58:29.23
>>866
キウスが・・・また朝から発狂してるのか 868日本@名無史さん2018/11/15(木) 09:02:01.83
>>860
おかしいのはテンプレの説明ではなくて
オマエの頭だろう
>>859 をどう要約しても
>>851 の「温暖化と関係ないし」にならない
になる 869日本@名無史さん2018/11/15(木) 09:05:24.92
870日本@名無史さん2018/11/15(木) 09:05:35.54
>>294
>ザラコクは畿内など存在しないなどウソばっかついてる<
存在したのは、九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の旧小国の国々。
>魏志倭人伝通りに不彌国から南に行っても何もない<
不彌國の南は弥生銀座〜筑紫平野。
>東に行けば<
「南≠東」に拠って×。
>魏年号入りの魏鏡三角縁神獣鏡が多数発見され<
渡来して来た呉系楽浪鏡師らが、生きて行くために、魏年号入りの△を造ったから。
>3世紀当時国内随一の巨大前方後円墳のある邪馬台国に似た大和国がある<
「南≠東」に拠って×だし、
△と同じく、九州倭国の東征毛人五十五國の中の国々が3世紀末以後に造ったもの。 871日本@名無史さん2018/11/15(木) 09:11:42.81
>>295
>九州は中国で言う九州じゃあないぞ 日本の九州は古代では倭<
中国では、倭人は九州にいた民族だった、という認識だった。
>あくまで九州は古代から九州だと言い張るなら
親魏九州王じゃない親魏倭王の卑弥呼は九州には居なかったという事になる<
中国は、倭人は中国の九州から列島へ渡った部族だった、という認識。 872日本@名無史さん2018/11/15(木) 09:16:45.05
>>296
>邪馬台国倭説では、本末転倒だ。
何しろ邪馬台国は、倭の王都とされているからね。 こればかりはしょうがない。<
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言。
これと「南≠東」などは、どうしようもない。
>伊都国説や筑紫説でもスッキリしない。<
大和説や畿内説では、まったくスッキリしない。 873日本@名無史さん2018/11/15(木) 09:18:43.42
>>868
バカだなぁ
温暖化の前にすでに砂丘があるんだから
温暖化と砂丘には何の関係もないよ。 874日本@名無史さん2018/11/15(木) 09:19:41.70
>>299
>殉葬と埋葬は違うぞ 日本書紀の記述から殉葬で人を埋めるなら縦
埋葬は横たえて埋める それからすると祇園山のは埋葬のようだが <
殉葬は、殉死した人の埋葬。 875日本@名無史さん2018/11/15(木) 09:20:43.63
破綻した畿内説の宣伝係のキナイコシが、優れた考古学者によって、砂丘のことで論破されたので、悪口を言い放ったのではないのかな、、、
868 名前:日本@名無史さん 2018/11/15(木) 09:02:01.83
>>860
おかしいのはテンプレの説明ではなくて
オマエの頭だろう 876日本@名無史さん2018/11/15(木) 09:22:55.70
温暖化と砂丘には何の関係もないという真実は、魏志倭人伝時代の討論に、どのような反響を起こすのだろうか。。。
そして、中国の九州とは、何のことだろうか、、、
877日本@名無史さん2018/11/15(木) 09:24:56.64
>>305
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、
大和内では7万戸の人口問題がどうしても邪魔になり、
無理やり畿内の範囲を広げて、
国民を騙そうと、必死だなあ。 878日本@名無史さん2018/11/15(木) 09:26:48.40
そろそろ、次回のスレッドを作製した方が、良いのではないのかな、、、
879日本@名無史さん2018/11/15(木) 09:27:21.29
>>306
>(祇園山)卑弥呼より前の時代のもののようだ <
列島で唯一「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」に適合する墓だ。 880日本@名無史さん2018/11/15(木) 09:33:05.68
うめ
881日本@名無史さん2018/11/15(木) 09:33:43.90
うめ
882日本@名無史さん2018/11/15(木) 09:35:47.72
箸墓には倭姫が葬られたとわかったいま、
邪馬台国論も新しい段階に入ったのではないかな、、、
883日本@名無史さん2018/11/15(木) 09:40:12.58
つまり、紀元前2世紀ごろから
活発に水田耕作を広めて列島各地に入植していった出雲系の一派が葛城にいたのだね、、、
884日本@名無史さん2018/11/15(木) 09:42:25.85
丹後半島から丹波を開拓した尾張族が笛吹の北方の唐古鍵遺跡で活動したんだね、、、
885日本@名無史さん2018/11/15(木) 09:46:21.98
尾張族は登美家の後援で大王家になったのだね、、、
しかし、高鴨家のタギシヒコを追い出してしまったのは、なにかの行き違いなのではないかな、、、
886日本@名無史さん2018/11/15(木) 09:47:34.80
>>308
≫古墳を作るときに壊された甕棺墓が周りにあるだけの、
さして特徴のない地域首長墓としても小さな二段築成の方墳を
倭王の墓と言わなきゃならないくらい、九州にはめぼしい遺跡がないわけだ<
祇園山は、四隅円弧の不定形の、それまでにはなかった「高冢」墓であり、
(盗掘された)墳頂の箱式石棺と、
周りの墳裾に、62個の複数埋葬を含む数種類の殉葬墓を、
墳頂に側面正対して重複を避けて、ほぼ同時期に整然と埋葬された、
それまでの列島では全く見られなかった埋葬形態の墓だ。 887日本@名無史さん2018/11/15(木) 09:49:42.85
タギシヒコは先に伊勢を開発した伊勢津彦と呼ばれる人物でもあるし、、、
タギシヒコの親族は美濃に移ったけれども、アジスキタカヒコネが兄であることでもあり、
アメノワカヒコが亡くなって葬いが美濃で行われるのはこのことを反映していたのだね、、、
888日本@名無史さん2018/11/15(木) 09:53:53.73
出雲族は故地インドでも稲作をしていたらしいね、、、
889日本@名無史さん2018/11/15(木) 09:55:45.63
丹後半島の製鉄遺跡は尾張族のものだろうか、、、
伊勢遺跡など近江への進出も順調だったのではないかな、、、
890日本@名無史さん2018/11/15(木) 09:57:34.51
いくら言っても小さいわけで
891日本@名無史さん2018/11/15(木) 09:58:25.80
>>889
>丹後半島の製鉄遺跡は尾張族のものだろうか、、、
尾張族? 忌部一族のパクリかね? 尾張も「忌部はん」 と、何度言えばw @阿波 892日本@名無史さん2018/11/15(木) 09:58:35.37
出雲族は土器名人だったらしいね、、、
おみづぬが国引きしたこともあって
子のアタカタスが安曇族と一緒に宗像家を起こしたらしいね、、、
893日本@名無史さん2018/11/15(木) 10:00:30.84
>>892
>出雲族は土器名人だったらしいね、、、
出雲族? 忌部一族のパクリかね? 出雲張も「忌部はん」 と、何度言えばw @阿波 894日本@名無史さん2018/11/15(木) 10:08:26.17
、、、を多用する考古学者が、発表した、箸墓に葬られた倭姫と、邪馬台国は関係性が無いので、邪馬台国畿内説は破綻したな。。。
895日本@名無史さん2018/11/15(木) 10:09:12.80
>>310
>祇園山の主体部の棺は盗掘されていたが
その近くの追葬者の棺からは後漢鏡と西新式土器が見つかっている<
後漢鏡とは、墳裾の1号甕棺の成人女性が付けていた「鏡片」であった筈であり、
卑弥呼が信頼する奴婢に下賜した「明帝から貰った銅鏡百枚」の鏡片であった可能性が高いもの。
また、西新土器は、時代的に卑弥呼の時代にぴったりのもの。
>常識的に考えれば被葬者より追葬者の方が後になる筈なので
三角縁神獣鏡の渡来前に作られた墓の可能性が高い<
渡来の呉系の楽浪鏡師らの一人は、「赤烏元年(238年)鏡」を造っているので、
卑弥呼の明帝への遣使の直前に渡来して来ていた、という事になる。 896日本@名無史さん2018/11/15(木) 10:09:14.20
遠賀式土器は出雲族と安曇族の合作ではないかな、、、
アタカタスは徐福の前の世代であるから、紀元前3世紀頃かな、、、
海童たちからの新技術の導入があったのかもしれないね、、、
897日本@名無史さん2018/11/15(木) 10:10:09.93
出雲族や尾張族は、倭種なのだろうか、、、
898日本@名無史さん2018/11/15(木) 10:11:50.01
そして、安曇族というのは、マッチョな倭人と、どういう関係性があるのだろうか。。。
899日本@名無史さん2018/11/15(木) 10:13:09.92
うめ
900日本@名無史さん2018/11/15(木) 10:13:24.48
900
901日本@名無史さん2018/11/15(木) 10:13:44.08
九州は吉野ヶ里で物部氏が起こったのもこの頃ではないかな、、、
甕棺墓は同時期の東南アジアで流行していたというのは本当だろうか、、、
902日本@名無史さん2018/11/15(木) 10:16:15.44
>>312
>西新町U式はUC期、布留1式まで 祇園山の甕棺はUC期<
祇園山の甕棺の年代比定は、他の甕棺群と離れ過ぎであり、
おそらく、祇園山の年代比定を遅くしたいがための「結論先にありき」のインチキ編年。 903日本@名無史さん2018/11/15(木) 10:16:22.10
>>897
>出雲族や尾張族は、倭種なのだろうか、、、
そりゃ、倭国(阿波)を発った「忌部はん」 なんだから、「倭種」だよ。 @阿波 904日本@名無史さん2018/11/15(木) 10:19:11.91
海童たちとは、マッチョな捕鯨係だった可能性が、高いな。。。
905日本@名無史さん2018/11/15(木) 10:19:17.01
>>316
>いずれにしても祇園山には殉葬跡がないから違うな 埋葬跡ならあるけど <
いずれにしても、祇園山は、列島で唯一の、
「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」
を満たし得る墓だな。 906日本@名無史さん2018/11/15(木) 10:20:11.73
日矛族は半島の王族だったけれども、弟に国を盗られて荒れていたらしいね、、、
円山川を開削して豊岡盆地開発に大いに貢献したそうだけど、、、
豊岡盆地の開発は1世紀頃というのは本当だろうか、、、
出雲族としこりが残ったらしいね、、、
907日本@名無史さん2018/11/15(木) 10:22:27.62
ヒルコとは、何者だろうか。。。
そして、熊本城の地下に埋まっている卑弥呼との関係性があるのだろうか。。。
908日本@名無史さん2018/11/15(木) 10:23:40.56
十七日祭りとは、どのような祭りなのだろうか。。。
909日本@名無史さん2018/11/15(木) 10:23:47.27
トンデモ九州説はいつも簡単に論破されては、すぐ自分だけの世界の独白モードに引きこもるまあ一種の精神崩壊だな
910日本@名無史さん2018/11/15(木) 10:25:25.19
播磨で国占め争いが起こったのは出雲族と日矛族の争いだったのだね、、、
2世紀の半ばということは、尾張族の孝安天皇や
登美改磯城家の孝霊天皇が活躍した葛城王朝の時代ではないかな、、、
911日本@名無史さん2018/11/15(木) 10:26:51.26
>>321
>殉葬の跡のある古墳って未だ発見されて無いから<
列島で唯一、
「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」を満たし得る墓として、
祇園山が発見されている。
>今後の発見も期待出来ないんじゃね
大化の改新の際にも殉葬が禁止されてるから古代には殉葬はあったのかもしれんが
もう骨も溶けちゃってるのだろう<
祇園山の墳裾の1号甕棺墓から、
「鏡片」などを見に付けた成人女性の骨盤部分の骨、
が発見されている。 912日本@名無史さん2018/11/15(木) 10:27:37.69
播磨近くでの戦争には淡路島の五斗カイト遺跡が後方支援していたのかもしれないね、、、
913日本@名無史さん2018/11/15(木) 10:31:10.34
逆算すると、1世紀ごろに尾張族は丹波から唐古鍵遺跡あたりに移って来たことになるね、、、
土器様式に変化が現れるのはこのせいではないかな、、、
914日本@名無史さん2018/11/15(木) 10:31:26.44
破綻した畿内説の宣伝係のキナイコシが、論破され発狂したので、魏志倭人伝時代の討論が、畿内説破綻が前提で進行していることに、気づいていないようだね。。
915日本@名無史さん2018/11/15(木) 10:45:08.87
>>911
アマチュアの古代史研究家だけがそう言っているね 916日本@名無史さん2018/11/15(木) 10:46:06.82
尾張族の村雲と異母兄弟である高倉下が
紀州に移り住んで紀伊国造家となったのも1世紀頃なのではないかな、、、
アイヌ語で、タカクロフクというと夢の中でというらしいね、、、夢の中でタカクラジと会った話は意味があったのだな、、、
917日本@名無史さん2018/11/15(木) 10:49:10.81
>>328
>鉄剣やガラスの玉類は丹波の赤坂今井墳丘墓や大風呂南1号墓の方が豪華だし、<
女王の埋葬に「鉄剣」は余り必要ではない。
むしろ「大量の玉と鏡」の方が女王にふさわしい。
そして、丹波は、まだ存続していた出雲文身國と、越の大漢國の間の地であり、
そこへ、九州倭国の「東征毛人五十五國」が来て、三者の共存地になったから、
武器が多くなった。
>鏡にしても、一つの墳墓からの鏡の出土数最多は桜井茶臼山古墳であって平原1号墓ではない<
桜井茶臼山は、竪穴式石室だから、ホケノの有棺有槨よりも後になり、4世紀であり、
当然九州倭国の東征毛人五十五國の将軍が来た事と、
呉系楽浪鏡師らが大和の子弟に△の作り方を教え、
子弟たちが大量の粗悪な副葬用の△も造ったから、多くなった。 918日本@名無史さん2018/11/15(木) 10:52:41.38
>>330
>「徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人」 日本に奴婢を徇葬する習慣などない。
垂仁紀の埴輪誕の記述は魏志を解釈した上書きだ。<
「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」は、
倭人が知らない「里歩系の歩」で記載されているから、
倭人からの伝聞ではなく、張政らの実見記録だ。 919日本@名無史さん2018/11/15(木) 10:53:59.63
孝霊天皇が出雲族とどういうわけか抗争になって、穂積氏がクーデターを起こすのだね、、、
孝霊天皇が吉備で亡くなったのはそういうことなのか、、、
920日本@名無史さん2018/11/15(木) 11:02:19.69
大化の改新時の薄葬令で殉葬が禁止されてるから殉葬自体はあったのではないかと思う
見つかって無いのは骨まで消滅してるからなのでは
銅製品と一緒だと銅イオンの影響で残ってたり貝塚なんかだと土壌がアルカリ性に保たれて残るそうだけど殉葬の場合そんな条件が整って無かったのでは
921日本@名無史さん2018/11/15(木) 11:13:54.12
副葬品や装身具のない奴婢の殉葬壙なんて跡形もないんじゃないのかな
922日本@名無史さん2018/11/15(木) 11:17:08.07
>>787
>しかも平原の祭祀遺跡とやらは本当に「ただ柱を立てただけ」だからな
いや、平原1号墓の大柱の先に、異形建物と呼ばれる柱4本だけの小さな建物跡がある
そしてこれは、吉野ヶ里遺跡の「北墳丘墓・立柱・祀堂」の組合せと同じだ
どちらも墳丘の長軸方向に大きな柱を立て、その先に祭祀用の小建物を置く
これは、共通の墳墓祭祀の存在を示していると見ていいだろう
そしてこれは、平原1号墓の大柱が決して日向峠を意識して立てられたものではないことを意味している
共通する配置の吉野ヶ里遺跡では、太陽の日の出方向をまったく意識していないからね 923日本@名無史さん2018/11/15(木) 11:21:45.36
>>794
>伊都王都には割ってもいいくらい大量の中国鏡があったの
でも、平原1号墓には、漢鏡は2枚だけであとは全部仿製鏡というオチww
卑弥呼が銅鏡100枚もらっているのに、3世紀の舶載鏡は1枚もない
そんな墓を卑弥呼の王墓だと言い張らなきゃいけない九州説は大変だ
>ほんとここまで馬鹿な文章も珍しいな
↑これは、セルフツッコミかい?ww 924日本@名無史さん2018/11/15(木) 11:24:56.68
>>798
>平原王墓は朝になる真っ先に日向峠から差し込む太陽の光が当たる
平原遺跡の位置で、日向峠の方角からの日の出が見られるのは年に2回だって理解してるか?
それが、二至二分ともまったく関係ない10月22日くらい
何か意味があると思ってるのか?
大柱は、異形建物の方向を向いているだけで、日向峠は関係ないのは>>922で示した 925日本@名無史さん2018/11/15(木) 11:27:13.23
>>802
>大量の銅鏡とガラス玉を副葬した墓は平原王墓から始まって全国に広がる
大量の銅鏡が出るのは、須玖岡本遺跡D地点甕棺墓や、三雲南小路遺跡の方が早い
ガラス玉が大量に出ることに関しては、丹波の赤坂今井墳丘墓や大風呂南1号墓の方が豪華
平原1号墓の特異性は「仿製鏡」がやたらにたくさん出ることだけ 926日本@名無史さん2018/11/15(木) 11:30:05.49
>>814
>纏向型前方後円墳の分布と邪馬台国は全くの無関係
これを言い張らないと成り立たないところまで追い詰められているのが九州説
結局、編年研究の全否定をするしかなくなっている
この時点で、「科学とはかけ離れたカルト」となる以外になくて、
現状の九州説の体たらくとなる 927日本@名無史さん2018/11/15(木) 11:32:26.65
>>826
>秋田県の大湯環状列石がそれ。
>夏至の夕日の方角に合わせて、石柱を二本立てている。
>平原の柱も、大湯列石と同じ性格のものだろう。
その場合、環状列石を伴うのがよくあるパターンだが、北部九州にはそんなのはない
そして、重視されるのは夏至、冬至、秋分、春分の二至二分だが、
平原の大柱はまったく二至二分とは関係ない方角を向いている
太陽信仰と絡めるのは無理があるんだよ 928日本@名無史さん2018/11/15(木) 11:35:42.35
>>869
>その里は、暦の書き換え。
それ、よそでも言ってたけど、根拠ないぞ
原文、貼ってみ 929日本@名無史さん2018/11/15(木) 11:35:48.94
>>334
>祇園山古墳は筑後平野一帯を治めた王の墓
伊都国において一般的だった福井式甕棺を使用している点から
伊都国の支配下にある人物の墓である <
成程。
墳裾の1号甕棺墓の「鏡片を付けた成人女性」は、甕棺地域出身の女性であって、
甕棺部族の衰退に拠って、奴婢の身分にまでなったんだろう、
と推定していましたが、
甕棺地域というのが伊都国地域であった、という事なんでしょうね。 930日本@名無史さん2018/11/15(木) 11:55:25.21
倭姫は3世紀後半の人ではないかな、、、
孝元
開化 大彦
彦坐王 宇佐豊玉姫 3世紀 武内一世
彦多都彦 大俣王 佐穂彦 垂仁 豊城
日葉酢姫 曙立王 八綱田
倭姫 オシロワケ 彦狭島 波多八代
三諸別
4世紀はオシロワケとホムダ天皇の時代、、、
931日本@名無史さん2018/11/15(木) 11:57:30.04
>>367
>>後漢の影響から離れて、独自の道を歩み始めた卑弥呼の治世の特徴がよく出ているね<
>大陸の影響が皆無になって、魏から銅鏡100枚をもらった勢力と無縁だったことがよく出ているね<
「魏から銅鏡100枚をもらった」んなら、そりゃ後漢ではなく、魏の影響だろ?。
そして、明帝の下賜の銅鏡百枚の証拠の「21枚の尚方作の方格規矩鏡」がある。 932日本@名無史さん2018/11/15(木) 12:52:59.16
ガイキチ連続句読点がスレ立てを妨害中だな
933日本@名無史さん2018/11/15(木) 12:58:01.53
吉野ヶ里、平原の立柱は太陽信仰というより
トーテムポールの墓柱のような性格のものだろう
9341 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/15(木) 13:07:14.02
新スレ立てました。
http://2chb.net/r/history/1542251441/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 935日本@名無史さん2018/11/15(木) 14:23:02.54
936日本@名無史さん2018/11/15(木) 15:05:22.08
937日本@名無史さん2018/11/15(木) 15:10:01.14
938日本@名無史さん2018/11/15(木) 15:20:53.97
唐津も砂丘
939日本@名無史さん2018/11/15(木) 15:31:03.29
ところで虹の松原の松林は植樹?天然?
940日本@名無史さん2018/11/15(木) 15:32:28.43
>>935
>それで何処の砂丘?
「砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を」
って書いてあるんだから
特定の砂丘一箇所の話じゃないことくらい
わかりそうなもんだが 941日本@名無史さん2018/11/15(木) 15:40:26.82
942日本@名無史さん2018/11/15(木) 15:43:23.06
東松原から東南陸行して糸島市には入れないからフルタ説は死んでいる
943日本@名無史さん2018/11/15(木) 15:47:58.58
『君は1000パーセント』という曲があるでしょ、
「まつ方」という意味?
944日本@名無史さん2018/11/15(木) 16:06:06.18
脳の死んでるキウスが必死で荒らしているな
945日本@名無史さん2018/11/15(木) 16:13:05.60
家のスレッドがあれば良いんだけど、
漫画、アニメのスレなのかな?音楽?芸能?
そのような気がするんだけど、でも違うような
946日本@名無史さん2018/11/15(木) 16:29:01.42
九州説で正常な人に会った覚えがない
947日本@名無史さん2018/11/15(木) 16:46:38.80
>>925
>大量の銅鏡が出るのは、須玖岡本遺跡D地点甕棺墓や、三雲南小路遺跡の方が早い
卑弥呼の先代の男王達だろう。
糸島の状況は、魏志倭人伝の記事そのままだ。 948日本@名無史さん2018/11/15(木) 16:48:08.69
>>927
>太陽信仰と絡めるのは無理があるんだよ
東側の山全体が神奈備だから問題ない。
筑紫の日向のクシフル山。 949日本@名無史さん2018/11/15(木) 16:55:25.71
雑だな
950日本@名無史さん2018/11/15(木) 16:57:56.86
論破されてやンのwww
951日本@名無史さん2018/11/15(木) 16:58:33.19
>>947
そりゃ伊都国のことが書いてあるから記事そのままだろう
女王がいたとは書いてないけどなw 952日本@名無史さん2018/11/15(木) 16:59:31.82
953日本@名無史さん2018/11/15(木) 17:10:39.58
新スレでさっそく畿内説破綻させられてるやん
954日本@名無史さん2018/11/15(木) 17:14:31.38
955日本@名無史さん2018/11/15(木) 17:14:33.15
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(一大率は)伊都国で(女王国から北の諸国を)常に治めていた。
これは(魏で皇帝が)刺史(を州に派遣し検察させて洛陽で治めているの)と同じようだ」の意味となる。
女王卑弥呼が一大率を任命して治めさせているのは自女王國以北の対馬海峡の国々である。
女王国が伊都よりずっと東の畿内にあったら、一大率が支配していたのは畿内の北である若狭湾沿岸になってしまう。が、伊都に置かれていたという記述と齟齬を生じる。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国であることを示している。
「刺史」・・・各地方を治める監察官
「大率」・・・百済などにあった高級官僚の役職
956日本@名無史さん2018/11/15(木) 17:15:37.72
957日本@名無史さん2018/11/15(木) 17:20:12.01
>>955
ダメだな
言ってることが自己矛盾してる
「(魏で皇帝が)刺史(を州に派遣し検察させて洛陽で治めているの)と同じようだ」ったら
刺史の治は任地である地方にあって、都にはない
つまり伊都国は倭の地方都市であって、都は別の場所だ 958日本@名無史さん2018/11/15(木) 17:25:38.73
>>370
>>後の時代の古墳を寄せ集めても、何の論拠にもならないということがわからないのか。<
>後の時代じゃないんだよ
弥生終末期と古墳時代とは、古墳と作るかどうかの違いだけの一続きの時代
大きな古墳が作れないところは、弥生終末期にも実力のなかった地域 <
筑紫と大和とでは、古墳時代の始まりがそもそも違う。
筑紫は、弥生時代からずっと墳丘墓であり、前方後円墳は後半半ばの那珂八幡などから。
大和は、弥生の墳丘墓は少なく前方後円墳は、突然3世紀末以後。 959日本@名無史さん2018/11/15(木) 17:31:04.49
960日本@名無史さん2018/11/15(木) 17:32:02.43
961日本@名無史さん2018/11/15(木) 17:33:25.70
962日本@名無史さん2018/11/15(木) 17:36:49.57
>>958
世間一般に知られていない新説であって
しかも根拠を付けて書いていなければ
それは他人に対する反論として
まったく機能してないよ
つまりあなたは何も反論してないってことだ 963日本@名無史さん2018/11/15(木) 17:37:52.78
964日本@名無史さん2018/11/15(木) 17:38:37.89
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は之(一大率)を畏れ憚っている。
(一大率は)伊都国で(女王国から北の諸国を)常に治めていた。
(その様子は)魏で(皇帝が)刺史(を州に派遣し検察させて洛陽で治めているの)と同じようだ」の意味となる。
女王卑弥呼が一大率を任命して治めさせているのは自女王國以北(女王国を含む)の対馬海峡の国々である。
女王国が伊都よりずっと東の畿内にあったら、一大率が支配していたのは畿内とその北である若狭湾沿岸になってしまうが、伊都に置かれていたという記述と齟齬を生じる。
つまり女王国は伊都国を含まなくてはいけない。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国を含むことを示している。
「刺史」・・・各地方を治める監察官
「大率」・・・百済などにあった高級官僚の役職
965日本@名無史さん2018/11/15(木) 17:39:26.88
>>381
「南→東」などの史料事実の否定曲解のウソつき騙しやデマだけが、
大和説の生きる道。 966日本@名無史さん2018/11/15(木) 17:40:30.79
考えたのだが、大率が伊都から諸国に出かけて行って巡行している様子が刺史に似ているのであって、大率の事務所が都にあるかどうかは関係ないのではないか。
つまりは内務卿のような役割だということではないか。
967日本@名無史さん2018/11/15(木) 17:45:19.66
>>946
へえ〜。
大和説は正常なの?
円墳先造説のテンプレ主は? 968日本@名無史さん2018/11/15(木) 17:52:51.23
>>399
>犬山市の東之宮古墳では、
鏡作坐天照御魂神社で出土した三角縁神獣鏡の同范鏡が出ていたのではなかったのかな<
成程。尾張にも鏡作り神社があったのか。 969日本@名無史さん2018/11/15(木) 18:03:37.48
>>410
>鏡作坐天照御魂神社は唐古・鍵遺跡の近くにあるのだな、、、
銅鐸の代わりに三角縁神獣鏡を複製したのではないかな、、、<
あっ、そういう意味だったのか。
私は、誤解していたようだな。 970日本@名無史さん2018/11/15(木) 18:25:33.94
>>967
>円墳先造説のテンプレ主は?
円墳先造説って、なんか悪いの? 971日本@名無史さん2018/11/15(木) 18:28:26.33
972日本@名無史さん2018/11/15(木) 18:31:36.72
他のスレの話になるんだけど
「>>wwwwwwwwwwwwwww」
このようにレスしてくる人がいるでしょ、
本来なら殺されている、実際に言っていたら?
973日本@名無史さん2018/11/15(木) 18:34:00.90
>>966
関係おおありだろう
事務所が都にあったら刺史とぜんぜん違う 974日本@名無史さん2018/11/15(木) 18:34:25.36
本当の話w
日本に住めない、住めなくなるとか、
あと謎の311とか、なぜ起きたの?
日本のテレビ、メディア・・・漫画、アニメ・・・
よくわからないけど、その他、家の話じゃないの?
975日本@名無史さん2018/11/15(木) 18:35:43.67
976日本@名無史さん2018/11/15(木) 18:39:43.61
>>971
他人に見えないスロープや高さゼロの墳丘の存在を開き直って言い張ってるお人の言葉とも思えん
w. 977日本@名無史さん2018/11/15(木) 18:40:13.79
1000パーセントという曲も
『浦島太郎』の話でしょ
釣り竿のようなものを持っていて
978日本@名無史さん2018/11/15(木) 18:42:33.57
『八百万図鑑 事代主』
979日本@名無史さん2018/11/15(木) 18:43:39.53
>>437
>そうまでして周髀算経の本文に書いてあることを 絶対拒否したいなら
一寸千里も否定で、いいよね 結論でましたわ<
この男は、また、曲解捏造しているな。
私は、「確率的な推論」をしている、と言っているのであり、
だから「絶対肯定」も「絶対否定」もしない、と言っているんだよ。 980日本@名無史さん2018/11/15(木) 18:44:17.73
981日本@名無史さん2018/11/15(木) 18:47:58.46
>>973
諸国を検察している様子が似ているというだけなのではないだろうか。 982日本@名無史さん2018/11/15(木) 18:48:15.69
>>979
史料の本文に書いてあることを
>>「即平地徑二十一步,周六十三步。令其平矩以水正」は、全く無意味な文であり
って「完全否定」なさってますが? 983日本@名無史さん2018/11/15(木) 18:48:25.60
箸墓の後円部先造説は前方部と後円部の接続部分の段築について他にない不自然さがある事を指摘して唱えてる人も居るので理由が無いわけでは無いかね
984日本@名無史さん2018/11/15(木) 18:49:05.06
>>980
>魏志倭人伝
魏志倭人伝のどこなんだよってこと
他所のスレでも結局こっちが貼ってあげて、その後答えてないだろww
魏志倭人伝の註が
「【一】魏略曰。其俗不知正歲四節、但計春耕秋收爲年紀。」
隋書の記述は
「夷人不知里數但計以日」
里と暦の書き換えって訳じゃないし、そう見るのは無理がある 985日本@名無史さん2018/11/15(木) 18:50:09.43
>>981
ナンセンス
それなら、もっと似ている中国の官職を書くね 986日本@名無史さん2018/11/15(木) 18:50:26.38
>>928
倭人伝の裴松之注 其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀
隋書 夷人不知里数但計以日 987日本@名無史さん2018/11/15(木) 18:51:01.68
一寸千里は架空の数値
988日本@名無史さん2018/11/15(木) 18:52:18.73
>>966
729 名前:日本@名無史さん :2018/11/14(水) 21:55:35.88
>>722
「『魏志』には”一大石””一大蛇””一大統”という言葉が出てくるので、”一大率”もこれらの”一大...”の中の一つだと思われがちであるが、じつはそうではない。
三字をさらに区切るなら、
”一大石”は”一 大石”
”一大蛇””は一 大蛇”
”一大統”は”一 大統”
というような、”一”は”一つの”という意味になる。
したがって、ちょうど英語のaやanのような冠詞になる。そして”大”を加えると、まさに、a bigと同じ意味になって、石、蛇、伝統いうのにちょうどいいようになる。
しかし、”率”にa bigというのはおかしいし、例え”大”をbigといわずにgreat、largeといい変えてもおかしい。
日本で”率”を”軍団”と誰かがでっち上げたから、”一大率”を”一つの大率”と取っても違和感がなくなったが、もともと”率”は”軍団”ではなく、”師”であり、分かりやすくいえば”司令官”という意味である。」
誤読だらけの邪馬台国
730 名前:日本@名無史さん :2018/11/14(水) 21:57:13.39
>>729
「諸国を検察するのにたった一人の司令官を置くのは、どう考えても辻つまが合わない。”率”は”司令官”であるから”小率”は絶対になく”大”とわざわざ書かなくても当然”大”である。
したがって”一大”が固有名詞でない限り、ここには”一”の”大”も出てくるはずがなく、したがって一大というのは、固有名詞であり、一大率は一大国の司令官である。つまり、一大国の司令官を使って諸国を統治していたのである。」
誤読だらけの邪馬台国 989日本@名無史さん2018/11/15(木) 18:53:35.62
>>966
732 名前:日本@名無史さん :2018/11/14(水) 21:58:17.25
>>730
「女王国以南の投馬国は、天領の邪馬台国と全く同じで、邪馬台国からの司令官が統治していたと思われる。一大国の司令官が統治したのは、狗邪韓国、対馬国、一大国、末盧国が主だと思われる。
そして、司令官による統治は、つまり、軍政だということである。だから諸国は恐れたり、畏怖したりしたのである。
しかし、司令官による統治は、軍政だということであるから、小国に対してはできたが、伊都国のように“世有王”という半独立国にはできない。
したがって、いつも伊都国に対する統治の仕方は、国の中に刺史に似たような長官を置いたのである。つまり、一大国の司令官で統治するような軍政を行わずに、刺史のような長官で、伊都国王に一目おきながら伊都国を統治したのである。」
誤読だらけの邪馬台国 990日本@名無史さん2018/11/15(木) 18:54:04.72
トンデモ本のコピペはやめましょうよ
991日本@名無史さん2018/11/15(木) 18:54:19.23
ブラジル(竿ぱうろ?)に渡った親戚がいるんだけど、
あのポストカードとかw
数十年前のものだと言っていたり、
蝶の標本?みたいなものも貰ったとか
映画の話?
992日本@名無史さん2018/11/15(木) 18:54:42.18
九州説に論理的な文章を書ける人って
いないのかね
993日本@名無史さん2018/11/15(木) 18:57:19.89
994日本@名無史さん2018/11/15(木) 18:58:08.77
995日本@名無史さん2018/11/15(木) 18:58:47.67
>>983
円墳と前方後円墳は別物 これ常識 先造も後造もない 996日本@名無史さん2018/11/15(木) 18:59:43.35
>>988
「率」にはリーダーの意味がありますが、何か? 997日本@名無史さん2018/11/15(木) 19:02:58.56
葛城「率」彦
998日本@名無史さん2018/11/15(木) 19:03:53.52
999日本@名無史さん2018/11/15(木) 19:04:25.37
伊達郡の川俣町という掲示板
セヴン、セヴンが何やらと言ってる人もいたでしょ、
蚕、蝶?、機織りをしていた家の話とか
その曲・・・・その他と、ほとんど同じw
当時、住んでいたという家があるんだけど、
謎の刀が飾ってあったとか
1000日本@名無史さん2018/11/15(木) 19:06:03.77
>>998
邦訳は普通名詞a great leaderでいいよな mmp3
lud20190719172944ca
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