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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://2chb.net/r/history/1518118887/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
◆6−3
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
◆7−2
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf 纒向学研究 第2号(PDF)
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf ◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、桜井茶臼山、黒塚、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。
◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りが含まれていること、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々は倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌ほどの南方に過ぎず、纒向は洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。東冶の「東」の方位に誤差を認めて強引に現実的地理に近づける解釈を行うことも、角を矯める愚を犯すに等しい。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、会稽山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で、前方部に盛土がないこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「婼羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである.
が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ1)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絕二千里。
(精絕國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通扜彌四百六十里。
(罽賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏秅國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與罽賓、北與撲挑、西與犂靬・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與罽賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上)
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣がある。「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。
ここで交州〜交趾の約5,000里が現代の航路で900kmであるから(「靖尋循渚岸五千餘里」許靖伝 )往時航路の紆曲と心理的負担感及び苦難の誇張を加味した倍率として認識しつつ、この比率を上記に乗ずると、7,200里が得られる。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏蟬県が温泉郡城峴里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「猗氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道猗氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】◆なし
纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。
また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。
ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。
つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。
というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。
アホの
>>1 アホの
>>1 孝元天皇は(台与の時代か)、河内青玉繋(河内彦)の娘である埴安媛と血縁を結び、武埴安彦命が生まれる。血縁を結ぶことで、狗奴国と和睦した可能性があるな。
3世紀半ば過ぎか。
卑弥呼は纒向だよ。ただ卑弥呼の墓は潰されたか作り変えられた可能性はある。倭国大乱の象徴だからね。縁起が悪過ぎる。
オラ九州説
里程部分に出てこなかった投馬国が
日程部分で急に出てくるわけを説明せいや
>>1 乙^^(テンプレは誰も読まんから苦労して波瀾でもえーよ(律儀なアホが日本の生産性を下げとります
躬臣(クス?)国を大分県の玖珠(クス)郡に当てると、
「盡其南有狗奴国( ことごとくその南には狗奴国あり)」という記述から、
狗奴国は大分県南部までの広さが あることになり、かなり巨大な国であったことが分かる。
>>63 お!鴨せんせー^^
いきなり正解コピペ(テンプレ陳腐化しましたな^^
>>64 鴨せんせーのお友達やね?出雲なんたらゆーてた人か?武埴安彦は山背やろ?纏向の北になるやん?
>>66 読みたくない気持ち、よくわかるぞ
九州説が粉微塵だからな
>>67 あーそれすっごっくありそーやなー(ひみきゅうこが崇神周辺の親戚か?
クナ国との和睦が河内彦主導に見えるのがな‥
河内が寝返り、卑弥弓呼系は征伐された可能性は残るな。
むしろこっちが正解かもしれない。
つーことはクナは瀬戸内も支配してたんやね(阿波説きえたな(ナム
なんだかんだ言っても高齢厨は色んな事知ってるみたいだからな。
台与は国々を纏める為に擁立された姫だからな。
後ろ楯は必要でそれが狗奴国勢力。
やはりジャマイカは地方勢力になりつつあったんやね?(クナに圧迫されすぎや
問題は神武さんの関わり具合や?
出雲併呑は崇神以降やろ?
で、最終的に狗奴国勢力が邪馬台国ことヤマトを掌握するという話。
なのでクナが国の語源にもなったと。
紀元節にふさわしー話題じゃ^^
おのおのがたつづけられよ(こっきけーよーはいそがれたし
単純な邪馬台国東遷とかそんな話ではないな。
国境線も絶えず動いているし、人々の移動もある。
でもヤマトは大和でしかなく、ヤマタイはやはりヤマトを指すとみていい。
クナは倭国大乱前は、対外的には倭国。
倭国大乱で、倭国外の出雲など山陰勢力や尾張などにやられたんだよ。
九州南部、神武のモデルもそれに加担している。
魏志倭人伝当時は、クナは河内と和泉(&伊吹山〜敦賀?)だけに追いやられている。
台与の時に、河内彦は大和朝廷側に寝返ったんだろう。
女王国が何度も朝貢して、やっと親魏倭王、倭国とお墨付きをもらう。
倭国の正統を継ぐものか疑われていたんだろう。
親魏派の「21国」の中に、「巴利(はり)國」があります。この国が播磨を指すことはほぼ確実でしょう。巴利国と狗奴国は瀬戸内海を挟んで対立していたわけです。
『播磨国風土記』には讃伎日子神が播磨の地元の神と争い、追い出された話が出て来ます。これは、巴利国と狗奴国との抗争の反映でしょう。
ちなみに、ヤマトタケルの母親は播磨の稲日太郎姫です。
弥生時代後期の四国・瀬戸内地方を見てみると、四国から山陽地方にかけて「銅剣圏」が広がっており、その中でも分布が濃いのが讃岐です。
一方、当時の九州は「銅矛・銅戈圏」ですが、四国南西部と淡路島にも「銅矛」と「銅戈」の分布が広がっています。
四国・瀬戸内地方の中で四国南西部と淡路島だけ、「例外」というか「九州寄り」なのです。
ところが、古墳時代になると四国・瀬戸内地方の中心は讃岐から吉備・播磨に移っていきます。
邪馬台国の時代は弥生時代から古墳時代への過渡期ですので、『魏志』「倭人伝」や『播磨国風土記』には瀬戸内海の覇権が讃岐の狗奴国から吉備・播磨といった邪馬壱国側の諸国に移っていく様子を描写していたわけです。
ちなみに、近畿地方では弥生時代の銅鐸圏は大阪のあたりが中心ですが、古墳時代になると大和が中心になります。
ヤマタノオロチは、元々は丹後半島だろう。
王が殺されて、一族が畿内で逃げ延びた。
その後一部伊吹山辺りに移った可能性がある。
伊吹山、ヤマタノオロチの神霊が住むと言われているな。
ヤマタノオロチ族と風宮の神との関係が気になるな。
級長津彦命
級長戸辺命
しなは息が長いという意味。
息が長い、吹子、鉄と関係あるかもしれない。
丹後半島に遅れて、畿内淡路島や池上曽根、彦根で鉄工房が始まるからな。
伊吹山、和歌では一途な想いの代名詞。
畿内に逃げ延びたヤマタノオロチ族は、助けてくれた倭人に恩義を感じていたのかもな。
伊吹山の神は、大和朝廷と最後の最後まで戦い抜いている。
環大阪湾の倭人、丹後半島を追われたヤマタノオロチ族、出雲の神庭を追われた出雲族が協力して作ったのがクナ。
旧唐書では疑われたまま、
結局倭国認定はされずに
日本国になってたね。
サルタヒコ。
出雲族の姫神幸神と、倭人の彦神クナトの神の子。
倭人と出雲族の同盟の証。
月夜見にして大国主、卑弥弓呼。日見彦。暦の一子相伝者。
倭国大乱で殺されて、日本列島から暦が無くなる。
猿田彦で注目すべきは最初に出会った場所。
天の八衢。
道が幾つにも別れる処、方違。
面白いことに上町台地と泉北丘陵の間に方違神社がある。なにわ、和泉、河内、淡の境。
その近傍にイシズ川。
猿田彦が溺れたとされるのが、阿邪訶の海。
方違神社のすぐ北が浅香。
浅香の北がオサカ、大阪。
浅香の南、泉北丘陵にコサカ、小坂。
伊勢と同じものが揃っているんだな。
凄い偶然。
更にサルタヒコはヒラブカイに挟まれて亡くなるとある。
泉北丘陵、イシズ川を遡った地に平井と深井という弥生時代から立地が変わっていない集落がある。
平井と深井の間が弥生時代の鈴の宮遺跡。
サルタヒコは最後はこの辺りに逃れていて、殺されたんだろう。
四国では 讃岐の河川流域平野に巨大な越王国が存在した
違うね〜、不正解、間違っていることを書いた場合
「頭の病院に行け」と言う書き込みがあるだろう
上町台地〜泉北丘陵にいた倭人と出雲族がつけた地名。
山の向こう側、山の外の地、ヤマト山外。
サルタ?
百済(系)の神を祀っていると書いてない?
その百済の王と言うのは?
何と言う人物なの
八十島祭。
天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀と書かれてある。
全て繋がってくるんだな。
今では正体が分からない、八十島祭で幣帛が供えられた海神二座。
出雲族とヤマタノオロチ族の可能性があるな。
後鳥羽院の八十島祭にしたがった津守経国の歌。
○天の下のどけかるべし。難波潟、田蓑たみのの島に御祓しつれば 津守経国
八十島は、田蓑島のほかに中之島、福島、曽根洲、柴島くにじまなどの地名に残る。
○おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば
淡島あはしま 自凝島おのころじま 檳榔あぢまさの 島も見ゆ 放さけつ島見ゆ 仁徳天皇
難波の崎からオノコロ島、淡路島見えるとある。
古代の人々は国生み神話は、大阪湾の倭人の話であるのを当たり前のように理解していた。
クナ、倭国建国は1世紀中頃かな。
畿内にヤマタノオロチ族や出雲族が逃れて来るまでは、倭人とヤマツミ系の海神の地だったと思うけどね。
カグツチの所為で、破綻したんだろう。
新羅というのは
倭国、百済と敵対していたと書いてない?
>>68 熊本と大分南部は文化的に一つだよ。
土器の様式が同じ。
>>85 そうだろうね。
卑弥呼が本当に倭王なのか、魏は半信半疑だったのだろうと思う。
だから、伊都までの道のりを明確にして、漢の頃の倭奴国と同じ帯方郡から一万二千里のところに厳かに王宮が営まれ、対馬海峡を明確に治めていることを確認した。
もしも卑弥呼が畿内にいて、しかも自分達が伊都までしか行けなかったら、魏は卑弥呼を倭奴国王の後継たる倭王には冊封しなかっただろう。
書いている人がいるでしょ
倭王朝と亡命百済王朝(日本)とか
百済=日本?
>>86 古墳時代の大和から銅鐸なんて発見されてないですよ。 それに弥生時代では近江や兵庫県です。
伊都国は重要な国だよ。
天孫降臨、クナ建国の少し前だろう。
倭人の彦神クナトの神の子だろうが。
姫は誰かだな。アマテラス系なので、畿内のヤマツミ系の姫だろうな。
BC1000年頃渡来し稲作をもたらした殷系の勢力。
畿内の地を倭人と出雲族に任せて、大陸への玄関博多湾一帯に移ったんだろう。
奴国に博多湾一帯を割譲させたんだろうな。
なぜか、このような話ばかり、ガンダム?
>百済系祭神を赤と称し、新羅系祭神を白と称す
山の外だからヤマトなんて解釈は無理があります。そもそも倭人にとってヤマとは何?
といったところから解釈してみないと。
ガは牙。
旗を掲げた軍事拠点。
敦賀、甲賀、伊賀。クナの境界線。
敦賀〜伊吹山〜甲賀〜伊賀。
河内、ヤマト、山背。単なる地名。
地形からつけた単純な命名。
大国主とスクナヒコナが名前を付けていったとあるだろう。
名付けの主体が大阪湾沿岸部にいたから、そういう命名になっただけ。
奈良の地は山の向こう側、外だからね。山外。
>>101 しかし卑弥呼の要るところは倭奴国じゃなくて邪馬台国と書かれているけれども
河内はヤマではないから無理だな。
そもそも倭の象徴である三輪山が奈良盆地の
一番奥にあるのに、外なんて解釈は
絶対不可能だから。
それに奈良盆地でも代々山中と国中で別れている。
赤 白
日本の国旗、象徴という話なのかな
あと、このスレでも言われていた
『鳳翼天翔』
いつの間にか、ガンダムのテーマになっていたり、
ググって、動画などを観てみて
ちなみに山中と呼ばれていた 場所は、生駒郡から矢田丘陵、奈良市から山辺を経て宇陀に
到る場所を指している。
対して国中は奈良盆地田原本辺りを言う。
奈良盆地も元々はクナの版図。
卑弥呼を共立した勢力に征伐された。
奈良盆地の特殊性は、1世紀初頭までカグツチが元々いたところという点。
ヤマト征伐の際に、卑弥呼側に寝返った勢力が沢山いる点。
これは他のスレにも書いたんだけど、
テレビなどに出てくる芸能人というのは何なの?
人権侵害、犯罪者?
>>111 南至邪馬壹國 女王之所都
(南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所)
>>114 いつの時代の話をしているんだ。
子供騙しはいい加減に止めろ
後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。
>>114 奈良盆地のような湿地帯になにを期待してんだ?
当時の里ってかかった日数をあとで換算かなんかしたんだろうなー
>>111 九州説の常識は
世間のそれと
随分違うんだね
>>121 このような
間違った知識が
間違った九州説を生んだ
奈良盆地の旧地名に関しては私は一応専門家でもありますからね、
実際資料を提供してる立場にあります。
で、最近は何故三世紀、ヤマという国や地名が付けられていたかを考察していました。
やはり現状ではインドや古いエジプト方面からの影響下にあったのでは?
というしかないのではないかと思います。
ヤマは仏教では後々閻魔となる存在ですが、
元々は最初の人間という立場の、天の住人です。
>>125 そこは素直に「山」でいいんじゃないの?
>>124 湿地帯だったから、人が暮らした気配がない
>>122 百里とかは、ざっと歩測してんじゃないの?
>>124 奈良盆地のような湿地帯になにを期待してんだ?
>>407 そして何も出てこず、嘘つき騙ししか出て来ない大和説だった。
>>410 何一つ提示せずに、あるあると喚き散らし
九州説に見当違いのケチをつけ続けると、大和に邪馬壹國女王之所都が現れる、
と言うカルト宗教だから仕方ないね。
異常者のカルト教団に何言っても無駄だよな。
・・・・バカだから仕方ないね。
>>126 倭人伝の記述で山を用いないのか、という
疑問が残るだろう。
一方で山に丹あり、なんて表現しているからな。
>>125 ユダヤミラーの裏書か!
かむやまといわれひこは古代イスラエル語やった!
つうーかインドか!(イスラエルはもっと西やん
ジャイナ教か?
ここも電波が強くなってきたなー(もっとやれ
>>418 >九州の不弥国から水行30日陸行1月で到着な<
投馬國の記載は、側副傍線行程の説明な。
「水行十日陸行一月」は、「郡〜女王之所都」の所要日数の説明な。
未来にレスつけとるんはプラズマ攻撃か?(むちゃくちゃや^^(もっとやれ
>>420 >なら俺は2倍誇張説で1里200mぐらいにして万二千里を畿内に持っていくわ<
「南≠東」に拠って、✖。
>>422 >その歴史的実態を示してもらおうじゃないの
律暦志と正始弩尺によって魏の1里は400mこそ歴史的実態なんだが<
律暦志は、韓の方四千里や、七千余里や、3海峡の各線余里の説明などが出来ないし、
正始弩尺は、論点にはまったく関係がないし・・・。
>>134 ゾロアスター教にも関係するリグヴェータの
方ですよ。紀元前1000には存在しており、
倭に伝わるには充分な時間だと思いますからね。製鉄技術と共に入ってきたと。
ヤマ神は太陽神の息子で、天で最初に死んだ
から最初の人間という位置です。
なのでヤマの住むのは天国でしたが、
死んだ人々が皆天に住みたがるので
人々を裁く立場に、それが今の仏教の
閻魔大王のルーツです。
ヤマと付く地名はその影響下にあった場所
なんじゃないですか。神仙思想とも
遠からずの部分も多いですからね。
>>139 ひゃはーゾロアスターゆーたら生贄か?(かんちがいやったらすまん(犬神先生系のお話やな?
日本列島にも7がつに幼い女の子を海に沈める儀式があったそうやん?
やまたのおろち族はぞろあすたーやったんか?
孝霊せんせーのはうるとらcの連発でよーりかいせん
すのぼーの技みたいやね
ちなみに
やmは栗やね
あいぬとくみあわせると
やまいn(nは無音かも
生贄と言えば、尾張だな。
度々禁止されているのに、江戸時代まで続いている。
旅人を拐い、生贄する風習
火の神と言えば、生駒の神。
聖武天皇の時に、性懲りも無く鳥を討とうとして、(止めようとした)息子に討たれる。
以後、生駒の神は大切にされるのだ。
おわりうんぬんいうてはるんは犬神せんせーか?
ちょっと酔い覚ましに風呂はいります^^
>>428 >邪馬台国まで万二千里が間違いってだけだろ<
二組の魏使らが確認し、
陳寿も「計其道里、當在會稽東治之東」と証言しているものが、
何故「間違い」になるの?。
>>429 >東夷の里を証明するものが何も無いならそれは存在してないのと同じ事だ<
東夷の里を証明するものが一杯あるから、
それは存在していた、という事と同じ事だ。
勿論、周髀算経や淮南子の一寸千里や、漢書の如惇注や介山や、三国志内の大半の記載や、
海賦や、江表伝の?赤壁など、使用例が一杯ある。
>>432 大和説=通説ではなく痛い説の間違いだな。
>>434 大和説なんてもう終わった説だからな。
結局壮大な時間の無駄遣いでした。
>>438 >中華思想の地理的世界観で描かれた
>>270の混一図では
九州は済州島とあまり変わらないくらいの大きさだね<
後代の知的退化を起こした混一図や、現代日本の大和説学者のものは、
価値がなく、根拠にならないよ。
大和というと宇宙戦艦ヤマト、
他の作品にも言えることなんだけど
著作というのか『版権』などは、
どうなってるの?
早いもの勝ち、やったもの勝ち
のような状態?
パチスロとか、
いろいろあるでしょ?
簡単な話だと思いますけどね、何故
倭人の国にヤマ◯◯が多いのかと考えれば。
ヤマ神が住む場所が天に近いと
考える人々はそこに国を作ります。
当然指導者に従いますよ、それは鬼道でしょう。
また甦りを願うならその場所で墓です。
だから神仙思想とも相互に影響しながら
巨大古墳が奈良盆地に集中したともいえます。
>>439 短里で書かれてる書自体を間違いだとし、短里の不存在を証明をする。
これは大和説の皆さんの大好きな循環論法ですね。
ネットが普及してからなのかな、調べてみると、
そのような事を言ってる人達ばかりいない?
パチスロが何やら・・・、
ソウカじゃないのか?とか、
何でもソウカだと思われていたり
>>440 陳寿は、郡役人や、二組の魏使らの記録を元に魏志を書き、
更に、「計其道里、當在會稽東治之東」という位置推定を書いただけ。
そのような事を考えてみると・・・
創価は、かわいそうな気がする
創価じゃないのかもしれないのに
>>444 >短里であろうかなかろうが、北部九州は伊都に奴国で、
邪馬台国が存在出来る場所じゃない。<
不彌國で萬二千余里がほぼ消化されてしまっており、
その後が「南至邪馬壹國女王之所都」だから、
邪馬壹國は、北部九州にある。
>>447 >そんなバカな事誰もしませんw <
いや、後で、業務上などでまた倭地に来る人のためにも、
行程の里数説明だけではなく、所要日数を記載してあげる事も必要。
テレビも必要ない
と言ってる人がいたり
▢ch,▢ch・・・などは反日、売国局だ、
停止しろとか
>>161 まぁ、畿内説をいうやつにまともなやつはおらんわな
>>140 綏靖天皇なんてもろに食人話があるからな、生け贄的なもの
だったんだろうが。
『テレビ局 停止』
大震災などが起きると
停止状態にならない?
震災の話、報道ばかりになったり
>>449 >万二千里は古代からある辺境までの観念的距離
陳寿はそれを女王国までの距離として当てはめただけ<
ダメだよ。
「辺境までの観念的距離」説も、
当然、その距離自体が一定のものではない、という事が史料実態であり、
しかも、陳寿の説明は、洛陽や長安からの距離ではなく、
帯方からの距離であるから、
「辺境までの観念的距離」の出発点自体が全く違っている。
>>450 >北部九州に丹山はない、ボタ山ならあるが。<
松浦川上流にある。
>>453 >なら余計に魏志倭人伝に出てくる里はあてには出来ないな<
二組の魏使らや陳寿が確認している事であるから、当てに出来る。
>>453 >律暦志と正始弩尺で換算すると1里は400mになるんだから
それ以外に主張しようがないもの <
魏志の、「二組の魏使らや陳寿が確認したデータ」の1里距離を、
確認していないような律暦志は、アホ本であり、
根拠にはならないな。
>>456 結局、大和説バカは、パズル遊びしか出来ない、という事がよくわかるな。
しかもパズルは白紙、そこに後から絵を描いて遊んでるだけというw。
確実に、そうなる
数年前の△の陰謀スレ
版権ゴロ?そういったものを、
使いまわしているのがいるようだな
と言ってる人がいたり
ほとんど同じようなコンセプト、
キャラ?
>>459 >伊都は畿内邪馬台国の出張管理委託事務所だから。<
「畿内邪馬台国」も、「南≠東」に拠って×。
>>168 >「辺境までの観念的距離」の出発点自体が全く違っている。
ダメだよ。
淮南子の出発点は洛陽じゃないんだよな、残念!
「東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太r、句芒之所司者,萬二千里。」
例えば、家の写真
『魔法のペルシャ』・・・『何者にもなれない お前たち』
『河童バビィ』
>>460 >日程部分には里程部分で出てこない 投馬国が出てくるんだけど <
投馬國は、側副傍線行程説明であり、
だから魏使らは行っておらず、
だから、倭人からの伝聞情報であり、
だから、里数は書かれず所要日数だけの記載になった。
『バビィ』
>河童族の実質的なリーダーと思われる呪術師。
>彼女が占いで受けた神託で新たなリーダーが現れると受けた直後に
>キンタロウが溺れて河童族の住処まで落下して来たのが河童相撲編の発端である。
>キンタロウが人間であると知っても
>あくまで神託を実行しようと河童に改造しようとしたが
>結局キンタロウは奪還され、
>置き去りにされた鋼鉄郎を新たな指導者に改造。
>その様子はナチスドイツを彷彿させるものとなった
>(しかし次回には鋼鉄郎が人間としてそのまま登場している)。
>ギャグ描写とはいえ自分をババア呼ばわりした河童相撲の理事長を
>一瞬で袋叩きにした。
河童のバビィ、シュテンドルフ、
某と某・・・某、某などは
同一人物、存在だという説があったり
>>460 >地図じゃなくて1里何々メートルだったと
はっきりわかる史料で比較しんさい
律暦志と正始弩尺で換算すると魏の1里は400m <
その説明なら、
律暦志は、魏志などの記載実態を確認せずに一里の距離を決めた事になるから、
半分×本であり、
根拠にはならない。
>>180 制度は決まりごとなんだから、個々の記載実態なんて関係ない
>>461 「ぼくちゃんがそうおもった」 以外の根拠など何一つないのに喚き続ける異常者
それが大和説。
大和説の根拠は何一つなく、
筑紫の影響に埋め尽くされて独自文化を失う属国、という現実は一切見えない。
バカの目には、巨大な大畿内大邪馬台国大帝国が広がっているのであった。
脳の病気だから仕方ないね。
可愛そうに。
『坂田 鋼鉄郎』(さかた こうてつろう)
>キンタロウ兄弟の父で大企業たるゴージャス石材の創始者。
>通称は「コーテツロー」。語尾に「〜だス」を着けるのが特徴。
>作品を代表するギャグキャラクターでどんなシリアスな場面でも片端からギャグでぶち壊していく。
>回想シーンでも遠慮なく登場してギャグをかます別名「時空のはざまで遊ぶ男」。
>若い頃はスポーツ冒険家として世界を旅していた。
>当時イースター島から盗んだ(ハリボテと摩り替えた)
>マケマケの石像を材料にした玩具を各地の子供に売りさばき、
>その売上がゴージャス石材の元手になったという。
仮面ライダー(鋼鉄郎)のような人形も売っていたはず
バビィのところを読んでみて
>>470 大和説の方だけ都合悪い。」
万二千里は赤道付近。
>>165 7つー数字は生贄と関係あるんやね
そしてすいぜいさんも高志のひとかー(つまりオロチ族や
ぬなかわはまがたまの原産地やろ?(つながったな
>>472 >北部九州に15万戸を押し込めるなよw<
5万戸の投馬國は、南九州。
>可能だとする考古学者は誰もいないよ。<
日本の考古学者の殆どは「南→東」の嘘つき騙しの・・・・だから、
根拠にならない。
>それに関しては完全否定だから。<
九州と大体同じ大きさの馬韓があるから、完全否定出来ない。
お!
今夜はせごどんか(あれは名作や(おじーちゃんらは幕末史興味ないか?
せんごくきやばくまつの島津考えると神武さんも隼人やったんかもなー
なぜか薩摩隼人でなくて大隅隼人やけど(ひむかはやっぱり宮崎やね?
>>473 >計算ならしたよ
律暦志により1里=300歩=1800尺
1尺の基準正始弩尺は約24cm 24×1800=43200cm=432m
小学生でも出来る計算だからアンタもやってみ <
律暦志が、そういう「300歩=1800尺 」の計算をしてるんなら、
律暦志もアホになる。
魏朝は、始皇帝の「1歩=6尺」の命令で混乱した漢代の度量衡を見て、
文帝が即位の詔書で「度量衡の統一」を指示し
という事は始皇帝の命令を否定し、
重心たちが「周制への復古」の上表を繰り返して、
直前に再収集注釈された周髀算経の、周代の度量衡の、
「1歩≒1尺」に戻す事にした。
ちなみに隼人いうんは熊本宮崎以南のくくりやな
墓制がちがう地域
>>190 1っぽ20cm強か(なんとなく正しそう
「鋼鉄郎」
>仮面ライダー(鋼鉄郎人形)を売ったりしていた
「バビィ」
>鋼鉄郎を新たな指導者に改造
>>474 >倭人伝が九州なら、
何故、大国である宗像国や薩摩国、大隅国、日向国についてどこにも記述が無いのか <
宗像は、「其餘旁國遠絶、不可得詳」の一つ。
という事は、魏使らは、宗像を通っていないし、
だから、大和説が×になる。
また、「薩摩国、大隅国、日向国」は、投馬國地域。
径100歩はちょーせーくんの目の前であっという間に積み上げたんやろなー(とおいめ
ぷらずませんせーつっぱしってますなー^^
レス速すぎ
やはり卑弥呼さんのお墓は平原1号か(ダックの宣伝でそんな気がしてきた
しかし倭人条の長さ単位がデタラメぽなら大きさはクリアやなー
>>475 >まず邪馬台国伝ではなく倭人伝だから。<
「邪馬台国」なんて存在しないよ。
>邪馬台国に関する情報なんて卑弥呼が都とする七万戸の国、
それに伊都や投馬国より遥か南方で里数ではなく日数表記の遠い国。
また伊都は途中必ず立ち寄る、女王に従属した国とあるだけだからな。<
いや、不彌國で萬二千余里がほぼ消化され、
不彌國の次の「南至邪馬壹國女王之所都」だから、
不彌國のすぐ南に邪馬壹國の外縁部の入り口がある事になり、
それは「北部九州の筑紫」。
>北部九州は絶対ないのはこれだけでわかるな。<
「南≠東」に拠って、大和は絶対ないのは、これだけでもわかるな。
あの写真(キュウリの葉、葱の華・・)の家だけは、
何かの本物(直系)なんだろう
という話
>>477 根拠もなく喚いてるだけの大和説の行程バカに、イチイチ付き合うな。
美しい日本の国の評判や国民が汚れされる。
わじんじょーの長さは話5分の1くらいで計算せんと辻褄あわんやろ?
>>206 1000ってガセネタが書いてあるだけだな
あry−わじんじょーガセネタだらけかー
ますます100ぽもしんよー0やな
>>487 >これも簡単な足し算やで
対馬1千戸 壱岐島3千戸
末羅4千戸 伊都1千戸 奴国2万戸
不弥国1千戸 投馬国5万戸 計8万戸
邪馬台国は7万戸だから九州北部連合ではないという事に<
何これ?。
投馬國は、南九州であって、九州北部ではないし、
對海國と一大國も、九州北部ではないし、
何より「九州北部連合」とは、邪馬壹國だけの事ではなく、
卑弥呼共立諸国の事であった筈。
この男も、やっぱり、・・・・詐欺師のアホ。
靴買ってサイズが違ってたら返品だと思うのが畿内説
足の指を切れば合うと思うのが九州説
>>213 測定の難しい海峡幅や沿岸長が違ってたって、どこも変じゃない
それらが違ってるなら簡単に測れる短距離も違ってるだろう、と考える頭だけが変だ
ちなみに、あの写真
▢▢力夫氏
このような名前の家だよ
>>479 どちらにしても、「南→東」などに拠って、大和説は終了。
>>219 九州説諸君、南は東の間違いだっていう畿内説側の説明に、ぜんぜん反論できてないけど?
>>222 そんな根拠のない詐欺みたいな言い訳に反論など必要ない。
>>207 >本来1里は400mやろ?ちゃうんか?
ちゃうな
畿内説は、九州節で論じられていないことを捏造して攻撃するんだな。
投馬国が邪馬台国に一部で7万戸に含まれるとかなんとか。
畿内説が根拠とするものは、邪馬台国と関係ないものばかり。
>>485 大和バカはそもそも、「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・詐欺師。
居座るのは、スレ主や大和説者らと同じく、
人種差別殺し合い戦争狂の国粋皇国史観のキョクウの・・・・であって、
日本語も読めない人種だからか?。
>>228 結局、悪口しか言えなくなるのが九州説の限界
>>491 九州説者は、史料事実や史料実態を根拠にして帰納的確率的推論をするが、
大和説者は、「魏志の里や南方向記載は間違いだ」と言っているが、
間違いだだけでは「別の里や方向の特定」にならない筈なのに、
「長里や東方向という特定」を根拠にして大和説を唱えるから、
一種の「結論先にありき」の循環論法的な騙しになっているんだよ。
証明する行為だよ
循環論法に相当する
>>492 本当に大和説ってアホしかいないんだな。
現実の大和に何一つない上に、九州の影響に塗りつぶされてる現実も見ないで、
アホな妄想行程叫んで大和とか言ってんだから。
大和なんて、九州の影響が色濃くどっぷり出てるところの一つだろうが、アホが。
安部政府や右翼マスコミや学会教育界や、人種差別的殺し合い戦争狂の国粋皇国史観の、
キョクウの異常者の集団はこれだから。
>>501 >考古学の世界で九州説なんて既に皆無状態だぞ。<
「南→東」という嘘つき騙しありきの考古学者は、信頼性が皆無に近い状態だぞ。
>今後お前は一切考古学関連の資料を利用しない事だな。<
嫌だ。
個人的な発掘事実報告や、
公的機関の発掘事実からの解釈などは、信頼性が全くない場合があるが、
公的資金での発掘事実報告には、時々「ついうっかり」、
(大和説には不利になるような)貴重な発掘事実も報告してしまっている事があり、
当然我々は、それを参考にする権利がある。
>>505 >祇園山だ!これが卑弥呼の墓だ! ↓ 三角縁 庄内土器 大型の葺石墳墓<
ありゃ?、何だこれは。
「大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」が抜けている。
>内行花文鏡だ!これが卑弥呼の鏡だ!<
ありゃ?、何だこれは。
平原なら、莫大豪華な「玉」や「21枚の尚方作の方格規矩鏡」が抜けている。
>↓ 三角縁同伴 古墳出土 <
ありゃ、何だこれは。
大和の三角縁なら、粗末で「脇役的な場所」に置かれた事が抜けている。
大和説者の低能詐欺師ぶりは、毎度笑わせてくれる。
>>508 国民のアンケート結果でも、7割の国民にも否認され、
口先で誤魔化す事だけが頼りなのか?大和説は。
可愛そうになあ。
>>510 >最盛期ですら献上品に出来ない粗悪品
畿内から畿内独自の精密な織技術を用いた絹織物出土 <
中国への献上品の「倭錦、絳青糸兼、緜衣、帛布」には、当然、
筑紫倭国の別種の旧小国の大和から筑紫への上納された絹も、含まれる。
>最盛期ですら大量の鉄器とやらがあっても九州から外に出られない雑魚ナメクジ九州
邪馬台国の時代を境に一気に畿内の鉄器が増えまくり畿内がこの時代に大きく躍進したことを示す証拠にしかなってない<
九州倭国の鉄器は卑弥呼時代のもの。
それに引き換え、別種の旧小国の大和の鉄器増加は4世紀以後。
大和の田舎猿のバカ話は毎度笑える。
それよりも
なぜ知っているんだろうという話
『ザ・モモタロウ』
家の写真
『菅野神社』〜『ザ・モモタロウ』
合致、確定しているものがあるような?
>>515 >列島の前方後円墳の始まりは、那珂八幡などで、3世紀第4四半世紀。<
>考古学者の言ってることと違うね<
考古学者は、ほぼ皆、「南→東」などの嘘つき騙しだそうだから。
>誰の説?<
久住氏。
>>517 九州には、
径100歩の墓もある
丹もある
質の高い絹もある
入れ墨もある
骨占もある
宮殿もある
大きな祭祀の遺跡もある
多くの国をまとめ上げた中心もある
多くの国をまとめ上げたような影響力もある
鏡も古墳から見つかり、三角縁も始まり
土器、墓制、祭祀、宝物も全て始まり
大和は、自分達の文化をすべて塗りつぶされて自我を失う属国の姿しか見つからない
あるある喚くが何一つ提示されない。
おお、哀れ哀れ。
ザ・モモタロウを読んでみた?
「発電したぞ」
モモタロウが電気を起こした、
ような事も言ってる
源頼馬鹿というキャラ。
ムー帝国、とある国の王や王子(末裔)。
きんたろー、河童などは不明
キンタローと河童でザビエルという意味?
>>518 >弥生時代の終わりころから、日本列島各地に有力な首長の墓として、様々な形の墳丘をもった墳墓がつくられるようになった。
そうした各地の墳墓がもついくつかの要素を総合して、3世紀なかごろ、奈良盆地に大きな墳丘をもつ前方後円墳が出現した。<
大きな墳丘をもつ前方後円墳は、筑紫那珂八幡などが初元。
大和はそれより遅れて3世紀末以後。
>その規模や副葬品から判断すると、弥生時代の首長とは比べものにならないほど強力な力を持つ支配者が存在したことがわかる。<
弥生銀座付近の出現した。
>箸墓古墳をはじめとする初期の前方後円墳が、奈良盆地に集中することは、
これらの被葬者と初期ヤマト政権の関係が深いことを示唆している。<
大和は、筑紫倭国から別れた別種の旧小国であり、
倭國の地方の市を監督する大倭職の小国。
>>526 >(箸墓など)年代不詳?
じゃあ九州が毎度持ち出す『古墳から出た』内行花文鏡だのは全部年代不詳だなw<
平原の「内行花文鏡と、21枚の尚方作の方格規矩鏡の共存」によって、
どちらも卑弥呼以後、という年代特定が出来ている。
>毎度九州説が喚いてる理論で行けば「同伴した一番新しいもので判断する」んだよなぁ?
じゃあお前らの鏡は全部5世紀以降に貰ったもんだわw ますます何もなくなるなwww <
いや、壹與が卑弥呼から相続した可能性があるから、壹與の死頃まで。
キンタローと言っても、
ザ・モモタロウに登場するキンタロー
調べてみるとわかる
ザビエルのような頭、
河童に〜改造されそうになった
>>528 >国民の7割が邪馬台国は九州にあると思うってアンケート結果があったんだと
ザラコクはそれを邪馬台国が九州にあった根拠に使ってる <
国民の7割は、文献考古の両方の情報から、九州説に軍配を挙げた、という事になる。
>>529 >鉄とか笑わせてくれるw<
大和の鉄が、卑弥呼の?根拠になる、などと笑わせてくれる。
卑弥呼の頃より50年遅い。
>最盛期ですら九州から出られない雑魚が「鉄器があるから邪馬台国」とか 寝ぼけてんのか?
邪馬台国を境に一気に出土量が増える明確な畿内の画期がむしろ際立つだけ <
大和に鉄が増えたのは、筑紫倭國の東征のお手伝いをしたから。
>で、毎度「古墳から出る鉄なんてカウントしない!」と喚いてるよなぁ?<
古墳から出る鉄は、筑紫倭国の東征の将軍の墓になるから。
>じゃあお前らの鏡も全滅だわwwwww <
内行花文鏡も、東征将軍に与えらえたお宝。
三角縁は、呉系鏡師らから大和などの子弟が教わって、粗悪な副葬用に造った。
>九州の鏡も古墳から出てる後漢鏡をこれは都合よく「邪馬台国の時代に手に入った!」とか言い張ってんだからなwww
お前らから出たものなんて何一つないなwwwww<
明帝の下賜鏡も、三角縁も庄内も前方後円墳も、筑紫が初元。
>>531 大和説は、何か喋れば全部自滅というお笑い集団。
まぁ脳みそが無いから仕方ないね 。
>>532 >邪馬台国に征服されただけだろ。 <
「邪馬台国」なんて、始めからなかったね。
>>242 から。
>>誰の説?<
>久住氏。
すごいな
ザラコクの言うことは
真っ赤なウソばかり
ここまで徹底するって、凄いことだよ
九州説は、それがザラコクだけじゃないとこが
もっと凄いよ。
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Rock54: Caution(BBR-MD5:fc5433912aa55592f73f2dda4d43bdf8) >>533 >・柳田康雄「九州弥生文化の研究2002」 (糸島地域p178)
「二世紀前半ともいわれている平原遺跡は、その年代に科学的な根拠は全くない。
瑪瑙や琥珀の玉類は別にしても、四二面のうち最も多い方格規矩鏡の中に、
方格内の銘や小乳もなく、八像も簡略化され、玄武が釣針状の蛇だけになったものがある。
このように簡略化された方格規矩鏡は三世紀代に下がるものと思われ、
鏡からでも三世紀前半まで下げて考えなければならない。
周溝から鉢形の土器が出土しているが公表されていない。」
・柳田康雄「弥生時代王権論」2013 (p317)
「拙稿のように32面の方格規矩四神鏡を含めて38面の製造技術が
164年(『延喜七年』銘獣首鏡)以後、
235年(「青龍三年」)銘方格規矩四神鏡)以前に見られる鋳造・研磨技術である」<
ふーん?。
柳田は、「青龍三年」銘方格規矩四神鏡まで書いて置きながら、
21枚の「尚方作」方格規矩四神鏡には触れず、
だから、明帝→卑弥呼の下賜鏡の可能性には、敢えて言及していないようだね?。
九州説諸君、南は東の間違いだっていう畿内説側の説明に、ぜんぜん反論できてないよね?
南もダメじゃ九州説、もう終わりだろ
>>536 >平原とか2世紀の?製鏡だらけの後に続かない、
周りになんの影響も及ぼさない個人墓を持ち出して邪馬台国とか
脳みそ腐ってるな 流石は九州説だ<
柳田が、平原の21枚の「尚方作」鏡に付いて、何か言っているのか?、が焦点になるな。
>>539 なにもない大和。
出てくるのは生活も、宗教も、宝物も何もかも、
筑紫倭国の影響に塗りつぶされた属国の姿ばかり。
必死になって持ち出すものがことごとく倭國の手垢まみれ。
でも何も知らない、何も考えない大和説は、
「チョウリガー」「インボウガー」「キヌガー」「ハシハカガー」と、
毎日同じことを叫び続ける。
異常者の無様な姿をただただ憐れむばかりである。
福岡と奈良の遺跡や遺物をくらべると、
基本的に福岡県が多く、
遺跡数で福岡が奈良の6倍
銅器で12倍
鉄器で20倍の違いがある。
実は弥生時代から奈良時代まで含めても
銅鏡が出土した遺跡は、福岡は奈良の3倍あるんだ。
ちなみに弥生時代にだけに限れば20倍だね。
奈良県の倍あるんだ。
最後がおかしくなったので修正
福岡と奈良の遺跡や遺物をくらべると、
基本的に福岡県が多く、
遺跡数で福岡が奈良の6倍
銅器で12倍
鉄器で20倍の違いがある。
実は弥生時代から奈良時代まで含めても
銅鏡が出土した遺跡は、福岡は奈良の3倍。
ちなみに弥生時代だけに限れば
福岡は奈良の20倍あるんだ。
大阪府や兵庫県と比べても、
奈良は1/3程度の弥生遺跡しかなく、
日本全国区でも特に少ない地域と言える。
>>267 大和は弥生末期以降に開発が進んだ新興都市だからな
>>543
>柳田の修正
調査前「三世紀代に下がるものと思われ、鏡からでも三世紀前半まで下げて考えなければ」
↓
調査後「製造技術が164年以後、以前に見られる鋳造・研磨技術である」
結論は、西暦200年頃の墓 <
「結論は、西暦200年頃の墓 」に後退させた理由は何なのかね?。 古墳時代まで含めた前方後円墳の数も、
奈良はそれほど多いわけではなく、
最も多いのは千葉県で、
福岡は4位、奈良は8位である。
奈良県が前方後円墳発祥の地というのも疑問である。
九州は畿内に追いつかれ、追い抜かれた。
そして邪馬台国の時代が始まる。
単に、そういう話だよね。
>>544 「三角縁や古墳と同伴だらけの九州」よりも、
大和の方は、50年位遅くなる、
という実態が笑わせてくれる。
>>547 >平原の鏡については最新の研究で、非常に興味深い見解が示されているよ <
どんな見解?。
遺跡数や古墳数から考えると、
福岡はいまだに奈良には抜かれていないんだな。
すべての歴史において、遺跡数や古墳数で
奈良が福岡を上回ったことがない。
あえて言えば、白村江後に奈良に政権が疎開するまで、かな?
>>272 >調査後「製造技術が164年以後、以前に見られる鋳造・研磨技術である」
チガウダロ
青龍三年鏡と同等の技術と判断してたはず
>>274 違うよ。
ストローだった九州が呉や公孫氏からの輸入物資を横領して中央政権に反乱を企てたが、中央政権が敵(反乱軍)の味方(呉や公孫氏)の敵(魏)に繋ぎを付けることに成功して形勢を逆転したというお話だよ。
>>558 考古発掘実態の解釈の曲解捏造を、
常習する嘘つき騙しの大和説者の咆哮w。
>>282 あんた、考古発掘実態なんて知らんだろ?
奈良時代の頭初に、大和朝廷から朝貢された記録がある旧唐書では、
日本は元小国でのちに倭国を併合した、とあるから
彼らも倭国を併合する前は、大国でないことは自覚していたわけですね。
>>278 理由もなく
はず、はずって
はずかしい人だね
>>285 あるいは倭国が日本と改名した、とも
書いてるんだが?
>>287 日本は元小国でのちに倭国を併合した、は使者からの聞き取り調査で、
あるいは倭国が日本と改名した、というのは唐の推測ですね。
>>559 平原が、壹與の墓であったんなら、
時期が3世紀の第4四半世紀頃にずれ込む可能性がある事になり、
周りを取り囲まれるように孤立した小さな地域で、周辺に何の影響も及ぼしてない 、
という事も起こり得る、という事も理解出来ないらしい大和説は、
流石はゴキブリ以下の知能しかない人種だな。
何を夢見てんだか。
>>273 疑問ではなくあんたの願望だな。
実際そうなんだから仕方ないだろw
畿内説じゃなく大和説と印象操作に必死だな、邪馬台国の怪はw
>>574 大和説のバカは、いまだにわかってないから笑える。
生活、宗教、宝物等のあらゆる文化の基軸が、九州から全国に拡散してる。
その中心が筑紫であり、ここには全国から人が集まる双方向の拠点として機能している。
そのような全国規模の中心は筑紫以外にどこにもない。
当然大和もその影響下にある。
しかも北部九州の影響がかなり色濃くな。
どこにどんな遺跡が今更出てこようが、纏向で何が出てこようが最早何の影響もない。
筑紫しか当時の全国の中心なんて存在しないんだよ。
もうとっくに「確定」してんだよw。
アホは、いまだにちょっと何か見つかればごまかせるとか思ってる程度の認識だから、、
アホとしか言いようがない。
>>576 弥生銀座が邪馬壹國の中心でいいよ。
どの勢力が邪馬壹國を作ったかだな。
>>577 大和が、まさに邪馬壹國の時代に、
筑紫を中心とする影響力の拡大に飲み込まれてると言う現実を、
ミエナイキコエナイでありもしない妄想を続ける異常者。
それが、大和説。
ただのカルト宗教だから仕方ないね 。
>>580 >逆。 邪馬台国が纒向を作って遷都してきた。<
逆。
筑紫倭國の東征に拠って、筑紫倭国が、纒向に「市」を作って、大倭職を置いた。
>>581 近畿のどこに邪馬壹國があるの? と聞いても全員違うことを言う。
行程は絶対確実なの? と聞いても全員違うことを言う。
何が確定してんだよサルが。
>>582 >傍国20カ国は遠すぎてよくわからないと書いてある
邪馬台国が九州北部連合で計7万個になるはずだから
傍国20カ国は合計4万戸になるはずだというのは
這い出ましたね 九州説お得意の循環論法ですね <
キミの話方は、相変わらず「意味不明」だね。
また大和説がお得意の循環論法かね?。
>>584 大和は最盛期ですらも、大和から外に出てない 。
肝心の邪馬壹國女王之所都の時代となれば、その勢力さえもまだ確定しておらず、
中心も存在しない。
ご自慢の鉄とやらがそんなに凄いなら、とっくのとうに日本征服してんじゃねぇのか?、。
弥生時代の400年くらいを大和から出ることも出来ずに、
逆に西部は、出雲や四国や瀬戸内海の影響を受けまくってる。
アホが こんな基本も知らんで「支配した!」「東征だ!」とかの、
嘘吐きバカ丸出しのことを喚いて思考停止する大和説者。
>>585 >鉄器は畿内の古墳からも大量に出てるで <
300年頃からね。
>>587 アホの大和説に言わせると、
300年頃の古墳の鉄を卑弥呼の時代にカウントするんだとさする。
でも大和がいつも喚き散らしてる鏡も、4世紀の古墳から出てんだけどな。
>>590 最初から大和説なんて、何一つ根拠も証拠もないただのバカ話だから、
誰も相手してない。
アホを相手に笑いものにするのが面白いから遊んでるだけ 。
>>278 確かに青龍三年鏡との比較だったね
この鏡が技術的に平原より新しい物という意見だったかな
しかし、その根拠は薄いと感じたよ
そもそもこの鏡も国産の可能性も多いにあるし、技術面についてもわずかな差なので、作成場所が違うなら一概に言えるものではない
それで、不思議に思ったのだが、
柳田さんは平原の鏡を「国産」としているのだが、技術面での考証はあくまで「中国の鏡の技術変化」で考証してるところが気になったんだよなぁ
平原はすでに最大の内行花文鏡を作成する技術がある訳で、国産ならば国産の鏡技術として年代考証すべきと思うのだがね
>>600 >(孝霊)三世紀の地勢感で正確かどうかなんて判断出来る状況ではないですよ。<
梯儁等の記録が正確であったから、張政等も、間違えないで来れた。
>ましてや地球が球体とも、地動説でもありませんから。<
倭地と中国中心部は、大体同緯度だから、周髀算経の「大地平面」近似が有効。
>当時の基本認識は神仙思想です。<
魏使らや陳寿が神仙思想な訳がない。
孝霊は、神仙・・・・。
妄想じゃなくて痴呆
他人の発言を、大和と筑紫を入れ替え書き換えて機械的にコピペしてる
だから内容がムチャクチャ
>>603 >師升を葛城に本拠をもつ綏靖天皇辺りに比定するならね。<
帥升も九州の倭国王だから、
「南≠東」に拠って×。
>>302 ここまで入り浸ってる時点で説得力無し。
お前はもうここの畿内説に夢中だろw
>>604 >梁書に「漢の霊帝の光和年間(178〜183)、倭国は乱れ、戦いあって年月を経た」とある
これが神武東征かも知れないね <
二中歴に拠って、✖。
>>605 >バカに何度言っても無駄だろうが
弥生時代の前期の稲作の伝播以外に九州から西日本に広がる影響など何もない
東征も東遷もあり得ない バカに何度言っても理解できないだろうが<
倭王武の上表文の「自昔…東征毛人五十五國」で、✖。
>>609 >俺は畿内説だけど東征あったかも知れない派だ
西暦60年頃は九州が中心だったのは金印やら鏡やら後漢書の記述で確からしいからな
そこから100年後にその勢力が東に向けて出軍し<
二中歴では、神武東征は紀元前91年頃になるから✖。
>記紀にあるように苦しい戦いを経て畿内に連合国家を打ち立てたと そう考えてる<
神武東征は、倭國から別れた別種の「旧小国」の、
「地方の市を監督する大倭職」の国を造ったのだから、を造ったのだから、✖。
>>303 柳田は伊都国東遷ありきで理論付けしてるから信頼性は低いね
>>610 >尚方作鏡には景初3年とか入ってないからなあ<
明帝の詔書は、景初二年12月に出されたんだから、
景初三年鏡は、始めから、明帝の鏡としては✖。
>三角縁神獣鏡に比べたらどうしても格が落ちる<
「格」なんて評価は、単なる「個人的な好み」の問題であり、
皇帝の格を示すのなら、「尚方作」鏡が最も適切。
>>613 >尚方作鏡なんてニセモノは腐るほどあるしなあ
そんな銘文、なんの根拠でもないよなー <
「ニセモノ」が一杯あったんなら、それは、
「尚方作」と書けば「格」や「価値」が上に見られる、
という事が判っていたからだな。
>>616 >出雲勢力も含んでたかもね
まあその辺りの事はよくわからんけど <
実態としては、
出雲の銅鐸が、大和では拒否されて無くなって、忘れられてしまっており、
しかし、梁代になっても、筑紫倭国と、出雲文身國と、越の大漢國と、大和の扶桑國が併存していた、
という事だ。
>>617 世の中には時系列の概念を理解できない奴らもいるんだよ。
人種差別的殺し合い戦争狂の、国粋皇国史観の、キョクウの・・・・大和説人種なんてのは、
その典型な訳で。
>>622 >その後に大和、吉備ともに出雲とは別の文化を更に進化させて
後の邪馬台国、大和朝廷へとつながる体制を確立する <
「邪馬台国、大和朝廷」なんて分裂幻覚妄想を書いちゃ、
「南≠東」や、
「大和は筑紫倭国の別種の旧小国」という史料事実を否定する事になるから、✖。
>>624 >(孝霊)霊帝の諱はそのまま孝霊天皇に充てたと 思われるけどな。
意味は滅びはしないが 国が乱れる等の意味がある。
欠史の名前は大体同時代、大陸との関連性のある諱が付いている。<
欠史八代の「天皇名」も、当然、
7世紀末の「大和日本国が倭国を併合吸収継承」した後の、
大和の造作。
>>625 >誤読でトンデモ書いてるよね ある意味、海外史料の限界<
勿論、誤読ではない。
「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」の話は、
釈日本紀引用の延喜講記に、
小野妹子が隋文帝に「日本国」を名乗って、
「本国の倭國の承認を得ていない」という事で叱られた?、
という話で確認が取れ、
隋書に書かれた開皇20年頃の遣使の話が、
書紀の大和日本国には記載されていない、
という事とも符合する。
>>630 >いつぐらいの出来事になるんスかね<
騙されてはいけないよ。
「倭国大乱」なんて存在しない。
あったのは、筑紫で「倭国乱」であり、
それとは別に、それ以前の「自昔」から倭王武の頃まで、
倭国の「東征毛人55国」が継続していた。
>>631 >そのタリシヒコは用明天皇の事だとして記紀の記載を採用してる<
嘘を付くな。
用明は、「タリシヒコ」ではなく「目多利思比孤」と記録されていた。
>そしてその時代に遣隋使が来た中国側の記録と双方の記事を合わせて中国は記事を書いてる
日本書紀の遣隋使の最初の部分が不自然なのは以前から指摘されてる
日本側が意図的に(おそらく中国皇帝から叱責されたことなどの屈辱を隠すため)削除したと考えられている<
隋の初代文帝は、
大和日本国が、筑紫倭国から独立して日本国を称する事を認めなかった、
という事だ。
>>635 >(孝霊)具体的に出雲において海を渡ってきた月支国の船団と戦ったり、
半島と山比べしたなんて伝承を持っているのは孝霊天皇だけだからな。
勿論瀬戸内海や吉備でも成敗伝承が多く、
倭国乱れたとするなら 具体的な内容を伴う唯一の存在。<
ダメだ。
「倭國乱」は、九州の倭國内での話だから、✖。
>>637 >方形周溝墓の拡大に政治的な背景など見られない
土器も祭器も祭祀も在地の物を維持している事から文化的な伝播でしかない<
墓の形態は、非常に保守的であり、漸進的な変化しかなかなか起こり得ず、
だから、方形周溝墓の拡大は、
その部族や氏族の支配地の新規拡大を意味する事になるもの。
だから、壹與に属する部族の支配域の拡大があった、という事になるになる。
>>641 >平原一号は二世紀末<
明帝→卑弥呼の21個の「尚方作」鏡の存在に拠って、
卑弥呼死亡以後である事が確定。
>>641 >方形周溝墓は単なる文化として拡大したのち、各地域で独自の発展を見せている
それが各地で別物の独自性を持つようになる
この伝播に中心的な勢力による意図などは見いだせない <
おそらく「自昔・・・東征毛人五十五國」のため。
>>643 >平原の時代とは九州の平原が栄えてた時代?なら
後漢書に倭の奴国が建武中元二年(57)に使いを遣したとあるからね<
平原は、21個の「尚方作」鏡の存在に拠って、卑弥呼の死後以後であるから、✖。
>>645 「南→東」などの嘘吐き騙しの「大和」が出て来ると、
とたんにレベルが下がるぜ 。
>>650 >方300里とか書かれてるだけで行とか至とかの移動途中の説明の動詞がないけど
いいの<
「動詞」だけだ、というのではなく、
途中での説明や記載があれば、途中移動があった事になる。
>>652 そういうチェリピクや、「南→東」などのような史料事実の否定曲解が、
大和説者の特徴。
>>654 >方形周溝墓は弥生前期北部九州発祥して
中期にはすでに東海や畿内中心に多くなって いるからな。
銅鐸も同じ動きなので、東征的な動きは 弥生中期に既に終わっている。
なので弥生後期の平原の物は東国勢力から 派遣された人物の物。<
平原は、21個の「尚方作」鏡で明帝の下賜鏡である事が決まったから、
卑弥呼の死後以後が確定であるので、✖。
>>658 >方形周溝墓は在地の文化を変化させていない むしろ各土地で独自の発展を遂げている
東征などは起こってない ただの文化的な移動<
墓祭祀形態は、相当「保守的」であり、漸進的にしか変化が起きず、
大きな変化があった場合には、別部族の侵入や支配を想定しなければならない。
だから、平原も、既に筑紫在地部族であった娘の墓だ、
という事になり、卑弥呼以後の娘の浜だった、という事になる。
>>660 >官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。
伊支馬は生駒。生馬。火の神。 弥馬升は三見宿禰、出雲醜大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。 奴佳鞮は中臣。<
「南≠東」であるから、「生駒」や「出雲」は×。
>ヤマトの地名と出雲の集落名、共通点が多い<
大和は、出雲系銅鐸部族や毛人が共存していたところに、
神武らの東征で倭國の勢力下になって、また新しい共存時代になったから。
>>662 >銅鐸も最初は10以上の系統があって各地で独自の発展を遂げてる
勘違いしてる人が多いが何かの主体的な勢力が広めているわけじゃない
これも文化的な移動によって成立した文化とみるのが自然
むしろ弥生時代の後期くらいから中心地が統合されて独自性が出てくる<
最も古い菱環鈕式が、出雲が圧倒的に出土が多い、という事実は覆しようがなく、
出雲が、列島の銅鐸祭祀の初元であった事は、否定しようがない。
>>664 >前方後方墳は在地の文化を変化させていない むしろ各土地で独自の発展を遂げている<
筑紫の那珂八幡などが列島の前方後円墳の初元であった、という事も、
否定しようがない。
>東征などは起こってない ただの文化的な移動 <
宋書が、倭王武の上表文の「自昔・・・東征毛人五十五国」を掲載した、という事実も、
否定しようがなく、
古代における推論論理の「原点」にするしかない。
>>667 >別に不思議でも何でもない
弥生時代末ごろに畿内と吉備を中心とした地域に全国的な影響力を持つ邪馬台国が誕生する
そしてその勢力がそのまま大和朝廷になるだけの話 <
「南≠東」に拠って、×であり、
この男も、×人間。
>>669 >吉備は温羅、即ち出雲の配下<
吉備は、銅鐸祭祀の出雲系であったところへ、
倭系の「国生み植民地」も作られて、共存的であったようで、
そこへ、五瀬命らの東征が長期寄留をしたようであった。
>>137 1里≠75mによって×
>>138 律暦志で韓の方四千里や、七千余里や、3海峡の各線余里の説明がつかないなら
そっちの記述の方が不正確なものという事だろ
違うというなら方四千里やら3海峡の各線余里の距離は正確なものという証拠がいる
>>671 >弥生前期の稲作などの移動と、邪馬台国の全国的な文化の拡大は全く違う物<
「邪馬台国」なんて存在しない。
>弥生時代後期になると各地域にかなり強い独自の王権や文化の個性の確立が起こる
しかし、弥生時代末期の邪馬台国時代前後になると、
その確立した文化の壁を突き破って畿内の文化が広まりそれ一色に変わる<
「畿内」は、「南≠東」に拠って×。
出雲が中心であった西日本で起こった事は、九州倭國勢力の東征。
>各地の変化は中心の動きと連動していて独自性は限定的で明らかな中心点が存在しているのが分かる
その動きはどんどん強くなり各地の個性を完全に塗りつぶしていく
これらの動きから弥生時代末期の変化は政治的で中心の存在する意図的なものであるのが分かる<
中心点になったのは、筑紫倭國。
>>148 当時使われていた1里400mに当てはめると
邪馬台国がニュージーランドになるから
邪馬台国だけじゃなくて他の辺境の国でも同様に過大な記述が見られるから
魏の都洛陽から遠く離れた地は距離が不正確だったという事がわかる
>>335 否定される
初元ではない
同じ菱環鈕式でも出雲が多くなるのは2〜3期
1期に多いのは四国
ザラコクって結局方角しかより何処ないんだよな、
思考能力が既に退化してるだろw
>>683 >基本的に方形周溝墓も前方後円墳も 文化の伝搬の結果であって
支配がどうとかというものではない。<
基本的に、墓祭祀は、その部族内にあっては非常に保守的であり、セレモニーも漸進的。
大きな変化があった場合には、
新規部族の流入や支配が起きた事を想定しなければならない。
>五世紀に各地に定形型前方後円墳が作られるが
その近所に近い時代の大型円墳や
バチ型、手鏡型古墳があったりして
型式を強制されたようなものではないからね。<
同じ部族内では、「型式」の変更は、非常に困難。
>>329 じゃ来るなよ、誰もお前を望んでないから
畿内説以外は立ち入り禁止だぞ。
ザラコクが書けば書くほど畿内説論者が増えていくのになw
>>688 「邪馬台国はパプアニューギニアにある」なんて嘘つき騙しを、
しゃーしゃーと主張するお前も、嘘つき騙しの犯罪者的な・・・・。
ヤマタイとはヤマトだね、隋書倭国伝に書いてあるだろ。
九州にあるのは伊都に奴国、投馬国が出雲、丹波。
これで確定だよ。
>>692 >弥生中期から後期にかけて世襲の権力者と呼べるような存在が現れ独自の権力基盤のシンボルである祭祀や墓制を確立する
この動きは強い個性と排他性を見せて独自の勢力の基盤としているのが分かる
ところがそれが弥生時代末期になると一気に畿内の方式に塗り替えられる
変化は常に中心の動きと連動しており独自性は殆どなくなる<
「畿内の方式に塗り替え」と言った瞬間に、
この男も「南≠東」に拠って、×人種。
筑紫倭國の東征と、大陸からの部族の新規渡来があっただけ。
>>693 >邪馬壱・・・山陰〜丹波
女王・・・天橋立
邪馬・・・奈良
狗奴・・・桃太郎 の話が示しているように敵対していたのは当時の大勢力「吉備」
裸国などは能登半島と一年も離れていると、さげすんでいる<
「南≠東」に拠って、×。
東征とか痕跡がないから。
九州は成敗される対象です。
当時は中華思考に天動説、しかも球体とも認識してないので
基本的に遠方の方角認識は今とは違うのにな。
方角間違い説でもはや何の問題もない、ヤマタイとはヤマトの事。
古田の元気な頃と今では考古学的な環境が全く違うのにな。
正直古田だけでなく、九州説全般で今では矛盾した話にしかならないから。
ザラコクの頭の中は30年前で止まってるんだろ。
>>696 >古墳を過小評価すれば九州説が成り立つとか思ってる馬鹿には毎度笑える
言い出すことがいつもいつも間抜けで笑いしか出ない <
セレモニーの進化拡大は、人的能力と必要と技術の伝来向上が必要だ。
>>697 >国譲りで出雲も大和となったはず<
出雲は、文身国として梁代までは独立性を保っており、
国譲りは、出雲が海峡〜筑紫の倭人に盟主の座を譲った話であり、
大和は、筑紫倭国から別れた別種の旧小国だ。
>>149 東夷の里が
周髀算経や淮南子の一寸千里や、漢書の如惇注や介山や、三国志内の大半の記載や、
海賦や、江表伝の?赤壁などに書かれているから存在すると言うのは
循環論法に当たります
>>701 >纒向から大分辺りの外来系土器も出てるからな。文献に照らし合わせても、
大和朝廷に九州の勢力も噛んでいるのは間違いない。
首謀者は尾張出雲阿波だが、九州の勢力の責任も明確にしないといけないなあ<
大和は朝廷ではなかった。
大和が朝廷になったのは、白村江の後で、
それまで盟主であった九州倭国を併合吸収継承した後。
>>702 >神武東征は、大和に属さなかった地域との抗争を神話的に描いたものである
だから、日向や筑紫(境界つきるところの先)や吉備や難波が出てくる<
神武東征は、倭王武の「自昔・・・東征毛人55国」の一つの例。
>>703 >纏向の主体はあくまでも大和と吉備 <
纏向は、あくまで、筑紫倭國の地方の市を監督する「大倭」職の国。
>>705 >神武東征の宇佐も大和に属していない 宇佐は渡来人のムラだとされる
応神、神功の時代になって平定した <
宇佐は、神武らの東征時点で既に存在していたものであり、
出雲王朝の出雲大社に次ぐNo.2の格式を持っていたようであるから、
出雲時代のNo.2であった天照らの「国生み」神話の、
瀬戸内への植民の拠点であったんだろう、という事になる。
>>712 >墓制だけでは語れんよ。 畿内も前方後円墳だけじゃないからな。
出雲は、大和朝廷の首謀者の一つ。<
大和が朝廷になったのは、白村江の後だから、×。
出雲は、神武ら東征時点での在地の出雲系銅鐸祭祀部族地域であり、
欠史八代の頃は、大和盆地内で倭人系と共存していた。
こんなふうに妄想を言い張るだけ
根拠をまったく言わないのが
九州説という新興宗教だな
>>715 >むしろ出雲を語るなら墓制を欠かせない
出雲こそが「大型墳墓による地位と同盟のシンボル化」という方式を作り出した
そしてそれを広範囲に広める中心だった
ところがそのオリジナルの方法を全く違う方式に
「変更させられ」「新たな中央に従う」ことになっている
神話ではないが、かなりハッキリとした畿内勢力への屈伏の表れとみることができる<
ダメだな。
梁代までは、出雲は、文身国として独立的な存在になっているし、
「畿内勢力」というのも、「南≠東」であるから×であり、実態は「筑紫倭國勢力」。
こんなふうに
何も証拠がないことばかり言い張るのが
九 州 説
>>716 >何組の魏使らが確認してようとも 比率がほぼ合っていようとも
1万2千里を魏で使われていた事が確実にわかってる1里400mに当てはめると
赤道を越えた場所になる事実だけで全て台無し<
「魏で使われていた事が確実にわかってる1里400m」という事が、嘘つき騙し。
魏志の記載や、陳寿の推定や、文帝の詔書や、重臣たちの「周制への復古」の上表などで、
周髀算経などの短里が使われた事がはっきりしてい。
そして、「赤道を越えた場所になる事実」だけでも、長里が使われていなかった、という事の証拠。
>1里400m以外の単位があったと主張するならきちんと確認できる資料を出せば
それで解決するのにしない <
前項の証拠の他にも、如惇注や介山や赤壁や海賦などにように、
史料事実を出している。
>なぜならそんな物は存在しないからだ <
要するにお前は、史料事実を否定曲解する嘘つき騙しの・・・・なのだ。
>>717 >1里400mは律暦志、正始弩尺の史料事実で証明できる <
律暦志は、
漢書や魏志での短里的な例に関する説明をしていない不完全なものであるから、
半分×文書であり、証明根拠になっていない。
また、正始弩尺は、
周代から大きな変化がなかったものであるから、始めから的外れであり、
証明根拠にならず、
証明根拠に必要なのは、始皇帝の「1歩=6尺」だけが使われていたのか?、という事。
>>719 大和説バカは、
いつまで経っても「ぼくちゃんのかんがえたすごい行程」の、
嘘つき騙しを喚くだけだな。
>>722 >案内されて来たんだろうから距離が正確とか関係ないだろうよ
アメリカまでの距離知らなくても飛行機乗ってりゃ着くだろ <
だから、「所要日数」を併記されているんだよ。
勿論、陳寿らは、
各行程の「出発説明+途中説明+到着説明+付加的説明」の順に、
きちんと書いてくれているから、
後続の使節らも、案内人無しでも、ある程度自分らも倭地へ来る事が出来る。
便所紙はないわー
捏造する気満々だったんじゃないか。
邪馬台国の怪といい、九州説のやる事は全く信用出来ん。
>>723 また「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの、
大和説の基地外か。
>>724 「長里だけだ」といういう「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者らの方が、
間違ってる、ってほうがより明白。
>>726 >出雲まで水行十日、天橋立まで陸行一月 ご存知の通り数字は誇張が入っている<
「南≠東」に拠って、始めから、×。
方角間違い例なんて沢山あるのにな、
ザラコクは余程のバカなんだろう、というより間違いなくバカ。
世間の誤解を解かないといけない。
邪馬台国はヤマト国、葛城山系以東の奈良盆地一帯です。邪馬台は単なる地名です。ヤマトの地が卑弥呼を共立した勢力に征伐され、都が置かれました。
纒向の外来系土器、円形周溝墓などがその証です。殉葬などそれ以前になかった風習が持ち込まれたことも、新しい別の勢力がヤマトの地を支配した傍証になります。
女王国、大和朝廷を作ったのは、出雲など山陰の勢力、尾張、阿波、宮崎や遠賀川の石神など縄文系勢力。
畿内の勢力はこれらの勢力に征伐されました。
倭国大乱の元凶。
火神、カグツチ、ホアカリ、火産霊、国常立神(天香久山の山頂に祀られている神、尾張一宮の本来の主祭神、天岩戸の向こう側、鬼門に封じられた神)、オオナムチ、飛騨の顔が二つ胴が一つの怪物、牛鬼、
阿波咋、
宮崎の石神、イワレ、岩割、
遠賀川の石神、石筒之男、
彼らが畿内や九州北部を征伐して、出来たのが女王国、それに連なる大和朝廷。
四道将軍で関東東北を征伐したのも彼らです。
>>728 >尾張なども東海系のS字土器や前方後方墳を失う立場<
尾張も、元々は、出雲系の銅鐸祭祀部族で、
大和の残存銅鐸部族との関係で、倭國の地方の市の纏向との通商はあった。
>ただこの土地は少し関係が特殊で弥生時代を通じて畿内と密接な交流を見せている
後にも前方後円墳と前方後方墳が同時期の同じ場所に存在しているなど、独自性の消滅の対象とはなってない
土器の移動などを見ても敵対と言うよりも関係の近い同盟国と言う図式が想定される <
同じ出雲系の銅鐸祭祀部族がいたから。
>ただ文化主体となるのが畿内であることと、
墓の規模が常に前方後円墳が上回ることなどから主体は畿内にあると思われる
邪馬台国の前後くらいに合併吸収されていく事になる<
「畿内」も「邪馬台国」も、
「南→東」の嘘つき 騙しに拠って、×。
>>377 正解だよ、東北のほうに本拠地があった。
いまもそうでしょ。
>女王国、大和朝廷を作ったのは、
>出雲など山陰の勢力、尾張、阿波、宮崎や遠賀川の石神など縄文系勢力。
畿内や半島?のほうに言った人物がいる
それが『松傾』
東北地方のほうに戻ったと書いてあるでしょ?
帰農したの?
>>729 >岸倭人伝に短里が使われてるという事を魏志倭人伝を使って証明するのは循環論法<
短里の根拠を、魏志以外の根拠も沢山使っているから、循環論法にならない。
東北のほうのサイト?にも書いてあったでしょ、
朝廷などに仕えていない人々(松傾の親戚、一族)が・・・住んでいて
>>730 >そんなごたくを並べんでも
短里の存在を明確に示す短律暦志と短正始度尺でも持ってくればそれで解決する話<
そんな御託を並べても、
律暦志も正始度尺も、根拠にはならない、という事は、何度も説明済み。
小手子の像
あの辺りに住んでいた・・・、
その後、畿内のほうに行った人物がいる
『松傾』
311後だったかな
聖人でも殺したのか?
と言ってる人がいたり
『菅野神社』
調べてみると、
百済の国王の末裔が〜、興福寺が何やらと出て来たり
>>733 >比率なんぞ一致してないな ある所では50m別の所では100m
比率が一致?嘘をつくな<
勿論、長里の「6倍」位もの不一致に比べれば、はるかに一致であるし、
魏志の記載は、始めから有効数字1桁概数記載であるから、
「50mと100m」は十分許容の範囲内であるし、
更に、この男の「50m」とか「100m」とかの計測を、おそらく、
きちんとした「外縁部間での計測」ではなく、
中心地間での計測のようなインチキをしているのではないか?、
という疑いもある。
『聖化 日神 日霊 津』
この人物が現れ、初めて・・・と書いてない?
東夷伝全体で一里は100メートル未満なのだけれどね。
畿内説にとっては都合が悪いのだろうけれど。
後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
>>735 長里だけだとかほざいて、無理やり大和のどこかに持ってこようと、
邪馬台国などどこにもない。
大和には何もない。
あるのは、倭國の神武東征で、
在地の銅鐸部族や毛人蝦夷の首長たちを騙し討ちに殺戮して、
その後、婚姻で関係を持って、
倭國の地方の市を監督する「大倭」職の旧小国の属国の姿だけ。
行程を屁理屈こねてどこにしようが、結果は同じ。
能無しの大和説は、そもそも何も知らないアホだから、チョウ
リとか喚いてれば大和に邪馬壹國女王之所都が出てくると思ってる低能。
誰の事を言ってるのか、わからないんだけど、
川崎に住んでいるんじゃない?
と言ってる人がいなかった?
家も川崎区(神奈川県)に住んでいるんだけど
>>737 >投馬を玉(たま) とよむと、「玉」は山口県の山陰側の地名である。
田万川町、玉江川(萩市)、矢玉、湯玉 。
「馬」の字より、野生馬がいたのは下関市山陰側の吉母の御崎だから、
投馬国は厚母 (あつも)・室津・湯玉・矢玉だろう。
吉母の御崎は古くは室津の内だった。<
「南≠東」だから、✖。
>>744 >魏史倭人伝に記されてる邪馬台国は濃尾。
その後倭国の都は大和盆地に遷都され、前方後方墳は前方後円墳へと変化した。
その理由は奴国の前方後方墳文化と伊都国の円墳文化を融合させるため。<
根本的に「南≠東」だから、✖。
>>746 大和説が主張する長里自体、
魏志に書かれた里の距離と5〜6倍も違ってるのに、何を言うか。
>>747 何?、「南は東の間違い」だと?。
大和説の基地外は毎度意味不明なこと言いだす。
短里記載の存在を過小評価ではごまかせないとわかったら、
今度は、「方向の間違い」説とか、
人種差別殺し合い戦争の国粋皇国史観のヘイトスピーチで、
国民を騙そう、とするのか?。
まいど大和説の、・・・・的低能ぶりは、笑いしか出ない、。
>>748 >山口県萩市から室津半島を結んだ線上には、
点々と足跡のごとく神社群が連なっています。 ・・・
投馬国も女王に属しているわけではなかったな <
これも「南≠東」に拠って、最後で✖。
魏志に書かれた数字がおかしいだけでしょ
何が不満なの?
>>749 バカは何回言ったら理解するんだろうな.
「東征」は、九州倭国がしたものであり、
大和はそれのお手伝いをしたに過ぎず、
大和の出雲でも東征なんてねーよ。
奈良時代以前の中国古文献において、
日本国内の行程を
魏の里で表記したものは存在しない。
倭人伝での表記も、実距離の5倍程度と乖離しており、魏の里で表記したとは言えない。
>>752 九州には、弥生時代前期から400年の間ずっと、いろんな墓や墳の文化だった。
>円墳もその多くは吉備や畿内に集中していて九州の墓制ではない
当然前方後方墳なども存在しない <
嘘を付くな。円墳も前方後方墳も北部九州にある。
>大型墳墓も葺石の文化もない土地だった<
祇園山は、葺石もある。
>そこに唐突に畿内で成立発展した前方後円墳文化が流入し飲み込まれていく
こんなところに起源などない <
列島の前方後円墳は、那珂八幡などが初元。
>>402 >列島の前方後円墳は、那珂八幡などが初元。
なんで、そんなウソを平気でつくの?
>>758 >畿内を見れば3世紀はもっと畿内が中心だった事がわかるよ<
大和は、「南≠東」に拠って、✖。
>>760 平原は、21枚の「尚方作」鏡に拠って、
3世紀半ばの卑弥呼以後の墓である事が判っているのに、
「2世紀の?製鏡だらけ」とか嘘を付いて、
「どこにも影響を広げられずにそのまま後に続かないで終わった田舎の個人墓」
と言い放って、
いつまでも貶めてるんだか。
ヤマトのアホどもはの、毎度どうしようもない低能だな。
「尚方作」鏡なんかで、何で3世紀半ばの卑弥呼以後の墓である事が判るんだ
お前の妄想で世界は動かない
九州説の思考原理は個人特有だから、一般人には解らないものが多いんだよ
だから一人一説なの
笑)
「尚方作」鏡だから魏の下賜鏡だ〜とか言い出したら
三角縁が魏の下賜鏡になって九州説即死なのに
アルツ老人の思考はわからんわ
>一人一説
パプアニューギニアは800以上の少数部族、言語に分かれている
パプアニューギニアにはおサルさんから感染したHTLV-1キャリアも九州西部南部と同じで多く
パプアニューギニアを中心としたカーゴ・カルトは、
近代まで文明の利器を知らなかった現地人は西洋人が持ち込んできた工業製品に対して、
これは当地の先住民のために神が作ったものであり、
白人は神と特別な繋がりを持って不当にそれらを占有したのだ、と考えた
先住民を九州、神を中国、白人をヤマト王権に置き換えると
九州説の思考と一致する
>>764 >直後じゃねぇんだよ
景最3年(238年)に卑弥呼が遣いを寄越したとあるから<
この男は、またウソを書いている。
卑弥呼の遣使は、景初二年(238年)。
>倭国大乱(178年ごろ)から60年は経ってる<
「倭国大乱」など存在しない。
あったのは、「倭國亂」であり、
歴年とは10年位であり、
魏使らが来た240年頃には、卑弥呼は「年已長大」であり、
「長大」は30〜35歳位であり、だから生まれたのは205〜210年であり、
卑弥呼共立が20歳位であった、とすれば、それは225〜230年位になり、
だから、「倭國亂」は、215〜220年からの10年位の間であったんだろう、
という事になる。
>>767 >別に平原を卑弥呼の時代にしてやったって何にも変わらんがな<
平原は、卑弥呼の死以後。
>その頃の伊都国は周囲を庄内式土器の勢力に取り囲まれて
ごく狭い領域に閉じ込められた土地に過ぎない<
これも、違う。
平原付近は、伊都国の東南100里以上位になってしまうから、
奴國の領域内であった可能性が高い。
つまり、平原は、邪馬壹國と伊都国の「倭国中枢部」にはならず、
それとは少し離れた地であった、という事になる。
>大切にしまい込んだ鏡も殆ど?製鏡
周りに何の影響も及ぼせずにそこで完結してそこで終わる個人墓なのは変わらない<
21枚の「尚方作」鏡を引き継いだ事になるから、間違いなく、共立女王の墓。
>そして九州をはじめとした当時のほぼ日本全国は畿内の文化の拡大の下にある
全国の中心は纏向のある畿内 <
これは、勿論「南≠東」に拠って、・・・・は✖。
で?3世紀に墓が移動するとこれがどうして邪馬台国になるんだ?
なぁ九州のサルよ
筑紫勢力 漢委奴国王(57年 後漢書)->九州王朝
肥国勢力 親魏倭王(238年 魏志)->邪馬台国->九州王朝に吸収合併
畿内勢力 元小国で倭国を併合 印綬不明(703年 旧唐書) ->大和朝廷
>>774 >九州は200年ごろには王墓も消滅して、弥生前期から400年続いた福岡を中心とする勢力も崩壊してる
鏡も小型?製鏡ばかりになり、それも王墓じゃなくて集落などで見つかるようになり秩序の崩壊がみられる
そのまま状態で「現代にいたるまで」一度も独自勢力の統合など見られない <
何寝言言ってんだお前?。
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であって、
白村江の後で、大敗した倭国を併合吸収継承したんだよ。
>そのような流れの中で畿内の土器、墓制、祭祀、祭器が雪崩れ込んできて独自文化を消失させていく<」
逆だな。
そのような流れの中で、
筑紫の土器、墓制、祭祀、祭器が大和や東征地域に雪崩れ込んでに行って、
縄文以来の出雲系や毛人蝦夷の独自文化を消失させていくの。
お前の脳内の大大和帝国なんて言う妄想はチラシの裏でにも書いとけ アホが 。
そんなこと言ってる学者はゼロなんだが
また素人おじん75歳の新発明か?
>>780 >三角縁神獣鏡は洛陽と日本にしか見つかっていないんだぞ
これがどういう事を意味するかわかってないようだな <
三角縁神獣鏡は、日本にだけから500枚以上出土し、
洛陽からの出土は1枚あったかなかったか?だけなんだぞ。
これがどういう事を意味するかわかってないようだな。
>>782 >国譲り。 いつの時代か。 4世紀末〜5世紀じゃないか。<
二中歴に拠って、神武即位元年が紀元前91年頃であった事になり、
天照は、神武の6代位以上前だから、大体紀元前3世紀以上以前の事になる。
>>412 >平原は、卑弥呼の死以後。
平原遺跡が卑弥呼の墓ですね!
>>788 >>投馬国も女王に属しているわけではなかったな <
>その通り、
嘘を付くな。
魏志倭人伝では、卑弥呼共立国の一つ、とした書かれ方をしている。
>>419 嘘だな。
そんなことは書いてない。
畿内説の得意な捏造または誤読。
>>416 大半が邪馬台国である畿内で作っていただけの事だ。
>>789 >魏志倭人伝が短里で書かれてる事を 魏志倭人伝が証明すると言ったな?
はい循環論法でございます<
勿論、魏志倭人伝以外の証拠も沢山挙げておいたから、循環論法にはならないが、
しかし、不可知部分が殆どである自然や歴史においては、
「孤立的な(一つだけの)単独情報」である事など、幾らでも起こり得るのであり、
そのような場合は、その情報の存在の「資料批判が、その情報の成否の証拠」になる事は、
幾らでも起こり得る。
この男は、それが判らずに、「何でもかんでも循環論法」誹謗をしている・・・・アホ。
>>791 >2倍も違うのにどこが誤差じゃボケ<
有効数字1桁の概数計測であれば、2倍位違う事は、幾らでも発生し得る。
それで、「6倍位も違う長里の、どこが正しい数値」なんじゃ?。
>>796 >邪馬壱 出雲〜丹波まで細長い漢数字の「一」に近い形だからか <
何だ?、この男は。ひょっとしたら分裂幻覚妄想の・・・・か?。
>大和 男弟が補佐して政治をおこなっている。<
「南≠東」だから✖。
> これが為政者、つまり天皇<
大和が天皇を称す事が出来たのは、天智から。
>>423 なんか学があるようなことを言いたくて
でも無学だから失敗しているな
>>798 >周は1里何々メートルで…と周制の里体系を示せなければ
何の証明にもならない単なるイチャモン<
周髀算経や淮南子の一寸千里の法。
>距離が正確に計れたら正確な地図も存在してるはずだが そんな物見たことないや <
周髀算経は、天地の地図を「言葉」で説明している。
天地の模型やモデルが作られたのは、漢代頃であった筈。
「平面的な近似地図」は、もっと後であった筈。
>>800 >女王擁立後も実際に為政者だったのは弟だよ 女王は姿も見せないと言っている <
魏使らは、「年已長大」という観察を記録しているから、当然卑弥呼に面会している。
勿論、
「有男弟佐治國。自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食、傳辭出入」
であるから、「婢千人自侍、唯有男子一人」が、卑弥呼の施政での考えを伝える事が出来る。
西晋の裴秀(224-271年)が禹貢地域図を作っている
地図を作るに遵奉すべき原則として、縮尺の決定,方格の設定,直角三角形による距離測定,
高低の測定,直角・鋭角の計測 ,曲線・直線の計測の6つを挙げている
>>430 理論だけな
実際に出来てるモノは混一以下
>>804 >弟=天皇 卑弥呼=祭王<
これは、明らかに嘘つき騙しね。
「有男弟佐治國」であって、「佐治」は「王の補佐をする」仕事であり、
天皇ではなく、
「王」は 卑弥呼。
>>807 >六代孝安「室秋津島宮」(御所市室)に御所があったとされるが、<
大和は、倭国から別れた別種の旧小国であり、
倭國の地方の市を監督する「大倭」職の国であったから、
「御所」はなく、後代の記紀の造作文言。
>出雲は国譲りを受けたので、女王の行宮だったとも言える <
出雲は、「国を譲った」形になった方。
譲って貰ったのは、筑紫倭國であり、大和ではない。
>>808 >書けてねえから 邪馬台国行こうと思ったらパプアニューギニアに着く事になるから<
まだ明確な「地図」のようなものは未完成的であり、
文字や言葉を使って説明するような時代。
長沙馬王堆第3号墳の時代に既に10里(1里=300歩、1歩=6尺)を1寸に縮小した18万分之1図が発見されてるから
西晋の裴秀(224-271年)のころまでには測量技術は進歩していたが
四夷まで測量はしていなかったということだな
地図が大陸でも辺境に行くほど不正確になってる
という研究結果もある
>>811 >初代神武天皇が6世紀ごろとな? あらゆる史料に矛盾する <
そもそも、大和が天皇を称したのは、白村江の後の天智から。
>>812 >能登半島の能登島が黒歯国、東南にあって一年かかる、小人の国や裸の国もある <
「東南≒東北」だから×。
>倭種は出雲の北にある隠岐の島<
「東≒東北」だから×。
会稽東冶之東だからね
南が東の間違いなのは明らかだしな
>>813 >別に問題なし、平原は畿内勢力が掌握してるからな。<
問題大有り。
大和は、筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国であり、
大和が、筑紫の倭國を併合吸収継承したのは、白村江の後だから、
平原の頃は、旧小国。
>>815 >中国が日本を南に傾けて描いてるのは蔑んでいるという事も言えるな
卑とか邪とか当て字が酷いもの <
「南に傾けて描いてる」事は、
「蔑んでいる」事とは何の関係もない。
この男も・・・・。
>>817 >魏志倭人伝に使われているだろう短里を
魏志倭人伝の比率が一致してるから使われていたとするのは
これは全く持っての循環論法 <
「比率の一致」は史料批判の内容であり、
且つ「魏志倭人伝の記載そのもの」ではなく、別のものであるから、
循環論法になっていない。
だから、
>>820 大和説なんて、「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しや、
分裂幻覚的な妄想願望の繰り返し以外は、何の根拠もないからな。
話にもならんわ。
>>821 >そもそもマツラへは方位すら書かれてないからな。 方位絶対説はこの時点でアウトだからw
極論すれば向かったのは松江や出雲かもしれないんだぞ。<
出発時点で、目的地(末盧國)がはっきり見えているんだから、
そんな場合は、出発方向を記載する必要がない。
>>824 >神武東征は岡田宮で筑紫とは言えない北九州<
神武東征の出発地は、筑紫城。
だから、岡田宮は、邪馬壹國の周辺丘陵地か?、其餘旁國遠絶になる。
>不弥国も女王に属していないし、女王と対立していた地域という可能性が高い <
不彌國は、当然女王共立国。
>何れにしても神武東征経路は全部大和の管轄外の平定物語を初代天皇の事績としたもの
日向・薩摩の熊襲・隼人なんて最たる例 <
何の根拠もないから、この男も、分裂幻覚の妄想の病気。
>>825 >東征とか言う考古学的根拠ゼロの伝説に頼るのか <
日下まで舟で達した事と、河内湾の存在という事との一致、
という考古が根拠。
>まぁ別にいいよ 記紀をそのまま信用するってんだろ? 九州説は<
史料批判無しには、信用しない。
>じゃあ卑弥呼は神功皇后だな<
卑弥呼と壹與の二人の事績を一人の神功に書いている、
という史料批判に拠って、「卑弥呼は神功皇后」は否定する。
悪かったな サルども。
お前らは、生粋の・・・・ケダモノの詐欺師の大和説者だわ。
>>831 >>「尺寸」系は関係なし。
「里歩系単位と尺寸系単位」の換算の問題。<
>1里は1,800尺だよ。<
周髀算経などや魏志の記載からは、
「1歩≒1尺」であり、「1里≒300尺」であり、
始皇帝の 命令の「1歩=6尺」の否定だよ。
>日中の史学が確定してる。<
日本であれ中国であれ、どこの国であっても、どこの学者であっても、
魏志の「里」記載や、
「徑百餘歩」の記載や、
二組の魏使らが里数を確認している事や、
郡役人の「韓の方四千里」記載や、
陳寿の「計其道里、當在會稽東治之東」の推定説明と魏志の「里」記載の一致などの、
説明が出来ていないんであれば、
そりゃアホ学者であった、という事になる。
>>833 大和説には、脳みそのないバカしかいないな。
言うことすべてが自爆テロにしかなってない。
国粋皇国史観の人種差別戦争狂のキョクウか?、お前ら。
>>837 >伊吹山の神は、大和朝廷と最後の最後まで戦い抜いている。<
大和は「朝廷」ではなかった。
大和が朝廷になったのは、701年。
>>838 >倭国は百余国あったって北九州だけで百国以上あったはずも無い
南はクマだから違うしな <
「百余国」という事は、もしも正方形の中にあったとすれば、
一辺に十国余りになるように並べられたらよく、
吉野ケ里クラスの国なら、中北部九州でなら面積的に十分存在し得る。
>>841 >倭国一周五千里って能登半島一周の事だろ
能登半島をとにかく馬鹿にしたかったようだ<
「南≠東北」だから、×。
平安時代に書かれた和名抄郡名で
九州全体で96郡。
弥生時代から平安時代までに
合併したりしたものもあっただろうから
九州倭国で百余国は問題ないだろうね。
>>843 >弟が補佐って天皇の事だと分かっていて故意に蔑んでる可能性も高いぞ<
「佐治」は、天子や王の治世を助ける事が仕事であり、
天子や王そのものではない。
>内陸(大和)まで行きたくないから出雲(邪馬壱)の女王にだけ会いに行った<
「南≠東」に拠って、×。
>>844 >男王を立てたが乱れて・・・中国による天皇下げの可能性高い<
何これ?。また分裂幻覚の妄想患者?。
卑弥呼の頃に、「天皇」なんて存在していなかった。
>>463 後世そう呼んだだけでしょ
なんか問題でも?
>>847 >卑弥呼は女王じゃなくて<
また分裂幻覚の妄想患者。
>出雲にいる天皇の姉だった可能性もある <
「天皇」はまだなかったし、
不彌國のすぐ南に「邪馬壹國女王之所都」があるんだから、
「南≠東北」に拠って、×。
>>850 >双方の前線の主将は伊和大神(狗奴国・吉備国)と天日槍命(卑弥呼)ではなかったか。<
「南≠東」に拠って×。
>>853 >卑弥呼が記紀に載っていない理由は天皇の単なる姉と考えれば納得がいく<
卑弥呼の頃に「天皇」なんて、存在していないから、×。
>>855 >テンプレをよく読め<
嫌だ。「南」を間違いの可能性がある、として置いて、
回り道をして「南は間違いだ」とするような循環論法男は、
一種の・・・・であり、そんな男の話は、読む気もしないし、
議論する価値もない。
>テメーの南≠東は99.9%正しいと言い張るが それは誤写の自論
テンプレ読め 誰も誤写と言っていない 誤認なんだよ 誤認<
誤認である確率も全くない、という事も説明してある。
「計其道里、當在會稽東治之東」と空想「短里」が
どうしょもなく矛盾することが証明されてるんだからな
「南≠東」が成り立たないことは確定なんだよ
>>857 >このことから 神功皇后摂政52年=西暦369年 が確定します。
神武天皇即位から、神功皇后の前の仲哀天皇までの在位期間846年になるので、これをたすと神武天皇即位から七支刀献上までは、「二倍年歴」では、
846年+52年=898年 となります。これを「一倍年歴」に直すと、 898年÷2=449 年
となります。 ここから、神武天皇即位年は、 369年-449 年=-80 年=紀元前80年
となります。 <
成程。書紀の七支刀を基準にされたんですね。
私の「約紀元前91年」は、二中歴の、
「年始五百六十九年内丗九年無号不記支干其間結縄刻木以成政
継体五 元丁酉(五一七年〜五二一年)・・・」で、
517−39−569×2=−660
が成立するので、569年が二倍年歴になっている事になる事から、
一倍年歴に戻して、」
517−39−569=−91になる事からです。
>>858 >神功皇后摂政52年=史実369年=伝承252年
369-[{252-1-(-660)}/2]=-86.5
神武即位は紀元前87年ではないか <
857さんは、
神功皇后摂政52年は、898ー660=238年頃(二倍年歴)とされた事になりますね。
252年とは14年差ですから、一倍年歴では7年差であり、ぴったりです。
252年とは、どんな情報から出て来た年になるんでしょうか?。
>>861 >つまり、卑弥呼がアマテラスなのではなく、
卑弥呼が伊勢に祀ったのがアマテラスだから卑弥呼をモデルにしているのだ<
卑弥呼を大和の「やまとひめ」にした時点で、「南≠東」だから、×。
>>475 ザラコクは正直言え
このスレが気に食わないのか
畿内説が気に食わないのか
もしくはこのスレ主が気に食わないのか
他の邪馬台国のスレの何故来ない
その程度の 能力か
>>865
>崇神天皇生誕 開化天皇10年
卑弥呼生誕 369-[{252-1-x}/2]=170 x=-147 開化天皇12年
崇神妃:尾張大海媛(おわりのおおあまひめ、意富阿麻比売・葛木高名姫命)
- 建宇那比命女(『先代旧事本紀』天孫本紀)
これが臭うな <
どうやら、858氏はssnであったようだな。
卑弥呼生誕を170年にしたようだが、
どっちにしても、「南≠東」で×だよ。 >>866 >倭人伝は出雲の人間にしか会ってないんじゃないか
ヤマトまで行ってない可能性が高いわ
出雲の官に詔を渡したんじゃないの
日本海側しか行ってない感じだ <
これも「南≠東」で×。
>>478 ツンデレのキウスさんからお誘いが来ています
w
>>873
またキョクウの・・・・の「筑波大学名誉教授 中 川 八 洋」の宣伝投稿ね。
>だが、ここで一つだけ喚起しておきたい事柄がある。
江上波夫は、北朝鮮の金日成に四回も直接会いに行ったように、金日成崇拝の“北朝鮮の犬”であった。<
確か、江上氏は、昭和天皇か?現天皇か?に講義しておられた筈。 うんにゃ
畿内説は破綻したのは
畿内の同和地区と邪馬台国国の關係が解明しないからね
>>483 あんた、唯一の持ちネタ「南≠東」が崩壊してんのに、何してんの?
>>876 >>「混一」作者は、実際に倭地に来ていないから、 「混一」の方が、半分×地図。<
>実際に倭地に来ていない陳寿の著書は?<
勿論、陳寿は「地図」を書いていない。
魏使らの記録を出来るだけ説明して、
それに対する自分の推定を地の文で示されただけ。
>>485 この日本語がおかしいのは
ニセスレを幾つも立てて
しつこく荒らしてる
いつものあの人だね?
>>907 >島を巡ったなんてどこにも書かれてない
九州説の言う所じゃ行とか至の途中移動の動詞がないから
これが史料事実であり史料実態である <
海上からや、海岸の港からは見えないような情景の記録があるから、
陸行して見聞した事になる。
九州説に日本語が不自然な奴が多いよな。
やっぱり朝鮮人は畿内説だと困るみたいだね。
>>491 「海上からや、海岸の港からは見えないような情景の記録」?
それって、何?
そんなもん存在する?
>>908 >度量衡で定義された丈尺寸分は固定だが それ以外は各地の定義を尊重する。<
三国志では、原則としては、魏朝や西晋朝の短里での記載であり、
漢代の里情報や引用文の里記載や蜀や呉での里記載の中には、
原文通りの記載を踏襲したものもある。
>魏の里は435m <
✖。魏朝の里は短里。
>東夷には東夷の里があり、<
東夷は、夷人だから、原則として「里知らず」。
>倭人伝によると70〜90mと推測される。<
いや、魏志は原則短里であり、郡の役人も短里を使っている。
>倭は日を持って量るということで 不弥国以降は里ではなく日で書かれている。<
そういう事にはならない。不彌國以降の
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。
又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里」
は、短里で書かれている。
>>909 >5〜6倍が正しいんでしょ?<
いや、勿論、原文通りで正しい。
>>497 九州説老人はこんなふうに
全く根拠を言わない
ただ、言い張るだけ
だから九州説が亡んだ
>>911 >東夷倭国、及び日本国では、 使用する里の定義において、 過去から一度も
中国里に合わせたことがない といってよいだろう。<
隋書段階で、一部の人を除いて、原則は「夷人不知里數、但計以日」であったらしい。
だから、倭国や日本国の里の使用も、原則は唐代以後の事らしい。
>>912 >誰が、どうやって推測したんだ? w <
使用里数で、対応する区間の距離を割り算して、
推測した。
九州説・・・
それは、まったく理由を言わない不思議な人たち
>>503 それは嘘だな
対応する区間の距離を測っていない
だから推測もしていない
>>913 >現在の中国では1里が500mとなったが、 いろいろと不便だったのか、 公里1里が1km、
欧里1里が1マイル。 要は里というのは距離の単位を表している以外は
時代や地域に合わせて変わるものなのである。<
関係がない。
古代においては、夷人は原則として「里」を知らなかったらしいから、
「里」を知っていた国家の上層部は、おそらく当時の中国里を使った。
>>915 >律暦志と正始弩尺から換算して魏の時代の1里は400m これが文字通りの史料事実<
正始弩尺は「里」には関係がないし、
魏や西晋や三国志などの「里」の確認をしていないらしい律暦志も、
半分×書であり、根拠にならない。
中国の史書が一貫して倭国を九州北部だとしているのに、畿内説は無視しすぎ。
纒向などは魏志倭人伝とは関係ない倭種にしか思えない。
>>507 律暦志に三国志などの「里」の瑣末な確認なんかする必要ないさ
国家公定の制度を記録してるだけだから
>>508 中国の史書が一貫して倭国を九州北部だとした
なんて証拠でもあるの?
>>507 >正始弩尺は「里」には関係がないし、
関係あるから単位系なんだが
>>917 >1里≒75mが使われていた音を示す史料は何も無いけどね<
周髀算経、淮南子、山海経、戦国策、介山、如淳注、三国志、魏略、江表伝、海賦、
梁書、隋書など。
中国以外の短里使用例は「古代史の歪みを正す」をどうぞ。
>>512 それらの史料の中に、1里≒75mが使われていたことを示す史料は、何も無いけどね
>>919 >魏志倭人伝見れば不弥国と邪馬台国の間に水行20日…と出てくるよ<
投馬國の説明は、側副傍線行程説明であり、魏使らは行っていないから、
倭人からの所要日数説明。
>>921 要するに、大和説者は、
邪馬壹國への行程移動説明が、まともに読めていないし、
「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・アホ集団だ、
ということですな
>>926 >倭人伝の数値が不正確って事は明白だからねぇ<
倭人伝の里数値計測が、始めから有効数字1桁近似の概数、って事は明白だからねぇ。
>>518 理由も言わずに
「ワシだけがマトモに読めているんじゃぁぁ」
って、耄碌以外のなんなんだ?
w
>>518 「南→東」が正しいんだという説明に
ぜんぜん反論できないで
ただ悪口ばっかりだね
悔しいのかい?
>>927 記載された里数値を、現実の地理距離から計算してみて、
してどのような単位を使ったんだろうか?と考えるのが普通であるのに、
既に決まったの単位しかないのだ、って考えるのは、
逆転の発想。
大和説は、逆転しすぎで根拠レスの・・・・。
>>524 嘘ばっかり
だれが現実の地理距離から計算してみた?
九州説は
俺は空飛ぶ円盤を見たんだぞー
みたいな話
ばっかりだね
九州説は、証拠を出さない生活習慣にどっぷり漬かってるんだよ
それが九州説の意見統一がとれない理由だってことも、まるで気づかない
>>928 >伊都国から奴国の100里って、たぶん1里=約400m使ってるよな<
大和説者らのような思想宗教にクルった嘘つき騙しの・・・・とは違って、
魏使らは、普通は、
変な事を書いたり、財務省や会計検査院のような嘘を書けば、
首が危ない事を知っているから、
短里的な記録と長里的な記録をごっちゃ混ぜにはせず、
統一した記録をするもの。
>>929 >初代天皇である神武天皇は、紀元前660年2月11日に即位され、 前585年4月3日に享年127歳で亡くなられた.
「前660年2月11日」は、日本書紀に記されている即位年月日の太陰暦「辛酉年春正月庚辰朔」(前660年1月1日)を太陽暦に換算したものである.
神武天皇の即位月日「2月11日」が祝日法で規定された祝日「建国記念の日」であり、「建国をしのび、国を愛する心を養う」日である.<
ほら、また、国粋皇国史観の殺し合い戦争狂の・・・・キョクウが現れた。
怖い、怖い、・・・・が怖い。
>>930 >神武天皇は邪馬台国で即位したんかな <
皇国史観国粋国家主義の殺し合い戦争狂の・・・・は、
歴史上に存在しなかった「邪馬台国」という嘘つき騙しの文言を使うから、
・・・・だとすぐに判る。
>>937 >奴国の南の狗奴国って明らかに宇佐とかあのへんの渡来人の村だよな<
その奴國は、「東南至奴國百里」の奴國とは完全に書き分けられているんだから、
(親族的な国であっても)違う国。
そして、宇佐は、不彌國の南の邪馬壹國女王之所都の東になるから、
「南≠東」に拠って✖。
>>939 >宋版「大平御覧」の「倭人伝」では、投馬が於投馬(エツモ)と書かれている。<
後代文書の太平御覧は、
魏志の「後代での解釈による内容説明的な書き換え」が非常に多い、
という半分×書である事が判っているから、
根拠にならない。
>これらの理由から、投馬国=出雲国だと思われる。<
「南≠東」に拠って×。
>>940 改めてみても、「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説なんて、
支離滅裂な解釈しかしてないよな。
理屈も自画自賛的なもので根拠が皆無だし。
>>534 支離滅裂な解釈しかしてない
自画自賛的なもので根拠が皆無
まさにザラコクのためにあるような言葉だ
会稽東治を無理やり北に移動させる理屈とか・・・
>>534 あなた、その「南→東」の解釈に
反論できてませんよ
>>942 >読み替えないとテンプレにある<
スレ主は、直接的証拠の「南」の問題を一旦棚上げにしておいて、
大和説にとって都合のよい状況証拠だけを採用して、
それで「南」を否定しておいて、
更に、西や北ではなく、「大和説に合うように東方向だけを採用」する、
という、循環論法的なインチキ騙しをしている・・・・詐欺師であるから、
証拠にはならない。
>>943 あらゆる分野のインチキ少数説を集めて、
「南→東」などに嘘つき騙しの我流解釈を加えたのが、
大和説 。
>>944 「南を東」に読み替える嘘つき騙しをした瞬間に終了する大和説。
読み替えなくても平気な九州説。
勝負あったな。
>>945 陳寿の会稽東治之東の推定で合っていたんだから、
魏使らや陳寿は方向を間違っておらず、
「南→東」は間違い、で確定だよ。
>>947 >魏志倭人伝の里は実際存在した里より5分の一の根拠が
魏志倭人伝がそう書かれてるからというのは 循環論法に当たります <
史料事実や史料実態を根拠にしてそれからの帰納的確率的な推論をする事は、
「結論先にありき」になっていませんから、
循環論法にはなりません。
循環論法になっているのは、スレ主の、
「南」という史料事実を否定して「東の大和」が正しいと仮定して、
「東の間違いだ」とした論法の方。
>>948 里とはそんなもんだっただろうけど 、
記録を残したのは魏だから、
書いたものは当然、「魏の里」=「短里」で書かれてる。
>>949 >魏の里で一致するところが無いよ<
勿論、計測は、概数であるから、「100%の完全一致」など有り得ない。
しかし、三国志の記載里は、大半が短里で大体あっており、
長里では全く合わないものばかり、
>>951 >自分的には邪馬台国は北部九州で、投馬国は日本海側の出雲連合説に一票<
「南≠東」だから✖。
自分的には、この男も、
「史料事実を否定する嘘つき騙しの・・・・大和説者である」
に一票。
>>953 漢文を否定曲解する犯罪者的な奴が、大和説になるのよ。
>>546 その頼みの綱
「南≠東」
が崩壊ずみ
残念でした
>>958 >証拠は? ???><
「南→東」の嘘つき騙し読みをしたから。
>>960 「通説大和説」側の漢文のプロを自称する詐欺師が訳した本に準拠したら、
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説が成り立っても、
まともな九州説まともなはなりたちません。
笑)
>>552 つまり、漢文のプロは全員畿内説ってことか?
わかってるようだな
笑)
>>961 それがどうかしたのか?。
当時の計測は、有効数字1桁概数程度の近似レベルであった、としても、
5〜6倍も違うような不正確な騙しではなかった、
という事実が明らかになるのみ、だよ。
>>967 >魏の里使ってる根拠がなくなるよ。
実際、文献では日本が魏の里を使ったことはないし。、
5〜6倍位も違う漢の里使ってる、なんて事であれば、根拠がなくなるよ。
実際、文献でも、日本が古代に漢の里を使ったに、ということは、殆どないし。
>>554 どう言う計算で?
まったく具体性なく根拠提示もなく、結論を言い張るだけだな九州説
w
>>968 倭女王の都がある国が(邪馬台国ではなく)邪馬壹國なのだと、
倭人伝に書いてあるのにね。
大和説の史料無視ぶりは、
実にひどいな。
>>558 それを誤字だと証明したのが
文献学者による史料批判
>>971 >くもにそびゆるたかちほのろっこーおろしにくさもきもーなびきふしけんなんたらかんたらーたのしけれ♪(うろおぼえ
じじいども今日くらいは旭日昇天の旗かかげれ(ひのまるでも可
んで邪馬壱の場所きまったんかー?<
やっぱり、アル中男は、国粋皇国史観の殺し合い戦争狂の、
・・・・キョクウの大和説者であったのか。
>>974 >九州説の人は、いつも理由を言わないから<
大和説者は、
「南≠東」や「有効数字1桁概数の方が、5〜6倍も違うものよりも正しい」
などという事が、判らないらしい・・・・ケダモノ人種だから。
>>976 >お? 東夷伝里のことでもめてるんやな?
周旋5千里は400m それ以外は100m弱
当然測量精度で多大な誤差はある(解決 <
アル中男も、「南→東」の嘘つきで、
「有効数字1桁概数の方が6倍も違うものよりも正しい」という事が判らないらしい、
・・・・アホの詐欺師であった、という事で解決。
>>562 現実と5〜6倍も違うから、記事にあるその数字は間違いだと言ってるのだが
>>562 人の話を聞いてないから
いつも間違う九州説
>>979 >まー100m弱の資料を陳寿君が丸写ししたんやろ?
但し陳寿君はその資料が1里400mと思てた<
陳寿君は、「計其道里、當在會稽東治之東」とはっきり推定しており、
その資料は1里=76.5m位の短里である、とはっきり思っていた。
>>980 国民の3割しかいない大和説者説は、結局やっぱり、脳死した。
>>989 根拠が乏しいって、
言い換えれば大和説に都合が悪いって事だろう?。
>>990 大和説は、「南→東」などの嘘吐き騙しの、分裂幻覚の妄想で出来ています。
九州説は、出典の示せないいい加減なことばかり言ってるなあ
>>991 >出雲説が現実味を増してきましたな(マジで ><
「南≠東」に拠って、✖。
>>993 >福岡の卑弥呼さんの親戚に山陰の壱与ちゃんがいた(解決><
陳寿は、女王國とは卑弥呼と壹與の同じ国だ、という認識を持っていたようだから、
「南≠東」で✖。
>>994 >狗奴は彦根の陸運会社! <
「南≠東」で✖。
>>996 大和説者は、投馬国の説明が「側副傍線行程説明」で「本行程ではない」という事が、
どうやっても理解出来ない・・・・アホであった、
という事が、
世間の人々にとうとうバレたらしい。
投馬国様様やでぇ 。
>>577 理由を言わなきゃ、他人は君の言うことを理解しないよ
ザラコクは古田の結論だけ信奉していて理由は知らないので、説明できない
>>64 >孝元天皇は(台与の時代か)、河内青玉繋(河内彦)の娘である埴安媛と血縁を結び、武埴安彦命が生まれる。
血縁を結ぶことで、狗奴国と和睦した可能性があるな。 3世紀半ば過ぎか。
卑弥呼は纒向だよ。ただ卑弥呼の墓は潰されたか作り変えられた可能性はある。
倭国大乱の象徴だからね。縁起が悪過ぎる。<
卑弥呼とか狗奴國とかを書いた瞬間に、
「南≠東」に拠って、嘘つきン騙しになるから、×。
>>67 >結局高齢厨の狗奴国が台予擁立説が正解なんだろう。<
孝霊は結局大和説であるから、
「南≠東」に拠って×であり、
不正解。
九州説全般に根拠がないんだよね
その証拠に、彼らは具体的な根拠を聞かれると逃げる
誰かがそう言ってた、という
流言飛語が一人歩きしてるんじゃないのか?
>>584 それは畿内説。
テンプレに依存するばかりで、誰も畿内説を説明しない、できない。
>>70 テンプレを、読みたくない気持ち、よくわかるぞ。
大和説が粉微塵だからな。
>>72 >クナ国との和睦が河内彦主導に見えるのがな‥
河内が寝返り、卑弥弓呼系は征伐された可能性は残るな。
むしろこっちが正解かもしれない。<
何か分裂幻覚妄想のような話で盛り上がっているようだが、
大和王家だけの話ならどうでもよいが、
卑弥呼や狗奴國の話にしたら、「南≠東」に拠って、×だからな。
>>76 >なんだかんだ言っても高齢厨は色んな事知ってるみたいだからな。
台与は国々を纏める為に擁立された姫だからな。
後ろ楯は必要でそれが狗奴国勢力。<
孝霊の応援をしている、という事は、
やっぱり狗奴國を大和付近に絡めている事になるから、
「南≠東」に拠って、×だな。
>>585 ウソついてもダメ
テンプレに書いてあれば、説明されてるでしょ
>>78 >問題は神武さんの関わり具合や? 出雲併呑は崇神以降やろ?<
梁書にも、出雲は文身国として、
(倭国や扶桑國や大漢國とは)独立的に書き分けられているから、
それまでは、出雲併呑は×だな。
>>588 その「南≠東」、×だな。
日本列島は会稽の東まで無いもの。
>>79 >で、最終的に狗奴国勢力が邪馬台国ことヤマトを掌握するという話。
なのでクナが国の語源にもなったと。<
狗奴國系は、姫氏であり、熊襲系であって、
倭奴國の天孫族の阿毎氏系ではないから、
「大和を掌握」なんて全くの無理筋であり、
「南≠東」もあって、×だな。
>>83 >ヤマタイはやはりヤマトを指すとみていい<
「南≠東」に拠って、×ね。
>>593 結局、反論は
「南≠東」
の連呼しか無いわけね
亡ぶわけだよ九州説
>>592 俺様の説と合わないからお前の説は間違いだ
というのは阿呆だけがする言い草
>>595 畿内説が根拠のないことを言いふらすから叩かれているんだろ?
箸墓古墳は主体部を発掘してないので
結論は出せないが、
周壕などの遺物は4世紀以降のみである。
松浦までで、実距離は中国の里の1/5程度であることがわかっている。
これを前提として5倍誇張説を仮定する。一里あたり87mである。
5倍誇張説の場合の計算結果と推定場所
帯方郡の場所
帯方郡黄海北道鳳山郡説より、帯方郡側の海州を起点とする。
帯方郡から狗邪韓国まで、乍南乍東7000余里 7000里/5=1400里*435m=609km 海州―釜山広域市 700km
狗邪韓国から松浦まで3000里 3000里/5=600里*435m=261km 釜山広域市−唐津 210km
松浦から伊都国南東500里 500里/5=100里*435m=43.5km 唐津―小城 38.3km
東南100里の奴国まで 100里/5=20里*435m=8.7km 小城―佐賀 10.1km
東100里の不弥国までの道 100里/5=20里*435m=8.7km 佐賀―大川 9.5km
南水行20日の投馬国まで 20日/5=4日*30里=120里*435m=52.2km 大川―玉名 47q
水行10日、陸行1月の邪馬台国
水行10日 10日/5=2日*30里=60里*435m=26.1km 玉名―緑川 26q
陸行1月 30日/5=6日*30里=180里*435m=78.3km 緑川―人吉 86q
侏儒國 南4000里 4000里/5=800里*435m=348km 熊本緑川流域―屋久島 315km
裸国、K歯国 水行一年 365日/5=73日*30里=2190里*435m=952.65km
熊本緑川流域-奄美大島 580km
熊本緑川流域-沖縄本島 824km
おまけ
韓地、方4000里 (4000里/5)^2=800里^2=(800*435)^2 =121104km^2
wikipediaより、
韓国 面積 100,210km^2
もしソウルから朝鮮半島南端まで7000余里を認めるとすれば、あとの5000里で行き着ける場所は九州をでないことになる。
朝鮮半島下端から対馬が100km、対馬から壱岐が85km、壱岐から唐津が70kmなので平均85km、
これが1000里に等しいとすると1里は約0.085km(85m)ということになる。
一里が0.085kmとすると12000余里が1020kmとなり、ソウル−宮崎間経路の長さとほぼ一致した。
またソウルから朝鮮半島南端まで7000余里も経路実測625kmだったので、625÷0.085=7353里でほぼ一致した。
>>602 帯方郡黄海北道鳳山郡説なのに
帯方郡側の海州を起点としちゃダメだよね
人吉は豚の骨かじりならケンミンショーで見たことがある
>>605 矛盾?
ソウルから距離測ってたんじゃ、デタラメそのものだろうに
>>605 北朝鮮から来た旅路にソウルからの距離を使う矛盾
>>603 >朝鮮半島下端から対馬が100km、対馬から壱岐が85km、壱岐から唐津が70kmなので平均85km、
それ、どこから何処を、どうやって測った数字?
それっぽい数字が出て安心の九州説
実際には何の意味もない数字なんだけどね
>>612 逆に、それっぽい数字を出すために
やらかしたインチキが明るみに出て
九州説が自滅してるし
>>84 これも、分裂幻覚妄想ばかりのようだが、
狗奴國を河内にしているから、
結局「南≠東」に拠って×。
出したい数字から比定地を決めれば、1里を何mにするも自由自在w
w
>>614 その「南≠東」が、もう論破されてますが?
>>85 >女王国が何度も朝貢して、やっと親魏倭王、倭国とお墨付きをもらう。
倭国の正統を継ぐものか疑われていたんだろう。<
親魏倭王を貰ったのは卑弥呼であり、
貰うまでは、「何度も朝貢」していないから、×。
>>86 >親魏派の「21国」の中に、「巴利(はり)國」があります。
この国が播磨を指すことはほぼ確実でしょう。
巴利国と狗奴国は瀬戸内海を挟んで対立していたわけです。<
「21国」は、「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」と書き分けられてある事と、
「南≠東」に拠って、これも×。
>>89 >伊吹山の神は、大和朝廷と最後の最後まで戦い抜いている。
環大阪湾の倭人、丹後半島を追われたヤマタノオロチ族、出雲の神庭を追われた出雲族が協力して作ったのがクナ。 <
これも最後に「クナ」と言ってしまった瞬間に、
「南≠東」に拠って、×になり、
全部の信頼性が無くなってしまった。
>>90 >旧唐書では疑われたまま、 結局倭国認定はされずに 日本国になってたね。<
この男もまた変な騙しをしようとしているね。
旧唐書も、
「倭國伝」と「日本国伝」とを書き分けているんだから、
倭国と日本国とは、別のもの、という認識であった事になり、
この男の分裂幻覚の妄想は、×。
>>620 旧唐書は同一人物の伝記をいくつも載せてますが?
かれら、別人なんですか?
>>602 データがそもそも合ってるかのように都合よく操作されている
>>97 >八十島祭。 天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀と書かれてある・・・<
大和政権が「天皇」を称したのは、天智が最初であったのであり、
だから、天智以前の大和王に対して「天皇」という呼び方をしたものは、
全て×である訳で。
>>98 >クナ、倭国建国は1世紀中頃かな。 畿内に・・・<
これも、「南≠東」に拠って、×のようだな。
>>190 1歩≒1尺なんて
1cm≒1mみたいなもん
そんなおかしな距離表記世界中探したってないな
>>101 >そうだろうね。 卑弥呼が本当に倭王なのか、魏は半信半疑だったのだろうと思う。<
「半信半疑」なんて、妄想のし過ぎ。
>>214 なら邪馬台国は単一の国と認めるって事だな
これで九州説が繰り返し主張してきた
邪馬台国は伊都国が中心の九州北部連合説はおしまい
>>108 >ガは牙。 旗を掲げた軍事拠点。
敦賀、甲賀、伊賀。クナの境界線。
敦賀〜伊吹山〜甲賀〜伊賀。<
「クナ」を入れた時点で、「南≠東」に拠って×。
>>234 長里いわゆる普通の里は律暦志と正始弩尺で1里400mと確認できるから
ちゃんとした根拠にできる
短里がある事を短里で書かているとする書そのものが証拠だとするのが
循環論法
意味がよくわかってないのに循環論法言っても周りにはすぐバレるからな
>>115 >奈良盆地も元々はクナの版図。・・・<
これも「南≠東」に拠って×。
>>117 >さすが、いいかげんな史書<
旧唐書も唐会要も新唐書も、倭國と日本国とを、
伝を分けて書き分けている事になるから、
この男も、嘘つき騙しのいい加減な男であり、×。
>>250 こういう誰が見てもおかしいってわかるデタラメは
九州説の主張はおかしいって周りに宣伝してるようなもの
>>122 >当時の里ってかかった日数をあとで換算かなんかしたんだろうなー <
魏代には、一寸千里や記里車や簡易三角測量や歩測などの計測法が存在したし、
魏や郡の役人の計測記録が存在するから、
この分裂幻覚妄想の・・・・男も×。
>>636 それらの史料を読んだこと、ないのが
モロバレ
w
医師・古川優樹は今年4月、愛知県名古屋市のホテルで、当時17歳の無職の少女に現金3万円を渡してみだらな行為をしたとして逮捕されました。
愛知県警によりますと、古川容疑者は知人の16歳の少女にツイッターで「16歳か17歳の女の子を紹介してくれたらお金あげるよ」とメッセージを送り、
17歳の少女を紹介してもらった見返りに現金約2万円の報酬を渡したということです。
古川容疑者は取り調べに対して容疑を認めているという。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170827/k10011114441000.html
古川優樹の勤務先電話番号
058-389-2228
古田説が歴史学者のあいだで全く相手にされてないのは、利権がどうのこうのじゃなくて、真っ当な理由があるんだよ
多少なりと歴史知識がある者にとって、ばかくさいのさ
>>123 大和説の常識は、
世間のそれや、国民の投票結果と、
随分違うんだね。
>>124 「南→東」などの嘘吐き騙しのような、
間違った知識が 、
間違った大和説を生んだ。
>>125 地名を根拠にするんなら、
本来は、列島全体の地名や東アジア位までの、全体の地名に当たらなければならないのに、
孝霊は、奈良盆地の旧地名に関してばかりを論拠にする「似非地名専門家」だそうだから、
孝霊の地名論は、全くの✖なんですよね。
>>646 所詮、畿内説なんて結論先にありきで、どう辻褄を合わせるかの世界だからね。
>>128 >百里とかは、ざっと歩測してんじゃないの?<
歩測以外にも、記里車でもよいし、
可視出来れば、簡易三角測量が出来る。
>>643 おかしなアンケートを国民の投票って、藁
糸島説も博多説も、熊本説も鹿児島説も
相容れない有象無象をぜんぶ足したら畿内説より多かった?
あほらし
統制とれない雑兵達が竹槍持って剣豪に挑んでるみたいな姿だな
>>648 そうね
三海峡や半島西海岸とはワケが違うわな
>>133 >(孝霊)倭人伝の記述で山を用いないのか、という 疑問が残るだろう。
一方で山に丹あり、なんて表現しているからな。<
この男は、何を変な事を言ってんだろうかねえ?。
中国人は「山」を「ヤマ」と発音した、
とでも言いたいんだろうかねえ?。
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畿内説を唱えてるプロの学者と
九州説の素人爺さんじゃ
もっと差はあるな
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>>653 こんどはナリスマシか
九州説は懲りない犯罪者予備軍だ
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>>166 少なくとも九州説者は、
「南→東」などの嘘を付く大和説者らよりはまともだよw 。
畿内説を唱えてる素人爺さんと
九州説のプロの学者じゃ
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>>175 >>「辺境までの観念的距離」の出発点自体が全く違っている。<
>ダメだよ。 淮南子の出発点は洛陽じゃないんだよな、残念!
「東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太r、句芒之所司者,萬二千里。」<
また変な男。
中国地域での出発点がバラバラだ、と言ってんだよ。
淮南子のも、出発点が碣石山であるんだから、山東半島が出発点ではないか。
20日本@名無史さん2018/02/09(金) 13:33:03.75
このスレには書き込まず、下げて落としてください。
よろしくお願いします。
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21日本@名無史さん2018/02/09(金) 14:02:39.95
>>20 乱立させんな、ボケ爺
先に立てた方から消化しろ
そして、乱立スレ消化したら、古代学板逝けよ
邪馬台国論争に負けた九州説が
悪質な荒らしを始めた
w
>>181 >制度は決まりごとなんだから、個々の記載実態なんて関係ない<
「制度」と言うんなら、律暦志は、
魏の初代文帝の即位の詔書の「度量衡の統一」や、
重臣たちの「周制への復古」の上表の事も、
確認していなければならないのに、
それもやっていない。
邪馬台国論争もかくあるべき
三笠宮崇仁
神武天皇即位が今年(昭和34年)から二千六百十九年前であったということも,即位の日が正月元旦であったということも,いずれも後代の人の作為−−もちろん悪意によるものではないが−−であったことは明らかになった。
したがって,その架空の年月日を太陽暦にあてはめた2月11日もまた架空の日であることは当然であって……。
歴史の研究は年代の枠を土台として進められる。
もしこの土台に少しでもゆるぎがあったならば,いかにみごとな歴史を組み立てても,それは砂上の楼閣にすぎない。
私は重ねて歴史研究者として,架空の年代を国の権威をもって国民におしつけるような企てに対しあくまで反対するとともに,
科学的根拠,いいかえれば今まで考古学者や文献学者が刻苦精励,心身をすりへらしてまでも積みあげてきた学術的成果の上に立って,改めて日本古代の神話継承の研究をさらに押し進めるような感情論から,
学問研究の百年の計を一瞬にして誤るおそれのある建国記念日の設置案に対して深い反省を求めてやまない。
>>197 「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者は、
そんな偽の歴史をねつ造しちゃダメだよ。
>>672 そんなもの現代の九州王朝説の創作なので、後世の人があとから作ったものを昔の人が確認することなど物理的に不可能
>>204 デタラメなのは、「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説だけだ。
>>1
乱立させんな、ボケ爺
先に立てた方から消化しろ
>>207 >本来1里は400mやろ?ちゃうんか? <
文帝が度量衡の統一を命じ、
重臣たちが、(始皇帝の1歩=6尺の度量衡を選択せずに)、
「周制の復古」を上表し、
周髀算経の一寸千里の法は、1里≒76.5mだったの。
>>210 >1000ってガセネタが書いてあるだけだな <
韓の「方四千里」や高句麗や扶余などの「里」が郡の役人らの計測であるし、
陳寿の「計其道里、當在會稽東治之東」も、
やはり「1里≒76.5m」の短里を使っている事になったの。
>>211 行程バカは、「南→東」などの大和説だけ。
>>213 ありゃ?、りゃ?、大和説の倭人条解釈は、ガセネタだらけかー。
ということは、100歩も、ますます信用度100%やな。
>>216 靴買って、
サイズが違ってたから使うのが九州説。
足の指を切って使え、と言うのが言う大和説。
>>220 大和説には、「南→東」などのように、
全てにおいて嘘つき騙しをするしかない。
みじめだな。
九州説の講義を聞いてるみたいなスレだな
なんとかならんもんかな
>>672 普通の考えを持つ人ならそんなもんなかったからと思うよ
>>222 大和説諸君、
「南≠東」だっていう九州説側の説明に、
ぜんぜん反論できてないけど?。
>>230 結局、史料事実を否定曲解して、口先で悪口しか言えなくなるのが、
大和説の限界。
>>256 すごいな。
スレ主や大和説者の言うことは、真っ赤なウソばかり。
ここまで徹底するって、凄いことだよ。
それは、スレ主や大和説者や読売産経などの右翼マスコミだけじゃなく、
安部文部省や、学会教育界や、朝日などの中立系マスコミの社内にもいる、
にもいる、
って事が、もっと凄いよ。
>>259 大和説諸君、「南→東」など史料事実の否定曲解は嘘つき騙しだ、
っていう九州説側の説明に、ぜんぜん反論できてないよね?。
東もダメじゃ、、大和説、もう終わりだろ?。
>>260 「青龍三年」銘方格規矩四神鏡は、
明帝の詔書のすぐ前のものだから、明帝の鏡である可能性が十分あるし、
21枚の「尚方作」方格規矩四神鏡は、
更に明帝の魏朝の工房で造られたの鏡が元になっている可能性が非常に高いし、
破鏡している位だから、渡来して来た呉系の楽浪鏡師らに副葬用の簡易鏡を造って貰った、
という可能性がある事を、
柳田は、全く「触れない」ようにしているんだから、
こりゃ、柳田には近畿の京大系の大和説学者らからの圧力があった、
にという事だろうなあ。
という事は、これは、
「三雲の庄内の方が那珂八幡付近より古い」という事を引っ込めたのと同じパターンであり、
だから、明帝→卑弥呼の下賜鏡の可能性には、敢えて言及していなかったんだね?。
>>262 >国産だと言ってるよ <
呉系楽浪鏡師にしても、倭人の「ホウ製鏡」担当者にしても、
独自に「尚方作」なんて文言を刻む可能性は、全くないよ。
>>274 九州の別種の旧小国の大和は、
九州の東征のおこぼれを頂戴して、
何でも真似て追いつき追い越そうとして、
そして大和にも古墳時代が始まった。
単に、そういう話だよね。
>>278 >>調査後「製造技術が164年以後、以前に見られる鋳造・研磨技術である」<
>チガウダロ 青龍三年鏡と同等の技術と判断してたはず<
それなら、柳田は、
21枚の「尚方作」鏡が明帝の下賜鏡である可能性が高い、
という事を知っていた、という事になりますね。
>>279 >違うよ。
ストローだった九州が呉や公孫氏からの輸入物資を横領して中央政権に反乱を企てたが、
中央政権が敵(反乱軍)の味方(呉や公孫氏)の敵(魏)に繋ぎを付けることに成功して>、
形勢を逆転したというお話だよ。<
はいはい、何の根拠も論理もない、凄い「分裂幻覚の妄想」の、
大和説者の説明だね。
>>285 >奈良時代の頭初に、大和朝廷から朝貢された記録がある旧唐書では、
日本は元小国でのちに倭国を併合した、とあるから
彼らも倭国を併合する前は、大国でないことは自覚していたわけですね<
成程。
>>286 理由もなく、間違いだ、間違いだ、とか、
はず、はずって、
大和説者って人種は、はずかしい人だね。
>>287 >あるいは倭国が日本と改名した、とも 書いてるんだが? <
それは、倭国伝と日本国伝とを書き分けた上での、
「倭国」に関しての改名譚のしての存在の記載なんだが。
そして、釈日本紀が、
倭国が晋の惠帝への遣使が「日本国」を、始めて?名乗った、
という情報を、ついうっかり書いてしまった。
>>692 ザラコクの言ってる史料事実って史料事実じゃねーぞ
伊達郡の川俣町という掲示板、読んでみた?
他のサイトだったかな
むかーしの皇族、
むかーし皇族が何やらと言ってる人がいない?
遊びに来た、泊りに来たとか
うまやど関係の話?
それとも神族、帝族、王族?
むかーし、もれ(仮)の父親も行ったことがあると言っていた、
たしか、お菓子屋のようなものがあってw黒飴関係?
兄も行ったことがあると言っていたり、
子供の頃だから、あまり覚えていないとか
ほとんど合致している
兄、まらdーなと同じ、10月・・・生まれ
生まれた年は違うけどw
このような黒飴なんか作っていたと言ってる
「●」丸いやつ
家の親戚が、
そこに嫁に行っているとか、
たしか羊羹なんかも作っている
飴じゃなくて、丸い羊羹だったかな
ちなみに家は
キュウリの葉、葱の華・・・などの写っている、
謎の写真があったでしょ、その写真の家だよ
親戚が飴、羊羹なんかを作っているところに
嫁に行った
>>288 >日本は元小国でのちに倭国を併合した、は使者からの聞き取り調査で、
あるいは倭国が日本と改名した、というのは唐の推測ですね<
また、史料事実を捻じ曲げたウソを書くな。
「其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉」だから、
唐側は、日本国の使者のいう事を信用しておらず、
だから、
「日本國者、倭國之別種也。
以其國在日邊、故以日本爲名。
或曰、倭國自悪其名不雅、改爲日本。
或云日本舊小國、併倭國之地」
という、「大和日本国がずっと列島の盟主ではなかった」という実態を、
大和日本国の主張に逆らってまでして、書けたんだよ。
>>714 >大和日本国の主張に逆らってまでして、書けたんだよ。
それ、ウソ
「或曰、倭國自悪其名不雅、改爲日本。
或云日本舊小國、併倭國之地」
って書いてある
どっちも日本国の使者が言ったことだと読める曖昧な記述だ
>>696 >呉系楽浪鏡師にしても、倭人の「ホウ製鏡」担当者にしても、
>独自に「尚方作」なんて文言を刻む可能性は、全くないよ。
バチモノは何でも平気で書きます
>>291 >>古墳時代まで含めた前方後円墳の数も、 奈良はそれほど多いわけではなく、
最も多いのは千葉県で、 福岡は4位、奈良は8位である。
奈良県が前方後円墳発祥の地というのも疑問である<
>疑問ではなくあんたの願望だな。 実際そうなんだから仕方ないだろw <
「日本國者、倭國之別種也。
以其國在日邊、故以日本爲名。
或曰、倭國自悪其名不雅、改爲日本。
或云日本舊小國、併倭國之地」
という、「大和日本国がずっと列島の盟主ではなかった」という事が、
中国側の認識であり、史料事実や記録であったんだから、
仕方がないだろ?。
「或」列挙で、どっちも疑ってるのに
片方だけ勝手に中国側の認識って決めちゃダメでしょ
>>303 >確かに青龍三年鏡との比較だったね
この鏡が技術的に平原より新しい物という意見だったかな
しかし、その根拠は薄いと感じたよ
そもそもこの鏡も国産の可能性も多いにあるし、技術面についてもわずかな差なので、作成場所が違うなら一概に言えるものではない
それで、不思議に思ったのだが、
柳田さんは平原の鏡を「国産」としているのだが、技術面での考証はあくまで「中国の鏡の技術変化」で考証してるところが気になったんだよなぁ
平原はすでに最大の内行花文鏡を作成する技術がある訳で、国産ならば国産の鏡技術として年代考証すべきと思うのだがね <
成程、ですね。
>>313 >柳田は伊都国東遷ありきで理論付けしてるから信頼性は低いね <
成程。
ほとんど同じ、サルタヒコというスレも同じ
「九州の話はしていません」と言ってる人がいたり
他の人の家の話を、
まるで自分の家の話かのように・・・・
以前から書いている
『我田引水』
『印象操作』(プロパガンダ)=『我田引水』と言っている人もいた
これは刑務所に行くか(死刑)、
自殺か・・・それしか道は残されていないだろう
それと、この話だよ、力夫氏のwiki
>『ワシントン』に上告するかに対して、それまですることはないと答え
何の話なんだろう
『ワシントン』
標語 : "Justitia Omnibus" (Justice for All)
"すべてに正義(公平)を"
うまやど、法などの話?
>>341 >当時使われていた1里400mに当てはめると
邪馬台国がニュージーランドになるから
邪馬台国だけじゃなくて他の辺境の国でも同様に過大な記述が見られるから
魏の都洛陽から遠く離れた地は距離が不正確だったという事がわかる <
梯儁等の報告に拠って、張政等も倭國に来れているし、
陳寿も、「計其道里、當在會稽東治之東」というほぼ正しい位置比定が出来たんだから、
「1里400mに当てはめる」という事が失敗で間違いであった事が判り、
それだけでも、短里が使われていた、という事が判る。
>>728 ダメだね
「短里」とやらじゃ、会稽の東までも届かないよ、らは
当時使われていた1里400mに当てはめると
邪馬台国がニュージーランドになるから
いかにも万里を七三で振りました的な七千余里や渡海三回の数字はフィクションで、南水行は東の誤認
陳寿は倭国が台湾くらい南の国だだと思ってたことが裏付け証拠
実にシンプルな解決でしょ?
>>342 >否定される 初元ではない
同じ菱環鈕式でも出雲が多くなるのは2〜3期 1期に多いのは四国 <
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/dotaku/dotaku08.html#dotaku08 に拠って、四国が否定される。
そして、出雲での大量出土、という事実は、
菱環鈕式の中心地であった事が確実であり、
2〜3期では、1期の銅鐸の再溶融がなされて1期が減った、という可能性が高い。
>>343 >根拠が全くない、倭国は大和だし。<
「南≠東」だから、×だし。
うまやど・・・
あまり良い存在ではないような気がする、wikiなどを読むと
天皇が何やらと書いてあったり、中心とした国?
きち▢いの話
天皇の意味、捉え方の問題もある、
どのような意味なのか?とか
とある時代〜現在のような話ではないというのは確実
『聖化 日神 日霊 津』
>>349 >ヤマタイとはヤマトだね、<
「邪馬壹」は「ヤマタイ」でも「ヤマト」でもない。
>隋書倭国伝に書いてあるだろ。<
後代の唐代の魏徴らの「勝手な解釈」の説明記載など、何の信頼性もない。
>九州にあるのは伊都に奴国、投馬国が出雲、丹波。 これで確定だよ<
「南≠東」であるから、×。
この男が、嘘つき騙しの・・・・詐欺師である事が確定。
>>352 >東征とか痕跡がないから。<
宋書の倭王武の上表文が証拠そのもの。
記紀のついうっかり証言などや、
常陸風土記の「倭武天皇=倭王武」や、
吉備や播磨や大和などの銅鐸祭祀の減少や焼失などが、証拠。
>九州は成敗される対象です。<
大和は、征服された地域です。
>>728 短里で書かれたらしい記録があるから短里はあったとする事は
循環論法になります
>>732 >菱環鈕式の中心地であった事が確実であり
分布が出雲、淡路、播磨、伊勢、越前、尾張(鋳型)なのに
どうして出雲中心が確実なの?
>>737 あんたの想像だけが根拠って
・・・そりゃダメでしょ
>>738 魏志倭人伝や後漢書や魏略が、倭については短里で書かれていることは確かだよ。
>>741 結論だけ連呼って、九州説のひとはみんな馬鹿なんですか?
>>742 これを循環論法とするなら君は東夷伝は明々白々短里で書いてあると認めていることになる。
一方で、君は東夷伝が短里で記されていることを否定しているようにも見える。
仮に東夷伝に短里が定義され、もしくは明々白々短里と記され、「東夷伝のみ」を用いて
短里だと結論付ければ循環論法と言えるかもしれない。
しかし、東夷伝に書いてある里程を整理し、陳寿の知り得なかった「現実の地理」に照らし合わせて
測量精度を考慮しつつ観察した結果が「80〜100m程度の単位で記されている可能性が極めて高い」
という推論であり、この推論を以って通説は「東夷伝(倭人伝)は短里で書かれている」と
表現しているのであって、これは循環論法とは言わない。
「里=約100m」
ダウンロード&関連動画>> >>353 >当時は中華思考に天動説、
しかも球体とも認識してないので 基本的に遠方の方角認識は今とは違うのにな。<
方向認識の原点は、日の出日の入りで東西を決める事であり、
それは中華思想にも関係なく、現在までの全人類の共通認識。
勿論倭人も知っていた事。
>方角間違い説でもはや何の問題もない、<
方角間違い説の大和説者は、もはや人類でもなく、
ケダモノ以下の・・・・のような存在。
>ヤマタイとはヤマトの事。<
邪馬壹も邪馬臺も、筑紫にあったのであり、
「ヤマト」説は×。
>>746 理由もなく言い張るだけが九州説か
左前になるわけだよ
w
>>354 古田さん時代以前の古い古代史学と違って、
古田さん以後では、考古学的な環境も全く変わっているのにな。
正直大和説だけでなく、筑紫説以外の九州説全般でも、
今では矛盾した話にしかならないから。
大和説者らの頭の中は、45年前頃で止まってるんだろ。
>>748 古田の存在は考古学に影響なし
歴史学にも、無いけど
>>356 でも「南≠東」って、
大和説者は、このお前の投稿も含めて、
論理的な反論が全く出来ずに、口先で「否定された」と言って逃げているだけで、
誰も反論が出来ていない状態でしょ。
>>358 東夷伝の里に関しての、
周髀算経や淮南子の一寸千里や、漢書の如惇注や介山や、三国志内の大半の記載や、
海賦や、江表伝の?赤壁などに書かれているから存在すると言うのは、
(東夷ではなく)中国内の情報を根拠にしての帰納的確率的推理論ですから、
根拠と結論の場所も内容も違うのであるから、
循環論法には全くなりません。
>>750 ?
>>731で理的な反論されてるでしょ?
九州説老人は思い込みばかりで
ひとの話を聞かないんだね
古代史“捏造のドン”井上光貞に全面降伏した“保守”なき日本 ──「津田左右吉+江上波夫+水野祐」+スターリン32年テーゼ=“古代史捏造のドン”井上光貞
http://nakagawayatsuhiro.hatenablog.com/entry/2018/02/11/151152
筑波大学名誉教授 中 川 八 洋
“狂人”水野祐のスーパー迷妄書『古代王朝史論序説』は、1952年の私家版として自費出版された(100部、謄写版)。
これを贈呈された井上光貞は「感激した」との礼状を返信している。
水野祐のスーパー狂気の嘘歴史は、次の三つからなる。
第一は、神武天皇から推古天皇までの33代のうち、実在したのは16代に過ぎない。初代・神武天皇から第9代・開化天皇までの9代は津田左右吉に従い不在。
第11代・垂仁/第12代・景行天皇も不在。安康/清寧/顕宗/仁賢/武烈/宣化天皇の6代も不在。よって、
「33代−9代−2代−6代=16代」が実在した天皇だという。読者は嗤わずに、水野のさらに続く狂説に耳を傾けよ。
狂人の話を熟考・精査せずして、狂人を殲滅できない。
水野の第二。「仲哀天皇は、九州島に遠征の途次、戦死。これによって大和朝廷は瓦解。代わりに九州に「九州国家」が誕生。
これこそが、『魏志倭人伝』に言う(卑弥呼「邪馬台国」が苦戦を強いられた)「狗奴国」である。
そして、「狗奴国」とは、北方系騎馬狩猟民族の血を引く(高句麗の北に跋扈した)扶余と同族。
そして、この「狗奴国」すなわち「九州国」の首長こそが“外国人・仁徳天皇”で、首都を九州から摂津国の難波に遷都した。仁徳陵は、その名残である。
第三。上記の歴史は、天皇の諡号を分析するだけで充分に明らかである。
つまり、前代未聞の荒唐無稽な上記歴史を裏付け証明する文献史料や遺跡なんか何一つ要らない。天皇の諡号を解読すれば、
暗号を解読する如くに、上記の妄想歴史は“あら不思議や”白日の下に史実となる。
「“外国の侵略者”仁徳天皇の難波侵攻に摂津/河内/和泉/大和の古代の日本人は何一つ抵抗せず、
諸手を上げて歓迎した」ことは、言わずもながの自明の歴史だ!・・・・・。
これほどまでに精神病院に収監されるべき重患者・水野の狂説は、要するに、
「血統の連続が無い、統治機構の連続もない、戦争や侵略による二度の断絶&新支配からなる三王朝交替」説と言える。 >>742 結論だけってw、読めばわかるじゃん。
都合が悪いから認めたくないだけでしょ。
地図と照らし合わせて自分で読むといいよ。
>>364 こんなふうに妄想を言い張るだけで、
根拠をまったく言わないのが、
大和説という新興宗教だな、
>>366 こんなふうに、
何も証拠がないことばかり言い張り、
「南→東」などの嘘つき騙しをし、
口先ヘイトスピーチで、九州説を誹謗罵倒るのが、
国粋皇国史観のキョクウの・・・・大和説者。
>>370 大和説者は、長里説者というよりは、
国粋皇国史観戦争狂の・・・・ケダモノのノータリンだな。
>>372 「南→東」などの嘘つき騙しをし、
桐原詐欺師や尿入り一升瓶の和田キヨエらとつるんだり、
キョクウの人種差別的ヘイトスピーチをしたりするなど、
大和説者、という人種は全く信用できん。
>>757 ほら、また立証せずに逃げ回る
だから九州説はゴミなんだよな
>>758-761 追い詰められると、こんなウソをつく
だから九州説はクズと言われるんだよ
>>762 自分の目で確認したら?
おつむ空っぽ?
>>376 魏の役人や魏使らや陳寿が関わった場合には、方角間違い例なんて全くないし、
倭人が関わった場合にも方向間違い例はない、ようなのにな。
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説学者らは、余程のバカなんだろう、
というより間違いなくバカ。
>>377 >世間の誤解を解かないといけない。
邪馬台国はヤマト国、葛城山系以東の奈良盆地一帯です。
邪馬台は単なる地名です。
ヤマトの地が卑弥呼を共立した勢力に征伐され、都が置かれました・・・<
てなことを書いた瞬間に、この男も、
「南→東」などのように、史料事実を否定曲解する嘘つき騙しの・・・・アホであった、
という事になる。
>>379 >正解だよ、東北のほうに本拠地があった。 いまもそうでしょ。<
不正解だよ。
大和政権は、白村江までは、
筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であった、
と自称している事になるから。
>>744 何か誤魔化そうと色々言ってるけど
この本は短里で書かれた可能性が高い
だから短里は存在する
なぜならこの本は短里で書かれた可能性が高いからというのは循環論法
潔く認めたほうがかっこいいぞ
>>399 魏志に書かれた数字は、
「比率か大体一致」していて、大体同じ里単位で書かれている事になり、
おかしくないだけでしょ?。
何が不満なの?。
>>769 一律に間違ってるかも知れないから
そうでないというなら短里は1里75m、短歩は5m…と
体系がはっきり書いてある何かがないと証明できない
>>768 そうではない。
現代の地図と比較してそれくらいの尺度が用いられていたということ。
>>770 一律に間違っているというよりも、そういう単位が使われている地域であったと。
>>770 古代の単位を解き明かすために、そんな解き方をする方が稀。
実際に測られたものがあるなら、それと数値を比較すればいい。
地形は現代でもおよそ変わらないのだから。
>>771 >>772 それなら1里75m、1歩25cm…と体系の書かれた何かを出せば証明になる
魏で使われてた1里400mの長里つーか普通の里にはそれがあるし
それと大幅に食い違ってるから計測ミスじゃないのって言われるの
>>773 なんで、そういう単位があるならその体系が書かれてる書がないと
中国の歴代の里の長さはどれくらいかは
それぞれの時代の度量衡を記した律暦志と尺ってモノサシから
割り出されている
短里にはそれがないから存在しないのと同じ
短里とは現代の感覚でいえば100mの所が計測機の故障で
全部50mと書かれてある地図があったとする
それを見て普通の半分の短メートルがあったと主張してるようなもん
>>775 >短里にはそれがないから存在しないのと同じ
実際に使われていたのだからしょうがない。
また、短里を測る物差しがあったとしても、考古学者は短すぎてそれだとは気づかないかもね。
>>776 東夷伝全体でそうなら、東夷のあちこちにその違う尺が共通で用いられていたんだろうと考えるよ。
>>777 証明できない物はないのと一緒
短里で書かれてるはずの距離を
そう書かれてるからあるとするのは循環論法
>>401 >奈良時代以前の中国古文献において
日本国内の行程を 魏の里で表記したものは存在しない。<
嘘を付くな。
魏志以外にも、漢書の如惇注や、魏略や、後漢書や、梁書や、隋書が、
「魏里=短里」で記載されている。
>倭人伝での表記も、実距離の5倍程度と乖離しており、魏の里で表記したとは言えない。<
魏使らや陳寿が記録したのは、「魏里=短里」だ。
>>779 事実を無視してそう思うならかってにすれば?
>>768 > この本は短里で書かれた可能性が高い
「80〜100m程度の単位で記されている可能性が極めて高い」という推論が成り立つのは理解できるだろうか?
君はできないとしても、少なくとも松木さん含めて多くの人間は理解している。
この推論を得て九州・畿内説問わず通説では「東夷伝は短里で書かれている」としている。
それだけの話。
循環論法というような数学や論理学の話ではないよ。
推論が納得できないと言うならそれ以上はどうしようもない。
「里=約100m」
ダウンロード&関連動画>> >>407 >「尚方作」鏡なんかで、何で3世紀半ばの卑弥呼以後の墓である事が判るんだ
お前の妄想で世界は動かない<
個人が一枚の「尚方作」鏡を所有したり、
一般鏡師が一枚位の、偽の「尚方作」鏡を造る事はあっても、
21枚ものまとまった「尚方作」鏡を、列島の墓に副葬されるような事は、
明帝の100枚の銅鏡が元になった、という鏡でなくては、存在し得ない。
>>783 ああ律暦志に1里=300歩=1800尺
見つかってる尺の基準のモノサシ正始弩尺が24cmの事実こそ
無視できないからそうさせて貰う
>>408 大和説の思考原理は、
「南→東」などの嘘つき騙しのような、思想宗教に狂った人種に特有な事だから、
一般人には解らないものが多いんだよ。
だから、国民の7割に拒絶されているの。笑)
>>784 いくら1律80〜100mで書かれていようとも
そう書かれてるからそれが存在するというのは循環論法
こればかりは誰にもどうしようもない
>>409 21枚もの「尚方作」鏡だから、
(個人ではなく)魏の工房で造られたものが元になっており、
明帝の下賜鏡でしか起こり得ず、
魏朝が採用しなかった三角縁神獣鏡は、明帝の下賜鏡に採用される、
という事は起こり得ず、
アルツ老人大和説学者の思考はわからんわ。
>>410 >パプアニューギニアは800以上の少数部族、言語に分かれている
パプアニューギニアにはおサルさんから感染したHTLV-1キャリアも九州西部南部と同じで多く<
何だいこりゃ?。
まるで、東テイ人が、パプアニューギニアの一部の渡来説のような話だな。
>パプアニューギニアを中心としたカーゴ・カルトは、
近代まで文明の利器を知らなかった現地人は西洋人が持ち込んできた工業製品に対して、
これは当地の先住民のために神が作ったものであり、
白人は神と特別な繋がりを持って不当にそれらを占有したのだ、と考えた
先住民を九州、神を中国、白人をヤマト王権に置き換えると 九州説の思考と一致する<
カーゴ・カルトは、出雲系銅鐸部族や東テイ人や毛人蝦夷が先住民で、
倭人を白人と置き換えると、ほぼ一致する事になる。
>>790 じゃあどういう事かみんなに説明してくれ
>>422 >(三角縁神獣鏡)大半が邪馬台国である畿内で作っていただけの事だ。<
大和で、粗悪な副葬用の三角縁神獣鏡を造ったには、4世紀であり、
卑弥呼の頃ではない。
>>430 >西晋の裴秀(224-271年)が禹貢地域図を作っている
地図を作るに遵奉すべき原則として、縮尺の決定,方格の設定,直角三角形による距離測定,
高低の測定,直角・鋭角の計測 ,曲線・直線の計測の6つを挙げている <
成程。
しかし、その地図では、日本列島は載っていなかったんでしょうね。
>>431 >(年已長大)それ、合わなくても書けるだろう <
伝聞であれば、聞いた年齢を書けば済む事。
伝聞ではなく、実際に会ったから、「年已長大」という表現になった。
>>793 三角縁神獣鏡には景初3年(239年)と銘が入ってるぞ
>>439 >だから不正確なんだろ? <
二組の魏使らが確認し、
陳寿も、彼らの「言葉で説明された地図」から、
「計其道里、當在會稽東治之東」という推定で九州を特定出来ていたから、
大体正確な「地図説明」。
>>792 Bであると推測されるからAと推測される
またAであると推測されるからBと推測される
倭人伝の東夷伝を読み実際の長さと照らし合わせて見ると1里が75〜100mで書かれている
当時の東夷伝では1里が75〜100mが使われていたと考えられる
全然循環論法になってないな。
短里は魏志倭人伝だけでなく三国史記でも一部使われてるよ。
>>797 始皇帝はそれを統一するよう定めた
度量衡の統一な
その後歴代の皇帝の仕事の一つとなった
>>799 魏志倭人伝、三国史記で短里が使われていた証拠
→魏志倭人伝、三国史記が短里で書かれてるから
循環論法
>>440 >長沙馬王堆第3号墳の時代に既に10里(1里=300歩、1歩=6尺)を1寸に縮小した18万分之1図が発見されてるから <
前漢代なら、始皇帝の「1歩=6尺」を使っていてもおかしくないな。
>西晋の裴秀(224-271年)のころまでには測量技術は進歩していたが
四夷まで測量はしていなかったということだな<
前漢からはるか後代の魏代の参考にはならんよ。
長沙馬王堆は前漢とは陸続きであるから、
歩測や記里車?での計測は可能であったんだろうが、
それは、「在帶方東南大海之中」の倭地には、当然通用しない訳で、
だから、魏使らは、一寸千里や簡易三角測量も知っていたから、測定出来た、
という事の証拠になるだろうな。
>>800 証拠は現代地図と整合的だからじゃないの
>>800 >
>>799 >魏志倭人伝、三国史記で短里が使われていた証拠
>→魏志倭人伝、三国史記が短里で書かれてるから
>循環論法
文意が通ってませんよw
>>791 アフリカでサルからヒトへ感染したHTLV-1は
エイズウイルス(HIV)に似たウイルスで
南アメリカ、カリブ海沿岸地域、アフリカ、メラネシア、
日本の九州、沖縄、北海道などに感染者が存在し
中国や日本の本州はほとんどいない
呉地の東鯷人も関係ない
https://archive.li/c7GDc/c48c73053468110aa2eaeb5c0254ba0be585e9b8 >>441 >地図が大陸でも辺境に行くほど不正確になってる という研究結果もある<
そんなことは、現代でも幾らでも起こり得る事。
要は、測定の必要や測定者の能力の問題。
>>801 簡易なものでも三角測量するなら距離が50m〜100mもバラバラにならん
>>803 だから循環論法は成り立たないんだよ?
そういう話だよね?
>>445 >会稽東冶之東だからね 南が東の間違いなのは明らかだしな <
会稽東治之東だからね 。
陳寿も、1里の距離も「南と東とを間違い」もしていない事は、
明らかだしな。
>>800 >その後歴代の皇帝の仕事の一つとなった
東夷だから、皇帝の威光が十分に行き届いていないんだよ。
>>806 三角測量なんてしないで、魏の使いが輿に揺られながら目測したり、所要時間から推定したんだろう。
短里があった証拠が短里で書かれたという書しかないなら
どこまで行っても循環から逃げられないのだ
1短里=300短歩=1800短尺で
魏志倭人伝は特別にこれを使って記す…とでも
書かれた文章でも見つからん限りな
>>811 陳寿は短里で書かれた報告書を手にしていたが、それが短里であることには気がつかなかったんだろう。
ただ、疑問を感じたので日程を併記したのかもね。
なんだか変だなぁと。
そうしたら後世でつなげてしまった。
>>768 > この本は短里で書かれた可能性が高い
> だから短里は存在する
> なぜならこの本は短里で書かれた可能性が高いからというのは循環論法
「この本は短里で書かれた可能性が高い、だから短里は存在する」
「(だから)短里は存在する、 なぜならこの本は短里で書かれた可能性が高いから」
循環ではない。倒置法を使って同じことを2度繰り返しているだけ
「80〜100m程度の単位で記されている可能性が極めて高い」という推論が成り立つのは理解できる?
多くの人は推論に納得して、それを前提に邪馬台国を議論しているだけ。
文献と「現実の地理」をつき合わせて出した推論だからそもそも循環もしていない
なぜか循環論法に拘っているようだけど、そういう話でないことは理解できないかな
>>809 記録残したのは魏の人間だから魏の単位使ってるだろうけどな
耳成山、凄い重要な気がする。
火山の山頂を埋めた古墳じゃないかと言われているが。隣の池との関係も気になる。
情報が全然ないんだよな。詳しい人いないかな。
>>816 書いている方(陳寿)はそう思っていたが、報告書を書いた帯方郡の役人はそうでは無かったんだろう。
もしくは役人を案内した中国語ができる倭人は。
>>814 >「80〜100m程度の単位で記されている可能性が極めて高い」という推論が成り立つのは理解できる?
>多くの人は推論に納得して、それを前提に邪馬台国を議論しているだけ。
>文献と「現実の地理」をつき合わせて出した推論だからそもそも循環もしていない
賛成!
>>812 その証拠は?
魏志倭人伝が短里だからだと循環論法
>>813 古代史だからって論証に反していいって事にはならんだろう
>>814 なんで、魏志倭人伝に短里が使われていた証拠は
魏志倭人伝がそう書かれているからというのは
循環論法だから指摘してるだけなんだ
違うと言うなら1短里=300短里とか書かれてる文献を
普通の里はそれがあって証明されてるんだし
>>818 そうだという証拠は?
短里はあったはずだから陳寿の見た報告書は短里のはずだった?
短里があったと証明したいなら
1短里=300短歩で基準尺は3cmのこういう物が見つかってて…と
それでしか証明する方法はない
何々という書の距離を計算したら1里が短里になったから
短里は存在したじゃ証明にはならんからな
>>820 > なんで、魏志倭人伝に短里が使われていた証拠は
> 魏志倭人伝がそう書かれているからというのは
そんなことは言っていないよ。
「現実の地理」とつき合わせた推論だから循環もしていない
>>471 「計其道里、當在會稽東治之東」と、行程に記された「里」の実態距離が、
どうしょもなく「ほぼ一致」することが証明されてるんだからな。
「南≠東」がである事も、確定的なんだよ。
>>823 魏志倭人伝に短里が使われていた証拠は
現代の地理に突き合わせて
魏志倭人伝の1里は75mの短里になったから短里で書かれている
全然違わないじゃないか
短里があると証明したいなら
短里で距離が書かれているという以外のもので証明しないと
いつまで経っても堂々めぐり
>>482 >【レポート】箸墓古墳に行ってみた1/2 (稜樂會 小山田 宗治) ・・・
>邪馬台国、御所市説 <
御所説であれば、「南≠東」に拠って×であり、小山田もアホ。
大体今現在わざわざ長里、短里とか言って区別しなきゃ
ごっちゃになってわけがわからなくなる所から見ても
当時普通の里と短里が一緒に存在したわけがない事が見て取れる
日本の奈良時代で1里533m
戦国時代で1里約4km
さて、当時の一歩や一尺はどのくらいの長さだったでしょうか?
>>825 「80〜100m程度の単位で記されている可能性が極めて高い」という推論が成り立つのは理解できる?
東夷の日本では記録が残る奈良時代以降は
1里=300歩=1800尺は成立していないのですね。
>>832 魏志倭人伝が書かれた魏では
1里=300歩=1800尺
1尺が24cm
1里400mだった事ははっきりしてるけどな
>>830 1魏里=435mを否定はしませんが
1東夷里=70〜90mも否定はできないのですね。
>>827 >当時普通の里と短里が一緒に存在したわけがない事が見て取れる
地域によって違う。
今だって、米ドルとオーストラリアドルは違うだろ。
>>493 >九州説に日本語が不自然な奴が多いよな。
やっぱり朝鮮人は畿内説だと困るみたいだね。<
大和説者には、やっぱり、「朝鮮人差別の・・・・戦争キョクウ」が多いようだね。
こいつらは、いずれ、
竹島などでの殺人事件を引き起こして、国民を興奮させ、
天皇の名を使って戦争に強制して、朝鮮人全滅戦争に参戦させ、
自分等は、命令する側になって、栄耀栄華を貪ろう、とする、
キョクウの・・・・ケダモノ人種。
戦前のキョクウや軍閥と同じ。
それじゃ、当然双方全滅の核戦争にもなってしまう。
>>834 1魏里=400mとそれ以外の物証が見つかってないから
1里=80mは計測ミスったんだろって可能性を原理的に排除できない
>>835 違う違う
1魏里=435mは証明できるけど
1東夷里=70〜90mは証明できない
>>839 そろそろ自分が駄々をこねているだけだと気がつこうよ。
>>838 >>840 ほんなら1東夷里の体系が書かれた書と基準尺プリーズ
存在しないものを証拠にしてはいけない
>>500 キョクウの人種差別的国粋皇国史観戦争狂の大和説男らは、
こんなふうに、根拠を言えないし、言えば国民にウソがばれてしまうから、
全く根拠を言わない。
ただ、口先でヘイトスピーチ街宣を、言い張るだけ。
だから九州説が亡んだ
>>842 駄々も何もそうなるからそう言ってるだけなんだよ
>>504 キョクウの戦争狂の「南→東」などの嘘つき騙しの大和説男らは、
それは、まったく理由を言わない不思議な・・・・たち。
九州説が循環論法に陥るのは
そもそも邪馬台国は九州にあったはずだって前提に立つからだ
なもんで全てが全て後付けの言い訳になる
畿内説は前方後円墳がたくさんあるな
三角縁神獣鏡が一杯い出るな
大和国と邪馬台国って似てるな
だから邪馬台国は畿内にあったのかもなと確かな物証から入る
そこが最大の違い
>>839 > 1里=80mは計測ミスったんだろって可能性を原理的に排除できない
では、短里は無理に認める必要はないから、1里=80mで計測をミスした前提で議論を進めようか
>>509 >律暦志に三国志などの「里」の瑣末な確認なんかする必要ないさ
国家公定の制度を記録してるだけだから<
律暦志は、
周髀算経の一寸千里の計測もせず、
魏の初代文帝の即位の詔書での「度量衡の統一」指示が、
始皇帝の「1歩=6尺」命令での混乱の是正指示であった事も判らず、
その後で魏の重臣たちが「周制への復古」を上表を次々と提出した、
という事も理解していないようなアホであったから、
アホ学者の書であった、という事になる。
倭人伝の里を実際の距離から換算し、推測すると、
九州の可能性が高いということだな
短里の存在の証明にはならんが、およその距離の推測はできるという事だ
魏は長里を使っていた?
倭人伝は長里で測った距離と実質距離と合う記述はあるのかい?
なければ長里で換算したらダメという事だよ
それよりも芸能界というのがあるでしょ、
あのようなのは、どこの組の人間なんだ?
ググると出てこない?
例えば暴力団
▢▢組+芸能プロダクション
このようにググったりすると出てくるけど
>>848 >だから邪馬台国は畿内にあったのかもなと確かな物証から入る
確かw
どこが?
>>849 計測ミスの証拠は山ほどあるからな
まず1里400mと全く合致しない
魏志倭人伝の里数は百里、五百里とキリが良すぎ
インド方面も2倍の距離で書かれている
洛陽近くはそんなにズレがない
短里じゃなくて計測が正しくないと断言すらできる
>>510 >中国の史書が一貫して倭国を九州北部だとした なんて証拠でもあるの?<
新唐書頃までの史書は、いずれも「倭國は倭奴國の後裔」であり、
「世與中國通」して来た国である事を記載し主張している。
>>855 じゃあ、ずれました。
東夷伝は全体に一里が85メートルくらいになる誤差がありました。
それでいいよ。
>>856 うーん、旧唐書までじゃないかな。
新唐書は日本書紀から引用して東遷説で書かれているから。
>>854 何と言おうとも
機内には3世紀の国内最大の前方後円墳があり
魏の景最という年号が刻まれた三角縁が大量にあり
これが邪馬台国と同じ読みのできる大和国に存在している
いずれも九州にはない
>>858 そうよ僻地だから正確に距離が測れなかったんだよ
なもんで魏志倭人伝に出てくる距離は
邪馬台国を指すものとしては扱えない
>>515]
>じゃ、魏晋短里説ってウソじゃないか! <
「魏西晋朝短里」だよ。
そして、その王朝が、周髀算経の一寸千里の示す1里距離の使用を、
公的や役人たちに推奨していたのか?の問題。
>>516 相変わらず根拠もなく言い張る、「南→東」などの嘘つき騙しの、
・・・・ケダモノ大和説w。
>>517 「南→東」などの嘘つき騙しの、
「結論ありき」ですかい?、
国粋皇国史観殺し合い戦争狂の・・・・ケダモノの大和説 男。
大体な
1里80mとしてもだな
帯方より1万2千里は北九州にならんのだぞ?
むしろ畿内を指すぐらいだ
>>926 「南→東」などの嘘つき騙しの、国粋皇国史観の殺し合い戦争狂の、
キョクウの・・・・ケダモノの大和説男は、
俺は空飛ぶ円盤を見たんだぞー
みたいな話ばっかりだね。
はいはい九州説の勝手に勝利宣言な
言い負かされたらいつもそれが始まる
>>527 「南→東」などの嘘つき騙しの、
国粋皇国史観の殺し合い戦争狂のキョクウの・・・・ケダモノの大和説男は、
証拠を出さない生活習慣にどっぷり漬かってるんだよ。
それが大和説の意見統一がとれない理由だってことも、まるで気づかない。
倭人伝の行程が魏の里であることを主張するなら
倭人伝の中の里が魏の里である場所を
示すとかすればいいのに。
>>535 支離滅裂な解釈しかしてないし、 自画自賛的なもので根拠が皆無。
まさに大和説男らのためにあるような言葉だ。
会稽東治を無理やり南に移動させて、建安郡の東冶にすり替える理屈とか・・・。
1里80mとすると1万2千里は960km
帯方(ソウル)〜福岡540km
帯方(ソウル)〜福岡〜奈良1180km
ほらな
>>536 あなた、その「南→東」の嘘つき騙しの指摘に、
反論できてませんよ。
広告史観・・・、
暴力団だか知らないけど、どう考えても雑魚の集団
昔いた、偉い人たち(不明)は何をしているの?
暴力団関係者になっているとか?
加勢鳥という祭が興味深い。
山形では、鳥は水を掛けられ虐められる。
佐賀のは、
二羽のにわとりが同じような格好で各家庭を訪問。 酒で歓待された後、竹をしばいて、厄除けする。
日本の東西の端で同じ祭があるのは興味深い。
魚沼では、鳥追い祭。
鳥追いの歌
鳥追いだ、鳥追いだ
この鳥どこから追ってきた
信濃の国から追ってきた
何を持って追ってきた
芝抜いて追ってきた
四番鳥(しーばんどーり)も五番鳥(ごーばんどーり)も たちゃーありゃーほいほい
いっち憎い鳥は
どうとさんぎとこすずめ (どうは朱鷺、さんぎは鷺、こすずめは雀の意味です)
こすずめのちくしょうが
稲三束盗んで
甘酒、から酒作って
どうとさんぎを呼んできて
どうに六ペー飲ませて
さんぎに三杯飲ませて
酔った酔ったこんときだ
きじん鳥にぼっざえて (きじんは雉、ぼっざえてはおんぶしての意味です。)
佐渡島へほいほい
酒に酔わせて退治するみたいな歌だな。
古代史と関係ないかもしれないが。
>>541 >多数説なんですが。<
大和説は、
国民の3割しか支持がなく。
国民の7割から否定されている少数説なんですが。
>>877 示すから文句つけるなよ
邪馬台国まで帯方郡から1万2千里
魏志倭人伝の里数書かれてる不弥国まで1万700里で
残り1300里
不弥国を博多近辺として奈良まで640km
1300里が1里400mとすると520km
不弥国から1300里を1里400mで換算すると
畿内になるからそこからは1里400mが使われている
>>548 その頼みの綱の「南→東」 は、
「南」が史料事実であり、
確定ずみ でした。
残念でした。
偽書屋の古田が本を売るために考え出した短里というのは
曹魏の皇帝が制定した度量衡というホラ話で
一部の九州説が言ってるのは朝鮮半島とコマヒトあたりで使われていた、
中国の里とは関係ない長さの単位という主張だから根本的に違う
糸島は後漢代の各種楽浪土器が出るところなので
後漢の公里のほうが一部の層には伝わってた可能性はある
>>551 大和説男って、
幾ら具体的な反論をして上げても、知らん振りしてなかったことにして、
同じことをまた「反論がなかったから議論に勝った」などと言いだして、
世間の人々を騙そうとする・・・・詐欺師なんだね。
どのスレだったか覚えてないけど、
このような事を言ってる人がいた
『みんな どこへ行った』
生きているのか、死んでいるのかさえ、わからない
>>553 つまり、漢文のプロを自称するような大和説学者は、全員、
「南→東」などの嘘つき騙しであったってことか?。
わかってるようだな。
「笑)」男クン。
>>886 帯方郡から博多近辺まで
4000km以上あることになりますよ。
実際には900km程度ですね。
残念ながらそもそも博多に
たどり着いていませんので
不合格です。
>>556 まったく具体性なく根拠提示もなく、
「南→東」などの嘘つき騙しの結論を言い張るだけだな大和説男。
w 。
>>559 邪馬壹國を誤字ではないと証明したのが、
宋明清代の中国の考証校勘学者らによる史料批判 。
>>561 大和説男は、史料事実を否定曲解しての、
ヘイトスピーチ罵声オンリーですか ?。
>>893 いや計算は合ってますけど
帯方から邪馬台国まで1万2千里
不弥国まで1万700里で邪馬台国まで残り1300里
1300里を1里400mで計算すると520km
北九州から奈良まで直線距離500kmちょい
なんで1300里の部分は1里400mが使われてるとすると
畿内をピタリと指すのでここは1里400mになってるのではないかと
じょじょの奇妙な冒険(SBR)に出てきた
mike o関係の話?
あれは日本の話なのかな
>>567 筆者の話を聞いてないで、
いつも「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しをするから、
いつも間違う大和説の・・・・男。
>>573 大和説男らは、出典の史料事実を否定曲解する加減なことばかり言ってるなあ 。
つうわけで魏志倭人伝の距離ああだこうだ言うのはもうやめような
何の意味もない事がもうわかるだろ
>>580 大和説男らは、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説学者らの、
結論だけ信奉していて理由は知らないので、説明できない。
>>584 大和説全般に、「南→東」などのように、根拠がないんだよね 。
その証拠に、彼らは具体的な根拠を聞かれると逃げる。
誰かがそう言ってた、という
流言飛語が一人歩きしてるんじゃないのか?。
>>0392
一応、読んでみたんだけど、大和説郎だなぁ。
>>898 10700里を魏里換算すると4000kmありますが
不弥国はどこですか?
帯方郡から博多までは900km程度ですが?
>>591 その「南≠東」は、この話に関係がなく、始めから嘘つき騙しであるから×だな。
また、九州は、会稽東治の「東〜東北東」の間にあるから、
「之東」でほぼぴったりであり、
陳寿の推定も間違っていないことになり、
「短里の使用」も証明されたもんな。
本気で九州説信じてる人には悪いが
古田も1万2千里を1里75mで換算すればむしろ畿内になるって
わかってただろうに
都合が悪いから黙ってたんだろうな
>>906 10700里までは短里で残り1300里は魏里じゃないですか
不弥国はたぶん奴国(博多)から東に百里(8kmか40km)の所
帯方郡(ソウル)から博多までは直線距離500kmですね
>>910 あなたは短里と魏里を混ぜたという説ですか?
>>594 結局、「南≠東」に反論出来ず、
ヘイトスピーチの連呼しか無いわけね。
亡ぶわけだよ大和説男ら。
>>595 大和説と合わないから、、お前の説は間違いだ、
というのは阿呆だけがする言い草。
>>911 いーえ
1万2千里は邪馬台国を指してないという考えです
魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。
魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
ちなみに帯方郡から投馬国(宮崎都万)まで水行20日
後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。
邪馬台国時代の遺物の出土状況
>>604 >帯方郡黄海北道鳳山郡説なのに
帯方郡側の海州を起点としちゃダメだよね <
海州は、帯方郡内に含まれていて、郡治からほぼ真南にあった筈。
だから、帯方郡の(外縁部の)「循海岸水行」の出発港として非常に適切。
>>910 直線距離ではないよ。
朝鮮半島の西岸と南岸を航行するから、もう少し道のりは長いよ。800キロくらいにはなるんじゃないな。
>>605 >数字としてはこれが一番矛盾がないよね<
不彌國で萬二千余里がほぼ消費されてしまっている、という史料事実を否定してしまっているから、
致命的な矛盾がある。
>>613 >逆に、それっぽい数字を出すために やらかしたインチキが明るみに出て
九州説が自滅してるし<
大和説は、それ以上に「南→東」などの大インチキをしていて、
完全に自滅しているし・・・。」
>>917 300kmは盛りすぎだな
直線距離出せるサイトで細かく出してもいいが
500kmにせいぜい150km程度プラスだろう
>>615 大和説男らのように、
先に出したい比定地を決めて、それから、
途中までの1里の距離とその後の1里の距離を変えて、
方向も「南→東」などのようにすれば、
比定地がどこであろうとも、自由自在w。
w
>>616 その「南=東」が、もう論破されてますが?.
>>621 >旧唐書は同一人物の伝記をいくつも載せてますが? かれら、別人なんですか?<
全く同じ名前であれば、同一人物の二つの治績であり、
名前が違っていれば、書き分けである可能性が高い、でしょう。
いまのようなメディア?が
地上の星を殺した
そのような事を言ってる人がいた、
有名な話なのかな、それとも都市伝説なのかな〜
京城から珍島まで300キロ、釜山まで250キロ、対馬海峡が250キロくらい?
これが一万東夷里。
>>627 >1歩≒1尺なんて 1cm≒1mみたいなもん そんなおかしな距離表記世界中探したってないな<
里歩系単位と、尺寸系単位とは、始めから違うものであったし、
始皇帝が命令した「1歩=6尺」のような「1歩」長は、
人類の身長などからは起こり得ないような「1歩」であったから。
ザ・モモタロウという作品に登場するウラシマン
好きなテレビ番組:ないじゃん 観ないじゃん
このような事が書いてあったり
これも以前、書いたはず、
他のスレに書いたのかな
お前が消えろ
>>631 >なら邪馬台国は単一の国と認めるって事だな <
「邪馬台国」なんて存在しない分裂幻覚妄想の嘘つき騙しであるから、✖。
>これで九州説が繰り返し主張してきた
邪馬台国は伊都国が中心の九州北部連合説はおしまい <
九州説は、「邪馬壹國女王之所都」であり、
伊都国は女王國の共立の軍事的支配の中心國であるから、一体的であり、
おしまいにはならない。
>>632 大和説は、巨視的な捉え方が出来ず、
その場凌ぎでの「嘘つき騙し」ばかりだから、支離滅裂。
以前、
このような事も書いたような気がする
このスレにいる人達は、
昔の渡来〜帰化(中華など)・・・という家系の人達なの?
それとも、どこかで、やまたい話を習っただけ?
ほとんど引用?
>>634 >長里いわゆる普通の里は律暦志と正始弩尺で1里400mと確認できるから
ちゃんとした根拠にできる<
魏朝の「始皇帝の1歩=1尺の否定の周制への復古」の上奏が判らなかった律暦志は、
アホであった訳で、✖。
>短里がある事を短里で書かているとする書そのものが証拠だとするのが
循環論法
意味がよくわかってないのに循環論法言っても周りにはすぐバレるからな<
史料批判をした史料事実をを根拠にして、
それからの帰納的確率的な推論をして得られたものは、
「結論先にありき」になっておらず、「設定=結論」になっていないから、
循環論法にはなっていない、
という事が判らないこの男は、おそらく・・・・アホな訳で。
>>637 こういう誰が見てもおかしいってわかるデタラメは、
大和説男の主張はおかしいって、周りに宣伝してるようなもの。
>>642 大和説が国民のあいだで全く相手にされてないのは、
利権がどうのこうのじゃなくて、真っ当な理由があるんだよ 。
多少なりと歴史知識がある国民にとって、「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
ばかくさいのさ。
>>937 東夷伝においては一里は80メートルくらいであるというのが史料的事実だけど。
【邪馬台国の周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊那国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は?
7番 不呼国は?
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市前原(旧怡土郡)、奴国 福岡市博多(那の津)→邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
これも、おかしな話
『菅野力夫』
画像をググってみると、
土民、土人と書いてある写真があったり
力夫氏、
本当は渡来人の系統の家なんじゃないの?
>>649 >おかしなアンケートを国民の投票って、藁<
国民のアンケートも嗤うって、この大和説男って?。
>糸島説も博多説も、熊本説も鹿児島説も <
ほぼ筑紫説に統一されている。
>容れない有象無象をぜんぶ足したら畿内説より多かった? あほらし
統制とれない雑兵達が竹槍持って剣豪に挑んでるみたいな姿だな<
相容れない有象無象をぜんぶ足して畿内説にしたら、筑紫説より多かった?。
あほらし。
統制とれない雑兵達が竹槍持って剣豪に挑んでるみたいな姿だな。
>>939 だから東夷伝がそうなってても
律暦志と正始弩尺の史料事実は1里400mだって
他に確かめられる資料がなければ計測間違いかも知れないだろ
力夫氏の写真だけを見てみると・・・、
渡来人、渡来系?には見えないんだけど
それは髪や髭を伸ばしているから?
>>654 「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説を唱えてるアホ詐欺師のプロを称する学者と、
九州説の正直素人爺さんじゃ、
信頼性はもっと格段の差はあるな。
>>660 大和説者は、ssnや、「南→東」などの嘘吐き騙しのように、
こんどはナリスマシもお手の物だったからな。
大和説男らはら、懲りない犯罪者予備軍だ。
>>942 >ほぼ筑紫説に統一されている。
ほんと?
証拠は?
変な言い方になるけど
なんでも先住民(日本起源。発祥。)という事にしておいたほうが良い
という時代があったとか
>>671 邪馬壹國女王之所都論争に負けた大和説男が、
また悪質ななりすましの荒らしを始めたの?。
w
>>942 そんなにあれもこれも揃って測量間違いをするわけないだろ。
>>673 >邪馬台国論争もかくあるべき 三笠宮崇仁・・・ <
三笠宮さんも、安部自民公明政府の異常性や、
大和説学者らの異常性を判っておられたんですね。
>>2018 なにが、したいんだよ、この大和説郎はw
「ポケモソ 自転車」
>>675 >そんなもの現代の九州王朝説の創作なので、
後世の人があとから作ったものを昔の人が確認することなど物理的に不可能<
九州王朝説者は、皆原則として、史料事実からの帰納的確率的推論をされていたから、
現在に残っていた3世紀の史料は、原則として、律暦志も知る事が出来た筈。
>>685 大和説男さん、「南→東」などの捏造はダメよ。
本当に
あの謎のチェーンソーのゲームだよ
力夫氏が主人公のゲームじゃないの?
>>715 >「或曰、倭國自悪其名不雅、改爲日本。 或云日本舊小國、併倭國之地」 って書いてある
どっちも日本国の使者が言ったことだと読める曖昧な記述だ<
「或曰、倭國自悪其名不雅、改爲日本」は、
晋の惠帝への遣使の言上だから、筑紫倭国の使者の言上の話だ。
「 或云日本舊小國、併倭國之地」は、
郭務ソウが報告した事になるから、日本国の使者が言った事ではない。
>>718]
>「或」列挙で、どっちも疑ってるのに 片方だけ勝手に中国側の認識って決めちゃダメでしょ<
「或〜」という記載は、
「〜」という事があって、存在していた、
という主張であり、
両方とも存在していたのであり、
片方だけ、という事ではない。
>>729 >彼らが、何か測ったなんて記録は無いな <
群役人や魏使らは、測定していない事を書けば、
違っていたら処罰される可能性があり、
書かれている、という事は、計測した、という事の証拠。
官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。
伊支馬は生駒。生馬。火の神。
弥馬升は三見宿禰、出雲醜大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。
奴佳鞮は中臣。
出雲地方には生馬神が祀られているんだな。
生馬神社境内には「牛荒神の大木」と呼ばれる木があり木に藁が巻き付けられている。
出雲風土記かな、生馬神の子は、もう荒ぶらないと言ったとか。
ヤマトの地名と出雲の集落名、共通点が多い。
>>730 >ダメだね 「短里」とやらじゃ、会稽の東までも届かないよ、<
陳寿の「会稽東治之東」自体が、魏使らの記録からの「大体」の推定であり、
会稽郡の東側の「治」地域という広域であり、
更に「之東」の「大体東方」という推定であるから、
会稽郡地域の大体「東〜東北東」にある九州は、
陳寿の推定範囲の中に入っていた、
という事になる。
>>731 >当時使われていた1里400mに当てはめると 邪馬台国がニュージーランドになるから
いかにも万里を七三で振りました的な七千余里や渡海三回の数字はフィクションで、南水行は東の誤認
陳寿は倭国が台湾くらい南の国だだと思ってたことが裏付け証拠 実にシンプルな解決でしょ?<
「 当時使われていた1里400m」というのが、
始めから、魏朝の史料事実に合わないから、✖。
>>738 >短里で書かれたらしい記録があるから短里はあったとする事は
循環論法になります<
ならない。
記録を史料批判して分析して帰納的確率的推論で、
短里的な「1里の距離」が得られたのであるから、
「先に短里と決めた」のではないので、
循環論法にならない。
>>739 >>菱環鈕式の中心地であった事が確実であり<
>分布が出雲、淡路、播磨、伊勢、越前、尾張(鋳型)なのに
どうして出雲中心が確実なの? <
出土数が圧倒的に多いから。
>>742 結論だけ連呼って、大和説の男はみんな馬鹿なんですか?。
>>743 倭国の中心は、筑紫なんだから諦めろ。
大和は日本古代史上ずーと僻地だ。
>>747 理由も論理もなく、ただ言い張るだけが大和説かただ。
左前になるわけだよ 。
w
>>749 >古田の存在は考古学に影響なし 歴史学にも、無いけど <
さる大学の考古の教授も、古田さんの分析や論理を絶賛されて、
弟子たちに古田さんの方法論を学ぶように勧められたり、
原田氏も古田さんと意気投合されたり、
現役歴史学者が、古田派に参加して現在も活躍されたり、
そんな例は、幾らでもあるよ。
最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
昭和40年(1965年)に平原遺跡から出土した最大の内行花文鏡は国産と考えられている。その円周が漢代の8咫(直径1尺の円の円周が4咫)に相当することから、記紀などにおいてアマテラスがニニギに与えたとされる八咫の鏡であると考えられている。
かつては八咫は単に大きいことを意味するだけだという説もあったが、この鏡の出土により実際に円周がちょうど八咫である鏡が実在したことが確認された。
これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の起源は稲作伝来の地でもあるこれら博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
これが卑弥呼が女王となった倭国の姿である。
倭国の都は筑紫の伊都だよ。
魏志には帯方郡から12000里で女王国とされ、10000里で九州北岸に到着している(対馬海峡の幅が3000里とされている)。
福岡県を出ることはまずない。
狭い糸島水道と日向峠以外には進入路がない一方、クシフル山からは糸島平野も博多湾も一望できた。
伊都の東側にクシフル山があり、その日向峠に山城を築き、高千穂宮と呼ばれた。
邇邇芸が、ここは日の出も夕日も照って、朝鮮半島にもまっすぐ道が続く良いところだと評した。
防衛にも外交にも非常に有利だった。
奈良時代には怡土城、戦国時代には高祖城と呼ばれた。
伊都国の東にそびえる王宮は太陽信仰や神仙思想といった初期の神道の舞台でもあり、魏志には日本独自の神道が鬼道の呼称で記された。
魏志には、伊都には代々王がいて、女王が治めていると書かれている。
伊都より北には一大卒を置き検察し、南は狗奴国(熊本)、東には海を渡ってやはり倭人の住む倭地(本州)があるとされている。
伊都は王権の象徴である金印や八咫の鏡が継承されてきた倭国の都である。
倭国女王である卑弥呼は死後に伊都の平原遺跡に埋葬され、八咫の鏡を含む三種の神器が副葬され、鳥居が建てられた。
福岡県の高祖山の最高峰は高地山。
いわゆる高千穂と同じであろう。
古くは別名をクシフル山とも言ったとのこと。
クシフルとは、チクシのフル(村落、国邑)の意味だそうだ。
九州では、国邑の名前としてフル、ハラ、バルなどを用いる。
筑紫とは、そもそも伊都のある高千穂の日向峠周辺のことを指す言葉であったようである。
それが勢力を拡大し、博多湾沿岸のみならず、有明海沿岸や遠賀川沿岸まで筑後や筑豊として筑紫に組み入れていくのである。
倭国は筑紫と豊国、肥国の連合国家、いわゆる邪馬台国連合であったが、次第に筑紫の一強となっていく。
後には九州全体を筑紫嶋と呼ぶ向きもあるが、これははるか後世において、筑紫から離れた畿内から見た、大変大雑把な呼称である。
邪馬台と書いてヤマトと読む。
倭と書いてヤマトと読む。
つまり邪馬台国とは倭国と同義で、訓読みにさらに漢字を当てただけ。
魏志にある女王国もまた同義である。
卑弥呼の称号は邪馬台国の女王ではなく、倭国女王(親魏倭王)である。
倭国は稲作伝来の地である玄界灘沿岸に成立し、対馬海峡の交易により発展した海洋国家であり、海人の国を意味する「天津国」とも呼ばれた。
生活の基盤が次第に漁撈から稲作と交易にシフトすると博多がその中心として発展したが、卑弥呼の時代には王都は博多からやや離れた伊都国に置かれた。
倭国の都は紀元前から一貫して筑紫、現在の福岡県にあった。
漢の時代に金印を授かり冊封され、女王卑弥呼の時に魏から冊封された。
倭国においては筑紫の他に、豊国、肥国などの有力な国があり、魏志によると東の海を渡ったところにも倭種つまり出雲や近江、越など日本海沿岸に国が続いていた。
畿内は京都も大阪も奈良も、沼地であった。
新スレ立てました。
http://2chb.net/r/history/1518630290/ ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
>>752 大和説男は、自分の話の欠陥や矛盾を指摘されても、
思い込みばかりで、
ひとの話を聞かない、・・・・人種なんだね。
>>755 大和説の分裂幻覚妄想の無脳の・・・・ガキらは、耳の痛い話は全く通らない。
>>762 ほら、また立証せずに、口先で誤魔化して逃げ回る。
だから大和説男はゴミなんだよな。
>>763 追い詰められると、こんな、口先ばかりのヘイトスピーチのウソをつく。
だからの大和説男は、キョクウの・・・・クズと言われるんだよ。
リンク先を見ると
嘘ついてるってバレちゃう九州説のお爺ちゃんって
ほんと、頭わるいね
藁
>>770 >一律に間違ってるかも知れないから
そうでないというなら短里は1里75m、短歩は5m…と
体系がはっきり書いてある何かがないと証明できない <
一律に書かれていた、という事は、体系があった、という事であり、
間違いではなかった、という事。
>>774 >それなら1里75m、1歩25cm…と体系の書かれた何かを出せば証明になる<
何度も書いておいた。
>魏で使われてた1里400mの長里つーか普通の里にはそれがあるし<
ない。
何度も書いておいた「比率がほぼ一致する例証する」群で、否定 群された。
>それと大幅に食い違ってるから計測ミスじゃないのって言われるの <
6倍位も違う読みの方が、読み方ミス。
>>775 律暦志は、三国志などの記載の説明が付けられないから、
✖書。
>>776 長里説とは、
現代の感覚でいえば、実際には100mの所を、全部600mだ、
と主張してるようなもん。
>>779 長里である、と証明できない物はないのと一緒。
長里で書かれてるはずだから、短里で書かれたものは皆間違いだ、 とするのは、
「結論先にありき」であり、循環論法。
>>782 >魏里が短里だった証拠は?<
魏の役人や魏使らや陳寿らの記載が、殆ど全て(長里ではなく)短里であった、
という史料実態。
>>786 >ああ律暦志に1里=300歩=1800尺
見つかってる尺の基準のモノサシ正始弩尺が24cmの事実こそ
無視できないからそうさせて貰う<
律暦志では、
魏志などに書かれた里の記載例が全て6倍位の過大な間違いになってしまう、
という事実があるから、
律暦志の方を否定させて貰うの。
>>786 >ああ律暦志に1里=300歩=1800尺
見つかってる尺の基準のモノサシ正始弩尺が24cmの事実こそ
無視できないからそうさせて貰う<
律暦志では、
魏志などに書かれた里の記載例が全て6倍位の過大な間違いになってしまう、
という事実があるから、
律暦志の方を否定させて貰うの。
>>788 ほぼ全て1律75m〜90mで書かれているものを、
全て430m位に書かれていないからそれらは間違いだ、
というのは循環論法。
こればかりは誰にもどうしようもない 。
>>792 >じゃあどういう事かみんなに説明してくれ <
ほぼ全て1律75m〜90mで書かれているものを、
全て430m位に書かれている筈だ、という結論先にありきで、
「書かれていないからそれらは間違いだ」、 というのは、
循環論法。
>>796 >三角縁神獣鏡には景初3年(239年)と銘が入ってるぞ<
それは、明帝の下賜鏡ではなく、
また大和が造った鏡でもなく、
流浪して「海東」に渡来して来た呉系の楽浪鏡師が、
(魏の年号を入れて)造ったものだ、
と言っているんだよ。
>>989 ほかの人が言った
循環論法って言葉だけ覚えて
意味も知らずに使うって
バカじゃね?
>>800 >始皇帝はそれを統一するよう定めた 度量衡の統一な
その後歴代の皇帝の仕事の一つとなった<
そして、
始皇帝の勝手な「1歩=6尺」の命令で、
また漢代でも度量衡の混乱が起こってしまったから、
魏の初代文帝が即位の詔書で、再度「度量衡の統一」を指示し、
重臣たちの「周制への復古」の上表で、
周髀算経の度量衡の「1歩≒1尺」への復古をする事になった。
>>800 >魏志倭人伝、三国史記で短里が使われていた証拠 →魏志倭人伝、三国史記が短里で書かれてるから
循環論法<
魏志倭人伝や三国史記での短里の例は間違い →魏志倭人伝や三国史記がや長里で書かれていた、
は、循環論法。
>>804 >アフリカでサルからヒトへ感染したHTLV-1はエイズウイルス(HIV)に似たウイルスで
南アメリカ、カリブ海沿岸地域、アフリカ、メラネシア、 日本の九州、沖縄、北海道などに感染者が存在し
中国や日本の本州はほとんどいない
呉地の東鯷人も関係ない <
また変な曲解を言っている!。
東鯷人が呉地だ、なんて言った事もない。
縄文期以来の、本州九州南岸部〜琉球にいた部族だろう、という説だよ。
>>806 >簡易なものでも三角測量するなら距離が50m〜100mもバラバラにならん <
遠距離ほど、交点は非常に鋭角になり、当然測定誤差は大きくなる。
>>810 >三角測量なんてしないで、魏の使いが輿に揺られながら目測したり、所要時間から推定したんだろう。<
周髀算経が、簡易三角測量などで、太陽の大きさや距離などを計測する方法を書いているから、
魏使らは、当然簡易三角測量が出来た。
>>996 あんた、理系知識ゼロで、てきとうな思いつき言ってるだろ
>>811 長里であったから、短里で書かれたものは全て間違いだ、
という事なら 、
どこまで行っても循環から逃げられないのだ。
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