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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1506847927/ ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係には、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
◆6−3
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器UB(布留0新相〜布留T古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪W期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪X期)に活発な対外活動を展開したのち衰退していく、という趨勢が消長を来しているものである。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はUA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生X期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
◆7−2
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
◆7−3
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器TB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
◆8−1(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
◆8−2
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
◆9−1 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf 纒向学研究 第2号(PDF)
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf ◆9−2 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は庄内0を庄内式直前として
弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じである。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
TA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内T〜U
TB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内U〜V ●纒向矢塚、矢藤治山
UA期ー 布留0古相 ー 河内庄内V ●箸墓、権現山51号
UB期ー 布留0新相〜布留1古相ー 河内庄内W〜X ●西殿塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚、黒塚
UC期ー 布留1中相〜布留1新相ー 河内庄内X〜布留T●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山
◆11 本文のサマリー
===========================================
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。それは畿内に中国文化が急速に浸透する時期でもある。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者は倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。
◆12
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報である。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。
◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法より、筆者は里程から如何程に南方であるか具体的に推計して倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。故に、東冶の「東」の方位に誤差を認めて強引に現実的地理に近づける解釈を行うことは、角を矯める愚を犯すに等しい。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第X様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される。
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で、前方部に盛土がないこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。
◆FAQ 26-1
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
◆FAQ 26-2
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝) 遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪W期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠紹煕本)へと敗走している。行き先が東冶の候官(福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝に明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。
◆FAQ 41−1
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
◆FAQ 41−2
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓X期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓X期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓U類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶T期は久住UB期に併行するが、申が同じT期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓X期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓T類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内U〜V(久住TB〜UA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓X期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1BU型式→ 1BV型式→ 1BW型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BV〜W型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1BU型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BV−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BW型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1BU型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉)
→1BV型式(3世紀中葉)
→1BW型式(3世紀後葉以降)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1BU型式新段階が楽浪木槨墓X期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓X期は下大隈式に後続する西新(T式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され(金原2011)ていること、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(XA)と既に消失したもの(XB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがT型、無いものがU型と呼称される。
この前半タイプT型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(XA)と既に消失したもの(XB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがT型、無いものがU型と呼称される。
この前半タイプT型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f)
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に語義を含意せずに用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓X期の文化圏である。
倭人の国ではあり得ない。
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】◆FAQ19に加筆
>>1 意義なし
畿内説で確定
以後レスする必要はないためこのスレ終了で
ふとQを眺めてると!と?だな
やたらと!が多いのは九州説は感情的で攻撃的というイメージを植えつけたいんだろうな
畿内説は最後に九州説終了でしめやがったな(狙ってただろ
六拾弐病
六拾弐病(ろくじゅうにびょう)とは、定年退職後の老年期に見られる、
周囲を見下した言動や、自惚れに満ちた妄想を連呼する様などをさす語。
自らを客観視することができず、盲目的に自身を絶対化する、というのがその典型的例。
現役時には社会に適合してゆくために相対化させざるを得なかった自己が、
定年によって自らをとりまく環境が急激に変化することで相対化のバランスを失い、
自分が特別な存在であって欲しいとする願望が顕在化することで発症する。
その思考の基礎となる知識は、遠い昔に聞きかじった程度の浅いものや、
定年で生じた余暇によって取得した程度の中途半端なものであるため、
罹患者の主張は往々にして突飛な妄想でしかなく、周囲に受け入れられることはない。
しかし、本人は自身の思考は特別に優れているものだと盲信しているため、
受け入れられない原因を周囲のせいであると主張し、攻撃性を高めつつ、負のスパイラルへと堕ちていく。
このため、「六拾弐病」は陰謀史観との相性が非常によい。
なお、「六拾弐病」の名は、定年後数年を経て症状が顕在化することから名付けられたものであり、
もちろん全ての罹患者が62歳で発症するものではない。
似た症状を呈するため、「六拾二病」は「老年性中二病」と称されることもあるが、
思春期に自身を特別な存在だと仮想する「中二病」が、
確立されていない自己とそれを取り巻く社会の拡大とに折り合いを付けられず、
自己を疑似的に絶対化することで周囲との相対化の波から逃避しようという、
いわば自己防衛的な理由によって発症し、
ほとんどの場合本人の成長とともに症状が改善されるのに対し、
「六拾弐病」は、罹患者が生来持つ傲慢さがその根底にあるため、
一度発症してしまうと、死ぬか、惚けて思考能力が失われるかしない限り、
症状が改善されることはないとされる点は対照的であるといえる。
全1病
全1病(ぜんいちびょう)とは、邪馬台国畿内説スレに出没する狂人のみが発症する、心の病。
その症状は、自らに批判的な書き込みを、すべて畿内説スレの
>>1◆q8leUXpsw.によるものだと思い込む、というもの。
原因は、逆立ちしても
>>1◆q8leUXpsw.に遠く及ばないという圧倒的な差を自覚した上での被害妄想、
あるいは自らを客観視できなくなった六拾弐病患者による、
>>1◆q8leUXpsw.は自分をマークしているに違いないと思い込む、
自己に対する超絶な過大評価である。
キウス
邪馬台国関連スレに出没する真性の基地外であり、病的なウソつき
「希薄」を読むことができず、「箕臼(キウス)」と誤変換し続けたことから「キウス」と呼ばれるようになった
自演爺、四棟粘着爺、指さし厨とも
ウソの書き込みや自演、成り済ましを平然と行い、畿内説スレの
>>1を騙り偽スレを立てること数度
>>1のトリに似せた英数字を名前欄に書き込んで成り済まそうともする最低のクズである
自分に否定的なカキコはすべて畿内説スレの
>>1によるものだと思い込む、「全1病」罹患者にして典型的「62病」発症者
環境依存の絵文字や、「自論」、「私見」、「勉強してください」、「学がない」、「貴君」、など特徴的な言い回しを多用すること、
2ちゃんでは一般的ではない「スレ主」の頻発、名前欄への書き込み多用、ageなどの特徴ですぐに判別できる
勝手に「本日のMVP」を決めるなど、能力もないのにやたらと仕切りたがる、実生活では決して身近にいて欲しくないタイプ
トリとハンネの区別がついていないことも特徴のひとつ
これまでに使用が確認されているトリは以下の通り
◆TJ9qoWuqvA ◆zDcsAEpKdA ◆TbjlUtTwCg ◆DTCBtArI/s ◆cmsiBNFbAs◆.jMGTy6iYI ◆PyuQX798ps
◆CXD1.68m1w ◆10cK4OrL3E ◆P5DBe7oqOQ
キウスの書き込みを褒めたり、「ワロタ」と応じたり、キウスに対して礼を言ったりする書き込みは、すべてキウス自身の自演である
「キウス扱いされた」などと他人を装う書き込みもするが、バレバレ
自らキウスを名乗り
>>1にトリを要求するが、自分はすぐに名無しに戻るダブスタ、トリスタ上等の卑怯者
他人を騙す行為も自分ならばすべて許されると信じている節のある、傲慢の塊
日本語の読み書きが満足にできないほか、日本史や日本の地理に関する基礎知識も持ち合わせていないこと、
マスメディアで散々取り上げられる土用の丑の日の日付けを間違っていることなどから、
日本国内在住ではなく、日本の義務教育を受けていないのではないかと推測されている
ザラコク
邪馬台国関連スレに出没して異常行為をする者のひとり
九州王朝説と古田武彦を盲目的に支持し、偽書『東日流外三郡誌』を未だに真書であると主張する
高校生程度の知識もなく、自らも「素人おじん」と称するが、そのわりに人類の常識とやら大上段に構えて専門の研究者を偉そうにこき下ろす
あまり相手にされていないので、他人の会話に割り込んで片端から周回遅れのレスを付けまくる
全レスバカとも呼ばれる
その結果、投稿数が異常に多く、コピペ連投と同じくらいスレを荒らし、他人に迷惑をかけている
レスをつけるということ自体に異常に執着しており、他人の発言を長々と全文引用したあげく、賛成!とか間違いだ!とか数文字書き足すという無内容のものも多い
平気で嘘をつき、「超」のつく非常識人物として有名
脳を使用しないオウム返しを多用する
ネットリテラシーが皆無で、マナー違反を繰り返す傍若無人ぶりが周囲から嫌悪される原因のひとつだが、本人には自覚がない
理解力も皆無で、自分の主張を否定する情報も正反対に脳内変換することが多い
以前はYahoo掲示板に常駐していたが、倫理規定に触れて出禁になったらしく、最近2ちゃんに居付いてしまった
生きる独善75歳
岡上
邪馬台国関連スレに出没する狂人のひとり
考古学界では全く賛同者がいない説を「考古学的に確定している」と主張するウソつき
コテ+トリと名無しを使い分け、自説を関連スレで書き込みまくるがバレバレ
糸クズ、八咫バカとも
「咫」の説明である「周尺」を「円周の尺」と読んだり、
伊都国を女王国であると漢文を誤読したり、
八咫鏡の文様には八咫烏があると現物を知らないで主張したり、
お笑いエピソードには事欠かない
未確定な事項であっても、自分に都合がよければ勝手に確定事項であると脳内変換し、
それを根拠として立論してしまうチェリーピッキナー
日本史の方法論をまるで理解していない、自分偉い教の教祖である
後は日本海側の勢力関係の解明と、朝鮮半島における倭人の拠点、鉄の発掘、製鉄、輸送がどのようになっていたか解明しないとな。
日本経済新聞(2013/2/20)
卑弥呼の墓?初の立ち入り調査 奈良・箸墓古墳
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1905C_Q3A220C1CR0000/ 研究進展に期待
日本考古学協会など考古学、歴史学の15の研究者団体は20日午前、宮内庁が陵墓として管理している奈良県桜井市の箸墓古墳を立ち入り調査した。
宮内庁が研究者側からの要望に応じて立ち入りを認めるのは初めて。
同古墳は邪馬台国の女王・卑弥呼の墓とする説もあり、陵墓の公開や研究の進展につながると期待されている。
立ち入り調査をしたのは研究者16人。
約1時間半をかけて墳丘の最下段を一周し、地表に見える葺(ふ)き石や土器などの遺物の状態、墳丘の形などを観察した。
参加した日本考古学協会の森岡秀人理事によると墳丘表面で、築造以前の様子を示す弥生最末期の土器などが見えたという。
森岡理事は「古墳の詳しい状況を実感できた。今回得た知見や印象によって研究が加速するのでは」と話し、
今後の陵墓公開に向け「国民の文化遺産として大切に守るべきもの。宮内庁とさらなる協力体制を目指したい」と強調した。
研究者らは午後、宮内庁が管理する西殿塚古墳(同県天理市)も調査する。
369 返信:日本@名無史さん[] 投稿日:2017/09/11(月) 10:20:16.26
>>326
「奴」の音読み「ド」は漢音(唐代の長安付近の言語由来)だから有り得ない。
時代錯誤も甚だしいわ。
時代としては中古音の「ノ」または上古音の「ナ」と読むほうが実情に即している。
↑詭弁!!
この問題、古代のシナ人が我が国をどう呼んでいたかに尽きる
リーベン(北京官話の現代シナ語の日本)
イ、イ、委だよ ポイントは
2000年前から、共通している そこがすごい魏志倭人伝
地名の7割が一致している そこがすごい魏志倭人伝
繰り返す
「漢の委の奴の国王」
な わ
↑3段細切れ読み 根本的にまちがい!! イトまたはイドと読みます
金印は当然、政庁におかれた
皇帝の金印が地方の首長に下賜されるわけがない
印文のルールとは、二段国名が取られていたこと
三段国名の例があったら教えてもらいたい
ないだろ?? 畿内厨… 現代中国人は漢委奴国王をどう読むか?
仏教大学の黄當時教授は、2014年の10月に開催された
「第8回金印シンポジウム志賀島」において、
「金印の韻文は『漢の委奴の国王』と2段に読むしかない」
『3段読みは』致命的ともいえる欠陥を抱えている。固執は不毛である」
と述べ、また委奴国という漢字を見せられて、「ヤマト」「ワノナ」
と読む中国人はいないと断定している。
↑畿内厨!!!
それは倭国そのものが畿内と関係ない、つまり倭国女王卑弥呼やその都である邪馬台国も畿内と関係ないということ。
後先かんがえずに[卑奴母離]を[ひともり]とか[ひどもり]と読ませb謔、としても無荘ハだね
その時々のご都合で音合わせして統合失調症で読むのは畿内説に任せて置くべきだね
それと [委]のはかわちのおいちゃんふうに[wi]でよんでね
じゃあどうしろっての
漢倭奴国は畿内とでも主張しろと?
そんな九州説みたいなマネするわけないだろ
でも金印は偽物だと粘着したりしてんのは畿内説しか考えられんよなぁ
何らかの意図はありそうだな
いとだけに
邪馬壹國女王である壹與の父親はミマキ王である可能性が限りなく高い
父親のミマキ王は邪馬壹國ボードメンバーとして[彌馬升]の名で出てくる
畑から出たとされるようなのものは根拠にならないと言ってなかったっけ
委奴国と倭国は全く関係ないだけ。
倭国は倭人のクニ、畿内にあったんだよ。
>>84 >漢倭奴国王金印と邪馬台国は関係ねぇぞ
同じ倭国王なら関係ないわけない。
>>91 発見状況がわからないものは信用ならん。
金印はちゃんとお上に届け出ている。
吉備にアメノヒボコ(新羅の王子)が住み着いたのが
いつのまにか吉備に住み着いたのは鬼(ウラ)という話になってるからな
新羅からの渡来人が吉備で国を作り古墳祭祀を開始
吉備の古墳祭祀国が畿内に進出し支配
吉備からの移住勢力が畿内で大王権が確立すると逆にふるさとの吉備王を「鬼」として攻撃
これが吉備津彦や四道将軍だよね
親魏倭王の金印なら邪馬台国に関係あるが
漢倭奴国王金印は関係ねーな
漢倭奴国王金印で邪馬台国を何とか九州に持って行きたがる九州説は
よっぽど考古学的証拠に困ってるのか?
伊都国は魏志倭人伝でも、女王国ではないと明記されてるからね。
親魏倭王卑弥呼を王とする国、女王国。
女王国は、新生倭国だろうね。
>>96 何世紀の遺構から出土したかわからないから出土じゃないと言ってたんだろ
どっかにあったものを福岡の人が盗んできて志賀島に隠したのかもしれないし
倭奴国は倭國之極南界也って書いてあるし
宮崎串間の畑で穀璧というのが出てるし
畑から出たとされる出土状況でいいなら倭奴国は南九州あたりにしとく?
考古学的証拠に困っている九州説には
三角縁神獣鏡と前方後円墳と
ベニバナを畿内からおすそ分けしてあげなくてはいけませんな
伊都国まではちゃんと里程が書いてあるから、北部九州に間違いない。
卑弥呼の墓は「径百歩」
方墳なら「径」とは言わず「一辺」と言うだろうから不適
前方後円墳も不適
円墳、円形周溝墓、ホタテ貝式前方後円墳なら「径」をつかっておかしくない
いずれかだろうね
>>113 認めたくないだけだろ
前方後円墳に対して「径」は使わない
前方後円墳のルーツは積石塚でコマ系倭人の先祖の作が持ち込まれたもの
あほうが妄想して近世以降に大量の借景前方後円墳がでっちあげられた
>>119 負けの込んだ九州説は
珍説に走って寿命を更に短くした
・・・そして、死んだ
やっぱり邪馬台はヤマトだよ
2世紀後半には現在のヤマトにすでに王権が樹立されていた
そして3世紀前半にそこから卑弥呼が魏に使いを送り
銅鏡100枚とか貰ったんだ
ヤマトの名も山口の元祖ヤマトからのぱくり
いまひとつの元祖ヤマトは国生みの不彌國のなかにあって
現在でも地名を残している
不彌国のヤマトは
立派な遺跡や前方後円墳があるのかのう
>前方後円墳のルーツは積石塚
纒向石塚に葺石がなく周濠があるから違うだろ
>>122 >2世紀後半には現在のヤマトにすでに王権が樹立されていた
そんな痕跡ないでしょ。
埋葬施設があるのかどうか確認してない纒向石塚は
純考古学的には茶飲み話のレベル
>>129 じゃないと3世紀前半に魏に使いを送るのは厳しいからな
状況的証拠よ
那珂八幡古墳も第1主体部の調査はしてない
葺石もない
3世紀中ごろには百メートルをゆうに超えるような前方後円墳が
全国で初めて畿内で作られ始める
>>122 畿内にあったのは小地域の王権な
子分は東海だけ
逆に言うと四世紀以降に畿内に王権が樹立されたわけではない証拠
>>138 使わないという証拠が出せない東遷説の負け
>>137 そもそも3世紀かどうか確証がない。
卑弥呼に合わせて3世紀にしたかっただけ。
>>142 東遷説とやらではないからレスしていいものかわからんが、前方後円墳は墳長で測るよ。
九州説と東遷説の見分けかた
ひたすら自分の説に酔う・・・九州説
変にヒネって
インチキな証拠を出したり
相手を中傷し始めたりする・・東遷説
東遷説なんているのを見たことない。
畿内説の仮想敵だろ。
>>149 トンデモ九州説さんから
自分は自分の主張の証拠だせない
って証言いただきました
>>151 使うと思うか聞いてるだけなんだけど
使うと思うの?
これだから畿内説は逃げてばっかりって言われるんだよ恥ずかしいw
畿内説は実は東遷説だな。
【畿内説の主張のまとめ】
(>>1の発言をまとめたもの)
「瀬戸内海勢力が枢軸となって、総花的に纏向で田舎娘を共立した」
「首長のいない広域政治集団が発生したが、圧力が高まって、急激な首長権が確立した」
「弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、蝋燭の最後の輝きをはなって音もなく衰退した」
【畿内説(主にスレ主)が主張する東遷】
@弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、蝋燭の最後の輝きをはなって音もなく衰退した
A首長のいない広域政治集団が発生したが、圧力が高まって、急激な首長権が確立した
B結果的に伊都国の太陽祭祀を継いだ卑弥呼が、瀬戸内海勢力の実力を背景として、総花的に纏向で共立された >>154 証拠だせと言われて逃げてる九州説の妄言
w
>>153 倭奴国は福岡にあったのにいつどうやって畿内に覇権が移ったと考えてるの?
倭奴国には何の影響も受けずに勝手に畿内に王権ができたと思うの?
>>89 読みにくい論文やな。
倭は倭でも大きな倭、領域国家としての倭という意味で、聞き取り相手の倭人はポリネシア系の言語を話したと。いうことやな。
>>164 前方後円墳に「径」を使うと思うの?って質問から逃げ続けてるな
そもそも勝手に倭国が移動して王統も入れ替わったら、倭国としての正統性がないよ。
少なくとも場所か王統のどちらかが維持されてないと。
畿内説なら王統が東遷した。
九州説なら東遷はなく、王統の交代があったかどうかを論じればいい。
>>162 九州北部で戦乱があり、天孫族が大和に逃げ出したんだろ。
畿内説の理想:勝者の貫禄を見せ付けましょう
畿内説の現実:都合の悪い質問からは耳をふさいで逃げ続ける
どこが勝者の貫禄www
倭国の認定は卑弥呼からじゃん
岡上が勝手に妄想してるだけ
>>163 キウス醜くすぎる
自分が追い立てられて答えに困ったら
あとから相手に質問して
答えろ答えろ連呼で
誤魔化す
という
クズ特有のテクニック使ってんだな
倭国は移動してない
博多湾沿岸から卜骨が出ないから委奴に倭を使うのは倭に従属してから
>>165 自分が質問に答えられないので
あとから相手に質問する
って
インチキだよね
後漢書
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
>>169 そうやって自分で勝手に決め付けておいて
それを「〇〇的に確定してる!」とか主張するわけね
後漢書でもわかるように、対馬海峡周辺だけが倭国だよ。
妄想→自分で納得→学問的確定事項と思い込む
これが岡上
倭人は在帶方東南大海之中
朝鮮半島に弁辰と辰韓の合計の五万の戸数があったら北部九州沿岸より広くなってしまう
>>175 で?
前方後円墳に「径」を使うと思うの?
282の
>>190 >そうとするならば、ちゃんとした史料に記されている根拠がなくてはいけない<
魏志などに記載された史料実態が根拠。
>それでなくてもわかっている範囲の中国の歴史を通じて 里は一里400mからそう逸脱した事はない<
魏志の前にも周髀産経や礼記や淮南子や山海経や漢書注などの史料実態があるし、
魏志の後にも、倭の位置や地理記載の史料実態がある。
>しかし周髀算経にあった記述から現在の数学を使って一里を割り出して
なので周の時代の一里は短里だったというのは 史料の扱い方があまりにも乱暴
理論的な論証のやり方とはとても言えない<
逆だな。
古田さんが、魏志などの史料実態から短里の存在を帰納的に推論され、
それと、谷本氏の「周髀算経の一寸千里の法」の「里」が、短里であり、古田さんの推論とほぼ一致した。
前方後円墳の場合でも
本来の盛ったところだけについていえば
「径」を使って表現しても何の不都合も無い
282の
>>191 >クナ国、個人的には2世紀末までは大和、河内、和泉にまたがる国であったが、
大和の地を卑弥呼側の勢力に奪われ、魏志倭人伝当時は河内、和泉であったと考えている。<
「南≠東」であるから、×ね。
>>176 倭国の範囲として
北の端、西の端が狗邪韓国
南の端が倭奴国
東の端については言及なし
そしてその間に邪馬台国がある
と読み取れる
倭奴国は北部九州
つまり邪馬台国は、
・北部九州より北にあり、狗邪韓国より南にある
・ただし対馬や壱岐ではない(対馬国、壱岐国は別国として魏志に記されている)
本州の日本海側しかないだろう
まぁ経経喚いてるキュウシュウには径で測れる円形周溝墓すらまともに存在してないがなw
自分で「キュウシュウに邪馬台国なんてありません!」と喚いてるんだから笑わせてくれる
>>190 帰納的に推論したってのが真っ赤なウソなので
全て崩壊ね
w
>>191 本来って?
先に円墳部を作ったとでも言いたいなら根拠を示さないと
>>194 なんで勝手に「径」について質問してるのが九州説だと思ったの?
そういう思い込みの激しさがすべてにおいて畿内説くんの特徴として表れてて、それがバカにされてるんだよ?
282の
>>195 >それを考えると、卑弥呼の時代、日本海、瀬戸内海には
敵対勢力と卑弥呼を共立した勢力が混在していた可能性が高いと思われる。<
魏志では、共立30国と、「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」とは、
はっきりと書き分けられているから、違うものだ、という事であり、
だから×ね。
九州には大型墳墓祭祀なんて全く発展しなかったからな
それは西日本で発展し確立したもの
九州は径100歩どころかそんな大型墳墓が存在しない
そして邪馬台国の後になってから「今まで無かったものが」急激に流入してそれまでの墓制を塗りつぶしてしまう
属国乙
北部九州沿岸は和歌山南端と同緯度だから本州より南
日本海側とは言えない
282の
>>196 >卑弥呼の居館域と推定される大型建物のある柵で囲まれたエリアだけでも、1.5haある<
「南≠東」だから、×ね。
282の
>>197 「南→東」などの嘘吐きダマシのヤマト説が、クズすぎて怖い。
もう殺されそう。
>>204 根拠を示さないとって書いてるのが読めないのかな?
発生期の前方後円墳の主体部は後円部にありここに埋葬主体が存在してる
また後の古墳に比べで後円部が極端に大きいことがこの時期の古墳の特徴
なので「主体部をもって墓の大きさを表現することは、【古墳の発展史から考えても】何の不思議もない」
むしろ出現期古墳を指しているのならば的確な記述であるとわかる
282の
>>199 >卑弥呼がいた纒向は、対狗奴国の前線基地。<
「南→東」の嘘吐きダマシだから、×。
テンプレ読めば、読むほど
倭人伝とかけ離れ
邪馬台国と違う国が畿内にあったとしか理解できない
>>182 最初は自分に都合のいい妄想だったり、都合のいいように吐いた嘘だったりしたのに
いつのまにやら自分自身でそれを本当のことなんだと信じ込んでしまう心の病気があるらしいよ
282の
>>212 あーあ大和説者が、とうとう嘘吐きダマシの・・・・と化しちまった。
九州説が追い詰めすぎるからだぞ?。
桃の種だから纏向は不老不死の扶桑国だと言いたいんだろう
282の
>>215 >卑弥呼共立、ヤマト征圧、纒向建設の主力である伊勢尾張、吉備。 <
「南≠東」だから、×。
282の
>>216 >河内やヤマト。ここが卑弥呼と対立する卑弥弓呼の支配域。狗奴国<
「南≠東」だから、×ね。
あと畿内説では箸墓の被葬者を卑弥呼だと必ずしも主張していない
別にホケノでも何でも構わない
282の
>>217 >纒向は、卑弥呼がいた大集落。<
「南→東」の嘘吐きダマシだから、×ね。
>>207 >また後の古墳に比べで後円部が極端に大きいことがこの時期の古墳の特徴 <
前方後円墳を古い順に並べてくれませんか?
瀬田遺跡を前方後円墳に入れるか否かは任せます
282の
>>218 >卑弥呼、そしてその流れを汲む初期ヤマト政権。
実は倭国大乱でクニに対して謀叛を起こした勢力だった可能性も考えられる。<
「南→東」の嘘吐きダマシを匂わせているから、×ね。
282の
>>220 >大和の地が卑弥呼側の勢力に制圧された後(2世紀後半以降)の、
狗奴国の版図は、河内、和泉。<
「南≠東」のウソダマシであるから、×。
「魏志倭人伝」には、倭人の葬式は、
「棺あって槨なし。」
282no
>>234 大和説をコピペ荒らし化させたから九州説の勝ちでいい?。
282の
>>238 >纏向とは 前代未聞の巨大祭祀空間で祭事以外に
ベニバナ染色工場や ベニバナとバジルとの漢方薬製造工場の運営をしていた
また、これらの工員とは別に 土木作業員が居て、巫女1,000人が居て、兵士が居たんだって
スゴイ都だな<
凄くないよ。
弥生銀座には全く負けているよ。
282の
>>242 大和説者に もうマトモな話のできる人材が残ってない 、というのは、
結果として九州説の勝ちを表してる状況 、
ということでいいがね 。
>>193 >・北部九州より北にあり、狗邪韓国より南にある
九州北部より北ではなく、伊都以北だろ。
伊都を含むんだよ。
該当するのは伊都しかない。
倭国は、都が領土の端にある国なんだ。
なぜなら、南側が狗奴国として反旗を翻したから。
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
槨かく
墓制上の用語。中国古代の用法では,直接死体を収納するものを棺といい,その棺を置くところを槨といい,槨は壙の中に造られるという。
【厳密にいえば日本の古代の墓制にはあてはまらない。】
【大正初期に棺槨論争があったが】,現在は棺は用いるが,槨という用語はあまり使われていない。
粘土槨,木炭槨という言葉は本来の厳密な意味からは離れており,木棺を粘土あるいは木炭などで包むような構造のものをいう。
何度目だ
大正時代に済んだネタをまだ使うバカがキュウシュウセツ
もうあまりのバカさに哀れみしか感じない
>>209 >テンプレ読めば、読むほど
>倭人伝とかけ離れ
>邪馬台国と違う国が畿内にあったとしか理解できない
あなたは賢い。
>>215 テンプレ読んでご覧。
自分が支持している畿内説とやらの正体に気がつくと愕然とすると思うよ。
猿以下のキュウシュウセツが人間と会話してるつもりだから笑わせてくれる
>>225 >【厳密にいえば日本の古代の墓制にはあてはまらない。】
ここが畿内説に都合が悪くて誤魔化しているところなわけか。
>>225 >粘土槨,木炭槨という言葉は本来の厳密な意味からは離れており,木棺を粘土あるいは木炭などで包むような構造のものをいう。
こんなものが箸墓にあったの?
何のために関係ない話を持ち出すの?
詐欺師なの?
筑紫は畿内より100年早く古墳時代になってたからね。しょうがないね。
無槨は倭人一般の風習
中国では貧乏人以外は有棺有槨だから倭国でも王や官クラスは違いが出てるだろう
顔淵死す。顔路子の車を以て之が椁を為らんと請う。子曰く、才も不才も、亦た各其の子を言うなり。
鯉や死しせしとき、棺有りて椁無し。
吾徒行して以て之が椁を為らざりしは、吾大夫の後に従い、徒行す可からざるを以てなり。 論語
九州には考古学物証が少ないみたいなのを
ザラコクがそっくりそのままひっくり返して
大和には考古学物証が少ないとか言って
キャッキャ喜んでる様はやはり異様だ
九州北部には、そこが王都であったことを示す威信材がゴロゴロしている。
奈良盆地にはそれが何一つない。
倭人伝には倭の産物は書いてあるが、舶載品がゴロゴロしているようなことは書いてない
舶載品や輸入原料を加工したのがゴロゴロしていると言ってるんだろ
そのゴロゴロしてるところに、倭人特有の卜骨が出なきゃ
外港には異人商人も住むから
>>235 で。実際にはどこに、何がゴロゴロしてんの?
「三国志」の著者は、葬式には、関心をもっていた。 たとえば、
「韓伝」「夫余伝」では、それぞれ、「槨あって棺なし」、
「高句麗伝」では、「石を積みて封となす」、
「東沃沮伝」では、「大木の槨を作る、長さ十余丈」
などと、いちいち書きわけている。
畿内の「木槨木棺墓」も「竪穴式石室墓」も、「棺あって槨なし」にあわない。 邪馬台国が、かりに大和にあったとすれば、魏の使は、それらの葬式を見ききせずに記したのであろうか。
「木槨木棺墓」や「竪穴式石室墓」、さらには「横穴式石室」は、時代の下った「隋書倭国伝」の、
「死者を斂めるに棺槨をもってする」
という記事と、ぴたり一致する。 中国人の観察、弁別記述は鋭い。
>>245 >「棺あって槨なし」にあわない
って理由は?
『魏志倭人伝』には、倭人は、「鉄の鏃(やじり)」を使うと記されている。
表をご覧いただきたい。「鉄の鏃」は、福岡県から398個出土している。 奈良県からは、わずか4個しか出土していない。圧倒的な差がある。
それでも、『魏志倭人伝』に、なんの記載もない「土器」の話などをもちだし、複雑な理論構成をして、「邪馬台国は、畿内説できまりだ。」などと主張する考古学者がいる。科学に必要な簡明さにおよそ欠けている。
いかなる矛盾にも目をつむってよいのであれば、どんな議論でもなりたつ。
物証
■鉄の鏃
魏志倭人伝は、倭人は鉄の鏃を使うと記す。
鉄の鏃は、畿内よりも、九州から圧倒的に多く出土する。
福岡県からは、奈良県の約100倍の鏃が出土する。
■鉄刀・鉄剣・鉄矛・鉄戈
倭人伝には、倭人は兵器に矛を持つと記す。邪馬台国の時代には、青銅器は、 広型銅剣のようにすでに祭器化しており、実用的武器としては鉄矛が使 われたと考えられる。このころは、刀も、鉄製であろう。
鉄刀・鉄剣・鉄矛・鉄戈などの鉄製武器は、畿内よりも、九州から圧倒的に多く出土する。 福岡県からは、奈良県の約100倍出土する。
■刀子
刀子は日常的な用途のナイフ・小刀のことで、出土数も多い。その分布は、倭人の鉄の使用状況をよく示すものである。
刀子は、畿内よりも、九州から圧倒的に多く出土する。福岡県では210本も出土したのに、奈良県では一本も出土しない
■絹
倭人伝には、倭人は養蚕を行い絹織物を作っていたと記す。
絹は、畿内よりも、九州からはるかに多く出土する。
奈良県に比べると、福岡県は圧倒的に出土地の数が多い。
時代ごとの分布を見ると、弥生時代に福岡地域で作られていた絹が、後の古墳時代になって、近畿など他の地域に広がったように見える
■魏晋鏡
邪馬台国が、魏や晋の国から獲得したのは、その当時、中国の北方で入手できた内行花文鏡、位至三公鏡などの鏡であろう。
魏や晋の時代に中国北方で流行した10種の鏡について出土状況をみると、畿内よりも、九州から多く出土し、福岡県からは奈良県の20倍にちかい数が出土している。
時代ごとの分布を見ると、弥生時代に福岡地域で使われていた鏡が、後の古墳時代になって、近畿など他の地域にも広がったように見える
以上のように、『魏志倭人伝』に記されているもので、ほぼ、邪馬台国時代の遺跡から出土するものにかぎれば、
奈良県には、ほとんどみるべきものがなく、福岡県と奈良県とのあいだには、圧倒的な差がある。
畿内説論者のほぼ全員が口をつぐんでいる一文がある。
・・・女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、皆倭種なり。
女王国東方の海を渡つた所にさ らに別の国がある、ただし、人種は同じ倭人だと言っている。
南を東と読む畿内説パターンなら、東は北だ。琵琶湖でも渡り北陸あたりを想定するか。
だが、倭人伝の「海を渡る」は舟でしか渡れない 場合に限定される。
これこそ、畿内説では絶対に理解不可能な一文 なのだ。
ブルタニカが好きな方へ
ベニバナ
キク科の越年草で,西アジア原産。古くから栽培されてきた重要な染料植物で,
推古天皇の時代に高麗から日本に伝わったといわれ,染料,化粧料,薬用として栽培されてきた。
植物図鑑 Weblio辞書
●熱帯アジアが原産だと考えられています。わが国へは江戸時代に中国から渡来しました。
されてきた が 纒向遺跡の3世紀中頃の溝から検出された
>>254 それ・・・絶対に考古学者じゃないやつが書いたもんコピーしてきたな
>>260 だったら何??
内容について反論してみろよ??
ほんと畿内厨は論点ずらししか出来ないカス
>>261 具体的な事実が何も書いてない
年代の特定を全くしていない
これ、歴史の考察として全く失格じゃん
>>255は
古田、鳥越氏 あたりも指摘しているよ
女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、皆倭種なり。
>>259 ベニバナの染色技術が300年間 消えた理由が説明できない
バジルの漢方薬製造が1400年間 消えた理由が説明できない
すばらしい、文明(紅花染色、バジル漢方薬)を手にしたのに放棄したと考えらるでしょうか?
いわんや、邪馬台国=初期ヤマト王権と比定するならば文明は継承、進化するはず。
>>266 ナイス
これは畿内説が説明する必要があるね
朝から 弱すぎる畿内爺さんが暴れてるが
議論に着いて行けないようだWwwwwww
>>259 纒向が3世紀ではなくもっと新しいということだよ。
考古学的には畿内説の根拠がまるでなく、むしろ否定的ということだ。
>>271 そんなことを言ってる考古学者は誰かね、岡上くん
>>269 仕方ないよ。。
発狂しているうえに、知識がないのだからね、、、
266日本@名無史さん2017/10/04(水) 06:36:11.25
>>268 >>259 ベニバナの染色技術が300年間 消えた理由が説明できない
バジルの漢方薬製造が1400年間 消えた理由が説明できない
すばらしい、文明(紅花染色、バジル漢方薬)を手にしたのに放棄したと考えらるでしょうか?
いわんや、邪馬台国=初期ヤマト王権と比定するならば文明は継承、進化するはず。
ベニバナ バジル 花粉は ゴッドハンドでばら撒いたのが裏目に出た
畿内説は国家ピロジェクト
天皇の先祖を渡来人にするなということ
カルト宗教だから否定されればされるほど意気地になるんだろうな畿内バカは
>>266 バカデスカ
枯れちゃったら終わりじゃん
椿井大塚古墳(京都・3世紀中葉)
鉄刀7本以上、鉄剣十数本以上、鉄矛7本以上、
鉄鏃約200本、銅鏃17本、鉄製甲冑1領が、
工具・農具では、鉄鎌3本、鉄斧10個、鉄刀17本、
鉄製ヤリカンナ7本以上、鉄錐8本以上、鉄ノミ3本以上が、
漁具では、鉄銛十数本、鉄ヤス数本、
鉄製釣針1本が出土している。
また、日本最古の刀子も出土している。
>>281 椿井大塚古墳は三角縁神獣鏡32面も出土してるし3世紀じゃないな
鉄製品も多く出土してるし5世紀くらいじゃないかな。
282の
>>322 >巻向からは木と土器しか出てこないと思ってたが桃の種や魚の骨も出てたのか
それは女王の都にふさわしいな <
「其地無牛馬虎豹羊鵲」や、
「兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃」や、
「有棺無槨、封土作冢」や、
「出眞珠、青玉」や、
「其山有丹、其木有木冉、杼、豫樟、楙櫪、投橿、烏號、楓香、其竹篠冠竹脚幹、桃支」や。
「有薑、橘、椒、zeu荷、不知以爲滋味」や、
「有bi猴、黒雉」や、
「居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」
などが、揃わないと、女王の都にふさわしくないな。
筑紫は畿内より100年早く古墳時代になってたからね。
>>282 都合が悪いと考古学的成果を無視するのな
282の
>>346 >なぜ? 西に攻めて征服したんだから九州が拠点ではおかしいだろ <
>「東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」であるから、
西は、
「征伐」したり「平定」したりした、という他動詞では書いておらず、
「服従」している、という自動詞にして書き分けてある。
>>280 あなた馬鹿、大陸との交流馬鹿続いているのだから、枯れても入手可能
282の
>>429 「南→東」などの嘘つきダマシの大和説は、もう諦めたら?。
恥さらすだけでしょ?。
282の
>>431 大和説も、もう生きれないかな?。
282の
>>432 過去1200年間、いかなる学者も理解出来なかったなかった倭人伝の、
人類の常識の「出発+途中+到着+付加」の順次式の、当たり前の読み方を、
古田さんら九州説者らが発見され、 考古学的にも明らかになり、
国民の過半数が賛成と言う、 こんな九州説を、
未だに国民の3割しか賛成せず、皇国史観国家宗教の「南→東」などの史料事実否定ばかりの大和説に、
国民や世間が、飽きた。 藁
282の
>>433 「南→東」などの嘘つきダマシの珍妙な大和説の論には、
いつも笑わせて貰ってるわ 。
282の
>>434 「南→東」などの嘘つきダマシのいまの大和説にできることは、
歴史を学問的に解き明かそう思う人を、
言葉尻への口先暴力で、黙らせることくらいかな?。
282の
>>435 考古だけなら大和説とかの誤魔化しを言いながら、
必死に文献とは違う読みを作って、誤魔化そうとしている姿。
滑稽。
どうしても、愚かな内容のテンプレートが論破されてしまうね。。。。
テンプレが論破されてしまうところまでがこのスレのテンプレ
w
>>285 考古学の分野で畿内説はゴッドハンドを多用している。
まったく信用されていない。
>>297 まだわからないのか
中傷じゃ畿内説に勝てんって
>>299 ん?w
畿内説的には京都でもオッケーなの?w
マキムクマキムク言ってたのはなんだったんだよw
282の
>>439 >成分分析で中国製と判明した三角縁を 国産とかいう九州説は科学的に違う<
洛陽付近からは全く出土せず、呉付近や楽浪付近で三角縁や神獣鏡が盛行し、
その伝統から三角縁神獣鏡が列島各地に出現した事を全く無視する大和説。
>どういう方法で分析したかを良く知らないで 口から出任せを言う九州説<
古い漢鏡や銅鐸や呉系楽浪鏡師らの手持ちの鏡材料銅があるから、
地域別的成分分析が全く意味を持たない、
という事も判らないらしい・・・・アホアホの大和説者。
>>300 もともと南山城は邪馬台国に入ることがテンプレにも書いてあるし
纒向は宮殿所在地だから何の矛盾もない
せっそうねえな畿内説はw
やっぱり結論ありきじゃねえかw
支配地域が畿内全体だとしても、女王の都、兵が守っていたという楼閣高い王宮はどこにあったんだよ?
282の
>>448 具体的な史料や分析説明をせず、口先での「匂わせ誹謗宣伝」ばかりで、
なにを言ってるんだか意味不明な文章だ。
「南→東」などの嘘吐きダマシの・・・・九州説の人は、コレだから困る。
>>305 なんで突然そんな結論が出るんだ?
理由がないってことは、あんた
結論ありき
の人だな
282の
>>458 >>中国から一枚も出土していない鏡というのは 日本製と考えないと学問が先に進まないよ。<
>その考え方は、実は結構怪しい。<
いや、不可知部分が殆どである自然や歴史においては、
全て知り得た事実からの「帰納的推論」の確率の高さが論点だ。
「怪しい」なんて言わずに、どれ位の確率なのか?を論じるべきだ。
>考えてごらん。 日本でその一枚が出てしまったら、その一枚は中国で出るわけないだろ?
定義がどのくらい厳密かによるんだよ。<
同じ事だ。日本で500枚以上出て、洛陽では0〜1枚しか出なければ、
魏朝の鏡であった確率は、0.2%以下だ。
>定義がキツくなればなるほど、中国で出なくてもオカシくなくなる。<
確率ではなく、「定義」という演繹論的断定で誤魔化すのが、
口先騙しの・・・・宗教家の特徴だ。
現在のバジルは、インドからヨーロッパに渡った1種が主にイタリアで香辛料として用いられ、
そこから世界に広がりバジルまたはスイートバジルやイタリアンバジルと呼ばれ、
学名Ocimum basilicum である。
これは日本には江戸時代には伝来している。
しかし、インドから東南アジアにかけてメボウキ属は40種以上が存在している。
纒向で検出されたバジルの花粉は江戸時代に伝来した現在のものとも
平城京跡の土坑から検出されたメボウキ属の花粉とも種が異なる(金原)
中国でも輸入品だったんだろう
紅花の赤色は美しく発色するが、光や酸素の作用により退色しやすく、
経年によりその彩りを失ってしまう。
正倉院宝物は、製作されてから1250年以上経過したものがほとんどであり、
正倉院染色品から紅花染めの宝物を見出すことは難しいとされてきた。
しかし、文化財を対象とした染料調査の進展や科学分析機器の発達により、
最近の正倉院染色品の経常的な染料調査の中で、紅花染めの宝物が確認され始めている。(中村力也)
正倉院染色品でもまだ研究が始まったばかり
■アンチの特徴
・とにかく理由を言わない。結論だけがある。
・定型句を使って畿内説を「批判」する。その定型句は現実の機内説とは関係がない。
・質問されたら答えない。対応は
1 まったく無視
2 後から別の質問返しをして、答えろ答えろと連呼して誤魔化す。
3 悪口雑言やコピペ荒らしでログを流す
など
畿内説質問に答えられず終了w
わからないなら「わからない」と誠実に答えればいいのにw
答えずに逃げるから人間自体が不誠実で信用できないと思われてるわけだからな?
まずFAQ 23を読んでから具体的に反証したらいいんじゃないかな
>>317 読んだが、くるしまぎの憶測と思い込みだよ
>>317 ところで、畿内の前方後円墳を古い順に並べて欲しいと
お願いしましたが、まだですか?
>>311 それで、染色技術がなぜ、突如無くなったの?
バジル漢方薬なんて1400年も何故歴史から消えたの?
テレビなのか漫画なのか知らないけど、
家の話のような気がするんだけど
暴力団や関係者ではないんだけど、
むかーし住んでいた家には凄い刀が飾ってあったと言っていたり
馬に乗っていて・・・
>>322 近年の考古学的成果は機器の発達に拠るところが大きい
学者の地道な研究報告を待たれよ
どのスレだったかな、
暴力次男と言っている人がいなかった?
もれ(仮)の父親も、
確か次男
昔、言っていたような
母親「まだモレ(仮)が、おなかの中にいるときに」このような話
モレ(仮)というのは、書き込みをしている、もれ(仮)という意味
お父さん(もれの父親という意味)に殺されそうになったと言っていたのか、
大げさに言っているだけなのか
おじいちゃんは大人しかったんだけど、
と言っていたり
サイバーパンクspecial?
「寒い・・・寒い」
と言っていたり、川崎に住んでいて
>>322 その時だけの数に限りのある輸入品で作ったから
染物技術そのもは別に珍しいものでもないがベニバナが輸入品で継続して使うことがなかったから
染物技術は特別なものではないから技術は別な染物でも同じ
バジルとかも具体的な使用例は不明だが同様
別に不思議でも何でもない
なに凄いこと思いついたみたいに浮かれて連投してんだろうなこいつ
染料を使って色を付ける絹は下池山等からも出てきてる
染料技術そのものはすでに日本にあってその後も継続してる
ベニバナ着色は献上品等の特別な染物として希少な染料を輸入してその時だけ使われた物だから何もおかしくない
創価?
嫌いだと言っているんだけど、そういうのが原因なのかな
ガラスも正倉院にあるがそれをもって日本でガラスが定着したとかいうわけではない
時計なども戦国時代などに持ち込まれているがこれも定着して日本のものになったわけでもない
その時だけの特別な輸入品など別に珍しくもない
段々と、奈良の狂った老人に元気がなくなってきたようだね、、、、
『ドリフターズ』という作品でしょ
登場人物の台詞「ばかやろー、このやろー」
と同じような家なんだけど、ただ読み方が「す」のほう
282の
>>475 >ザラコク及びに九州説よ
三角縁神獣鏡が中国で1枚も出土してないって言うのはもうやめようや
その度に見つかってるよ、出土場所もわかってるよで論破されて
何回恥をさらせば気が済むんだ <
嫌だ。
要は確率の問題だ。
列島からは500枚以上出土し、洛陽からは1〜2枚しか発見されない鏡は、
魏朝の「尚方作」鏡も含めて、明帝の100枚の下賜鏡である確率が、全くない、
と事だ。
282の
>>503 >日本でしか発掘されていない→日本製、という推定 さして説得力はない <
要は、確率の問題。
何かの教え、教訓なのかな
もれ(仮)は酒なんて飲まないから、
よくわからないけど、兄も飲まないし
老婆は、このような事を言っていた
「昔は、きちがい水と言ったんだよ」
アルコール類の話
桃の種が出るんだからマキムクが女王の都に決まってる
反論はナシで
>>346 じゃあ日本全国から出土する三角縁は違うな
>>342 それ、日中の発掘実施頻度を掛けないと
確率として意味ないから
>>348 全国に示せって言われて貰ったんだから
普及してないとダメだろう
>>350 普及してる鏡だと卑弥呼の鏡にならないからな
それにしても、
家の老婆は詳しいよ
どうなっているんだろう
>>325 それって、ベニバナ染色も確定してないと言う事じゃん
あかね染色のほうが、説得力あるじゃん
バジル漢方なんて、どうやったら立証できると思う?
もれ(仮)の父親には兄がいるんだけど、
かなーり前に亡くなっているので
家の父親こそが正統なる
『かっぱっぱ』とも言える
でも・・・家の父親の、
兄は自衛隊に入っていた事があった?
と言っていたような、いなかったような
親戚に銀?というのもいたと言っていたり、
そして謎の刀の話
>>353 ベニバナは花粉の量から染色に使用されたと考えられている
検出された状況からベニバナもバジルも栽培はされていないと考えられている
その後の時代のベニバナやバジルの検出は待たれよと言っている
282の
>>513 >またよくわからない事書いているな
魏志の中で洛陽近辺の一里は換算すると400mに近い<
ダメだな。
三国志では、呉志や蜀志では(魏の政権下ではないから)長里記載が多いようだが、
魏志では、
漢代での里数の記録や、上表文の引用記録などで、長里的記録も散見されるが、
曹操の時期から以降では、ほぼ短里での記載になっていた。
>インド方面は一里200mくらいだそうだ<
その記録の時期などの史料批判が必要だな。
>倭方面は一里40〜180m<
計測箇所にも拠るが、全て、1里55〜100m であり、
周髀算経が示す76・5mの「有効数字1桁」近似の範囲内。
>地方に行けば行くほど距離が不正確なのは 道が未整備だったり土地カンがなくて
歩測などで正確に距離をはかれなかった証拠 一率で一里75mの短里はなかった証拠でもある
<
夷人は「里」を知らないんだから、全て魏使らが一律に計測した里数の近似数値。
282の
>>518 ホケノに鉄鏃を持ち込んだ部族は、
筑紫倭国自身の東征と、「槨」の扶余や東沃沮の流民と、画文帯の楽浪流民が、考えられる。
ホケノに鉄鏃を持ち込んだ部族は、
筑紫倭国自身の東征と、「槨」の扶余や東沃沮の流民と、画文帯の楽浪流民が、考えられるな
バジルの渡来については
日本漢方生薬製剤協会
日本医師会
日本薬学会
等でまず調査したらいかがか
薬については
遣隋使・遣唐使によって、また朝鮮経由で中国から伝えらています。
8世紀に日本に戒律を伝えた鑑真は医学にも精通したとされ、
756年に崩御した聖武天皇の遺品を納めた奈良の正倉院には多く薬物が納められています。
しかし、その中にバジルらしきものが有るかも。あっても渡来年代が問題ですね
282の
>>537 苦し紛れに、
確率の問題である事を隠して、
口先言葉尻誹謗連呼のコピペを始めた大和説。
それにしても、おかしな話だよ
二本松 安達高校?
老婆の実家の近所だよ
282の
>>538 議論に負けたあまりの口惜しさに大和説者は、 ついに、
確率を調べればすぐわかるウソをついて、
口先での言葉尻曲解罵倒の宣伝をはじめた模様。
支配地域が畿内全体だとしても、女王の都、兵が守っていたという楼閣高い王宮はどこにあったんだよ?
人格批判されるほどひどい質問だとは思わないけどね。
畿内説にとって致命的な質問なのか。
桃って、あつから日本にあったの?
まさか纒向にあったから3世紀からあったとか言わないよね?
282の
>>540 「南→東」などの、大和説者のウソつきは、昔からだし。
▢▢力夫でしょ、
力夫という名前の親戚はいないけど、老婆の家の近所に住んでいたのかな。
家は伊達郡というところ。
正倉院は8世紀に存在したものを保管したのが始まり
日本漢方生薬製剤協会、日本医師会、日本薬学会は機器を使って
遺跡の植物遺体分析などやっていないと思うが
>>357 歴史の連続性をまるっきりわかって無いね
特に、ベニバナ染色やバジル漢方なんかは、有益ゆえ後世に伝承する物なのですよ
待てと言われても、調査方法を明記してくれないといけない
また、笑っちゃいけないが、ベニバナ染色、バジル漢方薬の花火を打ち上げただけで根拠は何もない
倭人伝にも出て来ない、朝貢の織物の赤は紅花だという根拠も無い・・・織物自体見つかっていない
溝の年代比定が間違ってるか、誰かがゴッドハンドでばら撒いたと言われても仕方ない
また、ベニバナの花が見つかってもいいが花粉だけでしょ
花粉じゃ染色できない、
>>371 溝の年代比定が間違ってるか、誰かがゴッドハンドでばら撒いたと指摘している研究者は誰?
>>357 乾燥した花弁の状態で大量に魏から輸入されたか、一時的に栽培に成功したが維持できなかったか、いくつかのケースが考えられる。
庄内3なのは確定。
282の
>>542 >三角縁が中国から1枚も出ないと言い張ればウソつきになり
認めてしまえば日本でしか出ないから三角縁は国産説破綻 <
要は確率の問題。
魏帝の「尚方作」鏡を含めての100枚の下賜鏡に関して、
洛陽からは0〜1枚しか見つからず、列島からだけ500枚以上も出土している三角縁神獣鏡が、
適切である、という可能性や確率が十分なのか?の問題。
どうやら大和説はジレンマに陥ってしまったようですなぁ 。
>>371 押されに押された九州説が不可知論で必死に抵抗か。
他の地点で検出されていないということだから
花粉は飛散していない
>>371 調査方法なんて論文に明記されてるだろ
ナンデモ反対って万年野党と同じだな
>>370 手探りでしょ
当たりはずれもあると思いますが、まずどこから手を付けるかです。
歴史の文献ではバジルは江戸期まで出て来ないのは承知だと思いますが
炭素年代法も1つの手ですね 花粉でも調べられるそうです 花びらだと花粉より絞り込めるそうですよ
>>377 ジレンマって言葉、意味しらないで使ってるだろ
みっともない
ふたことめには確率確率って、これも恥さらし
算出方法を知らないで言ってるからアホそのもの
282の
>>550 >出土ではないが1枚発見 九州説は自説に不利だからとこれを無視するのである<
無視しない。
0〜1枚では、列島の500枚以上に比べて確率が低過ぎて、
三角縁神獣鏡の「魏帝からの100枚の下賜鏡」の根拠にするには、
確率が低過ぎる、と言っている。
「南→東」などの嘘つきダマシだけではなく、大和説者はひどい嘘つき連中である。
282の
>>551 >中国出土の三角縁は赤サビで日本から持ち込まれたものではない
ということに決定した <
そうでしたか。
中国出土の三角縁は、
青銅製というよりは、鉄も含まれていた可能性がある、
という事だったのですね。
282の
>>554 >まあ、これまでだって中国から三角縁が出るたびに あれは斜縁たーとか
これは雲気文があるからーとか いろいろシノいで来たのが実態だよ <
ふーん、そうだったのですか。
>今回も考古学的発掘じゃないからーで済ます いいさ そのうちまた出るだろ <
斜縁や雲気文や赤さびでは、列島の三角縁神獣鏡と同じだ、とは言えませんよ。
>>388 初期の三角縁が斜縁だってことも知らないの?
無知はやだねー九州説
>鉄も含まれていた可能性
酸化銅(I)=銅の酸化物
282の
>>565 >畿内説は平気でダブルスタンダードを使うよ。
いろんな土器が博多に流入すれば博多が権力を失ったと言い、
しょぼい土器が纒向に流入すれば権力で集めたと言う。
九州から鏡文化が広まると求心力を失ったと言い、
畿内から前方後円墳が広まったから畿内が文化の中心と言い張る。<
賛成です。
>>1 >纏向・・2世紀末・・複数棟連続して計画的に建築された大型建物群<
以上の年代比定はどのような根拠ですか?
土器ですか?
九州説の皆さんへのお願い
極力研究者の見解を書いてください
お爺さんの感想はいりません
あのーーーーーーーーーーーーーーーーーー
まだ回答が無いので-----------------------------
使者は,瀬戸内海で方位誤認したという根拠が無いのですが
海遊録で対馬近辺の誤認は分かるのですが・・・ただし船頭は誤認していない、乗船者の誤認は分かるのですが
282の
>>572 >これだから九州説はウソつきと言われるんだ <
大和説者は、「南→東」などの嘘つきダマシをするから、ウソつきと言われるんだぞ。
>お前以外はちゃんと該当ページを見つけているぞ <
私は、まだ「該当ページ」を紹介して貰っていないよ。
なんせ、大和説者は、都合の悪い情報は、必死で伏せて隠して逃げるからな。
282の
>>573 >中国で一枚も見つかっていない から
中国で一枚も学術的な調査団によって発掘されてない に後退した
畿内説としては、これで十分 だんだん真実が近づいている <
鉄の赤さび付きでは、魏帝の「銅鏡」の根拠にならないよ。
>>389
中国朱が検出された萩原墳墓群・天河別神社古墳群のある地域を支配していた有力者は、当時、魏と交流していたことが窺える。
その、魏の水銀朱が使われた萩原古墳群から出土の画文帯神獣鏡
同じく魏の水銀朱が使われた天河別神社古墳群から出土の斜縁二神二獣鏡
魏から下賜された鏡は、この画文帯神獣鏡か斜縁二神二獣鏡 このどちらかの可能性が高い @阿波 畿内説の皆さんへのお願い
極力研究者の見解を書いてください
根拠のないニートの妄想はいりません
研究者も何もないよ
『松傾』
この家は何かの家じゃなかった?
282の
>>582 見苦しいなー「南→東」などの嘘つきダマシの大和説は。
「ページが見つからないフリなんかして」と誹謗するばかりで、
そのページの内容を決して、転写するなり紹介するなりを、しないんだから。
>>389
中国朱が検出された萩原墳墓群・天河別神社古墳群のある地域を支配していた有力者は、当時、魏と交流していたことが窺える。
その、魏の水銀朱が使われた萩原古墳群から出土の画文帯神獣鏡
同じく魏の水銀朱が使われた天河別神社古墳群から出土の斜縁二神二獣鏡
魏から下賜された鏡は、この画文帯神獣鏡か斜縁二神二獣鏡 このどちらかの可能性が高い。
こういう事実を示せるのは、なぜか「阿波」だけ。 @阿波 キュウリのような葉、葱の華・・・の写っている写真
『松傾』と同じだと言っているよ、上の名前の読み方
それと松の木(モミの木?)、オジギソウ、シダ類・・・などの写真も同じ。
282の
>>590 大和説の必死さは理解した。
三角縁が魏鏡でないなら、大和説は即死だからな。
九州説には、平原の21枚の「尚方作」の方格規矩鏡があるから、
始めから議論に勝っていた。
282の
>>595 そして三角縁はどう考えても列島鏡だから、
大和説はほぼ死んでいる 。
家の中に きつね いなり の像が置いてあったと言ってたりw
家の中にあった言っていたよ
蚕、機織りと関係しているのかな?
稲かな?
調べてみたでしょ
『屋敷神』
都合のいいことは並べ立てるけど質問には答えられない畿内説。
282の
>>607 >景初、正始と卑弥呼が使いを送った時代の魏の年号をもちえお<
明帝が詔書を出した景初二年までの年号の三角縁はないよ。
>銅出徐州 師出洛陽(銅は徐州(魏の領地・産銅で有名)、鏡師は洛陽)と銘文があり
<
材料銅や自分の師匠の出目を自慢しなければならないような鏡は、
中国以外の地で、出目を自慢しなければならなかった、
という事を示すのであり、
逆に作者は中国にいなかった、という可能性が高い事を示すんだよ。
という事は、作者は出土た列島にいた、という事になる。
>分析の結果魏の鏡と成分的に一致し<
呉系楽浪鏡師らは、当然、手持ちの中国銅や中国鏡や中国銅の製品を材料として使った。
>洛陽で1枚出土している三角縁神獣鏡 さてこれは国産品でしょうか? それとも魏鏡でしょうか?<
1枚では、明帝が卑弥呼の下賜する100枚の銅鏡に選ばれるような、
価値の高い鏡であった事にはならない。
信onというゲームをやっていたとき、
そのようなキャラ名ばかり付けていた知人がいたり
漫画、アニメが好きだったかな
282の
>>621 こういう荒らしをするから、
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説は亡んだ。
アホやなあ。
ヨウコ、狐だったかな。
カラス。ウサギ。アリス。とか
282の
>>636 出た単なる言葉尻への口先ダマシのイチャモン。
これだから、「南→東」などの嘘つきダマシや、史料事実を根拠にしての反論をしない大和説は、
2流以下なんだよ。
畿内説のスレなのに、畿内説について質問しても答えがこない不思議。
>>419 荒らされて困るほど、畿内説は貧窮してるのだよ
畿内説のスレなんだから
荒らしは無視すれば良い
畿内説に対する鋭い疑問や、反論に答えれば良い
荒らしを気にするようじゃ✖✖✖・・荒らしにかかわる自分を嘆け
282の
>>642 三角縁神獣鏡は、中国から0〜1枚しか見つかっておらず、
列島では500枚以上見つかっており、
平原から「尚方作」の21枚の魏朝の工房の製作鏡が見つかったから、
国産ではなく明帝からの下賜鏡だ、という大和説の主張は、
畿内説スレで粉々に論破されました。
>>336 何で確率が出て来るんだ?
金印は本来100や200あるはずだが
日本で一つしか見つかってないから
本物の確率は低いとか主張する積りか?
>>358 大嘘だな
魏志の中では長里とそうでない所が混在していると言われているが
地方に行けば行くほど一里400mから短くなるので
単に都から離れた地方は正確に測れなかっただけ
全部短里で書かれてなどない
282の
>>652 いや今日の大和説はマジみっともないぞ。
「南→東」などの嘘つきダマシの、いつもの事だけど。
三角縁神獣鏡は、中国から0〜1枚しか見つかっておらずって
0〜1枚って何だよ
1枚発見とズバッと書けやセコいな
282の
>>661 まあこういう事言うから、
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説は、少しづつ信頼を失って行く。
まったく三角縁神獣鏡の話すると、
大和説者が狂ったようになるから、やり辛いよ 。
>>423 九州説は狂ってるな
荒らされて困らない住人
いるわけねーだろ
282の
>>667 結論をまくし立てるだけで、 史料事実根拠や理由をまったく言わないのが、
「南→東」などの嘘つきダマシのサギ師の大和説。
継承者というのがいるでしょ、
何かの家を継ぐような人など
本来なら、
何不自由なく暮らしているはずなんだけど
そうなっていないという事は、
詐欺師(騙り)のような人物がいて
となるでしょ
>神話には パブリシティ権も肖像権もない
みたいなサイトが出てきたり、
おかしな工作員がいて、そのような工作をしているのかもしれないけど、
漫画やアニメ・・・ゲーム、企業などの工作員
282の
>>668 >たしかに縁が三角で神獣っぽい模様が掛かれてはいるんだけど
デザインが日本のものとはぜんぜん違うんだよね
それを「中国でも三角縁出たぞ!」とか言っちゃう奴は素人なんだよね
専門家ほど「ああ・・・あれは・・・」って反応で畿内説の根拠として用いないのに<
成程。
>>301 銅に含まれる微量の銀とアンチモンが
倭鏡と中国鏡では別のまとまりを示す
三角縁はほぼ中国鏡のグループに入るので
倭鏡は国内製、三角縁は中国製とわかるわけ
282の
>>669 >なあ九州説よ聞いてくれ
景初、正始と卑弥呼が使いを送った時代の魏の年号をもち
銅出徐州 師出洛陽(銅は徐州(魏の領地・産銅で有名)、鏡師は洛陽) と銘文があり
分析の結果魏の鏡と成分的に一致し 洛陽でも1枚出土している三角縁神獣鏡
ここまで証拠が上がってるのに まだ三角縁神獣鏡を魏鏡と認めないつもり?
それはさすがに悪手すぎるだろ <
何だまた貼り付けかい?。
>>415で反論説明済みだよ。
わざと、そのような(何かの利権)裁判・・・で負けました・・・、
という例を作り出す
なので同じような考えを持っている人がいたとしても、
勝てませんよ
という手法
ベニバナ染色の歴史の空白
バジルの歴史の空白ををどのように探求するのかの難題を抱えていると思いますが
興味ある、疑問を投げかけてる方もいます、この方が解答を急いでください。
たぶん畿内説は確立されてるから即答でしょうが
1、瀬戸内海で方位を間違えた根拠
2、纏向の大型建物の年代比定の根拠
そのような同じ考えを持っている人がいて
ネットでも良いから調べてみて・・・
負けたという例がある
となるでしょ、
こういうのは工作員の起こしたもの
私は国際法で解決しようと言っているのだ
よくわからない事を言っている人がいたり、
都市伝説・・・?ネットで見たのかな
>>415 銅出徐州 師出洛陽は
自慢だから嘘を書いてるはずだって説
これ以上説得力のない説はこの世にそうそうある物じゃないな
それと信オンというスレ
歴史上の人物に肖像権も何もない、
末裔などがいたとしても・・・勝てない、
みたいなことを言っている人がいたり
>>445 >2、纏向の大型建物の年代比定の根拠
テンプレに書いてあるだろ
何か言っている人がいたような気がするんだけど
性的搾取・・・人権侵害・・・など
畿内説にとって難題ですネ
自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國
女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種 又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里
渡海千餘里・・・
有侏儒國在其南・・
人長三四尺・・・
去女王四千餘里・・・
畿内説の見解は?
これは後ほど、指摘します
参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里
282の
>>675 >ほー 畿内説だと三角縁は魏鏡だけど<
魏から0〜1枚しか出土しないモノが、
明帝の下賜の銅鏡100枚だ、と言える確率は、殆どない。
>九州説だとどうなんの?<
魏朝の工房が造ったとしか考えらえない、平原の21枚の「尚方作」の方格規矩鏡や、
内行花文鏡群が、明帝の下賜鏡を元にしたもの。
つまり、卑弥呼や壹與は筑紫にいた。
新しい事実を取り入れない九州説は説とは言えないね
だから短里75mとか三角は国産とか
30年以上前から主張が何も変わらない
これじゃ説じゃなくて妄執だ
子孫や末裔がいて
現在は一般人になり、悪く言うと落ちぶれたり、困っていたりした場合、
ひどい話になる
これから数十年、数百年後にしても同じ、
もしも、そのような状態(貧しい)になっていた場合
侵害された状態だけが続いて
>>456 考えられない理由が知能が低いからでは
どうしようもないだろうに。
282の
>>685 訂正。
大和より 九州は、
古墳時代に入るのが50年位早かったらしい。
>>430 >地方に行けば行くほど一里400mから短くなるので
じゃあ魏志倭人伝で短い里でもいいわけだ。
282の
>>686 >正始辺りだから下賜鏡じゃないの 日本にも正始年号の鏡が出てるから <
明帝は景初2年大晦日から景初3年元日に亡くなったから、
正始鏡は、明帝の下賜鏡にはならないの。
>>448 >銅出徐州 師出洛陽は
洛陽から来日したのですね。
282の
>>686 >正始辺りだから下賜鏡じゃないの 日本にも正始年号の鏡が出てるから <
明帝は景初2年大晦日から景初3年元日に亡くなったから、
正始鏡は、明帝の下賜鏡にはならないの。
>>457 辻褄が合っているものを変更する必要はない。
>>453 テンプレのどの部分?憶測は飽きましたが・・・
11 ◆q8leUXpsw. 2017/10/03(火) 17:30:10.45
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう。
実際、魏志倭人伝の里程を実際の地図と突き合わせると、一里が平均で75メートルくらいの里で書かれているんだろ?
なんでそれを畿内説は否定しようとするんだ?
帯方郡から一万二千里が九州北部に絞られてしまうから?
>>456 内行花文鏡は漢の時代の鏡だし
方格規矩鏡も漢〜魏の時代と少し古めの鏡
三角縁はそれこそ景初三年と卑弥呼が魏に
使いを送った年の年号がしっかり刻まれている
>>469 実際当てはめると
一里40m〜180mくらいで
逆に一里75mになる所がないからだよ
あのーーーーーーーーー
畿内説に質問しましたが、いまだ解答無いのですが
前方後円墳を古い順に列挙してほしいのですが・・
瀬田遺跡を入れるか入れないかはお任せしているのですが・・・
なぜかKPOPのスレになるんだけど、偶然観ていたスレw
こういう話とか
『白鳥麗子 裁判 KARA』
282の
>>693 >第4期って編年上三世紀末だったと思うけど。<
成程。
洛陽出の三角縁神獣鏡は、模様と言い赤さびと言い、
ますます、明帝→卑弥呼への下賜鏡ではない、という事になったんですね。
>>472です
質問の意図は天皇陵の比定が正しいかどうかを畿内説に求めているのです
>>466 合ってないからさんざん突っ込まれてるんだが
畿内説は新しい発見や説をいち早く取り入れるが
九州説は新発見が自説の不利になる物ばかりなので
頑なに新事実を取り入れず説の修正をしようとしない
これで調べたほうがはやい
『白鳥麗子 裁判 ミュージカル』
282の
>>698 また貼り付けね。
>>415で反論説明済みだよ。
>>475 銅鏡の赤サビはむしろ中国にずっと埋まっていた事を
示すものらしいが
もしかして『トヨトミミ』のような存在がいるのかな
俺が法(法律)だ、みたいな存在
>>471 あくまで平均の話だよ?
小学生以下だな。
畿内説から返答がありません。
卑弥呼の王宮は何処にあったのですか?
纒向の遺跡が王宮だとしても、景行天皇の纒向日代宮なら4世紀だろ。
282の
>>700 >四年はニセモノでいいよ
なら三年と正始はホンモノね <
明帝は景初二年大晦日〜景初三年元日に亡くなったから、
三年鏡と正始鏡は、明帝の下賜鏡にならないよ。
>>486 なら三角縁は次の皇帝の下賜鏡でいいのか?
282の
>>702 「南→東」などの嘘つきダマシの大和説者は、
なんで史料事実根拠や理由をまったく言わないんだろう ? ? ? 。
講談社の誰々は死んだようだな
という書き込みとかなかった?
△スレの話だよ
実際は人権?などが絡んでいるのかな
畿内説はいつもの手、
オウム返しを続けるか、退散した方が良い
学を積んでから答えれば良い事です
寂しいかな畿内説の論客がいないのは、本当に寂しい
本物の論客がいれば私も即座に反論せず、学を積みますが・・・
他説の論客にすぐに論破できてしまう畿内説のカキコミです
スレ主みたいに24時間は貼りついていないので、論破は少し時間差はありますよ
>>461 いやそうなると
短里と(長)里が2つあった事になるが
魏で(長)里が使われていた証拠はあるんだけど
短里が使われていた証拠は何もないから
魏志倭人伝は短里で書かれた可能性は低く
単に不正確な数値が載っているだけだろうと
228の
>>719 >記年鏡の景初四年は確かに存在しないが
ほかの景初三年、正始元年は存在する
例え景初四年がニセモノだとしても景初三年、正始元年鏡が
ニセモノだという事にはならない<
景初三年鏡も正始元年鏡も、
景初二年大晦日〜景初3年元日に亡くなった明帝の下賜鏡にはならない。
常々 感じているのですが
畿内説で倭人伝の誤情報?誤記?・・の指摘は 中国に行ってもらいたいものです
九州説の弱点はありますが、倭人伝に基き解明してます。
基本を重視してるのは九州説です
それなら明帝の次の小帝だっけド忘れ
それの下賜鏡でいいじゃん
調べてみるとわかるけど『カンノパトラ』の話なんじゃないの?
九州説は最近の新しい発見を取り入れよう
三角縁神獣鏡の銅は中国産
三角縁が洛陽でも1枚出土
前方後円墳は三世紀から畿内に出現
>>501 古墳時代以前の銅器の銅は全部中国産。
中国の三角縁神獣鏡は2015年に骨董市で購入された。
前方後円墳のほとんどは4世紀以降で
箸墓古墳主体部は発掘されていないが
周囲殻出るのはすべて4世紀以降のもの。
正倉院展が28日から一般公開されます、ぜひ見に行ってください
内覧会は27日です。邪馬台国の話は一切出ませんが・・・
邪馬台国=初期ヤマト政権と思う方は内覧会で質問してはいかがでしょうか
多方面の研究者が来ていますし、時間は取れますので・・・・
でっどえんど?
新しい・・・・すべて、かすめとられる〜
とか言っていなかった?
282の
>>729 >景初三年に魏から銅鏡100枚下されたと魏志倭人伝にあるけれど<
ない。
景初二年12月に明帝→卑弥呼の詔書が出されたから、
その時点で、100枚銅鏡は、用意出来ていた。
>その後も3回ぐらい使者送ったから400枚はあってもおかしくない計算 <
魏志に記録がない。
>国産のコピー品も相当数ある 出土状況は その頃は内行花文鏡等の漢鏡が希少品となっており貴重
逆に三角縁は数が多くて日常的に使われたと思われる<
明帝の下賜鏡が元になった事はっきりしている平原の、
21枚の「尚方作」の方格規矩鏡や、内行花文鏡は、
各地の豪族に下賜されたり、
破鏡して鏡片に作り替えたりして、
家臣にペンダント的な親愛や信頼性を示す印として与えられたりした。
オカルトで解明する邪馬台国
邪馬台国は三という数字に縁がある
三世紀に卑弥呼が
三国時代の魏に使いを送った
魏では景初三年の出来事だそうだ
それで貰った鏡が三角縁神獣鏡
この法則から
邪馬台国は「四」国や「九」州にあろうはずがなく
その所在地は間違いなく
三重県である
>>499 その通り
総花的にとスレ主は書き込みますが
得意分野だけでいいのでは、
土器には強いとか
行程には強いとか
円墳には強いとか
▲には強いとか
記紀には強いとか
周辺諸国には強いとか
植物には強いとか
何れにせよ倭人伝には弱いようです
282の
>>749 >クナ国の版図は山城国を除く畿内+淡路島だな。
2世紀末に吉備や伊勢尾張の勢力に、淡路島や大和国を征圧されたんだね。
その結果、対クナの前線として卑弥呼が一時的に都を置いていたのがヤマトの地、これが邪馬台国。<
これも、「南≠東」だからウソを付いており、始めから×ね。
>>455 有侏儒國在其南・・
人長三四尺・・・
女王国の東、海を渡る千余里、復(ま)た国有り、皆倭種なり。又侏儒(しゅじゅ)国有り、其の南に在り、人の長(たけ)三・四尺、
410 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2017/04/25(火) 15:29:08.37
侏儒國が高知県の西部の足摺岬方面。沖の島に「低身長部族が江戸時代まで存在していた」という記録がある。
すばらしい!!
又有侏儒國在其南
↑侏儒国は、高知県沖の、沖の島だよ
石切で有名な 強制労働でじっさいに小人が多かったらしい
江戸時代の地誌「沖の島記」にそれらしき描写がある
>>488 帯方郡から一万二千里の女王国が九州北部とわかるから、役に立つ。
『大物主』
酒の話でしょ?ミツバチの話に、
パトラ(頭にへび)、
誰が案を出しているんだろう、かなり詳しくない?
>>507 むしろ内容をどうとでも解釈出来る
魏志倭人伝でしか九州説の主張はないという事なのでは
>>511 多分大体古い順
ちなみに発掘されてなくて年代不明のがまだ沢山あるから
これはごく一部
>>487 スレ主は三輪山伝説を引用してますが、
これはモモソ伝説ですね
すると、系図から畿内の古墳はどう順序だてますか?
モモソが初代大和王政の首長なら記紀を否定するのでは?
>>512 一里75mじゃないかも知れないから
帯方より1万2千里の女王国が
北九州とは限らない
>>515 すると、畿内説は未完成の推理で良いですか?
>>516 ほとんどが未発掘だから何とも
モモソ姫は10代天皇の后とかじゃないかなどうかな
>>519 話が飛躍し過ぎ
古墳以外にも証拠があるから
それを総合的に考えて畿内に間違いない
後漢書
大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里
倭國之極南界也
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
>>518 つか
一里75mじゃないから
帯方より1万2千里の女王国は
北九州ではない
>>525 >古墳以外にも証拠があるから
へえ。
桃の種とか?
>>524 実測で40mだったり180mだったりする
平均はあんま意味ない
>>531 合計を考えるときは役に立つよ。
これがゆとり世代というものか…。
あああああああーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ベニバナーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
バジル------------------------------------------------------------------
畿内説の根拠にしなかったほうがーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
だれだ、ばらまいたのは---------------------------------------------------------------------
見つかった溝はどこだ---------------------------------------------------------------------
纏向以外に続く河川で染色した花粉が流れ着いた説なら、特定の土壌からでないーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
〜最後の王子と書いてあったり
聖化・・・日神・・・は系統が違うのかな?最初のほうの人物?
平均するバカが
どのくらい馬鹿かというと
畿内説と九州説があるから
平均とって讃岐が邪馬台国
と、言うくらい
馬鹿
>>528 三角縁
ヤマトという地名とその後の歴史
帯方郡から一万二千里の九州北部が女王国の端とかいう意見があるが、そうではなく、一万二千里の九州北部が邪馬台国なんだ。
ドアホが吠える九州
テンプレ良く読め
纏向は「纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間」
貶めようとしてるだろ、FAQは反論の反論のお遊び
FAQはハエを追っ払う手段と心得よ
質問者も言いがかりだろ
282の
>>751 >踏み返しだと鏡の大きさはほとんど変化しないそうだぞ むしろ鋳型が少し大きくなるそうだから
同じ鋳型で連続して作れば コピー品の方が大きくなるんじゃないか <
そうじゃないよ。
金属の方が、鋳型の石などよりも、熱温度に拠る膨張収縮が激しいのではないか?、
という話であったんであり、
簡単な例では、
温度計で、ガラスと水銀が温度上昇で同じ膨張度であれば、
ガラスと水銀が同じように膨張してしまって、
水銀の目盛りが上がらない事になってしまい、
だから、金属の水銀の方が非金属のガラスよりも、熱に拠る膨張係数が大きく、
逆に、冷やしたら、金属の方が石やガラスよりも金属の方が大きく収縮する、
という事になって、
石や粘土で鋳型を造って高温溶融の青銅を流し込んで複製鏡を造って、常温に戻したら、
鏡のサイズは、元の鋳型のサイズよりも小さく縮む事になる筈なんだよ。
九州説が30年前の説に固執する間
畿内説は最新の情報を取り入れどんどん進化するのである
>>539 三角縁より内行花文鏡の方が大事でしょ。
三角縁は質の低い量産品で、服装のされ方も内行花文鏡より扱いが悪い。
ヤマトの地名は九州北部にもある。
畿内説は平原遺跡などの九州における情報を取り入れてない。
>>542 は俺です 「畿内説に助け舟」
面倒くさいな名前が固定できない機械音痴だ
伊都国(糸島三雲)〜奴国(博多)約18kmを百里と表記=一里180m
一里40mは壱岐〜末羅国らへんだった筈
>>538 数学的な平均と
文学的な比喩としての平均を混同するバカ。
>>546 subo
誰に言い返してるの?自分に?
キュウシュウセツのアホが畿内説スレを荒らしてるとキュウシュウにヤマタイコクが表れると信じてるからなw
ほわいとすねいく?
山の守みたいな名前で・・・実際は先住民?
>>553 邪馬台国論叢の初心者ですね
すでに、伊都説の文献や、このスレでも書きこまれてますよ
吠えるのは良いですが・・・・・・チト?????????
>>545 内行花文鏡は漢の鏡
質が悪くても魏の年号の入った
三角縁神獣鏡の方が
魏との繋がりを示す証拠
>>557 平原は1辺25mの4世紀の方墳がある事ぐらいしか
知らねーぞ
それを取り入れりゃあいいのか?
平原遺跡が倭国大乱の後の女王墓であるので、卑弥呼の墓の最有力候補なんだけどね。
畿内説はどう評価するのか。
北九州の平原遺跡には
1辺25mの4世紀の方墳がある
一方畿内には箸墓という
三世紀の前長144mの前方後円墳がある
総花的・・・・・意味するものは何❓言葉の遊びですか
考古学的・・・・これ何❓ 文献と物証ならテンプレ✖
合理的・・・・これ何も❓、合理的な根拠が私見では✖
大きさ比べをしても無駄。
大きい前方後円墳はいくつもあるけれど、豪華な副葬品の女王墓は極めて稀。
しかも平原遺跡は倭国王権の象徴である三種の神器を副葬されている。
三種の神器の組み合わせの副葬品は九州に数あれど、八咫の鏡は平原遺跡だけ。
空前絶後の倭国の女王墓。
八咫の鏡は伊勢神宮にある
副葬されていたという事は偽物だろう
方位の誤りは統一見解出てるの
1、誤記
2、誤写
3、誤情報による記述
4、誤認をそのまま記述
5、使者は邪馬台国迄行ってないから聞いた話の記述
6、その他
九州説では、平原遺跡の倭国女王ご卑弥呼です、で説明が終わる。
畿内説だと、平原遺跡の倭国女王が何者なのか、説明に苦しむことになる。
【八咫鏡】
平原遺跡から出土した5枚の超大型内行花文鏡の直径は46.5cmであり、史上最大の銅鏡である。
径1尺の円の円周が4咫であり、これらの鏡は直径2尺、円周が8咫であることから三種の神器の一つである八咫鏡と考えられる。
記紀神話によれば、八咫鏡は天照大神の岩戸隠れの際に石凝姥命が作った。
天孫降臨の際、天照大神から瓊瓊杵尊に授けられ、この鏡を天照大神自身だと思って祀るようにとの神勅(宝鏡奉斎の神勅)が下されたという。
神道五部書等によれば八咫鏡は八葉という。
伊勢二所皇御大神御鎮座傳記は伊勢太神宮の宝鏡について「八頭花崎八葉形、圓外日天八座」とある。
八葉とは、鈕孔を巡る八葉座のことであるが、通常の内行花文鏡は四葉座であり、平原から出土した超大型内行花文鏡の八葉座は他に例がないことから、これが伊勢にある八咫鏡と同汎鏡と考えられる。
内行花文鏡は、前漢時代の日光鏡や清白鏡の系譜上にある太陽を象った太陽信仰の象徴である。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。
内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国は漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていた。
3世紀には平原遺跡に王権の象徴である八咫鏡があったことで、伊都が倭国の王都であったことがわかる。
伊勢内宮に3回ほど火災があり神鏡が焼失し、作り直された鏡は元の大きさではなくなっているという。
宮中賢所(内侍所)の神鏡も火災に遭い灰となり、安徳天皇とともに壇ノ浦に沈み、それを源義経が八尺瓊勾玉とともに回収したものが、今も賢所に置かれている。
石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した同等の鏡として、紀国一宮である日前宮(ひのくまみや)の日像鏡、國懸宮(くにかかすみや)の日矛鏡がある。
伊勢が大和の東の出口に対して、日前は西の出口にあるため、伊勢とほぼ同等の力を持っていたといわれている。
これらを含めると、八咫鏡の総数は、伊勢内宮、宮中賢所、日前宮、國懸宮、伊都平原に5枚で、最低でも9枚は存在していたことになる。
それでは八咫の鏡を含む三種の神器の説明がつきません。
キウスが大暴れだな
ご家族の皆さん、野放しにしておくといずれ大変なことになりますよ
ベニバナとバジルが同時期に渡来したのかな??
どうも引っかかる 魑魅魍魎
『山の守』
酒の話が出てくるでしょ、大物主、オロチの話?
『ヤマタノオロチ』
>本来は山神または水神であり、
>八岐大蛇を祀る民間信仰もある
あしなづち てなづち・・・と書いてあったり
『松傾』の話でしょ
282の
>>807 >三角が畿内産なら初期ヤマト王権の物的証拠になって九州説は死亡だな<
最も古いとされる三角縁神獣鏡は、筑紫の志登遺跡から出た筈だし、
祇園山や西新町や那珂八幡の三角縁も、大和の三角縁よりも50年位早いんだよ。
このスレ 畿内説のスレじゃないな
畿内説のスレにしてはお粗末
2ちゃんか5ちゃんか知らんがお粗末
酒の話が出てきて『かっぱっぱ』水神。
キュウリのような葉に、葱の華の写真、
この写真の家は『松傾』と同じ家?だと言っている。
上の名前の読み方も「す」
50年古い三角縁って何だよ
永漢元年とでも入ってたのか?
ニセモノやないけ
筑紫の志登遺跡がいくら古かろうとも
畿内に三世紀に大きな前方後円墳があるとはっきりしてる以上
三世紀の魏の時代に畿内には大きな勢力があった証拠であり
志登遺跡がそれより100年古くても何の関係もない
282の
>>870 >古田説はもう通用しないよ
短里が実測とあわない事は今では誰でも確かめられる <
Yahooでの、ハイエナや天誅との三国志内の「里」記載の議論で、
三国志では古田さんや谷本氏らの説明の通りで、
特に曹操以後の里記載は、ほぼ全て(長里ではなく)短里で記載された事が確かめられていた。
鷹の像、電電太鼓・・・笠の人形の写真でしょ?
あれも家にあったんだけど、
日本昔話の意味なのかな
282の
>>876 >景初三年は13ヶ月で改元が翌月だから四年鏡はその表れだな <
どっちにしても、明帝は景初二年の大晦日から景初三年の元日に亡くなったんだから、
景初12月の詔書の時には、銅鏡百枚はもう準備出来ていた。
曹操以降の里表記は全部短里って
魏は建国当初からずっと短里を使っていたと?
あまりに色んな否定材料があり過ぎるぞ
九州説の誰もそこまで主張しない
>>591 三世紀に畿内に大きな国があったとしても倭人伝の記述と合致してなければそれは邪馬台国とは関係ない別の国
282の
>>879 >個人的には畿内説でも日程記述部分を別ルートとする説なら問題ないのだがね <
ダメだよ。
「從郡至倭〜南至邪馬壹國、女王之所都」として、
「自郡至女王國萬二千餘里」や「計其道里、當在會稽東治之東」として総括されているんだから、
邪馬壹國は、萬二千余里がほぼ消化された不彌國の南にほぼくっついている事になり、
「水行十日陸行一月」の日数表記は、
「從郡至倭〜女王之所都」の付加補充説明である事にしか、ならないよ。
キュウシュウセツってどうしてこんなにバカなんだろうな
普通に社会で生きていくことさえも困難なレベルだな
見てて可哀そうになってくる
畿内説の人って「卑弥呼の時代に畿内に最大の国があった」という主張は(一応は)根拠を提示しながらできてるけど
「それが邪馬台国だった」という主張になると根拠がほとんどなくなるんだよな
中国と交易ルート持ってた倭の国はいくつもあったんだから(現に漢鏡は国内からいくつも出てる)
「倭国内の最大勢力が魏と交易してたはずだ」というのは何の根拠もない思い込みにすぎない
282の
>>881 いくら言っても聞かないのが、
「南→東」などの嘘吐きダマシの、
思想宗教的な皇国史観狂の大和説者だな。
>>600 東の海の先の倭種の地の国について人口は倭人伝には書いてないからな
邪馬台国が当時の倭の最大の国とはどこにも書いてない
邪馬台国と狗奴国をセットで考えると九州しかないよなぁ
畿内スレの8割を猿以下の珍文でキュウシュウセツが埋め尽くして荒らしてるんだから呆れるな
こいつ等この馬鹿丸出しな行動をしてるとキュウシュウセツが成り立つとか本気で思ってるんだろうなぁ
「おおきなしゅうらくがあってもヤマタイコクじゃない」
とかもうあまりの知能の低さに失笑しか出ない
その程度の理解何だとよくわかる
『かっぱっぱ』
あれはウラシマ 玉手箱?日本昔話の曲
同じ話でしょ
282の
>>918 >じゃあ、国の大きさの「方〜里」が書かれていないなら、
国の中心地から次の国の中心地までの距離なんだな?
それでいいんだな?<
いや、魏使らや陳寿の原則は、
居住外縁部から相手地の居住外縁部までの距離が、国間距離などの記載の原則であり、
他の三国志内の国間距離記載も、ほぼ全てその原則で短里の記載である事が示された。
>「東南至奴国百里」の百里は伊都国の中心地から奴国の中心地までの距離でいいんだな?
室見川を越えられないぞ 短里説が破綻だ <
中心地間距離ではないから、破綻しない。
畿内に発生した勢力は各地にできたそれまでの排他的な文化ブロックを打ち破って全国に独自の文化を広める中心地として機能している
そしてその逆に巻向には他の地域とは隔絶する規模の全国的な範囲と量の人と文化の移入が認められる
まさに巻向は卑弥呼登場の直前からその時代に至るまでの期間に全国の双方向の中心地として機能を確立している
この影響は【倭人伝に記載される北部九州の国々にも強く及んでいる】
九州は弥生時代を通じて一度も統合されておらず、北部九州以外の土地は別文化圏で北部九州を支配していた地域を九州内に見出すことはできない
九州全域に影響を広げているのは畿内だけである
このことから【倭人伝にある北部九州を支配していた邪馬台国がどこにあったのかを示しているのが分かる】
九州のみならずこのような中心性はほかのどの地域にも見出すことが出来ず【仮に巻向の100倍の遺跡が見つかろうが最早関係ない】
邪馬台国は7万戸で国内最大の規模
畿内はでかい前方後円墳があるから
当時国内最大規模
つまり
282の
>>955 >三雲で見つかった庄内式土器は畿内からの搬入品なんだよ <
柳田氏は、それが「近畿の胎土だ」とは明確には言っていないし、
近畿の庄内は、久宝寺での伽耶の陶質土器との共存があるために3世紀末であり、
那珂八幡でも伽耶の陶質土器との共存があって、那珂八幡よりも古い三雲の庄内は、
近畿の庄内の3世紀末より50年位古い事になってしまうんだよ。
畿内が「ただおおきいから」とかほざいてるバカキュウシュウセツのアホな言動見てるともう腹がよじれるwww
なーんにもしらないおばかちゃんだから仕方ないがこんだけバカでよく今まで生きてこられたと思うわwww
282の
>>964 >前方後円墳は、東海中の蓬萊,方丈(方壺),瀛洲とよばれる三神山を表している
仙人たちが住み,不老不死の薬があるという
いずれも壺の形をしているので三壺山ともいわれる
先秦時代,渤海沿岸の燕や斉の方士たちが唱え、
歴代,宮中の池や上元節の山車等に,三神山が作られた<
ふーん。
おかっぱ=かっぱっぱ
という意味なのかな、
少し調べてみたんだけど、とある漫画に登場した王子?
そのような頭をした王子が出てきたり
この畿内を中心とした全国的な影響の拡大は「弥生時代末期から、その後の古墳、飛鳥、奈良、平安に至るまで【絶えることなく】続き時代を追うごとに【強くなる】」
だから、時代をどこに移そうが、どこの場所に移そうが最早畿内以外に邪馬台国など設定しようがない
九州は弥生時代末期から中心もまとまりもなく畿内の影響下に入りそれが強まる一方で、その後現代にいたるまで独自の統合勢力など現れることがない
九州説やましてや九州王朝など噴飯ものの笑い話でしかない
今はその畿内に現れた勢力が具体的にどのようなものであったのか考えていく段階になっている
パトラ
男ではないけど同じような感じがしない?
そういうコンセプト?
282の
>>981 >短尺がないなら短里もないね <
いや、尺寸系単位と里歩系単位とは、一応独立的単位なんだよ。
だから、短尺の有無に関係なく短里はあった。
また、周は、「1歩≒1尺」であったらしいが、秦は「1歩=6尺」であったから、
始皇帝は「1歩=6尺」の統一を強制して、
周の、「1歩≒1尺」の記載文書も焚書坑儒した。
しかし、魏の使節は、卑弥呼の墓を、「徑百餘歩」と、短歩で記載した。
「1歩≒い尺
>>622 さすがにあり得ない単位表記
10cm=10mみたいなもんだろ
モモタロウという作品も同じ
浦島 どこかの国の王子?
>>572 >
>>560 >田舎小国のばあさん墓
こういう発言を返すことしかできないから、畿内説は信用されない。
>>591 >三世紀の魏の時代に畿内には大きな勢力があった証拠であり
魏志倭人伝には東の海の向こうにも倭種がいると書いてあったね。
282の
>>988 >周牌算経が6尺=1歩を使っているんだから 短里なんて存在しないんだよ
ご苦労様でした <
Yahooのハイエナとの議論で、周髀算経が、
「立二十八宿,以周天曆度之法。
術曰:倍正南方,以正勾定之。
即平地徑二十一步,周六十三步。
令其平矩以水正,則位徑一百二十一尺七寸五分。
因而三之,為三百六十五尺、四分尺之一,以應周天三百六十五度、四分度之一。
審定分之,無令有纖微。分度以定,則正督經緯。
而四分之一,合各九十一度十六分度之五。於是圓定而正。・・・」
が、奇妙な「倍正南方」をしている事と、
一つの円を造ったとしたら、無意味な無駄な円を余計に一つ造った事になる事が判り、
これは、前漢始めの周髀算経の収集時点での解釈説明を本文にしたミスであった事になり、
だから、
「周牌算経が6尺=1歩を使っている」という事の証拠にはならないんだよ。
独特の言い回しのスレ主発見
>>612 >畿内に発生した勢力は各地にできたそれまでの排他的な文化ブロックを打ち破って全国に独自の文化を広める中心地として機能している
時代を間違えているのではないか。
3世紀にはそのような動きはない。
>そしてその逆に巻向には他の地域とは隔絶する規模の全国的な範囲と量の人と文化の移入が認められる
各地の勢力の草刈場、ならず者の吹き溜まり
>九州は弥生時代を通じて一度も統合されておらず、北部九州以外の土地は別文化圏で北部九州を支配していた地域を九州内に見出すことはできない
筑紫、豊国、肥国などが膨大な富をわかち合っていたからねえ。
>九州全域に影響を広げているのは畿内だけである
出雲とかは?
完全に妄想モードに入ってしまったみたいだねえ。
>>616 >柳田氏は、それが「近畿の胎土だ」とは明確には言っていないし、
彼は地質学者じゃないからそんな分析してない。
別の理由で搬入品だと言っているんだよ。
久宝寺で伽耶の陶質土器との共存があると言うのは、ザラコクの捏造だよね。
那珂八幡で伽耶の陶質土器との共存があるというのも、ザラコクの捏造だよね。
みんな九州説老人の捏造だ。
悪質この上ない。
>>613 墓だけだよ。
農業生産力が低いから、人口も少なかった。
特に奈良盆地は沼地だらけ、農具は木製だけなど、不利な条件ばかり。
そもそも倭人伝に出てくる女王国とは
「北部九州全域を領域に入れ」「その北部九州を全部足しても足りないほどの大国を二つ抱え」「遠方で詳細の分からない多くの国を支配下にしている」
文字通り全国規模でとてもその時だけで消えたローカルな幻の国などではない
この時代にまさにこのような影響を広げているのは畿内のみでありこの領域は史書、考古学的発見ともに合致しているのが分かる
「誇張して嘘を描いた」などという説は成り立たないのが分かる
九州だろうがどこだろうがこんな場所はほかに見出すことができない
ゆえに「もはや位置論争など無意味」なものになっているのがわかる
282の
>>990 >短里は存在しませんでした 九州説死亡です<
周代の周髀算経にも、三国志の魏志にも、原則として長里は存在しませんでした。
大和説死亡です。
>>622 独立でなくてもいいよ。
歩が1/5になれば、平原遺跡の大きさが100歩になる。
>>622 それもウソ。
周髀算経は六尺=一歩で書かれている。
短里ご臨終。
>>631 >「北部九州全域を領域に入れ」「その北部九州を全部足しても足りないほどの大国を二つ抱え」「遠方で詳細の分からない多くの国を支配下にしている」
これって妄想でしょ?
>>630 古墳から鉄製農具が出てるから
農具が木製だけというのは違うな
282の
>>997 周代の周髀算経や、魏志には原則として長里は存在しないってことで、
めでたく大和説ご臨終だね。
>>620 >だから、時代をどこに移そうが、どこの場所に移そうが最早畿内以外に邪馬台国など設定しようがない
狂信的だね。
結論先にありきの妄想。
皇国史観の焼き直し、劣化コピー。
>九州は弥生時代末期から中心もまとまりもなく畿内の影響下に入りそれが強まる一方で、その後現代にいたるまで独自の統合勢力など現れることがない
群雄割拠と殺し合いは記紀の基本だよね。
それこそ倭国大乱まで経験した倭国の歴史だよ。
墓制は特定の権力者の権力を保証するシステム
九州は紀元前から400年も続けてきた独自の墓制を放棄し、「それまで全く存在しなかった大型墳墓祭祀」に塗り替えられてしまう
出雲もそれは同様
各地の王は独自の権力基盤を放棄し、畿内の勢力システムに参加し依存したことを意味している
「墓制の変化」はただの流行などではなく畿内勢力を中心とする政治秩序の確立を意味している
墓制を塗り替えられた九州などはまさに畿内に服した事が明確になっている
>>627 異常に頭が悪いんだね
短里で径21歩の凸を整地して
そこに径121尺7寸5分の円を描くことは物理的に無理なんだよ
周髀算経は短里を認めていない
>>638 それは内行花文鏡が副葬された筑紫からの征服者の墓のことかな?
猿以下のキュウシュウセツには理解できると思ってないから聞かなくていいよw
お前らはいつも通り「たんりがー」とか喚いてればいい
平原遺跡は方形周溝墓を続けているし、その後も祇園山のような方形周溝墓がある。
これが倭国王の墓の基本です。
>>620 あなたまともに論文かいたことある?
学問版に書き込むレベルじゃないから
ちゃんと卒論書いて卒業してからにしてな。
キュウシュウセツの猿のアホな話なんて聞いてないから
なに人間と会話してる気になってんだ?こいつ
>>646 タンリガーと叫んでいるのは畿内説だろ。
魏志倭人伝と地図を見比べれば、一里が75メートル程度の里で書かれていることはすぐわかる。
いいよいいよ
おサルさんはいつもどおり「こうやってこうていをよめばヤマタイコクになるんだ!」とか喚き散らしてくれれば
知りもしない理解もできない話に無理して参加してるつもりにならないでいいから
別にサルがなに喚こうが何も変わらんし
スレ主は学術的著述ができない、教養のない者なのです。
中二病的にちょっとカッコいい単語とか並べてみただけ。
祇園山のほうが平原のよか古いのかもしれんよ
祇園山のも那珂八幡のも箸中のも肝心なところは掘れてないから
ほんの茶呑み話にすぎないけれどもね
最近のサルはキーボードも打てるんだな
すごいすごい
筑紫は畿内より100年早く古墳時代になってたからしょうがないね。
>>658 また嘘をついてる
心の病院を受診するべき、マジで
>>93 >委奴国と倭国は全く関係ないだけ。 倭国は倭人のクニ、畿内にあったんだよ。<
この投稿子も、「南→東」の嘘吐きダマシをしたから、×人種ね。
>>94 >伊都国は倭国ではなくなりました <
これも嘘吐きダマシで×ね。
伊都国は、倭国の中の主要国。
邪馬台国の都のある卑弥呼が倭女王で
伊都国も倭国なら
これまで代々いた伊都国王は退陣だね
>>97 >吉備にアメノヒボコ(新羅の王子)が住み着いたのが
いつのまにか吉備に住み着いたのは鬼(ウラ)という話になってるからな
新羅からの渡来人が吉備で国を作り古墳祭祀を開始 吉備の古墳祭祀国が畿内に進出し支配
吉備からの移住勢力が畿内で大王権が確立すると逆にふるさとの吉備王を「鬼」として攻撃
これが吉備津彦や四道将軍だよね <
吉備の原点として、どうしても外せない事は、
縄文期末には、出雲の支配下にあり、弥生開始頃は銅鐸地域になり、
そこへ海峡の天孫族が国生み植民の東征の開始があって、混合地域になり、
更に五瀬命らの東征があり、在地出雲系銅鐸族は高地集落を余儀なくされ、
しばらく筑紫倭国の倭種地域であったが、
そこへ、3世紀末に扶余や東沃沮の「有槨」部族流民の流入があって、有力になっていたが、
また筑紫倭国が大和に命じて合同で吉備を制圧したらしい、という事。
桃太郎伝説の吉備津彦や温羅伝説は、おそらくその頃の話であり、
鬼ガ城は、扶余や東沃沮系の温羅の居地であった可能性がある。
縄文時代に出雲の支配下だとかなんだとか
ボケ老人の言うことは
なんだかわからん
このスレ 畿内説のスレじゃないな
畿内説のスレにしてはお粗末
2ちゃんか5ちゃんか知らんがお粗末
奈良時代最大の生産量を誇ったのは熊本。
熊本平野は丘陵地帯で、
低湿地の筑後に比べれば
灌漑技術が未発達の時代には、
良い土地だった。
灌漑技術の発達と共に
低湿地の筑後が開発できるようになり
筑前と肥前、肥後で筑後を奪い合った。
結果は筑前の勝利。
従って筑後は「筑後」となる。
合わせた筑紫はこれらの生産力を背景に
肥を従属させ、九州統一に乗り出す。
>>664 >邪馬台国の都のある卑弥呼が倭女王で
>伊都国も倭国なら
>これまで代々いた伊都国王は退陣だね
倭国大乱で引退したんだろうね。
一部は畿内へ落ち延び(神武)、一部は官として残った(禰宜)。
倭国大乱前の男王70〜80年が筑紫の日向三代だろう。
>>669 そうだね。
地図を見れば、有明海沿岸の肥国に筑紫が侵入したことがはっきりわかるし、現代の県境もそれを踏襲している。
筑紫は古代において一貫して勢力を拡大していた。
>>631 全国規模ならその時だけで消えるなんてことはない?w
じゃあ中国は今も秦の皇帝が支配してるしドイツはナチスが支配してるってことだなw
アホキナイセツのバカな思い込みってどこから来るんだろうなw
>>607 狗奴国が10万戸の国かもしれんな
邪馬台国は「倭人伝に戸数が書いてあるたった八か国の中で最大戸数」というだけで
遠絶の21ヶ国や狗奴国、倭種の地の国の戸数は書いてないわけだからな
書いてない以上はわからないはずなのに「邪馬台国が国内最大にちがいない!」なんて都合良く思い込んでるにすぎない
つまり畿内説はアホ
>>98 >親魏倭王の金印なら邪馬台国に関係あるが
漢倭奴国王金印は関係ねーな <
関係がある。
どちらも筑紫倭国の話だ。
>>99 >漢倭奴国王金印で邪馬台国を何とか九州に持って行きたがる九州説は
よっぽど考古学的証拠に困ってるのか? <
歴代中国史書群の証言では、筑紫倭国は倭奴國の直接的後裔であり、
大和は、倭国の「筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国」だ。
>>100 >バカはすぐに渡来人とか言い出す <
日本列島は、旧石器の末から、渡来人の渡来の繰り返しであった地だ。
>>674 なるほど。
確かに狗奴国の人口は書いてない。
熊本なら邪馬台国を凌ぐ人口を擁していた可能性すらあるわけだ。
「竺紫(とくし)」については、古事記の中では、注意して見ると、
「筑紫」と「竺紫」の二つが混用して使われており、イザナギの禊の場面では「竺紫」である。
(日本書紀は、全て「筑紫」で統一されている)
しかも、国産みの場面では、
「次生筑紫嶋。此嶋亦、身一而有面四。毎面有名。故、筑紫國謂白日別、・・・」
と明らかに、「筑紫」が使われているが、イザナギの禊の場面では「竺紫」に変わっている。
一連の「イザナギ・イザナミの時代」話で、二つの漢字で分けられているのは不自然である。
したがって、「竺紫と筑紫は別物である可能性が高い」と考えられる。
ただし、その他で「竺紫」が出てくる事例として、
ニニギ降臨時の「竺紫日向之高千穗之久士布流多氣」と「竺紫君石井」が見られるので、
後代に、「竺紫」と「筑紫」が混同されていったのだろう。 @阿波
【筑紫の日向】
そもそも筑紫とは、博多湾を望む高千穂の日向峠周辺のことを指す言葉であったらしい。
それが拡大して博多湾沿岸から有明海沿岸や遠賀川沿岸まで含めるようになった。
こうして成立した倭国は、筑紫と豊国、肥国の連合国家、いわゆる邪馬台国連合であった。
福岡県の高祖山の最高峰は高地山、別名をクシフル山とも言う。
クシフルとは、チクシのフル(村落、国邑)の意味だそうだ。
古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とあり、福岡県のクシフル山とするべきだろう。
考古学的にも、三種の神器を伴う弥生墳墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の筑紫日向なら朝鮮半島に向かう博多湾に面している。
最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
高祖山をはさんだ西側の糸島平野に三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
これらの遺跡からは、皇位の象徴とされる三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
倭国王権の起源は稲作伝来と弥生文化発祥の地である博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
漢により冊封された王権の象徴としては他にガラス璧があり、福岡県の須玖岡本遺跡、三雲遺跡、峯遺跡、宮崎県の玉の山遺跡からのみ出土している。
伊都国の三雲南小路遺跡には王と王妃があわせて葬られており、ニニギと木花開耶姫といわれる。
その拝殿である細石神社は江戸時代まで「漢倭奴国王」の金印を保管していたと伝えられている。
伊都国の平原遺跡からは円周が八咫(あた)となる超大型内行花文鏡が出土していて、ニニギがアマテラスから受け取った倭国の王権の象徴である八咫の鏡と考えられる。
高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城があり、その中に高祖宮がある。これが記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の伊都が倭国の王都であり、天孫降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の都である。
>>103 >伊都国は魏志倭人伝でも、女王国ではないと明記されてるからね。<
女王共立國であり、女王國の軍事的支配の中心だ。
>親魏倭王卑弥呼を王とする国、女王国。 女王国は、新生倭国だろうね。<
この投稿子も、「新生倭国」と誤魔化しているようだが、
「新生倭国=大和」という「南→東」などの嘘つきダマシの・・・・右翼のようだね。
【稲作の分布】
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88 旧国 『延喜式』出挙稲数(束)
◆畿内 2,087,126
山城 424,070
大和 554,600
河内 400,954
和泉 227,500
摂津 480,000
◆西海道 5,990,581
筑前 790,063
筑後 623,581
豊前 609,828
豊後 743,842
肥前 692,589
肥後 1,579,117
日向 373,101
大隅 242,040
薩摩 242,500
壱岐 90,000
対馬 3,920
畿内の開墾が進んだ時代でさえ、九州の方がはるかに稲の収量が多く、より多くの人口を維持できたと考えられる。
弥生時代においては、奈良、京都、大阪などに沼地が広がっており、この差はさらに大きかったと考えられる。
九州ならば、福岡奴国3万戸を含む7万戸を福岡県だけでまかなえるし、熊本狗奴国が邪馬台国に対抗できた理由も説明できる。
>>104 >倭奴国は倭國之極南界也って書いてあるし <
「倭國之極南界也、光武賜以印綬」=倭國の南界を極むるや、光武、印綬を以って賜う、
と訳すべきだな。
>>105 考古学的証拠に困っている「倭国の別種の旧小国の大和」説者には 、
三角縁神獣鏡と前方後円墳と丹を、筑紫倭國からおすそ分けしてあげなくてはいけませんな 。
>>106 「南→東」などの嘘つきダマシの・・・・キョクウの大和説が終わってるのは、
過半数が九州説である国民や、世間の常識だわな。
>>108 >伊都は前方後円墳がないからナシ <
前方後円墳は、壹與の使節が晋に教わり、モンゴル〜高句麗流民の墓制の伝来に拠って、那珂八幡などが始まりで、
筑紫全域に広がり、
また、吉備や東瀬戸内(大和を含む)にも伝わった。
時代から取り残され何時までも畿内説とか言い張ってるの人の脳は老人性痴呆症。
>>111 >卑弥呼の墓は「径百歩」 方墳なら「径」とは言わず「一辺」と言うだろうから不適 <
「径」は、「明確な方形ではない不定形」の「長径的大きさ表現」であり、
「四隅円弧の祇園山」の不定形には適切。
>前方後円墳も不適<
不定形だから適切。
>円墳、円形周溝墓、ホタテ貝式前方後円墳なら「径」をつかっておかしくない いずれかだろうね <
明確な方形ではないから、適切。
>>112 >つか、伊都は伊都だろ 邪馬台国ではない <
「邪馬台国」は、史料には存在せず、
大和説者が、「邪馬壹國→大和」という嘘つきダマシのために、
「邪馬壹國→邪馬台国」と一旦言い換えたサギに拠って、
造作された嘘つきダマシのサギ文言。
>>115 「南→東」の嘘つきダマシがバレて、長里説が死んだ時点で 、
大和説も死んでるでしょ?。
ザラコクは嘘つきだが
ダマシは出来ない
バレバレだから
>>683 それはありえない
中国人に聞いてみろよ
中国語の主語-動詞-目的語を取るなら
倭国の南界を極むるや
=極倭国之南界也
の語順にならなければいけない
「倭国の南界」が目的語なのに、その間に動詞の「極」が来るのはおかしいだろ
アホすぎ
>>690 なんじゃこいつw
じゃあ用例だせやアホ
日本海の海洋民族=倭人と考えてたから
九州北沿岸が南端だったんだろ
漢代にはね
倭国の覇権民族は海洋民族なんだから
沿岸沿いに国が広がっていったわけじゃん
朝鮮半島沿岸→日本海の島々→北部九州沿岸→山陰沿岸・瀬戸内海沿岸→大阪湾
って
覇権が内陸部に移ったことはない
ずっと一貫して倭国は海洋民族の国
ただし沿岸部の中で都は朝鮮半島の三国戦争の余波を受けにくい東南方向に移っていっただろうね
北部九州→出雲
北部九州→大分→吉備→大阪湾
北部九州→宮崎
っていう
問題は「邪馬台国はどの段階の時期だったか」だよね
都が東に段階的に移っていったことを思うと
時期的には畿内は2世紀後半には時期尚早
吉備が適当だと思うけどなあ
3世紀推定年表
200年頃 ヒメタタライスズ 神武
ヒメタタライスズ 綏靖
ヒメタタライスズ 安寧
250年頃 アマトヨツ 懿徳 孝昭
270年頃 アマトヨツ 孝安
孝霊 孝元 開化
310 年 崇神
●見事にヒミコとトヨの時代
邪馬台国論争、終了!!wwwwww
かなり前の話、ユダヤの陰謀スレ?にも書いたんだけど
「酒が飲める 酒が飲める 酒が飲めるぞ」
「ビビディ・バビディ・ブー」
この曲、似てない?
酒が飲める?
動画を観てみて、笠の人形?あのような人々が出てきたり
>>120 「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つきダマシで、
負けの込んだ大和説者は 、
また史料事実の曲解の珍説に走って、寿命を更に短くした。
・・・そして、死んだ
>>121 「南→東」の嘘つきダマシの大和説はなぜ死んだ!か?。
それは、客観性と信頼性の高い史料事実を否定曲解をしたから。
邪馬台国は卑弥呼がもともと王として支配していた国(「女王之所都は先祖の墓のある所の意)。
倭国大乱後、卑弥呼は倭国王に共立され、倭国の首都伊都に移り住んだ。
>>122 >やっぱり邪馬台はヤマトだよ 2世紀後半には現在のヤマトにすでに王権が樹立されていた
そして3世紀前半にそこから卑弥呼が魏に使いを送り 銅鏡100枚とか貰ったんだ <
「南→東」などの嘘つきダマシであるから、始めから×。
>>704
倭国(阿波)大乱とは
旧吉野川流域北岸勢力内での争乱・旧吉野川流域南岸勢力内での争乱・鮎喰川下流域勢力内での争乱および各地域間の争乱。
邪馬台国(卑弥呼側勢力)は粟国(旧吉野川流域北岸勢力と旧吉野川流域南岸勢力と鮎喰川下流域勢力)
狗奴国(卑弥弓呼勢力)は長国(勝浦川流域勢力・那賀川流域勢力)
「旧吉野川流域北岸勢力」
東州津遺跡・大柿遺跡・昼間遺跡(正力地区)・昼間遺跡(天神前地区)・昼間遺跡(西貝川地区)・足代東原遺跡・吉水遺跡・拝原東遺跡
・西長峰遺跡・北原〜大法寺遺跡・黒谷川宮ノ前遺跡・黒谷川郡頭遺跡・桧はちまき山遺跡・光勝院寺内遺跡・カネガ谷遺跡・勢合銅鐸出土地
「旧吉野川流域南岸勢力」
ウエノ遺跡・マチ遺跡・須賀遺跡・相知遺跡・井出上遺跡・稲持遺跡・貞光前田遺跡
「鮎喰川下流域勢力」
樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡
「勝浦川流域勢力」
桧銅鐸出土地
「那賀川流域勢力」
若杉山遺跡・福寺山遺跡
こういう具体的な事実を示せるのは、なぜか倭国(阿波)だけ。 @阿波 九州説の思考停止じいさんが
狂ったようなセリフを一日中呟いてるな
気味が悪いわ
<
>>127 >纒向石塚に葺石がなく周濠があるから違うだろ<
石塚は、時系列的に、
那珂八幡や東瀬戸内の前方後円墳と周溝墓の、両方の踏襲だな。
竹取物語でしょ、
本当はシンデレラのほうが高貴な家の出身みたいな話
>>136 「南→東」などの嘘つきダマシの大和説には、
客観性と信頼性の高い史料事実という理由がない。
だから死んだ。
>>137 >3世紀中ごろには百メートルをゆうに超えるような前方後円墳が <
3世紀末だな。
>全国で初めて畿内で作られ始める<
筑紫倭國の援助での大量の墓守り人の獲得と、
半島からの扶余や東沃沮や高句麗や楽浪の流民で、
田舎のご大尽が、セレモニーを巨大化させる事が出来たんだろうなあ。
>>191 >前方後円墳の場合でも 本来の盛ったところだけについていえば
「径」を使って表現しても何の不都合も無い <
建設当初から全体を造るのであり、
どこから見ても不定形であるから、長径的に記録されるものであり、
「円+方」全体の長径が「径」。
>>194 >まぁ経経喚いてるキュウシュウには径で測れる円形周溝墓すらまともに存在してないがなw
自分で「キュウシュウに邪馬台国なんてありません!」と喚いてるんだから笑わせてくれる <
「径」は、「方〜」表現が不能な不定形に対する「長径」的な大きさ表現だよ。
>>195 >>逆だな。
古田さんが、魏志などの史料実態から短里の存在を帰納的に推論され、
それと、谷本氏の「周髀算経の一寸千里の法」の「里」が、短里であり、
古田さんの推論とほぼ一致した。<
>帰納的に推論したってのが真っ赤なウソなので 全て崩壊ね w <
空想では、「90〜75mで、75mに限りなく近い」という判断は出来ないよ。
>卑弥呼は何処にいたのかな?
粟国 @阿波
>倭国大乱前の男王がいた場所は?
長国 @阿波
奈良に邪馬台国以外の国があった事を、立証するのが畿内説じゃん
勝手に研究すればいいよ
いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、
>>717 >空想では、「90〜75mで、75mに限りなく近い」という判断は出来ないよ。
魏志倭人伝と地図を見比べて計算したら?
空想だけでは邪馬台国は見つからないよ。
>>721 仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、
そもそも智、知?
ソフィアというような意味じゃない?
妹の名前「知▢」で、
兄の名前「智▢」・・・本物だったのかな
>>723 あれでしょ、、、あれ、あそこに埋もれてたあれ、
先頭のお役所の方は気づかなかったようだけど、、、
『松傾』
このような名前で、
上の名前の読み方も「す」のほうだと言っていたり
>>725 そうそう。あれを最初に目にしたあの人が、機転を利かせて足元の枯葉を蹴り掃いて覆ったけど、、、
兄・・・10月の30日生まれだったような?蠍座?
何年生まれだったかな
むかーし住んでいた事があるんだよ、
と言っていて戸籍もそうなっている
伊達郡の飯野というところの話をしていたり、
UFOでしょ?キャプテン何やらとか
家は伊達郡?
「▢▢力夫」
とある画像、ロトの紋章のようなもがあったり。
家も戦争などには行ってないと言っているし、
何の写真なんだろう
白い制服のようなものを着ている子供、
お爺さんの家のほうの・・・と言っていたり
畿内説、苦し紛れの書き込みが目立つ
まともな事、書き込みなよ
不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。
wikiなどを読んでみて
ろーと。ろす。ロト?ドラクエ?
『キャプテン・ネモ』
グーグルで調べてみると、同じような紋章が出てくるでしょ
ロートとは石灰、泥か何かだよ。
石油関係、漏斗だよ、と言っている人がいたり。
>>717 >古田さんが、魏志などの史料実態から短里の存在を帰納的に推論され、
古田さんって誰?
たしか大衆演劇の座長だったね。
畿内説は2013年、もろくも破綻した。
論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。
九州説とは邪馬台国が九州にあったなどとは「これっぽっちも思ってない」新井白石や本居宣長らによって創られた虚構。
彼らにとって古代天皇の朝貢という史実は、
国学者として耐えられない重荷であった。
だからわざと九州説という虚構を創ってごまかしたのだ。
邪馬台国は九州にあるという言説にアホを惹きつける。
アホが増えれば論争になる。
論争が続いてるうちは大和朝廷および古代天皇が朝貢したことが決定しない。
その「決定しない」という状況を永遠に創ろうとしたのだ。
これは天才の所為である。
新井白石や本居宣長らによって創られた虚構である九州説。
彼らは未来に向かって壮大なごきぶりホイホイを置いたのだ。
そしてゴキブリ(九州説者)が大量に湧いてごきぶりホイホイに捕まった。
おい、ゴキブリ=九州説者よ。
身動きできない気分はどうだい?
悪く言うわけではないけど
うるりっひ・ろす、
カッパのようなイメージ
>>742 白石、宣長、
朝貢との関係無いな、
てめーが勝手に作っただけなんだよ
悔しかったら、彼らの証拠出さな( ^∀^)
>>729 でも、結構な数の研究者の目に留まっちゃったんだよね。。。
>>745 >彼らの証拠出さな
「日本の天皇が中国に朝貢した歴史などあってはならない」という立場から「馭戎概言」において、九州熊襲による偽僭説を提唱したわけだが。
や〜〜い、ゴキブリwww
卑弥呼は大和朝廷と無関係の九州の女酋あるいは政治権力者である。 (本居宣長の流れ)
本居宣長 江戸時代中期の国学者、本居宣長は、
著書『馭戎概言(ぎょじゅうがいげん)』で、
『古事記』『日本書紀』などの古典の記述をほぼそのまま信じる立場から、
「魏に使いを出したのは、筑紫の南の方で勢力をもつ、
熊襲などの類が、女王(神宮皇后)の名前が諸外国にまでなりひびいているので、その使いであると偽って、勝手に使ったものだ」と解釈した。
歴史地理学者の吉田東吾はその著『日韓古史断』で「卑弥呼=南九州(熊襲)の女酋」説をとなえて、卑弥呼の時代を開花天皇、祟神天皇のころから150年ばかりのあいだとしている。
卑弥呼は九州の女王である。 (鶴峰戌申・近藤芳樹の流れ)
卑弥呼=九州の女酋説を発展させ、九州に一つの国家あるいは王朝が存在し、
卑弥呼はその女王とする説である。
本居宣長の学説を受け継いだ、江戸後期の鶴峰戊申(つるみねしげのぶ)は、
著書『襲国偽僭考』の中で、卑弥呼は九州の「襲の国」という国家の女王であるとした。近藤芳樹更に、「倭の五王」も「襲」の国の王であったとしている。
やはり、江戸後期の近藤芳樹は『征韓起源』を著し、
このなかで、「大和朝廷とは別の、熊襲の勢力が九州にあり、
筑紫を領して倭王を名乗っていた。」と述べる。
この説は、その後、古田武彦氏によって受け継がれている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
この時代の学者は朝貢と言う史実を認めたくなかっただけwww
アホの古田〜〜♪
しっかりと調べてみるとわかる
『長竿』鳳凰 天王・・・でしょ?
アホの古田〜〜♪
アホの古田〜〜♪
アホの古田〜〜♪
アホの古田〜〜♪ 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f)
『・・・力夫』で調べると出てくる象の写真
『インドラ』という意味だと思う
キュウリの葉、葱の華・・・。
▢▢力夫氏と、同じ家だと思うんだけど、家の写真
どうして、奈良の狂った老人は桜井市に邪馬台国があったなどと、考えているのかな、、、
聖化 津?調べてみると『天帝』と書いてあったりしない?
邪馬台国をヤマタイと読むことに決めたのが本居だもんな
ほんとはヤマトと読むに決まってんだけど、それだと大和朝廷が朝貢したことになってしまうから
苦肉の策として無理やりヤマタイと読んだ
そのせいで台与はトヨと読む矛盾が生じてしまった
>>742 何を言いたいのかさっぱりわからんでござる
落雁のようなものを
作ったりもしていたんだよ
と言っていた
自分の家で作っていた
>>746 そういえばこの畿内スレpart1が立てられたのもその頃だったね
その後、お菓子屋?のようなものをやっていたんだけど、
もうやっていなよとも言っていた
どこかへ引っ越したとか
数十年前の話?
ただし古代の「ヤマト」は畿内という意味ではなく本州の意味だからな
畿内とは限らない
食べるものではなく、供えるものを作っていたので、
あまり売れなかったのかな
たしか伊達郡の山の上のほうだと言っていた
家と結婚しいた家は、そこには住んでいない
家はキュウリの葉、葱の華・・・
など写っている写真の家だよ
当時、結婚した家も、
そこにはない、住んでいない
と老婆は言っていた
調べてみると、ほとんど正解だよ
蚕を飼っていて、機織りでしょ、
ホイロというものが出てきたり、米を粉にして・・・
>>760 でも、インタ−ネット工作が、観光客の対応に、猫の手も借りたい筈の、黄金週間もやまなかったね。
調べてみると、そういうものがあるんだよ
『蚕 焙炉』
蚕の殻?(不明)なども、
何かに使用したりしたのかな
>>764 2013年のあの大規模調査よりも、数年後のあれのせいでしょ。
勿論、2013年のあの調査が畿内説破綻の発端となったことには変わりないけど、、、
やっぱりとどめになったのはあれだね。。。
同じような名前の家でも、
少し違うんだと思う
家は暴力団のような人々とは
付き合いは無いから
畿内説が圧勝ってことだな
九州説やら東遷説やらどっちか知らんが
もう嘘をついて荒らすくらいしか
畿内説に抵抗する手立てが
無いようだから
ほとんど出てくるような感じでしょ?なぜだと思う
『蚕 焙炉』グーグルで検索してみて
このPCだけなのかな
満月。亀。蠍。日本民家園(川崎)。仏像。お菓子。
昔の写真。・・・
このような画像が出てくる
牛。競馬のゲーム?。ふくしまの未来を育む。松の木。・・・など
>>770 ここで騙しの宣伝しているのは、
奈良の観光関係の組合員や、公務員じゃないのかもね。
ひょっとすると、専門の下請け業者なのかな、、
太陽、コロナ。ガンダム。ジオング。。。。
出てくるでしょ?
>>755 あの、鍵型の墓のせいじゃないかな。。。
魏志倭人伝に書かれているものとは形が違うけどね。。。
仏像(黄金)。ジオング。ねぎ、玉ねぎ?。
なぜだと思う
>>773 しっ。だめだよ、それだけは。。。
発狂者が増えてしまうもの。
>>200 >九州には大型墳墓祭祀なんて全く発展しなかったからな<
九州では、既に姫氏と阿毎氏の支配で安定していて、
巨大墓で服属者へ威圧する必要がなかったし、魏の薄葬令もあり、
大型墳墓祭祀など必要ではなかった。
それに引き換え、大和では、
筑紫倭國のお手伝いで征服した銅鐸族や毛人蝦夷や、
扶余や東沃沮の「槨」部族流民や、楽浪の画文帯流民の流入があり、
彼らを支配するには、巨大墓を造って威圧する必要もあった。
>それは西日本で発展し確立したもの
九州は径100歩どころかそんな大型墳墓が存在しない
そして邪馬台国の後になってから「今まで無かったものが」急激に流入して
それまでの墓制を塗りつぶしてしまう <
関係がない。要は威圧必要であったか?、
薄葬令に関係なくセレモニーが拡大したのか?の問題。
属国乙
>>204 >通説 前方部は本来は墓道 <
関係ない。
周りから見た人は、前方後円墳全体の形を見るもの。
>>207 >発生期の前方後円墳の主体部は後円部にありここに埋葬主体が存在してる
また後の古墳に比べで後円部が極端に大きいことがこの時期の古墳の特徴
なので「主体部をもって墓の大きさを表現することは、【古墳の発展史から考えても】何の不思議もない」
むしろ出現期古墳を指しているのならば的確な記述であるとわかる <
要は、魏使らが見て、全体が円墳に見えるのか?の問題。
>>215 >あと畿内説では箸墓の被葬者を卑弥呼だと必ずしも主張していない
別にホケノでも何でも構わない <
ホケノも、「槨」があるから、卑弥呼の墓ではない。
>>122 邪馬台の読みはヤマタイじゃなくヤマトで良いと思うし、
遅くとも継体天皇以降は確実に大和地方(奈良県桜井市とかね)に王権があったとは思うけど・・・
日本書紀に明記されてないのが致命的だよね。
卑弥呼の不在を誤魔化すように、神功皇后とかいう怪しさ満点の女傑キャラが書かれてるのが逆にイタいよね。
いつも、負けてるな畿内説
あんたらの、生半可な知識や、妄想では勝てない
強い奴ら連れておいで( ^∀^)
>>781 2013年以前から、桜井市のは、卑弥呼の古墳ではなく、天皇の妹の古墳だと認定されているのにね、、、
しかも、天皇家直近の国家機関からなのに。。。
>>741 信仰すること自体に喜びを見出した、畿内説が破綻していることを認めたくない、頑固な老人信者たちにも、畿内説以外の信仰対象がたくさんあることを、教えてあげられるっていうメリットもありそう。
>>225 >ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
槨かく・・・<
ブリタニカ国際大百科事典なら、どっち道、
「南→東」などの嘘つきダマシの通説大和説学者が関係しているんだろうから、
当然、ホケノを「槨」にはならないような誤魔化し説明をする事が見え見えであり、
そんなサギシの説明には、信頼性が全くないんだよ。
>>762 確かに、、、、
将来を嘱望されている、有能な若手学者がフェードアウトしていく、きっかけになった2013年の調査からこのかた、急に畿内説の素人や学芸員レベルの爺さんのネットでのつぶやきが危地外じみてきたね
有能な若手考古学者を繋ぎとめるために、ポストをちらつかせるのが常套手段だが、大和王権を扱う若手の学者たちは、邪馬台国問題からは距離を置きたがっている
>>779 そんな、組織だった工作ではないと思うよ。
書いている内容が、狂人のように錯乱しているからね、、、、
>>791 なるほど、畿内説信者さんたちに、次の信仰の対象を選んでもらうわけね。
でも、選ばれた説の論者には、負け組や、疫病神に取りつかれたようで、かえって不気味、、、
>>228 尿入り?一升瓶を捏造し、「南→東」などの嘘つきダマシの、
猿以下の、偽書説派のヤマトセツ者が、
人間と会話してるつもりだから笑わせてくれる。
>>783 そうだね。。。。
ただでさえ閑散とした桜井市周辺に、ブツブツつぶやく発狂者が徘徊するさまはおぞましすぎるね。。。
二度と訪れる予定はないけど、、、
>>241 >ああ学会でも定説だしすでに完成されているからな<
はいはい、「南→東」の嘘つきダマシの、皇国史観的宗教の「学会」を、
オームや創価「学会」?のように、絶対信仰するんだね?。
>>243 大和説は、学問や科学とは違う意味でも、終了しているようだが 。
『サクァモウト』
これと関連するような画像ばかりじゃない?
他にもあったような、
進んでいくと
黄金の仏像、大仏。
馬が出てきたり。
倒したり?ゲーム?
神殺し?龍宮、海神の使い、サメ・・・。
「りゅうぐうのつかい』リヴァイアサン?
狼のようなモンスターもいない?
ガンダム、ジオング・・・など、もののけ姫と同じ
>>249
>■鉄刀・鉄剣・鉄矛・鉄戈
倭人伝には、倭人は兵器に矛を持つと記す。
邪馬台国の時代には、青銅器は、 広型銅剣のようにすでに祭器化しており、
実用的武器としては鉄矛が使 われたと考えられる。
このころは、刀も、鉄製であろう。
鉄刀・鉄剣・鉄矛・鉄戈などの鉄製武器は、畿内よりも、九州から圧倒的に多く出土する。
福岡県からは、奈良県の約100倍出土する。<
成程。 もののけ姫でしょ、
アサノという人物が出てきたり、
老婆が言うにはセメントのアサノ?
九州王朝説と東遷説が邪馬台国論争二大汚点だった
という縮図が、ここにある
因果な話だ
悪く言うと成り上がったり、
少し、お金持ちになったりすると、
そういうものは必要なくなってしまうとか
そういう話をしているのかな
畿内説は数十年前の九州説を攻撃している。
的外れな批判は痛くもかゆくもない。
考古学的な証拠は全て九州北部が邪馬台国であったと示している。
>>281 >椿井大塚古墳(京都・3世紀中葉) <
大和ではないし、
3世紀末以降のホケノよりも進化しているから、4世紀以後。
>>806 くだらん相槌だけで何バイトも浪費する
生きた迷惑、歩く顰蹙
それがザラコク
サンゴ、沖縄、埋め立ての話をしている人がいたり。
何の話なんだろう
>>811 ウソつくな
今ここで
お前がウソついてることを
責められているんだよ
>>299 >まだわからないのか
中傷じゃ畿内説に勝てんって<
文献考古の両方とも、史料事実で大和説は負けてんの。
天神。
そもそもは天津神のことだと書いてあるでしょ?
天孫と同じ意味だよ。
天津神 国津神・・・人
>>811 九州に有利な考古学的証拠なんて
そんなもんあったっけ
>>307 訂正。
具体的な史料や分析説明をせず、口先での「匂わせ誹謗宣伝」ばかりで、
なにを言ってるんだか意味不明な文章だ。
「南→東」などの嘘吐きダマシの・・・・大和説の人は、コレだから困る。
>>821 少なくとも
考古学者の知らない何か
だろう
>>823 こういうオウム返しとかが、上の典型ね。
よくわからないけど
とあるゲーム、このような設定でしょ
兄 弟 海のなかにいるようなキャラで、妹もいる?
>>675 少なくても邪馬台国は未確定のはずだけど
畿内有利とは言え
漢倭奴国王金印は出土場所が
奴国の可能性が高いという事を示すのみ
>>684 畿内ではそれら考古学的証拠が余ってるから
別にいらないよ
>>313 金原や中村力也に聞いて来て欲しい。
あなたは大和説ですか、九州説ですか?、って。
「周髀算経」が
短里を否定してる史料なことは
もう常識だよね
昔も同じような作品はあったと思うけど、
以前は、そのようなコンセプトではなかったとか?
>>684
>三角縁神獣鏡と前方後円墳と丹を、筑紫倭國からおすそ分けしてあげなくてはいけませんな 。
それ全部、「阿波産」なんだけどwww @阿波 >>314
■「南→東」などの嘘つきダマシの・・・・サギシの特徴。
・とにかく理由を言わない。結論だけがある。
・定型句を使って九州説を「批判」する。その定型句は現実の九州説とは関係がない。
・質問されたら答えない。対応は
1 まったく無視。
2 後から別の質問返しをして、答えろ答えろと連呼して誤魔化す。
3 悪口雑言やコピペ荒らしでログを流す、
など。 三輪山伝説 1は引用してるが
三輪山伝説では女王で無いのだよね
誰に当てはめても女王でない
確かあったんだよ、そのようなゲームが、
進んでいくと
河童?浦島兄弟?が出てきたり、なぜか兄と弟
>>315 >で?前方後円墳に「径」を使うと思うの? <
「仁徳」でも「箸墓」でも、「長径」で大きさを示す。
覚えていないんだけど、
亀のようなものに乗っている兄弟だったかな、違ったかな?
>>835 こういうウソが平気でつけるようになってしまうんだね
九州説やってると・・・
恐わ
例えば『長竿』に兄弟がいたしよう、
実際は、どちらも同じはず、妹がいても同じ
>>317 >まずFAQ 23を読んでから具体的に反証したらいいんじゃないかな <
まずFAQ 23を、具体的にここに書き出したらいいんじゃないかな ?。
「南→東」などの嘘つきダマシだと判っている人間の言っている事を、
読むのも気味が悪いんだから。
確かに、畿内説に質問してもまともに答えが返ってこないよな。
兄弟のうち、どちらかだけが長竿
(浦島でも良い)
というわけではないと思う、
どちらも同じ家の人間なんだから
>>325 >近年の考古学的成果は機器の発達に拠るところが大きい
学者の地道な研究報告を待たれよ <
「南→東」などのような嘘つきダマシである事が、
判ってしまっている学者の研究報告など、始めから信頼性が0であり、
読むのも待つのもお断りだよ。
長竿の家に、
姉と弟が誕生したとしよう、どちらも長竿だよ
何の話なんだろう、
大石くらのすけ・・・の類の話なのかな。
そのような話がなかった?
お前は、なっていないな・・・みたいな事を言われ
>>330 その時だけの数に限りのある輸入品で作ったから
染物技術そのもは別に珍しいものでもないがベニバナが輸入品で継続して使うことがなかったから
染物技術は特別なものではないから技術は別な染物でも同じ
バジルとかも具体的な使用例は不明だが同様
別に不思議でも何でもない なに凄いこと思いついたみたいに浮かれて連投してんだろうなこいつ<
さっぱりわからん話だが、
それで、大和説者は、ベニバナやバジルで、何を言いたかったんかね?。
>>838 >>1 被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)
(◆3参照)についても、同様であるが、
伝承の意味する、女王は卑弥呼では誰にあたるのか
>>331 >染料を使って色を付ける絹は下池山等からも出てきてる
染料技術そのものはすでに日本にあってその後も継続してる
ベニバナ着色は献上品等の特別な染物として希少な染料を輸入して
その時だけ使われた物だから何もおかしくない <
絹も、筑紫には沢山見つかっていた筈だよ。
>>333 >ガラスも正倉院にあるがそれをもって日本でガラスが定着したとかいうわけではない
時計なども戦国時代などに持ち込まれているがこれも定着して日本のものになったわけでもない
その時だけの特別な輸入品など別に珍しくもない<
要するに、ベニバナもバジルも、大和説の根拠にはならず、
関係がない、という話なんだね?。
今までの日本に無くて中国にあったものが
当時の畿内で見つかったなら
中国と畿内の交流を示す印なんじゃないか?
>>862 それで九州説がノックアウトされたから騒いでんだろ、九州じじいが
まあベニバナが九州から出ないなら
そこが邪馬台国の可能性はかなり低くなるなぁ
数年前の信オンというスレ
蜂須賀が何やらとか、
そういう話をしている人がいたり
ベニバナが出れば邪馬台国って、どんな論理だよ。
それで九州説に勝てるとか、ただのジョークだよね?
>>349 >それ、日中の発掘実施頻度を掛けないと 確率として意味ないから<
例えば、日本の方が、中国や洛陽に比べて、500倍以上の発掘実施があった 、とでもおっしゃるんですか?。
まあマジメに言うと
それまで日本になくて中国だけにあったベニバナが
3世紀に畿内でのみ発見されているなら
中国と畿内の独占的交流の証だろう
畿内説を補強する材料となる
>>872 ここ、畿内説のスレだから、去るのはお前自身の方だろ
溝の年代比定が間違ってるか、後世でベニバナ・バジルの花粉をバラまいたとしか考えられない
花粉を炭素年代法を測定するのが一番いいんじゃなないかな。
なぜ後世でベニバナとバジルの花粉をバラ蒔かなくてはいけないのか
あと、調査報告で何処の溝から、ベニバナ・バジルの花粉が出たのかも明らかにしてほしい
限られた同じ土壌なら、染色工房=漢方薬製造工場????
同じ時期に、大陸からベニバナとバジルを持ちこんだ?????
花粉を炭素年代法を測定するのが一番いいんじゃなないかな。
>>871 どうでもいいなあ。
畿内説はベニバナとか桃の種とか、そんなのばっかりだな。
ただの田舎。
しかも3世紀といく確証もない。
論外。
俺の考えだからそれが正しい!
ばかりの九州説に言われてもなあ
>>878 良い質問ですね
ふと考えたのですが、畿内の邪馬台国にとって
ばベニバナ染色や、バジル漢方薬より
もっと先に鉄等に飛びつくと思いますが
自分に「良い質問ですね」とか、流石ガイキチさんはやることが違うw
バレないと思ってるなら相当のバカ
バレてもいいと思って自演してるなら相当のバカ
結局、相当のバカなのは確定なんだな
>>775 ベニバナが根拠かw面白いことを言うよな
ベニバナは服の染色に使ったのか?
だとしたら染色された服が持ち込まれただけでは?ベニバナが持ち込まれたのではなく
ベニバナが根拠かw面白いことを言うよな
ベニバナは服の染色に使ったのか?
だとしたら染色された服が持ち込まれただけでは?ベニバナが持ち込まれたのではなく
ベニバナのようにシルクロード経由でもたらされたものが纒向で出たら
同時期に導水施設や大和型庄内甕を受容している福岡の遺跡でも
今後検出される可能性もあると日本全体で考えるのが福岡人
日本の歴史とも九州とも関係ないやつらがいちいち喚く
当時の人口溝だと、汚くて染織しようも無い
まず、
赤色の染色なら、大陸の方が優れてたから、朝貢の織物の赤なんて屁
ベニバナ、バジルも畿内説にとって根拠にならない
もし3世紀に渡来してても、邪馬台国と関係無し
纏向も、木製鏃、土器、桃、櫓、溝、ベニバナ、鶏形木製品、瓦質土器、鐙・・・・
それぞれ、年代比定すべきじゃないのかな?
すべて3世紀?????????
>>890 言い過ぎ、湿地帯だから湧き水で染色だと思うよ
BUT,溝に捨てられた染色の残骸花粉だとしたら、拡散するからどの溝か公表すべき
バジルと紅花花粉が同じ土壌から出てるのも気になるところ
纏向で見るかった物の、すべて年代比定すべきだと思う
御免
訂正
纏向で見つかった物の、すべて年代比定すべきだと思う
桃の種だけ炭素年代法??????
まあ、ベニバナ花粉なら普通は奈良時代以降
に混入しただけだろう。
>>889 九州説だが、
私は3世紀に日本に紅花染色技術が渡来してないと思うから
九州でベニバナ花粉は見つからないと思うよ、
偏西風で飛来したのはあるかもだがね
いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、
>>893 わからんよ、ゴッドハンドが混入させたとか、
陵墓と違うから、なんでもできちゃうよ
親魏倭王印を溝に落としておくわけにもいかないもんな。
キュウシュウのバカへ
ベニバナ・バジルについてはテンプレをよく読んで論破しろよ、
>>1 <この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、
中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。>
>>38 <正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。 >
列島に存在しなかったはずのものがあったら、年代比定を怪しむだろ。
すると、3世紀の花粉だとする根拠が何もないことに気付くんだよ。
以上
>>890 検出された溝は他の検出物からその溝で染色したとは考えられてない
ベニバナ花粉は藤ノ木古墳石棺内が最古だったから
そのときに伝来したと考えられてきた
纒向で検出されたから3世紀には伝来していたことがわかった、が
その後継続したかどうかは今後の研究による
ベニバナはどうでもいいかな
その他に渡来品が多数ある訳でもないし、時期もはっきりわからないのではねぇ
巻向では北部九州の土器が殆んど出土しないから、他の地域経由で手に入れただけでしょ
そもそも倭人伝と関係あるの?
倭人伝に書いてある卜骨が出ないところは倭人ではないよ
従属したところだけは倭国の一員だけど
>>895 仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、
>>629 >>柳田氏は、それ(三雲の庄内)が「近畿の胎土だ」とは明確には言っていないし、<
>彼は地質学者じゃないからそんな分析してない。 別の理由で搬入品だと言っているんだよ。<
明治大の佐々木氏の紀要でも、那珂八幡の庄内を胎土で搬入か?を区別していたが、
三雲は根拠を書いていなかった。
>久宝寺で伽耶の陶質土器との共存があると言うのは、ザラコクの捏造だよね。<
大分前に読んだ事だから、少し曖昧だが、確か米田が書いていた、と思うよ。
>那珂八幡で伽耶の陶質土器との共存があるというのも、ザラコクの捏造だよね。<
これは佐々木氏が書いていた。
>みんな九州説老人の捏造だ。 悪質この上ない。<
みんな、「南→東」などの嘘つきダマシのサギシの大和説ガキの捏造だ。
悪質この上ない。
>>631 >この時代にまさにこのような影響を広げているのは畿内のみであり
この領域は史書、考古学的発見ともに合致しているのが分かる<
「南≠東」だから、×だよ。
>これは佐々木氏が書いていた。
佐々木氏は久住(2004)から比恵・那珂遺跡群の土器相の概観の中で
朝鮮半島系土器の瓦質・陶質土器を書いているだけ
>>643 >それもウソ。 周髀算経は六尺=一歩で書かれている。 短里ご臨終。<
「即平地徑二十一步」と、
「令其平矩以水正,則位徑一百二十一尺七寸五分」とは、
二十一步を6倍しても一百二十一尺七寸五分にならないから、
六尺=一歩になっていないんだし、
二つは、始めから別のものなんだよ。
>>643 >「墓制の変化」はただの流行などではなく
畿内勢力を中心とする政治秩序の確立を意味している<
墓の巨大化は、「威圧する必要があった」とか、
「セレモニーは巨大化する」などの理由があって起きるのであり、
九州は、そんな必要がなかったが、
大和には、巨大化しなければならない、という理由があった。
>>644 異常に頭が悪いんだね。
「径121尺7寸5分の円を描く」んなら、
始めから「径121尺7寸5分」の土地を整地したらいいのであり、
「径21歩の凸を整地」することなど、全く必要もなく、無意味なんだよ。
という事は、漢代始めの収集者は、よく理解出来ないまま、
「径21歩」と「 径121尺7寸5分」とを、
始皇帝の「1歩=6尺」に関連付けて結びつけた説明を書いてしまった、
という事を示すんだよ。
短里はデタラメ
考古的物証もない
一体九州の何を邪馬台国があった証拠と見なせばいい?
>>918 ザラコクよ
意味が分からないで
テキトーなとも書いてるだろう
>>911 つまりネット詮索で本格的な論文をみつけたが、ザラコクには意味がまったく理解出来なかったと
こういうことか?
>>875 出土したベニの花粉を炭素年代法を測定しないと正しい年代は出ないな。
長里の1尺20cm 1歩=6尺で換算すると
直径21歩(25、2m)の土地を聖地して
直径121尺7寸5分(約24、4m)の円はかけるけれど
短里での1歩=1尺換算なら
直径21歩は4m20cm
確かにそこに直径121尺7寸5分(約24、4m)の円は書けないな
>>924 まあ、もともと円周率=3とかやってるからね。
周365.25尺の円なんか作れてない。
脳内妄想本なんだね。
うすうす思ってたけど
周髀算経って当時ギリシャとかに流布していた
天文学や数学をまとめて中国語で翻訳した物じゃないか
南北での棒の影の長さの差なんて
地球の大きさ測る実験でギリシャ人が同じ事やってるからな
>>915 >「セレモニーは巨大化する」などの理由があって起きるのであり、
>九州は、そんな必要がなかったが、
つまり大衆を支配する王はいなかったんだな
村長どまり
九州説また自滅
>>927 暦を作る技術者の天体観測を流用して我流に改変してオレ様思想を語ってるよ
自分では観測とか、してない
どっか現代の九州説と似てるね
>>911 どっちにせよ
庄内式が三雲発祥とか言ってる考古学者は
世界にひとりも居ないな
つまり周髀算経は訳した人が良くわかってない数学天文学の解説書かな
>>908 >そもそも倭人伝と関係あるの?
あるな。
ベニバナ染めを使った絹織物を魏に献上してる。
>>694 >倭国の南界を極むるや =極倭国之南界也 の語順にならなければいけない <
おや?、また誤解している人がいる。
「倭国の南界を極むるや 」と言ったときの「の」は、詳しく書けば、
「倭国が(倭国の)南界を極むるや」という意味であり、
「極むるや」は、「至裸國、黒齒國、使驛所傳、極於此矣」の「極」の事を意味するんだよ。
>>902 発掘した学者が三世紀だと言ってるわけだが
>>933 紅花染色した絹織物とは倭人伝に書いてないんだから嘘をつくのはやめなさい。
>>763 >邪馬台国は畿内だと思うよ<
「南≠東」だから、×。
>>934 だからそんな語順にはならない
中国人に聞いてみろっつの
>>788 >遅くとも継体天皇以降は確実に大和地方(奈良県桜井市とかね)に王権があったとは思うけど・・・ <
タリシホコは筑紫だし、
白村江で戦ったのは、(大和日本国ではなく)、倭国や倭衆や倭賊であったし。
>>934 ダメダメ
「之」で名詞句になっちゃうんだよ
漢文読めない爺の出番ないな
>>832 前漢初期の「周髀算経」の収集が、不完全であり、
周髀算経が収集不足のために、
収集者が「始皇帝の1歩=6尺での内容説明を書いてしまった」事など、
史料としては不完全なものであった事は、
もう常識だよね
九州説は、あっちこっちで王手かかって瀕死だな
この文章、きっとザラコクが主語だけ書き換えてオウム返しする
w
w
w
九 州 説 が 圧 勝 で は な い
こ の ス レ に 限 り 圧 勝 が 正 解
ス レ 主 以 下 弱っちい 相 手 を し て る か ら 圧 勝 な だ け
>>944 それ、誰も気がついてないってことは
周髀算経読んだ人が誰も短里は使わなかった
ってことだろ?
>>944 周髀算経が普通どおりの1歩=6尺で書かれてるの、わかった?
>>944 周髀算経に書いてある内容自体が
1歩=6尺で書かれた物でないと矛盾が出るぞ
スレが終わりに近づくと
畿内説が罵声と勝利宣言に変わる
なぜ??????????????
>>954 夜は九州説の24時間張り付き爺さん以外にも人がいるからだよ
しかしザラコクは何で1歩=1尺に拘るんだ
1歩=6尺は明らかだから
当時は1歩=6尺だけど
短尺があって1尺3センチ
だから1短里は75mとした方が不自然じゃないのに
何か理由でもあるのか
>>954 あなたの
>>946などを認識しない偏った精神構造が
じつに九州説らしい
>>960 ああだからあからさまに嘘は言えないのか
「周髀算経」を読んだ古代中国人は
誰も短里なんてものが有ると思ってない。
これ、確定だね。
>>914 >値は近いな 1歩=1尺とするよりは<
「近い」という事は、別のものだ、という事なんだよ。
それから、「倍正南方,以正勾定之」も、
「立二十八宿」とは、黄道上での太陽が年移動での位置を示すんであり、
だから、北極を中心として回転する天空の中の「夏至と冬至の間の黄道がある」事になり、
夏至太陽位置と冬至太陽位置の間の距離は、13.5−1.6=11.9万里で、
北極星と夏至太陽位置も11.9万里と計算されていたから、
だから、
北極星と冬至太陽円弧は、北極星から夏至太陽円弧の「倍」になる、という意味なんだよ。
という事は、二十八宿の黄道は、
夏至の円と、それの倍の半径の冬至の円の、二つの円の間にある事になり、
前漢初期の収集者は、収集不足のために?その事が判らず、
同じサイズに近い二つの円を書いてしまった、
という失敗をしてしまった事になる。
短里なんてないよ。
夏至の日の影が一寸変化する
78kmを千里と書かれてるだけだ。
>>966 つまり、間違ったことが書かれてる本だってこと。
よく読めば、夏至の日に太陽は16000里南の真上だから理論的に一寸千里になると言ってるだけで、測定なんかしてない。
つまり、ただのトンデモ本なのだ。
>>963 内容のわかってないザラコクがひたすら変な新説を言い張る
藁
しかし何もわかってない別分野の特に理数系の学者とか
短里を無批判に受け入れてて
古代は一里75mの短里だったのでとか平気で書いてたりするよな
>>963 直径121尺7寸5分(約24、4m)の円を描くために
直径21歩(25、2m)の土地を整地するって
ごく当たり前のことが理解できない
ザラコク脳
短里汚染はけっこうヤバイ
ちょっと調べたら一見合ってるように見えるから
結構ダマされてる人多いんだよな
しかし古田は短里の説明をし過ぎた
特に周髀算経、一寸千里を用いてもっともらしい根拠づけに
しようとしたのは完全にやり過ぎ
逆にうさん臭くなった上に突っ込み所を与えてしまった
>同じサイズに近い二つの円を書いてしまった
徑二十一步と徑一百二十一尺七寸五分が同じサイズに近い二つの円なら
1歩=6尺なんだろ?
この一寸千里「短里」はその当時当時の
世界はどのくらいの大きさか?
という自然哲学から自動的に出てきてしまう。
太陽までの距離が8万里だというトンデモ説からは
トンデモ里がでる。
もちろん漢代にはもう否定されてる、時代おくれの旧態依然説である。
>>963 ただ土木業者への発注を「歩」単位に丸めただけだって。
>>837 >学者に九州説がいるわけないでしょ<
「南→東」などの嘘つきダマシの日本の大和説学者に、
まともな人間がいる訳がないでしょ?。
短里の証拠はないが、長里では全く説明できないのも事実
ならば、実測の距離の比率で概算的に可能性で考えるしかないだろうね
後は文解釈次第
>>842 「南→東」などの嘘つきだまし、
こういうウソが平気でつけるようになってしまうんだね ?、
唯我独尊の思想宗教的な皇国史観殺戮戦争狂の大和説やってると・・・。
恐わ
>>849 学問的にも科学的にも否定されつつある、
「南→東」などの嘘つきダマシの、唯我独尊の皇国史観殺戮戦争狂の大和説。
>>853 >被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照) (◆3参照)についても、同様であるが、
伝承の意味する、女王は卑弥呼では誰にあたるのか <
スレ主も、当然「南→東」などの嘘つきダマシの・・・・。
>>860 >今までの日本に無くて中国にあったものが 当時の畿内で見つかったなら
中国と畿内の交流を示す印なんじゃないか?<
そりゃ、大和は、
筑紫倭國の地方の「市」であったんだし、
扶余や東沃沮の「槨」部族が来ているし、
楽浪の画文帯人も来ているんだから、
中国の文物が手に入る事もあったんだろうよ。
>>864 それで大和説の・・・・ガキどもは、
「南→東」などの嘘つきダマシがバレてノックアウトされそうになったから、
微細な情報で大騒ぎしているんだろうなあ。
>>865 まあ九州説は、ベニバナの花粉を探すようなそんな事をする必要がないし、
政府や右翼からの金も入らないし、人手も暇もないんんだから、
九州から見つかっていないからと言って、
そこが邪馬壹國の可能性は低くなる、なんて事は有り得ないなぁ。
そもそもベニバナと魏志倭人伝や邪馬台国は関係ないからな。
纒向がもっと後の時代の遺跡であることがわかっただけ。、
>>871 >まあマジメに言うと
それまで日本になくて中国だけにあったベニバナが
3世紀に畿内でのみ発見されているなら
中国と畿内の独占的交流の証だろう
畿内説を補強する材料となる <
まあ真面目に言うと、
ベニバナの花粉の年代をしっかり確認し、
九州の全土でのベニバナの花粉の存在を確認し、
扶余や東沃沮や楽浪から齎された可能性を否定出来てからの話だな。
>>882 「南→東」などの嘘つきダマシの・・・・アホの大和説者に、
「俺の考えだからそれが正しい! 」ばかりを、言われてもなあ 。
>>904 「南→東」などの批判や、「市」や、扶余東沃沮楽浪人渡来論に、大和説打つ手なし。
詰んだ 。
>>907 全く、「南→東」などの嘘つきダマシの大和説には、ロクなヤツはおらんのか 。
>>907 全く、「南→東」などの嘘つきダマシの大和説には、ロクなヤツはおらんのか 。
>>913 >佐々木氏は久住(2004)から比恵・那珂遺跡群の土器相の概観の中で
朝鮮半島系土器の瓦質・陶質土器を書いているだけ <
佐々木氏は、那珂八幡だけではなく、
大道のある弥生銀座全域で、伽耶の陶質土器と庄内の共存を書いていて、
柳田氏が、那珂八幡地域の庄内よりも三雲の庄内の方が古い、と言っているんだから、
三雲の庄内は、東瀬戸内や大和の庄内よりも古い。
>>916 >値は近いな 1歩=1尺とするよりは <
前漢初期の「周髀算経の残存資料が断片的」であった事と、
そのために収集者が、黄道や「倍」の理解が出来ず、
ついうっかり始皇帝の1歩=6尺を使って間違った解釈の紹介文を書いてしまった、
という事なんだよ。
>大道のある弥生銀座全域で、伽耶の陶質土器と庄内の共存を書いていて
ウソ書くな、論文から該当箇所を引用してみろ
>>919 「南→東」や長里はデタラメ。
考古的物証もない。
一体大和の何を邪馬壹國があった証拠と見なせばいい?。
>>923 >周髀算經は、よく理解出来ない人が使っていたw<
残存周髀算経自体が、断片的過ぎて、欠損が多かったんだろうから。
>>924 >長里の1尺20cm 1歩=6尺で換算すると 直径21歩(25、2m)の土地を聖地して
直径121尺7寸5分(約24、4m)の円はかけるけれど
短里での1歩=1尺換算なら 直径21歩は4m20cm
確かにそこに直径121尺7寸5分(約24、4m)の円は書けないな <
そもそも、同じ位置に殆ど同じサイズの円を造る必要がないんだから、
収集者は、失敗説明をしてしまった事になる。
>>925 >まあ、もともと円周率=3とかやってるからね。 周365.25尺の円なんか作れてない。
脳内妄想本なんだね。<
周髀算経の原点で出発点である一寸千里自体が、有効数字1桁程度の近似論なんだよ。
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