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【見果てぬ夢】足利義満の犯罪【日本国王源道義】YouTube動画>1本 ->画像>1枚
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室町幕府第三代征夷大将軍足利義満は淳和・奨学両院別当を兼帯し源氏長者を手中にしたが
それをも飽き足らず准三后宣下を受け摂関家をも凌駕した。
さらには大明皇帝に「日本国王源道義」と国書を奉ずるにいたったのだ。
私論ではあるが義満の行動には征西大将軍であり、同じく大明皇帝から「日本国王良懐」として冊封を受けた
懐良親王の影がつきまとっていたのではないかと思う。
皇位簒奪まではどうだか?
足利義満に関わる話題はすべてOKです。
>>1 外交面で義満を刺激したのは味方の今川了俊だよ。
懐良を太宰府から追い出したあと朝鮮と勝手に外交
を行なって怒らせたように、義満は外交に対して強い関心を持っていた。
主な要因としては直義が作った幕府御用の中国帰りが多い五山の禅僧の
影響が強いのだろうな。
たしか北朝(持明院統)の嫡流は義満のせいで断絶したはず。
南北朝合体後に関東に幕府を遷してたら。それはそれは日本史上の大英傑になっていたことでしょう
清盛を手本として源氏を貴族化、さらには天皇家化したかったんじゃね
>>3 五山の禅僧は天龍寺船などの日元貿易の旨味を知ってたからね。
明王朝建国後は博多の中国人や商人肥富某らの私貿易でかなりの利益を得てたからね。
ただし、義満にとって公的な日明貿易には大きな障害があった。
歴代中国王朝は冊封に基づく朝貢貿易(誤解しないで欲しいが中華皇帝の威徳を示す為、莫大なオミヤゲが与えられた)は
大変魅力が有ったが、冊封の名義の「日本国王良懐」を使わねばならなかったことである。
義満は征夷大将軍であっても明皇帝から見れば「良懐と日本国王位を争っている持明の家臣」と看做されていたからであり
日本国を代表する為には自らを皇族に準ずる立場が必要であったと考えられる。
鹿苑寺金閣に付属の建物が存在したって最近ニュースで云ってたな。
>>8 義満が日本国王を獲得できたのは洪武期から永楽期に変わったのも大きい。
胡惟庸の獄では日本が反逆計画に加わったとか言われているがそれは胡惟庸
が外交を掌握する中書省のトップであったからだ。胡惟庸の獄で中書省
は廃止され朱元璋は外交を専権するようになる。朱元璋は長安遷都を目論むなど
農本主義的傾向の強い人物で商業に対して抑圧的で当然海外貿易に対しても
消極的であった。中書省時代が穏健であるのに朱元璋はベトナムに紛争をやめよと
言ったり、懐良に対しても倭寇を取り締まらねば討伐するぞと脅して懐良は怒って
使者を殺しているぐらいだ。中書省時代なら準后になる必要もなかっただろう。
永楽帝が建文帝を破り帝位に就いた祝賀の使節を義満は送っているね。
>>13 おまえの先入観で満たされた容量の少ないおつむが過小評価してるだけ
脳の容量は現代人ほど少ないらしい。
文字を発明し印刷物が脳の外付けハードディスクの役目を果たし
社会の発展が脳のクラウド化を促したらしい。
永楽銭のほとんどが日本で作られた私鋳銭らしいね。
だけど当時まだ銅山は未開発なんだよね。
原材料は何処から調達したんだろうね?
足利義満は織田信長を超えた。
なぜ、おまえたちは気づかないのだ?
足利義満は、たえず、国内でも歯向かわれていただろう?
大内氏に山名氏に。
鎌倉公方にも無視されたり。
彼はかなり強権的にやったが、
足利幕府の構造上、守護大名の寄合状態だったので、
カリスマの足利義満への依存体質が強すぎた。
>>7 清和源氏も桓武平氏も殆ど貴族。
というか、貴族と武士を明確に区切るのは
後世の歴史家の勝手な解釈。
清和源氏も桓武平氏も、嫡流は京都で中級公家として存続しており
庶流が地方で軍閥化していったというほうが正しい。
そんでその庶流など地方で殆んどが自然消滅し
きずけば自称源氏庶流とほざく賊上がりが猛威を震い、大名になり上がっていったわけか
>>20 清和源氏の嫡流は源頼光に始まり、源頼政が反乱を起こし三族皆殺しとなり
終わったが、桓武平氏の嫡流ってどの家だったっけ?北条?伊勢?
長崎?それとも、織田信長?
清盛が夢見た武家支配の完成形が義満の政権だと言える。大げさに言えば将門以来の公武400年闘争を
終結させたのが義満。武家政権は清盛を嚆矢とし、木曽義仲 頼朝 北条氏 尊氏は
そのプロセスであり、義満で完成した。
だが、「室町の平和」は数十年しか持たず、家康が再興させた。
清盛との比較に意味があるのだろうか…
もうこのころから足利将軍家はもう武家とは言えんだろ…
財政は鎌倉の頃というより、律令制崩壊からあってないようなものだし、
裁判機構も相変わらず機能しないで儀式だけの平安貴族化がオチじゃ
どうしようもない。
母方が天皇家の血筋を引いている為
皇孫皇胤としての意識がもともと強かった
自身が皇族化することで最大限の権威を
保持しようとした
そろそろ大河ドラマいいだろ?ここまで絶大な権力を保持した者は日本史上類をみない
アニメの一休さんでのイメージが強いと、ただの子供じみたお茶目なオッサンで、
そんな凄い人物には思えないw
庶流とか嫡流とかあんまし関係なくね
貴族社会では兄弟間相続も多く行われてるし
惣領制が定着した鎌倉以降の武家なら意味があるんだろうけど
>>28 それは言いすぎ。
権力って意味で言えば秀吉や徳川将軍も同等以上の権力を持っている。
義満が特殊なのは、征夷大将軍のくせに准三后とかそういう権威も手にしたってことだが、
日本史上ってことで言えば、例えば天武帝みたいに、
准三后どころか天皇でありかつ権力を持った事例は沢山あるわけで。
義満と信長は最終局面で急死してるんだよな。天皇家に手を触れるとやばいんだな。
義満の場合、朝廷は太上法皇(太上天皇)の尊号を贈ろうとしたんだけど、
息子の義持が突っ返したんだよな。
そんなものイラネ!!!って。
スイーツ好きなモミアゲ野郎は父親に反抗的だったからな
義満の場合、何と言っても
摂家の当主に偏諱を与えてしまう、ってところがすごい。
まあ、朝廷に対する権威って意味では、武家の中では随一だね。
義満以後の足利将軍から摂家が偏諱を受けるときって、
やっぱり摂家が将軍の臣下であるような意識だったんだろうか?
それとも、擬似親戚付き合いみたいなもの?
義教が公家も処罰したり、義教・義政が日本国王として対明外交やってたことから、
室町殿が公武・僧俗、あらゆる勢力に君臨する王者だったことは間違いないだろうから、
摂家も臣下扱いだったんだろうね。
朝廷かい?
日本はいろいろ勢力関係が複雑だからねえ
足利義嗣は義満の寵愛を受けていた頃の栄華があるからこそ
義満亡き後の義嗣の零落と最期は悲惨そのもの
一転攻勢で返り咲いた義持も斯波義将の推戴がなければ
危うかっただろうな
>>29 一休さんのイメージは捨てろw
>>31 源氏の長者もね。さすがに天皇とは比較できないだろ。鎌足や道長より権力持ってたと思うけど
南北朝時代から後南朝の攻防まで
史実に忠実にドラマ化したら、
確実に足利氏の朝敵のイメージが強まるな。
アニメ一休さんでの足利義満や歴代大河ドラマなどでの足利義昭のような
おちゃめなマロのイメージは無くなる。
史実と虚構の違いが際立つ。
南北朝に関しては
後醍醐天皇を擁護するのは難しいけどね。
なぜなから、彼らの出自である大覚寺統の中でも
後醍醐天皇系は孤立していたから。
大覚寺統嫡流は木寺宮家であり、彼らをはじめ
ほぼ全部の大覚寺統系の宮家が持明院統系に組して北朝側に立った。
また、朝廷の名門貴族の大半が北朝側を支持し
南朝側についたのは、貴族社会でも亜流の存在ばかり。
南朝とは、大覚寺統の中でも庶流だった後醍醐天皇系が
自分たちが皇位を独占するために立ち上がっただけ。
信長も義満も、暗殺には
近衛家が絡んでいる。
あと、どちらも両者の家臣や身内がからんでいる。
土岐頼遠の行為を見ると、
北朝側も災難の時代だったように見える。
足利氏が皇位に付く危険性も最大になった時代なので、
南朝だけでなく北朝も大変だったのだろう。
義満さんが南北朝合一の後に関東に幕府を遷してたら稀代の英傑だったよね?
後南朝のような叛乱分子がいる不穏な情勢の中
京から離れるわけにはいかないでしょ
しかしだな、武士の意地と見栄と利害の渦巻く場所を、京の真ん中に置いておいたら
今は良くても、いずれ何十年か後には戦乱になるに違いないではないですか、
都を焼け野原にして文化財と史料をなくし、
日本の歴史を失わせる極悪人になりたいんですか、あなたは?
・・・と、俺が義満の時代に生きていたら、言いたい。
>>48 義満は京にいて睨みをきかす
幕府を鎌倉に遷して義持が将軍
う〜ん、京と鎌倉が喧嘩しそうだな
質実剛健だった鎌倉幕府とは異なり
室町幕府は京に幕府を置いた為、公武合体や貴族化したイメージが強い
義満の死後は比較的ステレオタイプな武家政権に回帰したけど
これスレタイが悪いわ。犯罪ってあんまりだろ?一時とはいえ平和だったんだから為政者として最低限の役目は果たしてる
まるっきり幕末の尊嬢浪士か戦前の皇国史観の発想だよな>犯罪
>>40 もう一度アニメの一休さんを作るとしたら、
設定はもう少し歳をとった頃のことにして、
義満は煮ても焼いても食えない大権力者として描いて、
中華皇帝風に派手好みの俗悪趣味者として描いて、
桔梗屋一派も徹底的なバサラ趣味で描くだろうな
それを一休さんは今につながる侘びサビの茶道みたいなので茶化
す設定にするだろうな
実際あの当時の茶道はトラの皮の絨毯に、キンキラ金の調度品に囲まれて、
山海の珍味を並べた机に向かって、いすに座って
飲むような形だったのだろう?
ひょっとしたら、お茶の中には砂糖も入れていたのかもしれない。
それ何ていう設定?
どうにも分からないこといってるやつらご多いな
アニメの一休さんは、義満が法体でない時点でどうかと思う。
そもそも、義満が金閣寺に住んでる時点での「将軍さま」は息子のモミアゲ野郎の方だし。
アニメだから当然、改変もあるだろう
蜷川親当と一休が交流するのも
親当が出家した晩年だし
しかし、改変してるとはいえ、蜷川新右衛門なんてキャラをよく見つけてきたな。
新右衛門さんが実在の人物だと、はじめて知ったときは驚いた。
K-1ファイターの武蔵が蜷川新右衛門の末裔と知ったときは
驚いた
冗談抜きで、もう少し歳をとったちょいワル一休とか
青年期の一休、年取ってからの意地悪爺さん風一休の設定で
あのアニメの続編を作る気はないのかなぁww
漫画ではその辺の設定があったような気がするのだが
アニメの一休さん、レギュラーに蜷川新右衛門を出すくらいマニアックなんだから、
商人の名前も桔梗屋ではなく、博多の肥富にするくらいのこだわりがほしかった。
実際の一休宗純は爺いだもんな
新右衛門が美濃の豪族だっけ?
博多か?w
博多の商人説が現実味を帯びる発言ですの
安国寺の外鑑和尚も、像外集鑑という実在の坊さんらしい。
あのアニメを企画した人は、キャラ設定、意外と凝ってたんだな。
レギュラーの武士や和尚さんなんて、適当に架空に人物ですませそうなものだが、
ちゃんと実在のモデルがいるところがすごい。
アニメ一休さんの将軍様のイメージが強すぎるなw
ここは大河ドラマをバシッとやって凜とした義満公のイメージをつけてもらいたいものだ
どうせなら一休宗純で大河ドラマを作って、一休の大きな壁役で
義満を登場させたらよいのでは?
実際の一休宗純の活躍期って応仁の乱のころやけどね
始めから義満は脇役
少年時代に関わったかどうかも実際の分からないんだろ
一休の大河ドラマとか想像してみろ、糞つまらんだろw
大河ドラマは1年というのが長いよ
1クール単位、普通のドラマ枠、で、時々歴史物って幹事で
つーか、みんなマジで大河ドラマとか見てるの?
あんな歴史捏造ばかりな
歴史板で大河ドラマなんぞについて真面目に語ろうとする奴の気が知れん
>>77 君は歴史ドラマの見方を知らないなww
単純に捏造だとあげつらうのではなしに、
この人は元の素材をこう調理しているのか?
なかなか素材の扱い方がうまいなとか
薀蓄をたれるのが、歴史通の歴史ドラマの楽しみ方だろうがww
歴史書だって科学技術論文だってテレビのインタビューだって
捏造だらけ。
大河「ドラマ」なんだからwドラマを楽しむもんだよww
大河ドラマは、他の時代劇に比べてやたら史実厨が多いからな。
>>74 一休さんの人生はかなりすごいぞww
ただ、アニメの一休さんでも仏教色が強くなりすぎるといって
かなり長い間議論をしたそうだからww
あのNHKがやれるはずがないよなww
で、いまのNHKだったら、日本国王足利義満と言う題で、シナ朝鮮に媚びうる
義満像を捏造すると思うぞww
>>79 自分で学術論文を書いたことのない人なんだろうが、
確かに中には明らかな捏造する奴もいるけど、そんなのは稀だし、
稀だからこそそういう奴がいるとニュースになるわけで。
マスコミは普段に日常茶飯で明らかな捏造してるわけで、
そんなのと学術論文を一緒にしないでくれ。
74
ある意味、日本のジーザスクライストといってもいいくらいのインパクトはあるんだけどな
日本は宗教がないようでいて他国よりはある意味ディープだから表にでてこないのが多い
シナ辺りでもなんか知らないが影響受けてるのいるし
見れば分かる
>>83 http://www.nature.com/news/a-record-made-to-be-broken-1.12702 1年前に、nature が名指しで、日本の科学研究の不正に対する認識の甘さを
強く非難。
で、今回のSTAT細胞でのやらかし。
稀とか、マスコミは、なんて言ってる場合かw
しっかりしろよ、日本の研究者たち!
>>86 日本の学術論文なんて年間、何万本書かれてると思ってるの?
稀とか、マスコミは、とか言ってる場合でしょ。
しっかりしろよ。
大抵の研究者は限度ってものをわきまえてるけど、
盗作や捏造をする人は滅多にいないが、二重投稿スレスレをやってる人はよくいるよね。
しかしマスコミと一緒にするのはないだろw
倫理観がそもそも違いすぎる。
まあ学問の世界を知らんで
>>86みたいなことを言う奴がわらわら出てくるって意味で、
傍迷惑なことをしてくれたものだとは思う
理系と文系にもよるね。
文系の論文は、優れたものはむちゃくちゃ凄いのもあるが、
これが大学教員の書いたものか?学生のレポート以下じゃないのか、
ってレベルのものも結構ある。
で、捏造とまでは行かないまでも、ただの妄想に近いようなものも結構ある。
それに比べると、理系は最低限のレベルには達しているんじゃないかな、そうでないと査読通らないし。
人文科学系だと、特に左寄りとか、思想バイアスかかった人々の書くものは
論文っつか個人の妄想レベルのが間々見受けられる
義満とか、織田信長はホモでも仕方ないかって気がするが、
藤原頼長がホモなのはきもい。なぜだろう?
義満は帝の側室と密通していたと噂されていたようだね
光源氏のような色男だったのだろうか
女は金と権力に媚を売るのだよ。
社会が選んだ男を選ぶのと言って
なら義満はモテモテだったろうな。愛妾を差し出す公家もいたことだし
>>98 寝取られた噂された後円融は完全に被害妄想だよ。
退位する、自害すると暴れだして義満が自分から釈明する羽目になっている。
被害妄想や自暴自棄
後円融帝は精神を病んでいたのだろうか
義満は、弟の正室を側室にするくらい
とんでもない人間。
弟が差し出したんじゃ?強奪ならまだしも。けど当時は仕方なかっただろうね
>>65 > 実際の一休宗純は爺いだもんな
これは地味に衝撃的な発言だ・・・w
どんな人だって若い頃は若者だし、年取ったら老人なんで
一休宗純といえど例外ではないのだが・・・
NHKの大河「ドラマ」花の乱に一休さん脇役で出たな。
義満って人気ないのかしら?大河に推すって動きもないし。京都府動けよ!
大体、どの政権でも初代が一番すぐれているものだが、
室町幕府の場合、尊氏より義満の方がはるかに優秀だな。
一休さんより義満の方が36才歳上だから
マンガの一休さんの設定はだいたいあってるな。
>>108 義満は50才まで生きてないので爺はちと
義満、信長、西郷、漱石・・・
人生五十年ってのは、本当だな。
義満が70歳ぐらいまで生きてたら世の中どうなってただろうね?
> 義満が70歳ぐらいまで生きてたら
耄碌して秀吉みたいになりそう
義満の弟の満詮って存在感ないよな。
たまに話題にのぼったら、嫁を兄貴に寝取られた話だし。
でも、南北朝の動乱期を別にすれば、
足利将軍の兄弟で寺に入らなかった数少ない人物なんだよな。
あとは親王に擬せられてた義嗣と還俗した義視・政知くらいだし。
破天荒な義満とは対照的な人物
兄を陰から支え関係は良好だった筈
義満は自らが皇位につくつもりはなかったのだろうか。
妻を天皇の准母にし、自分はその夫ということで天皇の義父のような立場に立ち、
息子の義嗣を親王の格式で元服させ、ゆくゆくは即位させようとした。
そして、その死去に際して、実際に朝廷から太上天皇(太上法皇)の尊号を贈られた。
(モミアゲ義持が辞退したが、位牌が現存している)
これらを考えると、義満自身に皇位につく意志はなく、あくまで義嗣を皇位につけて、
自分は治天の君のポジションを狙ってたようだな。
どうせなら義満本人が天皇になっても悪くなかったと思うんだが。
しかし、義満もそんなに天皇家に準ずる地位に就きたいなら、娘を皇后にしても良かったと思うんだけど…。
娘は何人もいるんだから、尼にするぐらいなら、と思ってしまう。
義満は皇位簒奪に時間かけすぎたな。
結局、自分の寿命が先に尽きて時間切れになってしまった。
明の皇帝から日本国王に冊封された時点で、もう朝廷も寺社勢力も制圧してたんだから、
そこでさっさと皇位を簒奪するなり廃止するなりしておけばよかったのに。
皇位簒奪してたら後世まで極悪人の謗りを受けただろうな
義持は将軍に、義嗣は天皇に、みたいな感じだったのか
:::::::: ┌─────────────── ┐
:::::::: |ジャムリンが氷鷺に殺られたようだな…
::::: ┌───└───────────v───┬┘
::::: |フフフ…奴はウィキペディア編集者四天王の中でも最弱 …
┌──└────────v──┬───────┘
| ジャムリンめ、氷鷺ごときに殺られるとは │
| ウィキペディア編集者の面汚しよ…
└────v─────────┘
|ミ, / `ヽ /! ,.──、
|彡/二Oニニ|ノ /三三三!, |!
`,' \、、_,|/-ャ ト `=j r=レ /ミ !彡
T 爪| / / ̄|/´__,ャ |`三三‐/ |`=、|,='|
/人 ヽ ミ='/|`:::::::/イ__ ト`ー く__,-, 、 _!_ /
/ `ー─'" |_,.イ、 | |/、 Y /| | | j / ミ`┴'彡\
海獺 Ks aka 98 池脱兎
え、ちょ、みんな最近の学説くらい調べないの??
皇位簒奪説なんてとっくに過去の説になってるじゃん
そのバブリーさで
>>122みたいな当たり前の疑問をさしはさむ間もなく
流行っちゃっただけの珍説だぞ
皇位簒奪はあまり説得力はないが室町殿という権門を確立させたことは
確かだがな。結局摂関や清盛と同じことをしようとしたため権威は高まったが
在地の一円支配には積極的にならなかったため財政基盤、軍事基盤
が不安定化した。
皇位簒奪は難しい。
足利幕府って、義満の時代でも
譜代大名の力が強すぎて、
中でも、足利一門は相変わらず足利宗家への忠誠薄いしな。
とはいえ、南北朝合一、日本国王冊封が実現した時点で、
朝廷廃止、皇位廃止を断行して、室町朝日本王国に移行していれば、
案外、そのまま室町王権が定着したかもしれない。
>>129 すると今の天皇家は京都の片隅で京都神宮を世襲で受け継いでいて、
ただの神主になって、
室町王家は、今頃は東京に移って、総理大臣を任命したりしているのかなぁ
そもそも東京遷都の大前提として、徳川氏による江戸幕府の存在があるから、
もし足利氏による室町王朝が続いていたら、関東に政治の中心が移ったとは考えにくい。
そもそも義満が「皇位簒奪を望んでいた」なんて前提は
サヨ的思想が流行った時代の現代人の願望であって、根拠が無い
矛盾が多すぎて、史料との整合性が取れないから
その路線で研究進めても不毛ってことが分かってきた
足利家にとって、天皇との関係はあくまで君臣であって
権門としての室町殿は、今のところ摂関家に准えられているけど
「主上、上皇、室町殿」の序列に疑いは無いし
日本国王の称号だって、貿易上の対外的なものでしかなく
国内向けに国王を自称して君臨しようとした形跡は無いってのが結論じゃん
実際の室町時代の幕府と朝廷の関係って
江戸時代と比べてもより明確な臣下だし、天皇と室町殿ってかなり親密だよ
>>132 日本万歳主義の義満糾弾最筆頭の頼山陽を左翼となwまさしく
「根拠が無い
矛盾が多すぎて、史料との整合性が取れないから
その路線で研究進めても不毛ってことが分かってきた」
もののいうことだな。
中世日本の権門体制を中国式の君臣関係に捉えるのは
甚だ不適当だよ。君臣とは相手に地位を与えられて成立するものだよ。
「義満が皇位を狙っていた」と思い込んでいるが上の糾弾だろ?
妄想を根拠にしているって時点で
極左も極右も同じだよ
もっとも、左は「義満が皇位を狙っていた」と思い込んで喜んでいるわけだけど
幕府は、朝廷から征夷大将軍という地位を与えられて成立しているわけだが
主上と室町殿の関係は、そういう制度上の君臣に留まる関係じゃない
最近の公武関係の研究成果を調べても分からないなら
当時の一次史料をかき集めて一から読み直してみるといい
参内、葬礼、和歌…至る所に、これまでの思い込みを覆す事実が隠れている
>>134 戦後の皇国史観からの脱却で頼山陽を代表とする義満簒奪(義満糾弾)史観
から脱し土地の重層支配など京における貴族、寺院による権門の並立が解明されたのだがな。
室町殿という荘園保護のための新勢力を皇位簒奪の存在とみなしたのは
まさに戦前の歴史学なんだがな。
>幕府は、朝廷から征夷大将軍という地位を与えられて成立しているわけだが
義持は将軍でなくなっても公方と称され、御教書を発行している。当時の一次史料がなんだって?
最近の研究成果を調べて、どこの最新のナントカがそんなことを言っているのか
提示して欲しいものだ。
極右だの極左だの言う前に無知な輩が一等劣るのは論を待たないな。
無知なやからが無知から自分が優れていると喜んでいるのは失笑ものだ。
権門体制論ももうそのままで通用する説じゃない
皇位簒奪説は、つい一昔前まで盛り上がってたろ
なんか、全体的に古いな
とりあえず「歴史学研究852」読みなよ
隠居後に政務を執ったら、即君臣崩壊か
ガチガチな頭だな
義尚没後の義政の執政も、朝廷は同意しているぞ
> 論を待たない
論を俟たない、な
でも失笑はしない、失礼だから
義満さんは皇位簒奪なんてチンケなことは考えない。対外貿易で日本を富ませようとしたスケールのでかい男
俺の妄想
>>136 おやおや「任命」が「同意」になりましたぞ
君臣関係とは随分ルーズなんだな。とうも自分の文章に
注意を払わない方のようで。他人の誤字より自分の文章を
推敲したほうが良いのではw
義量死後の義持は将軍職でなく公方として政務をとっているのだが。室町殿という権門
を否定できないのに権門体制論は通用しないなどとは古い以前に論理が破綻しているぞ。
>とりあえず「歴史学研究852」読みなよ
引用もできんのか、議論でなく権威にすがるのはまさしく皇国史観と同流だな。
まさに「古い」だな。
スレ前半の気楽に義満を語ってた頃に比べて、スレの雰囲気が悪くなってきたな。
あげあし取りや重箱の隅を突っつくような感じのレスが出てきて、スレがギスギスしてきた。
ここ2chだぞ。もっと肩の力抜けよ。
従来の佐藤・黒田(日本国王・権門体制)説を見直して
室町殿権力の再検証をしよう、って論文だよねこれ > 「歴史学研究852」
最近は、朝廷儀礼方面からの解析が主流?
実は、一番公事に熱心だった廷臣義満、とかわりと萌える事実だと思うんだけどw
足利義満は、のちの徳川幕府に比べて
権力弱かったと思うぞ。
>>143 室町幕府全盛期のはずなのに、守護大名との戦が何度も起こってるからな。
ていうか、狭義の室町時代でも戦のなかった将軍の時代なんてなかったよな。
信長なら天皇越え狙ってただろうが
今更天皇そのものになりたいとは思わないだろうな
>>142 義満を朝廷に引き込んだのは二条良基で儀礼指導を行ったのだが、
良基は元々義詮にも粉をかけているのだが義詮は煩雑な儀礼を嫌い
良基の試みは失敗している。この親子二代へのしつこい勧誘の目的は
荘園の収入が守護の横領や荘官のサボタージュから武家の棟梁の力で
解決したいことからであり、実際その後貴族層は「建内記」の万里小路時房がいい例だが、荘園からの収入を確保するために
守護被官人と接触交渉するようになる。
室町殿権力の誕生をその歴史的必然性を無視することはできないよ。
>>139 雑な認識で「歴史学研究852」を持ち出して細かい事実の羅列で義満の皇位簒奪を極左だの極右だの
イデオロギーから脱した自分がかっこいいと勘違いしたものの、義持のケースなどの
「あげあし取りや重箱の隅を突っつく」でぼろを出したことをもっと深刻に受け止めたほうがいい。
無味無臭イデオロギーの持ち主がみんな無知だとおもわれるのだから。
スケールは桁違いに違うが、同時代のティムールだってチンギス裔のハンを立てて、
自分はハンの婿というポジションで実権を握ってたから、どこの国でも傀儡君主を立てて、
実際の君主が権力を掌握しているケースはある。
ティムールの政権がティムール帝国と言われるのなら、義満の政権も室町朝と言っていい。
>>148 ただティムールは最終的に自身がスルタンになっているからな。チンギス・ハーンの
黄金氏族の貴種性は北元、タタールがいいように実力主義の遊牧民社会では
かなり異常だけど、ティムールの奪権は遊牧民の社会ではよくあることだけどな。
義満から義教までの天皇家はヒステリー後小松、プッツン少年称光、家出闘士後亀山、
小倉宮など、後花園まで室町殿は関東の問題に手を焼く中でこれらの皇族の不祥事に
手を焼かされ続けたのが事実だけどな。
東国に本拠を置いた方が、全国支配が長続きする。
東国を出先機関に治めさせると自立する傾向がある。
なぜなんだろう?
このスレは義満さんが大河ドラマ化されて全国にあまねく武威を示すというのが最大の目的さ
>>152 将門時代から続く利根川を挟んだ地域対立に京都の権力が巻き込まれて
事態が深刻化するかどうかの問題だろ。
少なくとも義満と義教は専制を実現しようとした
しかし、両者とも突然の死により挫折したとも言える
義満の太上天皇号は義持が辞退したというのが定説だが、
どっかの寺にある位牌には鹿苑院太上天皇(法皇)って書いてある。
やはり、上皇の尊号は進呈されたと考えるべきなのだろうか?
義満があのタイミングで死んでいなければ、普通に義嗣を即位させて、
自分はその父として上皇=治天の君になってたんじゃなかろうか?
義満は朝敵だな。
足利朝廷にならなくて良かった・・・
歴史が狂ってしまうところだった。
世界最長の王朝、日本の天皇陛下万歳ヽ(^o^)丿
義満が朝廷に参画しなけれが天皇をはじめとする貴族たちは
荘園から収入がびた一文はいらず飢え死にしていたよ。
荘園からの未納の元凶である守護を制御できるのは義満をはじめとする
室町殿であって収入がなくなって自害した公家がいたように鎌倉後期から
裁判、庶務沙汰を処理する機構を持たない京の権門たちが没落するのは
戦国時代を待たずとも確定的だった。
北朝公家より南朝公家のほうがサバイバル術に逞しそうなイメージ。
北畠はサバイバルに成功して、信長に乗っ取られるまで北伊勢を実効支配してたな。
義満や信長が長生きしてたら日本史もだいぶ変わったかな?
>>164 信長の場合は長生きしても結局、最後は家康に持って行かれたような気がする
足利氏は本家の藤原氏(=蘇我氏分家)から貿易利権を奪う為に日明間で直接に勘合貿易を始めて李氏朝鮮商人を中継商路から排除したが結局は自分達が儲かれば良かった為に山陰山陽の帰化商人と癒着しズブズブになって行った
李氏朝鮮経済が完全に破綻する原因にはポルトガル船の種子島漂着に始まる南蛮貿易の隆盛と日明貿易の壊滅による朝鮮経由沿岸貿易経済の崩壊が明の滅亡に先んじて存在する
李氏朝鮮商人?
あいつらにそんな古い歴史があると思ってるのか?
足利政権って、まともに機能してたのは義満のときくらいだな。
義持でかげりが見えてきて、義教で持ち直したかに見えたが、義政で完全にグチャグチャに。
あとは細川や三好に下克上されるわ、地方が自立するわで完全崩壊。
>>168を見る限り義教までは機能してるように見えるが
京都のすぐ真横の近江ですら満足に支配できない。
六角氏みたいなヘタレ大名ですら従えられない。
義尚以降の足利将軍はどうしようもないな。
酒の飲み過ぎで死んだ義量
暗殺された義教
病弱で夭折した義勝
過度の酒色で陣中で死んだ義尚
ろくな死に方をしていない人が多い印象
でも徳川家斉みたいなのに長生きされても困るし
酒色にふける将軍は早く死んだ方が
家斉は身体壮健でアウトドア派で、家臣に対する配慮もできるナイスガイなんだが。
家斉は、政治は老中任せだったが、君主としてはけして暴君でも独裁者でもなく、
家臣たちに配慮のできる好人物だった。
しかもユルユルの政治だったから、江戸では庶民による文化も栄えた。
大奥のシステムが完備された状態では、健康な男子なら子沢山になるのは仕方ない。
家斉は、政治的には無能というか政治そのものに無関心だったが、
一個人としては好人物であり憎めない。
いわばフランスのルイ15世のようなタイプ。
家斉が幕末期まで長命していれば、幕府は滅亡しなかっただろうな。
家斉とユルユルガバガバというのはわざと狙って書いたのか?
足利幕府は戦国初期まで普通に機能してたよ。
伊勢盛時は幕命を遂行した忠実な官吏だしなw
足利将軍は鎌倉や江戸とは随分違うよな。やはり京にあったからかね?
182
足利将軍の京都滞在は西国監視のためとかなんとか
もともとはいずれ鎌倉に幕府を設置するつもりだったらしいからな
鎌倉府は京都の将軍の代理で滞在してるって名目
なんせ観応の擾乱で南朝に下った裏切り者の勢力がいたからな
足利直冬、山名時氏とか、あるいは山名氏あたりが天下を取ってた
としても不思議ではない
実際、京都から足利将軍の軍勢を追い出したのどこの軍勢だっけ?
義満が幕府を安定させることができたのは細川頼之のおかげだし
まあ後々、幕府自体を乗っとられるんだが
三管領交代制は斯波、細川、畠山の中から独立勢力をださせないため
この変の詳しいことはなかなか自分で調べないと分からないだろ
武家には武家の話があるし
神道集だのなんだのを纏めたのは公家の人らの話だしな
鎌倉時代からまあ戦国時代ころまで将軍にとって怖いのは天皇家と他の源氏が結びつくことだからな
宮将軍を迎えるなど協調しつつも武家と朝家が隔離され二重構造を成していた鎌倉時代と異なり
武家主導型の公武合体政権を築いたという点では武家の最盛期なのではないか
なんか鎌倉幕府って北山文化とか元禄とか化政みたいな華やかそうな時代がない分
幕府とは言ってもド田舎で成り上がり者がちが地味にやってたようなイメージしかないんだよな
まあ大河の太平記で片岡鶴太郎演じる北条高時が貴族みたいな暮らししてたイメージも強いけど
上流階級の暮らしはどうでもいい
庶民にとってどちらが暮らしやすかったか?
室町時代とか地獄だろ
>>193 人口が増えてるからそうでもない。
戦場になった地域は悲惨だけど。
>>192 鎌倉武士は質実剛健で本来の武士道を体現しているイメージ
歴代執権は名君も多い
やはり北条こそ日本の武家の棟梁に相応しいイメージ。
源氏に勝ち、朝廷に勝ち、大元帝国にも勝ち・・
武力による勝率が高いイメージ。
鎌倉幕府は北条時頼の代以降は専制色が強く北条時宗が名越一門との決着をつけてピークを迎えた
元寇という有事を目前に結束を強めたからな
ぶっちゃけ天下取る野心って尊氏も持ってたよね
義満はじいちゃんの果たせなかったユメを果たそうとしていたに過ぎない
ごっつあんです。俺は松太郎ってんだ。何ぃ?俺が足利将軍だとぉ?
おもしれぇじゃねえか。大暴れ待ったなしだ!日野富子のメスブタ共に、稽古つけてやるぜ!
室町朝日本王国を実現して、天皇の呪縛を超克してほしかった。
そんなにシナの属国がいいのか?
旗に大清属国とか書いてた恥ずかしい奴隷根性の国がいいんだろうな。
大清属国ってのは、今で言えば安保条約や集団的自衛権に参加するようなもんだから。
実際、明の属国だったときは、サルの侵略に対して明は援軍を送ってくれたし、
清の属国だったときも、東学党の乱の鎮圧ができずに清に援軍を要請したら出兵してくれたし、
現在でいう安保条約や集団的自衛権みたいな面はあるな。
明の冊封に賛同しなければ通商が出来なかったわけで
莫大な利益をもたらした以上、面目よりも利益を優先したのでは
日本国王の名も国内に向けては使っておらず
あくまでも儀礼的な建前に過ぎない
>>203 義満自身が清和源氏で、本家から遠いとはいえ、確実に天皇家の男系子孫だし、
その死の直後に上皇(法皇)の尊号を贈られて、その位牌も残っているのだから、
結局、足利氏が天皇になるだけで、天皇の呪縛を超克したことにはならない。
現実的に、徳川のが遥かに日本に与えた影響は比べ物なねならないほど大きい
>>208 結構下のレベルまで、実情を知って嫌っていたと思う。
実際足利義満の対明政策は評判が悪くて、息子がひっくり
返したから、
211
徳川氏がやったのは幕府三代目だからかなり前幕府、前々幕府のやり方を参考に
できているからあれやけどな
>>212 うるさかったのは斯波で義持は父親への反抗だろう。
義教の時代には復活している。実際には堺商人の運動だろうが。
勘合貿易は大内のような博多商人とむすぶ勢力を牽制する役目があるから
交易を統制する点からも形式で済む話ではないよ。
>210
確かに、このころの足利本家なら確実に天皇から男系でつながっていそう
北条の血も濃いだろうけど。
いそう、じゃなくて確実に男系でつながっています>義満
(源氏や足利氏の先祖に浮気による不義の子がいないかぎり)
足利が明の臣下待遇で受けた日本国王よりも
徳川が称した日本国大君のほうがかっこいいな。
新井白石のときは、中国の皇帝と全く関係なしに将軍は「日本国王」と名乗ったけどね。
江戸中期に書かれた「三王外記」では、この時期の将軍のことを正編では憲王(綱吉)・文王(家宣)・章王(家継)、
続編では徳王(吉宗)・惇王(家重)・浚王(家治)と表記している。
そもそもこのスレタイっておかしいよな。
なんで足利義満の「犯罪」なんだよ。
まるっきり戦前の皇国史観丸出しじゃないか。
臣下の武家として家格が摂関家を凌駕したのは足利家だけじゃないかな?
皇親の鎌倉宮将軍も建武の新政の征夷大将軍護良親王は「家格」に該当しない。
豊臣家も関白家であり摂関家を凌駕したとは言えない。
俗説では「徳川将軍家は親王待遇であった」と言われているが法的根拠が無く限りなく怪しい。
>>221 義満の極官は准三后太政大臣だろ
平安時代の藤原道兼以来、摂関は太政大臣より上なので
義満は摂関家を凌駕していないよ
義満が親王になった事実もない
准三后太政大臣は平清盛も受けている地位
准三后は同じ足利将軍の義政・義視・義昭設けている
官位の上下に関係なく、摂家が義満以降の足利将軍の家礼になってる。
よって室町殿>>>摂家。
ちなみに義満は死の直後に上皇(法皇)の尊号を贈られてる。
息子のモミアゲ野郎が突っ返したが、上皇とか法皇と明記した位牌は現存している。
>>221 徳川将軍は幕末の家茂の時代に地位が低下するまで、天皇と同格だったよ。
秀忠とかが上洛したとき、天皇と対等の席次で対面している。
ちなみに義満も息子の義嗣の元服の祝宴では、天皇と同格、関白より上座。
>>224 徳川家は征夷大将軍を受けるために勅使と対面する際
勅使が上座、将軍が下座に座ったから天皇よりも下
後水尾天皇の二条城行幸の際は、秀忠は岳父、家光は義兄であることから
いずれも後水尾の身内として堅苦しい席次は決めなかったが、同座したという事実はない
足利義嗣の元服の祝宴に後小松天皇は出席していない
よって義満と同席もしてない
ちなみに義嗣が内裏で内大臣の加冠により元服したのは事実だが
元服式にも天皇の参列はない
>>227 鎌倉幕府は頂点に親王将軍をいただいてただろ
>>226 勅使が上座、公方が下座になったのは大軍率いた島津久光が大原重徳を連れてきたときから。
それまでは、ずっと公方が上座、勅使は下座。
>>229 もともと勅使が上座、将軍が下座であり、
徳川将軍家に置いても将軍が上洛して伏見城で勅使から将軍宣下を受けていた
初代家康から3代家光まではこれが踏襲されていた
しかし、4代将軍家綱以降、徳川将軍は上洛せず、勅使が江戸に下向するようになると、
将軍は自分の主城である江戸城で勅使と対面し、江戸城内では将軍が上座に座るようになった
14代将軍家茂は江戸城内で勅使を迎え自分が下座に座った唯一の将軍
15代将軍慶喜は二条城で将軍宣下を受け一度も江戸城に住まず
スレタイが皇国史観だっていう話があるが、戦後の歴史叙述でも意外に皇国史観の影響って残ってるね。
たとえば道鏡の皇位きゆだって、「称徳天皇は疑問を持っていた」的な記述がなんの根拠もなく現れることが多い。
事実は和気清麻呂や広虫を「汚名を名づけて追放」なんて称徳天皇のやり方そのものだから、
道鏡の即位は称徳天皇の希望だったことは疑いない。
薬子の変も仲成や薬子が平城上皇をたぶらかしたことになってるけどこれも嘘。
終始平城上皇の強い政権奪還の意思によって引き起こされた。
仲成なんか当事者意識がまるでないから、のこのこ平安京に出かけて、そこで殺されている。
義満の上皇就任だって、小川なんとかという学者に言わせれば、周囲は皆反対し、なんとか先延ばしにしようとしたということばかり強調しているが、
実際のところ義光が死ぬとただちに尊号を送っているところからして、朝廷にとっては義満の上皇就任は規定路線だったと考えられる。
多分55歳ぐらいまで生きたら義満上皇は誕生していただろう。
義満が天皇になろうとしたとか
信長が天皇になろうとしたとか
妄想だけならなんとでも言えるからな
ただ結論としてはならなかった
それだけのこと
主権在民の時代に、もう天皇制の呪縛やタブーは存在しない。
>>233 今の時代にも万世一系の神武天皇のY遺伝子を持つ男子だけが
天皇になれると言ってる馬鹿がいるじゃないか
日本人の半分くらいは天皇の血を引いてるらしいが
>>233 >>232がもうすでにヒス起こしてるじゃんw
>>231 道鏡が王になっても、
道鏡の一族が世襲するわけでもなく
高位の僧侶が教皇のように
旧天皇らの上に君臨する形か
>>235 >>232のどこがヒス起こしてるんだ?
証拠もないのに「義満は天皇になろうとしてたんだプギャー」
と言ってる奴のほうがヒス起こしてるだろ
>>237 だれが義満が「天皇」になろうとしたなんて言ってるんだ?
オセーテ
>>237 治天の君になろうとしてたのは事実だけどなw
日本国王を明から貰ったのはその前段階だろう。
織田信長はぶっちゃけ簒奪狙ったんじゃないかな?
いつからY遺伝子って話になってんだ?
どうも変なやつが現れているな
だいたい治天のなんとやらはシナの影響じゃないか
考えられるは仏教の廃止からキリスト教の廃止までかな?
世界的に織田系神道の普及に走ったかもしれん
考えられるは仏教の廃止からキリスト教の廃止までかな?
世界的に織田系神道の普及に走ったかもしれん
義満の段階で、官位の高下に関係なく「室町殿」は摂家より上位。
摂家の子弟が自分より官位が上の公家よりも格上なのと同じように、
室町殿は摂家より格上で、摂家を家礼としていた。
>>243 根拠は?
一次史料をあげて説明してね。
足利義持・義教は摂関が天皇の裾を取るのを
御簾を掲げたりして補佐に徹しているし別に摂関より上じゃないよね
>>247 >>243は室町殿は摂家より上だと定義づけてるでしょ
室町殿は義満個人を指すのではなく足利将軍全体を指す
足利将軍全体が摂家より上だったわけではないのだから
「義満が」と訂正するべき
この人もう一つの別のスレにもいるけど
その義満も摂家より上だったという史料を出してこないんだよね
准三宮宣下はそれだけでは摂関家を上回る待遇とは言えないね。
歴史的には坊主なんかも結構もらっているし。
宮中の待遇は
天皇>上皇>女院>三后>摂関>准三宮>太政大臣
だから。
この時代はまだマシな時代なんだがな
ヤクザが幅を利かせる前の時代だ
中国ってのは領民がヤクザ化、そんで次の王朝
それの繰り返し
陽成上皇は周囲にヤクザものを集めていた。
源氏がまさにそう。
>>254 源満仲なんかがそうだね。
義満の諱なんだけど
満仲+頼義で桶?
「義満」って諱は清和源氏の本流であり、河内源氏の嫡流ってことか
日本の中世を解きほぐすキーワードとして「長者」がある。
氏の長者はもとより今昔物語やお伽草紙に登場する「長者」達は人生の成功者の象徴であり目標であった。
足利義満が目指したものは「日本国の長者」に他ならない。皇位簒奪は手段でしかないので目標とは言えない。
日本の中世の最盛期が彼の治世であったことはまことに興味深い。
>>70 大河ドラマに期待するな
アニメと同じように史実とかけ離れたものになる
ドラマや小説は大幅に史実が変わることがあるが
作者の創作や思い込みが少しはいる場合もある
素人にとってはその少しが害悪となる
>>260 その中でも嫡流は摂津源氏(多田源氏)じゃないの?庶流が大和源氏に河内源氏。
満仲の子なら誰でもおkって感じ?
>>264 官位で言えば満仲を超えたのは摂津源氏の源三位頼政なんだけど以仁王の挙兵で嫡男共々敗死。
本家の多田家は義経の巻き添えで頼朝から冷遇され没落。
その右大将家も実朝暗殺で断絶。
生き残りゲームの中で頼朝の母系従兄弟であり得宗家との縁組で足利家が頭抜きん出て、その後の南北朝の動乱の覇者となったから。
例の鶴岡八幡宮の御神託や「尊卑分脈」の編者である洞院家に圧力を掛けて捏造したのは義満だろうけどね。
足利義満は将軍在任中の最高官位、従一位左大臣。
義教・義政も左大臣。義持は内大臣止まり。これには何か理由があるのですか?
単に義持のファザコンとかですか?
それまでの武家源氏の極官が実朝の右大臣だから
義満の将軍在職中の左大臣は武家源氏嫡流の移動を示している。
モミアゲ野郎は田舎源氏の分相応を弁えていたからじゃね?
義満の方向性に対する反発なのかも知れないけれど
ステレオタイプな武家政権に回帰させたのでは
義満がかなり特殊だった
義満はほんと特殊だよね
長生きしてたら他に何やったんだろ?
義満は母方繋がりで後円融天皇と従兄弟同士で
母方を辿って行くと祖母は四辻宮尊雅王の娘であり、その曾祖父は順徳天皇。
承久の乱の敗北により順徳の皇統は子仲恭で断絶。
義満には後鳥羽、順徳の血が流れてるんだよね。
義満繋がりでもう少し
承久の乱の結果、皇統は後堀川系に移るが子四条天皇の「突然の崩御」により断絶。
しかし後嵯峨天皇の即位により順徳系の岩倉宮家、四辻宮家は鎌倉幕府(北条泰時)により
皇統復帰の道は絶たれた。
従一位左大臣四辻善成は義満の母方の大叔父にあたる。
関係ないが一休宗純は義満の母方の従兄弟にあたる後円融天皇の孫である。
その血筋から義満は自分が宮家の一員と自負していたのかな
室町幕府好きな人は東野幸治きらいなんかな?
東野が義満と対談したら「なんでなんで?なんでなん?それおもろいん?ギャグ?ギャァグ? 家貧乏なん?」
とかなりそうで
東野幸治が本名であり苗字が「東野」であるならば
北近江を本貫地とする源義光流佐竹氏末流東野氏であろう。
東野氏は北近江守護京極氏の配下として応仁の乱に参陣していることから
義満の往時においては拝謁も儘ならぬ身分であったと推察される。
もう結論を言ってしまおう。
義満が極めた家格はこの国において宮家を除いて匹敵出来るのは五摂家筆頭近衛家当主以外にはない。
後世、秀吉が近衛家猶子となったのは家格において足利義昭を圧倒し関白に就任する目論みがあったから。
徳川将軍家が親王待遇であったとするのは法的根拠の無い寓話に過ぎない。
新田本家とされる岩松家は冷遇されながらも形だけの臣従であり、関東公方家末裔の喜連川家は徳川将軍家の客分のままであった。
つか、江戸時代は四親王家は摂家より家格が低かったんだから、
徳川が親王待遇でも全く驚かないけどな。
幕末、公武合体(皇女和宮の降嫁)を主導した井伊直助は水戸勤皇浪士に暗殺された。
名実共に日本国大君の確立が皇室のサンクチュアリを侵してしまったんだな。ある意味怖い国だよ。
>>282 ちゃんと遊漁料(自分の考えの表明)を払って釣りをやろうね。
義満か義満の息子が五摂家から嫁もらってたら完璧だったな。
こいつの息子の一人義教様なんか 明国制服とか考えてたって説があるし
室町幕府の将軍にはニュータイプしか おらんのか
但し、この説
三代義満→明から日本国王号を貰って貿易→四代義持がこれを廃止→六代義教が復活→なのに自身は日本国臣を名乗った→明征伐って内容の かなり胡散臭い都市伝説
…冗談に聞こえたかは別に…
>>291ごめんWW間違えたWW
明国制服→明国征服ね
悪御所様が中国の制服着て女装して
万人恐怖とかじゃないからWW
>>70 何故、大河にならないのか不思議なくらい
以前、太平記で足利氏・足利尊氏を取り上げ、
足利=逆賊の誤った認識が一般的にも改められたことは大きいかったよな
朝敵って言っても
南朝の残党的にはって意味だしな
南朝司令官の楠さんまで 足利尊氏を認めてたし
>>294 北畠親房や顕家の親子など興味深いが
また皇国史観・足利逆賊に戻りそう
東北復興大河ドラマは
八重よりも後村上天皇と北畠顕家と結城宗広のほうが良かったな
けっこう福島県内も舞台になるし
良かったのでは
よく考えたら こんな武闘派ガチムチ公家 軍団 北畠さんを蹴散らした魔将軍足利義教って一体
オイオイ
東北って言ったら平安から代々北畠家だろ
義経は単なる逃亡先の仮の宿
それも奥州藤原氏が義経を保護したのは
源義家(足利氏の祖)の恩に報いるため
>>301 安倍氏とか奥州藤原氏とか奥州北畠氏のほうが中世以前の東北代表に感じる。
義経は単なるお客さん。
北畠って公家じゃないの?しかも土着したのは親房からじゃない?戦国大名は伊勢だけど。
北畠って鎌倉時代まで都に住むガチガチの公家
武装したのは南北朝時代の北畠親房から
ただし親房が土着したのは伊勢国
奥州へは息子の北畠顕家が鎮守府将軍に任じられた際に親房も同行しているが、
顕家は後に足利方高師直軍に敗れて親房より先に戦死した
顕家死後はその弟顕信が南朝から鎮守府将軍に任じられて奥州の南朝拠点を失うまいとしたが
足利方の反撃に遭って奥州から追われている
>>298 籤引きと言えども神前で行われた宗教色の強いものだったから
義教には王権神授のように自らは神に選ばれたという自負があったのかな?
このスレでは「皇位簒奪」否定派が多いが、具体的に説明してほしい。
自分は専門家ではないので最近の研究成果を知らないので教示してもらえれば嬉しい。
俺の知識は以前に今谷明氏の「室町の王権」を読んだ程度の知識なので
その後学会ではどのような反論がされているのか知りたい。
去年刊行された週刊日本歴史23「足利義満が目指したもの」では若い北大の学者が
中身のない勝利宣言でお茶を濁し、全く今谷氏への反論になっていなかった。
「皇位簒奪」計画が本当にあったかどうかなど、義満本人に聞いてみるしか、
その真相はわからない。義満の様々な天皇権力の吸収が、単に摂関家を超える高い家格を得たかった、
などのアンポンタンな結論を論拠無く持ってきたのが、北大の准教授の橋本氏なのだが、
全く説明になっていない。
皇位簒奪論を左寄りの歴史観と言うレッテル張りも、皇位簒奪否定派にもそのままブーメランになる。
簒奪肯定派も否定派も史料から立論していくべきだと思うのだが、
その点では今谷氏に分があるように思える。
義満の犯罪とかいうけど正確には武家発展は鳥羽上皇による北面の武士が
引き金になってるんだぜ
そもそも 後鳥羽さんや後醍醐さんが自爆したのが 武家隆盛の発端だし
>>306 しかも 籤引きで選ばれたから 家督争いの手間を省いたのが大きい
>>311 残念だが、対立してた南朝が消滅しちまったから朝敵指定は無理だと思う
下手すると 神器偽造や強奪 皇族殺害の南朝の方が逆賊になりかねん
足利義満は、
史実でいわれている蘇我馬子と同格以上の朝敵
>>313 皇族 誰も殺してない上に 合一させてやったぞ
そんな事言ったら、南朝は皇族への 誘拐拉致殺人神器強奪をやったがな
武家の棟梁 北条は
持明院党と大覚寺党の争いに巻き込まれてしまったので可哀想な気もするが
武家の棟梁 足利は
積極的に朝廷を離間計でより激しく争わせて漁夫の利した朝敵の覇権者
>>315 積極的に離間って
持明院党と大覚寺党の時は 政権についてすらいないし
建武政権が崩壊したのは後醍醐様の自業自得だろね
実質はともかく、北条は武家の棟梁ではないぞ
俺も武家の棟梁北条でクスッと笑った。北条はあくまでも執権
一応、名義上は鎌倉幕府後期の鎌倉殿は
親王将軍(皇族)だな
北条は権力はあったが、身分が低いので鎌倉殿にはなれなかった。
頼朝級もしくはそれ以上の血筋じゃないと、
当時の武家社会では通らなかった。これが宮騒動以降も鎌倉将軍が続いた理由。
足利尊氏は建武政権を滅ぼすという荒療治で棟梁になった。『オレ清和源氏ですが何か?』
この「なんちゃって清和源氏嫡流」理論を正しく理解し
「なんちゃって新田氏」の徳川家康が出てくるのはまた次のお話。
徳川も 足利先輩にはかなわなかったのか 少なくとも源氏論では
>>321 頼家実朝を保護しときゃよかったんだよ北条は
頼朝の実子が少ないのがなんとも
北条から見たら
結果的に天下取れたんだからよかっただろ?
頼朝の源氏は代々、一門で騒乱が多すぎたツケが回ってきただけ
権力握るためには
政治力で御輿は軽いほうがいいだろうw
後に足利将軍家に仕える室町幕府政所の伊勢氏の一族が将軍の命で関東に下向して北条姓を名乗るとはね
やはり関東で北条姓にブランドあったのだろうな
下克上時代で
関東各地の公方家や管領家と戦うには権威的に好都合だったのだろう
実際に後北条は執権北条の末裔を室に迎えたという説もあるようだ
後北条の権威はチートすぎだろ
足利将軍家公認の
北条執権の末裔
「自称」って
自称でも北条と名乗っておけば信憑性が生まれる。おまけに早雲嫡流は実力もあったし
足利義満は皇位簒奪を画策していた、でファイナルアンサーでいいのか?
俺は肯定派だが、否定派も多いし。義道は単位条項になりたかったとか、家格を上げたかった、
とかではないと思う。否定派の人は皇位簒奪説をサヨクの主張とレッテル張りするが、
俺は逆に歴史学界は現在でも天皇制の機微に触れる分野はタブーで、
強引に「なかった」論で議論の封印を図る風潮があるように思う。
室町時代の人に
天皇家と足利将軍家の違いが分かる人はいなかっと思う
義道は単位条項になりたかったとか 誤
義満は単に上皇になりたかったとか 正
>>329 義満は上皇格で
子でお気に入りの義嗣を親王格で
室町朝廷になろうとしていたともいわれてるね
義満と義嗣の没は
やまと朝廷から見たら逆転打の狼煙
戦国時代や江戸時代も経済困窮ながら権威は保ち
ついに大日本帝国で再び国内最大都市の盟主となられて現代へと続く
野球ならば20点差を逆転したような試合
俺の中では足利義満は徳川家康とイメージが重なるんだよ。キャラは全然違うが、長い動乱を終わらせて、
「室町の平和」「徳川の平和」を成し遂げた。実際の「室町の平和」は期間が短く、中小規模の内乱があるんんだけどね。
北山文化のパトロンとして文化的貢献も大きいし、もうちょっと評価されてもいいと思うね。
俺の中での日本三大偉人(政治編)
蘇我馬子 足利義満 田沼意次
>>336家康ですら義満や義教の参勤制度をパクって参勤交代を導入したくらいだしな
もっとも足利の参勤は未完に終わったが三百年後に制度を完成させた分、家康は凄いが
蘇我や足利が朝敵なら、朝廷は【朝敵】から受けったら金を返さなあかんぞ
北朝系の子孫である室町以降の天皇家が、足利を否定するのはそもそも自己否定だろ。
それと聖徳太子は創作された架空の人物だから、太子の実績は蘇我馬子の実績だ。
馬子は日本を創始した偉人だよ。田沼は日本で初めて商品経済の哲学を理解した政治家だ。
田沼時代を近代の萌芽期とみる学者もいる。
庶民生活への善政面での影響力
田沼>>>>>>>>>>蘇我>>>>足利
>>343足利>>蘇我>>>田沼>>>>>>>>井伊松平だろう
井伊直弼や松平定信と足利義教や蘇我馬子とでは実績が違いすぎる
皇居に 楠木正成 像があるんだから
北朝から見ても楠木氏のような忠義の名将は誉れ高いのだろう
これが足利像とかなら石像が動いて朝廷簒奪してきそうだw
>>345楠公神話なんて秀吉や家康すら吹聴したんだから銅像が無いのは当たり前
むしろ後醍醐の銅像が無い
足利が善政?
義満公の時代以外は全国規模で内乱なんですがそれは…
そもそもどの時代も中央以外は内乱のイメージなんだけど
江戸まで行けばそうでもないんだろうけど
江戸時代すら初期は豊臣の残党が盤踞してたしな
南朝だらけの室町時代初期が一時混乱するのは仕方ない
つまり
関白になり足利を完全に格下にした豊臣
豊臣姓を木下氏だけにしてしまった徳川
足利と豊臣を傘下にした徳川が最強
最優は北条
最強は足利
最大が徳川だろう
あと家康の方針で徳川将軍は基本的に
【暗君】だらけに
暗君出現率
足利>>>>>徳川>>>>>>>>>>>>>北条
むしろ足利の方がド派手な名君【暴君】出現率高すぎだから
徳川>>>>>足利 >>北条だろ
徳川の強みは暗君がいくら出ても揺るがない制度設計にあるんだから
たしかにww
ひどい時だと
将軍が暴君で
管領が朝鮮両班階級のようなイメージ
>>357両班制度を基礎にしたのは徳川老中
確か朝鮮に同朋衆はいないよ
徳川時代の番方・役方はなんとなく両班制度に似ているが、それを言うなら、
院政時代の方が朝鮮臭い。武官と文官の家がはっきり分かれている。
まあ朝鮮はあのちっこい車輪つき手押し車に両班さまを乗せて二人掛かりで
チョロチョロチョロチョロ、、、だからな
あれ見て思ったのはもうちょっとマシな車輪を作れなかったのかと
平安時代の牛車だってもうちょっとマシだぜ
京都の外は疫病死体だらけなんて言われた時代でもあるけどなw
京の都は外部からの侵入者を防ぐ構造にもなっている
室町戦国には町組を編成・自治運営し、 町中に堀や柵をめぐらせて自衛・武装し、家が焼かれれば火災対策を考え建て直す体制が取られてる
応仁の乱や上京焼き討ちの場合、町の管理者同士の争いだから一概には脆いとは言えない
北山邸に関しても私的な別荘か
或いは祭祀を行う壇所であり、院政を行う仙洞を模したものなのか
見方が分かれるな
>>353-354 徳川で、同時代人からの評価でも暗君と言えるのは家重と家定くらいだろう。
家光とか綱吉は評価が分かれる。特に綱吉は前半と後半で。
家宣、吉宗は名君。慶喜も政治家としての才知と手腕はあった。
家綱、家継、家治、家慶、家茂は可もなく不可もない、いわば象徴将軍。
家斉は、一個人としては魅力的で愛すべき人物w男の中の男。
>>343 >>344 暴動で倒された田沼政治を賞賛するとは無知の極みだな。
>>368 何しろ田沼の後継政権の定信が話にならん政治だったから
家斉は政治家としては何もやってないが、
そのかわり暴君と呼ばれるような圧制も虐政も粛清もやってない。
個人としてはアウトドア派で健康で、側近にも配慮できる人柄だった。
親政後は、ユルユルの政治だったから、町人の化政文化も栄えた。
息子の家慶の旧家斉側近や水野忠邦に対する仕打ちの方がひどい。
とくに水野に対してはトカゲの尻尾切り。
まあ、そんな家慶も特別暴君でも暗君でもなく、真面目に改革やろうとしただけなんだが。
皮肉にも足利時代と違って徳川は余りに安定してたから将軍専制の意味が無かったんだろ
>368
90ちかくまで長生きした杉田玄白先生が晩年に「今までの人生で田沼時代が一番良かった」
というコトバを残しているんだが。
まあ、暴動が多かったのは認める
田沼時代の輝き
http://www.shinchosha.co.jp/book/610369/ ふふんw
お前らって何を参考にするために歴史板に来てるの?
ちょっと私物化が、激しいんじゃないのか?w
>>372 日本史で
なぜか少し
田沼意次と田中角栄は似ている気がする
田沼の方が美男で育ちがいいけどね。
(一応、オヤジの代で旗本に取り立てられてるから)
定信の方がオヤジの一ツ橋爺に養子先を盥回しにされてそうだな
そりゃ人間不信になって隠密政治するわ
家康さんは新田なんかの子孫にこだわるより、
氏真さんか吉良さんの養子になるか義昭か古河公方の名跡を継げばよかったのにね。
>>377足利一族より上位にいたかったんだろ
家康
松平氏が世良田氏と何らかの関係があったのは事実なんだろう?
信光の代から、松平氏は世良田氏の末裔を主張していたみたいだし。
家康が改姓するときの話で、どっかの公家の家にあった系図を鼻紙に書き写してもらって云々ってのは、
徳川改姓のときの話だったっけ?
あと、将軍になるときも吉良家から系図を譲り受けて新田氏の子孫として清和源氏の末裔を名乗ったとか、
なんか胡散臭い話ばかりなんだよな。
それに新田の子孫を名乗るために、足利一門の吉良の系図を譲り受けるって、なんか矛盾してないか?
実際に三河国とか信濃国とか、あのあたりには、世良田氏の関連の歴史が多くて。
松平氏は、そこに着目していたんじゃね?
世良田氏でも、庶流のほうは、同族の山名氏にしたがって
但馬・伯耆のほうにいって、徳川氏と改正して、全国各地にいる。
たぶん、松平氏は、地祇系の賀茂氏の末裔。
文献上も、14世紀末期ぐらい、三河には
賀茂氏(地祇系の大田田根子後胤)、荒尾氏(在原氏系)、世良田氏の存在が確認され、
賀茂氏、荒尾氏の間で、婚姻関係、養子関係とかがあったのよ。
もしかしたら、そこに世良田氏も結びついたんじゃね?
史実では、世良田氏の嫡系は、そのあたりで断絶滅亡していたのよ。
でも、松平氏は、世良田氏には御曹司が生き残っていて
賀茂姓の松平氏の婿養子に入ったということにした。
実際は、その当時、賀茂氏系松平氏、荒尾氏との間で養子関係があって
系図がゴチャゴチャしている時期。
松平家は賀茂氏系なんだけど、その当時の当主の松平信重は、荒尾氏からの婿養子で、
在原信重を名乗っていたんだけど、
たぶん、賀茂氏から婿養子をもらい、松平家を賀茂氏系に戻した。
その時に、松平信重(在原信重)は娘を世良田氏の生き残りにも嫁がしたんじゃね?
でも、そっちのほうは子孫残らなかったか、子孫は繁栄しなかった。
一方、賀茂氏の入り婿のほうは、戦国大名の松平氏として急成長した。
>>369 定信を落とすなんてのは学者とも言えないような評論家だけだよ。
天明の飢饉の収拾だけでも話にならんとか言えるような連中の文章が
いかに駄文かが分かるものだ。
>>387 天明の大飢饉の時、東北地方は大凶作に見舞われたが、この時田沼意次がとった政策は、日本全国から米の余っているところは、東北地方に売り惜しみをしないようにという命令。実際、からなず日本全国が大飢饉になることはなく、むしろ豊作になる地域もあった
この時、領民に1人もが死者を出さなかたったとして評判の高い松平定信。なんのことはない、彼は上方(大阪)で、米の買い占めを行った他、会津藩の松平家からも1万石を取り寄せてる。当然、定信が買い占めた米は東北に出回らないわけで
一藩主であれば、まず自分の藩の領民を餓死させないことを最優先するのは当たり前。
それすらできなかった他の藩主より、明らかに優れている。
老中でもなんでもない一白河藩主が、東北全体の面倒を見る責任も義務もない。
それから徳川は藤原姓
新田氏系は得川、得河(とくがわ、えがわ)
徳川は当て字
>>389つまり定信の功績は一藩主級で国政には出さん方良かったんだろ
松平定信は地方の首長が適職で
田沼意次は内閣の総理が適職 ということだろう
要するに。
老中首座としても江戸の都市政策や社会政策をやってるけどね。
江戸町会所の七分積金とか、人足寄場の設置とか。
まあ、これも全国政治というよりは江戸の市政と言ってしまえば、それまでだが・・・
つまり、定信は地方の首長としてなら、能力を発揮できるタイプなのか。
>>395 誤解のないように言うと定信本人は名君 だよ
ただし朱子学原理主義者に祭り上げられて貨幣経済の時代に物々交換に戻そうとしたのが問題だった
義満スレなのに江戸時代の話題が続いている…
義満に限らず足利氏って本当に不人気なんだなあ(´・ω・`)
>>307 中公新書の小川剛生『足利義満』がよいかもね。
2年前の刊行だから入手容易だろうし、図書館でも見つけやすいだろう。
南北朝〜室町前期の守護大名達は濃いぃ〜愉快な仲間達だね。
もう個性が強すぎて我儘で破廉恥で強欲で寝返り上等でバサラw
高師直・師泰兄弟、佐々木道誉、山名時氏、斯波高経、大内弘世、今川了俊、細川清氏、赤松則祐、仁木義長、土岐頼康etc
松平については足利義満に聞け
松平の菩提寺は、義満とお友達の息子が作ったんだからよ
三河のことは足利義満が日本一よく知っている
足利義満(3代目足利将軍、1358〜1404)年表
【1351年】高師泰・高師直他高一族8人が、摂津国武庫川で殺害される
【1351年】仁木義長(兄の仁木頼章は幕府執事(管領の前身))が、三河守護(前任は高師兼(高師直の猶子)になる
【1357年頃】明阿(父:高師泰、夫:高師冬(高師直の養子))が、三河国額田郡菅生郷(愛知県岡崎市)に、一族を菩提する総持寺を創建する、住持は兄・高師世の娘
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【1358年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)の屋敷で生まれる
【1360年】大島義高(新田氏流)が三河守護になる(新田義重―里見義俊―義成―大島義継―時継―盛義―義員―義昌―義高)
【1367年】足助重宗(足助重範の孫)の子・重政(寛立上人) が、松平郷主・在原信重の支援を得て、三河国加茂郡松平郷に寂静寺(高月院の前身)を開創する
【1368年】管領・細川頼之を烏帽子親として元服する
【1368年】三河国額田郡片寄郷(愛知県岡崎市)に、天恩寺を創建する、足利尊氏遺言の寺、開創は永源寺2世弥天永釈、4代目将軍足利義持の祈願所
【1369年】三河国宝飯郡御馬郷(愛知県豊川市)に御馬城築城を、管領・細川頼之に命ずる、頼之は弟の頼有に命ずる
【1370年】三河国設楽郡(愛知県新城市)に甘泉寺創建か?、天恩寺と同じ永源寺2世弥天永釈開創、御朱印高48石、山林境内20余町歩を寄進する
【1379年】管領・細川頼之失脚、斯波義将が管領になる(康暦の政変)
【1379年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)を政所執事に任ずる
【1379年】一色範光(侍所頭人、若狭守護、、尾張国知多郡・海東郡の分郡守護)を三河守護に任ずる
【1380年代】管領・斯波義将が、斯波氏先祖代々の墓所がある三河国碧海郡(愛知県岡崎市)に、永源寺の創建を申し出る、これを支持し将軍家安泰を併せて祈願
【1380年代】三河国額田郡(愛知県岡崎市)の滝山寺本堂(4度目)を建替える
【1382年】源信氏(細川一族か?)が義満誕生日祈祷の為、三河国額田郡片寄郷(愛知県岡崎市)など4ヶ所を天恩寺に寄進する
【1387年】三河国額田郡下和田郷(愛知県岡崎市)を、京極高詮に還付する
【1388年】富士山遊覧、三河国額田郡(愛知県岡崎市)の矢作宿に宿泊する
【1388年】一色詮範(侍所頭人、若狭守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1390年】管領・細川頼之が、三河国額田郡細川郷(愛知県岡崎市)の屋敷跡に、蓮性院を創建する
【1390年代】足助重宗(足助重範の孫)に、尾張国野間荘を還付する、当時の野間荘は、高師直領を将軍家預かりとなっていた模様
【1391年】伊勢貞行(伊勢貞継の孫)を御料所三河国額田郡山中郷(愛知県岡崎市)の代官に任ずる、山中郷の法蔵寺は6代目将軍足利義教の祈願所
【1392年】細川頼之死去、葬儀は義満が主催して相国寺で行われる
【1394年】出家する
【1397年】三河国碧海郡(愛知県岡崎市)の永源寺(創建:斯波義将)に、後に建仁寺61代住持となる玉岡和尚を住持職に補す
【1397年】三河国渥美郡(愛知県田原市)を京極高詮に還付し、守護使不入の地とする
【1399年】三河国額田郡菅生郷(愛知県岡崎市)の乙川六名堤造営を、管領・畠山基国にを命ずる、下和田郷が水不足に陥り、領主・京極高詮から苦情が入る
【1399年】三河国額田郡比志賀(愛知県岡崎市)の深恩院に、高一族の比志賀郷の旧領を寄進する
【1404年】松平和泉守源信光が誕生する
【1406年】一色満範(義満偏諱、侍所頭人、若狭守護、丹後守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1408年】死去する
義満の富士山旅行はかなり強烈なデモンストレーションだったようだ。関東の諸将はみな震え上がったそうな。
息子の義教が富士山遊覧を再開したときは義満の悪夢再びって思われたろうな
>>393 災害にろくに対処できない総理などいらんよ。
>>405その理屈だと 災害時に自分の地元だけを救済した人が名君
幾つかの地域を救済して幾つかの地域は出来なかった人が無能とかになるんだが
バサラ守護大名達に拮抗される室町将軍
この時代は、将軍家、親藩、譜代、外様の江戸時代と違い
将軍家+官僚(政所、奉行集)と弱小親衛軍(奉公衆)対強大多数の守護大名(何故か親戚である関東公方も有力一族一門も時として敵方になり外様同然)
酷い時は統制力も求心力も無く畿内にすら支配権も及ばない。
良くもまあ、こんな時代(政権)が200年以上続いたもんだなw
実際、奉公衆の軍事力ってどんなもんだろ?
足利義教の結城合戦鎮圧は今川範忠の功績だし
嘉吉の乱の赤松満祐討伐も何も出来ない室町幕府に代わっての山名持豊の手柄w
奉公衆は一番50名として
各々引き連れて来るのが60人(1小隊レベル)くらいで
五番編成で最大兵力2万人弱。
数量的には立派なものだが、コイツらが機能し活躍した歴史的事実は見当たらない。
>>403>>404 何も分かってないねw
「富士山遊行」は今川氏を動かすよと言う隠語。
ちゃんと日本史を勉強してれば知将今川了俊の嫡系を駿河守護に据えたかぐらい常識だぜ。
何を自慢気に話してるんだ?
今川の駿河守護就任は関東の抑えなんて当たり前だろ
義満は守護大名の拡大防止策をとってるんだからな
>>414 義満の守護大名拡大防止策は矛盾している。
育ての親と言うべき管領細川頼之を失脚させた斯波義門を重用せねばならなかったし
巨魁土岐頼康死後の土岐氏分断には一族内対立を利用している。
明徳の乱の山名氏討伐も大内義弘ら有力守護大名の働きによる。
さらに、その大内義弘の応永の乱鎮圧軍の主力には失脚した細川頼之の弟頼元と管領畠山基国、前管領斯波義門であった。
義満の治世の性格は統治機構による支配ではなく帝王としての君臨である。
有力守護大名家はすぐに息を吹き返し応仁の大動乱の温床へと繋がるのである。
なんだ?
室町幕府自体にそんなに力があったと思ってるのかな?
同じ源氏のやつらには将軍〜って呼び捨てにされてるのによ
いつでも時勢が変われば他の源氏が将軍にとって変わるのは
普通な世界
将軍という名が特別なものになったのは江戸時代
新田、山名、里見、斯波、吉良、今川、一色、畠山、渋川
この辺は全て時勢さえあれば全て将軍候補になっても不思議じゃない
細川氏ってのは矢田冠者で没落してるから足利家家臣として独立した
一家は持ってなかったの
細川氏が勢力を伸ばしたのは四国時代
>>410 少なくとも末期はそれなりに機能していた。明智光秀の主力はほぼ全部これだし。
また、光秀自身が奉公衆の出身というのも有力な説として存在する。
ただ、明智光秀とともにその一族を含む10万以上が皆殺しにされたから、
実態はかなり謎となっている。
>>410 山名持豊に家督を取らせたのは足利義教
殺した赤松満祐は義教の葬式まで出してるんだが
>>416その大内氏って何回足利に負けたっけ
>>412それ言ったら 徳川の旗本は足利の奉公衆みたいに活躍どころか実戦にでた試しがないがな
>>421
足利将軍家敗戦の全記録w
建武三年一月三十日、京都にて北畠顕家に敗れる。(尊氏)
同年 二月十一日、摂津豊原河原の戦いで新田軍に大敗。(尊氏)
観応元年 光明寺合戦、打出浜の戦いで直義派連合軍に敗れる。(尊氏、義詮)
観応三年 南朝勢力に敗れ京都を奪還される。(義詮)
同年 山名時氏、楠正儀に襲撃され京都を再占拠される。(義詮)
正平十年一月 山名時氏に京都を奪われ敗れる。(義詮)
正平十六年十二月 細川清氏、楠正儀、石塔頼房らに京都を追われ近江に敗退。(義詮)
嘉吉元年六月二十四日、赤松満祐に暗殺される。(義教)
明応二年二月 細川政元らに将軍廃立される。(義材)
同年 十二月 河内にて細川政元軍に敗れる。(義材)
明応七年 近江にて六角高頼に敗れ、河内で細川政元に再度敗れる。(義材改め義尹)
永正五年六月 十一代将軍義澄、京都にて前将軍義尹に敗れる。(義澄)
大永元年三月 将軍義稙(義尹改め)細川高国に京都を追われる。(義稙)
大永七年 十二代将軍義晴、三好元長らに京都を追われる。
天文年間 義晴は何度も細川元晴に敗れその都度近江に逃れる。(義晴)
天文十八年 義晴、義輝親子は三好長慶に京都を追われる。(義晴)
天文十九年 中尾城の戦いにおいて三好軍に敗れる。(義輝)
天文二十二年 細川元晴と協調するも三好長慶に敗れ近江朽木に敗走。(義輝)
永禄八年五月十九日、二条御所にて松永久秀、三好三人衆に謀反され討死。(義輝)
元亀四年七月十八日、十五代将軍義昭、織田信長により槇島城落城し京都を追放される。(義昭)
>>423足利義満は
1390(明徳元)年
美濃の乱では土岐氏
翌年12月には11カ国守護 山名氏を
明徳の乱で
1399年(応永6年)には大内氏を応永の乱で倒し取るやん
六代義教の時代だとほぼ無敗だし
参考資料
土岐長山つー奉公衆が三河にいましたよ
室町幕府 西三河の日本支配構造
【奉公衆】
・奉公衆は、室町幕府に整備された幕府官職の1つ
・将軍直属の軍事力で、5ヶ番に編成された事から番衆、番方などと呼ばれる
・奉公衆の人数は全国合計250〜300人
・三河国の奉公衆は全国で最大人数、又三河国出身の奉公衆も最大人数
・5番衆の番頭
一番番頭 細川氏、二番番頭 桃井氏、三番番頭 上野氏、四番番頭 石垣氏(畠山氏)、五番番頭 大館氏
三河国の奉公衆一覧(全53家)
【藤姓熱田大宮司一族】
千秋、萩、星野、二階堂、毛利(大江氏流)
【足利一族】
荒川(戸賀崎流)、一色、伊奈、上野、吉良、天竺(細川氏流)、仁木、細川、三淵(細川氏流)、和田
【足利被官】
饗庭、朝倉、飯尾、岩堀、大草、高、久下、小嶋、中条、二宮、彦部
【三河源氏】
足助、水野
【三河伴氏】
設楽、黒瀬、富永
【美濃源氏】
土岐、長山(土岐氏流)
【桓武平氏】
伊勢、神谷、山下
【その他】
宇津野、大内、借宿、河内、小林、疋田、桜井、進土、杉山、堤、長、西部、本郷、松平、丸山、三浦、大和
>>423 室町将軍の敗戦がこんなにある
守護大名連中(中には陪臣まで)は普通に謀反上等の素敵な奴等だねw
軍事上、小規模の戦闘単位が如何に集団化されようとその集団と同等の経済規模の単一軍団には全く敵わない。
だからこそ守護大名は領国一円支配の戦国大名に変貌していくことになる。
室町奉公衆や江戸旗本衆は全くナンセンスw
>>426 >>428 そいつ等に南朝や比叡山は負けたんだかな
>>429 比叡山じゃなく興福寺だろ?
その時点での南朝の経済規模は?
>>430 わざわざ
>>423に書いてるだろ
文盲か?
>>431比叡山を最初に焼き討ちした上に
興福寺も倒したか
そりゃ南朝は義満に連敗しとるから経済規模はお察し
>>434 義教は赤松に謀反暗殺された以外に誰に負けたのかな?
>>435 1438(永享10)年、永享の乱
鎌倉公方足利持氏には勝利
1440(永享12年)結城合戦
結城氏に勝利
1434(永享六年)比叡山焼き討ち
>>438 足利将軍家敗戦の全記録と書いてるだろ
文盲か?
>>439 その時点での比叡山僧兵の兵力は?
豪傑英雄の源平の頃とは隔世の感あり。
>>440そっちが文盲か?
足利義教の事を聞いたんだがな
>>442 足利将軍家敗戦にしか興味なし
知りたきゃ自分で調べな気持ち悪い奴だなw
>>443要は知らんのか
>>440 まさか多少弱体化したから僧兵は弱いものって理屈とはね
>>444 クレクレ君か?
甘えるんじゃないぞ
口惜しかったら知見を見せたらどうだ?
>>445 そりゃそうだよ
何せ義教の負けたのって本人が暗殺されたときだけなんだから
調べて披露とか出来る訳がない
>>444 この時点での僧兵の武具、装備、戦術を具体的な実例をもって提示してみ?
>>423 そういう点では、(義教の最期を除いて)敗戦記録がない義満〜義教が全盛期と言えるな。
>>448 少なくとも、細川政元や織田信長が焼き討ちした頃よりはまだまだ戦力があったろう
>>423 弱将軍だな足利w
武家のくせにお歯黒と麿衣装着て逃げ惑う姿を連想してしまうww
>>451 よく見るんだ。
負けているのは、初代尊氏と2代義詮、あとは10代義材/義稙以降(いわゆる戦国時代)。
義教の暗殺が目立つぐらいで、全盛期と呼ばれる時代は負けていない。
室町幕府には
御相伴衆、国持衆と奉公衆の間に中間身分として御伴衆ってのが居たんだな。
だけどコイツら普段、将軍出向の供奉や陪膳以外何やってたんだろう?
観応の擾乱のあと不思議なことが起こっている。
乱の勝者は足利直義であるにも関わらず尊氏は敗者なのに勝者のように振舞い続けた結果
幕府内はもとより一族一門を始め有力守護大名達も尊氏を覇者と勘違いしてしまったのだ。
弟愛の強烈な尊氏とどんな兄でも許してしまう直義
尊氏直義兄弟の不思議なところだ。
高師直、師泰兄弟一族抹殺というトカゲの尻尾切りでイメージのすり替えに成功した足利将軍家は
高一族の墓には足を向けて寝れるはずもない。
足利義満の知行国は何処かと聞かれたら三河が正解
つくづく今も昔も三河は凄いと思わないかい?
源頼朝の曽祖父は三河県豊田市民→三河県岡崎市民、祖父は三河県岡崎市民、長男の正室(辻殿)は三河県豊田市民
長男の息子が鎌倉鶴岡八幡宮でやらかした公暁
・吾妻鏡では辻殿を妻、若狭局を愛妾としている
・源頼家
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡、三河県岡崎市))→由良御前→源頼朝 →頼家→公暁
・辻殿
足助(加茂)重長(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)→辻殿(母親は源為朝の娘)→公暁
■修禅寺(静岡県伊豆市修善寺964)
木造大日如来坐像
http://www.butsuzoutanbou.org/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0/%E9%9D%99%E5%B2%A1%E7%9C%8C/%E4%BF%AE%E7%A6%85%E5%AF%BA/ 本尊の大日如来像は1984年に解体修理され、像内から銘文と納入品が発見された。これによって、1210年に実慶が造ったものとわかった。
実慶は「運慶願経」(1183年)に名前の見える慶派の仏師である。この修理の時点では作品は知られておらず、重要な発見となった。新聞でも報じられたそうである。
納入品は美しい布に包まれた髪の毛であった。
髪はB型とO型の血液型の人のものであるとのことで、2人分であることが判明している。1210年というのは、この地で非業の最期をとげた鎌倉幕府の2代将軍源頼家の7年忌にあたることから、頼家ゆかりの人の髪と考えられる。
『吾妻鏡』の1210年7月8日の条に頼家の妻辻殿が出家をしたという記事があり、辻殿の髪と思われる。またもうひとりは、母である北条政子である可能性がある。
三河は武家のメッカ。
室町も戦国も江戸も、三河がすべての原点。
三河と韓国は世界の中心。キリストと孔子は三河人。
アメリカ大陸を発見したのも三河人だし、
世界の5大文明のひとつが三河文明。
三河四郎大夫という元祖三河武士の息子が大宮司職を簒奪し、その娘が頼朝の母だ
出自を洗ってみると、実は頼朝の母方は神官ではなく、三河武士の家系というわけ
余談だが
頼朝母親の兄である範忠の娘が初代足利氏の義兼の母親で、その義兼の祖父がどーやら範季と繋がっていたらしく
範忠ー範季ラインが庇護していたのが、養父が範季の範頼と義経、実は義兼も反頼朝側の人間だったわけだ
晩年が義兼が気が狂ったふりをして無事に過ごした話は、範忠ー範季ラインの範頼と義経が粛清されて、次は俺だと思ったんだろう
最新の研究ではヒトラーの出生地はオーストリアではなく三河らしい。
464
あーハイハイ。
キリストはドイツ人とかの話ね
>>463 元祖武士=兵の家は
承平・天慶勲功者子孫か、さらに広げたとして寛平・延喜勲功者子孫に限定されるけど
藤姓熱田大宮司家って藤原南家じゃないの?
元祖武士には該当しないよ。
元祖武士じゃなく元祖三河武士と書いてあるだろう
もう一人の元祖三河武士は、源義家の郎党、伴助兼
源義家と三河四郎大夫の生没年はほぼ同じなんだが、三河と源氏との繋がりは義家まで遡るだろう
伴助兼の子孫、設楽氏、富永氏は、これに3人も出てくる
三河と源氏の繋がりは、足利氏にも受け継がれているわな
天龍寺供養参列者
http://www.geocities.jp/kawabemasatake/tenryuji.html 最新の研究では足利氏の地盤は三河ではなく、満州というのが有力
大日本帝国の
関東都督府から関東軍まで
臨時軍政の権限があるという面で
幕府っぽいw
そりゃゴダイゴ
そこにゆけば〜どんな夢も〜
三蔵法師たちの旅の物語り
そりゃゴダイゴ
そこにゆけば〜どんな夢も〜
三蔵法師たちの旅の物語り
>>468 一覧にある千秋惟範(三河左衛門大夫)が、三河四郎大夫の嫡流の千秋家(三河国設楽郡千秋)出身だな
惟範の兄弟である高範の娘が斯波義種(斯波義将(嫁は吉良満貞の娘)の弟)の嫁になっている
義満がとことん三河で固めているのは家康と同じだな
いや家康が義満を手本にしたか?
>>474基本的には室町以降の武家政権の制定した政令は足利のコピーだしな
田母神さん、国政に出てくれ
橋下以外の維新、旧太陽の平沼さんと連携してくれ
歴史を紐解けば、改革は三河人しかやった事ないから無理じゃないっすか?w実績のない奴に期待しても無駄
現代も三河を除く地方が絶賛衰退中なのを見ればわかるでしょ
それを国民が理解できていないのが一番の不幸だわな
もういい加減、三河人に江戸時代を終わらせてもらえw
江戸時代が500年以上続いとるがな
三河武士って土豪、地侍だろ?
軍事貴族の系譜を引いていない
故に「本来の武士」とは言えない。
義満の三河に対する信頼感は凄いわな
何から何まで三河である
足利将軍家庖丁人(料理人)
大草流庖丁道
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%8D%89%E6%B5%81%E5%BA%96%E4%B8%81%E9%81%93 >室町時代から始まる古式日本料理の流派。
>室町幕府の奉公衆大草三郎左衛門公次が大草流を創始した。
>足利家にとって特に信用のおける譜代の家臣に任された。
>1380年頃、大草三郎左衛門公次が足利義満の料理人となり仕える
大草氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/okusa_k.html >家伝によれば、三郎左衛門尉公経が足利尊氏に仕えたとあり、公経をもって始祖にしている。
>三河国額田郡大草(三河県幸田町)を領して、大草を家号にしたと伝える。
義満が生まれた場所も伊勢貞継の屋敷
伊勢氏(藤原俊経→藤原俊継(伊勢俊継)→伊勢盛継→伊勢貞継)
■藤原俊経(****〜1238):初代伊勢氏・伊勢俊継の父
・肥前前司
・法名願仏
・弟の相模法橋円辰と円辰の子大進法眼増恵は三河国滝山寺僧侶
・三河国滝山寺に持仏堂を造営する(後に持仏堂は、甥の大進法眼増恵に譲られる)
・三河国滝山寺に古市場御油畠を寄進する
・歴仁元年(1238)5月13日、京都東山一切経の谷で死去
■藤原俊継(1217〜1274):初代伊勢氏
・藤原俊経の息
・伊勢前司
・建長7年(1255)、三河国滝山寺に、足利義氏追善の法華堂(宝幢寺)を造営、この堂に田畠3町8段を寄進、足利家氏に働きかけ、家氏の三河国碧海荘青野、宇祢部の料田畠を寄進させる
・天照大神のお告げで姓を伊勢に変える
・文永11年(1274)6月23日、鎌倉で死去
■円辰(****〜****):初代伊勢氏・藤原俊継の叔父
・藤原俊経の弟
・相模法橋
■増恵(1209〜1283):初代伊勢氏・藤原俊継の従兄弟
・円辰の息
・聖蓮坊大進法眼
・叔父藤原俊経の持仏堂を譲られ、自身の持仏堂とする
・吉良荘の奉行として、吉良氏の所領経営をする
・建長6年(1254)、本堂屋根瓦替工事の大勧進を勤め、同年、温室を改造する
・正嘉元年(1257)、一切経蔵を造営する
・文応2年(1261)、山王社の宝殿を改築する
・弘安6年(1283)2月13日、鎌倉滞在中に死去
最新の研究では人類発祥の地は東アフリカではなく、三河だといことが判明した。
これか?
http://d.hatena.ne.jp/soorce/20081109/p1 高:では、そのアウトラインから。鳥山明と言うのは本名ですか?
鳥:本名です。
高:珍しい名前ですけど多いんですか?
鳥:祖母のところでは多いですよ。三河(愛知県)の幡豆はずという所ですけど。
精明山宝泉寺 祖父母の菩提寺
http://d.hatena.ne.jp/denbei9th/20120815 >鳥山精明(牛之助)が1545年に建立
鳥山精明(牛之助)
江戸中期の三河代官。鳥山家は4代にわたり三河代官を勤めた家柄である。3代の精元は,三州小牧邑(幡豆郡吉良町)に生まれ,1666年(寛文6),父を継いで三河代官となった。
1673年(延宝元),矢作川の治水のため,挙母神社の東側の曲尺手(かねのて)に堤防を築き,遊水池を作って,堤防決壊と浄化入水を防いだ。領民は,この堤を「精元堤」と呼び,徳をたたえた。
また,精元は堤防に桑樹を植えさせ,養蚕を奨励し,農村経済の一端を支え,現在まで続いた挙母養蚕の祖とあがめられた。
この他,上・下庄司ケ池の治水を行い,農地干ばつの不安を取り除き,道幅三間半(6.3m)の街道を作り,これに沿って挙母の街並みを整備した,
水害から神社を守るための移転用地を下げ渡し除地(検地から除き無課税とすること)とするなど,当時の人々の農業生産や日常をめぐる諸問題に積極的にかかわった。
菅沼ここでも発狂してんのかw
みんなスルー推奨な。構ってやるときりがない
人気のない町外れに住み
子供がやってくると招き入れ
無理矢理開脚させ
子供が痛いと泣くと「そんなんじゃレスラーになれんぞ!」と怒る
常時マスクをかぶり素顔を見せない人
(法に)負けたら逮捕デスマッチ決定!
分かる人には分かると思うが
徳川政権の成立は源平藤橘以前の古代軍事氏族の逆襲復権に他ならない。
大伴氏、佐伯氏、小野氏、多治比氏、阿部氏、賀茂氏、尾張氏、縣犬養氏、大蔵氏、これら古代軍事氏族は
源氏、平氏、秀郷流藤氏という代表的軍事貴族を棟梁として戴き武士団の実体として生き残っていたんだよ。
三つ葉葵が賀茂神社のって奴だな
トンデモって言いたいが織田氏も剣神社の忌部って話だし
あながち嘘でもないかな
学校の日本史で教えている「下剋上」って間違い。
正確に言えば古代再生(復権)。
鞆幕府も入れて応仁の乱後120年も存続した足利幕府こそ史上最強政権。
踏まれても踏まれても諦めずに継続することの大切さを、僕たちに教えてくれた。
江戸時代も
なんと分家は喜連川御所さまとして
将軍家と対等同盟扱い
どこまでも運のいい足利麿
イメージとしては
北条が武装した裁判所
足利が武装した中央銀行
徳川が日本の不動産の三分の一を保有した軍事不動産屋って感じだな
>>496 中央の衛府舎人(随身)として生き残った氏族は
下毛野氏、秦氏、中臣氏、壬生氏などが居るね。
彼等の中には王臣裔軍事貴族の受領・押領使としての地方下向に従い(この場合は私的家人)
先に地方移住して開発領主化していた古代軍事氏族及び田堵・負名層と共に武士団の中核を成す者も居た。
松平は足利の御内人みたいなもんだろ
何で御内人が下克上すんだよ
家康の頭の中では室町幕府の16代将軍だよ
>>423 現職の征夷大将軍がこれ程敗戦するとは足利将軍家以外例を見ないw
以下は除外
鎌倉幕府最後の宮将軍守邦親王(実権無し)
徳川家茂(第二次長州征伐敗戦は死後)
徳川慶喜(鳥羽伏見の戦いは大政奉還後)
>>505 松平は政所執事伊勢氏の身内人であり陪臣。
一族に日野富子の実家に仕えていた奴もいて、単純に伊勢氏の被官だったとは言えんだろ
信光の正室が一色氏の娘だとすると、その息子が祖父の養子になって松平一色氏になる事も可能
足利幕府直臣には
相伴衆、御供衆、奉行衆、奉公衆があるけど松平はどれにも入ってないぞ。
極端な話、当時は三河で繋がれば全部仲間だったんだろう
足利将軍家の三河繋がりの信頼感は凄いからな
蜷川氏にしても、元をただせば三河繋がりで源頼朝に仕えた宮道さん
足利将軍家、「三河繋がり」「源頼朝」→「幹部決定」だったんだろう
蜷川氏
元は物部氏の流れを汲むとされる宮道氏
蜷川氏は、越中国新川郡蜷川郷から発祥した。すなわち宮道式俊・親直父子は、治承四年(1180)の源頼朝の旗揚げに参じて功があり、越中国砺波・新川の両郡を領した。
室町幕府において、政所執事を世襲した伊勢氏の家臣であり、親直から数えて3代目の蜷川親当の頃より政所代を世襲することとなった
蜷川氏の当主は代々新右衛門と名乗っており、蜷川新右衛門といえば、テレビアニメ『一休さん』(1970年-1982年)に足利義満の側近で寺社奉行の武士蜷川新右エ門が登場する
宮道氏
饒速日命を祖とする物部守屋の後裔(物部氏より分かれる)と称する。ほかに日本武尊系宮道氏
発祥地は三河国宝飯郡宮道郷(現在の愛知県豊川市)と推定される。
宮道天神社(愛知県豊川市)
源頼朝は上洛の折、安達盛長に代参を命じ、京からの帰路、鞍馬装束を奉納
内藤湖南じゃないけど
日本史上の大断絶は南北朝末期から応仁の乱後の100年間だろうね。
政治史、軍事史、経済史、文化史の面ではその前後は全く別の国のようだ。
荘園制の崩壊による名門公家の没落、義満の専制による鎌倉以来の名門武家(足利一族一門も含む)の内紛から没落。
守護の守護大名一円領国化に伴う家臣団の変質形成(国人の取り込み及び末端地侍層の寄り子寄り親制の導入組織化)
農村自治の進展(荘園から惣村への変貌)。
中国銅銭の大量輸入による貨幣本位経済の浸透により流通経済の進展拡大を促した。
民間経済増大の背景による文化芸術(書画南画、連歌、茶の湯の流行)のパトロンの移行。
御伽草子や民間伝承の原型源流をこの時代に求めることが出来る。
逆に、現代に直接伝わるこの時代以前の社会制度及び情報量(一次史料は当然の事ながら)は極めて少ない。
私はこれを「足利ルネッサンス」と命名したい。
以上
>>513 そうそう
天皇家も嫡流?の大覚寺統も持明院統も絶えて、その後の伏見宮系とは断絶してるんだな。
いったい中世日本に何が起こっていたのだろう?
その真相を足利義満の実像も含めて知りたい。
今の皇室って大覚寺や持明院統の時代だと皇位継承すらできなかったと?
現代の私たちは実は並行歴史の中に生きている。本当の歴史は別にあり、時空のひずみは応永年間に生じた。
その原因は足利義満に関係している。
キミたち、本当の日本史を知りたくはないか?
少なくとも足利義満が台頭しなかったら 信長も光秀も秀吉も家康もデビュー出来なかったわな
521
信吉さんは水戸家の初代だがすぐ死んでまったからあれだけど
秀長の事跡は但馬攻略から始まり結構、活躍してんだが秀吉の
影に隠れてるのがあれやね
20
織田氏は越前の土豪で斯波氏の尾張守護のときの奉行衆としてきたのが始まりやもんな
光秀と秀吉はよく分からん、松平氏は鎌倉時代にはすでに三河の豪族として名前が見える
どうやって勢力を張ったかなんだよな
清盛の時代から宋銭が大量に日本国内に流れ混んでる
この時代から日本国内は貨幣経済に繋がってんだあな
土地売買なんかも行われている
織田が奉公衆とかw信吉だけが外様衆だっただけだがw
526
織田氏は斯波家被官の奉行ですよね〜
別に信吉だけでないで
家康は他の子供らも養子に出してる
秀康は結城家に
忠吉は東条松平家に
信吉は武田(穴山)家に
忠輝は長沢松平家に
喜直、頼宣、頼房は幼いか生まれていないから養子に出されなかっただけ
足利義満⇒日本国国王
徳川秀忠⇒日本国大君
徳川慶喜⇒日本国皇帝
天皇陛下⇒日本国天皇
義満の事績で忘れてはいけない事では
先ず、京畿内の行政軍事警察の統制権を完全に掌握した事だろうね。
これで律令以来の朝廷は有名無実化した。
>>529南北朝時代の混乱の主な原因は朝廷が軍を動員したことにあるしな
遡ると承久の乱とか
歴代の足利将軍で正式の冊封を受けたのは義満だけ?
義政とか冊封も受けてないくせに国王を称して、朝貢貿易を行ってたというし、
大内氏にいたっては国王でもなんでもないくせに国王印を偽造して貿易やってた。
どうも、明の対応もきびしいのか緩いのかよくわからん。
>>530 保元の乱と平治の乱もそうだし
源平の戦いももともと朝廷と平家の対立が原因。
でも勘合貿易は明の出超で、一方的に日本がもうかるだけだから、
明側に対応を緩和するメリットがない。
でも勘合貿易は明の出超で、一方的に日本がもうかるだけだから、
明側に対応を緩和するメリットがない。
528
これも付け加えとくか?
征西府(南朝)
日本国王、懐良親王
足利義満が日本国王を名乗ったのは南北朝が終わってからだな
明は儲かるだのなんだのより国内混乱中ですわ
冊封を受けて避難囂々だった割に国内の足利義満の評価は偉い高かったり
四代の義持が一転して大明強硬政策を
(別に変化はなかったが)取ったのに明は何にも言わなかったりしたのが不思議だったが 勘合の恩恵はあったんだな
一番分からないのが戦国期に細川に代わって貿易の実権を握った大内氏で、
幕府の実権を握っていた細川ならともかく、一地方大名にすぎない大内氏が、
「日本国王」として朝貢を認められ貿易してたのは理解に苦しむ。
義満ですら、初期は正式な国王ではないとつっぱねられていたのに。
>>540 一応、上洛して足利幕府に実力を認められてたし、領内には明に取って魅力的な豊富な銀山もあったし
基準が曖昧なんだよ
懐良親王や豊臣秀吉も貰った位だし
明からみたら、
足利将軍や細川管領よりも大内日本国王のほうが格上だったのかw
>>506 >鎌倉幕府最後の宮将軍守邦親王(実権無し)
確かに守邦親王は実権が乏しかったが、最後は東勝寺で北条氏、御家人らの先頭を切る形で
自害したのだから(厳密には長崎高重、摂津親鑑が見本を見せた後)、入れるべき。
>徳川家茂(第二次長州征伐敗戦は死後)
これは徳川将軍家の敗戦記録という意味では入る。将軍の間とは言え、大政奉還前だからな。
>徳川慶喜(鳥羽伏見の戦いは大政奉還後)
同意
>>542 それも短くて、天文11年の出雲侵攻の前年に突然寧波取引が中断なんだから
明帝国の貿易基準はかなりいい加減だよな
第一章 大内帝国の勃興
第二章 大内帝国と勘合貿易の謎
第三章 大内帝国と大正デモクラシー
第四章 大内帝国とバイオマス発電
第五章 大内帝国の滅亡と田沼意次
ちょっと空想してみた
朝廷での大内氏の極官は従二位兵部卿
天下人でもないのに武家としては官位高いw
短期間は日本国王+守護領地面積最大+戦国の山口が応仁後の京より繁栄
だったようだから、ある意味天下人かもしれんが・・
フランス占領下でのヴィシー政府では無く、ロンドンで亡命政府を作った
シャルル・ド・ゴールとはちょっと違うかな?
>>549 ドゴールに自前で貿易する財力は無さそうだしな
当時、足利幕府と対立してた訳ではないし
表向き
大内氏が天下を統一していたら、19世紀には日本と英国が世界を分割支配していただろう。
この東アジア海洋帝国の構想を最初に持っていたのは平清盛。それを受け継いだのが義満。
義満亡き後、その遺志を継いだのが大内氏というわけだ。
日英の境界線はおそらくインドとビルマの国境になっていただろう。
大内さんが任那日本府王と百済王を兼任すれば、
文化水準が高度になり、
現在の韓国反日の芽を摘めた。
結局、足利家の内紛に巻き込まれ 大内バブルははじけちまうと言う
陶晴賢さえ早まらなければ、
江戸時代もきっと大内は前田島津伊達よりも大領土
日本史上最強の大君
こいつを越えた武士の統領って
息子の足利義教か
徳川家康くらいか
>>1さん
わたしが誰かおわかりですか?
以前
>>1さんに徹底的にブチのめされ
スレ立てをあきらめた男です
しかし
>>1さんを尊敬しています
そして二人の息子を鍛え
いつの日か必ずスレ立てさせるとも誓っていますッ
その日まで…
スレ立てし続けてくださいよ・・・・・・
姉小路程自分に厳しく…
また!人に温かい国司はいません!
じゃあ
三木さんの代わりに伊予?の西園寺さんを入れれば
真の三国司か
>>558 徳川将軍は全員超えてはいる
何にもしちゃいないが
義満が徳川将軍家に生まれてたらどうなっていたかはかなり興味がある
誇り高き義満さんは自分がニセ源氏だと知った時点で自決してるとマジで思うぞ
>>571 そもそも「本物」の源氏の基準なんて
当時なら足利に関係あるかないかだから問題無いだろ。
>>571 義満は後円融天皇と母親同士が姉妹
つまり義満と後円融天皇は従兄弟同士
義満が自分の血縁は天皇と同等に近いと思っていたのは
この母方の血縁の近さに由来する
自分は400年前にさかのぼれば男系で天皇につながっているからなんてことはあまり重視してなかった
>>573 よくその話聞くけど、
それって大正時代の渡辺世祐が、
後円融天皇と義満が系図上いとこ同士であることを発見して騒ぎ出した説でしょ。
当時の資料にはそんなことを意識していた事実はない
>>574 足利義満は頻繁に母方の石清水八幡宮を訪問参拝し寄進を行っており
(義満の母紀良子は石清水八幡宮検校善法寺通清女)
大正時代に急に義満の母方がクローズアップされたわけではない
足利義満は隠居後、別邸の北山第に移り住んだが(金閣は北山第内に作られた義満の持仏堂だった)
ここは足利義満が住む北御所、義満の正室日野康子が住む南御所、
そして義満の叔母崇賢門院が住む女院御所の3ブロックからなっていた。
このとき北山第に同居していた崇賢門院こそ、後円融天皇の母である紀仲子であり、
義満夫妻との親密さがうかがえる。
頼朝と足利なんちゃらも母親が姉妹で意識してたのかな義満さんは
>>576 三河馬鹿のコピペか
自分の母親の姉妹は重視して交流していても
250年前の先祖の母方の姉妹なんてほとんど意味ないが
歌丸「では私が亀甲縛りで縛られますので、何か熱いものを垂らして下さい。
そこで私が一言言いますので、更に何かで叩いて下さい。」
>>576 当たり前だろ、その縁故で三河守護になれたんだからよ
石清水八幡宮と言えば、三河国高橋荘は石清水八幡宮領だったらしいな
地頭は中条氏、もちろん義満側近
中条満秀
中条満平
高橋荘
・平安末期〜戦国期に見える荘園名
・矢作川中流域の低地と山間部、豊田市(旧上郷町・高岡町を除く)・三好町・藤岡町・小原村にまたがる大荘園
・八条院領目録に院分御荘として「参河国高橋荘」「参河国高橋新荘」とあり、鳥羽院政期の院領寄進系荘園の一例とみられる
・寄進者は藤原(高橋)惟康か←藤原伊周の孫、源頼朝曽祖父の妹の息子
・八条院没後、春華門院昇子ー順徳天皇ー後高倉院→安嘉門院邦子ー亀山天皇ー後宇多天皇ー昭慶門院憙子と相伝される
・昭慶門院目録に、高橋荘は亀山院の時石清水八幡宮に寄進、新荘は冨小路前大納言(小倉実教)とあるのは領家職とみられる
影武者、佐吉
見苦しいぞ仲野…
上様のご前でなんたる無礼!
乱心したか仲野!!
松兼藩の名に泥を塗ったも同然!!
責を取って腹を切れいい!!
その後
松兼藩は
農民の暮らしを中心に
考えた政策をしき
明治の時代まで
十八万石を守りぬき
歴史上 最も争い事の
なかった藩の一つとして
語り継がれたという
>>574 義満が自分の母の関係するものにゆかりを感じるのは当たり前。
義満が「女系で順徳5世」と意識していた証拠はない。
女系のつながりで「皇胤」意識を持つことなぞありえない。
そんこといってたら、藤原氏も皇胤になってしまうw
天皇になろうじゃなくて朝廷の権威が欲しかったんじゃない?
古代はともかく日の本は王権以外に「皇統」が確立、浸透しちゃってたから。
異民族と組んで日本を売らない限り無理筋。
>>584 南朝も北朝も潰滅状態から再建せねばならなかったしな。
義満の真意は不明だが、彼以外に天皇家を纏められる奴はいなかったろうな。
上皇になる一歩手前で倒れたのは残念だった。
義満上皇、義嗣天皇が実現していれば、日本も天皇制の呪縛から解放されたのに。
>>587 足利も朝廷を敬い、天皇位への野望がなければ
北朝の支援者として評価されてただろうに。
足利義満
足利義教
この二名のおかげで足利は朝敵イメージ
>>590 むしろ、その二人がいなかったら天皇家は消滅してたわけだが。
というか、何も知らずにイメージだけで語る奴はこんなに馬鹿ばっかだと
>>590は言いたいのだろう
>>587 五山系の僧侶の間では「鹿苑天皇」とか「皇祖尊氏」とかいう表記があらわれてるぞw
結構いい線逝ってたんじゃないか?
ま、義満が上皇になってたら、一時的ではあってもすなおに足利皇統が出現してたと思うね。
豊臣氏ですら関白になってたんだから。
それでも一応清和天皇の男系子孫だから、皇国史観的には万世一系はたもたれてるし。
>>594 それって法隆寺の僧たちが厩戸皇子を
「聖徳帝王」と呼んだのと似てないか?
厩戸皇子が即位してただのなんだの
>>590 その並びで行くと義満義持じゃないのか?
義教は朝廷権威利用してる時点で2人とは明確に異なる
対外的には威圧外交
内政的には合議を重視
正に理想の二代目な義持。
破格の専制者、義教もこの兄が息子のアルコール依存症を直してたら 出番が無かったろう。
昔のゲーム挑戦してクリアできるのアウトランとスーパーマリオぐらいだな。
スーパーマリオは無限増殖しとかないと無理かもしれん・・・
足利って初代から最後まで賊で内乱画策の謀略者だよ
そのじじつに対して「将軍刷り込みテーゼ」「相手が悪い陳腐なシュプレヒコール」だけでごまかした内乱画策者
@足利2代までの将軍位は地位保証する権力を批判して反抗してるので完全無効
A2代まで執権とマ王の戦いに関与するもそもそもその段階で勢力の掌握や将軍的地位の確率すら怪しい
足利の状況が矛盾してるし、戦争経過の供述が空白化してる。結果生き残ったがむしろ足利とマ王の共倒れまで何もせず、最後に漁夫の利狙いの武蔵方面などの戦いに1将兵として参戦し、戦後最後に残った
秩父武蔵児玉勢力の川越を暗殺しただけと思われる
結果的に戦後それらの勢力を糾合できてない
B3代は法王を略取傀儡化してむりやり権利を簒奪した。違反だがこれはギリギリ将軍と呼べ........(呼べないか)
C義満は権力拡大のために示威権限の拡大と大内に謀略をしかけて誅殺した
D関東大戦は事実上の足利の敗北で和睦のためと勝者の余裕で坂東武士団等の傀儡の鎌倉府と和睦したとしてるが、事実上の関東の勢力拡大の失敗と、鎌倉府の逆傀儡化と八屋形への影響力消滅で失敗
E7代(将軍としては建前5代、実権2代目)の義教は周辺勢力の自滅で全国制覇も視野に入った瞬間
聞いたこともない田舎地頭に堂々と暗殺される
Fいごえいきょうりょくはなくなり、実質勢力解体分離する
G影響力衰退から100年後再度将軍になっても足利アレルギーにより文句なく惨殺、卜伝の教えあっても周辺諸侯に否定される
H最悪の内乱謀略一家であるが殺すべくもない雑魚として信長に殺されず追放
I秀吉取り入り失敗
J徳川にはなかったことにされて断絶
こういう酷い一家
50年無為、40年謀略、幽閉100年、再否定20年、→追放
あほみたいなカス、間違いなく戦国内戦の画策者
負けて事実上独立って事だろ
どちらにしろ、関東の騒乱を収集出来なかった時点で、戦国時代到来は確定。
大体統一すらされていない地侍連合に、曲がりなりにも中央政府の討伐軍が負けるっていうのも
情けない話だがな。
そもそも外交、経済、警察の全てを外部に委託していた室町幕府を、政府と言えるのかどうか・・・
義満が高圧的に振る舞えたのは武力がない公家に対してだけ
左遷した今川了俊が挙兵するのでないかとビクついてたし
斯波義将にダメだしされてあっさり自分の意見を引っ込めたりしている
既に鎌倉時代で日本の中心は関東に移ってるからね。
関東を抑えないと日本全土の掌握なんて無理なのは当然。
ある意味、京都に幕府を作った時点で関西限定の政権にならざる負えなかったんだな。
>>607 うん。
そもそも京都に幕府を置いたのが南朝対策である以上、南朝が滅んだのなら関東に移るべきだったろう。
関西の大名ごときに舐められる情けない公家もどきだったのだから、ましてや関東の精強なバーバリアン共は直接に
統治する以外方法は無かったと思う。
大体義満は弱いものに強く強いものに弱いって当時の人からも散々言われてるじゃないか
強者が集まる関東なんて行きたがらないのは当然
↑に加えて
鹿苑院の性格は普段は軽口が上手く陽気だが
機嫌の悪い日はもうとんでもないというお天気屋だったらしいね
でも鹿苑院は守護大名には媚びてばかりいたからな
摂関家でも守護でもわけ隔てなく突然どやしつける(普段は割と温厚)勝定院の方が
恐ろしい存在だったと満済日記にも書かれている
勝定院殿は見た目からして恐そうだからな
もみ上げ異常に長いしなんか江戸時代のヤクザみたいな風貌
義持は痒いケツを掻きむしった傷が悪化してという
あっけないというか不審な最期だな
義満も変だけど
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり >>619 義満は子供が20人ぐらいいたし少なくないのでは?
義持・義嗣以外は息子も娘も皆寺に入れて出家させているので
政治の表舞台に出てこないだけで
(義満死後、義教が還俗して将軍になっている)
義満と義政以外女好きがいないのが足利将軍家の特徴
義満は男も好きだし生粋の女好きは義政だけ
>>621 義教は37歳で還俗してそれから初めて妻を持ったのに
10人程度子供を作ってる
ただし将軍にならなかった子供はすべて僧籍に入れてる
応仁の乱以降の将軍は転々としすぎていて
すべての子供が家系図に載っているのかも不明
日本国王なんて言われても当時の日本のラスボスは
あくまで後小松天皇である
道義もそれが分かっていたからこそあっさり冊封を受けられたのだろう
後小松天皇なんぞ情緒不安定な傀儡だぞ?
とてもじゃないがラスボスの器ではない。
こんな皇室周辺がスカスカだからいっそ俺が・・・ってなった訳で。
してない、してない、局を寝取られたとか被害妄想に駆られた後小松の
一人相撲であり、伏見宮系の皇統奪回運動を完全に押さえ込んだように義満が
後小松にどれほど援助してやったことを忘れて皇位簒奪とか妄想でしかない。
だったらあの義満の戒名は有り得ないでしょ。
あの不自然な死に方も。
そもそも神輿というのは軽い方がいい。
三国志の曹操もそうだよね。
何故なら、いずれ自分がその地位に座るからだ。
その為には、軽い神輿を派手に飾り付けて自分を隠すことも必要だろう。
だから、馬鹿に皇位をくれてやったんだろう。
何れ自分が玉座に座る日の為にね。
>>629 元々後光厳系というリリーフ皇統を義満が守ってやる理由はなかった。
後亀山をはめて北朝の皇統の権威を維持するのも理解不能なことになる。
戒名がどうの義嗣を皇子とよんだなどは難癖に過ぎん。
>>632 守る必要は無いって、大有りだろ。
自分が引き継ぐべき地位の権威を落としてどうする?
義満は皇室を廃絶したかったのではなく、乗っ取りたかったんだぞ。
ならヨイショするのは当たり前だろう。
で、直前まで漕ぎ着けたからシンパから戒名を天皇扱いにしてもらった訳だ。
死んじまって皆ひと安心だったんだよ
だから戒名なんてどうでもよかったんだって
どうでもよかったら「太上天皇」の尊号など贈らないね。
ま、朝廷も認めてたんだよ。足利天皇を。
皇位簒奪なんてもってのほかなんてのは所詮後世の色眼鏡に過ぎない。
現実には相当現実味を帯びていたと言わざるを得ない。
もう少し長生きしてれば足利朝日本国があり得たかもしれないな。
まぁ現在まで長続きしてる、という事は無いだろうが。
一応順徳天皇の血を引いているからしょうがないかって
関白以下納得しかけていたかもしれない
義満は天下人として語られるけど
九州と関東を平定してないんじゃ
言うほど天下人じゃないよな
足利義教かな
鎌倉公方を滅ぼし東国、九州は勿論の事
島津忠国に琉球を下賜している
>>639 女系は血筋として意識されないから、それは関係ないと思う。
むしろ義満の妻が女院宣下を受けている事のほうが大きい。
北山院は後小松天皇の準母とされたが、つまりは義満夫妻が天皇の親として待遇されたってこと。
女院は太上天皇に準ずる地位なのだから義満がそれと同等以上の位になるのは自然の流れ。
公家からの評価は高かったようだね
太上天皇の尊号も内裏が足利将軍家に気を遣って歓心を得ようとした規定の路線
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり NHKだからな
日中友好のトンデモ電波を飛ばすだろうて
日本からの輸入アニメ「聡明的一休」が人気だったため
中国人の間で義満の知名度は意外と高い模様
×歴史秘話ヒストリア
○英雄達の選択
11月12日(木)午後8時00分〜午後9時00分
NHKBSプレミアム
「日本国王 足利義満の野望〜北山新都心と日明貿易〜」
締めのナレーションが
「それは今も謎である・・・」と来たか
足利将軍家歴代の男色相手を教えて下さい。
よろしくお願い申し上げます。
足利義満がもっと長生きしていたら、
天皇家はどうなっていたのでしょうか?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
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今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
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岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった あなたは40代ロサンゼルス府警新聞作りですか?ドーハの悲劇「中国衝撃イヤフォン」「中国悪夢イヤフォン」ですか?
それともいくつですか?
それともいくつですか?
それともいくつですか?
王権簒奪は後円融上皇の被害妄想に近く
後小松天皇には至って真面目に仕えていたので長生きしたらどうって話もおかしい
義持や義教と大差ない
後小松天皇が義満にまじめに仕えてたっていう意味ねw
義満は後小松の父に准えててたからね。
何か勘違いしてるのがいるが北朝天皇家にとって足利将軍家はあくまで
臣下に過ぎない
それも徳川将軍家のような形式的な関係にとどまるものではなく
明確な主従関係をもったもの
足利将軍家なしに北朝天皇家が成り立たないのも事実だが北朝天皇家の権威付けが
なければ足利将軍も一大名に過ぎないからだ
>>666 だ〜か〜ら
義満は後小松天皇にとって「父」に准ぜられる人なのw
だから義満は生前から太上天皇に准ぜられ、死後尊号が贈らんれたの。
天皇が父と仰ぐべき人なのw
わかる?
中国の亜父・相国みたいなもんでしょ
権勢を誇っているけどそれ以上ではない
後小松天皇以下全員が義満の子分だったってことでしょ。
だから太上天皇は当然の成り行きだった。
!!注意換気!!
※常識的に事実でなければこの様な内容は書けません!
極悪人、押川定和の被害にご注意下さい。
我々は水戸のサポーターや関係者で押川定和の悪事の被害者を中心に集った団体だ。8割ぐらいはメインスタンドで観戦している。
押川定和は
『ゴール裏で戦う会』
のリーダーで元鹿島サポーター。
SNSで数千もの架空アカウントを作り水戸の関係者の情報を盗み出し個人のSNSを炎上させるなど攻撃を仕掛ける。
SNSで限界になると人を利用して情報を盗み出す。その人がその後どうなろうがお構い無しの使い捨て。押川に誰が騙されて巻き込まれるか分かりません。
皆さん注意して下さい。
Twitter、Facebook、mixi、超水戸、ニコニコ動画など可能な範囲で全てで悪行を行っている。
『悪行の事実を突き付けると全てを自演や同一扱いで煙に巻こうとする。』
悪行が事実の為、表舞台には出れないが2ちゃんねるで反応はする。
水戸の関係者になりすまして未だに水戸スレに書き込み続けている。
現在は悪事が公に広まり鹿島には行けなくなる。しかしながな水戸への悪行は続行中。
押川定和の悪事は犯罪の領域に達している。
押川は現在、悪事が公に広まり鹿島には行けなくなる。しかしながな水戸への悪行は続行中。
勤め先・株式会社WEIC(ウェイク)104-0053
東京都中央区3-1
http://www.ntt.com/bizhosting-basic/data/case2_1.html >>669 武力をもたない公家に対してはな
大内や鎌倉府への対応見ると武家に対してはかなり妥協を
強いられている
強いものに弱く弱いものに強いのが鹿苑院の特徴というのは有名だが
守護大名全般には基本的に媚び諂ってるとまではいかないが
怒らさないように相当気を使っている
関東には手が出せなかったな
本当に権力者を気取るなら関東移って鎌倉殿になるべきだった
それをやるんだったらせめて紀伊半島の後南朝は始末しないと。
それに大内とか山名とかもどうするんだ。
史実だって完全に滅ぼせなかったのにな。
>>674-675 富士山へのデモンストレーションはハッタリ?
まあ関東を制圧したなんて言われる義教だって
鎌倉府を一時的に潰しただけだしな
暗殺されなかったところで直接統治しようと試みるも
失敗してた図しか思い浮かばないな
義政の堀越公方と同じ
ていうより義政自身応仁の乱以降のグダグダで数寄者扱いされてるけど
治世の初期は大名の家督争いに介入してるし義教と大差ないんだよね
最近は義教が評価されてるけど
義教すらも天下人というには物足りないんじゃないかな
明からの使いに土下座を3回したというのは事実なの?
実際は5回しないといけなかったらしいが。
>>668 父に准ぜられる人は父ではなく
後小松天皇が義満を実父として敬っていたわけではないよ
義満は天皇より上に立ちたいとか下になりたいとかではなく
ただ単に仲良くしたかった事実はあっただろうけどね
後円融天皇とは母親同士が姉妹のいとこで
後小松天皇を別荘の北山殿に招いて何泊もさせて歓待した
義満は後小松天皇に恐怖政治を強いていたわけではなく
それこそ平清盛が後白河法皇を武力で幽閉したのとは異なる
後小松院にとって源道義はいつも金をくれる気前のいいおっさんでしかないわな
従兄弟の後円融には嫌われたからよっぽど仲良くしたかったのだろう・・・
桜井英治氏によると
後小松院は我がままいい放題の暴君だったらしく
後小松称光親子ほど凶暴性を持った君主は他に例がないとのこと
義満が甘やかしすぎたせいだろう
余談だが、俺が早くに買って推奨した袖珍本、
『応仁の乱』と『観応の擾乱』が二冊とも
そろってベスト・セラーになったゼッ!
いづれも、中公新書だから、実質的には野球新聞でしかない
読売新聞社の儲けになるんだけど、俺はあんな低俗新聞社の回し者なんかぢやあ
断じて無えのサッ!!!!!
分かったナッ!
!
「義満・義持・義教」の時代は大河から外されているから、その点の原作本が欲しいですね。
義満は天皇に近づきすぎた面で毒殺されたと考えていますし、結果義持が金閣やらを潰して、義教が再建して・・。
足利は権力者のつり目文化をたれ目文化に変えてくれたので評価しています。顔は何でも良いだろうという感じで・・。
義満、義教や信長がもうひと押ししていればと悔やまれてならない。
一休さんと頓知問答してた能天気な将軍さまじゃなかったのかよ!
もし実現していれば、今より風通しのよい社会になっていたことだろうな
足利義教が柄にもなく朝廷を尊崇したからな
恐怖政治とか言うなら朝廷も潰せばよかったのにw
後花園院どころか伏見宮まで特別扱いする厚遇っぷり
そこまでする必要あったのだろうかっていつでも思うが・・・
足利義教は、宿老畠山満家が行きていた時代は、歯止めがきいていたらしい
死んでから恐怖政治になった
>>694 それより幕府の天領を増やそうとしなかったのが不思議だよな
守護不在国を増やしてもいいと思うが
義満も土岐、山名、大内の守護職を代わりに細川、畠山に与えるだけだし
守護がいないと、その国内の統治が難しいのだろう。国人同士が喧嘩おっぱじめる。
我々は江戸時代の平和を知ってるから、小名ばかりの国があっても別にいいのではないか、
と考えたりするが、まだ室町時代というのは「武士は戦をしてナンボ」の気風が満ちてる時代なんだろう。
>>694 室町幕府が守護大名の連合政権なんだから
将軍の権威を高めるためには、朝廷の権威を高めるほか
なかったのだろう
>>698 そういえば信濃の国人たちが、将軍の直臣になろうとしたので、幕府は守護不在地にしたけど
なかなか国人たちが言うことを聞かなくて、なんのメリットがなかったから、地方の有力者だった
小笠原氏を守護にしたという
日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
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