石冰 陳敏 王敦 蘇峻 反乱四天王まとめとか出ないかなー
蘭陵王とか、亡国の王族は悲劇的だけど
新王朝がたつ時
開祖たる権臣達は、物凄い権力闘争をやってるんだよなあ
栄枯盛衰を感じる時あるなあ
源平藤橘の流れを汲んでるか、旧華族クラスでないと名門とは言えない
李弼と李虎の家柄の胡散臭さ
いっそ「馬の骨」です宣言した方が清々しいレベル
貞観氏族志「名門貴族の第一は清河・博陵の崔氏、皇帝の李氏は第三等です」
太宗「は?(威圧)」
唐が滅亡して貴族階級も消滅して
宋からは科挙で豪族出身のがり勉が官僚になった
という理解でよろしい?
蘭陵王とかそこまでの武将か
斛律光や段韶には到底及ばないだろ
君主から猜疑されて暗殺されると通常よりageられるから
>>28
いつもは強いけどメンタル豆腐な夫に尽くす強気な妻っぽいのがええ
石季龍必要だったのは姚弋仲みたいな奥さんやな >>29
石勒は機転の利く劉氏を側に置いて信頼していた一方で、石虎は鄭櫻桃みたいな頭の中身空っぽそうな女を好んでいたあたりが明暗を分けた感じ
なお両者ともに本人死後に後継者をぶっ殺された模様 石虎は普通に聡いからな
後継者争いの戦いが起きることを見越して最速で迷わず動いた
楊君や李君の仲間たち
楊君や李君の先祖たち(普六如君や大野君たち)
苻黄眉ももうちょっと待ってたら苻生死んだのになあ
苻堅が後を継いで、苻黄眉が優秀な方面司令官として活躍してくれれば、もっと華北統一も王猛が生きてるときにできただろうに
苻黄眉もそのうち苻堅に反旗翻していた可能性高いでしょ
>>34
あいつとはもうやっとれんわ・・・という息子2人を続けざまに殺して幼齢の太子を立てるという孫権を超えるかもしれないクズムーブ 五胡十六国のブログあったけど逆張りしまくって消えたなあ。タニオもブログ消すし全く困ったもんじゃい
ウィキペディアだと、苻黄眉、苻菁、苻重、苻洛は兄弟とあるが、それの根拠はどこだろうか?
苻健の兄は二人いて、苻重と苻洛は兄弟てのはわかってる
けど、苻黄眉や苻菁が苻洛らと兄弟で、なおかつ兄弟順がわかる資料は記憶にない
どこかでそんな資料でもあったか、わからない
どこから手を付けていいか分からない時代ナンバーワン
>>41
西晋が滅ぶところから始めればええんやない >>41
先にゴールを見るのも手やぞ
よくわからんけど拓跋最強 >>46
五胡十六時代のゴールは北魏の華北統一になるのか
そこまで行っちゃうと結局その後の南北朝や隋唐が知りたくなる 大雑把な流れは
北側だと
後漢(三国時代)→西晋→前趙→後趙→前秦
→大混乱→代(北魏)
って流れになるのかな
興味持てば持つほど、それ以外の所が知りたくなるが
前燕って、読む本によっては
スルーされてるか
盛況だったが、前秦との関係を読み誤って滅んだ
くらいしか紹介されてないか
な気がするけど
意外と(?)強国だったみたいなんだけどなあ
しかし前燕が前秦に滅ぼされたのはどうなのか
普通に考えれば前趙と後趙のように国力が上の東が負けるはずがないのだけど
先進地域のはずの東が西の新興勢力に滅ぼされるって中国史ではわりとよくある展開のような。
桓温を連戦連敗の末なんとか撃退した直後に王猛に間髪いれず侵攻されるとか何の罰ゲームよ
経済も文化も先進的だと思ってる漢民族(中原人や江南人)が
西方人or北方人に手も足も出ずボコボコにされて土下座降伏する歴史
>>56
慕容暐と慕容評はどう考えても割譲しとくべ…
きでもねえなぁ、あの紫瞳、
なんだかんだで攻め滅ぼしただろうし 慕容垂の母親と奥さんをぶっ殺した後で本人を殺そうとしたのが悪いんじゃない
中国三大紛らわしい人名
韓信と韓王信
諸葛瑾と諸葛均
斛律光と斛斯徴
張良、張陵、張遼、張亮
王莽、王猛、王蒙
李勢、李靖、李勣、李晟
孫乾、孫堅、孫権
苻健と苻堅、苻雄と苻融
于禁、于謹、于謙
いくらでもあるとは思うけど、何があるだろう?と挙げてみるのも脳トレになるだろうか?
兄弟とか一族の同世代なんかは共通の字を持つパターンも多くて紛らわしいかもしれんね。
昔、三国時代をよく知らなかった頃
一つの文章内で、孫堅と孫権とが取り上げられていて
「誤植?」を疑ったな
>>65
当時の中古音(推定)だと発音違うこと多いよ
健[*ɡans]と堅[*kiːn]
雄[*ɡʷɯŋ]と融[*luŋ] >>65
南宋の時代に張俊(盗賊出身の将軍)と張浚(バリバリの進士)がいるゾ >>71
(盗賊出身の将軍)張俊が金との和平派で、(バリバリの進士)張浚が金との断固抗戦派というのが、さらにややこしい。 >>63
張平と張平だろこのスレ的に
あと慕容逸豆帰 宇文逸豆帰みたいなトンビの子孫から
宇文泰みたいな鷹が生まれるとは
>>57
惰弱、柔弱、貧弱で武を賤しむ中華の奴らが北風に鍛えられ克己心に富み武を尊ぶ遊牧民に勝てるわけがないのだ
日中戦争でも国府軍の奴らは弁当を食べるのを嫌がったというぞ
何でも火が通って温まっていないものを食べるのは嫌なんだとか…
携帯食料が無ければ馬の生き血すら啜って行軍するという遊牧民に比べて、何と情けない…
話にならん、みっともないと思わんのか! しかしその遊牧民も中国統治に関わって同化するとあっという間に軟弱になるよな。
同化を拒んだモンゴル人もチベット仏教受容して軟弱になった。
そりゃ温暖な地で略奪やらんでも生活出来りゃ柔弱になるわな。
契丹族は鮮卑宇文部から起こったらしいね。宇文部は匈奴系鮮卑らしいが。
漢化しなかった宇文氏が契丹族なのかな。
一方、鮮卑拓跋部は、柔然とほぼ同種で言語的にはモンゴル系。
やはり漢化しなかった拓跋部の系統が後のモンゴル人になって世界帝国を築き、元となって中国を支配したという。 北斉の頃に書かれた「魏書」は東晋や南朝の記述も正確で詳しいが、どこで情報を手に入れたのかな。
>>84
467年に淮北を北魏にかっさらわれた時に書籍や学者が押収されたりしたんじゃないかな
あと劉昶や蕭寶寅の亡命に付き従った官僚たちから聴取したとか 北斉だったら顔之推とかいろいろ漢人の亡命者がいるだろ
>>84
うん、いやすまん、こういうツッコミ無粋なのは重々承知の上なんだが…
東晋や南朝の記述も正確
って、そんなこと言っちゃうと一瞬で信憑性なくなるでな…「詳しい」ならともかく… 魏 → 晋 は、知識人階級の反発が少なかった
東晋 → 南宋(劉宋) は、土着の南方人の反発が少なかった
と聞いた事あるが
北地を回復する本気度は、どこまで残ったのかな
うろ覚えだけど
南朝の高官層は、馬が恐くて乗れない貴族様と
叩き上げの軍人とで成り立ってたんだっけ?
>>89
南朝貴族が軟弱になるのって末期梁(宇宙大将軍の乱)のあたりからだよ。それまでは太武帝の華北統一や孝文帝の洛陽遷都などがあったからソレなりに緊張感はあった。 この時代の国号は、前秦とか後燕とか北魏とか、後世に便宜的に順序や方角が冠せられてるから
どうしても亜流の国家にみえてしまうんだけど
彼ら自身は、秦、燕、魏と称していたんだよな
漢、晋、趙、涼、燕、秦、夏、魏、宋、斉、周、梁、陳
まるで春秋戦国時代みたいだ
>>93
元々春秋戦国時代が起源だろ
だから漢とか涼とか遼金とか元明清とかが異端なだけ
今の中華民国や中華人民共和国とかは更に異端
しかし春秋戦国時代以降に韓名乗る国皆無で
何故か僻地の半島で名乗ってるのは(ry 漢は異端じゃないぞ
あれ劉邦が漢中王名乗ったところからだからな
そんなこと言ったら慕容垂の後燕も
異端扱いする必要が有る
中山なんて趙のど真ん中やぞ
中山王に封される人間は多いけど、国号を中山にしたやつとかは居らへんよな
五胡〜南北朝でほかに国号になる可能性あった国って魯か鄭ぐらいしかもう残ってなかったよな
代って春秋にあったのかと思ったら一応あったのか
漢の国は劉邦の時代まで存在しなかった?
>>94
漢と涼は地名でしょ。
漢<漢中
涼<涼州 韓名乗る国少なすぎて韓がどのあたりだったのかよく思い出せない
>>94
異端?
元明清民国中共とかいう人口数億以上を擁する超中華帝国が時代も文化も異なるちっぽけな春秋戦国諸侯に倣う方がおかしい
もはや違う文明、春秋戦国の続きではないのだよ 韓ぐぐってみたら小さい上に訳わかんない形してんのね
地名として影が薄いわけだわ…
殷も出てこない気がするけど、夏や周や春秋戦国の五覇や七雄になった殆どは趙宋や西夏の頃までに2回3回は同名の国が登場してくるものね。
でも、韓王や韓国公は魏王・趙王、魏国公・趙国公などと同じように何度も登場してくるし、たまたまだろうね。
洛陽も近いし、魏晋南北朝や五代十国の展開次第では前韓や後韓ができていても不思議ではなかった。
ちょっとした巡り合わせの違いだね。
隋唐も一応昔からある地名らしいけどマイナーな名前の王朝が統一国家になったもんだな
元は中華王朝じゃないし、金清は一応地名、最後2つは近代国家だし…
やっぱ異端なのは明か
建国の経緯は十六国や五代と似たようなもんなのだが
異民族を追い出して漢民族の王朝を復興した偉大な国やぞ
明が異端、、、もう漢民族自体が異端やなw
つーかそもそも戦国の韓魏趙は同時代的には鄭とか邯鄲とか晋などと称されてたと思われ
正統も異端もクソもない気がするゾ
>>107
金は地名なの?
契丹の遼と同じく王朝のシンボルである金属の名前付けたんだと思ったけど。
あと清の国号も元明と同じく中国古典由来じゃないの? 女真族はもともとアルチュカ川流域に住んでて、アルチュカは女真の語で金という意味だから金
清は諸説あるけど、金の国号の発音がいろいろ変化したのをまた音写し直したら清になったらしい
遼も普通に地名でしょ 遼河流域のことで、遼河の東が遼東
遼は地名でしょう
三国志でも、よく「遼東の公孫〇」みたいな記述が出てたし
あのエリアは中世以降は僻遠の夷狄の地みたいなイメージだけど
3世紀までは普通に華夏の一部だったんだよな
普通ではないな、中原から見れば僻遠には違いない
夷狄もうろついてるし
>>106
どこに封爵するかはお上(宇文さんち)の都合だしな 遼ほど僻地ではないが劉玄徳も燕ぴと張翼徳も琢郡(いまの北京市郊外)出身。
さらに田舎に行くと、宇文さんや慕容さんもうろついていたのかなあ。
そのご先祖はいただろうね
宇文が匈奴扱いされてたりとか、あの頃の塞外の民の扱いがとにかく雑すぎる。
消えてもしばらくキャッシュ残ってるんだったな。虫食いだが
子貴母死かぁ
拓跋氏の権力が長期に安定してたのはやっぱそれでかいんだろな
まあ漢化進めてたら何れやめねばならなかっただろし
やめたらあっという間に外戚禅譲コース…
北魏が安定したのは宋孝武帝・明帝が父の文帝ほど積極的に北伐しなかったのが大きいんじゃね
明帝は相次ぐ内乱でそれどころじゃなかったと思うけど
外戚云々の話なのに北伐ガーとかさすがに的外れ過ぎやろ
西魏→北周→隋の目まぐるしさとか見ると
いかに子貴母死の外戚潰しがでかかったのかを思い知る
北魏若死にする皇帝多かったのにな
>>121
楊堅さん「外戚はクソ、はっきりわかんだね」 劉宋の北伐とか大したことなくね?劉裕以外はちょっと進んですぐ撃退されるのばっかじゃん
>>123
東魏北斉とか五胡政権で外戚の害とかそこまで顕著に現出してなくね
東晋なんかは外戚政治があっても長続きしてるし
外戚政治=滅亡ってのは短絡的でしょ 外戚が何処までやっていいかの基準が
西魏北周隋
東魏北斉
南朝
それぞれで違うからなあ
北魏は外戚もそうだけど宦官も政治に悪影響及ぼしたりしてるからねえ
北魏自体に問題が内在してたとしか言いようがないのでは
慕容氏の最も変態な所は
吐谷渾を称える歌を国歌としていた処
慕容恪や慕容評や慕容垂が仲良く吐谷渾を称える歌歌ってるところ想像すると
抱腹絶倒すぎてもう天下統一とかどうでもよくなる
秦は宦官によって滅びた
前漢は外戚によって滅びた
後漢は外戚そして宦官そして権臣によって滅びた
魏は権臣によって滅びた
西晋は骨肉の争いによって滅びた
東晋は権臣によって滅びた
劉宋は一族殺戮ののち権臣によって滅びた
南斉も一族殺戮ののち権臣によって滅びた(滅びたというより同族により継承された)
前秦は性善説で滅びた
北魏は漢化しすぎて滅びた
北周は外戚によって滅びた
隋は暴君の悪政で滅びた
唐は傾国の美女で滅びた
唐が滅んだのは呉梁と同じ理由だろう。長引けば弛緩する
北魏は権臣(爾朱氏や高歓)によって滅んだパターンじゃね
>>129
慕容廆
慕容吐谷渾
こう考えると自然な発想やろ 同族と言えば何故梁はそのまま斉を継承しなかったのか
東昏候の悪評を少しでも消したかったのかな
暗君や殺人狂のオンパレードで、斉王朝のイメージが最悪だったからじゃね?
しかも太祖が「劉宋の轍を踏むな」と戒めたにもかかわらず、見事に同じ自滅コースをたどったし。
「同族とはいえ、あいつらと一緒にしないでほしい」という思いがあったのかも。
その一方で匈奴の劉氏は、同族の統治にもかかわらず途中から「漢」から「趙」へ、国号を変更している。
当初は、「漢王朝の再興」という大義名分が必要だったのだろうが、途中からその必要もなくなって
地名としては北方の趙の方が相応しかったのだろう。
天子が劉氏のままで「漢」から「趙」に変わり、天子が劉氏から石氏に変わったのに国号は「趙」のままという不思議さ。
司馬睿=牛氏説ってなんなんだろ
てっきり北朝が東晋をdisるために流した流言だと思ってたが
孫盛の晋陽秋とか東晋の著書にも載ってたりすんのね
当時の讖文とか童謡が残ってたらもう少し解明できるんだろうけどね
三国志の牛金の記述が異常に少ないのは
牛氏の話題自体が憚れるような情勢だったからかな
>>135
漢の部下の癖に好き勝手やり過ぎた石勒に当て付けの国号変更だったとも言われてる
石勒が趙王だったから、お前の席はないぞという明確な絶縁宣言よ
だからこそ石勒は趙のまま(元々趙王だから)というわけ 劉曜って、石勒を趙王に封じてから自分の国号を趙にしたのか
ややこしや
石勒の自立って劉曜に疑いもたれたからって話になってるけど皇帝とほぼ同等の権限与えざる得ないくらい巨大だった訳だから遅かれ早かれ衝突は避けられなかったのかね
漢(前趙)の一臣下としての石勒でいる可能性はあったのだろうか
王弥の勢力を吸収出来なければその程度で終わったかもしれない
劉聡を無視して勝手に王弥を粛清した次点で事実上独立勢力だよな>石勒
三国志から晋について調べててさらにその先について知りたくなったからここにたどり着きました
なんかこの時代について面白い本とかないですか
>>143
宋義を殺した項羽感が半端ない。
あと呉広を殺した田臧とか >>144
三崎良章先生の「五胡十六国」かな
あとやる夫五胡十六国 とりあえずWikipediaで、劉淵→石勒→符堅→拓跋珪の順に読めば大まかな流れはわかるかも
石勒と苻堅の間に慕容儁入れようぜ
なので
劉淵→石勒→慕容儁→符堅→拓跋珪
を推すぜ
あと Wikipedia の上記人物の項はちょっと細かすぎるから、
始めっから大雑把に読み飛ばすくらいでいいと思った方がいい
上でも言われてるように、
石勒の項目とか、慣れてる人間でも割と目が滑る
載記を直訳したようなWikipediaは今一好きになれんな
中国のWikipediaの方が簡潔に整理されてて理解しやすいくらいだもの
後趙崩壊後と前秦崩壊後に二度も中原の覇者になるチャンスがありながら逃した慕容一族ェ
冉閔の大虐殺後の前燕って漢族の士大夫も相当期待してたんじゃないかと。いきなり称帝したのも漢族の士大夫が「ヘタレの晋なんぞ孫呉なみの雑魚ッスよ華北と中原を制した慕容儁さんこそが中華の帝王に相応しいッス」とか煽り立てたんじゃないかと。
燕という王朝名から、どうしても北方の国という印象がある
ほんとに見事なくらいやらかす国家の連続だな。さすが300年統一されなかっただけはある。黄巾からなら400年か
西晋の統一飛ばすのって何か意味あんの?
分裂の時代というのを印象付けたいだけ?
孫呉の降伏から、司馬氏らがドンパチやらかすまで20年か
長いと見るか、短いと見るか…
>>150
昔、中国史が好きだった同級生が
「北魏の分裂って、どんな理由があるんだろ?」
って不思議がってたな
しばらく後、歴史の本読んだのか
「只の権力争いか・・」って興ざめしてた ごくごく大雑把に言えば、北魏の分裂については
爾朱栄、高歓、宇文泰の3軍人だけ覚えときゃいいんじゃない?
北魏の漢化政策で既得権を奪われた六鎮の軍閥が反乱を起こした。
朝廷は爾朱栄の助けを借りてなんとか乱を鎮圧。しかし王室の権威は失墜し、権力は爾朱一族が独占することに。
爾朱氏の専横を憎んだ帝は、元六鎮の高歓の助けを借りて爾朱一族を滅ぼす。
しかし今度は高歓の専横がひどくなり、帝は彼の元から逃げて、やはり元六鎮の宇文泰に助けを求める。
逃げられた高歓は別の皇帝を立てて東魏となり、帝を保護した宇文泰側は西魏となった。
いずれの皇帝も傀儡に過ぎず、実権は完全に高歓、宇文泰が握っていた。
やがて双方とも皇位を簒奪して魏を滅ぼし、北斉、北周になった。
要するに爾朱栄、高歓、宇文泰の順に、庇護を求めた挙句に権力を奪われたの繰り返し。
>>152
というより後趙を出し抜いて独立勢力になれたことだけでも慕容部はよしとすべき
身を滅ぼすまで身内争いするやべーやつの癖に時代の変わり目で奇跡的に有能なやつが生まれるのが続いて乗り切ってた感じ 困ったので○○に助けてもらう→○○の立場が強くなり権力を脅かす
の負のループ
権力争いで興ざめするようじゃ中国史(歴史)好きは続かんな、、、
国が、個人が、あらゆる階層が、あらゆる集団が争い続けて中華王朝2000年やろ
東晋の皇帝って司馬懿父子のまあまあ生きてたぷりが嘘かのように短命な皇帝が多いっすね
慕容部は国号を辺境の燕ばかりにするし明らかに中国統一どころか中原の覇者になる気も見られない
>>165
毒殺かストレスか。司馬懿以外は師昭炎も長生きってほどじゃないけど >>169
司馬孚「せやな」
司馬望「親父よりも早死にしたけど普通に還暦越えたお」
司馬楙「司馬氏は皇帝のストレスとか動乱とかが無ければ長生きする家系」 簡文帝とか簒奪の汚名を被ったことによるストレス死にしか見えんぞい
孝武帝陛下「宮中の女はみんなワイのためにおるんやぞ、おっそろそろ取り替えどきやなポイ-」
司馬元顕「ぼくのパパがそんなことするはずないやい!」(煮詰めた溝にヘドロを打ち込んだかのよーな眼差し)
>>171
司馬孚おじさんはむしろ仲達兄ちゃんと同じ時期に死んでた方が見たくもないものを(高貴郷公弑逆や魏晋禅譲)見なくて済んだのに しかしヒスイの戦いのまさかの大勝利で東晋は全盛期と言われるまで盛り返したのに実権もったのは司馬道子とかってのがなんとも
ひょっとしてここで皇族で優秀な人物が実権握ってたら劉裕の出番なかった?
>>177
司馬遵「そもそもこの時代に優秀な皇族なんていないよ」
司馬尚之「司馬道子が皇弟なだけで能力的には俺ら司馬道子と変わらん」
司馬恢之「劉裕よりも桓玄すら抑えられんからな俺ら」
司馬文思「実際に劉裕蹴落とそうとして失敗したしな」
司馬休之「で結局劉裕から逃げるが勝ち」
司馬国璠「北に逃げてもしんどいけどな」
司馬道賜「んだんだ」
司馬叔璠「いや中原最高っすけど」
司馬楚之「北魏は司馬氏のセーフティネット」 優秀な人物ってーか、
皇族が実権握れないよーな構造ができてたんじゃねーかなー
そこをぶっ壊そうと孝武帝とか司馬道子元顕がもがいたけど、
結局桓玄にぶち壊された結果「象徴」としてすら
価値がなくなってしまい、劉裕の簒奪に繋がった、みたいな。
まぁ妄言にもほどがあるわけだが。
江南政権の場合一個人に権力を集中するのが人間関係や地理的事情もあってあんまり筋が良くないイメージ。
朝廷に集権しすぎると地方の都督たちの裁量が失われて華北に対する軍事力の融通性が低下するような感じ
宋文帝の北伐とかね
五胡十六国、北朝の側は
漢や晋とは系統が違うんだから
南を征して天下統一なんて考えなきゃいいのに
やっぱり華北をおさえちゃうと漢化しちゃって
中華王朝を築きたくなるんだろうか
姦臣のせいで国土が乱れて苦難を強いられている民達を救わなければならないんやで
恩倖たちが跋扈することにより国政が乱れ、結果として王朝が衰退するという「ストーリー」はいかにも唐朝の史観って感じがする
>>183
半分だけで制圧してあと半分は無視する侵略者なんてそう多くはないと思うぞ…?
なにか侵攻制圧すべきではない事情がなければ、異民族の残りカス政権を放置する理由はなかろう 天に二日なく、地に二君なし
前秦衰退後の拓跋氏なんて、晋から冊封された代の国号を捨てて
晋の頭越しに魏を自称したからな。司馬氏ではなく自分こそが曹魏の正当な後継者で
華夏統一の覇業を継ぐ資格があると公言した。
南から莫大な歳幣が貢がれるんなら、統治は北半分でもいいやとなったのは金くらいか?
>>187
墓誌とかだと魏を称した後も代国号は並行して使われていたっぽいみたいだが 王さまの「大義名分」と下々の肌感覚にズレがあんのは普通だとは思う。
だいたい代人が「魏」に帰属意識持つはずないし、
拓跋珪自身も割と虚号として魏を持ち出したんじゃねーかなー。
で、そこに崔宏が目を付けた、てきな。
中国三大相性の悪い姓
1、「劉」と「司馬」
司馬遷は漢の武帝によって去勢させられ、東晋、西晋とも「劉氏」によって滅ぼされた
2、「李」と「朱」
李氏の唐は朱全忠に滅ぼされ、朱氏の明は李自成に滅ぼされた
3、
徳川家康は漢籍収集家だったからな
紅葉山文庫には十七史や十六国春秋まで収蔵されていたらしいし
戦国時代のエピソードの元ネタが漢籍や仏典の引用なのはあるある案件
家康は単なる歴ヲタなのに天下人になったせいで
「歴史はビジネスマン(成功者)の必須教養」なる変な信仰が生じた。
歴史を金科玉条化しようとすんのはいつでもそうだろ
あえて家康を持ち出すまでもない
胡姓でも
宇文、慕容、斛律、斛斯、賀蘭、賀若、呼延 などはかっこいい
叱奴、吐缶、禿髪、乞伏、茹茹 などはかっこわるい
若干、大野、烏丸、赤小豆 は日本語みたい
侯莫陳さんとか可朱渾さんとか胡族過ぎて扱いに困るわ
爾朱はカッコいいわね
>>195
三国時代にも閻温とかいるし割とあるかモデルがいるんちゃう >>205
結局報われなかった閻温
結局報われた田泓(鳥居強右衛門)
この差はデカい
援軍要請に行ったら既に岡崎城で出陣準備をしていた
織田信長が最も有能 梁の裴政も同様のエピソードあるね
この人の場合、民衆に人気があったため殺されずに済んで西魏に仕えてから隋の時代まで生き延びてる
残忍で知られた赫連勃勃であるが、それは統万城の建設にも及んだ。
統万城の建設にあたっては堅牢さを追求し、各城壁に錐を刺して固さをチェックした。
錐が少しでも刺さればその部位の担当の工人を殺し、その死体を壁内に埋め込んだ。
武具の製造にあたっても、過酷なやり方で職人たちを競わせた。
鎧に矢を放って、殺傷力および防御力をテストし、
矢が鎧を貫通すれば鎧製造の職人を殺し、矢が鎧に弾かれれば弓矢を製造した職人を殺した。
要するにどちらかが必ず殺されるという、死の競争だった。
>>209
統万城城壁からいつ人骨が発見されるのかめっちゃ楽しみなんだが、そのへんの調査データってどっかにあんのかな? 五胡十六国・南北朝 バカ殿選手権
エントリー
西晋恵帝
宋後廃帝
南斉鬱林王
南斉東昏侯
北斉後主
北周宣帝(天元皇帝)
陳後主
名君も馬鹿殿も大体決まってると思うから中堅が気になるわ。孝武帝劉駿あたりが中堅か?
名君と言われてるやつも少し掘り下げて調べるとパッとしないこととかよくあるわ
北魏孝文帝なんかは子どもの頃は馮太后の傀儡だったし親政するようになってからの対南斉政策は中途半端に終わったしで
見方によっては自分の能力を省みずに改革を推進してその後の国家崩壊への筋道をつけてしまった頭でっかち君
>>213
匈奴漢の場合初の胡人政権って事に加えて西晋滅亡後に急激に家臣団が増加してコントロールに苦しんだってのがあるんじゃないかと。 いや、趙漢じゃなくて、梁滅ぼしたあと5ヶ月で滅んだ方の漢
あれ国名なんて呼べばいいんだろ
任約って侯景配下で結構活躍してたけどよく元帝に助命されたな
南朝はこうかな
北朝は詳しくないので
武帝 創業
少帝 バカ
文帝 名君
元凶 狂人
孝武帝 中堅
前廃帝 狂人
明帝 狂人寄り中堅
後廃帝 狂人
順帝 生贄
高帝 創業
武帝 中堅
鬱林王 生贄
海陵王 生贄
明帝 狂人寄り中堅
東昏侯 狂人
和帝 生贄
武帝 創業
簡文帝 傀儡
豫章王 生贄
元帝 中堅
僭称皇帝 狂人
敬帝 生贄
武帝 創業
文帝 中堅
臨海王 生贄
宣帝 中堅
後主 バカ
宮崎市定って少尉だったのか。南斉武帝は五胡十六国〜南北朝基準で名君でいいのではないか
北朝系の場合、最初からSAN値ゼロなのか家臣団の統率に失敗してSAN値ゼロになったのかが判別つかないのがなんとも
南北朝で早世して惜しまれる3大皇太子
北魏:景穆太子(拓跋晃)
南斉:文恵太子(蕭長懋)
梁:昭明太子(蕭統)
>>225
南斉はいろいろとその後の展開変わる感じがするわね >>223
まー確かに劉駿君と同列扱いはひどかったw
反省してる。 五胡時代の匈奴は劉姓ばかりで混乱する。
平家物語の登場人物が平○○、源○○、藤原○○ばかりなのと似ている。
拓跋珪は(独孤部の)劉庫仁に匿われた。後に自立すると(鉄弗部の)劉衛辰を討った
というくだりも最初は何が何だかわからなかった。
後に鉄弗部劉氏は、勃勃の代で赫連姓に改め、夏王朝を開いて北魏と対立するも滅ぼされ、
逆に北魏の傘下に入った独孤部劉氏は、鮮卑回帰政策のときに胡姓に戻して隋唐時代まで栄えた。
「独孤」は「屠各」の訛りという説もあるらしいね。
まだ星のようなUFOを見てないのか? 世界教師マYトレーヤが現れるぞ!
前秦の頃の右賢王曹轂や西晋末に反乱を起こした郝度元なんかは劉姓じゃない匈奴の著名人やな
前漢後期ぐらいから匈奴から離反して漢に降伏し始めた東胡系遊牧勢力が烏桓で
後漢前期ぐらいの北匈奴弱体化後に(おそらく北)匈奴から離反した東胡系遊牧勢力が鮮卑という理解なんだが
鮮卑というのはある意味北匈奴の後継勢力と言えるんじゃないのかな
実際、隋唐の大貴族である独孤氏や宇文氏は本来なら匈奴の部族名だし
独孤氏は単于を輩出した家系といわれるくらいの匈奴の有力部族で、北朝の中では名門中の名門、
宇文氏はもともと匈奴の一部族だったが鮮卑に帰化したらしい。
ガチの胡族だけあって宇文氏の北周は鮮卑回帰を鮮明にして、
胡姓を復活させたどころか漢人にも鮮卑姓を与えて名乗らせた。そして漢語ではなく鮮卑語を公用語に定めた。
支配階級の北族は鮮卑語のままでOK、立身出世を目指す漢族は鮮卑語を習得しなければならなかった。
が、楊堅が実権を握ると、「漢魏の旧に戻す」と称して、鮮卑語・鮮卑名の使用を廃止して(禁止はしてない)
漢語・漢名に戻した。
300年前の西晋の水準に回帰したわけだが、孝文帝の漢化政策の時のような混乱・抵抗があったという記述はなく
そのまま隋唐に引き継がれている。結局平和裏に鮮卑も匈奴も漢族に同化してしまった。
漢魏の旧に戻して北族の反発はなかったのだろうか?
それとも鮮卑系である(可能性が高い)楊堅自身が漢化に舵を切ったくらいなのだから
北周末期には領内はもとより朝廷内でも鮮卑化政策は形骸化して、鮮卑語廃止でも問題なかったのかな?
>>234
北周や北斉で反漢族政策取られた、が誇張なんだろ。後趙で石勒が非漢族を国人と呼べと言っただけで石勒を民族主義者呼ばわりするようなもの。 北周なんて「周」って国名の時点で儒者に媚びこびだもん。
桓温が簒奪成功していたら
劉裕は軍団長のままだった?
>>237
そもそも世に出てこれなさそう
桓温→謝玄→王恭→劉牢之というバタフライエフェクトの結末だから 高歓も宇文泰も漢文化に触れる機会が少ない六鎮の武辺者で、
いずれも鮮卑語話者だから(特に高歓は漢族にもかかわらず)
北斉も北周も鮮卑語を優遇したんだろうな。
しかも北朝の新たな支配階級となった軍閥出身者は、自分の名前を記すのが精いっぱいで
ろくに文字の読み書きもできない無学の徒が多かったから
教養が必要となる漢語なんて邪魔もの以外の何物でもなかったのだろう。
漢の劉邦だったか
臣下を統制するために儒教の礼式を採用して
「皇帝の尊さが分かった」って感激してたような・・・
(日本だと豊臣政権あたりだったかな)
開祖は漢族文化が嫌いでも
子孫は、臣下の統制のためにも漢族的な教養が必要になるのかな
日本だと儒教に基づいた文治政治やり始めたのは綱吉の頃やぞ。
それまでは「そこらへんの通行人を面白半分に弓の的にする」とか「立ち小便を笑われる→斬殺」とか「下女が店員の態度に激怒→市街戦に発展」だの殆ど北斗の拳の世界
>>241
何かの本で
豊臣政権の殿中では
武功争いで刃傷沙汰とか、立ち小便してるとか
書かれてて
礼式で縛ったのかと思ったけど
そういうのは
やっぱり徳川(綱吉)期になるまで叶わなかったのかな 文治政治やるまでの日本人はそこらへんの蛮族が日本刀振り回してるくらいの認識で問題ない。
このスレで言うと初期の鮮卑拓跋部とか
俺らが「禿髪樹機能だってwww変な名前www」みたいに思うのと同じくらい俺らも
「徳川家康だってwww変な名前www」って思われてたんだろうか
>>244
源家康表記だとそこまで違和感ない
平氏も平凡だな
藤○○表記や橘○○表記は変だ 征服者としての意識を忘れず、華南や台湾も含めた全土に辮髪胡服を強制したあの清ですら
満洲語の強制はできなかった。
しまいには皇帝自身が漢語話者になって満洲語を話せなくなってしまった。
辺境に駐屯していた軍人たちも、革命に成功し、中原の都に移住しそこの支配階級となればやがて貴族化する。
貴族に相応しい漢の教養や文化に親しむようになり、先代のような鮮卑復古主義的な意識は薄れてくる。
長江以北から四川まで版図を広げ、天下統一も見えてきた周に、鮮卑語の普及促進は無理だったんじゃないかな。
朝廷内や公文書で鮮卑語を使用するのが関の山で、民間ではほとんど漢語。
鮮卑国粋主義が周の国是である以上、簡単には廃止できなかったけど
宇文氏ではない外戚の楊堅が実権を握るに及び、「もうやめようぜ」となったのでは。
>>244
今でも思われてるんだろうね。
文明人は基本的に一字姓(もちろん司馬とか公孫とか例外はあるけど)と思ってそう。
朝鮮やベトナム(例えばホー・チミンは胡史明)は中国風だけど、日本は全然違う。
菅直人(カン・ナオト)のような一字姓や、安倍晋三(アベ・シンゾー)のような音読みは、まだマシかもしれない。
中曽根康弘(ナカソネヤスヒロ)みたいな、訓読みで長い名前は
漢族にとっては名前は奇怪だわ発音はしにくいわで夷狄丸出しにみえるかもね。 リアルの漢族はむしろ二字姓の方がカッコいいと思ってる節があるし
なにより英名やら和風が大人気で中華より高尚という風潮じゃないかね
>>245
太武帝「源氏の名付け親は朕やぞ。ゲンジバンザイ。」
禿髪破羌(のちの源賀)「げ、ゲンジバンザイ」 源賀
って嵯峨源氏にいそうな名前だな。「みなもとの・いわう」とか。
漢人が異民族の名前を書くときはあえて悪字を選ぶってのがよくあるから
変な名前に見えるのは仕様ともいう
漢人「ワイも司波達也様や安倍晋三様と同じ日本人に生まれたかった」
大野氏とかも普通にありだろうよ。
チャイニーズの創作キャラとか夷狄丸出しの二字姓が異様に多い。
慕容のカッコよさは異常
いや、たぶん武侠小説の影響なんだろうけどさ
金庸のリタイアするヒロインと組み合わされてる男ってくっそシビアな結果になる
文献によると、北周の鮮卑名政策は、
西魏の549年に、孝文帝の漢化政策時に改姓した北族に対し、胡姓に戻すよう命じ(虜姓再行)、
556年前後には、漢族にも新たに鮮卑姓を賜与している。
北周末期、外戚の隋国公・普六茹那羅延(のちの隋の文帝・楊堅)が実権を握るに及び、
「漢魏の旧に戻す」と称して、改姓した漢人には漢姓に戻すよう命じた。
つまり、漢族が鮮卑名を名乗っていたのは25年ほどである。
もっとも北族軍人に関しては、虜姓再行令よりもはるか以前、六鎮の乱の頃から勝手に胡姓を復活させていたと思われる。
北周は胡姓をランク付けして(もちろん「宇文」が最高位)、
功績のある漢人にステータスのある胡姓を賜与することによって彼らの栄達欲を満たそうとした。
漢人にとっても胡姓の獲得は大出世の証だったのである。
もちろんプライドの高い漢人の中には、胡人に同化させられるのを嫌がる向きもあったろうが、
儒者を優遇し、周礼に基づく官制をとることによって、漢人の支持を取りつけた。
漢胡のバランスに配慮した政策で、和魂洋才ならぬ「胡魂漢才」といえるかもしれない。
西魏の胡姓復活を主導したのは、もちろん宇文泰だが、
傀儡皇帝・恭帝も、「元」姓を捨てて、先祖伝来の「拓跋」姓に戻されている。
孝文帝以降の歴代皇帝で鮮卑姓に戻ったのはこの拓跋廓だけである。
宇文泰に実権を奪われたまま操られ、鮮卑姓に戻され、お飾り皇帝として翻弄された拓跋廓であるが
宇文泰の死後2か月で、宇文護の強要で帝位を周公宇文覚に禅譲して西魏王朝を終わらせ、
北周から形式的に宋公に封ぜられたが、すぐに殺されてしまった。
さすがにチュンとかチェンとかワンばっかじゃ没個性すぎるからな…
さすがにチュンとかチェンとかワンばっかじゃ没個性すぎるからな…
さすがにチュンとかチェンとかワンばっかじゃ没個性すぎるからな…
>>264
桓温の時に後方支援で足を引っ張らなければよかった 353年の殷浩の北伐の時に桓温にも関中方面で同時に侵攻させてれば黄河の線までは回復できたと思う
384年の謝安の北伐の場合は…うーん、孝武帝が謝安のこと信用し続けるしかないのかなあ
>>267
上がアレやし……
孫皓や陳後主なら苻堅でも圧勝出来るやろ。王猛だって止めるどころか煽り立ててたはず 上が厭世的でなく、権力の拠り所が分散されていなかった政権ならば
北伐、南征が成功したのかな
侯景の時にズタズタにされて陳がある程度まとめたとはいえかなり縮小してたから隋はイージーモードやろ
>>267
荊州郢州正面でガチスレスレの陽動やらかしつつ遠征軍主力は正月気分の建康を急襲するという奇襲アンド奇襲なやや博打気味の作戦
何だかんだで楊堅のセンスが良かったとしか言いようがない、陳が滅亡したのは必然ではなかったと思う 北魏が高歓と宇文泰、東西に別れた時代は新三国志として物語が作れそうな密度の濃さなのにそれぞれが帝をぬっころしてるのがなあ
両方が曹操ポジションになってしまい劉備(善玉ポジション)不在になったのが惜しかった
>>272
いい感じに流浪してるやつがいるよ
侯景って言うんだけどね >>271
堅実な奴なら防衛できた可能性もなくはないけど何代も英主は続かないからなあ。領土狭いし 宇文泰は一応「周書」で見た目劉備で才覚は曹操(あと劉裕)って書かれてるから…
爾朱栄は側近が何度も諌めてるのに宮中に居座ってるところからしても自己の武力に奢ってる感
禿髪と拓跋って実は同姓だったんか
ずっとハゲガミって読んでたから気づかんかった
だって禿の音読みとか、日常生活じゃまずしないし…
ぶっちゃけトクって読み方知らんかった()
隋唐の国姓でもある楊氏、李氏ってありふれた姓で有名人も多いけど
三国志の時代にはなぜかろくな人間がいないね。
楊奉: もと白波賊の頭目。李傕、曹操、袁術、呂布に仕えたり離反したりを繰り返し最後は劉備に討たれる。
楊松: 張魯の家臣。裏切って曹操に寝返るが、逆に不忠不義を咎められ死罪に処される。
楊儀: 孔明の死後、魏延を討ったが、後継人事に不満を持ち魏への寝返りをほのめかしたところで流罪となる。
李傕、李儒、李粛: いずれも董卓の部下。李傕と李儒は特に悪名高い。
李楽: 山賊の頭目。朝廷の要請を受け献帝を護衛するが、変心して李傕・郭に寝返り、帝を奪おうとするが徐晃に討たれる。
李厳: 蜀の重臣だったが、孔明の北伐のさい、嘘の証言をして撤退を混乱させ、免官、流罪となる。
>>285
江夏の李通の曾孫で李充の父の方の李矩は文人じゃね?
塢主の李矩は平陽生まれ
かなり紛らわしい二人 >>287
出典によって違うみたい
前者説が劉宋の羊欣《採古來能書人名》(李充の母が衛夫人)
後者説が唐の張懷瓘《書斷》(夫の李矩が汝陰太守だった)
後者説の方がドラマティックじゃね >>284
海西の菩薩天子「ファッ?ワイの先祖の楊震先生の曽孫の楊修先生舐めてんの?」 >>384
三国演義準拠で楊氏李氏語って嘲笑かってるお前が一番ろくな人間ではない
なんだその徐晃に討たれたとかいう妄説はw ああ、楊脩も楊堅も楊震の子孫なんだな。
まさか鶏肋鶏肋と鮮卑の軍閥に血縁関係があったとは。
>>284
李厳は能力が高いと言われてるのにしっかり準備して他人を陥れるのも嫌だけど、
どう考えても絶対バレるだろって嘘吐いて免職になってるのが最高に情けない 英雄たちの選択で倭の五王
世界史では目立たないが、日本史の倭の五王関連で出てくる宋
宋だけだと趙宋と同じと思い込んでるのも多いんじゃ
学校世界史だと南朝は宋(劉宋)、斉(南斉、蕭斉)と習い、北朝は北斉(斉)、北周(周)と習うね。何となく南朝側が正統であるという意識があるのか。
晋→宋と禅譲はされたが、中国を再統一したのは北朝系…うーん
日本の南北朝とも似ているような
宋は劉宋が倭の五王などの古墳時代と同時期、趙宋が平安&鎌倉と同時期と、時間差が大きい上に日本の方の区別がつけやすいから混同しにくいんじゃないかな?
「魏志(魏書)倭人伝」の魏で曹魏と元魏を混同する方がありうるのでは?
曹魏の頃の弥生時代と元魏や劉宋の頃の古墳時代が(人にもよるけど)何やらわからないことが多くてイメージの区別がつけにくいところがある気がするし。
元魏を舞台にしたあるドラマのスレで「卑弥呼と同じ時代だよね?」ってレスを見た。
拓跋力微の代まで含めるのであれば臺與とは被るような気がするんだぜ
蕭道成も蕭何の末裔と称してるんだよな。
まさに君子といえる蕭何の子孫が、キチガイを次々と輩出した皇室とは信じたくないが。
蕭何が劉邦を盟主に担いだときのエピソード(高祖本紀によると族滅怖さに嫌われ者の劉邦をあえて担いだ)を読むと蕭何も相当腹黒そうw
ソウルジェムが濁りきってる
南斉もそうだが劉宋も猜疑心が強くて同族を殺しまくる皇帝ばかり
劉裕も劉邦の子孫を名乗ってる
劉宋も南斉も同族に対しては厳しかったが
家臣の粛清というのはあんまりやってないんだな
宋明帝も斉明帝も同族を大量に殺したが、家臣は殺した同族と関係してても信用して
任用し続けたりとか
梁末期に侯景にやられるまで貴族は皇族の粛清のとばっちりは比較的少なくて保たれたようだ
>>304
夏侯嬰も呂氏の乱好み少帝殺害に加担してるのを見てると………
>>305
>>306
この時期、日本も雄略天皇みたく直径以外殺し尽くしてる天皇出てるからその手の畜生ムーブが東アジアのデフォだったんじゃ 劉裕は前漢の何とか王の末裔を自称したけど
北朝側が記した「魏書」の「島夷劉裕伝」によると、劉裕は項伯の末裔となっているね。
(楚漢戦争後、劉邦は項羽の親族を列侯に封じ、項姓では肩身が狭かろうと劉姓を与えている)
どちらも真偽のほどは怪しいけど、本当に項姓劉氏の子孫なら国号を楚にすればよかったのに。
宋に封公というのも珍しいよねえ
陳とか魯、梁の方がメジャーなイメージ
倭の遣使の歴史からしたら、日本の古代の氏族や人名に「劉」や「宋」が全く見られないのも不思議だ。あやかって誰か使って記録に残ってもよさそうなものだ。
それよりも北魏の元号や平城、元氏(源氏)などの借用の可能性が指摘される。
また数十年間何度も遣使したのなら宋に訓がついてもおかしくなかった
秦(はた)、漢(あや)、唐(から)とかあるなら、たとえば宋(ふみ)であるとか
中国側に記録が何度も残ってるにも関わらず日本側に劉宋の痕跡がほとんど見られないのは古代の皇室は宋の陰険さが嫌だったのだろうか、またそこまで理解できただろうかとか想像は尽きない。
日本にも諸葛(もろくず)という苗字があるんだよな。
亮という名も日本では普通だから
日本に「諸葛亮」さんが存在してもおかしくない。親が名づけるのに躊躇するかもしれないけど…
ちなみに中国では楊勇さんは結構いる。(ありふれた姓名だけあって)
検索したら、隋文帝の長男よりも先に人民解放軍の軍人や、香港の会社社長、学者、留学生のFacebookが真っ先に出てきたw
ちなみにググったら現代には楊広さんもいた。上海のIT企業のお偉いさんで国境を越えて活躍中。
いくら歴史上悪名高くても、もう気にしてないか、もともと煬帝の本名を知らなかったのか。
ひょっとすると王莽さんや董卓さんも現代にいるかもしれない。
でも秦檜さんは居なさそうだけどな。
アソコの子孫は後世の悪評に耐え切れず、改姓して表に出ずひっそり暮らしてたそうだし。
小説なり漫画なり誰か書かないのか
もしくはソシャゲに出れるような人物を推すとか
一応、ガイエが南朝モノなら「奔流」(陳慶之主役)と「長江落日賦」(羊侃の三男の羊鵾が主役)と「蕭家の兄弟」(武帝の息子らを描いた短編)を書いてるから……
小前さんは各時代各時代のメジャーだけどあまり作品化はされてない皇帝を順番に作品化している印象だから、南朝では劉宋武帝と並んでメジャーな(偏見だが)梁武帝はいずれ書く気がする。
色々叩かれる田中さんだが、日本では三国志時代ばっかで他に目が行かないという不満には共感する(最近1本出したけど、そう言う田中さんが全然中国ものを書かないけど)
ここの人達には当てはまらないけど、三国志に詳しくなったら(末期じゃない)後漢や両晋、十六国、南北朝などにも興味が広がりそうなもんだけどなあ。
誰か例えば北魏分裂の辺りの話とか夏武烈帝とか慕容部とかで創作してくれないかな、ここのマニアの皆さんでもいいからさ。
小前亮は主役が有能で脇役悪役は無能というスタイルが少し鼻につく
三国志(というかコーエー)に目が行かなかったら中国史ジャンル自体が死滅したんじゃね?>ガイエ
他国の歴史物で三国志ほど大きなコンテンツなんてそうそう無いんだから
他の中国の歴史に目がいかないってのは高望みじゃねって思うわ
三国志があまりにも巨大過ぎる
楚漢ですら決して小さくないコンテンツのはずなのに蟻んこレベル
五代十国とか芥子粒
田中芳樹の場合、中国史に関しては何だかんだで陳舜臣の影響下にあるからなあ
>>326
ただガイエは陳せんせーほど突き抜けてないって言うか。 >>322
あれ無能と言うより白痴じゃね?
おどろきのしろさ 三国志が巨大過ぎるというより、五胡十六国や南北朝だとあまりにも残虐化していて
人倫に外れすぎているためコンテンツ化がしにくいしあんまりファンもいないんだと思う。
三国時代は後漢の儒教教育のおかげか日本の武士道的な感覚でも理解できる。
劉裕が禅譲させた司馬氏を族滅しなかったらその後の強制的禅譲も前王朝の皇族
を殺害はしない慣習が続いたのかもしれないと思うけど。
>>330
恭帝殺害後の劉裕も司馬氏の人間に零陵王家を継がせて先祖の祭祀は続けれるように配慮はしてるけどな 水滸伝ウケるなら石勒の人生とかウケそうだけど
しょっちゅう義兄弟結んでるし
>>330
三国志と戦国時代結びつけてるのってもろ吉川横山で正史三国志や後漢書を読めば後漢〜魏晋も相当殺伐としてんだけどね。
後漢書献帝紀を読むと曹操も劉裕並の荒っぽい粛清やってるし。
曹操と劉裕の違いって皇帝を殺さなかっただけでそれ以外の人間はひたすら殺し尽くしてる。 逆に言うと劉裕のほうが曹操より殺してないよな
一地域を破滅に追いやるとかしないもの
全盛期の後漢って北方異民族に対しては鬼畜中の鬼畜だと思うんだけど
逆に中華王朝が異民族に虐げられたというだけでそれは残虐ということになるんだろうか
そら中国史観ではそうでしょ。基本ずっと漢民族目線だし
水滸伝は外道行為もさることながら「奸臣に無抵抗で殺される」ってオチがやはりウケが悪い。
ガイエ版水滸後伝も燕青と楽和に「宋江兄貴はなんで招安なんて受けたんやろ?」って会話をわざわざ付け加えたりしてるし。
>>335
中原でも五胡乱華のときよりも後漢末のほうが人口減少度からしたら過酷だっただろう
黄巾の乱あたりから曹操の徐州大虐殺あたりまで4000万人くらいは消えた
三国時代では大将軍クラスで大手柄でも100戸とか封戸の加増もチマチマ
五胡十六国時代と後漢末とくらべてどちらが酷かったのか だいたい後漢末の戦乱で人口減ったところに異民族で穴埋めしたのは曹操だし
んで八王の乱で異民族傭兵を使って司馬一族同士で内輪もめしてたら自立されたんだから
自業自得としか言いようがないわな
内容もだが、水滸伝くらいになると
馬鹿に出来ない「古いほど偉い、スゴイ」、っていうステレオタイプの恩恵にあまり与かれないからな
中国では大事だろうけど日本ではあまり影響ないのでは
>>340
楚漢戦争の頃から胡人の移住は常態化してる事について 後漢末、三国時代の人口激減はもちろん事実だろうけど
よく言われる、戦乱によって5000万人が500万人になったはさすがに大げさでは?
統計上は壊滅に近くても、戸籍に載らない流民の増加もあって、実態はそこまで減り過ぎてないと思う。
遊牧民の内地への移住政策も、人口減の穴埋めというよりは巧みな分断工作じゃないかな。
後に魏を自称する鮮卑拓跋部も、この時代は衛瓘の離間工作によって勢力を削がれている。
新→後漢の時には6,000万→2,000万になってるけどその時はリカバリーできてるんだよな
どこの どこの どこの誰から頼まれた
命をかける価値もない それほど汚れた銀河系の超知性体の心が産みだした
「キニスーン ナドレック トレゴンシー ウォーゼル」
悪魔の群に敢然と 戦い挑み愛を説き
あああ あああ今日も行く
正義を助ける エッドールマン 正義のシンボル エッドールマン
ところでおはんら、ちくま版資治通鑑は買ったでごわすか?
宇宙大将軍の乱が丸ごと訳されてるでごわすが
>>350
買ったでごわすよ
アマゾンの中国史カテゴリでベストセラー1位になっておりもすな
>>353
楽しみですね、夏ぐらいでしたっけ?
価格は1800円ぐらいになりそうって言ってましたね 候景「謝氏か王氏の女をヨメにクレメンス」
梁武帝「呉の士族の女で充分やろ?」
候景「呉児なんぞウチの下人とハメっ子しとけや!」
賀季「なんで謀反したん?」
候景「皇帝になりたいんや!」
王偉「あーウソウソ!君側の奸を除くために挙兵しただけです!」
完全に笑わせようとしてる司馬光先生
司馬越早く死んで欲しい。しかしようやく諸葛亮が死んだ程度ではどれだけかかるのか
候景って華北で逐われて亡命してきたのに
国を傾けるほどの混乱おこせるって
彼が引き連れていた軍が大きかったのか
南朝の朝廷や軍隊が弛緩してたのかな
皇族が首都で殺人強盗繰り返してもしても何のお咎めなしな国だしな
ちくま資治通鑑侯景の乱読了
宇宙大将軍僣称の下りがないのが残念だった
不満を持ってた奴隷が多かったからだろ。だから略奪し放題と聞いて参集する人間が多かった
ある程度略奪しちゃうとやる気なくなって侯景の下に居る旨味もなくなって脆くなって瓦解
勲貴として高澄に失脚させられて終わるんじゃないかね
人柄次第なとこもあるんだが可能性は高い
そんな擁護の仕方なら孫権や蕭衍も完璧超人になってしまう
酒乱の息子の将来を心配して重臣に塩対応してた高歓さんは親バカの鏡。
なお、かつて逃走中に高澄(当時は幼児)を車から捨てて射殺しようとした事がある模様
管仲「実の子を愛せない奴は民を慈しむ事もできんやろ?」
劉邦の場合、親父も見捨てようとしてたからな
項羽 「さっさと降伏しろ! さもないとお前の親父を煮殺すぞ」
劉邦 「俺とお前は義兄弟の契りを結んだ仲だぞ。お前が親父を煮るのなら兄弟の俺にもそのスープを分けろ」
パパは存命のうちに巨大王朝の太公にしてあげたし
なんだかんだ嫡子に至尊の地位を世襲、その他の息子は諸侯王に封じて大国を大盤振る舞い
もちろん兄弟や甥にも大盤振る舞い
これだけ身内を厚遇したヤツは古代中国史上空前絶後だぞ
あの種のエピソードっていつも思うんだが、実際にあった話しなのか
それとも親子の情愛も斬り捨てる常軌を逸した冷酷さをアピールするために
歴史家が古人(この場合は劉邦)のエピをなぞってるだけなのか微妙なところだな
>>374
それで言えば我等が陛下は人数少ないから簡単だったよな。
馬皇后(とその親族)と息子達以外身内居ないんだもの。 そういえば分封後の前漢→呉楚七国の乱、西晋→八王の乱って似てるよな
乱後に英主がでて立て直して全盛期を迎えたのと、五胡に付け込まれて滅亡
僅かの差だったのかもな
八王の乱のあと漢武にあたる英主が晋に現れてたら晋は長期王朝だったかもね
むしろ後漢安帝の時の西羌族の反乱(涼州陥落寸前)が近いんじゃ。
同時期に南匈奴(并州)と鮮卑(幽州)烏桓と高句麗(遼東)でも反乱起こっててまんま八王〜永嘉の乱の流れ。
初っ端から梁王で躓いてgdgd、そこを衝かれて一斉処分される程度の呉楚七国は皇帝権力をむしろ強化した
武帝を待つまでもないかと
五胡十六国から漢民族は変わってしまったとはよく言われるが、
前漢の時代から李陵のような漢人捕虜や中行説みたいなはねっかえりが
供給されてたわけだからあっちのほうも漢人の遺伝子は断続的に入り続けていたわけだね
>>378
そんな次第で司馬遹さんが無駄にageられてる印象、確かにあります! >>384
あいつの母親が恵帝に近づいた経緯を見てると恵帝自身は仕方なくあいつを皇太子にせざるを得なかったような気がしてくるぞい
司馬炎の地味なやらかしの一つじゃね >>383
李陵はともかく中行説は自分のDNA残せないだろ >>381
やっぱ環境の違いじゃねーか?
景帝の畜生行為は結果的に漢帝国飛躍につながり、治世を実現した名君という評価を得たが
西晋に生まれて同じことしたら碌な死に方できんぜきっと 前漢景帝の皇后イビリ(憤死)息子イビリ(獄死)周亜夫イビリ(宴会で一人だけハブ→食器に因縁つけて餓死)とか魏末期〜西晋なら普通に暴君認定だもん。
>>389
皇太子時代に殺人犯してるから暴君認定でいいよ 三崎先生の五胡十六国は今こそ一般向けで広告すべきだと思うんだぜ
>>392
その二人は親子でセットだと思う
景帝の家庭環境(太后とか太后とか)がわりとアレな感じなのと呉楚爆弾は文帝時代の遺産だし >>394
東方選書って学術文庫で出せばいいのにってタイトルが多いが売れ行きが見込めないのか。 >>394
まだ早いだろ
苻堅か石勒あたりの物語がプチバズったあたりに知らしめられるべき本だ しかし景帝は、後世「文景の治」と称えられるほど名君として扱われてるんだよな。
食料が余り過ぎて備蓄庫の中で腐ってしまったとか、税収も溢れんばかりに得られて銭を通す紐が傷んでしまったとかそんなエピソードがあるくらい。
南朝斉の明帝も皇族殺戮皇帝として悪名高いが、領民に対しては善政をしいたらしい。
>>399
皇族を殺すことを悪徳とするのって、「当時に生じた死者の総数」から見直してみるといろいろアレ >>399
斉明帝は統治期間短すぎるから善政を敷いたかどうかは判断できなくね?
内憂を抱えつつ孝文帝の南伐を凌いだ点は評価できると思うけど 優等生なら斉武帝のほうをあげたい
二代目としてうまくまとめたね
皇族や臣下の誅戮もやっていない
宋文帝とか梁武帝の前半期とかを除き、晩節も汚さなかったということでは南朝随一かも
なお孫を見る目。李世民も評価高いから後継はポイント低めでいいかもしれないけど
>>399
TS歴史家司馬遷が漢武帝sageのために文帝景帝ageてる可能性も。
そういや漢武帝(劉徹)って南北朝でもカス扱いで裴松之が「黄権(曹魏に降伏した将)の家族を殺さなかった劉備。李陵の家族を族滅した漢武帝。なぜ差がついたのか……」とかとDisしてたし 斉と梁はほとんど同じ一族なんだからひとつの王朝にまとめても良かったと思うんだけどね
漢趙や成漢と同様に「斉梁」とか
「どうして差がついたか」の元祖って中国の歴史家(というか司馬遷)だったのか
>>405
なぜ斉と梁を別扱いにしたかといったら禅譲させたからじゃないかな
蕭衍の認識の問題だったと思う
同じことをやってても斉の皇帝として即位してたら後世は斉の存続と判断しただろうし
国号だけ梁に変えて禅譲の儀式をしなかったら「斉梁」かも >>405
別王朝で問題ない
エジプトなんか親子で王朝違うところもあるからな まず五燕がみんな違う王朝扱いだしな
国号は同じだし同族のみならず親子関係でも
殺し合ってるのに同じ王朝ってのもなんだしな。そもそも王朝ってレベルか?ってのもあるけど
南燕と北燕は地方軍閥でしかないよな
まあそれを言い始めたら討桓直後〜南燕を滅ぼして盧循ブッ殺すまでの東晋も揚州と荊州だけの地方政権に転落しとるけど
>>407
禅譲した(させた)ことが基準なら桓楚も正式な王朝になるな >>415
さんきゅー
前燕(慕容イ以降)と同じなのね >>416
苻秦が木だから姚秦が火徳って記述があったけど北魏(土徳)の記述では苻秦の火徳を継いだってあるなぁ
よくわからん 木徳なら後趙を継ぐ
火徳なら燕を継ぐ(or晋に克つ)
魏書の志には
魏承漢,火生土,故魏為土コ。晉承魏,土生金,故晉為金コ。趙承晉,金生水,故趙為水コ。
燕承趙,水生木,故燕為木コ。秦承燕,木生火,故秦為火コ。(略)故以魏承秦,魏為土コってあるね
秦がどっちか分からん
五胡十六国時代って調べてみるとカオス過ぎて面白いよなw
興亡が複雑すぎて状況を把握しにくくはあるんだけど
冉閔って五胡十六国時代版呂布だなって思いました
前スレだかに書いたけど
華北をざっと追うだけで
西晋崩壊→漢(前趙・後趙)→代や前燕や前秦
前秦の覇権と崩壊→後燕や夏や後秦
代(北魏)の覇権
だものなあ
巨大勢力ができると
小勢力が傘下に入ったり雌伏したりするから
突然出てきたっぽい連中、こんな前から存在したの?
って驚いたりする
五燕五涼もやっと覚えられたよ
国名とキャラがつながってきた
ゲーム化は十分可能だと思う
南北朝なら呂布は侯景
三国鼎立までの後漢末の群雄割拠状態をもうちょっと大規模化・複雑化したのが五胡十六国。
後漢末の群雄割拠は漢人で占められていたが
五胡の群雄割拠はほとんどが胡族
漢人の野心家どもは何をしてたんだ?
>>423
船木勝馬『古代遊牧騎馬民の国―草原から中原へ』は文庫化してもいいと思う。 前涼、冉魏、西涼、後蜀、北燕…
あとは石勒あたりが全部倒してしまったんじゃないの?
>>429
漢人の野心家どもが皆で殺し合ったから五胡の連中が跋扈したんだぞ 三国志で喩えると後趙が董卓で前秦が袁紹
いや違うかw
劉淵は匈奴って言うよりは不平士族ってカテゴリーじゃ
漢族の野心家枠だと王浚や劉琨や王弥や張軌あたりかなぁ。
そういうキャラならやっぱり桓温。
野心家であるが忠臣みたいなところもあり、豪傑なところもあって懐の深さを感じる。
苟晞は汚物の消毒にのみ正義感をもって従事してた印象
対劉淵・王彌で東奔西走する東海王を抑制するために苟晞をけしかける懐帝もなかなかに糞だよな
西晋を滅ぼしたのは実質懐帝だと思うわ
あの時期に司馬越粛正したら西晋どうなるか分からんかったってことはないだろうに…いや本当に分からんかったんだろうか>懐帝
石勒討伐に募兵しても集まらん時点で司馬越は終わってる
つまり西晋は終わってる
司馬越の最期の進軍は建業亡命を目指してたって某ブログ説はどうなんすかね
司馬熾は英明ってたまに見るんだけどいくらむかつくからってあの状況で司馬越討伐の命令出して
司馬越が病死してから3か月後に捕まってお茶汲み係やらされて死ぬとか最高にフールって感じなんだけど
どこが英明なんや?煬帝や孫酷みたいな小賢しさがあるって意味か?
建業って司馬[業β]の諱に触れるから建康に改名されてるらしいけど
おおざとがついて別字になってても避諱されるもんなんですね
諱そのまんまの都市[業β]の方が改名を免れてるのは既に晋の支配下じゃなくなってるからだと思うけど
こっちは改名しようとした動きとかってあるんでしょうかね
>>444
洛陽の大半の人間が若造の皇帝より司馬越について行ったんだな。やっぱ逃避行感あるな >>447
姚興も長安の長の字が父姚萇の萇の音に通じていた関係で「常安」に改名しているから、建康の改名の経緯もそこまで不自然ではないと思うアルね >>447
314年に愍帝の諱を避けるために臨漳県に改名してる 東海王越は人から「懐帝(司馬熾)は張方の思惑で立太弟された人じゃないですか、しかも先帝が急死したことについて懐帝を疑う向きもあります。
思いきって廃しちゃいませんか?」と持ちかけられた際に提案した人間を誅しているくらい懐帝を信じていたのに…何と言うか酷い仕打ちだよな
西晋の愍帝とかいうわりとどうでもいい存在のために建業とかいうその後の中国史の中で一二を争うような重要都市の名前が変わってしまった
晋書懐帝紀とか読むと司馬越かなり善戦してるのが以外。
劉淵劉聡の戴紀だとたいして苦戦せずに西晋を叩き潰した書き方なのに
懐帝はどちらかと言うと成都王や河間王に近い人物だからね、東海王を排除しようとしたのも分からんでもない
司馬越の戦績は立派なんだけど
恵帝を司馬穎なんぞに強奪されてしまったのは痛恨だったな
>>451
側近問答無用で連れてって殺害は流石にまずいわ。個人としてはあれで絶対殺すマンになるのは分かる
立場を鑑みれば状況考えろってことになるけど >>452
どっちかってとパフォーマンスじゃないか?
「ああっ太上皇かわいそう!(棒)
太上皇の遺志は継がなきゃ!(棒)
おっと建鄴とか諱に被っとるな!(棒)」
なお鄴 苟晞と対立しちゃったのもまずいよなあ
結局懐帝と結びついちゃったし
司馬睿「鄴は石勒とか言うイキリ氐族の本拠やから(震え声)」
苟晞←「こうき」だとわかっているけど「じゅんき」と読みそうになる。
苟晞は前半だけみてると有能な酷吏ってだけで極端に有害な人物ではないのに、後半別人のような狂人ぶりなのがいかにもこの時代の人物らしい。
苟晞討伐を越が命じたけど苟晞がここでめちゃくちゃ抵抗して越の手下をこととごくぶちのめしてしまったせいで洛陽守備の最後の要である越の軍がだいぶ弱ってしまった
そしてすぐあとに越も病死するという最悪の状態で漢の石勒・劉曜がツートップの本格攻勢で潰されるという
東晋は国勢が振るわなかったみたいな書き方がされることは多いけど
南遷以後から劉宋までの約百年間は領土は増加傾向で
着々と取り戻していくんだね
軍人も文官も領土回復にはかなり積極的なんだよなあ
東晋は王導や司馬cといった司徒ですら将軍号持っていたし王導に至っては大司馬にすら臨時に任命されて軍権掌握してるし文官と軍人という区分はあんまり意味ないような気がするんだぜ
東晋(呉+蜀+α)はなんだかんだ言っても三国志の頃と比べると生産力が向上してて三国志の頃と比べると余力があるのが大きい。
江南の生産力は間違いなく呉の時代からさらに向上してる
田舎と見くびられてた時代がここで終わる
西晋の自滅と東晋のそこそこ優秀な武将たち見るとお前ら国が滅んでから本気出すのかよって気分になる
まあ西晋の武将も実は結構強いよね、内輪もめが酷すぎただけで、苟晞とか祁弘とかは石勒や王弥を相手にして何度も打ち破ってるわけで
司馬越、王浚、苟晞、劉琨が連携して戦えれば漢を滅ぼせたんやろうか
ワンチャンある?
その時は劉聡の行動が早かった
まだ頭の回転がまともだった時期
劉琨の石勒寝返り工作が成功してたらワンチャン
なお石勒と司馬越司馬騰兄弟は宿敵である模様
石勒勢力の源流は成都王系軍閥だから東海王越とは不倶戴天すぎる
>“若鞮”とは匈奴の言葉で“孝”という意味である。
当時、漢の歴代皇帝が帝号に“孝”をつけていたため、
匈奴は復株累若鞮単于以降、それを真似るようになった。
前漢初期の頃は中行説らの言葉もあるように弱肉強食の文化だったが
紀元前後にはかなり漢文化の影響が強まってたことがわかる
劉聡も晋に入朝してて漢語も漢服も着てただろうし五胡時代の五胡って
もう相当漢化されてる感じ
実は日本こそが古代中国文明の継承者だったりする
中国人は京都を見ると今は無き唐の長安を思い浮かべるそうだ
鎌倉の禅宗寺院が宋代の様式そのままだから中国人観光客の人気集めてるんじゃなかったっけ。
当時の寺院って中国にはほとんど残ってないらしい。
五胡時代の匈奴は、少なくとも名前は漢族と見分けがつかないし
北魏孝文帝の時代を待つまでもなく、すでに高度に漢化が進んでいたのかもしれない。
むしろ鮮卑族が主役になる南北朝時代の方が、孝文帝の治世以外は
胡姓の著名人がガンガン出てくるし、隋の誕生直前まで北朝の公用語は鮮卑語だった。
五胡時代は劉姓を名乗っていた匈奴の独孤部も、結局独孤姓に戻してそのまま隋唐に受け継がれてしまったしね。
また南北朝時代は、南朝側は北朝の人間のことを「索頭虜」と呼んでいた。
俗っぽく訳すと、「辮髪野郎」。
もし五胡時代の漢趙がかなり漢化が進んでいたとすると、南北朝時代の北族はむしろ遊牧民の風俗に先祖返りしたのかもしれない。
北魏の急激すぎる漢化に大きな反発があったからね、「胡」のレッテルを貼られた六鎮出身者は特に
西魏→北周は特に「胡化返り」を露骨にやった
劉裕の簒奪で南朝から大量に亡命者が出たのも危機感煽ったのかも。
劉、石、苻、姚氏は本土住みやし鮮卑より漢化してるやろう
慕容部も早くから漢文化を受容してる
五胡より北朝の方が遊牧文化強くなるっしょ
令狐って胡姓かと思ったが一応漢姓なんだな。
呼延は匈奴系だっけ。
>>480
石勒はそこまで教養ないだろ
石虎が劉琨のもとにいたときに漢文化にオルグされてた可能性はあるかもしれない 劉琨に親殺されたから劉琨の親殺した令狐泥
司馬勳の養父とは知らんかった
劉琨というのは拓跋部の勃興と関わっている
北魏の伏線的な役割もあるし、拓跋部への漢文化流入に役割が大きかったのかも
呼延は匈奴系。
歴史上有名なのは宋の呼延賛。太祖趙匡胤にその武勇を称賛された。
宋は漢族至上主義なところがある割には、胡姓の著名人がちらほら散見される。
秦檜の一派で岳飛を冤罪に陥れた万俟卨という人物がいたが、「万俟」は鮮卑拓跋部の姓。
最後まで漢族の誇りを失わず金に抗った宇文虚中という詩人もいたが、あんたの先祖は匈奴系鮮卑やろw
>>468
その if における最大の問題点は
「そいつらが分断された理由って石勒」
ってことにあるよな。
つまり、石勒がいなかったら
どうだったのかって話になるわけで、
もはや反三国志の世界。 >>482
石勒は張賓に調教されてるだろいいかげんにしろ Yahooはブログなどもサービス終了の時期が迫ってきているし、ネットに永遠のようなものを期待するのも危険だな。
このサイトは2017年で更新が止まっているけど、サイトの記事の原本は主が保持しているだろうけど、別の業者のサービスに移行して続けているということはないのかな?
そうでないとしたらあまりに勿体なさ過ぎる。
鄭櫻桃が石邃死後に廃位されてフェードアウトしたと思いきや石遵の母親でもあったのは知らなんだ
結局棘奴に殺されるし
>>494
見た目は最高で頭の中身は空っぽなスイーツ女ってイメージやな 劉曜って酒に溺れなかったら最強だな
冉閔のパパみたいな化け物が負けるとか
石勒に東を取られてしょぼい漢中以西しかない状態から再び決戦を挑めるとこまで持って行った劉曜は敗者だけど評価されてもいいと思うんだ
生きていたら更に悲惨な目にあってたかと思うとあの時亡くなって良かったくらいだな
石勒や劉曜相手に大活躍した祁弘や賈疋が谷から落ちたり霧で迷って捕縛されてあっけなく死ぬのがこの時代の無常さ
石勒って大敗も多いのに何故かすぐ軍備整えて復活してるイメージなんだけど支援者が凄かったんかね
>>501その割に石勒は死んでもおかしくないレベルの惨敗何回もしてるのに天寿全うしたからなあ
天運ってやっぱあるんかね 劉邦も曹操も何度も死にかけてるし光武帝でさえ王郎と抗争してた頃は餓死寸前まで追い込まれたからな
創業者で死線をかいくぐった経験ないのって楊堅くらいじゃ。
>>451
この時皇帝候補は武帝の息子の懐帝か清河王の二人だが清河王は司馬越裏切った前科があるからだろう。
まあ一番の理由は元皇太子の清河王でなくて懐帝選べば定策の功臣になれるからだろうけど。 慕容恪VS冉閔の廉台の戦いとか当代最強の将帥の決戦だけど
三国志にもここまでキャラの立つ者同士の対決はないよな
慕容恪とか孔明と関羽を兼ねるような傑物じゃないか
それに冉閔のほうが胡人で慕容恪のほうが漢人のように錯覚する
胡人を殺すには・・・俺自身が胡人になることだを体現した男
冉閔が王泰の進言受け入れずに負ける→ありがち
王泰が拗ねて引きこもった後に大勝→面白い
冉閔は公孫瓚+呂布って感じだけど慕容恪は該当者が当てはまらないよなぁ……
>>512
そこはやはり周公旦よ
北魏の崔浩は霍光になぞらえていたけど 符堅ってあの時代に生まれたとは思えないくらい不思議な思考してるよな
どういう経緯であんな思考になったんだろう
冉閔は恪が何回猛攻を加えても倒せないから搦め手でようやく排除できたぐらい強い
軍団長としては一級品
政治?聞くな
廉台の戦いで慕容恪が防御に使った重装騎兵だけど、ここから高句麗に入ったのかな
高句麗騎兵を描いたのには必ず出てくるね
韓ドラだが「広開土太王」の慕容垂、宝、熙が出てくる
両漢から三国時代にはないよね
北魏も重装騎兵を使ってるし、これは漢人ではなく五胡の発明なのか
慕容格って慕容垂や兄の年齢から察すると死んだのは40台半ばかね
病死なのは分かるけど死因なんだったんだろ
やっぱり過労&心労じゃないかと。
前燕は称帝してるせいで二正面作戦(東晋&前秦)を強いられてるから幾ら強くても勢力削り取られるのは目に見えてたし。
この時代なら慕容恪はよく生きたほう
2m近いって昨日死んだ北尾光司みたいな感じか?
現代でもあんまり大きすぎるのは長生きはしにくいよな
慕容廆とか、慕容氏は拓跋氏より長命な傾向があると思う
北魏の皇帝の寿命が短すぎる(でも世代交代はできてる)
12、3歳くらいで子供を作り、20代から30代前半で逝っちゃうんだな
>>525
とりあえず最優先は祖約
魚拓無理ならWiki記事作って移しとけ 孔明の石兵八陣って実在したんだな
桓温伝で知ったわ
銀英伝の双頭の蛇の元ネタも桓温だし桓温はネタに尽きないよなぁ
>>528
そのあと桓温が伐蜀でとった戦法が敵領内で孤立しながら成都目指してまっしぐらという脳筋な戦いかただからな
諸葛亮から何の示唆を受けたというのか 欲しい物は粗方保存したが抜けはあるだろうな。惜しいことだ。前の奴は知らん間に消えてたから今回は間があっただけいいが
我が国の新しい元号は「令和」になったな
北魏の元号も、「天平」「神亀」などは後に日本でも使われた
鮮卑語の元号があったとしたら「叱干」「抜賀」「乙破」みたいな感じになりそう
清の元号は漢語と満州語の両方があったけど、
五胡十六国から北魏、北周は鮮卑語版など漢語に対応する胡語の元号
は史書に記録されてないよな
元号は自分たちで決めてたら仮に漢語が由来でも中華から自立してると認識してたんやろ。
>>539
あーたの政権改元しすぎでしょ。
ほぼ毎年改元してるじゃん 日本も中国も四文字元号は語感がよくて頭に残る
あとベトナムは李朝が四文字元号を多用
三文字元号は梁武帝だけか、と思ったら王莽の始建国があった
今でこそ西暦という便利な尺度があるからいいけど
昔はそんなものはなく、元号だけで時代の長さを計っていたわけだ。
三国志でも「漢朝四百年の命運もついに尽きるか」みたいなセリフがよく出てくるが
今のように、紀元前206年〜220年 という捉え方ができず
膨大な数の元号をつなぎ合わせて年数を数えていたんだから、大変だったろうな。
それよりも近代に入ってからの史家が、清朝宣統帝以前の全部の元号をつなぎ合わせて
西暦に対応させる作業をやってたんだから、そちらのほうが大変か。
1〜2年くらい間違えてしまってもおかしくないが。
>>547
干支の六十進法で刻んでるから意外と大丈夫だぞ 西涼って李コウの王朝か。漢族系にしては大ざっぱすぎるな
資治通鑑の胡注は年の干支を入れてくれてるから親切だよね
「暦の制定」は支配者の大権とされてたから皇帝から取り上げるってのは難しいわな
西暦だってローマ皇帝とか教会とか王権より一段上の権威の元に定められたのが慣習化したわけだし
元号と言えば梁の武帝も結構変わった元号付けてたよね【普通】とかどういう思惑で付けたんだろう?仏教に昏倒してたからその関連かね
梁の元号は大通りとか中通りみたいなユニークな名称のイメージ
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干支と言えば、三国志はちょうど黄巾=甲子だからわかりやすいな
十六国の甲子は…
304年…劉淵、漢王になる
364年…特に何もなし?
364年は桓温の庚戌土断と哀帝がドラッグを効めて政治執れなくなった年だわね
慕容恪の洛陽攻囲が始まったのもこの年(陥落は翌365年)
甲子にやったのに庚戌土断なのか…?
ぐぐってみたら合ってるぽいけど
混乱してきた
なんとなく東晋の家系図見てたら、初代の息子が8代目皇帝になってたんが・・・
何をどうしたらそういう継承順になるんだ
>>563
@元帝の嫡子A明帝司馬紹系の皇統がその後B成帝(明帝子)C康帝(明帝子)D穆帝(康帝子)E哀帝(成帝子)F廃帝(成帝子)と続いて
Cの頃から宗室として政権運営に参画してきた元帝の末子会稽王司馬cがDEFの輔政の後、G簡文帝として即位
なお簡文帝は年齢的には甥成帝のひとつ上、康帝の二つ上だったりする
こう書くと司馬cがヤバい人に見えるな なるほどなあ
この時代学んでみようと思ったが、
生まれては消えする五胡より東晋中心に見てったほうがわかりやすい気がしてきた
ちょっと後の北朝もびっくりなくらいの東晋諸帝の短命ぶり。
割合長生きの簡文帝とまあ初代の元帝、アレな安帝ぐらいしかわかりやすい個性が感じられない。
東晋の元帝→明帝系→簡文帝系をもう少しシンプルにしたのが中唐・晩唐の憲宗→穆宗系→宣宗系だね。
唐は公式には暗殺された皇帝2人だけど「もっと殺されてんじゃね?」ってほどオーバードーズ死が多すぎるのが草
流石北魏の後継政権だけあってセックスドラッグバイオレンスが溢れてる
元帝はもうちょい何かセリフ残してくれればキャラが形成出来たのに
元帝司馬睿は劉備孫権に次ぐくらいの傑物だと思っているんだけど世間的には本当に評価辛いわよね
元帝は「司馬と王はフレンズなんだよ!」って名言があるやろ?
>>565
東晋は短命幼帝ばっかだから皇帝見てもしょうがないんだよなあ 司馬睿が賀斉のひ孫の賀循に言った「お前の一族にたしかノコギリで頭切られた奴いたよな」は畜生だと思う
司馬睿は母親が夏候氏で祖母が諸葛氏って言う三国志好きからしたらロマン溢れる血統なんだよなあ
曹魏で唯一残った諸葛誕の一族やからね。
諸葛誕の孫も東晋に仕えてるし。
しかし陸機と陸雲の兄弟って地元から離れたの明らかに悪手だったよなぁ。親父の陸抗から保身術は教えて貰わなかったのか
「晋元帝は… 司馬懿の曾孫、諸葛誕の曾孫、夏侯淵の玄孫、そして曹真の甥の孫だ」
三ファン「おおー」
「そして牛金の息子だ」
三ファン「…は?」
北斉的に司馬睿の出自を貶める事がなんか得があったのか疑問案件
明治天皇が蜂須賀茂韶侯爵に言った「お前の先祖コソ泥だよな」はそのオマージュだと思う
>>574
いうて陸抗も魏が怖過ぎたから殺されなかっただけで優勢だったら処刑か憤死不可避でしょ でも元帝牛氏説って、東晋側の書物(具体的には孫盛の晋陽秋)にも書いてるぽいんだよね
当時司馬氏のあとを牛が継ぐっていうオカルトが広まってたらしく、
牛氏だったってのは、disりではなく逆で、
東晋の正当性を示す設定と扱われてたらしいとかなんとか
図讖が決して無視し得ない政治上の課題であった時代の話だからねえ
晋恵帝の蝦蟆の話も前提となる讖文を踏まえてないと全く意味が通らない逸話になってるみたいだし
>>577
それ
親が徳川将軍家からの養子で実は蜂須賀正勝の血統ではない蜂須賀茂韶侯爵と
実は母系で蜂須賀正勝の血が入っている明治天皇
今日のおまゆう話 今の北京語は満州訛がかなり入ってるから
南方の方が古来の中国語をよく受け継いでるとか
石平が言ってたらしいが本当かよ
雑過ぎて草
漢族と満州族の人口比率って300対1 やぞ
どうやって影響を与えるんや。清の皇族は女子供でも乗馬強要したりしてなんとか尚武の気風を維持しようとしてもあっさり漢族化(髪型除く)したのに
今の普通話は二重子音の字が存在しない
例えば日本語で菊(キク)のような二重子音の漢字
今の普通話では[jú](ジュ)だが推定古音では[*kuɡ](強いて発音するならクグ)となっていて日本語の方が古い音を残してる
そして福建省の方言では[kiok]となっていて日本語同様古い形を残していることが分かる
髪型、服飾、言語の満州化or胡化は決して小さなことではないぞ、大きな影響を受けたのは間違いない
この事実に強いコンプレックスを持つ民族主義者は大陸内外に多数存在する(当然地域差は大きい)
改革開放後、事実上漢族専用の民族文化が喧伝されたこともあり大陸では中年層以下で顕在化
ゆえに石平のようなアンチ中華人民共和国、反体制気分の人間が稀によく利用する
>>583
そら所謂普通話は北京官語由来だからその通りだけど、他のはあくまでもその地方中国系言語の継承でしかない。
何時の時代の、どこの地方を以って中国語とするかによって変わるだろうよ。
大体清以前の明のにはモンゴル語の影響があるし、元の前の宋の時点で五代十国の混乱により
隋唐期中央の中国語の発音は一部消滅して中国語の発音が変化してる。
かなり古い中国語の発音(魏晋南北朝期)を継承するのは客家語や日本・朝鮮・ベトナム語の一部。 日本語の音読みは隋唐期の中国語の発音に近いらしい。
「拓跋」も、現代中国語の発音だと「チュオバ」だが、
現代日本語読みだと「たくばつ」、唐の時代の西域の異民族の発音だと「タグバチ」で
日本語の方が当時の発音に近似している。
(塞外の異民族にとって唐は北魏の後継という位置づけで、ゆえに唐のことを「拓跋」と呼んでいたこともあったらしく、この発音が記録されている)
異民族の侵入に晒されることがほとんどなかった日本は、初期に摂取した中国文化を凍結保存してきた面がある。
昨今話題になった令和も、海の向こうの中国人がむっちゃ反応してるじゃん。
出典がどうのこうのもあるが、本家本元が失ってしまった「元号」を、今でもこの島国が保存しているのが
中国人にとってある意味羨ましいんだと思う。
中国では一時期文革で伝統文化をことごとく否定してきたけど、今はまた古代のロマンに思いを馳せている。
「陛下」「皇太子」「皇后」「皇太后」…中華王朝そのままの単語が現代でも生きてるのは日本だけだぜ。
さらに内親王が「公主」だったら完璧なんだが…
それは半分正解、半分間違いってところだろうな
中華圏は先進国の“日本”が気になって気になって仕方ないのじゃ
仮に文化保存してんのが後進のベトナムとかなら彼らはほとんど反応しないと思うよ
>>590
それにベトナムは結構後まで朝貢してきて冊封も受けてるから、尚更軽くみるだろね。 越南は中国人・漢民族に近すぎるからね、同族嫌悪
加えて日本や国際社会で期待されているライバルなので嫉妬してるところもある
鮮卑は前燕の時代に慕容恪が漢学の素養たっぷりで早くに漢化してるかと思えば
太武帝が崔浩を国史の獄で誅殺したり、孝文帝の太子が漢化に反発して反乱したり
北周に至って鮮卑復古主義になったり
早くから漢化はしたが、隋になるまで民族意識の反動が定期的に起きている
これだけの期間鮮卑文化と漢文化が並走したにもかかわらず
鮮卑語の資料が残ってないのが意外に思う
突厥みたいにアルファベットを導入したり、漢字の音訳とかの方法とかもあったはずだが
高歓は鮮卑語でも漢語でも指揮を取れたことが記録されてる
>>590
中華王朝ごっこ続けている精神年齢12歳を誰が羨むかねw 音写してたら、万葉仮名みたいに字数3倍くらいになっちゃう
日本と違って知識人層もほとんどは漢人だっただろし
北魏の勃興から隋の成立までの長期間、孝文帝の治世など一部を除けば
北朝ではほとんどの期間で鮮卑語が公用語だった。
とうぜん、おびただしい数の鮮卑語の行政文書が発行されていたはずだ。
しかも北魏から隋までほぼ平和的に政権が禅譲され、項羽がやったような王宮の焼き討ちや官吏の大量虐殺など
資料が散逸するような破壊行為はほとんどなかった(と思う)。
なのに鮮卑語の文献が残ってないのが不思議だ。
現在残る当時の資料はみな漢族が漢語で、官や組織などの名称もすべて旧来の漢名で記されているので、当時の実情を表してるとは言い難い。
鮮卑族は勉強嫌いで文官が殆どいなかったのだろうか?
単純に鮮卑の文字はなかったんやろ
仏典だって無理矢理漢語当てはめたとこもあるし
漢文だけど実は鮮卑語で読んでたっていう可能性もありそう
例えば日本では訓読というものがあり、「子曰」って書いてたら「しいわく」って読む
同じく鮮卑人も、文書は漢文、読みは鮮卑語って感じで暮らしてたのかも知れない
北朝系と南朝系で文書の形式が違うって話もそれが原因じゃないかと。
当時の日本(つか倭国)が隋の文帝に国書突っ返された話も南朝の形式しか知らなくて「物の道理じゃない」発言につながるんじゃ
>>599
ごっちゃになりすぎ。文帝の開皇年間の遣隋使は倭国の風俗はデタラメだから矯正してやれと言われただけ 匈奴や鮮卑族って、中原に進出して漢字を学んだとき
自分たちの表記が「匈」「奴」、「鮮」「卑」と、漢族から侮蔑的な漢字を当てられているのを知って、怒らなかったのかな。
(鮮卑の「鮮」は「少ない」という意味で、やはりネガティブな漢字らしい)
女真族は、(「女真」も実は差別的な表記だったらしく)この名称を嫌い、自らを「満州族」と呼び変えた。
モンゴルの当て字の蒙古だって大概な意味だもんな。
でも何故か中原を制しても清代に旗人化しても、蒙古の名を改めなかったのはなんでだろ。
韓ドラの「広開土太王」で慕容垂、慕容熙、慕容宝、馮跋、高雲など出てきた。
広開土王の治世はほぼ後燕と北燕に重なってる
鮮卑語と高句麗語がアルタイ語族なら語順はほぼ同じだあるから
バイリンガルも多くてドラマみたいな感じで意思疎通したりできる場面もあったんじゃないかと思う
孝文帝以前の北魏、西魏・北周の言語って
皇族および北族貴族: 鮮卑語
漢族官僚: 鮮卑語と漢語のバイリンガル
中原の庶民: 漢語
こんな感じだったのだろうか
晋玄帝「うちの国は曾孫の代までで、103年しか続かなかったらしい」
魏道武帝「うちの国は一応、曾孫の、曾孫の、曾孫の代まで続いたらしい」
晋玄帝「すげえな 何年くらい続いたん?」
魏道武帝「149」
晋玄帝「回転率おかしくね?」
北魏の道武帝から文成帝までと劉宋の劉裕から孝武帝まで
よく似た経過
長期政権があって太子に弑逆されてそれを他の兄弟が討って即位とか
でも北魏はそこで滅びず孝文帝で二度目の盛期
北魏はレジリエンスが高かったというか持ってたんだろうな
魏の太武帝と宋の文帝は同時代に生きてその末路がほぼ同じだったあたり凄いシンクロっぷりだと思うわ
簒奪to簒奪で続いた南朝諸君と
自力で勢力を築いてきた拓跋氏では権威の質がまるで別物ですよ
南は帝が弱れば即潰される
北魏は幼帝でも国は続く
薛安都の寝返りがなかったら劉宋は普通に続いていたような気がする
薛安都のせいで北魏に奪われた淮北四州の出身者たちが蕭道成の軍事基盤になっていたわけだからね
それに劉裕が東晋時代に獲得した南燕だった山東地方が薛安都のために北魏領に
けっこう打撃だったはず
それにここで北朝領となった山東半島は南朝を通じて奪回できなかった
薛安都の行動はその後の南朝の領土にも影響を与えた
劉宋明帝が山東半島奪われたことは北魏の南朝への優位性を決定的にしたな
後続のの南斉も梁も六鎮の乱まで北伐どころではなくなった
薛安都って侯景の南北逆版みたいなもんか
薛安都はうまくいったのに侯景は…
侯景は初めは簒奪する気なんてなかったから制御に失敗した梁の失策が大きい
中国ってとにかくだだっ広いイメージがあるけど
それは現在の中華人民共和国が、満洲から内モンゴル、ウイグル、チベット、東南アジア国境の華南まで
版図に入れているから。
もちろん王朝時代もそれに近い領域を勢力下においたことも一時期あったけど
いわゆる「中国」である華北平原は意外と狭く、黄河と長江との南北間の距離は、短いところでは400qくらいしか離れていない。
日本でいうと東京大阪間くらいか?
北朝・南朝というとまるで別世界で、特に北朝は異民族政権だから、見た目も習俗も全く異なると思われがちだが
ここまで近いとなると、あまり両者の差異は無かったのかな?
長安〜建康が東京〜福岡と同じくらいの距離だっけ
意外と距離的スケールは日本と大差ないんよね
古代中国のスケールは確かにそこまでデカくないね
もしかしたら自然環境の多様性は南北に長い日本列島の方が上かもしれん
基本に言うほど大差がないから
版図や人口経済規模が圧倒的に膨らんだ明清や中華民国が日本に苦戦する
北朝の史書は南朝を「島夷」といってるしな
長江は海でその向こう側は巨大な島という認識だったのか
北魏「ウチは晋の血を受け継ぐ中華王朝やぞ。劉裕が如き祖父の名もわからぬ貧乏タレとは生まれが違うわ」
>>614
曹嶷が作った広固城がのちの時代までそこらの要衝になったんだっけ 五胡から北朝の名城は統万城
太武帝に落とされたけど
北朝は南朝の人間を「島夷」(島国の土人)と呼び、
南朝は北朝の人間を「索頭虜」(辮髪野郎)と呼んでたんだよな
辮髪野郎って、あの孝文帝も辮髪は禁止しなかったのか?
五胡から北朝の名城は統万城
太武帝に落とされたけど
元を中華王朝とするなら、統一王朝とされてる明は「南朝」で北元は「北朝」
これも南北朝時代といえるのではないか
>>630
中華王朝(征服王朝)だった元の連続である北元を後金が滅ぼす
北元滅亡から清の入関までは北朝は後金で
北朝の覇者に短期間でとってかわった清が南朝の順、南朝残党の南明を滅ぼして
中華統一 第三次南北朝時代だな。
第四次が中華民国(北京政府)時代か。
そっちの方はどっちかというと第二次「五代十国」っぽいけど。
方孝孺「解せん、大明国は建文の帝の時に滅んだんやぞ?燕賊とか言う北元の走狗が立てた王朝()は大明国とはなんの関係もないんやで?」
劉邦「王全員劉氏にしとけば内乱で誰が勝っても劉氏の天下や! これぞ天才の発想!!!」
元以前でも
金と南宋で立派な南北朝状態だよ。
でも中国史的には、南宋が正統で金は北方のならず者的なイメージ。
南北朝と呼んで両国を同格に扱うのには、漢族のプライドが許さないのかも。
でも北魏だって異民族王朝じゃないかと言われるかもしれんが
北魏は遊牧民王朝ながら漢化には積極的だった。征服王朝ではなく浸透王朝と呼ばれるくらい。
しかも北魏の完成型が隋唐。この頃には漢族と同化して事実上の漢族王朝と化している。
魏晋の流れを汲むのは南朝で、
隋唐の源流となるのは北朝。どちらも漢族王朝としての正統性があるので、同格に扱われてるのだと思う。
金も、後に統一王朝となる元の先輩格で、こちらも正統性があるけど
どちらも漢族とは同化せず征服者として振る舞い、特に元は漢族を「蛮子」呼ばわりして蔑視したくらいだから
漢族にとっては対北魏のような好意的な見方はできないだろうな。
漢化した北魏が三十年経たず解体
↓
東魏(北斉)と西魏(北周)に再編
↓
国力で劣る西魏が徹底した鮮卑化政策と軍事偏重政策、突厥との連携等により何とか東魏と渡り合う
↓
西魏がどさくさに紛れて梁の江陵も占領しちゃう
↓
気がついたら東魏西魏ともに簒奪される
↓
北斉滅亡、北周も隋に簒奪される
↓
隋の楊堅が天下を統一、鮮卑化政策に終止符を打ち南朝と北朝との融合を推進する
北魏の正統性ってそこまで重視されとらんやろ
どっちかというと後梁の方が重んじられてそう
>>636
どっちかっつーとプライドが許さないんじゃなくてプライドが崩壊する感じでは?
都合が悪いとも言う。
宋まで分裂期認定すると中国=統一国家というイデオロギーが壊れる。
南北朝の北朝も正直言って認めたくはないだろう。
しかし征服王朝を取り込まないと中華民族すごいポイントが著しく減少するのでやむを得ない。 南北朝期終盤まで東晋が生き残ってたら北魏も南宋に対する金みたいな扱いになってたかもな
北魏は漢化に熱心だし、唐なんか鮮卑だったのを隠そうとするくらいだし
唐代のうちにはお互い異民族って意識は消えてただろう
南北朝が対等に見られるのも当然
対し金の女真族は終始漢人を下に見続けてたからな(実際実力では上だったんから仕方ないが)
北魏は胡語、胡姓、胡服を禁止し、一時的ではあるが100%漢化した。
逆に金は漢族に被征服の証として辮髪胡服を強制した。清と同じ。
南北朝時代の西魏→北周も確かに鮮卑回帰して胡語や胡姓を復活させたけど
辮髪強制まではしていない。逆に周礼に則る体制を整え、儒者を優遇し漢胡のバランスをとっている。
話題を最初>>629に戻して纏めると、
北魏は漢族の王朝とみなせるだけの理由があるから
南北朝という扱いで
元や金は漢族の王朝とみなせないだけの理由があるから
領土を獲られてた扱いになるという >>642
となると清は金・元カテゴリーになるけど、でも最後の中央政権を担った王朝だからか完全に金・元みたいでもない。確かに反清復明なんてスローガンはあったけど。
その流れでは正当なる漢族政権は明→中華民国…になるのだろう。
中華帝国?洪憲皇帝?なんスかその厨二ぽいのw 確かに清は金と同じカテゴリのはずなんだけど、国際事情が違いすぎるからね
清朝を異国人とみなすと、満州地方その他領有できない土地が多数出てくる
今の中国は、漢族もマンジュも区別せず両方「中華民族」と呼び、
故に清の旧領土は全部我らに領有権があるという基本思想なので
「漢」民族の最初の皇帝の劉邦がいきなり冒頓単于に屈従させられてる、
あんまり語られないね
白登山の戦い、あの冒頓単于にしては甘すぎた
一気に劉邦以下皆殺しにするか、金が北宋とか北元が明にしたように皇族を抑留するとか
漢武の遠征までは匈奴側は漢を属国にしてたという認識なんだよなあ
そらあんまり語りたくないやろ
「漢」民族にとって至高の王朝と言える栄光の西漢帝国があっけなく屈服したなんてカッコ悪い
冒頓>劉邦>項羽ほか有象無象の図式が出来ると楚漢戦争までしょぼくなるし良い事がない
白登山の戦いって突出した劉邦本軍が冒頓に包囲されたのは有名だけど
周勃らの解囲軍が匈奴軍に迫っていたことは結構見過ごされてるよな
陳平や婁敬の功績はもちろん重要なんだけど、現代の人たちが白登山を語る文脈において周勃や灌嬰らの作戦を見落としているのには違和感を覚える
劉邦の失敗談としてばかり捉えられていて作戦としては捉えられていないんだろうな
そりゃ突出した劉邦(または漢軍)の失敗談ってのは間違いじゃないもの
戦国中頃から中華勢力圏に入ってたオルドスと土下座の進呈
それは名将灌嬰や周勃にも匈奴を押し返す自信がなかったことを物語る
劉邦は皇帝になってからも陣頭に立つの止めなかったのがなあ
大軍預けたら背かれると思って任せられなかったのか
劉邦の場合は信陵君や楽毅リスペクトとしか思えないくらい最前線に出てきているのな
末期の戦国君主は最前線まで出てこないもの
劉邦は君主の生まれではなくて現場からの叩き上げだったから自ら軍を率いる以外の選択肢は取りづらかったんだろうな
石勒がリスペクトするのも理解できる
英布の時とか自分で行くのめんどいなあと思ったけどお前が行かなきゃやばいよと言われて渋々行ったんじゃなかったっけ
軍事力を他人に預けるのは怖いよね
>>652
戦国は末期じゃなくても最前線には出ないだろうな、軍を率いた君主も記録上は少数派
生まれは違うが劉邦は人生の大半を信陵君や楽毅と同じ臣下側で過ごした人間ですからね
まあ信陵君や楽毅も戦傷を負うような本当の最前線にはいなかったかもしれんが あ、ここ五胡十六国スレだったのか
ふだんから劉邦スレも覗いてるから、きょうも何気なくスレ開いてここは劉邦スレとばかり思い込んでたw
契丹、女真、モンゴルのように漢化しなかった異民族に中華を支配されたことに
漢民族は屈辱感を覚えると思うが、
現代中国人にとって、同じ征服王朝でも清はちょっと別なのかもしれない。
なぜならば清朝300年の統治で、近現代の漢民族自体が満洲文化に馴染んでしまい、今ある中国の伝統文化は
すっかり満洲風にアレンジされてしまっている。
言語はもとより、例えば伝統的な中国服も、ゆったりした漢服ではなく筒袖の満州服だ。
清王朝成立の際にあれほど嫌がっていた辮髪も、中華民国成立時に洋髪が導入されたら、漢族でも保守派ほど抵抗して辮髪にこだわったくらい。
現代の漢族にとって、直近の文化的なルーツが明ではなく満洲にあるのだから、
近代に関しては華夷の別というのをあまり意識しないのかもしれない。
個人的には慕容儁はマンチュリア勢力としては比較的短期間で中原に進出してるのが凄いと思う
その割に阿骨打やヌハチに知名度負けてるのがかわいそう
つーか慕容儁、慕容恪は後世の金や後金の先駆けみたいなものなんだよな
慕容儁は中原を一時的にでも占領したのは五胡では初めてだけど
前秦、苻堅の存在が大きすぎるからあんまり注目されないのか
それなら漢人政権で初めて胡人政権に服属したのは前涼か?
東晋から後趙に鞍替えしてる
それでも前涼は石虎を撃破したりしてる
外交と戦争を組み合わせて70年以上持ったのはなかなかだと思う
五代十国の「十国」とか十六国の弱小国とかはいろいろ現代への教訓を残してくれそう。
プレジデントが特集してくれないものか。
>>667
呉座勇一氏が「ばっかじゃねえのwww」って切り捨てた視点だな >>668
他人がバカにした視点を無批判で受け入れて何も考えずに同調するのって最高に頭悪い行為だと思うぞ
自分で思考した上で教訓として歴史を用いることの何が愚かなのか導き出さないと全く意味がない
むしろ呉座某がいないと自分の意見も考えることができないロボットになってしまうのでは? 異議あり
自分と同じ意見の人の名を挙げることは悪い事ではないだろう
どちらかと言うと、自分個人の考えのみで人を批判するほうが間違いではないかと
いやまあそんな堅苦しい事言う気はないけど、最高に頭悪いとかは言いすぎやろ
なぜ五胡十六国は学校世界史でもサラッと通り過ぎるか、
といったらあまりにも文化遺産が少なすぎるからだろうと思う
小国分立での攻伐続きでも春秋戦国とかは諸子百家があるし
五胡十六国に諸子百家みたいなのがなかったのがあるのかな、と
対して南北朝は文化遺産が多い
書道では北魏の石碑とか、南朝の梁武帝の政治とか…
弱小国だったら…五涼の外交と人士たちとかなかなか味があるテーマかも
>>671
長さが全然違う五胡十六国と春秋戦国を一緒にするなw
つか期間が長いわりに春秋戦国は世界史で空気だぞ、五胡より地味なんじゃないか? >>671
三国時代並みにキャラ立ちしてる人物が多いぞ。
漢楚戦争期と比べても引けを取らないと思う。 > なぜ五胡十六国は学校世界史でもサラッと通り過ぎるか
単純に、ややこしすぎるからじゃね?
教わる方も大変だが、教える方も大変だぞ。
中国史マニアでも、ごちゃごちゃし過ぎて把握しきれてない人が多いと思う。
東晋対五胡(後趙・前燕・前秦)
→晋宋革命・北魏の華北統一
ここまで単純化すれば教えれなくもないでしょ
五涼や西秦をカットすりゃそこまで面倒くさくもない
前に書いた気もするけど
だいたい華北は
前趙、後趙 → 前燕 → 前秦 →小国乱立
くらいならば追いやすいのかな
簡単な中国史の本だと、このくらいしかあげてないし
そもそも世界史って大きな枠組みで教えることも多いのに
興っては倒れる短命政権が内乱でゴチャゴチャやってる
悪く言えば枝葉末節的な事件をいちいち教える意義がどれだけあるのかってな
春秋戦国がそうだけど教えるなら国家興亡の事件史より文化史かねぇ
鳩摩羅什他の訳経事業と仏教の浸透とか
石勒という西晋皇室をほぼ皆殺しにし南匈奴左賢王の家系を攻め滅ぼした時代の変革者
西欧で言うならオドアケルにも匹敵する傑物だろう
仏教を国家レベルで取り入れており文化史においても重大なターニングポイントとなる人物
その残党政権とも言うべき前秦苻氏政権は華北統一にも成功しており規模では北魏を凌ぐ
少なくともこの二王朝は世界史で教育されるべきでは
仏教の東進は諸子百家より重要だしな世界史的にも日本史的にも
既にぶっ壊れていた古代中国を殺してあげた親切な男・石勒さん
>>682
フランクなのは南匈奴と鮮卑慕容部で鮮卑拓跋部はゴート族っぽい。
しかし東西で同じムーブしてるのは草生えるわ 草生えるというか、草も生えなくなったからきたんじゃないかね
当時地球規模の気候変動があったらしく、中央アジアが不毛の地となって
一斉に移動してきたとかなんとか
これは王猛のポジションですわ
敵対勢力を次々と許して自陣営に加えるスグルは苻堅
苻堅は高校世界市でも時間を取ってすると思う
一時的な華北制覇、鳩摩羅什、淝水の戦いと関連が多い
ヒ肥の戦い前の東晋の前秦評ってやっぱ急速にデカくなった弊害で烏合の衆で充分崩せるって感じだったのかな?
あの大勝の後に20年そこらで崩壊する国なのに割と連携取れてるよね?
慕容垂は苻堅が勝ったらどうするつもりだったんだろう
敗けた後にも苻堅を保護してるから、苻堅を唆したのは本当に大一統を
早くさせて、自分は苻堅の下で封建されることを考えてたと思う
苻堅を蹉跌させる意思ではないと考える
>>691
簡単に崩せるとかは考えてないと思うな、前秦に敗北する覚悟もしてただろう 内応の約束あるとはいえ八千で渡河して苻融討ち取ったのホント頭おかしい
あんなの予想できんだろ
謝安のエピソードからしても彼は敗北したときのことを考えてたと思うな
向こう側にも漢人はいるし、東晋の皇族も保護される予定だったから
謝安は仮に東晋が負けて降伏しても前秦は領土を維持できないって思ったたんじゃ。
>>693
当時の慕容垂は旧燕地域の地元民に担がれた苻洛の反乱を見ていたわけだから
東晋が征服されたとしても江南人たちの反乱が起きる可能性は高いと予想していたんじゃないかな
たぶんそれが自立なり謀叛なりの最後のチャンスと認識してじっと堪え忍んでいたような気はする 苻堅って王猛の息子にも背かれてるし基本的に人徳ないよな
苻堅は簒奪者というところを割り引いても身内から反乱起こされ過ぎ
苻生や苻法の家族をそのまま重用したりいくらなんでも脇が甘いわ。
慕容姉弟(无考と沖)の後宮入り見てても基本的に他人からどう思われるかって感覚が欠如してる感じ。
いい意味でも悪い意味でも極端な坊っちゃん理想家だよね
んで本人の才能と能力があり王猛を初めとする部下にも恵まれ目前までやっちゃうという
内憂でボロボロにしといて最後の最後だけ団結力を取り戻す東晋の空気読めない感
苻堅は袁紹みたいになってしまった
東晋を併吞できてたら唐太宗みたいなポジションになれたのだろうか
唐太宗になるには東晋併吞できた後の治績までの評価となるだろうが
苻堅が東晋滅ぼしていたら李世民を越えて劉秀や楊堅レベルの創業の名君扱いされていただろうよ
李世民って二代目で李淵から簒奪したようなものなのに何でドヤ顔して「守成は創業より難し」とかほざいているんだろ
苻堅一代で統一してればそれこそ劉秀な趙匡胤と並ぶぐう聖皇帝とか言われてたやろ。
天可汗さんは論外
>>703
だって西晋ってずーっと内ゲバばっかりじゃん。懐帝が死んだ後ですら内ゲバしてたし。まあ東晋もぐだぐだするんだけども 李世民のやってることが石虎や苻堅より悪辣なのは草
皇太子暗殺・父親幽閉して即位とか五胡や南北朝でもなかなかいなくね?
>>709
楊広「ワイは皇太子追い落とし、父親暗殺(容疑)で即位やで」 煬帝の親父殺しって隋書にすら書いてないからセーフ
后妃伝にそれを匂わせる記述があるのみ。
楊広(煬帝)が宣華夫人陳氏にセクハラ→宣華夫人が文帝にMetooする→文帝「ちくしょぉぉぉぉ!!長男呼んで来い!!」→楊素が握りつぶす→文帝はそのまま病死(原文は俄聞上崩)親父殺しって言うより死ぬのをただ待ってただけでは
その煬帝に協力した楊素が北周時代に宇文護に引き立てられてその後武帝の怒りを買い死罪になる寸前まで行った経歴には得心した
晋書から国家編集になったんだっけ
いくら北朝からの後継王朝だから余り良くは書けないからって内容もう少し何とかならなかったのかな
司馬懿の首180度回るとかどんな心境で記したのかw(曲がりなりにも晋の高祖w)
司馬炎の統一後の堕落や司馬衷の暗愚っぷりとかも事実なんだろうけど、どこまでが真実なんだろう
そこらへんは安田二郎がだいたい暴いてて司馬衷の暗愚さは誇張されてるのがほぼ確定してるし
司馬炎の後宮拡充もそれなりの背景と楊皇后の理解とバックアップがあったことが明らかにされてる
司馬師も最初の妻を毒殺したとかかなり悪質なゴシップ書かれてたし、基本的に晋書は司馬家に悪意あるわなぁ
賈南風もネガティブに書かれがちだけど、司馬炎の時代にできなかった老臣と若手の世代交代を引き受けざるをえないポジションをやらされた面もあるし
そりゃー北魏の後継国家ですからなあ隋唐……
北魏が三国魏からの接続を謳う以上、
基本晋とかクソ扱いになるわな
おまけに天可汗さんのアイドルの陸機陸雲兄弟が八王の乱に巻き込まれてあぼーんとか司馬家に好意を持ちようがないと言うか
司馬炎には比較的好意的で「温厚にして寛容。感情で家臣を処罰する事がなかった」と書いてるくらい
晋書の司馬氏の評価
司馬懿 →猜疑心が強く首が180度回るビックリ人間
司馬師→最初の妻毒殺 目の下に大きなホクロがあってそっから長い毛が出てたとか書かれる始末
司馬昭→政治部分は評価されるべき点があるもの、帝殺しの為個人の賛は最悪
司馬炎→統一まではまだまともだが統一後は平和ボケに加え後継者選び大失敗
司馬衷→マリーアントワネットばりのとんちんかんな発言、暗愚さを盛大に書かれる
司馬睿→司馬睿は牛金の一族である
こんな感じだっけ?司馬睿のは魏書からだったか
司馬氏でも司馬攸や司馬紹とかの評価は変に高いよな
晋書はあまり評価されたもではないな
>>723そうだっけ。ごめん
なんかごっちゃになってたわ 天可汗さん晋書で自分で書いた部分って
司馬懿
司馬炎
陸機
王羲之なんだな
王羲之は蘭亭序を子孫から騙しとって自分の墓に持っていくくらいのファンだったらしいけど
陸機はその次くらいだと評価してたんだろうか
いくら司馬炎の淫蕩ぶりをdisっても李世民が殺害した弟の嫁を後宮に入れた事実までは覆い隠せんからな
長孫皇后とのおしどり夫婦みたいに言われとるけどこんなの暴君ムーヴやんけ
統一事業の主格はあくまで李淵であって李世民は有能な軍司令官どまり
長江流域を平定した李靖・李孝恭、劉黒闥を討った李建成らとはそこまで隔絶してないでしょ
司馬炎に対する著述には統一事業に関する嫉妬が見え隠れする
司馬炎の後宮の才人(謝玖)が司馬衷の筆おろしやって司馬遹産んだってエピソードもいかにも「お、オレを畜生と言うか司馬家だって畜生やんけ!」と言いたげな感じなのがもうね
晋書は司馬氏に十分優しい
三国志よりも功績が増えている人もいる
北魏書…
晋書は志怪小説などの怪しい話が含まれてるだけで特に別に司馬氏に厳しくはない
司馬睿が即位した途端に気が狂ったかのように罵詈雑言のクソレス飛ばしてくる魏書よりは晋書の方が何万倍もまし
司馬懿とか晋書のが三国志よりも手柄が増えててよく書かれてると思うけど
>>731
魏書だと王敦が無茶苦茶ageて書かれてるの本当に草 北朝史観では、正統な歴代中華王朝は
秦 → 漢 → 魏(曹魏) → 魏(北魏) →…→ 隋 → 唐
という系図をたどるのか。
両魏の間に、途中晋とかいう王朝も入るけど、こいつは曹魏の皇位を簒奪した外道で、
南朝の島夷どもも、この外道の後継で、ろくでなしの連中。
北朝の拓跋さまこそ、正統な華夏の主であらせられるのだ。
しかしはるか後年の宋代になると、
契丹に圧迫され、さらには金に華北を奪われ、自身が南朝になってしまい、
さらには漢族ナショナリズムが強まって、
魏晋南北朝時代に関しては、(純漢族政権の)晋と南朝を中華の正統とするんだよな。
実は宋も突厥系らしいけどw
北魏に「東晋の皇族なんか牛金辺りの子孫だろw」と言われる牛金の気持ちを考えろ
>>735
お前……いいじゃねえかそこは、北周さんだけでも!
結果逆引きの正統史観なんだし、
西魏も東魏北斉もいなくてもセーフ! 北朝って劉裕簒奪後は南朝からの亡命者相当多いはずなのに東晋DISってるのは草生える
そういえば拓跋と曹魏ってなんの関係があるんだろ
劉淵は一応劉邦の子孫と言えなくもないから漢名乗ったらしいが
ただの自称後継者?
>>741
三国時代、北魏王室の祖先の拓跋力微が、(曹)魏に朝貢したのが発端らしい。
北魏的には、「拓跋部が曹魏と修好を深めた。よって曹魏が滅びた今、我が拓跋部こそが魏の後継を称すのだ」
ということらしい。
実際の力微は、司馬炎が簒奪した後も、晋に従ったんだけどねw 拓跋力微もそのまま史書を信じたら104歳で没してる訳だけどこれも怪しすぎる
箔を付ける為に盛ってるよね
どう見ても曹魏とのこじつけのために生年を遡及させているケースでしょ
実際はもう少し遅かったんじゃないかな?
これは劉淵の父の劉豹にも言えることだけど
唐は鮮卑系
宋は突厥沙陀部と言われているな
完全に漢化しているが
隋唐の源流は代国周辺強制移住者集団の末裔(六鎮からの流れ者)+関中の漢人大姓という構成になってるから
むしろ拓跋鮮卑の統治エリートたちよりも下部の集団出身ってイメージだわ
鮮卑扱いは単純化しすぎでは?
始祖拓跋力微の神元元年は後漢から魏に変わる年で後魏は前魏と天命を分かち合ったことにしてる。
北魏末期に六鎮に残ってたやつは出世コースから外れた落ちこぼれ扱いの掃き溜めだからな、出自は綺麗に遡れん
洛陽に移住した鮮卑の貴種や漢人エリート官僚たち以外が残ったんだろうから本当に雑多な連中が残ったことになる
下手したら南匈奴や丁零の末裔の方が多かったんじゃないのか?
一応曾祖父までわかってる高歓と宇文泰が生まれ良さげに見えるくらいやから
南の梁でも侯景の乱でごっそり上流階級がお掃除されちゃったわけだし
後漢末よりもレボリューションしてる時代だと思うわ
六鎮の乱も出世の道が閉ざされ、田舎者と差別されてるのに日増しに圧力が強まる柔然、突厥から北魏を防衛せねばならない六鎮出身者のフラストレーションが炸裂したのが顛末だからな
洛陽遷都以降に冷や飯食いになってしまったとはいえ
もともと六鎮の軍閥は、帝都(平城)の守護という重大な任務を負い、そのぶん数々の特権や栄誉が与えれらていたからな。
それだけに北族の名門が選ばれ、誇り高き存在だった。
孝文帝の代にはカッペ蛮族扱いされてただろうけど、
鮮卑宇文部の末裔である宇文氏や、単于の家系につながる匈奴の貴種である独孤氏がいたのだから
(北族としては)血統の良い者も多かったのだろう。
隋唐の普六如(楊)氏、大野(李)氏が、貴種なのか、卑賎なのか、鮮卑なのか、匈奴なのか、漢族なのかは分からんが、
両氏が六鎮出身なのは確かであり、その六鎮が北魏末期に暴れ出してから北朝は鮮卑回帰が顕著になったこと、
普六如(楊)氏、大野(李)氏ともに、宇文氏と同様に北族の貴種ある独孤氏と姻戚関係を結んでいること、
さらに北周時代は八柱国、十二大将軍の一員であったことから、
隋唐はきわめて鮮卑色が強い、仮にルーツは漢族だとしても精神的にはかなり鮮卑化された家系と言えるのでは?
鮮卑とは何かを定義してはじめて隋や唐の宗室が鮮卑系だったかどうか語れると思うんだけど
おそらくここのハードルが一番高い
隋唐の王室及び支配層≒関隴集団
関隴集団は様々な胡族や胡化した漢族など雑多な民族が共存していたが、共通の文化・言語・価値観は鮮卑で、一時は鮮卑復古主義に走った。
ゆえに隋唐は鮮卑系と捉えている。
まぁ、単純に隋唐は鮮卑!というよりは
鮮卑と匈奴のハイブリッド、といったほうが正確かもしれない。
天可汗さんの場合、祖母が匈奴の貴種の独孤氏、母親がオルドス地方の匈奴の酋長の娘でかつ宇文泰の孫でもある竇氏、
妻が北魏の宗室である長孫氏
と、鮮卑と匈奴の名門の血が次々と加わっている。
もっともこの頃には鮮卑と匈奴の差異は無くなり、一様に漢化されていたと思われる。
王室の血筋だけではなく、人材も異民族系が多い。
日本の平城京のモデルにもなった長安の設計者である宇文ト、漢字の発音の標準を定めた陸法言(歩六孤法言)はいずれも鮮卑人、
二十四功臣でも、少なくとも長孫無忌、長孫順徳、尉遅敬徳は鮮卑人で、屈突通も胡族出身。
唐の治世を一時的に停止した武即天も、関隴集団の出身。
>>756
とりあえずこの件について言えば、
鮮卑=漢人でない民族 くらいの意味で使われてると思うけどな
鮮卑以外の異民族だった可能性まで考察する必要はたぶん無いと思うから 北朝中後期について言えば、鮮卑と匈奴は、
少なくともトップについては
混じり合っちゃってるわな。
言うて拓跋珪もすでに
ガンガン匈奴の血引きまくってるけど。
もっと言うなら宋や斉は拓跋部=匈奴という認識で
鮮卑=慕容部または吐谷渾という捉え方してるからね
「索虜」として北方の王朝を定義しているのは彼らがそれだけごちゃ混ぜになった存在だったからということなのだろう
非常に大雑把に言えば東の方にいたのが鮮卑で西の方にいたのが匈奴
>>761
河西鮮卑の禿髪樹機能とか涼州で暴れていたでしょ、乞伏(乞佛)部も鮮卑扱いされてるし
鮮卑/匈奴を東西で区分するのは困難だと思うよ それは後に移動してシャッフルされたんであって元は東胡由来なのが鮮卑ということなのでは
しかし華人の蛮族への呼称の付け方、本当に嫌味くさいなw
茹茹はよく意味がわからん
繰り返し系の名前は手抜き感ある
柔然を「蠕蠕」とか「蝚蠕」などと表記して虫扱いしてたのは
主に北朝系の人だったらしいね。
柔然は鮮卑の系統で(大雑把に言えば中原に進出せずモンゴル高原にとどまった鮮卑が柔然)
特に拓跋部と近縁と言われているのに
虫呼ばわりして蔑視するとは、同族嫌悪だったのかな?
略奪を働くクソムシどもってとこだろうよ
少なくとも親近感を持てる関係ではない
>>770
同族嫌悪というか、ルーツ的に似たようなことをやっていて、けど自分たちはそっから「脱却できた」って思い込みたかったら、封印したい過去を抹殺したい、的な意味でも殺し尽くしたいんじゃないかな。 >>772
インテリ枠中国人や精神的日本人が遅れた中国(人)的なものを攻撃しまくるのと同じやな いちおう悪字には、「音写とわかりやすい」という実用上のメリットもあったりする
北魏は柔然の脅威に対処すべく、万里の長城を改築・補強し、辺境に六鎮をおいて帝都を防衛した。
これだけみると 中華vs北狄 の構図だが、実は鮮卑どうしの抗争。
太武帝: 「おのれ蠕蠕め、蛮族の分際で長城を越えて、我が大魏の神聖な国土を侵すとは!」
崔浩: 「あんたらも似たようなもんやろ」
北匈奴と南匈奴の抗争みたいなものだろ
南匈奴が華北も制圧している状態
そりゃ強えわ
現代でもそうだけどエリートにありがちなタイプとして、
優秀すぎて他人への尊敬の念が欠け周囲への配慮ができない、
それで不必要に敵を増やして自滅するタイプだったのかな?
崔浩さんは。
個人的には崔浩センセイがヘイトを買いすぎて、巻き添えを食らうのを恐れた太武帝が崔浩センセイを切り捨てたように見えなくもない
ハッセ的なメンタルな崔浩さん
そして面白がって炎上させる漢人ニキと胡人ニキ
崔浩の欠点がなかったタイプが苻堅の王猛
太武帝と崔浩の組み合わせに比べどっちも能力も度量も数段上だな
王猛が崔浩くらい生きてたら、というのはある
時代的には昔だが典型的な朱子学者崔浩
それと、孝文帝と崔浩の組み合わせだったら?
朱子学も後付で変質化してっからなぁ。朱熹自身は論敵(陸象山)ともプライベートでは仲良くしてたり割と度量の広いオッサンやし。
あと崔浩センセイは孝文帝でもやっぱり誅殺不可避じゃね。
孝文帝からしてみりゃ漢化政策はあくまでも温暖な土地に永住していくための手段な訳やし
>>725
天可汗さんの筆によるのは、その4人の各巻末の論賛の部分ね
伝全文じゃないよ 逆はないなあ
江南の政権君主が北に巡遊とかは
たいてい北伐になっちゃうな
普六如那羅延 「江南? あとは隋国公のこの俺に任せろ。つーかこの奇っ怪な名前を名乗らなきゃいけない現状を何とかしてくれ!」
>>792
確かに那羅延てインド由来だもんな。
鮮卑語姓+サンスクリット名って…
素敵やん! >>791
後寿命が10年あれば十分できただろうに持ってないわ
300年ぶりの栄冠を横から拐われた 陳後主も再評価してやってほしいわ
彼の無様さこそが慣例だった滅ぼされたほうの族滅を防ぎ、
また高官や貴族の再就職もできて唐末まで続いたんだから。
陳後主がある程度抵抗した後でやっと隋がやっと滅ぼせた
状態だったら南朝文化が消えてたかもしれんぞ。
そこまで考えてはないと思うけど、そこまで読んで井戸に隠れてたりしたとしたら彼は千両役者だよ。劉禅を超える後主だな。
阿斗ちゃんは跡継ぎの行状の悪さとか見てると演技じゃなくて素なんやろ
堅という名前は孫堅にしろ苻堅にしろヤバみを感じる名前なんだな
十六国や南北朝も国号に関しちゃ春秋戦国時代の七雄や諸侯の流用だね
新しい国名を立てる気はなかったんだろうか
民族語の国名も
鮮卑復古政策をやった北周も鮮卑語での国名は伝わっていない
清は満州語でダイチン・グルンだな
>>801
赫連勃勃って銘柄はありそうだな。立ち飲み屋があるくらいだし。 >>802
流用ではなく政権発祥の地や公なりなんなりに封じられた土地の名前を国号にしてるから
場所が被れば当然国号も被るってだけの話だろ 匈奴漢も劉淵が最初に貰った爵位である「漢光郷侯」が元やからね
五胡は独立前から内地に移住して漢族と雑居したり、朝廷から封建されたりしていたからか。
ガチで塞外から侵入してきた契丹や女真、モンゴルとは違う。
朱元璋はなあ、江南出身だから楚とか呉を名乗ればよかったのに。
たしかに
いつも徐季武表記にするよう気をつけてるわ
この時代はどうもマイナーであまり知られていないよな
同じ古代中国史の春秋戦国時代 史記 三国時代は有名なのに
やっぱり漫画やゲームになってないのが理由かな
キングダム(始皇帝)は有名だけど春秋戦国時代は別に有名じゃないぞ
三国志はコーエー様々
苻健って何故国号を【秦】にしたんだろう
単にかつての秦が近辺の咸陽を首都にしてたから?
かつての秦も、もともとチベット系の遊牧民だったらしいし
そういう親近感もあったのかも?
王朝継承の失敗例盛りだくさんで教養にもしにくかったってのもあるかもな
苻堅の宮廷の面々って何語で会話してたんだろうか
漢語でしてたのかそれとも通訳立ててたのか
苻堅と慕容垂の会話が記録されてるけど、氐語はシナチベット語族、鮮卑語はウラル・アルタイ系とされてるから鮮卑人が氐語を話せるようになるには壁があったはず
まあ、漢語でガヤガヤやってたのかな、王猛との付き合いも長かったし
>>818
慕容コウの段階で漢語バリバリに使ってて、その孫やぞ 慕容垂もきっちり鮮漢のバイリンガル教育受けてるやろ >>818
苻堅も勉強させてもらってたし一通りの教養はあるでしょ
段夫人NTRのときどんな話をしたのか気になる 拓跋さん以外は漢語とのバイリンガルだったんじゃねーの
姚襄や苻朗あたりは東晋で普通に会話していた記録が残ってるし
共通言語は存在していたと思うのよね
清みたいに上流階級はほとんど漢語しかしゃべってなかったかもしれないね
とはいえ、南北朝時代も終盤の6世紀後半になっても
楊堅が実権を握って「漢魏の旧に戻す」までは、華北では鮮卑語が公用語だったんでしょ。
580年頃まで第一言語だった鮮卑語が、600年代のうちに話者が消滅してしまった。
隋唐期に漢化が急速に進んだのか、
それとも北周時代、「鮮卑語第一」がすでに形骸化していたのか。
周って国名からして儒者に媚びまくってるし実態はやはり漢人か漢化した鮮卑人が中心やったのでは
焚書坑儒だって下手すりゃ漢の言論統制を秦に押し付けたアレやからな
そこに大正義の太宗ですよ
>>825
北魏あたりからもう7割くらい漢化してて鮮卑らしさが消えてたんだろうなとは思う
前後趙あたりの時は上流階級以外は部族ごとの言語だったが、皮肉にも崩壊と共に現地の支持を得るため燕以外は漢化していった感じか スレ違いの質問で申し訳ないのですが
「張騫は大月氏の王に謁見した時何語で話したの(どのように通訳されたの)?」
ってどのスレで聞けばいいんですかね。
4世紀から6世紀まで漢胡入り乱れた分裂時代が続き、300年近くかけて徐々に胡族の漢化が進んだと思われがちだが
分裂初期の4世紀の胡族は、劉淵、石勒、陳元達、靳準など、漢族と見まごうような姓名を名乗っていたのに対し、
分裂後期の6世紀になると、破六韓抜陵、可朱渾長挙、歩大汗薩、万俟醜奴など、逆に蛮族丸出しの胡名に戻っているのが面白い。
慕容儁の幼名は賀ョ跋で慕容垂の幼名が阿六敦だったりするわけで
仮にこれらが彼らの鮮卑名だったとするなら6世紀の胡族の連中に負けず劣らず胡風な名前だと思うけどね
慕容恪や慕容コにはそういう鮮卑的な名前が残ってないことを考えると、彼らの母親(高氏と公孫氏)は漢人だった可能性が高いのかも
格のオカンの出自は漢人貴族の出か漢化が相当進んだ鮮卑なんやろな
>>834
前者が渤海高氏で、後者が遼東か遼西の
公孫氏の生き残りかな
>>835
だから自分が君主にならず幼い甥の補佐に
徹することができたのだという説あり 遼の公孫氏って三国志にも出てくる公孫氏の末裔かな?
袁尚が曹操に敗れて僻地に逃げ、烏桓(鮮卑と同系と言われる)の酋長とともに抵抗するも、またしても敗れて更に奥地に逃げ、
遼東の公孫氏を頼ったが、公孫氏は袁尚を斬って曹操に帰順したと。
遼東も漢の頃は、れっきとした中華の領土だったんだよな。
もっとも当時から慕容鮮卑や宇文鮮卑などが進出して雑居してたと思うけど。
赫連勃勃はそれまで200年くらい劉氏を名乗ってきたのに
赫連姓を創始した経緯が記録されてるな
夏という国名と統万城建設とか胡漢が合わさった気概だな
勃勃は胡語の音訳と思ってたけど勃勃という熟語があるから
赫連姓と合わせて作った漢語かも
南匈奴には勃蔑種という部族があったから何らかの固有名詞で「勃勃」「勃蔑」という単語があったんじゃないかな
羌渠種と羌渠単于みたいな例もあるしさ
今さら知ったが今期のスーパー戦隊、リュウソウジャーって言うのね
劉聡ジャー…劉宋ジャー…
劉聡戦隊ものよりは暗黒面に落ちたジェダイ(アナキン)とかのイメージ
元達がオビワン
「漢室を復興させる選ばれし者だったのに!」
羌渠部、勃蔑部、攣鞮部
字面からして気持ち悪いんだよな。もっとマシな漢字当ててやればよかったのに。
そこへいくと宇文部は、どことなく文明的でかっこいい。
宇文、慕容、賀蘭、爾朱、斛律なんかは胡姓でもかっこいい。
拓跋、独孤、呼延は微妙だが、北族の名門としてイメージは悪くない。姓も後世まで残ったし。
羌渠、勃蔑、攣鞮、禿髪、乞伏、拔拔はあかん。
羌渠なんて、文字からして虫みたいだし、攣鞮だとけいれんを起こしそう。
Kindle化された通鑑のちくま版読んでるけど宇宙大将軍の反逆ってどう見ても菩薩皇帝の大局観のなさが元凶だよなぁ。
宇宙大将軍って西魏にも援軍要請してるけど宇文泰からすぐ見切りつけられてるし
>>845
胡姓でもかっこいいとか、まるで漢姓はかっこいいみたいじゃないか
ヘンテコな胡姓ですらチンとかワンよりかっこいい気がするぞい >>847
大野氏「ウチは子孫が世界帝国を建国するで」 >>846
あいつはもうボケてた。軍事的な判断では孫権にも劣る 死にかけの高歓にすら判断力で負けてる菩薩皇帝()
やはり長期政権は緊張感なくなるからアカンね
宇宙大将軍侯景の義理ワン経歴
543年1月30日に西魏に帰順
3月30日に梁に帰順
高澄(素面状態)西魏に和平の使者を送りつつ侯景討伐
侯景、どん詰まりになり西魏に賄賂を送って援軍要請。
(援軍1万と大将軍と尚書令の称号を贈る)
侯景、梁に釈明の使者を出し国境付近へ自軍を置くことを要請
(梁朝は許可)
宇文泰、おかわりを繰り返す侯景に疑心を持ち「あの義理ワンを呼びつけてクンロク入れましょうよ」進言する部下の意見を採用。
侯景、逆ギレし宇文泰と絶縁
(当然、宇文泰は援軍を引き上げる)
高澄、慕容紹宗に彭城に攻め込んで来た梁軍撃退を命ずる。
高澄、梁に「侯景の首差し出したら国交復活やで」と手紙を贈る。
侯景、偽手紙で武帝の真意を探ると武帝が侯景を売り渡した事情が発覚
548年8月10日 宇宙大将軍、梁朝に謀反
なんか書いてて侯景が被害者にみえてきたわw
菩薩皇帝って政権前半は安定してて南朝最大の経済力あったけど期待してた後継者に先立たれてるわ
政権末期は老害化して滅亡の原因作るわ
あらゆる面でスケールの大きい孫権ってイメージあるんだけど実際どうなん?
どっちかと言うと玄宗皇帝の先輩じゃね
孫権は呉国内を戦乱に陥れたわけではないし
先日安史の乱辺りが舞台のドラマをほぼ見終えたのだが、侯景の乱辺りの時期を題材にしたドラマって創られないのかな?
少し後の隋唐の統一に向かっていく時期は人気があるようだし、梁や北魏・西魏はどうも架空もののモデルにはしばしばなっているようだが、北の東西分裂なども含めてこの時期の歴史そのものは題材として人気がないのかな?
>>855
小説だと、田中芳樹の長江落日賦みたいなのか。 >>855
ガイエの長江落日賦があるよ。
だいぶ話は抑え気味で侯景が西魏にも通じてた話や菩薩皇帝の優柔不断ぶりとか省かれてるけど >>853
上手く行き過ぎたんだよ、銅資源が尽きて鉄銭に切り替えたら偽物やらが横行して貨幣の信用が崩壊してしまったのがケチの付き始め
インフレやらなんやらでぐしゃぐしゃになって宗教にまた逃げた のちの元帝となる湘東王も江陵に引きこもってたから政権担当能力がない人間を必死こいて助けてもって心境だったんだろうな。
老年の孫権や蕭衍の為に力を尽くしたいか?と言われるとそんな気にはならんだろうしな
玄宗も晩年息子に押し込め食らってるし菩薩皇帝って侯景の乱を鎮圧してもやはりオチは変わってなかったんだろうな。
押し込める人間が侯景から元帝か武陵王に変わっただけで
元帝は身内に敵を作りすぎだな
もう少し他の皇族と融和的に国をまとめて行けばあのような結末になってなかったと思う
そもそも蕭衍が蕭正徳を何度も許して最終的に侯景を引き入れるまでになったわけで
とりあえず向かいはしたけど遠巻きに見守ってる奴ばかりなわけでほぼ八王状態だったんじゃないか?
他の皇族と融和とか無理っしょ
侯景の乱の時の梁の皇族を見てるとまだ永嘉の乱の時の司馬越って真っ当な振る舞いしてたんだなぁと思うわ
「侯景の乱始末記」復刊の動きがあると聞いてすごく楽しみにしている
司馬越派
范陽王司馬虓、幽州刺史王浚、新蔡王司馬騰、琅邪王司馬睿
懐帝派
豫州刺史劉喬、江州刺史華軼、青州刺史苟晞
みたいなイメージ
司馬穎(文盲)と劉淵劉聡(匈奴でもエリート士大夫扱い)親子だとどっちが漢人でどっちが蛮族なのかわからん定期
>>868
劉淵が徒党を組めるように取り計らってそのまますぐ死んだからな
死後には汲桑と石勒の挙兵にまで絡む 司馬穎を凡愚呼ばわりしながら裏で援軍を出す劉淵さん
皇位継承権がある皇族に文盲がやたらといる西晋おかしいよ
司馬懿が「どろろ」の百鬼丸の親父みたく子孫の才覚を生贄にして自分や息子達や弟達の才覚をチート化したとしか思えんからな、
司馬懿(軍才と農政チート)
弟の司馬孚(内政チート)
嫡男の司馬師(宮廷政治チート)
次男の司馬昭(謀略チート)
あとチート級じゃないけど下の弟の駿もかなり有能。
なお倫とか言うカスも排泄した模様
いや別にチートってほどではないような
そいつらが八王だったとしても西晋終わると思うわ
司馬乂は軍事的な能力には優れてたんだよなあ。司馬顒に誘われたからと軽々に司馬冏を殺してしまって
司馬顒に攻められるというアホなんだけど
八王の中で司馬乂だけは真っ当な評価なんだよな
他があんまりなだけかも知れんが
乂は相当強い
まんまと逆賊の汚名を被って大軍団に討伐されるだけのはずだったがその討伐軍を粉砕してしまった
>>873
わざと大仰にageて否定を待っている荒しと見た 司馬越は西晋最後の守護者感あるけど司馬乂を売り飛ばして殺された後司馬乂の旧臣を使って戦い敗北、
皇帝を虜囚の身にした後捲土重来して戦争続けて若いのを一掃して新帝の側近も殺すとか
ただのワンマンマッチポンプなのでは?と思う。司馬乂か司馬穎が勝ってればもっと長生きしたやろ年齢で考えれば
穎は倫と同じように他人に煽られて使い捨てにされそう
南匈奴の長老格が劉淵に「あんなボンクラ見捨てて早く帰ってこい」と急かしたのも政争に巻き込まれて親子共々殺されるとか予想したからじゃ
「異民族は分割して結束させない」という先人の知恵を完全に崩壊させたのは司馬穎だからそういう意味では罪は重い
この荒れ具合では遅かれ早かれそうなったとは思うがね
途中までは良かったがやはり若さか司馬乂殺しに協力してしまったのが悪かったな
盧志に従っとけば良かったのに健気に尽くした盧志哀れ
盧志は陸機陸雲兄弟とのエピソードで悪役にされがちだけど当時の華北や中原の人間はアレがデフォやろ。
後の宇宙大将軍も「呉児」だの「呉のジジイ(梁武帝)」だのdisってたし
かくれんぼつぼつ って
中国語ではどのように発音するのかな
ホァリェン ブォブォ
みたいな感じ?
乱世→
統一するも短命→
安定王朝がパターンなのに
そこから乱世まで戻した司馬さんは流石だよな
いやまぁ司馬さんは偶然そのタイミングにいただけだと思うがな……
後漢ごろからとっくに五胡たちは助走始めてたわけだし、慕容とかも
西晋のおかげで乱れたら早めに終結させようってなったんじゃないか?どこにとっても悪夢の泥試合状態だろ
五胡〜南北朝くらいの長期の乱世ってそれ以降ないし
>>889
そういう風桶理論で褒めるのは無理筋やろ >>888
何回か指摘されてるけど後漢安帝の時点で大規模反乱起きて首都陥落寸前まで追い込まれてるからなぁ。
反乱軍のリーダーに檀石槐みたいな奴がいたら華北は匈奴と鮮卑の手に落ちてたんじゃ 海西の菩薩天子「ウチは楊震センセイの末裔やぞ」
天可汗「ウチは李信将軍の末裔やぞ」
詐称するにしても将軍の子孫って微妙じゃない?しかも負けてるし
李信の子孫、それすなち老子や李陵の子孫でもあるというコトヨ
必要なのは仏と儒と三者鼎立の格好ができる老子の看板だけやろな
天下に信じてくれる人はいなさそうだが
残念ながら李信さんのことは誰も意識していないだろう
儒教(ロウ)と仏教(カオス)と道教(ニュートラル)の三身合体やぞ
>>899
玄宗さんが道教狂いになり丹薬服用で後の皇帝達も次々コロコロしてるので、実際信じて採用してたのは老子末裔説だけだった模様。 前秦の郭慶に郭神虎とかいうカッコいい別名有ったん知らんかったわ
祟り殺された皇帝
苻堅を弑殺した姚萇だが、晩年はとびきりの悪夢に悩まされてたという
ある日の夜、就寝中の姚萇は苻堅の怨霊に叩き起こされた
苻堅は天帝の鬼兵を率いており、逆賊の命を奪ってやると咆哮した
錯乱した姚萇は「どうかお許しを!陛下を弑殺したのは兄の姚襄めでございます!」と命乞いした
宮人が槍を投げたところ誤って姚萇の急所に命中した
苻堅と鬼兵は逆賊め急所だ助かるまいと喜ぶとかき消えた
夢かと思い目が覚めると、急所が腫れあがっていた
姚萇は急激に体調を崩して苦しみながら亡くなった
最期まで苻堅に命乞いしながら
>>905
とっくに死んだ兄貴に濡れ衣着せて命乞いをする皇帝陛下って…
すごくカッコ悪いよね… この時代後継が上手く行かないのはデフォだから特別責められることじゃないが姚萇も姚興も死に際がぱっとせんな
苻堅の像を作ったけど特に効果がないから苻登の陣に像の首を送りつけるとかもカッコ悪い
>>23
楊修「みんな忘れがちだが俺も楊震センセイの子孫やぞ」 楊佺期「楊震センセイの子孫でワイを忘れるとかありえへんから」
「鶏肋」の意味を勝手に解釈して撤兵を指示し
曹操の逆鱗に触れて処刑されたあの楊修先生ですか
劉琨との戦いで石越が戦死するけど劉琨の字は越石なんだな
どうでもいい
どうでもいい気付きのおかげでそいつのことを覚えたりする
>>906
何回か姚襄が悪いって言ってるんだよな
兄貴のこと、実は嫌いだったのでは? この時代の概説書だと慕容垂と姚萇が符堅に南伐勧めたっていうけど表立って賛成してたの慕容垂だけじゃね?
>>915
嫌いな兄貴に戦場で馬譲ったりするかなぁ? >>918
年を重ねて、憎い気持ちもわいてきたのでは?
ホントに恐ろしいと思ったときに発する言葉は本音ではないかと思う 姚興はやっぱり苻堅を意識して育てたんだろうか
子供は思い通り育たないのが世の常だから
姚萇は子育ての才能だけはあったのかもしれない
三つの王朝の開祖を輩出した慕容皝が一番の子育て上手なのでは?
>>922
ほっとかれたやつが一番スペック高くない? 五胡十六国の初心者なんだけど
太武帝について調べようとしてググッたら
太武帝 イデオン って関連に出てきてなんだこれ?って思ってイデオンをググったら
なんかすごいアフロの男が出てきた
もしかして太武帝はアフロだったのですか?
グーグル先生が仙丹を服用して不予となられたのだろう
今見たらふたばでスレが立ったのね
「何もかもをぶっ壊す」からイデ、ってことか?
太武帝は南朝にとって恐怖の大王であるが
お釜に頃されたバカでもある
ホントは宮廷クーデターで太武帝を排除して文成帝一派が宗愛にヨゴレ押し付けた説を唱えてみる
太武帝はアフロではないが、辮髪だった可能性はある。
結果的にアフロみたいな髪型だったかも?
>>930
いやそこは古代では人為的にアフロは困難なんだから、ドレッドヘア…ってあれ?何か最近のなんちゃって古装劇みたいになるな。 孝文帝は、胡服と胡姓と胡語を禁止したのに
胡髪(辮髪)は禁止しなかったの?
漢族視点では、髪型こそが文明度を測るのに最も重要な要素じゃん
前秦は無理でも
北魏の頃には、華北の住民も北朝の支配に抵抗感なかったのかな?
太武帝の殺害事件は勿論、他にもゴタゴタはあったし、幼帝また幼帝が続いたりもあったのに、よくもまあ内乱になったり簒奪されたりが6世紀半ばになるまで無く、拓跋氏の皇統が支えられてあんなに長く続いたものだな。
他の北方諸国はカリスマがいなくなるとすぐゴタゴタし出してほぼ一瞬で消滅してしまったのにね。
北魏になってから漢人名族との通婚が奨励されてたのが大きかったんじゃ
司馬一族なんてそれで延命できたわけだし
拓跋部は何故漢人に受け入れられて長続きしたのか
永嘉の乱で漢人虐殺に関与しなかったのが大きい
それどころか、西晋側の救援要請に応じたりしてる
漢人から拓跋部は今までの胡よりましだと思われたのでは?
これは余談になるけど、後趙の皇族の一部は滅亡後に東晋に逃れた
東晋の人々は先祖が石勒と石虎に虐殺されたことを忘れてなかった
これ幸いにと一網打尽にして、虐殺の罪で都で処刑したという
史書にも「これをもって石氏は断絶した」とはっきり書かれてる
石勒に可愛がられた石苞の子孫も殺されてたら笑う
冉魏滅亡時に死んでるか
Wikiで北魏の歴代皇帝の生年月日を続けざまで調べると
皇后が皇帝の長男産むときの皇帝の年齢がヤバすぎて笑うw
一代だけなら、そういうこともあるかなーって思うけど
4代続けざまで未成年だと、国家ぐるみでおねショタ強いてるよなァw
本願寺顕如「おねショタとは胡族はキモいな」
武田信玄「おねショタとかにうつつ抜かすから国が亡ぶんだよ」
北魏献文帝 生年 454年7月
李皇后 生年 450年?
長男 孝文帝 生年 467年10月13日 ※父13歳 母17歳
マジレスすると
それだけ生存環境が過酷な世界だから、
皇帝たちには精通したそばから
種付けを始めさせるし、
むしろ皇后については
お赤飯タイムから少し待ってることから
想像するに、
「血統を保つための胎」を
保存しようとする意識を感じるわけで。
おねショタ扱いというよりも、
男女ともに「産む機械」扱いじゃねえの、
とゆう。
皇統から外れ傍系になり出した○○王達はどうだったんだろうね?
余程の荒淫な奴でない限り、性生活はゆったりとできたのかな?
短すぎて判断しかねる部分もないではないけど、北斉と北周は北魏のこういう早いサイクルを受け継ぎ、隋はそうでもないように感じるね。
唐はまあ普通な感じだね。
北魏は五胡の諸国と比べても、後継者達と比べても、独特というかユニークというかそういう点が多そうだね。
東晋の終帝は、初代の曾孫
北魏の終帝は、初代の曾孫の曾孫の曾孫
これいつ見てもシュール
簡文帝(320〜372年)が元帝(276〜323年)44歳の頃の子どもで、孝武帝(362〜396年)が簡文帝42歳の頃の子どもだから、この段階で足掛け120年になる
>>940
おまえら思いっきりおねショタだろがw
しかし顕如と信玄は妻が姉妹という義兄弟でわろたw >>931
ヨーロッパ中を荒らしまわったヴァンダル族でも北アフリカに定住後はベルベル人に苦戦してる
人間生活が豊かになると軟弱になる 八王関係なかった
司馬孚らみんな291年には墓の下だろ
>>946
如春尼は顕如より1つ年下(むしろインピオ)じゃなかった?
信玄は最初の妻・上杉夫人とならおねショタになるのかな
(三条夫人は同い年)