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窓落下 学校に中傷電話25件
アメリカ軍のヘリコプターの窓が落下した普天間第二小学校や市の教育委員会には、事故のあと「基地があるところに学校を造ったのに文句を言うな」などといった内容の電話が、19日までにあわせて25件寄せられています。
宜野湾市教育委員会によりますと、今月13日の事故のあと、小学校や教育委員会に対し「基地があるところに学校をあとから造ったのに文句を言うな」とか
「基地のおかげで稼いでいるのだからいいじゃないか」、「窓の落下はやらせだ」などといった内容の電話が、19日までにあわせて25件あったということです。
学校では、事故のあと、グラウンドを使った体育や、休み時間の外での遊びを禁止するなど、ふだんとは違う学校運営を余儀なくされていて、こうした電話がかかってくることは教職員の心理的な負担になっているということです。
宜野湾市教育委員会は「戦後、アメリカ軍に土地を接収されてほかに土地がなかったため、しかたなく建てたのが今の場所であり、とんでもない発言だ。事実を知って欲しい」と話しています。
普天間第二小学校は、人口増加に伴って、児童数が増えた近くの小学校から分離する形で昭和44年に開校しました。
市の真ん中に広大なアメリカ軍普天間基地があるという状況のなか土地は限られ、確保できたのは基地に隣接する現在の場所でした。
開校した後、普天間基地に本土や沖縄の別の基地から軍用機や施設が移され、当初想定していなかった形で基地の機能が強化されて事故の危険性も高まりました。
保護者などから学校の移転に向けた声が強まり、昭和50年代に移転計画が持ち上がります。
しかし、土地確保の費用に国の補助を受けられなかったことや、移転の条件にあう場所が近くの別の基地内にしかなく、交渉が難しかったこと、それに移転したあとの土地を普天間基地に併合する案が出されたことなどから10年以上議論が続きましたが結局、移転していません。
普天間基地は、72年前太平洋戦争末期の沖縄戦で上陸したアメリカ軍が、住民から強制的に土地を接収して建設したのが始まりです。
宜野湾市によりますと、普天間基地がある場所は、沖縄戦の直前14の集落にまたがり、民家はもちろん役場や学校などもありました。
しかし、おととし自民党の勉強会に招かれた作家が「騒音がうるさいのはわかるが、そこを選んで住んだのは誰だ」と発言したほか「危険な場所にあえて住んでいるのではないか」などという意見がインターネット上でも出るようになりました。
こうした発言や意見に基地周辺の住民からは失望の声が上がり、普天間基地が造られる前、戦前の集落の様子をコンピューターグラフィックスで再現したDVDを作り、地域の歴史を知って欲しいという動きも起きています。
DVDを作成した宮城政一さん(74)さんは、基地となる前の集落で生まれ、今は普天間基地の近くに住んでいます。
宮城さんは「『何もなかったところに基地が出来た』という意見を聞くと、私たちのふるさとを消し去られたような気分になり強い怒りを覚える。正しい歴史を知って欲しい」と話しています。
http://www3.nhk.or.jp/lnews/okinawa/20171220/5090001441.html