“ちょっと外で一杯”という日本の居酒屋文化は、実は歴史が長い。もとを辿ると8代将軍・徳川吉宗の頃にさかのぼる。店自体は現代ほど居心地の良いものではなかったものの、やはり名物メニューがあったようだ。
美味しさ、大きさ、安さの三拍子が揃った名物メニュー
酒屋の店先で酒を飲む男たちが手にしている細長い急須のような入れ物を江戸時代には銚子と呼び、これを湯につけて燗酒にするのが一般的な飲み方だった。「職人盡繪詞」国立国会図書館蔵
仕事帰りに、ちょっと一杯を楽しむ人は多い。江戸時代でもやはりそんな人が多かった。では、江戸の人たちはどんなところで酒を楽しんでいたのだろうか。
現在一般に愛飲されている清酒は、室町時代の終わりごろから江戸時代初頭ぐらいの間に生まれたとされ、江戸時代に一般へ広まった。それまでは今のどぶろくのような濁り酒で、アルコール濃度も大分低かった。
当時酒は酒屋で量り売りされていた。通い徳利(とっくり)という店の名前を書いた専用の徳利に入れて販売し、飲み終わったら徳利を返却してもらう。武家屋敷の発掘現場などで、この通い徳利が発見されることがあるので中には返さなかった者もいたようだ。
享保年間(1716〜1735)に、店先で酒を飲ませる酒店が現われた。今でも有料で試飲してみて気に入ったら1本買うことができるという店があるが、こうした業態は江戸時代からあったのだ。酒を買って家まで待ちきれない人や徳利を戻しに来るのが面倒という人などが多かったのだろう。大変な評判になり、あちこちにこうした店ができた。
その中のひとつが鎌倉河岸(かまくらかし)にあった豊島屋という店だ。鎌倉河岸という名前は、江戸城築城時に鎌倉からの荷物を陸揚げしたことからつき、築城が終わった後も江戸時代を通して、船荷のつく場所として港湾労働者などが多く集まった。豊島屋ではこうした労働者相手に酒だけでなく、つまみとして豆腐田楽を売り出す。ここの田楽は大きいことで知られ、1本2文と安かったので好評を博した。
ちなみに豊島屋は、桃の節句につきものであった白酒で有名な店で、2月25日の売り出し日には徹夜で並ぶ人も多かったという。この店は現在も商売を続けているので、江戸の人々に人気だった白酒は今も味わうことができる。
豊島屋の大盛況を見て、他の店も真似をし始めた。一方、寛政年間(1789〜1800)ごろから、酒も飲ませる煮売酒屋も登場。煮売屋は、現在のそうざい屋のようなものだろうか。おかずなどごはんに合う総菜を売っていたが、店内で食べることができる場合もあった。今でも定食屋や中華料理屋で食事と一緒に、生ビールをジョッキできゅーっというのと同じ感覚かもしれない。煮豆に、焼き豆腐、こんにゃく、くわい、レンコンやゴボウなどを醤油で煮しめたものなどが煮売屋のメニューなので、こうしたものを肴に酒を飲んだのだろう。やがて食事を出すのが専門であった飯屋でも酒を出すようになり、酒の提供店では縄でできた暖簾を入り口のところに掲げるようになった。そのため、居酒屋のことを「縄のれん」ということもあった。
居酒屋の店内には時代劇だといすと机が置かれているが、実際にはそういったものはなかった。土間に置かれた背もたれのないベンチのような床几(しょうぎ)に腰を掛け、自分の膝の上や、かたわらに酒や料理を置かなければならないという不自然な態勢を強いられるため、長居はできない。もっとも江戸っ子は長っ尻は嫌ったから問題なかったのだろう。
1品8文(240円)くらいからと肴の方はお手頃価格だったが、酒は、文化・文政(1804〜1829)のころで1合20文(600円)から32文(960円)と今から考えると少し高め。それもあって泥酔するほど飲むということはあまりなかったのかもしれない。
https://www.rekishijin.com/16120
美味しさ、大きさ、安さの三拍子が揃った名物メニュー
酒屋の店先で酒を飲む男たちが手にしている細長い急須のような入れ物を江戸時代には銚子と呼び、これを湯につけて燗酒にするのが一般的な飲み方だった。「職人盡繪詞」国立国会図書館蔵
仕事帰りに、ちょっと一杯を楽しむ人は多い。江戸時代でもやはりそんな人が多かった。では、江戸の人たちはどんなところで酒を楽しんでいたのだろうか。
現在一般に愛飲されている清酒は、室町時代の終わりごろから江戸時代初頭ぐらいの間に生まれたとされ、江戸時代に一般へ広まった。それまでは今のどぶろくのような濁り酒で、アルコール濃度も大分低かった。
当時酒は酒屋で量り売りされていた。通い徳利(とっくり)という店の名前を書いた専用の徳利に入れて販売し、飲み終わったら徳利を返却してもらう。武家屋敷の発掘現場などで、この通い徳利が発見されることがあるので中には返さなかった者もいたようだ。
享保年間(1716〜1735)に、店先で酒を飲ませる酒店が現われた。今でも有料で試飲してみて気に入ったら1本買うことができるという店があるが、こうした業態は江戸時代からあったのだ。酒を買って家まで待ちきれない人や徳利を戻しに来るのが面倒という人などが多かったのだろう。大変な評判になり、あちこちにこうした店ができた。
その中のひとつが鎌倉河岸(かまくらかし)にあった豊島屋という店だ。鎌倉河岸という名前は、江戸城築城時に鎌倉からの荷物を陸揚げしたことからつき、築城が終わった後も江戸時代を通して、船荷のつく場所として港湾労働者などが多く集まった。豊島屋ではこうした労働者相手に酒だけでなく、つまみとして豆腐田楽を売り出す。ここの田楽は大きいことで知られ、1本2文と安かったので好評を博した。
ちなみに豊島屋は、桃の節句につきものであった白酒で有名な店で、2月25日の売り出し日には徹夜で並ぶ人も多かったという。この店は現在も商売を続けているので、江戸の人々に人気だった白酒は今も味わうことができる。
豊島屋の大盛況を見て、他の店も真似をし始めた。一方、寛政年間(1789〜1800)ごろから、酒も飲ませる煮売酒屋も登場。煮売屋は、現在のそうざい屋のようなものだろうか。おかずなどごはんに合う総菜を売っていたが、店内で食べることができる場合もあった。今でも定食屋や中華料理屋で食事と一緒に、生ビールをジョッキできゅーっというのと同じ感覚かもしれない。煮豆に、焼き豆腐、こんにゃく、くわい、レンコンやゴボウなどを醤油で煮しめたものなどが煮売屋のメニューなので、こうしたものを肴に酒を飲んだのだろう。やがて食事を出すのが専門であった飯屋でも酒を出すようになり、酒の提供店では縄でできた暖簾を入り口のところに掲げるようになった。そのため、居酒屋のことを「縄のれん」ということもあった。
居酒屋の店内には時代劇だといすと机が置かれているが、実際にはそういったものはなかった。土間に置かれた背もたれのないベンチのような床几(しょうぎ)に腰を掛け、自分の膝の上や、かたわらに酒や料理を置かなければならないという不自然な態勢を強いられるため、長居はできない。もっとも江戸っ子は長っ尻は嫌ったから問題なかったのだろう。
1品8文(240円)くらいからと肴の方はお手頃価格だったが、酒は、文化・文政(1804〜1829)のころで1合20文(600円)から32文(960円)と今から考えると少し高め。それもあって泥酔するほど飲むということはあまりなかったのかもしれない。
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